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旅行記
           
ヨーロッパ
中欧(平成14年6月30日脱稿)

     数百年近くもの長い間、周辺の大国に蹂躙され続け、遠くは30年戦争の、近くは両大戦の発火点ともなっただけではなく、戦火にさらされながらも、民族のアイデンティティ(民族・宗教・言語・風俗習慣文化等)を頑ななまでに守り続けていた中欧諸国にも、待ちに待っていた『我が世の春』が、ソ連の崩壊を契機として遂にやってきた。 
                      
   緑豊かな大自然に恵まれた郊外では、行き届いた国土への過剰とも思える手入れを感じる一方、各都市の中央広場は、廃墟にされた不幸な過去を忘れさせるかのように、美しく復元された中世の街並みに取り囲まれ、地域の老若男女が集う憩いの場としてだけではなく、海外からの観光客をも引きつける観光スポットとしても見事に復活。                               

   蕩々と流れるドナウ川と悠々たる時の流れに身を任せ、この世の幸せを満喫しているかのような人々の姿に接していると、眩しささえ時には感じられた。バブルが崩壊した結果、老後の不安に襲われているのか、世界に冠たる貯蓄を持ちながらも、心のゆとりを失いかけたかのような日本人とは、実に対照的にすら感じた。          
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はじめに

[1] 数年前からの念願旅行

   定年の1年前にトヨタ自動車のポーランドとチェコへの工場進出に関して、関係者から、密かに個人的な見解を問われた。両国に関する直近の書籍を各10冊、急遽調達し、夫々の国に関する評価・見解をA4で約20ページに整理し、その要旨をA4で1ページに纏めた。幸い、両国共に、目下工場を建設中である。
   
   特にチェコの場合、本年4月10日に工場建設の鍬入れ式があり、マスコミを通じて大々的に報道された影響もあってか、街頭で質問した多くの若者達はこのニュースに詳しく、彼らのトヨタに対する期待の大きさが窺え、嬉しかった。
   
   一方ポーランドでは、帰国後の本年6月7日、手動変速機の生産工場がとうとう完成し、ミレル首相以下の関係者、約400人を迎えて、盛大な式典が催された。エンジン工場も建設される予定になっているが、まさしくご同慶の至りだ。

   当時、報告書はワープロで書いていた。その時のフロッピーを、たまたま今に至るまで保存していた。その時の要旨をそのまま以下にコピーした。今回の旅行に先立ち、その要旨を読み返したが、いささかも変更する必要性を感じなかった。

   我が脳裏には、中欧への関心はかつて殆どなかった。しかし、海外プロジェクトとしての視点からの調査とは言え、両国を正しく理解するために、自動車産業関連だけではなく、地理・歴史・文化などに至るまで広範囲に亘って一通り勉強すると、中欧への我が関心は急速に高まった。そして、いつの日にか歴訪したい候補国の一つになっていたのであった。


                                          平成8年7月24日       ポーランドプロジェクトへの愚考             
                                               石松良彦
                                     
[1]不幸な歴史にも、希望を失わず

   平原の国ポーランドには自然の障壁が乏しく、異教徒・異宗派の近隣大国、モンゴル(イスラーム)ロシア・ソ連(ギリシア正教)スウェーデン・プロイセン・ドイツ・オーストリア(プロテスタント)の侵略を受け、今日なお周辺国に気を許してはいないが、破壊された国土の再建には、宿敵プロイセンから先進技術もかつては導入するなど、柔軟な対応力もある。

   更に欧州全域で迫害されたユダヤ人をも受け入れてその商才や経済力を活用したこともあったが、経済の実権を握られ過ぎると、逆に迫害側に変身。戦後ハンガリー&チェコがソ連に蹂躙された時には、巧みに矛先を外すなど、したたかに生き延びた。3度も亡国の悲哀を受けた国民の深い知恵である。

[2]高い教育水準

   世界初の文部省を設立し、教育には特に力を入れた結果、理数系だけではなく、2人のノーベル文学賞受賞者、ショパンを初めとして芸術にも強い国民である。不幸にして、統計では2420$/GDP/人(1994)に過ぎないが、人的能力が劣っているからでは無く、設備と技術への投資が不足した結果に過ぎない。類似所得額のトルコやアラブ・南米などの怠惰な国民に比べ、格段に国民のポテンシャルは高い。

[3]かつては、東欧屈指の工業国だったが

   戦後の技術革新に乗り遅れたため、工場の設備は、トルコ・ベトナム・中国同様、恐らく使い物にならない(精度不良・故障頻発・性能劣悪・自働化未着手)と推定。当社への期待は、最新の技術(自動車設計・生産設備・工場管理)と資本の導入にあると推定。(注。自動化と書かずに自働化と書いたのはトヨタ用語だから)

[4]将来性

   中欧の大国で近隣諸国への輸出基地となることも夢では無く、その上、日露戦争を初めとして、ポーランド国民の日本(人)への親近感や期待度は、歴史的な加害者である近隣諸国よりも何かと高そうだ。

   しかし何分にも、日本に比べ工業技術が40年は遅れている(私の推定)ので、相手の進歩に波長を合わせて、焦らず気長に付き合う覚悟がいる。当社が付き合い慣れている英米系とは異なり、敬虔なカトリック教徒の国なので、浅はかな摩擦を起こさない努力は日本側に求められる。

   幸か不幸か、戦後ポーランドは同一民族・同一言語・同一宗教の纏まりの良い国になった。その点ではインドとは対極に位置する。我々にはポーランド国民の受難の歴史に関する深い理解(同情ではない!)を心に収めた上で、彼等に感謝される道を共に切り開く“態度と決意”が強く求められる。

   “トヨタの技術は世界一。黙って従え!”では面従腹背、最終的にはユダヤ人のように嫌われる恐れが十分にある。相手はかつて“文化の先進国”だったことを、一瞬でも忘れてはならない!


                                          平成8年9月6日        チェコプロジェクトへの愚考                
                                               石松良彦

[1]日本に匹敵する長い歴史があるが、近世は不運

   西暦1世紀頃ケルト民族の一派ボイー族(ボヘミアの語源)が占拠していた地方にスラヴ族が侵入し、6世紀頃『大モラヴィア帝国』を樹立。そこへマジャール人が侵入し10世紀初に帝国は滅亡。スロヴァキア地方は以後1000年間マジャール民族のハンガリーに支配された。

   ボヘミア地方ではブシェミスル侯国が『ボヘミア王国』を形成し、14世紀にはポーランドと並ぶ中欧の大国にまで発展。国王カレ4世は神聖ローマ帝国の皇帝も兼務(1355〜78)し、プラハは帝国首都として繁栄。

   15世紀初頭カレル大学総長フスはルターに100年先立って宗教改革運動を起こすが、ローマ教皇側は彼を1415焚刑。ボヘミア貴族はフス戦争(1419〜36)で教皇側に敗北。ビーラー・ホラ(白山)の戦い(1620)でプロテスタントのチェコ貴族側はカトリックの神聖ローマ帝国(ハプスブルク家が皇帝を世襲)に完敗。

   以後300年間ボヘミア王国はハプスブルク家に支配(暗黒時代)され、国力は衰退。国歌『わが祖国はいずこ』に象徴される『真の独立』は第一次世界大戦後の1918年。
   
[2]小さくとも中欧の中核国

   リスボンとモスクワの中点がプラハ。チェコは文字通り欧州大陸の中心にあり、GNP/人は現在スラヴ系各国のトップ。プラハ市民の40%は郊外に家庭菜園付き別荘(ハタ)保有。国土の半分は農地・3039カロリー/日。食肉86.6kg&ビール140リットル/人(1981)は名目GNPと実質的な豊かさの乖離を示すデータに見える。

   『フス戦争』や『白山の戦い』に象徴されるチェコ国民の合理性を求める反骨精神は、神聖ローマ帝国を介してのハプスブルク家のドイツ化政策にも屈すること無く、チェコ語を守り民族のアイデンティティをキープ。小国でありながらも国民の知的レベルは極めて高く、世界史に輝く偉人(フス・コメンスキー・メンデル・フロイト・チャペック他)も輩出。『スポーツや音楽』の伝統も誇る。

[3]ポーランドと相互補完をすれば、スラヴ各国への輸出基地としては最適地か?

   第二次世界大戦後、東側経済圏の工業基地として発展したが、西側の技術革新に乗り遅れ、高品質耐久消費財の大量高効率生産にも立ち遅れた。石油危機は小資源国チェコを直撃し、老朽化した設備では西側との競争にも勝てず目下苦戦中。
  
   しかし、チェコとポーランドとを合わせれば、人口は英・仏・伊に近い5千万人にもなり、自動車産業が成立可能な市場規模が得られ、周辺のスラヴ各国への輸出基地に育つ可能性も大きい。

   機械工業の歴史は長いし国民の資質も高いが、当社が許容出来る水準の設備は殆ど無さそうなので、息の長いプロジェクトとして、技術と資金を我慢強く投入する覚悟は不可避だ。ドイツやロシア嫌いの反動で日本への親近感もあり、日本人とは意外と波長も合うのではあるまいか?


[2] JTBの新企画

   団体パックの海外旅行の料金は2人一部屋が基本である。一人で参加する場合は、ホテル代金が一泊5千円くらい追加されるのが普通だ。そのため今までは荊妻の都合に合わせたり、友人を誘っていた。

   ある時たまたま、JTBの『旅物語』で、欧州の主力コースの場合に『相部屋OK』の募集もあることに気付いた。まるで我が為にあるように感じた。相部屋承知で申し込むと、たとい相棒がいなくとも追加料金は取られないのだ。年金生活者には大変ありがた〜いシステムだ。
   
   JTBの担当者に聞くと、かなり以前から導入していたそうだ。相棒の組み合わせは参加者の属性を考慮して決めるとは言うものの、発表は出発地の空港だそうだ。きっと『この方とは旅行したくない』と言ってキャンセルする客を避けるためではないかと邪推した。私は誰とでも話題を合わせる自信があったから、何の心配もしてはいない。しかし、友人達の評価は逆だった。『相棒の方が堪らんよ!』

[3] 平成13年(2001)9月11日の同時多発テロ

   昨年の秋、『ドイツ・チェコ・オーストリア・ハンガリー』の旅を単独で申し込んだ。荊妻は長女の出産支援で約50日間、夏にドイツで過ごしていたためか、誘っても『ゆっくりしたい』と言うだけ。何人かの友達に声を掛けたが、『毎回は誘ってくれるな!』との一言。已む無く単独旅行を決意。単独とは言っても、海外出張では何度も体験しており、何の支障も感じてはいなかった。
   
   なのに、あろうことか、ニューヨークの同時多発テロで観光客は激減。中欧はテロの標的になってもいないし、治安も良い国々なのに、日本人は何を心配しているのか、最少催行人員の15人にも至らず取りやめになってがっくり。

[4] やっと実現

   団体旅行の料金は季節変動が大きい。今回の『ポーランド・チェコ・スロヴァキア・ハンガリー・13日間』の場合は、成田発着で4月5日出発だと25万8千円なのに、8月12日出発だと39万8千円もする。一番安い4月5日出発を申し込んだが、再び応募者不足で中止。やっと4月15日出発のコースで催行成立。1万円高だがやむを得ない。   

   おまけに、名古屋・成田間の国内線料金が3万円付加されるのだ。しかし、成田発着コースの場合にやっと人が集まる程度のコースの場合、名古屋発着便は最初からどの旅行社でも企画しておらず、不満たらたらの参加だ。
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準備

[1] 名古屋・成田間の国内線の予約問題

   名古屋・成田間の国内線の切符が入手できるか否かが、私には大問題だった。
当時、名古屋発は7:30のANA(全日空)しかなかったのだ。成田空港の発着枠が少なく、地方空港を利用する者には、昔から最大のネックになっていた。しかし、急遽決った海外出張でも不思議なことに、この路線の切符が取れなかったことは、実は過去に一度もない。

   切符が入手できなければ、新幹線で重い荷物(約30kg)を運びながらの前泊は一仕事になる。切符さえあれば、荷物は成田・ロンドン経由でワルシャワまで託送できるので、私は成田空港の集合場所に手荷物だけを持って行けば済む。
   
   自分で切符を手配するのが一番確実なのだが、国際線の出国便と帰国便の発着時刻をJTBがなかなか発表してくれないので、どの便を手配すればベストなのか選択すらもできない。情報待ちでは面倒なので結局、往復とも一括してJTBに頼んだ。  

   出発1週間くらい前になって、JTBから『往復とも切符が取れませんでした。前泊して下さい』との電話。『何故取れなかったのですか?。切符の発売時刻に、同業他社との切符獲得競争に何故負けたのですか?。仕事をサボっていたのではありませんか?』と詰問。『切符が必ず取れるとの保障はしていません。申し込み時にその旨、説明しています。それに、成田での乗り継ぎ時間が2時間以上ないと、航空会社が発券してくれません』『今回は2時間15分あったではないか!』『。。。』

   ANAに確認すると、『一般客には2ケ月前から発券。団体パックには別枠があり、1ケ月前から発券しています。尚、当社は乗り継ぎに2時間以上なければ、発券しないという内規はありません。しかし、延着して国際線に乗れなかった場合のリスクはお客様持ちです。当便(7:30発)では、今ならば11人目のキャンセル待ちになります』

   JAL(日本航空)に確認すると、『帰国便の16:30には44席もの空席があります。尚、当社は出国時、自社便で乗り継ぐときは、成田での乗り継ぎ時間は90分以上、他社便との接続の場合には110分以上の乗り継ぎ時間がある場合に、原則として発券しています』

   再びJTBに『出鱈目を、言うな!云々。それでもサービス業か!』と一喝。『明日までお待ち下さいませ』。二日後『往復とも、お客様の切符の手配ができました。出発日に、名古屋空港の団体受付コーナーで切符はお渡し致します』との連絡。この世界がどんな闇に包まれているのか、未だに分からないままだ。

   尚、結果的には、往きのANA便には15%位の空席があり、帰りのJAL便には実に40%もの空席があった。帰りに乗ったJAL便は、成田に新滑走路が完成した4月18日からの新設便で50人乗りのジェット。成田のカウンターでは満席表示なのに、乗ってみるとガラガラ。スチュワーデスに『何故、満席表示なの?』と聞くと、『当便は国際線からの乗り継ぎ便なので、荷物が多く、満席にすると重量バランスが崩れるのです』『??』   

