2.絶対音感

2−1.ローレライ

聴感の事となると、“専門家”が言うところの“俗説”的に考える場合に外し得ないのが、最相葉月氏の『絶対音感』(小学館 1998年)である。これはベストセラーにもなったので読まれた方も多いと思う。なぜ、敢えて、“俗説”的としたかと言えば、再びWikipediaに依れば、

“日本で「絶対音感」と言う言葉と概念を一般に定着させ、ベストセラーにもなり、収められた逸話に関しては興味深いモノが多いが、今では、信憑性の点で疑問視する声もあり、また学術的な裏付けがほとんど行われていない”と言うことで、「誤った概念を世間に吹聴、定着させた」として、批判する声も多い”ようです。

と、あるが、これも右脳左脳問題と同様に「学術」がこれらの裏付けをしようとする意図自体が元々無いのか、できないのであり、“大多数の研究者”の無い物ねだりの、“批判”としか思えない。音感に関しては非常に興味深い本である。

私としては「批判が多ければ多いほど、むしろ真実に近い」のではと思っている。低周波音問題のように、一般人の無視、多くの被害者の無知、専門家達の黙殺こそ一番手に負えないのである。

 更に、Wikipediaで絶対音感そのものについて見てみると、何と、実に戦前に遡り、「昭和14年頃にはピアニスト笈田光吉の呼びかけに軍人が呼応し、全国民が飛行機など機械音に敏感になるため普及活動を展開し、日本帝国海軍の対潜水艦教育、大日本帝国陸軍の防空教育で採用されたが昭和19年には中止された」と言うことである。

ここで、オオそうかと、2005年に公開された映画「ローレライ」を見ているとき、何か引っ掛かっていたのだが、上記の話しでハッタと得心した。
 映画「ローレライ」をご覧になったかもみえると思うが、簡単なお話は、キネマ旬報DBによれば、


 第二次世界大戦末期の194586日、広島に原子爆弾が落とされた。続く本土への投下を阻止する為、海軍軍司令部作戦課長の浅倉大佐によって、ドイツから秘密裡に接収した驚異的な戦闘能力を備える伊号第五〇七潜水艦、通称“ローレライ”の艦長に抜擢された絹見少佐は、先任将校の木崎ほか、軍属技師の高須や特殊潜航艇“N式潜”の正操舵手として配属された折笠一曹ら、わずか70名の乗組員と共に、アメリカ軍基地のある南太平洋上・テニアン島へ向けて出撃する。
 ところがその途中、N式潜に搭載された戦闘海域の海底地形や船隊配置図を立体的に視覚化出来る超高感度水中探索装置“ローレライ・システム”が、ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラの能力によるものだったことが判明し、艦内に不穏な空気が流れ始める。
 そんな矢先、2発目の原爆が長崎に投下されてしまった。そして、それを機に高須を始めとする一部の者たちが、アメリカと取り引きした東京の浅倉の指示の下、ローレライを占拠。日本新生プランを掲げ、アメリカ軍にローレライを供与しろと言い出した。命に背けば、3発目の原爆が東京に落とされてしまう!しかし、絹見は日本人として、祖国に残して来た愛する者たちを守る為、最後まで戦うことを決意。
 高須らを鎮圧すると、日本を存亡の危機から救うべく、独自の判断でテニアン島へ向けて進撃を開始するのであった。待ち受けるアメリカ海軍太平洋艦隊。パウラのローレライ・システムを発動させ、爆雷を避けて邁進するローレライ。…。

と言ったところだが、ここに登場する“主人公“とも言える「ローレライ・システム」と言うのがネタなのでストーリー物の本道から言えば、ネタ晴らしは禁じ手なのだが、この「システム」は「船隊配置図を立体的に視覚化出来る」と言う設定で、まー、レーダーの進歩したモノなのだが、中部電力開発の「音カメラ」も足下にも及ばない代物なのである。

