「音と脳」序論
2006低周波騒音問題事情
0-1.低周波音被害の後遺症
低周波騒音地獄の現場を離れて既に丸6年以上が経ちました(2006年)。しかし、今もって自動車のアイドリングはいけません。特に低音を効かせているマフラーの音は最悪です。これらが「合法」なのですから法律に疑問を持たざるを得ません。
昨年来、上空でのヘリの往来が増え非常に苦しんでいます。特に、近づいてくるヘリの”辺りをウオーッと包むような空気の圧力”が頭をグーッと押さえるような気分は最悪です。この後ヘリの「パタパタ」と言う音が聞こえてくるのですが、それが続くのはほんの1分程度のことなのでなんとか我慢できるのですが、非常に苦しいモノです。まー、これが沖縄の基地周辺では頻繁に起きるので堪ったモノではないと思わざるを得ません。
中部国際空港の開港以来、小牧空港での自衛隊の使用頻度が増えたのでしょうか、それまでは上空をヘリが飛ぶなどと言うことは月に何度かほとんど記憶に残らないほどの頻度でした。ちょうど愛知万博開催期間と自衛隊の海外派兵の時期などが重なったころは日に数度もヘリの行き来が(浜松との間?)有り最悪でした。もちろん、こんなのは、1日150回も米軍ヘリが住宅地上空を旋回し、多いときは200回から300回も離発着するという沖縄や各地の基地周辺などと比較すれば全然問題にならないようなモノでしょうが…。
他にも当団地はではまだ開発が進行中で、建築現場で活躍する”静音設計”がなされたバックホー、クレーンなどの小型建機の低周波音で、見る見る血圧が上がっていくのが眼に見えるような気がします。そして、衝撃音、異音(犬の吠え声、笛の音など)に対しては心臓がドキッとするような“過剰な反応”を示すという後遺症的症状は一向に治まりません。
こんな私の状態を考えると、低周波騒音は年月を経ても癒されることのない、何らかの聴覚機能的な障害を生じさせる、更には音に関連した脳の認識、あるいはその反応に何らかの変化が起きたのではないかと考えざるを得ません。
0-2.脳科学
と言うことで騒音に対する聴覚と言うことだけではなく、もっと広い意味での脳の「知覚」、「感覚」、就中「認識」のメカニズムは一体どうなっているのであろうかと、調べ始めてみたのですが、これが何と、「近年、生命科学の分野は発展がめざましい。そのなかでも、脳、心、意識というのは生命科学における最後の、そして最大の謎であり、同時にたいへん魅力的な研究対象と言えるだろう。」と言うことで、脳神経科学、認知神経科学、大脳生理学、…、など様々な分野の専門家が現在入り乱れて論壇風発、百花繚乱の状態で、ちょちょいとは解明できそうもないことが解りました。
それもそのはず、大きく一括りにした「脳科学」がこういった状態になったのは、世界的にも1980〜90年代からであり、日本で一般的に広まったのは、2003年を代表する大ベストセラー「バカの壁」の養老孟司氏とか、TVに良く出てくる茂木健一郎氏などこの分野の広告塔的存在と言える人々の活躍からの様です。
即ち、脳科学は当に現在進行形の分野であり、まだかいつまんだだけの私としては他人にお話しするのは非常におこがましいのですが、安心してください。この分野は「これからの研究に待たれる」と言った状態であることは確かですので、スタートは同じなのです。興味のある皆さんは是非とも勉強してみてください。
0-3.脳とコンピュータ
で、ひとまず導入として、解ったことの一つは、「脳科学」の進歩には、コンピュータの発達が多いに寄与していると言うことです。元々コンピュータは単にデータ処理のために数学者が発案したと記憶しているのですが、最近この数の処理システムが脳のシステムに似ているのではないか、と言うより、そう考えると脳の働きを上手く説明できる、というような事が解ってきたこと多いに関係が有るようです。
私なんぞ最初は脳の仕組みを真似してコンピュータを創ったと勝手に思っていたのですが、現実は全くの逆で、考えてみればコンピュータの発明当時、現代コンピュータの生みの親といわれている天才数学者として名高いフォン・ノイマンが着目したのが1944年だそうで、当時はもちろん今ほどには脳の仕組み自体が解っていなかった訳ですから当たり前の事なのですが。
日本でのこの急激な脳科学の進展に寄与している一人が京都大学大学院文学研究科実験心理学の苧阪直行教授です。彼は「意識という主観的な経験は科学では捉えることができない、と言われてきました。しかし脳の活動をリアルタイムで捉えるイメージング法の進歩や、巧みな実験的方法の開発によって、いまや科学はどんどん意識の仕組みやはたらきを、研究し始めています。脳研究、知覚、身体、そして、哲学、心理臨床の各分野を代表する研究者たちが一堂に会し、…、意識という人間の本質的活動に迫ろうとする研究者たちのスリリングな研究の成果と考察を、…」と述べています。
当にこの分野は“科学する哲学者”“哲学する科学者”らが、それぞれ自分の専門の立場から理論、論理の検討、確立に迷走しています。非常に面白いのはその方法で、簡単に言えば、現実的には、生きている人間の脳をそうそう簡単に解剖できるわけではないし、当に活動している脳の活動を見取る事は出来ないので、「脳波の働きから見て理論的仮説を立て、その結果をコンピュータで再現し、証明、確認する」という方法が採られていると言うことです。
