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旅行記
           
アジア
台湾(平成7年9月29日脱稿)

      台湾には1991年3月に出張で、1995年7月には旅行で訪問した。僅か4年間の間に、台北は目が覚めるほどに美しく変り、車の運転マナーも格段に良くなり、都心をぶらつく歩行者の振る舞いが、急速に欧米人に似て来たことに驚愕した。

      日本人への恨みを既に乗り越え、親しく話しかけてくれる姿に接する度に、台湾人の心の広さに心底感動した。
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はじめに

   台湾は隣国でありながら長い間、公私共に私には縁のない国であった。ところが4年前『アセアンのどこかに、技術支援センターを設立する価値があるかどうか』を調査・検討することになり、その調査帰りに台湾にも立ち寄ることになった。台湾駐在が決まっていた北氏の勉強も兼ねて一緒にタクシーで走り回った。
  
   早朝と夕方、親日家のドライバーの好意に甘えて工場周辺の観光地にも迂回して貰った。終戦時に10歳だったドライバーの、日本語会話能力の高さには感嘆した。外国語の会話教育は、スタート年齢が若ければ若いほど高い成果が得られると聞いてはいたが、生きたサンプルに初めて接してなるほどと、この仮説は嫌でも認めざるを得なかった。タクシー代金が20万円を越えたのも生まれて初めての体験だった。

   昨年(1994)ベトナムに出張した時、たまたまキャセイの特別キャンペーン期間に出くわし、台北・名古屋間のエコノミー往復切符を1枚入手した。2人以上で旅行する人への便宜として、同一家族に限り追加分を1枚6万円(激安切符ですら名古屋発着便は 67000円もする。一方成田発着便はその半額で売られている。名古屋空港便が冷遇されている事には心底腹立たしく感じたが、成田経由便を使えば国内線の費用が加算されるため何の価値もない)で売ると言う。妻を誘ったが激安パック旅行の方がもっと安いことが分かりがっかり。

{激安パック}≒{私の場合}={ホテル代シングル+食費+現地タクシー代+バス観光}<{妻を誘った場合}={6万円+ホテル代追加分(ツイン−シングル)+食費+バス観光}

   今回是非とも出かけたかった観光地は、前回には行けなかった花蓮だけだったので結局、妻は長女と8月26日出発31日帰国の激安パック旅行(台北・高雄・台南・台中・花蓮=73000円)に参加することになった。飛行機代が只でも個々の現地費用が高く付き、私の場合でも総費用は上の式に書いたようにパック並みになってしまったのであった!

   当初は旅費を下げる目的で顔見知りの駐在員宅に泊めて貰うべく、国瑞の社長&副社長にFAXで希望を伝えたら、台北事務所経由の回答から、台湾の住宅事情は大変厳しく2DK並みの小さな借家住まいであることが分かり、紹介して貰った交通至便な『六福ホテル』に泊まることに落ち着いた。
                       
   台湾の可住地当たりの人口密度は日本を遥かに超えた結果、収入が急増した台湾人と雖も、土地と住宅の獲得は相対的には日本以上に困難となってしまったようだ。大都市近郊では1戸建ての個人住宅はないも同然だった。ガイドによれば、小さいマンションの購入すら大変らしい。世界各国いずこも収入が増えれば増えるほど、土地は同国人同士の奪い合いとなり、ますます買い難くなるらしい。
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活力が爆発している美しい国

[1]先ずは食べることから…その1

   標準的な中華料理は10名前後のグループが円卓を囲んで食べる場合に向いている。注文を受けてから、調理には着手する。注文の単位は、コックが中華鍋を人力で自由自在に動かして一度に調理できる分量だ。
              
   出来た順番に配膳された料理を熱々の状態のまま、皆で小分けして食べられる結果、1人当たりの予算が同じでも、人数が増えれば増えるほど、料理の品数が増やせて楽しい。概して言えば、人数と同じ数の種類の料理が食べられる。逆にたった1人の場合だと1品で満腹するため、1人前でも品数を減らさない日本料理に比べて、私には中華料理の魅力は激減する。

   六福ホテル最上階の見晴らしの良いレストランの『飲茶(ヤムチャ)』は、どの観光案内書にも紹介されているほどに有名だ。昼間から満員だった。1人でも中華料理を楽しめるのがヤムチャだ。予め小分けした多種類の調理済みの本格的な中華料理をワゴンに積み、ウェイトレスが客席をぐるぐると回って売りにくる。好きなものを好きなだけその場で注文すれば良い。  
                        
   日本の回転寿司の売り方と同じだ。改めて寿司の合理性に気付く。ネタが1個ずつ変えられるからだ。1食全部マグロと言われたのでは、たとい黒(本)マグロであろうとも食べる気が湧かない。雑食性の強い人間は蚕やコアラとは違うのだ。フカヒレ・スープのようなものは大きな鍋に入れたまま運んで来る。注文を受けてから小分けしている。保温のためだ。

   グループで出掛けた場合でも、ヤムチャのシステムの方が合理的に感じる。1人ひとり自分の好きなものを好きなだけ食べられるからだ。割り勘にする必要もないので、小食の人や好き嫌いの多い人にも優しい。中華のいわば『個食システム』とも言えるヤムチャは、家族主義が未だ根強く残る中国系の人々の間でも、経済の成長と共に核家族化が進み、ドンドン流行するような気がして来た。

[2]先ずは食べることから…その2

   駐在員4名が著名なレストランで珍しい台湾料理を振る舞ってくれた。食材を耐熱フイルムで包み、その上から手作りハムのように厳重に紐を掛け、さらに特殊な粘土で全体を分厚く封印した後、オーブンで焼いたものである。食卓に出された時には穴のない土器みたいだった。それを斧で割って中身を取り出す。斧を使うのは主賓の役割り。演出効果満点のサービスの積もりで折角努力した筈なのに、私がカメラをホテルに忘れて来たことが判り、ボーイは不満気の様子を隠し切れない。
                                  
   話し相手のいない寂しい夕食が急に楽しくなったばかりではなく、苦労の絶えない駐在員達と久し振りに旧交を温める事もでき、一石二鳥でもあった。持つべきは親切な友達と、私用であっても厚かましく何でも頼み込む心臓の強さか?。持参したお土産(シーバス・リーガル1g瓶1本)が見すぼらし過ぎて、私でも些か恥ずかしかった。