   後日JALに『満席表示の真の理由は何か?』と聞くと、スチュワーデスと似たような回答に終始した。『満席にできないのであれば、機種選定の誤りではないのか?。私は翌日午前配達の宅配便で荷物は運んでもらった。1690円は募集時に明示されていた通りJTBの支払いだった。全員が乗れないのであれば、JALも宅配サービスをしてでも客を増やすほうが売上も増えるし、お客様にも歓迎されるのでは?』と、嫌味なお説教。この世界の異常さに驚く。

[2] 事前勉強
   
   今回も何時ものように、にわか勉強を開始した。書物は括弧内に記したように意外に高い。今回も@からIまでは豊田市図書館から借りた。Jは今回の参加者全員にJTBから事前に配られた携帯用小冊子である。
   
   事前に書物を読んでも直ぐに忘れるから、興味を感じたところだけは要旨をメモにして持参し、現地で真偽を極力確認するのが、今や旅の習慣になっている。書物では曖昧だった疑問点を、現地のガイドに質問するのも旅の楽しみ方の一つなのに、的確な回答が必ずしも得られないのは、いつものことだが多少の不満。しかし、それはやむを得ないことと、過去の体験から今では諦めている。
   
   CからFまでは、米国で編纂された『目で見る世界の国々・全58ケ国』の翻訳シリーズである。写真などの資料が豊富で、その国を鳥瞰的に理解するのには大変役に立つ。米国人による対象国の評価も窺えて、私には興味深くて大変面白い。

   @東ヨーロッパ(朝倉書店・2000−1−20・翻訳もの・7600円)
A ロシア・北/東ヨーロッパ(同朋舎出版・1992・翻訳物・5000円)
   B東ヨーロッパ(大月書店・1994−3−15・2000円)
   Cポーランド(国土社・1995−2−25・翻訳もの・2600円)
   Dチェコ(国土社・1995−2−25・翻訳もの・2600円)
   Eスロヴァキア(国土社・1995−2−25・翻訳もの・2650円)
   Fハンガリー(国土社・1995−2−25・翻訳もの・2600円)
   Gポーランド入門(三省堂・1987−6−25・1545円)
   H地球の歩き方・中欧(ダイヤモンド社・99〜00版・1740円)
   Iハンガリー・チェコ他(JTB・1999−6−1・1550円)
   J東欧・中央(JTB・旅物語)

[3] 中欧とは

   中欧とはソ連崩壊後に突然現れた言葉ではない。19世紀後半に出版されたドイツのマイアー百科事典では欧州を地理的に東・西・南・北・中欧に既に分類していた。当時の東欧とはウラル山脈以西のロシアを指していた。第二次世界大戦後から約半世紀に渡り、欧州は西欧(自由主義国)と東欧(社会主義国)とに大別されていたが、ソ連が崩壊した結果、昔の分類が復活した。
   
   戦後使われていた東欧は現在、中欧と東欧とに分割されている。とは言え、この5領域の境界は曖昧である。通常、西欧とは英仏ベネルックス周辺国、南欧は地中海沿岸のラテン系諸国、北欧はデンマーク以北を指しているようだ。統一ドイツやオーストリアなどのドイツ語圏やバルカン諸国は中欧と呼ばれ始めたようだが,バルカン諸国は東南欧と称される場合もある。

   中欧では南部以外の大部分は、自然の境界線(大河や大山脈)に乏しい大平原であり、周辺のかつての大国、即ちスウェーデン・独・オーストリア・仏・トルコ・モンゴル・ロシアなどからの侵攻が容易であったためか、国境は何度も変更され、それに伴う民族の大移動も絶え間なかった。民族・言語・宗教などを共有する国民国家が成立したのは漸く、第二次世界大戦後のことである。それでもバルカン諸国が最終的な姿に落ち着いたとは、今尚、断言しがたい状況だ。

   欧州の歴史は中欧の歴史抜きには語れそうもない。欧州最初の大内乱となった三十年戦争(1618〜1648)はチェコのプラハで始まったし、第一次世界大戦はハプスブルク家の皇位継承者フェルディナントが、サラエボで暗殺されたことに端を発しているし、第二次世界大戦はドイツがポーランドに侵攻した時から始まっている。また、ユダヤ人やジプシー等が大虐殺されたアウシュビッツはポーランドにある。

   更には、ソ連崩壊のトリガーとなった場所はハンガリーである。当時、東ドイツ人が『ピクニック計画』と称して社会主義国のハンガリーとオーストリアの国境付近へ1989年8月19日に集結したとき、ハンガリー政府が国境を開き、オーストリアへ怒涛のごとく彼等を移動させた。そのしばらく後、さしものソ連も最早これまでと腹を括ったのか、ベルリンの壁を開放させたのは今尚、記憶に新しい。

   かつてはローマ帝国も中欧を横断しているドナウ川以北には侵攻せず、オスマントルコのウィーン攻略もポーランドの援軍に阻止された。とは言え、中欧には世界的な大帝国は成立せず、近世に至っても大西洋岸諸国のように、アフリカや新大陸への進出をしなかった結果、かつての西欧列強のようにアフリカや東南・南アジア系の移民を街頭では殆ど見かけなかった。

   また、中世からの街並みは、恰も時計が止まったかの如く、そのまま現代を迎えているかのようなひっそりとした佇まいを、今尚残し続けているように感じた。

[4]同行者

   今回の参加者は女性が19人、男性が7人、計26名だった。内、相部屋希望者は私だけ。結局、単独参加者とホテルでは同待遇となり、実質5万5千円安になった。ラッキー。欧州の古いホテルには一人部屋も数こそは少ないが、用意されている場合がある。建物の構造上部屋の長手方向は二人部屋と同じ長さ、バスルームは同じ大きさ。結局、部屋の幅が少し狭くなり、ベッドが壁に平行に設置されている点が違っているだけで、机・冷蔵庫・テレビなどの備品は2人部屋と同じだ。
   
   今回は、一人部屋に2回泊まった。残りはツインベッド、真四角のキングサイズベッドなどの二人部屋だった。よく考えてみると、日本の観光ホテルの大浴場は大変合理的な設備だ。大勢の人が一斉にお風呂に入れるからだ。西欧式のホテルの場合に二人で泊まると、風呂に同時には入れないため、入浴を終える時間が2倍もかかり、旅行中の貴重な時間が失われていく。
   
   私より若い人は親娘で参加した娘2人。娘と言っても既に結婚していたが、子供は共に生まれなかったそうだ。旅費は母親持ち。その代わりに何かと老母の世話をしていた。今時、珍しい孝行娘達で、持ちつ持たれつの関係だ。
   
   単独参加者は2人。和歌山の未亡人と福島のお爺さんだった。共に遠隔地だったため前日に成田泊。『定年になったら、一緒に海外旅行に行こう、と主人は楽しみにしてくれていたのに、定年の何と10年も前に不幸にも癌』と未亡人は寂しげな自己紹介。福島のお爺さんは、ニューギニアからの帰還兵であった兄の形見の背広を着て来られた。兄に海外を見せてやりたいとの一念の表われとか。
   
   その他の男性5人は夫婦で参加。残りの大部分の女性は友達同士。中にはパック旅行が縁で、一緒に旅行するようになった人もいた。中欧旅行に来る人は、旅慣れた人が殆どだった。『行きたい国が、段々少なくなった』と自慢しあっていた。『ご主人と、どうして一緒に来ないの?』と尋ねると、『主人の世話をさせられるのが嫌だから。石松さんこそ、どうして一人なの?』と薮蛇。
   
   『荊妻は7月末にピアノの弟子の発表会があり、その準備で忙しい。以前から二人の友人と一緒に2年に一回、合同発表会を実施しているのですよ。途中の日程をやりくりして、オーストリア・チェコ・ハンガリーへ(6月7〜16日)ピアノ友達と出掛ける予定にしています』
   
   ある男性はカメラが趣味。常に大きな三脚を背負い、手馴れた様子でてきぱきと三脚をセットしてはどんどん撮影。奥様も三脚運びのお手伝い。別の男性は受験生のような勉強家。バスの中でも常にガイドブックを読みふけり、現物と照合し、すかさず目的物を発見しては撮影。『どうして、そんなに勉強するのですか?』と聞くと『大金を払ったから』とのご回答。
   
   ある女性はガイドブックの該当項目の写真や説明文をコピーし、ノートの左ページに、日程順に張り付け、右ページは現地でのメモ欄用に残すという、今回の旅専用の自作ノートを準備。
   
   ある男性はビデオに懲り、同行者とは付き合わず、ひたすら撮影に没頭。時々、小声で説明を録音していた。みんな夫々の工夫で、旅を楽しむノウハウを身につけているようだ。
   
   日本からは43歳の男性独身ガイドがついてきた。人件費が高くつく男性ガイド付きは初体験だったので事情を聞くと、JTBへの派遣社員だった。派遣ガイドとは、彼の弁によれば『日雇い労働者』だそうだ。仕事があった日だけに収入がある。昨年のテロ以降は仕事が激減。しかし、通常は1年に付き150〜200日くらいはお呼びがあるそうだ。
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ポーランド

   ロンドン・ヒースロー空港では乗り継ぎの待ち時間を持て余しながら、免税店巡りをして話題を掻き集めた。

   世界の酒を集めた店があった。珍しいことに試飲コーナーがあった。日本のデパ地下では当たり前だが、欧州での試飲サービスは珍しい。試飲を申し出ると、コップに50cc位注ぎ、氷と水を少しだけ入れた。『水を入れ過ぎると香りが飛ぶ』と言って反対した。日本のようにほんの一口分だけ、と言ったけちなことはしなかった。一回分の適量だ。大抵の人は試飲後、義理を感じるのか1本買っていく。

   一番高いウイスキーを探していたら、50年ものが5000ポンド、約百万円もするものを発見。その横に“Everybody can buy”と書かれた紙が貼ってあったので店員に、『あの紙には“Everybody cannot buy”と書くべきではないか!』と嫌みを一言。

   英国一の格式を誇る百貨店、ハロッズの空港店ではキャビアも各種売られていた。一番高いものは1グラムが800円もした。金の価格に後ちょっとで追いつきそうだ。

[1] ポーランド概要

   @地理

   ポーランドは中欧の大国である。面積は本州と北海道の合計に近い31.3万平方キロメートル。西スラヴ民族。スラヴ語系ポーランド語。人口3850万人。可住地あたりの人口密度は日本の1/10以下。羨ましいほどゆったりとした国土に恵まれている。
   
   海外移民数には諸説あるが、何と推定1000〜1500万人。外国人観光客は年間1800万人。国名は平原(Pole)に由来し、ポーランド語ではポルスカ。農地は国土の6割の1900万ヘクタール、日本の3倍もある。瀝青炭の埋蔵量は600億トンもあり、年産1.4億トン、世界屈指の石炭国だ。
   
   A歴史

   ポーランド王国は10世紀後半のピアスト朝に始まる。1366年にポーランド女王はリトアニアの大公ヤゲローと結婚しヤゲロー朝を開始。1550年にクラクフからワルシャワに遷都し、中欧屈指の強国にまで成長。

   しかし、1572年にヤゲロー朝の断絶後、貴族の選挙で国王が選ばれるという『選挙王政』を導入した結果、貴族間の勢力争いが絶えず、国力は衰退。近隣の強国により占拠された結果、1795〜1807年(ロシア・プロイセン・オーストリアによる分割),1863〜1918年(ロシア領化),1939〜1945年(ドイツとソ連による分割)の3回に亘って地図上から国名が消滅した。第二次世界大戦後になってやっと国名が復活した。
   
   B日本との関わり

   1642年、中国人に変装して入国したメンチンスキが最初の訪日ポーランド人だが、長崎で拷問を受けて非業の死を遂げた。
   
   東京外国語大学のチェコ語コースにポーランド語が併設されたのは、ワルシャワ大学に日本語講座が1919年に開設されてから、何と約70年後である。世界最初のアイヌ語辞典は、ポーランドの東洋学者ラドリンスキが1892年に出版した。日本の言語学者は何をしていたのだろうか?。
   
   C歌

   普通の日本人(ピアノの初心者)にはショパンよりも、1856年に22歳の女性ボンダジェフスカが発表した『乙女の祈り』の方が、親しまれている。また、『森へ行きましょう、娘さん。。。』は、日本で最も有名なポーランド民謡である。

[2] 偉人

   人類の歴史に輝かしい業績を残した偉人が、こんなにも大勢輩出していたとは、事前勉強をするまでは夢にも思っていなかった。大部分の人名は知ってはいたが、出身国は知らなかったのだ。(注。ポーランドで活躍した人でも、ポーランド人とは限らない。例えばザメンホフはユダヤ人である)
   
@コペルニクス(1473〜1543)は、地動説の論文を1530年に脱稿した。ガリレオが宗教裁判で屈服した1633年の何と約百年も前のことである。当時の情報伝達速度の遅さに今更ながら驚く。また、貨幣流通論でも有名だ。当時の学問は現代ほどには専門が分化していなかったためか、活躍分野が広かった。彼を顕彰したコペルニーク大学は、第二次世界大戦後になってやっと設立された。
   
Aショパン(1810〜1849)は、『革命(練習曲ハ短調)』で民族の悲しみ・苦しみ・怒りを表現した。ショパンの音楽をナイフで切ると、ポーランド人の血が溢れ出る、と称されている程だ。荊妻の弟子が7月の発表会で弾く曲だそうだ。

Bザメンホフ(1859〜1917)は、どの民族もが自由に話すことのできる言葉があれば、民族間の対立もなくなると考えて、1878年弱冠19歳の時に人造言語『エスペランド語』を発表したが、現在では殆ど使われていない。

言語はそれを使う人々の文化と共に発展するものであり、単なる情報の伝達手段ではないことが、実証されたようなものだ。逆に言えば、現在、世界中で何百という少数民族の言語が、その文化と共に消滅しつつあるのが、何と悲しいことか!。英語だけが残されるべき言語ではないのだ。

Cキュウーリー夫人(1867〜1934)は、地図上から抹殺された祖国ポーランドの復活に祈りを込めて、夫妻で発見した新原子(原子番号84)をポロニュームと命名した。国家の名前が付いている原子には他にアメリシウム(同95)があるだけだ。

