[1]免税店
トルコには当社から既に定年退職されている小さんと中近東部の担当者2名の計4人で出掛けた。東京では三井物産の寺さんと合流した。初対面であった。奥さんはスペイン人だそうだ。寺さんが事前にトヨタ自動車まで挨拶に来なかったので不思議な気がしたが、三井物産にとっては海外出張など日常茶飯事であり、挨拶にわざわざ1日も掛けて当社まで出張するなど考えてもいなかったらしいことは、話をしている内に自然に解った。
当時の飛行ルートはアンカレッジ⇒ロンドン経由イスタンブールだったので時間も掛かり大変疲れた。飛行中に日没が2回もあった。アンカレッジ空港の免税店は日本人の旅行者のお土産漁りを当てにしている雰囲気だった。ライバルである香港(啓徳空港)などの免税店に比べ、こちらがいかに安いかの比較表が日本語で大書して掲示してあった。欧米間や日米間には直行便があるからアメリカ人はアンカレッジを使わない。日本発欧州行きはシベリア上空の飛行が制限されていたから、当時は止むなく給油のためアンカレッジに立ち寄っていた。
店員は日本語も使える日本人の面影が残る中年婦人が中心だった。シアトルの近く、タコマ富士近郊への移民の後裔達か?シベリア上空が解放され欧州行きは全て直行便化した今、あの免税店はどうなっているのだろうか?最早使う予定もないので、割り引きが利く会員カードも廃棄処分してしまった。
ヨーロッパは初めてだったので、視野に飛び込む全てに関心が沸き上がった。海外出張は入社後これが3回目だったが、これが恐らくは最後の出張だろうと思ったので、買い物にも異常な関心が起きた。アンカレッジ空港の免税店ではロレックスでは人気度No.1の『品番 16013』を思い切って買った。生まれて初めて自分用に買った時計(学生時代は父の学生時代のお下がり。就職後の25年間は航空学術賞の副賞として貰った国産時計で我慢していた)である。何と2500$もした。当時の為替レートは 135円/$だったので約35万円にもなった。
出張直前にNHKスペシャルで『ロレックスの偽物造り』を見ていたので、多少は心配だった。イスタンブールの時計屋で真贋の鑑定を頼んだら断られた。邪推すると、もしも偽物を間違って本物であると鑑定した場合に『安くするから買い取ってくれ』と言われるリスクを感じたのであろうか?帰国後トヨタ生協で質問したら『免税店なら大丈夫じゃないの?』と言うだけで判定は出来なかった。
後日やっと偽物の見分け方を知って安心した。金と同じ比重の金属を作るためには本物の金を使わざるを得ないから、重さで偽物は簡単に見分けられた。また売られている偽物のバンドの裏側は金メッキされておらず、最初から偽物と承知の上で売買されていることも知った。ムーブメントはクオーツなので時計としての精度はどんな機械式の本物よりも高い。当時既にクオーツのロレックスの本物も売り出されてはいたが、意地でも買う気はしなかった。
自動巻きとはいえ土日の2日間使わないと止まるので、ゴルフやテニスの時にも已む無く使っているが、風呂に入る時に盗られはしないかと心配することもある。その後暫くの間は、海外出張の度にロレックスの価格変化が気になり、免税店の時計屋に立ち寄っていた。ドル安に反比例してドル表示価格は上がったが円換算価格に殆ど変化はなかった。スイスフランと円はドルに対し連動していたのであろうか?
当時のロレックスの国内の定価は89万円だったので安く買えたと思えば愉快だった。しかしその後規制緩和が進んだのか現在では安売り店の価格は、どんな商品でも免税店と同じような水準に収束してしまった。その上、税金も安くなり(幾らなのかは知らないが)並行輸入品も増えたので国内価格は一層下がり、酒はもちろんのこと免税店でも買いたくなるものはなくなってしまい、海外出張や旅行の楽しみが半減してしまった。あるべき姿になっただけのことではあるが、僅かであっても昔を知る者には、些か物足りない。
ロンドン空港ではゴルフ用にカシミヤのセータとバーバリの長袖スポーツシャツを2着ずつ買った。サイズもぴったりだったし長い間愛用し続けた。各1着は既に廃棄処分した。その頃の日本での価格は免税店の2倍位していた。これも現在では内外価格差がなくなってしまった。
日本も徐々にではあるが流通プロセスが正常になってきた。過去10年の間に、卸売り業の売り上げ額の小売業の売り上げに対する倍率は6倍から3倍にまで急落したそうだ。2倍になればアメリカ並みになる。後10年の我慢か?結局卸売り業の従業員数が昔の三分の一になるまでは業界の効率化が進んで行くのだろうか?
