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旅行記
           
アジア
トルコ(平成7年2月21日脱稿)

      私に海外への関心を大触発してくれた国。トルコに出張したのは1987〜1990年、6回延べ約半年に及ぶ。

      既に5年が過ぎ去り忘却の彼方にあるが、個人としては大変想い出の深い国である。ここに仕事と人生の淡い記録として順不同ではあるが、筆の走るがままに書き綴る。
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トルコ初体験

[1]免税店
  
   トルコには当社から既に定年退職されている小さんと中近東部の担当者2名の計4人で出掛けた。東京では三井物産の寺さんと合流した。初対面であった。奥さんはスペイン人だそうだ。寺さんが事前にトヨタ自動車まで挨拶に来なかったので不思議な気がしたが、三井物産にとっては海外出張など日常茶飯事であり、挨拶にわざわざ1日も掛けて当社まで出張するなど考えてもいなかったらしいことは、話をしている内に自然に解った。    

   当時の飛行ルートはアンカレッジ⇒ロンドン経由イスタンブールだったので時間も掛かり大変疲れた。飛行中に日没が2回もあった。アンカレッジ空港の免税店は日本人の旅行者のお土産漁りを当てにしている雰囲気だった。ライバルである香港(啓徳空港)などの免税店に比べ、こちらがいかに安いかの比較表が日本語で大書して掲示してあった。欧米間や日米間には直行便があるからアメリカ人はアンカレッジを使わない。日本発欧州行きはシベリア上空の飛行が制限されていたから、当時は止むなく給油のためアンカレッジに立ち寄っていた。        

   店員は日本語も使える日本人の面影が残る中年婦人が中心だった。シアトルの近く、タコマ富士近郊への移民の後裔達か?シベリア上空が解放され欧州行きは全て直行便化した今、あの免税店はどうなっているのだろうか?最早使う予定もないので、割り引きが利く会員カードも廃棄処分してしまった。

   ヨーロッパは初めてだったので、視野に飛び込む全てに関心が沸き上がった。海外出張は入社後これが3回目だったが、これが恐らくは最後の出張だろうと思ったので、買い物にも異常な関心が起きた。アンカレッジ空港の免税店ではロレックスでは人気度No.1の『品番 16013』を思い切って買った。生まれて初めて自分用に買った時計(学生時代は父の学生時代のお下がり。就職後の25年間は航空学術賞の副賞として貰った国産時計で我慢していた)である。何と2500$もした。当時の為替レートは 135円/$だったので約35万円にもなった。

   出張直前にNHKスペシャルで『ロレックスの偽物造り』を見ていたので、多少は心配だった。イスタンブールの時計屋で真贋の鑑定を頼んだら断られた。邪推すると、もしも偽物を間違って本物であると鑑定した場合に『安くするから買い取ってくれ』と言われるリスクを感じたのであろうか?帰国後トヨタ生協で質問したら『免税店なら大丈夫じゃないの?』と言うだけで判定は出来なかった。

   後日やっと偽物の見分け方を知って安心した。金と同じ比重の金属を作るためには本物の金を使わざるを得ないから、重さで偽物は簡単に見分けられた。また売られている偽物のバンドの裏側は金メッキされておらず、最初から偽物と承知の上で売買されていることも知った。ムーブメントはクオーツなので時計としての精度はどんな機械式の本物よりも高い。当時既にクオーツのロレックスの本物も売り出されてはいたが、意地でも買う気はしなかった。
              
   自動巻きとはいえ土日の2日間使わないと止まるので、ゴルフやテニスの時にも已む無く使っているが、風呂に入る時に盗られはしないかと心配することもある。その後暫くの間は、海外出張の度にロレックスの価格変化が気になり、免税店の時計屋に立ち寄っていた。ドル安に反比例してドル表示価格は上がったが円換算価格に殆ど変化はなかった。スイスフランと円はドルに対し連動していたのであろうか?   

   当時のロレックスの国内の定価は89万円だったので安く買えたと思えば愉快だった。しかしその後規制緩和が進んだのか現在では安売り店の価格は、どんな商品でも免税店と同じような水準に収束してしまった。その上、税金も安くなり(幾らなのかは知らないが)並行輸入品も増えたので国内価格は一層下がり、酒はもちろんのこと免税店でも買いたくなるものはなくなってしまい、海外出張や旅行の楽しみが半減してしまった。あるべき姿になっただけのことではあるが、僅かであっても昔を知る者には、些か物足りない。

   ロンドン空港ではゴルフ用にカシミヤのセータとバーバリの長袖スポーツシャツを2着ずつ買った。サイズもぴったりだったし長い間愛用し続けた。各1着は既に廃棄処分した。その頃の日本での価格は免税店の2倍位していた。これも現在では内外価格差がなくなってしまった。
                  
   日本も徐々にではあるが流通プロセスが正常になってきた。過去10年の間に、卸売り業の売り上げ額の小売業の売り上げに対する倍率は6倍から3倍にまで急落したそうだ。2倍になればアメリカ並みになる。後10年の我慢か?結局卸売り業の従業員数が昔の三分の一になるまでは業界の効率化が進んで行くのだろうか?

[2]トルコの初印象

   異文化で且つ歴史大国トルコの中核都市イスタンブールに着く。トルコでは雨季と乾季の区別がはっきりしており、9月は乾季のため完全な快晴。あんなに青い空を見たのは生まれて初めて。日本のような大型の煙突産業もないので水平方向でも遠くまで透き通るように良く見えた。

   空港からイスタンブールの都心へ入る途中、ローマ帝国時代の水道橋や観光資源として復元中の巨大な城壁・石造りの大型モスクなどが視野に入り込む度に、異国に足をとうとう踏みいれたんだとの感動が体中に溢れてきた。
            
   当時はトルコに関する知識の蓄積も少なく、アラブ(アラビア語を母国語とし、イスラムを含む文化を共有する国)とトルコ(イスラム文化はアラブと共有するものの、言語はトルコ語)やイラン(イスラム文化はアラブと共有するものの、言語はベルシャ語)との違いも知らないまま、ただただ夢中になって周囲を見回していた。   

   ここアナトリア(小アジア)が過去7000年にわたり、主なものでも『ヒッタイト帝国・アッシリア帝国・フリジア王国・リディア王国・ペルシア帝国・アレクサンドロス大王の帝国・ローマ帝国・ビザンティン(東ローマ)帝国・セルジュークトルコ王国・オスマントルコ帝国・トルコ共和国』等の興亡の大地だったとは不覚にも殆ど忘れていたのだ!

[3]ヒルトン

   空港からはさしたる渋滞にも合わずにイスタンブールの度真ん中、欧州側旧市街の1等地、見晴らしの良い緑の丘の上に建つヒルトンに到着。30年前にこんな立派なホテルを建てていたことに感動する。当時、東京にある国際的なホテルは帝国ホテルだけで、オークラもニューオータニもなかった。     

   ヒルトンの中はトルコでもなければイスタンブールでもなく、正しくアメリカだ。ヒルトンは世界中何処にあっても同じサービス・レベルがキープされている。部屋のレイアウトや備品は全て標準化されている。洗面所は広く、洗面台の上に用意したサービス品の石鹸・櫛・化粧品・タオル・コップ類やお客さんの持ち込み品(化粧品・歯ブラシなど)の並べ方に至るまで完全に標準化され、そのルールを徹底して守らせているのには驚愕した。
                       
   朝乱雑にしたまま部屋を出ても、夜にはいつもの定位置に夫々が並べてあった。持ち込みの洗面道具類は真っ白な四角いタオル地の上に並べてあった。洗面所には大理石がふんだんに使われており、照明はパチンコ屋のように明るい。バスタブは我が身長よりも長く、両手で体を支えていないと溺死し兼ねない。ロビーのトイレは1時間置きに掃除され、壁に掛けられている記録用紙にサインがしてあったのにも驚いた。

   その代わり、人件費の安い国であるにも拘らず、部屋代・食事・ランドリー・ミニバーの価格は国際水準で且つドルベースでの固定価格。ロビーではピアノが生演奏されている。棟続きには絨毯を初めお土産物屋のアーケード街があり、展示会に使うホールもあった。 
                            
