ディクシャ(diksha)の伝統的な意味は、最高の知識を与え、そして、すべての罪から自分自身を解放することです。
ディクシャには2種類あります:
1 ナマジャパ・ディクシャ…導師が乞われるままに人を イニシエートするディクシャ。これは容易に誰でも受け 取ることができる。
2 アサダーラン・ディクシャ…ヨガディクシャ、クリヤヨガ ディクシャとも言う。これは人々を底知れない暗闇か ら啓発された世界に導き、最高のものを認識できるよ うに手ほどきするサドグル(真実の導師)だけから得 ることができる。サドグルと弟子の関係は永遠である 。このディクシャはサドグルの許しがなければ授かる ことができない。したがって、今までに授かった人は少ない。
鹿野苑のサドグルは、バガヴァーン・シュリ・クリシュナ、マハームニ・ババジ・マハラジャ、ヨギラジャ・シュリ・シャマチァラン・ラヒリです。
クリヤヨガの伝統から、クリヤイニシエーションとクリヤヨガの行法は秘密にしておくように指示を受けます。また、ババジの指示により、クリヤヨガの周りには決してどんな団体も組織してはいけないことになっています。したがって、ディクシャを受けた人は個人的に行に専念することになります。しかし、孤独を感じる必要はありません。あなたがクリヤを行っているとき、サドグルの臨在を感じることでしょう。また、サドグルを一瞥できるかもしれません。私はクリヤを行っているときはもちろん、行っていないときでさえ、ババジやラヒリ・マハサヤの存在を感じることがあります。先日、クリヤの瞑想中にラヒリ・マハサヤのヴィジョンを見ました。日本にある自宅の瞑想室で坐っていた私は、突然、インドのとある町の雑踏の中に転送されました。多くの人々が行きかう中に、その方がこちらを見て立っていました。その方を取り巻くオーラが黄金に光り輝いています。一目でその方がラヒリ・マハサヤであることに気づきました。その方は徐々にこちらに近づいてきて、私に祝福を与えると、私と一体となったのです。静寂の中に喜びが沸き起こり瞑想から覚めました。クリヤディクシャを受け取ると、サドグルは、あなたが至高の偉大なる存在と合一するまで忍耐強く責任を持って導いてくれます。
ラヒリ・マハサヤは、クリヤヨガを4段階に分けました。したがって、クリヤディクシャにも4段階あるのですが、実は8段階あります。第1段階は「第1のクリヤ」といわれている基礎のクリヤです。第2段階から上は上級クリヤになります。第1のクリヤだけでもサマーディに入ることができます。但し、4年から30年はかかるでしょう。だから、早い時期から取り組むことを勧めます。ケーチャリームドラーがきちんとできるようになると、上級クリヤに進むことが許可されます。上級クリヤは加速度的に精神的進化を促します。それでは第1のクリヤを説明します。
【第1のクリヤ】頭頂付近にある高次のセンターと脊 柱の最下端にあるセンターに磁極をつくり、脊柱にあ るシャクティーチャネルを開いて、脊柱を磁化します。 これにより生命エネルギーを任意に感覚器官から切 ったりつないだりできるようにします。
行法:
●タラビヤ・クリヤ
●オームジャパ(プラティシタ・ヴィサリジャン)
●マハームドラー
●クリヤ・プラナヤマ
●ナヴィ・クリヤ
●アジャパ・ジャパ,アンタルマウナ
●プラヴァシタ
●ヨニムドラー
行法の詳しい説明はここではできません。クリヤディクシャのときにお教えします。
以上がラヒリ・マハサヤが伝えたオリジナルなクリヤヨガです。ババジは、『正直で誠意のある者にクリヤディクシャを授けなさい』と言いました。自己を究明することに対して正直で誠意のある人がクリヤディクシャを授かる資格を持つということです。
クリヤディクシャによって、サドグルの高い振動と清浄な聖なる光があなたの粗大な体と精妙な体に入り、あなたのカルマを溶かしてくれます。そして、あなたの進化レベルをいっきに引き上げます。もちろん、ディクシャを授からなくてもクリヤの行法だけであなたは最終的なゴールに到達できます。しかし、それには時間がかかります。あなたは途中で投げ出してしまうかもしれません。
