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旅行記
           
諸大陸
地球は確かに丸かった(平成11年2月11日脱稿)

      西暦1519年8月乗組員 265名(5隻)と共にセビリア港を出発したマゼランはフィリピンのセブ島にて、志半ばで先住民に殺害されたが、1522年9月パロス港に仲間18名(1隻)が帰り着いた。人類初の快挙だ。当時の世界一周は今日の宇宙飛行に匹敵する国家的な事業だ。

      それから僅か五百年で、名もなき私ですら『世界一周』がかくも簡単にできるとは、天国のマゼランですら夢にも思うまい。今から5百年後の人類は、誰でも気軽に宇宙旅行が楽しめるのだろうか?
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はじめに

[1]“棚ぼた”が突然落ちてきた

   平成10年4月11〜25日に出かけた『トルコ・パキスタン・ベトナム』が最後の海外出張のつもりだった。59ページからなる追憶記『懐かしのあの国、この国』も6月末までに書き上げ、脱稿を心待ちにしてくれていた愛読者達に配るべくコピーを取り、大型ホッチキスで綴じ終わった時、たまたま側を通り掛かった担当常務から声を掛けられた。

   『石松さん、定年はいつでしたかね?』
   『8月末です。とうとう2ヶ月後に迫りました』
   『どこか、行きたい所はありませんか?』出向・転籍先かと勘違いして
   『この不況下、受け入れてくれる会社なんか、ありませんよ!』
   『いや、出張だけど』
   『国内ですか?』                          
   『いや、海外』やっと質問の意図をキャッチ。              
   『行かせて貰えるのならば、関係者とテーマも相談して、後日提案致します。前回の旅行記ができました。拾い読みでもして頂ければ…』と言いながら、綴じたばかりのコピーを手渡した。

   最終出社日である8月31日までにやるべき仕事は最早なく、残っていた有給休暇を7〜8月の間に全部消化、つまり現役最後の夏には学生時代同様、思いっ切りのんびりと羽を伸ばすつもりだったが、棚ぼた出張の準備・出張・報告などで予定がすっかり狂ってしまった。しかし、この類いの変更ならば何時もと異なり、両手(もろて)を挙げての大歓迎だ。

[2]地球一周5万Km
 
頭の中で、地球儀をクルクルと回した。我が検索条件は 
           
@ 私費で出掛けるには費用が掛り過ぎる、即ち日本からは遠い国        
A 初体験国                                
B 当社の海外工場がある国                         
C コースの途中に世界的な観光名所もある国
                   
であった。答えは即座に閃いた。南アフリカ・ブラジル・アルゼンチンだ。

   『行きたい所があれば、どこの国に行っても構わない』との御墨付きを貰ってはいても、多くの国内外の関係者が『な〜るほど』と納得できるような出張目的を、書類上に書き上げるのは我が自己責任だ。しかし、無い知恵をこの種の課題に絞るには、無責任な追憶記をすらすらと書くがごとく、なが〜いサラリーマン生活の間に、いやいやながらでも身に付けさせられていた能力の一端で十分間に合った。

[3]出張目的の設定

@第1目的

   私がたまたま海外工場の建設計画立案に主参画したトルコ・パキスタン・ベトナムの各新規プロジェクトと、全く関与しなかったアルゼンチン・ブラジルのそれとには、結果としてどんな違いが現れたか?その原因は何に起因するものか?当事者の能力差だったのか?真因を見極めたい。

A第2目的

   南アフリカ共和国とブラジルでは、トヨタ自動車最古の海外組み立て工場が延々30年以上も操業し続けてはいるが、その間に得た事業経営のノウハウはどの様な形で蓄積され、次の世代に引き継がれているのか?

   ブラジルの新工場では、旧工場の経験がどの様に活用されているのだろうか?さしたる技術移転もなされなかったとすれば、その真因は何なのだろうか?

B第3目的(真の目的)

   アフリカと南アメリカを結べば、かの“マゼラン”の見果てぬ夢である世界一周すら、何と実現できるではないか!そうだ!週末には、アフリカ最南端、大航海時代の幕開けともなり、その後の世界史を塗り替えた象徴でもある、バーソロミュー・ディアス(読者諸賢よ。インド航路の発見者であるヴァスコ・ダ・ガマの間違いではありませぬぞ)が到達(発見)した“希望峰”も見に行こう。

   そしてその次の週末には、ブラジル・アルゼンチン・パラグアイの国境にある世界最大の滝“イグアス”も見に行こう。その前後の月〜金に工場見学の日程を割り付けさえすれば、出張計画は完成だ!しかし、この第3目的は密やかなる計画として隠しておかねばならないのは自明だ。

[4]出張準備

   欲張って入念な計画を立てていると、不景気のどん底にある今“好事魔多し”とばかりに、予期せぬ方向から出張取り消しの声が飛んで来るやも知れない。“善は急げ!”と、飛行機の予約とブラジルのみに必要だったビザとが取れ次第出発する安直な計画にした。本当は何冊かの夫々の訪問国に関する、異なった視点から書かれた本も事前にじっくりと読みたかったが、その猶予は残念ながらなかった。

   過去の体験から、時差の影響を最小にするために西回りを選んだ。正午に日本を出発し欧州に夕方着いた場合の日本時間は翌日の早朝になり、徹夜同然になる。その後、アフリカ縦断中にもビールをおなか一杯に飲み続けさえすれば熟睡できる。その結果、睡眠障害の主因となる時差は簡単に解消してしまう。電話帳のように分厚い国際航空時刻表2冊と丸一日も格闘して、出張計画を纏めた。


   文字通り地球一周5万Kmに達する我が最後の海外出張を要約すれば、『名古屋空港からユーラシア大陸を横断しロンドンへ。ロンドンで乗り換えて、アフリカ大陸を縦断しケープタウンへ。ケープタウンから大西洋を横断しサンパウロへ。サンパウロから南アメリカ大陸を斜めに縦断しロサンゼルスへ。ロサンゼルスで給油後太平洋を横断し名古屋空港へ』となる。

[5]いざや、出発

   眼下に広がる中央アジアの大地は本年4月、トルコのイスタンブールを一路目指した季節とは異なり、夏(7月)ともなれば、さすがに緑で大部分が覆われてはいたが、残念ながら雲が多くて、景色は殆ど楽しめなかった。

   とうとう機内での退屈さには我慢ができず、一計を案じた。まだ生まれてこの方一度も覗いたことのない、ジャンボの操縦室(コックピット)への闖(ちん)入プランだ。どうすれば実現できるか?ハイジャッカーと勘違いされれば元も子もないどころか、大騒ぎは必定。                       

   女性はどこの国でも職務のルールに忠実で、融通がきかない傾向が見られる。熟慮の結果、数少ない男子客室乗務員(スチュワード)の中から、表情に知性が感じられる中年男を掴まえて交渉することにした。

   『私は、ほんの数分間で十分だから操縦室を見学したい。ハイジャッカーと誤解されたくはないので、身体検査は念入りに気の済むまでやってくれれば良い。今でこそ、この社員証で示すようにトヨタ自動車で働いているが、40年前には大学で航空工学を専攻したので、最新の操縦室を覗きたいとの欲求は人一倍あるのだ』

   度々の体験だが、イギリス人は臨機応変に事に対処する能力が他国民、取り分け日本人よりも相対的に高いと感心していた。英国航空の乗務員は即座に『付いていらっしゃい』と言うなり、身体検査も省略して案内してくれた。ジャンボの操縦室は2階の突き当たりだ。

   室内は予期に反し大変狭く、質素だった。精々4畳半の広さだ。パイロットは正副合わせて2人だけ。自動操縦技術の進歩でパイロットの仕事は今や激減している。安全な離着陸が主業務で、気象が安定している成層圏での飛行中は仕事らしい仕事もないようだ。同じ自動運転でも地上を走る新幹線の運転士の方が、前方への注意力は遥かに要求されている。なにしろ成層圏には、優雅に浮遊しているような人間は一人もいないが、線路には自殺志願者がまま侵入し、列車を待ち伏せしている場合もあるからだ。パイロットも退屈していたのか予期に反し、突然の珍客を大歓迎してくれた。

   主要な計器盤は左右対称に配置され、正副パイロットが夫々至近の位置でそれらを監視できるようになっていた。天井は無数のスイッチや計器類で埋め尽くされていた。分厚い風防ガラスを通してでも、空気が澄んでいるから前方遥か彼方まで良く見えた。一方、下界に視線を落としても、通り過ぎる雲が時たま視野に入るだけで、秒速 250m(対地速度 900Km/時)もの飛行速度は実感できなかった。

   無数のサラリーマンの中でもパイロットは、どの国でもかつては大変恵まれた待遇を満喫していたが、運賃の自由化が進むに連れて、昔の栄光は徐々に剥げ落ち始めたようだ。傍らにはサンドイッチ(英国のサンドイッチ伯爵が発明した軽食)と紙パック入りの飲み物が、昼御飯として無造作に用意してあった。余っていた機内食(もちろん、エコノミークラス)を弁当として食べていたスチュワーデスを、カーテンの隙間からかつて覗き見した記憶があるが、その方がまだましな食べ物だった。

   その時パイロットならば、ファースト・クラスのフル・コース(原価5千円以上・レストランならば定価1万円以上と推定)を、きっと食べているのではないかと、ついでに卑しくも連想していたのだ。室内にはロッカーもなく、剥き出しの通勤着が無造作に吊してあった。ブランドものの高級服とは無縁の普段着だ。 

   シートは前列2、後列2の計4席あった。3席目は3人搭乗する時に使い、4席目はもう使わなくなったそうだ。当機の3人目の乗務員は既に削減されたのだろうか?傍らのカーテンの内側には交替で休憩できる、幅は狭いが水平に固定された機能本位の質素なベッドがあった。超長距離飛行時で3人搭乗時に交替で使うのだろうと推定。これら4席のシートも乗客用のシートに比べれば、驚くほどに質素。普通の事務所の椅子とさしたる違いもない。花のパイロットも今や単なる高級肉体労働者に格下げされているようだ。

『定常飛行時の主な仕事は、何ですか?』
『地図上に引かれた飛行経路上の予定時刻で、目視と計器情報から現在位置を確認し、予め決められている場所まで来る度に、状況を管制官へ報告するだけだ。前方を御覧なさい。右側はスェーデン、左側がデンマークだよ』 
『到着予定時刻はどうやって計算するのですか?私の体験では、あんまり精度は高くないようですが』
『飛行経路上の偏西風の風速予想値が無線で送られてくる。計算機には自動的にインプットされ、内臓プログラムで周期的(我が推定では2分間隔?)に計算している。計算結果は客室内のスクリーンにも、飛行高度・外気温度・飛行速度・離陸地点からの飛行距離などと一緒に投影されている』

   まだいろいろ質問したかったが、ロンドン空港も近付いたし、厚意に感謝して引き上げた。パイロット達からは思いも掛けない握手攻めにあった。

   しかし、今でもまだ疑問に思っているのは、時速 200〜300Kmにも達する偏西風の速度の計測方法だ。飛行機の対気速度は今でもピトー管で受ける風圧(動圧)と大気圧(静圧)を使い、ベルヌーイの定理から計算されている。偏西風の速度は求められた対気速度と対地速度(絶対飛行速度)との差として計算されるが、それはその時の飛行地点の風速であり、前方の飛行経路全体の平均速度を意味してはいない。所詮、台風の移動速度のように誰かが適当に推定しているのだろうか?  

   偏西風の中を飛行中の全航空機から、飛行高度・対気速度ベクトル・対地速度ベクトルをリアルタイムに、全世界を管轄する飛行センター(現在は存在しない)に報告させ、超高速電算機で偏西風の速度ベクトル分布図を作成し、飛行中の全飛行機に情報として流せば、到着予定時刻の精度も高められる筈だが、費用がかかる割りには、さしたる価値もないので、どこの国も世界各国に向かって提案する気にはならないのだろう。

   結局『到着予定時刻の高精度予測は、現在の技術では無理だ』と勝手に断定したのであった。
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南アフリカ

[1]乗り継ぎ

@ロンドン空港

   ロンドン空港では英国航空から南ア航空に乗り換えるため、空港内の無料バスでターミナル間を移動。最近になって続々開業している巨大国際空港に比べれば、後追い投資で拡張してきたロンドン空港は、タコ足もどきのレイアウトで不便この上ない。

   発展途上国の航空会社の航空機運営管理能力(定時安全飛行と乗客の荷物管理)は当てにならず、何時も薄氷を踏む思いを味わわされていた。しかし、本年4月1日に我が末っ子も姉妹に続き、トヨタ自動車に就職。保護者としての義務もつつがなく完了。その結果、万一飛行機事故で死亡しても、その後の遺族の生活苦は心配しなくなった。                           

   爾来、海外旅行保険には一切加入しないことにした。個人負担になる傷害旅行保険はどんな原価計算の結果なのか、異常に高いと前々から不満も持っていたからだ。とは言っても、無保険飛行は、国内線(名古屋〜福岡)を加えても、今回でまだたったの6回目だ。

   ロンドンでの乗り換え時間は2時間半の筈だったが、何にもたついたのか南ア航空の出発は1時間も遅れるとの掲示。仕方がない。暇潰しにハロッズ(故ダイアナ妃の愛人の父親…エジプト人…が所有する、欧州一有名な百貨店)の空港内売店で、たまたま見付けたウインブルトンのマークが入ったテニスウェアとテニス帽のデザインが気に入り、とっかえひっかえ試着を繰り返していたらピッタリサイズを発見。記念にもなったし、大満足。

   空港内の巨大な免税店街を覗いていたら、店頭の表示看板に“TAXFREE”と“DUTY FREE”との2種類があった。どの国の空港でも今まで気付かなかった区別だ。日本語に訳せばどちらも同じ“免税店”になってしまうが、さすがは英語の本家本元、厳密に使い分けているようだ。その違いは何かと無性に知りたくなり早速、勉強とばかりに店員に質問開始。しかし、イギリス人の筈なのに答えられない。店を変えて数回も質問したが、やっぱり分からない。

   ある店で店員が物知りらしい年寄りに聞きに行った。やっと正解らしい回答を得た。『DUTYとは酒・タバコ・香水に掛かる極端に税率が高い税金。TAXとはその他の商品に一律に掛かる付加価値税(日本の消費税に当たる)だったのだ。その意味を知って看板と取扱商品とを見比べたら例外はなかった。

A旅は道連れ

   20:30にやっと離陸。機内の客は一見してそれと分かるアフリカ系が圧倒的に多い。アジアや欧米生まれらしき人は極端に少ない。当たり前の事だが、日本から見れば最果ての地へと旅立っているとの実感が高まる。初めてのアフリカ大陸の縦断だったが夜間飛行なので、下界に広がる暗黒の景色を見るのは諦めて、隣席のアフリカ系の乗客とのお喋りを暫くは楽しむことにした。           

   簡単な自己紹介と旅程を話した後『ヨハネスブルクとダーバンとは共に大変危険な都市と聞いた。その結果、過去10年間愛用していたロレックスの腕時計は、日本に置いてきた。人種差別も今や撤廃され、全国民が仲良く暮らすようになった南アが危険に満ちた国だとは信じ難いが、本当か?』      

   『私は南アの国籍を持ち、ロンドンで働き、時々こうして帰国している。あなたの聞いている通りだ。最近は特に危険になった。昔は白人の支配地域は安全だったが、今はどこもが危なくなった。黒人比率の高い地域はなおさら危険だ。中でも中核都市であるヨハネスブルクとダーバンは危険だ。しかし、ケープタウンの一般観光コースは概ね安全だ』と説明してくれた。一見(いちげん)の外国人に自国の恥部を正直に話してくれた善意に感謝した。それも、加害者と見なされ勝ちな黒人が、である!

[2]ヨハネスブルク空港
  
 当社の南ア工場はインド洋に面したダーバンにある。ロンドンからは南アフリカ共和国の内陸部にある、人口最大の都市ヨハネスブルク経由便だ。従って、名古屋空港で預けた荷物は、目的地ダーバンで受け取るのが便利なのだが…。 

   しかし、心配性の元駐在員からは『南ア航空の積載荷物の管理能力はイマイチだから、ヨハネスブルクで荷物を受け取り、通関手続きを済ませ、ダーバン行きの国内線カウンターまで自分で持ち込んだ方が確実だ。荷物をヨハネスブルクに置き忘れられたら、ダーバンで文句は言えても、結局は後の祭りですよ。とは言え、そのヨハネスブルクでは空港の中ですらも、目をチョット離したすきに荷物を取られる場合もあるから、油断は禁物』と、クドクド念押しをされていた。

   当初の飛行計画ではヨハネスブルクでの乗り換え時間は1時間40分もあった。ガイドブックでは2時間以上の待ち時間を推奨していたが『大同小異だ』と気にも留めていなかった。しかし、ロンドンで1時間出発が遅れたので、残り時間は40分しかない。アフリカ大陸の縦断には偏西風は影響しないので、ほぼ予定の飛行時間で到着した。

   黒人の入国審査官には日本人が珍しかったのか『どこの国から来た?南アのどこへ行く?その次はどこの国に出かける?』等と、審査業務とは無関係などうでも良い質問を連発した。英国系の国々での入国審査では、入国者の英語力を確認するためにも、簡単な質問を投げ掛けるらしい。残り少ない乗り継ぎ時間ばかりが脳裏を占め、イライラしていた私は『ドバイ』とうっかり誤答。黒人審査官は我が錯覚には即座に気付き『ダーバンの筈だ』と復唱してくれた。

   『勘違いだった』と答える代わりに、切符を見せて『ダーバンに行く国内線のカウンターへの道順は?』と逆に質問。職員は親切に教えてくれた。ターン・テーブルへと急ぐ。しかし、荷物がなかなか出て来ない。ファーストイン・ラーストアウト処理の典型だ。身の安全を確保するために、愛用の赤いチロリアン・ハットをカバンから徐(おもむろ)に取り出して被る。目立つ格好をすれば周囲の人々の視線を浴び、悪人も近付き難いと判断しているからだ。荷物がやっと出てきた時には、20分が既に経過していた。

   ダーバン行きの国内線は運行便が少ないから、乗り遅れては大変だ。最初に発見した南ア航空へと飛び込み、カウンターの中年白人女性に航空券を見せながら、
                               
   『時間がない。カウンターの場所が分からない。飛行機を待たせて!』     
   『心配しないで』と言うや、                        
   『赤い帽子を被った日本人が来るまで、バスを待たせて』と電話。       
   『案内してあげて』と、傍らにいた黒人の青年職員にテキパキと指示。 
  
ヨハネスブルクの空港ビルは幸いにして小さかった。従って移動距離も短い。青年は私の30Kgの荷物を持ち、カウンターへと急ぎ足で案内。搭乗手続きを済ませた後、更にバス乗り場まで案内してくれた。搭乗予定の旅客機の駐機場まで、バスで移動するようになっていたのだ。この間、僅かに10分。間に合った!バスにはまだ誰も乗っていなかった。                   

   感謝の気持ちを込めてチップとして1米ドルを渡したら『もう1ドル』と請求された。本当は5ドルくらい渡すべきだったのかも知れない。その間、空港内の安全問題について観察する余裕は全くなかった。私達が血相を変えて走りながら移動したので『何ごとならん』と、通路にいた大勢の人達はサッと道を開けてくれたのだ。事前に聞かされていた南アの危険性については、何一つ出会うこともなく、否それ所か逆に、出会う人、出会う人から受けた親切さに心を打たれたのであった。

[3]ダーバン                              

@機上からの景色

   ダーバンへは僅か1時間の飛行だった。雨量が少ないのか、眼下の山々には木々が少ない。平らな土地もなく、人家も見えない荒涼とした景色が続く。北部のサハラ砂漠だけではなく、アフリカは南部も降雨量が少なかったのだ。ダーバンの郊外の山々には粗い蜘蛛の巣のように、未舗装の山道が尾根沿いに走り、相互に孤立した小さな家が山肌に張り付いている。電気も水道も来ている気配がない。しかし、後で見たスラムよりも遥かに立派な家だ。アフリカ系住民の家だそうだ。

   やがてインド洋が見えてきた。海岸線が一直線に走り、サーフィン向きの大きな波が押し寄せている。碁盤の目のように道路が走り、海岸にはホテルやリゾート・マンションらしき建物が並ぶ。ミニ・ワイキキを連想。          

