X.疑惑の迷路

 馬車の手配は、前日の内になされていたらしい。身支度を整えるのとチェーザレが所有する馬車が到着したのは、ほぼ同時だった。
 抜け目の無い彼の案内で連れてこられた場所は、ガブリエッラ礼拝堂だ。城から一区画ほど西に離れている。高名な画家によって壁や天井、床までもが彩られた大きな建物だ。昼間は参拝者によって込み合うだろうが、まだ夜が明けたばかり。助祭達が忙しなく清掃を行っている姿しか見受けられない。
「感心だな。こんな朝早くから、お祈りとは」
 『聖域の使徒』と名付けられた絵を見ながら呟くと、チェーザレに袖を引かれた。
「そんなわけないだろう。陛下はともかく、俺がそんな玉か」
「そうだったな」
 国王の片翼でありながら、堂々とミサをさぼる男だ。今更、改心するわけがない。
「これを機会に、おまえも一つくらいは覚えておいた方がいいぞ」
 チェーザレが、正面を指差す。奥には尊き女性の像と3人の聖職者が立っていた。
「私が覚えた方が良いのは、聖母か。それとも、ミケーレ大司教とアマデオ司教か。まさか、エルネスト様とは言わないだろうな」
「ああ、そんな名前だったかな。あの大司教様は」
「おまえこそ、1人くらいは覚えた方がいいのでは」
 溜め息が出る。頭の良い男であるはずだが、関心が無いと何も覚えようとしない。
「ガブリエッラ礼拝堂のミケーレ大司教と言えば、国内でも有数な聖職者の1人ではないか。特に、破邪の力が強いとされている」
「ああ、そう言えば。幽霊騒ぎの時も、この辺りの区画で出たとは聞いたことがないな」
「城内のミサでも、何度か顔を見たことがあるぞ。さぼり過ぎだな、チェーザレ」
 振り返ったジャンルカが、からかいの意を含めて笑う。先を行く彼の足取りからして、大司教に用があるのは確かなようだった。
「しかし、ジェラルド。おまえも片翼であるのなら、覚えておいて損は無いと思うぞ」
 王自らが言うのなら、確かなことだろう。黙って、磨かれた大理石の床を踏んだ。清掃の邪魔にならないよう足早に通り過ぎるが、視線が気になる。掃除道具を手にしながらも、こちらが気になるのだろう。国王がいるのだから当然だ。
「ジャンルカ陛下、チェーザレ様。お帰りなさいませ」
 穢れの無い白い法衣を身にまとった大司教は帽子を脱ぎ、深く頭を下げた。若い頃は悪魔退治で名を馳せたという話だが、体格はジェラルドと同じくらいで、これといった特徴も無い。年齢のせいか剃髪したのか毛が無い頭を上げると、帽子を被り直した。今年で70を数える人物の眉は、長くて白い。深い皺が多いが、表情は酷く優しかった。
「あなたは、宰相ジェラルド様ですな」
「はい。幾度かミサでご一緒させていただきましたが、こうして近くでお話させていただくのは初めてです」
「ええ。私も、遠くから拝見しておりました。エルネスト様からも、よくお話を窺っております。お会いできて、嬉しく思いますよ」
 不思議なことに彼と対面していると、不安も憤りも、暗いもの全てが晴れていくような心持ちがした。破邪の力は、人相手にも有効なのだろうか。
「大司教。感動しているところを悪いが、通してくれないか。ジェラルドなら、また時間がある時に連れてくる」
「これは申し訳ない。お急ぎでしたかな」
 大司教は懐を探ると、銀色の鍵を取り出した。聖母の台座に手を伸ばす。どこに鍵を差す場所があるのかと、首を伸ばして窺う。見えづらいが、記号のような十字の対象図形が描かれている中央に鍵穴はあった。鈍く光る鍵を回すと、爪で机を弾いた程度の軽い音がする。
「見ていなさい、ジェラルド。通常、宰相には引き継がれないものの一つです」
 大司教が退き、エルネストが聖母の左側から台座を両手で押した。簡単に横にずれた聖母の奥には、縦長の穴が空いている。四角く繰り抜かれた空間から、湿った風が微かに吹いた。