どちらにせよ、クリヤヨガを行うことで、あなたの精妙な体に神聖なエネルギー経路が開通して、偉大なるパワーが流れ始めます。輪廻転生を繰り返してきたさまざまなカルマの巣窟である業熟体が少しずつ浄化されていきます。それが粗大な肉体にも波及してきます。すると肉体が健康になり、若々しさを取り戻します。人間関係では、カルマの浄化に伴い、改善がみられるようになります。なによりも、どんな環境にも影響されない鳥瞰的で純粋な観照者(目撃者)に目覚めます。頭頂が盛り上がったような感覚とともに、高みから静観する意識とつながることができるのです。それと同時に、脳にではなく心臓に自己の中心があることに気づきます。このとき般若心経の「無有恐怖、遠離一切顛倒夢想、究境涅槃」が心底からうなずけるようになります。大空に開放されたような大自由の境地が開かれてきます。この意識状態は、「自分自身になりきっている」、すなわち「私はある」と実感しながらも、あらゆる場所に同時に存在するように感じられます。時間は静止して、自分の意識が空間全体に浸透し、偏在する感覚の中、自分で自分の姿を後方から見下ろしている感じがします。「多即一、一即多」の境地が矛盾なく統一されて顕現してきます。桶の底が抜けて、歓喜に溢れるとともに、回りの世界が輝きを持ち、色鮮やかな美の世界へと一変します。この状態が、ワンネスです。
さらにクリヤを継続して行じていくと、心臓の部位、ハートが、ある日突然開く体験をもちます。開悟の瞬間です。真実の自己、真我の光明がハートからほとばしり出てきます。このとき、現象世界は影のごとく存在感を失い、消失します。思考が停止するなかで、真に存在する偉大なる一者が立ち現れてくるのです。
真我に至ることを真如門と言います(クリヤヨガのページ参照)。ここに四人の現代修道者の真如門体験を記してみます。
一人目は、禅界の大雄峰、山田無文老師です。老師が八幡の円福寺禅堂での坐禅中の体験です。『四、五日たつと、わたくしも坐って坐ることを忘れ、立って立つことを忘れ、心身を忘却するところまで進んだ。まことに神人合一の静寂さである。そして六日目ごろ、参禅の帰りに、本堂の前の真黄色な銀杏を見たとき、わたくしは飛び上がるほど驚いた。わたくしの心は忽然として開けた。無は爆発して、妙有の世界が現前したではないか。』
二人目は、大正期の文豪、倉田百三です。百三は野火止の平林寺の峯尾大休老師について参禅を始めました。百三の妻直子は、当時京都の精神病院に入院していました。その直子から「生死の一大事を解決して、滅びんとする私をお救いください」と訴える手紙をもらいました。それを契機に百三は一層参禅に励みました。そして昭和六年の晩秋、百三は平林寺の裏山を歩いていましたが、その時ふと、自分と宇宙が−目を見開いて呼吸している宇宙が−一つになっているのを直覚し、彼は思わず絶叫したのです。その時、向こうの農家から煙が立ち登るのが見えましたが、「それは自分が吐き出したのだ」と自覚するや、彼は禅堂に向かって走り出していました。『私は寺に帰り、突き上げてくる法悦を抑え、静かに禅堂に打坐して入室の時を待った。宇宙が呼吸し、ばっちりと目を見開いている。これぞみ佛だ!』
三人目は、明治末期から昭和初期にかけて京都大学で教鞭をとっていた経済学者の河上肇です。当時、河上は伊藤証信が唱道する無我苑に身を投じ、無我の愛の実行と伝道に挺身していました。睡眠すら忘れ、徹底して無我愛の実践に集中していたときのことです。『積年の苦悶一時に脱落して春風春光四方より湧くが如く、身心計らずも頓に平安幸福の妙境に入る』と語り、『このとき須臾にして余が頭脳は形容すべからざる明快を覚え、透明なること玻璃の如くなるを感じたり。・・・余は霊薬を以って余が眼瞼を洗われたるが如く感じたるが、眼界俄に開けて急に視力の倍増したるに驚きたり、この時余が心神は万里雲晴れて月天心に至ると云ふべきか、否、到底筆墨に云い現すべからざる無上の軽快を覚えたり。・・・余は全く無我となれりしを信じたりき、・・・』そして、この時の心境を詠っています。
捨てし身の 日日拾う いのちかな
