恩師岩崎松之助先生のご逝去を悼む
はじめに
去る6月17日の深夜、福岡市在住の級友から受信したメールで、同日夕方岩崎先生がお亡くなりになったと知り、予てから覚悟はしていたものの、悲しみが一気に込み挙げてきて居た堪れなかった。
静岡県の温泉で計画していた長女の婿の父の役員退任祝賀会と、6月20日の前夜式(キリスト教)及び21日の告別式とが運悪くぴったりと重なり、やむなく両日とも欠礼させていただいた。
先生との出会いのほんの一部分だけですが、時系列的に思い出しながら賢人各位にご報告申し上げつつ、ご冥福を謹んでお祈り申し上げます。
略歴
旧制第七高等学校(現鹿児島大学)校長のご子息。昭和17年に九大航空工学科卒。九大名誉教授。定年退官後は熊本工業大学構造工学科教授。勲2等叙勲。享年86歳。
最初の出会い
大学2年の前期に、後期から進学予定の工学部(箱崎)の見学会があった。航空工学教室では岩崎助教授によるオリエンテーションの後、突然航空力学のさわりの講義が始まった。教養部(六本松・旧制福岡高校の跡地)の授業にも飽きている学生に後期から始まる航空工学の面白さを感じさせ、学生に勉強意欲を付けさせようとの意図が十分に感じられた。
教養部で学んだ力学はニュートンの運動方程式を中核にした古典力学が主だった。しかし、初めて知った航空機の運動方程式は古典力学と流体力学に基礎を置く翼理論とを連結したものだった。そこに私は新鮮さを感じ、やがて始まる専門課程の諸講義へのわくわくする期待を鼓舞された。
ある日の余談
当時、航空工学科の定員は(東大40人、名・京・九大各20人)合計してもたったの100人。これだけでは専門書を書いても採算が合わないためか、学生用の専門書は殆ど無かった。岩崎先生は講義に先立ち、参考書として『航空工学概論』と『航空力学教程』を推薦された。授業では全く使用されなかったが、通読した結果、私には航空工学全般への視野の拡大に大変役立った。
研究室では常に作業服姿。授業中に緊張緩和のためか余談もたびたび取り入れられた。『諸君、就職後の働き方について一言。昼休みなどの休憩時間中には如何に熱意が溢れようとも、仕事のことで職場の人たちに話しかけるのはご法度。迷惑がられることがあるぞ。私には苦い体験があったのだ、云々』
ある日のコメント
当時、通信工学科の伊理正夫(東大名誉教授⇒中央大学理工学研究所長)助教授の奥様が岩崎先生の講座で助手をされていた。岩崎先生の休講の穴埋めに伊理助手が代講で初登場。事前に先生から『石松君、伊理さんを困らせるような質問はするな』とのご注意を受けた。質問こそが生き甲斐の私の習性を見透かされての注文だ。
伊理さんは『光の干渉』をテーマにして講義された。その時『光源が異なる光間では干渉は起きない』と説明されたので『何故ですか?』と、いつもの癖が現れてうっかり質問。伊理さんは回答できず顔を真っ赤にされて立ち往生。私は伊理さんが回答できないとは全く予想していなかった。しまったとは思ったが、後の祭り。
でも、さすがは東大大学院応用物理学を修了した才女。後日『1個の光子からなる光の長さは30cm前後です。異なる光源からランダムに発する短い光子が出会う確率は大変小さくなり、計測可能な干渉は実質的には起きません』と調査結果を教えてくれた。1960年のことだった。翌年夏の工場実習での私の指導員が、伊理助手の妹さんと結婚していたトヨタ先輩だったとは何という奇遇。
干渉可能な位相が揃った長い光を発生させる光源の可能性がタウンズ(1964年ノーベル賞受賞)によって理論的に予言されたのは1948年。ルビーによるレーザー光線の発振にメイマンが初めて成功したのは1960年、等を知ったのは卒業後のことだった。私がレーザーを使った微小振動の計測装置や、試作ボデー部品のレーザーによる熱切断装置を開発したのは、それから25年も経った頃だった。
鼻中隔湾曲症
3年の後期、鼻詰りがひどくなり、鼻中隔湾曲症と診断された。手術をすべきか否か大変迷った。命に別状は無いものの、放置すれば蓄膿症を患う可能性が高まると宣告された。