   ホールの地下には大きな中華レストランがあったが、ラーメンは1杯2500円もした。庭園にはディナーショー用の舞台もある。最上階の高級レストランも生バンド付き。後日、楽団に楽譜を渡して『荒城の月・黒田武士・さくらさくら』を歌ったら観光客に喝采を浴びた。     

   正に国際観光都市イスタンブールに恥じないレベルにある。広い庭園には花が溢れ、正面玄関にはヘリコプターの発着場すらもある。部屋からは幻想的な光が溢れる夜のボスフォラス海峡が見える。部屋代も合理的だ。海峡が見える側の部屋代は 180$、反対向きの部屋は 140$位だった。トルコリラはどんどん下落していたので、ドルベース価格を元に部屋代は1週間毎に改定された。電卓時代なので為替レートを使い1桁まできっちりとリラに換算していた。

   朝食は約15$のバイキング。朝日が燦々と降り注ぐ中、大きな鉢植えもあり、天井から吊り下げられた大きな鳥籠からは小鳥の囀りも聞こえる。流石に中近東らしく、舌に馴染みの薄い羊料理が多くて食欲は今一つ。しかしメニューは約40種類もある。すべての料理を少しずつ食べた。オリーブは緑色・紫色等種類も多い。生まれて初めて食べたオリーブは酸っぱくて果物の替わりにはならなかった。
          
   トルコ人に『食べ物に困らないか?』と質問された時に私は『食事に関する健康法としては、ヒルトンでは全ての“Item”を満遍なく少しずつ食べることにしている』と答えたら『すべての“Atom”を食べるのは正しい健康法だ』との機知を飛ばされた。           

   魚料理は貧弱。刺身の類いはないが燻製はあった。でも塩辛い。サラダ類は見栄えがしない。果物も見栄えがしないがオレンジは立派だった。トルコではトマトはスイカのように地面に這わせて栽培するためか見掛けは悪いが、完熟してから収穫するらしく、トマトらしい香りがして美味しい。スイカの切り方が日本とは違う。皮を剥いて1口サイズに切られている。日本式は見て美しいが食べ易さに欠ける。ブドウは垣根造りなので、日本の棚造りのような袋掛けができないためか皮が汚く見栄えがしない。しかし皮はもともと食べないので何の支障にもならない。
                                
   目の前で絞ってくれるオレンジ・グレープフルーツ・トマトの生ジュースは素晴らしい味であった。文字通り本物のジュースを毎朝1g以上も、贅沢に飲み続けたのは生まれて初めてであった。ゆで卵も茹でた時間毎に、1、3、5分等と分けて籠に盛られているのにも驚く。オムレツは指定した材料を入れて目の前で調理してくれるなど、ホテルの真のサービスとは何かが自然に理解できた。毎日40分間 全ての料理を少しずつ摘んでは普通の人の2〜3倍も食べていた。 
                                                
   トルコに来たからには何はともあれ、庭園の一角にある別棟のトルコ風呂へと急いだ。水泳パンツを着用すべきなのか否か判らなかったので、更衣室では、トルコ人の客が現れるまでの1分間を長く感じながら待ち続けた。皆丸裸になりバスタオルを腰巻にした。トルコ風呂では扉の付いた個室列と大型のサウナとが向き合
った両側面にあり、中央部にはマッサージ用の長椅子があった。

   サウナに1人で入っていたら、突然係員が満水のバケツを持ち、サウナの内外に柄杓でローズ・ウォータを播き始めた。『ロックフェラーが来たんだ』と言った。程なく、数人のガードマンらしい逞しい男達に取り囲まれた老人がバスタオルで胸を隠して(下はむき出しのまま)サウナに現れた。
              
   早速、よぼよぼの老人に向かって『あなたがロックフェラーさんですか?私は20年前、アメリカに出張し、美しいロックフェラー・センターの度真ん中で、可愛い子供達がスケートで楽しそうに遊んでいたのを見たことがある。アメリカは豊かでしかも美しい国だ』と言ったら『今国際会議でトルコに来たところだ。日本にも行ったことがある。日本も美しい国だ』に始まって暫くの間、話が弾んだ。
      
   その間、ガードマンは一言も喋らなかったのが異様だった。サウナから出たら、私以外の一般客は全員部屋から追い出されていた。
                   
[4]グランド・バザール

  土曜日の午後、やっと仕事から解放されたので、タクシーに飛び乗ってグラ
ンド・バザールに走り込んだ。世界最初のアーケード街とか。3000店が原則平屋の30000uに迷路のように広がる。建物は石造りが基本。そのため屋根を支えるのはアーチ。なだらかな丘の上に建っているので通路には斜面がある。トンネルのような内部は観光客でごった返している。
                    
   トルコ観光の目玉でもあるので、出入り口にはピストルを腰にした2人の兵隊が物々しく立っていた。内部には警官が警備のため常時巡回しており、西欧とは異質の緊張感を感じる雰囲気があった。
                   
   キンキラキンの貴金属売り場・大理石やオニックスなどを彫刻加工した石製品・羊の皮を素材にした鞄や衣類・銅版の飾り皿・トルコ絨毯など日本では珍しい商品の山にも息を飲む。商品には定価がない。時間のない私には慣れない値段交渉にうんざり。ともあれ異国のど真ん中にいるとの興奮は覚めやらなかった。1時間などはアッという間に過ぎ去った。                

   ロイヤル・カントリークラブのゴルフ帽子を被って外へ出た後、タクシーを探していたら僅か10秒でパッと客引きに掴まった。『ヒルトンまで5$』というので『来る時は3$だったのに何故だ!』と怒鳴ったら、日本語で『白タクだ』と言われてしまった。松さんはタクシーを待つこと30分に及び後悔しきりだった。
            
   ヒルトンの玄関にはタクシーが何時でも待っているが、流しのタクシーを町中で拾うのは難しいとの事情がだんだん解ってきた。しかし、キョロキョロすれば向こうから目敏く白タクが私を発見してくれることも解ったので、その後ももっぱら白タクを愛用した。料金交渉は正規の2倍以下になるまでねばった。それでも日本に比べれば大変安い。日本人以外のアジア人に間違えられることは1度もなかった。着ている衣服の質で見分けるそうだ。
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トルコ観光、街から村まで

[1]イスタンブール

   遥かなる昔はギリシアの植民都市ビザンティウム、その後は東ローマ帝国の首都でコンスタンチィノープルと呼ばれ、西ローマ帝国が滅んだ( 476)後はローマ帝国の後継者として1453年まで1000年間も繁栄を続けた町である。その後はオスマントルコ帝国の首都としても栄え、今ではさながら『生きている博物館』と言っても過言ではない位に、石文化の遺跡が旧市街に溢れている。
                                
   かつてオスマントルコに支配されていたギリシア人は今でも正式名称を無視して、公私共にコンスタンチィノープルと呼ぶそうだ。ギリシアとトルコの犬猿の仲は日本と韓国との関係にそっくりだ。キプロスの領有争いは竹島の大型版である。この東ローマ帝国の宗教的伝統はロシア正教に引き継がれた。現在のロシアは正当性を誇る紛れることなきキリスト教国である。 

   アテネとイスタンブールの都市の景観は極めて似ている。長い間同じ国であったから当たり前だ。人相骨格もそっくりであり外国人にはもちろん彼等にも区別が付かないそうだ。顎鬚から服装の好みまでそっくりだ。勿論文字・言葉・宗教は異なるから話をすれば区別は出来る。人種が同じでも、民族が異なる典型例だ。只建物の屋根の色だけはアテネは白、イスタンブールは明るいレンガ色なのは何故だろうか?