[3]人文地理

   台湾の面積は 35800平方Km、私の郷里・九州はそれよりもほんの一寸大きくて 36554平方Kmであるが、台湾の最高峰・玉山(新高山)は3950m、九州の最高峰・九住山はその半分にも満たない1788mである。従って台湾には日本3大急流の1つ、熊本県の球磨川ですら問題にもしないほどの大急流があちこちにあり、立体的な変化にも富む風光明媚な場所が無数にあるだけではなく、玉山の真上を北回帰線が横断しているだけあってか、南北の気候の変化は予想外に激しかった。

   日本の地理に関する統計データは有効数字の桁数が多い。土地の面積・山の高さ・川の長さ・湖の広さ、何でも詳しい。外国のデータの場合は大抵の数値の末位にはゼロがたくさん並ぶ。台湾で出版された観光案内書では、台湾の面積の末尾には 35800平方mのようにゼロが2個も並んでいた。
             
   どこの国でも、常時埋め立ては進んでいるし、河川により沖積平野が広がったり、海流で陸地が削り取られたり、地殻変動で沈下したり隆起したりしている。いわば生きている陸地の面積を一見詳しそうに書くのには疑問を感じ始めた。

   台湾には日本の僅か10%弱の面積に2100万人もの人々がギッシリとひしめいている。都市国家を除けば人口密度はバングラデシュに次いで世界第2位。しかし台湾人は狭い国土の中でも、工夫を凝らしながら逞しく生きている。
                           
   大都市の幹線道路に面した全ての建物には歩道が付けられている。1階の道路側では柱1(ひと)間隔分のスパン(約5m)がピロティになっているのだ。夕立の多い台湾では通行人に雨宿りの場だけではなく、灼熱の夏には日陰も提供してくれる。また自転車やオートバイの一時置き場としてだけではなく、屋台の営業場所としても活用されている。その結果、道路は幅一杯自動車交通に使え、渋滞も殆ど見掛けない。
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繁栄を誇る台北

[1]中正国際空港

   7月22日、名古屋空港はドシャブリの雨(翌日から日本は未曾有の酷暑)だったが台北は快晴。真夏の暑さだ。空港ビルは過去4年の間に一新され、入国前にも免税品が買えるようになっていた。日本では帰国時に、国際空港内の免税品は通関前であっても何故か買えない。駐車場には綺麗に刈り込んだ2種類の庭木が碁盤目状に植えてあり、快適な日陰を提供している。ゴミが落ちていない!。

   4年前には空港ビルを出た途端に白タクに取り囲まれた。一方今回は台湾事務所の曽さんから『台湾では世代交代が進み、日本語は殆ど通じなくなって来たのに、代わりとなるべき英語は未だ十分には普及していない。しかも旅行者には必ずしも安全な国ではない』と脅かされていた。          
     
   ところが昔のような白タクは一掃され、客待ちのタクシーは整然と並んでいた。どこの国でも駐在員や旅行社のガイドは、来客の安全を重視するのか、自分の仕事を楽にしたいためか、無意識のうちに過保護側に身を置くようだ。ミニトラブル位なら起きた方が海外では本当は面白いのに!。

   料金上の客とのトラブルの発生を予防するためか、乗るや否やドライバーは中国・英・日本語で書かれた説明書を渡してくれた。タクシー会社の従業員教育も徹底しているようだ。空港発のタクシー料金はメーターの50%増しと書かれている。空港に戻るときに客を拾えない確率が50%以上もあるのだろうか?。ドアの内側には主要都市までの料金の概算表が貼り付けてあった。チップも不要だ。清々しい。

   ドライバーも片言英語は何とか喋った。台北一の格式を誇る、大仏殿のような外観をした円山大飯店(グランドホテル)が屋根の葺き替え工事中に火災にあったとか、 244mの高層ビルができたとか、何かと話題を探しては話し掛けてくれた。独り旅の孤独感が薄らいだ。

[2]午後の散歩

   ホテル内の観光案内所で『昼間の繁華街はどこだ?』と聞くと、地図で説明してくれただけでは無く、タクシー代の予想値も教えてくれた。『そごう』界隈だ。

   そごうの地下2階には台湾式屋台村があった。固定式のちゃんとした厨房設備の回りにカウンターがある。30軒もありそうなマンモス屋台村は初めてだ。それが満席の賑わいだった。回転寿司屋(電気機関車が貨車に見立てたお皿を牽引している)もあればしゃぶしゃぶ屋もある。安全のためかしゃぶしゃぶの鍋は電磁ヒーターで加熱されている。試食したかったが満腹だったので諦めた。

   生鮮3品の売り場はスーパー形式になっていた。対面販売が殆どだった日本の百貨店も遅まきながら、食品売り場では最近スーパー形式を採用し始めている。医薬品や化粧品ではないので、見れば分かる食品の販売員は不要だ。支払いも集中レジを使って1度で済ませられるため、いろんな種類の食品を買うほど、買い物全体の時間効率が上がる。欧州のデパートの食品売り場は殆どがスーパー形式だった。

   商品の価格水準は円高になったと雖も、一般商品は日本とさほど変わらないのが不思議だった。高い土地代の影響だろうか?。いわんや日本人相手の商品なのか、寿司や刺身は日本よりも3割は高い。台湾製スーパードライの缶も売っていた。約百円。安いので半ダース買った。何時ものことだが、ホテルの部屋にある冷蔵庫の冷えたビールと入れ替えて冷やした。

   繁華街を歩いていても全く危険を感じない。しかも中国本土と違ってスリらしき目付きの人間にも出くわさない。刺々しい表情をした人間がいない。道行く人は現状に満足している顔付きだ。35度を越える気温のためか、さすがに開放的なスタイルでノンビリと歩いている。                     

   キョロキョロ、セカセカと歩く私を外国人と瞬時に認識するのか、気楽に道を譲ってくれるので通行人との衝突は避けられた。韓国に行った人の話では、韓国人は道を譲らないらしく『しばしば衝突しかけた』そうだ。元アメリカ駐在員が帰国後『年寄りに道を譲らない若者が、日本では増えて来たことに気が付いた』と言う。

   台北のビルは何故か12階建てが多い。日本にはかつて地震対策のため高さ制限(31m)があり8階建てが多かった。その結果としてやむなく出来上がったはずの皇居前のスカイラインではあったが、『意図せざるものではあっても、蓄積された結果の美しさは維持すべきだ』との美観論争もかつては誘発していた。
       