『古人は「火に入りても焼けず、水に入りて溺れず、三途地獄に入りて園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入りても報いを受けず」と云って居りますから、私にはたとひさうした境地には達し得られないにしても、少なくともここで何等恨むところなく、悲しむところなく、悔やむところなく、日々好日を送り得ることを感謝して居るものであります。』とも述べています。「火に入りても焼けず、水に入りて溺れず、三途地獄に入りて園観に遊ぶが如く、餓鬼畜生に入りても報いを受けず」はまさしく、禅の目指す究境の境地であります。これは禅者のみではなく、全ての宗教者の目指すべき道でもあります。これはクリヤヨガの実践によって速やかに至ることができるのです。この境地を盤珪禅師は次のように詠っています。
我はたゞ 虚空を家と 住みなして
須弥を枕に 独り寝の春
四人目は、道家龍門派第十九代伝人 屠文毅です。彼が17歳のとき、老師からの指示で坐間(断食不眠で坐禅すること)の修行に入りました。坐禅4日目になったとき、突然誰かが一種の言葉で話しかけてきました。話し手の姿は見えません。それに気を逸らせることなく坐禅に集中していると、声は遥か遠いところから聞こえてくるようでした。不思議なことに妙なる音楽も聞こえてきました。そして、天上から一種の光が射してきました。心はものすごく静寂となり、まるで自分自身が無くなってしまったような気がしました。しばらくすると、突然自分の頭の上に一人の人が現れました。これが「真人(真心)」、本当の自分、真我であることがわかりました。この人はとてもキラキラと輝いていて、その光はまるで月光のように白く、水銀のように美しい光沢を放っていました。この光は一種の純正で濃厚な光です。この人は15センチぐらいの嬰児の大きさぐらいあり、突然に頭頂に現われてきました。真人が現れたらお経を唱えることを老師から聞いていましたので、そこでお経を唱えました。すると、真人は溶け、まるで桶の水を浴びせられたように頭頂から全身に注がれたように感じました。そのとき、「全身通泰」を感じました。これは全身が非常に心地よい感覚です。そのとき、飄飄乎としてまるで全身心が消えてしまったような気持ちでした。これを「出神」と言います。出神の後、自分自身が無くなったような無我の状態を体験し、意識は頭頂にあり、思惟は頭部にはなく、胸部にあるのです。頭では何も考えてはいません。胸部に思惟の能力があるのです。こうした体験の後、私の目は一般人と異なり、珍しいものが見えたり、他の人の情報が見えたりしました。他の人が何をしたいか、心で何を考えているかが見えるようになりました。
屠文毅は言います。『人の心は二つある。先天の心(真心)と後天の心(妄心)である。先天の心は「天心」と呼ばれ、後天の心は「凡心」と呼ばれる。禅宗のお寺には「方丈」がある。実は方丈が天心である。後天の心は「方寸」と呼ばれ、先天の心は「方丈」とも呼ばれる。人間として一番大切なことは、天心を悟ることである。これは霊魂を出神させ、超能力を得る源である。超能力や神通力を得るには、まず天心を悟らなければいけない。』
さて、最末期密教の『カーラチャクラ・タントラ』には、チベット語でトンスク(空身)と呼ばれる肉体を超越した(空)スーパーボディ(身)を得る修行方法と理想郷シャンバラが説かれています。シャンバラの国土は、八枚の花弁を持つ巨大な蓮華の形をしています。その蓮華をぐるっと雪山が取り囲んでいるため、シャンバラは周囲から閉ざされています。その国土の中央部に宮殿があり、そこでシャンバラの王カルキ(一族を束ねる者)がカーラチャクラの教えを説いています。カーラチャクラの教えは、大いなる象徴だと思われます。密教ではハートチャクラは蕾の八葉蓮華だといわれています。この蕾の八葉蓮華が花開くとき、そこにシャンバラが現出して、王カルキが真我として躍如してきます。バガヴァッド・ギーターが説く『真理を悟った神聖な意識の持ち主は、見たり、聞いたり、触れたり、嗅いだり、食べたり、動いたり、眠ったり、呼吸したりしても、内心では“私自身は実は何も為していないのだ”と思っている。また話すときも、手放すときも、手に取るときも、また眼を開けるときも、閉じるときも、自分の感覚器官が対象物と作用しているだけなのだと知っており、自分自身は常にすべてから超然としている。』の如く常に内なる真我の歓喜に浸って、永遠の絶対安楽境のなかで、外界の感覚的快楽に心惹かれることなく生きていくことができるのです。