まあ、あくまでストーリー展開からなのか、或いは何かそれなりのヒントが有ったとは思うのだが、このシステムのコア(核)とも言うべき存在が、「ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラの能力」なのである。彼女はこの能力を使うと死にそうにグッタリと疲れるのだが、上空を通過するヘリの低周波音がホンの数分間響き渡るだけで、堪らなくなってしてしまう私としては、充分に「有り得る状態」と思ってしまうわけである。

私が興味を持ったのは、作者は一体全体どこからこんな発想を得たのか、もし、その資料があるなら知りたいと思い、以前に1000ページを超えるような本を読んだのが何時だったか忘れるくらい”超久方ぶり”に原作の「終戦のローレライ」(福井晴敏/著 講談社2002)を読んでみた。が、どうも格別の参考文献は無いようで、あくまで作者の想像力の産物のようだが、ヒントは戦争中のドイツや日本の対戦音感教育にあるのであろう。

さて、原作では、ローレライの“システム“(正式名 PsMB1)は「能力者が水中の対象物を感知した際に生じる脳波の乱れを、電気的に取り出して増幅。信号化された脳波に監視装置内の磁性体が反応し、感知対象物の方位・距離・速度はもちろん、その形状までを立体的に再現する」と言う”人間立体レーダー”で、その「感知限界能力距離は半径百三十キロ」という事になっている。

 確かに低周波騒音被害者が低周波音を聞けば、あれだけ“おかしく”なるのだから、間違いなく相当な「脳波の乱れ」が有るはずである。この「脳波の乱れ」こそ低周波音症候群の病理確立に注目すべきであると考えるのだが、こういったアプローチが是非とも必要だと思っているのは残念ながら私だけのようである。

第二次大戦時の主な軍用レーダーは大日本帝国海軍では対空で54海里(約97km)、合衆国海軍では対空の最高で150海里(約271km)、潜水艦用では20海里(36km)の時代に、潜水艦用と言える(と言うのはローレライの能力は水中でないと発揮できない)で70海里(130km)と言う事で、ローレライの威力は驚異的な訳である。

潜水艦の決定的優位性は戦争中に限らず、今も、その隠密性に有るわけで、自らが音波を発するアクティブソナーでは優位性が失われるので、対敵には敵艦が発する音を聞き取るパッシブソナーに意味がある。が、最近の潜水艦はアクティブソナーをバカバカ発しているようで、イルカやクジラのソナーをボコボコにしてしまい、船にぶつかったり、海岸に打ち上げられたりし可哀想なことをしている様だが。

最近の近代的ソナーを備えた潜水艦を舞台とした映画は別として、第二次大戦ころまでを舞台とした潜水艦映画では、もちろんこの作品もそうだが、何という役目なのか解らないが、ヘッドホーンと言うよりむしろレシーバーを付けたソナー替わりの“探音者“(原作では「水測士」とあるが、辞書には載っていない)が、緊迫した場面で、艦長から、まずは敵か味方か、敵なら船種や距離を判別するよう求められ、襲ってくる場合は、近づいてくる距離を言い上げている緊張の場面が必ずと言ってもいいほど出てくる。

実に、この“探音者“の役目こそ、当に「日本帝国海軍の対潜水艦教育」が育成しようとした人材の一つで、そこに絶対音感教育が取り入れられたと言うことである。こうした背景には当時のドイツ兵士の飛行機の爆撃や潜水艦の活躍に聴感訓練が大きな成果を上げていると言う話しを軍事関係者や音響や聴覚研究者が知っていたと言うことである。

 確かに当時のヒトラー・ユーゲントの多くは、結果として招いたことは置いて、こと音楽に関しては良いセンスを持っていたらしいと言うことは、最近の映画「戦場のピアニスト」(2003)等に限らず、ナチス将校が出てくる映画では取って付けたように頻繁に音楽に関する趣味の良さを示すシーンがあり、私は「あのナチスの将校が意外に音楽は好きだったのねー」くらいにしか昔から思っていなかったのだが、日本のインテリのクラシック好きとは異なり、どうももっと基礎の有るモノだった様である。

