@ 謎の1セント硬貨(17p)
第二次世界大戦前の日米の工業力は1:10だった。1セント硬貨の枚数が如何に多かろうと、材料の銅が不足し亜鉛メッキした鉄で代用していたとは想像すらしていなかった。日本の風船爆弾や竹槍戦法ほどではなくてもその苦労が偲ばれる。
米国駐在体験がある何人かの友人に質問したが、この歴史的事実は知らなかった。
A 14という奇妙な数字
『14年間に亘って合衆国住民でないものは大統領に選ばれる資格がない』(36p)との憲法にも驚いたが、その理由探しの向井様の根気にはもっと驚いた。
私が『14』という数値のルーツとしての幾つかの可能性の報告の中で最も納得性を感じたのは、マタイ伝(アブラハムからダビデまで14代、ダビデからバビロンへの移住まで14代、バビロンへ移されてからキリストまで14代)からの借用ではないか、との氏の推定だった。
B 巨大な星条旗
幾何学の世界とは異なり、世の中には例外は無数にあるものの、アメリカ国内のトヨタ車販売店が一際大きな星条旗を立てている(47p)とのご指摘は想像すらしていなかったし、今まで聞いたこともなかった。私が出張でアメリカ国内を駆け巡った昭和48年とは様変わりの様子が伺える。当時の輸出主力車はRT40(三代目のコロナ)だったが未だ微々たる量だった。
海外で発生した何度かの感情的な抗日暴動を乗り越え、輸出に活路を見出すべく全力を挙げて生き延びている今日の製造業の大手各社では、商品の最終的な購買者である夫々の国民に感謝しながら仕事をする態度がますます強くなってきた。
向井様がトヨタ車販売店で感じられた印象はひとりアメリカだけではなく、世界各地のトヨタ車販売店で活躍している従業員の勤務態度からも普遍的に受け取られる筈と予想している。
私は50歳代の頃、トルコ・パキスタン・ベトナム・中国などの発展途上国に、工場進出をする価値があるか、進出して成功する可能性はあるかなどの調査をしていた。そのときにはどのようなアプローチが適切かを常に念頭に置きながら、その国の関係者と必死になって議論を重ねていた。
そのことに極端に触れた旅行記(懐かしのあの国、この国 ⇒ 定年の挨拶が目的だった海外出張の旅行記)から一部を引用。
トヨタサ(トルコ)
トヨタサの工場は日本でも見掛けないほどの立派な工場だった。事務所・食堂・工場建屋・緑地帯など、いずれもユッタリとした配置。工場敷地内には、不幸にしてテロに倒れた故サバンチさんの銅像が建てられた日本庭園すらある。生産能力は高く、需要さえあれば増産は簡単だ。工場の食堂も昼食も立派なものだ。これならば、社長以下全員が同じメニューの昼食を食べていても、不満が出ない筈だ。しかし、一緒にFSをした駐在員の久さんからは予期せぬ事を聞かされた。
『減産下の現在、減価償却費の負担は重いが、元を辿れば結局のところ石松さんの企画案に行き着く。故サバンチさんは、石松さんを心底尊敬し、石松さんの提案には一切の変更もせず、その実現に全力を注いだ。しかし、今日の苦境は石松さんの責任ではない。ある意味ではバブルの産物だ。TMC(トヨタ自動車)の役員も賛同したのだ。
サバンチさんはヒルトンの予約でも、石松さんだけは特別扱いをした。私たちは実はその事には、不満を持っていたのですよ!』⇒知らなかった!そう言えば、私は何時も 185$のボスフォラス海峡が見える見晴らしの良い部屋、その上しばしばワイン・果物・チョコレート・お花の差し入れを受けていた。海外出張回数は数え切れないと言う久さんや同行者は 135$の見晴らしの悪い部屋だったが、経費節減のために自主的に協力しているのかと思っていたのだ。
時にはホテルのマネジャーから『スイート・ルーム(長方形の建物の四隅にあり、窓は2面3ヶ所、床面積は2倍の角部屋。ワン・フロア50室につき4室しかない)が空いている。料金はスタンダード・ルームと同じにする。荷物はボーイに運ばせるから移らないか?』と言われ、物見高さから移ったこともあった。今にして思えば、トルコの大統領や首相などとも渡り合っていた、故サバンチさんの口利きだったのだ。
