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随想
           
追悼

   友人や知人が私よりも一足先に天国へと旅立った。我が人生で何の縁もなかった人の死の報に接した場合には、その方がどんなに有名な偉人であろうとも、単なる自然現象にしか感じられなかったが、友人や知人の死では、肉親の死に次いで深い悲しみに包まれていた。

   ある時には追悼の挨拶も指名された。不運にも葬儀に参列できなかったときには追悼の言葉を遺族や友人たちにお届けせずにはおれなかった。しかし、近々訪れるはずの我が死に際し、追悼の言葉をいただける様な生き方をしてきたか否か、些か心もとない!

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稲数氏(平成8年1月17日脱稿)
                                              
              さようなら。稲数 様
                                               
稲数鈑金工作所 代表取締役 稲数正勝 様          

   迎春の候、貴社益々ご清栄の事とお慶び申し上げます。さて、昨年末に受けとった貴台からの『喪中』の葉書に疑問を感じ、先日お母様に電話で事情をお尋ねして、『学』様のご逝去を知りました。謹んでお父様のご冥福をお祈り申し上げます。 
   
   疑問を感じた理由は、お父様が代表取締役を貴台に譲って『楽隠居』するには若過ぎると直観的に思ったからです。その結果としてどなたが亡くなったのかを直接お尋ねするのには『胸騒ぎ』がして、じっと我慢をしておりましたが、とうとう意を決して電話をさせてもらいました。

   ここにお父様と私が密かに共有していた思い出を、貴台を初めご家族の皆様にご報告させていただくことにより、生前のお付き合いに深く感謝し、お別れの言葉にさせていただきたいと存じます。

   @出合い〜小学校卒業まで

   振り返ってみますと『学』様とのお付き合いは、昭和22年4月(浅木小学校3年)のクラス編成替えの時にまで溯る事が出来ます。クラスで一番大きな頭の持ち主で、算数と算盤が大変得意な方でした。

   知能指数の検査があり、その素晴らしさに級友からは、7つ上がり(早生まれ)なのに一目も二目も置かれる存在でした。
   
   昭和22年度から学校教育は6・3・3制へとご承知のように変わり、国民学校は小学校と改称されました。3年生になって初めて配布された、まともな教科書(1年の時には戦争で国力は地に落ち、教科書は先輩のお下がりを使いました。2年になって、やっと新聞紙大の紙に小さな活字で印刷された製本前の国語の教科書が配布されました。折り畳むとページが連続するようになっており、図らずも本の印刷と製本方法を知りました)は国語だけでしたが、嬉しくて堪りませんでした。活字にも皆んな飢えていた頃でした。  

   塾も宿題もなく、下校後は遊ぶだけの毎日でしたから、学校の成績には生まれ付きの能力そのものが正直に現われておりました。それだけに学様の抜群の能力が今なお私の脳裏に焼き付いています。

   昭和25年の秋、当時の修学旅行は別府温泉へのたった1泊2日の日程でした。それでも皆んな喜びに欣喜雀躍としておりました。米は持参。8畳に1クラスの男子18人が出席番号順に並んで、部屋の両側面方向に足を、中央部に頭を向けあって雑魚寝。にも拘らず、一人当たりの宿泊料は 550円もしました。しかし夕食には一人ずつ独立したお膳が出され、おかずは5〜6皿もあり、子供でも初めて一人前扱いをされたことに心底満足した記憶が昨日のように思い出されます。

   地獄巡りにも心をときめかせ、ケーブルカーでは楽天地にも登り、生まれて初めて象を見ました。遠賀村ではついぞ見掛けた事もなかった、明るく輝くばかりの夜店の美しさにも目を見張りました。就寝前に担任の先生がお小遣いの使用額を確認した時、僅か10円しか使っていなかった人もいましたが、別に驚きはしませんでした。どの家庭も子供を旅行に参加させるだけでやっとの思いだったからです。
                       
   その時、母子家庭の学様は『自らの意思』で残念にも旅行には欠席されました。『修学旅行には行きたかったけれども、義母には言い出せなかった』と後日、本人から直接聞きました。

   お母様は、学様が子供心にも家計を心配して遠慮された事を、修学旅行が終わった直後に知り『お金の用意はしていたのに、どうして出発日を教えてくれなかったの?』と大変残念がられたとのことでした。ここに学様の『人生に対する姿勢の原点』があったと確信しております。

   浅木小学校の殆どの卒業生は、遠賀村(当時は村でした)の中央部にあった炭坑の跡地に開設された、遠賀中学校へと進学しましたが、学様やほんの数名の人が隣村の中学校へ移りました。その後は、学様とは年賀状だけの付き合いが続きました。学様の家は『虫生津』と言う部落にあり、通学距離は片道4Kmもあったからです。

   何人かは、三角形の2辺のようになって遠回りにはなるものの、『室木線』に4km乗り(古月⇒遠賀川)下車後は2Km(遠賀川駅⇒遠賀中学校)も歩いて通学していました。

   室木線は明治時代に石炭運搬線として開設され、当時は1時間当たり1本の割りで貨客兼用列車が運行されていました。前の方には石炭を満載した貨車が20両くらい、後には時間帯別に1〜4両の客車が連結され、動輪が片側に2個しかない小さなSLに引かれておりました。

   室木線は鹿児島本線の遠賀川駅から宮田町(一時は人口5万人を誇る日本一の町で、市になれる当時の資格3万人を大幅に突破していました。今廃墟の跡にトヨタ自動車九州の工場が建ちました)を結ぶ予定でしたが、全線が開通する前に世界的なエネルギー革命に巻き込まれ、とうとう廃線となりました。

   A青年時代

   昭和4O年頃だったと思います。既にトヨタ自動車工業へと就職していた私宛てに学様から『どんな仕事でも我慢するから、トヨタ自動車工業への就職を紹介してほしい』との趣旨の手紙を受け取りました。エネルギー革命が一段と進み、筑豊炭田では閉山が相次ぎました。トヨタ自動車工業にも炭坑離職者が、臨時工としてドンドン入社して来た頃のことです。

   当社は正社員としての作業員は、高校新卒に限定して細々と採用していました。急増する生産に対応して常時採用していたのは、臨時工と言う立場の人達でした。2年間くらい臨時工として真面目に働くと、成績優秀者には少しずつ本工(こんな言葉があったのです!)への登用受験資格が与えらました。多くの臨時工の方々が未来に絶望して辞めて行きました。