Dヨハネ:パウロ2世(第264代法皇)は、456年ぶりの非イタリア人で且つスラヴ世界出身では初めての法皇だ。

E杉原千畝(リトアニア領事)は、ポーランドから来たユダヤ人に日本政府には無断でビザを発行した。ポーランドとリトアニアは、かつては同一国だった。今でも隣国同士である。氏の顕彰碑が最近になって、やっと出身地である岐阜県にできた。

[3] 車窓から

   ポーランドが平原の国であることは、バスでの国内移動で鮮明に分かった。前後左右何処までも農耕地が続いている。ブラジル南部サンパウロ周辺の広大な高原の耕地にはなだらかなうねりがあるが、ポーランドの平原には高低差が殆どない。

   寒冷地だからなのか、農作物の出来具合はやや悪い。麦の背丈が低い。しかし、農家の平均耕作面積は日本の10倍もあり、総収穫量には大差がある。農耕地の大きさは1枚10ヘクタール以上。畑と言うよりも農場だ。日本の農家は飛び地となった小さな田畑を何枚も持っているが、ポーランドの農家は一カ所に農地を集めて所有しているのではないかと、推定した。事実を確認し忘れたのだ。
   
   しかし、西欧のような牛や羊等の家畜の大放牧地は見当たらなかった。耕地の形は原則として細長い長方形。農業機械を使うときにUターン回数が減り、作業性が高まるためか?。

   農家は道路に沿って並んでいる。殆どが半地下室付きの地上2階建てだ。地下室は暖房用の石炭置き場や農機具などの物置として使われている。その結果、家の周りに物が溢れず、整理整頓が行き届き綺麗だ。

   道路沿いに時々1ヘクタール位の墓地が現れる。どの墓も管理が行き届き、全ての墓に黄色いお花が飾られている。本物だろうか?。これほど綺麗に墓を維持管理するためには、毎日のお墓参りが欠かせないと思われたからだ。後日、その理由が分かった。花屋で黄色い造花が山のように売られていた。

   ポーランドでは殆どの車が昼間でもライトを点灯。ガイドに『北欧のように、法律で強制されているのですか』と質問。『12〜3月は点灯が義務付けられていますが、その他の季節は自由です。でも最近は夏でも点灯車が増えました』。日本では佐川急便が社内規則で点灯を義務づけたら、事故率が2〜3割下がったそうだ。

   私も点灯を時々試みるが、対向車がライトの消し忘れと勘違いして、フラッシングするので嫌になってくる。『有り難迷惑』とは正にこのこと。子供の頃、覚えた歌を思い出した。『めくらが提灯借りに来た。めくらに提灯要るものか。いえいえそうじゃありません。めあきが私に突き当たる!』(注。今ではめくらと言う単語は差別用語扱いされているが、差別を目的に作られた言葉ではないので、別の言葉に変える意味は無いと思っている)

[4] 現地女性ガイド

   ガイドが素晴らしく綺麗な日本語を喋るので、誰かが『どのようにして、日本語を勉強したのですか?』と質問した。『ポーランド大学の日本語科を卒業後、九州大学大学院で1年間学んだ』と言うので、真偽を確かめるために『福岡市で知っているデパートとか、観光名所を挙げてご覧?』と私が質問した。
   
   『岩田屋・福岡三越・博多大丸・博多井筒屋・キャナルシティ・福岡ドーム。。。』『それだけ知っていれば、確かに福岡市にいた証拠としては十分だ。実は私は九大で航空工学を学んだのですよ』暫し、話が弾んだ序に事前勉強で疑問を感じていたいくつかの質問をした。

『ポーランドでは、7時間昼休み無しで連続して働くのですか?』
『そうです。但し、15分の小休憩があります』
『カトリックの国なのに、妊娠中絶は認められているのですか?』
『医学的な立場から母体を保護する必要がある時などは、認められています』
『牧師は結婚出来ますか?』
『カトリックの牧師は結婚できません。しかし、欧州でもギリシア正教とプロテスタントの牧師は結婚できます』
『欧州の新任牧師の1/3はポーランド人というのは本当ですか?』
『本当です。西・南欧では牧師希望者が少なくなってきました』
『クリスマスの日に家族の人数+1名分の食事を用意するのは、第二次世界大戦で1家族平均1名出た死者への供えであると聞きましたが、本当ですか?』
『昔からの習慣の変形です。ポーランドには自然の国境がなく、遠くからの旅人に一夜の宿を提供する習慣があったのです。ホスピタリティの象徴です』
『ポーランドの国歌の一節には、“未だ滅びず、われら生きる限り”があるそうですが、国歌を歌っていただけませんか?』
『マイクが壊れるかもしれません』と言いながらも、別れ際に歌ってくれた。

   福島のお爺さんが、『あのガイドは脚が長くて美しいですね』と、羨ましそうに話し掛けて来た。『女性は、脚は長ければ長いほど、背は高ければ高いほど、美しく感じるものなのでしょうか?』返事に困ったお爺さんは『??』と、無言。

   私には脚の長さと美とに関係があるのか、ないのか、今尚分からないままである。我が友人のお嬢さんは身長167cmが壁になるのか、なかなか縁談が纏まらない。身長にも程々というものがあると、爾来、考えるようになっていた。

[5] ワルシャワ

   @朝の散歩

   ポーランドのほぼ中央に位置するワルシャワは1596年、クラクフからの遷都以来の首都。第二次世界大戦で市街地の9割が破壊されたものの、今では旧市街は昔のままに復元され、観光の中心地として賑わっていた。しかし、せっかく大金をかけて復元した建物の屋上にはテレビアンテナが林立。どうして、あと少しのお金を使って集合アンテナかケーブルテレビにしなかったのか、惜しまれてならない。
   
   ここでのホテルは中心街にあり、しかも連泊だったので、早朝の散歩にも大変便利だった。近くには、ポーランドを南北に縦断してバルト海に注ぐヴィスワ川(1094Km,可航距離941Km,流域面積19.4万平方Km)が流れていた。このあたりでは水量も多く、ケルンで見たライン川クラスだ。
   
   川岸に釣り人が二人。しかし、バケツの中では魚が一匹も泳いでいなかった。公害のせいで魚が少ないようだ。今流行の斜張橋が掛かっていた。吊り橋では鉄塔が必ず2本必要になるが、短い斜張橋の場合は1本で済むため、建設費が安くなるらしい。日本でも、最近はやり始め、名古屋市の臨海部にも出来た。

   ホテル前の大きなサスキ公園には、24時間火が燃え続けている無名戦士の墓があり、若いハンサムな衛兵2名が銃を持ち直立不動で警護していた。ポーランドまではるばる来たとの感慨の記念に、前を通りかかった青年のグループに声を掛け、写真を撮って貰った。

   今回の旅行で、自分自身が写っている唯一の写真だ。実は数年前から急に写真を撮ることへの関心がなくなった。我が死後に残された写真の処置に遺族が困惑する、と考えるようになったからばかりではない。孫と一緒に撮られた写真や結婚式に参列したときのビデオに写った我が姿を見て、愕然としたからでもある。
   
   そこに現れた我が姿は、ひげ剃り時に眺めるいつもの若々しい見慣れた顔ではなく、紛うことなき本物の老人だった。『まだ人間の再生産能力はある』等と、いくら強弁したところで、写真ではごまかしが通用しないことを体験してしまったのだ。

   我が赤いチロリアンハットが印象深かったのか、逆に今度は彼等から、『私達と一緒に、自分たちのカメラで撮らせて欲しい』と、頼まれた。快諾。英語がここ中欧にも普及し始めていた。文字通り中欧の夜明けだ。
   
   A市街地

   復元された旧市街は欧州の何処ででも見かける、中世の名残を感じさせる構成になっていた。広場を中心にして聖十字架教会・王宮などの建物が取り囲んでいた。ワジェンキ公園の野外音楽堂の舞台には、ショパンの像が鎮座していた。またキュウーリー夫人の生家などもあった。

   夕方、タクシーに飛び乗って中心部にそそり立つ文化科学宮殿に出かけた。スターリンが1952年にポーランド人民への贈り物として、4年間かけて建設させた巨大建築物だ。37階建て・高さ234m・延べ床面積12.3万平方メートル・部屋数3288、エンパイアステートビルやモスクワ大学、若しくは仏壇に納める位牌の形にどこか似ているような気がした。

   四辺に殆ど壁がなく吹きさらしとなっている展望台から360度、周囲を眺めると、どこまでも続く平原に驚くばかり。観光客を呼び込むためか、新しい絨毯を張り付けている最中だった。この巨大ビルは地元民には人気がないらしく『ソ連が建てた墓石』と呼ばれているそうだ。

   このビルの正面に巨大な市場があった。蒲鉾型の大屋根で覆われた1万平方メートルはありそうな建物が2棟。その内部は3〜4坪大のブースに仕切られ、英数字で番地が付けられていた。食料品とか衣料品とかの業種を英文字で、数字で店番地を表していた。1棟内に概算500ものブースがあった。

   内部は買い物客で溢れていた。食料品も衣料品も安い、安い!。日本の激安店などが空々しく感じられるほどだ。日本の2/3位の価格に思えた。但し、当然のことながらブランド品などの高級品は全くない。しかし、日常生活にはこれらの商品で十分だ。

[6] ショパンの生家

   ショパンの生家は、ワルシャワの西52Kmの小さな村にあった。バスで約1時間掛かった。ポーランドには高速道路も信号機も殆どない。バスがやっとすれ違うくらいの簡易舗装道路だった。しかし、車の数が少なく、70Kmは優に出せた。両側の並木の若葉が春の到来を感じさせた。雨量が少なく排水対策を考慮しなくても済むためか、道路は周囲の畑と段差が殆どない高さだ。運転ミスが発生しても、不安を感じることもなく畑へ気軽に突っ込めるような安全道路だ。
   
   ショパンの生家はショパン家所有の家ではなく、貴族の館だった。家は緑溢れる大きな公園の中にあった。その家の一室でショパンが生まれたのだ。ショパンが弾いていたピアノは72鍵(現在の標準は88鍵)しかない小さなピアノだった。
   
   20坪くらいの狭い音楽室で青年ピアニストが子犬のワルツ他、ショパンの3曲を丁度30分間だけ弾いた。青年は4曲とも暗譜していた。JTBが演奏を予約していたのだ。ピアノは河合楽器製だった。木造で体積が小さな部屋だったためか、音響効果はいまいちだった。
   
   当公園は有名なのか、子供達が大勢、遠足のように先生と一緒に来ていた。外国人観光客も多く、貸し切りバス用の大きな駐車場があった。世界的に有名になったショパンは祖国ポーランドに、音楽による印税よりも観光収入で貢献しているように感じた。日本には個人の業績のみで、これほど多くの外国人を呼び寄せている観光名所は、残念ながら全く思い出せない。

   また、5年に一度ワルシャワでは『ショパン世界音楽コンクール』があり、日本人も大勢挑戦している。私はその逆の『日本音楽の世界コンクール』ができればと思う。日本人が作曲した名曲百選を発表し、世界の音楽家が東京に集まってその演奏を競う音楽祭だ。日本人音楽家が束になっても、まだショパン一人に敵わないとは何と情けないことか!   

[7]ディナーショー他

   初日の夕食は民族舞踊を見ながらのポーランド料理だった。今回のツアーの料理は昼も夜も殆ど同じパターンだった。簡単な前菜、メインは豚肉などの肉料理か魚料理、最後にデザートが出た。パンは無制限だったが、小さなもの1個で十分だった。

   今回出会った4ケ国の料理の特徴がそれぞれ何処にあるのか、区別できなかった。特別美味しいとも思わなかった。昼・夕食料理に期待するのはもともと、旅行代金から推定しても無理があると分かってはいたが、些か失望した。その代わりでもないが、何時も追加料金でビールを飲んだ。ビールは何処の国でも、その味に満足した。流石にビールの本場であると感じた。
   
   とは言え、朝食には満足した。どこのホテルでも今流行のヴァイキング方式だった。昔はやったコンチネンタルとかアメリカンスタイルの定食メニューは姿を消していた。昼・夕食の代わりに、毎朝2人分くらい食べた。最近日本の観光ホテルでも定食よりもヴァイキング方式の朝食が増えてきたが、世界的な傾向のようだ。
   
   時には無料ワインが出た。ワインの評価は私にはできなかった。飛行機の中の無料ワインとの味の差を感じることもなかった。ある時は、水・ワイン・ビールのいずれかの選択制による無料サービスもあった。ビールは500cc水は250cc。何とビールの方が水よりも安いことになるのだ。

   楽団の演奏に合わせて、民俗衣装で着飾った男女がダンスを踊った。何人かは歌を歌った。民俗衣装は東南アジアでも中欧でも、複雑な刺繍に赤など目立つ色が多く使われ、見た目に美しく感じる。

   我がグループは舞台に近かった。日本人と分かったのか、楽団が『荒城の月』の演奏を急に始めた。私は楽団に感謝の気持ちを表すべく、つかつかと近づき、マイクを借りて日本語で歌った。彼らは喜んで次ぎには、『赤とんぼ』を弾き始めた。席に引き返して私は仲間を誘ったが、誰も立ち上がらなかった。已む無くまたもや一人で歌った。

   席に戻ったらドイツ人と思しき団体が拍手喝采。何時ものことながら、こんなとき、日本人が無反応なのは寂しい。ショーの最後は踊り子と客とが一緒になってのダンスだ。踊り子が客席に現れ皆を誘ったが、我が仲間は尻込みするばかり。結局、私とJTBのガイドが参加しただけだった。私にはダンスの趣味はないが、客としての義務と考えて参加した。

   翌日、同じテーブルで食事をした和歌山の未亡人が、『昨日の民俗衣装は寝巻きみたいだった』と感想を述べたら、同席していた親娘が楽しそうに相づちを打って笑った。私は無性に不愉快になり、言わずもがなの発言。『ポーランドの人達に失礼ではありませんか!。民俗衣装とはその国の人達にとっては、誇りとしているものですよ。たといそのようにお感じになったとしても、それを口にすべきものではありませんね』
   
