本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
アジア
西・南・東南アジア(平成10年6月22日脱稿)
懐かしのあの国この国

      海外進出の可能性を調査するチームの一員として東奔西走。その結果幸いにもトルコ・パキスタン・ベトナムに工場ができた。それらの合弁企業が当初の計画通り順調に発展しているか否かの総合評価を目的に、定年を間近に控えた4月11〜25日に掛けて訪問する機会を得た。当時、苦楽を共にした現地の方々とも再会し、この上ない喜びを共有でき楽しかった。                      

      中でもパキスタン人のトップ達から『私達の感謝の印』として、大きな絨毯をプレゼントされた時には、贈り物それ自体よりもその心に強く打たれた。

      一方、業務とは別に私個人としては『過去10年の間に各国で変化したもの、変化しなかったものは何だったのかを、少しでも見極めたい』との楽しみも、心に秘めて出発した最後の出張のつもりでもあった。
上に戻る
はじめに

[1]出張の提案

   9月1日の定年を前にして本年1月初旬、駄目元覚悟で海外出張計画の構想を練り提案したら『案ずるより産むが易し』を地で行くかのごとく、担当常務から即座に許可が下りた。同じ職場では昨年定年になった先輩や同期の友人の場合、常務の手元へ提案書が届く以前に、所属長から却下された事情を知るにつけ、何とも幸運だった。いわんや、海外業務に関係のない職場の友人の場合には、駄目元以前に、海外出張など夢のまた夢と最初から諦めている。            
             
   そこで、前後左右からの嫉妬の集中砲火を避けるべく、出張準備は殊の外密やかに進めた積もりだったが、何時の間にか友人達にばれてしまった。帰国したら『例の追憶記を早く書け!』との矢の催促。

   わが提案書の要旨は以下のようなものだ。『トルコ・パキスタン・ベトナム進出に関する検討チームの一員として現地調査した結果、積極的な事業計画を提案した。紆余曲折の結果、工場建設も無事終り、生産販売も開始して数年経った。目算通りに順風満帆(まんぱん)に事業は発展しているのだろうか?
             
   それとも予期せぬ難問に直面しているのであろうか?新たな問題点は検討チームの洞察能力不足が故に見落としていた課題だったのだろうか?それとも人知の及ばない世界として、許され得る範囲だったのだろうか?当社ではその後も海外新規プロジェクトが続々と計画されているが、それらの企画案作りへの参考にもなると思うので、過去に関係したプロジェクトの総括を現地現物で確認させていただきたい。期間は2週間で十分』

[2]時期の選定

   トルコの3月はまだ寒く、暖房は硫黄分の多い国産炭が主力。ボスフォラス海峡を跨ぎ、風通し抜群のイスタンブールといえども、煙突の中で生活しているような最悪の環境だ。一方5月以降のパキスタン(カラーチ)は灼熱の夏となる。アラビア海からの貿易風をまともに受け、快晴なのに湿度は連日 100%に近い。ベトナム北部(ハノイ)の雨季(梅雨)は日本よりも1ヶ月以上も先行し、5月には毎日のように雨が降る。

   以上の条件下で探した日程は4月11日(土)〜25日(土)だった。帰国後は1日だけ出勤し、口頭で出張報告を済ませた後は春の連休に入り、出身中学校同期生の還暦お祝い会に駆け込む予定だ。出張期間中、雨に降られたのは延べ僅か1時間、それも車での移動中に過ぎなかった。快適な最後の旅は、まさに我が計画通りとなった。
上に戻る
トルコ

   トヨタサ(トヨタ自動車とサバンジ財閥他との合弁企業)ではイスラム暦と組み合わせて、4月6日(月)〜10日(金)は連休。その前後の土日と併せた9日間は、従業員の誰もが年間で一番楽しみにしている日々だ。今年は連休後、カローラのモデルチェンジの準備に突入し、駐在員もトルコ人も関係者が戦場のようにてんてこ舞いになるのは『火を見るよりも明らか』。嵐の前の貴重な充電期間。一方的な突然の来客を歓迎したい筈もない。

   『どうしても日本人が付き添わなければ困ると言うのであれば、手分けして誰かが担当する。都市間移動には、英語が話せる運転手付きの車を用意する』との連絡が出発直前に来た。それでも『しかし、入出国時には荷物運びを兼ねて、誰かがお手伝いする』とのあり難い申出だった。

   何と言う幸運!私は一人で出歩くのが大好き。同行者への気兼ねは一切不要となり、自由が満喫できるからだ。海外で危険を感じた事は、過去25年間に一度もない。しかも、トルコは私にとって言わば第2の祖国だ。FS(フィージビリティ・スタディ)の時には時間不足で見送った『ヘレケ・トラブゾン・コンヤ』も旅程に組み込んだ。         

   国内移動は飛行機で2500Km、車で2000Kmの予定。経費節減を目的とした宿泊費のガイドラインは頭から無視し、泊まりたいホテル名を指定した。『こんなハードな計画では、途中で必ずばてるよ』との関係者の親切な声にも馬耳東風。さあ、出発!

[1]一路イスタンブールへ

@初めての直行便

   日本航空とトルコ航空の共同運航直行便が就航していた。今回は関西国際空港からの直行便だ。同じ機体に夫々の航空会社のフライトナンバーを付け、座席を分けあっている。たった13時間、ほぼ1万Kmの旅だ。
             
   10年前(名古屋⇒成田⇒アンカレッジ⇒ロンドン⇒イスタンブール)の乗り継ぎ便に比べ何と便利になった事か!しかし、同じ直行便でも、成田発(シベリア上空経由)よりも関空発(中央アジア)の方が距離がやや遠くなるのが玉に疵。このコースはトルコ航空運営の国際線では最長区間。イスタンブールから真南にアフリカ大陸を縦断する、ヨハネスブルク経由ケープタウン行きよりも更に遠い。

   名古屋から新大阪に向かう新幹線の中で駐在員の小さんにばったり出会った。連休を利用して私費で帰国していたのだそうだ。同じ機体だが小さんはトルコ航空(TK)、私は日本航空(JAL)。私費なるがゆえに小さんはエコノミークラスで我慢。機内食は夫々の航空会社が知恵を競い合うと聞いていたが、実際は同じ物だった。JALとは名ばかり、実態はTKそのものだった。機内の設備も食事などの品質レベルもJALよりワンランク悪く、期待外れに出端(ではな)を挫かれがっくり。

Aアジア大陸の横断

   黄河は長江とほぼ同じ場所、チベット高原に源流があり、中流部で北上したあと東進したのち、逆に西安(昔の長安)近くまで南下し、直角に曲がって再び東へ流れる。つまり、北に凸の軌跡を描いている。ふと外を見たら、南下終了地点の上空だった。黄河文明を育んだ黄河最大の支流、渭水との合流点だった。緑一つない分厚い黄土を切り裂いた河岸段丘の真ん中を、霞んで見えない遥かなる北の方から、泥水が流れ下る状況が手に取るように分かる。砂漠地帯には雲がないのだ。

   今回は 12:00出発、現地時間 19:25着、つまり昼間の移動だ。時々外を眺めては退屈さを紛らわせる。西安よりも西は荒涼たる風景の連続だ。人家も緑も殆ど見掛けない。新緑は何時のことなのか、残雪が眼下の山々に光る。とても人間が住める環境には思えない。中国の国土は広いが可住地は狭いと改めて確認。
    
   最近の国際線では機内サービスの一環として、各航空会社とも客席に液晶テレビを配置し、いろんなジャンルの映画も上映している。私は飛行経路が現れる地図表示を選択し、地上の景色と照合し続けた。やがてタリム盆地を埋め尽くすような広大なタクラマカン砂漠が現れた。平らな平地ではなく、似たような形の砂の小山(高さ数十m?)が延々と続く荒野だ。シルクロードの旅人達は、何一つ目標らしき物が見当たらないこの砂漠の中を、星の光のみをガイドにして、ひたすら歩き続けたのだろうか?方向音痴の私には実(げ)に恐ろしき世界に映る。

   ここ、タリム盆地には中国第3の長さを誇るタリム川(2190Km・内陸湖に注ぐ)が流れている筈だが、残念ながら発見できなかった。しかし、かの有名な天山山脈らしき、万年雪を頂いた荘厳な大山脈が現れた。氷河だ!と声を上げたくなった。氷河は一見してそれと直ぐに分かる形をしている。谷に沿って氷結した積雪が流れ落ちているが、先端が分厚い舌のように円く孤を描いて張り付いているからだ。あちこちの谷間に数え切れぬほどもあった。こんなに沢山の氷河を見たのは初めてだ。

   やがて、中央アジア諸国が眼下に現れた。大草原のあちこちに農耕地が見えてきた。短辺でも軽く1Kmはありそうな長方形の緑の畑が延々と続く。ソ連時代、放牧地帯に強制的に作らされた集団農場なのではないか?個人の所有地としては余りにも大きく、区画割りが定規で引いたように整然とし過ぎているからだ。多分秋蒔きの麦畑だ。      

   耕していない場所は茶色い枯れ草の荒野だ。残された未開地の方が遥かに広い。土地の広さは無限大に感じるほどだ。その上を直線の道路が地表を引っ掻いたように縦横に走っている。ペルーの観光名所、ナスカの巨大な地上絵(まだ、見たことはない)が世界的には有名だが、人口過疎地の眼下の模様も、私には地上絵のように雄大な芸術作品に感じられてならない。

   カスピ海が近付くと、水蒸気が多いのか下界は雲に阻まれ、旅空を何一つ楽しむ事はできなくなり、酒をひたすら飲んでは一眠り。ふと目が覚めたら、黒海上空だった。黒海沿岸はトルコでも有数の多雨地帯。眼下には日本並の緑の山々が広がる。疲れてくると食欲も落ち、機内食の夕食は味見程度のつまみ食いのみで早々と返却。            

   山陽新幹線全通以前の帰省では、夜行の急行列車で名古屋から小倉まで15〜17時間も掛かり、20代の若さでもへとへとになった。大阪からイスタンブールまでは、地上の最遠地点(2万Km)までの丁度半分に当たる1万Km。時速3百キロ以上とも言われる向かい風(偏西風。風圧は風速の二乗と空気密度の積に比例する。平均密度は地上の30%?)を受けながらも、僅か13時間で到着した新鋭旅客機のあり難さを満喫しながら一方では、機内サービスの悪さに不満を感じるわがままな我が身につける薬はないものか? 