   イギリス人はロンドンやバーミンガム(人口は英国で2位)等の本国の大都市の道路は迷路だらけ(ロンドンのタクシー運転の免許取得には、地理の勉強に2年間も掛かるらしい)にしたままなのに、元植民地では全権が振るえたのか、どこの国でも素晴らしい長期都市計画を推進。南ア切っての海浜リゾート都市と言われている貫禄に偽りはない。しかし、大型の建物は市の中心部(1平方マイル?)にあるだけ。そのビル街を取り囲むような山の手に、緑に覆われた豪邸が溢れている。プールのある家が多い。かつての白人天国の遺産だ。
                                   
Aモスレムのインド系ドライバー

   ダーバンの空港には『先祖がインドから来た』と言う63歳のモスレムの黒人が迎えに来てくれていた。歴代日本人駐在員専属のドライバーだ。初対面の出迎え者はどこの国でも、大きな名前を書いた紙を胸元に広げて待っていることが多いが、このお爺さんは『日本人の見分け方には、自信がある』とかで名札も用意せず、パッと私を発見。                              

『定年は65歳、子供は皆結婚した』に始まり、陽気によく喋る方だったので、直ぐに打ち解けた。彼も『ダーバンの治安は悪いし、さしたる観光資源もないから、長居は無用』と、早めにケープタウンに向かうように勧めた。

   空港を出発するや否や、メイン・ストリートに隣接したスラムの大集落を発見。10年前に見たタイやインドネシアのスラムよりも一段と悲惨だ。一軒が4畳半もなさそうな大きさ。隙間だらけの壁に、穴ぼこだらけのトタンを水平に載せただけの屋根。飛行機から見た山々に建っていた小屋群が中流家屋に感じられて来た。南アトヨタには予定通りの午前11時直前、僅か10分間で到着。

[4]南ア・トヨタ

@疲れ果てていた日本人

   ダーバン市内の幹線道路沿線には一度も見掛けなかった、珍しいほどの大工場だった。駐在員や日本からの短期応援者達は、乗用車のモデルチェンジの準備に連日のように追い回されているのか、一見して疲労の色がありあり。私と挨拶をする元気もないほどだ。

   日本人は忙しいので、南ア人マネージャーが昼食前に工場を案内してくれた。彼も人懐っこく、家族の現状などについていろいろ話してくれた。重婚が許されている何人もの先住民の王様(酋長?)が、南アにはまだいるそうだ。初めて出会っただけに過ぎない私にすら、プライバシーについて色々喋る人が、どこの国にも多いなあ〜と、またもや体験。
                         
   翻って日本人は何を警戒しているのか、長い間付き合ってはいても、私的なことを全く話さない人が多い。それどころか『子供が何処の大学へ行っているかとか、何処の会社に就職したかとかは、一切聞かないでくれ』と口にする人すらもいる。国民性の対照的な違いには、しばし戸惑うほどだ。
                    
A工場の印象

   30年の間に少しずつ工場を拡張してきたためか、小さな建物が多く、全体の配置が分かり難い。オーストラリアやタイ、後で見たブラジルの各旧工場と同じように、低い成長率に制約されながら細々と発展せざるを得なかった、やむを得ない結果か?  

   超高度成長時代の日本のように、過大と思える程の大工場を建てても、直ぐにフル稼働に至った国は、世界的にみれば例外なのだ。レンガ壁の建物は古くなっても貧相さが現れず、快晴の天気に映えて美しかった。

   バブル時代以降、更地に新設された当社の海外工場は地価が高い日本とは異なり、敷地にもゆとりのある伸び伸びとした大型工場が多く、生産しやすい贅沢なレイアウトも容易に確保でき、稼働後直ぐに労働生産性も上昇していたが、この歴史ある工場では逆に、関係者の苦労は何時までも続きそうだ。
           
   さりとて日本からの資金援助抜きには、新工場を建設し移転するのも無理。シコシコと改善活動をやり続ける以外に、対策はなさそうだ。当社の真の実力と海外支援の姿勢が無言の内に問われているような気もしてきた。

   赴任当初は恐らくは張り切っていたであろう歴代駐在員も、やがては疲れ果て、今回初対面だった(尤も、彼は20年以上も前から、私を知っていたそうだ)首席駐在員のように『南ア人が、日本人並に働かなくて困っている』との、愚痴を零す結果ともなる。                             

   私が『給料を日本人並に出さないで、日本人並に働けと要求するのには、そもそも無理がある』と言ったら、別の人が『給料日の後には休む奴が多い。給料を引き上げると、一層休むようになる恐れがある』と言う。

   工場の食堂は建物も食べ物も立派だった。人口密度が少ない南アは食料資源には恵まれているようだ。従業員の表情が明るい。現在の処遇に満足しているのだ。彼等の満足度を維持しながら、こちらの期待通りに働かせる労務管理技術は今なお、暗中模索のようだ。誰にも知恵が浮かばない難問のように感じられる。

   昼休みになると日本人は気の毒なくらい、グッタリとしていた。雑談をするのも憚られるほどだった。成り行き次第では、14:30の出発便を2時間後の便に変更する積もりだったが、首席駐在員が『丸1日、飛行機に乗り続け、お疲れでしょうから、早めにケープタウンに移動し、ゆっくりと休まれたら』と勧めた発言を潮時に、短期出張の応援者が気を利かせ『少し早めだけど、出かけましょうか?』と、空港まで送り届けてくれた。  

   午後の勤務時間帯に既に入っていたので『送迎を担当していたモスレムのお爺さんはどうしたの?』と質問したら『お祈りの真っ最中です』と予期せぬ返事。労務管理の難しさの一端を図らずも知る。

[5]ケープタウン

   ダーバンからケープタウンまでは1700Km(名古屋⇒台北にも匹敵)もあるので、駐在員が案内できないどころか、当然の事ながら出張者も私費扱いになるため、出かける人は少ないらしい。南アからブラジルへの飛行機は毎日曜日に1便、ヨハネスブルク発ケープタウン経由サンパウロ行きがあるだけだ。『私の場合は途中下車扱いになるので、飛行機代の個人負担は発生しない』。と言うよりも、そのようになる出張計画を、時刻表と格闘して密かに組み立てていたのだ。

   元駐在員が『ケープタウン空港からホテルまではタクシーすらも危ない。どこかに連れ込まれ、身ぐるみ剥がれて追い出されたら一巻の終りになるだけではなく、救援活動を初めとした後始末で、会社中大騒ぎになりますよ。空港への送迎とケープタウンの周辺観光とをセットにした観光タクシーを、事前に予約するように』と強調。我が本心は私的なことで駐在員を煩わしたくはなく『心配無用』と主張するものの、余りにも真剣に強要するので、やむなく駐在員事務所を煩わして、出国前に予約した。約3万円はもちろん自己負担だ。

   ダーバンを飛び立って程なく眼下を見下ろしたら、緑に覆われた真円の農地が点在していた。所によっては円グラフのように、円の半分くらいが緑色で残りは茶色だった。円の中心を軸として回転するスプリンクラー(センター・ピボット方式)の竿が作り上げる幾何学模様だ。飛行機の上からはその大きさが分からない。飛行速度を毎秒 200mと仮定し(注…国内線は低空飛行だから国際線よりも速度は遅い)窓枠に目を固定し、枠が円を横切る時間から推定すると、直径は優に4〜5百mもありそうだ。     

   どの円も殆ど同じ大きさだ。ダムが所々にあるが、導水路が農地上には発見できなかったので、この巨大なスプリンクラーは井戸水を使っていると推定した。1枚の畑に1本の井戸が必要だ。円の外は全くの荒れ地だ。サウジアラビアのガイドブックで、海水から造った貴重な淡水を撒いて栽培する麦畑の写真を見たが、全く同じ方式だ。乾燥地帯の悲鳴が、声なき声のように聞こえてくるような気がした。

   ケープタウンまでの飛行中、眼下に都市らしき家並は殆どなかった。延々と山また山が続く。時々、水がある谷間でひっそりと生き伸びている小さな集落が目に入る。先住民の家のように思える。西欧人が移り住んでいるとは、全く感じられない。やがて、グランド・キャニオンのような断崖絶壁が延々と続く山脈が現れた。高さ数百m、長さ 100Kmは優にありそうだ。『アクセス道路さえ完備すれば、一大観光地になるのに惜しいなあ〜』と思いながら、眺め続けた。

   ケープタウン空港には観光タクシー会社のドライバーが待っていた。29歳・185cm、デンマーク人とドイツ人を祖先に持ち、流暢な英語を喋るハンサムな若者だ。『専門学校を出て、観光案内の免許を取得。妻は夜勤もある看護婦。子供を育てられるかの経済的な自信がなく、従って未だに2人暮らし。会社の仲間は約30人。毎日必ずしも仕事があるわけではないのが悩み。
                   
   例えば今回の場合、金曜日の午後あなたを空港に迎えに行き、明日の土曜日には午前8時から午後6時まで観光案内をし、日曜日の午前にあなたを空港へ送るのが、3日間の全仕事だ。トヨタ自動車の出張者の観光案内も何度か引き受けた。南アへの出張者には是非、ケープタウンに行くように勧めて欲しい』と、先ずは生活不安が滲み出た自己紹介から始まった。

   彼の説明によれば南アの観光地は、ケープタウンと北部のクルーガー国立公園(四国ほどの広さもある、野生動物の自然保護区)だそうだ。北の隣国ジンバブエとザンビアの国境にある世界3大爆布の1つ,ビクトリアの滝も近い。この話を聞くまで、ビクトリアの滝はアフリカ中部の国、ケニアにあるビクトリア湖の出口にあるとばかりに誤解していた。

   南アの首都はヨハネスブルクの北50Kmにあるプレトリアだが、ガイドブックには『ケープタウンは立法議会が開催される立法上の首都』と記載されている。首都の構成要素とは何かと定義してくれなければ紛らわしい。三権の関係者が勤務する場所が同一都市にあるとは限らないからだ。

   空港から都心までの道は渋滞もなく立派だった。しかし、ここといえども通勤時には若干の渋滞はあるらしく、郊外へ向かう対向車線は帰宅の車で込み始めていた。観光都市ケープタウンには発電所以外に煙を吐くような大規模施設はなく、空気は限りなく澄み渡っている。我が瞼に残る敗戦直後の日本のようだ。    

   欧州の古都とは異なり、碁盤目状の道路網を配置した都市計画は素晴らしく、山裾の狭い場所なのに快適な都市空間が実現している。中心部にはホテルやオフィスなどの高層ビルが10棟くらいあるが、日本のビルのような高級感は感じられない。しかし、これ位の品質が世界の標準だ。

   やがて、再開発地域(ウオーター・フロント)の中心部にあるホテルに到着。ガイドは『ホテルの夕食よりも、あそこの海鮮レストランの方が美味しい』と指差しながら勧める一方『安全なのはあそこから、あそこまで』と説明。安全地帯では警官が観光客のために警備しているが、それ以外の場所は危険。夜間は無法地帯になるそうだ。

@ビクトリア・アルフレッド・ホテル

   ウオーター・フロント地区の中核ホテルだった。ホテル内には15軒もの店があり、食堂は海岸に面し、景色は抜群。停泊中のヨットや周辺の建物の電飾の夜景も美しい。朝夕2食込みの部屋代だったので、ガイドのアドバイスは無視して先ずはレストランへと直行。夕食は幾つかのメニューから選ぶようになっていた。  

   メインにはダチョウのステーキを選んだ。2〜3年前、英国で奇怪な狂牛病が発生し、牛肉の代わりにダチョウの肉が突然脚光を浴びた事件を思い出しながら注文。日本でも最近ダイエット食として話題になってはいるが、食べるチャンスに出会えず、この機会にと飛び付いたのだ。しかし、がっかりした。       

   ダチョウは鳥類なのに、鳥肉の感触がない。同じ哺乳類でも牛と鯨の肉に差があるようなものだ。言われている通り脂肪は少ないが、牛のヒレ肉ほどの柔らかさも、和牛の霜降りほどの旨味もなく、単なる蛋白質の塊に過ぎないことが分かると、更に食べたいとは思わなくなった。工夫を凝らしたソースを、フランス人に負けないように開発しないと、日本ではリピーターの確保は至難ではないかと評価。

Aウォーター・フロント

   港は世界への貿易物資と一緒に、情報も出入りする国家の玄関口とは言うものの、どこの国でも効率第一主義に長い間支配されていた結果だからなのか、汚い倉庫が建ち並んだだけの、かつては生産工場と同じように殺風景な場所だった。従って長い間、観光対象にも、都心の商業地域のように気分転換と暇潰しに、目的もなく散策する場所にもならなかった。石油危機半年前の1973年4月に訪れたニューヨーク港も、例外ではなかった。

   石油危機が去った後、港の再開発ブームが何故か突然発生し、ニューヨークやロンドンだけではなく、東京・横浜・名古屋・神戸・門司・博多などの日本各港も“ウォーター・フロント”の美化運動に一斉に着手。しかし、大抵は後背地に百万単位の人口を擁する大都市だけだった。

   世界的な視点から見れば人口の少ないケープタウン(30万人?)で、どんな採算のもとに、かくも巨大な再開発計画を10年前に企画できたのか、私には不思議だった。日本のしかも大都市のウオーターフロントは、オープン当初こそ話題を集めてはいたが、殆どはじり貧に帰した事実を知るからだ。          

   しかし、こちらはよほど素晴らしい計画だったのだろう。都心を単なるビル街に凋落させ、ワンサと市民が押し掛けるばかりか、夜遅くまで賑わう市内随一の繁華街に変身させ、今や私のような観光客すら引き寄せる新開地にしてしまったのだ。何故このような変革が可能だったのか?視野に飛び込む賑やかな世界をゆっくりと楽しむよりも、人々が群がるようになった背景の要因分析で、我が頭は急に忙しくなった。

   倉庫は圧迫感を感じさせない天井の高い2階建てに大改装し、地下には大駐車場を確保。レストランは40軒、専門店は 190軒、映画館が10館、その他にもスーパー・銀行・警察・郵便局など日常生活に必要な施設が溢れている。南ア最大のショッピングモールだ。推定延べ床面積は4〜5万平方メートルもあり、一巡するだけでも1時間はたっぷりと掛かる。屋根があり、天候に左右されず、交通事故の心配もない。通路幅は優に10mはあり、銀ぶらのように散策もできる。

   その周辺には4軒のホテル・遊技施設・アフリカ各地の手作り物産館・高級レストラン街・野外劇場・大型ワイン店などなど、集客力十分な美しい商業施設が取り巻き、お互いに集積効果を満喫しているようだ。夜間、港の周りは電飾の明かりが瞬く。外国人よりも一般市民が断然多い。建物の延べ床面積は20万uはありそうだ。アジア各地からの観光客で溢れる『キャナル・シティ博多』並の規模だ。 

   この一帯は警官が常時パトロールしており、夜間すらも安全地帯になった結果か、大観光資源にも転化しているかのようだ。小学生の団体が先生に引率され、喚声をあげていた。

   しかし、大部分の人達は買い物ではなく、遊びに来ているだけのようだ。カバンも買い物袋も殆ど持っていない。この国の人口比率では14%しかいない筈の白人が、一見したところここでは半分以上だ。しかし、余生を十分に謳歌できる筈だった年寄りは極めて少ない(固定資産はあっても、金融資産は少ないのだろうか?)先住民は都市部では就職の機会が少なく、先祖伝来の田舎に住んでいるのか?それとも金もなく、遊びにすら来られないのか?歩き疲れた後に食事だけをするのか、レストランはどこも大繁盛だった。

Bテーブルマウンテン

   翌朝8時定刻に、ガイドがホテルまでマイクロバスで迎えにきた。客は私一人だ。幸い快晴。我がホテルの真正面に聳える標高1088mの山が、テーブルマウンテンだった。山頂を日本刀ですぱっと水平に切り落としたような、平ぺったい四角錐台に見える岩山で、周囲は断崖絶壁だ。正面からだと、大きなシネマスコープの映写幕を広げたように見える。                       

   山裾まで車で辿り着き、路肩に駐車しケーブルカーに乗り換える。登山道路は全くない。円筒状のケーブルカーは登る途中、室内の中心軸を介し、豊田そごうの屋上にある回転レストランのような円運動をするため、中で前後左右に移動しなくとも 360度にわたり視界が楽しめる。この素晴らしいアイディアとの出合いは初体験だ。

   山頂には遊歩道が整備され、どの位置からでも眼下の市街地や紺碧の海が見える。観光客のマナーも良く、ゴミを殆ど見掛けない。ガイドは気付く度にゴミを拾っている。同じ会社のバッジを付けたガイド仲間にもしばしば出会った。あちこちの観光ポイントで、標準コースを巡る他のグループとも再会した。現地は一応冬だったが、日本の清秋のようにさわやかな季節だった。
                 
   東京と似たような緯度なのに、平均気温は11.6度(7月)〜20.3度(1月)と、暑くも寒くもなく天国のように快適な所だ。ホテルには暖房のみで冷房設備は全くなかった。地球上の陣取り合戦で英国人は気候と資源に恵まれた場所を、仏人はサハラ砂漠や南太平洋諸国のように、陸海共に占有面積が広いだけで利用価値に乏しい貧乏くじを引いたのは、何故だったのだろうか?企画調査力の違いだろうか?途中、ローマ〜ポンペイ間でしばしば見た、キノコのような樹形をした松を発見。                                  
   
『イタリアの松にそっくりだ』                       
『あれは、雨傘を広げたような形をしているから、アンブレラ・パイン(傘松)と呼んでいます。ここは地中海性季候帯であるため、似たような植物が他にもあります』
『あそこに見える、小さな家の大集落はスラムですか?』           
『違います。南アでは、スラムとは電気も水道も引かれていない家を意味します。あの家には電気が来ています。またケープタウンでは、観光コースに点在するスラムは強制的に撤去すると同時に、家賃の安い公共住宅を増設し、住民をどんどん移転させています』

C観光船

   モーターボートのような高速の観光船に乗り、海からの景色を楽しんだ。波が荒く、自然のままの海岸は浸食されるが儘に放置されている。10月には鯨の遊泳が楽しめるそうだが季節外れで残念。海岸から数百mくらいの位置に小さな岩だけの島があった。千頭は軽く越えそうなアザラシの大集団がいた。岩の上で押し合いへし合いしながら甲羅干しをしている。陣とり合戦に負けると海へドボンの繰り返しだ。

   この近辺は年中波が荒く、昔から船の遭難事故が絶えないらしい。船は島と陸地間の狭い水路のような所を通り過ぎた後、同じ航路を引き返した。アザラシの大群を目前にしたのも初体験だ。海岸や岩場には砂も土もなく、日本ではなかなか出会えない、限りなく透明な美しい海水だ。

   船の発着場前の海岸に広がる先住民の青空マーケットでは、手作りのアフリカ土産を売っており、出港待ちの観光客で賑わっていたが、買うのはやめた。各国の民芸品が溢れる我が家には、最早御土産を飾る場所すらなくなっていたのだ。

D希望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)

   長さ数十Kmのケープ半島の先端に希望峰がある。希望峰はアフリカ大陸の南端だとばかり、この地を訪問するまで思い込んでいた。実際にはここから東 150Km地点のアグラス岬が最南端だそうだが、見栄えがしないため、観光地には向かないらしい。希望峰は海の中に飛び出した虫垂のような地形であるばかりか、波頭渦巻く絶壁でもあるために長い間、アフリカ最南端と欧州人にも信じられていたそうだ。
 
   1488年ポルトガル人バーソロミュー・ディアスは、発見(到着)したこの地を“嵐の岬”と名付けた。年中強風が吹き、海難事故が絶えない場所だったからだ。大西洋とインド洋が地図上では接触する場所だが、潮境のような目印があるわけではない。その後、ヴァスコ・ダ・ガマが希望峰経由のインド航路を発見した折に、ポルトガル国王マヌエル1世が『ポルトガルに希望を与える』との意味を込めて、“希望峰”と改名した。

   ケープ半島の先端部(77.5平方Km)は希望峰自然保護区に指定され、保護区内にあった先住民の家屋を完全に撤去。動植物は観光道路の両側に延々と続く長大な柵により保護され、観光客は入場ゲートを潜らされるようになった。途中の道路では、直径1mにも達するユーカリの並木を根元から伐採中だった。