私は心配になり岩崎先生に相談した。『鼻中隔湾曲症には自然治癒はありえない。いずれ手術するものならば、時間に余裕のある学生時代に手術をした方が良いのでは』とのアドバイスに勇気付けられ、九大医学部付属病院で手術を受けた。爾来、蓄膿症にも罹らず、的確なアドバイスを頂いたと感謝している。
耳鼻咽喉科の病室は木造で隙間だらけのおんぼろだったが、ラジエーター式セントラルヒーティングが既に導入されていた。僅か1週間程度の入院期間だったが、この時セントラルヒーティングの快適さの虜になった。いつの日かに家を建てるときには、何としてでもセントラルヒーティング付にしようと、決意した。それがやっと実現したのは14年後の昭和49年12月7日のことだった。
英文論文の書き方
以下は旅行記(米国編)からのコピーである。
英語の論文は、学生時代の恩師で私の仲人も煩わせ、平成7年秋には勲二等を授与された『岩崎松之助』先生が授業中に余談で紹介された方法を思い出しながら書いた。
前回までのNCSや米国の電算機学会の論文集も参考にして、論文の構造を決定し、まず最初に日本語で全文を書き下した。次に和文英訳に取り掛かった。英訳の工程を念頭に置きながら、論理的に書いた積もりの日本語だったが、いざ英訳工程に入ると適切な動詞の選択に大変苦心するハメにもなった。
私の日本語を客観的に分析すると、いかに曖昧で意味が特定出来ない部分が多いかに改めて驚いた。岩崎先生は使い慣れた日本語で論文を書き下だした後、英訳しやすい日本語に予め変換されるそうだ。身の程知らずの私がその工程は無駄だと判断したのが間違いだったのだ。
ダンスパーティ
学生時代、ダンスパーティが何故か流行していた。他学科の友人たちから1枚300
円(現在なら5,000円相当)のパーティ券を何度も買わされた。航空の同期生の間で我々もダンスパーティを企画し、小遣いを稼ごうとの作戦がまとまった。私はせっせと切符を売りまくった。
先生方にもご出席していただこうと売り込みに出かけたら、唯一買っていただけたのが岩崎先生ご夫妻だった。奥様は日本女子大卒の才媛。喜んで買っていただいた。ダンスパーティは大成功し、収益金で岩崎先生ご一家と一緒に、佐賀県(呼子、名護屋城址など)まで日帰りバス旅行に出かけた。喪主の寛氏は未だ小学生だった。岩崎先生は学生たちとの交流には何時も積極的に参加された。
奥様のお兄様は東大名誉教授。学者一家だったためかご夫妻ともに『大学人は・・・』という言葉を頻繁に使われていた。しかし、何時も気さくに学生との交流をされる行動を知る私には、この言葉使いの背後に、『大学人の仮面を被って、象牙の塔に引きこもるべきではない』との、信条が感じられた。
お見合い
昭和42年の夏、お見合いの機会を頂いた。同僚で郷里が同じ鹿児島県出身で九大農業機械工学講座の創始者でもあった中馬豊教授(勲二等の叙勲)の長女を紹介していただき、翌春の結婚式には仲人としてもご出席いただいた。
私は帰省の折々にご挨拶を兼ねて、時には妻子も連れて、先生のお宅にお伺いした。いつも奥様ともども歓待され嬉しかった。お見送りの際に奥様は玄関で、片膝を曲げ腰を落としながらも上半身を真っ直ぐ伸ばした姿勢を採られるのが、何とも奥ゆかしく感じられた。
死ぬ準備
過去の記録からその一部を引用した。
姪の結婚式に参列のため帰省した(平成14年5月1日〜7日)折りに、福岡市に在住の友人達と3人で岩崎先生のご自宅にお邪魔し、3時間もお喋りした。
『先生、最近は何をされていますか?』
『一度に歩ける距離が200〜300mになったので、 死ぬ準備をしている』
『えっ!。どんな準備ですか?』
『死んだときに必要になる連絡先だよ。序でに、年賀状の整理も始めた。今年までは年賀状は500枚出していたけれど、来年からは印刷した年賀状しかくれない人には欠礼することにした』と、言われながらも『値上がりする前に、先月パソコンを買った』。大きな書斎にはパソコンが3台も並び、口とは裏腹にお元気だったので、一安心。
奥田元経団連会長の退任記者会見で記者団の『今後は何をされますか?』との不躾な質問に『死ぬ準備だよ』と答えられたのを思い出す。晩節を汚しつつある現福井日銀総裁との何という見識の落差!
