クリヤとは「行為・実践」を意味し、ヨガとは「結合」を意味します。クリヤヨガとは特別な行為を通して無限者と個人とを結合させるシステムのことです。
クリヤヨガは古代から伝わる科学です。ラヒリ・マハサヤは、これを師のマハームニ・ババジ・マハラジから1861年、ヒマラヤのダンギリヒルで伝授を受けました。ババジは暗黒時代にかえりみられなかったこの行法を再発見し、これを明らかにした人です。
「私がお前を通して、この19世紀に全世界に与えようとしているクリヤヨガは、数千年前、クリシュナがアルジュナに与え、後にブッダ、パタンジャリー、キリスト、ヨハネ、パウロその他の弟子たちに知られるようになったものと同一の科学である」とババジはラヒリ・マハサヤに言いました。
我々は呼吸を通してこの現象界に拘束されています。クリヤを行うことで、呼吸は停止するようになります。心の働きや思考がそれに伴って静止し、穏やかな状態となり、絶対的境地が開かれてきます。この状態で注意とプラナ(生命エネルギー)がクタシタ(眉間)あるいは頭頂に完全に置かれるとき、至高の存在を認識することができます。最高の状態が達成されるのです。
ヨガは4種類に分類することができます。ハタヨガ、ラジャヨガ、マントラヨガ、ラヤヨガです。ラジャヨガは活動的な心を落ち着かせ、静寂にします。マントラヨガはプラナヴァ(OM)のような神聖な言葉の繰り返しによって没我状態に導きます。ラヤヨガは最高の意識と個別の魂を合一させ、自己実現を達成させます。ハタヨガは長時間同じ座法で座ることを可能にし、自己実現によって開発された最高のエネルギー(クンダリーニ)に耐えることができる体格をつくりあげます。ババジから伝えられ、ラヒリマハサヤによって世界に復活したクリヤヨガは、ハタヨガ、ラジャヨガ、マントラヨガ、ラヤヨガの完全な融合であり、ヨガの真髄です。
クリヤヨガは、原始キリスト教において“真実の秘法”として光の子らに伝えられていました。この真実の秘法は“聖人の行事”あるいは“放蕩息子の帰路”と呼ばれ、内在するキリスト意識を復活させる優れた行法として秘匿されていました。
また日本の神道においても、クリヤヨガは太古より“太祝詞の行事”として秘密裏に行じられてきました。これは選ばれた極一部の神職だけが秘匿してきもので、現在ではこれを行うことのできる者は皆無であろうと思われます。“中臣の大祓”の「高山の末、短山の末より佐久那太理に落ち」から「根の国、底の国に坐す速佐須良比咩と云う神、持ち佐須良比失いてむ」まではクリヤヨガの行を暗示的に教えています。
古代中国においては、道家における仙道修練としてクリヤヨガが行われてきました。クリヤヨガとしての仙道功夫は“打通人体の経路”といわれています。打通人体の経路は“通三焦”と呼ばれ、風路・水路・火路の三路あります。風路は督脈であり、水路は中脈、火路は任脈です。しかし一般に流布している督脈、任脈、中脈の経路とは異なります。クリヤヨガにしてもそうですが、本物の教えはなかなか表に出てこずに秘匿されているのが現状です。本物は、生命を賭して求め続けなければ手に入りません。安易に手に入るものは得てして偽物である可能性が高いと思います。イエスキリストが「汝、狭き門より入れ!」と云っている事は真実です。
通三焦を行ずることにより、六神の統一が達成されます。六神とは、性(玄関-四丘体)、霊(霊台‐第三脳室)、神(心竅)、意(腎竅)、魄(陰蹻‐会陰)、魂(仙骨)をいい、六竅すなわち6個のチャクラに関する機能・能力を指します。主要なすべてのチャクラが目覚め、超能力が開発されてきます。特筆すべきは、霊台(霊眼、第三の目)の光り輝く白光を見ることができることです。白黄色の真珠を取り囲むように光ある霞のようなものが見え、限りない吉祥さを示現しています。同時に、内的宇宙が眼前に広がり、青色に輝く星座群が無数の星々の中に見えてきます。