   『あんなに立派に育った木を、何故切るのだ?』               
『ユーカリは南アにはもともとなく、苗をオーストラリアから輸入したんです。保護区内では南アの自然を取り戻す方針です。それに、雨量の少ないケープタウンでは、吸水力が強く成長の速いユーカリは在来植物に有害であることも分かりました。周辺の木が枯れるのです。あの巨木は何百年も経ったように一見感じられるけど、実は数十年前に植えられた木であり、伐採したとてちっとも惜しくはありません』 
            
   公園内は高さ1〜2mの灌木ばかり。それも強い海風の影響か、陸側へ傾いて育っている。紅葉が美しい高山植物の一種だった。お花畑のように美しい草原も続く。冬なのに花盛りだ。ユーカリが孤立して育っているのは、言われてから改めて眺めると、いかにも不自然に感じて来る。

   希望峰は高さ百m位の岩場だった。岩山登りは契約した観光コースには入っていなかったので、ガイドを海岸の駐車場に待たせ、安全柵で保護された階段状の一人しか通れないほどに狭い道を、時間短縮を兼ねて駆け登った。頂上には数人がいただけだ。殆どの人は海岸で引き返している。その後、出かけたケープ・ポイントの方が景観が素晴らしいのを知っているらしい。
                      
   しかし、私は大航海時代の象徴とも言うべき、本物の希望峰の頂点に立つことにこそ最大の意義があると楽しみにしていたので、大海原を睥睨(へいげい)しながら、何がなんでも南極大陸から吹き寄せる大気をこそ吸ってみたかったのだ。

   下から我が行動を見ていたガイドが『日本人の勤勉さを目の当たりにしたような気がする。日本人は走りながら働き、一気に世界のトップに躍り出たと聞いていたからだ』と一言。

Eケープ・ポイント・ピーク

   希望峰から僅か2Kmくらい東側の岬。高さが 210mもある断崖絶壁だ。途中からはケーブルカーでも登れるようになっている。麓の大駐車場は満杯だった。遠くの方に珍しく空いている場所を発見。『あそこに駐車したら?』と言うと『あれはハンディキャップ者用だ』。近付いて見ると、車椅子の絵が描いてあった。ガイドがルール違反をすると免許を取り上げられるのかも知れないが、終始一貫天晴なマナーだった。

   ケーブルカーの終点から20m位階段を登ると展望台だ。遥か下に希望峰の岩場が見える。目と水平線を結ぶ直線距離は海抜の平方根に比例するから、海岸に立った場合よりも10倍以上も遠くが見えている筈だ。面積ならば百倍にも達する。南極大陸まで遮るもの一つとてない大海原だ。軽く汗ばんだ肌に当たる海風が心地好い。ここには灯台があったが今は移転し、外観は保存しながら内部は気象観測所と海洋展示館に改装されていた。

   米人の先駆者がハワイの高山上で、大気中の炭酸ガスの濃度変化の観測を数十年前から実施しているが、ここも今や大気の定点観測地に登録されていた。遮るものが何もなく、周辺には大気汚染源もないため、地球上の大気観測点としては最適な場所の一つだ。展示館の世界地図上には、10ヶ所くらいの主要観測地が書き込まれていた。         

   ケーブルカーの搭乗券を裏返したら『ケープ・ポイントにはインド洋側のモザンビーク暖流と大西洋側のベンゲラ寒流との接触点があり、古来から海難事故が絶えないだけではなく、ケープ半島の植物相にも強い影響を与えてきた。インド洋と大西洋の物理的境界はどこにもないが、両洋の地理学上の境界はアグラス岬を通る子午線であると、今では広く認識されている』などと、観光客をがっかりさせかねない冷静な記述があった。

F昼食

   インド洋に面した美しい海鮮レストランに立ち寄る。程よい疲れの中、ビールが美味しい。ガイドに『ほんの一口、飲まないか?』と誘ったが『運転があるから』と丁重に辞退された。南アの有名な生牡蠣は『団体客が先程、平らげたばかり』とかで、残念ながら品切れ。ガイドには『好物を好きなだけどうぞ』と言った後、私はロブスターのオーブン焼きを頼んだ。
                    
   2分割にされた巨大なロブスターを出されてびっくり。大きさを推定するに足る情報の提供が、事前にはなかったのだ。しかし、あれこれ質問するのも面倒臭かった。ガイドに『箸を付ける前だ。そっち側の半分を食べないか?』と勧めたら『ロブスターは嫌い。魚の方が好き。先程の注文分で十分です』と言って、またもや辞退された。ロブスターが嫌いな人もいると知って、そのことにもびっくり。

   『カードで支払う』と言った後、受け取った請求書を見て驚いた。チップ欄があるのに未記入のままだ。これにサインをしても、最終的な請求額が分からない。困惑した表情に気付いたのか『この欄はお客さんが自由に書き込めば良いのです。その後、改めて正規の請求書が発行されます。それにサインするのです』とガイドが解説。その場で渡すだけの手持ちの小銭がない場合には、これだけの手続きを踏むのだ。

   そこで序(つい)でにガイドに質問をした。『ホテルの食事は部屋代に含まれているので、食事代金が幾らになるのか分からない。この場合、食堂でのチップの計算方法は?しかも、昨夜の夕食はコース料理で、1品毎に運んで来たウェイトレスが、その都度変わった。朝食はバイキングだったので、誰にいくら払ったら良いのか、いよいよ分からず困っている。
                                 
   今後もトヨタ社員が泊まることは度々あるだろうし、ミスター・イシマツはけちだったとは、思われたくもない。部屋代を支払う時に、サービス料として纏めて請求してくれるのかどうかも分からない。他の客の様子もそれとはなく、見ていたが、誰もチップを払っている様子もない。こんな場合には質問をしても、構わないと思うか?』

   『う〜ん。難しい。チップとは感謝の表現だから、払いたくなければもちろん払う必要はない。払いたいのに事情が分からない場合、質問することは構わないと思うよ』との返事。
   その晩、ホテルの支配人に質問したら『レストランの責任者に聞いて欲しい』と逃げられた。仕方がない。やむなく当事者に質問。『食事代金はこの位です』と教えてくれた。『今晩の夕食と明日の朝食分のチップも含めて、ここで纏めて支払わせて下さい。誰にいくら払えば良いのかは分からないので、皆さんで別けて下さい』と言って食事代金の15%相当額を手渡した。
                      
   『私達は、皆アルバイトの大学生です。南アは貧しくなり、働きながら大学に行く時代になりました』と言って、僅かのチップだったが、彼女達は大変喜んでくれた。翌朝チェックアウトの際には、ホテルの支配人からも丁重なお礼の挨拶を貰い、気分良く出発できた。

Gペンギン公園

   海岸の一角に、小形ペンギンの野生公園があった。野生のペンギンは南極やオーストラリア南部のような、南半球の寒冷地にだけ生息しているものとばかり思っていたが、ここのような温帯にもいたのだ。ここのペンギンは海に潜って餌を捕る。昼間は岩場で日向ぼっこ。夜は海岸の灌木の茂みの巣に帰るそうだ。千羽は軽くいそうな気がした。

   ペンギンを可愛いく思う心境はどこから来るのだろうか?つらつら考えるに陸上動物の足は、猛獣でも鳥類でも昆虫でも、一般に胴体とは直交している。人間とペンギンのみがそれらは平行している。それ故に人は無意識の内に親近感を一層強く感じるのであろうか?

Hワイナリー

   フランス人が百年以上も前に入植し、葡萄を植えワインを作り始めた。ケープタウンは今や南ア・ワインの大産地だ。ガイドブックにも載っている有名なワイン醸造所を尋ねた。周囲は葡萄畑に囲まれていた。ワインを只で試飲させてくれた。10種類くらい飲んでいる内に、とうとう気にいったタイプに出会った。

   『これはチョット珍しい味がする』と感想を述べると『ワインにブランデーが混ぜてあるために甘みがあり、香りが高く、アルコールは17%もあります』と説明。記念に1ダース買ったら、試飲に使った銘柄入りのグラスをプレゼントされた。割れ物注意の大きな張り紙をして厳重に梱包してくれた。問題はどの様にして日本に持ち帰るかだ。取り敢えず、その日はガイドの車に入れたまま預かってもらった。

   ケープタウンの空港では梱包状態がよかったので、機内持ち込みはせずに済んだ。サンパウロ空港に迎えに来てくれた駐在員に『今からブラジル各地・アルゼンチン・イグアスを回り、最後にはまたサンパウロ空港に戻ってくる。その間、預かっていてくれないか?』とお願いしたら、気軽に引き受けてくれた。15Kgものワイン・ケースを毎回ホテルに運びこんだり、飛行機に積み込んだりの重労働から解放され、ホッとした。

I珍品(ダチョウの卵殻)

   南アの記念品を一所懸命に探していたら、あちこちの店でダチョウの卵殻の上に絵を描いた飾りを売っていることに気付いた。量産されている地球儀のように、印刷した図柄を卵殻に張り付けているのではなく、一品ずつの手描きだ。従って複雑な絵が描かれているほど価格は高くなる。

   卵の底に小さな穴を明けて中身は抜き去り、飾り台に接着材で固定されている。殻は瀬戸物よりも丈夫。実さえ詰まっていれば、人間がその上に乗っても決して割れないそうだ。

J免税手続き
    
   ケープタウン空港の免税申請手続き事務所に行ったら、延々と長い行列。ここでは物と領収書の照合をしスタンプを押すだけ。ガイドには見慣れた光景らしく『1時間くらいかかります。では、私はここで』と言って別れた。アルゼンチン人とブラジル人が殆どだ。南アまで買い出しに来ているのか、皆な荷物を山のように持っている。

   次の場所では、小切手を発行してくれる。ここでも1時間待たされた。一人の人が友達の分まで一緒に手続きしている。しかも一人分の領収書が10〜20枚もありそうだ。行列は遅々として進まない。退屈の余り、前後の人に話しかけていたら、その中にアルゼンチン人がいた。

   『日本ではアルゼンチンで起きている赤ちゃん泥棒事件が有名です。アルゼンチン人は殆ど白人であるため、赤ちゃんから予期せぬ混血児が生まれる確率は低く、欧米の家庭向けの養子として、市場価値が高いからだ、と聞きましたが、本当ですか?』
   『かつてはそうでした。しかし、今は違います。18歳未満の子供の出国は厳しくチェックされています』

   やっと我が順番だ。係員曰く『機内持ち込みをするワインに限り、税金の払戻があります』とのことでがっかり。戻ったお金はダチョウの卵の飾り1個に掛かっていた税金だけだ。               
   小切手を隣接した窓口がガラガラの銀行に提出したら、直ぐに現金が戻った。結局2時間働いて約千円の収入。ああ、アホらしかった。空港内の2時間は免税店巡りをする貴重な時間だったのだ。ふと免税店を覗いたら、同じような卵を無税で売っていた。腹立たしくなってもう1個購入。

[6]南アは今後どうなる?

   ダイヤモンド鉱山の発見は1867年、金鉱山は1870年と意外に新しい。明治維新(1868)と相前後する時期だ。それまでは南アはインド航路の中継基地と単なる農牧畜国としての存在に過ぎなかった。

   この鉱物資源の支配権の争奪戦は最終的に英国が完勝し、アパルトヘイトの確立と並行して、貴重な資源も独占した白人天国が出現した。しかし、数千年間にわたり人類が、価値の基準に置き続けていた金の地位も、とうとう揺らぎ始めたようだ。最後の経済大国米国がインフレ圧力に屈服し、持ち込まれた米ドルを予め決めていた価格で、無条件に金と交換していた政策を放棄したからだ。
                              
   石油ショック以降、一時は20倍以上にも暴騰した金のドル表示価格が、世界各地の金鉱山の採算性を向上させ、世界的な大増産を誘発し、結局は自らの大暴落をもたらした。今や1オンス3百ドルを切り、原油同様その実質価格は石油ショック以前に戻った。                             

   日本では円高分だけ金は更に割りを食い、1ドル360円時代1グラム1200円もしていた金の市場価格(当時の公定価格は約4百円。従って金の密輸が絶えなかった)が今でも1000〜1200円、つまりその間の消費者物価上昇分(3〜4倍?)だけ減価してしまったのだ。

   とうとう金の価格も他の鉱産物と同じように、採掘原価の前後で推移するようになり、採掘コストが高くなった南アの金鉱山の地位を脅かし、通貨“ランド”は暴落の一方だ。過去10数年でランドの対円交換比率は数分の一に暴落した。南アの一般被雇用者の生活水準は、賃上げがインフレに追いつけない分だけ、結局は落ちたのだ。

   その上、アパルトヘイトは廃止され、同一労働同一賃金が徐々に浸透するに連れて、白人の経済的な地位も低下し、他人種との所得格差も縮まらざるを得ない。過去の蓄積がまだ残る中高年はともかく、最近社会へ出て働き始めた若年白人の生活水準は急落。もはや自分の力だけでは、プール付きの豪邸の取得は夢となつたようだ。ウォーターフロントを散策する若い白人の質素な行動が全てを語っている。ホテルの学生アルバイトも生きるのに必死のようだ。

   逆に、アフリカ系南ア人の明るい表情と闊歩する姿が眼に焼き付いた。都心でも空港の中でもどこででも、大手を振って歩いている姿が常時見られた。呪わしくも痛ましかった過去に比べ、彼等の生活水準が格段に向上したのは明らかだ。
           
   今や一次産品だけでは、どこの国でも国民所得は伸び悩み、生活水準の向上は量産を基本に置く工業力次第だ。しかし、人口小国の場合は国内市場が小さく、量産によるコストダウンも中産階級5千万人国(独仏英伊等)並には進まず、輸出競争力は何時までも弱体のままだ。その打開策として東南アジア10ヶ国はアセアン、南米4ヶ国ではメルコスール等の一種の共同市場を結成し始めたが、南アの場合は不幸にして近隣に工業国が全くない。この南アを救う決め手は気の毒だが、まだ見つかりそうにもない。
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ブラジル

[1]さらば、アフリカよ       

@大西洋初横断

   ケープタウンからサンパウロ行きの直行便は日曜日にはなく、やむなくブエノスアイレス経由便を選択。ケープタウンはアフリカの西岸、ブエノスアイレスは南米大陸の東岸で両都市は偶然にも同じ南緯35度前後、北緯35度の豊田市とは南北の違いはあっても、緯度はほぼ同じだ。両都市間(6840Km)は南大西洋でも最も幅が広い地域だ。サンパウロはほぼ南回帰線上にあり、大きく北東に逆戻り(ブエノスアイレス⇒サンパウロ=1720Kmは、名古屋⇒台北=1870Kmに近い)することになる。延べ飛行時間は12.5時間、名古屋〜ロンドン間(12時間25分)とほぼ同じだ。

   初飛行ともなった眼下の大西洋を覗き込んでも、当然とはいえ海だけなので直ぐに退屈し、深酒を飲んではぐっすりと眠って体力を温存した。去る30数年前、名古屋から福岡までの初体験飛行中(国産機YS11)は、飛行そのものから発生した感動と興奮が全身を包んだのに、今や搭乗中は自由を奪われた牢獄生活もかくやと連想する始末。かつては夢想すらしなかった心境の変化だ。

Aラ・プラタ河(ラは冠詞なので、プラタ河と訳すべきだったのでは?)

   ブエノスアイレスは南米第2の大河、ラ・プラタ河(長さは3千Km丁度と短いものの、流域面積は世界第4位の 310万平方Km。アマゾン、コンゴ、ミシシッピに次ぐ。つまり、世界一長いかの有名なナイル河よりも流域面積は広く、世界最大のユーラシア大陸にもこれ程の大河は何故かないのだ。サンパウロ大都市圏で発生する膨大な量の工業排水や生活汚水すら、支流を通じてラ・プラタ河に流れ込んでいる)の河口にある。                        

   凸凹した山岳地帯が多く平野に乏しい南アとは異なり、眼下には限りなく平坦な大平原が広がっていた。近郊の農村地帯には、全く同じ形をした低い屋根の大きな温室(?)のような長方形の建物が延々と続く。電照菊で有名な渥美半島の温室を連想。周辺には煙突や駐車場などの付帯設備は全くなく、それらが工場建屋でないことは一見して明らかだった。      

   駐在員に『あの建物の正体は?』と質問したら『見たこともない』と言う。関心のない対象は網膜に映像を折角結んでも人には認識されず、記憶にも残らないようだ。そこは空港からも遠いし、個人的な関心のために確認する時間もなく、今なお心残りのままだ。やがて、碁盤目状の幹線道路が100m間隔くらいで走る大住宅団地が幾つも現れた。1つの団地は百万坪くらいの広さだ。
                 
   しかし、都市計画の素晴らしさは道路の線引きまでだった。赤茶けた未舗装の幹線道路が多過ぎる。道路で区切られた正方形の敷地の中には生活道路らしき細道はなく、小さな小屋が密集していた。その小屋の向きは道路の方向とは全く無関係。ブラウン運動の結果のように無秩序。屋根や壁の色も自由奔放。何の統一もない。どんな階層の人達が住んでいるのかを知りたかったが、これまた誰に聞いても分からない。飛行機の上からの観察だけでは、疑問も解けないままに終わった。

   ブエノスアイレス大都市圏の一角で、ラ・プラタ河の川幅が数倍も急に広くなっている地点が、機上からもはっきりと確認できた。流れている水は全部土色。『上流の牧場や農耕地が荒れているのではないか?』と気に掛かる。その辺りを河、河口、入り江のいずれで呼ぶのが適切なのか、迷ってしまった。        

   夫々の言葉の正確な意味を、実はこの歳に至るまで辞書では確認していなかったからだ。自然に漠然と覚えた単語には、意識的に学んだ外国語と異なり、ふとした折に『この単語の真の意味は?この単語の漢字は?この熟語の読み方は?このアナウンサーのアクセントは正しいのだろうか?この役者の台詞は耳に違和感を感じたが、彼の方が正しいのだろうか?』と急に意識し始める場合がある。

   帰国後、広辞苑を引くと『川・河=地表の水が集まって、傾斜のある陸地の凹んだ所を流れる水路。河口=河の、海または湖に注ぐ口。入り江=湖または海が陸地に入り込んだ部分』と出ていた。この解釈だと河口には面積がなく、入り江は滞留水で満たされていることになる。消去法を適用すれば『市内を流れている部分は、ラッパ状に広がって、たとい海のように広く感じようとも、まだ河だったのだ!』と結論付けるのが妥当となる。

   その後読んだガイドブックで真実が分かった。ブエノスアイレスはラ・プラタ河の河口から何と上流 275Kmに位置していた。その間に、石狩川(現在は 262Km。戦後の治水工事で本流は約百キロも短縮された)がスッポリと入ってしまう距離だ。

Bブエノスアイレス⇒サンパウロ

   ブエノスアイレス空港では給油や室内の清掃を兼ねた安全点検のため、飛行機から強制的に降ろされた。待合室の照明は驚くほどに暗い。名古屋空港ビル内の数分の一だ。電力事情が悪いのか?国民性なのか?10年前の北京や数年前のホー・チ・ミン空港並の暗さだ。                        

   免税店も酒・タバコ・香水が主力で、華やかなファッション商品や欧州の有名ブランド物の買い回り品は僅かしかなく、1時間の待ち時間すら潰せず、退屈してしまった。一緒に乗っていたブラジル人達は買い物には見向きもせず、椅子に座ったまま。

   再搭乗後、客室前方の映写幕に投影されている飛行情報をふと見たら、サンパウロに向かう時の対地速度が1050Kmを越えていた。時速1000Km超過は初体験だ。1万m上空の音速は約 300mなので、これではマッハ1(注:マッハ数=飛行速度÷音速。音速は絶対温度の平方根に正比例して変わるので、マッハ数だけでは飛行速度を表せないが、高速空気力学では大変便利な概念。例えば『衝撃波はマッハ1の飛行物体から発生する』と簡明に説明できる。マッハはオーストリアの物理学者名に由来)に近付いたことになる。                     
   ジェット旅客機の巡航速度は概ねマッハ 0.9なので、表示速度が正しいならば、異常に速い速度だ。今までの体験では速い場合でも時速 950Kmだった。『計器は正しく作動しているのだろうか?』との疑問も感じた。それとも強い追い風に恵まれていたのだろうか? 