0-4. 知覚研究は、主観的経験の研究
これらの進展に連れ、脳の問題に関してはこれ迄の「唯物論的思考をする勢力」は多いに分が悪くなっているようです。彼らの思考方法の一つは、カリフォルニア工科大学生物学教授の下条信輔氏が明確に述べているのですが、「(これまでは)主観と客観の認識の仕方に問題があったのではないかという点。…。つまり、行動主義では、目に見える物理的な測定可能なものだけが客観的で科学的だと考えたわけですが、一方私たちは、知覚そのものはある意味で主観的だが、知覚研究では(知覚について自他の共通理解の度合いに応じて)科学的であり得ると考えるわけです。」と言うことで、「知覚研究は、主観的経験の研究である」(「意識の科学は可能か」新曜社)と述べています。
これは世界的な脳神経学者アントニオ・ダマシオ氏が、健常者には考えられないような不思議な行動や発言の観察から最終的に導き出したのが、意識とは「認識の感情である」という考え方と同意なのでしょう。当に長年の騒音被害者の意を代弁しているような言説です。
これらの論は、感覚閾値の問題に当てはめれば、我田引水するまでもなく、「閾値は被害者にあり」と言うことになります。くどく言えば、感じる感じない、煩い煩くない、聞こえる聞こえない、気になる気にならないと言う個人の知覚は、個人の主観的経験にこそ存在すると言うことと同意になります。即ち、てんでまちまち、曖昧模糊とした個々人の感覚知覚状況を研究することこそが実は科学的であり得るのです。
従って、「参照値」のように「目に見える物理的な測定可能な数値だけが客観的で科学的だ」と言う考えに固執し、被害者を一律に切り捨てることこそ、当に「唯物論的思考」の典型的なモノなのです。
ただし、下条氏の考え方の条件である「共通理解の度合い」と言う考えを低周波音問題に当てはめてみると、そもそもが、被害者と御用学者達では、「感じるvs感じないはず、煩いvs煩くないはず、聞こえるvs聞こえないはず、気になるvs気にならないはず」という真反対の立場ですから「共通理解の度合い」は今もって完全に零な訳で、現状に於いては、科学的とはおよそ遠い存在と言うことになります。
現在の低周波音被害者も元は通常的には低周波音を病的に「感じない、煩くない、聞こえない、気にならない」立場の人間であったわけで、それが「ある契機」により「感じる、煩い、聞こえる、気になる」ようになったわけですから、そこには必ず何らかの機序(しくみ)があるはずです。
日本の騒音“専門家”はそれらの全てを“単なる気のせい”として、一刀両断に低周波騒音被害者を切り捨てています。”専門家”の中の一人でも、もし、低周波音を「感じるとすれば、煩いとすれば、聞こえるとすれば」と言う仮定を立てれば全く異なった方向が見えてくるはずなのですが、残念ながらそうした人はいないようです。
0-5.専門家の呪縛
この分野に限らずどの分野に於いても、多分自分の知らない新たなる事実に興味を持ち、研究しようとする者と自分の専門的分野の能力・知力に自信を持ちすぎるあまり、「自分が知らない様なことは有り得ない、間違いである」とまで全否定するような2種類の人が存在すると思うのです。
後者のような“専門家”達にとっては、「専門家の儂が理解できない、知らない様な状況は有り得ない。そんな事を喚き立てる輩は単なる素人の無知のバカか、××××に違いない」と正当にも、傲慢にも思うのが恐らく“専門家的常識”なのでしょう。
それはそれで結構。ただし、完全否定するなら、彼らの大好きな「科学的」な研究に依らなくてはならない。まー、その一つが「参照値」なのでしょうが、世の中には私などではとても想像できないような難病、奇病や、特に最近では、エッ、そんなのが病気というの、と言うような病気がいっぱいある訳で、それでもそれなりに調べればそれなりの説明があるのですが、少なくとも豊田市の図書館で調べられるような、それなりの医学専門書を見ても低周波騒音被害に関する記述は全く出てこない訳ですから、専門分野打って一丸とした様なこの徹底した完全黙殺と言うより、別の味方をすれば専門家は完全に無知と言えましょう。
こういった状況では私自身でさえ、時としては低周波音問題は全くの架空のことではないかと思ってしまいます。しかし、私の経験した苦しみは、私にとっては間違いのない苦しみであり、その地獄の日々を記憶から消し去ることはできないのであり、“専門家”達が幾ら「低周波騒音被害等と言うモノはない」と言うご託宣を頂いても、無いモノは無いのだと簡単に思うことはできないのです。そして、逆に低周波音問題についての、このようなあらゆる分野にわたる完璧なまでの黙殺と言う現状はやはり異様としか言いようがないのではないでしょうか。
いずれにしても脳の話しは関係分野全てが現在進行形中の話しで、何ら確たる結論は出ていないようで、そっちをチョット調べれば、脳の意識の問題に関し既に確立された“ご託宣”でもあるだろうと思っていた、非常に甘かったようです。私なりに藪を掻き分けていって見たのですが、チョットした出口が見えたかなと思ったら、その先は更に先の見えない地平線であったのはショックでした。しかし、ある意味新たなる光明が差してきたような気がしないでもありません。