   1.ブルーモスク

   半円球のアーチを駆使した大型(高さは43m・ドームの直径は23.5m)石造りの建築技術の迫力には、ニューヨークの摩天楼とは違った印象を受けた。大きくても形が丸いので圧迫感は受けない。大型建設機械がなかった当時を考慮すると、一層深い感動が沸上がる。異教徒でも見学させてくれる寛大さ(入場料も無料)に感謝する。入り口では下足番(チップは渡す)に靴を預け、信者が寄進した絨毯が敷かれた内部をきょろきょろと歩く。
                            
   内部から天井を見上げると外から見た時よりも建物が大きく且つ天井も高く感じる。モザイクの青タイルの淡い反射光が俗世間を遮断してくれる。片隅にあるメッカを向いたお祈りの場(ミラーブ)では、老人がアラビア語のコーランを広げて一心に黙読していた。覗き込むのも憚られる真剣さが伝わってくる。オスマントルコ最大の建築遺跡でもある。またモスクは偶像禁止のイスラムのお祈りの場なので、内部には装飾のための絵画すらもない全くのがらんどうである。

   2.アヤソフィア                        

   ユスティニアヌス大帝が造営した( 537)ビィザンティン様式の代表的な建築物で、世界各地のドーム建築の元祖とも評価されている。この古い教会をモスクに改装した時に、偶像禁止のイスラムの教義に合わせるべく、宗教画の壁画は全て漆喰で塗り潰された。その後観光資源としても活用するためか漆喰を剥した結果、傷付いてはいるが宗教画も見ることができるようになった。ブルーモスクと並ぶトルコの代表的な大型モスク(高さ55.6m・ドームの直径32m)である。   

   トルコ人に『建築学史上、長方形の建物に丸い屋根を載せて完成した世界最初の大型ドーム建築であり、現在でも世界第4位の規模を誇る“アヤソフィア”とオスマントルコの国力の象徴とも言える“ブルーモスク”のどちらがより好きか?』と尋ねたら『マリリンモンローとソフィアローレンとどっちが美人か?と聞くようなもんだ』と答えて人前で本心を出すのを避けた。公式にはモスレムのトルコ人は『ブルーモスク』と回答するのを知っていながら敢えて質問したことを恥じた。

   3.地下宮殿

   ローマ時代(6世紀)に完成した地下にある容量10万トンの『イェレバタン貯水池』の別称である。地下鉄の構内のように 336本の列柱が地盤を支えている姿は壮観だ。柱の1本1本に見事な彫刻が施され、貯水池としてもその気になれば、まだ使用可能な状態である。すぐ近くに水道橋の遺跡もある。水が半分溜まっていた。今は単なる観光資源になっているものの石文化の耐久性に驚愕。そのころの日本は古墳時代の掘っ立て小屋生活だった。彼我の落差に愕然。

   4.ローマの水道橋

   高さは20mくらい。幅(厚さ)は5m以上。現存部分の長さは 400m位。レンガで組んだアーチは今日までの風雪に耐えている。アーチの下には道路が貫通しており車で通り抜けられる。化学的に安定しているレンガの耐久性は驚異的。ローマ時代の水道遺跡はその後トルコの至る所で見ることができた。ローマ市内で見たものに決して見劣りはしなかった。

   5.オベリスク

   ブルーモスクの近くの広場には、古代エジプトのカルナック神殿から移築された高さ15m位のオベリスクが建っていた。1本の石からできており象形文字が彫られている。写真ではオベリスクを見たことがあるが実物を見るのは初めてである。長い歳月の間に土台が数mも地中にめり込んでいた。後日、ロンドンやパリでもオベリスクを見たが最初の感動は再現しなかった。どうやらどんな分野でも、初体験を越える感動は人生にはないような気がしてきた。

   6.ボスフォラス大橋

   支柱間距離約1000m、当時の世界ベストテン(今では本四連絡橋が続々とベストテン入り)に入っていた大きな橋ではあったが、既にサンフランシスコのゴールデンゲート(確か片側4車線)を渡ったことがあったのでびっくりする程には感じなかった。
                               
   片側3車線ではあるが、朝はアジア側のベッドタウンからの通勤客のために2と4車線にセンターラインの位置を変えている。その都度センターラインを示すトンガリ帽子を人手で並べていた(昼間は除去)。運悪く大渋滞に出食わし、通過するのに1時間も掛かったことがある。その後2本目の橋が開通した結果、渋滞は解消してしまった。

   7.ガラタタワー

   丘の上に建つ円錐形の屋根を持つ円柱形の石造りの古いタワーである。屋上には見晴らしの良い生演奏付きのレストランがある。高さ約50mの展望台からはイスタンブールの市街が見渡せる。足下の古い民家はレンガ造り、新しい家の柱と梁は鉄筋コンクリート、壁材はブロックかレンガのマンションで壁の色は白。しかし屋根は明るいオレンジ色の瓦で統一されている。
               
   眼下に広がる緑の木々と家とのコントラストが美しい。受付けの女性が『1万円札を見たい』と言うので見せたら、模様の美しさに見とれて声も出せなかった。

   8.ガラタ橋 
                           
   金角湾の入り口にある浮橋。船が湾内に深夜入る時には橋を横に開く。昼間は2階建の道路として使っている。屋上は一方通行の自動車道路兼歩道。下はレストラン街兼歩道。レストランの客引きがたどたどしくはあるが、簡単な日本語で話し掛けてくる。魚料理が中心。私の知らない魚の名前すら日本語で知っているのには驚く。トイレは水洗。つまり海へ直行。
                              
   橋の上は太公望で溢れているが、魚は体長5cm位でしかも収穫量はあるかなしか。完全なレジャーである。1日中人が溢れている。このガラタ橋とガラタタワーの近くとを結ぶ欧州最初と称しているケーブル式地下鉄が走り観光客で賑わっている。若い女性に地下鉄駅までの道を尋ねたら、親切にも 200mも歩いて連れて行ってくれた。
                               
   9.ガラリア                          

   イスタンブール唯一の最新のショッピングセンター。2000台の無料駐車場もある 30000平方mの専門店街であり、トルコ人の客で溢れていた。しかし日本と違い、9割の人は買い物ではなく、暇潰しのレクレーションに来ているだけだ。歩き疲れた頃、ファーストフード店に立ち寄る。外観からは推定できないトルコ人の所得の低さを思い知らされる。美しい建物だけあって償却費が掛かるのか、旧商店街よりは若干価格が高いとの不評もあった。                

   10.トプカピ宮殿

   オスマントルコの栄華を偲ぶには最適の博物館。金銀宝石・磁器・贈物等目を回すほどに沢山の珍品が陳列してある。これだけの宝物を眺めると、この種の物は人類共有の世界遺産であって、無料であげるとたとい言われても欲しい気が起らない。個人が所有すべきものではないとつくづく感じた。それに個人が安全に維持管理するには費用が掛かり過ぎる。

   11.軍事博物館

   オスマントルコが東ローマ帝国を滅ぼした戦争の経緯が模型を使って展示されている。入り口が鎖でガードされ軍艦では侵入できなかった金角湾の奥深くに、夜の間に海から船を引上げて丘を越え攻め込んだ様子を復元したジオラマがハイライト。ポエニ戦役でハンニバルの象部隊がアルプスを越えてローマを奇襲した史実を思い出す。日本では差し詰め桶狭間の戦いか?ホールの度真ん中では軍楽隊が兵士を鼓舞する舞踏を再現している。同時に民族衣装も楽しめる。古来、奇襲作戦は成功率が高いようだ。

   12.ディナーショー

   観光客を大きなホールに集め、毎夜開くディナーショーの華やかさに目を見張った。観客は殆ど外国人。出し物はベリーダンス・歌・伝統の舞踏が中心。かぶりつきで目を輝かせていたら、トルコ第1の人気男性歌手に握手を求められた。貧しい庶民とは無縁な世界を垣間見ると共に、トルコの蓄積された厚みのある文化に魅力を感じた。中近東特有のメロディを耳にすると、はるばる異国にやって来たとの実感が更に深まった。                      

   13.トルコ風呂

   本物のトルコ風呂は男女別々。直径15m高さ10mのホールの円周に沿って洗面台が並んでいる。一人分の幅は 1.5mくらいあり余裕は十分にある。固定式のお湯入れと水入れの大きな石の窪みがセットになっている。中央には高さ50cm・直径5mくらいの水平な大理石の台があり内部が暖められている。客はこの台の上にバスタオルを敷いて寝転ぶか周囲に腰掛けて体を暖める。
            
   20分もすれば汗が溢れ出てくる湿式サウナである。希望者は別途料金で三助に背中流しとマッサージが頼める。腕力のある三助のマッサージは痛いほどだが初体験としては面白かった。女風呂の垢擦りは女性の担当。『逆にしたらもっと客が増えるのではないか?』と提案したら『日本とは文化が違う!』とかわされた。

