第15話 真摯の瞳

 目覚めにはそぐわない、賑やかな曲が流れている。10代後半の頃に、王都で流行ったものだ。当時気に入っていた音楽家の作品であったし、まだ慣れない携帯電話が鳴ったとしても騒がしければ気付くだろうと考えたことが、裏目に出た。無視してやろうと携帯電話を掴んだ右手ごと掛け布の中に押し込んだが、相手もしぶとい。
「あーもう、誰だ?くそっ」
 誰だもなにも、自分が番号を教えた人間など4人しかいない。妹と女医と助手と門衛。
 科学に対して制限が多く、寮生活者が多数を占める学都だ。携帯電話が導入されたのは最近のことで、王都や東国に比べて遥かに遅い。仕事で必要とする者や好奇心の塊のような人間が徐々に持ち始めている、といったところだ。ブライアンとしては特に必要なかったのだが、助手に持たされた。手の平に納まる大きさのくせに、何より重い枷だと思う。
 妹は学都に訪れたばかりで機嫌も損ねているから、しばらく連絡は取ってこないだろう。女医とは飲み屋に行った際、その場の雰囲気に乗じて番号を交換した。彼女からは飲み屋への誘いばかりだから、朝に掛かってくることはまず無い。助手だったら面倒だから、出たくない。生真面目な門衛は、学都祭での警護の助けとして教えた。万が一はぐれた時のためで、近いうちにハイエロファントも携帯電話を持つようになるだろう。まだ祭りの前だから彼からということはないだろうが、仮に彼からだったとしたら緊急事態だ。
「んー?名前、出るんじゃなかったか?」
 画面を見るが、数字が並んでいるだけで相手の名前が表示されていない。相手の番号が登録されていれば連絡を取ってきた相手の名前が表示される、と1度目の学都祭の打ち合わせの際に門衛が教えてくれたはずなのだが。
「てことは、間違いかなんかってことか?」
 彼の言ったことが正しければ、知らない相手ということになる。途端に出るのが面倒になって鳴り続ける携帯を見下ろしていたが、やはり止む様子がない。こんなことなら億劫がらずに、『留守番電話機能』とやらを聞いておくべきだった。大きく溜め息を吐いて、ようやく応答することにした。
「あーこちら、ブ」
『いつまで待たせる気ですの、この緑頭っ』
 名乗りきる前に、甲高い声で怒鳴られた。なんて失礼な奴だ、と口の中で毒づく。自分のことは、遥か上に棚上げした。
「お言葉ですが、間違いではありませんか?番号をよく確かめ」
『なんて失礼なっ。間違ってなど、おりませんわっ』
 大声のまま、電話の向こう側の女性は数字を口にしていく。確かに、間違いない。覚えたての自分の番号だ。まだ昨日の酒と眠気が残っていた頭から、一気に血の気が引いた。酒に酔って記憶を飛ばすことはたまにあるが、何か失敗しただろうか。
「あの、なぜ俺の番号を」
『あなたの妹さんから頂きましたの。ちょっと目を離してらっしゃった隙にね』
 この世は、なんて恐ろしいのだろう。全身に寒気が襲った。妹には後で電話して、注意してやらなければならない。彼女は、兄の言葉を素直に聞き入れようとはしないだろうが。
『と、こんな問答をしている場合ではありませんわ。貴方、今すぐハイエロファントのところに向かいなさいな』
「ファントのところに?」
 ハイエロファントを知っているとは、彼女は誰なのだろう。何故、そのようなことを言うのだろうか。
『ドゥランセルが、学都に入りました。運良く手前で彼を捕まえることができましたから、無理矢理カナを同行させましたけど。なんだか嫌な感じがしたのですわ』
「カナを?」
 これで少なくとも、相手がカナの所有者であることが分かった。ブライアンはあまり話したことはないが、ルエルとは友人だったはずだ。そのことに思い至って、少しだけ肩の力が抜ける。
『ええ。私は他に用がありますから、王都に帰らなければなりません。ですから、学都のことは貴方にお任せしたいのですわ』
「それは構わんが、ファントの傍にはハングがいるだろう」
『ああ、彼だったら先刻、ご友人と一緒に学都の外へ出て行かれましたけど。真っ赤で、やたらと目立つホバーカーでしたわ』
「なにっ?」
 真っ赤なホバーカーなら、持ち主が誰かすぐに分かる。フルールだ。彼女とハングは、朝早くから何をしているのだろう。ハイエロファントの屋敷と自分の家では距離が空いているから、監視役と言いつつも実は彼等の行動のほとんどを掴むことができない。