[8]クラクフ

   ポーランドの中央駅から南部の古都クラクフまでは1等車による300Kmの移動だった。ここの中央駅も欧州各国の中央駅と同じ構造だ。駅全体がショッピングセンターみたいだ。乗降客以外の一般人もホームまで出入りできる。ホームへはエスカレーターで上り下りする。ホーム全体が大屋根で覆われていたため、昼間なのに暗かった。

   電気機関車で牽引されている7両の各客車は、向き合って座る定員6人の個室に分割されていた。各自の大型の旅行鞄は大勢のポーターが客室の窓から出し入れした。そうしなければ、限られた停車時間内では、積み込み作業が終わらない。窓は外からは開けられず、乗客との共同作業だ。荷物は座席の真上にある大きな棚に載せた。日本が誇る新幹線とは違った客室構造だ。
   
   列車の速度は我が目測では130Km前後。新幹線の半分だが、日本の狭軌よりは速い。しかし、保線状況が悪いのか、車両の制振機構に欠陥があるのか、私には原因が分からなかったが、驚くほど大きく揺れた。ここにはまだフランスのTGVは来ていなかった。

   クラクフはポーランド王国の全盛時代、ヤギェウォ朝(1386〜1572)の首都である。当時のクラクフはボヘミアのプラハ、オーストリアのウィーンと並ぶ中欧文化の中心地だった。幸い、クラクフには第二次世界大戦中にドイツ軍の司令部が置かれていたため、破壊を免れ、中世の町並みがそっくり温存されていた。その結果、全市が1978年、世界遺産に登録された。

   それだけに観光資源も多い。中でもバベル城・旧市庁舎・中央広場・聖マリア教会・バルバカン(城砦)が有名だ。

   バベル城は奇妙な建物だ。眼下にヴィスワ川を見下ろす一角に、円屋根・三角屋根など種々の建築様式の建物がくっつきあって建てられていた。建築様式の統一という観念が全くない。ここでは部屋の壁の内装材に、絵が描かれた牛皮が使われていた。今や欧州では殆ど見かけなくなったが、当時の流行だそうだ。

   聖マリア教会の祭壇は一風変わっている。そこには十字架に張り付けにされた、いつもの見慣れたキリストの像はなかった。観音開きのような大きな扉を開くと、扉の内側にも、扉で隠されていた正面にも無数の人物や天使などの木製彫刻がはめ込まれている。扉の開け閉めは人力。正午の開陳に間に合ってよかった。通常、教会には無料で入れるのに、この開陳が間近にみられる一角だけは入場料を取られた。大混雑の中、『教会内と雖もスリに注意』と、ガイドに注意された。

   クラクフの中央広場は200m*200m。バチカン、モスクワの赤の広場に次いで欧州三位の規模。とは言え、前二者は性格が異なるので、実質一位だ。その真ん中にその昔の織物会館が威風堂々と残されていた。その一階には約50軒のお土産物やがぎっしり。中東のバザールの雰囲気だ。ポーランドのバルト海沿岸は世界的な琥珀の産地。煌びやかな琥珀のお土産屋が客の呼び込みに一所懸命。琥珀の中に昆虫などが閉じこめられているものは、人気があり高いのだそうだ。

   広場では楽団と歌手からなる数人のグループが、チップの獲得を目指してがんばっているのを発見。団長とおぼしき人物と視線があった途端、『日本人か?』  『そうだ』と、答えた瞬間、『さくら、さくら』の演奏開始。敬意を表して聞いていたら、演奏終了と共に『はい、チップ』
 
   中欧では音楽大学進学希望者のロシア人が、学費稼ぎに大勢やってくるそうだ。中欧の方がロシアよりも生活水準が上、と言いたいようにも聞こえた。

[9] ヴィエリチカ

   クラクフの南東13Kmには、かつて岩塩採掘で栄えた小さな町があった。物流コストが激減した現在は、輸入塩との価格競争に敗れ、廃坑と化しているが、観光資源としてどっこい蘇った。
   
   定員が倍増となる2階建てエレベータで地下に下りると、そこは別世界。直径40〜50cmはありそうな巨木を隙間なく並べて壁とし、頭上にも同じ巨木を梁状に並べて安全な地下道として観光客を誘導。途中、何度も扉を開け閉めして移動したので『扉がじゃまだ。撤去したら』と提案したら『換気の風圧調整用の邪魔板です。扉を撤去すると、大風が吹きます』我が浅知恵を密かに恥じた。
   
   内部には巨大な空間を活用して、当時の採掘状況が岩塩製のジオラマで復元展示されていた。中でも、牛馬を使った、塩の地上への運搬システム(大型の巻き上げ機)は圧巻だった。
   
   構内の排水ポンプは一種のアイディア商品だった。直径10cm、長さ20cm位で両端が半球状に加工された木材を1m間隔に鎖で繋ぎ、水中に立てられたパイプの中を通し、滑車を介して一周させていた。エンドレスになっている鎖をたぐれば、パイプの中の木材と木材との間に挟まれた水が汲み上げられるようになっていた。この方式だと、真空ポンプと異なり、深いところからでも排水できる。
   
   現地のガイドがこの機構を英語で説明した。JTBの添乗員が通訳したが、このシステムの構造を理解できなかったのか、木片を錘りと説明した後、錘りがあるからつるべが軽く動くと、無意味な説明。やむなく、私が正しい説明で訂正した。最近、この種のお節介をする頻度が増えてきたが、同行者のためと思っている。
   
   途中、岩塩が掘り採られた後にできた大空間に立ち寄る。鍾乳洞のように天井から塩の剣が垂れ下がっている。天井の割れ目からしたたり落ちる塩水が蒸発してできた鍾乳石状の物体だ。危険なので定期的に2m位の長さに切り取られるそうだ。石と異なり成長速度は何と百倍。
   
   大きな教会もあった。壁面には岩塩で作られた装飾品、彫刻などもあった。天井からは岩塩で作られたシャンデリアがぶら下げてあった。壁面にはめ込まれたような『最後の晩餐』の浮き彫りは珍しかった。天井から塩水が落ちるなどして、岩塩で作られた展示物が少しずつ溶けるのが悩みの種。
   
   欧州の岩塩の採取には、石炭のように固体状で掘り出す場合と、水に溶かし、濃食塩水にして汲み上げる方法とがあった。岩塩といっても食塩の含有率は95%前後(不純物の大部分は砂)なので、ここのように固体で取り出しても、結局は一度水で溶かして精製することになる。周辺には廃墟と化したかつての精製工場の煙突があちこちで見られた。
   
[10]オシフィエンチム(アウシュビッツ)

   福島のお爺さんは背広で正装。『観光に来たのに、どうして正装をされるのですか?』『沖縄に出かけたときも正装にしました。このような場所に出かけるときには、正装でなければ死者に失礼と、私は考えています』『う〜ん』と、考え込んだ。私は寒暖対策としての衣料品は準備するものの、それ以外は極力着た切り雀を通していたからだ。

   アウシュビッツとはドイツ語の地名で、ポーランド語ではオシフィエンチム。韓国人は地名も個人名も韓国での発音を日本人に強要するが、奇妙な要求だ。それぞれの国民が覚えやすく、発音しやすい読み方を認めるべきだ。

   アウシュビッツはクラクフの西54Kmにある小さな町だった。強制収容所は互いに2Km離れて2ヶ所あった。小さい方は28棟からなり、収容所はナチスがユダヤ人に建てさせた煉瓦造りの立派な建物だ。中には遺品が山のように残されていた。収容所入り口のゲートには『働けば、自由になれる』との有名な標語が掲げられていた。

   もう一方の収容所は大平原の一角、1.75平方キロメートルの広大な敷地に300棟以上の木造収容所が整然と建てられていた。傍らには鉄道の引き込み線が残っていた。ユダヤ人たちが貨車で運ばれてきた終着地だ。現在はバラックの殆どは撤去され、暖房用の煉瓦の炉と煙突が碁盤目状に墓石のように残される一方、歴史的な記念碑としていくつかの建物が整備保存されていた。

   聞けば案内人の34歳の日本人は東京外大でポーランド語を学び、給料はポーランド政府持ち。ポーランド語の本の翻訳が副業だった。『見学中には笑い声を出すな、帽子を取れ、静かにしろ』などと、言わずもがなのお節介が耳障り。
   
   彼は小声でしかも暗い口調で説明するので、段々と息苦しく感じてきた。『罪なきユダヤ人がナチスに虐殺された。世の中にはその原因の一端をユダヤ人側に求める一派もあるが、その真偽はみなさん一人一人が考えてほしい』とお説教じみた態度で終始説明した。直接の加害者でもない日本人がガイドに説教される謂われはないので、次第に不愉快になってきた。

   『なぜユダヤ人の悲劇の話だけをするのですか?。何の罪もないジプシーが40万人も虐殺されていますね。そのことに触れないのは公平な説明とは受け取り難いですね』と、私。『2年前にジプシー館がすぐ近くにできました。そこのご案内はお客様の場合、予定には入っておりません』本当かな?と思った。どのガイドブックにもジプシー館については触れていないからだ。それに、質問されてから説明する態度にも不満だった。
 
   『欧州でユダヤ人が嫌われたのはキリストを処刑したからだとの説もありますが、それ以前からユダヤ人は他民族から嫌われていますね。紀元前13世紀、モーゼに率いられてエジプトから脱出したり、バビロンの捕囚(BC586〜538)があったり。直近の出来事だけでユダヤ人とナチスとを対比させた解説だけではなく、ユダヤ人の有史以来の歴史的な評価に関する、あなた自身の見解も聞きたいですね。』

   彼は『みなさん方、一人一人が考えてください』と言って、直接答えるのは避けたので、『あなたは歴史の語り部として、ポーランドのこの地に骨を埋める覚悟ですか?』と質問すると、『そんな気は。。。』と言って答えを濁した。所詮、気楽なアルバイト稼業をしているだけなのだ。
   
   今はナチスを叩きイスラエルを支援するのが世界の潮流になっているため、その潮流を盾にして恰も自分の熟慮した意見であるかのように発言することは、大変無難だ。こうした態度はあらゆる世界に溢れている。

   北朝鮮の国民は本心とは無関係に政府の方針を礼賛している。日本では旧石器時代の捏造(ねつぞう)問題がやっとばれた。学会の権威が認めると、その成果を否定するのが如何に難しかったかの生きた例だ。マスコミに登場する種々雑多な事件に関する報道も、主流となった意見に沿った解説をするのが、サラリーマン記者としては一番無難なため、全員がおかしな結論に向かって走り始める。

   かつて日本ではバブルの頃に、一流企業の経営者が殆ど同じ誤りを犯した。株や土地を買わない経営者は馬鹿呼ばわりされ、一斉に投機に走った結果が今日の不況を招いた。トヨタ自動車会長の故・花井正八さんは素晴らしいことを言われた。『株での財テクは当社では御法度。本業が疎かになるからだ』

   私は海外で、日本人ガイドの解説に失望することが多い。単に言語を学んだだけに過ぎない人が、その国の文化や歴史などのあらゆる事柄に関して、その国に関して熟知した権威のように発言する場合だ。そんな時には彼等の無知さ加減を同行者にも判らせるような意地悪質問をする、いつもの悪い癖がつい出てしまうのだった。

[11]ユダヤ人の課題に関する私見

   ユダヤ人はナチスに嫌われただけではない。世界史を紐解くと、紀元以前から嫌われている。イスラエル人はエジプトでは捕虜同然の扱いを受けていたが、モーゼに率いられてエジプトを脱出したのは紀元前13世紀の頃である。
   
   また、ユダ王国が新バビロニアのネブカドネザル2世に滅ぼされたとき、多くの住民が捕虜として連れ去られた。この時のバビロンの捕囚(BC586〜538)を解放したのは、新バビロニアを滅ぼしたペルシアのキュロス2世である。単にイエス・キリストを処刑したからキリスト教徒に嫌われているだけではない。

   何故ユダヤ人(イスラエル人)が他民族や他の国家から嫌われるのか、そこが解明されなければならない。その根源はユダヤ教にあると思う。我が座右の愛読書、大学受験参考書・吉岡力の詳解世界史(旺文社・1989)から引用すると

   『ヘブライ人は初期の頃は多神教であった。その後、エジプトで唯一最高の神としてエホバを信じるようになり、バビロンの捕囚時代に新バビロニア文化(石松注。世界初の一神教、ゾロアスター教を中核にした文化)の影響を受け、エルサレムに戻り一神教としての組織体系を樹立。この体系化と神殿再建を推進した人々をユダヤ人と称するようになり、前5世紀に入ってユダヤ教が成立した。

   ヘブライ人の間には、古くから神に選ばれた僕(しもべ)メシアが現れて地上に神の国を建て、人類を救済するという思想があった。彼等が新バビロニア・ペルシアなど大国に支配される悲運のなかで、預言者イザヤ・エレミア・エゼキエルが、次々に現れメシアの出現の近いことを伝えた。この思想は次第に強い政治的色彩を帯び、ついにはメシアの出現によって異教徒が征服され、ユダヤ人が世界の支配者となるという信念が生まれた。

   イエスの時代のユダヤ教は一部で著しく民族主義・形式主義的になっていた。即ち、ユダヤ人だけが神の選民で、『神の国』を実現しうると考え、あるいはユダヤ教の指導者であるバリサイ人のように、律法をただ形式的に守ることが第一義であると考えた。

   これに対して、イエスは、自らヘブライ人の伝統的な信仰や律法を重んじながらも、精神よりも形式だけを重んじるようになっていたユダヤ教の指導者達を鋭く批判した。

   ユダヤ教の指導者達は、イエスの痛烈な批判に怒り、彼をローマに反逆を企てる者として総督に訴え、民衆もまたイエスの説く神の国の教えが理解できず、失望して離れ去った。そのため、イエスは伝道2年あまりで磔にされた』   

   イギリスで発行された大著『東ヨーロッパ』の中に次の解説がある。

   『ユダヤ教の信仰の根本は、ユダヤ人が神との間で相互の忠誠を契約して神と結ばれた、選ばれた民であるという確信にある。
   
   彼等は自らを他の人々と区別する行為についての正式な宗規によって導かれる民である。ユダヤ人は長い離散と移動の歴史を通して、この意味の文化的アイデンティティを持ち続けてきた。家系(普通は母系による)から自らをユダヤ人と考える人々は、たといユダヤ教のしきたりを守らなくても、一般的にはユダヤ人として受け入れられる』
   