   14.スラム

   金角湾の奥に典型的なスラムがあった。田舎からイスタンブールに働きに出てきた人が最初に住む所である。ベトナムの田舎の家と質に大して変わりはない。スラムは何故か山の斜面にある。下水は垂れ流し。車で行けるところはほんの一部分だ。大人の女性は殆ど黒いベール『チャドル』を被っている。田舎から出てきた人は敬虔なモスレムだ。ここはアラブの世界に瓜二つ。
            
   しかし、トルコ人は『トルコはアラブに似ている……』と言われるのを極端に嫌う。『日本人が韓国人に間違えられるのを嫌がるのと同じ』だそうだ。イスタンブールの華やかな面からは想像もできない貧しさだ。好奇心のみでスラムの街に出掛けて写真を取り捲っていたら、段々気が咎めてきて自己嫌悪に陥ってきたが、同行してくれたトルコ人に『気にする必要はない』と慰められた。

   15.ルメリ・ヒサール

   都心からやや離れたボスフォラス海峡の一角に、オスマントルコのメフメット2世が3ヶ月で建てたと言われる石造りの城があった。山の斜面に位置し大砲で海峡の船を威嚇できる絶好の場所だ。城の中には作戦会議もできる円形劇場みたいな屋根のない会議室があった。東ローマ帝国攻略の準備の一端である。ライン河に沿って建てられている城と形式がそっくりだった。江戸時代の日本の城は美観中心主義だったが、トルコでは実戦用だった。

   16.ゴルフ

   トルコ唯一のゴルフ場がイスタンブールにあった。もともとは18ホールのコースだったが軍事政権になった時、贅沢との理由で9ホールに縮小させられたそうだ。ティーグラウンドの位置を変えて2回、回るようになっていた。削除された場所にはマンションが既に建っていた。

   トルコ三井物産から紹介され、様子見たさにのこのこ出かけた。がっかりするほどの荒れ放題のコースだった。ラフの芝は伸び放題に近い。単なる丘陵地に適当に芝を植え、ゴルフ場の形を真似ただけであった。勿論キャディもいない。入場者の管理をするための小屋があっただけだ。

   トルコ人には、周囲の視線も気になるのかゴルフはスポーツの対象にもなっていないようだが、サッカーは国民的なスポーツのようだ。トルコのチーム『ガレリア』がヨーロッパ選手権で優勝した日にたまたま入国したら、空港から市街地まで選手の歓迎の車と人とで渋滞し、爆竹が町中に鳴り響いていた。何かに付け日頃ヨーロッパ各国に圧迫され続けている感情の開放感もあったのではないか?

[2]ブルサ 
                              
   セルジュークトルコの都。ここにもミニ・グランドバザールがあった。中近東にはこの種のバザールは何処にでもあるそうだ。売っている商品も大変似ている。日本商品は安価な時計・電気器具・カメラの類いで主流品ではない。由緒あるモス
クもあったが建設時の国力に比例するのか小さかった。
                                                    アナトリア      ホテルの地下室のトルコ風呂は個室だった。緑色の透き通った清
潔感溢れるオニックスの湯船からは、透明な温泉がこんこんと溢れ出ていた。未だ
かつてこんなに美しく幻想的な風呂に入ったことはない。日本の石造りの露天風呂
とは異質の世界だ。しかし一人というのは詰まらない。話し相手もいないしたった
の10分で飽きてしまった。

   アナトリアホテルから歩いて行ける距離にあった別のホテルのスカイレストランでは、真ん中はダンスが踊れるホールになっており、その周辺の壁に沿ってテーブルが配列されていた。満席の観光客は仲間同士、アルコールが回って来ると楽団の生演奏に合わせて体を動かしていた。ちらっと横目で観察したら、正式なダンスではなく、体を適当に動かしているだけであることにすぐ気が付いた。

   買ったばかりのロイヤル・カントリーのゴルフ帽を被り、真っ赤な長袖のセータの上に、空色の袖無しのセータを着用し、意を決して仲間のトルコ人と手足を派手に動かし、見よう見まねで踊り始めたら程なく、全く見知らぬ観光客の中からダンスを突然申し込まれた。
                         
   出鱈目のステップを気軽に踏んでいたら何としたことか!次から次にダンスを申し込まれ食事をする暇もないほどの人気を集めた。とうとう最後には、満員の観光客はホールの周辺に立ち並び、真ん中で私の組みだけが踊り狂っていた。きっと日本人が珍しくもあり、珍奇な格好とテンポの狂った私のダンスが余程物珍しく感じたのだろう。           

   楽しい一時が過ぎ、仲間と静かに帰り始めたら、数メートルも歩かないうちに、観光客に気付かれ万雷の拍手喝采を浴びた。まるでスーパースターになったような気分に浸って帽子を振り振り、名残を惜しまれながらレストランを後にした。草の根レベルの国際親善を初体験した。                 

[3]アダナ

   アダナはサバンジグループの発祥の地。その結果あちこちにサバンジグループの工場がある。都心近くの工場の入り口近くに、デザインにも凝った8階建て位の小さなビルがあり、最上階には来客食堂があった。給仕付きでワインやビールを飲みながら、フルコースのトルコ料理をサバンジさんに振る舞われた。テラスからはアダナの大平原が見渡せた。3000m級の山々が連なるトーラス山脈が、100Km以上離れた位置からでもくっきりと見えた。
                                    
   アダナもまた歴史のある古い街である。市内には古代の発掘物を展示した博物館があり、見飽きるほどの展示物があった。郊外にはボロボロに崩れ掛けたレンガ造りの『クレオパトラの門』があった。アントニオに会いに来た時に潜ったそうだ。西へ 100mくらいの所には『天国』と『地獄』と夫々名付けられた深さ 100mの大きな円筒状の穴があった。
                             
   『天国』の底まで降りたら天の岩戸みたいな横穴がありその中に教会が建てられていた。高千穂峡にある天の岩戸に状況がそっくりだった。どこの国でも人間は似たような場所では似たようなことを考えるのだろうか。既に中を見たことのある同行のトルコ人には興味がないらしく、私1人が見物した。地上で30分も我慢して待ってくれていた。海岸から 500mの沖合に石造りの立派な『処女の城』があった。伝説によれば王女が匿われていたそうだ。
                
   アダナはシリアにも近く夏は40°を越える。郊外にはバナナ畑があった。驚いた事に大きな黒いごみ袋みたいなもので房毎に袋掛けがしてあった。郊外には20億トンもの貯水量を誇るダムがあり、乾燥気味の土地にも拘らず水は潤沢だ。日本は降雨量は多くても人口が多過ぎ、水不足になり易いのと比較すると天地の差がある。しかも、こんなに貯水量がありながら、堰堤の大きさは三河湖のダム程もない地形の有利さ!
                              
   人口80万人。トルコ第4の大都市とはいうものの、順位は人口の面だけである。本格的なビルは都心に少しあるだけである。商店街を歩いたら日本の戦後の闇市クラスだった。貧困とは何かが肌で感じられる。E5(欧州国際道路No.5)の沿線には掘っ立て小屋からなる商店や工場が並ぶ。
                     
   サバンジグループの工場は設備も建物も欧州クラスで地場産業とはウルトラ別格。市内の舗装が行き渡らないため、とにかく埃っぽい。金槌片手に壊れた建物の廃材から屑鉄を取り出している大の大人がいる。道端では屑鉄を買うブローカーがのんびりとリヤカーを引いていた。

   トルコは一応トルコ民族の国と称しているが、歴史的にはこの地は民族の交差点。つまり混血大国。イスタンブールからアダナまでの約1000Kmの間に、概ね皮膚の色は徐々に黒くなると共に人相も変わってくる様子が分かる。    

[4]アンカラ                            

   イスタンブールには、トルコ人にとって『ここはトルコではない』との思い入れがある。(欧州第4の都会。ロンドン・パリ・ローマに次ぐ2000年の歴史に輝く、誰もが誇りにしている町。人口が4位というのは正しいのではあるが…)一方、アンカラは首都とはいうものの、都市としての格は格段に落ちる。政府関係の若干のビルとホテルを除けば、めぼしい建物もない。
                        
