Y.砂糖菓子の記憶
13時を30分ほど回ったところで解散となった。仕事に支障をきたすわけにはいかないし、ジェラルド自身も精神的に限界だった。食器を食堂へ返し、廊下を1人で歩いていることが奇跡のように思える。
できるなら会いたくないと思っている時に出会ってしまうのが、チェーザレという男なのかもしれない。こちらを目聡く見つけたかと思うと、逃げる間もなく駆け寄ってきた。右上腕を掴まれる。反射的に肩を跳ね上げると、「すまない」という言葉と共に解放された。同時に立ち去ってくれればと思うのだが、こういう時に限って空気を読んではくれないらしい。常なら勘が良すぎるほどなのだが。心配そうに覗き込んでくる顔が、少し恨めしかった。
「顔色が悪い。昼過ぎまで、仕事してたのか」
「いや。食事をしていた」
相手の顔が、見る間に不審の色に染まっていく。
「執務室でか」
「ニーノのたっての願いだ。ロレンツォやルッジェーロとも一緒だった。後で、そちらの副官に聞いてみるといい」
口裏を合わせてあるため、真実を聞き出すことはできないだろうが。
誰が詮索を入れてきたとしても、ニーノが内政府に堤防修繕工事の件で相談をしに行った、と答えることになっている。城下町の南に住んでいる叔母から、工事中の暮らしへの影響はないのか確かめるよう頼まれた、というのが大まかな筋書きだ。
提案したのは、意外にもルッジェーロだった。あらぬところから宰相が不利な立場に追い込まれれば、友人である自分の上司も無事ではあるまいと想定してのことらしい。
「分かった。そうすることにしよう。今は、おまえを送るのが先決だな」
肩に回ろうとする腕を、左手で払うことで阻止する。本当に煩わしいと感じる時にしかしない行動に、チェーザレは一瞬だけ寂しそうな表情を浮かべた。
「君は今、ニーノと交代して巡回しているんだろうが」
軽く睨みつけてやると、すぐに不敵とも取れる笑みに戻ったが。
「ま、そうだけど。目的としては、おまえの身辺を見張るためだから支障はない」
「なに?」
今度は、ジェラルドが眉を寄せる番となった。
「おまえに会ってほしくない人間がいる。だから陛下は、近衛に命じた」
「会ってほしくない人間とは、誰だ?」
「近衛には、名前を公表されていない」
「誰かも分からないのに、巡回してるって? 馬鹿な」
「巡回するだけでも、多少の効果はあるものだ。それに公表されなかったのは、陛下も核心を得るに至っておられないからだろう」
アントーニの言葉が、頭を過ぎる。陛下の前では、下手なことはできない。人目があるところでも等しい、ということか。
「私にもお話にならないのも、やはり特定できていないからなのか」
「確かに、おまえが今回の標的を知っているなら話は早い。一番効率が良いのは、本人に警戒してもらうことだ。しかし、おまえには最後まで、お話にならないかもしれない」
「どうして」と喉まで出掛かって、結局は止めてしまった。聡くて誠実で優しい少年だ。問わなくても理由は分かる。
「標的の候補は、私に近しい人物なのだな。しかも口振りから察するに、近衛の隊員は知らなくても、隊長はご存知のようだ」
近衛隊隊長は一度目を見開くと、苦い笑みを浮かべた。
「机上の天才様は、恐ろしいほど鋭くなる時がある。勘弁願いたいものだ」
「皮肉はありがたいが、そうでもない。肝心なところが分かっていない。標的は誰だ。ニーノか、ルッジェーロか、エルネスト様か」
ジャンルカは、候補から真っ先に外した。近衛は巡回を命じられた立場のため迷うところだが、標的を油断させるためにあえて参加させることもあり得る。近衛の副官に巡回経路の確認をしたところ、同時刻に巡回している近衛は全部で16名。必ず2人1組で回ることになっている。チェーザレも一見すると1人に見えるが、離れたところから見慣れない顔がこちらを窺っていた。遠慮がちな様子から、入って1年目の雛かもしれない。