脳の認識の「組み合わせ」の数は宇宙に存在するであろうと言われる星の数に劣らないそうですから、この未開の地が未開で終わるか豊穣の地になるかはこの分野の”専門家達の想像力”によるのでしょう。
それにしても元に戻って、人間の考え方の根本を変えることは、無知の素人でも難しいことですから、ましてや既にその道の専門家とか権威と言われるようになっている人たちが、これまでの全てを根本から覆されるような状況は許し難いと考えるのも無理からぬことかもしれません。現在でも脳科学の研究に関連する既成の専門分野の「旧勢力」の反発は凄いようです。しかし、いずれ“科学的“と言うことに対する、地動説のような革命的な状況が訪れるかも知れません。願わくはそうあって欲しいモノです。
0-6.科学的とは
既に少し前の事件になってしまい、忘れてしまっている人も多いでしょうが、”科学的知見“と言う言葉が頻繁に使われたのは例のBSE問題です。この際、食品安全委員会が、国内の牛海綿状脳症(BSE)対策について「科学的知見に基づいて」下した評価は、「20か月齢以下の感染牛を検出することは困難」と言うモノでした。
そもそも発症率も良く分からず、「発症の時期も3年から50年」では、これは地震の、「M8.1前後の東南海地震の起きる確率は今後30年で50%以上」と同じ様なモノで、学問的には意味があり、それなりに科学的なのでしょうが、確立50%は「丁半ばくち」と何ら変わりません。強いて言えば、「以上」と言う点が科学的なのでしょうが、これでは「当たるも八卦当たらぬも八卦」と何ら変わるモノではなく、現在を生きている人間にとってはむしろ無意味な情報とすべきで、そうした情報の取得(地震予知)のために何億円もの費用を注ぎ込むことは、敢えて全く無意味と言えましょう。
挙げ句に最近のニュースでは、韓国への輸出牛肉に骨が混じっていた際には、「骨がまったく含まれない食肉だけを輸出することはほぼ不可能だ」と主張するアメリカとしては、そんなモノをギャアギャア騒ぐ日本人は全く非科学的な国民だと思うのも無理からぬことでしょう。
日本の政策担当者は多分、極めて非現実的であっても「具体的な数字」さえ示されていさえすれば科学的であると考えているのでしょう。ただし、この数字は自分達に都合が良いか、自分達の意図をぼかすことができる場合に限るのでしょうが。
このような科学的知見は、古い言葉で言えば「杞憂」という事になるのでしょう。と言って、私は格別肉が好きなわけではないので、敢えて米国産牛肉を食べはしませんが。
いずれにしても、これらが科学的と言えるなら、私としてはむしろHK女史の予言の方が期間が狭いだけむしろ遙かに科学的ではないかと思います。もし、彼女が何日以内に何%の確率でウニャウニャなると言えば、言葉的にはそれは完全に科学的となるのです。事の真偽が直ぐに解ってしまうので難しいところでしょう。しかし、猶予期間が長いと言うことは結果が見えない可能性があるわけで、それはノストラダムスの予言と同じく、むしろ誰もが忘れてしまう頃に結果が出るような長期予想でなくてはならないところが科学的であるかどうかのポイントなのでしょうね。
0-7.確率論外
これまでの”科学的“と言うのはあくまで経験に基づく確率論であり、その第一要件は数的に処理できると言うことの様です。BSE問題に関しては、その確率の元となる数そのものに疑義があるばかりか、今回の再輸入再開に際してアメリカはその数さえ示していないようですから、どう考えても明らかに、”役人が言うところの科学的”とは言えません。それを日本は”科学的知見に照らして”などと言っているのですから、日本の科学的知見というのは、間違いなく政治的知見なのです。
確率と言うことでは原爆症の「原因確率」と言うのが今年問題となりました。やはり、ここでも当に「10%以下」は切り捨てという“90%タイル理論”が働いています。で、もちろん「参照値」の90%タイルというのもまんざら独断というわけでもなく、現在の科学的な常識なのかもしれません。
しかし、この「国が原爆症認定審査の方針としている「原因確率」について、「放射線に起因するものである確率を示すものにすぎず…(中略)…高度の蓋然性の有無を判断するに当たっての一つの考慮要素以上の意味を有しないというべきである」(判決426ページ)という判断を示し、被爆前の健康状態と被爆状況や急性症状、被爆後の生活・健康状態などを総合的に考慮して判断すべきであるとしていることです。」(東京都原爆被害者団体協議会「東友会」)と言う判決は、「これは“「原因確率」でいくと、残留放射線は爆心地でも3日目にはゼロです。認定事例を見ると、これまで認定になった人でも、新基準では却下です。」という現実の話しの方がより科学的であると言うことでしょう。
明らかな障害が残るような場合でこれですから、明確な障害が見えない上に環境省言うところの”公的に発表された科学的知見“の中に「現実に低周波音被害がある騒音値」では被害は有り得ないとする「参照値」があるような低周波音公害などは”認定”に何十年掛かるか、 or永久に認定されることはないでしょう。こんな状態では、少なくとも被害者と研究者の間に到底「共通理解」などは生まれるはずはありません。