   ユダヤ人は世界のどこに住んでいても、自分たちの信仰と生活習慣を堅持し、ユダヤ人街(ゲットー)と集会所(シナゴーグ・一種の教会)を築き、他の宗教や民族と共存共栄するとの観念に乏しい。キリストを処刑したのも、キリストによるユダヤ人への批判に対する反撃に過ぎない。

   一方、世界最初の大帝国となったアケメネス朝ペルシアは、支配下にあった20余ヶ国に対し、民族の伝統や習慣・信教や言語の自由を保障した。ペルシアが各国に課したのは税金、逆にペルシアが負った責任は安全保障であった。ペルシアが大帝国に成り得たのは支配下の各国民への寛容の精神であり、ユダヤ人が一度も帝国を築けなかったのは、唯我独尊、共存共栄の観念のなさにあったと思っている。

   アケメネス朝ペルシアに見られた共存共栄関係による帝国内の統治方針は、後年のローマ帝国、歴代イスラーム(サラセン・チィムール・セルジュークトルコ・オスマントルコ・ムガール)帝国に継承されただけではない。現在の米国の世界政策も実質は同じだ。
   
   ユダヤ人は前586年にユダ王国が新バビロニアに亡ぼされて以来、第二次世界大戦まで不幸にして独自の国家を持てず、欧州や中東にいわばジプシーのように住んでいた。国家を形成していないことは土地を持たないことと同じである。産業革命以前の国富の主たる発生源は第一次産業にあるが、ユダヤ人にはその機会が無く、金融サービス業で生き延びる他に道はなかった。
   
   彼等は教育に力を尽くし、サービス業で頭角を現せば現す程、不幸にして他民族の妬みを受け、たびたびスケープゴートにされた。シェークスピアの『ベニスの商人』でも、悪役に仕立てられた。ペストの大流行はユダヤ人の仕業との濡れ衣も着せられた。やがてユダヤ人が英米で政治経済力を付け、英米の支援の元『イスラエル』を建国した結果、アラブ各国との摩擦が発生し今日に至っている。英米にしてみれば、体よく欧州からユダヤ人を追放したことと、実質は同じだ。
   
   イスラエルはパレスチナを占領しながら『神から約束されたユダヤ人の土地』と勝手な主張をし、パレスチナを国家として承認していない点に、ユダヤ人問題の本質が見え隠れしている。(追記。本年6月下旬、カナダで開かれたサミットで条件付きながら、ブッシュ米大統領はパレスチナ国家承認の提案をした。紆余曲折は予想されるものの、その成立を願っている)
   
   長い歴史のスパンで見れば、米国の繁栄も低所得者層の人口の激増と共にいつかは頂点を過ぎ、人口が激増しているアラブ諸国の復権が進めば、中東の力関係が逆転しないとも限らない。イスラエル(人)に、共存共栄の観念が育って欲しいものだ。
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チェコ

   陸路チェコへ入国。チェコはEUに未だ未加入なため、国境での手続きに1時間以上もかかった。気の毒なのは国際便の大型トラックだ。延々と数kmもの待ち行列。意図的とは思わないものの、のんびりとした荷物検査の結果、1日も待たされているのではないか?。

   国境の事務所に銀行の窓口がいくつかあった。銀行によって換算レートが2割も違うことが同行者の情報交換で分かり、驚く。1万円分交換した人がぼやくことしきり。私はホテルで現地通貨を買ったら、国境のベストな銀行よりも更に割得だった。今回はビール・水・チップ位しか使途がなく、いつも2〜3千円なので換算レートは気にもしなかったが、幸い実害もなかった。

[1] チェコ概要

@地理

   面積は北海道に近い78900平方kmだが、人口は1030万人と意外に多い。ポーランド同様カトリックの国だ。一口に平坦な中欧とは言っても、チェコには山地もあり立体的で風光明媚、バスからの眺めも美しい。

A歴史

   チェコの歴史は、5〜9世紀に現在のチェコ・スロヴァキア・ポーランドで栄えたスラブ系の大モラヴィア帝国に始まる。その後マジャール人に支配されたスロヴァキアは約1000年間もハンガリーの一部となった。
   
   モラヴィア帝国消滅後、チェコ地方はボヘミア王国として再出発した。14世紀に王位継承者が途絶え、ボヘミアはドイツ帝国に編入され、カレル4世が神聖ローマ帝国皇帝になると、首都になったプラハは中欧の中心都市として繁栄した。

   15世紀初頭、ルターに百年先立ったフスによる宗教革命が起こされたが、ローマ法皇との闘いに敗れ、ハプスブルク家支配がその後300年も続き、沈滞化。

   1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立すると、チェコはオーストリア側に、スロヴァキアはハンガリー側に編入された。第一次世界大戦で二重帝国が崩壊して、1918年にチェコスロヴァキアが建国されたものの、工業国のチェコと農業国のスロヴァキアの呼吸は合わず1993年1月1日、結局それぞれが分離独立した。

B日本との関わり

   ベネツィアグラスと並んで世界的に有名なボヘミアングラスで作られたカップが、大相撲の優勝力士に贈られているそうだ。しかし、私は大相撲の優勝式には関心がなく、優勝カップの贈呈式をテレビで見たことがない。どんな大きさなのだろうか?。

C国歌

   チェコスロヴァキア時代の国歌はチェコ部分として『我が故郷はいずこ』、スロヴァキア部分として『タトラ山上に稲妻光り』の構成になっていた。国家の分裂と同時に国歌も分割され、そのままそれぞれの国の国歌となった。

   かつてオリンピックなどでの国歌吹奏では、チェコスロヴァキアの国歌としては前半だけが吹奏される場合があり、スロヴァキア人には不満だったそうだ。

[2] ビール

   ビールはチェコの代名詞と言われるほどに有名だ。現在日本のビールはピルスナータイプと呼ばれている下面発酵酵母タイプだ。1841年チェコのプルゼニュ地方で開発され、世界中へ爆発的に広まった。それ以前の上面発酵酵母タイプとの味の違いを知りたかったが、飲み比べるチャンスはなかった。アメリカで有名なバドワイザーの技術のルーツも実はチェコだ。
   
   スーパーではいろんな銘柄のビールを買い込み、飲み比べたが、所詮、我が舌での味比べはできず、どれもが美味しかった。日本のビールほどには苦くはなく、炭酸ガスも多くなく、芳醇な味わいが強かった。バスの中に持ち込んだ場合、多少暖まってしまったビールでもやむなく飲んだが、予期に反し何故か美味しかった。
   
   今回の旅行中、どこでもビールを朝昼晩、一日中水分補給を兼ねて飲み続けたが、国ごとの差は感じなかった。以前飲んだドイツのビールとの味の差も感じなかった。つまりは中欧のビールには技術格差も価格差もなく、どこでも満足したのだ。市場価格は中瓶で50円前後、安い、安い!。

[3] チェコで活躍した偉人(チェコ民族とは限らない)

   小さな国にも関わらず、調べると偉人が輩出していたのに驚く。

@フス(1369〜1415)は、ルターよりも100年も先立つた宗教改革の先駆者である。

Aコメンスキー(1592〜1670)は教育界のガリレオとも言われ、『大教授学』を表し、彼が書いた『世界図絵』は教科書として世界各地で使われた。この本がどんな内容なのか判らないが、似たような名前の本が我が国にもあり、我が愛読書の一つだ。

   『日本国勢図絵』は昭和2年に創刊された。最初の頃は2,3年間隔だったが、昭和29年からは毎年改訂版が刊行されている。このデータブックは東京天文台が毎年発行している『理科年表』の国勢版だ。創刊者『矢野恒太』氏は『青少年に早くから客観的な資料に基づき正しい判断を下す習慣を養わせるためには、統計を利用することを普及しなければならないと考え、本書を世に送った』そうだ。現在は財団法人『矢野恒太記念会』が、その意志を受け継ぎ発刊し続けている。

   岩波新書の『日本経済図説』と『世界経済図説』は大内兵衛氏他が刊行し続けた本である。見開きの左ページに統計図表を、右ページにその簡潔な解説が加えられている。私はこれらの本にも刺激・影響され、科学であれ、工学であれ何でも極力、考察対象を数式化したり、簡潔なデータに整理し直し、その結果を暗記する習慣が染みついてしまった。学生時代から今に至るまで、友人達から『あなたの話には、いつも数字が出てくる』と、その異常さを指摘し続けられている。

Bメンデル(1822〜1884)は、ブルノの修道院の庭でのエンドウの栽培実験を通じて『遺伝の法則』を発見したが、その理由は誰にも分からず、生前にはその功績が認められなかった。1900に至ってやっと学会で認められた。その後DNAが発見され、その原理が根本的に解明された。

Cスメタナ(1824〜1884)が作曲した『我が祖国』はあまりにも有名だ。1989年11月、ベルリンの壁が崩壊した日、チェコ・フィルハーモニーは全てのコンサートをキャンセルし、音楽堂を公開し、一日中『我が祖国』を演奏し続けた。

   日本には、老若男女の誰もが、その魂を心底揺すられるような歌が少ないのが悲しい。『リンゴの歌』も『異国の丘』も一時は国民の心を捕らえたが、戦後も半世紀を過ぎた今、若い世代からはすっかり忘れられている。民族の魂に火を点け、
誇りを植え付け、カラオケで熱唱したくなるような国民的な歌が欲しい!。『君が代』はカラオケにあるのだろうか、未確認だ。
   
   この君が代は古今集に載っていた短歌(我が君は。。。)が和漢朗詠集で(君が代は。。。)と修正されていたものを歌詞として採択、宮内省の伶人林広守が作曲し、明治13年に国歌として制定した。明治維新の頃、政府は欧米各国には国歌があることに気付き、急いで制定したものだ。天皇制の本質も変わったにも拘わらず、国民の誰もが愛着を持てる国歌を新制定する事は、憲法の改定と並んで我が国では絶望的なほどに難しい。

Dフロイト(1856〜1939)は精神分析学者として、知らぬ者がいない程だ。

Eチャペック(1890〜1939)は人造人間の概念を発表し、ロボットと名づけた。但し、彼のロボットは人間の形をしていたので、産業界で今日大量に使われているロボットは、インダストリアル・ロボット(産業用ロボット)と呼ばれて、人造人間とは区別されている。

Fスポーツ選手も多彩。人間機関車と言われ、ヘルシンキ・オリンピックで優勝したマラソンの故ザトペック、東京オリンピックの体操のチャスラフスカ、テニスのマンドリコーヴァやナブラチローヴァ。個人競技には大変強い国民だ。

G考案者は不明だが、14世紀にチェコ人がピストルを発明した。

Hヤヒモスキー・ターラーは16世紀に銀山を掘り当て、そのターラー銀貨が欧州に流通し、オランダ人がアメリカ大陸に持ち込んだ。そのときのターラーが訛ってダラー、つまりドルになった。アメリカの国名も通貨のドルも語源は人名なのだ。

Iレツル。広島の原爆ドームの設計者としてチェコではあまりにも有名なのに、日本人で知っている人が少ないのは何故なのか?。原爆ドームが有名なのは、被爆したがためだろうか?。

Kヤンスキーは血液型を発見。

Lウィッヒテルレはソフトコンタクトレンズを発明。

[4] オロモウツ

   ここもまた、中央広場のある町だった。広場の真ん中には大きな彫刻が台座の上に飾られていたが、大気汚染の影響か、真っ黒に汚れていた。一方、周囲の建物には新しいペンキが塗られ、美しくなっていたのとは対照的だった。
  
   記念すべき世界的な文化財であるからと言って、自然のままに放置し、汚れるに任せておくのは考えものだ。ミケランジェロの『ダビデ像』はフィレンツェの広場に最初は飾られていたが、現在ではその彫刻を展示するための美術館を建て、広場には瓜二つの立派な模造品が飾られているではないか!。

[5] リトミシュル

   小さな街だった。坂を登った丘の上にリトミシュル城があった。四角い建物の壁面がでこぼことしたデザインで覆われていた。壁面の真上には飾りだけに使われている奥行きのない鬼瓦のような三角形のデザイン壁(屋根?)が鎮座していた。これが城と言われても、城とは感じられない形状の建物だ。
   
   城からの眺めは『絶景かな』に尽きる。城の正面の大きな建物の中にスメタナの生家があった。今は博物館だ。欧州には観光資源として整備保存されている有名人の生家があちこちにあるが、貴族の豪邸でもないため豪華さもなく、見たところで何かに感動すると言った体験には繋がらず、私には食傷気味だ。

[6] プラハ

   中世の欧州を代表するかのような街だ。ロンドンやパリはプラハに比べれば新し過ぎ、街を散策する気が起きなくなってしまった。ニューヨークは更に新しく、社会生活を効率的に送るための単なる装置に思えて来た。

@プラハ城

   1617年ハプスブルク王家を継いだフェルディナンド2世は、プロテスタントを領地から一掃しようと決意した。それに抗議したチェコ人貴族が、1618年に神聖ローマ帝国の代理人3人を、プラハ城の窓から投げ落としたことから、欧州全域を巻き込んだ30年戦争が、カトリックとプロテスタントとの国々の間で勃発した。

   窓から投げ落とされた代理人は幸い死には至らなかった。プラハ城のその記念すべき部屋の窓から下を眺めると、さしたる高さではなかった。二階から飛び降りる程度だった。こうした歴史の現場も巧みに観光資源として活用している。翻って日本では、作り話に過ぎない『羽衣の松』や『貫一お宮の松』は観光資源になっても、歴史的な事件の現場は印象が暗く敢えて忘れたいのか、活用されている例は意外に少なくて残念。

A聖ヴィート教会

   プラハ城のなかにある教会。14世紀のカレル4世の時代に建設を開始したものの完成したのは20世紀前半。立派な教会ではあるが、ミラノやケルンの大聖堂に比較すれば、格落ち。
   
B黄金の小道

   プラハ城見学コースの出口近くにある、一方通行の傾斜した短い小道。ロドルフ2世(1576〜1611)が錬金術師を集めて、黄金と不老長寿の薬を作らせた場所との伝説に由来。ガイドは、ここには昔トイレがなく、坂道に黄金の汚物が流れていたことに由来するとの説も紹介した。小道の両側にはおみやげ物屋がぎっしり。
   