「ベネデッドか。アントーニか」
友人の名が上がっても、チェーザレは黙って聞いていた。身動き一つせず、ただ無表情であるのが気になったが。
「それとも君か、チェーザレッ」
「そうかもしれないな」
心臓が抉られるように痛いというのに、目の前の男はただ困ったように笑うだけだった。
「そんな顔をするな、ジェラルド。おまえの復帰を反対しなかったことを、後悔してしまう」
「どういうことだ?」
「おまえがいない間に……いや、なんでもない。それより、馬車まで送ろう」
「断る」
再び伸びてくる手を払おうとするが、今度は抗うことができなかった。腕の太さはジェラルドと変わらないが、力強さは比べ物にならない。
「頼む。送らせてくれ」
肩に回された手に、力が込められる。懇願に近い物言いを跳ねつけることが、どうしてもできなかった。わだかまりはあるものの、溜め息一つで許してしまう。
「だから甘いと言われるのだな」
「甘い一面があるからこそ、みんなから愛されるんだよ。おまえは」
「茶化すな」
「だが、本当のことだぞ」
チェーザレが大声で笑いながら、相棒を手招きする。「頼む」と言った割には無言が続き、付き従う雛鳥は居心地が悪そうだった。仕方なく、彼の名前や経歴を尋ねる。聞き出した趣味に合わせて二言三言返してやると、雛は嬉しそうに話し出した。どうやら普段は、かなりのお喋り好きらしい。一度堰を切ると、馬車に付くまで彼の独壇場となった。幼馴染と2人きりにならず居心地は悪くないのだが、喧しいにも程がある。声を掛けたことを少しだけ後悔した。隊長は分かっていて、あえて口を開かなかったのかもしれない。
「ああ、もう着いてしまいました。名残惜しいです。また、お話させていただいても、よろしいでしょうか?」
「まあ、時間がある時に、な」
聞き役になっていただけだというのに、なぜか好かれてしまったようだ。しかし、部下に懐かれること自体は嬉しい。無碍に断る気にもなれず無難な答えを返すと、雛鳥は嬉しそうに頬を上気させて「はい」と元気よく頷いた。そんな彼を、チェーザレは「少し離れていろ」と追い払う。
「分かったか。甘い一面があるからこそ、おまえは愛される」
「愛されるかどうかは知らんが、懐かれはするようだな」
雛鳥の方を見ると、笑顔で手を振ってきた。適当に手を振り返し、チェーザレに向き直る。「律儀だな」と呆れたように言われた。
「さっき上がった名の中に、ジャンルカ様とロレンツォの名前が無かったな」
指摘されて息を呑む。ジャンルカは意図的に外したが、ロレンツォは完全に無意識だ。
「いや、それは当然だろう。陛下はもちろんだが、ロレンツォが裏切るはずがない」
「彼ほど、おまえを敬愛している者もいないからな」
言い訳が口を突いて出る前に、稲穂頭が笑った。嫌味は感じられない。
「ま、確かにその2人は関係ない。羨ましい限りだ」
最後の言葉の意味が分からない。眉間に力が入ると、目の前の男は肩を竦めた。
「言葉の通りの意味だよ。もっとも今回は、全てに対して疑ってもらわなきゃ困るんだが。せいぜい気を抜かぬことだ。そして、もし全てが終わっても、おまえには今のままでいてほしい」
「なんだそれは」
「言葉の通りの意味だよ」
笑顔で馬車に押し込まれる。何か尋ねる前に扉は閉められ、動き出してしまった。幼馴染の顔が、見る間に遠くなっていく。
「なにが『羨ましい限りだ』だ、阿呆」
床に座り込んだまま悪態を吐く。何食わぬ顔で話すチェーザレと、いまだ彼が裏切るはずがないと思っている甘い自分とを、苦々しく感じた。
◆◆◆
肩をはう冷気に身をよじる。布を被ろうと手を動かしたことで、逆に頭が冴えた。
いつの間に眠ってしまったのだろう。辺りが暗い。応接室のソファに疲れきった身を落ち着け、それでもアンナと庭の手入れをどうするかという話をしていたことは覚えているのだが。夕食を食べた記憶は無いため、きっと用意された食事が手付かずのままになっているだろう。一口くらいは食べなければ、もったいない。喉も渇いている。