根本的には、これまでの“科学的”の意味が根本から見直されるような革命的な事態にでもならない限り難しい状況です。
0-8.骨伝導
さて、次に私を脳科学の方に導いていってくれた幾つかの内容を断片的に述べてみます。
その1番目は骨伝導音です。これは低周波音に関しては汐見氏が詳細に述べられています。私が考えたのは、それでは高周波音はどうであろうかという仮定です。確かに、高周波音が固い頭蓋骨を直接貫通することはできないかもしれませんが、周波数の小ささから考えると、目、鼻などの人間の耳以外の「穴」から聴覚器官を経ることなく、(実は経ているかも知れませんが、音として認識していないのですから)脳に届く可能性は十分あるのではなかろうかと考えたことです。
ここで、電磁波の事を考えてみますと、理論的には電磁波も音波も似たようなモノで、「頭蓋骨はドーム状」ですから、それらの突き抜けた音波にしろ電磁波にしろ頭蓋骨内で(残響が残ったとすれば)様々に反射した挙げ句が、最終的には脳の一点に集中する可能性は理論的には極めて高いはずです。しかしながら、残念な事にこういった研究はないようですので出典はなく、あくまで私の仮説ですが、もし、これが長期暴露になれば、「水滴石を穿つ」ではないですが、脳の一定の部位が影響を受ける可能性は大きいはずです。多分これは携帯電話有害説にも繋がるのだろうと考えますが、それも出典はありません。類似出典は以下です。
超音波は聞こえる? 骨で音を聞く
0-9.可聴域外音1
可聴域外の音は単に低周波音部分のみだけではなく、可聴域以外の音は上も下も聴覚器官を経ずに脳を直接刺激するのではなかろうかと言うことです。
当然のことながら自然界では超低周波音から超高周波音まであらゆる周波数の音が存在するわけで、その全ての周波数の暴露の中に生物は居るわけです。その内人間の聴覚が音として認識しうる周波数部分がいわゆる可聴域音と言うことなのです。
普通の生活に於いてはその周波数内さえ認識すれば問題はない訳です。可聴域外の周波数の空気振動は聞こえなのではなく、単に人間の聴覚脳が「音」としては認識せず、例えば、“処理不可能な不可思議な刺激”として認識するのか、全く認識外となるのではないでしょうか。
特に、加齢と共に高周波部分の音が聞こえなくなってくるのは人間の存在に必要不可欠な音では無いと言うことでしょう。加齢と供に高周波部分の音はドンドン認識程度が落ちていきます。特に500Hzを越えた部分は急激に落ちていきます。一般に人間にとって「聞き取りやすい音域」は300(〜400)Hz〜2000(〜3000)Hzと言われいますが、実のところ男性の平均声域は90〜130Hz、女性は250〜330Hz程度ですので500Hz以上が聞こえなくなっても人間に長い歴史の中での生活に於いて、音域的には問題はないのです。ただし、大きい声でなくてはいけなくはなりますが。
ところが、一方、低周波音部分はほとんど認識程度が落ちません。不思議なのは、それが何故なのかと言う様な研究が無いようです。と言うことは、個人的仮定が可能なわけで、多分、人間の長い進化の過程で低周波音域はかなり不要になったとは言え、やはり、地震、地崩れ、津波等が持つ低周波音、超低周波音などの感覚は生物としての生存本能の古い記憶として消し去ることができないと言うのも可能でしょう。
しかし、機械文明の発達は低周波音を自然現象とは全く別の手段で頻繁に発生させてしまいました。もちろん進化した今の人間の脳が単なる刺激or処理不能な刺激として単純にスルーさせてしまえば低周波音問題は起きないはずです。多分、低周波音が自然現象のように一時的な発生なら恐らくそうなっていたでしょう。しかし、現実の機械的な低周波音の発生は長期or頻繁で、それが極めて短期間になされてしまいました。そのため“進化に遅れた人間”の中に、遠い昔に本能的として持っていた自然界の危険察知音と混同して記憶が甦えってしまったのではないでしょうか。
と考えると、低周波音被害者が陥る地獄は、わずかに残った記憶が突然あるいは徐々に呼び覚まされ、人間の脳としては余りに古い記憶なので、何が何だか解らないような脳の混乱状態を示しているのではないでしょうか。
因みに低周波地震の卓越周波数は1.2Hzと言う超々低周波の波群らしいのですが、それらに対する人間の認知は進化の段階で格別に問題ないモノとして、既に完全に退化してきたモノであり、現代では殆ど不要となったのでしょう。現実的に低周波を伴う地震はほとんど毎日日本のどこかで起きています。
未だに自然界の動物が大災害の前に大量に逃げる事があるのは、象が単に低周波音が聞こえると言うだけで無く、まだそんな危険察知の能力が多くの野生動物に残っているからではないでしょうか。それは単に可聴域の問題ではなく、可聴域外の音を時に応じて認識する能力があるかと言うことではないでしょうか。
0-10.可聴域外音2
一方、高周波音の「ピーー」とか「キーーン」と言う音を聴いた場合のことを考えてみると、その時の症状にも汐見氏言われるところの「風変わりな表現」の低周波音独特のゆっくりとした波or振動を感じさせるような表現以外はほとんどが当てはまります。即ち、「同じリズム」「脳みそが揺すられる」は振動数が多ければもっと小刻みな「ガッガッガ」とか言うようなモノとなり、リズムや揺さぶりなど感じている暇がないだけで、高音では、全く別の表現、例えば「針で刺す痛み」と言うような表現になるのでしょう。周波数の小さい刺激は人間の意識としては当にピンポイントなるわけです。
