Z.手探りの記憶

 馬車は既に、アントーニが用意してくれていたようだ。老人が手招きをしてくれたので、ロレンツォと協力してベネデッドを運ぶ。体格が良いだけに、体重を全て委ねられると立たせるだけでも至難の業だった。なんとかベネデッドを引き上げて寝かせ、向かいにロレンツォと座る。やっとの出発に、全身から力が抜けるのを感じた。
「鎧を着ていらっしゃらなくて良かったですね」
「まったくだ」
 警備隊は外回りをする際、鎧を身に着ける決まりとなっている。今回は呼び寄せられただけで警戒には至らぬ段階だったため、着用していなかったらしい。以前に胴の部分を持たせてもらったことがあるが、一部だけでも相当な重さがあった。全身を鉄で固めて動き回るのだから、日頃の訓練も近衛以上に欠かせないのだと聞いた。訓練の内容を聞くだけでも恐ろしいものがあり、文官には耐えられない。そう告げると、まだ若かった隊長は「自分には、1日中書類の相手をしている方が耐えられない」と笑ったのだが。
 微かに笑って、窓の外を見る。晴れ渡った空に、数羽の小鳥が遊んでいるのが見えた。
「ああ、もうミサの時間ですね」
 ロレンツォの呟きを耳にし、時計を見る。針は7時を示していた。アントーニは、ジャンルカに遅刻の理由を伝えてくれただろうか。少年は、ミサに出席しただろうか。まさかとは思うが、自分もチェーザレ探しに協力する、などと言い出してはいないだろうな。頭に不穏な考えが過ぎり、ぎこちなく己の部下の顔を見やる。
「陛下は、おとなしくしていてくださると思うか?」
「なんなら、賭けますか?」
 聞かなければ良かった。ロレンツォの顔を見れば、おとなしくしているわけがないと思っていることなど明確だ。悪いことに、賭けが成立しないことも自分で分かっている。溜め息を吐いて、まだ頭の先が見える城を見た。徐々に遠ざかりつつあるが、一際高い建物だ。しばらくは視界に入っているだろう。
 なんとなく輝く屋根飾りを見ている内に、あることに気が付いた。体を捻って、進行方向を見る。室内からでははっきりと見えないが、朝日がある。今までジェラルドとロレンツォは、太陽を背にしていたわけだ。
「向かっているのは東、か」
「それはそうでしょう。ベネデッド様の屋敷に向かっているのですから」
 部下に平然と言われ、大きな見落としをしていたことに気付く。チェーザレばかりに固執していて、他のことに全く目を向けていなかったのだ。額に手をやり、昨日の昼に見た地図を思い出す。次いで、水色にリボンに関わる者の所有物の位置関係を繋げていく。
 ジェラルド自身は火災に見舞われた中央区の屋敷以外に、家を持っていなかった。アントーニの家はジェラルドよりは東寄りだが、中央区と呼ばれるところにあるのは同じだ。彼の家の周囲は、既に捜索の手が及んでいる。愛人の巣はいくつかあるかもしれないが、別邸は所有していない。ジャンルカの所有物の多くは、南か西にある。北にもあるようだが、東は聞いたことがない。近年まで東の街道には盗賊が出ると噂され、王族の館を建てるには相応しくないとされていたのが原因だろう。チェーザレの屋敷自体は火災に見舞われたジェラルドの屋敷の近所にあるが、別邸は東の森の中。ベネデッドに至っては、屋敷自体が東にある。どちらも、いまだに捜索の手は伸びていない。
 目を開く様子がない友の顔を見下ろす。もしも、彼の家に水色にリボンが無かったとしたら。悪い考えが過ぎって、慌てて首を横に振った。
 ベネデッドは、探しに来いと言ったのだ。屋敷にある、とも。
 エレナの足首には、リボンが結ばれていた。目の前に現れたのは幽霊だったが、本体も同じ状況にあるのではないだろうか。とすれば、屋敷からリボンが見付かりさえすれば、限りなく白に近いということにならないだろうか。彼女が靴なり服なりを求めていただけに仮説としては危ういものがあるが、今は希望が欲しい。ベネデッドとチェーザレが今もリボンを所有しており、エレナのリボンには別の刺繍がされてあったというところに落ち着くのが一番良いのだ。