Cカレル橋

   カレル4世によって1357年に着工し約60年後に完成した橋。19世紀に至るまでヴルタヴァ川にかかる唯一の橋だった。全長516m、全幅9.5m、橋脚16本、橋の両端には豪華な飾りの塔がある石橋。

   この橋は歩行者天国となっており、観光客で押すな押すなの盛況。欄干には左右各15人合計30人もの聖人の彫像が並んでいる。橋と言うよりも今や屋外博物館の観。橋の上では大道芸人の楽団が演奏し、チップを掻き集めている。
   
D旧市街

   カレル橋から共和国広場までの一帯が旧市街としてにぎわっていた。広場には宗教改革の先駆者であるフスの没後500年を記念して、その立像が1915年に建てられた。

[7] クトナー・ホラ(オプション)

   パック旅行についているオプションには過去何回も失望したので、最近はずっと参加しなかったが、世界遺産があるとのふれこみだったので、今回久しぶりに参加した。半日コースだった。

   ケルンの大聖堂によく似た、鬼の鉄棒のような形の飾りがたくさん屋根に立てられた教会を見学。近くにはかつての銀貨の鋳造所もあった。外から建物を眺めただけだ。しかし、特別の感動は得られなかった。小さな町の雰囲気はどこも大して変わらないことを何度も体験したせいでもあるが。。。

   最近、世界遺産とは名ばかりのものが増えてきたような気がする。世界遺産に何とかして登録し、それを観光開発の手段に使い始めたように感じるからである。同じことがギネスブックの登録問題にも現れてきたように感じる。事業開始時の崇高な理念を忘れた一種の堕落だ。

   今回のツアーでは世界遺産を12ヶ所も見たが、欧州人の単なる懐古趣味で登録しただけで、人類全体の遺産かと問われると疑問を感じさせるような二級品もあった。古い物を大切に保存するのと、世界遺産に登録するのとは別問題だ。

[8] ホラショヴィツェ

   人口が僅か数千の小さな村なのに、ちゃんとした中央広場が復元されていた。細長い芝生の広場を取り囲むようにして、住宅やお土産物やが建ち並んでいた。各家は京都の町屋に似て間口が狭く、奥行きが長い。

   ある農家の屋敷に入ったら、大きな農機具小屋を数人掛かりで修復中だった。農地が広いせいか、大型のトラクターなど、古くはなっていたが一通り持っていた。

   広場には過去の遺物のような、井戸水を汲み上げる手押しポンプが展示されていた。試しに動かしてみたら、ちゃんと水が出てきて、びっくり。花壇が綺麗なお家のお婆さんの生き甲斐は、民族衣装を着て、観光客と一緒に写真に収まる日々にあるようだった。何とのどかな所であることか!。

[9] フルボカ

   緑豊かな丘の上に建つ白亜の城があった。19世紀にウィンザー城を真似て作られた。形がチェコの城としては一風変わっていた。

[10]チェスキー・クルムロフ

   クルムロフは1992年に世界遺産に登録された小さな街である。ヴルタヴァ川が大きく蛇行し、川に囲まれた内側も、川の外側にも迷路のような細くて車も通れないような道が入り組み、お土産物やが並んでいた。川幅は高々30m前後。小さな橋を介して街は繋がっていた。川から見上げる丘の上にはお城があった。

   お城の建物間に谷があるため橋が架けてある。その橋はローマ時代の水道橋のようにアーチを使い三段に重ね、通路の上には三階建ての幅の狭い建物が乗っかっていた。下から見上げると、それ自体、観光資源となる風景だ。

   城から下界を眺めると、立体的な町並みとデザインに凝った建物がいくつかあり、見飽きない。城のお堀には黒い熊が何故か放し飼いにされていた。ガイドに
『あの熊は、動物学的に何か特徴があるのですか?』と聞くと『普通の熊です。昔からの習慣で、飼われています』

[11]チェスケー・ブディヨビツェ
   
   ボヘミア王国の勢力拡大に努力したプジェミスル・オタカル2世が1265年に建設した王立都市だ。16世紀には塩の取引、醸造業、近郊で取れる銀の集積所として最盛期を迎えた。オーストリアのリンツとを結ぶ欧州で初めての鉄道馬車軌道が施設され交通の要所ともなった。

   しかし、そんな過去の歴史よりもこの町を有名にしたのはビールにあった。この町の名前を英語読みにするとバドワイザーになる。つまりはバドワイザービールの発祥の地だったのだ。

   この町の中央広場を取り巻く建物の一階の広場側は、柱ワンスパン分だけが歩道として解放されていた。雨が降っても歩行者は困らない。台湾の都市でも同じ試みがなされていたが、台湾では暑さよけも兼ねていた。

[12]テルチ

   1530年の大火によって消失した木造建築の街を石造りで再建した時に、市長はユニークな方針を示した。『中央広場に面した建物の様式はルネッサンスと初期バロック方式に。但し玄関のデザインは家主の自由』

   各人の涙ぐましい工夫が随所に見られる、美しい街だ。一軒一軒の正面の形は異なるが、高さは3階建てで揃っている。各家の一階はアーチが三個連なりその内側の柱ワンスパン分が歩道として開放されていた。家の幅は狭く奥行きが長い設計にしてあり、その結果として、広場に面した総戸数を増やすことができた。ここもまた世界遺産に登録されている。
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スロヴァキア

[1] スロヴァキア概要

   @地理

   面積は九州よりも一寸大きい49000平方km、人口はチェコの半分539万人。こちらもカトリック中心の国だ。首都はブラチスラバだが、日本人にはあまり知られていない。

   中欧では珍しいほど山が多くて、低地が少ない。とは言え、スイスほどの山岳国家ではなく、最高峰ゲルラッハは2650mである。オーストリアとの国境を南下したドナウ川はスロヴァキア国内で南のドナウ川と北の小ドナウ川とに分岐し、約100km下流で合流している。

   この間のドナウ川に挟まれた大きな中州を『リィエ島』と呼んでいるが、地図で目測すると1000平方kmもありそうだ。欧州最大の内陸島かもしれない。平野の少ないスロヴァキアでは貴重な大農地だ。

   A歴史

   現在のスロヴァキアには、紀元前500年頃から遊牧民のケルト人が移り住んできた。その後種々の民族が移住してきたが、9世紀の初めにスラブ人が『大モラヴィア帝国』を樹立し、スロヴァキア地方はその中核となり、ブラチスラバは帝国の政治・経済の中心地として繁栄した。

   しかし、906年に大モラヴィア帝国がハンガリーのマジャール人によって滅ぼされた後、何と約1000年間もスロヴァキアはハンガリーに支配された。第一次世界大戦でオーストリア・ハンガリー二重帝国が崩壊し、1918年にチェコスロヴァキア連邦が成立した結果、スロヴァキア人は自由を手にしたかに見えた。

   ところが連邦とは名ばかりで、スロヴァキア人は独自の民族としては、チェコスロヴァキア連邦内では認められないばかりか、先進工業地区のチェコ人による、農業地区のスロヴァキア人支配が発生し、チェコ人に対する反感や不満は蓄積された。その上、両民族は歴史的に見れば同一国民であった期間は殆どなかったも同然だったから、連邦の分裂は自然な成り行きだった。

   かつての英領インドは戦後、ヒンドゥー教徒中心のインドと、モスレムの東西パキスタンとに分離したが、程なく後者はパキスタンとバングラデシュへと更に分裂した。後者に共通していたのは宗教だけで、民族も歴史も違う上に、西パキスタンによる東パキスタンへの支配強化が、東パキスタン人の不満を高まらせ、結局それぞれが分離独立した事情に似た一面が、チェコスロヴァキアの破綻原因にもあったようだ。

   1989年のソ連崩壊後、スロヴァキア人の間に独立の気運が高まった結果、1993年1月1日にチェコとの連邦は解消され、スロヴァキア共和国が成立した。

[2] ブラチスラバ

   ブラチスラバにも歴史の上では輝かしい一瞬があった。1536年に当時のハンガリーの首都ブダがオスマントルコ帝国に攻め落とされたときから1784年まで、ブラチスラバがハンガリーの首都となっていたのだ。

   @ドナウ川

   今回のパック旅行にスロヴァキアが組み込まれていた動機は、前日の宿泊地であるチェスケー・ブディヨビツェから翌々日の宿泊地であるハンガリーのショブロンまでのバスでの走行距離が440kmもあるため、途中のブラチスラバを中継地として選んだのではないかと思う。何しろ、ワルシャワ・プラハ・ブタペストなどに比べれば一国の首都とはいえ、観光都市としてはそれほど有名ではなかったからだ。

   ともあれ、当日の350kmに及ぶバスでの移動で疲れ果てた頃、ブラチスラバに到着。待望久しかったドナウ川が視界に入ってきた。最前列に座っていた私は思わず、『ドナウ川が見える』と叫んだ。さすがに欧州第二の長さを誇る大河だ。欧州ではライン川とドナウ川は東西の大河として並び称されているが、ライン川の長さ1320km、流域面積22.4万平方kmに対し、ドナウ川は2860km、流域面積は実に81.7万平方kmもあり、両者には大差がある。

   私にはドナウ川には特別の思い入れがあった。今から丁度50年前の昭和27年、中学2年の音楽の教科書にイワノビッチ作曲の『ドナウ河の漣(さざなみ)』があった。当時の音楽の先生(珍しいことに男性)はこの曲がよほど好きだったのか、授業開始時にはいつもこの曲を演奏して私たちに聞かせてくれた。
   
   『夕べとなれば、美しく。。。。』と言うメロディは今なお、脳裏に刻み込まれている。途中から急に坂道を駆け上がるように音程があがり、かつ楽譜が密集していて、ピアノを弾くには難しそうな所があった。先生はその部分を得意げに体を少し揺らしながら弾かれていた。そのとき私には、ドナウ川のダイナミックな流れがはっきりと連想されたのだ。

   丘の上からはドナウ川が見下ろせた。風がほとんどなく、漣の代わりに鏡のように真っ平らな水の流れがそこにはあった。ここにも大きな斜張橋が架かっていた。主塔は工事の楽な岸辺にあったためか、橋には対称性がなく変な感じだった。

   橋を渡った対岸には鉄筋コンクリート製の新興集合住宅街が延々と広がっていた。それらの風景は世界各地に戦後建てられた住宅街と全く同じ景観。中世の趣は全くない。煉瓦や石造りの耐久性のある中世風の住宅建設はコストが高すぎるのだろう。その少し先はオーストリアであり、生活水準に大差のあるウィーンまでは100kmもない。

   Aブラチスラバ城

   ドナウ川のほとりにある丘の上に立つ直方体の城だ。形は城と言うよりも百貨店みたいだ。建物の四隅には四つの塔が不自然に付け加えられていた。

   オスマントルコの侵攻に備えて防備が強化された。眼下にドナウ川があるにも拘わらず、城内には深井戸が掘られた。井戸の底はドナウ川の水面よりも下だ。
                               上に戻る
ハンガリー

[1] ハンガリー概要

@地理

   面積はチェコよりも一寸大きな93000平方km、人口は東京都よりも少なくチェコと殆ど同じ1011万人。ドナウ川が国土をほぼ2分割するが如くに南北に縦断して流れている。国内には欧州最大の湖であるバラトン湖(596平方km)がある。最大と言っても琵琶湖(694.5平方km)よりも小さく、しかも水深はたったの2〜3mしかない。つまり欧州には無数の小さな氷河湖はあっても、面積の大きな湖は何故か少ないのだ。

   ハンガリーもまた平原の国だ。ハンガリーの最高峰ケーケシュ山は標高僅か1014mに過ぎない。従ってハンガリーには水力発電所がないそうだ。
   
A歴史

   ハンガリーの歴史は2000年も遡れる。紀元前14年にはローマ帝国が居留地を建設しドナウ川以南を支配。5世紀後半に西ローマ帝国が崩壊した後、周辺から諸部族が侵入してきたが、ウラル山脈南部から移動してきた遊牧騎馬民族であるマジャール人が896年(読者よ、この年号の数値は、後述するように大変重要だ!)にマジャール国家を樹立。

   マジャール人はフィンランド人と並んで欧州では数少ないアジア系の民族だ。赤ん坊に青い蒙古斑があるとの説もあるが、現地ガイドは見たことがないと否定。私の目には黄色人種としてのアジア人と言う印象は全くなく、中欧各地の住民との区別はつかなかった。

   それにつけても奇妙に感じるのは、欧州各国の民族(ゲルマン・スラヴなど)のルーツは判で押したようにウラル山脈周辺からと、漠然と書かれている解説書が多い。まさか、そこで人類が発生したわけでもあるまいに!。そのまた昔のルーツに触れないのが不思議でならない。

   10世紀末にイシュトヴァーンはマジャールの諸部族を統一し、キリスト教を国教とした結果、ローマ教皇により紀元1000年にハンガリーの初代国王として承認された。

   13世紀には蒙古(タタール人)が来襲、1526年にはオスマントルコに敗れ、1541年にはドナウ川を境にして、オスマントルコ帝国とハプスブルク家により分割支配された。トルコ撤退後、1689年には全土がハプスブルク家の支配下となった。

   何度かの独立戦争の結果、1867年にオーストリア・ハンガリー二重帝国が成立し、自治権を獲得。その後、第一次世界大戦でドイツと共に二重帝国側が敗北した結果、幸いにもオーストリアから完全に独立できた。

   とは言え、第二次世界大戦では再びドイツ側について、またもや敗北。結局1949年にハンガリー人民共和国として社会主義陣営に組み込まれた。

   1956年共産主義支配に反対する中欧最初の事件となったブタペスト市民の蜂起は、ソ連軍の鎮圧で失敗。1989年のソ連崩壊後の1990年に至って、やっと『ハンガリー共和国』として、真の独立を確保した。紀元896年の建国以来かなりの期間は、列強の支配下に気の毒にも甘んじさせられていたのだ。

[2] 偉人

   小国ハンガリーにも、世界的な偉人や話題提供者が多い。作曲家のリスト、電子計算機の発明者はフォン・ノイマン、水爆開発者はエドワード・テラー、インテル社元社長はアンドリュー・グローブ、世界的な財テク者として著名を馳せたジョージ・ソロスも元を辿ればハンガリー出身者だ。
   