本来の 面目坊の 立ち姿
ひとめ見しより 恋とこそなれ
我のみか 釈迦も達磨も 阿羅漢も
この君ゆえに 身をやつしけり
(一休宗純禅師)
これは一休禅師が懸命の修行に入り、夜半、琵琶湖畔の小船の中で坐禅していたとき、烏の声を聞いて悟りを開いたときにうたったものです。真我を垣間見た喜びをうたっています。また、こんなうたも残しています。
有漏地より 無漏地に帰る 一休み
雨ふらば降れ 風ふかば吹け
(一休宗純禅師)
有漏地(煩悩の境涯)から無漏地(清浄な境涯)へ帰る道を見つけた、一休禅師の不動の求道心を表現しています。「雨ふらば降れ、風ふかば吹け」という力強い宣誓に絶対観照者として確立した不動の境地が現れていてとても清々しい思いがします。
次に、あらゆる場所に偏在する観照者としての意識体がカーラチャクラが説くトンスク(空身)です。カーラチャクラ・タントラは、クリヤヨガの一つの目標を説いていると考えられます。しかも、カーラチャクラ・タントラの説く目標をクリヤヨガによって確実、迅速に達成できるのです。
第2のクリヤ以上の上級クリヤでは、次の行法が新たに導入されます:
●オムカー・プラナヤマ
●ソカー・プラナヤマ
これらにはいくつかのバージョンがあります。レベルも初歩から発展段階まであり、強力に心身に作用するように考えられています。第4のクリヤでは、悟りへの最上の乗り物である聖なるマントラを使います。第5のクリヤ以上では、また新たな行法が用意されています。そこでは、シュリ・クリシュナによって伝えられた神聖なるヤントラを用いてサマーディに入っていきます。最後は、死をも超えるマハーサマーディです。最勝無上の上級クリヤヨガは、マントラとヤントラとプラナヤマが強力に結合し、一気にあなたをサマーディへと導いていきます。あなたはこれによって確実に宇宙意識に到達することができるのです。
ヨガナンダは言います。『クリヤヨガは真の火の儀式(タパシア)です。それはすべての我々の不純物を浄化して、智慧の花びらを開きます。浄化の炎は人々に永遠の開眼をもたらします。クリヤバン(クリヤヨギやクリヤヨギニのようにクリヤヨガを実践する人をいいます)は、心を脊髄の中にある超意識と合一させることによって、知情意のすべてを我欲から切り離すことができるので、過去からの衝動や愚かな人間的な動機にあらたに駆られることなく、神の計画通りに人生を送ることができるのです。このようなクリヤバンは尽きることなき至福の霊の港に安着し、至高の願望を達成することができるのです。
クリヤバンは迷いに満ちた人間の渇望を唯一の神のために焚かれた聖なる篝火に捧げます。これこそまことのヨギの火の儀式であり、過去および現在のあらゆる欲望はここにおいて聖愛に燃えつくされる薪となるのです。絶対の炎である神は、あらゆる人間狂気のいけにえを受け、人間はかくて不純性を純化されるのです。その骨から一切の我欲の肉を剥ぎ取られ、そのカルマの骸骨を叡智の太陽にさらすとき、人間は遂に人と造り主の前に罪なきものとして清められるのです。』
クリヤヨガのこの明らかな秩序ある効果をシュリ・クリシュナはバガヴァット・ギーターの中で賞賛しています:
ヨギは肉体を鍛錬する苦行僧より偉大である。また叡智の道(ジナーナ・ヨガ)に従う者よりも、行為の道(カルマ・ヨガ)に従う者よりも偉大である。おお、弟子アルジュナよ、汝、ヨギになれ! (シュリ・クリシュナ) |
右のコラムにあるようにスワミ・ニルヴェーダーナンダはシュリ・クリシュナの教えであるバガヴァット・ギーターを引用して我々が置かれている現状と、そこから開放された境地を説明しています。「我々はマーヤーの呪縛の下にあり、そこからの脱出は非常に困難である」と述べていますが、絶望しあきらめる必要はありません。クリヤヨガの叡智により、速やかにしかも容易に脱出できるのです。クリヤヨガの道はあなたの今の心を問題にはしません。今ある心を抑圧することなく、永遠の至福に浴することが可能です。ただ、規則正しく毎日クリヤを実践することだけを要求します。宇宙ロケットを考えてみてください。毎瞬毎瞬に加速していかないと、ロケットの速度は減速し、しまいには地上へ落下してしまいます。これと同じことがクリヤの実践にも当てはまります。毎日規則的に実践していかないと、天上に上がりかけた心は、また地上へと戻ってしまうのです。マーヤーの呪縛の縄に再び縛られることになるのです。