   私は『トヨタの現場の仕事は学様のような頭の良い人には“下等”過ぎて向かない。臨時工は悲惨だ。とてもお勧め出来ない』との返事を心を鬼にして書きました。当時の自動車産業は当社に限らず、欧米との決戦前夜の心境で日夜、苛酷な労働条件下で労使を挙げて懸命に働いていたからです。

   学様からは丁重なお礼の手紙を受け取りました。恐らくその時、学様は自らの力のみを頼りに人生に立ち向かう決意をされ、堺へ出て今日の事業を育てられたのだと確信しております。

   B昭和54年春の再会

   当時たまたま私は新技術の開発で、伊丹にある三菱電機を尋ねる機会が生まれました。関西方面に出張する事は滅多とありませんでした。貴重な機会だったし週末でもあったので、学様にお願いしてお泊め頂くと共に旧交を暖めさせていただきました。学様との再会は、実に小学校の卒業式(昭和26年春)以来28年振りのことでした。

   堺市に建てられた現在のお宅は交通の便も大変よく、学様は『高島屋に歩いて食料品を買いに行ける距離の近さ』に大変満足されていました。毎日の食料品を一流デパートに買いに行くと言うのは、当時も今もこの日本では最高の贅沢に属します。普通の主婦は新聞の『チラシ』に目を血走らせ、目玉商品を買い求めるのが当り前だからです。

   学様から当時は贅沢な『サウナ』に案内された後、貴台と貴台の友人と共に大阪の象徴『通天閣』に一緒に登り、その後その近くのレストランにも連れて行っていただきました。大変庶民的な雰囲気の籠った楽しい場所でした。

   その時、学様が貴台に『お前達もひょっとすると20〜30年後に、お父さん達のように久し振りに会って、昔の思い出話に夢中になっているかも知れないな』と嬉しそうに語られたのをはっきりと覚えています。その時からも既に17年もの歳月が夢のように過ぎ去りました。

   また、私のわがままな希望であった『仁徳天皇陵』の見学にも案内旁々、付き合ってくれました。今に至るまで学様の心くばりへの感謝の念が込み上げて来ます。お別れに当たってはお母様から『子供達にどうぞ』と当時、小学生に圧倒的な人気があった、面白い付録付きの雑誌『子供の科学』も頂きました。聞けばお母様は当時、子供の科学の販売促進の仕事もされていました。

   C平成7年1月20日

   まさに1年前、義兄の葬儀で遠賀町に帰省し、豊田市に帰る1月17日の朝、あの阪神大地震が発生しました。幸い飛行機の切符を予約していたため、自宅へはなんなく帰ることが出来ました。                      

   新聞やテレビを見る度に、被害の大きさが分かるに連れ、学様の安否が気遣われ、とうとう1月20日にFAXにて消息をお尋ねしました。当日も何時ものように夜8時台には寝てしまっておりました。8時半頃、学様からの『被害なし。ご安心を』との電話を妻が受け取りました。私はそれとも知らず、熟睡しておりました。最後の声を聞くこともせず、これ以上の『無常・悲しみ』はありません。

   お母様のお話では、地震の時にはまだご病気の自覚症状はなかったとのことでした。その後に体調に異常を感じられ、薬石効なく僅か『55歳』のまさに働き盛りに、人生の成果を十分にエンジョイされる暇もなく、一足先に旅立たれました。ここに謹んで心からの哀悼の意を申し上げる次第です。

   Dお別れ

   正勝様!。どうか、一刻も早くご結婚され、お孫さんを連れて亡き『学』様の墓前に、幸せのご報告に行かれる日の早い事を希望致します。そして、お父様の起業された『稲数鈑金工作所』をますます強化し、残されたお母様・お婆様・ご兄弟の皆様一人ひとりをお守り下さい。

   取り急ぎ、失礼を顧みず学様へのお別れの言葉をお送りさせて頂きました。

   さようなら。稲数 様。                                     
                                                敬具
                                                                  上に戻る
上田氏(平成9年11月14日脱稿)

補足。

下記は上田様のホールインワン記念祝賀会での祝辞である。上田様は数年前に不幸にしてがんにより永眠された。私が氏のご逝去を知ったのは数ヶ月後のことだった。ご子息と連絡が取れたとき、『お父様がホールインワン記念で寄贈植樹された紅葉が素晴らしい樹形に育っています。是非プレイを兼ねて一度お越しください』と、報告しました。

あの時の祝辞がそのまま追悼の言葉になった。上田様のご冥福をお祈りします。


   上田様、ゴルファーなら誰でも『今に見ていろ僕だって』と、何時の日にかの実現を夢見ているホールインワンのご快挙、心からお祝い申し上げます。私は当日、ロイヤルカントリークラブでプレイしていたにも拘らず、本日の記念コンペにお招き賜り、これに勝る喜びはありません。謹んでおん礼申し上げます。

   上田様の快挙をお祝いすべく、ご臨席されている方々の勤務先を拝見して、上田様の人脈の広がりの大きさに改めて驚きました。上田様のように、仕事の上では何の関係もない会社の方々とも、幅広くお付き合いしていた人は、私が知っている普通のサラリーマンの中には殆どいません。『その人が人生をどれだけ有意義に生きてきたかは、その友達を見れば分かる』との言葉の正しさを、改めて噛み締めております。

   上田様とは、僅か3年間のお付き合いに過ぎませんが、私はゴルフだけではなく、残された貴重な人生の過ごし方に関しても、多岐に渡る感化を受けました。悠々自適の定年後であるにも拘らず、黙々とひた向きにゴルフの腕を磨かれているお姿に接すると、比叡山延暦寺の修験者に出会った時のような感動が、脳裏を稲妻のように走り抜け、魂は心底震えさせられました。

   上田様の『ホールインワン』は、193ヤードもの距離を誇る最難関ホールでの痛快事ではありますが、私には『偶然の産物ではなく、努力で獲得された必然的な成果である』と思わずにはおれません。当日の倶楽部競技の雌雄を決すべく、1週間後に実施されたプレーオフでも、16番ホールまでは勝っていたライバルの志賀様はプレッシャーに押しつぶされ、17番ホールで、とうとう池ポチャ。結局、上田様はグロス76対78と言う好成績で逆転優勝を悠々と成し遂げられました。『心技体』の完璧さを象徴していたかのような、堂々たる勝ちっ振りだったと、人伝に伺ったからです。

   上田様は本年は更に、3回もオフィシャル・ハンディを更新されると言う快挙も、同時に達成されました。私にはゴルフ友達が約50人いますが、1年間でこれほどの多彩な偉業を達成した人は1人もいません。それ所か、私の言動を真似た訳でも無いでしょうが『倶楽部競技に参加するのは、千円の無駄』と広言する人すらも、増える一方でした。      