起き上がり、振り向いて凍りついた。少女が立っている。喉が鳴った。
「今夜は、なにが望みだ」
情けないほど心臓が踊り、布を掴んだ手は小刻みに震えている。常と変わらぬ態度で対応したチェーザレやジャンルカは、ある意味で尊敬に値すると思った。ソファの背が無ければ、後ずさっているところだ。
『望み?』
「そう、望みだ。いつも願ってきただろう」
少女の声を聞き、幾分か心が落ち着いた。高く、かわいらしく、どこか聞き覚えのある声音だ。冷静になると、目にしているものと記憶の回路が繋がるようだ。起き上がってからすぐに気付けなかったことが信じられない。
「君は、身体があるのか」
レースで飾られた白い帽子に、黄色のワンピース。白い靴。左足に結ばれた水色のリボンに、目が留まった。
「これも、君が『頂戴』と言ったのか?」
少女は首を横に振った。俯き加減の顔には目も口も無く不気味だったが、揺れる長い黒髪にはどこか見覚えがある。心臓が、大きく跳ねた。拒否したい心と、納得する思いが、半々だった。
「どうしたら、君の顔が見える」
ただ、一度自分の考えを受け入れてしまうと、不思議と納得する思いの方が勝った。今、泣いているのか笑っているのか、自分でも分からない。
「顔が見たい。私のエレナ」
少女が、伏せていた顔を勢いよく上げた。目が無くとも、口が無くとも。驚き、次いで泣き笑いするエレナの表情が、手に取るように伝わってくる。
『……頂戴』
「なにを」
『砂糖菓子を、頂戴』
「砂糖菓子、か」
すぐに、薔薇を象った白い砂糖菓子が思い出される。花の大祭がある度に、ジャンルカから土産だと下賜されるものだ。エレナは甘い物に目がないため、食べ過ぎてしまう。その対策として、ある日娘と一つの約束をした。勉強を頑張ったり、手伝いをしたり、困っている者に手を差し伸べたり。良い行いをした時だけに、褒美の代わりとして1粒手渡すというものだった。
「すぐに取ってきてあげるから、ここで待っていなさい」
帽子の上から頭を撫でてやる。丸い感触があり、涙が零れた。
砂糖菓子だけは引っ越したその日に、焼けた屋敷と変わらぬ場所に置いた。子供達の手が届かない、厨房の食器棚の一番上だ。ジェラルドが手を伸ばして、やっと届く所に隠されている。全ては、いつ家族が揃っても良いように、という小さな希望からだった。
砂糖菓子を手にして足早に戻ると、エレナは廊下側を向いて待っていた。立ち尽くす彼女に笑顔を見せ、膝を付いて目線を合わせる。
「私に会いにきてくれた、ご褒美だ。口を開けてごらん」
白い平面にしか見えない顔の前に、砂糖菓子を1粒摘んで差し出す。しばらく戸惑っていたエレナは、やがて口を開く気配を見せた。相変わらず口は無いが、構わず舌があるべき場所に砂糖菓子を押し込む。小さな白い薔薇は、抵抗無く平面の中に溶けて消えた。菓子と同じくらい白かった頬が、蕾が綻ぶかのように赤く染まっていく。
「おいしいだろうけど、食べ過ぎは駄目だよ。エレナ」
いつものように蓋を閉め、顔を上げて目を見張った。平面だったものに、凹凸が現れている。大きな茶色の瞳に、薔薇色の小さな唇。嬉しそうに微笑んだ彼女が一つ大きく頷くと、細い身体が揺らぎを見せた。思わず肩を掴もうとするが、霧を相手にしているかのように感触が無い。
「エレナッ」
箱が転げ、砂糖菓子が床に散乱した。エレナの足があった場所に、両手を突く。彼女は既に、跡形もなく消えていた。最後に目にしたものは、水色のリボン。左足首に結ばれた、質の良いリボンだ。
「左足首だけの幽霊」
瞬きを忘れたかのように、ただ床を凝視する。正しくは、リボンの残像を、だ。
「左足首にあったもの。陛下が確認せねばならなかったもの。水、色」
堰を切ったように、記憶が押し寄せてくる。薄茶色の手紙。近衛隊の見回り。水色のリボン。糸口が見えた気がした。ジャンルカに尋ねれば犯人が分かるかと思ったが、彼はまだ核心を得ていないらしいし、素直に話すこともしないだろう。