「友が裏切るなどと、なにかの間違いだ」
 皺になるのも構わず、襟の部分を強く握る。もっと内側にあるポケットの中には、いまだに便箋が入っていた。たまに乾いた音を立てて、意識を悪い方へと引き寄せる。右膝に、今では見慣れてしまった部下の手が柔らかく置かれた。
「俺もアントーニ様も、そう信じています」
 ロレンツォの瞳は揺らぐことなく、こちらを見ていた。普段は失敗も多く、慌てることも度々ある青年だが、今はなんと心強いことか。
「今、君がいてくれて良かった」
 彼は目を丸くすると、すぐに照れ笑いを見せた。
「それは光栄です。ジェラルド様をお支えできることが、俺の喜びですから」

 ◆◆◆

 ベネデッドを馬車から降ろす行為は、乗せる時より楽なものだった。屋敷に使用人がいたからだ。人数の差は、やはり大きい。手早く寝所が用意され、速やかに友人は運ばれていった。その間、ジェラルドもロレンツォも礼を言われたきりで、特に何もしていない。
「随分と仕事が速い人たちですね」
「屋敷で働いている者にも、主人の人柄が出るかもしれない。特にベネデッドは多くの人間を使うことを良しとしない分、顕著だな」
「なるほど。たしかに、そうかもしれません。一度ジェラルド様のお屋敷にお伺いしたことがありましたが、自分の家の雰囲気とは少し違いました。世話好きな方が多いのか、あれこれと気を遣っていただきましたよ」
「そうだったか」
 ジェラルドは、仕えてくれている人間を思い返した。アンナなどは、間違いなく世話好きなのだろう。今もわがままを聞いてもらっているが、嫌な顔一つせずに働いてくれている。彼女は「照れるから止めてください」と言うが、帰ったらもう一度感謝の意を述べよう。
「しかし、これからどうしましょうか」
 2人は、屋敷の入り口で突っ立ったままだった。主人の帰宅で、慌しいのだろう。歓迎されることも追い出されることもない。
「後で出直すことにしよう。主人が寝ている時に居座るというのも、迷惑なことだろうし」
「そうですね」
 友人とはいえ、ベネデッドの屋敷に来ることは稀だ。知り合いの使用人は、片手に満たない程しかいない。視線を廻らせ、階段を降りてくる初老の男に目をつけた。友が最も傍に置いている使用人の1人で、面識もある。ちょうどこちらに向かって歩いてきてくれたため、暇を告げようとしたのだが。
「ベネデッド様が目を覚まされました。ジェラルド様をお呼びするように、と申し付かりました」
 先手を取られ、ロレンツォと顔を見合わせる。本人が呼んでいるというなら、行くしかない。2人揃って、初老の男の後に続いた。階段を上がり、西側の最奥の部屋へと案内される。中に入ると、ベネデッドは寝台の上で半身を起こしていた。
「迷惑を掛けて、すまなかった」
「いや。まだ起きるのは辛いだろう。寝ていろ」
 寝台に近付き、友の体を横にしてやる。ロレンツォは入り口で戸惑っているようだったが、視線を向けると部屋に入って戸を閉めた。手招きをしてやると、ようやく横に並び立つ。緊張しているのか、表情は新人の頃を思わせるように硬い。
「ジェラルド。おまえの性格ではやり辛いだろうが、リボンの捜索をしてもらって構わないぞ。テオドロには、話を通してある」
 戸を閉めてしまったため、廊下の様子は分からない。しかし、人の気配がする。先の初老の男のことだろう。
「分かった。テオドロ殿をお借りする。探している間、君は休んでいてくれ」
「ああ。なるべく、ゆっくり探してくれ。声も掛けずに帰ったら怒るぞ」
 拳が、ゆるく腹に当てられる。笑って、右手を左胸に当てた。ベネデッドが目を閉じたため、ロレンツォと速やかに退室する。やはり、戸口の脇で初老の男が待っていた。「よろしくお願いします」と軽く頭を下げると、手本のような礼をされる。立ち居振る舞いに隙は無く、起き上がっても背筋は伸びたままだ。思わず感心してしまう。