「城の抜け道の一つです。いざと言う時に王族が通るため、こういった道が何本か用意されているのですよ。私は他の道の鍵を預かり、初めて存在を知りました。ジャンルカ様は当然、いくつかの道をご存知でしょう」
「ああ。私が知っているだけでも、9本あるな」
「俺は13本」
 自慢げなチェーザレに、冷ややかな視線を送る。
「なぜ、おまえの方が多いんだ」
「睨むな、ジェラルド。近衛の長には必ず、地下の地図が引き継がれるのが仕来りだ。実際には、まだあるはずだがな。迷路のようで、容易くは覚えられない」
 司教が心得たかのように、チェーザレに燭台を手渡す。手際の良さから、何度も出入りしているのは間違いない。
「それでは、封印をよろしく頼む」
 3人の聖職者が頭を下げる中、入り口へと滑り込む。数歩進んだところで、四角い光が狭まった。聖母の封印だ。大司教は高齢のため、司教とエルネストが台座を動かしているのだろう。完全に閉まってしまうと、燭台以外に頼るものは無い。自然と、3人で固まって歩くことになる。
「これでは、覚えるどころではないぞ」
 闇と石壁しか存在しないかのようだ。現在歩いている道は一本のようだが、近衛の隊長は「迷路のよう」だと言った。複雑に絡む道もあるに違いない。
「言っただろう。容易くは覚えられないのさ。逃げ道だから仕方がない。この道は長いが、別れるところが無い。一番覚えやすいんだよ」
「この道は、城内の聖母とガブリエッラ礼拝堂の聖母を繋いでいる。だから、あの礼拝堂の大司教は代々信頼たる人物でなければならない。アマデオ司教は、次期大司教になると決定付けられているようなものだ。聖母の封印を知っているからな」
 一言も言葉を発することのなかった司教の顔を思い浮かべる。彼の声なら、城内で行われるミサで何度か聞いたことがあった。深くて低くて、それでいて甘い。耳通りが良く、心に安寧をもたらす。信者からの信望もあるようで、ミサを終えた彼が門で呼び止められている姿を目撃することも多々あった。
「将来が楽しみな方ですね」
「ああ。私も、そう思う」
 ジャンルカは若いが、人を見る目を持っている。彼が期待するなら、優れた人材と見て間違いないだろう。
「しかし、何度通っても長いな」
「そうですね。同じところを何度も通っている感覚に陥ります」
「そこが狙いだな」
 チェーザレの言葉に、逃げ道なのだと思い出す。追っ手を混乱させるために、あえて石畳しかない単調な造りになっているのだろう。真っ直ぐな通路に見えるが、実際に礼拝堂と城を直線で結べばたいした距離にはならないはずだ。感覚を狂わせるための策の一つとして、分からない程度に湾曲させてあるのだろう。
「先人の知恵は偉大だが、本当の意味で使用する日が来なければいいな」
「まったくです。そのためにも、陛下や私達は努力していかねばなりません」
「その通りだ。城に着いたら、さっそく予定の確認を行うぞ」
 急に足取りが軽くなったジャンルカに、両翼は顔を見合わせて笑う。主に従って早足で進むと、2分ほどで城内の聖母に会うことができた。ガブリエッラ礼拝堂から城まで、15分も掛かっていない。目の錯覚とは、時に恐ろしいものだと悟った。台座で完全に通路を隠すと、ジャンルカが鍵を掛ける。軽い音が、3人だけの教会の中に響いた。
「これは、マスターキーだ。国王と近衛隊隊長の2人しか所有していない」
 チェーザレが、1本の鍵を取り出した。ジャンルカの物と同じく、白銀色に輝いている。
「万が一の事態が起こった場合の取り決めは知っているか」
「いや。宰相には『国王と共にあれ』という言葉しかいただいていない」
「常は両翼と称される俺達も、危機に陥った時は別行動となる」
「そうなのか」
「ああ。俺は、第一位王位継承者……今で言うと、陛下の叔父上であるジルベルト様をお守りすることになる。陛下とおまえは、副官のルッジェーロと一緒だ。ジェラルドのような男が2人並ぶ日が来るかもしれませんよ、陛下」
 どこかで聞いたことがある言い回しをチェーザレが言うと、ジャンルカは渋い顔をした。