その内的宇宙の中心にある霊台の神々しい白光の見事さは魂が震撼するほどの畏敬の念と感動を与えてくれます。 仙道の通三焦とラヒリマハサヤのクリヤヨガとは本質において同一のものです。比喩的に位相幾何学(トポロジー)の概念を借りていえば、“ホモトープ”であり、同じホモトピー類に入ります。すなわち、通三焦とクリヤヨガは同じホモトピー型を持っているのです。ですからどちらを行じてもホモトピー型不変な結果を生じるのです。これを再度位相幾何学の概念を使って述べるならば、通三焦から得られる結果の空間とクリヤヨガによって得られる結果の空間は、ホモロジー(コホモロジー)同値な同相空間なのです。すなわち、両空間のホモロジー群(コホモロジー群)は同型となるのです。〔数学的にはホモロジー群(コホモロジー群)が同型でも同相になるとは限りません〕ともかく両者の行法は異なりますが(ホモトープ関係にある)、同じ効果と結果を生じさせます。
クリヤヨガと同様に、通三焦を実践していきますとクンダリーニが覚醒してきます。初期の段階では、クンダリーニが少し目覚めることにより霊動すなわち身体が振動します。この振動によって結跏趺坐した身体が高く飛び跳ねることもあります。これは風路、水路、火路の三焦が通じた証です。そして、三焦が完全に通じるとこの振動はおさまります。三焦が通じる前には、頭部に空気が充満して膨らんだようになり、頭頂がグーッと伸びたような感覚が生じます。クリヤヨガを実践しても同じことが生じてきます。そして高いところから見下ろしているような感じがします。これは頭部のチャクラである玄関と霊台の竅が開きかけた証です。世界各地にある仏像の頭頂が盛り上がっているのは、こうした事情を表しています。通三焦もそうですが、クリヤヨガでは、頭部にあるチャクラがまず開いてきます。頭頂の心地よい振動と共に、盛り上がった感覚が最初に現れてきます。そして聖音を聞くことができます。
クリヤヨガや通三焦は陰陽の合一を目的としていて、陰蹻(ムラダーラチャクラ)は陰極であり、霊台(アジナーチャクラ)は陽極です。陰陽が調和すれば精が固まり健康になります。話は変わりますが、「首」の字義には大変重要なものという意味があります。会社で“首を切られる”ことは生命線を断ち切られることを意味します。漢字“道”は“首が走る”と書きます。首の運動がすなわち“道”そのもの、あるいは“道”に通じるということです。江戸時代に「内信心」「秘事法門」「異安心」あるいは「隠し念仏」と呼ばれた陰の念仏教団がありました。この一部は現在も形を変えて存在しています。こうした教団には「法儀」といわれる儀式があります。中でも「一念帰命」の儀式が最も大切にされています。この一念帰命の法儀では、ある種の首の運動を伴います。クリヤヨガの上級行法でも、ある首の運動を行います。まさしく“首を走らせている”のです。涅槃極楽、彼岸天国への二河白道を首の運動を通して走っていくのです。漢字を考えた古代中国の賢人たちの智慧には驚かされます。話を元に戻します。霊台は霊(霊台)、性(玄関)、神(心竅)、意(腎竅)、魄(陰蹻)、魂(仙骨)の六神の首であり、三陽神(霊・神・魄)の首です。霊台は天門出竅に位置し、得道※の後、最高の境界に至り、人の霊(陽神)は天門を飛び出し、自由に虚空を翔るのです。霊台が開発されると、そこから毫光が輝き出てきます。そして自身の霊台と宇宙太霊の光明が交感し、宇宙太霊の光明を吸収し活用することができます。通三焦、クリヤヨガは最も効率的に霊台を開発する優れた行法(自力行)です。
