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健康 |
がん、その2回目の挑戦に辛勝(平成19年12月27日脱稿)
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最初の食道がんが平成15年6月に寛解した後もPET・CT・内視鏡・血液検査による経過観察は欠かさなかった。寛解後の正(まさ)しく4年後の平成19年6月に新発食道がんが一度に3個も発見された。その内の小さな2個は同月直ちに内視鏡で切除したが、頚部の大きな1個の治療には陽子線照射を選択。
照射治療の3ヶ月後に待望の寛解のご託宣が出た。二度もの発病に懲りて遂に禁酒(正確には節酒。平均酒量は従来の1/5以下)を決意。更に10年生き永らえられれば待望の平均寿命(日本人男子は79歳)に辿り着ける。今後も油断せずに定期健診を主治医と相談しながら適宜受け続ける覚悟である。
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今回の報告は『がん、その2回目の挑戦』の続きとして、寛解のご託宣が出たのを機会に、気を取り直して纏めたものである。
平成19年9月13日に兵庫県立粒子線医療センターを退院した。帰途JR名古屋駅構内のJR名古屋高島屋に立ち寄り、嬉しさの余り松阪牛の一番高いしゃぶしゃぶを子供達3家族にも振舞うべく、(3,500円/100g)*400g*4セット=56,000円分を購入。精進料理のような病院食から思い切って脱出したかった。
2ヶ月弱の入院中、約30分間の治療時間以外の殆どの時間は退屈しながらベッドで寝て過ごした。読書などで余暇を活かす心境にはどうしてもなれず、さりとて病人とはとても思えない程元気な前立腺がん患者(全患者の半数に近い)のようにゴルフ・テニス・水泳・散歩等に出かける意欲も湧かなかった。
所定の照射治療が終わったとは言え、陽子線治療の場合は外科手術とは異なり、がんが治ったかどうかは放射線治療同様2〜4ヶ月経過しないと分からない。その間は体調を整えつつも不安な日々を送らざるを得ない。
放射線でも陽子線でも照射の目的はがん細胞のDNA等を傷つけて細胞分裂能力を弱めることにある。細胞分裂が出来なくなってもがん細胞が死んだわけではない。人体の構成材料は筋肉等の柔らかな細胞や血液だけではなく骨すらも常に新陳代謝されているが、新陳代謝機能が弱体化したがん細胞の寿命が尽きて、体内に吸収されて消滅するまでには時間が掛かるのだ。
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徐々に社会復帰 |
入院期間中に基礎体力が落ちたことは確実に認識できた。手足の筋肉は使わなければたちまちにして衰退するようだ。転倒などによる不慮の事故を恐れ、一番やりたかったゴルフやテニスへの復帰は10月まで延期した。
体を徐々に慣らすための恰好な対象としては、幸いなことに30年以上も続けていた家庭菜園があった。大根や白菜等秋冬野菜の豊田市での最適播種時期は旧盆明けである。既に3週間遅れになってはいたが諦めずに取り組んだ。
たった20坪の家庭菜園だが生い茂った夏草を取り、キュウリ・トマト・ナスなどの夏野菜を撤去し、苦土石灰・完熟牛糞堆肥・化成肥料を散布しては耕し、畝作りをし、播種を完了するまでには数日間も掛かった。毎日2〜3時間しか働けなかった。暑さと体力不足でへとへとになったのだ。でも、体力が着実に回復していくのを確認できて楽しかった。播種後は毎朝夕の2回、散水を9月末まで根気良く続けた。
10月を期して、体力の総合確認をするため荊妻と共に10月1日、尾瀬へのバス旅行に参加した。旅行社の掲げたテーマは『草紅葉散策』。単なる枯れ草見物ではあったが『ものは言いよう』だ。初体験ではあっても無事にフルコースの散策が出来れば、ゴルフもテニスも出来るはずとの期待を込めての旅だった。