「冗談でも止めよ」
 もちろん万が一の事態のことを言っているのだろうが、2人並ぶことについても少なからず含まれていると思われる。失礼なという感想から、不意に導き出された。昨日も、同じことを思わなかっただろうか。
「待て、チェーザレ。先の言い回し、どこで聞いた」
「俺が立ち去る時、話していたではないか。軽口も場所を選べよ。特に吹き抜け部分は声が響く。おまえも知っているだろうに」
「誰も、ルッジェーロとは言っていない」
 ジャンルカが当惑する中、2人の視線が交差する。ジェラルドとルッジェーロ。2人並び立つことを国王が嫌がったのは、花の大祭から2人の副官に話題が及んだ時だ。場所は執務室の中。間違いなく、チェーザレはいなかったはずだ。
「さあ。ルッジェーロにでも聞いたかな」
 黄昏色が細くなる。執務室に入らず中の会話を知るには、盗み聞くしかない。上司に会うことが全てだったロレンツォと一緒にいたルッジェーロには、静かに盗み聞くなどできなかったに違いない。彼が知っていた確率は低い。しかし知らなければ、ジャンルカが吐いた言葉など分かるわけがない。
 自分で聞いたにしろ、人づてに聞いたにしろ、チェーザレが嘘を一つ吐いたことだけは確かだ。
「それでは、陛下。俺は朝の調練がありますから、これで失礼します」
 結局は、問い詰める前に逃げられてしまったが。チェーザレに対する不信感を感じ取ったのか。ジャンルカはジェラルドの左手を取り、両手で包み込んだ。
「我が片翼が何を欺いたとしても、おまえを心配する気持ちだけは嘘ではない。今、私が言えることは、それだけだ」
「陛下」
「さて。おまえは、私と共に来い。今日の予定をまだ聞いていないしな」
 上着を翻し先を歩く国王は、ジェラルドの知らない何かを知っているようだった。しかし、口を割るつもりもないらしい。彼を相手に事を荒げることもできず、黙って後に従うしかなかった。

 ◆◆◆

 昨日はジャンルカに付きっ切りだったが、今日は城にいるほとんどの時間をロレンツォと共に過ごした。元々優秀な男ではあったが、不在の期間に独自で勉強したらしい。こちらが気を引き締めねばと焦りを感じるほど、国内の細やかなところにまで目が行き届くようになっていた。
「少しの時間で、随分と成長したな。時間内に終わるとは思わなかった」
 机を使って書類を揃えていると、正午を知らせる鐘が鳴った。これから政務内は昼休憩に入る。もう少しすれば、扉の外も賑やかになるだろう。
「いえ、ジェラルド様に比べれば、まだまだです。それに、今日はアントーニ様が手伝ってくださいましたから」
「そうだな。あいつには、後で礼をせねばなるまい」
 報告書など自分も仕事を抱えているはずのアントーニは、1時間ではあるが約束通り手伝いに来てくれた。書類に素早く目を通し、次に回す先別に振り分ける。必要があれば自ら補足を入れ、不明な点があれば起案者を呼び出し詳細を尋ねる。基本的なことではあるが、手際の良さと普段の彼にはない厳格な空気が、事務処理慣れした人間には刺激になったらしい。久々に活気のある政務管轄区の空気は、彼が去った後まで続いた。
「ところで、ジェラルド様。よろしければ、ご一緒に昼食などいかがですか」
「そうだな。運が良ければ、アントーニに会えるかもしれないし」
 外交付とは食事の時間がずれるため、難しいだろうが。分かってはいつつも席を立った。廊下に出ると、既に食堂に向かって歩いていく人間がいる。鍵が掛かっているか確認して、ジェラルド達も彼等に倣った。
「そういえば、そろそろ新人の研修も始まるようですよ」
「ああ、花の大祭と似たような時期だったな。すっかり忘れていた。なんだか時の流れに置いていかれた気がするよ」
「はは。仕方がありませんが、ジェラルド様ならすぐに追いつかれることでしょう」
「だと、いいんだがな」