トルコ側のFSグループとの懇談の席でも、私は驚かされた。私とサバンチさんが議論する時には、彼等が一切口を挟まなかったのを異様に思っていたが、彼等はその時のやり取りを必死になって聞いていたのだ。
『石松さん。サイトの選択の話題の時にはこんな話もしていた』などと、私がすっかり忘れていたことまで、思い出させてくれた。当時、固唾を飲む思いで、やり取りを聞いていた証拠だった。さらに『石松さんの最初の挨拶文の中身は、私たちの誰一人として、忘れてはいませんよ』と付け加えた。サバンチさんの長男が初対面の時『挨拶文は詩のように素晴らしい、と父が語った』と言ったのを思い出す。
『それにしても久さん。工場の分厚い鉄骨の柱は過剰品質とは思いませんか?』『英国の建設会社から、トルコのような地震国ではこの位の柱を使わないと、安全は保証出来ないと脅かされたのですよ。岩盤が深い所にある沖積平野だったので、コールタールを塗った摩擦杭も10坪につき1本、何と延べ3600本も打ち込みました。逆に航空工学を専攻した石松さんにお尋ねしたいですよ。何と反論すれば良かったのかと』
『設計者は耐震建築の設計法に無知だった以前に、高校生でも分る力学の初歩(とは言うものの、概念を真に把握している者は、工学部卒でも意外に少ない)すら理解していなかったのですよ!台風と異なり、地震が建物に与えるのは力ではなく、加速度だけですよ。ニュートンの運動の第2法則によれば、地震が建物に与える力は加速度に質量を掛けた値として計算されます。従って、どんな大規模地震でも、質量の小さな葦は1本すら倒せません。
建物が柱に与える地震力(外力)は、柱に加わっている屋根の質量と加速度の積で求められます。この工場は平屋なので屋根は軽く、地震力は微々たる値です。阪神大地震では、鉄筋コンクリート製マンションや百貨店が、自らの質量(俗に言えば重さ)から発生する地震力で破壊されましたが、あの安っぽいプレハブ住宅が1軒すらも壊れなかったのは、理の当然ですよ。地震学も耐震建築法も学んでいませんが、この程度の問題は私にだって即座に解けますよ。何と言う無駄!』と言ったものの後の祭り。
IMC(パキスタン)
酒にも気持ち良く酔い、宴もたけなわ。さわやかな夜風に当たっていたら、つい調子に乗って、敬虔なモスレムを前に、恥ずかしさも忘れてコーランについて思い付くままに語ったのだ。
私の理解したコーラン
コーランと聖書とを比較したら、コーランの言葉には異教徒の私にも強い納得性を感じる箇所が多い。アラビア語で書かれたコーランは他言語への翻訳が厳禁されているので、私は解説書を読んだに過ぎないが。
………コーランは『人は神の前に全て平等』と言う。フランス革命(1789年)の人権宣言よりも、1100年以上も古い。コーランの平等の観念は今日の欧米の平等思想よりも、更なる厳密さを求めている。例えばイスラムには、人の上に立つ聖職者は存在しない。また、メッカへの巡礼では皇帝も国王も国民も、全く同じ服装と行動を強制されている。
………モスレムの1日5回のお祈りは大変健康的だ。繰り返し大きく体を曲げながらのお祈りは、健康維持のための体操を兼ねている。また、お祈りの前には衣服から露出している体の全てを洗って清潔にしている。日本人はラジオ体操やストレッチ体操をしているが、1日5回も繰り返して運動する人はいない。日本人は風呂好きを根拠に清潔さを自慢しているが、1日に5回も入浴する人もいない。その意味ではモスレムの生活は日本人よりも遥かに健康的かつ衛生的である。
………お祈りの開始時間は厳密に決められている。したがってモスレムには時間を守ると言う、社会生活に有益な習慣が自然に身に付く。
