[.白い光に舞う夢
「チェーザレ」
片翼と目が合う。黄昏色が、複雑な感情を持って揺らめいている。ベネデッドへの友情と、彼を許せぬ心。ジェラルドへの信頼と、痛みを分かち合おうとする心。
「君は、勝手なことばかり言う」
「なに?」
眉間に縦皺が寄った顔に、微笑みかけた。
「白いハンカチーフを。新しいのを持っているのだろう? 2度もベネデッドの物になるが、許せ」
「おまえ、それで良いのか?」
「本当に勝手だな。甘い私だからこそ、愛されるのだろう? 変わらないでいてほしいと言ったのは、君だぞ」
「俺は、どっちを選んでも黙って従うとも言った」
「だから、勝手なんだよ。何度も言わせるな」
渋々取り出された柔らかい布を手渡され、ベネデッドの傍へ歩み寄る。血に濡れた右腕を取ると短く呻き声を上げたが、痛み以上に驚愕が勝っているようだ。見開いた目を、こちらに向けている。頬に視線を受けながら、傷口に集中した。自分の手が血にまみれるのも構わず、止血させる。指先に触れると、既に反応する箇所としない箇所が現れているらしい。どの程度の回復力を見せるのか。完治したとしても、どのくらいの麻痺が残るのか。全く見当がつかない。ただ一つ言えることは、もう2度と剣を振るうことはできないだろう。
「エレナ本人が、極刑は止めてくれと言った。もちろん陛下の下、法に則った刑罰は受けてもらう。しかし、私から君に求めるものに、刑罰という文字は無い」
「エ、エレナッ」
ベネデッドは怯えた顔で、盛り土を見ている。ジェラルドの後ろから覗き込んでいる少女のことは、まるで見えていないようだ。顔中を皺だらけにし、茶色の瞳を忙しなく震わす姿は哀れに見えた。
「私が求めるのは、ただ一つ。大切な友と娘を奪った経緯を知りたいだけだ」
ベネデッドが泣き崩れたところで、数人の近衛隊を従えたジャンルカとアントーニが辿り着いた。ニーノやルッジェーロといった人選は、少年の配慮の表れのようだ。先任のエルネストまで連れてきている。
「この件に関しましては聡明たる陛下と裁判員達の下、良き解決へと導いてくださいますよう、お願い致します」
「本当に、それで良いのだな?」
深く頭を下げると、上からジャンルカの声が降ってくる。悔しそうに聞こえるのは、気のせいではないのだろう。
「はい。公正なるご判断をなさってください」
「分かった。ルッジェーロ、この者を連れていけ」
ルッジェーロは短く返事をする、2人の近衛隊員に指示を出し、ベネデッドを引き立てていった。
「友の姿を見るのも、これが最後かもしれんな」
立ち上がると、アントーニに肩を叩かれた。彼やチェーザレは背を向けていたが、ジェラルドだけは友だった男の後ろ姿を見送る。足元はふらつき、支える近衛隊員もろとも崩れ落ちそうになっていた。彼も悩み、傷付き、眠れぬ日々が続いていたのだろう。今から考えると、ベネデッドの様子がずっとおかしかったことに気付く。それは、少しの慰めにもならなかったが。
「さて。エレナ嬢を、早く出してあげなければ」
エルネストにも、エレナが見えているらしい。少女の頭を一度撫でてから、盛り土の前に立った。低く通りの良い声で、祈りが捧げられる。全員が見守る中、エレナに呼ばれた。
『最後のお願い、頂戴』
「ああ。言ってごらん、エレナ」
『抱き締めて、頂戴』
小さく愛らしい声が、耳元で聞こえる。抱き締めてやると、ややあって背中を小さな手が抱き返した。腕が現れたのだ。この時、初めて涙が零れた。
「ジェラルドは、そこにいろ。俺達は慣れている」
「近衛は土いじりなんぞ、慣れていないぞ。普段は何してるんだ、アントーニ」