 苦笑いが浮かぶ。まだ本調子と言えない身体は、なかなか仕事を思い出してはくれなかった。少なくとも、あと10日は苦労しなければならない気がする。
「今年は、どなたが研修の責任者に当たられるのだろうか」
「なんでも、エルネスト様だそうですよ」
 答えは隣りのロレンツォからではなく、後ろから聞こえた。振り返ると、長剣を下げたルッジェーロが立っている。
「ルッジェーロ。おまえ、なにやってるんだ」
 ロレンツォが驚いたように言う。廊下は、まだ内政府の敷地に当たる。昨日はロレンツォと共にいたことで気にならなかったが、2日連続で特別な用も無いのに武官が歩き回っているというのは珍しい。
「城内の見回りだよ。陛下から、しばらく警備を強化するよう指示されてね。今、交替してきたところだ」
「陛下が」
「はい。気になるところがおありなご様子ですが、詳しいことは私では。ところでジェラルド様達は、これから昼食ですか。ご迷惑でなければ、私もご一緒させて戴いて、よろしいでしょうか」
「もちろん」
 ジェラルドは左にロレンツォ、右にルッジェーロを引き連れて歩き出した。管轄が違う人間とも並んで歩くことはあるため、特に違和感は感じない。無駄に注目を集めてしまうのは、宰相という立場の人間が久し振りに城内を闊歩しているからだろう。目が合えば、誰もが頭を下げてくる。
「しかし、エルネスト様が新人研修を担当されるとは。今年は厳しそうだな」
 今朝会ったばかりの聖職者の顔を思い出す。笑みが零れたのを、右隣りの人物は見逃さなかった。
「そういえばジェラルド様の前は、エルネスト様が宰相を勤めていらっしゃったんですよね。私達の代では、知らぬ者も多いですが」
「ああ。引退される時、私を推薦してくださったんだ。引継ぎの時は、鬼のようだったよ。感謝はしているけどね」
 先王が倒れたことを機に、エルネストは歳若かったにも関わらず引退を決意した。新王が即位した際に、自分よりも若く才能が溢れる人物で固めた方が良い、と伏せた先王に進言したのだ。意見はすぐに聞き入れられ、両翼の代替わりが行われた。エルネストはジェラルドに引継ぎをする傍ら、チェーザレにも行儀作法について細かく教えていたらしい。厳しいだの、悪魔だの、いじわるだの。散々な苦言を聞かされたものだった。
 疲れを感じつつも希望に満ち溢れていた頃を思い出し、心の中が苦いものでいっぱいになった。
「お疲れですか、ジェラルド様」
 目聡いロレンツォが覗き込んできたのに対し、「少しな」とだけ返す。著しい成長を見せる両翼の副官に、余計な心配を掛けたくなかった。
「歳のせいか、すぐに仕事に慣れることができん。私も新人研修を一緒に受けた方がいいかな」
「なにを仰います。まだお若いではありませんか」
「ジェラルド様と一緒では、新人が気の毒ですよ」
「そんなものか」
 笑いながら角を曲がる。食堂に近付くと、人が集まっていて賑やかだった。内政府と近衛の人間が多いようだ。知り合いの顔もいくつかある。予想通り、外交府の人間は見当たらなかった。
「アントーニは、いないようだな」
「珍しいと思ったら、アントーニを探してたのか」
 辺りを見回していると、斜め後ろから声を掛けられた。振り向くと、警備隊隊長が数人の部下を引き連れて立っている。揃いの黒衣を身に纏った青年達は大柄な体格の者ばかりで、周囲を圧倒させる。
「ベネデッドも、これから食事か」
「いや、俺達は終わったところだよ。もう少し外で休憩したら、城下の視察だ」
「そうか。ご苦労様」
「ああ。ところで、チェーザレはどうした。なぜ、おまえが近衛の副官を連れているんだ」
「私のことを、ご存知ですか」
 ルッジェーロが目を丸くした。城下町を任されている警備隊と王族の身辺を主な職場とする近衛隊とでは、同じ武官でも顔を合わせる機会が少ない。彼が意外に思うのも無理はないが、相手が上司の友人だということを忘れているらしい。ベネデッドは、おかしそうに笑った。
「チェーザレが、お喋りなのを忘れているな」