………コーランは偶像崇拝を禁じている。キリスト教(モーゼの十戒の第2条:汝自己のために偶像を造りてこれを拝すべからず…とあるにも拘らず)も仏教もヒンドゥ教も今なお布教の手段に、絵画や彫刻を使っている。偶像は大昔、文盲の民への布教の手段として考え出されたものだ。言葉を通じて抽象的な概念(教義)を理解させる立場にたつ宗教は、どんなに賢い動物をも信者にすることはできない。偶像抜きにコーランを理解できるモスレムは、他宗徒よりも平均的には頭が良い証拠だ。
………コーランは4人までの妻帯を許しているが、本来の趣旨を踏み外した多妻主義者のモスレムがいるのは恥ずべき事だ。コーラン成立の頃は部族間の抗争が絶えず、結果として戦争未亡人が生活に困窮した。余力のある者は正妻の同意の許に、戦争未亡人の支援のため4人までの妻帯が許可される一方、それ以上の妻帯者には4人までと制限した上、全ての妻に全く同じ愛を注ぐ義務を課した。
信号待ちをしていたら、今にも死にそうな乞食稼業の老女が車のドアを叩きました。多妻主義者の真のモスレムならば、第2婦人以降の結婚相手はあの方々の中で最も気の毒な方をこそ選び、若くて美しい正妻へと同じような愛を注いでいる筈。もしもそれが実行出来ないのならば、結局は一夫一婦制にならざるを得ない。その意味ではコーランの教えは、今なお通用する正しさを失わない。
………富める者は貧しき者に喜捨せよとの教えも素晴らしい。今日の国家は本人の意志とは無関係に税金を取り立てるが、喜捨で集める方が遥かに崇高である。
………禁酒の教えも素晴らしい。過度の飲酒は健康を害し、深酒は過ちを得てして起こし勝ちだ。
………断食は毒素と化す体内の滞留物を排除するので、禁酒以上に健康に益する。しかも、断食明けには天地の恵みに心底感謝する気持ちが生まれる。
私にはコーランに記された内容の大部分は、当時の人達が人生をより幸せに送れるようになるために、教祖ムハンマドが考え抜いたガイド・ブックのように思える。神の啓示をムハンマドを通じて、人間の言葉で表現させたコーランを信じることは、神を信じることに通じる。しかし、神を信じお祈りをする目的は、人生の難問を神に解決してもらうためではない。
神を信じることの最大の価値は、神と共に生きる事にある。詰まりは生きている限り、神のお導きから逃れる事が出来ないと思えばこそ、他人の目の有無に関わらず、自律した人生を送るようになる点にこそある。
スリさんが大変喜んだだけではなかった。別れ際に『IMC主催の夕食会に集まった仲間に、今のコーランの話をもう1回、語って欲しい』と頼まれた。
IMC主催の夕食会
大きなホテルの屋上でバイキングをご馳走になった。見晴らしも良く、ビアガーデンのような雰囲気だった。酒類は一切なくて残念だったが、成り行きながらも私には心に染み渡るハイライトを、またもや迎えることになるとは知る由もなかった。
スリさんが居並ぶ会社関係者に私を改めて紹介した。『ミスター・イシマツは丁度10年前の1988年8月に、TMCから初めてパキスタンにきたエンジニアだ。灼熱の暑さの中、私と一緒にカラーチとラホールの自動車部品会社を駆け巡り、延べ4時間ものビデオに撮り、TMCの関係者にパキスタンの実情を詳しく紹介してくれた。
彼の努力の結果、IMCだけでも 600人にも及ぶ働きの場が生まれた云々…。石松さん。昨日のコーランの話はとても面白かった。もう1回、皆に聞かせて欲しいのですが!』。その時、田さんが『石松さんはIMCの父です』と大袈裟な紹介を追加した。
『コーランに関する私の理解は……。以上が、私が信仰に生きる真のモスレムを心底、尊敬している所以です。しかし今回、IMCの従業員や社内で出会った人々からは、全く違った印象を受けました。
清潔好きのモスレムの筈なのに、工場内の至る所にある、5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)を誓う場所を示す円内ですら、あろうことかゴミの山。神と共に生きている筈のモスレムが泥棒稼業を平気でするのか、鉄砲を持った30人ものガード・マンが工場内を巡回せざるを得ない始末。コーランの掟が忠実に守れるモスレムならば、部品棚に誤品を入れたり、作業標準違反者は出ない筈。