「陛下より先に、見つけ出してやる」
右手を力強く握った。明日、朝1番でアントーニに会わなければならない。
◆◆◆
アントーニを見つけるのは、考えていた以上に容易だった。並みの武官より大柄で、かつ身なりの良い男というのは目立つ。場所は正面の大きな階段。更に、体格の良いベネデッドと一緒なのだ。見逃せ、と言う方が無理な話だ。
「おお、ジェラールド。今日は早いな」
こちらから話し掛ける前に、アントーニは両腕を広げ、大股で近付いてきた。後ろからベネデッドも付いてくる。目の下には隈ができ、今にも倒れそうなほど危うい足取りだった。
「おはよう、アントーニ。ベネデッドは、どうしたんだ。危なっかしいな」
「ああ、あいつは寝不足なんだよ」
アントーニは後ろを振り返ると、「無理するな」と声を掛けた。途端に、ベネデッドは床に座り込んでしまう。
「なんでも急に陛下から、お呼び出しがあったんだと」
「陛下から? 城下でなにかあったのか?」
「いや、今のところ情報は上がってきていないな。ベネデッドにも詳しいことは聞けてない。機密とかなんとかで……ま、そのうち宰相のおまえには嫌でも耳に入るだろうさ」
それでもベネデッドを気にして見ていると、アントーニに肩を強く掴まれた。
「あいつのことは、後で俺が送るから気にするな。それより、俺に話があるんじゃないか」
片目を瞑る大男に、呆れて溜め息が出た。
「本当に聡いな、アントーニ」
「なに、目は口よりも、よほど正直なのさ。俺を目で追っていただろう」
アントーニは、おどけるように肩を竦めた。
「で、こっちも機密だろうか?」
「いや。そう隠す内容でもないと思う」
「そうか、それは良かった。ここで話すとなると声が響くから、この間のように抱き締めねばならないだろう? 2度目となると、嫉妬した貴人に殴られるかもしれん」
「嫉妬した貴人? 貴婦人の間違いではなく?」
「チェーザレに陛下にロレンツォ辺りが、有力な候補だ」
前者はともかく、ロレンツォは怒るかもしれない。もっとも、嫉妬とは種類が違う感情だろうが。
「実に、上官思いだな。どんな不貞も許さん、てな」
「不貞などと。同性で、そんな間違いが」
「世の中には、あるものでな。昔に行った都市でも、ある貴族が……と。語るのは、またの機会にしよう。ベネデッドを長時間放っておくわけにもいかんしな」
ベネデッドを一瞥して、頷いた。彼は太い柱を背に、夢の中にいるようだ。硬くて寝心地が悪いのだろう。眉間に皺が寄っている。
「昔のことなんだが、よく思い出してほしい。私達が仕官試験に合格したと教えてくれた日、水色のリボンをくれただろう。覚えているか?」
「あーあ、もちろんだとも。わざわざ東の貿易都市から取り寄せたものだからな。感謝しろよ」
間髪いれずに答えが返ってくる。よく覚えているようだ。これなら彼の記憶に間違いはないだろう。
「ということは、結局はチェーザレも受かると信じていたんじゃないか」
「ま、そういうことだ。あれは特注品でな。高かったんだぞ」
「特注品」
「そうだとも。銀糸で見事な刺繍がしてあったというのに、気付かなかったのか。やはり装飾品は、男にやるものではないな。女なら大喜びするだろうに」
肩を落とすアントーニに、「すまない」と苦笑して謝る。手触りからして値の張る物だとは分かっていたが、実に凝った代物だったのだ。
「しかし特注品ということは、数が少ないのだろうか」
「そりゃ、そうだ。俺が刺繍の花まで指定したんだからな」
「どんな花だ」
「イリス」
聞き覚えのある花だ。たしか、花の大祭で一番多く飾られるのがイリスだった。
「花言葉は、吉報だ」
目を見開く。今のジェラルドにとって、これほど残酷な言葉もない。左足首だけで夜な夜な城下を彷徨っていたエレナが、吉報などであるものか。