〔※台湾には、「得道」の優れた法儀が存在します。その分派が日本にもあります。これは、「一指貫天の法」あるいは「点道」といわれ、閉ざされている天門を宇宙太霊の加持により一気に開く法門です。この法儀に与った人の霊は、臨終の際、開かれている天門から極楽浄土の理天界へと昇り、悟りと永遠の安楽を得るといわれています。「一指貫天の法」は、「真言」と「手印」がセットになっていて、「三宝」と呼ばれています。「真言」を禅宗では、「不立文字」といい、決して文字に表すことはしません。口伝で師から弟子へと伝えられてきました。「三宝」を「教外別伝」といい、禅の教えの内では表立って伝えられることはありませんでした。師から一人の弟子にのみ伝授されたのです。まさに「一子相伝」の法なのです。禅宗では「三宝」こそ「直指人心、即得解脱(往生)」の法門として秘せられてきたのです。この三宝は坐禅と共に行じてこそ生かすことができるのです。密教的だと思われるかもしれませんが、口に真言を誦し、手で印を結び、端坐するとき、開口した天門から天の氣が流れ入り、臍下丹田に満ち満ちてきます。そして奇経八脈に氣が通じ、氣血は永遠に留まることなく、全身に廻り続けます。病気等があれば自然と治癒し、一生病気知らずの健康な生活を送ることができるのです。また坐禅中に天門から幽出して仙境に遊び、自由解脱の無我空境に帰趨します。-禅宗では手に印を組み(法界定印)坐禅しますが、黄檗宗では真言を唱え(阿弥陀仏の真言)、法界定印ではない特別な印を結んで坐禅します。黄檗宗には真言と印とが伝わっていますが、肝心の「一指貫天の法」がありません。(黄檗宗で用いる真言は阿弥陀仏の真言ですが、三宝に伝わる真言はこれとは全く異なります。しかし私の分析によれば、その本質は阿弥陀の元型(Archetyp)に帰一します)-しかし三宝が禅宗に伝えられていたのは六祖慧能までで、この三宝を慧能は佛家以外の人に相承したのです。何故慧能はこの法を禅宗に残さなかったのかはわかりませんが、この時点から七祖と呼ばれる禅師がいなくなったことは史実の示す通りです。この三宝は太古の聖仙から一子相伝で脈々と歴史に名だたる人々によって伝えられてきました。釈尊に伝えられてからは、インドで仏弟子によって守られてきましたが、達磨大師によって中国に渡りました。近代まで中国で密かに伝えられていましたが、毛沢東の宗教排斥運動が吹き荒れる中、台湾に逃避してきたのです。三宝は霊台を他力によって開発し、天門を開く特別な法門です。この三宝の威力の凄さは現在でも確認できます。慧能の菩提寺に行くと現在も慧能の生前そのままの姿を拝見することができます。死後も肉体は腐敗せず結跏趺坐の姿で凛として端坐している姿には畏敬の念を憶え、大きな感動を受けます。死してもなお大悟の薫香と威光を放つ大鑑慧能禅師は本当に輝く素晴らしい存在です。なお死後硬直をせず、肉体が腐敗しないのは死後も「氣血が廻っている」ためと考えられます。ちなみに、大鑑慧能禅師は1300年ほど前に示寂しています。
三宝の伝統の流れはいくつかあるようです。私は二つの流派から別々に三宝の伝授を受けましたが微妙な違いがあることも付け加えておきます。おもしろいことに、日本の「一念帰命の法門」においても三宝に類する法を備えていることです。天門開頂の他力門には共通する原理が見て取れます。〕
ラヒリ・マハサヤは、現代人は賢者によって導入された完全な専念を必要とする古代の厳しいヨガ修行を実践することがとても難しいことを理解していました。問題に満ち満ちていて、不誠実な社会に暮らす人々の中では、このような専念できる人はいません。そこでラヒリ・マハサヤは、古代のヨガの厳格さを緩和し、自宅でひそかに修行に打ち込むことを唱導しました。古代の複雑さを除くことによって、一般人のための修行を直接的な結果が得られるように単純なものに変えたのです。ラヒリ・マハサヤは古代のクリヤヨガをユニバーサルデザイン化した最初の人なのです。
ラヒリ・マハサヤの箴言:
何らかの宗教に属している人、あるいはある教義に固執している人たちに対して、クリヤサーダナを実践するための障害はない。このサーダナはアートマサーダナと命名される。無限の霊が生きとし生けるものの中に偏在しているように、どんな宗教に属していようとも救済と真実の探求を望む人々はアートマサーダナを実践する資格があり、そしてクリヤヨガの道を歩むことができる。 |
ラヒリ・マハサヤの箴言:
クリヤヨガを実践することにより、あなたの人生は素晴らしく、崇高になる。あなたは魂の素晴らしさに気づき、あなたは正真正銘の紳士・淑女になる。 |
現代のマハ・ヨギ、カビル・アドヴァイタによるクリヤヨガの説明からクリヤヨガの全貌が明らかとなります。:
ヨガは、物質からスクシュマ(微細体、アストラル体)へと進み、コーザル体の状態へと進む。これは、サンカルパ(意志)を通してスシュムナの内部に入り実現される。これをサンカルビットヨガという。このように、ヨギは脊髄への入り口を見つけるために熱心にワークをする。スシュムナへの入り口だけがヨガ・サダナの目的となる。ヨギがスシュムナの中に入り、アストラル元素を捉えなければ、ヨガに関する支配を得ることはできない。ヨギはすべての経験に精通している。なぜならば、彼は外界の自己の活動を遮断することで内なる自己を絶え間なく探求するからだ。
脊髄の両側には「イラ」と「ピンガラ」と呼ばれる「陰」と「陽」の流れがある。脊髄の中心には「中性」の「スシュムナ」の流れがあり、「ブラフマ・ランドラ」はスシュムナの中に位置している。これが活性化されると、神性の光に覆われた世界が視界にぼんやりと現れる。
ヨギは性エネルギーをクンダリーニという濃縮されたエネルギーと融合させるために上方へ押し上げる。すると目覚めたクンダリーニは直ちにスシュムナに入る。それはヨギの性質に変化をもたらすことができる。この「変化を受けた性質」は2つの面を持つ。1つは「ガテー」(速力)で、もう1つは「アヴァロダー」(障害)である。ヨギは正しい感情を持ってそのエネルギーにスピードを与え、「サンカルパ(意志)」を達成する。このサンカルパを通してこのエネルギーを肯定的に利用する。
ヨギが固い決心をするとき、ヨギはサンカルピットヨガを実践している。このヨガの第一の目的は「自己実現」のための気づきを引き起こすことだ。そして、クリヤヨガは「真実の完全なる智慧」の道を明らかにすることができる。
ヨガの教えは「体」と「心」から人間を解放する方法を示す〔仏教的に言えば、妄心から真心へ至る方法〕。「体」と「心」から開放された人間は、宗教のシンボルだ〔仏教的に言えば、ニルヴァーナに至った者〕。そして自分の眠っている神秘を解明することで、「過去」や「再誕生」についての認識を持てるようにする。物質界の物質的形成は「光と音」の助けにより行われる。光と音は内なる自己の認識においてさらに強力な役割を演じるが、それを言葉を代えて言えば、クリヤヨガの成熟した形といえる。この状況において、人は最初に「自分自身を知らねばならない」-これは必須のものとなる。そして自分自身の重要性を悟ることができる。
人間は外の世界の魅力に誘惑され、世俗的な物事に愛着を覚える。この状況はさらに人を人間が作った問題の中に巻き込むことになる。やがて人間はその複雑な問題のプレッシャーでボロボロになる。こうして無力感に駆られて人は不可視の力に助けを求めるが、この段階に至ってはもはや遅すぎる。
無知、無明の中でこの世を人生の有る全てと思っており、体を失うことの絶え間ない恐怖の下にいる。しかし、この恐怖は「クリヤヨガ」によって取り除くことができる。「クリヤヨガ」は「サムプラギャットサマディ」によって心(チッタ)を浄化し、それが先へ進むのを助ける。クリヤヨガのテクニックでチッタの種は溶けた金のように灼熱し、「サンカルピットヨガ」の段階、あるいは「アサムプラギャットサマディ」(調和の最高の状態であり、すべての苦難、悲しみ、罪はこの段階で終焉する)の段階に達する。そこで「チッタ」の既知の段階は終わりを迎え、潜在的印象(サンスカーラ)は崩壊する。「チッタ」のこの特別なラヤの段階は「クリヤヨガ」を通して得られる。そして、チッタは「カイバリヤ(究極、絶対の自由)」の状態に溶け入る。このチッタの「自己溶解状態」は「プラティ・プラサガ(自己没入)」と呼ばれ、それが「ティヤジャ(手放す)」という特性を持つので、「ハイヤ」と呼ばれる。「アヴァロダ(障害)」の状態において「プラティ・プラサガ(自己没入)」は「プララヤ(完全な崩壊)」をなし、コーザルの状態に溶解する。