   大阪の御堂筋の一部、約 1.5Km間ではビルの高さと道路の幅との比率が黄金分割に近いらしく、ビルを改築しても、ビルの所有会社は今なお意識的に高さを揃えているそうだ。台湾には45m制限でもあったのだろうか?。何人かの台湾人にも聞いたが、そんなことには日頃から関心がないのか、誰も答えられなかった。

   過去4年間のうちに台北は、シンガポールやクアラルンプールにも負けないほどに道路が大変綺麗になった。ゴミを捨てると罰金(台北で試行中)を取られるようになったそうだ。試行対象外の台北の衛星都市もついでに綺麗になっていた。
 
   ビルもドンドン美しくなって行く。重量鉄骨作りで外壁はタイル張り、窓も大きい高層ビルが増えた。鉄筋コンクリート中心のバンコックやジャカルタよりワンランク上だ。隠しきれない国力については、北朝鮮のように 100階を超えるピラミッドを真似た三角錐形の巨大ホテル(未だに未完成)を建てたりして、自慢する必要もない。                

   幹線道路の歩道には、気根が無数に垂れた鬱蒼たる街路樹が続き熱帯を実感。今年の日本の夏が新記録の暑さ続きと、日本人同士がいくら自慢し合っても、温室以外では本物の熱帯樹も見掛けないのでメッキを褒めているみたいだ。
       
   午後なのに店に入ると店員から“Good Morning”と何度も声を掛けられた。ホテルに戻った時、日本語がペラペラの女性に『どうして店員は、変な挨拶をするのでしょうか?』と尋ねたら、『その人には時間の観念がないのよ。頭悪いのね!。』と一蹴した。しかし腑に落ちなかったので、その後も何人かの台湾人に同じ質問をした。みんな『そんな挨拶は聞いたことがない』と言う。
                       
   駐在員の安さんの説…中国語の挨拶『ニーハオ』には朝昼晩の区別がなく一日中使えるから、英語を殆ど知らない人が『ニーハオ』の英訳が“Good Morning”に当たると誤解して、外国人相手の場合に限って使っているのではないか?…が私には一番信憑性があるように感じられた。それにしても、既に3年間も駐在している安さんが『そんな挨拶は聞いたことがない』と言うのも私には不思議だった。

[3]夜の観光コース( 900元/人)

   ジンギスカン料理の食べ放題付きだ。料理名は日本と同じでも中身は台湾式だった。食卓には特徴的なあの兜鍋がない!。材料がバイキング式に用意してある一角で、大皿に肉(牛・羊・豚・鹿)と各種の野菜を盛り上げ、その上に10種類以上もある調味料を、ガイドの真似をして手当たり次第に振り掛けた後、2列縦隊になって調理場へと向かう。         
                     
   そこには直径3mは優にありそうな浅いタライ状の加熱された鉄板があった。2人のコックが鉄板の両側に待機していた。コックは夫々一度に2人分の皿の中身を、パッと鉄板の上に投げ出して調味料を適宜追加し、僅か20秒足らずで調理を完了し、大皿にサッと盛り付ける。その手際のよい調理ぶりにはびっくり!。待ち時間など全く感じさせないほどだ。それをテーブルに持ち帰って食べるシステムになっていた。食卓や天井も汚れず、火災の心配もなく合理的だ。果物もあったし満足した。

   台北で一番古いお寺、中国式建築の『龍山寺』へと向かう。屋根の形は燕をデザインしたものだそうだ。軒先の反り上がりを見てなるほどと納得。お参りに来ているお年寄りは声を張り上げて熱心にお祈りをしている。線香で私が燻製にされ兼ねない程だ。宗教では形式主義が特にはびこっている日本と異なり、台湾では日々の生活の中に宗教が溶け込んでいるようだ。大きな石の柱に特色があった。柱全体に3重の彫刻がしてあった。内部をどのようにしてくり抜いたのか不思議な技だ。

   薄暗がりの境内で、ガイドが素知らぬ顔をしながらタバコの吸い殻を投げ捨てたのを目敏く目撃。『罰金を取られるのじゃなかったの?』と詰問。『警察署員に現行犯として見つからなければ問題ない!。台湾人は他人の行動に関する密告などはしない』と平気のへいざ。台北が美しくなった事情を宣伝しているガイドが反則を犯すようでは、国民一人ひとりの無意識下の習慣にまで定着するにはかなりの時間が掛かりそうだ。

   お目当ての華西街夜市へと向かう。アーケード街の入り口側の両側には中華料理の原材料市場があり、その先に中華料理街がある。生きている蛇・亀を初め得体のしれない動植物の山だ。動物園のような悪臭が立ち込める。台湾名物の『カラスミ』を初め加工食品も多い。何故かあちこちに『北海道新鮮魚』の看板も目立つ。

   タイから輸入しているという大きな完熟したドリアンを見付けた。1個 3.5Kgもあった。重かったが2個で約6000円と言う。かつて松坂屋で買った1個1万円の物よりも大きくてしかも断然安い。『4000円に値下げするなら買う』と言うと、『5000円以下には1円たりとも安くはできない』との回答。即座にお断りをして先へと急ぐ。
                                
   帰り道、売り子のおばさんに掴まった。今度は『4000円で売る』と言う。何処の国の商売の駆け引きも同じパターンだ。物余りの今日、主導権は買い手側にあるから、冷やかしながらの買い物は面白い。

   帰国時、台北の国際空港でキャセイから『袋に入れただけのドリアンの飛行機内への持ち込みは駄目』と拒否されたが、『匂いが漏れないように梱包すれば構わない』と言う。空港内の郵便局ではたったの50元で完全に梱包してくれた。慣れた手つきだ。同じタイからの輸入品なのに日本の高い価格には心底腹が立つ。

   最後に超高層『新光ビル』に登った。 540m/分の高速エレベータ(東芝製)で 200mを優に越える展望台迄はアッという間だ。ガイドがエレベータの速さを誇らしげに解説。『横浜に出来た日本一の高層ビル、ランドマークのエレベータは分速 600m(三菱電機製)で世界一だ』と教えてあげたかったが止めといた。お上りさん達が食い入るように市街の夜景を楽しんでいる。台北のマンハッタン化も今や秒読みに入ったようだ。