   上田様に匹敵する人物として、ゴルフのルールも覚えられない私の頭ですら、ぱっと思い出せる日本人が1人だけいました。その人とは『60の手習い』を地で行くかのように、人生の晩年に至ってもなお全力投球した、皆様ご承知の幕末の偉人『伊能忠敬』さんです。上田様には体力では逆立ちしても、私は追い付けませんが、心意気だけは決して負けないように、じっくりと真似て、私なりのささやかな目標『ハンディ1だけの更新』を目指し、記念すべき本日を再出発日にして、気分一新、覚悟も新たに頑張り抜きたいと思います。

   上田様はホールインワンの4倍も難しいと言われているアルバトロスは、既に達成されています。次ぎなる目標のAクラスも、到達目前に迫りました。更にその先に輝くシングルプレーヤーの仲間入りや、エージシュートの離れ業も、最終的にはさりげなく実現されることと確信しています。今後とも、今までと同じように親しくお付き合い頂き、心技共に未熟な私達の先達としても、末永くお導き頂けるようにとお願いして、お祝いの言葉に変えさせて頂きたいと存じます。本日は誠におめでとうございました。     
                                                                  上に戻る                          
久保田氏(平成13年11月10日脱稿)

                 久保田さんの人徳を偲ぶ

      ホンの2週間前の10月25日に中近東室の田中さんからの突然の電話。久保田さん(旧トヨタ自動車販売に入社。トルコへ出張するまでお付き合いは全くなかった方)が昨年亡くなられたと聞き、心底驚くと共に、ご冥福を心からお祈り申し上げます。

      今日は久保田さんを偲ぶ会(東京都内で開かれた)にもお呼びいただき有難うございました。此処に久保田さんと私との係わり合いを皆様にご報告させていただき、今は亡き久保田さんに改めて感謝申し上げたいと存じます。

      私は昭和37年に旧トヨタ自動車工業に入社し、主として生産技術の開発に従事しておりました。海外との係わり合いは無いも同然、別世界と信じ込んでおりました。

      ところが今から14年前の昭和62年秋に、突然トルコへの出張を命じられました。そのときの関係者が久保田さんや三井物産の久保寺さん達でした。私にとっては、入社以来やっと手にした3回目の海外出張。これが人生最後の出張だと、てっきり思い込んだ結果、仕事などは上の空。物見遊山とショッピングにのみ、関心が集中していました。

      なのに、トルコプロジェクトは最後の奉公、と久保田さんは公言され、恰も、北条時宗のように、命を掛けるほどの情熱を注ぎ込まれました。私にはダイヤモンドのように貴重な土曜日ですら、調査日程に組み込まれていました。ああ、なんとしたこと。私は久保田さんに『貴方はトヨタとの合弁事業の提案者に、利用されているだけだ』と、腹立ち紛れに、あらぬことまで口走っていました。

      しかし何時の間にか私は、久保田さんの仕事への情熱に感化され、プロジェクトの成功を必達目標にしながら走り始めていました。ブラウン運動のように勝手気ままに行動していた大勢の関係者も、積極的に協力し始めたのは、誰にも敵意を抱かせない久保田さんのお人柄に加えて、青春時代を思わせるほどの、一途なまでのひたむきさにあったと思います。

      今にして思えば、アダパザルの大平原に、壮大な工場が終に完成したのも、いつに掛かって、久保田さんの私利私欲を超えた、ご奮闘の賜物だったと思います。3年半前、昔と変わらぬ元気な久保田さんに、トルコでお会いした時には、まさか、僅か2年後にお亡くなりになるとは、夢想だにしていませんでした。

      トルコプロジェクトの成功が契機となったのか、私にもその後、何度か海外出張が舞い込んで来ました。短い期間ではありましたが、定年の頃までには30ヶ国、5百人以上との出会いがありました。

      出張時の寸暇を活かしての、大自然や世界遺産との遭遇では、心時めく感動を、勿論抑える事はできませんでした。しかし、静かに静かに回顧しますと、それぞれの生まれ故郷で、人生と懸命に闘って生きている人々との一期一会に、より一層の深い喜びを、次第に感じるようになりました。

      自然や歴史遺産から受け取る感動は、2回目からは薄まる一方なのに、人々との再会での喜びは、正しくその逆だったのでした。久保田さんを初め、トルコ人関係者との10年振りともなった再会は、何時までも何時までも消え去らぬ、我が人生の貴重な一齣にすらなりました。     
                                                     
      トヨタ自動車を定年退職する頃には、残された人生のメイン・テーマもごく自然に、迷うこともなく定まりました。『外国を知り、顧みて真の日本をより深く知る。その上で、その時々に受けた深い感動を旅行記として書き表し、これまでお世話になった方々にも読んでいただき、関係者と人生を共有する』と言うものでした。

      今日までに訪問した国の数は41。毎年着実に馬齢を重ねて行くだけの歳を、一刻も早く数で追い越したいとの数値目標も、何時しか脳裏深くに刻み込まれていました。

      久保田さん。私が定年後の余生を誰もが驚くほどに、生き生きと送れるようになったのも、元を辿れば、私の海外への関心を、貴方が図らずも触発して下さったお陰です。有難うございました。天国では、かつての仕事の鬼からは脱皮し、安らかにお過ごし下さい。此処に謹んで貴方のご冥福を、改めてお祈り申し上げます。

   蛇足。奥様からは丁重なお礼のお手紙を後日拝受しました。
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湯野川氏(平成15年12月20日脱稿)

    (トヨタ同期生に送った追悼文)

   私は、トヨタ同期生を中核に幾つかの仲間を編成し、人生を楽しんできました。例えばスターダスト(同期生ばかり8名。本来の意味は小星団ですが、この大宇宙の中では塵のような存在の意味として仲間が命名。不定期に集まっては放談。今秋は仲間の一時帰国の歓迎会を実施)

   ロイヤル石松会(ゴルフ仲間24名中、同期生は8人。来年は第2水曜日と日曜に41回計画。私は月に2回位参加)。ナイスプレイテニス(テニス仲間18名中、同期生4名。第1,3,5水曜日と全土曜日に計画。私は全部参加)。賢人放談会(ゴルフ仲間6名中、同期生は3人。年に2〜3回温泉に1泊+ゴルフ、テーマはお喋り)。加茂石会(ゴルフ仲間25名中、同期生は私一人。来年は第4水曜日と日曜日に43回計画。私は月に2回位参加)