[2]トルコの初印象
異文化で且つ歴史大国トルコの中核都市イスタンブールに着く。トルコでは雨季と乾季の区別がはっきりしており、9月は乾季のため完全な快晴。あんなに青い空を見たのは生まれて初めて。日本のような大型の煙突産業もないので水平方向でも遠くまで透き通るように良く見えた。
空港からイスタンブールの都心へ入る途中、ローマ帝国時代の水道橋や観光資源として復元中の巨大な城壁・石造りの大型モスクなどが視野に入り込む度に、異国に足をとうとう踏みいれたんだとの感動が体中に溢れてきた。
当時はトルコに関する知識の蓄積も少なく、アラブ(アラビア語を母国語とし、イスラムを含む文化を共有する国)とトルコ(イスラム文化はアラブと共有するものの、言語はトルコ語)やイラン(イスラム文化はアラブと共有するものの、言語はベルシャ語)との違いも知らないまま、ただただ夢中になって周囲を見回していた。
ここアナトリア(小アジア)が過去7000年にわたり、主なものでも『ヒッタイト帝国・アッシリア帝国・フリジア王国・リディア王国・ペルシア帝国・アレクサンドロス大王の帝国・ローマ帝国・ビザンティン(東ローマ)帝国・セルジュークトルコ王国・オスマントルコ帝国・トルコ共和国』等の興亡の大地だったとは不覚にも殆ど忘れていたのだ!
[3]ヒルトン
空港からはさしたる渋滞にも合わずにイスタンブールの度真ん中、欧州側旧市街の1等地、見晴らしの良い緑の丘の上に建つヒルトンに到着。30年前にこんな立派なホテルを建てていたことに感動する。当時、東京にある国際的なホテルは帝国ホテルだけで、オークラもニューオータニもなかった。
ヒルトンの中はトルコでもなければイスタンブールでもなく、正しくアメリカだ。ヒルトンは世界中何処にあっても同じサービス・レベルがキープされている。部屋のレイアウトや備品は全て標準化されている。洗面所は広く、洗面台の上に用意したサービス品の石鹸・櫛・化粧品・タオル・コップ類やお客さんの持ち込み品(化粧品・歯ブラシなど)の並べ方に至るまで完全に標準化され、そのルールを徹底して守らせているのには驚愕した。
朝乱雑にしたまま部屋を出ても、夜にはいつもの定位置に夫々が並べてあった。持ち込みの洗面道具類は真っ白な四角いタオル地の上に並べてあった。洗面所には大理石がふんだんに使われており、照明はパチンコ屋のように明るい。バスタブは我が身長よりも長く、両手で体を支えていないと溺死し兼ねない。ロビーのトイレは1時間置きに掃除され、壁に掛けられている記録用紙にサインがしてあったのにも驚いた。
その代わり、人件費の安い国であるにも拘らず、部屋代・食事・ランドリー・ミニバーの価格は国際水準で且つドルベースでの固定価格。ロビーではピアノが生演奏されている。棟続きには絨毯を初めお土産物屋のアーケード街があり、展示会に使うホールもあった。
ホールの地下には大きな中華レストランがあったが、ラーメンは1杯2500円もした。庭園にはディナーショー用の舞台もある。最上階の高級レストランも生バンド付き。後日、楽団に楽譜を渡して『荒城の月・黒田武士・さくらさくら』を歌ったら観光客に喝采を浴びた。
正に国際観光都市イスタンブールに恥じないレベルにある。広い庭園には花が溢れ、正面玄関にはヘリコプターの発着場すらもある。部屋からは幻想的な光が溢れる夜のボスフォラス海峡が見える。部屋代も合理的だ。海峡が見える側の部屋代は 180$、反対向きの部屋は 140$位だった。トルコリラはどんどん下落していたので、ドルベース価格を元に部屋代は1週間毎に改定された。電卓時代なので為替レートを使い1桁まできっちりとリラに換算していた。
朝食は約15$のバイキング。朝日が燦々と降り注ぐ中、大きな鉢植えもあり、天井から吊り下げられた大きな鳥籠からは小鳥の囀りも聞こえる。流石に中近東らしく、舌に馴染みの薄い羊料理が多くて食欲は今一つ。しかしメニューは約40種類もある。すべての料理を少しずつ食べた。オリーブは緑色・紫色等種類も多い。生まれて初めて食べたオリーブは酸っぱくて果物の替わりにはならなかった。
トルコ人に『食べ物に困らないか?』と質問された時に私は『食事に関する健康法としては、ヒルトンでは全ての“Item”を満遍なく少しずつ食べることにしている』と答えたら『すべての“Atom”を食べるのは正しい健康法だ』との機知を飛ばされた。