   我が搭乗機はサンパウロの遥か北東部にまで飛び、大きく左旋回してUターンしながら、空港へ戻ってきた。Uターンを始めたら、出発空港から現在位置までの表示飛行距離が短くなり始めた。一体全体これはどうしたと言うのだ!?飛行距離は自動車の走行距離と同じように、飛行経路を表す曲線に沿って計った移動距離(線積分値)とばかり、勝手に推定していたからだ。
                               
   搭載しているジャイロが示す加速度をリアルタイムに2回積分し続ければ、飛行経路に沿った線積分はいとも簡単に計算できる筈だ。今ならカーナビにも使われているGPSのデータを使っても、簡単に飛行距離は積算できる。この計器が正しいとすると、飛行距離とは大圏距離(出発空港と現在位置及び地球の中心の3点を含む平面が、地表面を切った時に現れる円弧に沿った長さ)の別名なのだろうか?

[2]サンパウロ

@サンパウロ…その1(街並みの初印象)

   サンパウロは大西洋岸から僅か80Km内陸にあるだけなのに、飛行機の高度計は 600m前後を示したまま着陸。『なあ〜んだ。この飛行機の各種計器は整備不良だったのか』と納得したのも束の間、手持ちのガイドブックで念のためにと確認したら、サンパウロは海抜 800mの高原にある町だった。

   サンパウロは南米の大国ブラジルの繁栄を支えているうちに、統計データ上(発展途上国に於ける巨大都市の真の人口は、統計データの2〜3割増しともいわれている)の都市圏人口はとうとう1300万人にも達し、国民総生産の3割以上をも占める南米最大の商工業都市に成長していた。にもかかわらず国際空港は狭い上に、視界に現れた建物群はみすぼらしく、滑走路が迫るに連れて急速にイメージダウン。私は、アジアの新興国家の中核都市、例えばバンコック・香港・クアラルンプール・シンガポールなどで、今や鎬(しのぎ)を削っている新設巨大ハブ空港級を連想していたのだ。

   機内でたっぷりと寝ていたので、時差ぼけにも遭わず、眼を輝かせて周辺をキョロキョロ眺めながら、ホテルへと向かう。サンパウロにはまともな都市計画もないまま、自然発生的に発展したのだろうか?クネクネと曲がった道が多く、方向音痴自慢の私には全体像がなかなか掴めない。

   都心には20階建て前後の高層ビルも多いが、重量鉄骨+紫外線を反射する青い窓ガラス+自然色レンガか大理石貼りの壁面を特徴とする、最新型の豪華ビルは殆ど見掛けない。原則として鉄筋コンクリート造りで、スカイラインも揃わず、雑然としている。『サンパウロには地震がないから、この程度の安普請でもビルが倒壊する心配はない』そうだが、アジア各国の貧相なビル群と何等変わらない水準だ。何時の間にか心の中に『ブラジルは中進国と言うよりも、発展途上国に近い』との結論が去来するようになり、些かがっくり。

   都心を貫き道幅も広くかつ直線からなるパウリスタ大通りに到着。両側はまあまあの高層ビル街。大通りから1街区入った閑静な場所に建つ、シーザー・パーク・ホテルに午後10時頃到着。シーザーとはローマ帝国の独裁者名の拝借。青木建設が南米各地(サンパウロ・ブエノスアイレス・リオデジャネイロ等)にチェーン・ホテルを建てたがバブル崩壊と共に、無念にもメキシコの財閥に売却したそうだ。

   そそり建つシーザー・パーク・ホテルは、文字通りバブルの徒花(あだばな)の象徴だ。輸出企業が苦心惨憺した揚げ句やっと手にした貴重な外貨を、バブルに踊って浪費した建設業と融資銀行の愚かさに腹が立つ。

   しかし、日本人向けの高級ホテルとしての実体はそのまま。フロントには日系人(日本人?)が待機しており、ポルトガル語に不自由している普通の日本人にはあり難〜い存在だ。早速見晴らしの良い最上階の日本食レストラン(寿司・テンプラ・麺類が主力)に誘われた。機内食で満腹だったが興味津津、駐在員を待たせるのは申し訳なく、入浴は後回しにし、いそいそと出かけた。ビールや御飯の味も悪くはない。

   百万人を越えたとは言え、ブラジルの日系人は今なお1%以下の少数民族。つまりハワイの日系人以下の存在だ。しかし、サンパウロでの存在感は一桁多い10%民族のようにも感じられた。日系人が持ち込んだ日本文化が独り立ちをし、その存在を主張しているかのようだ。寿司屋だけでサンパウロには 300軒もあるという。10年前のイスタンブールには日本食堂がたったの2軒しかなく、しかも40年前の学生時代に利用した小さな飯屋に似ており、経済大国だが影響小国日本の悲哀を感じたのとは段違いだ。
                               
   寿司ネタには冷凍物などは一切使わないそうだ。全部、公設市場で早朝に仕入れる生(なま)。しかし、何とはなくネタが柔らかくて物足りない!ブロイラーの骨はもちろん、鮎・サンマ・イワシなどの小魚の場合には頭も骨も内臓も、一切食べ尽くす習慣(葡萄や蜜柑も袋ごと食べる全食主義を子供の頃から堅持。食材の種類を限り無く増やすのが、我が喫食方針)の私には、歯応え不足が不満。   

   生まれてこの方、たった一度(平成10年9月9日、直径1mmの小さな虫歯を歯の前面に発見し驚愕。しかし、色合わせした樹脂を詰めただけで完。拍子抜け!歯科医による推定原因は、不覚にも歯の磨き過ぎらしい)歯科に掛かっただけの私には、身が堅いイカ・タイ・ヒラメ・フグなどの方が、松阪牛の霜降り肉や刺身の王者マグロの大トロ等よりも食べ応え、噛み応えが感じられて、何時の間にか好きになっていたのだ。

Aブラジル・トヨタの旧工場

   高低差があって使いにくい土地に各種の工場がひしめいている、工業団地みたいな場所とはいえ、我がブラジル工場は見晴らしも良い丘の上の一等地にあった。しかし、いかんせん敷地は僅かに20万平方m。しかも古い工場の常、小さな建物を次々に増設した経緯は一目瞭然。これでは国際競争力のある年産10万台規模の工場への脱皮は不可能だ。                             

   『日本からの支援も、長い間にわたって途切れ、苦労を重ねさせられて来た』との歴代駐在員の怨念の声が、どこからかともなく聞こえてきたとしても不思議とも思えない、何とも情けない状態。ノラリクラリと働いてはいても、周辺の工場よりも給料は大変高いらしく、辞める人は殆どいないそうだ。当然の結果として、経営は大変に苦しい。
                            
   しかし、数年前から事情が変わり始めたようだ。生産の合理化を目指し、トヨタ生産方式の本格的な導入を始めた。まだ緒に就いたばかりだが、それでもブラジル人が主体的に取り組める態勢にまで到達したので、徐々にではあってもいずれ成果は期待できると安心し、長居は無用と感じながらも別れを惜しんだ。

   とは言うものの冷静に考えると、今となってはこんなに見晴らしも良く、サンパウロの都心にも近い場所は、自動車の生産よりもホテルなどのような土地生産性の高い業種に譲るべきだと確信した。ここなら土地も高く売れるだろうし、そのお金で新工場の建設資金の一部も返済できる。この自称名案も従業員の再就職に伴う補償問題を考えると、簡単には採用できないらしく残念至極。

B海浜リゾート都市…サントス

   『欧州や中東各国のような歴史の厚みもないサンパウロには、さしたる観光資源もありません』と、来日の折に何度かお会いしていた日系人の寅田さん(取締役)に言われ、勧められるままに港町サントスへと出かけた。日系移民が最初に上陸した港町であるだけではなく、コーヒーの積み出し港としてもつとに有名な町だ。サンパウロから東へ80Km、全線舗装の立派な有料道路が開通していた。国道と州道とがあり、双方がまさかの時のバイパスをも兼ねている。半日で簡単に日帰りもできる絶好のリゾート都市だ。    

   鉄道網が未発達なまま自動車時代に突入したブラジルでは、内陸部への産業物資や生活資材の輸送のため、幹線道路は今や生命線ともなっている。ブラジル・トヨタからアルゼンチン・トヨタまでの部品の陸送距離は、なんと豊田から台湾までに匹敵するが、昼夜を問わず疾走する寝台(交代要員用)付きの大型トラックが赤血球のように大活躍している。しかし、最近はコストダウンのために、交代要員すらも削除され始めたそうだ。それだけに故障し難いと定評のあるトヨタ車は、中古車すら価格が高騰。

   途中にあった高度差の大きい、典型的ないわゆる“いろは坂”では、吹き寄せる海風が断熱膨脹して霧が多発するらしい。当日も残念ながら自慢の眺望は楽しめなかった。ほぼ南回帰線上にあるためか、道の両側のなだらかな山の斜面にぽつんぽつんとバナナを見掛けた。バナナ畑でも野生でもなく、誰かが植えたのがそのまま放置されたままといった風情だ。朽ち果てた昨年の株がまだ残っている。“木とは堅い幹が毎年成長する植物”だから“バナナは多年生の草である”との証拠を見付けて合点。    

   時々、道の両側にスラムのような家の集団が現れる。土地が広い国なのに敷地は狭い。野生の木々が生い茂っている場所に、庭らしき空間もなく、小さなみすぼらしい小屋が雑然と建っている。郵便物はちゃんと配達されるのだろうか?後でも気付いたが、スラムはサンパウロ周辺のどこででも見掛けた。サンパウロ大都市圏人口の2〜3割はスラムの住民ではないかと、残念ながら推定せざるを得ない。

   サントス市に近づいたら料金徴収ゲートが現れた。往復分(この道では片道料金は元々設定されていない)の通行料金を取られた。帰りの道にはゲートがない。サントスに来た車は何時かはまた、逆コースで帰る筈だとのおおらかな解釈の結果、料金徴収事務コストは半減。厳密さを追及するのに無意味な快感を感じている日本人には、とても採用できないシステムだ。必ずしも料金前払いシステムになっている訳ではない。サントスからサンパウロへと向かう車の場合には、料金が後払いになるからだ。

   サントスには、サンパウロの輸出入を一手に引き受けるブラジル最大の貿易港があるだけではなく、素晴らしい景色や波穏やかな海岸にも恵まれている。しかも、遠浅の海岸にはユッタリとした50m幅もある砂浜(残念ながら白砂ではなく、薄汚れたねずみ色)が続くだけではなく、年平均気温が25度もあり、一年中海水浴も楽しめるリゾート都市だ。       

   内側に湾曲した海岸線に沿った道路に面して、15〜20階建てのマンション風の別荘が数Kmにわたって建ち並ぶ景観は、日本中どこを探してもある筈もなく、後で訪れたリオデジャネイロにも決して見劣りしない素晴らしい壮観さだ。年中活用できる別荘を持てる気候が羨ましい。
                            
   日本ではマリーン・スポーツだろうが、ウィンター・スポーツ目的だろうが、別荘は年に精々2〜3ヶ月しか使えず、年収10万$以上の中堅サラリーマンクラス(私も在職中はその一人だった)がリゾート・マンションを買う事例は絶無に近い。聞こえてくるのは、値上がりを信じた転売目的の投機に失敗した、愚かな人々が繰り返す嘆き節だけだ。    

   サンパウロの金持ち達は休日をサントスで過ごすらしく、週末には有料道路も込み合うほどだそうだ。一方、我がゴルフ仲間の大部分は60代でリタイアした時、約1億円〜百万$もの正味金融資産(生涯収入4億円×貯蓄率3〜4割−売る訳にはいかない小さな家屋敷)を持っているらしいが、人生を十分に楽しんでいるようには感じられず、何とももの悲しい。                  

   日本と世界の最貧国(例えばベトナム)との間の、米ドル換算した名目所得比率は今や百倍にも達している。それなのに、両国民間の人生の満足度格差が極めて小さく感じられるのは、万人に与えられた神からの最大の贈り物のようだ。

   海岸道路に立ち、涎(よだれ)を垂らしながら眼前の別荘群を眺めていたら、駐在員が突然『石松さ〜ん、正面のビルが傾いているとは思いませんか?ここには何度か来ていたのに、今までちっとも気が付かなかったのですが』と言う。まさかと思いながらも2棟の相隣接する側壁の隙間を、下から上まで追跡してアッと驚いた。上部では双方の壁が異様なほどに接近している。どちらか或いは両方が明らかに傾いている。

   元エンジニアの職業病だ。他のビルはどうなっているのかと点検すると、どのビルも傾いているような気がしてきた。その内に補修工事中のビルも発見。余りにも傾いた結果、矯正していたのだ。真っ直ぐに建っていたのは、ビルの谷間に植えてあった高さ20mにも成長している椰子の巨木だけだった!

   サントスの港湾地区に出かけた。何と言う悲しさ!朽ち果てたかのような平屋の倉庫が延々と立ち並んでいた。もはや殆ど使われてもいない鉄道の引き込み線のレールが錆果てたままに放置されていた。あちこちに水溜まりが残る道路で、使い古し錆び付いた大型トラックがガタピシと走っていた。
                       
   ブラジルはドル・リンクに近い新通貨レアル(時にはドル安レアル高の珍現象もあったそうだ)を導入した結果、さしものインフレも収束して外資が流れ込み、経済成長に弾みが出たかのような報道が日本でも一時溢れていたが、この貿易港の姿を見る限り、実物経済の繁栄が復活しているとはとても思えない。為替変動差益を狙った、逃げ足が速い短期の投機資金が雪崩(なだれ)込んだだけではないのか?

   インフレが止まったことと、経済発展が軌道に乗ったこととは全く次元が違う現象なのに、危機を乗り越えたなどと愚かにも錯覚を起こしているのではないか?サントスの都心をドライブしたが、昔の繁栄の蓄積を感じさせるような建築物も殆ど発見できず、小さな古びた黴の生えたような建物を、今なお我慢して使っているだけだった。コーヒー輸出で賑わっていただけの、かつての廃墟を眺めた思いだ。

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   平成10年9月1日の退職後、この追憶記をここまで一気に書いていたが、会社で暇潰しに書いていた時とは異なり、毎日のように執筆を督促してくれる愛読者も周りにはいず、面倒臭くなって暫く中断している間にブラジル危機が再発。レアルは暴落しインフレも再発。マスコミも経済評論家も関係者も現地現物を自らの心眼で確認し、熟慮の結果たどり着いた結論を発表しないと、恥を掻くだけ!
    
   ゴルフ場が運悪く雪のためクローズされたのを契機に平成11年1月25日から、やおら執筆を再開した。  

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   その日の夕食に誘われた寿司屋で“傾斜ビル”の真因が判明。31歳になると言う日系2世が父親の手伝いをしていた。『私は大学では建築を専攻しました。サントスにはまともなビルは皆無です。敷地全体にコンクリートを流して一枚の板とし、その上にビルを建てたのです。その後に不等沈下が起こり、どのビルも傾いてきたのです。実はサンパウロ市内でも、正確に測定すると、殆どのビルは傾いているのです』と言う。不況は彼からも専門職を奪っているようだ。いと悲し!   

   これぞ正しく砂上の楼閣。過去に地震がなかったと言う記録に安住し、手抜き基礎の上に建てられた、か細い柱のビルの今後が思いやられる。20階建てのビルの柱の断面積は我が家の柱(50cm角)の半分しかない。いわんや鉄筋の量においておや。中東各地や韓国・香港のようにサンパウロ市内でも、老朽化したビルが時々、自己崩壊を突然起こしているそうだ。あな恐ろしや!

Cサンパウロ…その2(東洋人街)

   夕方、サンパウロ市内の観光名所“東洋人街”に出かけた。けばけばしく朱が塗られた無数の鳥居が、神社の参道のように道をまたぎ、延々 200〜300mも建ち並んでいる一角があった。道の両側には日本・中国・韓国料理の食材を売る商店が無数にある。異臭が鼻に突き刺さるような、不潔感に満ち満ちた品質さえ我慢するならば、米・味噌・醤油・漬物・即席ラーメンを初め何でもあった。しかし、日本人向けではあっても、中国やアジア各国からの輸入品が日本製よりも多かった。日本料理店も数え切れないほどだ。

   この街の店員で日本語が達者なのは日系人だけではなく、年配の台湾人の中にもいた。それでも、この一角が“日本人街”とか“リトル・ジャパン”とは呼ばれない理由が徐々に分かってきたような気がした。東南アジア各国固有の特色が残った衣食関連サービス業がモザイク状に雑然と入り交じり、全体としての統一性にも欠けているからだ。        

   観光客目当ての御土産屋も多い。中でもブラジル名物、蝶の壁飾りは一際光り輝いている。自然の巧みのみが生み出し得る、華麗な掌(てのひら)ほどもある青い蝶々の羽がふんだんに散り嵌められているからだ。再訪問した折に衝動買いをとうとう押さえることができず、百ドル級を2個も買ってしまった。

   一角の広場には、テント張りの露天商が数十軒もあった。果物・野菜・お菓
子などの食料品を初め、軽衣料など様々。ここでは、生まれて初めて見た世界一大きいと言われる“松の実”を買った。殻の色はチーク色で大きさと形はラッキョウにそっくり。                             

   後日訪問したデンソー・ド・ブラジル(従業員数はトヨタ・ド・ブラジルの約2倍!)の応接間には、木で作った松かさの模型があった。松かさとは言うものの、笠らしき部分はないのだ。外観はダチョウの卵のように大きく、断面が多角形になった松の実がトウモロコシの実のようにビッシリとくっつき合っている。松かさの重さの7割は実。実を取った後には、トウモロコシの芯に似たようなものが残るだけだ。                             

   自然落下した松の実を拾い集めるだけだそうだが、収穫量は大変多く、大きな袋に詰められた商品が、公設市場では米俵のように堆(うずたか)く積み上げられていた。従って、値段も大変安く、1Kgが百円位だ。この松の名前が付けられた州もあるとか。日本では税関で没収されると聞き、袋詰めした実を下着に巻いてカバンに詰め込み、何食わぬ顔をして税関を通り抜けた。教えられたように塩茹でして食べたら、日本でも珍味として売られている小さな松の実にそっくりの味だった。家族の好評を得た数少ない買い物だ。

   この辺りの治安は大変悪いらしい。体当たりを食らって落とされたカバンを持ち逃げされた当社の出張者もいるそうだ。ポケットに手を突っ込み、財布を握り締めながらのぶらぶら歩きでは、やけに疲れが溜まる。日本人を含めた東洋人の置かれている立場が、この一角の治安水準に現れているような気がしてきた。余りにも惨めで情けない!