   総統府は照明に美しく浮かび上がっていた。韓国政府は憎っくき日本の象徴とばかりに、戦後50年の記念事業として対日戦勝記念日の去る8月15日から、朝鮮総督府の撤去作業に着手したが、台湾政府の対応とは対照的だ。

[4]市内観光( 500元/人)

   中正(蒋介石)紀念堂は午前9時ジャストに巨大なトビラが厳かに開けられる。89段の階段は蒋介石さんの年齢を象徴している。巨大な大理石の建物の高さも89mにしているのかと予想したら、こちらは何故か70mだ。          

   ガイドに『20世紀のアジアの偉人は、ガンジー、ホー・チー・ミン、周恩来、蒋介石に孫文だ。皆痩せたソクラテスに似ている。太った豚みたいな毛沢東は晩年に失敗した』と言ったら『その通り』と言う。台湾人にも周恩来や孫文は一目置かれているそうだ。ガイドに『神聖な場所だから、衛兵はきっと童貞なんだろうね?』と尋ねると『結婚しても継続できる。衛兵は強そうに見えれば良い』そうだ。ここでも形式に囚われない台湾人の柔軟性を感じた。

   台湾の靖国神社『忠烈祠』は台北の北部の山裾にあった。緑の背景が京都北部の山々に似ている。日焼けした直立不動の若い衛兵が立っている。4年前には衛兵の交代式にも出くわした。台湾独立のために戦った人への尊敬の念は大変強い。落ち葉1枚落ちていない参道を通り、うっかり帽子を被ったまま本殿へ通じる山門を潜り抜けたら、早速見張りが飛んで来た。それほどの神聖な場所なら、売店にもビールは売っていないだろうとの事前予想は、有り難くも外れてしまった。

   故宮博物院(博物館の誤植ではない!)は郊外の山裾にある。ガイドが『ここの入場料は安いんだ』と言うので、『私の推定では70万点×2万$/点= 140億$、つまり時価で1兆円以上もの価値のある宝物だとは思うが、大陸から只で持ち出したのだから、入場料は只にしてこそ台湾は尊敬されると思うが?。世界中から宝物をかっぱらって来たイギリスの場合、大英博物館の入場料は只にしているぞ!』と蛇足。ちょっと意地悪を言い過ぎたかなと反省している。

   ここには象の納骨も出来そうな巨大な鼎や磁器、職人が3代で完成したと言う象牙細工など、昔の人の根気に圧倒される展示物も溢れている。台湾観光のまさにハイライトだ。大英博物館やトプカピ博物館には、大英帝国やオスマントルコが世界中から掻き集めた宝物で溢れているのに対し、こちらはほとんどの物が中国大陸の国産品だ。中国は一国でミニ世界を構成するほどの大国だと認識せざるを得ない。

   展示面積の都合で目玉となる展示物以外は周期的に取り替えられている。山とある収集品の大部分は巨大な倉庫に収納されている。恒温・恒湿の巨大な倉庫を作るために、この丘が選ばれたらしい。倉庫は山腹に掘られた洞窟の中にあり、目的に対し大変合理的かつ豪快なアイディアである。

   駐車場もない集合住宅が林立する新興住宅街の度真ん中には、新築された小さな中国式廟寺があった。ここにもお参りに来る人が絶えない。宗教は新世代の団地族の日常生活にも入り込んでいる。ここの柱も龍山寺のように1個の花崗岩から切り出され、何重にも重なる複雑な彫刻が浮き彫りにされている。いわばミニ龍山寺だ。このタイプの彫刻はタイやインドネシアの木彫りにも見掛けたが、日本では遂に育たなかった技術だ。日本人はせっかちだからか?。

   最後はお決まりのコース『手工芸品センター』へと連行された。最近こういう場所に案内されるのが大変苦痛になって来た。どんな物がどんな価格で売り出されているのかを眺めるのは大好きだが、買う気は最初から全くない。民芸品や装飾品を買っても狭い我が家には飾り場所がない。     
           
   人にお土産として差し上げても喜ばれない。実用価値のない海外の御土産品は旅行者本人には思い出の品としての意義は多少あるとしても、その国に行っていない人には無用の長物だ。しかし店員は待ってましたとばかりに巧みな日本語で纏わり付いて来る。興味深げに見ていれば見ている程、買う気があるものと相手が勘違いするから一層困惑するのだ。最近は、買うのは専ら珍しい食料品ばかりだ。
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美しい北東部

[1]国際色溢れる観光ツアー客

   ホテルで現地旅行社の観光ツアーを申し込んだ。ホテル迄の送迎付きなので便利だ。迎えに来たドライバーはごった返しているロビーでも、台湾人と人相も服装も殆ど変わらない私を、パッと発見してくれるから不思議だ。きっと赤いチロリアン・ハットが異様だったのであろうか?。
                  
   この帽子は観光中にも大変役に立った。観光地には各社のツアー客が溢れているので、自由行動後に集合する時、同行の人には良き目印になるらしい。逆に私がバスを探してウロウロしていると『こっちだ!』と呼んでくれる。

   現地のツアーバスではいろんな国の観光客と相乗りになった。隣席の人と直ぐにお喋りを開始した。思い出すだけでも、アメリカ・イギリス・ニュージーランド・ギリシア・オーストラリア・オランダ・韓国・台湾・日本人がいた。バスガイドは客の言語能力を確認しながら、中国語・英語を中心にして、時には日本語も加えて3回も同じ事を喋る。大した能力だ。日本発のパック旅行は当然のことながら日本人ばかりなので、面白味が欠けることに気付いた。 
           
   中年のニュージーランドのおばさんが独り旅をしていたので、『どうして旦那と旅行をしないの?』と聞くと、『夫は海外出張が多い。その結果、時々無料切符が手に入るので私が使う』と言う。マイレッジ・サービスの愛用者が結構多そうだ。『ロトルワの洞窟の土ボタルは幻想的で美しかった』と話すと、『アメリカにも1ヶ所、土ボタルの名所がある』と教えてくれた。

   欧米人に『アジアの大都市は、日本は言うに及ばずシンガポール・クアラルンプールを初め、台北でも道路に紙屑が落ちていない。欧米の大都市はゴミだらけだ。欧米人は何故ゴミを撒き散らすことや、ゴミに溢れた町が大好きなのか?』と個々に尋ねた。真面目な何人かは『失業者が多く人心がすさんで来た。場所によってはゴミどころか落書きまで増えた』と寂しげに答えた。意地悪な質問をまたもやしてしまったか?。