「ラヒリマ・ハサヤ」「ユケテシュワル・スワミ」「ヨガナンダ・ジー」を通じたクリヤヨガの普及の陰には「マハ・アヴァタール・ババ」の存在があった。
クリヤヨガでは、全ての心配は消えうせ、心は一つの方向へ機能し始める。クリヤヨガの効果は素晴らしい速さで起こる。どんな人間でも、30秒から3分以内で「ムルダンガ(恍惚)」の状態を得ることができ、自分の「心」を効果的にコントロールすることができる。
クリヤヨガは人類にとって極めて有用であり有益だ。クリヤヨガは「人体と魂」の間の違いを喚起し、魂の知識を通して全宇宙(宇宙、宇宙意識)の認識を持つことができる。そして、人間は自己実現したのちに自分の本当の可能性を理解できる。
真理を良く知る人はどんな物事にも決してかき乱されない。その人は「マハ・タットヴァ」と「パラ・タットヴァ」(「物質」と「アストラル」)を認識しており、物質的状態からアストラル状態へ溶けることができ、さらにアストラルから「コーザル状態」に溶けることができる。そしてさらにその逆の順序に従って物質的状態に戻ることができる。それゆえにこの美しい世界もその人には無益だ。その人は単に生物世界と無生物世界の観察者なのだ。
クリヤヨガは肉体、精神、霊性、人間の幸福と深く関係している。クリヤヨガにより心が安定すると、ヨギのアートマ(魂)は「自己」と「宇宙」の意義を理解する。そして、アートマ(魂)とパラマートマを結合し、物質世界からアストラル状態へ転送する。このようにして「宇宙意識」は達成される。この状態において「意志」がとても強力になり、老化の進度や死でさえも意志によりコントロールすることができる。
主クリシュナはクリヤヨガに熟達していた。彼の幻影(マーイカ)の活動の全てはクリヤヨガの支配を表しており、人間はクリヤヨガを通してサンカルピットヨガの状態を得ることができる。また、サンカルピットヨガは強力な武器としても使用されうる。突然肉体を出現させたり、消滅させたりすることはクリヤヨガを通じてのみ可能なことだ。何千年にわたるサマディや同時に多数の体を作り出すなど、全てはクリヤヨガの驚異だ。
クリヤヨガは人間の思念プロセスを瞬時にコントロールすることを可能にする科学だ。しかし、世間に流布しているヨガは一般的に使用されたため、その価値を低下させてしまった。ヨガの教師は簡単に見つかるが、残念ながら「クリヤヨガ」の知識を持つことを主張する者はほとんどいない。
「クリヤヨガ」は一定の公式に従い、具体的な定義をもっている。そのため特別なテクニックがデザインされたが、それは偏在する「神」自身によって提示されたものだ。それはヒマラヤの聖者方により守られており、「時間」の必要に従い、選ばれたヨギを通じて社会にそのテクニックを手渡す。
「クリヤヨガ」は稀有なる科学であり、それを実践する人も非常に稀である。クリヤヨガの実践者は、ヒマラヤの気高き賢者たちの特別な保護を受けている。抜け目がない人、利己的な人、不正直な人はこの独特なテクニックを使うことはできない。しかし、必要が生じればいつでもこれを満たすために代表を派遣する。