   サンパウロの貧しさについて連発した我が観察結果で、耳にタコができてしまった案内役の若き駐在員は『石松さんがサンパウロを誤解したまま帰国されるのは悲しい。まるで私が悪い場所ばっかり選んで案内していたかのように受け取られても心外。素晴らしい高級住宅街をご案内し、印象を入れ替えて貰いましょう』と言うや、都心へ向けて再出発。

   日没後で既に辺りは暗く視界は悪かったが、2〜3百坪の屋敷内には大木が鬱蒼と茂り、延べ百坪はありそうな2階建ての石造り風(実物は鉄筋コンクリート)の豪華な家が、門扉の隙間から覗けた。屋敷街には高層建築はなく、人が集まり騒がしくなるような店もない。住民も殆ど見掛けない静けさだ。       

   名古屋市八事の高級住宅街よりも、熱帯樹の緑が深いだけに豪華さを一層強く感じる。しかし、精々全部数えても百軒あるかなしかの少なさ。我が推定によればどこの国でも、何時の時代でも、0.3%未満(3シグマの外。通知表で使う5点法で表せば、6.5 (偏差値80)以上の人が占める比率)の人々は、この世で天国に近い生活を満喫している。ブラジルにも、この法則は百%適用できた。       

D ブラジル・トヨタの新工場                                                                                   

   新工場はサンパウロから百Kmも離れた内陸部(インダイアツバ)にあった。そこまでの道すがら雄大なブラジルの大自然が楽しめた。大きくてなだらかな丘が続く高原地帯だ。所々で路肩に故障した大型トラックを見掛けた。日本ではすっかり姿を消した現象だ。大面積(1区画20町歩以上?)の麦畑が時折現れる。開墾されているのはほんの一部だ。放置された部分の地主は国家なのか?個人なのか?『どうしてこの豊かな大地を活用しないのか?』と地主に詰問したくなるほどだ。 
                                  
   沿線の山肌に恰(あたか)もしがみついているかのような、スラムの大集落を何度も見掛けた。『どんな人達が住んでいるの?』と駐在員に聞いても、確信に満ちた回答は聞けなかった。『北部(アマゾン流域とか)から職を求めて移住して来た人々』との説も耳にしたが、人口扶養力を欠く過疎地帯(先住民の人数が解らないから正確さは欠くが、アマゾン熱帯雨林の人口密度は1以下らしい)に、これ程の膨大な過剰人口がいたのだろうか?(注:1999年2月、NHKのブラジル番組で『スラムの住民の供給源は、最初に開けた北東部の農村地帯からの離農者』と解説していた)

   スラムには下水の排水溝がない。垂れ流しだ。所によっては上水道もあるが、各戸配水はなく、給水場所までの水汲みは大変らしい。こんなことでは、飲料水はともかくとしても、風呂(シャワー)に毎日入っているとはとても思えない。もっとも、自称潔癖症の日本人も統計データによれば、銭湯通いをしていた頃の入浴回数は週に2〜3回だったから、あまり大きな口は叩けない。我が学生時代の体験でも銭湯は週2回。それが今では最低でも週に10回(内3回はゴルフクラブ、テニスクラブ、スーパー銭湯)、夏場は回数が更に増えるだけではなく、下着類はその都度着替える習慣も定着。

   新工場のオープンは1ヶ月後に迫っていた。中規模都市(カンピナス?都市名は忘れてしまった)の郊外にあり、隣接した場所にGMの巨大なテストコースもあった。GMに限らず世界に冠たる一流企業はたとい(“たとえ”の誤植に非ず)貧乏国に進出しても、建てる工場は本国と変わらぬ仕様を貫き、その景観は例外なく素晴らしい。テストコースの中央部には原生林を残し、敷地内の手入れは美しく行き届き、入り口までの専用道路の両側にはブラジルの国花が植え込まれ、丁度満開状態だった美しい花が零れ落ちていた。

   『国花を植えるくらいならば、何処かに国木も植えているのではないか?』と質問すると『ここには植えられていない』との回答。ブラジルと言う国名は、合成染料が発明される以前、染料(色は忘れた)が採れた木に付けられていた先住民の言葉に由来するそうだ。その後、国木にも指定されたが、今や野生状態では少ないらしく、その木との歴史的な対面は露と消えた。

   こんなのどかな田園都市なのにほんの一週間前、新工場の従業員が工場の近くで鉄砲を持った強盗に襲われたそうだ。単独行動が危険な南アとブラジルとの共通点は、貧富の格差が想像を絶する程に開いてしまった点にある。世界的視野から観れば、皆が貧しいベトナムも豊かな日本も、国内での所得格差が小さいがゆえに遥かに安全なのだ。

   バブル崩壊後、不況がますます深まった時に計画された新ブラジル工場は、設備投資も最小限に押さえられた。155万uもの広大な敷地の一角に、豆粒のように小さな(2万u?)建屋。組み立てラインにこそ若干のゆとりを感じたが、ボデーの溶接工程の余りにもの狭さに驚く。生産開始後、プレス部品が所狭しと搬入され始めると、作業員が溶接機などと接触事故を起こすのではないかと、気に掛かった。関係者を詰問すると『予算総額を厳守させられた』との一点張り。小さな怪我(言わば人柱)が発生した時点で、いずれ追加投資の許可が下りるのだろう。

   新工場の賃金水準は旧工場の概ね半分。周辺の水準を考慮したと言うが、それでも作業員の募集には高校新卒が殺到。工場の立上がりを円滑に進めるため、旧工場の技能系管理監督職の内、異動希望者は役職をワンランク引上げ、今までの賃金を保証して必要人員を確保。車を組み立てたり分解したりの作業訓練に没頭している作業員の真摯な姿が初々しく、ブラジルも見捨てたものじゃないな、と実感。

Eサンパウロ…その3(公設市場)

   新工場からサンパウロ空港までは、新工場長がタクシーを手配してくれた。案内してきた駐在員は仕事でやむなく残留するのだ。ドライバーは片言ながらも日本語を喋る日系人だった。時間に余裕があったので、何としても行きたかった“公設市場”に突進。『混雑下のスリには、油断しないで』と念押しされたが馬耳東風。

   市内の中心部に、高さ20m近いドーム状の幾つもの屋根を持つ、周辺のみすぼらしい建物群とは対照的なほど、威風堂々たる豪華な鉄筋コンクリート造りの建物だ。欧州各国の中世の市庁舎を連想。平屋のため天井が高くて圧迫感がなく、自然対流だけで悪臭の換気も十分。百メートル四方位もある巨大さなのに、物流を担うトラックの駐車場はほんの僅かしかない。建物は道路に囲まれており拡張はできず、物流への配慮は旧時代のまま。郊外へいずれ引っ越すしか解決策はなさそうだ。

   卸と小売市場とが共存していた。卸市場の取扱商品は果物だけ。午前中に卸業務は終わったのか、人は殆どいない。大きな梱包木箱に入ったままのオレンジやスイカが堆く積み上げられていた。オレンジには大きくて美しい色をした生食用と、小さくて屑みたいなジュース用との2種類があることも知った。もともとの種類が違うのだろうか?それとも収穫後に選別したのだろうか?価格は一桁も違う。
                        
   日本には数年前よりブラジルから濃縮オレンジ・ジュースがタンカーで輸入されている。還元後、果汁百%のオレンジ・ジュースとして、スーパーでは1g百円位で売られているが、安さの秘密を知ると共に、こんな屑をあり難がっていたとは知らぬが仏。飲む意欲は雲散霧消。    

   小売り部門はショッピングセンターのように5〜10坪大に区割りされ、それぞれの区画に個人営業の店が入っていた。それぞれの専門分野別(肉・魚・野菜・果物・乳製品・加工肉・穀類・加工食品など)に同業者が10軒以上もあり、競争が激しいのか同じような商品でも価格は異なっていた。

   乳製品は圧巻。欧州に決して負けない。バターの種類は少ないが、チーズには数え切れないほどもの種類がある。形もサイズも様々。イタリーやオランダで有名な1個20〜40Kgもありそうな鏡餅形のチーズもあった。大き過ぎるのか、切り売りもしていた。ソーセージ類もチーズに負けないほどの種類があり、ディスプレイに知恵を絞っている。                           
   サンパウロ空港ではブラジル・ド・トヨタ旧工場の日系人若松さんと落ち合う約束。昼間の高級住宅街を再見学している内に渋滞に巻き込まれ、約束の時間に遅れそうになった。しかし、文明の利器は一国の所得水準とは無関係に一斉に普及するようだ。アジア各国同様ブラジルでも携帯電話が普及し、タクシーにも付いていた。簡単に連絡が取れた。既に空港で若松さんは私達を待っていたのだ。氏の案内でリオデジャネイロの日本発条とクリチーバのデンソーを見学する予定だ。

[3]リオデジャネイロ

@空港⇒シーザーパーク・ホテル

   サンパウロの真東にあるリオデジャネイロまで飛行機では55分の距離。とっぷりと日も暮れた 19:55分の定刻に到着。タクシー乗り場への移動途中、若松さんは子供連れでアジア系に感じられた、普通の服装をした中年男にポルトガル語で呼び止められた。

『何と、言われたんですか?』
『子供がいて、生活が苦しい。僅かでいいからお金を貰えないか?』
『渡したんですか?』
『いいえ。私だって子供がいて生活に追われており、よそのご家庭を支援する余裕などはありませんよ』

と言って断ったそうだ。子供連れの女乞食は世界各地で見掛けたが、男乞食は初体験だ。若松さんは男に恥を掻かせないよう、周囲の人に男の目的が分からぬよう、冷静にしかも小声であくまでも丁寧に対処された。男を侮辱し逆上させると、何をされるかの分からない。余りにも手慣れた対応から、何度も体験されていたのではないかと推定し、ブラジルの貧しさをまたもや激感。
           
   バブルの絶頂期に愛知県下山村に加茂ゴルフ倶楽部が開場した時(1989年秋)日本人キャデイが集まらず、その殆どは出稼ぎに来た日系ブラジル人独身女性だった。休学中の医学部学生とか元銀行員とか才女も多く、ひたむきな仕事振りに心を締め付けられる思いはしたが、ブラジルの貧しさの実態に迫る想像はできなかった。『水が低きに流れるように、移民は貧しい国から豊かな国へと流れる。つまり一時はブラジルの方が日本よりも豊かな国だった筈』との先入観から、我が石頭は抜け出せなかったのだ。

   リオでもシーザーパーク・ホテルだった。リオには外観にも凝った上、もっと格式も高い欧州風のホテルもあったが、今上天皇ご夫妻もシーザーにお泊まりになったそうだ。関係者が日系ホテルへの義理を感じて手配したのだろうか?

A早朝の海岸

   早朝、海岸に出た。プレハブ倉庫みたいな外観の売店が、百m間隔くらいでいくつもあった。店員は大抵若い男の2人組だ。電気も来ており冷蔵庫もある。早速ビールを買う。冷えが悪くて物足りない。最近の日本では零度近くまで冷やす場合が多く、炭酸ガスの刺激が強くて、 350ccの缶ビール1缶すら一息では飲み干せない。しかし、ここのビールはお茶のように一気に飲めた。世界的に見れば、日本の低温主義が異常に感じる。日本人(私も)は何故か何にでも究極の姿を求め過ぎる、愚かな完璧主義者に思えてならない。

   海岸道路には道幅をゆったりと確保した歩道があり、大勢の老若男女が夫婦や仲間と共にジョギングを楽しんでいた。ショートパンツにランニングシャツ1枚の軽装だ。時速6Kmくらいの競歩みたいに、早足で散歩している人も多い。海岸線に沿ってホテルやマンションが立ち並ぶが、サントスよりもやや豪華だ。海水浴をしている人は早朝のせいか、さすがに一人もいなかった。水温を確認したら、海水浴は十分に可能だ。天気さえよければ、一年中海水浴はできそうだ。リオは南回帰線よりも、ほんの僅かだが赤道寄り。つまりここは熱帯だったのだ。

   茶色っぽい砂浜にはあちこちにバレー用のポールが対になって立ててあった。グループでネットを持参し“ビーチバレー”を楽しんでいる。砂浜には線引きがない。ボールを地面に落とさずに相手側へ戻せばよいようだ。ウィークデーにも拘らず、大勢の若者達が朝日を浴びながらバレーを楽しんでいた。収入は少なくとも、工夫次第で人生は幾らでも楽しめるようだ。
                             
   ベトナムなど海外諸国では仲間と共に早朝スポーツを楽しむ人が多いが、日本ではジョギングか散歩を孤独と闘いながら黙々と実行している人を、見掛けるだけなのは何故なのか?仕事で疲れ果てているのだろうか?それとも夜更かしの遊び過ぎで目が覚めないのだろうか?

   私はエジソンの白熱電球の発明が、人類の健康には悪い影響も与えているのではないかと危惧している。人類は長い間、朝日を浴びては目覚め、夕日を楽しんでは眠りに就く生活を繰り返しながら、生きてきた筈だ。格言“早起きは三文の得”に凝縮されている生き方こそは、最も自然な健康法と確信している私は、午前4〜5時に自然に目覚め、午後7〜8時には眠る快適生活を堅持している。しかし、早死にしたい人が多いのか、その価値をいくら喧伝しても『真似をした』との報告は、今に至るまで1つたりとも聞こえてはこない。

BNHKスプリング

   リオでの唯一の訪問先は日本発条が資本参加して子会社化したNHKスプリングである。アジア各国でのフィージビリティ・スタディの場合には、寸暇を惜しんで毎日3〜5社も調査させられたが、今回はたった1社に限定したためゆとりは十分にあった。
                              
   どこそこの会社に行かねばならぬとの事情はもちろん無いが、さりとて平日に仕事らしき計画がない出張は書類上だけではなく、お世話になる訪問国の関係者も困惑するし、当人としても気持ちが落ち着かないからだ。初めての海外出張国となったアメリカの場合も、工場見学は一日に付き1社に限定し、意図的に観光時間をたっぷりと確保したのを思い出す。歴史は正しく繰り返したのだ。

   NHKはホテルから1時間もかかる町外れにあったので、リオの町を縦断することになった。リオの町で美しいなあ〜と感じたのは、残念ながらリゾートホテルが建ち並ぶ海岸通りだけ。そこを離れると、美を感じないどころか、貧しい民家や廃墟のような造船所など、ブラジルに普遍的に見られる光景が続くばかりで観光気分を味わうどころか、逆に胸が痛んだ。

   日本発条がこの老朽化し尽くしたような工場に、いかなる観点から魅力を感じたのか知る由もないが、視野に嫌でも飛び込んで来た工場内の汚さ・設備の古さ・生産管理状態の悪さには所感を述べるのも憚られ、駐在員を励ます言葉も思い付かなかった。しかし、トルコやタイ等の発展途上国の平均レベルには達していた。『ブラジルの自動車生産台数が世界第10位(1996年は181万台)なら、部品産業もそれなりの水準に達している筈だ』との先入観に支配され過ぎていたが故に、厳しい現実に一層驚かされたのだ。

Cマラカナン・サッカー場

   収容能力155000人は世界一だそうだ。その結果、有料の見学コースまでが押すな押すなの賑わい。ギリシア・ローマ時代に建てられ、地中海沿岸諸国に今なお残っている多数の大型円形劇場(標準的な収容能力は3〜5万人)と同じように、一般席は長椅子形式。一人分ずつの仕切りがない。その結果、225000人も詰め込んだ空前の大記録も出たそうだ。
                                
   しかし、収容能力は国立競技場(私が一度に見た人間の最大数は東京オリンピックのマラソン競技の観客8万人=総重量5千トン。その時、応援者が発する立体音響の叫び声の中心地も、トラックを円谷が力走するに連れて移動したが、2位の走者に逆転された第3コーナーではとうとう悲鳴と化した)の2倍もある、との実感が沸かなかった。この座席数は本当に正しいのかと疑問に感じ、見学地点の近くにあった特別席の座席数を数え、全体を推計したら確かに約15万席はあった。慣れない頭には大き過ぎて、一覧しただけでは全貌を把握できなかったのだ。

   長径 944m高さ32mものスタジアムを1950年に建設した頃のブラジルは、敗戦後の廃墟からやっと立ち上がりかけた日本から見れば、確かに大国に映ったことだろう。鳥羽港に博物館として数年前まで係留されていた最後の移民船ブラジル丸には、希望に燃えながら移民を決意した若き方々の記念写真が飾られていた。我が瞼(まぶた)に未だに焼き付いているあの方々に降り懸かった、底知れぬ失望の深さはいかばかりだったろうか?       

   しかし後日、新首都ブラジリア(旧首都はサンパウロに非ず。リオですぞ!)建設に見せた大胆な計画力のある、さすがのブラジル関係者も、今日のような自動車時代は夢想だにしていなかったようだ。この巨大さと僅か百台分くらいしかない狭い駐車場とは、何と対照的な組み合わせであることか!

Dコルコバードの丘

   標高 710mの丘の頂上には両手を広げたキリストの像が建立されている。中東やアジア各国には仏像や神々の像を始め、国王などの巨大な彫刻が至る所にあるが、欧米ではキリストの像だけではなく、人物像でも大型の彫刻像は何故か見掛けなかった。ニューヨークの自由の女神像は唯一の例外だ。

   しかし、同じキリスト教国でもブラジルは変な伝統に束縛されなかったのだろうか?独立 100年記念事業として1931年に、高さ30m、両手の差し渡し28m、掌と頭の高さ3m、重さ1145トンの痩せたキリスト像を建立。今までは満艦飾の薄暗い教会内に飾られている、干物のようなキリストの像を見慣れていたので、頭が小さく見える10頭身のコンクリートの固まりをいくら熱心に眺めても、あり難みが感じられない。いかにも知恵が詰まっているなあ〜と感じる頭でっかちで、しかもふくよかに肥えた奈良や鎌倉の大仏に魅力を感じるのは、身びいきのせいだろうか?

   この丘にはアプト式の登山電車でも登れるが、私たちは自動車で登り、登山途中にある観光ポイントでは随時景色を楽しんだ。山頂の駐車場は狭かったが運よく駐車スペースを発見。丘の上からはリオの町を立体的に眺められた。運悪くガスが掛かり、時たまにしか全貌を現さないキリストの像を敬虔な信者達は根気よく待ち続けていたが、私にはキリストの像はどうでもよかったので、迷うことなく次ぎなる観光ポイントへと急ぐべく、直ぐに下山した。

Eポン・デ・アスーカル

   リオの海岸に、サツマ芋を真ん中で切断して垂直に立てたような形をした巨大な岩がそそり立っていた。表土が洗い落とされた標高 396mもある花崗岩の山だ。ケーブルカーに乗り、ひとまず標高 220mのウルカ丘に到着。そこでケーブルカーを乗り換えてアスーカルへと向かう。

   ウルカ丘の両端にある各駅は互いに数十メートル離れており、クネクネ曲がった連絡通路沿いにはお土産物屋がぎっしりと並んでいた。その国の絶景などがプリントされたTシャツは、ここでも御多分に漏れず定番商品になっていた。しかし私には、原価2百円の安っぽい生地に何やらを印刷しただけで、価格を5倍にして売り付ける観光商法には、付き合う気がまるで起きないのだ。結局これぞブラジルの特産品と感じた商品は発見できず、ビールを飲んだだけ。          

   220mの高さからでも眺望は抜群だ。眼下に見える緑豊かな山の緩やかな斜面に、僅かな数だったが豪邸が見えた。市街地の雑踏から離れた環境は抜群だが、強盗対策に秘策があるのだろうか?人事(ひとごと)ながら心配だった。

   アスーカルの頂上からは、コルコバードのキリストの像が、霧も晴れてくっきりと見えた。僅か数Km先の埋め立て地のような場所には、昨夜到着した空港が見えた。リオのような国際都市でも国内線は、短い滑走路がたった1本あるだけの小さな空港だ。

Fメトロポリターナ大聖堂

   ブラジルでは、勉強ばっかりしてついには考えることも忘れたような日本人には真似もできない、斬新な発想にまま出会えて感動。旧大陸の教会の外観は総て大同小異。要約すれば『平面図に描けば十字架の形。石造建築の場合は屋根は総てドーム。正面から見れば、左右に尖塔が2本』となる。

   ところが当聖堂の外観は、何とバケツを逆さにしたような円錐台だ!径は104m、天井の高さ68m、収容能力が 25000人もある鉄筋コンクリート製の巨大な空間に、床から天井にまで達するスリット状の、何本ものステンドグラスの光が輝き、中央部の祭壇の上には首飾りのようなキリストの像が吊り下げられている。
                              
   私は見慣れたタイプの教会に入らないと、敬虔な心境にはなれないのだが、ブラジル人にはあり難く感じられる建物なのだろうか?このユニークな聖堂の設計者に対抗できる日本人建築家は我が知る限り、無学歴で2年前(1997年)に東大教授に招聘された世界的に有名な建築家“安藤忠雄”さんただ一人だ。

Gカーニバル会場

   リオのカーニバル会場もまた巨大な構築物だった。祭の時だけに使う仮設会場ではなく、恒久的な設備だ。海岸通りと海との間に、幅30m長さ1Km近い舞踏場があり、その両側には階段状の観客席がある。20万人の収容能力は優にありそうだ。ナイターの照明タワー列も壮観だ。残念ながらカーニバルの季節は例年2月。残骸を眺めただけ。            

[4]クリチーバ

@ 油断大敵

   クリチーバは都市内渋滞をバスで解決した成果で世界的に有名だ。NHKスペシャルでも紹介されたが、交通関係者の視察が今なお絶えないらしい。チャンス到来。                                  

   海外に到着直後、駐在員に最初に頼む用事は航空券の予約確認だが、海外出張に慣れるに連れて、過去10回くらいは連続してサボっていた。でも何一つ支障は起きなかった。ところが今回リオの空港で、クリチーバ行きの切符が何とキャンセルされていたと判明。『しまった!』と思ったが、若松さんは『大丈夫です』と自信たっぷり。しかし私は『中南米では座席の二重販売(予約)も多いらしく、予約の確認は必須だった』と学習。

   若松さんの活躍が始まった。搭乗手続き窓口の業務を直ちに停止させ、係員と交渉開始。係員があちこちに電話を掛け始めた。しかし、一向に発券しない。今度は係員を連れて航空会社の事務所に出かけて交渉。荷物の見張りをしながら待つこと30分。やっと切符を手にできた。飛行機は満席だったが、元々の我が予約席には別人が座り、私に与えられたのは別の座席だった。思うに、搭乗手続き前だった誰かが乗れなくなったのだろう。この体験は後述するように、アルゼンチンでは大変役に立った。

A朝の散歩

   ホテルの前には大きな公園があり、巨木が茂っていた。気のせいか空気が美味しい。皆早起きだ。公園には人が多い。まだ6時過ぎなのに賑わっている。店も既に半分は開いている。外食産業も既に営業開始。日本で見掛ける午前10時頃の都市風景に近い。

   ホテルに隣接したビル街の一階に、イギリス系の酒場(パブ)のように色とりどりのガラス瓶を逆様に吊した店があった。珍しい地酒でもあるのかと思って立ち寄ったら、空瓶を持参し欲しい量だけ買える香水や化粧水の専門店だった!日本にも進出してくれれば、我が家にごろごろしている化粧瓶が減る。

Bバス路線

   クリチーバの人口は約百万。地下鉄では採算が合わない。バス専用車線を設定し、鉄道のように時刻表通りの運行を開始した。ここまでは良くある話だが、違っていたのはバス停の構造だ。鉄道のように立派だ。屋根も壁も透明な待合室だった。乗客にはバスの接近が分かり、運転士にも乗客の有無が分かる。

   バス停には鉄道のように屋根のあるホームがあり、段差もなく乗降にも便利だ。バスが停留所に到着すると待合室のドアが開く。新横浜駅のホームでは列車が停止すると、白線の位置にある柵が自動的に開くが、同じ考えだ。毎回『白線の内側でお待ち下さい』と怒鳴るより遥かに合理的だ。

   専用バスのデザインも素晴らしい。ゆったりとした座席配置だ。乗降口は別々。乗降時間も半減。要所要所にはバスセンターがある。大型の鉄道駅みたいだ。バスの乗換えはホーム間の移動を通じて実施。交通量の多い幹線には3台の大型連結バスを投入。2百人は軽く乗れそうだ。

   ハードウェアの抜本的な整備の下に定時運転が実現したためか、今や快進撃だ。市民がバスに乗れば、自ずから道路の渋滞もなくなる。アイディアと実行力とに拍手喝采!