[2]イスタンブール

@空港⇒ヒルトン

   空港の周りは、上海空港周辺を連想させるほどに再開発が進んでいた。綺麗なマンションが林立している。建蔽率は20%以下と推定。眼下の景色は見違えるほどに美しく、建物はゆったりとした配置。関西空港から新大阪や京都駅へ向かう関西空港線沿いのごみごみとした風景とは異質の世界だ。国際空港周辺は、初訪問した外国人に鮮烈な印象を与える一国の玄関口なのに、日本の現状が情けない。10年の間にトルコの国力がワンランク上がったように感じられ、自分の国のように嬉しかった。
                                
   駐在員の大さんが屈強の運転手と共に出迎えてくれた。トルコ人の平均身長は日本人より5cmも高く、年老いてはいても、運転手は30Kgの旅行カバンをいとも軽々と持ち上げる。業務上の書類だけではなく、冬(トラブゾン)春(トルコ各地・ベトナム北部のハノイ)夏(パキスタン・ベトナム南部のホーチミン)用の衣類などでカバンは満杯なのだ。               

   途中世界最小面積の海、マルマラ海の海岸に出た。かつては羊皮の鞣(なめ)し工場が続き、嫌な匂いと汚さから逃げ出したくなる場所だったが、何時の間に移転させられたのか、跡形もない。海岸と大通りとの間には幅、百m近い緑の公園が延々と続く。夕日を浴び、木陰下の芝生の上でバーベキューを楽しんでいる家族連れなど、市民は盛春を満喫している。政府に意志さえあれば、こんなにも素晴らしく変身できるものかと驚く。

   程なくヒルトンに到着。かつて延べ半年も過ごしたホテルだ。ボスフォラス海峡を眼下に見下ろせる部屋を予約してもらっていた。返す返すも残念なことに、本年1月からカジノが閉鎖された。トルコ全土で60ヶ所以上もあったのに全部閉鎖の憂き目。トルコではアタチュルクの政教分離政策以来、徐々にイスラムの影響力が落ちてきたとは言うものの、今尚、国民の心に響く侮りがたい大勢力だ。不景気になったり、EUから難題を突き付けられると、不満を爆発させるイスラム原理主義との妥協も、政府は余儀なくされるようだ。

   大さんから夕食に誘われた。出発前に連絡してくれておれば、まずい機内食など一口も食べなかったのに。彼はトルコで一番美しいリゾート海岸都市アンタリアから予定を繰り上げて、私を迎えにきてくれた。ゴルフ焼けした風貌からは若さがはち切れている。

A初日の夜

   歩いて10分の位置に立派な日本食レストランが出来ていた。経営者の他、日本人の寿司職人も数人いた。背が高く面長で彫りが深いトルコの美女には、着物が日本人以上に似合う。店内の雰囲気は日本の高級店と変わらない。既に満腹状態だったが、日本食の質を評価すべく特上の握り寿司と、以前は飲んだ事もなかった生ビールを注文。一国の食品衛生管理水準を評価するには生ビールの有無で十分だ。

   地中海〜エーゲ海〜マルマラ海〜ボスフォラス海峡〜黒海周辺は、淡水〜鹹水〜海水が入り交じる結果、漁業資源の世界的な宝庫だ。久しぶりの寿司は殊の外、美味しかった。一人前が50$位もした。外国だから、日本の3倍してもやむを得ないか?かつての仕事仲間、大さんとの四方山話を続けたかったが、睡魔に襲われて退散。

   大さんと別れ、赤いチロリアン・ハットを被って道に出た途端、トルコ人の客引きに呼び止められた。どうやら日本食レストランから出てくる日本人専門の客引きのようだ。巧みな日本語を操り、夜の道へと誘い始めるが、眠いので話し相手になる元気も出ない。『明後日はトヨタサの工場見学。今晩はゆっくりヒルトンで寝たい』と言った途端にVIP扱い。                  

   トルコでは『トヨタサ』と言えば別格扱いをされる事をその後もしばしば体験。2人がかりで用心棒を買って出て、夜道をヒルトンまで送り届けてくれた。道々、面白い話題も提供してくれた。イスタンブールには、ロシアの若い美女(娼婦)が大勢いるらしい。

   ヒルトンは大改装を終えていた。玄関前の庭園内にあったヘリポートは撤去され、中庭は日本庭園に改造。絨毯や家具も一新。バス・トイレや空調設備を初め室内の設備は超高級品化。蛍光灯は白熱電灯へなど、まるで新築のホテルのようにピッカピカになっていた。10年前は殿様商売だったが、その後、ライバルが増えた結果のようだ。

   部屋には真っ白なガウンだけではなく、日本人向けに変なデザインのトルコ製浴衣もあった。夜11時(日本時間午前5時)お風呂上がりの体を、ベランダの椅子に休めてそよ風を一身に浴び、持参した『山崎』の水割りをのんびりと味わう一方、来し方行く末に思いを馳せながら、対岸の美しい夜景を心行くまで味わった。そのためにこそ、断固としてヒルトンを指定したのだ。       

   西回りの旅行は時差が簡単に取れて楽だ。いつも午後8時前には寝ている私にとって今回の飛行中は徹夜していたのも同然だった。ベッドに戻るや否や完全に熟睡できた。   

Aタキシム通り

   さわやかな朝を迎えた。早速大好きな朝風呂を浴び、ベランダで朝日を浴びながら空腹にビールをゴックンゴクン。本日(日曜)は完全な自由時間。食堂も大改装されていたが、バイキング方式の料理の種類は何故か昔に比べ半減。些かがっかりしたものの、昨夜食べ過ぎていたので、朝食など実はどうでも良かった。

   大好きな赤いチロリアン・ハットを被り、トラブゾンの山登り用に持参した新品のテニスシューズを履く。散歩は運動靴に限る。足が疲れない。イスタンブール観光の出発点、タキシム広場を目指す。近くの店で絞りたてのオレンジジュース(中コップ1杯 300cc絞るためには、5〜6個ものオレンジが要る。1$)をグイと飲み干し、高級店が軒を連ねるタキシム通り(日本ならば、差し詰め銀座)を歩いて、目的地のガラタタワーへと一目散。

   かつて大通りには必ずいた靴磨きの少年を全く見掛けなくなった。徐々に徐々に生活水準は高くなっていたのだ。ご同慶の至りだ。タキシム通りには観光客向けに路面電車が導入されていた。しかし、2Km位の単線区間を僅か1台の電車が往復しているだけ。
                             
   タキシムに直行する道路は一方通行。しかも、直径20cm地上部高さ30cmの鉄筋コンクリートの杭を1m置きに両側に埋め込み、1車線に制限。結局、車は締め出されたも同然だった。その結果、タキシムに並行している道路は一日中渋滞。

   タキシム通りの両側の歩道には並木が植え込まれ、路線敷きを走れるのは特別許可車だけのようだ。全体が年中歩行者天国になったも同じ。両側の石造りの建物は昔のままだ。壁面の彫刻も美しく、落ち着いた静かな雰囲気は何時歩いても心が休まる。

   途中、アーケードのある生鮮3品のマーケット街に立ち寄る。昔と全く同じ雰囲気だ。色とりどりの果物の立体的な展示が美しい。丸い浅い直径 1.5m大のタライを斜めに立て掛けて、魚を放射状に並べて売る姿も同じだ。羊肉は固まり中心、内臓専門店もある。奇妙な形をした固まりがあったので質問したら、べろっと出した舌を指差した。一部の肉屋には、昔はなかった冷蔵庫があった。相変わらずキャビアが安い。黄緑色中心の野菜の瑞々しさが、ほのかな香りと共に迫って来る。香港の市場並に清潔だ。市場の清潔さと所得水準の相関性をここでも確認。