魚料理は貧弱。刺身の類いはないが燻製はあった。でも塩辛い。サラダ類は見栄えがしない。果物も見栄えがしないがオレンジは立派だった。トルコではトマトはスイカのように地面に這わせて栽培するためか見掛けは悪いが、完熟してから収穫するらしく、トマトらしい香りがして美味しい。スイカの切り方が日本とは違う。皮を剥いて1口サイズに切られている。日本式は見て美しいが食べ易さに欠ける。ブドウは垣根造りなので、日本の棚造りのような袋掛けができないためか皮が汚く見栄えがしない。しかし皮はもともと食べないので何の支障にもならない。
目の前で絞ってくれるオレンジ・グレープフルーツ・トマトの生ジュースは素晴らしい味であった。文字通り本物のジュースを毎朝1g以上も、贅沢に飲み続けたのは生まれて初めてであった。ゆで卵も茹でた時間毎に、1、3、5分等と分けて籠に盛られているのにも驚く。オムレツは指定した材料を入れて目の前で調理してくれるなど、ホテルの真のサービスとは何かが自然に理解できた。毎日40分間 全ての料理を少しずつ摘んでは普通の人の2〜3倍も食べていた。
トルコに来たからには何はともあれ、庭園の一角にある別棟のトルコ風呂へと急いだ。水泳パンツを着用すべきなのか否か判らなかったので、更衣室では、トルコ人の客が現れるまでの1分間を長く感じながら待ち続けた。皆丸裸になりバスタオルを腰巻にした。トルコ風呂では扉の付いた個室列と大型のサウナとが向き合
った両側面にあり、中央部にはマッサージ用の長椅子があった。
サウナに1人で入っていたら、突然係員が満水のバケツを持ち、サウナの内外に柄杓でローズ・ウォータを播き始めた。『ロックフェラーが来たんだ』と言った。程なく、数人のガードマンらしい逞しい男達に取り囲まれた老人がバスタオルで胸を隠して(下はむき出しのまま)サウナに現れた。
早速、よぼよぼの老人に向かって『あなたがロックフェラーさんですか?私は20年前、アメリカに出張し、美しいロックフェラー・センターの度真ん中で、可愛い子供達がスケートで楽しそうに遊んでいたのを見たことがある。アメリカは豊かでしかも美しい国だ』と言ったら『今国際会議でトルコに来たところだ。日本にも行ったことがある。日本も美しい国だ』に始まって暫くの間、話が弾んだ。
その間、ガードマンは一言も喋らなかったのが異様だった。サウナから出たら、私以外の一般客は全員部屋から追い出されていた。
[4]グランド・バザール
土曜日の午後、やっと仕事から解放されたので、タクシーに飛び乗ってグラ
ンド・バザールに走り込んだ。世界最初のアーケード街とか。3000店が原則平屋の30000uに迷路のように広がる。建物は石造りが基本。そのため屋根を支えるのはアーチ。なだらかな丘の上に建っているので通路には斜面がある。トンネルのような内部は観光客でごった返している。
トルコ観光の目玉でもあるので、出入り口にはピストルを腰にした2人の兵隊が物々しく立っていた。内部には警官が警備のため常時巡回しており、西欧とは異質の緊張感を感じる雰囲気があった。
キンキラキンの貴金属売り場・大理石やオニックスなどを彫刻加工した石製品・羊の皮を素材にした鞄や衣類・銅版の飾り皿・トルコ絨毯など日本では珍しい商品の山にも息を飲む。商品には定価がない。時間のない私には慣れない値段交渉にうんざり。ともあれ異国のど真ん中にいるとの興奮は覚めやらなかった。1時間などはアッという間に過ぎ去った。
ロイヤル・カントリークラブのゴルフ帽子を被って外へ出た後、タクシーを探していたら僅か10秒でパッと客引きに掴まった。『ヒルトンまで5$』というので『来る時は3$だったのに何故だ!』と怒鳴ったら、日本語で『白タクだ』と言われてしまった。松さんはタクシーを待つこと30分に及び後悔しきりだった。
ヒルトンの玄関にはタクシーが何時でも待っているが、流しのタクシーを町中で拾うのは難しいとの事情がだんだん解ってきた。しかし、キョロキョロすれば向こうから目敏く白タクが私を発見してくれることも解ったので、その後ももっぱら白タクを愛用した。料金交渉は正規の2倍以下になるまでねばった。それでも日本に比べれば大変安い。日本人以外のアジア人に間違えられることは1度もなかった。着ている衣服の質で見分けるそうだ。
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