そして、両者に共通するのは、その原因が音にも拘わらず、「耳が痛くなる」と言うより、「頭が痛くなる」と言うことです。それは脳が刺激を痛みとして感じているのであり、その痛みは低周波音では鈍痛であり、高周波音では激痛となるのでしょう。
腹痛でも歯痛でもそうですが、鈍痛は何とかある程度の時間我慢できますが、激痛はそれができません。従って、長時間にわたる高周波音の被害は生じ得ないのでしょう。空港近くでジェット機の発着音やタッチ・アンド・ゴーをしばしば聞かされていればそれなりの障害は出てくるはずで、本来、多くの人たちが被害を訴えているはずです。そう言った報告が出てこないのは御用、天下り組織の空整協などの“努力”(=インチキの調査or何とか言いくるめる、宥める)によるのでしょう。
仮に低周波音被害が生じそうな長時間「キーン」という音や「それより高い音」を長期間聞かされたら一体どんな事になるでしょう。もちろんそんな実験も研究も無いはずです。戦争中には有ったかもしれません。それは拷問であり聴覚器官と言うより脳そのものが破壊されるはずですから。
0-11.苦痛も脳の認識
人間が苦しい、痛いと言うことは脳がそう意識しているのですが、仮に、脳自体が気付かない様な鈍痛があった場合にはどうなるのでしょうか。恐らく事態は無意識のうちに悪化してしまうのではないでしょうか。音に限って言えば、脳がその不可解な刺激を「どうも音らしい」と解った時には“地獄”だったと言うことではないでしょうか。
これは「沈黙の臓器」と呼ばれるほど障害があっても症状が出ない肝臓が置かれている状況と似ているのではないでしょうか。
閾値、参照値等と言う線で区切るのは学問的には科学的なのでしょう。しかし、単に聞こえるから被害があり、聞こえないから被害はない等と言うような話しは、痛いからどこか悪い、痛くないからドコモ悪くないという考えと同じであり、全くナンセンスです。むしろ全く逆なのではないでしょうか。
癌など痛くない場合の方が問題であると同じように、聞こえない音、即ち聴覚が認識しない音こそ問題が有るのであり、しかも、それはあまり大きく可聴域を超えると全く生命の保存の機構として認識外となる可能性があり、聴覚器が或いは脳がイマイチ認識できないような、ちょうど「可聴域を少し下回る音域」こそが一番問題なのではないでしょうか。
と言うことで「聞こえないから被害はない」と言う考えは全く誤りであり、むしろその反対で「聞こえない」からこそ、と言うより、より厳密に言えば、“聞こえなさそうで聞こえる“or”聞こえるか聞こえないかの線上にある”からこそ、脳が何とか処理しようと苦しみ、その脳の苦しみが低周波騒音被害となって発現するのではなかろうかと考えるのです。しかもこれは個々人の聴力によりぶれがあるのは当然で、物理的に何デシベル下というような絶対的な数値はなく、強いて言えば個々人の聴力の少し下の数値と考えます。
0-11.アウェアネス=気付き
と多々推論をして見ましたが、そこで、元に戻って、そもそも、音に限らず脳は認識しないモノに対してどんな反応を示すかと言うことを調べようと思い、また、反応の前に刺激に対しての知覚、認識はどうなのであろうかを知ろうとしたことが私は脳のお勉強をしてみようと考えた発端です。
この種の本での第一歩のキーワードはアウェアネス、クオリア、ディレイ、…などで、最近皆さんもどこかで聞いたことが有るかと思います。その詳しい説明は、また、多くを要するので今回は割愛と言うより、今まだ私の任ではないと考えますが、非常に解りやすい話しを一つします。
それは「他人にくすぐられるとくすぐったいと感じるが自分でくすぐっても感じない。(これは刺激と脳の認識に)ディレイ(遅延)があると(くすぐったいと)感じる。その時小脳で興奮が起こる。」(「脳はここまで解明された」 合原一幸/編著)という記述です。
これは私にとっては目から鱗でした。と言うのは、私は自動車のアイドリングの低周波騒音でヤラレタのですが、自分が車に乗っているときはアイドリング音が苦にならないのです。もちろん周波数、音圧、状況の違いは当然なのですが、低周波音問題に関して全く知らない人に説明するのには非常に苦労で、「そんなアイドリングに文句言うなんておかしいジャン。だったら自分のは苦しくないの」と反論されると、ウーンこれは確かに自分勝手かなーと思うしかなかったのです。しかし、合原氏の論で行けば、脳の当然の働きで簡単に説明が付くことだったのです。
要はその音(=刺激)に対して「(発生の)予測があるかないか」と言うことですね。自からが自らの脳に刺激の予定を与えておけば脳は混乱しないのです。脳内で合意ができているのですね。
この考えを敷衍すると、学習能力のある「お利口な脳」は繰り返しと時間の経過により賢くも学習し、「例のいつもの嫌な音がそろそろするはずだ」と思っただけで小脳で興奮が起こり、実際に起きるまで脳はスタンバイ状態が続くのではないかと私は考えるのです。