 結果として日本では国民皆兵ならぬ”国民皆ユーゲント”を目指すような絶対音感教育を小学校で強制的にしたため、逆効果を生み、多くの子どもにとってむしろ「音楽は嫌なモノ」になり、昭和1桁世代に多くの音痴を生んだという話しも頷ける。


 話しは一気に最近に飛んで、日本の教育に於いてはこの画一教育の弊害の反省は未だになされていない。と言うのは今なお、義務教育では一律同一内容教育が行われていることである。私は単にエリート教育を肯定すると言う訳ではなく、本人の能力に応じた”それなりの教育”がなされた方が単に効率と言った視点からだけでなく、結果オーライになる場合が多いのではないかと言うことである。平等大好きな日本人としては、これを差別教育と言う人もいるであろうから難しい話しになってしまうのであろうが、教育の最終形態は少人数学級であり、究極は個別授業であるとするなら、それは同時に個々人に最適な差別教育と言うことになる。

 私の中学時代の数学の先生で、特攻隊の生き残りと言う噂だったが、ぶっ飛ぶほどのビンタはそれを物語っているのだが、その先生の、「ご飯を一杯食べて満腹の人もいれば、二杯食べても満腹でない人もいる。同じように満腹になるのが本当の平等である。一杯食べろ、二杯食べろ、と言うのは機械的平等と言い、真の平等ではない」と言う言葉は今も記憶に残っている。

 先生が殴らなくなって、とまでは言わないが、叱らなくなって、と言うより、叱かれなくなってから戦後教育の荒廃が始まった。それはここ20年ほどの話しだ。


 話しを少し戻して、今の低周波騒音被害者は訓練次第で「音感教育」に優秀な成績を収めたであろう可能性がある。きっと死ぬほど辛く、疲れるであろうが。

と言うことで、「ナチスに人種改良された日系ドイツ人少女・パウラ」の辛さ、疲れ具合は更なる大きな要因も多々あり、筆舌に尽くしがたいモノであろう事は、“筆に尽くした“作者の言葉以上に解るような気がする。

今の、低周波騒音被害者の“資質”も戦時中ならそれなりに“使い道”が有ったわけで、多分、飛行機はもちろん戦車や列車が近づく音なども”健聴者”より良く察知したはずである。その上、眼が良ければ斥候などに最適であろう。まー、そうなると戦死率は高くなるかも知れないが。平和な時代には単に音に苦しむだけで格別役に立つことはなさそうだ。

 と思っていたら、何と、日本の低周波音問題の権威、山田伸志先生が最近の著書「トコトンやさしい振動・騒音の本」で「第二次世界大戦中、敵機来襲を遠くからでも聞こえる低周波音を聞き分け命拾いした」先輩の話を載せているので、私のおだ話もまんざら的外れではないようだ。
 この本は格別低周波騒音被害者のために書かれたモノではないので被害者は期待してはいけないが、これから被害を受けそう、与えそうな人、即ち被害者以外の人には極めて有益であるので、是非とも読んでほしい。


 2−2.音階としての音

「絶対音感」の中の挿話で、絶対音感の持ち主はパトカーや救急車のサイレンの音などはもちろん、巷の音が全て音階で聞こえてしまうと言う話しが幾つかある。音楽でもない音が、我々いうところの“音楽みたい”に聞こえてしまうわけらしいのだが、いや、むしろ音楽ではなく、単に音階名として聞こえてしまい、「ながら勉強」はもちろん、癒しのための音楽がいわば“意味のない朗読”の様に聞こえてしまうわけだから敵わない。

音楽なら本質的に耳にと言うより脳に心地よく馴染むように音階が並べられているはずだからまだ良いのだろうが、喧噪の今の時代に、調子はずれや不愉快な騒音までが意味ありげな音階として我々の音楽のように聞こえては、非常に辛いであろう。