「おい、ジェラルド。おーい。俺が花言葉に詳しいのが、そんなに意外か?」
呆然とした時間が長く続いたのだろう。目の前で、アントーニの手が振られた。心配はされたが、都合よく勘違いしてくれたようだ。今でこそ刺さる言葉ではあるが、当時は嬉しい単語であったことに違いはないのだから。
「花言葉に詳しいのも、外交の賜物か」
「特にご婦人方とお付き合いする時は、話題を欠かさないことが大切だからな。嗜みの一つだ」
「ああ、そういえば」と、アントーニは指を鳴らした。
「さすが毎年参加されているだけのことはある、と言うか。ジャンルカ様も、花言葉にはお詳しかったぞ。吉報以外の意味も、ご存知だった」
「吉報以外にも、意味があるのか」
「花言葉には、一つの花で複数の意味合いがあるのが通例だな」
嗜みというものは複雑なものらしい。とは言っても、当時のアントーニが伝えたかった言葉は、吉報の他にはない様子だが。頭二つ分ほど上にある彼の顔を見て、引っ掛かる言葉があったことに気付いた。
「吉報以外にも、ということは。イリスの花言葉の件で、陛下とお話になったことがあるんだな」
「ああ。つい昨夜のことだ。今、気付いたぞ。おまえが本当に聞きたいことが。イリスが刺繍された水色のリボンは、この世に3本しかない」
絞れた。体が、にわかに興奮する。
「私とチェーザレとベネデッドの3本で、間違いないか?」
「当然だ。陛下にも、そうお話した」
ジャンルカが動き始めている。ジェラルドと同じように、確信を得ようとしているのだ。ロレンツォに聞いたのか、他の誰かから漏れたのか。ジェラルドが疑惑を持ち、核心に近付きつつあるのを知って、先回りをしようとしているに違いない。ジェラルドが真実に行き着く前に、全てを終わらせようというのだ。
だが、そのようなことはあってはならない。真相を追い詰めるのは、自分でなければならない。
「他にも、なにか話したことはないだろうか」
「いや、これといって……そういえば、おまえは水色のリボンを陛下に差し上げたらしいじゃないか」
一気に気まずくなった。思わず目を反らすと、頭上から溜め息が降ってくる。身が縮む思いだ。
「すまなかった。陛下にも。まさか、吉報などという花言葉とは知らずに」
アントーニから送られた水色のリボンを、場面の通りに『門出』として受け取っていた。仕官した当時は楽しくも苦労が多く、失敗して落ち込む度に鮮やかな水色を目で追った。滑らかなそれは己を初心に立ち返らせてくれ、時には勇気をくれたものだ。若い頃の自分を支えたものが、ジャンルカにも等しくあれば良い。ただ、それだけを願って手渡したのだ。先王が世を去り、彼が即位した日に。
悪気は無かったと、胸を張って言える。しかし、どれほどの意味を持つだろう。どれだけの痛みを、少年の心に与えたのか。
「自分を責めるのは止せ。おまえが花言葉を知らないことは、陛下も既に存じていらっしゃる。それに、吉報とは違う意味で捉えられていたようだ」
肩に手を置かれ、許しを請うように顔を見上げる。アントーニの深い藍色の瞳は、聖人のようだった。
「花言葉には、複数の意味合いがあるのが通例だと言ったな。結局は、人の捕らえ方次第ということだ」
「陛下は、なんと」
「あなたを大切にします」
吉報以外に、そのような花言葉があるとは。なんとも複雑で奥深いものだと思い知らされる。
「多少のずれはあるかもしれないが、支えようという心は確かに伝わっていた。だからこそ陛下は、おまえを宰相として迎えられたのだ」
家族のように思っている。そう言ったジャンルカの必死の表情が思い出された。もし彼が真相を突き止めたなら、自ら標的に立ち向かうのだろうか。そのような危険な真似はさせられない。尊い身である以前に、慕う者として当然の思いだ。
「ありがとう、アントーニ。君はいつも、前に進む勇気をくれる」
踵を返すと、ベネデッドの傍へ向かった。正面にしゃがみ込むと、目を閉じてはいるものの眠っていないことが分かる。