   三叉路で分かれて右へ20m行った道路の両側に停留所があった。運行電車数が増加しても差支えない対策とは分るが、進行方向を切り替えるためのレールのポイントがない。電車にハンドルがあるのだろうか?それとも何かを見落としているのだろうか?と辺りをキョロキョロしていたら、質問もしないのに『ガラタタワーはそっちじゃない。左側、こっち』と言って通行人から突然声を掛けられた。この辺りを歩く観光客の99%は多分、ガラタタワーを目指しているのだろう。

   ガラタタワーの頂上にあるレストランを取り巻くリング状のベランダからの景色は、 360度どちらを向いても昔と全く同じだ。景観保護政策で街全体が観光資源として温存されている。改装は建物の内部のみ許可されるのだそうだ。トルコには野外博物館が至る所にある。イスタンブールの旧市街地はさながら生きている野外博物館だ。観光客がガイドブックと地図とを広げ、現物を確認しながら行動計画を立てている。教えてやりたかった。我が頭には既に地図が入っていたのだ。

   ガラタ橋横にある波止場の青空市場では、横付けした漁船からすくい上げたばかり、鮮度抜群の魚を売っている。昔はタライに並べた魚の上から、バケツで汲んだ海水を時折振り掛けていたが、今ではポンプに繋がったパイプから常時、海水が噴出していた。こんな所にも、少しずつではあるが、改善が見られた。

C天空高く聳える巨大モスクへの参詣

(1)シュレイマニエ・モスク

   ガラタ橋やガラタタワ−を含む旧市街及び、ボスフォラス海峡や金角湾(ゴールデン・ホーン湾)も眼前に見下ろせる絶好の地に建つシュレイマニエ・モスクは、オスマン・トルコ時代のモスク建築様式を完成させた建築家『コカ・シナン』の代表作であるとともに、トルコで最も大きなモスク(高さ53m、ドームの直径は27.5mでもある。その名前は建設者、オスマン・トルコ帝国の全盛時代のスルタン、シュレイマニエ大帝に由来。

   内部の絨毯は一新されていた。以前は信者が寄進した大小・新旧様々な絨毯が一部を重ね合わせながら敷き詰められていた。長年の汗が染み込んだのか、汚れた靴下のような独特の匂いも立ち込めていた。今回は全面が同じ模様の新品の絨毯で敷き詰められていた。床面積が広くなったように感じる。このモスクは信仰の場として常時使われていると同時に、観光名所として観光客にも無料で解放されている。今回は、信者が観光客に邪魔されないようにと、床の中央を横断する背の低い柵を設置し、無粋にも綱が張られていた。
                            
   石造りの建築物の素晴らしさは巧まずして生まれた換気システムにある。大理石の比熱は0.22と小さいが、何しろ分厚くて重く予想外に熱容量が大きい。石垣イチゴの逆の使い方である。ドームを形成する石が夜間に冷やされ、天井から冷気が沈んでくる。冷気が床を這い出入り口から昼間中吹き出す結果、屋外の熱気は室内に入り込めず、ドーム内はヒンヤリとして涼しい。内外気温差は優に5°Cはありそうだ。

   以前は下足番にチップを渡すシステムだったが、観光客が増え過ぎ、靴の管理が追いつかなくなったのか、観光名所の巨大モスクではどこでも入り口で透明な袋を受け取り、出口で返却するようになっていた。管理人が不在の場合でも何の支障もない。客の流れは改善され、渋滞も解消。

(2)スルタン・アフメット・モスク(ブルー・モスク)

   シナンの弟子『メフメット・アア』の設計になるこのモスク(高さ43m、ドームの直径は23.5m)はシュレイマニエ・モスクにそっくりだ。内部にはブルーを基調にしたタイルが貼り巡らされ、眩いばかりに美しい。欧州人が『ブルー・モスク』と呼び始めた。

   近くには、アヤ・ソフィア、モザイク博物館、地下宮殿、トプカプ宮殿、考古学博物館、オベリスクなどイスタンブールの観光資源の半分が集中しているためか、今ではブルー・モスクが一番有名なモスクになり、多くの人(トルコ人ですら)が大きさも最大と誤解するまでになった。

(3)アヤ・ソフィア

   東ローマ帝国のユスチニアヌス皇帝が 532年に再建した、今なお世界で4番目に大きなドーム形式の元教会。高さ54m、ドームの直径は30mに達し、シュレイマニエ・モスクよりもさらに大きい。天井の補修なのか、パイプを組み立てて築かれた壮大な足場があった。エレベータもなく、階段の上り下りだけでも一仕事に感じる高さだ。
                                  
   オスマン・トルコ時代にキリスト教の宗教画の上に漆喰を塗り、モスクに改装されたが、今は漆喰も剥ぎ取られ博物館として一般に解放されている。ガイドブックを飾る、壁面に描かれた一番有名な宗教画がどう探しても見つからない。やむなく売店で質問。その絵は2階の回廊の壁に描かれており、1階からは死角になって見えなかったのだ。建物の片隅に、なだらかな傾斜の付いた、何度も折れ曲がったトンネル状の、すり減った石畳の坂道があった。2階と言っても20mもの高さがあるのだ。

   この巨大な建物自体が貴重な文化財だ。戦後の日本では数え切れない程の、市民会館、劇場、オフィス等の巨大なビルが建設されたが、千数百年後にも存在し且つ、文化財として世界中の人々が見学にくるものはありそうにもないのが寂しい。

(4)霊廟もあるモスク

   今までに見たモスクは全て建物内は何もない空間だった。ところがガラタ橋近くの未訪問だった小さなモスクを尋ねたら、皇帝(東ローマ帝国を滅ぼしたメフメット2世?霊廟の主の名前は忘れた)の霊廟だった。大きな石棺(幅2×長さ3×高さ2m)には二等辺三角柱の屋根が被せてあり、豪華な織物で覆われていた。イスタンブール考古学博物館にあるアレキサンダー大王の石棺と同じ形だ。

   皇帝の石棺を守るかのように、大勢の家来の小さな石棺が取り囲み、回りには軍旗なのか、国旗なのか多数の旗が飾られていた。今なお常駐している墓守が見学者を監視している。見とれていたら『帽子を脱げ』との注意を受けた。靴を手にしていて、帽子を脱ぐのを忘れていたのだ。

D歴史遺産との再会

(1)ドルマバフチェ宮殿

   18世紀に海を埋め立て、ベルサイユ宮殿を真似て造った装飾の限りを尽くした感のある大宮殿だ。海を望む庭園も素晴らしい。その時までオスマン・トルコの皇帝が使っていた、イスラム様式のトプカプ宮殿とは対照的な建築様式だ。

   後日宿泊したスイスホテルに近く、散歩がてら出かけた。まだ開門30分前だったが、既に3百人以上の観光客が並んでいた。以前はガイドもいず、バラバラに順路に従ってマイペースで移動したが、観光客が激増したためか、ドイツのノイシュバンシュタイン城と同じ方法、約40人ずつのグループに分け、英独仏等の言語別に案内人が付いた。前のグループとは一定の間隔が空くまで次は入場させない。結局1日の入場者総数は制限されることになる。皆が早く来るはずだ。  
    
   石造建築の重量感に満ちた荘厳な美しさ、加えてその耐久性の高さに改めて感動。日本も国力に相応しい、未来への大いなる遺産として大切に残せる建築物を建ててほしいと願わずにはおれない。コスト第一主義の鉄筋コンクリートや重量鉄骨造りに新建材を貼り付けた建物が何と貧相に見えることか!この宮殿に匹敵する建物は、日本には国会議事堂と創価学会が富士山麓の大石寺に寄進した壮大な伽藍位しかないと思っていたら、寺と創価学会の内紛の結果、総大理石造りの伽藍は撤去されるそうだ。何と情けない決定か。   

   50代と思しき数名の日本人駐在員婦人のグループと一緒になった。ガイドは静寂の中、小声で説明する。この仲間は揃いも揃って英語に弱いらしい。私語の連続。退屈するのか私に近付き、質問を連発。英語の説明を一心に聞いている仲間の顰蹙(ひんしゅく)を買っていることに気付かない。ボサボサ頭の髪の毛に加えて下手な化粧に、野蛮人振りが余すところなく現れている。欧州人はジーパン中心。たとい着衣は質素でも髪の毛の手入れも行き届き、歩く姿勢も美しい。日本人全般に真の気品が身に付くのは次の世代か?

(2)トプカプ宮殿

   三方を海に囲まれた丘の上に建つトプカプ宮殿は、イスタンブールで最も美しい景観に囲まれている。時間さえあれば皇帝になった気分を味わうべく、一日中過ごしたくなる場所だ。海を見下ろすレストランのテラスで、ビールを飲みながらトルコ料理を食べたかったが、時間不足で残念無念。高さ30m近くに育った落葉喬木の新緑は目に眩しく、石造りの建物群に柔らかさを添える。

   敷地内にも高低差があり、至る所に階段があるが、幹線通路には車椅子用のスロープが追加され、水平面に対する傾斜角度が表示されている。周囲の景観次第では、見た目の角度に錯覚を与えるのだ。ゴルフ場でグリーンの傾斜を読み間違えても、スコアを落とすだけだが、車椅子の人には傾斜の読みは一大事。身障者への気配りにこそ、その国の品格が現れる。

   この宮殿は、オスマン・トルコ時代に世界各国から集めたり、寄進を受けた宝物の展示博物館として転用されているだけではない。宮殿内にある小形のモスク、プール、ハレムなど皇帝の日常生活の場、それ自体も観光資源として解放されている。かつての大帝国皇帝の生活に比べれば、日本で一番贅沢が出来たはずの徳川将軍の生活は貧しい、貧しい!
                        