本日の夕食会の集合時間に間に合ったのは私只一人。皆様が全員揃ったのは約束の30分後でした。ひょっとして皆様は、ご自分の時計が壊れていたのにお気付きにならなかったのでしょうか?念のために、時計を拝見させて下さい。
敬虔なモスレムとしての日々の行動と今回直面した事実からは“あなた達の信仰は単なる見せ掛けに過ぎず、あなた達は揃いも揃って究極のエゴイストだ”と言う結論のみが自動的に誘導されるのですが…』
ある参加者が『遅刻して申し訳なかった。しかし、私達がモスクに定刻に集まれるのには地理的な事情があるのですよ。モスクは歩いて行ける生活圏内にあり、予想もできない交通渋滞の影響を全く受けないからです。このホテルは都心にあり、家からも遠く、今日は渋滞に運悪く巻き込まれました』
チャンス到来とばかりに、私は演説を開始した。『先程も申し上げましたが、偶像禁止に生きるモスレムの頭の良さと、そこから生まれた歴史的な実績は、世界的にも抜群だと思っています。かつて、ヨーロッパが暗黒の中世と言われた頃、ギリシア・ローマ時代の文化を引継ぎ発展させたのは正しくあなた方の先輩、中東のモスレムでした。
あの輝かしい“ルネッサンス”はイスラム文化圏が存在していたからこそ、生み出された成果と言っても過言ではありません。今日でも使われている科学用語の中には、あなた方も知っているように、アラビア数字・アルカリ・アルカロイド・アルコール・アルジェブラ!など、無数のイスラム科学に由来する言葉が組み込まれています。
今日の日本では、インダス文明(モヘンジョダロ)で既に実用化されていた下水道ですら、3000年以上経った今なお完成していません。インドで生まれた仏教はパキスタン⇒シルクロード⇒中国⇒朝鮮経由で日本に伝わりました。大昔のパキスタンから日本が受けた大きな恩恵に比べれば、日本人の返礼は誠に小さく、未だにパキスタンの人々には頭が上がりません。微力ながら私達もTMC(トヨタ自動車)を通じて貴方達に、何らかの貢献ができれば、これに優る喜びはありません。
日本人は片手では5までしか数えられないが、パキスタン人は指の関節を使う事により15までも数える特技すら持っています。つまり数学的能力は3倍も高いとさえ言えます。長い間カラーチで生きていた頭の良いあなた達の場合には、過去の体験からこのホテルに定刻に来るためには、最悪の場合を考えて何分前に家を出れば十分かは、いとも簡単に推定できる筈だと思います。カラーチに来たばかりの、しかも頭の悪い典型的な日本人の私ですら、定刻に来れたのですぞ!』
静かに聞いていたある参加者が堪え難くなったのか『勝負あり。石松さんの方が正しい』と言ったら堰を切ったように、別の人が続いて発言した。『石松さん。貴方のご指摘には、矢で心臓をその都度、突き刺される思いです。近い将来もう1回、IMCに来て下さい。改善をここに誓います』
『はるばるIMCまで来て、眼で確認する必要はありません。巡回しているガード・マンの人数の減少度を聞けば、全ては分かります。それに、先程自己紹介しましたように、私は本年9月1日にTMCの定年を迎えます』
やがて、お開きの時間になった。スリさんが円筒状に包装された品物を取り出しながら『石松さん。貴方はコーランに書き留められていた神の言葉を使って、私達モスレムを完膚なきまでに批判してくれました。貴方のご指摘は余りにも奥が深かった。コーランの教えを深く理解した上で、私達に語り掛けてくれた私が出会った唯一の日本人です。これは、私達IMC関係者からの感謝の印です』と言って、1畳大の手織りのパキスタン製絨毯(時価はワーカーの半年分の収入)を差し出された。
驚いた私は日本人駐在員に『貴方達がスリさん達に出させたんじゃないの?』と詰問。『違います!スリさん達の本心です。TMCからの来訪者に、あんな立派な贈り物をしているのを見たのは初めてです。役員といえども、記念にもならないような御土産ばかりでした』と田さんが答えた。