サンカルピットヨガの大規模な誤用はマハーバーラタにおいて壊滅的な破壊を引き起こした。当時、クリヤヨガは一般の人々に広まっており、その結果一般の人々も奇跡的な力を得ていた。主クリシュナはクリヤヨガのために破壊された。そして、反抗的なヤダヴァスの破壊はクリヤヨガによって行われた。これらの破壊を引き起こしたのは個人的な敵意だった。マハーバーラタの後、クリヤヨガは冬眠に入った。そしてそれは五千年を経た後、マハ・アヴァタール・ババによって再び呼び起こされた。
今日の人間は全てを即座に手にしたがる。しかし、人々は急いでは何も達成することはできない点を見落としている。「クリヤヨガ」はヒマラヤの偉大な魂たちの保護下にある。「人類」は古代科学の保管者に保護を提供するヒマラヤに感謝することだろう。
シャルドワンは主クリシュナにクリヤヨガを教示した。のちにアングリスも主クリシュナにクリヤヨガの訓練をした。バグワン・バスカールはヴィヴシュワンにクリヤヨガのディクシャを与えた。マヌはヴィヴシュワンからその技法を学び、それをイスクワクに手渡し、シャルドワンはイスクワクから受け取った。主シャンカールが最初にこのクリヤヨガをパールヴァティに与えた。その後、ラヴァナとマルカンディにクリヤを教示したが、ラヴァナはそれを誤用し、その結果破滅した。主ラーマはグル・ヴァシスタからクリヤヨガを学んだ。ビシュマ・ピタマーとマハーバーラタの他の人物たちもクリヤヨガを知っていた。
「クリヤヨガ」とは、思念の「ラヤ」と「ヴィラヤ」(調和と破壊)、あるいは思念の上昇と下降の動きの科学だ。それは人間に「サンカルピットヨガ」の認識を助け、「サンカルピットヨガ」の支配を通して自分の意思に従って生を送ることができる。しかし、その力のほんの些細な誤用でも極めて破滅的なことになる。なぜならば、クリヤバン(クリヤヨギあるいはクリヤヨギニ)の意志が極端に強力になるからだ。それをエゴのために利用するとカルマの法則が働き、最終的に自身に還って来る。だから抜け目がない人、利己的な人、不正直な人はクリヤヨガを学ぶ資格はないのだ。
クリヤヨガは、人間の内側の最奥に住まう「至高の魂(プルシャ)」を明らかにする。人間はクリヤヨガの訓練から多くを達成できる。しかし全ての多様な達成の中に、人間は一つの型の反映を見る。しかし、今までクリヤヨガの全面的な真理を知っていると主張した者は誰もいない。クリヤヨガは大いなる科学の一部であり、その多くの支流は世界中に広げられる。
人は「マハ・ヴィギャン」つまり「偉大な科学の知識」を受け取るに値しなければならない。現進化段階では、この「偉大な科学の知識」の極めて一部しか利用できない。他の多くの部門はその意義を言及されるだけにとどまり、技法のほとんどは秘密の方法で維持される。クリヤヨガはこの秘密の科学一部であるため、人は偉大な科学の知識を受け取るために自分の価値を証明しなければならない。そして、リシとムニたちだけが相応しい人物にその複雑な科学のニュアンスを伝授するだろう。
クリヤヨガの実践的側面には人類の意識進化に貢献することのできる多くの道がある。クリヤヨガの主目的は、人間に包括的な人類愛を教え込むことであり、それが世界にとってインスピレーションの源であることができるように人間の思念を変えることだ。「クリヤヨガ」は宇宙のグルになる潜在力を持っており、サンカルピットヨガは人類を破滅させ得るような出来事のコースを変更させることができる。
ヒマラヤの偉大な賢者たちはサンカルピットヨガの力にもとづき、破壊的な力の使用を止めることを決めている。
ヒマラヤはそれゆえに静かで乱されない。人間は何でもすることができる。しかし、最後には神の意志が行き渡る。
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ラヒリ・マハサヤの写真
彼の直筆のサインが入っている貴重なものです。不死身の大師ババジの写真は存在しませんが、この写真にはラヒリ・マハサヤだけが写っているのではなく、ババジご自身も写っているとラヒリ自身が宣言しています。したがってこの写真はババジの写真でもあるのです。この写真に敬意をもって接することで恩寵をさずかることができるでしょう。 |