   ノーベル賞受賞者数に至っては人口比で日本の10倍以上。ビタミンCを発明したアルバート・セントジェル等12名もいる。ボールペンや電話交換機、一昔前に大流行したルービックキューブもハンガリー人の発明だ。

[3] ショブロン

   この日のホテルは中央広場に面した一等地にあった。広場に面して大きな時計塔や教会もあった。教会の鐘楼には到着が一瞬遅れて登れずのまま。広場に面した建物にせっせとペンキを塗っていた。塗る前と比較すると美しさは歴然。
   
   中欧が旧ソ連から解放されて10年余。やっと中心街の建物の美観回復工事をするまでに、余裕が出て来たのだろうか。しかし、広場から500m圏内を散歩したが、繁華街もなく、人通りも少なく、黒ずんだ古い建物ばかり。

[4] フェルトード

   この町のエステルハージ宮殿は、別名ハンガリーのベルサイユと称されているが、国王ではなく大貴族の館である。18世紀初頭から70年かけて作られた巨大な館だ。建物よりも庭木に一層の特色があった。回転放物面を伏せたような形に剪定してあった。よほど強い刈り込みに耐える木なのだろう!。表面全体は小さな葉でびっしりと覆われている。上から下まで隙間なく枝分かれし、枯れ枝が見つからない。

   国王が住む宮殿ならいさ知らず、当時の貴族が個人として何故こんなに大きな家を必要としたのか不思議でならない。我が周りの庶民は定年後、『大きな家は固定資産税やエネルギー費の無駄、掃除が大変。子供も出払った今、使っている部屋は食堂兼居間と夫婦の寝室だけになった』と言うのが定番なので、昔の貴族の人生観が想像できないのだ。第一、建設に70年もかかっていては、完成する前に死んでしまうことになる!。
   
   1945年に貴族制度が廃止され、この大邸宅は国家に接収された。ソ連の崩壊後、昔の持ち主に返還しようとしたら、『要らない』と言われ、今は博物館となり、観光資源として役立っている。今や観光客が世界各地から殺到しているドイツのノイシュバインシュタイン城に似た貢献だ。
   
   愛知県にある犬山城は成瀬家の所有物とは言うものの、入場料だけでは維持できなくなり、市に補助を求めているそうだが、諦めが悪い。高値で買い取ってくれるのを待っているのだろうか?。早く、寄付すればせいせいするであろうに。過去に遡れば、建設費は所詮、庶民の汗から生まれた年貢ではないか!。

[5] ドナウベント地方の3都市

   ドナウ川はスロヴァキアとハンガリーの国境に沿って東に流れ、ハンガリーのほぼ真ん中で直角に曲がって南下している。この地点をドナウベントと称し風光明媚な場所である。

   川が曲がるには一目瞭然たるちゃんとした理由があった。山塊にぶち当たり曲げられたのだ。かつてここで水力発電所の建設が始まったが、基礎工事に着手した直後、反対運動のため中止された。波止場のようになったダムの基礎の一部が残されていた。平原の国、ハンガリーの唯一の本格的な水力発電事業はかくして幻と化した。

   @エステルゴム

   ドナウベントを眼下に望むこの地は、初代ハンガリー国王が紀元1000年、ローマ法皇から送られた王冠を戴冠し、ハンガリー王朝の幕開けとなった歴史的な町である。このときハンガリー人は、それまでの原始的な民俗信仰からキリスト教へと改宗させられた。

   ローマのパンテオンを連想させるような形の、ハンガリー最大の大聖堂が見晴らしの良いこの高台に、1822〜1869年にかけて建設された。地下の納骨堂からの高さは100m。ドームの直径は53.5mとJTBのポケットガイドには書いてあるが、この数値には疑問を感じた。世界最大の石造ドーム建築パンテオン(43.3m)に比べ遙かに小さく感じたからである。我が推定では、『2』と『5』を間違えた23.5mの誤植だ。

   私にはあちこちで既に見飽きた大聖堂の類よりも、眼下に蕩々と流れるドナウ川に思いを馳せた一時が、遙かに強い記憶となった。

   Aヴィシェグラード

   狭いいろは坂を登って行くと、ドナウベントを直下に眺められる絶好の場所があった。直角三角定規の角のようにドナウ川が曲がっていた。
   
   今回の旅は一日の延べ走行距離が300Kmを越える日も多く、普通はトイレ休憩と称してお土産屋に立ち寄ることが多いが、中欧には手頃な立ち寄り場所が少ないためか、この種の小さな景勝地や田舎町に立ち寄る場合が多かった。

   Bセンテンドレ
   
   この町にも立ち寄ったはずなのに、何故か何一つ思い出せない。疲れていたのか、老化のせいか?。

[6] ブタペスト
   
   ハンガリーの首都ブタペストは2000年の歴史を持つオーブタ、1000年のペスト、750年のブダが1873年に合併してできた。人口は約200万人、中欧最大の街だ。伝染病のペストとは無関係な名前だ。一説によれば欧州では、平地のフィレンツェ、海辺のベニス、丘陵地のブタペストが美しさで有名だ。

   かつては『東欧のパリ』『ドナウの真珠』『ドナウの女王』とも言われ、その景色が世界遺産に指定されているブタペストは、なるほど美しかった。美しさの根源は地形にあった。パリは『フランスのブタペスト』と称されるべきだ。

   丘(ブダ地区)とドナウ川と平原(ペスト地区)から構成される立体的な地形を生かした歴史的な建造物は、どこから見ても絵になりそうだ。パリは平坦すぎて、地形に立体感がなく街角に立つと、目の前の古びた建物しか視界に現れず、格別の美は、私には感じられなかった。

   ブタペストの建物は石や煉瓦を主体とし、自然色の屋根や壁からなる低層の建物は街路樹や公園の木々の緑と組み合わされて、目に優しく感じる。高層ビルが林立する戦後の世界各地の大都市では建物に樹木が埋没し、無味乾燥に感じられてならない。

   また、丘の上から市街を眺めたとき、建物の形が美観に大きな影響を与えていることに、嫌でも気付かされる。ブタペストに限らないが、中欧では屋根が平らな陸屋根は殆ど見かけず、大部分が傾斜のある屋根で構成され、オレンジ色の屋根瓦に統一されていて、周辺の緑との組み合わせが大変美しい。街によっては屋根の角度まで統一されている。アテネやパリでは陸屋根が多く、上から眺めると,色彩と形状美に乏しいことが自然に判る。

   地下鉄はハンガリー建国一千年記念事業として1896年に欧州大陸初、ロンドンに次いで世界では二番目に開通した。こんな事実を知っている人は意外に少ない。とは言え、まだ3路線しかない。

   @マーチャーシュ教会

   1255〜1269年に建設された教会だが、1470年にマーチャーシュ王の命で高さ88mの尖塔が増築された。その結果、教会の名前は王の名前に変更された。ここでは歴代の王の戴冠式が行われたため、『戴冠教会』とも言われている。

   1541年にブダがオスマントルコに占領されると、モスクに改装された。その結果、壁面はイスラーム風の幾何学模様と植物を模様化した図柄(アラベスク、後年の英国人工芸家ウイリアム・モーリスの作品に似ている)で覆われている。イスタンブールにあるアヤソフィア教会のモスクへの改装と同じだ。1686年にトルコ軍が撤退した後はカトリックの教会に戻ったが、壁面はモスク時代のままだ。
   
   A漁夫の砦

   ドナウ川の眺めがすばらしい場所にある。漁師のギルドがこの付近の城壁を守っていたことが名前の由来。カタツムリのような螺旋階段がある展望台の屋根は円錐形だ。その傍らには、ハンガリー初代国王、イシュトヴァーンの像がある。

   B英雄広場

   1896年に建国1000年を記念して作られた広場。歴代の重要人物の彫像を半円形の列柱が取り囲む。全体としては都市空間の中の大きな空き地の観がするが、開放感を感じた。

   Cゲレルトの丘

   ドナウ川岸にそそり立つ標高235mの丘。蕩々と流れるドナウ川を眼下に、周辺に広がる市街が美しく眺められた。工場らしき建物が殆ど見あたらなかった。

   D国立歌劇場

   外から、外観を見ただけだが、パリ・ミラノ・ブエノスアイレスで内部も見学した世界三大オペラ劇場に決して負けない壮大な劇場だ。1884年に完成したが、欧州の小国に過ぎなかった筈のハンガリーですら、当時の日本と比べ如何に豊かであったのかと思うと、うたた今昔の感に耐えない。

   E王宮

   ドナウ川に面した高さ60m、長さ1.5kmの平坦な岩山に建つ巨大な城。第一次、二次大戦で破壊されたものの、1950年代に修復。現在は国立図書館と博物館として使われている。

   外から眺めたただけだが、同国では国会議事堂と並ぶ屈指の大型建造物で、格式を感じる。チベットのラッサの王宮(まだ未訪問)に遠景が似ていた。日本には、この種の荘厳さを感じさせる建物が何故か少ない。ガラスと鉄の機能第一主義の建物は、オフィスにはなり得ても、観光資源にはなれそうにもない。

   F鎖橋

   ブタペストのドナウ川には鉄道橋2本を含めて8本の橋があるが、第二次世界大戦でソ連軍の進攻防止のため独軍により全部破壊された。しかし、現在は全て昔の形で再建されている。それぞれにユニークな由来があり、個性的な名前が付いている。

   鎖橋はブタとペストとを結んだ最初の橋である。橋と言うよりもそれ自体が堂々たる建造物で、両端に大きなライオンの像が設置され、最も形が美しい橋と言われ、観光名所にまで昇格している。

   G国会議事堂

   欧州で一番大きな議事堂。と言っても欧州には英国は入らないのだそうだ。幅267m、奥行き118mもある。東京駅よりちょっと小さい程度だ。中央のドームの形と色はミラノの大聖堂に似ている。ドームの高さは896年にマジャール人がこの地に建国した史実を記念して、96m。

   正面の芝生の中を横断していたら、守衛は何とも言わないのに道を歩いていたお婆さんが何やら叫んだ。入ってはいけないらしい。

   H温泉初体験

   ブタペストは温泉がある世界唯一の首都(ガイドブックからの引用。若干疑問があるが未確認)として有名だ。ホテルには温泉プールがあり宿泊客は無料。水着着用の混浴だった。水泳パンツはうっかりして忘れていたが、最近流行のカラーの猿股を履き、何食わぬ顔で堂々と入り込んだ。

   ロッカーの鍵と錠前は一緒にセットして、部屋のカードキーと交換してくれた。日本ではロッカーのキーのみ渡すシステムが一般的だが、こちらは錠前も一緒なので好きな位置のロッカーが使える。所変われば品変わる例だ。

   最初にサウナに入った。乾式サウナだった。先客がいた。モスクワのトラックメーカーのエンジニアだそうだ。体重90Kgの巨漢だ。ちらりと見ると巨根の持ち主だった。サウナで血行がよくなり通常よりは多少大きくなるとしても、だらりとした状態なのに20cm近くに感じた。

   『いずれ、バルト3国とサンクトペテルブルクに出かける予定だ』と言ったら、『来年がいいよ。サンクトペテルブルクの300年記念祭があるから』、と教えてくれた。帰国後、書物を見ると、ピョートル大帝が1703年に西欧化政策の一環として、欧州の精神と建築様式を取り入れた都市の建設を命じた、とあった。

   『ソ連崩壊後、生活水準の低下とやけ酒の飲み過ぎで、ロシア人の平均寿命が急低下したと聞いているが本当か?』『そんなことはない』と否定したが、本当だろうか?。

   25mプールの他、温度の違う大型の浴槽が二つあった。温泉とは名ばかり。硫黄などの典型的な温泉の匂いは全くしないし、ぬるぬるとした温泉水特有の特徴も全くない。単なる温水に感じられてならず、がっかり。地下からお湯を汲み上げているのは真実としても、量が足りずにお湯で薄めているのかもしれない。ブタペストには火山も地震もないそうだから、日本並の温泉は元々ないのではないかと推定。
   
   Iヴァーツイ通り
 
   ブタペストのいわば銀座で日曜天国。地元民が大勢繰り出している。欧州諸国からの観光客との区別が付かない。専門店中心で、大型のデパートやスーパーはほとんどない。

   中華レストランで『Swallow’s Nest』と言うメニューを発見。中欧でツバメの巣とは珍しい。しかし、フォアグラや羽毛の大産地なので、本物かと思って注文したら、麺で作った篭形の巣をフライにして容器とし、その中に八宝菜が入った料理が出てきた!。

   J中央市場

   どこの国でも一番行きたいところは市場だ。その国の庶民の生活水準が評価できるからだ。延べ2万平方メートルはありそうな巨大な2階建ての中に整然と店が並んでいた。見本市のブースのような作りだ。

   野菜や果物、肉の加工品、酒、カジュアル衣料、日用品等あらゆるものが売られていた。ワルシャワの文化科学宮殿前の市場よりも品質がよく、綺麗だった。ハンガリー名物の、貴腐ワインやフォアグラも目立つ位置に飾られており、国内各地で見たどの店よりもこの市場が一番安かった。

   帰国後、ガイドブックで地下にも店があると書いてあるのに気づいたが、後の祭り。当日、2時間も歩き回ったのに、気づかなかった。残念至極。

   K民族芸能ショー

   JTBが用意していたオプションの民族音楽ディナーショーには参加せず、ホテルのパンフレットで選んだ約3000円の民族芸能ショーを予約し、一人で出かけた。観光客で満席となっていた本格的な劇場(300人収容)でのショーだった。およそ30人からなる歌と舞踏と芝居だった。衣装と音楽に西欧や中東とは異なる特色が感じられた。
   
   ディナーショーの参加者に感想を聞くと『普通のレストランで、踊り子6人。1万円も出したのに、つまらなかった』と一言。
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おわりに

[1] 事前勉強

   海外旅行に先立つ勉強で、食わず嫌いのまま、今まで先送りしてきた分野が二つあった。一つは建築様式、もう一つは宗教の分野である。

   @建築様式

   建築様式の用語を暗記するだけでは大した意味はないが、その特徴を深く知ることにより、当時の建築家達の意図がより深く理解でき、結果として先人への畏敬の念もより深まると、今回の旅を通じて初めて真剣に考えるようになった。

   欧州のどこにでもあるような陳腐な中世の建物ですら、ガイドが建築様式に触れる場合が多い。とは言うものの、『この建物は***様式』です、と説明するだけである。その様式にはどんな特徴があるのか、どんな狙いを目的にして編み出されたものなのか、どんな歴史的背景があるのか、いくら建物を眺めても私にはさっぱり判らない。それどころか、一つの建物でも幾つかの様式が重なっているように見える場合すらもあり、混乱するだけであった。

   手元のガイドブックをパラパラとめくるだけで、『イオニア・コリント・ドーリア・ゴシック・バロック・ルネッサンス・ロココ・ロマネスク・バシリカ・ビザンティン』と言った建築様式用語がすぐに取り出せたが、これらの単語も、ガイドの説明と同じように『この建物は***様式』、とガイドブック内の説明文中で使われているだけだ。原稿を書いている人達は、どこかの説明書から孫引きしているだけなのだろうか?