『それでは、ご健闘をお祈り致します……ああ、そうですわ。ルエルに会ったら、貴女も携帯電話を持ちなさいな、とお伝えください』
 伝言だけ残されて、一方的に切られてしまった。不通音が虚しい。
「起きるか」
 完全に目が冴えてしまった。電話の相手の言い分が正しいかどうかは分かりようがないが、今日は今のところ予定も無い。ドゥランセルが来ようが来なかろうが、様子を見がてら暇を潰すのも良いだろう。

 ◆◆◆

 ルエルはセウスに1度会ってから、クランケットがいる研究所に向かったはずだ。彼女の言葉から、それは推察できる。ただ1晩明けているため、真っ直ぐ研究所に向かった方が得策だろう。こんなことになるなら、ブライアンを脅して自分が向かったところで、なんら変わらなかったじゃないか。
 心の中で毒づいたハングは、溜め息を吐いた。ルエルを迎えに行くと騒いだ張本人は、後部座席でのん気に酔っている。
「もどすのだけは、勘弁してくださいね」
 眉をひそめて振り返ると、サエリハは土気色の顔で辛そうに口を開いた。
「あったりま……うっ」
「だから前に乗りますかって、聞いたんですよ」
 後部座席の方が酔いやすい、というのが一般論だ。前に座ると曲がる方向が分かるため、自然と体がその方向に向くこと。曲がった時に、どうしても後方が大きく振られること。2点が大きな理由として挙げられる。
 とはいえ、フルールの運転では、前者は意味が無さそうだ。助手席で体を固定しているハングでさえ、何度横に倒れ込みそうになったか分からない。それだけ運転が荒いのだ。
「だって……おま、案内役だし、さ。確かにこれなら早く着くっけど、帰りは俺がう……てん、する」
「ええ、是が非でも、そうしてください。早めに復活してくださることを期待していますよ」
 ハングだって、まだ死ぬわけにはいかない。
「あ、喜んでください。サエリハさん」
「え、なに?ハング」
「見えましたよ、目的地」
「そ、そっか。俺、死なずに済んだのか」
 座席に横たわっているサエリハは、もはや虫の息だった。

 ◆◆◆

「着いたよ、目的地」
「それは分かってるよ」
 すぐに切り返され、身が縮む思いだ。学都に着いて目的達成、それでは帰りましょう。相手がそう言ってくれたならと何度も願うが、無理な話だ。
 1度はピエロの元へ戻ったカナだったが、再び学都の北西門の前に立っている。今回は、黒髪の男と一緒に。
 前回は、実に楽な心持ちだった。セウスが親しみやすい性格であったし、学都まで案内できれば良かったのだ。しかし、今回は違う。
「それじゃ、案内を頼むよ。カナ」
 笑顔で言われて、泣き出したい衝動に駆られた。今回の目的は、学都内を案内することだ。名目上の話なのだが。
 つい数刻前、偶然にも学都の近くで男と行きあったことが運の尽きだった。ピエロは何を思ったのか、「学都の案内でしたら、カナが適任ですわ。つい先日、お邪魔したばかりですもの」と言い出し、無理に自分をドゥランセルに押し付けたのだ。確かに学都内に入りはしたが、北西門と教授室の往復のみだ。案内など、とんでもない。断ろうと顔を上げたが、「ねえ、カナ?」と言いざま見せたピエロの笑顔が恐ろしく、6歳の子供にはとても逆らえるものではなかった。
 せめて生真面目な門衛がいれば追い出される可能性もあったのだが、非番なのか姿が無い。どうしてこんな時に、と呪いたくもなる。
「大丈夫だよ」
 唸っていると、不意に頭の上に手が乗せられた。
「案内できなくても仕方ない。2人で探せばいいから」
「え?」
 思わず、顔を上げた。もしかしたらピエロの出任せが、ばれているのかもしれない。単に、子供の頭では覚えきれないのも無理はない、という意味にも取れる。黒耀の瞳は深く、どちらであるのか判別できなかったが。
「ええと、とりあえず、どこ行くの?ルエルのとこ?」
「いや、ハイエロファントのところ」
 益々もって、深さの意味がよく分からない。彼は妹のことを可愛がっているという話だったから、真っ先にルエルのところに行くものだと決め付けていた。それが、ルエルのところでもなければ、保護者役のブライアンのところでもないと言う。
「ルエルのところには、行かないの?」
「んー、後で行くさ」
 軽くあしらわれたが、おそらく行く気がないのだろう。なんだか、おかしい。6歳の子供を付けたことが功を奏すのかはともかく、見張りを付けたということに関してはピエロの判断が正しいのではないか。普段は振り回されつつも、結局は所有者を信じる彼は気を引き締めた。