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おゝプリターの子アルジュナよ!迷うことなく、瑜伽をしっかり実践し、光り輝く至高の宇宙大霊から心と想いを決して逸らさぬ人は、必ずそのもとへと到達するのだ。(バガヴァット・ギーター8章-8)
苦楽の経験は、真我を認識することで終わる。(サーンキャ・スートラ) |
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大乗仏教と我々が辿る道とクリヤヨガ
我が生は何処より来たり
去って何処にかゆく
独り蓬そうの下に坐して
兀々として静かに尋思す
尋思するも初めを知らず
いずくんぞ能く其の終わりを
知らん (良寛)
雪深い五合庵で独り物思いにふける良寛の胸に去来していたものが「生の由来」と「死の所去」であった。量子論の創始者の一人であるマックス・プランクも、「私はどこから来て、どこへ行くのか。これは由々しい問題である。万人にとってそうなのだ。しかし、科学はその答えを知らない」と真摯に述べている。この問いに自信を持って答えられる人がいるだろうか。否、この問いをまじめに尋思した人がどれだけいるだろうか。生の由来も知らなければ、死の去り行くところも知らない大人たちが、後輩の者に、人の命は尊いなどと言ってみたところで、どれだけの説得力があるというのだろう。しかも、その答えたるや、一度たりとも生の意味など問うたことのない者と同じだというのだからなおさらである。
我を生ずる父母も生の由来を知らず。生を受くる我が身もまた、死の所去を悟らず。過去を顧みれば、冥冥としてその首を見ず。未来に臨めば、漠漠としてその尾を尋ねず (空海)
また、空海は次のようなうたも残している。
生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く
死に死に死に死んで死の終わりに冥し
パスカルもまた、「私はやがて死ななければならないということ、これが私の知っているすべてである。しかし、どうしても避けることのできない死を、私は何よりも知らないでいる。私は、私がどこから来たかを知らないと同様、私はどこへ行くかを知らない。」と言う。天才パスカルは当時の知識人たちに抜きん出ていた。多くの知識を身につけていた。しかし、それは問題ではなかった。最も確実にして最も不確実な死を前にして、「生の由来」はもとより「死の所去」さえ知らない自分がそんな知識を誇ってみたところで何になろうという想いがあった。
我々一人ひとりの未来に何が起こるかなど誰にもわからない。しかし、ただひとつ確実なことは死だけなのだ。しかも、その避けがたい死が何であるか、誰も知らないのだ。生まれ落ちたときから一瞬たりとも死の床を離れたことのない我々の生とは、一体いかなるものなのか。このことを大乗仏教に訊ねてみたい。
アシュヴァゴーシャが著した『大乗起信論』を中心に生と死を考えてみる。大乗とは親鸞が『教行信証』で言ったように「難度海を度する大船」のことである。難度海、すなわち生死の世界(サンサーラ)から涅槃の世界(ニルヴァーナ)へと乗せて渡す大船のことである。それではこの大船とは何か。『起信論』は、大乗とは我々自身の心(衆生心)であるという。この表明は大変重要である。苦行や善行に励み、功徳を積むことではなく、また経典の研究や歴史的な解明に明け暮れるのではなく、自分自身の心をよく理解し、それと取り組むことが大切であると言っているのだ。起信論は過去の菩薩たちもまた、この心に乗じて仏になったと明言している。それではこの煩悩具足の心にまかせていて本当に大丈夫なのだろうか。大乗仏教は大丈夫と太鼓判を押す。なんとなれば、「一切衆生悉有仏性」なのである。『涅槃経』にも「是の儀を以っての故に我“一切衆生悉有仏性”と宣説す」と高らかに謳っている。とは言われても自身の心を見るにつけ、妄想転倒してひとつとして定まらない。親鸞自身が、