チェーザレがすかさず苦言を漏らすが、もちろん2人は土いじりのことを案じているわけではない。数週間、土の中だ。綺麗な姿でいる方が難しい。「陛下も、止めておかれた方がよろしいですよ」と気遣う声が出たことからも察せられる。もっとも、ジャンルカは「私も手伝う」と、頑として譲らなかったが。
「アントーニ。いい。私もやる」
口を出すが、すぐに手で追い払われる仕草をされた。
「不器用な奴は、いらん。第一、エレナ嬢が離れたくないそうだ」
肯定を示すように、エレナの腕に力が込められる。力仕事は友人達に任せ、娘の頭を撫で続けた。祈りを捧げる声と土を掘り返す音だけが、辺りを満たす。心臓を鷲掴みにされ弄ばれているような時間は、ジャンルカが短く漏らした声によって唐突に終わりを告げた。全ての音が止み、顔を上げる。関わった者達が穴の中を凝視する中、チェーザレがこちらを振り向いて穏やかに笑った。
「いたよ、ジェラルド。黄色い蝶が眠っている」
首を伸ばすと、確かに黄色い布が見えた。予想に反し、綺麗な状態のようだ。立ち上がり、エレナの手を引いて穴の傍へ寄る。不思議なことに、傍らに立つ少女と土の中で眠る蝶は同じ姿をしていた。今まで少女に与え続けていたものは、幻だったのかもしれない。
「今まで、よく頑張ったな。敬意を表す」
片膝を付いたジャンルカが幽霊のエレナの右手を取り、甲に優しい口付けを落とす。怖がることも気味悪がることも最初から無かった王は、少女を見上げて微笑んだ。
「エレナは、これからも皆の心の中で生き続ける。私達は、貴殿を大切に思い続けることを誓おう」
エレナは笑顔で頷くと、木漏れ日に溶けるように消えた。まるで、黄色い蝶が白い光と舞う夢のようだった。流れる涙を拭うことなく宙を見つめていると、チェーザレに抱き込まれた。
「おまえも、よく頑張った。口付けの代わりに肩を貸すよ」
「随分と無理矢理だな」
悪態がつけたのは、そこまでだった。止め処なく涙が零れ、幼馴染に縋りつくように泣いた。気を遣ったジャンルカ達が、この場から離れていったことさえ気付かなかった。
◆◆◆
「真実を共に聞く相手が私で、本当に良いのですか? ジェラルド」
2人分の足音が響く。城の隠し通路よりは、やや明るい。しかし独特な雰囲気は、足を踏み入れた瞬間から漂っていた。たまに、呻き声や金属を揺する音がする。慣れない空気に震える心を律し、鬼となって進まなければならなかった。
「エルネスト様と共にあれば、常に引き締まる思いがしますから」
「そうですか」
「本当のことを言うと、他に適任が思い当たりませんでした。一度はチェーザレに頼もうかとも思いましたが、彼の抑えが効かぬかもしれません」
聖職者が下げるロザリオが、燭台に照らされながら揺れる。
「エルネスト様こそ、よろしかったでしょうか? 付き合わせてしまって」
「それは今更でしょう。私が宰相の時は副官である貴方と、こうして並び歩いていたではありませんか。喜びの時も、苦難の時も」
左を歩く元上司の顔を見る。少し懐かしく思った。引退後は、聖職者の道を選んだためだろうか。宰相として活躍していた時よりも、目元が優しくなった気がする。
「もし同じ立場であったなら、私もジェラルドを共に選んだかもしれません。もしくは、我が片翼を」
下り階段を降りれば目的地は目の前だ。残り2段となったところで、エルネストが燭台を掲げた。
「自分が辛い立場に置かれた時、人は大きな存在に縋りたいと思うもの。そして、大切な人が辛い立場に置かれた時、人は大きな存在でありたいと願うものなのですよ」
段を降りきると、最奥の鉄格子が見えた。身を硬くしたところに、真横から声が掛かる。