C素晴らしい都市計画

   中心部にタワーがあった。有料エレベータに乗り約百m高さの展望台に登る。マンション建設地区には、屋根や外壁の色も同じデザインに統一された、約20階建ての建物が百棟以上も立ち並んでいる。スカイラインが揃うとそれなりに美しく感じる。

   一戸建ちの住宅街もあるが、どうやら高さ制限があるように感じた。3階建てまでしかない。各家は鬱蒼たる緑に囲まれている。マンションと混在させないところが立派だ。公園地区には大きな池もあり、タワーから眺めると、都市計画者の並々ならぬ意思を感じ取ることができる。無秩序なサンパウロと同じ国とは信じられないほどだ。

D素晴らしい半野外劇場

   都心から僅か5Kmくらいの位置に、滝と池を包み込んだ緑豊かな景勝地があった。なんとその滝壺に繋がる池の上に、総ガラス張りの鉄骨劇場を建設。

   劇場への道は、網の上に板が敷かれた、池が覗ける橋へと繋がっていた。非日常性溢れる雰囲気の下、満天の星を見ながらの観劇では、さぞかし深い感動が自然に沸いてくるのではないか?余程有名な劇場なのか、滝壺横の岩には尋ねてきた国際的な著名人の名前が彫り込んであった。観光土産の門前町すら誕生する盛況。

Eデンソー・ブラジル工場

   驚いたことには『デンソーの従業員数はブラジル・トヨタの2倍。納入先はブラジルに進出している欧米の自動車企業が大部分で、フラジル・トヨタへの売上額は、円グラフに示されたその他5%の中に含まれている』と聞く。デンソーの工場はどこの国でも美しい。工場の大拡張工事の真っ最中だったのはご同慶の至り。給料が高いのか、ブラジルにしては、異様に広い従業員用の駐車場があった。

   応接室では大きなサイン帳を出された。『何か一言、記念に書いて頂きたい』こんな注文は、海外では初体験だ。前の方を捲(めく)ったら、アイシン精機社長豊田幹司郎さんの『私達もいつかは、ブラジルの仲間になりたい』とのサインが目に入った。

   ワープロを使い始めて数年経ち、元々下手な字がいよいよ下手になり、まさに恥ずかしながらの置き土産を一筆。その昔『アメリカ人は揃いも揃って、どうして字が下手なのだろうか?』と疑問に思ったが、その謎が最近解けてきた。私に限らず平均的日本人は、明治以前の日本人は言うに及ばず、ベトナムや中国などの、どのアジア人と比べても、漢字だけではなくアルファベットも格段に下手なのだ。

   今や字を書く機会は、宅配の受け取りやゴルフとテニスの各クラブでのサインだけになってしまったが、一字一字、習字の練習の積もりで、せめて自分の名前くらいは小綺麗に書きたいと願っている始末。

F奇岩見物

   誰かに案内して頂いた筈なのに半年経った今では、どこだったのかすっかり忘れてしまった観光名所がある。我が老化は着実に進んでいたのだ!ある都市(クリチーバ?)から車で百Kmくらい離れた場所だ。道中のなだらかな丘陵地帯には、牛の柵付き放牧地や麦畑等の単調な景色が続き、人家は殆ど見掛けなかった。

   突然、高さ20〜30m長さ数キロにわたり、浸食が進み色も赤茶けた奇岩列が現れた。近付くと駐車場もあり、簡単な御土産店や簡易レストランがあり賑わっていた。そこから約2Kmにわたり、奇岩の観賞コースが整備されていた。

   コースの途中に直径1m、高さ30m位の鉄筋コンクリート製“お立ち見台”があった。表面には足型が描き込まれ、向けるべき視線の方向が矢印で示されている。その傍らの看板には番号が記されており、順コースが自動的に分かるようになっていた。全部で40位もあった。

   看板には、その位置から岩塊が何に見えるかの漫画が画かれていた。例えば“ラクダ”“ライオン”“花嫁”などである。じっと見比べていると、なるほど似ているなあ〜と感心する物も多かったが、どうしても漫画との繋がりが感じ取れないものもあった。

   奇岩の観賞法まで親切に準備するのならば、一歩進めて『もっとぴったり来る譬えを思い付いた人には、解釈の例を提案させたら、一層人気が出るのでは?』と思わずにはおれない。他の観光客も現物と絵とを見比べながら、しきりに小首を傾(かし)げていたからだ。  

G珍品・化石の風鈴

   何処で発掘されているのか、クリチーバの空港内の売店で見掛けた美しい化石の風鈴を購入。赤や緑の色鮮やかな木の年輪が美しい。2mm厚位にスライスし、丈夫で透明な化繊の糸で干し柿のように吊すと風鈴になる。化石は半透明状態なので光を当てると美しく輝く。その硬度は予期せぬほどに高く、風でお互いに触れ合うと澄んだ音色が響く。

[5]ブラジルは今後どうなる?

   ロシア、カナダ、中国、アメリカに次ぐ世界第5位に位置する広大な国土がありながら、今なお政治でも経済でも大国になり切れないブラジルの苦悩は深刻だ。

   余りにも多いスラム(現地ではファベーラと呼ぶ)に驚愕していたら、多くのブラジル駐在経験者から『日本にもスラムがある。新宿にも名古屋にもホームレスは山ほどいるではないか。スラムの有無で一国を評価しようとする姿勢には疑問を感じる』とのご指摘を受けた。しかし、私は直ちに反論した。

   『なるほど、両者の住環境は似ているが、住民には本質的な違いがある。スラムの住人は必死で生きている家族だが、日本のホームレスは怠け者の単身男が主だ。女や子供は殆どいない。ブラジルの悲しさは、働く意思と能力があってもなお、地獄のようなスラム生活から、社会的弱者を救済できない現実にある』

@国土は役立つか?

   広い国土も活用できなければ無用の長物に過ぎない。世界の大油田は全て大河川の流域にある。大アマゾンの広大な流域には石油やガスの膨大な埋蔵資源があると考えるのが自然だ。しかし、国際石油資本は中東や北海油田等の優良資源が枯渇するまでは、悪条件下にあるアマゾンへの進出には採算面からためらっている。

   比較的容易に開発できるのは農業や鉱物資源だ。コーヒー、オレンジ、大豆、牛肉、鉄鉱石などは国際競争力も十分だが、余りにも価格が低く、1億5千万人以上もの国民を養うには力不足だ。人口爆発による世界的な食糧危機は、騒がれているほどには早々と起きそうにもない。購買力のある先進国は食糧危機どころか、飽食問題で悩んでいるほどだ。
                              
   従って、ブラジルが広い国土を切り札に使える時代は、遥かなる遠い未来だ。

A人材は?

   究極の無資源国である香港やシンガポールは、人的資源を活用して急成長した。ブラジル政府が国家百年の計として教育に本気で取り組んでいるのか大変疑問だ。今なお文盲が2割以上もいる。日本に百年以上も遅れている。

   日本の過疎地では明治以降今日に至るまで、一番大きくて立派な建物は学校だった。アジア各国では小さくても学校はあちこちで見た。しかし、ブラジルでは学校建設が後回しにされているのか、その存在にすら私は殆ど気付かなかった。 

   7歳から始まる義務教育は8年間、高等教育への進学率はアルゼンチンの3割(11%)に過ぎず、大学は公私合わせてたったの65校だ。こんなデータからは、この国から国際的な新技術が続々と生まれて来るとは当分の間、期待できそうにもない。                      

   あからさまな人種差別もなく誰もが、親しくアミーゴ(友人)と呼び掛けてくれるこの国は、一旅行者には大変居心地の良い国ではあった。しかし、この国の未来に視線を移せば移すほど、大勢のアミーゴ達から受けた厚意が大きければ大きいほど、我が心の曇りは深まるばかりだった。
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アルゼンチン

   アルゼンチンはラッキーカントリーだ。国土が広い( 277万平方Km)だけではなく、温暖な気候にも恵まれた大平原(パンパス)もあり、利用可能な土地は無尽蔵に近い。スペイン人が先住民を皆殺しにしたのか、白人比率は97〜98%にも達するが、意外なのは、イタリア系(35.5%)が旧宗主国のスペイン系(28.5%)よりも多いことだ。

   大自然の景観にも恵まれている。南北アメリカ大陸の最高峰はアルゼンチンのアコンカグア(6959m)だ。ブラジルの最高峰バンディラ(2890m)の2倍以上もある。山岳地帯には超高級繊維が採れるラクダ科のアルパカや世界最大の猛鳥コンドルも生息、南端のパタゴニアの美しさも夙(つと)に知られている。加えて北部の国境には、世界最大のイグアスの滝もある。

   東西南北、全国土を駆け巡りたいのは山々だが贅沢は言えない。建て前ではあっても、仕事一筋の出張だ。ほんの一瞬だったが、それでも尚、最果ての地アルゼンチンにまで来られた我が幸運に心から満足した。

[1]最果ての大都市(ブエノスアイレス)

@延着

   サンパウロとブエノスアイレスには、小さいとはいえ共に国際ハブ空港があり、両都市間には直行便も多い大幹線がある。一方、クリチーバとブエノスアイレス間はそれとは対照的な程の閑線だ。然(さ)はあれども北に位置するサンパウロ空港経由便では時間短縮にもならず、やむなくブラジル南部のポートアレグレ経由便を選択。クリチーバの直ぐ南には、知る人ぞ知るブラジルの“サンフランシスコ”もあるが、アメリカ西海岸にある同名の町のように美しいのだろうか?
   
海外では時刻表通りに管理運行されている鉄道は日本に比べ大変少ない。かつて日本交通公社のパック旅行で利用した、フランスの高速鉄道(TGV)すらもその例外ではなかった。始発駅なのにジュネーブでは、理由も知らされないままに発車が遅れた。日本では鉄道どころか飛行機も天候さえ良ければ、ほぼ時刻表通りだ。鉄道すらもまともに運営できない国の航空時刻表は、当てにする方が異常なのだと、またもや体験させられた。

   ブエノスアイレスに着いたのは2時間遅れの午前1時半だった。時刻表上の飛行時間は空港の込み具合や気象条件の変動も見越して、必要な飛行時間よりも多少だが余裕時間が込められている。その結果、長距離線の場合、予定より30分早く着くことも珍しくはない。従って迎えに来る人達は万一にも備えて、空港には気の毒にも早めに到着して来客を待つのが普通だ。

   顔見知りでしかも10年来のゴルフ友達だった駐在員の勝さんは『今や遅し』と待ちくたびれていた。会うや否や『御免ね。遅れてしまって』との挨拶には間髮(かんはつ。これは単語ではなく2語のため、国語辞典の見出しには載らないが、用例集には出ている。かんぱつと誤読する人もいる)を入れずに『石松さんの責任ではありませんよ。私と石松さんとの仲ではありませんか。水臭い…』と言われ、期せずして氏の人柄に触れる結果となり、ほっとした。

A助かった!

   翌朝、アルゼンチン・トヨタに着くや否や、若き駐在員に航空券を渡し、帰国までの全切符の予約確認をお願いした。ディナーショウ見物で再会した折に『イグアス発サンパウロ行きはキャンセルされていました。2時間前の便に運よく空席があったので、アルゼンチン・トヨタの負担で航空券を買いました。その日はサンパウロに当初の予定よりも早く着き過ぎますので、空港では退屈されると思い、ブラジル・トヨタの駐在員にレストランへお連れするようにと頼みました』との報告。日曜日だったので観光客も多かったのだ。

   その瞬間、『ああ、助かった!しかも、痒いところにまで何とまあ気の付く人か』と感心。鉄道と異なり、航空機は気象条件等の外乱に影響される確率が高いためか、高価な正規運賃で買った航空券には特別の恩典がある。理由の如何に拘らず未使用切符の料金は払戻しされる。今回の場合、出張旅費の精算時に、旅行社からトヨタ自動車にキャンセル区間の料金は全額返金される。(私が払戻金を小遣いとして、役得で貰えるのではない。読者よ、ゆめ誤解めされるな!)

   帰国後、トヨタツーリスト(切符を手配した旅行社)の担当者に経緯を説明し、『南米への初出張者にはご面倒でしょうが、予約確認を忘れないように、との念押し説明を』と伝えたら、『本人による現地での予約確認は、今や不要になっています。出国時、最初に搭乗した航空会社が、その客の帰国までの予約確認の面倒を見る事になっているからです。石松さんの場合は英国航空に責任があります』
                  
   痛い目に遭った体験に基づいた貴重な情報に、恥ずかしげもなく、否それどころか『あなたは、最新のルールをご存じありませんね。ご参考までに教えてあげます』と言わぬばかりの答弁をさせるような会社には『定年後の海外旅行の手配など、誰が頼むもんか』と爾来決別。

[2]アルゼンチン・トヨタ     

   アルゼンチン・トヨタはブエノスアイレス市の郊外85Kmのサラテ市にあった。工場に辿り着く途中には広々とした牧草地や農場もあったが、本格的な農業地帯ではないのか、農閑期なのか、どちらかと言えば荒れ地に近かった。高低差が殆どない限りなく平坦な平野には、山国育ちの日本人には予期せぬ悩みがあるようだ。水捌けが悪いのだ。一度大雨が降ると長期間冠水してしまう。1998年に発生した中国の大水害の経緯と似た現象だ。

@工場

   1年半前に完成した真新しい工場は土地が 132万u、建物は3万u。ここの土地も水捌けが悪い。毎分1mmの集中豪雨は工場では毎分1320トンの洪水に相当する。雨水の排水対策は後回しにされているのか、路肩に溜まっていた水を守衛のような人が、スコップで側溝へと掻き出していた。

   どこの国でも新工場では通常、若い社員を採用できる。若い社員は順応力が高く教育のし甲斐がある。トラック(ハイラックス)の組み立て作業にもすっかり習熟しているようだ。若さが溢れている間に、より難しくなる乗用車の組み立て技術を学ばせるチャンスが欲しいが、生産開始はかなり先のようだ。

A社員クラブ

   サラテ市の郊外にアルゼンチン・トヨタの社員クラブがあった。そこには高級個人住宅や各社の社員クラブなどが集中。分譲団地全体は塀で囲まれ、出入り口のゲートには管理人もいた。我が社員クラブは医師から買い取った邸宅だった。豪邸と言われるためには、バス・トイレ付きの寝室が多いだけでは失格。暖炉のある大きな居間が必須のようだ。トヨタ・ホームのカタログには暖炉付きの家はなく、夢も持てず実に寂しい。我が友人の中には、暖炉付きの家持ちは一人もいない。

   庭には金柑が植えてあった。実が梅のように大きかったが、我が家の小粒種と同じ味がした。団地内には何とゴルフ場もあった。各家には塀がなく、アメリカ風のオープン形式だ。庭木の美しさには住人の努力の跡が散見される。それなのに我が社員クラブの戸締まりの厳重なこと!勝さんが鍵を開けるのに10分も掛かった。一時は諦めそうにもなった程だ。

[3]町のあちこち

@駐在員宅

   昼過ぎに勝家に招かれた。マンションの1フロア全部が一軒になっており、エレベータを降りると玄関だ。奥様手作りの和食をご馳走になった。張り切られていたのか料理の種類も量も多くて困惑。箸を付けた料理のみを全部食べるか、それとも総ての料理の試食に徹するかで迷ってしまった。奥様の一声に甘えて、結局は我が好奇心を隅々にまで満たす結果となった。

A交通網

   ブエノスアイレス市内の観光名所のつまみ食いに出発。誰の発想なのかサンパウロとは対照的な程の、目が醒めるように素晴らしい都市計画だ。縦横共に百メートルピッチの道路が走る。ニューヨークより立派だ。都心にはハイドパーク(ロンドン)かセントラルパーク(ニューヨーク)かと、見間違うような大きな素晴らしい公園もある。

   1913年には最初の地下鉄(試乗の時間はなかった)が開通。地下鉄銀座線の計画時には、日本から視察団も派遣したそうだが、今では彼我(ひが)の国力も逆転し、丸の内線の中古車が当地で活躍中。                 

   一説によればアルゼンチンは第一次世界大戦以降、実質的な経済成長は止まっているのも同然だそうだが、豊かな大地と快適な気候に恵まれてのんびりと暮らせるのは何よりも羨ましい。第二次世界大戦直後はアメリカに次ぐ、カナダと並んで豊かな国だったとの説にも信憑性を感じる。

   都心には道路幅( 144m=約 160ヤード。我がドライバーの飛距離に近い)世界一の大通りがある。パリが誇るシャンゼリゼ通り( 124m)よりも20mも広い。名古屋市が百メートル道路を自慢すればするほど、どこかもの悲しくなる。   

   道路の中央には市制 400年を記念して1936年に建てられた、高さ72mの白いオベリスクが聳えていたが、鉄筋コンクリート製でがっかり。機械力のないエジプト時代ですらオベリスクは一本石で作ったのだ。形だけは真似ても中身が伴わないこの種の記念物は、道路上を占拠している障害物に過ぎない。         

B日本庭園

   入り口には、お寺の山門のようなゲートがある。有料だ!それでも、アルゼンチーナには人気が高いのか多数の入場者を見掛けた。

   大きくて複雑な輪郭の池があり、周辺には既に大木に育った日本原産の庭木もある。石で造った太鼓橋や灯籠などが三種の神器のように配置されている。草花も咲き乱れ、手入れも行き届いている。庭園の中には散歩道があり、一周するだけで気分転換もできる。都心にありながら静寂だ。ふと俳句を詠もうと試みたが、慣れない世界は航空工学よりも難しく、敢えなく断念。

Cスーパーマーケット

   平屋建ての巨大なスーパーマーケットに出かけた。レジが百くらいもあった。レジが2百のスーパーもあるとか。日本で見掛けるカートの3倍もあるワゴンに山盛りの買い物をしている。かつての超インフレ時代、お金の目減り対策として給料が入り次第、1ヶ月分の生活物資を買い込んでいた習慣なのではないか?(後日、加茂カントリー倶楽部のアルゼンチン人女性キャデイに聞いたら『その通りです』と答えた)

   家庭電化製品はシンプルで意外に安い。日本では家電メーカーのマイコン戦略に踊らされ、使いこなせないほどの制御機器を抱き合わせで買わされているような気がした。30年前に買った家電製品のマニュアルはたった紙1枚だったが、今や書籍に昇格、最後まで読むのに疲れてしまう程に分厚い。つい先日買ったばかりの遠心力洗濯機の据付説明書と取扱説明書とは、A4判で合計64ページもあった。

   青果売り場は圧巻だ。さすがに大農業国の面目躍如、大きな箱に山積みされている。必要なだけ客が袋詰めするシステムで理に適っている。季節商品が中心で、日本のように季節外れの品を粋がって、高く買う愚かな人は少ないようだ。

   肉売り場もさすがは本場だ。大きなブロック売りもあるし、値段は日本の概ね半分だ。一方、魚は人気がないのか、日本人なら逃げ出したくなるような臭気が売り場に立ち込めている。生活の知恵として言い伝えられている“魚の鮮度は目で分かる”と言う台詞の意味が分かった。古い魚の目は白内障のように白濁している。日本では今までに見た記憶もない。駐在員婦人はどこで新鮮な魚を買うのだろうか?