「教授室までだったら、案内できるよ」
「それなら、よろしく頼むよ」
 カナを先導役に歩く。会話は特に無い。セウスとルージュと一緒だった時は楽しかった、と彼は思った。綺麗に刈られた明るい色のはずの芝も、今日は輝いて見えない。溜め息が出た。
「人が少ないようだけど、普段からこうなのかな」
 独り言なのか答えを求めているのか分からないくらいの小声が降ってきて、カナは辺りを見回した。そういえば、この間訪れた時よりも閑散としているような気がする。
「ほんとだ。なんでだろ」
「本日でしたら、どの学部も休日ですよ」
 首を傾げると、頭上の遥か上から声がした。仰ぎ見ると、黒く細い機体が徐々に降下してきている。やがて風圧と共に降り立ったのは、門にいないかと微かに期待した門衛だった。
「頭上から失礼致しました。どなたかに、御用でしたか?」
 職業柄なのか性格なのか、非番にも関わらず姿勢を整え、敬礼した。濃い灰色の私服姿でも様になってはいるが、彼の視線の先にいるのはドゥランセルのみだ。カナには一瞥くれただけ。これで共にいるのがセウスであれば、「年齢で差別するな」と脛に一蹴り入れるところだ。
「ハイエロファント教授に、お会いしたかったのですが」
「なるほど。よろしければ、教授のご自宅まで案内致しましょうか。もしかしたら、留守にされているかもしれませんが」
「留守であれば、仕方ないですから。すみませんが、案内をお願いします」
「な、なんで俺の時は疑って、ドゥランセルの時はあっさり案内するんだよっ。せめて何者かくらい聞きなよっ」
 カナは、爆発した。前回は聞く耳持たずといった感じだったのに、納得がいくわけがない。黒光りするほど可愛がっているだろうエアバイクを蹴倒して傷つけてやりたいくらいだと言うのに、何も察してくれない門衛は真顔だった。
「なんでと言われましても、既に学都内にいらっしゃいましたし。今回は、あなたがいますから」
「え、俺?」
「あなたは既に教授の関係者として位置づけされていますし、学都内において特に問題も起こされていませんから。立派な証人となるんですよ」
 一気に、肩の力が抜けた。前回の苦労はなんだったのだ。
 学都の警備は厳しいようでいて、かなり甘い。考えてみれば、王都以外の出身であるという証明書を偽造すれば一発で通れるわけだ。審査の目を一層厳しくすれば門衛は激務になるし、入都者が少なくなるかもしれないという懸念もあるのだろう。だからこそ念を入れて、都の中にも多様なところで警備員が配置されているのだ。
「そういうことは、早く言ってよー」
「申し訳ありません。ですが、情報の無い方に助言をするわけにも参りませんので」
「それはそうだけどさっ」
 頬を膨らませて横を向くと、優しい手があやすように頭を撫でた。意外にも、門衛のものだ。
「しかし、せっかくですので、お伺いしましょう。失礼ですが、どちら様でしょうか」
「せっかくですのでって、何それ」
 頭に触れる手はそのままに突っ込みを入れると、ドゥランセルが笑った。きっと、同じ事を考えたのだろう。
「ドゥランセルと言います。高等学部に通う、ルエルの兄です」
「ああ、それは。いつも妹がお世話になっています」
 カナとドゥランセルが同時に門衛の顔を見ると、珍しく口の端に笑みを乗せた。
「妹とルエルさんは、寮で同室だそうで。学級でも仲良くさせて頂いているとか」
「なるほど。こちらこそ、お世話になっています」
 苦笑を浮かべるドゥランセルを「では、こちらへ」と促したカエサルは、早速案内を始めた。エアバイクは空を走る時は爽快だろうが、手で引いている時は重そうに見える。少しだけ浮いたままの機体はカナの背丈と同等の位置に座席があり、傍を歩くとなんとも邪魔な存在だった。黒い車体のせいか、横に並んでも前を歩いても後ろに付いても威圧感がある。
「これ、どうにかならないのっ」
 エアバイクを指差して、怒鳴りつける。カエサルは特に気分を害した様子もなく、カナを抱き上げると座席に座らせてしまった。
「置いていくわけにもいきませんので、しばらく我慢してください」