 リボンの捜索は、ベネデッドの部屋の隣りから始まった。なるべく音を立てないよう、慎重に引き出しを開けたり、物を退けたりする。ベネデッドは独り身で、家も大きくはない。とはいえ、1部屋1部屋を細かく見ていく作業は時間を要した。部下を連れてきたのは、正解だったと言える。1人では、よく探しきらないかもしれない。
「2階には、ありませんでしたね」
 ロレンツォが深い溜め息を吐く。西から始まり東の階段までの部屋を調査したが、リボンは見当たらなかった。まだ半分が終わっただけだというのに、嫌な思いが頭を過ぎる。
「テオドロ殿。どこか、ベネデッドが気に入った物をしまうような部屋はあるでしょうか?」
 断ち切るように、先行する男の背に尋ねた。彼は階段を降りきったところで振り返ると、次いで廊下の奥を指差した。
「私の考えといたしましては、一番奥の部屋ではないかと存じます。一昨年、陛下から下賜いただいた品も、そちらの部屋に飾っていらっしゃいますし。大事な物でお近くに置かれないということは、おそらくそちらでしょう」
「分かりました。引き続き、案内をお願いします」
 テオドロに続き、奥の部屋へと歩いていく。途中で何人かの使用人とすれ違ったものの、進めば進むほど人がおらず、音も聞こえなくなった。最奥へ辿り着き、部屋を開いて分かった気がする。家具や棚が置かれているせいで圧迫感がある室内は暗く、灯りを持っていても部屋の隅まで照らせないのだ。普段から、あまり使用していないのだろう。
「本当に、ここにベネデッドの気に入った物が?」
「ええ。あちらの一画が、そうですよ」
 指差す方に近付く。塵に埋もれる部屋の中で、小さな戸棚のガラスだけが綺麗に磨かれていた。上の壁には、幼い頃に描かれただろう家族の肖像画が飾られている。端から順に調べていくと、ジェラルドにも見覚えのある物がいくつか出てきた。チェーザレが描いたベネデッドとジェラルドの絵。昇進の時に親から送られたと言っていた飾りボタン。誕生日にジェラルドが送った小箱の中には、学生時代に海岸で拾った貝殻が詰まっている。先王にいただいた勲章まで、大切にしまわれていた。ここは、まさにベネデッドの歴史そのものだった。
 中には、見覚えのない物もいくつかある。小さな黒い鍵は、宝箱にでも使うのだろうか。明らかに女性物と思われる珊瑚の髪飾りに触れ、指が止まる。
「ああ、あった」
 水色に安堵する。隠すようにしまわれたリボンを取り出し、広げてみる。手首から肘までの長さは、記憶しているものと同じ。刺繍もアントーニが話していた通り、イリスが描かれていた。おそらく、ベネデッドも花言葉の意味を知らなかったのだろう。後で白状してもらおうかと、リボンを胸ポケットに入れた。
「目的の物は、見付かりました。ご協力、感謝します」
「いえ、見付かって良うございました。では、早く部屋を出てしまいましょう。あまり長く日の光に当てると、痛んでしまうものもございますので」
 見れば、細い光が戸口から床を這っていた。最奥の部屋でも、少しは陽光が届くことに気付かされる。次いで、肖像画を見た。たしかに日の光に長く当てることは、絵のためには良くないだろう。
「そうですね。ロレンツォ。おもしろいのは分かるが、出るぞ」
 振り返り部下を見ると、彼は戸口の正面にあたる壁をしきりに観察していた。最初は銃剣のコレクションが物珍しいのだろうと思ったが、どうも違うらしい。コレクションには目もくれず、天井と壁との境目や左右の角から何かを見つけ出そうとしているようだ。
「どうした、ロレンツォ。なにか気になる所でも」
「それが……この奥から、なにか声が」
「声?」