Dタンゴ発祥の地

   ラ・プラタ河に面した古ぼけて活気のない小さな港の近くに、タンゴ発祥の地があった。ここだけは古い町並みが、使われながらそのまま保存されていた。しかし、『古さにこそ大きな価値が宿る』と言わぬばかりの各地の世界遺産に散見されるような、カビ臭い印象は全くない。

   高々2〜3階建ての普通の木造の民家が不規則に立ち並んでいる。精々長さは百メートルしかない通りだ。ところが屋根や壁は赤・朱・黄・緑・青等の派手な原色のペンキで塗りたくられている。芝居のセットか絵画の世界のようだ。石や鉄骨・鉄筋コンクリート造りが主流の現代都市とは全く異質の景観だが、ヨーロッパ人が入植した頃の色彩なのだろうか?パリに似た重厚なブエノスアイレスの都心を、眺め疲れた頭には殊の外新鮮に映る。

   車も通らない通りの真ん中では画伯が風景画を描きながら、同時に作品も販売していた。デッサンも巧みな素晴らしい絵が1万円もしない。名画の模写や写真を飾るくらいなら、本物の油絵を飾る方が楽しいとは思ったが、我が家には絵を飾る場所もない。

   ここはブエノスアイレスの有名な観光スポットらしく、御土産屋も観光客も多い。ふと見たら革製品専門の店があった。アルゼンチンでは人口の2倍もの牛が放牧されている。一説によれば、ブラジルの牛は有刺鉄線で囲われて飼育されているから革に傷が多いが、完全放牧のアルゼンチンでは革が綺麗と言う。分厚い革でできた素晴らしいデザインの帽子が目に入った。

   『いくらですか?』
   『33$だ』
   『高い。20$なら買う』
   『ここは、香港やシンガポールではない。アルゼンチンなのだ』
   『少しは安くして下さいよ。地球の裏、2万Kmも離れた日本から来たのですよ。幾ら
にしてくれますか?』
   『30$』
   『高い。やあ〜めた』と言って店を飛び出す。5分後には作戦通り舞い戻り、
   『27$なら買う』
   『OK』
   『但し、支払いはカードにしたい』
   『NO.米ドルの現金払いだ。カードでは手数料を取られる』
   『小銭は持っていない。30$払うからお釣は、私が持っていないアルゼンチンのコイ
ンで払って欲しい。各国のコインを集めている息子への御土産にしたいのだ』
   『OK』お爺さんは、我が掌のコインと見比べながら、残りをレジから探し出した。
   『コインの合計値は3$を突破しているが、その分の米$がないんだけど』
   『フリー(只)、フリー。あげるよ』

   海外での買い物では何時も、駆け引きを恥ずかしげもなく楽しんでいる。型崩れを防止するため、帽子を被ったまま帰国。その後、ゴルフ・テニス・親睦会などで仲間に見せびらかしながら、話題を提供している。

Eタンゴのディナーショー

   『今晩、何処か行きたいところはありませんか?』と勝さん。
   『出国前に勉強する暇もなく心当たりは全くありません。お勧めされるところで満足です』   『タンゴのディナーショウーはいかがですか?』
   『予約が今からでも間に合いますか?』
   『お任せ下さい』暫くして、
   『満席でしたが、オーナーとスペイン語で直談判の結果、部屋が取れました』
   『どうやって交渉したんですか?』
   『当社にとり最重要なお客様が、日本から突然来られた。アルゼンチン・トヨタは以前から当劇場の大口顧客だったことは、ご存知だと思うが』
    
   “嘘も方便”とは、日本から最遠隔の地、ここアルゼンチンでも通用するらしい。“一人は皆のため、皆は一人のため”とは保険会社の宣伝文句だが、トヨタの影響力が世界の隅々にまで浸透し始めたと実感。              

   この劇場の正面はギリシアのパルテノン神殿の正面にそっくり。切り妻の壁面には彫刻が飾られている。長方形の床の中央部に舞台があり、客席は吹き抜けの舞台を囲む回廊式に配置されている。1階は衝立のないテーブル席、見晴らしの良い2階は枡席(ますせき)、3階は一人でも観劇できる一般席。1〜2階の座席では食事もできる。

   我が指定席は2階の長辺の中央部、つまり舞台を眼下に見下ろせる最上級の部屋だった。最大12人まで入れる枡席だったが、贅沢にもたった3人で独占。入場料は一人当たり百$。お酒は飲み放題。花瓶のように大きな容器でワインを運んでくる。摘みで満腹の頃、厚さ5cmもありそうな超大型のビフテキが出てきた。厚さ方向の薄切り一枚でも日本でならば、どこのレストランでも通用する立派なビーフステーキになる。

   食欲がなくなると、関心は味そのものよりも他の問題へと変わる。『何グラムあるのですか?』『焼く前は8百、焼いた後は7百グラム』と即答。この世界にも標準はあるようだ。何処から手を付けるのが正調なのかと、しばし思案投首。端っこから食べても、食べたか否か分らない程の量を残す筈と予想し、真ん中を食べようと決意。2分割後、それぞれの切り口からひとかけらを切り出して試食。  

   『輸入肉はまずい』と言うのは、和牛関係者の陰謀ではないかと思った。新鮮で脂身も少ない若い牛の柔らかな肉は、たとい鰭肉(ひれにく)に非ずとも、成牛の霜降り和牛よりも美味しく感じられたのだ。

   かつて、子供たちへの本物教育も兼ねて、ホテル豊田キャッスルでは高級フランス料理のフルコース(一人前が1万円)、伊勢松阪の和田金(今や日本一、との定評を維持している松阪牛の和風レストラン)では霜降り肉のすき焼き(一人前2切れ=80グラムのすき焼きが8千円)、自宅での場合は安上がりになるので、豊田そごうで百グラム3千円のすき焼き用松阪牛を買い求め、無制限に食べさせたことがある。          

   霜降り肉の最初の一口はさすがに美味しく感じられたが、結局一人当たり2百グラムを食べるのが限界だった。たちまち満腹感に襲われたのだ。真に満腹するまでたっぷりと食べられるのは、赤肉だけのステーキだったのだと再確認。

   さすがはアルゼンチンを代表しているダンサー達だ。音楽とテンポがぴったりあった手足の鮮やかで素早い動きには、数十年間にわたり踊り続けた芸人の気迫が爆発したかのようだ。70歳代にも見える紳士が青年のように軽やかに舞う。タイミングが合えば非力な老人でも、女性をあれほどまでに軽々と持ち上げられるのだろうか?

   歌の意味は分からなくとも、何故か心地好く耳に響く。必ずしも出し物は正調タンゴばかりではなかった。“コンドルは飛んでいく”の曲が流れた。アンデスの先住民らしき人達が現れて踊った。哀愁を帯びた曲がクライマックスに至ると、感動の余り一筋の涙が、我が頬を走った。素晴らしい芸術に遭遇し、久々に感じたカタルシス(心の浄化)は何にも代えがたかった。

Fコロン劇場

   アマゾン河中流のマナウスで1896年に、天然ゴム景気に沸いて建てられたアマゾナス劇場(まだ見ていない)が、ブラジルのかつての繁栄の象徴だとするならば、アルゼンチンでは定めし1908年に建てられたコロン劇場ではないかと思う。

   コロン劇場はミラノのスカラ座(まだ見ていない)、パリのオペラ座と並んで、アルゼンチンでは世界3大劇場と言われているそうだ。しかし、この種の評価には我田引水が多いのも世の常。典型的な井の中の蛙族である日本人が『世界3大美人とは、クレオパトラに楊貴妃と小野小町だ』と口にする類いだ。    

   結婚したばかりの若い駐在員夫妻がホテルまで迎えに来てくれた。『奥さんも来られるかも知れませんよ』と聞かされてはいたが、驚かす計画だったのか、誰だかは事前には知らされていなかった。アッと驚いた。同じ職場で働いていた女性だったのだ。彼女には長い間にわたり、社内便の受発信他いろいろな私的雑務で大変お世話になっていた。

   どうせ話半分の見せ物小屋位だろうと思っていたら、最後には『う〜ん』と絶句。見学するだけでも入場料を取られ、言語別のガイドがついた。規模の壮大さに先ず驚く。収容力は3432人、立ち見を入れると4500人。1階は千座席位で、床面積は何度も出かけたことのある御園座(名古屋市の常設劇場)よりも狭く感じられた。6階建てとは言え、2〜6階は1階の床を馬蹄形に囲む奥行きの浅い回廊式の雛段になっていたので、席数数は少ない筈と反射的に推定したのだ。

   見学途中、壁に貼ってあった座席配置図に気付く。狭いと思った2〜6階が実は広かったのだ。各階吹き抜けの空間を取り巻いて1列百席、その列が奥行き方向に5段、合計5百席もあった。床を囲む3辺の総延長距離は予想外に長かったのだ。舞台を至近距離から死角もなく楽しめて且つ収容能力を高めるには最適の構造だ。写真で見たことのあるスカラ座と同じ構造だ。日本の大劇場は座席は3階まで、しかも側面の座席は何故か少ないので、客席は前後に長くなり、3階の一番後ろの席では望遠鏡が必要なほどに遠くなる。何故、もっと設計の工夫をしないのだろうか?

   巨大な収容能力よりももっと驚いたのは、膨大な関連施設だった。この巨大な建物(私の推定では延べ3万坪)の地下にはバレリーナの養成学校もあった。そのための大きな教室が幾つもあり、何百人もの生徒が練習していた。更には舞台で使う高さ10mもある巨大な道具(森・木・動物・家・垣根等)の製作工場もあった。一度作ったものは再使用に備えて建物内の天井の高い倉庫に収納。運搬用エレベータの巨大なこと!

   カツラや衣装類を作る工房もあり、作品が保管されていた。日本髪のカツラもあった。結局、このビルの中で働いている人や勉強している人は、うろ覚えだが2500人もいると言う。90年も前に今なお使用に耐えるだけの大劇場を建てた企画力に驚嘆した。しかし、この建物よりもっと素晴らしかったのは、大勢の人が演劇を更に発展させるために努力している姿だった。

   日本には市民会館の類いも含めると、劇場として使える、千座席以上の建物は千ヶ所以上もあるそうだが、残念ながらその建物の中で常時活躍している人は僅かだ。豊田市市民会館にも約2千の座席があるが、芸術とは無縁なほんの僅かの管理人達が、暇そうに働いているだけだ。何と言う税金の無駄使い!

   ご夫妻には昼食も誘われたが『疲れも重なったし、空港内のラウンジで、ゆっくりと休みたいから』と丁重に辞退。既に我が心はイグアスに飛んでいたのだ。

[4]アルゼンチンは今後どうなる?

   アルゼンチンほど、気候温暖・風光明媚・膨大な可耕地に恵まれた国は大変少ない。人口も面積もその1割程のニュージーランドはアルゼンチンの小型版だ。国民一人当たりの資源がこれほどまでにも豊かな両国は、食住に不自由しないのんびりとした生活が、生まれながらにして保証されているようなものだ。

   しかし、ハイテク電気製品や自動車を買い、海外旅行を楽しむためには天然資源が豊富なだけでは、十分ではない。資源には恵まれなくとも、世界的に魅力ある商品開発に成功したスイス(時計、機械、化学=チバガイギー、食品=ネスレ、秘密口座=銀行)のような豊かさは、徒手空拳のままでは獲得できまい。

   この国のアキレス腱は南ア同様、人口の少なさにある。スイスのように人口が極端に少なければ、特定分野に成功するだけで国民を養えるが、3500万人は多過ぎる。さりとて、アメリカ・EU・日本と工業製品の全分野で対等に闘うには、南ア同様に国内市場が小さ過ぎる。

   ニユージーランドは同レベルの隣国オーストラリアを初め、英連邦諸国の特恵市場の支援もあった。アルゼンチンはブラジルが中心となって編成した共同市場(メルコスール)にパラグアイ、ウルグアイと共に参加しているが、いずれの国も余りにも貧しく、どれほどの役に立つのだろうか?

   ああ、一体どんな対策があるのだろうか?さもなくば、この停滞からの脱出は、見果てぬ夢と化すのだろうか?
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イグアスの滝

[1]滝へ滝へと、刻一刻

   世界3大爆布(残りはアフリカ南部のビクトリア、北アメリカのナイアガラ)の一つイグアスは、アルゼンチン・ブラジル・パラグアイの国境にある。ブエノスアイレスからアルゼンチン側の空港に到着。当日の宿泊はブラジル側、滝の真正面にある最高級ホテル“ダス・カタラータス”だった。

   さすがに世界的な観光地である。タクシーの運転手は何もかも心得ている。ブラジルへの入国手続き書類の作成も代行してくれた。国境の検問所も何一つ揉めることもなく無事通過。ホテルまでの60Kmにも及ぶ道路は鬱蒼たる密林の中に切り開かれた片側1車線だったが、路肩の木々が1車線分も切り払われており、圧迫感も少なく快適だ。しかもブエノスアイレスでも珍しいほどの完璧な舗装道路だ。 

   この近辺は文字通りの密林だ。大から小までの木々が重層的にビッシリと生えている。雑草で覆われた地表面には立錐の余地もない。私が出会った樹木密度が最も高い密林だ。運悪く交通量は少なかったので、もし運転手が強盗に変身したら、簡単に私を密林に連れ込めただろうと思えた。片道でも往復料金の60$だったが、空港出入りの正規タクシーを使っていたのでホッとした。やがて地響きが聞こえてきた。滝の音は20Km先まで聞こえるそうだ。

   ホテルから手前1Km地点にゲートがあった。安全確保のためか車の出入りを厳しく管理している。ホテルはなだらかな丘の上にあった。真正面に巨大な滝の一部が見えた。滝の音には耳が痛くなるような音圧は感じないが、発生源の面積が広くて、音の総エネルギーが巨大なためか、庭でも部屋の中でも何処でも同じ音量に聞こえてくる。滝全体が音の発生源だからか音源の位置は特定できず、大きな暗騒音を聞いているようなものだ。 
                       
   点音源ならば距離の二乗に反比例して音は小さくなるが、幅4Kmにも達する滝全体が音源であるため、音圧の減衰は大変緩やかだ。20Km先でも聞こえるとの説は、何等大袈裟ではないと納得。

   ホテルに着くや否や、明日の観光タクシーを予約した。運悪く世界一のイタイプー水力発電所は日曜日のため休館日。ブラジルとパラグアイの国境を流れるパラナ川に長さ8Kmものダムを建設。ダム湖の面積は琵琶湖の2倍。70万キロワット×18基=1260万キロワットにも達し、エジプトのアスワン水力発電所( 240万キロワット)を追い抜いた。これもやがては長江の三峡ダムの発電所(1800万キロワット)に追い越される運命にある。 

   しかし、こんな辺鄙な所に工場を立てることも儘ならず、送電ロスで電力の半分は失われているのではないかと、老婆心ながら心配になる。超々高圧(百万ボルト以上)の直流送電の実用化は、ここでは火急の課題に思える。

[2]全貌が分からぬほどに大きな滝

   夕方、時間があったので、滝見物に出かけた。合羽持参の観光客が多い。散歩道は常に飛沫で濡れているので夜間は危険との立て札があった。ホテルの前を流れるイグアス川を見下ろす斜面に沿って細い遊歩道があった。イグアス川の対岸に沿ってどこまでも滝が続く。ナイヤガラには大きいとは言ってもたったの2本(カナダ滝とアメリカ滝)しかないが、イグアスには大小3百もの滝があるそうだ。富士山の麓にある白糸の滝の大型版だ。落差は精々数十メートルだが、水量は毎秒3万トン。利根川の平均流量は毎秒 274トンだそうだから、何とその百倍だ。

   イグアス川は蛇行しているので、散歩道もクネクネと曲り、その度に別の滝が視野に入り飽きることがない。やがて、川底そのものに段差がある場所に到着。ダムから溢れるような川幅一杯に広がる滝が現れた。川の中央部に向かって滝見物のための橋が突き出ていた。傘と合羽なしではずぶ濡れになる場所だ。我が宝物であるカシミヤ百%のジャケットが濡れると分かってはいても、日も暗くなり、着替えのためにホテルまで引き返す時間もない。絞るほどに濡れながら滝を手短に観賞。

   散歩道を更に進むと、階段があった。滝の高さの中点、滝の真横に出た。轟音をたてながら落下する水を、滝の上から下へと何度も目で追っていたら眩暈がしてきた。満水ダムの放水にも迫力はあるが、水の動きが単調すぎる。天然の滝は、場所により形も水量も異なり複雑で見飽きない。その場所からは乗車賃1$のエレベータに乗れば、ホテルへの近道に出るが、滝は隠れてしまう。私は余韻を楽しむべく、来た道を折り返した。

[3]珍客に注文

   翌朝、早起きをして散歩道を再び歩き、今度はエレベータにも乗った。上から見た滝の上流位、興ざめな景色はなかった。だだっ広い単なる沼だ。その中を流れていた水が滝となって落ちていたのだ。

   ホテルをバックに女性1名を含んだ中高年の日本人グループが写真を撮っていた。正装の背広姿で観光地にまで来ている一団約10人に違和感を覚え、好奇心がムクムクと発生。

『私が全員一緒の記念写真をお撮りしましょう。しかし、どうしてあなた方は揃いも揃って背広姿なのですか?』
『鳥取市役所の職員です。鳥取市とリオとは姉妹都市で、今回企画された修好記念行事に参加したのです。真ん中の二人は市長ご夫妻です』
『結構なご身分ですね。その序でに中南米各地を観光されているのですか?』   
『とんでもありません。あとはサンパウロだけでトンボ返りですよ。それに市長以外は皆んなエコノミークラスです』

『あなたが市長ですか。私は一日本人として一言申し上げたいことがあります。30年前に鳥取砂丘を見てがっかりしました。鳥取大学農学部の教授に注文して下さいよ。砂丘を開拓してラッキョウを植えたり、乾燥に強い植物の研究をして、貴重な砂丘を潰さないで頂きたい。サハラ砂漠やタクラマカン砂漠の緑化研究と混同しないで下さい。鳥取では農地よりも観光地の方が遥かに価値がありますよ。砂丘なしの観光鳥取など成り立ちませんよ。私の見た砂丘は草ボウボウでした。草取りをどうしてなさらないのですか?』
『お説の通りです。実は、現在は積極的に砂丘の中の草むしりをしています。ぜひ、もう一回、鳥取にお越し下さい』               

   帰国4ヶ月後、鳥取砂丘の危機に関する特集が朝日新聞で報道された。砂丘の異常に危機感を抱く人は、幸いにも五万といるのだ。

………………………朝日新聞の記事要旨(平成10年12月8日)………………………

   “消える砂丘、草原化や浸食で危機”“鳥取では、治療法を探る”と言う特集記事が出た。我が国唯一の天然記念物に指定されている鳥取砂丘。面積1900fの内、 131fが特別保護区に指定され、残りは農地や宅地にされてしまった。

   特別保護区では1980年頃から雑草が目立ち始め、一時は西半分を覆った。旅館業を営む宮崎武夫さん(71歳)は県に頼まれて、1991年から毎年4月末〜11月の間、トラクターによる草取りの毎日。毎年20fずつ場所を変えながら除草。

