[1]季候
北部の夏は 100%に近い湿度のためか驚くほどに暑い。カラーチの夏そっくり。ベトナム全土が北回帰線の南にある事は知ってはいたが現実感はなかった。しかし去る平成6年6月末の真昼時にハノイで、太陽が北にあることを確認したとき(東西南北をベトナム人に聞いた後に、太陽の方向に体を向ければ理解できる)には、なるほどと実感が湧いた。
下着が汗でびしょびしょに濡れるので、背広を着るのは止めた。本音は開襟シャツを着たかったが、取り敢えず昼間は半袖シャツとネクタイで、夜はスポーツシャツを愛用した。こんな気象条件下に、ヨーロッパの正装を持ち込むのは無理だ。最近オープンしたホテルは空調完備であるからといっても、出入りの度に衣服を着替えるのは面倒である。儀礼上やむを得ない時だけ背広を我慢して着た。
北部の秋は実に快適である。11月下旬のハノイの気温は20℃前後。湿度も低く日本の10月に似ている。オートバイを乗り回している若者には皮のジャンパーを着ているものもいる。ある時ベトナム製かと聞いたら、嬉しそうに『モンゴル製だ』と答えてくれた。ベトナムには羊が殆どいない事も思い出し、社会主義国であるモンゴルとベトナムとの交流の深さを感じた。帰国した日の日本は暖冬だったので、両国の気温差は殆ど感じなかった。
南部は常夏である。ホー・チー・ミン(旧サイゴン)はバンコックよりも南にあり、真上から太陽が照り付ける感じだ。しかし湿度がやや低いためか、ハノイの夏よりも快適だ。
[2]鉄道
ベトナムの鉄道は狭軌(1067mm)の日本よりも更に狭い1mのゲージである。しかし北部では標準軌(1435mm)の中国と相互乗り入れをするために、レールが3本になっていた。レールの品質は悪く、路盤も悪い。電化されている所は見掛けなかった。従って速度も遅く時速50Kmくらいに感じた。南北鉄道のような幹線でも、駅の時刻表で見る限り旅客列車は片道20本/日位。客車には人が鈴なり。とても需要を満たしているとは思えない。
衣食の面ではベトナムの現状は昭和20年代後半の日本に似ているが、鉄道を初め道路・港湾・電力などのインフラの蓄積量は、当時の日本に比べ圧倒的に立ち遅れている。重工業の基盤も日本の比ではない。ベトナムも軽工業を中心にした戦後の復興需要が一巡した後、重工業レベルで韓国・台湾クラスの国に追い付くためには、当時の日本以上に気が遠くなるほどの努力と資金が必要になるのではないか。
[3]メコン河
流域面積が80万平方Kmもあるインドシナ半島を代表する大河川である。この河1本で日本の全河川の水量を上回る。下流のメコンデルタでは9本に別れている。そのためクーロン(九龍)とも呼ぶ。ベトナムの格式あるビルの玄関には巨大な植木鉢が2個、門松のように必ず飾られている。その植木は不思議なことに殆どが9段造りであるが、クーロンに由来するのかは不明。
9本に別れた川のうち、川幅が2Km以上もある大きい2本には橋がない。岸から岸まで水は満水。流れは意外に速い。堤防が完備していない部分も見掛けた。小さなフェリーを人も自動車も使うものの、物流の障害度合いは大変大きい。フェリーに乗りっ放しで1日中商売をしている人も多い。フェリーの上では車のエンジンを切らされるためエアコンが使えず、窓を開けたくなるが、開けると熱心な商売人が殺到してくるので、暑さを我慢して車の中に閉じこもる羽目になる。
川幅は広くても海峡と違って水深は浅く橋を掛けるのは簡単だが、残念ながら資金がない。しかも河川交通のために一部分は背の高い橋にせざるを得ず、日本の河川橋よりは若干建設費が高くなるのはやむを得ない。何時実現するのであろうか?