ベトナム
工場周辺には木が植えられていた。政府から植樹を求められ、従業員が植えたのだそうだ。これには思い当たる節があった。
FSの頃、政府の意向をそれとなく探るために我が独断で、緑地帯を書き込んだ工場レイアウト図と基本構想(設備投資額1億米ドル・従業員1千人等)の私案を、当時(今も)の重工業省の副大臣チュアンさんに渡しながら『既存のベトナムの工場は設備が古いだけではなく、建物の中も外も余りにも汚い。従業員が誇りを持って働ける環境整備こそが、一番大切な品質向上運動を成功させる前提である』と強調したことがあった。
『チュアンさんは“その通り”と言わぬばかりに頷いた。それを覚えていたのかも知れません。と言うのも、その後あちこちで出会った政府関係者が、あのレイアウト図に書き込んだ各種目標を反芻しながら、“あの通りに工場建設計画を正式に申請すれば、許可は直ぐに下りますよ”“早く出せ”と言わぬばかりに何度となく示唆されたからです』
『ところで上さん。私は今発言する立場にはありませんが、玄関前が荒れていますねえ。おまけに、日本人の通勤車が無秩序な駐車状態で玄関回りに置いてありますねえ。私には大変気になります。玄関前は工場の顔です。緑化を更に進め、車は工場の裏とか別の所に置いたらいかがですか?特権階級振りの振る舞いは、ベトナム人の心を傷付けますよ』『ご指摘の通り。直ちに移します』
C 強制収容所
アメリカは国内の日系人だけではなく、南アメリカや中央アメリカなど他国にいた日系人までアメリカの強制収容所に入れた、(77p)との説明に驚いた。
アメリカやソ連(シベリア抑留)の日本に対する傍若無人振りには怒りを今尚抑えきれないが、ナチスの暴挙、欧州人の奴隷狩りなど、いわれの無い優越人種観に起因する行動は薄れつつあるとは言え、完全に消滅したわけではない。
その態度はノーベル賞の受賞者数にも現れている。
ホームページ(健康・多重がんの闘病記)からの引用。
世界最初、ウサギの耳に人工がんを発症(1915年・山極勝三郎東大教授)
1915(大正4年)東大医学部教授の山極勝三郎と大学院生の市川厚一は世界初の発がん実験に成功した。ウサギの耳にコールタールを塗っては翌日拭き取り、また次の日同じ場所にコールタールを塗っては翌日拭き取る作業を繰り返した。その結果660日間で101匹のウサギのうち31匹に癌が発症した。海外での反響は大きく、実験成功の2年後にはロックフェラー研究所から野口英世も駆けつけた。
この業績はノーベル賞選考委員会の目にもとまり、医学賞の受賞候補2点に残った。その時のライバルはデンマーク、コペンハーゲン大学教授のフィビゲルだった。
彼はねずみの結核を研究している途中、ある3匹のねずみの胃の一部分に同じようながんを見つけた。顕微鏡でがん組織の中に寄生虫を発見した。その感染経路を調べた結果、寄生虫の中間宿主はゴキブリで、その筋肉の中に幼虫が潜み、それを食べたねずみの胃壁の中で成虫まで発育。
そのとき、寄生虫の出す何らかの物質ががん化作用を持つと推論し、1913年ドイツのがん専門誌に堂々と80ページに及ぶ大論文として発表した。受賞委員会は、ある委員の『東洋人にはまだノーベル賞は早い』との主張に同意し、世界で初めて人工がんに成功したとの理由で、フィビゲルは1926年にノーベル医学生理学賞を受賞した。
ところが後年、数々の物言いがついた。アメリカのブルロックとローデンバークは、ねずみには単なる機械的刺激でも胃がんが発生しうると発表し、イギリスのパッシーはビタミンA欠乏食を食わせただけでねずみの肺にがんを起こすという重大証言を行い、フィビゲルの論文は否定された。日本人としては何とも無念な結末である。