   私は湯野川氏とは上記のように計画的に特別親しく付き合っていたわけではありませんが、振り返ると人生の節目節目に大きな気配りや出会いがありました。此処にその思い出をぼんくら頭から取り出して、トヨタ同期の賢人各位にご報告しながら、氏のご冥福をお祈りできればなりよりと存じます。

湯野川氏との出会い

@ 昭和37年に入社し、集合教育が一段落した頃。

   8月頃、仮配属先が発表されました。私は技術部門への配属を密かに希望していましたが、生産技術部へ配属されました。その結果、がっかりし、すっかり落ち込んでいました。そのときに、人事部の課長(名前は失念)は『会社にはそれぞれの部署に人が必要なのだ』と、形式的な愚にも付かないお説教をしただけですが、私を密かに励ましてくれたのは、実は唯一、湯野川氏でした。
   
   氏は『スポーツをして、気分転換を図ったら』と一言、言ってくれました。スポーツ劣等感に取り付かれていた私が、テニスに新境地を見つけたのは、その数年後のことでした。そして、今ではスポーツ抜きの人生は考えられないほどになりました。
   
   入社した37年の夏期休暇で寮に残留したのは湯野川氏だけでした。私はそのときに、大変驚きました。『何故、帰省しないの?』と質問すると『俺は馬車引きの息子だ』との返事。それ以上の質問も憚られました。馬車引きの意味するところは、お父様が国鉄従業員と言う意味だろうと推定はしたものの、真実は知らないままです。

A 昭和39年初夏の頃。

   私は同年4月より電算機の講習会を東京で急に受けさせられ、引き続いて『数値制御カム研削盤』に必要な計算問題に取り掛かることになりました。

   当時は第2技術部振動実験課にFACOM202が技術計算用として設置され、15分単位くらいの予約制で独占して使っていました。利用者は全部でまだ20人くらいでした。同課には、田辺氏・黒部氏・湯野川氏も配属されていて、電算機担当の田辺氏には色いろとお世話になりました。

   ある時、プログラムの開発が間に合わず、日曜出勤して計算機を使うことにしました。所が電算機の起動方法を忘れてしまい、万事休すとなったとき、寮にいた湯野川氏と連絡が取れました。彼は即座に駆けつけてくれました。親しくしていた田辺氏は既に結婚していたし、日曜日に呼び出すのは遠慮したからです。

B 昭和39年、東京オリンピック

   当時まだカラーテレビは一般には普及していなかった。私がカラーテレビを初めて買ったのは結婚後の昭和43年5月1日である(松坂屋で購入。コンソール型19インチ、5割引、東芝製99000円。まだ楠さん“当時の所属長、後の副社長”も買っていなかった)。オリンピック直前になって、トヨタ生協が客寄せを目的に本部店内に街頭テレビとしてカラーテレビを設置した。

   湯野川氏は東京オリンピックの開会式を見るために密かに職場を脱出したそうだ。私が『仕事をサボったの?』と聞くと『世紀のオリンピックだ。会社も見て見ぬ振りをするに決まっているじゃないか!』との屈託の無い回答。

   私は岡崎の刑務所跡地で売り出されたオリンピックの切符を買うために、年休を取り徹夜して並び、2000円の切符を6枚買い、2枚は両親に渡した。2枚は同期の友人と一緒に国立スタジアムで使い、残りの2枚は一人で使った。しかし、開会式の切符は抽選だったのか売っていなかった。この年、ホテルニューオオタニがオープンし、一番安い部屋代が2000円だった。

C 昭和40年の頃(正確な時期は失念)

   豊田章一郎さんのソ連出張報告会が就業後にあり、のこのこ出掛けました。章一郎さんは『石田社長から勉強になるから出張しなさい、と命令されて出掛けました。写真はさして撮れなかったので、現地で買ったスライドを使って報告したい』と言われた。

   豊田家の御曹司ならば、海外視察などの出張は誰憚ることなく行けるのではないかと考えていた私は、直接的な目的もない出張をするのには章一郎さんと雖も、気が咎めるのだなと感じた。

   当日の出席者は意外に少なく、数十名だった。質疑応答みたいな懇談会になった時、湯野川氏が『私は入社後、今まで東京などへ出張させてもらった事がありません。仕事の種類にもよるでしょうが、時には一般社員にも出張の機会を作ってくれないでしょうか?』との直訴。困惑された章一郎さんは、それでも所属課名を聞かれたが、どうされたのだろうか?

   今や、海外出張も海外個人旅行も日常茶飯事となった。トヨタの売上額は入社時の何と百倍!。国力の進展には隔世の感がある。

D 昭和41年の頃(正確な時期は失念)

   私は労働組合の職場委員をしていました。時々労働組合から呼び出しがかかり、面倒な離業届を出して、労働組合に夕方出掛けました。そして、退屈凌ぎにせっせと質問をしていました。当時職場委員長が議長団を結成し、舞台に勢ぞろいしていました。職場委員長だった横瀬さんは私の顔を見るなり『頼むから質問はやめてくれ!』と言っていました。

   その結果と言えば、当時の渡辺委員長(後の衆議院議員)の記憶に留まったのか、労働組合の専従委員にならないかとの密かな打診!その気が全く無い私は即日、当時の所属長楠課長の自宅に駆けつけ、揉み消しを頼みました。

   私は当時、生産技術部長石原さんの直轄指示で仕事をしていたため、石原さんもびっくり仰天。その結果、湯野川氏が労働組合に出向させられました。こんなことでも湯野川氏とは接点がありました。後日、振動実験課の三木課長から苦情を直接言われました。

E 昭和42年の夏ごろ(正確な時期は忘れた)

   まだ私は車を持っていなかった頃でした。湯野川氏が数名の同期の仲間と北陸に海水浴に行くとの計画を聞きつけ、お付き合いの無かった私も闖入させて頂きました。快く仲間に入れていただきました。琵琶湖を過ぎた後の長い坂道で、オーバーヒートの車が数えきれないほど道端に止まっていた光景を思い出します。
   
   道中氏から、後日役員になった大橋正昭氏が『石松が何時もくだらん質問をするから困っている』と言っていたと、聞かされた。
   
F 昭和63年、夏ごろ

   当時、私はトルコに工場を作る価値があるか否かの調査に仲間と共に出掛けていた。ある時、製品企画室に所属していた湯野川氏が技術部門の立場から調査にきました。偶々週末にエーゲ海に面したトルコ第3の都市イズミールで合流。