   内陸部の盆地であり冬は零下10度にもなり寒さは大変厳しい。周辺の山肌にはスラムの小さな家がびっしりと張り付いている。海岸の岩場で小さな無数の1枚貝が張り付いて生きている姿にそっくりだ。日本の兎小屋が豪邸に感じられてくる。
                               
   昔のキャラバンサライ(隊商宿)を改装して作られた『アナトリア文明博物館』は圧巻だ。中でもリディア王国時代に発明された世界最古の金貨とヒッタイト帝国で発明された世界最古の鉄には驚く。この二つの発明抜きには今日の人類の繁栄はないと思えば感慨も一段と高まる。ここにはBC6000年前からの発掘物が年代順に陳列されている。

   トロイの発掘物もある。目を見張るほどの出来栄えの石の彫刻からは、古代の芸術家の根気と気迫が直接伝わって来る。立体表現をする彫刻の場合には、2次元の絵画や写真とは異質の感動が見る人に伝わって来るような気がする。ここの展示物には『大英博物館』も顔負けするような絶品が含まれている。

   『アタチュルク廟』は20世紀に建てられた墓としては、世界的な規模を誇る石造りの壮麗な神殿だ。今なお四六時中衛兵が霊を守っている。第1次世界大戦で枢軸国側に付いたオスマントルコは、敗戦後広大な支配地域であったバルカンやアラブで夫々の民族が独立し、亡国の危機に瀕した。その時の救世主がアタチュルクであり、今に至るまで国民の崇拝を一身に浴びている。
               
   国土の至る所に銅像が、建物の中では肖像画が溢れている。まるでスターリン時代のソ連のようだ。偶像崇拝を禁じ、ムハンマドの銅像1つないモスレムの代表国の1つであるトルコでのアタチュルクの崇拝は、どのように解釈すれば良いのだろうかと戸惑うほどだ。

   これを少し小さくしたのがハノイにある『ホー・チー・ミン廟』だ。先進国ではケネディであれ誰であれ新しい墓はみすぼらしくなる一方だ。多摩陵に加えて、『明治神宮』も建てたのは日本の後進性の象徴か?            
               
[5]カッパドキア                            

   トルコ観光のハイライトの1つはカッパドキアである。火山灰や石灰岩・砂岩が風化浸蝕された後に残った、高さ10mクラスの茸のような岩柱が林立している。周囲の山々には殆ど木が生えていないので一層その奇怪な姿が異様に印象づけられる。恐らく中国の雲南省の石林が似ているのではないかと予想している。     

   石灰岩や砂岩は加工し易いためか、山の側面に横穴を堀り住居・教会・レストランなどにも使われている。キリスト教徒がイスラム教徒に迫害された時に、隠れ住むために建設した地下10階建ての大都市遺跡もある。そこに住んだ2万人の信仰心の強さと人生に思いを馳せずにはおれない。数十年前まで人が住んでいたそうだ。

   大きな岩窟内のレストランで典型的なトルコ料理を食べながら、民族衣装で正装した人の音楽付きベリーダンス等を見た。本場で本物を見ると、自然にその雰囲気の中に吸い込まれていくのが自覚できる。
  
   この近辺では横穴にまだ人が住んでいる。横穴が住居部と家畜小屋からなり、出入り口と玄関だけが外部に突き出ている。乾燥している内陸部の厳しい気候下では快適なのではないかと思う。大きなかまどで火を燃やし、かまどの内壁が暖まったら、小麦粉を水で溶いて薄く延ばした円形の材料を内壁に張り付けて焼いていた。イースト菌や膨らまし粉は使わないので、大きな湿ったせんぺいみたいに焼き上がる。
  
[6]パムッカレ

   カルシウムを含む温泉が山肌を流れ落ちる間に凝固してできた珍しい地形である。パムッカレとは『綿の城』という意味だそうだが、私には白くて彫りの深いカボチャが積み重ねてあるように見える。斜面の段々は千枚田のようになっていて、1つ1つが温泉プールになっている。下へ温泉が流れ落ちるに連れ温度が下がっていく。
                                  
   地元の人には最早関心もなく、遊んでいるのは外国人ばかり。11月、少し寒かったが真っ赤な夕日を見ながら2時間も漬かっていた。同行のトルコ人はホテルでじっと帰りを待ってくれていた。
                     
   観光ホテルの中庭には温泉を溜めた大きな池があった。池の中には昔の神殿や宮殿の壊れた石柱がごろごろしていた。外国人の観光客が水着を着て池の中で遊んでいた。露天風呂の一種だが男女混浴である。

   この一帯も歴史の深い町らしく、小型の円形劇場・神殿跡・博物館・大きな墓の集団などがあり引っ切りなしに観光客が訪れる。近くには高温の温泉の噴出孔もあった。
                                                          [7]アスペンドス・シデ・アランヤ・ペルゲ
 
   地中海沿岸の古代都市には円形劇場・市場・神殿の遺跡が大抵あり、近くには観光客目当ての絨毯などのお土産屋がある。絨毯は田舎に行くほど価格が安い。アスペンドスの円形劇場はローマのコロセウムよりやや小さいが、完全な状態で残っている。トルコやギリシアの円形劇場は山の斜面を利用している場合が多いが、アスペンドスでは平野に建てられている。2万人を越える収容人員に肉声が聞こえる音響効果にも驚く。ここにもローマの水道橋の朽ち掛けた遺跡がある。

   シデ・アランヤ・ペルゲは夫々車で1時間以内の距離にあったが、独立した古代都市であり、劇場・市場・神殿の遺跡があった。その近くには10万人以上の収容能力があるという、今では使われていない巨大な競技場があった。グランドの大きさは 500×100mくらい。その周囲に高さ5mに達する階段状の観客席があった。人口が少ない頃だったので住民全員が集まっていたのだろうか。

[8]アンタリヤ 

   地中海沿岸のリゾート観光都市は何処も負けず劣らずに美しい。地中海沿岸は雨量が少ない。煤煙もない快晴の空からの陽光が、紺碧に輝く海面に反射している。海岸には石灰岩や大理石が崩壊してできたのか真っ白い砂浜が続く。

   海が臨める位置には真っ白い壁とオレンジ色の屋根が鮮やかで、デザインも素晴らしい別荘やリゾートホテルがあちこちに建っている。皆新しい。ガラス窓の大きな高級レストランも多い。どのホテルにも大きなテラスがあり、そこにはテーブルと椅子がある。日本ではこんなに自然も家も美しい海岸を見たことがない。日本に比べれば名目所得水準は1割以下なのに、どうしてこんな贅沢ができるのか一瞬不思議に思う。
                                
   よくよく観察すると観光客は殆ど欧州から来た外国人だった。駐車場にはドイツからはるばる陸路を疾走してきた大型観光バスが並んでいた。客には中高年が多い。もともと欧州には日本人のように青少年が観光旅行に外国にまで出掛ける習慣は乏しいようだ。団体旅行は自立心に乏しい日本人の習慣だという人がいるが真っ赤な嘘である。欧州でもパック旅行は大変盛んだ。

   生簀料理は日本人だけの専売特許ではない。トルコの一流レストランやホテルには大きな生簀があり、海老・カニ・鮮魚の類いがキープされている。海老・カニはどこの国でも最近は価格が高くなった。外国では安いというのはもはや伝説に過ぎないようだ。
                              
   しかし、こんなにいい景色を見ながら酒を飲み飲み満腹すると、価格への不満はちっとも起こらない。唯一の不満は時間不足のため、料理も自然もゆっくりとは満喫できない点にある。トルコではアンタリヤほどに美しいリゾート都市には結局出会えなかった。                       

[9]テルメッソス

   アンタリアから車で2時間、1000mを越える山に入ると古代の都市遺跡『テルメッソス』がある。規模は小さいが朽ち掛けた神殿・市場・円形劇場があった。そこへ辿り着く道から程遠からぬ谷沿いや山の斜面には大きな石棺が1000個以上も放置され転がっていた。かつてのお墓が地震で壊れたのだそうだ。驚いたのは石棺の立派さだ。等身大の人間が入る大きさ。1×1×(2〜3)mの石からバスタブ形状に中をくり抜き、厚さ20cmくらいに加工した1枚板の石を蓋にしている。
      