数年前にノーベル賞選考委員会の関係者が日本を訪れた。我が記憶では『来日の目的は日本政府に山極博士の件を詫びるため』と報道された。しかし、これはカモフラージュだったと今では推定している。当時彼らは島津製作所に田中耕一氏を訪ね、彼の業績を精査して帰国した。
昨年、田中氏のノーベル化学賞受賞理由について選考委員会は『最初に門を開けた人にこそ、ノーベル賞は与えられる』と力説した。当時ドイツ人たちの功績が高いとの下馬評もあったが、選考委員会は田中氏に軍配を上げた。私は田中氏のノーベル賞の背後には、選考委員会の山極博士へのお詫びも込められていたと推定している。
D ホテルの風呂
『アメリカのホテルのバスルームではシャワーヘッドが壁に固定されていて使いにくい』(90p)とのご指摘に同感。
実は私も国内外を問わず洋式ホテルの風呂の使いにくさには辟易して、旅行記でも何度か書いた記憶がある。
ホテルのお風呂に入るたびに新しいお湯を入れ、湯船の中で石鹸を洗い流す贅沢さには私は一目置くものの、足の裏を洗うたびに苦労させられる不満が残った。日本の風呂では洗い場に椅子があり、椅子に座って体を洗えるのに、ホテルの風呂では立ったまま体を洗っているが、足の裏を洗うときの不安定さには不快感が残る。
シャワーを使うときにはカーテンを引かせられるのも面倒な上に閉塞感も感じ、髭を剃るときにも鏡の位置が高く、丸腰のまま鏡に向わせられるのも不快。おまけに窓も無く外界とも遮断され開放感も感じられず、入る気がしない。
日本の温泉観光ホテルでは大浴場に直行。室内の風呂を殆ど使わないのは同じ理由だ。アメリカのホテルは部屋も広く室内の調度品も立派なのに、どうして風呂の快適さを追求しないのか、不思議でならない。体さえ洗えればよいとの機能主義一点張り。ローマ時代の入浴による開放感や気分転換を味わう習慣が、どうして消滅したのか疑問のままだ。
E 地球は丸いと実感
アメリカ大陸を車で走行するときに『地球が丸いと実感できることがある。遥か彼方まで道路が一直線に続いているからだ』(124p)。
私も日本では味わえないこの感覚に襲われると、旅行記(西アフリカ)に書かずにはおれなかった。
バンディアガラの断崖(世界遺産)
世界中何処にでもありそうな断崖に過ぎないのに、何故世界遺産に登録されたのか疑問を感じてインターネットで調べたら、それなりの理由を発見。
バンディアガラの断崖は、マリ共和国のドゴン族居住地域となっている断崖。その壮観な自然環境と、マルセル・グリオールの紹介によって広く知られるようになったドゴン族の文化が保持されている地域であることから、ユネスコの世界遺産に登録されている。
この世界遺産は世界遺産登録基準における以下の基準を満たしたと見なされ、登録がなされた。
『特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている、ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落または土地利用の際立った例。ひときわすぐれた自然美及び美的な重要性をもつ最高の自然現象または地域を含むもの』
私には世界遺産としての関心は湧かなかったが、断崖の上から眺めたアフリカの大平原の雄大さには心を奪われた。海岸の高い絶壁(石廊崎とか喜望峰のケープポイントとか)に立つと遙かかなたに丸くカーブしている水平線が眺められるが、此処では海面の代わりに大平原が、その先に大陸ならではの地平線が見られたのだ。
中央アジアの大平原では周囲と同じ高さから眺めただけなので、この感覚には遂に出会えなかった。
F 4時間前には空港着
どんなに遅くても離陸時刻の4時間前には空港に着いている。普通は6時間前(134p)。
私は早朝離陸を除けば遅くとも2時間前には空港に着いている。国内外旅行を含めて空港に出かけるのは高々月に一回。早く空港に着いて失う人生は微々たるもの。早く着いて搭乗手続きを済ませ、ゴールドカードのラウンジでのんびりと只酒を飲みながら旅への期待感を膨らませるだけではない。