 聴覚のみに集中できるよう、黙って目を閉じる。ロレンツォの言った通り、声のようなものが聞こえる。猫か何かが壁の隙間に入り込んだのかと思ったが、耳を澄ましているうちに獣の類とは違うように思えてきた。人が呼び掛けているように聞こえる。ありえないと考え、エレナの存在に思い直した。彼女は確かに、ジェラルドに会いに来たのだ。
「幽霊か」
 不審に思うが、恐怖心は無い。妙なところを慣らされたものだ。壁を叩くと、軽い音と声が返ってくる。壁の向こうは空洞だ。しかも断片的ではあるが、声を聞き取ることができる。ジェラルド、と呼ばれた気がした。  今度こそありえないと思いながら、壁の様子を全面的に探る。向こう側に行ける手段はないものか。
 はじめに、足元の床にだけ埃が溜まっていないことに気付いた。出入り口やベネデッドの歴史が詰まった棚の付近でさえ少しの埃はあったというのに、一部だけ掃いたように綺麗なのだ。次いで、極めて細い壁の切れ目。下から上に追っていくと、一丁の銃剣とかち合った。これも、またおかしい。一丁だけが、整然と並べられた列から外れている。銃剣を取り外すと、四角い縦長の穴が現れた。ちょうど4本の指が入る程の大きさだ。
「動くか?」
 穴に手を入れ、壁を手前に引いてみる。動いた。壁の向こうは、こちら側よりも明るいらしい。徐々に、ほのかな光が大きくなっていく。
「当たりかっ」
 先にジェラルドが、後からロレンツォが隠し戸をくぐる。床に座り込んだ人物を見て、驚愕のあまり目が見開いた。
「ヴァレンティーナッ」
「ジェラルド様っ」
 駆け寄ろうとしたが、後ろから突き飛ばされる。ロレンツォの左肩を、浅くナイフが裂いた。
「ロレンツォッ」
 ロレンツォの体が離れると、後ろからテオドロが現れた。片手には、鮮明な血が付いたナイフ。ヴァレンティーナの悲鳴が上がる。
「ジェラルド様、お覚悟っ」
 ナイフを突き出し襲い掛かってくるテオドロを前にし、頭の中でチェーザレの声を聞いた。目を反らしては駄目だ。左に飛んでどうにか避けるとナイフを持つ腕を掴み、手首を強く叩く。床に落ちて音を立てるナイフには構わず、テオドロの腕を引いた。体制を崩し前屈みになる男の首の後ろに、手刀を入れる。敵が膝から崩れ落ち、意識が無いことを確認した頃には息が上がっていた。
「ご無事ですか、ジェラルド様?」
 ロレンツォが、自身の怪我には構うことなく駆け寄ってくる。こういうところも幼馴染に似ている。ジェラルドが無茶をする度に心配顔になる稲穂頭の顔を思い出し、微笑んだ。
「大丈夫だ。チェーザレに教えてもらっておいて、助かった」
 宰相になった時、自己防衛にと三つのことを教わった。人間の急所。目の動き。自分には衝撃が少なく、相手にはより効果的な拳の作り方。
「それより、君こそ怪我は良いのか?」
「はい。大事には至りませんでした」
 部下の笑顔に頷き、立ち上がる。ヴァレンティーナの傍に寄って、身動きが取れず叫ぶことしかできなかった理由を知る。左足首が、鎖で繋がれていた。座り込んで顔を覗き込む。衰弱はしているが、茶色の瞳は淀んでいない。淡い栗色の髪を梳いてやると、涙を浮かべた。
「遅くなって、すまない」
「いいえ。きっと助けていただけると信じておりました」
 指で涙を拭うと、水色のリボンがあった棚へと戻る。黒い小さな鍵は、おそらく足枷のものだろう。再びヴァレンティーナの元へ行き、鍵を差し込む。ちょうど良い大きさで、回せば簡単に足が自由になった。
「これで良い。今まで、よく耐えてくれた」
 少し細くなったように見えるものの、飢えている様子も無ければ排泄物の後も無い。ベネデッドの手によってか、テオドロがやったことかは定かではないが、最低限の世話は受けていたようだ。明り取り用の天窓もある。しかし、それだけでは軟禁された者の救いにはならない。出られないことは一緒なのだ。精神的にまいってしまう人間も少なくはないというのに。
「エレナが傍にいてくれました。だからこそ、耐えられたのです」