   一緒にローマ時代の遺跡『エフェソス』に出掛けました。氏は何度も『凄い!』
と連発。私は相槌が打てなくて困惑。というのは、遺跡大国トルコに関して、私の頭の中では、エフェソスの順位は低かったからです。

   私には、アスペンドスにほぼ完全に残っているローマ時代の円形大劇場、ベルガマのギリシア時代の扇型大劇場、イスタンブールにあるローマ時代の教会アヤソフィアなどなどにより迫力を感じていたからです。しかし、これらの巨大遺跡もこの度のエジプト旅行で出会ったカルナック大神殿やピラミッドの前には霞むばかり。

G 平成4年、トヨタ自動車の役員昇格直後

   私に直接電話がありました。『生産技術開発部を担当することになったけれど、何が重要ですか?』

   昭和56年に生産技術開発委員会の事務局をしていたときの体験を思い出しながら、『自動車産業には100年の歴史があり、最早成熟産業の一つ。電気電子産業のような日進月歩の技術革新の只中にある業種とは性格が異なる。成熟産業は信頼性を確認しながら、ひたすらコストダウンを進めるのが王道。奇想天外な発明考案に惑わされること無く、生産技術の開発テーマは選択すべきと思う』などと申し上げたものでした。
   
H 37年度会の幹事

   この会は昭和47年の頃、入社10年を記念して水源クラブの屋上でバーベキューをしながら懇親会を開いたのが始まりだったと思います。野々垣氏が努力を払ってくれました。その時、私は毎年1回開くように提案したものの、それは頻度が高すぎると野々垣氏に否定されました。

   その後、懇親会が開かれることも無く、自然に消滅していましたが、昭和50年代に入り、ゴルフのコンペが有志を中心に実施されていました。私は昭和51年にロイヤルカントリーの会員権を全額借金(当時の三井銀行で利子の値引き交渉に3時間も粘り、住宅ローン並にしてもらった)をして250万円で買ったものの、プレイする意欲は全く無いままでした。私が同期のゴルフコンペに参加し始めたのは昭和54年からです。

   やがて、このコンペが母体となり、藤川氏・湯野川氏・水谷正英氏と私とで幹事を引き受け、37年度会として、スタートしました。発起人は藤川氏だったと思います。私はゴルフの幹事を引き受けました。

   藤川氏が定年退職したのを契機に湯野川氏が全面的に幹事を引き受けてくれました。在職中は庶務の女性がそれとなく仕事を手伝ってくれますが、退職すると複写機も無く幹事業務は自宅では時間的にも設備的にも負担が重くなるからでもあります。幸い、湯野川氏の秘書をされていた坂野嬢の全面的なご支援のもとに、湯野川丸は順調に船出をすることができました。
   
   ある時、不幸にして同期の木下氏が永眠しました。有志がお通夜や葬儀に駆けつけました。私は何かの都合(理由が思い出せません)で失礼していました。友人挨拶は本人の希望で入社当時、同じ職場で働き、共にエンジンの開発に従事した杉浦氏が担当され、その追悼の辞の素晴らしさには出席者の誰もが感動したと伝え聞きました。
   
   私はその後、統計的に考えれば今後は毎年2〜3人ずつ葬儀があることになる。37年度会として会費を集め、最後の一人になるまで花輪と弔電を届けるシステムを整備したほうが良いと思う、と湯野川氏に提案しました。多くの人が同じ考えを持っていたらしく、高崎氏も提案されたのを契機に、各位のご賛同の元に今日の制度がスタートしました。
   
   その制度の適用者第1号に湯野川氏がなられるとは、神ならぬ誰が予想したでしょうか!この度の氏のお通夜も密葬も私はエジプト旅行中のため欠礼しました(氏の永眠を知ったのは帰国後でした)が、伝え聞くところでは、代表者が香典をお届けしたものの、ご遺族から固辞され、持ち帰らされたそうです。
   
I 私のメル友としての関わり

   私がパソコンを買い、豊田市のケーブルテレビ会社(ひまわりネットワーク)と契約し、メール発信を開始したのは約3年前の平成13年3月からでした。年金生活者として暇つぶしに迷惑メールを賢人各位に発信開始後、一番熱心に読み且つ感想などを返信していただいたのは同期では湯野川氏でした。2番目は早川氏でした。役員になる人は違うな、と感心したものでした。

   湯野川氏は私の『多重がん、寛解までの追憶』全149ページも読破。そのときに頂いた読後感をコピーしました。

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   了解しました。(注。過大な添付ファイルを送ったことのお詫びに対して)小生のパソコンも開けず、自宅の関係かとも考え、会社で確認する予定でした。
   
   今回はあまりにもボリュームがありますので、プリントアウトして熟読させて頂きました。「がん旅行記」はよいタイトルですね。旅行とは戻ってくるから良いのですね。これを拝読しつつ小生はその内、片道切符のがん旅行へと旅立つ覚悟を再確認致しました。
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   氏がこんなにも早く永眠されるとは、夢にも思わず、上記のメールが氏からの最後の纏まった返信になろうとは、無念でなりません。

J 氏との最後の会話

   平成15年10月17日(37年度会、笹戸温泉とうふやにて)

   僅かに2ヶ月前のこと、とうふやの宴会場に集まり、出席者全員の近況紹介が始まりました。コの字型に並んだ一方の端から順番に一人ずつ話題を提供。私の番になったとき湯野川氏から『石松さんは最後!』とのご指示が発せられて隣の人にジャンプ。

   皆が聴き疲れた頃にやっと順番がやってきました。

   『今日は皆さんに死ぬ前のご挨拶にきました。既にメールでご報告しているように、昨年来、胃がんと食道がんの治療を愛知県がんセンターで受け、幸い寛解しました。しかし、これは最新のがん検出機械でがんが発見されなかったという意味であり、完治とは異なります。不発弾を抱え込んでいるような不安感は払拭できません。

   ところで、私の知る限り入社年次を同じくする年度会が37年度会のように定期的に実施されている年次はありません。私は小中高大の同期の懇親会には都合がつく限り出席していますが、会が盛況であるか否かはいつに懸かって幹事の努力次第と体験しました。
   
   37年度会がかくも長続きしているのは、湯野川氏のご尽力と秘書の坂野嬢のお陰です。生き長らえて、来年も皆さんに又お会いできれば、これに過ぎる歓びはありません』と申し上げました。そしたら湯野川氏から
   
   『伴野さんは実に機転が効く方で、しかも仕事も的確に処理していただけ助けられています。おまけに美人で独身で。誰か心当たりの人はいませんかねえ』との一言。これが氏との最後の会話になろうとは。残念でなりません。
   