「遅いぞ、ジェラルド。俺に何も話さずここに来るとは、どういう了見だ」
「チェーザレッ」
振り返り、顔を確認する。階段からでは完全に死角になっていた。驚きのあまり後ろに退く。背が、エルネストにぶつかった。謝罪するため振り向くと、聖職者の笑顔と出会う。
「彼があまりに拗ねるので、お誘いしたんですよ。おとなしくしていることを条件に、ね」
「拗ねて、というのは」
チェーザレの顔を改めて見る。彼は膨れ面だ。
「おまえの考えなど、お見通しだぞ。幼馴染をなめるな」
強く背中を叩かれる。
「行ってこい、ジェラルド。終わるまで、ずっと後ろにいてやるから。もっとも俺が先からここにいても、あいつは無反応だから。裁きの場でなければ、口を開く気も無いかもしれんが」
友の言葉に頷き、エルネストと共に最奥へと歩き出す。片翼が後ろに控えていると知るだけで、不思議と怖さは無くなった。徐々に鉄格子の合い間から、かつて友だった者の顔が見えてくる。牢の前で立ち止まった時、彼もまたうつろだった目をこちらに向けた。
「神は汝の全てを見守り、汝の罪をも見通しています。懺悔の言葉を」
エルネストが十字を切る。
「真実を聞きに来た、ベネデッド」
視線が交錯すること数分の後、ようやくベネデッドは口を開いた。
「一度は」
体はジェラルドに向き合うよう位置を変えたが、これまで開いていた目は閉じてしまう。
「一度は諦めたんだ。友のために諦めた。あの日、悪魔が俺に囁くまでは」
ベネデッドは、一度深く息を吐いた。警備隊隊長を務めていた頃の精悍さは、まるで感じられない。
◆◆◆
最初に歯車が狂ったのは、ある男を取り逃したことだったと思う。
その日、警備隊第一小隊は必死だった。やっとのことで追い込んだ。東北の峠に現れる盗賊団を殲滅し、更なる交易の道を取り戻すことが警備隊の長年の悲願だったのだ。逃がすわけにはいかなかった。
「くそっ、どこへ逃げ込んだ」
見回すが気配が無い。素早い男は峠を抜け、城下町でも閑静な東区へ入っていた。身分ある者の別邸が多い場所は、ほとんどが森になっている。昼間でも薄暗い地点は多く、陰に身を隠すことも容易い。入り組んでもいる。探す側にとって不利な区画だった。
「隊長、駄目です。見付かりません」
「諦めるな。特に、ここは多くの要人が訪れる地だぞ。逃がすわけにはいかない」
士気が下がりかけている部下を叱咤する。足元は枯れ葉だらけだ。音を立てぬよう慎重に進みながら、目だけを忙しく動かす。どれだけの時間、気を張り詰めていただろう。いつの間にか傍に寄っていた部下の1人が、囁くように報告した。
「隊長、発見しました。この先です」
頷くと、逸る気持ちを抑えながら報告を受けた先を目指す。目標を視界に捕らえる頃には、既に数人の隊員が集まっていた。男が身を潜める向こうには、ベネデッドもたまに使用する街道。横断して森を抜ければ、中央区が見えてくる。
「どんな手段を使ってでも、街道を横断させてはならない」
「はい」
街道は、馬車のすれ違いができるほどの幅がある。横切る数秒の間には、身を隠すものなど何もない。丸裸になる一瞬を、敵も警戒しているのだろうか。木に身を貼り付かせている彼は、街道からは姿が見えないだろうがベネデッドからは丸見えになっていた。警備隊にとって絶好の機会に思われたが。
「隊長、まずいです。向こうから馬車が」
盗賊は警戒していたわけではなく、襲うために身を潜めていたらしい。運悪く通り掛かった馬車の目の前に飛び出し動きを止めると、御者へと飛び掛かった。警備隊が馬車を取り囲むが時は既に遅く、不運な御者は血を流しながら地に落とされた。馬車の前に回りこんだベネデッドは、馬が暴走しないよう手綱を必死で抑えながら男を見上げた。