「ああ、そういえば。アントーニ様を含めて、4人は仲がよろしいんですよね」
「今は、たまに飲みに行くくらいだがな。で、チェーザレは」
「隊長でしたら、城内の見回りですよ」
「そうか。こちらも気を引き締めねばならんな。では、邪魔したなジェラルド」
「いや、気をつけて」
「ありがとう」
 ベネデッドを見送っていると、彼と入れ違いに食堂へ入ってくる赤い頭が見えた。こちらを見つけると、人懐こい笑顔を浮かべて駆け寄ってくる。
「今日は、いろんな人間に会う日だ」
「なにがですか」
 武官の中でも小柄なニーノの瞳は、主人を見上げる子犬のようだ。純粋で丸い。見下ろす者は、思わず笑みを誘われてしまうだろう。
「いや、こちらの話だよ。ニーノも、今から食事か」
「はい。ジェラルド様も、お2人と今からですか」
「ああ、そうだ。ニーノも一緒にどうだ」
「光栄です。ぜひ、ご一緒させてください」
 喜びを表現する尻尾まで見える気がする。笑っていると、ルッジェーロが赤毛を撫でた。同じくらいの年頃のはずだが、つい構ってみたくなるのだろうか。「主人と犬」と呟くロレンツォの右手の甲を、軽くつねってやった。
「隊長とは、交替してきたか」
「もちろんです。あ、ジェラルド様。もしかして、隊長の方がよろしかったですか」
「なにがだ」
 急に奇妙なことを尋ねてくる。首を傾げると、「お食事の相手ですよ」と跳ねるような調子で返された。
「俺、今から行って、隊長と交替してきます」
 今にも向きを変えて走り出していきそうな犬を、「待て」と鋭く制した。紐を引く代わりに、襟元を引っ張る。
「なんの話か知らんが、その必要はない」
「でも逆の立場なら、隊長は拗ねてしまいますよ」
「そ、そうか」
 左右を確認すると、両副官とも首を縦に振っている。自分が拗ねるわけではないのに、なぜか恥ずかしい。
「とにかく、仕事中の男を自分事のためだけに呼び寄せる真似はしない。ただでさえ、近衛には迷惑を掛けているのだから」
「迷惑だなんて、そんな……あ」
 突然ニーノは、辺りを気にする素振りを見せ始めた。何かあるかと周囲を見回すが、人が行き交う以外に目立った動きはない。副官も挙動の理由が分からず、顔を見合わせるだけだ。「どうした」と聞いてやると、ニーノはようやくこちらの顔を見た。
「いえ、あの、例の件について一つ疑問に思っていることがあるのですが」
「疑問、とは」
 ルッジェーロが問い返すと、「ここでは、ちょっと」と小声で返される。よほど言い出しにくいことのようだ。副官の顔をそれぞれ見ると、溜め息を吐いた。切り出されて、聞かないわけにもいかない。ニーノの警戒振りも気になる。
「ロレンツォ。先ほどまでいた部屋を、昼から使う予定は」
「15時にアントーニ様がおみえになるまでは、私1人で仕事する予定です。本来はジェラルド様のお部屋ですので、外出中の札を廊下に掛け、内鍵を掛けておけばよろしいかと」
「分かった。食事をそこに運んでもらえるか、交渉してみよう。それで良いか、ニーノ」
「あの、できれば地図があればっ」
 弾かれたように顔を上げながらも更なる要求をしてくる赤毛の男に、目を細めた。
「運が良いぞ、ニーノ。政務は今、花の大祭と堤防の件を抱えていてな。机の上は、地図でいっぱいだ。警備隊並みにな」

 ◆◆◆

 交渉は良い方向へと流れ、場所を食堂から政務室に移動することができた。部屋の中に、常には無い焼きチーズの匂いが広まっている。換気のために窓を開けると、ロレンツォが使用していた机から書類が舞った。本人が慌てて広い、重石を置く。笑って見届けてから、ニーノに向き直った。
「では、改めて問おう。疑問、とは」
 執務机には、堤防の案件に用いる地図が広げられている。街の南側には、赤と青の線画何本か引かれていた。決壊した時の予想危険区域と補強予定区間だ。城下町全体が示せる地図を、というのがニーノの希望だった。いくつかある候補の内、通りや建物がより詳細に描き込まれているものを採用することにしたのだ。