飛行機に縁のなかった若いころは東京への出張の最大の楽しみは高島屋・三越・西武・伊勢丹などの大型デパート巡り。デパ地下は勿論のこと屋上に至るまで歩き回った。
デパートは生きている現代の博物館。今何が最先端の流行の品なのか、今は買えなくともいつかは手を出したい品物は何か、必死になって情報収集。かつて豊田そごうの開店初日には開店から閉店までの間、店内を眺めつくしていた。
空港のラウンジで一服した後はブランド品を売っているテナント巡り。品物の品質・価格の情報収集ほど楽しいものは無く、2時間などあっという間に過ぎ去っていく。
G シンデレラの暗号
女房はアメリカで暮らしながら買い物の値段に関する詳細な観察と、呆れるような経験を続けていた(145p)。
60歳で定年退職して以来、出張とも当然縁が無くなりデパート巡りも激減した。古希を越えた今では名古屋市の松坂屋・JR高島屋にも出かけなくなった。地元の松坂屋豊田店にも殆ど出かけなくなった。しかし、これは加齢と共に物への関心が激減したからに過ぎない。
奥様が値札の下二桁が98セントで終わっている商品が75%引きだと気付かれたことからも、価格情報へのご関心の深さが分かる。
実は日本でも同じような傾向があることに私も気付いた。お中元やお歳暮の価格は品番の中に埋設されている。5000円の品物の場合、何処かに50という数字がある。定価の判読法を知れば、野暮な質問を贈り主にせずに済む。
エアコンの品番にも定格消費電力がさりげなく埋設されている。5KWの場合は何処かに50という数字がある。新聞のチラシに無数の商品が紹介されているものの、定格が記されていないことが多く、性能の比較が簡単には出来ないが、品番の付け方に上記のルールがあると分かった以降は困らなくなった。この種のルールは商品ごとに習慣が異なるようだ。
H マクドナルド
私は日本では、ハンバーガーを食べたいとは絶対に思わない(198p)。
私もひき肉やハンバーガーなどのひき肉加工品は毛嫌いしていた。何が混在しているか判らないからである。ところが已む無くマクドナルドに手を出したことがある。
ホームページ(健康・多重がんの闘病記)からの引用。
体重減対策
胃がんの手術後、見る間に体重が下がっていった。絶食しているから当然のこととは言え、逆算すると毎日500〜1000gもの減少速度だった。食欲不振の中、栄養のバランスよりもカロリーを補給しなくてはと思い、体積が小さくて、食欲が出て、カロリーが多い食品としてチョコレートを選択。病院の売店で板チョコを買っては毎日2〜3枚をバリバリ。
退院後は荊妻に10時と15時のおやつを用意してもらっていたが段々面倒くさいようすがありあり。そこで方針を変更。一週間に一回、マクドナルドでハンバーガーを15個買ってきては冷凍保存。一個ずつ取り出しては電子レンジで解凍して食べた。ハンバーガーではでんぷんと蛋白質が補充されるので、カステラや菓子パンなどよりも栄養のバランスが取れる。
おまけに使われているひき肉はオーストラリアの草原ビーフ。この牛肉は松阪牛のような霜降りではなく、脂肪はほとんど無いので一層健康的だ。ハンバーガーの中には玉ねぎなどの野菜もはさんであったが、量は僅かなので味付けくらいの意味にしか感じられなかった。流石は世界に冠たる加工食品。重量は1個100gピッタリの重さ。
2ヶ月くらいはハンバーガーで間食を凌いだが、結局長続きはしなかった。致命的な欠点が2つあった。肉の筋抜き(注。肉屋では枝肉から骨を外したり、肉から筋をとったりする作業のことを、骨抜き、筋抜きと言う)をしないまま、ミンチにしているのか、時々肉をかんだ時に、筋を噛む事があり、嫌な食感となった。64歳に至るまで、虫歯1本無いのに、筋を噛むと嫌なのだった。第2の理由は、何故か肉に甘みが感じられないのだ。