ふと、思い出したが、中学の時の音楽の先生が時々、我々生徒に歌詞ではなくドレミの音階で歌わせたが、騒音が多分あんな風に聞こえるのであろう。今思えば、この先生の歳からして戦争中の「絶対音感教育」の名残だったのかも知れない。当時の音楽の時間は歌を歌うか、笛を吹くかくらいだったが、中学ではLPレコードの普及もあって「音楽鑑賞」なる授業時間が増えた。多くの生徒にとっては沈黙しなければならない苦痛の時間であったが、一方お昼寝の時間でもあった。私にとっては学校のプレーヤーは我が家のプレーヤーより遙かにいい音だったので楽しい時間であった。


 私の姪の子どもで、中学生でピアノが上手く、「絶対音感がある」という男子が居たので、「本当に音階で聞こえるのか」と聞いたところ、「そうだよ」と言って、ちょうどその時来た救急車の音を音階で言ってくれたのだが、具体的な音階は忘れてしまった。

で、音と音階の具体的な例を調べてみると、NHKの時報の「ポッ、ポッ、ポッ、ピーン」は最初の「ポッ」が440Hz、最後の「ピーン」が880Hzだそうで、一方NTT117」でお馴染みの時報の「ピッ、ピッ、ピッ、ポーン」は約415Hzと約830Hzだそうだから、下の表の音楽の音階と周波数によれば、NHKの時報は「ラ」で始まり、最後は1オクターブ上の「ラ」で終り、NTTの時報は「ソ」で始まり、最後は1オクターブ上の「ソ」で終るわけで、絶対音感者にはそれぞれ、「ラ、ラ、ラ、ラー」、「ソ、ソ、ソ、ソー」と聞こえるのだろう。

音階と周波数(Hz

ファ

220.000

246.942

277.183

293.665

329.628

369.994

415.305

440.000

実際、楽器演奏者の多くは、基準音となる440Hzを認識できるし、そこを基準に音階を辿れば、その音以外の音であっても認識できるものも多く(後述の相対音感)、特に、一般に弦楽器奏者は、他の音に対してはそうでなくても、オーケストラが始める前に演奏者がてんで我勝ちのように鳴らすチューニングの音に用いる音については敏感であると言われているようだ。より詳しくはそれなりのサイトへ。


2−3.音痴

音感のついでに音痴の話しにふれたい。ところで、痴呆と言う言葉は差別的感覚があると言うことで、政府は「認知症」としたのだが、どうも「知」は良くて「痴」はいけないと思っているらしい。たしかに、これらが病でないとすれば「やまいだれ」は取った方がいいのであろう。それを意図しているのか、「認知症」と名前が変わった前後から「単なる痴呆は病気ではない」などと国は言い始めたが関係有るのであろうか。

 「やまいだれ」は「障害がある」という意味なら、認知症は要は「症」の一字に“障害がある”という意味がるのであり、音が同じと言っても「知」とは意味が違う。音痴がこのままなら、いわば、「音感に障害がある人」とでもなるわけだろうから、差別的感覚を無くすには、「音感症」とでもなるのであろうが、こっちの方は差別感はないかも知れないが、むしろ“決定的”な言い方のような気がするのは、私の単なる気のせいか。何でも「障害のある人」というのは考えモノで、「バカ、たわけ、アホ」が差別用語と言うより汚い言葉であるとするなら、「脳の働きに障害のある人」とか言った方が良いのであろうか。

 夏目漱石は「頭が痛い」でなく「脳が痛い」と言ったそうだが実にリアルな表現である。


 で、音痴に関してだが、私の同級生の二人の女性が、どうもそうらしく、と言うのは本人達は自覚していなかったのだが、他人からそう言われるので、「そうだろう」と思ってしまったということである。そのためカラオケは歌わない。しかし、二人とも中学では吹奏楽をやっていたのだがら、音感に障害があるとは思えない。