同窓会
私には何故か社内外からの原稿執筆依頼がしばしば舞い込んだ。毎年年末に発行されている同窓会誌『九航会会誌』にも、岩崎先生が九航会会長に就任された途端に寄稿を求められ、その後も何度か書かされた。
私たち同期生は卒業後の節目ごとに同窓会を福岡市で開いた。卒業後20年・30年・40年などである。その都度、航空工学教室に立ち寄って各研究室の覗き見や、雑談に打ち講じた後、市内の会場へと雪崩れ込み一夜を明かしていた。
卒業後20周年記念同窓会の時には、同期生は学生時代の配席(自由席だったのにいつの間にか固定席になった)の位置に座り、幹事の一人だった私は岩崎先生に特別講演をお願いしたら、快く引き受けていただいた。その時には、同窓会にお招きしていた航空工学教室の創設者佐藤博九大名誉教授(久留米工業大学学長・勲二等叙勲)も一緒に聴講された。
『宇宙ロケットの打ち上げに成功するためには飛行制御理論だけではなく、信頼性の高い工学の裏づけが肝要だ。大学では社会へ飛び出す学生たちに、理論と実践の両面から教育したつもりだ。ロケット開発も学生教育もその本質は同じだ』と、熱弁を奮われた。
同窓会では恩師の先生方やお世話になった職員の方々もお招きしていたが、徐々に永眠され出席者が減少した。しかし、岩崎先生は3回とも総て元気に出席された。
最後の出会い
私は平成14年11月28日9時半に豊田地域医療センターの消化器外科部長から胃がんの宣告を受けた。以下は当時の記録からのコピーである。
11月28日、朝は豊田地域医療センター、昼に愛知県がんセンター、夕方には再び豊田地域医療センターへと走り回った。医師と相談の結果、豊田地域医療センターだと手術日は12月13日、愛知県がんセンターだと1月半ば以降になることが分かった。前者には患者が少なく、後者はその逆だった。
がんに関してじっくりと勉強する心理的な余裕は無かった。後で知ったことだったが、20〜30分毎に病原体が倍増する細菌性の病気と異なり、がんの進行には遥かに時間が掛かり、1,2ヶ月の手術の遅れは誤差の内だったのだ。
しかし、当時の我が心境はパニック寸前だった。愛知県がんセンターの伊藤医師は『進行度を表わすステージはTA〜U。専門医にとっては易しい手術だ』と言った。それならば、早く手術が出来る豊田地域医療センターでも大丈夫と判断し、善は急げ、とばかりに翌日の11月29日から手術前の検査を医療センターで開始した。
『好事魔多し』とはこのことか。11月30日は大学卒業40周年記念同期同窓会に出席を予定し、11/30〜12/3まで帰省の予定だった。医師と相談の結果12/5に入院することになった。
死の恐怖ですっかり落ち込んでいた私を心から励ましていただいたのは、他ならぬ岩崎先生だった。そして、その日が最後の出会いの日になってしまったとは!
あの日から既に3年半。学生時代は言わずもがな。今日に至るまで人生の折々にご薫陶いただいた恩師岩崎先生は、昨年永眠された奥様の後を大急ぎで追いかけられるようにして天国へと旅立たれた。
ここに、先生から公私に亘って拝受した長い間のご恩に心から感謝し、御霊の安らかなることを謹んでお祈り申し上げます。
先生、さようなら。また、お会いする日まで。
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