「例の件では、近衛と警備の両隊が協力して行っています」
 「例の件」については、いつも後ろめたい気分にさせられる。自分が言い出したことではないが、公の部署を私事に動かしていることに変わりはない。
「それについては、申し訳なく思っている。ニーノが疑問に思うのも」
「いえ、そういうことではありません。個人の捜索は、ジェラルド様であっても民間の方であっても、等しく行いますから」
 遭難時の救助などのことを言っているのだ、と察した。チェーザレからも、同じように諭されたことがある。頷くと、ニーノはいくらか安堵した表情になって、先を続けた。
「疑問というのは、捜索場所のことなんです。紙を何枚かお借りしても、よろしいでしょうか。できれば小さく、色違いで」
 はじめは羽ペンを手にしていたニーノだったが、仕事に使う地図に書き込むことをためらったらしい。ロレンツォが白と水色の真新しい紙を適当な大きさに切って、束にする。ニーノは礼を言って、受け取った。
「おおまかになってしまいますが、これで捜索場所を塞いでいきます。まずは警備隊です。人から聞いただけで詳細は分かりませんが、だいたいこんな感じだそうです」
 ニーノが地図の上に、紙切れを乗せていく。まずは火災にあったジェラルドの屋敷の付近。次にジャンルカに与えられた屋敷の周辺。白の周り。堤防付近。ベネデッドが、要所を押さえながら捜索に当たらせていることが分かる。次は、中央区から西へ。そこから北と南に別れて、地図が埋まっていった。
「追い込んでいるのが、よく分かりますね。簡単ですが、隙がありません」
 感心したように、ロレンツォが唸った。ニーノは頷くと、水色の紙を取り出す。
「次は、近衛隊です」
 近衛隊らしいと言えばよいだろうか。最初は、城周辺から始まった。北が埋まると、北東と北西の一部が水色に染まる。それから、ジェラルドの新旧の住処だ。
「なんだか警備隊が面なら、近衛は点といった感じですね」
「近衛は本来なら城内、とりわけ陛下をお守りするのが役目だ。人数も少なく、城を長く離れることも好ましくない。隊長だって、その点は歯痒く思われているはずだ」
 素直に感想を述べるロレンツォに、ルッジェーロが反論する。その合間にも、水色は変わらず点を描いていた。しばらく眺めていれば、疑問の内容がジェラルドにも分かってくる。鼓動がにわかに速くなり、肩が緊張してくるのが自身にも感じられた。
「これで終わりです」
 最後の一枚が、中央区と堤防の中間地点に置かれた。
「間違いないか、ルッジェーロ」
 地図からは目を離さず、幼馴染の副官に確認を取る。
「はい、間違いありません。ですが、これは」
 顔を見なくても、動揺していることは明白だった。ニーノの手によって示されるまで、気付きもしなかったのだろう。呆然とする彼に、ロレンツォが掴みかかった。
「本当に間違いないのか、ルッジェーロ。警備と近衛が本当に協力しているなら、この流れは不自然だろっ」
「私が知る限り、間違ってはいない」
「だったら、どうして東側はなんの捜索もされていない。おかしいだろっ」
「そんなことは、私にも分かっている」
 ロレンツォの肩に手を掛け、ルッジェーロから引き離す。双方共に、苦しい顔をしていた。
「このままいけば、いずれ警備隊の捜索は東にまで及ぶ」
「ジェラルド様」
 彼等から顔を背けて、再び地図を見下ろす。もはや紙切れの山と化した中で、ある一帯だけ穴が空いていた。点々と描かれる建物の中に、ジェラルドもよく知る者の所有物があることを知っている。
「近衛の隊長は、捜索する必要がないと思っているから、あえて外しているのかもしれない」
「ジェラルド様は、隊長を信じていらっしゃるのですね」
 復帰する前なら、ルッジェーロの問いに即答していただろう。しかし、息子のいる別邸を見下ろす今となっては、どうしても応と返事をすることができなかった。