豊田市から栃木・福島・新潟の3県に跨る尾瀬までは高速道路を活用しても片道8時間。団体バス旅行はトイレ休憩が頻繁にありやむを得ないが、私にはNHKラジオ歌謡『夏の思い出』の歌詞通り『遙かな尾瀬』だった。初日の夕方、尾瀬近くの『吹割の滝』と称する景勝地に着いた。渓谷を流れる川の随所に滝が発生し、その周辺の散策コースを2.5Km周遊しホッとひと安心。
翌朝朝早く、尾瀬散策のモデルコースの17.5Kmに挑戦。先頭集団に必死になってしがみついた。人を当てにして歩いていたら分岐点を見落とし2.5Km無駄な散歩。結局、2日目は20Kmも歩いた。これならば、当初の予定通りゴルフとテニスには復帰可能と判断した。
深夜の帰宅だったが、翌日から早速スポーツに復帰した。10月だけでもゴルフは5回(10/10,14,19,21,24)、テニスは雨天(10/27)で已む無く1回中止したが残りの6回(10/3,6,13,17,20,31)は予定通り楽しめた。最初の半月はよたよた、ふらふらしていたが、10月の後半にはいつの間にか治療前の体力に戻っていた。体力はゴルフの飛距離やスコア、テニスの勝敗回数で確認できた。
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過去4年半にわたりお世話になっていた主治医不破先生(元愛知県がんセンター副院長)は去る8月に辞職され、南東北病院(福島県郡山市)で平成20年10月にオープンする陽子線センターの責任者として単身赴任された。
50歳代になったばかりの先生は『医師としての寿命は後15年。何かで成果を上げるには10年は必要だ。今まで放射線医師として働いてきたが、陽子線医療に取り組みたい』との長年の夢に挑戦された。重粒子線(陽子線または炭素イオン線)治療設備の導入は民間病院としては初めて、日本では7番目になる。お世話になった一患者としても先生の、平成の伊能忠敬のような挑戦にエールを送りたい。
兵庫県立粒子線医療センターは所定の治療終了後の患者の経過観察は、患者の紹介元の病院に委ねる方針を謳っている。退院にあたり患者にカルテのコピーのファイル(台帳)を渡し、今後は紹介元のカルテのコピーをファイルした台帳を患者は粒子線医療センターへ郵送。センターではカルテを電子ファイルに転写保存し、台帳を患者に返送。その結果、センターと紹介元は同じ情報を共有でき、まさかの事態の時には両者の医師が相談できる。
私は不破医師に後任の主治医としては『放射線治療科と消化器内科ではいずれの医師が適任でしょうか』と質問した。その結果、『消化器内科』を薦められた。
私は5年前に胃がんを、4年半前に食道がんの治療を終えた後、経過観察の一貫として平成19年5月11日までに7回のPET(後半はPET/CT複合機)を受けた。しかし、一度もがんの疑いは指摘されなかった。それどころか陽子線治療を受ける直前の7月12日に再確認検査として、姫路市のツカザキクリニックでもPETを受けさせられたが、読影医師は我が食道がんを発見できなかった(注。医師の予断を防止するために頚部食道がんの発症は意図的に伏せていた)。
更に、過去延々と愛知県がんセンターで何度か内視鏡による検査も受けていたが、同じくがんは発見されなかった。その間、いつも同じ内視鏡医師を指名していた。同一人物の方が変化の発見力が高くなるはずとの確信からだった。
しかし、6月1日はいつもの内視鏡医師に急用が発生し、急遽代わられた同年輩の河合医師が内視鏡による検査でがんを疑い、生検のために細胞を採取。河合医師から6月11日に新しい食道がんと告知された。
粒子線医療センターを退院後、去る10月22日に初めて愛知県がんセンターへ出かけ河合医師に治療経過や粒子線医療センターの方針を報告後『今回の新発食道がんの発見者は貴方です。不破先生の後継主治医を引き受けていただけませんか』とお願いしたら快諾された。
引き続き私は『がんは寛解した後でも今回のように、新発がんが発生する可能性は生涯に亘り続きます。私は過去5年の体験から、早期発見・早期治療に勝るがん対策は無いと確信。今後も死ぬまで経過観察を続けていただきたいと希望したいのですが・・・』と付け加えたが、それも快諾されて頂けホッと一安心。