   後で、ある友人から、話が短すぎた。がんの話などもっと皆は期待していたのにと言われました。
   
おわりに
   
   去る12/18、覚王山日泰寺での社葬に参列した折に頂いた『故湯野川孝夫氏を偲ぶ』に紹介されていた、『平成12年6月社内報社長就任インタビューより』からの転載を転載しました。
   
   
   私の特長は『正直』と『率直』。特に心掛けていませんが、他人からそう評価されることが多いですね。確かに『ウソ』は嫌いだし、『ウソつき』は大嫌いです。従業員の皆さんには、『ウソをつかないでほしい』とお願いします。『真っ正直に努力する』という方面で力を発揮して欲しいと思います。
   
   企業や人生の成功・不成功は、お金や勝ち負けではないと思います。地位が上だから偉いというのではなく、各人が自分の分野−例えばモノづくり−で『プロ』として仕事をする=社会に貢献することが大切であり、生きがいになってほしいと考えています。
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福井氏(平成16年3月8日脱稿)

    (トヨタ同期生に送った追悼文)

   @ 生産技術部配属直後に同部の仲間だけでの懇親会があり、氏一人が文系だったにも拘らず、気楽に皆と楽しく過ごしました。流石は慶応ボーイ。さり気ない中にも、皆と仲良く交流する術を心得ていることに驚嘆しました。

   A 氏と中嶋氏とは慶応の同窓だったこともあり、2人は良く行動を共にしていましたが、私も時々、闖入させて頂きました。一緒に松阪に出掛け『和田金』ですき焼きを食べました。私は和田金という店の名前は全く知りませんでしたので、生きてきた世界の違いを感じたものでした。そのとき初めて、和牛の頂点に位置する松坂牛の素晴らしさを知りました。

   10年位前、子供達に本物の和牛の美味しさを体験させるべく、和田金まで出掛けました。当時も大繁盛。暫く待たされました。一人前8000円。牛肉はたったの2切れ。2*80g=160g でしたが、親子共々充分に満足しました。当時も和田金では仲居さんが客の前で調理をサービスする習慣が残っていました。昨今のファミレスの過当競争とは違った雰囲気でした。

   B 氏と中嶋氏とに連れられて『あさくま』にも出掛けました。当時のあさくまは開業直後で本店のみ。日本もアメリカ並のレストラン時代が来るはずとの信念の元、夫婦で懸命に働き、頑張っていた姿が思い出されます。このときにも、両氏との生活水準の違いには驚いたものでした。

   C 氏と中嶋氏に連れられて、岡崎に花火見物にも出掛けました。此処まで書いて思い出すのは、私は車を持っていなかったため、彼らの車に時々便乗させてもらっていたのでした。私が帰省するときなど、氏は名古屋駅まで気楽に車で送ってくれました。ある時は恐縮して『最寄の地下鉄の駅で降ろして』と言ったら『遠慮するな!』との心遣い。

   D ある時、氏が恋人を寮に連れてきました。私も声を掛けられ、中嶋氏と一緒にお会いしました。寮の一室で2時間くらい会いました。アメリカ駐在大使のお嬢さんとかで、日本語がぎこちなかった事を思い出しますが、グラマーな美人でした。女性との交友歴の無い私に色んな質問を浴びせ、困惑する私の反応を楽しんでいました。
   
   驚いたことには、その間の会話は全部録音していたのでした。後日、それを聞かされ、赤面したものでした。ある時は『女性を紹介するけど、どう?。結婚の義務は無いから、気楽に考えたら』等と、声を掛けてくれましたが、私にはまだ女性との一対一の付き合いの勇気が無く、謹んで辞退。
   
   E 氏は総括課に配属され、松井係長(名前はうろ覚え。背の高い人。後年トヨタ生協に出向された)の元で、通産省へ提出する設備投資関係の資料作りをしていました。氏が嬉しそうに、係長は書類の作り方に関する知識が無く、自分に任せきり、と言いました。氏が私に仕事で自慢したのは、長い付き合いの中で、このときとF項の2回だけでした。
   
   F 何かの講習会で宿泊した時、氏は午前3時頃まで話し掛けてきました。インドネシアの仕事で、ギクシャクしていた時のこと。現地オーナーとゴルフをした後、シャワールームでも話し込み、文字通りの裸の付き合い。その後、懸案事項を解決できたとの歓びを語っていました。まだ私はゴルフをしていなかったときです。
   
* *******途中、省略**********

   G 何時の頃だったか、氏が中東出張から帰国し、空港からの車の中で倒れたと風の便りに聞きました。その後の療養で回復し、頭は正常に戻ったものの、体は不自由と聞いていました。

   H 10年くらい前から、私はワープロの練習を兼ねて、旅行記を書き始めました。コピーを社内便で送ったら『素晴らしい!永久保存ファイルに入れた』等と激賞してくれ、嬉しく感じたものでした。                            
   
   I 定年直前に東京本社に別れの挨拶に行きました。気の毒にも氏は車椅子生活。奥様が車で送迎。東京ビルも氏のために、車椅子で出入りが出来るように改造してくれたそうでした。氏の奥様は慶応出身で、慶応大学の同窓会の幹事。ご子息の結婚式には堺屋太一に仲人を頼んだ。何処そこに大きな別荘がある等など、楽しげに近況を語ってくれました。

   人生における幸せとは何かと、氏との細く長かった付き合いの中でも、感じることが無数にあります。

   私は明日(3/9)愛知県がんセンターで定期検診を受けます。内視鏡を使い、食道と胃の検査。胃は単なる目視観察。食道はルゴール染色法による、がんの有無の検査。疑問があれば、細胞を切り取り病理学検査(生検)。生検の場合は、結果が判明するのは1週間後。現在のところ、自覚症状は無いものの、憂鬱です。再発していれば、余命は1〜2年。
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竹下氏(平成17年6月1日脱稿)

    (奥様へお届けした追悼文)

   竹下様(大学時代の級友)! 私ががんの宣告を受け茫然自失状態になっていたときに、がんの大先輩として励まして頂き、どんなに嬉しく心強かったことか、感謝の言葉も見つかりません。

   貴台が愛知県がんセンターに入院された(前立腺がんの再発)と知り、経過観察での通院の都度、病室へお見舞いに行ったとき、あまりの元気さに、本物のがん患者なのだろうかと疑問に思ったほどでした。