「馬車を盗もうとしたところを悪いが、これ以上おまえを野放しにしておくわけにはいかない。逃走手段は閉ざさせてもらおう」
ジェラルドと同じ黒耀の瞳を持った男は、ジェラルドと違う光を宿らせていた。
「では、別の逃走手段を手に入れようか」
部下の1人が撃たれる。すかさず他の隊員が男に銃を向けたが、彼は御者台から飛び降りると発砲しながら右側に回り込んだ。上がる女性の悲鳴に、ベネデッドは街道の先にあるものを思い出した。チェーザレの別邸だ。
馬の手綱を近くにいた部下に任せ、馬車の右側へと回る。撃たれて倒れ伏した部下を2度も飛び越えねばならなかった。何か大きなものを抱えた男が、目の前に現れ逃げていく。翻るのは、黄色い布。物ではない、人だ。身長からしても、男が軽々と抱えて走る様から見ても子供だろう。すぐに、チェーザレの愛娘であるイレーネだと直感した。
「撃つなっ」
馬車の中を見ることなく、男を追いかける。今度は見失うことはなかったが、下手に手出しができないために不利な状況は変わっていなかった。しかし、焦ってはいない。必ず追い詰めることができる自信があった。街道は横切ってしまったが、このまま行けばベネデッドの実家だ。広場も身を隠せる場所も熟知しているし、テオドロもいる。屋敷の全てを任せている男も、若い頃は警備隊に身を置いていた。現役から退き長い年月を重ねた今でも、頼るところは大きい。
盗賊は、実家の裏庭で足を止めた。ベネデッドの予想範囲内だ。死角になるためテオドロの応援は期待できないだろうが、後ろから隊員が付いてきているため問題はない。目の前には壁。取り囲んでやれば、今度こそ逃げる手段はなかった。
「くそっ」
悪態を吐き、男が振り返る。腕の中にいる人物を見て、ベネデッドは軽く驚いた。彼女はイレーネではない。ジェラルドの娘のエレナだ。しかし、友人の娘であることに変わりはない。人質が思わぬ人物だったとはいえ、事態としては同じことだった。
「さすがに、もう逃げられないだろう。少女を放せ」
「誰が放すかっ。そこを退けっ。道を開けろっ」
エレナのこめかみに、銃口が当てられる。近くで女性の短い悲鳴が上がった。思わず振り返ると、少女の母親が顔を青くしながら立っていた。長いスカートをたくし上げ、必死で付いてきたのだろう。息が上がっている。
「エレナッ。私が代わります。だから、そのこは放してっ」
「ヴァレンティーナッ、駄目だっ」
泣きながら男に駆け寄ろうとするヴァレンティーナを止めながら、男が発砲した回数を考える。小銃であるから、弾が1発残っているかいないかの微妙な線かもしれない。男のはったりかどうかを見極める必要がある。表情を読み取り見抜く時間を、部下の1人が与えてくれなかった。銃声が響いた。
「エレナッ」
男が、少女と共に倒れ込む。ヴァレンティーナが、泣き叫びながら駆け寄っていく。空虚な世界の中でゆっくりと、しかし鮮明に瞳は映し出していった。次に沸き起こるのは、煮えたぎる怒りという感情。
「なぜ少女ごと撃ったっ」
まだ硝煙が上がっている銃を構えたままの部下に詰め寄り、思い切り殴りつけた。衝撃で転がった彼は、頬を押さえながらも真っ直ぐとこちらを見返した。
「い、今っ、手柄を取ればっ。俺は昇進できるんですっ」
拳に力が入る。もう一度殴られると思ったのだろう。怯んだ部下は、それでも諦めずに再びこちらを見返した。
「恵まれた隊長には分かりません。俺は、没落しかけた家を守るのに必死なんです。綺麗事だけじゃ、やっていけないっ」
「しかし、少女を」