 ヴァレンティーナの白い指が、部屋の隅を指差す。いつから立っていたのだろう。両腕の無いエレナがいた。
「はじめは、左足首だけでした。でも、いつの頃からか靴を履き、ワンピースを着、帽子を被って現れるようになりました。増えていくことが不思議で、でも見覚えのあるものばかりで。ある日、思いきって尋ねてみました。そうしたら、お父様の所でいただいてきたのだと教えてくれました。エレナが、私とジェラルドを結んでいてくれたのです」
 エレナの前に行き、頭を撫でる。彼女の周りの空気は、相変わらず冷たい。それでも構わず撫で続けた。「ありがとう」と言うと、彼女は静かに微笑んだ。
「ところで、エレナの体は今、どこにいるんだ?」
 エレナは首を傾げた後、出口を見る。外を示され、少し迷った。ヴァレンティーナを連れていくには危険かもしれず、だからと言って置いていくわけにもいかない。結局、選べる方法は一つしかなかった。
「ロレンツォ。すまないが、ヴァレンティーナを城近くの診療所まで連れていってくれないか」
「え、しかし。ジェラルド様は」
 信頼できる部下が迷うことは、既に頭の中に入っている。
「私なら、大丈夫。すぐにアントーニが来てくれる」
 非常時では特に、アントーニの名前の効果は大きい。体格が良く機転も利くため、他部署からも絶大な信頼を得ているのだ。ロレンツォも例外ではないらしい。安心したのか、短く息を吐いた。
「分かりました。ヴァレンティーナ様のことは、お任せください」
 ロレンツォと2人でヴァレンティーナを支え、外へと歩く。不思議なことに、使用人には先を行くエレナのことが見えないらしい。好奇の色で染まった目を輝かせながら尋ねられるのはヴァレンティーナと奥の部屋のことばかりで、エレナの腕のことを聞く者は1人もいなかった。数日前の城下での幽霊騒ぎが嘘のようだ。ヴァレンティーナへの質問は無視し、奥の部屋への問いには「ベネデッドの宝箱があった」とだけ答えた。
「どうやら、奥の部屋へはベネデッド様と先の老人しか近寄らなかったようですね」
 使用人はみんな、井戸端会議に話を咲かせる女性達と似たような顔をして近寄ってくる。今まで、気になって仕方がなかったのだろう。
「私の世話は、テオドロの役目だったようです。この家の人間は、ベネデッド様とテオドロ以外に見たことがありませんでした」
 ヴァレンティーナの告白に、心が痛んだ。鍵が棚にあったことが何を示すかを分かっていてもなお、友人を疑いたくはなかった。
 使用人達を軽くあしらい、馬車の横に立つ。上を見上げ、違和感を感じた。
「御者が違う気がする」
 帽子を目深に被り表情が窺えないところも、背格好も似てはいる。しかし、なんとなくだが雰囲気が違う気がするが。
「そうですか? 一緒だと思いますけど」
「そうか」
 ロレンツォが言うなら、気のせいなのだろう。1人で納得し、ヴァレンティーナを部下に任せる。「けして無理はしないで」という言葉を残し、馬車は見る間に小さくなっていった。黒い車体が見えなくなるまで見送り、少し下を見る。おとなしく横に立っていたエレナの頭を優しく叩いた。
「案内してくれるかい、エレナ」
 頷いた彼女は家の中には戻らず、道から森へと入っていく。ヴァレンティーナのようにはいかないという覚悟は、昨夜の砂糖菓子での一件で既にできていた。迷わず草を掻き分け、小さな背に続く。ふと馬の嘶く声が聞こえ振り返ると、1頭の雄花栗毛が幹に繋がれていた。近寄って、顔を撫でてやる。ジェラルドと同じように木々が生える中へ分け入った後があり、ごく最近に人が来たということが分かる。
「君の主人は、アントーニか?」
 尋ねても、返答があるわけがない。肩を竦めると、再びエレナと歩き始めた。足元で、乾いた枝が折れる音がする。葉が擦れる音、落ち葉を踏みしめる音。たまにどこからか、鳥のさえずりも聞こえた。自然が奏でる以外の音の発生源は1人分、ではない。顔を上げた。実体を持たないエレナのはずがない。姿は見えないが、もう1人いる。馬の主か。