   ギリシア人には『ギリシア人の体型や人相はトルコ人とそっくりだ』と言ったら、『トルコ人はギリシア人よりも色が黒い』とコメント。昔トルコで、『あなたはエジプトの故ナセル大統領にそっくり。立派な顔だ』と言ったら、『ナセルの方が色が黒い』と不満顔をしたのを思い出した。地中海〜中東の人は、純度の高い白人と見られたいのか、皮膚の色を今尚大変気にするようだ。

   イギリス人に、『人口数ではイギリス第2、ブラック・カントリーの中核都市であるバーミンガムはどうしてあんなに汚いのか?。タクシーのドライバーですら、市内観光の案内を頼んだら、“見る価値のあるような美しい物は何もない”と恥ずかしがったのだが』と話しかけると、『第2次世界大戦でドイツに破壊されたんだ』と悔しそうに答えた。『本当かな?』との疑問は残ったが詳細を聞くのは止めた。
                               
   『イギリス人は面白い事を考えるねえ。ネス湖の怪獣や麦畑のミステリー・サークルは世界中の人に夢を与えてくれた。元々誰も本当だと信じてはいなかったのだから、犯人は死ぬまで嘘をつき続ければ良かったのに!』『全く、その通り』と相槌を打つ。           

   インドネシア人そっくりのオランダ人に、『あなたにとってはオランダよりもインドネシアの方が、気候の上では住み心地が良いのではないか?』と聞くと、『心臓が悪いんだ。右手には夏でも手袋をしている。インドネシアの気候では早死にしそうだ』と言う。インドネシアはかってオランダの植民地だった事を思い出した。

   韓国人に『百貨店の崩落事故では結局何人死んだのか?』と聞くときょとんとしている。英語が通じなかったわけではない。その他の質問にはテキパキと答えたからだ。ひょっとすると韓国の新聞では報道管制が敷かれて、大きくは取り上げていなかったのだろうか?。

[2]烏來…ウーライ( 900元/人)

   台北から内陸部へ南下すると、高砂族(山岳民族のような名前を付けられてはいるが、そのルーツは海洋民族である)が住むと言う景勝の地がある。マイクロバスで出かける途中豪雨に出会った。台湾の北部は雨が大変多いが、局所的でかつ直ぐに止むのも特色だ。もう止んだかと思って道路を見たら、雨が降った形跡すらなかった。

   烏來の一角にはお土産物屋と屋根付きの舞台があった。舞台では高砂族の女性が民族衣装を着て音楽に合わせて各種の『ダンス』を踊る。求愛と結婚の儀式を象徴した出し物もあった。1時間くらい経った頃、観光客も舞台に招かれて一緒に社交ダンスを踊った。

   持参のカメラで踊り子と一緒に写真を撮って貰った。所が今度はポラロイドカメラを持っている人が現れて、『写真を撮らせてくれ』と言う。『自分のカメラで既に撮ったから不要』と言うと、踊り子が『どうして、どうして』と悲しそうに叫ぶ。回りを見ると皆撮って貰っている。                  

   『仕方がない。高砂族へ寄付することにするか!』と嫌々ながらの決心。円形の台付き飾り皿の中央に写真がはめ込まれたものが数分後には出来上った。 400元(約1400円)もした。

   帰り道、2Kmくらいの渓谷沿いをミニトロッコでガタゴトと下った。風を正面に受け、滝を眺めながら緑の木々の中を疾走するのは爽快感があって面白かった。

[3]花蓮&太魯閣(タロコ)大理石峡谷(3300元/人)

   台湾の東側は西とは対照的に平野部が殆どない。幅数Kmの海岸部の平地があるだけだ。ブドウ棚のような『ヘチマ』畑や『パパイヤ』の果樹園が続く。ヘチマは中華料理の野菜スープに使う。『とうがん』に似た味がしたが緑が冴えて美しい。海抜3000m近い天辺まで緑に覆われた山々が連なる。ここの山は芯まで『大理石製』だそうだ。太平洋からの湿った気団が押し寄せるのか、雨が多く植物の成長には最適な気候だ。

   九州と比べると新幹線はなく高速道路も少ないが、国内線網は充実して来た。台北の国内線専用松山空港から僅か25分で花蓮に着くため、深山幽谷への観光も日帰り圏内になった。
                            
   花蓮市内では大理石の加工工場を見学。 1.5× 1.5×3mくらいの大理石のブロックを大型工作機械に載せ、一度に10枚幅30cm強の板に切り出している。羊羮を切るようなものだ。その後、板の片面を鏡面に磨き、30×30×1cmの板に仕上げる。1枚 300〜 400円だそうだ。製品1立方mが30〜40万円にもなる。空き地に無造作に積んであるブロック1個は100万円以上の価値があったのだ!。

   ここは宝石の大産地でもある。宝石店前の駐車場でバスから降りた途端、ポリネシア系の原住民である『アミ族』のおばさんに『パッ』と帽子とネックレスを掛けられ、民族衣装を来た若い女性に両脇を固められてポラロイド写真を撮られた。写真を買ってくれ』と要求された。頼んだ訳ではないので断固として『NO!』と言う。『何故?』と悲しげに質問された声が今尚耳に響く。買うべきだったのだろうか?。

   大理石が浸食されてできた千尋の谷に沿って大型バスが進む。トンネルに入ったり出たりする。全部をトンネルにすると観光資源としての価値がなくなるので断崖絶壁側には大きく窓が明けられたり、歩道が付けられてあったりと、きめ細かい配慮がなされている。

   危険防止のため、直径5cmくらいのステンレスのパイプで柵が付けられていた。住吉さん(元トヨタ自動車工業参与)が写真撮影時に、奥さんが墜落死亡された事故を思い出したが、そんな危険箇所は今回全く発見できなかった。

   観光の目玉となる位置では下車して、数分間歩道伝いにトコトコと歩く。頼山陽(江戸時代の学者『日本外史』は不朽の名著)が激賞した、福岡・大分県境を流れる山国川の上流にある『耶馬渓』や、菊池寛が『恩讐の彼方に』のテーマに取り上げた『青の洞門』も、花蓮の景観に比べれば『月とスッポン』との関係だ。
                             