「ここで逃がせば、更に多くの人間が害を被ったかもしれないんですよっ」
冷や水を浴びせられたかのような衝撃が走った。警備隊に配属された者にとっては、一つの正論だった。一を取り、百を苦しめるか。百を取り、一を犠牲にするか。選択を迫られる機会は意外と多い。大抵は、一を犠牲にする。
言い返す言葉は見つけられず、少女と男の元に歩いていった。当たり所が良かったと言うべきか、悪かったと言うべきか。2人共に生きてはいたが、苦しそうに息を吐いていた。今から医者に運んだところで、命が助かる見込みは無いと言って良かった。
「ベネデッド様」
銃声が聞こえたのだろう。テオドロが駆けつけた。過去の経験から、彼にも分かったのだろう。2人を覗き込むと、静かに首を横に振る。
「せっかく来てもらったのに申し訳ないが、今回は頼ることもないようだ」
「いいえ」
テオドロは、迷うことなく男の頭を打ち抜いた。ヴァレンティーナが悲鳴を上げて後ずさる。頭の中は真っ白になったまま、己の従者を見た。何も表情が乗せられていない顔を。
「テオドロ、おまえは」
「早く楽にしてさしあげたいのなら、撃つべきです」
「やめてっ」
言葉の意味を理解したのは、ヴァレンティーナが先だった。細い両腕で、信じられないほど強く縋りつかれる。短く息をするエレナと涙を流すヴァレンティーナを交互に瞳に映し、やがて利き手に小銃を持った。ヴァレンティーナの目が見開かれる。
「お願い、やめて、おねが」
銃声が鳴る。少女の身体は一度跳ね、完全に動きを止めた。既にこの時、頭のどこかがおかしくなっていたのだろう。泣き崩れたヴァレンティーナを見ても、「殺してやる」と罵られても、浮かぶ感情は一つも無かった。
「これは、良い機会かもしれません」
「良い機会、とは??」
テオドロは、何を言い出すのだろう。眉を寄せて様子を見ていると、普段からあまり笑うことのない彼が微笑んだ。
「彼女を手に入れる機会、ですよ。お好きだったでしょう?」
寒気がした。
「それは、昔のことで」
「いいえ、今もでございますね」
よく見ている。ヴァレンティーナはおろか、ジェラルドでさえ数度しか訪れたことがないというのに。
「このままお帰ししたとして、果たしてジェラルド様はどう思われますか」
心臓が一度、大きく跳ねた。己の従者を睨む。
「正直に話しても、ジェラルドは友人として」
「友人として接してくれる。宰相殿はお優しい方ですから、そうでしょうとも。しかし、変わらずとは言えるでしょうか?」
また、心臓が跳ねた。
「ジェラルド様は良いとしても、チェーザレ様は? アントーニ様は? 陛下は?」
「うるさい。うるさい、うるさいっ」
果たして煩わしいのはテオドロの声か、心臓の音か。それすら分からなくなっていた。
「私は、ベネデッド様のことを想って申し上げているのです。変わらぬ友情を続けたいのなら、この女性の口は閉ざしておしまいなさい。この家と警備隊の無事を願うなら尚更です」
「しかし、ヴァレンティーナは殺せない」
「ですから、申し上げたでしょう。手に入れるには良い機会だと」
ヴァレンティーナの顔を見下ろす。噛み締められた唇は、赤く染まっていた。
◆◆◆
「それでヴァレンティーナを監禁し、エレナ嬢を森の中に埋めた?」
確認するエルネストの言葉に、ベネデッドは力なく頷いた。ここまで話が進めば、ジェラルドにも最後までのあらすじが見えてくる。
「しかし、そのままでは消息を絶った地点が分かってしまう。ヴァレンティーナとエレナは、別邸に滞在していたイレーネ嬢のところに遊びに行っていた。帰り道に何事かあったと分かれば、探すところは限られてくる。帰宅したという偽の証拠が欲しかったんだな?」