数あるヨガのなかでもクリヤは最上の道です。クリシュナも「汝、ヨギ(クリヤヨギ)になれ!」と激励しています。この確かな開放の道がこの地球という惑星に存在すること自体が奇跡です。今その扉が開かれています。一人でも多くの魂がこの救済の道に入ることを願ってやみません。
神学博士であり、人文学博士でもあるヨガ行に精通された関口野薔薇氏は言います。『あなたがたはクリヤヨガという言葉を聞かれたことがあろうか。然り、多くの人はこのクリヤヨガとは如何なるものであるかとの解答を求めて、この秘密を探知したいと願っているであろう。これを譬えていうと、一般のヨガは大きな紙片の上に達磨大師の絵を画いたようなものである。だが、それには未だ目玉が入れられていない。この絵画の最後の仕上げとして、目玉を画き入れること、それが即ちクリヤヨガである。この目玉の画き入れ方は宗教的大師の秘法であって、公開することは許されていない。私が教えることができるのは達磨の顔と胴体と手足の画き方である。あなたがたは、精励すれば立派な達磨の絵を画くことができるようになるであろう。顔を画かずして単に目玉を画くことだけを学んでも、それは全く徒労である。だが顔だけ画いてもこれに目玉を入れねば顔も生きてこない。
法の山=霊鷲山=シャンバラの聖地があるものと想像して、またこの道に十合の区劃があるものと仮定して、あなたがたは私が教える行法を実行すれば、道の九合目までを踏み切ることができる。残る一合の道は、クリヤヨガの秘法によってこれを突破せねばならぬこと、勿論である。』
鹿野苑で伝授するクリヤヨガは、関口氏がいう達磨の目玉を画き入れるための秘法中の秘法である古代から伝わる霊的進化を促進させる神智の科学です。原子物理学の科学を誤って使うと核爆発という大惨事が起きるように、より根本的でより精妙な霊的科学であるクリヤヨガを誤用してはいけません。ある伝説によると、黎明期以前の古代文明では人々はみなクリヤヨガを実践していました。しかし、心から純粋さが失われてくると、私利私欲のためにクリヤヨガを利用しだしました。クリヤヨガで身につけた霊能力を悪用したのです。そのことが文明の衰退と崩壊を招いたといいます。そうしたことから、クリヤヨガの真の姿は隠され続けてきたのです。
前にクリヤヨガは心を問題にしませんといいましたが、しかし、私利私欲に染まらない純粋さが求められるのです。それがないと法の山の最後の一合目が越えられず、奈落の底に転落するかもしれません。
転落を防ぐには何が必要でしょうか。それは“愛”です。愛の利他行を常日頃から心がけていれば、クリヤヨガの上達も加速されます。強力な馬力を持つスーパーカーのエンジンがクリヤヨガです。せっかくの素晴らしいエンジンもガソリンがなければ動きません。そのガソリンが愛なのです。燃料の愛によって強力なクリヤヨガのエンジンはあなたを速やかに目的地に連れて行ってくれます。
われわれは誰であり、何になったのか、われわれはどこにいて、どこへ投げ込まれたのか、われわれはどこに向かって急ぎ、どこから救済されるのか、誕生とは、再生とは何であるか・・・・・これらの知識がわれわれを解放する。 (ハンス・ヨナス『グノーシスの宗教』) |
☆第1のクリヤヨガディクシャは2日間で、鹿野苑で行います。希望する方は「セミナー案内」で開催日を確認してから申し込んでください。また、各種「通信教育」も行っていますので、「セミナー案内」ページをご覧ください。
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バガヴァーン・シュリ・クリシ ュナの肖像画
私はこの肖像画を見たとき、クリシュナの目にとても引きつけられました。以前にお会いしたババジの目を思い出したからです。印象がとてもよく似ているのです。この肖像画を描いた画家の魂の高さを感ぜずにはおられません。まさにシュリ・クリシュナの魂がこの絵には宿っていると思います。