[4]特産品
漆製品の種類は大変多い。大きな屏風や高さ1m以上もある花瓶のような置物を初め、卵の殻を砕いて作った多種多様な形の細片を、漆塗りの板に貼り付けて絵にした珍しい美術品もある。元大理国(現在の中国雲南〜ベトナム北部を支配)に近いだけあって、大理石やオニックスの装飾品は質量共に台湾やトルコにも負けない。
比重の高い木を使った重量感のある彫刻品や木工製品も魅力的だ。しかし買つて帰るには運ぶのが大変。日本には輸入できないが、象牙細工・印鑑の材料もある。海亀の甲羅から作る鼈甲製品もおおっぴらに売られている。女性用の円錐形の帽子『ノン』とゴルフ用に紙製の『ハット』を記念に購入。このハットはリビングストンがアフリカ探検で被っていた帽子にそっくりのデザイン、軽くて丈夫だ。
[5]家
北のトンキンデルタでは家を建てるための樹木を殆ど見掛けない。豊富なホンゲイ炭が燃料として安く調達出来るためか、赤レンガ造りが盛んだ。あちこちにレンガ工場があり、その周辺には粘土を掘り出した跡らしい大きな池が散見される。農村には木造・草葺きの古い家も多いが、都市近郊で見掛ける新しい家には柱と梁を鉄筋化し、壁にレンガを嵌め込み、表面をモルタル仕上げにした豪邸もある。3階建てで間口が5m、奥行きが15mくらいの大きな家の場合、暑さ対策のためか東西の両側面には窓が少ない。
[6]お金
驚いたことにはドル本位制かと思うくらいにドルが流通していた。お釣もちゃんとドル払いである。普通の国ではお釣は現地通貨を嫌でも受け取らされる。その意味では外国人には大変便利である。インフレもほぼ収まり、H6ではベトナム通貨『ドン』は1$= 10900ドンになっていた。価格がドン表示の商品を買う場合、ドル払いだと計算の簡略化と称して現地側に有利な1$= 10000ドンで換算することが多いが、交渉すれば相場で真面目に計算してくれる。
外貨の強さ・人気はマネーチェンジの手数料に現れる。ホテルの受付に張られている一覧表を眺めると、ドルは1%未満。欧州通貨は10%近い。円は数%。外国に行く度に紙幣の質には国力が現れると感じる。綿繊維を梳き込んでいるドル札は腰があり一番丈夫だ。日本円は紙が薄くても丈夫で且つ印刷技術もトップクラス。加えて古いお札はどんどん廃棄処分するので綺麗である。国力の乏しい国の典型的な紙幣は、汚い・臭う・薄い・小さい・紙の質も悪い。偽造困難な精密さは何処にも感じさせない。
[7]ホテル
ホテル事情は来る度によくなってきた。H2年末の出張の時にはホー・チー・ミン市の度真ん中にあって、最高級ホテルと言われていたレックスのスイートに泊まったが、中身は最低だった。広さは約 100uもあり、大きな飾り棚のある家具や応接セットがあった。風呂は天井からぶら下がっている東欧製の『電気湯沸かし器』からの給湯だったが、容量はシャワー1回分だけ。
最初それとは知らずにバスタブにお湯をたっぷり入れようとしたので、気が付いたときには既にぬるま湯になっていた。部屋の外では青年が2人不寝番。ルーム・サービス要員ではあるが客を監視しているような気もした。80$/泊だった。ロビー横には小さな売店があったものの、商品は少なかった。椰子の実の生ジュースが飲めるように、皮を剥いだ状態にした差し入れが2個あった。
H6には新築・改装ホテルを問わず室内は一応まともになっていた。部屋代も高い場合には 260$/泊と国際水準になっていた。3月頃はベトナムブームの真っ盛り。駐在員は出張者の部屋の確保に苦労しており、仮予約していた部屋を駐在員間で相互に融通しあっていた。しかし夏には既に部屋代の値引きが始まっていた。建設中のホテルも多かったので需給関係は既に落ち着いてきたと思う。部屋代の支払いにはビザ・カードがハノイとホー・チー・ミンでは使えた。ダナンでは有名なバクダンホテルでもまだ現金払いであった。