   いつも『もう、覚悟は出来ている。すべては主治医にお任せしている』と、男らしく未練無く話されていましたね。当時の私には未だその言葉を口にする勇気はありませんでした。しかし、私も貴台の心境にとうとう追いつきました。その結果、肩の荷が急に軽くなりました。

   貴台に導かれつつ、今までに人生を共有した人たちや、お世話になった人たちに、昨年から『死ぬ前の挨拶』を始め、『次回は、天国でお会いしましょう』と言いながら、予定の半分は終わりました。

   もうすぐ、貴台にお目にかかれます。ちょっとだけお待ちください。また、お会いできるのを楽しみにしています。
                                                                  上に戻る
恩師岩崎松之助先生(平成18年6月22日脱稿)
                                                            恩師岩崎松之助先生のご逝去を悼む

はじめに

   去る6月17日の深夜、福岡市在住の級友から受信したメールで、同日夕方岩崎先生がお亡くなりになったと知り、予てから覚悟はしていたものの、悲しみが一気に込み挙げてきて居た堪れなかった。
   
   静岡県の温泉で計画していた長女の婿の父の役員退任祝賀会と、6月20日の前夜式(キリスト教)及び21日の告別式とが運悪くぴったりと重なり、やむなく両日とも欠礼させていただいた。
   
   先生との出会いのほんの一部分だけですが、時系列的に思い出しながら賢人各位にご報告申し上げつつ、ご冥福を謹んでお祈り申し上げます。

略歴

   旧制第七高等学校(現鹿児島大学)校長のご子息。昭和17年に九大航空工学科卒。九大名誉教授。定年退官後は熊本工業大学構造工学科教授。勲2等叙勲。享年86歳。

最初の出会い

   大学2年の前期に、後期から進学予定の工学部(箱崎)の見学会があった。航空工学教室では岩崎助教授によるオリエンテーションの後、突然航空力学のさわりの講義が始まった。教養部(六本松・旧制福岡高校の跡地)の授業にも飽きている学生に後期から始まる航空工学の面白さを感じさせ、学生に勉強意欲を付けさせようとの意図が十分に感じられた。
   
   教養部で学んだ力学はニュートンの運動方程式を中核にした古典力学が主だった。しかし、初めて知った航空機の運動方程式は古典力学と流体力学に基礎を置く翼理論とを連結したものだった。そこに私は新鮮さを感じ、やがて始まる専門課程の諸講義へのわくわくする期待を鼓舞された。

ある日の余談

   当時、航空工学科の定員は(東大40人、名・京・九大各20人)合計してもたったの100人。これだけでは専門書を書いても採算が合わないためか、学生用の専門書は殆ど無かった。岩崎先生は講義に先立ち、参考書として『航空工学概論』と『航空力学教程』を推薦された。授業では全く使用されなかったが、通読した結果、私には航空工学全般への視野の拡大に大変役立った。

   研究室では常に作業服姿。授業中に緊張緩和のためか余談もたびたび取り入れられた。『諸君、就職後の働き方について一言。昼休みなどの休憩時間中には如何に熱意が溢れようとも、仕事のことで職場の人たちに話しかけるのはご法度。迷惑がられることがあるぞ。私には苦い体験があったのだ、云々』

ある日のコメント

   当時、通信工学科の伊理正夫(東大名誉教授⇒中央大学理工学研究所長)助教授の奥様が岩崎先生の講座で助手をされていた。岩崎先生の休講の穴埋めに伊理助手が代講で初登場。事前に先生から『石松君、伊理さんを困らせるような質問はするな』とのご注意を受けた。質問こそが生き甲斐の私の習性を見透かされての注文だ。

   伊理さんは『光の干渉』をテーマにして講義された。その時『光源が異なる光間では干渉は起きない』と説明されたので『何故ですか?』と、いつもの癖が現れてうっかり質問。伊理さんは回答できず顔を真っ赤にされて立ち往生。私は伊理さんが回答できないとは全く予想していなかった。しまったとは思ったが、後の祭り。

   でも、さすがは東大大学院応用物理学を修了した才女。後日『1個の光子からなる光の長さは30cm前後です。異なる光源からランダムに発する短い光子が出会う確率は大変小さくなり、計測可能な干渉は実質的には起きません』と調査結果を教えてくれた。1960年のことだった。翌年夏の工場実習での私の指導員が、伊理助手の妹さんと結婚していたトヨタ先輩だったとは何という奇遇。

   干渉可能な位相が揃った長い光を発生させる光源の可能性がタウンズ(1964年ノーベル賞受賞)によって理論的に予言されたのは1948年。ルビーによるレーザー光線の発振にメイマンが初めて成功したのは1960年、等を知ったのは卒業後のことだった。私がレーザーを使った微小振動の計測装置や、試作ボデー部品のレーザーによる熱切断装置を開発したのは、それから25年も経った頃だった。

鼻中隔湾曲症

   3年の後期、鼻詰りがひどくなり、鼻中隔湾曲症と診断された。手術をすべきか否か大変迷った。命に別状は無いものの、放置すれば蓄膿症を患う可能性が高まると宣告された。

   私は心配になり岩崎先生に相談した。『鼻中隔湾曲症には自然治癒はありえない。いずれ手術するものならば、時間に余裕のある学生時代に手術をした方が良いのでは』とのアドバイスに勇気付けられ、九大医学部付属病院で手術を受けた。爾来、蓄膿症にも罹らず、的確なアドバイスを頂いたと感謝している。

   耳鼻咽喉科の病室は木造で隙間だらけのおんぼろだったが、ラジエーター式セントラルヒーティングが既に導入されていた。僅か1週間程度の入院期間だったが、この時セントラルヒーティングの快適さの虜になった。いつの日かに家を建てるときには、何としてでもセントラルヒーティング付にしようと、決意した。それがやっと実現したのは14年後の昭和49年12月7日のことだった。

英文論文の書き方

   以下は旅行記(米国編)からのコピーである。

   英語の論文は、学生時代の恩師で私の仲人も煩わせ、平成7年秋には勲二等を授与された『岩崎松之助』先生が授業中に余談で紹介された方法を思い出しながら書いた。

   前回までのNCSや米国の電算機学会の論文集も参考にして、論文の構造を決定し、まず最初に日本語で全文を書き下した。次に和文英訳に取り掛かった。英訳の工程を念頭に置きながら、論理的に書いた積もりの日本語だったが、いざ英訳工程に入ると適切な動詞の選択に大変苦心するハメにもなった。  