「その通りだ、ジェラルド。第一小隊を分け、3分の2は証拠作りにあてた。馬車と死んだ御者をおまえの屋敷に運び込み、油をかけ、火を放った。現場検証をするのは警備隊だ。ある程度燃えてしまえば、誰にも怪しまれずに済む。目立つと思った馬車の移動は、意外なほどうまくいって助かったよ」
火事があった日のことを思い出す。常と変わらず仕事をしていて、ロレンツォと共に報告を受けた。目の前の男に。
「3分の1の少数は、第二小隊を火事現場に向かわせるための工作を謀ってもらった。なるべく被害が拡大しないよう、配慮したつもりだ。事実、何も知らずに消火と救命にあたった彼等は、よく働いてくれたと思う。もっとも、いもしないヴァレンティーナとエレナを助けられなかったことを深く悔いてはいたが」
「そして残りは、盗賊団殲滅の吉報を伝えるため城に向かった?」
「実際には吉報ばかりではないが。部下を3人も失ってしまったばかりか、頭も生け捕りにできなかった。第三小隊には、すぐに部下と頭の遺体の回収に向かってもらった」
「それから君は、あたかも事後処理で立ち回っている最中に報告を受けたかのように装い、私の執務室にやって来た」
必死の形相で内政府に赴いたベネデッドに、演技の才能があるなど知らなかった。
「全て、うまくいっていた。焼け残った馬車があることで、誰も2人が火事の前に消えたとは考えなかった。第一小隊に所属している全員に、なんらかの形でこの一件に加担させたことで、知人はおろか他の小隊員に漏らす人間は1人として出なかった。結果的に、警備隊が非難されることもなく、友の変貌も見ることがないと思っていたんだがな」
「私が変わらずとも、君が変わってしまっていては意味が無い」
「そうだな。その通りだ」
苦笑いを浮かべたベネデッドは、利き腕を伸ばした。指先は折れ曲がったままで、自分の意思では動かせないのだと知れる。
「おまえの知る友人は、エレナと共に死んだのだ。今、おまえの目の前にいる人間が、ベネデッドであるはずがない」
神経がほとんど通わない右手を、牢屋越しに包み込む。血の巡りも悪くなっているらしく、真冬かと疑うほど冷たい指先をしている。
「それでも私は、あの日私を乗せて馬を走らせ、火の手が上がる中を飛び込んでいった君まで演技だったとは思わない」
「本当に、甘いなジェラルド。しかし、だからこそ俺は失いたくないと思った」
引かれる右手を素直に放す。ベネデッドがようやく目蓋を上げた。
「あいつと同じように、俺も勝手な願い事を言うが。おまえだけは、どうかそのままで。何があっても変わらずにいてほしい」
「なんだ、気付いてるじゃないか」
離れたところからしたチェーザレの声に、ベネデッドがわずかに微笑んだ気がした。
「2人共、ありがとう。俺は思い出とハンカチーフを持って、この地を去る」
男の目から、一筋の涙が流れた。
◆◆◆
海から吹き上がる風が強い。いまだ肌寒さを感じる中で、ジェラルドは丘の頂上から海面を見つめていた。視線の先には、小さな船が一艘。白波が立つ中を、ゆっくりと進んでいる。
「そうやって、見えなくなるまで見送るつもりか」
振り返ると、離れた木の幹にもたれたチェーザレがいた。長い前髪が邪魔なようで、何度も後ろに撫で付けている。すぐに乱れるため、意味はあまり無さそうだが。
「どこまでも甘いんだな」
「それが、私だろう? 嫌なら、付いてこなくて良かったんだぞ」
「別に、嫌とは言っていない」
言っていないだけで、快くは思っていないのだろう。彼の位置からでは、船の帆も見えまい。軽く息を吐いて、視線を海に戻した。