   しかし、僅かに2人のしかも人力だけで村人のために掘り抜いた『青の洞門』と、現代の土木機械を駆使して開通させた『花蓮のトンネル』との、『掘削苦労度の比較』ならば結論は『火を見るよりも明らか』。遥か下に見える清流は、大理石を今尚溶かし続けているのか?乳白色を帯びている。

   夕方、花蓮の空港では雨も降っていないのに、『飛行機が何時出発するか分からない』と言う。台北の松山空港が豪雨のため閉鎖された結果、花蓮で乗るはずの飛行機がまだ松山空港に待機しているのだそうだ。これほどまでに台湾北部の天気に、強い局所性があるとは夢にも思わなかった。その日の夕食は駐在員に招待されていたが、何時に帰れるか予想も付かなかった。

   同行の日本人が私の立場を心配して、『駐在員に電話で事情を知らせるべきだ』とお節介。私は、『まともな駐在員ならば台湾の気象条件も熟知しているはずだし、松山空港が閉鎖されている位の情報はキャッチしているはずだから、電話など無用。電話すれば飛行機が離陸してくれるのなら価値はあるが』と答えた。結果は私の予想した通りだった。

[4]基隆(キールン)港・北海岸天然公園( 650元/人)

   台北から北上。ガイドがさも珍しい物でも紹介するように、『あれが太平洋です』と言う。中央アジアからやっとアジアの海岸に辿り着いた未開人に対しての説明ならばともかく、太平洋に押し流されて来たような小さな島の一角では、海は太平洋しかもともと見えない事くらいは、誰にでも分かっているのだし、もう少し観光案内の『せりふ』に工夫を凝らして貰いたいものだ。

   台湾で第5番目、人口50万人の軍港都市『基隆』に着いた。台北からの直通列車の駅が市の中心にあった。日本の駅前広場にそっくりだ。丘の上には真っ白な『大観音菩薩像』が聳え立っている。清潔感はあるが真っ白にした理由が分からなかった。港には鼠色の軍艦が停泊中だ。保護色なのかどこの国でも昔から戦艦には地味な色が塗られているが、レーダー完備の今日、明るくて美しい色彩にソロソロ変えてくれないものかと思う。    

   北端にある『野柳』はさすがに景勝の地だ。山裾の岩石が太平洋の荒波で浸食され、様々な形の彫刻物のようにしかもアト・ランダムに岩場に立っている。日本語がペラペラの69歳のお爺さんがさりげなく近付いて来た。帝国海軍の生き残り組の親睦会『海友会』の懇親会に毎年20万円掛けて参加しているそうだ。
    
   『旅費捻出のためこうして観光客相手の写真屋をしている。海友会への参加が今では生き甲斐ともなり、仕事にも目標が出来て元気一杯だ』と言いながら観光スポットを案内しては、私のカメラで写真を撮ってくれた。チップを弾まざるを得ない。

   『野柳』は自然に出来た場所なのに入場料を取るためにがっちりとしたゲートがある。駐車場からゲートへ辿り着くためには、屋根付きのお土産物屋が両側にひしめきあっている、長さ 100mもある通路を通らねばならない。何にも買わずに通り過ぎるには心が痛む辛い道だ。

   『のしイカ』を作りながら売っていた。スルメの胴体部分を炭火で加熱後、軸方向にスリットがある2本のローラの正転・逆転を繰り返しながら徐々にスルメを引き伸ばす。駆動はモータを使うものの、ローラの回転量は引き伸ばされたスルメの長さに依存するので、目で見ながら足でスイッチのオン・オフを繰り返している。長さ50cmくらいの商品が1分もかからずに出来上がる。一部始終を余りにも熱心に観察していたせいか、製品の一部を『どうぞ』と千切ってくれた。

   台湾式の『板ノリ』を買った。岩ノリを雑巾のように分厚く板状に固めてあった。日本とは食べ方が異なり、手で千切ってお澄ましに入れると即席のスープになる。潮の香りがぷーんと漂う。しかし、お椀の底にたっぷりと砂が沈殿したのには閉口した。

   駐車場ではガイドが、『50元払うと陽明山経由で戻るが、どうしますか?』と勧誘した。乗客の中の1人でも反対するとどうするのかに関心があったが、全員賛成してしまった。手持ちの『元』は払底していたが、『円でもドルでも構わん』と言う。領収書を出さなかった所から類推すると、臨時収入はドライバーと山分けをしているのではないか?。

   陽明山ドライヴウエーは緑滴る景勝の地にあった。途中には温泉も吹き出していた。4年前の出張時には、ここの露天風呂に入った。管理人は私に『日本人はこちら』と即座に言いながら、吹き曝しの簡単な屋根の付いた大きな風呂へと案内した。風呂に入ると、先客の台湾人のお爺さんが日本語で話しかけて来た。
         
   全裸の私をどのようにして日本人と判定したのか不思議だった。台湾人はタオルで前を隠さないようだ。しかし若い台湾人はトイレみたいな小さなドア付きの個室へと吸い込まれて行った。大きい風呂に入るのは恥ずかしいそうだ。詳細に観察すると台湾人には体毛が殆ど生えていない事が分かった。
          
   ショートパンツだけのベトナム人に出会った時も体毛を見掛けなかった。脛毛や胸毛のないツルツルの肌をしている。日本人を体毛の有無で識別していたのだろうか?。他の話に夢中になって、判別法を聞き忘れてしまったのが残念だ。

   陽明山の山腹の一角に骸骨の様になった枯れ木群があった。『温泉のガスで木が枯れた』と言う。『それでは、木が大きくなった後に温泉が噴出したのか?』と質問すると『分からない』と答えた。ガイドの知識たるやどこでもこんなもんだ。真因を極めるのは諦めた。

   結婚式を済ませたばかりの2人がプロのカメラマンに、枯れ木を背景にして記念写真を撮って貰っていた。台湾人は俳優や女優のような格好をして、屋外で記念写真を撮るのが好きだ。3月に来たときは結婚シーズンだったので、台北の公園のあちこちでお互い競い合うように写真を撮っていた。           

   中年女性のガイドに、『あんなに幸せそうにしている人でも離婚することがあるの?』と聞いたら、『私も離婚!したんです』と答えた。その瞬間、夏目漱石の失敗談を思い出した。漱石が第1高等学校で英語を教えていた時、和服を着た生徒が懐に手を入れて授業を聞いていた。漱石は『失礼ではないか!』と詰問した。片手を失っていた生徒とも知らずに。
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躍進する地方都市(1991年の出張時の追憶である)