これは、私の経験として、「あのアイドリングが始まる」と思っている時の苦しさは、実際に始まった時ももちろん苦しいのですが、それよりも心理的には苦しかった記憶があります。これらの緊張感(=小脳の興奮)が脳の平生とのアンバランス状態を引き起こし、更にその緊張が長きにわたると避けようのないストレスとなり、何が何だか解らない自律神経失調症的症状となるのでしょう。前にも述べたと思うのですが、自律神経失調症と言うのは現在の医学的知見では原因不明の症状を一括りにしただけで決して病名ではないことをご記憶下さい。
0-12.苦痛の限界前
さて、脳の認識の仕方を私の現状で結論を予測するのは無謀ですが、敢えてすると、異常な事態に対して脳は、混乱し、挙げ句は認識不能として苦痛等と言うことになるのではないでしょうか。
それは例えば、皆さんが習ってもいないような内容の数学や物理の問題を解こうとした場合、いやむしろ無理矢理解かされる場合を想像してみてください。頭が痛くなるでしょう。どうしても解けない場合は、何とかそれを逃れる方法、例えば問題用紙を破るか、その立場を放棄するでしょう。
低周波騒音に関して言えば当にそれは「騒音源を絶つか、引っ越すか」と言うことです。しかし、現実の騒音源はこちらの事情にお構いなく、次から次に機械的に”問題”を出し続けてくるのです。
ここで、話しは飛びまして、先日、当地方に於ける例の姉歯物件の検証を行っているような「信用おける」構造計算事務所の設計士の人と話しをしました。余談ですが、既に過去の事件となりつつあるようですが、実際に姉歯物件は当地方にもあり、特に知多のホテルはマスコミにも採り上げられ有名になりましたが、それらの全てが再計算されました。
戻って、その中で、彼は振動の方の専門家なのですが、基本的な理論は騒音も振動も全く同じであり、おこがましいのですが、一応分野違いと言うことで、結構話しが弾みました。流石専門家、私の幾つかの疑問に対して明確に答えてくれました。注目すべき内容が幾つかありその場は盛り上がったのですが、寄る年波か事務所を出た瞬間に殆どが胡散霧消してしまいました。
が、アバウトな私の記憶で、残っているのは、建築振動の分野では、阪神大震災以降、「地震のエネルギーを瞬間で捉えるのでなく、全エネルギー量で捉えよう」という方向で検討し、やっと何とか形がまとまり始めたところと言うことでした。
0-13.急性と慢性
ここで、私がビビット来たのは、過日、新たな環境省水・大気環境局大気環境課室長 内藤克彦氏が「環境新聞(06.9.13)」で、「…。以前は騒音のピークしか測定できなかったし、環境基準もそれに基づく算出方法を用いていた。音源ごとに評価指標が異なるため総暴露量を把握できないといった課題もある。しかし、基準指定から三十年以上が経過しているし、現在では、技術的な進展もあって連続測定も可能になり、それを積分して把握することも可能だ。国際的な流れを見ても、そのLegベースでの評価が主流になりつつある」とか、 日本騒音制御工学会の会長の話の「国際的にもエネルギーベースで把握する手法が主流」と言う記事を思い出し、それと同意なのかと質問したところ、「同意でしょう」と言うことでした。
すかさず「地震に於ける全エネルギー量で捉えようと言う考えは、いわば低周波音における急性(短期)の暴露と慢性(長期)の暴露に当たるのではないか」と聞いたところ、「そう。そう考えて良い」と言うことでした。
この急性と慢性ですが、仮に極めて微量であっても慢性となれば完全に異なった事態が生じることは毒薬の致死量の急性と慢性と同じでしょう。実は、現在の化学物質の環境規制値も急性の場合を基本としており、慢性の遅効の場合を想定していないそうで、その数値を実験することは、それこそ時田氏の言う、「回復の見込みのない実験はできない」と同意なのでしょう。
ちょうどその例として、詳しくは元データを忘れてしまったのですが、和歌山カレー事件でカレーを食べながら死なずに済んだ被害者に今年になって、これまでの医学的知見にない症状が出た、と言うような記事があったと記憶しています。
これを騒音の暴露で考えてみると、例えば「100dBが2時間」続いた場合と「50dBが毎日30分」続いた場合を単純に計算をしてみると、総暴露量はそれぞれ100×2=200dB、50×0.5×365=9125dBとなり、総暴露量は「50dBが毎日30分」の場合は約45倍となります。この計算は、年に1回花火大会があった場合と毎日30分風呂を沸かす際のガスボイラーの騒音を想定しているのですが、実際には花火大会で低周波騒音被害者が出ずに、ガス湯沸かし器で低周波騒音被害者が出る可能性が示唆できれば幸いです。専門的にはもちろん問題の有る計算で、意味がないかも知れませんがそれがまんざらそうでもないのです。
0-14. インチキ規準WECPNL
上記の学問的には自分ながらインチキ極まりそうな計算と似たような計算が実は、航空機騒音の算定である「WECPNL」ではれっきとして行われているのです。その典型的な具体例は、2002年に成田空港で、滑走路が増えた際に、従来手法の評価(WECPNL)に依れば、「主滑走路だけの航空機騒音だけで算定した値の方が暫定滑走路を合わせた値よりも大きくなってしまう」という、とんでもない結果を招いたのです。