   私には、三角形・四角形・円などのように一目瞭然たる図形ならば、説明不要だが、複雑怪奇な形をした建物の説明に使う様式用語ならば、その定義なり特徴なりをガイドブックのどこかに書いて欲しいと思う。

   次回の欧州旅行の前までには、この建築様式に関して一通りの勉強を済ませておこうと思い至ったものの、適当な解説書を発見できるか否か、些か心配になった。詳解世界史と広辞苑で見つけた、各様式の解説と典型的な建物例は下記の通りだ。しかし残念ながら、この程度の説明では、私に取っては何の説明も受けていないのも同然だ。


イオニア様式:優美軽快、柱には礎盤があり、曲線状の渦形を持つ柱頭に特色。エレク
         テオン殿堂。

コリント様式:楓の葉を飾った柱頭に特色。

ドーリア様式:簡素で荘重。パルテノン神殿。

ゴシック様式:尖頭アーチ。柱と支柱で屋根を支え、壁は薄く、天井が高いパリのノート
         ルダム。

バロック様式:外面装飾に奔放な空想美を追い、絵画的手法で表現内容の複雑性を示
         したもの。ベルサイユ宮殿。

ロココ様式:曲線過多の濃厚・複雑な渦巻き・花飾り・唐草等の曲線模様に淡彩と金色
       を併用。ポツダムのサンスーシ宮殿。

ロマネスク様式:平面図が長十字(ラテン十字)屋根は半円形。柱や壁が厚く、窓が小さ
          い。ピサの大聖堂。

バシリカ様式:平面図が長方形で、屋根が平ら。ローマ時代の公会堂や裁判所。

ビザンティン様式:平面図が正十字(ギリシア十字)で屋根がドーム。ベネツェアのサン・
           マルコ聖堂。

   A宗教

   欧州各国の大聖堂や美術館内の絵や彫刻のテーマは、聖書に求められる例が多く、的確な鑑賞には、聖書の知識が不可避だが、これに関しても今に至るまで手が出ないままだ。聖書は分厚すぎるし、その文中に出てくる固有名詞は無味乾燥に感じるばかりか、多すぎてとても覚えきれない。漢文で書かれた仏典に至ると難しすぎて、最初から読む気すら起きない。それらに比べればアラビア語で書かれたコーランは読めなくとも、手頃な解説書でイスラームの全貌はだいたい判り、取り組み易い。

   取り敢えず、解説書を取り寄せて宗教の勉強に、少しだけ取り組んだものの、嫌になって止めた。キリスト教・イスラーム・仏教とも、2000年以上もの長期間に亘る、人類の厳しい評価に耐えただけのことはあって、処世術としてみればその教義が大変立派であることまではすぐに理解できた。しかし、どの宗教にも納得性の得られない部分が、ただ一つだけだが存在したからだ。『***をせよ。そうすれば死後天国にいける。しからずんば地獄に堕ちる』との押しつけがましい教義だ。

   何故そうなるのかの明白な証拠を論理的に明示することもせずに、一方的に教義を信じ込ませようとする態度は、信者を脅迫しているのと何ら代わりがない。恐らくは、宗祖が教えを説き始めた頃の民衆には通じた布教手段だろうが、科学を多少だが囓った私には、こんなお説教では噴飯ものに感じられるだけだ。私でも『なる程もっともだ』と感じるような、説得力のある布教手段を考えて欲しいものだ。さもなければ宗教界に生きている人達の怠慢さを感じるだけだ。
   
[2]旧市街

   中欧の人たちが旧市街の復元に何故にあれほどまでの情熱を燃やすのか、私には今なお謎のままだ。旧市街の建築様式や技術が真に素晴らしいと自己評価しているのであれば、新市街も同じ様式で建設する筈と思われるのに、今や世界中を席巻している建築技術(鉄筋コンクリートか鉄骨造り)を導入しているだけだからだ。
   
   我が独断と偏見によれば、彼等が長い間、大国に蹂躙されながらも必死になって民族のアイデンティティ、換言すれば無形文化財を守り通して来たのと同じように、旧市街には有形文化財としての民族のアイデンティティを感じているからではないかと結論したのだが。。。そう考えれば、旧市街の景観を復元し、維持するのにコストの要素は二の次になるのも自然な成り行きだし、旧市街に出向いて心安らかに過ごせるのにも納得性を感じてくるのだ。日本人の初詣を年中行事化したようなものか?。
   
   翻って有史以来、殆どの期間は国家存亡の危機に幸いにも出会わなかった日本人にとって、自己のアイデンティティを守るための特別な努力は必要なかったのではあるまいか。民族の象徴としての有形文化財の維持には、伊勢神宮の20年ごとの建て替えで右代表にしていたのでは?と思えてくるのだ。
   
   従って、日本では破壊された建築物が復元された例は大変少ないが、そんなことには何の不思議さもない。僅かばかりある復元例と雖も、大仏殿や延暦寺のような日本を代表するような歴史ある大仏教建築の場合が多く、旧市街の建物ではない。仏教建築だって宗教関係者がお布施を集めて復元した事例は少なく、大抵は一種の公共事業として幕府(政府)が資金を出した。延暦寺の根本中堂を再建したのは徳川家光だ。
   
   その徳川幕府と雖も『一国一城令』を発布して、民族の貴重な歴史遺産を取り壊させた。チェコのような小国であっても、全国に2000もの城が現存するのとは大違いだ。一説(未確認)によれば、我が国に現存する木造のお城はたったの14箇所らしい。また、明治政府が『神仏分離令』を発布した結果、廃仏毀釈運動が起こり、貴重な寺院や経文が破壊されたことすらもあった。

   大阪城や名古屋城に至っては、復元とは名ばかり。民族の歴史の象徴としてではなく、単なる観光資源(見せ物小屋)として、鉄筋コンクリートで外観だけ復元したものであり、馬鹿馬鹿しくて見に行く気すらも起きない。それよりも何よりも、天下の江戸城は結局、復元されず、皇居は近代建築に取って変えられた。況や、旧県庁舎などは見る影もない。明治村に僅かばかりが移築されている程度だ。
   
   日本には、復元してでも守らなければならないほどの建築遺産も少なく、習い性となっていつの間にか官民共に、物を大切にする習慣が消滅してしまったのだろうか?。
   
   ところが、ガイド達に『旧市街の復元家屋はいくら外観が綺麗でも、窓は小さく、エレベータもなく住み心地が悪くて、人気がないのでは?。況や建築当時のまま温存されている古い住宅に至っては!』と尋ねると、異口同音に『違います!。人気があります。内部はリフォームされています』との予期せぬ回答を得て、ギャフン。

   機能重点主義の陥穽に落ち込まされた日本人(私も)は、結局の所、建設と破壊を繰り返したあげく、廃棄物の処理に困り果てるのが落ちなのではないかと、気に掛かる。この風潮はひとり建物だけではなく、日常生活のあらゆる場所に顔を覗かせている。自動車・家電製品・家具・衣料品・雑貨等々。殺伐とした粗大ゴミ捨て場ほど、日本人の価値観の歪みを雄弁に物語っている生きた証拠はないように思えてならない。

   とうとう私も、荊妻の提案に載せられて、28年間使ったシステムキッチン・風呂・洗面台を取り替える約束をさせられた。今秋までには工事を完了すべく、リフォーム5社から合い見積もりを取り寄せたら、何と400〜500万円もすると判った。細々と生きている年金生活者には手痛い臨時出費だ。しかも、まだ使える鋳物製琺瑯の風呂桶を屋上に据え、大きな鉢植えで目隠しすれば、快適な露天風呂になるとの我が会心の着想に、荊妻は猛反対。『使うのは俺だ』と言っても聞く耳もないようだ。ああ。。。

[3]スラムがない!

   アジア・アフリカ・南米の大都市を旅したとき、嫌でも視野に飛び込んでくる巨大なスラム街には大変心を痛めた。国によってスラムの基準は勿論異なる。南アでは電気と水道とが共に引かれていない家をスラムというそうだ。トルコではスラムとは“One  night  building”(一晩で作れるような掘っ建て小屋の意)の別称だ。一般的にはその国の平均的な住宅水準に比べて著しく貧弱な印象を受ける、小さな家を指す言葉のようだ。

   しかし、今回の旅ではバスと汽車で延べ2000km以上も移動したが、スラムといえるような家を殆ど見かけなかった。農村地帯では延べ50坪はありそうな大きな家が多かった。しかも寒冷地でもあるためか、煉瓦なども多用し、窓は二重ガラス戸、暖房完備の頑丈な作りだ。和風の落ち着いた白壁の代わりに、カラートタンを張り付けただけの、日本で一時大流行した華奢な家よりも遙かに重量感があり、外観も立派だ。

   とは言え、プラハの不動産屋で販売中だった新築マンションは50平方メートル前後が主流で、予期せぬ大きさ。価格は所得に連動するのか数百万円。我が国では大都市のマンションは小さいと自嘲気味に評価されているが、中欧の中核都市の一つプラハですら、こと家の床面積に関しては、日本のマンションの平均サイズよりも更に小さく、気の毒にも西欧の半分だ。

   日本にはスラムがないと言われているが、最近大いなる疑問に感じてきた。我が豊田市にも戦後の炭住(筑豊炭田地帯等で見かけた木造の長屋式社宅の略称。10坪クラス)並みの、木造賃貸住宅があちこちにある。新大阪から関西空港行きの電車の車窓からも同レベルの家が散見される。東京の私鉄沿線でも似た風景にしばしば出会う。

   私には、敷地が狭すぎて僅か1台分もの車庫すらも確保できないような家、耐久性が30年にも満たないような安普請の家はスラムに思えてならない。そのように定義すると、空き家も入れれば5千万軒以上もあると言われる日本の住宅の、何と20〜30%はスラムということになる。ああ、情けない!。ドイツ人がウサギ小屋と揶揄したのも無理からぬことだ。一方、同じ定義を中欧に適用すると、5%も無いような気がする。ご同慶の至りだ。

[4] 真のサービス精神が根付くのは何時のことやら

   ある街に有料で登れるタワーがあった。入場は17:30まで、閉館は18時丁度。私達は17:25分に到着した。しかし、帰り支度を既に済ませていた高齢の管理人は頑として、右代表で入場を申し込んだ私に対し、受付の女性に切符を売らせなかった。現地ガイドに現地語で交渉させてもだめだった。17:30になるや否やドアに鍵をかけて帰っていった。彼等はその結果、30分も早く帰宅できたのだ。
   
   社会主義時代に人生の大部分を送った人々は、市場経済を迎えた現在でも尚、国家公務員時代の殿様商売のやり方から完全に抜け切れているわけではないようだ。予約時間にレストランへ到着しても料理の準備が、まま遅れているだけではない。飲み物の注文だけは念入りにメモまで取りながら、ビールなどを持ってくるのはずっと待たされた後になることも多い。飲み物の種類は、ビール・赤白ワイン・ミネラル水・ソフトドリンクくらいしかないので、機内サービスのようにワゴンに予め載せてくれば、注文と同時に品物が渡せるのに。。。
   
   公衆トイレが大変少ない。日本では公衆トイレの代わりに、ホテル・デパート・スーパー・パチンコ屋・ガソリンスタンド・コンビニなどの無料トイレが随所にあるが、その種の無料トイレは勿論、有料トイレも大変少ない。ビールを飲み続けていた私は、大変困った。ある時、トイレを借りるためにガソリンスタンドに立ち寄り、ドライバーが気は心とばかりに、予定外の場所だったが給油をした。しかし、トイレには何と鍵が掛かっていた。交渉の結果、やっと鍵を開けてくれた。
   
   とは言うものの、救いが全くなかったわけではない。ポーランドの岩塩鉱山の洞窟内売店で長蛇の列に並び、生ビールを注文したときである。手持ちのドルを見せたら『お釣りがない』と言って、販売を拒否された。万事窮すとはこのこと。私の手元にはビール2/3杯分のコインしかない。
   
   地底で何としてでもビールを飲みたかった私は、やむなく『ビールをこのコインで支払える分量だけ、売ってくれ』と言ったら、売店のおばちゃんは『まあ、いいわ』と言わぬばかりに、紙コップに並々と注いでくれた。
   
   
   ハンガリーで開かれた『ピクニック計画』を契機として、ベルリンの壁が崩壊し、新生統一ドイツが誕生したとき、10年もすれば東西ドイツの格差は無くなるとの楽観的な報道がマスコミ各紙に溢れていたが、現実は予期せぬほどに厳しく今日に至っても尚、その大きかった経済格差は半減しただけだ。
   
   『慣性の法則』は唯単に力学の世界でのみ成立する原理ではなく、人間の心の世界にも適用できる法則のようだ。我が網膜に映し出された中欧の街並みからは、社会主義の残滓は殆ど感じられなかった。しかし、社会主義時代に叩き込まれ心の奥底深く澱のように沈殿している行動パターンは、高齢者になればなるほど払拭するのは難しいようだ。
   
   とは言うものの、新しい世代は急速に市場経済に順応し始めていた。若い人たちの価値観に、西欧の同世代の人たちとの明白な差を感じることは無かった。あちこちで出会ったあの希望に燃えた青少年達が、それぞれの国の中核世代に育った頃には、中欧各国もEUの一員となり、それぞれの国民が人生の幸せを一層満喫している筈と確信しながら、拙い『中欧の追憶』執筆の筆を措(お)く。
   
   
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