   こんな大きな石がここの山から切り出せる様子はなかったので、どこかから運んできたのであろうがその執念に驚く。ピラミッドに限らず死後の世界を信じていた昔の人は、石切り用の機械もないのにこんなにも頑張ったのか!今は蓋も外れ中身もなく、只打ち捨てられたまま。それに引き替え現代のお墓は簡単だ。日当たりのよい斜面に土葬の死体を埋め、その上に小さな板状の石碑が立ててあるだけだ。

[10]イズミール

   イスタンブールに次ぐ(人口はアンカラに次ぐ3位)エーゲ海に面したトルコの代表的な観光都市である。弓なりにカーブした海岸通りには高さをそろえたビルが綺麗に並び、海岸道路には椰子のような枝のない熱帯樹が並木のように植えてある。散歩しながらのウインド・ショッピングは実に楽しい。
         
   トルコ人の憧れの商品はどんな物か歩くほどに解ってくる。しかし余りにもくっつけてビルを建てたためチャイニーズ・ウオール(万里の長城の意)と揶揄されている。いずれ来る本格的な自動車時代には駐車場不足で音を上げるのではないか?結局ビルを1つ置きに取り払うのではないかと予想されている。

   イズミールの郊外にはギリシア〜ローマ帝国時代に繁栄したエフェソスの大遺跡がある。山の傾斜を生かした大劇場・港に出入りする船員用の大浴場・アレキサンドリアと蔵書数を競った挙げ句に、パピルスの輸出をエジプトに止められた(その結果、羊皮紙が発明された)と言う大図書館などの遺跡を見ると、当時の繁栄振りが目に浮かぶ。

[11]ベルガマ

   エーゲ海に面しエフェソスと並んで繁栄したベルガモン王国の遺跡である。山の斜面に作られた大劇場は、最上段の観客席の高さが優に60mはあり収容人員5万人。最上階から舞台を眺めると眩暈がするくらいである。舞台の大理石の床の上に肩の高さからコインを落としても、観客席の最上段まで音は鮮明に届く。ここのベルガモン神殿は大英博物館の正面玄関の建物として移築され、往時の荘厳さを今に留めている。

[12]E5沿線

   欧州〜イスタンブール〜アンカラ〜アダナを結びトルコを縦断する全線舗装の国際幹線道路である。人口過疎地帯に至ると上下併せて3車線の場合が多く、真ん中の車線への侵入は早い者勝ち。合理的なルールだと思う。この考え方はフランスが発祥とか。アナトリア半島は半島といっても内陸部に行くと大陸の風格が感じられる。雄大な高原地帯を突っ切る真っ直ぐな道には車も少なく、時速 150〜180Kmで安心して走行できる。

   アンカラ〜アダナ間にはトルコ第2の鹹水湖があった。湖岸には海のようにさざ波が打ち寄せ、対岸が遠過ぎて見えない。海といわれても不自然ではない程だが、水の出口がないため塩分がどんどん溜まる一方だ。水は澄んでいる。塩分過多のため魚も水草も育たないか?とすればこの湖の価値は何だろうか?  

   アダナ近くには地中海の海岸線に並行してトーラス山脈がある。3000m級の岩山が続く。北アルプスよりも山の広がりが大きいためか、遥かに雄大かつ荘厳な眺めだ。ここでも大陸的な大自然を感じる。峠の高度は2500m。両側の山には木1本すら見掛けない峨々たる岩山。道路から僅かに50mとは離れていない山裾の一角にサバンジ・グループの会社のミネラル・ウオータの取水小屋があった。有機物が含まれていない岩山からの湧き水なので衛生的だ。その後、日本のデパートで売られているのに気付いた。

   都市の郊外の沿線では産地直売の屋根のない売店が随所にある。果物と野菜が中心だが、その量たるや1軒で1トンはあろうかというほどの農産物をデイスプレイ効果も工夫して並べている。トラクターに大きなリヤカーを連結して運搬している。家族総出の労働だ。

[13]ヴォスフォラス海峡

   真夏、サバンジさん所有の2基× 250馬力エンジンが付いた大型ボートに乗り、イスタンブールから黒海へ抜けるヴォスフォラス海峡を1日掛けて周遊した。このボートには寝室・食堂・冷蔵庫・テレビ・電話・トイレなどがあった。確かイタリー製で20万$位だったと記憶している。船長は 180cmの身長、40歳位。格好の良い帽子、真っ白な長ズボンにシャツ姿で現れた。アメリカ映画から抜け出て来たような好男子だった。

   北からはソ連のドニエプル、西からは欧州のドナウの両河川が流れ込む黒海からの水は流石に冷たく、しかも流れは秒速1mと意外に速い。周遊途中流れが緩やかな入江風の安全な岸辺の近くで、1分間だけ泳いで見たが井戸水位の冷たさだった。万一の場合の危険を避けるために、水泳の上手な人が船縁に何時でも飛び込めるように待機してくれた。私の目的は体全体でこの海峡の実態を感じることにあった。『1分間の体験を帰国後友達に報告するためには、1時間でも足りない』と言って彼等の好意に感謝した。

   黒海の北岸に突き出したクリミア半島はロシアの保養地として有名だが、ロシア人の耐寒体力は日本人の比ではないと実感。ロシアではこの寒さ・水の冷たさでも『宝の地』なのであろう。気の毒な限りだ。黒海を臨む位置まで来たら、荒れ狂う波頭が見えてきた。海水は何故か真っ黒に見える。名前の由来は瞬時に納得できた。

[14]田舎の点描

   大都市から遠く離れた田舎の雰囲気はどこも大変似ている。数百人単位の人でヴィレッジは構成されている。家は密集して建っており中央には必ずモスクがある。ミナレット(尖塔)が原則として1本あり、お祈りの時間にはミナレットに誰かが登ってコーランで呼び掛ける。この肉声が聞こえる範囲に家があるそうだ。トルコのヴィレッジの概念は日本の村ではなく部落(大字)である。万屋が大抵1軒ある。

   伝統的な家は平屋で庇のない直方体。15坪位ある。壁はレンガか小石。壁の天板に丸太の梁を並べ、その上に土と草の繊維を混ぜた日本の壁土(繊維強化の原理はFRPと同じ)のような粘土を30〜50cm位の厚さに載せて屋根としている。雨量が少ないから雨漏りはしない。古くなると屋根に草が生えている。断熱効果も高く冬暖かく夏は涼しい。
                          _
   このタイプの家は中近東の田舎では普遍的であるばかりでなく、ノルウエーの田舎でも見掛けた。屋根の高さは2m強。大変低く感じる。日本家屋のような天井裏がないので高さは必要最小限で済む。当社の工場用標準トイレの外観形状に似ている。

   周辺には鉄道もなく交通の便は大変悪い。イスタンブールに行ったこともなく一生を終える人も多いらしい。それでも最近はバスが日に1便位走り始めた所も増えた。農業が中心。平均耕地面積は5町。日本の数倍もあるが農産物の価格は十分の一にも達しない。専業農家では生活が苦しい。畑作が中心なので潅漑用水はない所も多いが、1町歩単位の大きな畑なので作業はしやすく、家畜耕作からトラクターへの転換は完了している。
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トルコあれこれ

[1]トルコ人

   トルコ人は大変な親日家である。今までに公私合わせて、世界26ヶ国・150都市以上を駆け巡ったがトルコ程の親日国家には残念ながら出会えなかった。日本が日露戦争でトルコの宿敵ロシアに勝ったことだけではない。明治天皇を表敬訪問したトルコの海軍が帰途、和歌山県の沖で遭難したときに串本町の漁民が必死で助け、僅かの生存者を日本政府がトルコまで送り届けた事件を、教科書で子供の頃学ぶことに由来する面が大きいとのことである。              

   トルコと串本町に同じ慰霊碑(まだどちらも見ていない)がある。トルコの新任駐日大使の初仕事は『串本町の記念碑を訪れて、霊前に額突く儀式』から始まるそうだ。アンカラには『東郷通り』があり、イスタンブールには『TOGO』という大きな靴屋があった。