素人的には、当然、如何にインチキ科学の“騒音学”でも何らかの手は打ったはずと思うのですが、寡聞にして、その後評価法が別の方式に替わったと言う話しは聞いていません。「感覚閾値」に替わる「参照値」のようにお手軽な代替方式が無いのでしょうね。空港騒音被害者は何故問題にしないのか不思議でなりません。
考えてみれば、例えば、台風では瞬間最大風速は台風の大きさを示すには解りやすいですが、現実的には通り過ぎるまでの継続時間も重要であり、もしその間ある一定のレベル以上であれば瞬間の風速より継続時間の方がむしろ被害規模に大きく影響するはずです。
話しは戻って、くだんの建築士との話し合いは実は私が低周波音についてグダグダ言っていると言うことで、どうも建築振動で最近高層ビルに関して問題になっている長周期振動の影響を考える際に参考になるのではと言う彼の方からの申し出でした。一素人の私の話を熱心に聞いてくれました。
その当時彼は既に、11月になって土木学会、日本建築学会から出された「海溝型巨大地震による長周期地震動と土木・建築構造物の耐震性向上に関する共同提言」の概要を知っていたのですね。この提言、結構面倒な長たらしい内容ですが、要は今までは震度幾らに耐えると言ってきたが、長周期の振動が来たら、これまで耐震性がバツグンと言っている超高層ビルこそヤバイよ、と言うことなのです。
0-15.音の唸り
さて、ここで、またまた話しは飛びますが、多くの低周波騒音被害者が音源を表現するときに良く言う「ウワン、ウワンと言う音」に触れたいと思います。
スピーカーから再生される音は例えどんなに立派で高価で優秀な再生装置を使ってもその音は生の演奏とは違います。これは音響専門家でなくても常識的に解ります。その違いの一番の理由は、現実の音は必ず「唸り」を伴うと言うことです。今の再生装置でも残響は付加できます。しかし、「唸り」は再現できないのです。
この唸りの有る無しが現実音と再生音の最大の違いです。低周波騒音被害者が訴えるこのウワン、ウワンこそ唸りであり現実音の特徴です。詳しくは「ステレオの呪縛」と言うサイトを参照してください。これはかなりマニアック且つ専門的ですが、唸りの原因は「音響エネルギーは、音の振幅の2乗に比例している。非分散媒質では唸りの群(波束)エネルギーは、位相速度と同じ速度で移動する。一方、分散媒質では唸りの群のエネルギーの移動度は群速度で、位相速度と同じではない」と言うことであり、上記の建築士も「そう」と言っていました。
我々としては、生と再生音は別物であると言うことが何となく解れば良しとするしかないのですが、とにもかくにも「本当の音」はやはり現場に行かなくては解らないと言うことであり、どんなに素晴らしい録音のCDでも生のコンサートには勝てないと言うことです。即ち、現実の騒音は現場に行かなくては解らないと言うことです。
「踊る大捜査線」の青島君ではないですが、「事件は実験室で起きているんじゃない。現場で起きているんだ!」と言うことでしょう。
そして、この記述で、「音響エネルギーは、音の振幅の2乗に比例している」という記述です。これについては私自身がまだ未消化であり、もちろん"専門家"達は何とも触れていませんが、もしそうであれば、低周波音の持つエネルギーを完全にインチキしていることになります。
0-16.イジメの定義
またまた話しは飛んで、このところイジメによりこれまでにないような数の子ども達が自殺をしました、と過去形で言って良いかどうか解りませんが、文科省のイジメの定義をご存じでしょうか。文科省は
(1)自分より弱いものに一方的に
(2)身体的、心理的な攻撃を継続的に加え
(3)相手が深刻な苦痛を感じている
−もの
としています。このイジメの定義は低周波騒音被害者に何とも合致していると思いませんか。
自殺した子ども達を現在の社会状況に合わない弱体な子どもなのだから不適者不生存と考えるか、あるいは繊細な神経を持った被害に遭いやすい子どもと考えるか、もちろん文科省は口が裂けても前者と言わないでしょう。
しかし、社会問題的には、親でさえ、イジメの実体を知らなかった場合も有るわけで、もし、知っていたなら学校を休ませれば良い訳ですし、転校すれば良いのです。これは働き盛りの過労死も同様だと思うのです。死ぬまで働く状況になっていたことを配偶者知らなかったのでしょうか。
従って、担任が知らなかったと言うのを一概に否定することもできませんし、ましてや校長が知らないのは当たり前で、当然、教育委員会も文科省も知らないのは当たり前なのです。
しかし、「荒れる学校」という学校での暴力沙汰が一時に比べ下火になった10年ほど前から、子ども達の間では「イジメが陰湿になってきた」ことは「常識」であり、多くのまともな教師の間では常識であったはずです。
もし自殺が1,2件で終わったとすれば、いじめ問題はこれまでと同様、あくまで単なるたまたまの事件として今回のような問題にはならなかったでしょう。今回のように集中的に多くの自殺があって始めてイジメの実体を公的に認識せざるを得なくなったのでしょう。これらの流れをマスコミでは単純に隠蔽と言っていますが、私はあくまで当局の無認識、黙殺であると考えます。もし、隠蔽であればそれは当局の犯罪です。