H6秋には急なハノイへの出張だったため、一流ホテルの予約が間に合わずミニホテルに泊まった。一般住宅を取り壊した跡に建てられた6階建て19室のホテルであった。エレベータもないペンシルビルである。家具はむくの木でできており椅子ですら大変重い。飾りのための彫刻がしてあるが、全体に作りは悪く使い難い。
部屋は広く、TV・電話・ミニバーなど備品は揃っていたが、何故かビデはなかった。香港のスターTVやCNN・BBC放送などの衛星放送も解禁されていた。お湯は何とかお風呂に入れる位の量しか出なかった。給湯用電熱器の容量が大きいのか、風呂上がりにはシャワーが使える程の温度に回復していた。北部の電力事情は良いそうだ。水は透明だが若干のゴミが浮いていた。
朝食込み 100$はまだ不当に高い。朝食とは名ばかりで、若い男が狭い台所で、パンとジャム・バターを取り出し、希望に合わせて紅茶かコーヒー・卵焼き・蜜柑1個分の絞り立て生ジュースを作ってくれた。他に何か材料がないのかなと疑問に感じて、台所内の大型冷蔵庫を開けてみたが空だった。
開業後僅か2週間だったせいでもあるのか、カード払いの客が多いのか、オーナーが中身をチェックしていた金庫をたまたま覗いたら、お金が全く入っていなかった。受け付けでは50$を崩すことさえ出来ず、フロントマンが近所の両替屋に走っていった。手数料は無料だった。客室にあった無料サービスのハノイの地図を散歩中に落としたので請求したら在庫払底と判明。フロントマンが本屋へ買い出しに出掛けた。
[8]食事
これは美味しいと満足した体験は殆どない。食材が悪い。魚は小さい。肉は堅い。うどんは煮過ぎて柔らかい(日本人好みの腰のあるうどんには、他のアジア諸国でも出会えず)。野菜は青臭い。果物は色・艶・形が不揃い。香辛料は香りが強すぎる。ビールは黙っていると生暖かい物を出すことが多いので『ノーボイリングビール・アイスビール』と必ず付け加えて注文した。白米には艶がない。食欲が湧くはずの中華料理にも何故か食が進まない。
ある時、『冷やしたビールは品切れ』と言う。おかしいと思って『冷蔵庫を見せろ』と要求。奥の方に冷えたビールがあった。ラースト・イン、ファースト・アウトの在庫管理をしていた。この体験もあって、店員の言い分に疑問を感じた場合は鵜呑みにせず、現物確認をする癖がついてしまった。
一流ホテルの朝食はバイキング形式ではあるものの、ハム・ソーセージなどの蛋白質系の食材は、材料が不均質で匂いが強く食欲が沸かない。これは一体何故なのだ!。一流レストランなら日本並みだろうと期待し過ぎていたのか?。それとも暑さと強行軍で疲れていたのか?。商社や当社の駐在員が口を揃えて『美味しい』と言うのが不思議だった。
しかし初体験になる珍しい食べ物にも時たま出会うので、舌に鞭打って食べては見た。鳩・兎・食用蛙・大きなタニシ(これでもエスカルゴ扱い)・手なが海老・鹿・ヘビ等。その上でベトナム人や駐在員・同行者にも『美味しい』と感想を述べては見たが、本心からではなかった。日本料理店も出来てきたし、ベトナム料理にも慣れて来たので徐々に違和感はなくなると思う。
[9]農村
北部での米作りは日本と同じように田植えタイプが一般的である。但し、草取りに道具(田の草押し・ガンヅメ)を使わないためか、縦横に直線上に植える程の正確さはない。一家族当たりの農地が僅かに5反しかない事情は田植えの季節に実感した。何処にあれだけの人が住んでいたのであろうか?と不思議に思うほどに沢山の人が水田で一斉に仕事をしていた。
日本のように休耕地はなく隅から隅まで耕されている。平坦な平野が多く、長方形に区画整理が行き届いている所もある。しかし水田1枚の面積は小さい。大平野なのに平均すれば1反弱に思えた。