クリシュナは前世においてこの不滅のクリヤヨガを古代の賢者ヴィバスバートに伝授したと述べています。ヴィバスバートはこれを偉大な立法者マヌに与えました。マヌは更にこれをインドの武家王朝の開祖であるイクシュワクに教授しました。クリヤヨガはこのように次々に伝授されて、唯物主義時代の到来まで預言者によって守護されてきました。その後、唯物主義の暗黒時代に入ると次第に忘れ去られ、失われていったのです。
失われた神智であるクリヤヨガを再発見した人がババジです。
一説によると、クリヤヨガはこの惑星で最も古代の霊的進化のシステムであり、秘教の聖職者の中でも選ばれたほんの一握りの人にしか明かされないものでした。インドの古代文明、エジプト、アトランティスのような発展した文化圏では、何らかの形のクリヤが実践されていました。アメリカインディアンはその一部を持っていました。釈迦も、老子も、イエスキリスト、聖パウロもそれを行いました。確かに、釈尊はある形式のクリヤによく似たプラナヤマで悟りを開いたことが南伝仏教の経典に記されています。老子も開明のためのクリヤに非常よく似た気功(プラナヤマ)を伝えています。また、オーストラリアのアボリジニにもクリヤの一部が伝えられていました。
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スワミ・ニルヴェーダーナンダは言います:ヴェーダの宗教はその根拠を、存在するものはことごとく、神において一体である。したがって人の真の自己(魂)は神聖であり不滅である、という真理に置いている。ブラフマンのみが実在なのである。しかしながら我々は、この宇宙を構成している無数の生あり、また生なき個別の対象、という幻影を持っている。この幻影の中で我々は、各々自分が行動と経験の真の主体である、と信じている−実際はこれらのすべてはプラクリティ(宇宙エネルギー)によってなされているのに。(ギーター二・38)我々は神の「神聖なマーヤー」の呪縛の下にあり、それからの脱出は非常に困難なのである。
我々がマーヤーの呪縛の下にある限り、我々が一者を見ないで多の世界を見ている限り、我々はもちろん、それに応じた形で行動をしなければならない。もし我々が苦痛を感じるなら、他人に苦痛を与えないよう注意しなければならない。このようにして、我々は善行と悪行とを区別すべきである。しかし我々は、これらの区別はすべて相対的な価値しか持たないことを知らなくてはならない。ヴェーダの宗教によれば、最も高い観点から見るとそのような区別はないのだ。プラクリティ(宇宙エネルギー)がすべての行為の行為者なのであるから。
事実、最高の境地に達した人々は、この世界をまったく異なった角度から見る。彼らはまことに一切のものの中に偉大なる一者を見、また彼ら自身の自己を偉大なる一者以外の何ものでもない、と見るのだ。彼らは創造の真の意味を理解し、それを神の意志のリーラ(遊戯)として楽しむ。苦痛と快楽、健康と病気、生と死、名声と悪評の背後に、まことに善悪一切物の背後に、神のスポーツであるリーラ以外の何ものも見ない。自らの真の自己に安住して、一切のものを神の顕現とみなす。真の自己の知識という夜明けの光がさしはじめるとき、徳と悪徳さえ、その区別を失うのである。自己は行為もしなければ経験もしない。またそれは如何なる変化もこうむらない。そのような者が誰によって殺され、誰を殺すことができようか?(ギーター二・19)
そのような洞察の下に、賢者たちは安定の境地にある。自己は完全そのものである。それゆえ、自己を自覚した人々にはもはや、達成すべき何ものも残ってはいない。何ものに対する如何なる欲望も、彼らの心を一瞬も騒がせることはできない。欲望から完全に解き放たれ、これらの聖者たちは、まさに自己の本性である、永遠の至福に没入している。(ギーター二・55)執着も恐怖も怒りもなく、快楽を追い求めることもなく、どのような悲しみも彼らを苦しめることはできない。善であれ悪であれ、自分の前に現れるものはすべて、同じ平静さで受けとる。あるものを歓喜して迎えることもしなければ、他のものを呪うこともしない。その心は完全な平安と静けさの中にある。 |
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