小さな船にはベネデッドが、テオドロなど数人の従者と共に乗っているはずだ。彼等は流刑となり、名もなき島へと旅立った。昨日の執務中、ジャンルカが教えてくれたのだ。本人は、つい口から零れてしまった、という態度を懸命に取ろうとしていた。しかし根が素直な分、演技は見事に失敗だった。心遣いに感謝するだけで、口を挟むことは止めておいたが。
「君は、いつから勘付いていたんだ? 城で手紙を寄越した時には、もう全て分かっていたんだろう?」
ずっとポケットに入れっぱなしになっていた便箋を取り出す。振り向きはせず、後ろから見えるように手を伸ばした。
「なんだ、ばれていたのか。せっかく差出人を書かなかったのに」
「気付いたのは、事が終わってからだ。これのおかげで、私は君を疑った」
「そう仕向けたんだよ。だからベネデッドは油断したし、アントーニは守ってくれただろ?」
強風が便箋をさらっていく。海へと落ちていく紙を、チェーザレは「俺の恋文を無碍にするとは、酷いな」と笑った。
「種明かしをすると、実に馬鹿らしい話だが。近衛と警備隊から捜索隊を出す案を出したのは、ベネデッドだった。奴は、俺が1人の時に話を持ちかけてきた。もちろん快く了承したさ。しかし、すぐに違和感を覚えた。これは誰にも話したことが無かったが、両隊の捜索場所の指示はベネデッドが出していたんだ。最初は協力させてもらっている身だから、疑うことなく従っていたんだが」
「街の東には、穴があった」
「ああ。気付くなと言う方が無理だな。とは言え、警備隊の捜索網はいずれ東にも至る。奴の考えがよく分からず、様子を見ていた。俺も、友人を信じたいとは思っていたからな」
再び、幼馴染の顔を見る。苦味のある笑いに、「ああ、そうだな」と相槌を打った。
「今は分かる。聞いただろ? あいつは、なるべくジェラルドと友人でいられる時間を引き延ばしたかったんだ。できれば一生。いくらなんでも虫が良すぎるから、制裁してやったがな」
鼻を鳴らすチェーザレには、心底呆れた。そういった表情を見逃さない彼は、「おまえは知らんだろうが」と続ける。
「ベネデッドは分かっていたよ。俺が御者に扮して、奴の家まで行ったことも。本物と入れ替わり、森に身を潜ませたことも。森に入る前、上から威嚇射撃をお見舞いされたからな」
おそらくは、ロレンツォと1階の奥に入っていた時のことだろう。銃声など、少しも気にならなかった。
「おまえを撃つ時、俺が庇うことを予測してたんじゃないだろうか」
「まさか」
「ま、あくまで俺の予想だ。現に、あいつは驚いた顔を一つも見せやしなかった」
ようやく幹に別れを告げた幼馴染は、横に並んだ。船もかなり沖へ出てしまっていたが。
「予想外だったのは、俺がへまして怪我を負ったことかもしれん」
左肩を指差す。服の下が包帯で覆われていることは知っている。麻痺は無く、後遺症も残らないとのことだったが、大事を取っているのだろう。左手を動かしているところを、今日は見ていないように思う。
「誰も怪我を負わせる気はなかった、ということか」
「と、俺が思いたいだけかもしれん」
水平線に船が消えていく様を見守る。完全に見えなくなるまで、互いに無言だった。
「そろそろ戻るか。両翼が不在というのも、あまりよろしくない」
「花の大祭の時は、両翼揃って留守番になってしまうがな」
チェーザレが負傷したことで、花の大祭でのジャンルカの護衛長がルッジェーロに変更されたのだ。内政府からの人事変更は提案されなかったため、近衛隊と内政府の両副官が大役を任されることになった。能力的に不足を取ることはないだろうが、普段の彼等のやり取りを見ているだけに多少の不安はある。