   私の日本語を客観的に分析すると、いかに曖昧で意味が特定出来ない部分が多いかに改めて驚いた。岩崎先生は使い慣れた日本語で論文を書き下だした後、英訳しやすい日本語に予め変換されるそうだ。身の程知らずの私がその工程は無駄だと判断したのが間違いだったのだ。

ダンスパーティ

   学生時代、ダンスパーティが何故か流行していた。他学科の友人たちから1枚300
円(現在なら5,000円相当)のパーティ券を何度も買わされた。航空の同期生の間で我々もダンスパーティを企画し、小遣いを稼ごうとの作戦がまとまった。私はせっせと切符を売りまくった。

   先生方にもご出席していただこうと売り込みに出かけたら、唯一買っていただけたのが岩崎先生ご夫妻だった。奥様は日本女子大卒の才媛。喜んで買っていただいた。ダンスパーティは大成功し、収益金で岩崎先生ご一家と一緒に、佐賀県(呼子、名護屋城址など)まで日帰りバス旅行に出かけた。喪主の寛氏は未だ小学生だった。岩崎先生は学生たちとの交流には何時も積極的に参加された。

   奥様のお兄様は東大名誉教授。学者一家だったためかご夫妻ともに『大学人は・・・』という言葉を頻繁に使われていた。しかし、何時も気さくに学生との交流をされる行動を知る私には、この言葉使いの背後に、『大学人の仮面を被って、象牙の塔に引きこもるべきではない』との、信条が感じられた。

お見合い

   昭和42年の夏、お見合いの機会を頂いた。同僚で郷里が同じ鹿児島県出身で九大農業機械工学講座の創始者でもあった中馬豊教授(勲二等の叙勲)の長女を紹介していただき、翌春の結婚式には仲人としてもご出席いただいた。

   私は帰省の折々にご挨拶を兼ねて、時には妻子も連れて、先生のお宅にお伺いした。いつも奥様ともども歓待され嬉しかった。お見送りの際に奥様は玄関で、片膝を曲げ腰を落としながらも上半身を真っ直ぐ伸ばした姿勢を採られるのが、何とも奥ゆかしく感じられた。

死ぬ準備

   過去の記録からその一部を引用した。
   
   姪の結婚式に参列のため帰省した(平成14年5月1日〜7日)折りに、福岡市に在住の友人達と3人で岩崎先生のご自宅にお邪魔し、3時間もお喋りした。

『先生、最近は何をされていますか?』
『一度に歩ける距離が200〜300mになったので、 死ぬ準備をしている』
『えっ!。どんな準備ですか?』
『死んだときに必要になる連絡先だよ。序でに、年賀状の整理も始めた。今年までは年賀状は500枚出していたけれど、来年からは印刷した年賀状しかくれない人には欠礼することにした』と、言われながらも『値上がりする前に、先月パソコンを買った』。大きな書斎にはパソコンが3台も並び、口とは裏腹にお元気だったので、一安心。

   奥田元経団連会長の退任記者会見で記者団の『今後は何をされますか?』との不躾な質問に『死ぬ準備だよ』と答えられたのを思い出す。晩節を汚しつつある現福井日銀総裁との何という見識の落差!

同窓会

   私には何故か社内外からの原稿執筆依頼がしばしば舞い込んだ。毎年年末に発行されている同窓会誌『九航会会誌』にも、岩崎先生が九航会会長に就任された途端に寄稿を求められ、その後も何度か書かされた。
   
   私たち同期生は卒業後の節目ごとに同窓会を福岡市で開いた。卒業後20年・30年・40年などである。その都度、航空工学教室に立ち寄って各研究室の覗き見や、雑談に打ち講じた後、市内の会場へと雪崩れ込み一夜を明かしていた。
   
   卒業後20周年記念同窓会の時には、同期生は学生時代の配席(自由席だったのにいつの間にか固定席になった)の位置に座り、幹事の一人だった私は岩崎先生に特別講演をお願いしたら、快く引き受けていただいた。その時には、同窓会にお招きしていた航空工学教室の創設者佐藤博九大名誉教授(久留米工業大学学長・勲二等叙勲)も一緒に聴講された。
   
   『宇宙ロケットの打ち上げに成功するためには飛行制御理論だけではなく、信頼性の高い工学の裏づけが肝要だ。大学では社会へ飛び出す学生たちに、理論と実践の両面から教育したつもりだ。ロケット開発も学生教育もその本質は同じだ』と、熱弁を奮われた。
   
   同窓会では恩師の先生方やお世話になった職員の方々もお招きしていたが、徐々に永眠され出席者が減少した。しかし、岩崎先生は3回とも総て元気に出席された。
   
最後の出会い

   私は平成14年11月28日9時半に豊田地域医療センターの消化器外科部長から胃がんの宣告を受けた。以下は当時の記録からのコピーである。

   11月28日、朝は豊田地域医療センター、昼に愛知県がんセンター、夕方には再び豊田地域医療センターへと走り回った。医師と相談の結果、豊田地域医療センターだと手術日は12月13日、愛知県がんセンターだと1月半ば以降になることが分かった。前者には患者が少なく、後者はその逆だった。
   
   がんに関してじっくりと勉強する心理的な余裕は無かった。後で知ったことだったが、20〜30分毎に病原体が倍増する細菌性の病気と異なり、がんの進行には遥かに時間が掛かり、1,2ヶ月の手術の遅れは誤差の内だったのだ。
   
   しかし、当時の我が心境はパニック寸前だった。愛知県がんセンターの伊藤医師は『進行度を表わすステージはTA〜U。専門医にとっては易しい手術だ』と言った。それならば、早く手術が出来る豊田地域医療センターでも大丈夫と判断し、善は急げ、とばかりに翌日の11月29日から手術前の検査を医療センターで開始した。
   
   『好事魔多し』とはこのことか。11月30日は大学卒業40周年記念同期同窓会に出席を予定し、11/30〜12/3まで帰省の予定だった。医師と相談の結果12/5に入院することになった。

   死の恐怖ですっかり落ち込んでいた私を心から励ましていただいたのは、他ならぬ岩崎先生だった。そして、その日が最後の出会いの日になってしまったとは!

   あの日から既に3年半。学生時代は言わずもがな。今日に至るまで人生の折々にご薫陶いただいた恩師岩崎先生は、昨年永眠された奥様の後を大急ぎで追いかけられるようにして天国へと旅立たれた。

   ここに、先生から公私に亘って拝受した長い間のご恩に心から感謝し、御霊の安らかなることを謹んでお祈り申し上げます。

   先生、さようなら。また、お会いする日まで。
                                                                  上に戻る