この内の一人は娘も音痴らしく、母娘で歌うと「上手くハモり、どうして私たちが音痴なの!」とよく言っているそうだ。因みにこの娘さんは大人になった今もマチュアのオーケストラでビオラを弾いている、と言うことで話しを聞いたら、楽譜も読めるし、音のズレも解るそうだ。

私は今は声が出なくなったのでサヨナラしたが、カラオケを歌っていて、自分で自分の音程がずれているのが判ると、ズズッと音程を修正するのだが、普通の人は大抵そうらしいが、音痴の人は多分それを感じないのではないかと思っていたのだが、上記の女性が言うには、「判っても直せない」のだそうだ。

そこで、音痴も全音にわたって、ずれていても感じない“真性音痴”と微妙に少し音程がずれる“疑似音痴”があるような気がするのだが、私は今だかつて真性音痴に出逢ったことがないので多分殆どの人は疑似音痴だと思うのだが、これは直せる。

音痴だと言う人のカラオケを直したことがあるのだが、その人には「自分の声が聞こえていない」事が解った。音痴を直す第一歩は、まずは自分の声を良く聞くことなのである。これはヒョッとすると、今思えば、骨導音と耳導音の差異の区別と関係が有るのかもしれない。簡単に言えば、ほとんど耳導音のみの、自分で聞くと「何て変な声。私ってこんな声!」と思う自分以外の全ての人がそう聞いているテープレコーダーの声と相当量の骨導音を含む自分が話している時に出ているであろうと自分が思っている声の差異に気付けるかどうかもしれない。風呂場で歌を歌うと自分なりに上手く聞こえるのはエコーのせいもあるが、多分頭蓋骨に響き、骨導音的要素が加味され、自分の思いこみの声に近づくと言う理由もあるのではなかろうか。

と思っていたところ、微妙に音痴の気のある下の娘に、先日出来上がった結婚式のビデオを見せたところ、「私の声ってこんな声。おかしいなー。何か変」と言っていたので、私の推測もまんざら的外れではないと思う。


2−4.音痴のタイプ

ちょうど、こんな事を考えている時、「聴覚・ことば(キーワード心理学シリ−ズ )重野純 /新曜社 2006/03出版」をたらたらと眺めていたら、面白いと言うより流石「専門家」と思わせるような記述を見つけた。

音痴のタイプはやはり一括りでなく、以下のように区別できるらしい。詳しくは上記書をご覧頂きたい。

@ 高低がほとんどなく、歌うと一本調子になってしまう人。

A 高低はあるが、全体に音程が外れる人。

B 音程が合っているときもあるが、時々外れる人。

C 低い(または高い)音域であれば、音程は外れない人。

D 正しいメロディーに対して音程が平行してずっと外れたままの人。

E 地声と裏声の境目で、音程が不安定になる人。

私が真性音痴だと思うのは、@とAでB以下は音痴ではなく直せると思う。
 
 重野氏が述べている事で、興味深いのは、「メロディーの認知に必要な情報は、「周波数の絶対値ではありません。周波数の比、すなわち音程が重要なのです」と言うことで、これを「相対音感」と言うのだそうだが、これがあれば、音譜は読めなくても、曲を歌うことはできるのだそうで、当に私はもちろん楽譜を音階で読めない多くのカラオケ歌手もそうなのだろう。


 2−5.アイドリングの音階

では、具体的に私を地獄に陥れた駐車場のアイドリング音を検証してみようと思う。やっとの思いで、辿り着いた市当局による当時の測定結果の一部のピーク時のデータは以下のようである。私としてはもちろん若干の区別は有るモノの、一応まとめて「ウヮン、ウヮン、…」という騒音であったのだが…。

車 種

第1ピーク音

第2ピーク音

第3ピーク音

大型車1

20Hz 

73dB

80Hz

55dB

 

 

