「え？　ワンド先生が、事故？」
　それは夕食を終え、背もたれに身を任せてまどろんでいた時のことだ。鳴り響く電話の受話器を取ると、よく知った人物が予期せぬ出来事を告げたのだ。
『そうなんです。会議が終わった後で、他にもはねられた人が何人かいたらしいんです。父は幸い、骨折で済んだんですけど……』
　ソードの声は震えてこそいるものの、取り乱した様子はない。命に別状がないことに、とりあえずは安心したのだろう。
『重傷の人もいて……ちょうど通り掛かった人が通報して下さったみたいで、処置が早くて……』
「ね、ソード。私も今から、そっちに行くわ。どこの病院なの？」
『父が、小さな声で言ったんです。塔へ行きなさい、と。恐れることはない、と。エステスさん宛てではないかしら？』
　状況だけを並べていく彼女は、問いに明確な答えを示すことはなかった。
『こちらのことは心配なさらず、ハミット島へ向かって下さい。それでは』
　口を開く前に、一方的に切られてしまった。慌てて掛け直すも、繋がらない。
　自分の動揺する様が伝わったのだろうか。いつの間にか傍らに来ていたエンプレスを寝かしつけ、布団に潜り込む。
　が、なかなか睡魔は訪れなかった。

　◆◆◆

　夜間では目立つことのない色に塗装されたホバーカーは、自分達を気にすることなく走り去っていく。自身と同じように怪我をしているのか、精神的に大きな傷を負ったのかは定かではないが、仲間内で車を追おうとする者は誰１人としていなかった。
「……あ……」
　声を出そうにも、喉に突っかかり上手くいかない。むしろ、意識があること自体が奇跡的かもしれない。指の先を動かすことさえ出来ず、痛みばかりが脳に訴えかけられる。意識を外へ集中させねば、すぐにでも闇の中へ引きずり込まれそうな気がした。
　誰か。
　何故か。
　無事なのか。
　端的な言葉だけが、上滑りする感覚。思考を廻らせるなど、到底無理は話だった。
　まぶたが下りかけたその時、視界の中にある己の手の傍に何者かの足が降り立った。茶色の革靴は同僚のそれとは違い、まるで年季が入っていない。知らない人物の足だった。
　力を振り絞って、その場で唯一立っている人間を確認しようと試みる。
　最後に見たのは、白い……。