   絶対主義も帝国主義も共産主義も過去の遺物になり、時の最高権力者の私生活も全国民の監視下に置かれたも同然の現在、かかる贅沢が味わえる人は、もはや現れまい。人間の贅沢さの程度は、お金を幾ら消費したかではなく、1人の私生活のために何人の人間が働いていたかで評価出来る。              

   しかし、さすがに気苦労もあったようだ。毒殺対策として毒味役がいただけではない。ハレムの管理人は黒人の宦官。睾丸だけ、陰茎だけ、両方切り取られた者の3種類いたそうだが、不祥事は赤ん坊の皮膚で発覚する。DNAは勿論、メンデルの遺伝の法則は知らずとも、経験則は昔と雖も知られていたようだ。

   今や先進国では、お手伝いさんがいる家庭すら少ないが、人類の進歩と喜ぶべきか。世界一の金持ちと言われる、マイクロソフトの創業者ビル・ゲイツさんも結局、資産を使い尽くすことも出来ぬまま死ぬだけだ。

(3)イスタンブール考古学博物館
                     
   トプカプ宮殿の隣に位置する世界的な博物館だ。ギリシア・ローマ時代の数え切れないほどの彫刻には息を呑む。何故か男の彫刻が多い。政治の中心人物が男だったからか、軍隊が男だったからか、古代の彫刻家が男の裸身に関心を何故引かれたのか、見当も付かないが、写実主義に徹した筋肉美に見とれる。現代の日本では彫刻も人物画も女のオン・パレードだ。この理由も芸術とは縁遠い私には分からない。

   小アジアの彫刻には建物の壁面を飾ったライオンなどの動物の半身彫刻が多い。人間のモデルと違い、静止しない動物はじっと眺めて彫刻したはずもない。彼等は動物の動的躍動美を心眼に写し取ったのだろうが、本物以上に迫力を感じる観察眼と彫刻力に驚く。彼等が生きていたら、トヨタ車のデザインを頼みたくなる。止まっていても、走行状態を連想させるようなデザインを創造してくれそうな気がするからだ。

   ここの圧巻は『アレキサンダー大王の石棺』だ。直方体の箱の上に、二等辺三角柱を水平に置いたような形の屋根が載っている。日本の旧家の蔵と相似形だ。この総大理石造りの石棺は写真で見ただけでは大きさが推定出来ない。ギリシアやトルコのあちこちにある大神殿の大きさを連想しても不自然ではない。実物の大きさは2(横)×4(長さ)×3(高さ)m位だ。壁面の彫刻は勿論、屋根の側面の三角形にもビッシリと彫刻。夫々3段もある軒や床の模様など何を見ても素晴らしく、これに勝る石棺は今に至るまで見たことがない。

   無造作に置かれているような展示物のどれもが人類の宝に感じるが、この石棺は中でも別格。大きなガラス室に収まり、その回りは鎖でガードされた頑丈な柵で取り囲んである。

(4)トルコ・イスラム美術館

   ブルーモスクの近くにある、1983年に開館した美術館。しかし、建物は16世紀の物。近畿日本ツーリストの『旅のガイドムック』では美術館と紹介されているが、民族博物館の誤訳ではないか?

   近代以前の遊牧民の生活を現す実物大の模型が展示されている。現在のトルコ国内だけではなく、オスマン・トルコの版図から集めた石器・ガラス・陶器などの美術工芸品・大壁面に吊した、元は床の上に広げて使っていた巨大な絨毯など、生活の匂いがする日用品、コーランの写本、当時の衣類など中世の生活振りが伝わってくる。

(5)ミリタリー博物館

   オスマン・トルコ時代の武器を中心にした展示館。昔の武器は性能が悪いのか皆大きくて重たそうだ。本当に使った物だろうかとの疑問すら感じる。屋外には大砲がズラッと陳列してあり、傍らには丸い球が置いてある。全部石だ。ボーリングの球くらいの物もある。

   圧巻は60人くらいが出演する軍楽隊のショーだ。1日に2回ある。オスマン・トルコ時代の衣装や帽子で身を飾り、武器・旗・楽器を持つのは分業。音楽に合わせた、士気を鼓舞するマイクなしの掛け声の迫力も圧巻。

(6)カーペット博物館

   カーペットの本場だけあって、過去数百年分のカーペットが展示されていた。全ては草木染め。説明によれば、草木染めは洗えば洗うほど、色が鮮やかになるそうだ。なるほど、古いカーペットでも、色褪(あ)せしていない。

   ゴルフウェアは2年も着るとすっかり色が変わる。生地の寿命よりも遥かに短く、合成染料の欠点と納得。20年前、岳父夫妻の欧州2ヶ月旅行(文部省予算)の御土産にもらった、機械織りのオランダの壁掛けが汚れてきたので、今春クリーニングに出したら色落ちしてしまった。草木染めの価値を改めて知る。

(7)モザイク博物館

   モザイクで表現された猛獣狩りや、戦争の肉弾戦の描写は写真以上に迫力がある。彩色タイルの破片を繋ぎ合せただけなので、手描きの絵のような木目細かな表現手段は取れないのに、対象が持つ瞬間の本質を捉えているからなのだろうか?

   トルコの有名な博物館や美術館の殆ど全部は、何百年はおろか千年以上も経った建物が多く、私には展示物は勿論、建物も宝のように思える。元を辿れば、教会、モスクなどの宗教建築物だったり宮殿だったりするが、設立当初の目的にこだわらず、転用するおおらかさにも驚く。

   ガイドブックによれば、モザイク博物館は4〜6世紀には宮殿だったそうだ。この博物館の周辺は賑やかな門前市だ。グランドバザールやエジプトバザールは石造りのアーケード街で重厚過ぎる上に太陽も拝めず、2時間もいると疲れてくるが、ここの門前町は屋根がなく、そよ風が吹き抜けて爽快だ。

   絨毯屋の呼び掛けで店内に入ったら、古い時代の民芸品も売っていた。フェルトで作ったオスマン・トルコの皇帝で且つスルタンの帽子の複製品が目に入る。

   『いくら?』『20米ドル』『高い!10ドルなら買う』いとも簡単に『OK』。しまった、と思い『8ドルにしてくれ』と言ったが、後の祭り。商人は断固として『ノー。貴方が10ドルで買うと言ったから、OKと言ったのだ。商談が成立した以上、再交渉はしない。嫌なら売らない』

   作戦変更。『うーん。分かった。10ドルで買う。しかし、喉が乾いた。この近くではビールを売っていなかった。ブルー・モスクの周辺では販売禁止と聞いた。ああ、ビールが飲みたい』『ちょっと待って』と言うや、どこかに出かけて5百ccの缶ビールを買ってきた。只だったから、実質的には8ドルになった。今、ゴルフ帽として仲間に話題を提供しながら、愛用している。

(8)カーリエ博物館・テオドシウスの城壁・ヴァレンス水道橋

   カーリエ博物館も元を辿れば、5世紀の教会。その後、モスクに改装され、今では博物館。アヤ・ソフィアと同じ変遷を歩む。小さな教会だったが、アヤ・ソフィアよりも壁画の保存状態は良く、壁面の宗教画が殆ど残っている。

   郊外を意味する『カーリエ』だけあって、足の便は悪いがタクシーも今や余り気味。タクシー・ドライバーは『入り口で待っている』と言う。『待たなくとも良い。時間を掛けて見たいからだ。待機料金が無駄』『メーターの時計は止める。いくら時間が掛かっても差支えない。見物には30分も掛からない』『お金が後払で良いならば、OK』と言って、いとも簡単に交渉成立。

   いろいろ眺めたが、意味が分からない宗教画には直ぐに飽き、結局10分足らずでUターン。『次はどこに行きたいか?』『テオドシウスの城壁・ヴァレンス水道橋経由、ヒルトン。途中下車はしない』

   テオドシウスの城壁の大部分は観光資源として再建完了。10年前は工事中だった。石とレンガを積み上げた高さは20m近い。城壁の上部は櫛の歯のような切り欠きがある。銃眼の位置と推定。欧州の城壁に共通の形だ。城壁は倒壊防止のため、50m置きくらいに『ひかえ』があり、単調な城壁の形に変化を持たせてもいる。

   テオドシウスの城壁はイスタンブールの郊外との境界線、何度も潜ったヴァレンス水道橋は旧市街の入り口。思い出の道をタクシーで飛ばしたら、意外に距離があった。いつもは運転手付きの車だったので車代が気にならなかったのだ。ドライバーは嬉しくなったのか、途中のガイドも買って出た。

   『久しぶりにイスタンブールにきて、一番びっくりしたのは、2階建ての浮橋であるガラタ橋が鉄筋コンクリート製の固定橋になり、1階のレストラン街がなくなったことだ。ああ、がっかりした』と言ったら、『金角湾の上流部に、同じ構造の橋を再建中だ』と言う。真偽を確かめる時間がなかった。