農業用水路の整備は行き届いているが揚水は人力が主なのか、バケツの両端に紐を結び付け、その紐を夫婦の夫々が掴み、体重を掛けてお互いに引っ張るとバケツが持ち上げられて揚水される。大変過酷な労働だ。昔、日本で使っていた足踏みタイプの水車の方が遥かに効率的だ。まだ農業機械は殆ど普及していない。
水田の中に所々墓石が付き刺さっている。石の真横まで稲が植えてある。涙が出るほどの努力を感じる。墓石の横まで水浸しになるのは気にしてはおれないようだ。近くに山がないので墓地と水田が共存しているのか?。
農村でも市場経済化が進み、農作物の選択は農家の自由である。集落に近接している農地の場合は、水田よりも畑が多い。野菜の種類は大変多い。日本で栽培されている野菜の殆どを見掛けた。但し冬作の根菜類は気候の影響か出来が悪い。また日本のように地域ごとに特産化はされていないため、同じ種類の野菜畑が広がっている様子はない。
大平原のあちこちに平たい森があり、その中に部落がある。人口密度から逆算すると1戸当たりの敷地は狭い。籾を干す庭が狭いのか舗装道路の一部を籾干場に勝手に使っている。土や小石が混じるのは気にしないのか?。人口激増地帯なのに子供の姿は少ない。どこにいるのであろうか?。耕作は鍬と水牛と牛が中心。まだ人力耕作も見掛ける。物流は日本で昔見掛けた馬車の半分位の大きさの荷車が中心。昭和20年代前半の日本の農村風景にそっくりである。
大通りからちらっと覗く限り、部落の中の道路は通路に近い。牛がやっと通り抜けられる位の幅のくねくねと曲がった道しかないようだ。何とか小さな馬車が通れる幅しかない。オートバイや自転車の通行には支障がないものの、一方通行でもトラクターやトラックを通過させるのは大変だ。来るべき自動車時代までには道路の大改造は不可避だが、気の遠くなるようなお金と時間が必要だ。
南部は直撒き。米の出来はよくない。ブンタウ郊外で見た水田の場合、収穫は 200Kg/反あるかも疑問に感じた。但し2〜3期作もできるので年間の総収量は多く、不作も気にならないか?。ブンタウ近郊の水田には塩害が出ているような気がした。マングローブの林が徐々に消滅していく様子がかいま感じられた。
H2年秋、ホー・チー・ミンからカントーへ向かう途中、農村の典型的なトイレに出くわした。庭先に直径5m位の深い池があり、幅20cmの板が橋のように渡してある。その中央部に筵で囲われた天井のないトイレがある。池の中には魚が飼ってある。狭い橋を安全に渡るためのガイドとなる竹の柱が1本、池に突き刺してあった。慣れない外国人が橋から池に落ちた事もあるそうだ。
H6年11月のハノイへの出張での最終日の夕方、サイト(工場建設用地)横の村落の中を待望の徒歩調査。未舗装のくねくね曲がった自動車が使えない幅の道の両側に、6〜10坪の平屋レンガ造りの家が建ち、庭は10坪前後。
大農家は垣根か簡単な塀に囲まれているが敷地は広くても 100坪どまり。平均敷地は30坪位。小さな納屋がある家もある。ほぼ全戸に犬がいる。石造りの立派な井戸があった。屋根のない井戸を覗き込んでいたら犬が吠え始めた。傍らの少年が犬を強く叱ってくれた。何故か家の回りには汚いドブ池が多かった。
農繁期なのに老人が縁側で日向ぼっこをしていた。村民には私達を警戒する雰囲気はなく、『チャオアイン=今日は』と挨拶をすると微笑んでくれた。村の小さな店ではウーロン茶に似ているベトナム茶を勧められた。お礼のお金は受け取って貰えなかった。
小さな森の中でも数十戸の家があると推定。人口密度が平野部で1000人突破との統計は正しいと実感。足元も見ずに好奇心に駆られてキョロキョロしながら歩いていたら、突然犬に足をガブリと噛まれた。幸い出血はなかったが、一瞬狂犬病を連想した。