大型車2台

25Hz 

80dB

40Hz

75dB

 

 

大型車+自家用車

100Hz 

80dB

160Hz

73dB

50Hz

70dB

心理学のウエーバ・フェヒナ(Weber-Fechner)の法則なるモノに依れば「人間がある周波数の音を聞いたとき、その2倍の周波数の音を聞くと音の高さが2倍になったように感じる」と言うのがあるそうで、これは実験によって確かめられた人間の音感の特性のようである。

どの周波数がどの音階になるかは詳しくは、「音階と周波数の対応表」に依るのだが、ここでは詳しいことは省いて、当該周波数の“およそ”の音階を示すと、“およそ”と言うのは、「音叉の音440Hzがラ」以外は「音階と周波数の対応表」では数値がピッタリ対応しないからであり、そこが騒音の騒音たる所以でもあろうが。

それは、音階は平均律と言う、「オクターブ内の12半音を幾何級数的に等分したもの」であり、一方、低周波音測定は1/3オクターブバンドという等分方法であり、要は、基準値と等分方法が違い、多分どこかでは一致するのだろうが、用途の違いに依るモノであり、ここでは、我が無知と怠慢故、詳細は省いて、要は「20Hzの音はレとミの間の音でミに近い方の音である」と言いたいだけであるのだが。

音名

音階

周波数Hz

C

16.3515

C# /Db

 

17.3239

D

18.3504

D#/Eb

 

19.4454

E

20.6017

この伝で行くと、上記のアイドリング音は“およそ”以下のようになる。

車 種

第1ピーク音

第2ピーク音

第3ピーク音

大型車1

20Hz

73dB

80Hz

55dB

 

 

 

大型車2台

25Hz

80dB

40Hz

75dB

 

 

 

大型車+自家用車

100Hz

80dB

160Hz

73dB

50Hz

70dB

もし私が絶対音感取得者であったなら、音階とのかなりのズレを感じ、多分極めて不愉快な感じで、それぞれ、「低いミとそれより4オクターブ上のミの“和音”」として、「ソとミの“和音”」として、「ソとミの少々厚みのある“和音”」として聞こえたのであろう、と思う。


 2−6.低周波音は絶対音感者もビミョー
 
 しかし、多分必ずしもそうではない様だ。

 と言うのは、ウエーバ・フェヒナの法則では「2倍の周波数の音を聞くと音の高さが2倍になったように感じる」と言うことなのだが、その2倍の周波数というのは高い音でも低い音でも同じなわけで、上記の表で行くと高い方ではラからラの一オクターブが220Hz440Hzで、アイドリングの場合はドからドの1オクターブが16.3515Hz32.703Hzと言う事になる。その高低の周波数差は前者では220Hz、後者の場合は16.3515Hzで、約13倍あるが、これでも一応人間には1オクターブの差に聞こえるのだろうか。

 しかし、流石の人間の聴感も単音の場合はまだしも、現実音のような複合音となると、周波数が近いと明瞭に聞き分けることができないらしく、それが「うなり」として聞こえてしまうらしい。となると、低周波音や、さらには20Hz以下の超低周波音では、極端なことを言えば、1Hzをドとして2Hzが一オクターブ上のドに聞こえるのだろうか。更にはその間の音階が聴き取れるのであろうか。
 恐らくその間にはドもレもミも有り得ず、結局は、その周波数の整数倍である高い方の倍音の音階の方が勝ってしまい、言葉で表すには音階など関係ない「ドゥワー」と表現する周波数の音になってしまうのではなかろうか。


 さらに、絶対音感者も和音を聞き分けるのはなかなかに難しいのだそうだ。「絶対音感といえど、人間本来の機能を超えることはないということだ」。これが色の場合だともっと研究が行われており、ハッキリ解ると思うが、そちらの本を読めば解ると思うので割愛。