(9)ヒッポドローム

   欧州の古い都市の中心には、日本の小学校の運動場くらいの広場があり、大道芸人がいたり、露天商が集まったり、日曜天国のように賑やかだが、イスタンブールの場合はヒッポドロームのような気がする。かつての競馬場だ。ベンハーの戦車競争を撮影したローマの広場にそっくりだ。

   2本のオべリスクが建ち、周辺には博物館・美術館・モスクが溢れ観光客の憩いの場になっている。緑の芝生も美しく、周辺には商店も多く旧市街の中心地だ。酒類の販売禁止令が恨めしい。

E日本語専攻の大学生

   地下宮殿と呼ばれるようになった『イエレバタン地下貯水池』への道を確認すべく、トプカプ宮殿前で地図を広げていたら、流暢な日本語で声を掛けられた。『私はイスタンブール大学日本語学科の3年生です。どこへ行きたいのですか?』マイ・ペースでゆっくり散策したいと思っていたので、邪魔が入ったとの困惑の表情を読み取られたのか、それとも身分を疑われたと思ったのか『これが学生証です』と言って写真入りの身分証明書を見せた。

   『地下宮殿はすぐ近くです。ご案内します。もし宜しければ私が一番好きな場所、オスマンの家にもご案内します』と言う。『オスマンの家?初めて聞く名所だ』彼の目的は分らなかったが、表情には善意が溢れていたので、成り行きを楽しむことにした。日本語学科の同期生の75名の内50名が脱落し、25名に減ったそうだ。日本には行ったことはないそうだが、正確なアクセントの美しい日本語を喋る。

   私が『昔見た地下宮殿では、地下鉄構内のように整然と並んだ、素晴らしい彫刻が施された 336本の列柱と、10万トンの貯水容量の壮大な規模に驚いただけではない。千数百年経っても尚ビクともしない耐久性に驚愕した』と言えば、彼は私の数値情報に驚く。どこの国に行っても、数値情報を正確に暗記している人は少ない。ディジタル人間よりもアナログ的なアバウト人間の方が圧倒的に多い。

   彼は『入場料は安いから自分で払う』と言ったが、無理やり受け取ってもらった。地下宮殿のゴミは一掃され、照明が行き届き、見学コースの道は延長され、観光目玉となっている彫刻の横まで近寄れた。変化を付けるためなのか魚も泳いでいた。観光コースとしての関係者の力の入れようが自然に分る。

   すぐ近くに『オスマンの家』があった。オスマン・トルコ時代を中心にしたアンティーク製品やその復元品を売る店だった。持ち主は50歳弱の事業家。JCBが発行したイスタンブールのパンフレットに載っている11軒のレストランの内の1つ、アンティーク・レストラン(紹介記事=店内は重厚なアンティークのインテリアで統一されており、ディナー時はムード満点)や、同じく14軒のホテルの内の1つ、ザ・キレベ・ホテル(アンティーク家具を配した美しいプチホテル。アットホームな空間の中で寛げる。親日家のオーナーが、日本語で旅行のプラン等いろいろ相談に乗ってくれる)のオーナーだった。

   彼はオスマン・トルコの文化と事業とを結び付けて大成功したのだ。日本のデパートとも取引があり、毎年数百枚のトルコ絨毯を輸出。オスマンの家の隣接地にある古い家を買取り、小規模ながらもアンティーク博物館の開設準備中だった。その日は2週間後のオープンを目指し、展示物の取り付け作業の陣頭指揮中だった。

   民芸品や骨とう品を買い集め、保存かつ展示することに生甲斐を感じているらしい。オスマン・トルコ時代の大衆の生活の復元がテーマのようだ。トプカプ宮殿や巨大モスクのような国家的なプロジェクトの残骸は、掃き捨てるほどにあっても、イスタンブールには往時の国民生活に焦点を合わせた博物館が何故かない。あるのは全て過去の巨大な遺産の羅列だ。
                           
   人生の見通しもたった今、人の役に何か立ちたいとの情熱に溢れた人の話を、しかも日本語で聞くのは楽しい。久さんを初め、トヨタサの駐在員の名前も出す所を見ると、交友関係は相当に広そうだ。日本にも世界的な金持ちが徐々に増えてきたが、相続税の高さを非難するだけで、財産を投げ出して社会に貢献しようとする人が滅多と出ないのが、情けない。情けない!

   若さ溢れる美青年は私に何一つ対価を求めないまま、貴重な思い出を残してくれた。手元にはオーナーに撮ってもらった、2人で写った1枚のさわやかな記念写真がある。傍らの年老いた貧弱な東洋人とは対照的に、生き生きとした希望に燃える目が光っている。

F爆発する緑

   トルコでは4月上旬のある日、突然気温が10度前後も上昇し、日本の3月中旬の寒さから、初夏(麦秋)を感じさせる暖かさを迎える。日本のように四季の気温がサインカーブのように連続的には変わらず、男性的・大陸的な不連続変化になる。私が到着した4月11日は既に汗ばむ陽気が襲っていた。大さんが数日前から気候が変ったと説明。

   このとき、落葉樹は僅か1週間で枯れ木から新緑へと変化し、緑が爆発して突如現れてきたかのような印象を受ける。一年生の草花は種からの成長のため、徐々にしか成長しないが、樹木の場合には幹や根の中に十分な蓄えがあるためか、私が1週間後にトルコを去る日までに、野山は木々のエネルギーから生まれた若葉で埋まった。25年前にニューヨークでも同じ体験をしたが、変化が急なだけに受ける刺激も大きく、旅の疲れも吹き飛ぶ快適さが味わえ、心身共に楽しくなる季節だ。

G今なお止まらないインフレ

   11年前には1米ドル 600トルコリラだったのが、今や何と25万トルコリラに暴落。年率73%のインフレが続いた事になる。しかし、国民の生活には何の支障も現れていないように感じる。日本円が1米ドル 146円(H10年6月15日現在)に暴落しただけで、世紀末の地獄でも到来するかのごとく茫然自失状態にある日本人をどの様に評価してくれるのか、聞いて見たくもなるほどだ。

   トルコに限らず多くの発展途上国では、自国通貨と同時に米ドルも流通している。価格は米ドルで決め、日々変わる米ドルとの交換率で自国通貨に換算して取引しているだけだ。米ドルが暴落しない限り影響を受けないシステムが国民生活の隅々に至るまで浸透している。

   トルコ人には慣れた計算でも、私には困惑の限りだった。7〜8桁が含まれる大きな数の加減算を、トルコ人並の速度では、どんなに頑張っても英語で回答できなかった。日本語では十進法の数値を4桁(万・億・兆〜無量大数)の位取りと4桁(一・十・百・千)の組み合わせで読むが、英語は3桁(千・百万・10億〜)の位取りと3桁(一・十・百)の組み合わせで読む。巨大数字の暗算ミスを防ぐため、日本語で計算し、結果を英語で読み直していたのだ。

   トルコリラのお札には大きな数値がそのまま印刷してあり、ゼロの数をその都度数えないと、金額を間違える。トルコ人はお札に印刷されている写真の色で区別しているから瞬間的に反応する。新札の場合、下3桁のゼロ3個は小さく印刷して分りやすくしたものもあるが、大抵の場合は旧札と混合して流通しているので、面倒臭い。

   ある時、トプカプ宮殿周辺を走る、以前はなかった低床式路面電車に乗るための切符を買った。切符を受け取って立ち去ろうとしたら『ストップ!』と売り場のお爺さんが叫ぶ。お金が足りなかったのかな?と思いつつ戻ると『お釣だ』と言う。私は新札を使ったため、3個の小さなゼロを見落とし、何と千倍もの支払いをしていたのだ。

   これに懲りて結局、私が最後に採用した方法は、財布を開けて見せ『必要なだけ抜き取れ』と言う手段だった。

Hオリエント・ハウス

   『本場のベリーダンスが見たい』とヒルトンの受け付けで相談。一番入場料の高い劇場を希望したら『オリエント・ハウス』を紹介してくれた。ディナー付きで75米ドル=1万円。JCBのパンフレットには『民族ダンスと楽器の演奏、ベリーダンスと共にトルコ料理が楽しめる』と記載。送迎付きマイクロバスのスタートはヒルトンだった。途中代表的なホテルで客を拾った。帰りはヒルトンが最後になるかと諦めていたら、行きと同じ順番。ヒルトンまでまずは直行。

   フランクフルトの日本人駐在員仲間の団体客と一緒になった。彼等のホテルは三ツ星。ツアー価格は日本発と変らず1日2万円。同じテーブルに入れてもらう。ディナーはお代わり自由だが、飲み物は追加料金。帰りの降車を後回しにされた日本人の一行はブツブツ不平を唱えていが『ヒルトン見物に来たと思えば悪くない』との誰かの一声で気分転換。結果として全員の乗車距離が同じになる、この送迎方法の公平さにも一理ありと感心。欧州人は終始泰然自若。効率主義の名の下に隠し切れない本心(利己主義)が現れる日本人の品位に愕然。