私が今更言うまでもなく、昨今のイジメは加害者側にはあまりイジメの意識が無いのが多くの場合です。イジメの被害者だけが勝手に大仰に考えたと言うのが第三者的感覚でしょう。ましてや「ごめんなさい」と言えばひとまずは済んでしまう、責任担当者や未成年の加害者が、死ぬまで苦しんだであろう被害者の苦しみの重大さを認識しているとは到底感じられません。
そして、この解決法として採用されそうなのが、いじめ加害者の隔離教育です。確かにまずは元から絶つのが一番有効で確実な方法です。もちろん、社会には学校などとは比較にならないほどのイジメがあります。無茶苦茶ひねくれて考えれば、イジメの実体をより早く子ども達に知らせ、イジメへの耐性を養成するのも教育なのかもしれません。しかし、教え育てるのが教育とすれば、死なせては、育てることになりません。多くの人々が学校教育のあり方に疑問を持つのは当然です。
と言うことで、とにかく死者がたくさん出ないと”問題”として浮上してこないのが日本の社会、行政のあり方なのでしょう。
0-17.総エネルギー量後日談
建築士との話の後、これでいよいよ低周波音も音、振動のエネルギーの当然の部分として算入される事になるのだなと考えていたのですが、とある筋で確認したとところ、どうもそんな革命的な事ではないらしく、現在、騒音の曝露レベル測定において最近主流となっている「等価騒音レベル」、即ち、A特性荷重をかけた音圧レベルを時間的に積分し、測定時間内の平均的なA特性音圧レベルを求めたものから、単に、測定時間内で平均するという操作をしないだけの、測定時間内の全曝露量を求める、と言うモノらしく、明言は得られていませんが、あくまで可聴域音内と言うより普通騒音域内、即ち、80Hz以上の範囲のことらしく、依然として、どうも低周波音部分のエネルギーを評価すると言うモノではないらしいのです。
複数の分野で低周波部分が改めて評価され始めているにも関わらず依然として、人間生活に直結した騒音分野において意図的としか思えない様な無視を続ける事に関係者は、一人の科学者として、更には一人の人間として己の無知と非科学性を感じないのでしょうか。「国家の品格」等と大仰なことは言いません。せめて、人間としての品格を持ってほしいモノです。
0-18. LF2006
2006/9/18〜20に、英国・ブリストルで第12回低周波音・振動国際会議 (Low Frequency 2006)が開催されたようです。例のごとく日本からは環境省を始め”専門家”達が参加、発表しています。詳しい内容を知りたくて学会誌の購入をメールしたのですが、2ヶ月以上経った今も何のレスもありません。どうも無視されたようです。
今回、興味あるのは何年にもわたってVAD(振動音響病)の脅威を発表し続けてきたブランコ氏が発表を止めてしまったことです。私的には「モー無駄」と思ったのではないでしょうか。
しかし、この会議で二つだけ非常に興味ある記事を見つけました。一つは、この会議の最後に行われた以下の「DISCUSSION ON THE TOPICS(話題の討議)」です。
15.20 -1600 DISCUSSION ON THE TOPICS
1. Can people hear sounds which cannot be measured?(測定できない音が人間に聞こえるか?)
2. Are people affected by sounds which they cannot hear?(聞こえない音により人間は影響を受けるか?)
と言うモノです。当にこれこそが低周波音問題の本質の一つです。具体的にどんな討議が実際になされたかは知るよしもないのですが、どうもこの企画は「イギリスの一被害者からの要請」に応える形でなされたようなのです。結果内容はともあれ少なくとも、この「被害者からの要請」と言う点が重要です。
そして、第二は会議終了後HPに新たなる記事が追加されました。それは以下のモノです。
Next Conference in Japan in 2008
The next conference in this series is planned for Japan in late September
or early October 2008.
次回は2008年日本で
この連続会議の次回は、2008年9月末か10月の初めに日本での開催を計画している。
と言うことで、今回は一段と話しは支離滅裂になってしまいましたが、それは当に私の頭の中を現している訳でご容赦下さい。
\(^O^)/― プレゼントのお知らせ
先頃、汐見文隆先生が、「私の遺言替わり」と言われて、低周波音症候群「“聞こえない騒音”の被害を問う」を出版されました。それに際して、私に「あなたの良い方法でお使い下さい」と複数部をいただきました。
そこで、身勝手に私としては当サイトをウオッチしていて頂き、早々と拙文を最後まで読んで下さった先着5名様に上記本を進呈したいと思います。
ご希望の方は、郵便番号、住所、氏名を明記して下記アドレスからご連絡下さい。上手く行かない場合は右のメールから「聞こえない騒音希望」と明記してお送り下さい。
プレゼントは終了しました。(070303)
061205