 2−7.臨界期

絶対音感と英語脳が似ている点に、その獲得には臨界期、簡単に言えば年齢制限があると言うことで、5才から7才くらいまでに獲得しなければならないとされている。

もちろん機能により臨界期には年齢のズレが有るようで、不可逆的(簡単に言えば“その時でないといけなくて、後ではダメ”)であることには変わりない。

ただ、臨界期に臨界点がある点などは家禽類の「刷り込み(人間ももちろん、動物の一生のある時期に、特定の物事がごく短時間で覚え込まれ、それが長時間持続する現象。刻印づけ、インプリンティングとも呼ばれる)」と似ているようだが、「刷り込み」は瞬間的に行われるのに対し、絶対音感の獲得には数ヶ月以上にわたる特殊な訓練が必要とされているようだ。

英語脳という形は別としても、普通の英語能力の獲得でさえ数年の普通の学校の普通の訓練ではその獲得が難しいことは、日本の英語教育の過去・現在を見れば明らかである。“俗説である”英語脳説に触発されたわけでは決してないのではなかろうし、発展途上の脳科学を教育の導入することにためらいが有るのは保守としては尤もであるが、やっと、文科省も早ければ平成19年度から小学校でも英語教育を必修とする方針を固めているようだ。

しかしながら、既に1997年以前にも中教審で教育の危機が認識され、その最終形態の「ゆとり教育」でやっと諦めたかに見えた教育行政は、結果としての失敗を何ら認めるわけではなく、それから10年経ち全ての面で完全に崩壊してしまった様な今日に於ける審議状況を見ても、これまで文部省と直結していた様な“識者”は英語に拘わらず、これまで30年間以上に渡り子ども達の学力を落とし続けた責を認めるわけではなく、今もって本質とはかけ離れた論議を進めている。文科省は、崩壊の中で一体どう言った形での更なる権力の拡大を狙っているのであろうか。官僚の権力への飽くなきどん欲さには止まるところがない。

では、だれも命まで取るとは言わないのだから、完全無責任を貫き通して、まずはひとまずやってみれば良いではないか、と思うのだが所詮保身小心者の官僚のこと敢えて火中のクリは拾わないのであろう。

個々人の子育ての難しさはその「不可逆性」にあろう。しかし、教育「システム」の回復は可能である。もちろん、システム・ダウンに要した3倍の時間が掛かるであろう。即ち、一世代30年間の遅れはその約3倍の一世紀100年を要するであろう。しかし、決して不可逆的ではない。子ども達の前途は多難であろうが、救いが無いわけではない。

どんな能力もそれなりのレベルとなれば間違いなく「特殊な訓練」とそれに耐えうる自らの努力が必要なのは英語に限らない。早期の英語教育は必ずしも良いとは思えない。もちろん、単なる伝達手段としては、意味があろうが、一体何を伝えるのか。内容の無いものを幾ら伝えても意味がない。

人間は言葉で考える。従って、まずは、思考・発想形態の確立が先決であり、それもしない内に日本語と英語の様に、単に言語と言うより発想形式そのものが根本的に異なるモノを並行的に学ぶことは、過程的に大きな混乱をもたらす可能性が大きいのではなかろうかと思う。しかし、ヒョッとしたらそのカオスの中から思いもよらない全く新しい発想・思考形態が生まれる可能性が無いとも言えないではないが、日本の公的義務教育がそんな進取の思想で冒険をするとは思えない

絶対音感の獲得には生得説、学習説があり、どちらも有力な実験データがあるようで、決定していないようだ。最近では遺伝説的なデータも出ているようで、多くの分野に有るように、法則、理論、要因などは一元論から二元論、そして、多元論に発展していくのと同じく、まさにこれもその道を辿っているようで、要は“よく解らない”と言うことではなかろうか。

しかし、言葉一般に関しては、母語の確立は当に三つ子の魂百までで、3〜6歳と言われているので、この間の親からの繰り返し学習と言う学習説的要素が必須であることは間違いない。


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