　◆◆◆

　白い光に誘われて、目が覚める。いつにも増して寝つきの悪い夜だったが、それでもいつの間にか眠ってしまっていたらしい。何か夢を見ていたような気がするが、意識が覚醒するのと同時に霧散して忘れてしまった。
　一度伸びをして起き上がり、居間へと向かう。画面を立ち上げると、ちょうど教授達の事故の報道を取り上げているところだった。
「ひき逃げ……」
　死者が出ていないことは幸いだが、こんな時代にひき逃げをする者がいるとは。
　そう思ってしまうほど、近年のホバーカーの性能は高くなってきている。そのうえ、この国の個人での所有台数は極めて低く、事故が起きることは稀な話だ。逃げたとしても、すぐに足がつくだろう。そんなものは、被害関係者には何の慰めにもならないが。
　重い溜め息を吐いたところで、通報者の話が耳に入ってきた。被害者の１人が見た記憶によると、その人物はいつの間にか傍に立っていたという。白い髪だけが、闇の中で印象的だったらしい。救急隊が来たかと思うと、忽然と姿を消してしまったようだ。
「その人が犯人……てことは、ないか」
　実際、その人の通報が早かったおかげで教授達の命に別状が無かったのだ。疑ってかかるのは、不謹慎というものかもしれない。
　しばらく報道番組を眺めていたが、宣伝に切り替わったところで立ち上がり、新聞を取りに行く。今は電子伝達機能も充実しているが、父親が生きていた頃の名残で紙新聞を愛用している。
　郵便受けの蓋を開くと、新聞と一緒に小さな紙切れが入っている。不思議に思って開いてみると、流麗な文字で病院名が記されていた。
「これ、もしかして」
　慌てて家の中に入り、コンピュータを開いて病院の場所を検索する。大学と家の中間辺りに、目的の建物はあった。中心街からは外れているものの、結構大きな病院らしい。
「やっぱり、先生の入院先？」
　しかし何故、紙切れが郵便受けに入っていたのだろう。ソードがあの様子では教えてもらえるわけもなく、生徒の誰かなら回りくどいことはせずに電話などの情報手段を取るだろう。
　他に入院先を知っているとすれば……？
「……通報者……とか？」
　白い髪が特徴的な知人など、思い当たらない。母の知人という可能性も、あるのかもしれないが。
「どうして、号室まで分かるのかしら？」
　直後に行方をくらませたはずの人物が、何故？
　信じてみるべきか、否か。
　迷ったのは、ほんの一瞬だった。疑って掛かったところで、何も始まりはしない。第一、相手がこちらを騙したとして、何か得をすることがあるとは思えないのだ。
　そうと決まれば、行動は早い。エンプレスを起こして朝食を取り、身支度をする。ハミット島に向かう荷物はあらかじめ準備し、病院まで持っていくことにした。地図でみたところ、家より病院の方が港に近かったためだ。鍵と火元を確認し、時計を見る。今なら、エアバスにも待ち時間無しで乗れるかもしれない。
　悪いとは思うが妹を急かしつつ、家の外に出る。まだ朝と呼べる時間帯であるせいか、歩いても暑気は感じられない。それでも、繋いだ手は少し汗ばんでいた。
　停留所に着き、時間と号数を確認する。出掛け前の読み通り、さほど待たされることなくやって来たエアバスに乗り込んだ。見慣れた景色が、徐々に見知らぬものへと変わっていく。家からそう遠くない場所に、このような住宅街があったのかと半ば感心してしまうほどだ。自分の世界は、まだまだ狭いものなのだと妙なところで思わされる。
　エアバスを降り、門をくぐる。母が入院している病院よりは、建物が少々小さい。しかし敷地内の景観から、細かいところまで手入れが行き届いているのが分かる。
　ロビーに入った頃には、既に外来が始まっていたらしい。混雑していて、妹が人とぶつからないように気を配らなければならなかった。
　念のため、総合受付でワンドの名と自分の身元を明かし、号室を確認する。紙切れのそれと同じ番号だった。
「……悪意はなし……ということかしら」
　まだ腑に落ちない気がするが、とりあえず昇降機を使い、病室へ向かう。号室を確認し、病室の前にある入院患者の名前を確認したところで、昨日のソードの言葉が蘇った。
『父が小さな声で言ってたんです。塔へいきなさい、と』
　突然動きを止めたことを不審に思ったのか、エンプレスが見上げる。
『恐れることはない、と』
「お姉ちゃん？」
　戸惑う妹に、急激に意識を取り戻した。
「何でもないの」
　踵を返し、来た通路を戻り始める。
「お姉ちゃん？　入らないの？」
　焦った様子のエンプレスに、前を向いたまま答える。
「うん。先にやらなきゃいけない事を思い出したの」
「やらなきゃいけない事？」
「塔へ行くのよ」
　足早にロビーまで引き返し、電話を掛ける。海の向こうにいる知り合いのところだ。
「ハイプリースティスよ。久し振り……ええ、元気よ」
　こんな状況下では、母はともかく妹のことまでソードに任せるなどできない。だからと言って、砂漠に妹を連れて行くのも考え物だ。頻繁に連絡を取る間柄と言えないため心苦しくもあるが、今は家族の事情を知る彼女に預けるのが最適だと思った。
「悪いけど、お願いがあるの」
　相手は物腰の柔らかい声で、快く了承してくれたのだった。

　◆◆◆

「……行きましたか？」
「うん、門の外に向かってるよ」
　残念ながら、寝ている自分には窓の外を覗くことができない。白中心の世界とは違い、鮮やかな色が広がっていることだろう。
「私も、寝ている場合ではありませんね」
　起き上がろうとしたところで、「やめておきなよ」と制止の声が掛かる。声の主は相変わらず、窓の外を見ていた。
　……厳密に言うと、少し違うのかもしれないが。
「無理すると、動かなくなるかもしれないよ？　せっかく助けてあげたのに……面白くない」
「それでも、動かないといけない時もあるんですよ。それに」
　思わず笑みがこぼれる。窓際の彼の言葉を借りるとすれば、『面白くない』状況にも関わらず。
「痛みが無いんですよ……困ったことに」
　麻酔が効いているのか、別の理由かは分からない。が、恐らく後者だろうと確信していた。
　窓の傍から、わざとらしいほど大きな溜め息を吐く音が聞こえる。この部屋の入院患者は、２人。うち１人は、まだ深い眠りの中にいるようで静かなものだった。
「困ってるように聞こえないんだけど？　自嘲の笑みとか、ざんげとかなら、よそでやってくれる？　僕は『悪魔』だからね」
「すみません。言いたいことは、それじゃないんですよ」
　話の流れでそうなっただけで、彼の機嫌を損ねたいわけではなかった。
「エステスを導いてやって欲しいんですよ。事の真相へ。貴方なら、どんな船よりも先回りすることができる」
「……命令されるのは、お断りだよ。僕に命令をして良いのは、白い鳥の長だけだ」
「そうですね」
　あっさりと自分が引き下がったことに戸惑ったのか、すねたのか。
　しばらくの沈黙の後、彼は口を開いた。とうとう、こちらを向くことは無かったが。
「僕は、面白いことの味方だ……気が向いたら、助けてあげるよ」
　それを最後に、彼は窓から消えた。正しくは、飛び立った……かもしれないが。
「そう言いつつも、放っておかないでしょう……きっと」
　笑みを浮かべて、目蓋を下ろす。今日１日くらいは優しい彼の忠告通り、ゆっくりと休ませてもらうことにしよう。