早速、次回の内視鏡の検査日を11月5日で予約。CTは大変込んでいたので来年2月25日の予約になった。MRIは緊急性が小さいと判断され、予約は必要時に取ることになった。私は『CTに緊急性があるのならば、撮影条件をお伺いし、他の病院で検査を受け、その結果を持参しますけど』と提案したが、緊急性は乏しいと判断された。
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内視鏡による検査は40歳のX線検査で胃がんが疑われて以来、数年間毎年受けたが無罪放免された。6年前の集団検診で再び胃がんが疑われて再開。以後今日まで20回近く受けたが、いつも苦しかった。
あるとき、麻酔剤を注射する方法もあると知り、時々提案しては試行した。検査後暫く休憩し、麻酔が覚めた後に車を運転(病院関係者からは運転禁止を強く言い渡されていたが・・・)して帰宅していた。しかし、検査後の嘔吐に苦しんだこともあった。
予約していた11月5日の検査は河合医師に急用が発生し水野医師が担当。愛知県がんセンターでは以前にも内視鏡検査では担当医が臨時に代わることは時々あった。看護師が『どうされますか?予約を取って出直されますか』と質問。私は外科手術に比べれば内視鏡の検査の医師間のばらつきは小さいと考え、出直すのも面倒なので何時も臨時に指名された代わりの医師にお願いしていた。
内視鏡検査では最近は苦しむことが多かったので相談の結果、催眠鎮静剤『ドルミカム』を点滴。30秒で熟睡。4時間後の15:00に休憩室のベッドで覚醒したとき、水野医師が記載したカルテを見ながら河合医師から『内視鏡で切除した部位には異常は無かったが、陽子線照射を受けた場所に1cm大の疑わしい部位を発見。生検用の細胞採取を試みたが、私の動き(拒絶反応)が強く危険を感じたので採取は中止した』との説明を受けた。
意識が朦朧としていた私は河合医師と今後の相談をすることも出来ず、改めて11月19日に相談することにして血液採取のみを実施。
当日の覚醒直後から連続嘔吐が始まった。嘔吐止めと脱水防止の点滴を開始したが嘔吐は止まなかった。嘔吐の可能性を予感し、当日は荊妻に運転を依頼していたので助かった。河合医師は朝からの絶飲食も影響したのかも知れないと解説。3時間半後、嘔吐がやや収まったのを潮時に帰宅を決意。足元が依然としてふらふらしていたので駐車場まで車椅子で移動した。自宅に到着したのは19:30。
嘔吐は帰宅途中でも発生。嘔吐を予想して車内には洗面器やバスタオルも用意していた。我が家は3階建て。1階は車庫+倉庫+空調の機械室+440リットルの灯油タンク室+完熟牛糞堆肥置き場。玄関は2階。階段を這うようにして登った。当日は何時もの3階の寝室は使わず、風呂にも近い2階の客間に寝た。屋内階段での転落事故を何よりも怖れた。
過去の体験から20時間くらいの連続嘔吐は覚悟していた。結局、夜通し一睡もせず洗面器を抱いて夜具に横たわっていた。嘔吐が収まったのは翌朝の8時だった。9時ごろ入浴し全着衣を一新して気分転換を図ったが食欲は全く無い。昼食はソーメンを1/3人前くらいとスポーツドリンクを無理矢理1リットル。夕食はやっとの思いでお粥を少し口にしただけ。
たったの2日間で3.4Kgも体重が減少したが、純減はその半分と推定。通常は痛風対策として毎朝砂糖抜きの薄い紅茶を2リットル飲んでいるが、検査日とその翌日には紅茶は全く飲まなかったので、体内に蓄積されている水分の減少が体重減に寄与したと判断。
11月19日の診察では河合医師が血液検査では異常無しと説明。12月7日に河合医師が内視鏡で検査し生検用の細胞を採取し、結果は12月18日に告知と知らされた。
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12月7日の検査に先立ち、過去の度重なる嘔吐を振り返りながら河合医師に『6月27日の内視鏡による胸部食道がん2個の切除の時、私は全く苦しまなかった。その後に嘔吐も無かった。あの時と同じ麻酔剤を使って欲しい』と依頼した。