[1]高速道路

   台湾の南北を結ぶ縦貫高速道路は九州縦貫道路よりも一足早く完成した。しかも台北の近くは片側3車線もある堂々とした道である。緊急時の臨時飛行場を兼ねた直線コースが途中4ヶ所もあった。いざ中華人民共和国と戦争にでもなれば、高速道路の中央分離帯として使われている脱着可能なポールを引き抜けば、戦闘機の発着が可能になるように作られているが、幸いまだ使ったことはないそうだ。

   でも何となく疑問が湧いてくる。沿線には飛行機の格納庫らしき設備も駐機場もない。発進する戦闘機は一体どこから供給されるのか?。空軍の飛行場から来るのであれば、そもそもここへ着陸する必要もない。攻撃後舞い戻った時に正規の飛行場が使えない場合には、高速道路に着陸しても、その後退避する場所もない。1列縦隊に駐機した場合には、先頭の1機を破壊すれば残りの飛行機は袋の鼠だ。所詮この話は『アイディア倒れか、嘘っぱち』と断定せざるを得ない。

   台湾は山また山の島なのに、ここの高速道路には日本と違って不思議なことにトンネルがない。1つ位あったかも知れないが思い出せない。御殿場近くの東名高速のように山があると坂を登っていく。日本と違い除雪や凍結の心配がないのは羨ましい。           
                      
   台中辺りを通過した時、何本かの大河の中流部を横断した。直径2〜3mもの大きな石が河原にゴロゴロと転がっている。急流の激しさが自然に理解出来る。上流にダムがあるのか、急流のせいで水がすぐに流れてしまうのか、河原には殆ど水がない。これじゃ折角の急流なのに『球磨川下り・天竜下り・日本ライン下り』の類いは生まれようが無い。手持ちの観光案内書にも川下りの紹介が無い。

   大河ではあっても堤防は低く、高速道路の橋から河原までの高さが低い。河原は岩石や砂利で埋まってしまったかのようだ。日本の大型の橋は重量鉄骨で作った箱型断面の籠状の桁を橋脚の上に乗せているため、柱が邪魔になって景色を満喫出来ないが、こちらはそんな邪魔物も見掛けない。まるで小川に架けた橋のようだ。

[2]高雄

   台湾第2、南部の中核都市『高雄』は大工業都市&大軍港都市&大物流基地でもある。市街は台北と同じように碁盤目状に道路が配置されている。都市計画は誰が推進したのか、今までに読んだどのガイドブックにも紹介されていない。こんな素晴らしい実績を残した人こそ『高雄の父』として顕彰されるべきだ。

   市街の西に壽山( 328m)があり、全山が壽山公園として開発されている。ここの展望台からは眼下に高雄市街が見渡せるだけでは無く、入り江となっている天然の良港・高雄港が丸見えだ。日本時代から増強されて来た軍港では、ねずみ色の多数の艦船が視界に飛び込んでくる。艦船は分厚い鉄板から構成されていることもあり、同じ排水量の貨物船にくらべれば半分位の大きさに見える。巨大なタンカーと比較すれば『いと哀れ!』と思えるほどに小さい。

   壽山公園には朝食前に車で登った。公園内のあちこちで市民が持参のラジカセを使って、ストレッチ体操みたいな大極拳に夢中になっていた。新緑に囲まれた爽快な環境の中、マイペースで人生を楽しんでいるように感じた。中高年の男女だけではなく若者も多い。日本のようにNHKのラジオに合わせて一斉に体操をするといった、形式主義者は全く見掛けない。

   別の一角では本格的なカラオケセットを運び込んで、声を張り上げて持ち歌の練習に打ち込んでいた。山上なのでどんなに大声でガ鳴り立てても、眠り込んでいる市民の迷惑にはならない。1日のうちで一番快適な早朝を台湾人は最大限に活用しているようだ。宵っぱりの日本人のライフスタイルよりも遥かに健康的だ。

   高雄の北10Kmの郊外には『蓮花潭』と称する景勝地があった。7fの湖に反映している緑の木々は殊の外鮮やかで美しい。湖畔には龍虎塔と名付けた7重の塔が2本あり、それぞれの塔に登るには巨大な龍か虎の口から入り、胴体の中を歩いた後に、塔の中の階段まで辿り着く趣向になっていた。        
     
   ここに限らず台湾の塔は日本の5重の塔とはデザインが大幅に異なっている。軒はベランダになっているだけで奥行きは大変浅い。日本の塔にはベランダがなく軒は深く優美な曲面を張っている。しかも階差がデザイン面のバランスからか大変高い。

   高雄の東7Kmの位置に飲料水&工業用水用の人造湖『澄清湖』がある。単なるため池ではなく観光資源化のために公園風に趣向を凝らしている。散歩道を作ったり、湖面には直角に何度も折れ曲がった石造りの散歩橋が掛けられていた。タクシーの運転手は、この種の散歩道に出会う度にコースを説明し、自分は終着点近くの駐車場に先回りして待機してくれていた。いつもながらの気配りに溢れていた。

[3]屏東

   高雄から東に向かうと台湾では珍しい大平原が開けてきた。途中大きな河を渡ると程なく『屏東』という小さな都市に辿り着いた。雨季の北部とは一転して雲一つない真っ青な空の下、収穫期の野菜畑が限り無く広がっていた。農村地帯の余剰労働力を当て込んだ矢崎電線のワイヤーハーネス工場があった。20年前に工場建設と同時に植えたという大王椰子は、高さ20mもありそうな見事な並木に育っていた。

   長期計画の下、最初から広大な敷地を確保し、未使用工場用地には全て果物を植えたそうだ。市場へ出荷すると供給過剰となり果物が暴落する恐れがある、といわれるほどの豊作に恵まれ、結局従業員に配布したそうだ。地域に摩擦を起こさず、従業員に喜ばれる海外進出の在り方の一例として深い感銘を受けた。正面玄関の植え込みの傍らには、矢崎の企業理念を簡潔に記した石の記念碑が誇らしげに飾られていた。実績に裏付けされているがゆえに一層の重みを感じた。

[4]台南

   台湾の大都市の雰囲気はどこもそっくりなので、訪問後数年もするとこの町で何を見たのか、忘れてしまった。私たちは一流ホテルに泊まり、同行のドライバーとはホテル到着後は何時ものことながら別行動だった。