   トルコ民族は中央アジアの覇者であり、モンゴリアンとして日本人と若干の繋がりもあり親しみを込めて接してくるが、本人達は白人の一種と自負している。とはいえ、中国の西部から中央アジアを経てトルコに至までの共通語はトルコ語である。トルコ語を使う人はトルコ本国の2倍もいる。言語の流通国土面積や人口は独仏語並か。数人のゴルフ友達とは定年後に、中国から中央アジアを経由してトルコに至るシルクロードを旅する約束をしているが、その日が待ち遠しい。  

   トルコ人の取得した言語能力は日本人に比べ大変高い。グランドバザールの商人だけではない。一寸した知識人は英語・アラビア語・フランス語かドイツ語を話せる。一流大学は外国語で講義するそうだ。この国で一流の人生を送るには外国語能力の取得は必須条件であるためか、『日本人だって、トルコのような立場に置かれれば外国語に強くなるよ』と彼等は言う。その証拠に田舎に行くと殆どの人は英語も話せなかった。

   トルコ人は友達に久し振りに出会うと男同士でも互いに抱き合い、ほっぺたを擦り合せて抱擁する。異文化の外国人(私)が傍らで目を凝らしてその一部始終を、じっくりと観察していようがいまいがお構いなしだ。最初は大変奇異な印象を受けたが、慣れるに連れて違和感がなくなった。母親が子供を愛撫する時も、フランス人の恋人同士が街頭で抱擁し合うのも感情の自然な表現形式に過ぎない。その後テレビに注目していたら、アラブ人にも同じ習慣がある事に気が付いた。中近東では普遍的な慣習に思える。

   トルコの一流の人は食事のマナーでも一流だ。フルコースの西洋料理を食べていたらナイフとフォークの動かし方が教科書通りであることに驚いた。作法が付け刃焼きではなく完全に身に付いている。慣れない私は形式を追い過ぎると疲れてくるし、必ずしも食事に満足出来ない。事前に了解を取って、食べる順序を変えることもある。大抵の場合はスープは最後に注文する。先にスープを飲むと胃袋が一杯になり、一番高価なメインの料理が満腹で食べられなくなるからだ。    

   このような場合でも私の不作法に嫌な顔1つしない。オレンジの食べ方も大変うまい。皮に浅いスリットをナイフで器用に入れ、袋を傷付けずに剥いて食べる。日本人はこの食べ方に慣れていない。バナナも教科書通りにナイフとフォークを器用に操って食べる。バナナの正しい食べ方(アメリカの追憶・5〜6ページ参照)を生まれて初めてトルコで目撃した。日本人の殆どはその食べ方すら知らないようだ。

[2]トルコ絨毯

   シルク・ロードの沿線には夫々作り方に特色のある絨毯が伝統を引き継いで今も織られ続けている。トルコの絹、未だ買う機会に出会えないイラン(ペルシア)の羊毛、中国の分厚い緞通が日本では有名だ。しかし絹と羊毛をデザインによって使い分けたパキスタンの絨毯、中国の絹の絨毯、ベトナムの羊毛の緞通など、世界には様々な絨毯がある。イスラム各国では偶像禁止のため、絨毯のデザインも幾何学模様だったが、最近のペルシア絨毯では人間や動物の絵も織られ始めた。外人向けか?

   トルコ絨毯の特徴は縦横1mmピッチに手織りで結んだノットにある。裏返しても同じ模様が現れる。一番多く出回っているのは45×80cmサイズの大きさの、どこででもお祈りの場所がキープ出来る携帯用の座布団代わりの絨毯だ。ノット1個結ぶのには数秒掛かる。従って1平方mの絨毯を織るには1500時間、半年は必要だ。絨毯の原価の大部分は人件費である。

[3]イスラム

   信教の自由が保証されたとはいえ、国民の97%がモスレムといわれる国だけあって、イスラムは国民生活に深い影響を与えている。1日5回のお祈りの声はヒルトンの部屋にまで聞こえてくる。アダナの町中の小さなモスクを尋ねたら毎日少しずつ変わるお祈りの時刻表が壁に貼ってあった。

   しかしイスラムの戒律はアラブ程厳しくはない。飲酒は知識人程おおっぴらである。重婚の習慣は都市部には全くない。それどころかインテリの場合は子供も2人以下である。5人兄弟で大金持ちのサバンジさんですら子供は2人だ。イスラムは産児制限を禁じているため、どの国も人口の膨脹が止まらないのに。
     
   年に1度断食することは健康管理面でも合理的だ。過食を改め、アルコールを体から完全に抜くだけでも大きな価値だ。異教徒の外国人は断食をもちろん強制されないが、一緒に昼御飯を食べる時に酒を勧められても、断食期間中だけは辞退した。トルコ人に断食期間中は小さな食堂は避けたほうが良いと教えられた。食材の回転が悪いからだそうだ。今や都市部の女性は黒いヴェールを殆ど付けていないが、田舎の年寄りに限ると、ほぼ全員着用している。

   パキスタンでもマレーシアでもトルコのようなイスラム国家をめざしたいとの声を聞いたことがある。

[4]インテリのマンション 
                       
   大都市では1戸建ての新築工事は1%以下。今やマンション時代だ。日照権には拘らないためか、背中合わせにくっついた南北の夫々に分譲の家がある。従って奥行きのあるビルとなりデザインが映える。北側は夏涼しいから人気がある。高級マンションは1階からインタホンで訪問先に来意を告げ、リモコンで鍵を開けて貰うシステムが採用されている。

   サバンジ・グループの部長〜作業員までの典型的な家を10戸訪問した。1戸の床面積は30坪。間取りはどれも殆ど同じである。食堂を兼ねた応接室・夫婦寝室・子供部屋2室、つまり3DKである。インテリの家でも本が殆どない事に驚いた。一家の本が全部で1mの厚さ。トルコでは本屋も殆ど見掛けなかった。ホテル内の本屋でも外人向けの観光案内書が主力商品だ。箪笥は夫婦寝室に1個。子供部屋には整理箪笥・机・椅子・ベッド。ピアノはない。          

   家の中はシンプルで広々している。夫婦寝室には例外なくダブルベッドが置いてあった。風呂とトイレはホテルのように同居。必ず生花が飾ってあった。所得の違いは住む地域と家財のレベルに現れるが、家の広さには差が殆どない。 

[5]生鮮食料品
                             
   生鮮食料品売り場は少ない。イスタンブールのあの大人口からなる人々は何処で食料を調達するのだろうか。日本ほど食料品店の多い国には出会ったことがない。ヒルトンから1Kmの位置にやっとマーケットを見付けた。トルコ人は他の地中海沿岸国と同じように魚やイカも食べる。魚の売り方は尾頭付きだ。日本のように切り身でも売る習慣はない。

   海の魚が中心。ボスフォラス海峡の出口には世界最小の海、マルマラ海があり漁業資源は豊富のようだ。しかしトルコ人が一番好きな魚は黒海の底に住むという、直径50cmくらいの平ぺったくてイボがたくさんある赤茶色のグロテスクな魚だ。どこの魚屋でも一番目立つ所に陳列されている。各地(イラン・ソ連など)のキャビアもあったがトルコ人には人気がない。       

   ヒルトンでの歓迎会でキャビアを注文した。直径40cmの大皿の真ん中に直径4cmくらいにキャビアが盛られ、その周辺に添え物がどっさりヒマワリの花びらのように飾られて出された。生まれて始めて食べたキャビアの味は、単に生臭い魚卵に過ぎなかった。何故ヨーロッパ人がキャビアに血眼になるのか解らなかった。日本人にとっての『松茸』騒ぎの類いか。                  

   このとき初めて本物のキャビアの色は黒っぽい緑色であることを知った。今まで日本のパーティで出された黒っぽい小粒のキャビアは、ランプフィシュの卵で偽キャビアであることも知った。価格は本物の10%である。今でも偽キャビアを本物と思い込んでいる人に出会う度に講釈したい欲求に襲われる。
        