私には長い間、豊田そごうの肉の安売り日(毎月9,19,29日は肉の日と称して、定価の2割引だった)に、米沢牛の1枚160gのヒレ肉(成牛1頭のヒレ肉は6〜7kgなので、ヒレステーキはたったの40枚しか採れない!)を20枚(半頭分)買っては冷凍しつつ、少しずつ食べる習慣があった。和牛のヒレ肉と草原ビーフとを比較するのは公平ではないが、美味しくないものは結局願い下げになった。
試行錯誤した結果、間食の用意は中止し、3度の食事を昔の通りに戻すことに落ち着いた。胃が小さくなっているので、一度に全部を食べることは出来ない。そこで副食は少しずつ残した。2〜3時間経つとお腹が空くので、保存していた残飯を電子レンジで暖めて食べた。その結果、荊妻の負担増加は無くなった。
蛇足
昨年(平成20年)夏には第5回目のがん治療のために愛知県がんセンターに9日間入院した。食道がんの内視鏡による剥離手術だった。食道保護のため術後は絶食。脱水予防を兼ねて点滴を受けたが体重はあっという間に3Kg減少。
何れ近い将来に起こりうる手術に備え、過去40年間近く維持してきた54Kgの体重に手術による痩せ代3Kgを予め準備することを決意。自宅近くに回転寿司が開業したのを機会に、すし屋に出かけた都度、持ち帰り寿司を40貫注文した。
寿司は冷蔵庫で3日間、食味は落ちるものの保存は可能だ。胃がんの手術で胃の2/3を切除したため、残念ながら食い溜めが出来ない。在宅日はおやつ代わりに握りずしを1,2個単位で刻々と食べ続けた。
寿司はネタの種類が多いのが魅力だ。やっと3Kg体重が増えた。お陰でズボンのベルトも不要になった。これ以上の体重増には衣類の更新が必須なので中止した。幸い、マクドナルドのハンバーガーよりも長続きしている。
I 20mものキリストの白い巨像(246p)
仏教界には奈良の大仏など子供に思えるほどの、お釈迦様の巨像が世界各地の岩山に彫られたり、建造されたりしているが、キリスト教界には何故か稀有である。私が出会った唯一のキリストの巨像はリオデジャネイロのコルコバードの丘の上に建っている像だけだ。
ホームページ(旅行記・地球は確かに丸かった)からの引用。
コルコバードの丘
標高 710mの丘の頂上には両手を広げたキリストの像が建立されている。中東やアジア各国には仏像や神々の像を始め、国王などの巨大な彫刻が至る所にあるが、欧米ではキリストの像だけではなく、人物像でも大型の彫刻像は何故か見掛けなかった。ニューヨークの自由の女神像は唯一の例外だ。
しかし、同じキリスト教国でもブラジルは変な伝統に束縛されなかったのだろうか?独立 100年記念事業として1931年に、高さ30m、両手の差し渡し28m、掌と頭の高さ3m、重さ1145トンの痩せたキリスト像を建立。今までは満艦飾の薄暗い教会内に飾られている、干物のようなキリストの像を見慣れていたので、頭が小さく見える10頭身のコンクリートの固まりをいくら熱心に眺めても、あり難みが感じられない。いかにも知恵が詰まっているなあ〜と感じる頭でっかちで、しかもふくよかに肥えた奈良や鎌倉の大仏に魅力を感じるのは、身びいきのせいだろうか?
向井様がアーカンソー州の20mもの白いキリストの巨像に注目されたのも不思議ではない。私は見る機会こそ無かったが、もしも出会ったならば同じような驚きを感じたに違いない。
J パルテノン神殿・エッフェル塔・・・(264p)
コロンブス以降のアメリカには旧大陸各地にあるような歴史的な建造物は無きに等しい。しかし今ではアメリカの各地で、世界的に有名な建築物であるパルテノン神殿・エッフェル塔・ピラミッドなどを真似た張りぼてのような建造物が各地に作られ続けているそうだ。
しかし、こんな偽物がアメリカ人の心をどれだけ捉えるのか、私には疑問だ。エンパイヤステートビル・ゴールデンブリッジなどのように、その時点での技術の粋を投入し、歴史に残り世界各国が真似したくなるような努力をこそ私は望みたい。
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