「ベネデッド。聞いていたか?」
ベネデッドは物憂げに頷き、目を開いた。白目は、気の毒なほど充血している。
「眠いところを申し訳ないが、一つ教えてくれ。水色のリボンは持っているか?」
「屋敷にある、はずだ。帰れば探せる」
ベネデッドは目を擦ると、大きなあくびをした。
「来て、確認すればいい」
「わかった」
立ち上がると、アントーニに向き直った。首を傾げている。かわいくない。
「おまえも陛下もリボンに拘るが、それで本当に見付かるのか?」
「ああ。かなり高い確率で、真実に導いてくれると思う。ところで、チェーザレは見なかったか?」
「いや、まだ見てないな」
アントーニが、どこかの皇女から送られたという時計を取り出し、視線を落とす。短く唸った彼の顔は、朝日に煌く銀色にはふさわしくないほど渋かった。
「おかしいな。いつもなら、とっくに城に来ているはずなんだが」
考える前に体が動いた。だが、階段を駆け上がる前に阻止される。
「俺が探す。おまえはベネデッドを送ってやってくれ」
「しかしっ」
「ああ、もうっ」
苛立ったアントーニに抱きすくめられる。身を硬くしていると、耳元に顔が寄せられた。
「俺がチェーザレを捕まえておいてやるから、その間にベネデッドのリボンを確認してこい。すぐに奴を引っ張って、連れてくから」
早口で告げられる。
「まだ、チェーザレが黒だと決まったわけじゃない。単身で敵地に乗り込むことになるかもしれん。無理はしてくれるな。もっとも俺は、リボンが導いてくれるとは信じていないがな」
「アントーニ」
途端に、叫び声が響いた。上階を見ると、ロレンツォがこちらを指差して驚愕の表情を浮かべている。
「貴人の嫉妬で殴られるな、アントーニ」
「誰のせいだ。恨むぞ、ジェラルド」
体が解放される。ロレンツォを目で追った。憤慨した彼は、大股で階下を目指している。
「そうだ。ついでに、あいつを連れていってくれ。できれば、顔に青あざは作りたくないからな」
「愛人に会えんか、色男」
「外交に赴けなくなる」
「それは書類整理が片付いて、調度いい」
悪態を吐きながらも、アントーニを背に庇った。既に階段を降り始めている部下を見上げる。怒りに燃えているが、良い目だ。
「ロレーンツォ」
できる限りの大声で呼ぶと、彼はすくんだように足を止めた。怒りよりも戸惑いが勝った表情に、笑みを浮かべる。
「今から出掛ける。君も来いっ」
「え、あ、はいっ」
先までの大股歩きは、どこへ行ってしまったのだろう。酔っ払いよりも危なっかしい足取りで、段を踏んでいる。それでも降りきってアントーニを見た彼の腕を強く引き、こちらに注意を向けた。
「あいにく、アントーニに構っている暇はない。ベネデッドの家に行くぞ。手伝え」
「は……ベ、ベネデッド様っ。大丈夫ですかっ?」
ただならぬベネデッドの様子に、ようやく気が付いたようだ。床に座り込んだままの男に、慌てて駆け寄っていく。
「陛下には、よろしくお伝えしておいてくれ」
「承った。気をつけろよ」
「そっちもな」
互いに、右手を自分の左胸に当てる。階段を上がっていく背が、なんとも心強い。
「立てるか、ベネデッド」
苦労しているロレンツォの隣りにしゃがみ込み、同期に声を掛けた。見上げてくる彼の目には、力が無い。自分よりも、よほど疲れているように見えた。黄色い蝶で酒を飲んでいた時ほどではないが、顔色が悪い。
「おまえ、どこか悪いんじゃないのか?」
されるがままの彼は、額にも素直に触らせてくれる。熱は無いようだが。
「病気では、ないんだ。大丈夫。それより、リボンを確認するのだろう?」
「あ、ああ。しかし、またの機会に」
「いや、大丈夫。決意がある内に、動いた方がいいぞ。ジェラルド」
どういう意味だろう。気にはなったものの、今はベネデッドを送り届けることの方が重要だ。ロレンツォと2人掛かりで大男を立たせ、城外へと向かい歩き出した。