   鳥取県が戦後、防砂林として 720fにわたりクロマツを植えた結果、砂丘の砂の移動が減った。砂の動きが鈍ると植物が根付き易くなり草原化する。一方、砂丘の西4Kmに鳥取港ができて砂の供給が減ったのか、原因不明のまま砂丘が痩せ始めた。

   鳥取県や環境庁などで構成した鳥取砂丘景観保全協議会が原因と対策を探るべく調査を開始し、2001年春頃に報告書を出すそうだ。

…………………………………………………………………………………………………

   なるほど、市長は嘘をついてはいないようだ。何年間も安定状態にあった砂丘が急に変化し始めたのは、人為の結果なのは明白。しかし、努力の結晶である農地・宅地・砂防林や港の撤去ができる筈もあるまい。立派な装丁の美しい報告書はできるだろうが、お爺さんの原始的でも確実な草取り作業に勝る対策が発見できるとは、私には思えない。しかし、調査費の支出は学識経験者の失業対策費にはなるので、全てが無駄金になるわけでもないが、これも日本人が日々起こしている愚かな行動の象徴の一つだ。

[4]3ヶ国の早巡り

   ホテルで予約していた観光タクシーで近くを駆け回った。イグアス名物は滝だけではない。ここはブラジル・アルゼンチン・パラグアイが互いに接する国境の町としても有名だ。

   イグアスの滝の水は西へ向かうイグアス川へと流れ込む。下流に向かって右岸はブラジル、左岸はアルゼンチンだ。滝の北に位置するイタイプ発電所の水はパラナ川に入って南下する。パラナ川の右岸はパラグアイ、左岸はブラジルだ。イグアス川は下流でT字型にパラナ川へ直角にぶつかり、その後はパラナ川になる。このパラナ川も最後はラ・プラタ河に合流する。イグアス川もパラナ川もここでは国境線にもなっている。
                                
   従って、滔々と流れる両河川の合流点は3国の国境点となり、川の向こう岸は互いに他の2国と言う珍しい場所だ。国境の一角の展望台には大きな三角点の標識が向き合って建てられていた。誰もが絶好の記念撮影場所と考えるのか、観光客の陣取り合戦が続く。

   ブラジル側のイグアスの町はビルが立ち並ぶゆったりとした中堅都市だ。門前町だけの収入でこんなにも発展し得たのだろうか?それとも豊富な電力を活用した産業があるのだろうか?朝市のような食料品の露店群があった。タクシーを待たせて、ブラブラと見学。店舗コストも掛からず過剰包装もないので、安いのだろうか、賑わっている。

   ブラジル〜アルゼンチン、ブラジル〜パラグアイには橋が架かっているが、アルゼンチン〜パラグアイには残念ながら橋がない。従って、一筆書きの3国巡りコースは組めない。ブラジルから先ずはアルゼンチンへ、と出発。

   国境の通過手続きはガイド(タクシーの運転手)がしてくれた。待ち時間はないに等しい。アルゼンチン側は緑がより深く、人口稀薄。三角点は美しい公園の中にあった。ガイドは『今日のコースはこれで完了。ホテルへ戻ります』と言う。即座に『ノー』と大声。

   『まだ、時間があるのでパラグアイに行きたい。追加料金は勿論出す。領収書は不要。つまり、あなたへのチップだ。空港の外へ出掛けた国の数を増やすのが、海外旅行の我が楽しみの一つだ。飛行機の乗換えや給油のために空港へ立ち寄っただけの国は数えない。パラグアイは35ヶ国目になる筈の節目の国だ』などと、ガイドの都合はお構いなしに、勝手な理屈を述べて観光を継続。『1時間はかかる』と言うので、時給+アルファと考えて、10$も弾んだ。

   ブラジルとアルゼンチンとの国境から、ホテルとは反対方向にあるパラグアイを目指した。意外に遠い。国境の橋は『友情の橋』と名付けられていた。橋を渡ったらパラグアイだ。町並みが急にみすぼらしくなった。典型的なアジアの最貧国、ベトナムやパキスタン等の雑踏となんら変わりがない。大通りに面して、観光土産屋が軒を連ねる。住民の人相骨格はアンデスの先住民に似ている。ブラジルやアルゼンチンで見慣れたラテン系の混血人種とは明らかに異なる。たった幅5百mの川を挟んだだけで、生活水準や人種がかくも異なるとは!

   パラグアイの印象を目一杯楽しむために、『チョット回ってくるから、ここで待っていてくれ』とガイドに言い残すや否や車から飛び出す。観光客向けのTシャツ・カバン・玩具・民芸品・食料品を道路にまではみ出して陳列。商売のやり方は万国共通だ。やっとビールを発見。1缶1$。安いのではなく、この価格こそが国際標準だ。

   元の場所まで戻ったら車はあったが、ガイドがいない!しかし、何処にでも暇人はいるようだ。観光客などでごった返していたが、赤いチロリアンハットは、いつものように今回も注目を浴びていたのだ。近くにいた人が我が肩を叩き、道の反対側を無言で指差した。そこには退屈してブラブラしていたガイドがいた。

[5]サファリ・ボート

   ホテルに戻ったとき、若干の余裕時間が残っていたのでサファリ・ボートの切符を買った。出発地までのタクシーを頼んだら、先程のガイドが現れた。出発地はホテルと空港とを結ぶ道路の中間点にあった。この観光コースは出発地でジープに牽引されるマイクロバスに乗り、道幅が狭くなる場所で、改造したジープに乗り換え、クネクネと曲がった急坂を下り、川辺の船着き場でゴム製大型モーターボートに乗り換えるようになっていた。

   出発地に着いて、マイクロバスの発車予定時刻を尋ねた。『満員になったら発車する。何分後かは分らない』と言う。航空券の予約確認を怠けたばっかりに、イグアスでの自由時間を2時間失ったのが悔やまれる。航空券の出発時刻を指差しながら『日本から来たのだ。あと飛行機の離陸までは3時間しかない。何とかして欲しい』と必死になって頼んだ。責任者は『あなたが、走りながら車や船を乗り継ぐならば、飛行機には間に合います』と、身振り手振りを交えた片言英語で回答。 
    
   『ありがとう。サファリから戻ったら、ホテルに電話してガイドに迎えに来てもらうように頼んであるが、時間節約のため約束を変更したい。予めホテルに預けている私の荷物をガイドに受け取ってもらって、ここで待っているように伝えてくれないか?これが荷物の引換券だ』

   到着したばかりのマイクロバスから客が降りるや否や、順番を待っていた客は無視され、ジープの助手席に乗せられ、空のままのマイクロバスを牽引しながら直ちに出発。ドライバーは運転しながら携帯電話で、前方のジープやモーターボートの関係者と交信。乗換え地点に着くと、既に待機していた空のジープの助手席に飛び移る。ジープを降りたら、空のままのモーターボートが私の到着を待ち受けていた。その都度、私は指示されるがままに走り回った。船着き場では、待機していた係員からパッと救命具を着せられた。私一人が乗るや否や、猛スピードで出発。

   サファリ・ボートの定員はマイクロバスと同じ20人位だ。従って両者の中間輸送用の約10人乗りのジープは、両者が1回往復する度に2往復する事になる。ジープは客を下ろすと反対方向の客を乗せて引き返す。中間地点の乗り替え場所は客でごったがえしていた。その都度ジープは、私だけを乗せて出発したが、先客にクレームを付けさせるスキも与えぬ、ブラジル人離れした鮮やかな連係プレーに驚く。

   サファリ・ボートはゴム製。船縁(ふなべり)は空気で大きく膨らませた浮きを兼ねた2重構造になっており、岩にぶつかっても衝撃が吸収される。滝から流れる膨大な水量の谷川を駆け上って行った。船と波は正面衝突を繰り返し、ボートは大きく上下にも揺れ、その都度水飛沫(しぶき)をかぶるが壮快だ。

   やがて、前方に滝が見えてきた。轟音(ごうおん)が地響きと共に迫ってくる。薄汚れている筈の滝の水は泡で真っ白に近い。風に吹き上げられた飛沫が煙のように立ち昇っている。写真を久しぶりに取り捲った。モーターボートの操縦者が船尾に立ったまま、必死で舵取りをしていたのに気付き、ついでに写真に収めたら、嬉しくなったのか、手招きでカメラを寄越せと合図。今度は滝を背景に要所要所で我が写真を取ってくれた。英語を全く話せない青年だったが、心は完全に通じた。

   下(滝壺)から見る滝、横から見る滝、上から見る滝の中で、ベストは下からの滝だった。下からだと視野全体が、泡立つ落水・大音響・飛沫で覆われ、滝の全てを満喫できるからだ。                         
   名残惜しかったが、帰路もまた特別待遇で飛ぶようにして帰った。2時間コースを半分の1時間で完了。出発地に戻ったときに、私を応援してくれた約10人の関係者にチップを渡すべきか否かで迷った。厚意を金に換算すると、貴重な善意に水をさし、彼等のプライドを傷つけるような気がしたのだ。何しろ一人分の切符で20人分以上のサービスを受け、ブラジル側のイグアス空港には余裕を残して辿り着いてしまったのだから。

   後日、中南米の元駐在員達に『チップを私は渡すべきだったのでしょうか?』と質問したら、『当然過ぎるほど、当然ですよ!』と例外なく回答。たったの50$で済んだと思うチップを渡さなかったばっかりに、ああ何とした失敗、今なお心が痛む。

   離陸後、飛行機の窓から滝が見えた。しかし、既に高度は2千mを突破しており、眼下に見た水煙を棚引かせる滝はあまりにも小さく、音も聞こえず弱々しかった。滝見物にはセスナのような小型機かヘリコプターしか使われない理由は、正しく一目瞭然。
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キャビアをパクパク

[1]ロスを目指して、南米を縦断

   サンパウロ空港には、急用が発生した駐在員の代わりにブラジル・トヨタの日系人社員が、預けていた重たい南アのワインを届けがてら待っていた。厚意に甘えて市内に戻り、最後の夕食をご馳走になった。『我が最後の海外出張もつつがなく、これで無事終わった』と快い疲労感に包まれ、飲む酒も一際美味しく感じられた。旅のドラマがまだ残っていたとも知らずに。

   JALのチェックイン・カウンターで、航空券とJALカードとを提出したら、女性職員がどこかに電話した後で

『ファースト・クラスに移れますが、如何なさいますか?』と聞く。
『追加料金を支払うのですか?』                      
『いいえ』

遠慮と言う奥ゆかしさが身に付いていない私は、即座に       
『じゃあ、移ります』

………………………………………………蛇足……………………………………………

   JALカードとは航空各社のサービス合戦の産物だ。カードを使えば、フアーストやビジネス・クラスの場合には搭乗距離とプレミアム距離が、前回搭乗までの累積値に加算され、指定距離を越えれば、距離に応じた無料切符を選択し請求できる。今回の飛行により2万マイルを越えたので、香港・マニラ・グアムなどアジアの近距離線の中から1往復選べることになった。なおまた、行きは英国航空を使ったので、こちらからもアジア近距離線から1往復もらえることになった。
                          
   これらは出張に伴う一種の余禄だが、この無料切符を使った海外旅行の場合は団体のパック旅行とは異なり、現地での交通費や観光ポイントでの入場料に加えて、ホテル代も別途必要となり、台湾旅行に使った体験では、儲かったとの実感はあまりしなかった。

…………………………………………………………………………………………………

   ジャンボのファースト・クラスは1階の先頭にある部屋だ。サンパウロからロサンゼルスまで、24人部屋に僅か4人だった。日本人は私一人。不況風はアメリカにも吹いているのだろうか?深夜便だったので、残念ながらアマゾン河も世界一の大密林も楽しめなかったのが心残り。人生では所詮、何かは我慢せざるを得ないようだ。                               

   JAL便とは言うもののヴァリーグ・ブラジル航空との共同運航便で、実態はヴァリーグそのものだった。フアースト・クラスの客室乗務員もパイロットもブラジル人だ。乗客数とは無関係に一定の客室乗務員が乗っているらしく、勤務中に仕事が少ないのは、彼等とても落ち着かないらしい。座席ごとに取り付けられている液晶テレビを見ていたら、
                          
『お好きな映画を準備致しますが、何かご希望はありませんか?』と聞く。   
『今見ている、飛行情報画面が一番面白い。映画は不要です』
『どのワインをお持ちしましょうか?』とワイン・リストを広げてくれた。   
『一番古いワインを飲みたい』高級ワインの銘柄など知らないのだ。
『お摘みにキャビアはいかがですか?』高価なものは、何でも好きなので、   
『大好きだ』しばらくして、
『果物はいかがですか?』                         
『何があるの?』
『どうぞこちらへ』と案内された。果物やケーキなどどっさり置いてあった。   
『何か食べたいものはございませんか?』
『何があるか分からないので、注文ができません。在庫を見せていただけませんか?』配膳台のところへ案内され、引き出しを次々に開けた。
『アッ!キャビアがまだ残っている。追加注文ができますか?』
『座席までお持ちします』                      

   キャビアが美味しく感じられたのは、最初の一口だけだった。脂肪分が意外に多く、直ぐに満腹感を覚えた。世界に名高い珍味の常、丼飯のように食べるものではないと知る。一段落していたら、乗務員がまたもや仕事探しに現れた。   

『何か、ご用はございませんか?』うかうか熟睡もできない。
『このテレビに飛行距離の表示がありますが、どのようにして計算しているのですか?』
『コンピューターで計算しています』答えにもなっていないので
『コンピューターの中では、どんな方程式で計算していますか?』
『分かりません。操縦室に案内しますから、パイロットに聞いて下さい』

   結局、パイロットも知らなかった。パイロットは飛行機の操縦者ではあっても、設計者ではないのだ。一般の市民がエアコンは使えても、熱力学の理論を使えば厳密に説明できるヒートポンプの原理を、全く知らないのと同じだったのだ。

[2]ロス空港

   25年振りのロス上空は、予期せぬほどに空気が透明だった。飛行機からはスモッグのために、かつては見えなかった市街地が、今回は鮮明に見えた。排気ガス規制は役に立っていた。ファースト・クラスの客は真っ先に飛行機から降りられる。免税店に一番乗りをし、最後の物色の真っ最中に突然、

   『日本航空でサンパウロからお越しのイシマツ・ヨシヒコ様。最寄りの係員までご連絡下さいませ』との構内放送が聞こえた。胸騒ぎがした。ひょっとしたら、特別擁護老人ホームに今春から入所している87歳の母が倒れたのだろうか?今更、
知らされたとしても、予定の便に乗り、名古屋空港から福岡空港へと直行する以外には、何の名案も思い浮かばない。係員をやっと見付けて、

   『何かあったのですか?』                         
『ファースト・クラスのお客様は無料でJALのラウンジがお使い頂けます。そこまで、ご案内させて頂きます』

   ラウンジなんかには全く興味もないのに、出かける羽目になった。酒やお摘みに加えて、フル・コースの機内食もタップリと味わったので、ラウンジの無銭飲食は予定もしていなかったのだ。深々とした椅子に座って時間を無為に過ごすよりも、寸暇を惜しんでの免税品漁りに生甲斐を感じているにも拘らず、善意の押し売りには、込み上げてくる怒りをぶっつけることもできない。          

[3]フアースト・クラスのメニュー                    

   ロスからのファーストクラスの客は、とうとう私一人になってしまった。暇を持て余している乗務員の押しかけサービスが盛んになればなるほど、こちらは疲れ果てる。こっそり持ち帰った酒類リストを除く、ロス・名古屋線の機内食のメニューは以下の通り。

……………………………………………原文のまま………………………………………

はじめに

カナッペ
午後10時までお召し上がりいただけます
トマト釜海老入りもと焼き  カリフォルニア巻き
海老のアーモンド揚げ  しば漬け細巻き  鰻寿司

キャビア
カスピ海産キャビアと伝統的な付け合わせ

アペタイザー
蚫の蒸しもの、海老パン粉揚げ、鮭けんちん巻き

きんぴらごぼう、升入りいくら、
白身魚の椎茸巻き、蛤白焼き、手綱玉子巻き

レアの牛テンダーロイン、黄ピーマンソースとポルトベロマッシュルームのグリル添え

スープ
オレンジバターナッツ・パンプキンのスープ
サラダ
新鮮な季節の葉野菜のバルサミコ、またはクリーミーなオリエンタルドレッシング添え

メインコース

ロブスターの地中海風
メイン州産ロブスターの半身に
ロブスターフルーツソース、地中海野菜、ピラフを添えて

鶏胸肉のセサミ風味
生姜ソース、パクチョイ、赤ピーマンのロースト、
ワイルドマッシュルームの取り合わせ、ピラフを添えて

カリフォルニア・ブラックパスタ
ヨーグルト、トマト、バジリコのソースで和え
ピーマンと玉葱、ペッパーチーズ、コリアンダーとともに

仔牛肉のステーキ
ブランデークリームソース、こんがりポテト
マッシュルームのソテー、野菜の取り合わせを添えて

お食後に

スティルトン、カマンベール、ソノマジャックチーズ

デザート
ティラミス、またはストロベリーアイスクリームのチョコレートがけ、
ブラックチェリーソース添え
新鮮なフルーツ各種

ブラジルコーヒー
フライトによってはエスプレッソ、
またはカフェインフリー・エスプレッソもございます。

チョコレート


お好きなときに

温かいサンドイッチ各種とお好みのお飲み物:
モッツァレッラチーズ、サンドライトマトとエッグロールのサンドイッチ、
鶏胸肉のグリル、バジリコソースとオニオンロールのサンドイッチ、
または牛テンダーロイン、ローズマリー。黒胡椒ペーストとライ麦のサンドイッチ

ムービースナック

ブルーベリーのミニマフィン
チョコレート・マカロンクッキー
チョコレートブラウニーケーキ

HOT SNACK

海老とポルトガルソーセージの串  豚肉のワンタン
カレーチキンパフ  生ハムのケサディーヤ

生ハムと黒パン
鰻の燻製とライ麦パン
鶏の胸肉とフランスパン
チョコレートと新鮮なフルーツ

…………………………………………………………………………………………………

こんな豪華なメニューを眺めても、実の所、困るのだ。胃袋の大きさには限界があるから全部の注文はもともとできない。乗客は私一人だから品切れの筈もない。できるだけ珍しいものをと思っても、見たことも聞いたこともない料理もあり、選択に困り果てるからだ。

   結局、私は酒の摘みには、またもやキャビアを注文した。瓶詰1個を開けてしまったのか、大きなお皿に山盛りにして持ってきた。
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おわりに

   司馬遷はかつて“史記”の中で“禍福は糾(あざな)える縄の如し”と人生を喝破したが、長い人生の終焉を待つまでもなく、僅か2週間の旅の中にも、この名言をしばしば反芻する機会があった。

@退屈な飛行機の中では、操縦室に闖入してパイロットと楽しく会話。
A飛行機がヨハネスブルクに遅延しても、親切な空港職員達に助けられた。
B予約で満員だった筈のタンゴのディナーショーにも、突然割り込んで満喫。   
Cクリチーバ行き航空券がキャンセルされていたのに、割り込み搭乗に成功。   
Dイグアスでは時間不足だったが、特別待遇のサファリーボートで滝を満喫。   
EJAL/ヴァリーグ共同運航便では客が少なかったが故に、フアースト・      
  クラスでキャビアを満腹。

   しかし、禍が無為無策のまま自動的に福に転じたのでも、我が努力だけで福が舞い込んで来た訳でもない。@では仲立ちをしてくれた英国人男性乗務員Aでは重い荷物を運んでくれた黒人青年Bではトヨタの実績に支えられた勝さんの尽力Cでは日系ブラジル人若松さんの30分にも及んだ獅子奮迅の交渉Dでは現場管理責任者アミーゴの支援EではJALを指定し続けてきたトヨタの実績が背景にあったのだ。

   以上の小例どころか、定年を待つばかりと思っていた矢先に、思い掛けず今回の海外出張が舞い込んのも、元はと言えば担当常務の気配りの産物だ。

   訪問した国々で出会ったその国の多くの人々を初め、駐在員やその奥様方の献身的なご支援に支えられながら、大航海時代から今日に至るまで今なお続く、人類最大の夢“世界一周”を満喫できたことに、心底感謝しながら筆を擱(お)く。
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