   ドライバーは早朝約束の時間に迎えに来てくれた後、いつもその町の有名らしい食堂へと案内してくれた。安くて美味しいとの事で、なるほど地元の台湾人でごった返している。日本では朝食は自宅で取るのが一般的だが、台湾に限らずアジア各国では朝食も外食で取る人が多い。   
                
   中華料理の朝食はお粥や屋台のうどんみたいな物が多く、箸が今一つ進まない。ドライバーの旺盛な食欲を覗き見しているとつい、『本人が行きたいところへ連れ回している』ような気がして来た。

[5]台中

   台中で泊まったホテルのロビーで、日本人の小学生の一団がワイワイガヤガヤと闊歩していた。『野球の親善試合に来た』のだそうだ。売店で何と、『これは日本円でいくらですか?』と日本語で憶する事なく店員に話しかけていた。私が小学生の頃には夢にも思わなかった会話だ。子供たちにはテレビの影響もあっただろうが、立ち居振る舞いに国際性が自然に身に付き始めているのを目撃し、驚きながらも頼もしく思わざるを得なかった。

   このホテルの地下にはサウナがあった。日本で普及している乾式サウナでは無く、密閉した空間に高熱の蒸気を吹き込む方式だった。パイプから水蒸気が吹き込まれると、湯気に変化し部屋中真っ白になり外も見えない。数十秒で室温は上昇し汗が吹き出て来る。乾式に比べ室温は低くとも湿度が 100%になっているので発汗作用は活発だ。5分とは我慢出来ない。                  _

   この形式のサウナはベトナムでも体験した。設備費が安価だし、電気加熱よりもランニングコストも安いが、発汗だけの機能本位一点張りで、サウナを楽しむと言った雰囲気に欠けるのが玉に傷だ。

   部屋から出るとマッサージ用のベッドが並べてあった。20代のハンサムな青年マッサージ師が待機している。基本教育を受けていたのかマッサージのコツを心得ていた。
                                
   『日本人はどうしてステテコをはくのか?』『う〜ん』と返答に窮した揚げ句、『日本の冬は寒く、防寒のために腿引きをはく習慣がある。その習慣があったから収入に比べて背広の価格が高かった頃、ズボン保護の汗取り用に、抵抗感無くステテコをはき始めたのだと思う。最近では替えズボンが安くなったので、ステテコをはかない若い人が増えた』と答えたが真の理由は何だったのだろうか?。

   台湾人には、台中は住みたい場所の有力候補地だそうだ。北は雨が多い上に空気も悪く鬱陶しい。南は暑すぎる。台中は程々なのだそうだ。また現在の交通網でも、台中では台湾中が日帰り圏内になるとの事で、家族がバラバラになっても簡単に集散できる点が、未だ家族間の結び付きの強い台湾人には魅力があるらしい。

[6]新竹・中歴・桃園

   夫々が台湾北部の都市ではあるが、大きくは台北の衛星都市のような気がした。台北からでも無理をすれば通勤できる位置にある。あちこちに自動車部品工場が進出していた。

   『桃園』には国際空港があり、『中歴』には当社の台湾工場『国瑞』がある。北部から『新竹』までは雨が多いそうだ。私が出張した3月も、雨にたたられ通しだったが、新竹よりも南では何時も晴れていた。小さな島なのに気候が急変する場面をたっぷりと体験した。
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おわりに

   日本の旧植民地であった台湾と韓国とは共に、両国民の努力だけでは無く、戦前に日本が築いたインフラや教育遺産なども威力を発揮して、都市国家である香港・シンガポールと並んで世界を驚愕させるほどの、一大経済発展の道を駆け登ったが、その発展の過程には大差が認められる。                
   
   台湾では企業家精神旺盛な華僑の小さな会社が町中に溢れ、軽工業からスタートした。韓国では、日本の明治時代のように国家の強力な支援のもとに大財閥が生まれ、重工業中心の大企業が牽引車となった。

   韓国では反日本教育を徹底して、国民に嫌日本観を植え付けたが、台湾では蒋介石の日本に対する寛大な政治姿勢の下に強い親日感が醸成された。この対照的な2つの国への私の関心には、他の国々とは異質の視点が含まれていた。いつの日にか韓国を訪れた後に、両国の歴史的な比較対照にも厳密に取り組む積もりである。

   『発展途上国のエース、美しい台湾をいよいよ訪問できるんだ』との、4年前に感じたワクワクとした期待は、台北の国際空港に降り立った瞬間、無残にも吹き飛ばされてしまった。出迎えの駐在員とは擦れ違い、空港の薄暗いタクシー乗り場で、日本語を話す白タクの客引きにワッと取り囲まれた。こんなタクシーに乗ったら、どこかに連れ込まれて身ぐるみ全部剥がされるのではないか、との不気味さすら感じ取ったものだ。

   大交差点では弱肉強食の世界が延々と演じられていた。乗用車の天敵はあろう事か、何と公共交通機関のバスだった。衝突しても耐力で勝てるバスはダンプカーのように、信号を無視してでも強引に割り込んでくる。マゴマゴしていると、交差点の度真ん中で立ち往生しかねない。カラーチの雑踏も顔負けの意地の張り合いだ。      

   1000億$を越えるほどの外貨を抱え込んでいながら、『地下鉄の1本すら建設しようとしない、台湾政府の気が知れない』と、イライラし始めたのを昨日の事のように思い出す。最初の印象はどこの国の場合でも鮮明に残る。

   その当時でも、仕事で出会った訪問先のインテリの人達は紳士達ばかりだった。ところが、僅かに数年後の今回の台湾旅行での印象は、以前とはまるで別世界に来たかのように変化した。町は美しく変わり、交通ルールは程ほどに良く守られ、自動車の警笛合戦も消滅していた。一面識もない人に道を聞いても大変に親切だった。

   まるで国民全員が紳士に変わったかのようだ。一体、何が原因だったのだろうか?『衣食足りて礼節を知る』を超えた真因があるはずだ、との確信は持つものの、もともと洞察力が不足しているこの働きの鈍い頭からは、答えが生まれ出そうにも無いのが残念だ。

   外国を心底理解するためには何回かの訪問が本質的に必要なのではないか?との疑問も起きて来た。台湾は日帰りすら今や簡単な隣国だし、次回は夫婦2人で、フリープランの自由な旅を楽しみながら、台湾の変化の真の原因を掴みたいと思う。
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