当時のカルテを見ながら『あの時は睡眠導入剤セルシンを3/4カプセルと鎮痛剤(麻薬)を使った。今回はセルシンを4/4カプセル使いましょう。鎮痛剤は不要です』との選択に落ち着いた。
当日はつつがなく何事も無く、検査が終わった頃にはタイミングよく覚醒。『生検は不要と判断しました。詳しくは12月10日に説明します』。そのまま、荊妻の運転で帰宅。
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12月10日の検診で河合医師から『寛解』との告知を受けた。『粒子線医療部長から内視鏡で撮った写真をCDにコピーして送るように、と頼まれています。後日で結構ですから、恐縮ですがご準備いただきたい』『いつ受け取りに来院されますか』『CDを受け取るためだけに来るのは面倒。郵送していただけませんか』『では、そうします』
帰宅後、お世話になった粒子線医療センターの放射線技術科長須賀氏に『寛解』とメールで報告したら、翌朝下記の返信を頂いた。
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おはようございます。
12月18日に検査結果が出るとのことでしたのでその日を待っておりました。早く結果が判明し、しかも良好とのこと何よりのこととお喜びを申し上げます。どうぞ、このあともご自愛のうえお過ごしくださいますようお願いいたします。この結果を信じておりました。
これからの業務の励みとなります。
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数日後に河合医師から受け取ったCDからパソコンに映像をコピーしたら、現れた写真の枚数の多さにビックリ。6月15日の撮影48枚、11月5日の撮影42枚、12月7日の撮影36枚、合計126枚もあった。我がカルテにはその都度、数枚ずつの典型的な写真がファイルされていただけだったのだ。
早速CR(注。Complete Responseの略。日本語では完全寛解)と記載されたカルテと一緒にCDも粒子線医療センターの医療部長村上医師に送り届けたらメールで下記の返信を頂いた。
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11/5、12/7の食道内視鏡画像を6/15(治療前内視鏡)と比較しました。
治療前に見られた大きな地図上のルゴール不染帯は確かに非常に退縮しています。完全寛解(CR)といってよいかどうかは、内視鏡専門医のご判断に任せるべきと思いますが、いずれにしろ著効は間違いないと考えます。
また、定期的に検査を受けられ、慎重に観察してゆくことをお勧めいたします。
まあ、とりあえずホッとしました。
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今後は2月25日にCTを受け、その検討結果を3月3日に聞くと同時に次回のPETと内視鏡による検査の予約をすることになった。CTは込んでいるので早めに対応すべく、2月25のCT検査の前だったが4月21日を先行予約した。
蛇足
6月15日の検査時に、がんの位置をX線による透視時に確認できるように、内視鏡で金属片を食道に取り付けられた。医師からはホッチキスの針のようなもので、食道の皮膚の再生が進むと自然に取れて排泄されるとの説明を受けていた。
11月5日の写真でその金属片2個を発見。蛍光灯のグローランプのような形をした金属片が食道壁に食い込んでいた。写真で確認した大きさにビックリ仰天。長い間もっと小さいものかと誤解していた。12月7日の写真では金属片は1個に減少。11/5-12/7の間に脱落していたのだ。
長い間、喉の奥に魚の骨が突き刺さっているような違和感が続いていたが、その原因がこの金属片にあったのだろうと推定。
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