   ガラタ橋の一角には漁船の船着き場があり、そこでは漁師が取り立ての魚を直売している。サバなどの青魚が多かった。 

   果物も豊富だ。オレンジ・ブドウ・アメリカタイプの赤黒いさくらんぼ・柿もあった。野菜も多種多様だったがどんな物だったかすっかり忘れた。結局自分で買っていないものは忘れやすい。
                                                           [6]トルコ料理 
                            
   典型的な例は羊の肉と季節の野菜の串焼きである『シシカバブ』である。しかし、シシカバブは広く中央アジアから中近東に至る広大なイスラム世界の名物だ。発音も同じ。羊の油が程々に抜けていて、食べやすい。
   
   トルコの代表的なスープ材はトマトである。トマトはサラダにも果物としても温野菜料理でも随所に使われる。彩りも鮮やかで大変人気がある。

   牛肉を1mくらいの棒に巻き付けて沿直に立て、炭火の前で回転させて焼いた後、ナイフで削ぎ落としてお皿に受け止める料理もあるが、この調理法はブラジル料理にもあった。

   魚のテンプラもあるが衣は使わない。しかも切り身ではなく内臓を撤去しただけの尾頭付きをオリーブ油でそのまま揚げる。オリーブの香りが強く日本人には向かない。 

   余程の3流レストラン以外は客が変わる都度テーブルクロスを換える。白いクロスは清潔感があって気分がよい。イスラムの国だけあって豚肉料理はヒルトン等の国際的なホテルに行かなければ食べられない。

[7]飲み物

   中近東一帯のコーヒーの飲み方は珍しい。荒引きしたコーヒーを煮立てた後濾過しないまま小さなカップに注ぎ、粉が沈殿したらその上澄を飲む。大変濃いのでそのままでは胃に悪いくらいだ。飲んだ後、沈殿物を受け皿に取り、その時にできるパターンを占いに使うとか。
   
   トルコ人は紅茶が大好き。小さな瓢箪形のガラスコップに注ぎ、角砂糖を2個添える。グランド・バザールでは商人がこの『チャイ』の出前を取り、無料で客に振る舞う。

   『ラック』と呼ばれる45度の透明な蒸留酒がある。水で割ると乳化するのか白濁する。薬臭い特有の匂いがするがあまり美味しくはなかった。日本での忘年会に出したが人気は今1つだった。
                                                           [8]アタチュルクの功績

   独裁者は死後10年もすると大抵の国で悪い側へ再評価されるが、アタチュルクへの国民の尊敬の念は衰えを知らない。それは第1次世界大戦後の国難を救ったからだけではないようだ。
   
●アラビア文字を廃止し、ローマ字を導入した。その結果国民の教育水準を引き上げることができた。難解な文字の代わりにローマ字を導入して成果を挙げた国としてインドネシアやベトナムがある。仮名の日本、ハングルの韓国も目的は同じ。一方、タイやアラブには未だ難解な文字の壁がある。
● 信教の自由を保証した。この結果イスラムの呪縛から国民は解放された。モスレムが97%以上とは言え、知識人の宗教観は徐々に日本人に似てきた。
● 婦人に参政権を与えた。これは日本よりも早い。
● スルタン制を廃止し、共和国制を導入。
● 政教分離による、イスラム経典の諸権利の廃止。

   彼が執務中に死亡したドルマバフチェ宮殿内の全ての時計( 156個)は、その死の時刻(9時5分)を指したまま止められている。なおアタチュルクとは国会が彼に送った『トルコ人の父』『父なるトルコ人』と言う意味の尊称である。チュルクとはトルコを意味する。本名は『ムスタファ・ケマル・パシャ』

[9]未だ見ぬ世界

   出張では土日に移動が多く、観光にのこのこ出掛けるチャンスは意外に乏しい。機会があれば是非出掛けたいと今でも思っている所が数箇所ある。
   
   1.トラブゾン

   黒海中部の南岸、トルコの北部にある町。平均降雨量が日本の半分しかないトルコでもここだけは例外。日本並みに雨が降り水田が広がる。山々は緑に覆われ、トルコ離れの景色だそうだ。
                                                                   2.東部(アララット山とバン湖)              

   アララット山は東部の国境に聳える山。ノアの方舟が漂着したとの旧約聖書の伝説で有名。チグリス・ユーフラテス河の源流地帯でもある。今はクルド族との紛争地帯でもあり、危険地帯らしい。この山の近くにトルコ最大の湖、バン湖がある。水を掃き出す川がなく鹹水湖である。人口過疎地帯であり、花が咲く春の写真を見ると、その美しさはさながら天国のようだ。
                                                       
   3.ネムルート 

   東部の山裾にある町。大きな石で出来た人間の頭と首が墓石のように鎮座している。『モア』の巨石像を連想させる。
                     
   4.蛇足(コンヤ・トロイ・チャタールヒューク)

   コンヤは中部で栄えた古い町。しかし類似の町は沢山見たので優先度は低い。トロイの遺跡は、史実の素晴らしさに比べ見栄えはしないらしい。トロイの馬は観光用の複製品に過ぎない。チャタールヒュークは推定8000年前のトルコ最古の都市遺跡。トルコ政府は世界最古と自慢するが、発掘中の写真ではボロボロになった廃墟であり、積極的に見に行きたいとは思わない。                                                   
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おわりに

   遥かなる異国の地に出張して初めて取り組んだ新規事業だったが、振り返って見て、これぞ私の提案と自信を持って言えるのは次のような項目か?
        
   1.社長(豊田章一郎氏)へのPR

   役員研修会でたまたま大西常務と大西取締役が同席されていた所へ社長が立ち寄られた時に、私のビデオが話題になったそうだ。後日『両大西君からトルコの面白い調査ビデオがあると聞いた。見たい』との連絡があった。

   早速社長室にて、30分にわたり御覧頂いたら『トルコがこんなに良い国とは知らなかった。しかし、どうしてトルコプロジェクトの提案書が僕の所まで来ないのかね?』『“将を射んと欲するならば、先ず馬を射よ”と言うじゃありませんか。今暫くお待ち下さい』と言って意気揚々と引き上げた。

   2.パートナの選択

当プロジェクトを当社に持ち込んだ現地販売店(経営者は Horesh &Dagmi)が紹介した、現地企業『 Dogus』と組む事に反対した。

販売店がその後、当社に売り込んだどの現地企業とも組むことに反対した。

トルコプロジェクトは自動車産業を持たない唯一の大財閥『サバンジ』と組む事しか解はないと言って、三井物産に仲立ちを頼み、その結果、サバンジと組めるようになった。
最後に Horesh& Dagmi とも縁を切った。

   3.工場立地の選択

大都市に近く、平坦で百万平方m以上、部品会社の進出も可能な場所。      

Dogusやサバンジさんが紹介した場所は全て拒否し『 Gebze』を提案。トルコ側のプロジェクト関係者全員とサバンジグループの総帥サキップさんの賛意も取り付けたが、サバンジさんと地主との価格交渉が纏まらず、やむなくサバンジさんお気に入りの土地『アダパザル』で我慢。     

   4.工場建設計画の立案提示

21世紀にも通用する欧州トップクラスの技術レベルをキープ。
従業員が誇りを持てるような美観を確保。
能力の拡張性を考慮したフレキシブルなレイアウト。

   これらの目標を元にした詳細な工場建設計画案にはサバンジさんも完全に賛成してくれた。プロジェクトの実施段階に入る直前にこの業務から離れたが、基本構想の殆どは後継者に引き継がれ実現した。

   日本で久し振りに会ったサバンジさんや他のトルコ側関係者からは、なんと『Father of TOYOTASA:トヨタサの父』と呼び掛けられたが、必ずしも大袈裟な表現とは思わなかった。定年になったら、妻と一緒にゆっくりとトルコを訪れ関係者と旧交を暖めたいと思っている。


追記(平成8年1月10日)

本日の朝日新聞でサバンジさんの不慮の死を知った。イスタンブールの事務所でトヨタサの会長(サバンジさん)・社長・女性秘書の3人がテロにより虐殺された。トルコでは昨年末、刑務所で暴動が起き何人かが殺された。今回の犯人グループの声明ではその報復だそうだ。サバンジさん達のご冥福を心からお祈りしたい。
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