[10]市場
ホー・チー・ミンにもハノイにも同じようなタイプのマーケットがある。2〜3階建て・70×70m程の鉄筋コンクリート製大型ビルの真ん中は、階段のある吹き抜けホールとなっており、その周りにテナントが回廊式にびっしりと入っている。日本と同じように食料品・衣料品・電気製品・雑貨などのグループ別に配置されている。そのゾーンの中が更に細分類されている。例えば食料品の場合には、食肉・魚・青果・米・加工食品等に分かれており、目的の商品を見付けやすい。エスカレータやエレベータは見掛けない。
工業製品では中国からの輸入品が圧倒的に多い。見栄えはしないが驚くほどに安い。日本の価格破壊現象など空々しい。軽工業品の価格競争力は抜群だ。ベトナム製品も押され気味である。戦前、日本製品が欧米で活躍していたが、こんな光景だったのだろうか?。安かろう悪かろうでも、それしか買えない人が世界には大勢いるのだ。日本製は探さないと見付からない。資生堂の化粧品があった。こういう分野ではブランド品が強いのだろうか?。
意外だったのは輸入物のウィスキーやブランデーが山積みされていたことだ。化粧箱のないものが殆どだが価格は免税店並である。しかし誰が買えるのだろうか?。容器には埃が付いたまま。本物だろうか?。瓶だけが本物だろうか?。
米の種類が多いのにも驚く。日本ではタイ米・中国米などと一口に呼んでいるが夫々が同一品種なのか大変疑問だ。日本では各種の銘柄米が売られているが外観で区別できる種類は少ない。ベトナム米は色や形から外観で区別できる種類が多いのだ。消費者はどのように食べ分けているのか、ベトナム人に直接聞いて見たかった。
野菜の種類も多い。日本で見掛ける野菜は殆どある。但しそれらは日本品と比較するとたいてい小さいし、痩せている。肥料不足が原因なのか?。気候が合わないのか?。日本にない野菜も多い。香菜が豊富だ。全体に黄緑色野菜が多い。
果物売り場は圧巻だ。カボチャのように大きなパパイヤを初め、日本への輸入が本格化していない珍しい果物も多い。夏みかん大もあるサボテンの赤い実やジャックフルーツ(黒部スイカのような回転楕円体形状、世界最大の果物。中にドリアンのような袋に入った果肉が詰まっている)ミルクフルーツ(オレンジ大で果皮は青い。穴を開け、果肉を外から揉みほぐすと白いミルク状の果汁が出てくる)など全種類食べたくなる。
食肉類は鮮度第1主義。冷蔵庫が普及していないためでもあろうが、鳥類は原則として生きたまま販売。牛・豚は夜のうちに屠殺しているらしい。塊で売るのが原則のようだ。それでも売り場に溢れる臭気にはぞっとする。日本で働いていたこともあるというベトナム人の通訳(NHKの『おしん』のベトナム語への翻訳を担当中)は肉売り場の案内は嫌がったので見学は諦めた。恥ずかしそうだった。
海産物は少ない。日本人や華僑が買ってしまうのか高級魚を見掛けない。代わりに見た事もない川魚や、蛇を初め食欲が消滅するような外観をした、珍しい食材も散見した。当分の間、刺身の類いを探すのは絶望的だ。スルメが沢山あった。
衣料品の色彩は原色中心である。けばけばしい。しかも柄物が少ない。淡い色は少ない。何故なのか?。緑溢れる自然の中では強いコントラストが得られる濃い原色でないと、目立たないのだろうか?
花売り場は一際光る。流石に熱帯だ。ランを初め種類も豊富だ。所得は低くともベトナム人には花を買う意欲が旺盛だ。花の購入量は日本人より多いのではないかと思う。花屋は道路のあちこちで見掛ける。仏壇に飾る人が多いらしい。
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