   賑やかな楽器の音は西洋音楽とは一線を画している。哀愁も感じさせるオリエント(中東)の音楽を耳にしながら、動きの激しいベリーダンスを眺めると、その迫力は嫌が上にも増す。団体客中心だったので、客席はほぼ国別に別れていた。

   司会進行係は英・仏・独・スペイン・イタリア語・日本語を使い分けて、夫々のグループの前に来ては流暢な挨拶を繰り返し、各言語グループの中から女性を2人ずつ指名しては舞台へと招き入れる。外国人は喜んで即座に参加する。語学の天才にも日本語は相性の悪い異質な言語らしい。少し勝手が違うようだ。ぎこちないが、これもご愛嬌か。日本人は決断力が弱く、なかなか舞台に上がらない。『早く行きなさい。選ばれて躊躇するのはみっともない!』と私が背中をポン。

   皆にベリーダンスの初歩を教えながら、学習能力の低い人から順番に客席へ戻した。最後まで残った2人は記念品をもらった。舞台では客がランダムに並んでいたのに、一人一人の国籍を最後まで間違えずに話し掛けた特技、記憶力には度肝を抜かれた。語学力と記憶力とにはどこかで繋がりがありそうだ。

Iバザール

   中東最大の規模を誇る日用雑貨・衣料・貴金属・宝石が主体の『グランド・バザール』は昔と変らぬ賑やかさだ。しかし、通路にまで出てきて自店へと誘い込む強引な客引きの数は減った。最初は多少拍子抜けしたが、落ち着いてウィンドウ・ショッピングが楽しめるから気分が大変よい。もともと買い物ではなく、異文化の雰囲気を味わう観光が目的で来たからでもある。衝動買いでも相当の売上になるはずだ。歩き疲れた後、飲んだ生のオレンジジュースはこの上なく美味しかった。

   一方、別の場所にある『エジプト・バザール』は綺麗に改装されていた。こちらは、膨大な種類、色とりどりの香辛料が中核商品だったが、取扱商品は食料品全般に拡大していた。生鮮3品に限らず加工食品も多い。食肉類は外国人も安心して買えるようにと、冷蔵庫も備え付け衛生的だ。

   キャビアに加えて、今回は殆どの店が『カラスミ』を取り扱っていた。日本人が主として買うのだろうか?。昔のグランドバザール同様、客引きが逃すものかと話し掛ける。ここのカラスミは保存性を高めるために厚い蝋で密封し冷蔵庫に保管している。鮮度維持のために、買った品物は真空パックで包装してくれる。

   日本の百貨店の食料品売り場同様、ここでは試食品を食べさせる。この習慣は外国では珍しい。売り子の名刺に単価を書かせては、隣の店に移動。他店の名刺を見せては、それを下回る売値を書かせている内に、とうとう最初の半値、1Kgが40米ドルに下がってしまった。蝋の重さが半分と見ても大変安い。大きな物2個を44ドルで買った。後日、福岡三越や博多大丸で見たら、1gが80円前後、信じられないほどの高値だった。

[3]ゲブゼ

   イスタンブールの東50Kmのゲブゼこそは、トヨタサの工場用地として最適の場所と故オズデミール・サバンチさんに提案した場所だ。イスタンブールからの通勤も可能な緩やかな丘陵地帯だった。

   『サバンチさん。あなたの提案した10ヶ所以上もの工場用地はアナトリア8千年の歴史の間、誰もが見向きもしなかった場所ばかりだ。しかも、その何処もがイスタンブールから離れ過ぎている。なるほど地価は安いが、揃いも揃って低湿地だ。インドネシアでは地盤が悪くて、当社は予期せぬ高い工事費に苦しんだ。アンカラから遥か離れた僻地に工場を建てたベンツの場合には、優秀な大学卒社員が逃げ出し、操業停止に追い込まれた。欠点がある土地だからこそ、安いのだ。

   高価な土地を買う事はお金を捨てる事ではない。お金を土地に等価変換するだけだ。高い土地ほど値上がり率が高く、最終的には企業に膨大な含み資産として残る。安い土地は今後さらに地価が下がる危険性すらある。一端、工場を建てれば、人間のように簡単には移動できない。工場は50年間も使える。その間に少なくとも1千万台(平均年20万台×50年)以上もの車が生産される。1台当たりの土地代は只に近くなる。三菱地所が東京駅前に持つ土地の膨大な資産価値は、訪日回数40回以上と豪語するあなたならご存じの筈だ』と熱弁を振るった。
                                 
   サバンチ財閥の総帥である長兄のサキップ・サバンチさんはトルコ人としては珍しく英語は殆ど話せない。しかし、不自由な英語力に苛立ちも添えて『オズデミール。お前は若く、まだ経験不足だ。ミスター・イシマツは正しい。私の長い人生経験から出る結論も全く同じだ。ゲブゼ、ゲブゼ、ゲブゼ!』と、もどかしさからか拳で机を叩き、文字通りもろ手を挙げて賛同してくれた。

   オズデミールさんが全権大使となって、地主と交渉してくれたが不調に終わり、やむなく次善の地イスタンブールの東 150Km、アダパザルの穀倉地帯に工場を建てることになった。私は今回、あのゲブゼに進出したと聞く『本田』の工場が無性に見たかった。

   そこに建っていたのは、拍子抜けするくらいに小さな工場だった。本田は40年前、大成功した『スーパー・カブ』の鈴鹿工場以来、伝統的に小さな工場を建てる。その後、必要に応じ拡張している。彼等なりの堅実な経営だ。壮大な工場だったら『畜生!』と思う所だったが、逆に小さ過ぎたのでがっかりした。

[4]ヘレケ

   手織り絨毯の頂点に立つのは、トルコとペルシャ(イラン)の絨毯だ。その両者の中でも最も高価なものは、イスタンブールの東70Kmにある小さな町ヘレケから生まれる。同じトルコでも中央部のカイセリ産は織り方も密度(1平方センチの結び目の数が8×8=64が標準)も異なり価格が安い。今回トヨタサへ向かう途中、ヘレケの代表的な大手の発売元を初めて尋ねた。発売元には、膨大な在庫と、数人の女性が働く小さな工房があった。社長が熱弁を振るう。

   『我が社は年間3千枚の絨毯を取り扱う。この工房はお客様に絨毯の織り方を理解してもらうためのものだ。実際には3千人の織り姫が全国に散らばっている。ヘレケの絨毯の97%は10×10(テン・バイ・テン)だ。1u織るのに10ヶ月も掛かる。絹糸の染色は全て草木染めだ。洗えば洗うほど色が鮮やかになる。

   2重結びが特徴だ。結んだ糸が解けにくいので、毛足はぎりぎりにまで短く刈り取れる。特殊な形のハサミを使っていた。毛足を短くすると、足で踏んでも毛先が寝る事もなく、切断面の光沢が変わらない。ペルシャ絨毯は毛足が長い。あの織方では短くできないのだ。14×14、16×16、24×24もあるが、経営面からは24×24ともなれば、リスクが大きい。制作期間が長く、大変高価になるだけではない。糸が細くなると、糸切れの恐れがあるのだ。我が社は小売りも卸値も同じ』
                               
   大きな商品台帳を見せてくれた。値段は出来栄えと結び目の数、大きさで1点ずつ異なっていた。10年前にヒルトンのテナントから買った価格よりも3割は安い。後悔先に立たず。

[5]アダパザル

   トヨタサが出来たせいか?過去十年の間にアダパザルの人口は倍増して35万人。今や我が豊田市並の中堅都市に成長。イスタンブールからアダパザルに至る沿線は別名自動車街道と呼ばれるようになったそうだ。自動車組み立て会社や関連会社が続々進出。トルコ人は『トヨタサ効果』と誇らしげに紹介。
            
   工場建設中に大勢の出張者が使ったと言う立派な新築ホテルを見学。鼻息が荒く、今や部屋代も高くなったので、トヨタ関係者はワンランク下のホテルに移動。長期滞在にはこの位のホテルの方が下宿屋気分も溢れて緊張も取れ、過ごし易いと思った。夕食を駐在員と一緒に食べたが、魚中心の日本食も出され落ち着いた雰囲気だった。羊肉とオリーブ油を主に使うトルコ料理は日本人の胃腸には重過ぎるのだ。

[6]トヨタサ

   トヨタサの工場は日本でも見掛けないほどの立派な工場だった。事務所・食堂・工場建屋・緑地帯など、いずれもユッタリとした配置。工場敷地内には、不幸にしてテロに倒れた故サバンチさんの銅像が建てられた日本庭園すらある。生産能力は高く、需要さえあれば増産は簡単だ。工場の食堂も昼食も立派なものだ。これならば、社長以下全員が同じメニューの昼食を食べていても、不満が出ない筈だ。しかし、一緒にFSをした駐在員の久さんからは予期せぬ事を聞かされた。

   『減産下の現在、減価償却費の負担は重いが、元を辿れば結局のところ石松さんの企画案に行き着く。故サバンチさんは、石松さんを心底尊敬し、石松さんの提案には一切の変更もせず、その実現に全力を注いだ。しかし、今日の苦境は石松さんの責任ではない。ある意味ではバブルの産物だ。TMC(トヨタ自動車)の役員も賛同したのだ。