 門衛とは仲が良いわけでもなく複雑な気分だが、折れるしかない。大人2人とは逆の方向に顔を向け、景色を楽しむことにした。娯楽施設の多くは中央区にあるようで、住宅街は静かなものだった。途中で同じ年頃の子供が数人で遊んでいたため、手を振り合う。普段が高飛車なお嬢様と自動人形に囲まれた暮らしをしているから、似たような背丈の人間というのはいつ見ても親しみと同時に違和感を覚える。
「こちらが、ファント教授のご自宅ですよ」
 案内された場所は、中環状通りから数えて3軒目にあった。景観を損ねないよう規制があるのか、周りより少し茶が濃いだけで他は変わったところがない。3階建てではあるものの、ピエロの屋敷の方がまだ広かった。もっとも、彼女にまつわる大抵のことが規格外になるのだが。
 カエサルが呼び鈴を押すと、ややあってハイエロファントが姿を現した。一通り見回して、驚いた顔をしている。想像もつかないような取り合わせだから無理もない。カナだって起床した頃は、まさかこの顔合わせで学都を歩くとは考えてもみなかったのだ。
「おはようございます。ドゥランセルさんとカナさんを、お連れしました」
 門衛に「さん」付けをされると、背中がむず痒い。大っぴらに嫌がると叩かれるのが目に見えているため、我慢するが。
「うん、ごくろうさま。ドゥランセルは久し振りだね。カナ君も。この間会ったばかりだけど、元気そうで何よりだよ」
「久し振りにファントと話したくなって、ここまで来たんですよ」
 本当はハイエロファントに会えたことが嬉しくて飛びつきたかったが、ドゥランセルの様子に固まってしまった。対応としては普通だ。何度も会って話したことがある間柄ではないが、今までと変わったところは無いと思う。でも、どこかがおかしいと頭の片隅で訴えている。
 探さないといけない。止めないといけない。
「学都に着いたことが嬉しくて、つい妹よりも先にこちらに来てしまった」
 学都に到着したその時から、探すまでもなく気付いていたではないか。やはり本物のドゥランセルなら、真っ先にルエルに会いたいと言うはずだ。離れていても彼女を大切にしていて、話を聞けば必ず一度は彼女の話が出てくるほどなのだ。会ったことが無くても、見ればきっと彼女がルエルだと分かるだろうと思うくらいなのだから。
「てことは、偽者?」
 3人が、一斉にカナを見下ろした。
「カナ君?」
「何を呟いているんですか?」
 ハイエロファントもカエサルも、目を丸くしている。彼等にとっては、突拍子もないことを幼い子供が言い出したのだ。何を指しているのかさえ、見当も付かないだろう。
 では、ドゥランセルはどうか。目を窺って、寒気がした。
「偽者って、なにがだい?」
 落ち着いた様子のドゥランセルの顔は、どこから見ても本人だ。カナは首を横に振った。6歳の子供には、とても理解できるものではないように思う。
 伝えなければならない。自分にできることの限界だ。
「ねえ、ファント。ハングは、いないの?」
「え?ハングだったら、フルール達と外に出ていったよ」
「外っ?じゃ、ルエルは?」
「ルエルも、外だよ。もしかしたら、そろそろハングと合流してるかもしれないね」
 最悪だと思った。なんでこんな時に、と再び呪いたくなる。『こんな時』を、ドゥランセルは狙ったとでもいうのか。誰か他に、頼りになる大人はいないだろうか。見回すと、天の助けが中環状通りから歩いてきた。
「ブライアンッ」
「おう、カナ。元気だな。まーた学都に来てたのか」
 飛びつくと、頭をかき回された。髪が乱れるが、気にならない。これで、この場から離れても大丈夫だ。
「ねえ、ファント。俺、ハングに会いたいっ。どこ行ったか、詳しく分かる?」
「え?1人で行くのかい?」
「まったく突然だな、カナは」
 ブライアンはドゥランセルの肩を叩くと、笑いかけた。
「しばらく、待てるか?子供の願いを無碍にはできんし、ルエルにも会ってくだろ?せっかく来たんだしな」
「え?あ、ああ。少しなら、待たせてもらおうかな」
 ハイエロファントは1度家の中に引っ込むと、しばらくして紙切れを持って出てきた。そのまま、こちらに手渡してくれる。周りに目印が無く判断しづらいが、地図だった。ピエロに散々引きずり回されたため、どこを指しているのか見当は付く。
「それでは、私が南門まで送りましょう。失礼致します」
 3人の大人に敬礼したカエサルは、カナを前に乗せてエアバイクを浮かび上がらせた。周囲の建物の遥か上まで飛び上がったかと思うと、一気に景色が流れていく。彼の自慢だけあって速いが、カエサルにしがみ付いていても肩に腕を回して支えてもらっていても、怖いことに違いは無い。