「陛下が、ジェラルドのような奴が2人いるのは敵わん、と仰るのだから仕方がない。2人だけで護衛するわけでなし、エルネスト様が特別に参加されるという話もあるから、大丈夫だろ」
「俺も行くしな」
背後から声を掛けられる。振り向くと、先までチェーザレがいた所にアントーニが立っていた。
「船は行ったか」
頷くが、きっとアントーニもどこかで見送っていたのだろう。「そうか」と寂しげに笑うと、こちらに近付いてきた。
「リボンを手渡した時は、まさかこんな事になるとは思ってもみなかった。残念だが、渡しておいて良かったとも思う。イリスの花言葉には『消息』というものもあってな。偶然かどうかは知らんが、結果的には導いてくれた」
これまでに知った花言葉を頭の中で並べてみる。共通する意味は無く、思わず溜め息が出た。
「本当に複雑なんだな。まあ、導いてくれたことに変わりはないし、リボンとアントーニには感謝してるよ」
「と、のんびりと構えていて良いのか?」
「なにが?」
おかしそうに笑うアントーニに、自然と眉間に力が入る。
「エレナ嬢の足首に巻かれたリボンは、おまえにやった物だ。おまえ、自分が貰ったリボンは誰かに渡したはずだよな」
「以前にも話した通り、陛下に差し上げたが」
「そして、陛下はエレナ嬢に下賜した」
「陛下がリボンをどうされても、私がお咎めする権利は無い」
「ほう、言ったな」
勿体つけるアントーニに、嫌な予感がする。
「陛下は、『あなたを大切にします』と捉えておられたと言っただろう?」
「意外と、手が早くていらっしゃるな」
アントーニが片目を瞑り、チェーザレが短く口笛を吹く。自分の娘であれば騒ぎ立てるだろうが、他人事であれば楽しいに違いない。ジェラルドは、複雑な気分を味わった。
「だから、家族のように思っている、と仰ったのか」
「そこは、エレナ嬢は関係ないとは思うがな」
人の肩に腕を回してくるチェーザレまで、なぜ人をからかうような口調なのだろう。すぐ目の前にある顔を見ること数秒の後、やられたと思った。
「イリスの花言葉の件で陛下とお話したと言っていたが、チェーザレも同席したんだな?」
「ご名答。しかも主題はイリスの花言葉ではなく、ベネデッドの対処法だな」
「私がいない間に、事を進めるつもりだったな?」
睨んでやるが、2人に効果は無いらしい。
「しかし、朝も早くから俺を探しにジェラルドが来るという想定外のことが起こり」
「アントーニがやるはずだった役を、私とロレンツォに譲られ」
「俺は、エルネスト様が単独で行うはずだった警備隊の洗い出しを手伝った後、精鋭を引き連れて合流した。正直、助かったぞ。予想よりも随分と早く、一網打尽にすることができたからな」
大笑いしながら頭を撫でてくるアントーニに抵抗しようにも、懐いている幼馴染が邪魔でできそうにない。
「しかし、見てもないのにそこまで分かるとは。たいしたもんだな。さすが、天才様は違う」
「褒めてないし、撫でるのは止めろ」
「だったら、チェーザレを振りほどけばいいだろう」
「今は邪険に扱いたくない」
チェーザレとアントーニが、揃って人の顔を窺う。意固地になりそうだが、意地を張るなと自分に言い聞かせる。
「すまなかった」
短く詫びると、幼馴染は久し振りに改心の笑顔を見せた。
「俺達の友情がこれから先も続いていくなら、あれくらいは良い刺激だ。更に絆は固くなった。だろ?」
肩に掛かる手とは逆の拳が、体の前に出される。自分の拳を、傷に響かない程度に軽く当てた。
「ああ」
「では、戻ろう。きっと陛下が、待ちくたびれておられる」
3人は、海に背を向けた。