   サバンチさんはヒルトンの予約でも、石松さんだけは特別扱いをした。私たちは実はその事には、不満を持っていたのですよ!』⇒知らなかった!そう言えば、私は何時も 185$のボスフォラス海峡が見える見晴らしの良い部屋、その上しばしばワイン・果物・チョコレート・お花の差し入れを受けていた。海外出張回数は数え切れないと言う久さんや同行者は 135$の見晴らしの悪い部屋だったが、経費節減のために自主的に協力しているのかと思っていたのだ。

   時にはホテルのマネジャーから『スイート・ルーム(長方形の建物の四隅にあり、窓は2面3ヶ所、床面積は2倍の角部屋。ワン・フロア50室につき4室しかない)が空いている。料金はスタンダード・ルームと同じにする。荷物はボーイに運ばせるから移らないか?』と言われ、物見高さから移ったこともあった。今にして思えば、トルコの大統領や首相などとも渡り合っていた、故サバンチさんの口利きだったのだ。

   トルコ側のFSグループとの懇談の席でも、私は驚かされた。私とサバンチさんが議論する時には、彼等が一切口を挟まなかったのを異様に思っていたが、彼等はその時のやり取りを必死になって聞いていたのだ。

   『石松さん。サイトの選択の話題の時にはこんな話もしていた』などと、私がすっかり忘れていたことまで、思い出させてくれた。当時、固唾を飲む思いで、やり取りを聞いていた証拠だった。さらに『石松さんの最初の挨拶文の中身は、私たちの誰一人として、忘れてはいませんよ』と付け加えた。サバンチさんの長男が初対面の時『挨拶文は詩のように素晴らしい、と父が語った』と言ったのを思い出す。

   『それにしても久さん。工場の分厚い鉄骨の柱は過剰品質とは思いませんか?』『英国の建設会社から、トルコのような地震国ではこの位の柱を使わないと、安全は保証出来ないと脅かされたのですよ。岩盤が深い所にある沖積平野だったので、コールタールを塗った摩擦杭も10坪につき1本、何と延べ3600本も打ち込みました。逆に航空工学を専攻した石松さんにお尋ねしたいですよ。何と反論すれば良かったのかと』

   『設計者は耐震建築の設計法に無知だった以前に、高校生でも分る力学の初歩(とは言うものの、概念を真に把握している者は、工学部卒でも意外に少ない)すら理解していなかったのですよ!台風と異なり、地震が建物に与えるのは力ではなく、加速度だけですよ。ニュートンの運動の第2法則によれば、地震が建物に与える力は加速度に質量を掛けた値として計算されます。従って、どんな大規模地震でも、質量の小さな葦は1本すら倒せません。           

   建物が柱に与える地震力(外力)は、柱に加わっている屋根の質量と加速度の積で求められます。この工場は平屋なので屋根は軽く、地震力は微々たる値です。阪神大地震では、鉄筋コンクリート製マンションや百貨店が、自らの質量(俗に言えば重さ)から発生する地震力で破壊されましたが、あの安っぽいプレハブ住宅が1軒すらも壊れなかったのは、理の当然ですよ。地震学も耐震建築法も学んでいませんが、この程度の問題は私にだって即座に解けますよ。何と言う無駄!』と言ったものの後の祭り。

[7]サパンチャ

   アダパザル市内のホテルはトップクラスでも、ゴミゴミとした中心街に建っていて、庭園も無いので敬遠。トヨタサから車で30分足らずの景勝地、サパンチャ湖畔の森の中にあるサパンチャホテルに泊まった。サパンチャ湖はなだらかな丘に囲まれた20×4Km位の細長い湖である。流れ込む川はなく、全てが湧き水のため飲めるほどに透明だ。数年前、湧き水不足で大量の魚が死んだとのTVニュースを見た事を思い出す。ホテルのマネージャーも覚えていた異常気象の結果だ。

   プライベート湖岸と建物との間には原生林が程よく残されていた。3階の窓からは木々の深緑が眩しい。湖の向こう岸の山際にまさに沈まんとする太陽を取り巻く景色は絵のように美しい。鏡のように平らな水面に対岸の景色が逆様に映っている。やがて、対岸の道路にオレンジ色の街灯が点った。ホテルの庭にも下から木々を照らす電灯が点った。ベランダに出ると水面から吹き付けてくるそよ風が気持ちよい。      

   風呂上がりのビールは天国で飲んでいるほどに美味しい。このホテルはプライバシイが完全に保たれた設計になっている。こういう場所ではヒルトンに限らず、何時も裸のままベランダに出て、露天浴を楽しむのが我が習慣だ。眼だけで景色を楽しむのは勿体ない。全ての皮膚を動員してこの景色を味わう気分は格別だ。

[8]アダパザル⇒アンカラ

   トヨタサの専属運転手が定刻前に迎えにきた。ここから2泊3日、1500Kmの旅に出発だ。一国を理解するのに大都市だけの訪問で済ませるのは危険だ。発展途上国の場合は、都市部と過疎地帯との所得格差は通常10:1ほどにも開く。トルコの国力の発展の定点観測地としては、千年前にはセルジュク・トルコの首都でもあり、広い国土のほぼ中心部に位置する『コンヤ』こそが相応しいのではないかと確信している。今回の国内移動の終点はそのコンヤだ。

   トンネルも橋もない部分の工事は簡単なため、イスタンブールからアンカラまでの高速道路はほぼ完成していた。『ボル』の山越えだけはトンネルのため未完成。高速道路とは言っても山を切り開いて舗装しただけの道だ。しかし、車線の幅が日本の5割増はあり、しかも交通量が極めて少ないので 150〜170Km/時を平気で出す。

   アンカラまでの距離は10Kmの倍数地点ごとに表示されている。幹線ではこの表示法が一般的だった。過疎地では道路の分岐点(交差点)が少ないからでもある。日本は大交差点ごとに、Km単位まで詳細に表示しているが、どれだけの意味があるのだろうかと疑問に思う。交差点では距離よりも、目標となる大都市名を書いてくれる方が重要だ。

   アンカラに至る道中は昔と全く同じ景色だ。沿線の開発は全く進んでいない。しかし、アンカラ市内は工事の山だった。『アンカラは来る度に景色も道も変わる』と運転手は言う。アンカラには古都イスタンブールと異なり、景観保護すべき対象も殆どないからでもある。しかし、市内のあちこちに見掛ける丘の頂上まで、ぎっしりと貼り付いたように建てられているスラムは撤去された様子もなく昔のままだ。遠くからでも丸見えなのが悲しい。

   道を尋ね回り、やっとの思いで『アナトリア考古学博物館』に辿り着く。昔のキャラバン・サライ(隊商宿)を改装した石造りの建物だ。この建物だけでも見応えがある。ドライバーは『日本人の観光案内で過去20回以上も、アンカラ経由でカッパドキアに出かけたが、アナトリア博物館には一度も行ったことがない』と弁解。今回の最終目的地『コンヤ』にしても初めてだそうだ。『石松さんの訪問地は変わっている』と言う。

   トルコに無数(百以上?)とある大小の博物館はその中心となる展示物の性格で、@美術工芸品A宗教上の絵画・彫刻B戦争用武器C古代建築そのものD発掘物E野外博物館(自然と一体化された遺跡)に大きくは分類できると思う。
   
   アナトリア考古学博物館は我が分類によればDのタイプ。トルコで一番好きな博物館だ。この中にはアナトリア8千年の歴史を物語る発掘物が年代順に且つ、生活用品・装飾品・武器などに分類されて展示されていて分かりやすい。旧新石器・青銅器・鉄器・貴金属などの加工技術の変遷も窺える。日本語の“新石器”よりも“Polish Stone”と書かれた英語の方が意味が具体的だ。膨大な数の粘土板の楔形(せっけい)文字は、あたかも昨日刻んだばかりかのように鮮明だ。

   昔の神殿の壁面を飾った、大きな一枚岩に掘られた動物の左半身(何故か頭は向かって左が多い)彫刻、小石や色石を石垣のように組み合わせて作ったライオン像、ヒッタイト時代に崇(あがめ)られた鹿と角の躍動感溢れる青銅の置物など、その発掘地はトルコ全土に及び、大英博物館の西アジア部門もたじたじとなるほどの質と量だ。

[9]カッパドキア

@その1…洞窟ホテル

   日本人の3大人気観光ポイントはカッパドキア・パムッカレ・イスタンブールだ。ドライバーが『カッパドキアなら裏庭を案内するようなものだ』と言うだけあって実に効率的に案内してくれた。大型バスを使う団体旅行では入れないような細道の奥にある秘境にまで出掛けた。10年前の案内人(イスタンブール大学卒技術員)よりも遥かに地理に詳しい。

   あちこちで2人分の入場料を取られる。彼は見飽きているのか、遠慮しているのか、しばしば入り口で待つと言う。そう言う場合には、時々見掛ける日本人団体観光客の中に割り込ませて頂いた。日本語ガイドがいるから便利だ。日本人は事前勉強が不足しているのか、通常質問も殆どしない。それを良い事に割り込んだ私が質問を連発するのだ。でも、大抵は歓迎された。観光客からは『やり取りを聞いていると面白い』と言われ、ガイドは『よくぞ聞いてくれた』とばかりに、蘊蓄を傾けるからだ。

   国内出張扱いのドライバーとはホテルが違っていた。我がホテルは宿泊費がカッパドキアでは最も高い岩窟ホテルだ。大さんから、日本が大好きと言うホテルオーナーの紹介記事のコピーをもらっていた。ホテルのロビー・食堂・売店など部屋以外の場所は昔掘られた洞窟が転用されていた。乾燥地帯なので、結露などの心配もない。

   30室もある立派なホテルだったが、客は私ただ一人だった。団体観光客は安いホテルに泊まっているのだ。朝食はバイキングだった。従業員が10人以上も働いていた。20種類位の料理、果物、数種類の生ジュースなど、ヒルトンに負けない位、豪華に並べられている。10人でも食べ切れない量だ。

   食事中に『ソーセージは好きか?』と聞かれた。『イエス』と答えたら、フライパン一杯もの差し入れの特別食を持ってきた。5cm長さのもの1本だけ受け取ったら、コックはがっかりした様子。食事後、庭を散歩して数分後に戻ったら料理は全部片付けてあった。あれは廃棄処分したのではなく、キッと従業員の朝食になったのではあるまいか?