「すごく高いところを飛ぶんだね」
「ホバーカーより軽い造りのため、より浮き上がらせることが可能なんですよ」
 速度を緩めてくれたらしく、口を開いても辛くない。下の方の景色も、まだ恐る恐るだが覗き込むことができる。上から見ると、学都が綺麗な正円状であると改めて分かる。南門と思しきところが見えて、過ぎた。
「あれ?外に出ちゃったよ?」
「この先の町まで送ります」
 見上げると、後頭部を撫でられた。
「偽者……というのは分かりませんが、私も様子がおかしいと思いました」
 驚いた。職をこなして身に着けたのだろうか、すごい洞察力だ。いつから、おかしいと思っていたのだろう。実は、『せっかくだから名前を聞いた』時から、既に疑って掛かっていたのかもしれない。
「念のため、ブライアン教授の携帯電話が繋がる範囲内に、私はいようと思います。その先は、頼みましたよ」
 冴えた水色の瞳に、カナは力強く頷いた。

 ◆◆◆

 研究所を囲っている忌々しい緑色の脇に、ホバーカーが止まる。ハングはサエリハを女医に任せて、1人で囲いを乗り越えた。運動というものはしないが、足の掛けやすさもあり軽いものだった。
 研究所の入り口は、既に大きく開いていた。主要コンピュータの破壊は成功したらしい。まだ人がいるかと中を覗くと、右手にいたクランケットとルエルが声を上げる。
「グドッ」
「ハング君っ」
 驚きながらも「ハング」と呼んだルエルには、感心させられる。状況を素早く読み取ったのか、未来視の賜物かは定かでないが、外に他人がいるのは事実だ。
「どうして、ここに?僕を迎えにいらしたのですか?」
「いいえ。僕が迎えにきたのは、その後ろ」
 普段から大きい目を更に大きくしたルエルは、自分を指差した。
「えっ?私っ?」
「1人の熱烈なルエル信者の方が、大騒ぎをしましたからね」
「へ?ルエル信者?」
 ルエル信者といっても、騒いでいるのは信者達だけなのだ。ルエル本人は、気付いてさえいない。よって、当然の反応かもしれなかった。
「とりあえず、君の占いを信じ込んでいる人がいるってこと」
「ふーん、そうなんだ」
 様子を見る限り、解っていなければ興味も無さそうだ。
「まあ、それは置いといて。一応成功したけど、これからどうすればいいの?クランケット君、ハング君の血縁者だし、学都にも入れるだろうけど」
 ルエルの言葉に、クランケットを一瞥する。どこか頼りない顔だ。揺らぐ心の原因は、セウスだろうか。ルージュも手渡していたことだし、と推測する。
「いえ、それはクランケットの自由にしてください。とりあえず、妙な科学者連中の手の内にいなければ、それで構いませんからね。僕は」
 クランケットは弾かれたように人の目を見たが、無視しておいた。くだらない勝負に、迷いがある者など必要ない。
「じゃあ、この羽を貸してあげるね。どこでも飛べるし、楽しいよ。返すのは、いつでもいいからね」
 今度は、ハングが違う意味で弾かれたように顔を向ける番となった。
「ルエル、それはっ」
 ルエルは慌てた声を聞き入れてはくれず、羽をクランケットに背負わせ起動させた。途端にクランケットは宙に舞い上がり、悲鳴さえ残す間もなく飛んでいってしまった。
「クランケット、すまない」
 無理にでも、学都に連れて行くべきだったのか。後悔したところで、もう遅い。
 2人が半ば呆然と入り口に佇んでいると、サエリハとフルールが走り寄ってきた。
「今、なにか飛んでったみたいだったけど、2人共無事かっ?」
「あ、リハ君とフルール先生だ。うん、大丈夫だよ」
「僕達は、ね」
 小さく付け足された言葉に、3人の動きが止まる。後から来た2人は、ルエルの背中から羽が無くなっていることに気付いたようだ。
「そう。ついに出たんですね、犠牲者が」
「ま、まあ、ブライアン教授の発明品も死者だけは出たことないしさ。ルエルちゃんも見付かったことだし、帰ろうぜ。ファント教授も待ってるし、な?」
 サエリハは明るく言ってから、ハングに耳打ちする。
「フルール女医の薬よか、いいだろ?」
「まあ、それもそうですね」
 フルールの新薬よりは、全てがましなものに違いない。今はそれで納得しておくしかないだろう。ハングには、彼方へと飛び去っていったクランケットを探し出す術など無いのだから。
 願わくば、王都などに飛んでいかないように。