浄土真宗に帰すれども
真実の心はありがたし
虚仮不実のわが身にて
清浄の心もさらになし
と悲嘆述壊している。確かに我々は「真実の心」も「清浄の心」もない。いったいどこに仏性を見つけ出すことができようか。
『起信論』は我々の心を心真如(真心)と心生滅(妄心)の二相に分ける。心に二相あることから、サンサーラ(生死)の世界とニルヴァーナ(涅槃)の世界に分かれてくるのだ。妄心(心生滅)ならば世間法、すなわち生死輪廻の世界に入っていくが、真心(心真如)ならば出世間法、すなわち涅槃の世界へと帰っていく。
このように、妄心でもって世界に対するとき、見るものことごとくが虚妄の世界となり、醜の世界となる。真心でもって世界に対するとき、見るものことごとくが真実の世界となり、美の世界となる。「かくのごとく真諦(ニルヴァーナ)と俗諦(サンサーラ)はただ二義のみあって二体あることなし」という中国華厳宗第三祖の法蔵の言葉のように、世界が二つあるのではなく、世界はあくまでも一つなのであるが、我々の認識の構造によってサンサーラの世界(俗諦)ともなれば、ニルヴァーナの世界(真諦)ともなるのである。つまり、認識の基盤としての心、あるいは意識が虚妄であるか、真実であるかによって、世界も二つに分かれるということである。
言うまでもなく、現在我々が生きているのは妄心である。六祖慧能が「心は本よりこれ妄なり」といったように、我々が普通に心と呼んでいるもの、意志、思考、欲望、感情など、どこからともなく妄りに湧き起きる心を妄心という。また、絶えず浮かんでは消えしながら、途切れることなく続いている心でもある。これを生滅心あるいは相続心とも言う。まるで真空中で絶えず素粒子が対生滅を繰り返しているがごとく妄心は沸き立ってくる。こうした妄心に我々は翻弄され、妄心は我々を生死輪廻の絆に繋ぎ止めているのである。親鸞も「一生の間、思いと思うことみな生死の絆にあらざることなし」と言ったように、この心が生滅を繰り返しながら輪廻転生していることから、『円覚経』はそれを「輪廻の心」と呼ぶ。
このように、我々の内側には何の脈絡もない想念が途絶えることなく流れているが、我々はその事実にさえ気づいていない。外界の刺激に対する反応として機械的に生ずる条件付けられた思考や感情の流れが自分であると深く妄信し、頑なに盲従しているのが我々の生の姿である。この心(妄心)が我々を生死の絆に繋ぎ止め、あらゆる問題を作り出しているのだ。我々はこの事実に立脚し、この心と取り組み、真実の自己である真心を悟らねばいけない。そして真心を知ることで、サンサーラの世界はニルヴァーナの世界ともなる。これが大乗仏教が、そして、我々が辿ろうとする道なのだ。
この道を辿る者を大乗仏教では菩薩という。菩薩はサンサーラの世界からニルヴァーナの世界へ渡るために真心に至ろうとする。しかし、サンサーラの世界を乗り越えることは至難の業である。なぜなら、妄心によっては真心は捉えられないからだ。妄心によって妄心を超えることは不可能なのだ。必然的に困難きわまる道を歩むこととなる。この困難を越えてニルヴァーナの世界に至ったとき、菩薩は自己実現を遂げたのだ。
我々が辿るべき道が明らかになったが、その道は困難きわまる茨の道であることも確かである。世俗の生活を断ち切ることも、禁欲生活はもちろん厳しい修行を実践することもできない我々凡夫が歩める道はないのだろうか。実は我々のような凡夫に用意された道はある。それはクリヤヨガの道なのだ。凡夫を助けることができる唯一の道としてクリヤヨガはあるのだ。 |
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