「アントーニ」
 呼んで見回してみるが、なんの音沙汰もない。彼でないとしたら、いったい誰だというのか。ベネデッドではない。仮に彼が起きていたとしても、馬を使う必要がない。生唾を飲み込み、耳を澄ませながら慎重に進む。
『もう少しよ』
 エレナが振り返り、気遣うように微笑む。同時に、背後で馬車が走る音が微かに聞こえた。今度こそ、アントーニだろう。前から励ましを受け、後ろから勇気を貰い、足を動かす。本物の娘を、一刻も早く見つけ出さなければならない。
『ここよ』
 純粋な視線の先に、少女の体は無かった。代わりに、土と枯れ葉が一部分だけ不自然に盛り上がっている。想像するのは容易い。
「待っていなさい。すぐに見つけてあげるからね」
 幅の広い枝か木の皮はないか、と左右を見る。掘る道具を持って来ればよかったと後悔するのは、数秒の間だけで済んだ。大きな木の根元に、葉で埋もれたシャベルの半身が見えた。手に取ると、意外と重い。慣れない作業ではあるが、やるしかない。力を込めて、膨らみから少し外れた場所を刺したところだった。
「そこまでだ、ジェラルド」
 後ろから、聞き慣れた声が掛かる。振り返ると、寝ているはずのベネデッドが立っていた。馬があるから彼の足音ではないという憶測は、どうやら誤りだったようだ。
「警備隊が東側一帯まで全て捜索し終えるまで、おまえには自宅で篭っていてほしかった。おとなしくしていてくれないから、見つけてしまった」
 友人の言葉に、首を横に振る。
「遅かれ早かれ、いずれこうなっていたよ。ベネデッド」
 エレナが諦めない限り、ベネデッドの不正を見逃すことはないだろう。銃口が、こちらに向けられた。
「残念だよ、ジェラルド。こうなってしまった以上、俺は友人を1人失わなければならない」
「こうなってしまっても、まだ友人と思っていてくれるんだな。ベネデッド」
 彼は、本気で自分を撃つ気だ。そう分かっていても、浮かんだのは穏やかな笑みだけだった。不思議と怖くはない。ここでエレナと眠るのも悪くはない。目を閉じ、銃声を聞く。鳥がにわかに騒いだ後には、耳が痛くなるほどの静寂が訪れた。
 しかし、いつまで経っても地面との接触の瞬間が来ない。見ると、2人の男が目の前に倒れていた。1人はベネデッド。そして、ジェラルドの足元に転がる人物は。
「チェーザレッ」
 慌てて抱き起こす前に、チェーザレは上半身を起こした。左肩を負傷したらしく、すぐに前屈みになり右手で抑えている。相当痛むのだろう。顔を歪め、玉のような汗を額にかいている。御者用の黒衣のため、傷口の詳細は分からない。しかし抑える右手に、徐々に血が広がりつつあった。
「簡単に諦めてくれるな。おまえを失えば、肩の傷の倍は痛い」
 笑うのに失敗する幼馴染を見るのは、稀だ。白い絹のスカーフを外し、躊躇することなく彼の左肩に巻きつける。すぐに一部が血の色で染まったが、止血くらいはできるだろう。
「値が張るだろうに、もったいない。俺なら大丈夫だぞ。奴の腕を先に撃ったことで、弾が逸れたからな。だが、向こうは利き腕が使えなくなるかもしれない」
 落ち葉の上でのた打ち回るベネデッドを見やる。彼は、ずっと右前腕を抑えていた。裾を、チェーザレに引かれる。
「今なら自由だ。このまま奴を陛下に引き渡し、正式の場で裁くこともできる。陛下が辿り着く前に、なぶり殺すこともできる。どちらが良い、ジェラルド? 俺は、どちらを選んでも、黙っておまえに従うよ」
 一度チェーザレを見、ゆっくりとベネデッドに視線を戻した。銃声が届いたのだろう。アントーニの声が近付きつつある。これから取る選択を知った時、友人達はどう思うだろうか。
 目をきつく閉じ、深呼吸をし、エレナを見る。頷く彼女に、心を決めた。