Aその2…ディナー・ショー

   ドライバーに『一緒にデイナー・ショーを見に行かないか』と誘ったら『そんな場所があるとは知らない』と言う。『10年前、大きな洞窟の中でデイナー・ショーを見たことがある。トルコ内陸部の伝統的なフォーク・ダンスだった。ショーを見ながら酒を飲み、トルコ料理が食べられた。どこかにある筈だ。ホテルで聞いて欲しい』と注文。

   数分で行ける位置に会場があった。でも以前とは違った場所だ。今回の会場の出し物はベリー・ダンスだった。2百人以上も入れる大きな洞窟だ。天井も高い。赤・白ワインもビールも飲み放題。料理も食べ放題。直前予約だったため舞台からは一番遠かった。しかし、客席は階段状に高くなるので視界は良好。次から次へといろんな道具を駆使したベリー・ダンスが続く。       

   洞窟の外には広場があり、キャンプ・ファイヤーが焚かれていた。観客も出演者も全員外に出て、見よう見真似でフォーク・ダンスを踊り国際親善を深めた。そのまま一列になって洞窟に雪崩れ込み、洞窟内でも引き続き踊った。何時の間にか長年の知己の集まりに感じてきた。

   程なく、20代に見える女装のダンサーが、柔軟な体のこなしも際立つ素晴らしさで、ベリー・ダンスを踊り始めた。やんやの拍手。汗ビッショリになった後、チップを集め始めた。外国人の金持ち観光客は気前がよい。一晩で千ドルは貰うらしい。私が1$出したら、見兼ねたドライバーが大枚10$を追加。ああ、恥ずかしかった!

   トリは厚化粧をした超ベテランの年増の女優だ。水を入れたコップを手にし動きの激しいベリーダンスを踊るが、水を一滴も零(こぼ)さないのが自慢らしい。赤いチロリアン・ハットが目立つ私と、ふと視線が合った。『こちらへお出で』と手招きをする。こう言う場合には『待ってました』とばかりに、何時もの癖で私は直ぐに立ち上がるのだ。

   舞台に着いたら、上半身裸にさせられた。スポーツ・シャツを脱いだら、着古した下着が現れ、またもや恥ずかしい思いをするが、照明が暗くて助かった。レッスン・1では、長さ2m位の棒をお腹の上に置き、滑り落ちないように頭を後ろに反らせて踊った。易しそうに見えた動きも、実際にやらされると難しさが分かる。

   レッスン・2。足と頭の位置を固定して、胴体と手を左右に水平移動する。この運動も、簡単に見えるが意外に難しい。失敗してもそこはご愛嬌だ。動きが拙ければ拙いほど、満員の観光客は拍手喝采で応援してくれる。最後には水を入れたコップを使った動きを仕込まれたが、何度も水を頭から被る失敗の連続。ドライバーがたまたま持っていたカメラでバンバン写真を撮ってくれた。

   客席に戻ったら、後を追ってきた女優が左右のほっぺたに、大きなキッス。側にいた女装のダンサーが、ティッシュで我が頬を拭くや否や『上手だった』と褒めながら、負けずにキッス。一部始終を見ていた観光客はやんやの喚声を挙げながら、万雷の拍手。

[10]コンヤ

   コンヤはセルジュク・トルコ(1037〜1219)の首都だ。中部アナトリヤ高原の中央部にある。高原とは言っても沖積平野のように真平らだ。地平線まで続く広大な平野の一部のみが耕され、麦が育っていた。後は牧草地だ。カッパドキアからコンヤに至る道中、羊飼いが数百頭の羊を引き連れている場面に何度も出会った。土地のゆとりを生かし、大地の恵みに生きる生活に感嘆していたら、ドライバーが『土地は只みたいに安いんですよ。こんな僻地で生活する気など起きませんね』。突然、我が白昼夢を壊されてしまった。

   コンヤの中心部には小高い丘があり、大きなモスクがあった。ドライバーはモスク巡りには関心がないのか、下で待っていると言う。この辺りはイスタンブールとは異なり、男女共々敬虔なモスレム一色だ。モスクの中では少年が一心にお祈りをしていた。ネクタイをした男性は殆ど見掛けない。質素な服装だ。ヴェールを被った女性が主流だ。信仰にひたすら生きている姿が伝わってくる。
          
   小高い丘を囲んで一周2Km近い道があり、市内電車の環状線が走っていた。満員に近い客だ。ここの電車は市民の足だったのだ。それ以外の場所では、移動手段は自転車が殆どである。坂の町イスタンブールには自転車は全く見掛けなかったが、こちらでは随所で見掛ける。この姿こそが典型的なトルコの実力相場だと確信した。自家用車が全国的に普及するまでには、気が遠くなるような時間が掛かりそうだ。

   都心にはイスラム神秘主義教団、別名踊る宗教『メヴラーナ教』を創設したメブラーナの石棺が保管してある巨大なモスクがあった。今ではメヴラーナ博物館と改称している。メヴラーナ博物館前のレストランに入ったのは失敗だった。ビールがない。ホテルのレストランに行くべきだったのだ。
            
   イスタンブールですら、著名なモスクの回りではビールは売られていないことを知っていながら、ドライバーが『実は朝から何も食べていない。腹が減った』と言うので、目に入った最初のレストランに入ってしまった。迂闊だった。

   夕方、ホテルに到着。ここでもドライバーは別のホテルだ。ホテル前に新しいモスクがあった。管理人兼務の若い導師の許可を貰い、ミナレットに登った。モスクには必ずある尖塔だ。
                            
   コンクリート製の円筒の中に螺旋式階段があった。心配したのか導師も一緒に付いてきた。中に鳩が住んでいて、あちこちに卵を生んでいた。鳩が驚いて上へ上へと飛び上がる度に、無数の埃が舞い落ちてくる。やっと、30m位登ったら、タワーを取り巻くツクシの袴のようなベランダに出た。高層ビルもなく、眺めは絶景だった。

   メヴラーナの踊りは12月17日、彼の命日を記念したメヴラーナ祭の余興として、コンヤのスタジアムで行われるだけだそうだが、我がホテルの地下では観光客用に毎晩ショーが開かれていた。

   6人の踊り子、5人の演奏家を1人の指揮者が操る。全員男だ。20代に感じる若者もいた。宗教行事だから、拍手は禁止。踊り子は円錐台形のロング・スカートを着用し、両手を横に延ばし、頭を横に倒し、背骨を中心軸にしてひたすら回転しながら直径5m位の円周に沿って移動する。自転しながら公転しているような動きだ。

   回転速度が高まるとスカートの裾が遠心力で持ち上がる。最前列だったので、脛毛の多いトルコ人のスカートの下を覗き込んだら、足首まで覆う白い下着を着ていただけ。長時間この旋回運動を続けると、神との一体感を感じながら無我の境地に至るそうだが、退屈さを我慢しながら45分もじっと見ただけ。

   翌朝早くコンヤの空港まで送ってもらった。私にとり『時は金なり』。ドライバーには申し訳ないと思いつつも、一足先にイスタンブールへと向かう。途中ブルサの山々の白銀の世界を眺めていたら、眼下にライバルである『ルノーとフィアット』の工場がくっきりと見えた。工場の大きさは昔のままだ。ドライバーはアダパザルへと、1日がかりで帰った。

   イスタンブールの後半は最も新しい『スイス・ホテル』を予約していた。ヒルトンとの比較もしたかった。不景気のせいか白タクは一掃され、空港にもタクシーが溢れている。スイスホテルは緑の樹木に囲まれ、立派な日本食レストランもあった。新しいだけに部屋代もヒルトンより高い。空き部屋があったので早朝にも拘わらず、追加料金の請求も無くチェック・インできた。

[11]トラブゾン

@目的

   トラブゾンは黒海の奥深く、ロシアとの国境も近い景勝の地だ。今回残念にも旅行中で会えなかった工場長のウンリュさんが『石松さん。トルコで訪問する価値がある、あなたに残された場所は、トラブゾン・コンヤ・ネムルートの3ヶ所のみですよ』と言っていたのを思い出す。

   サバンチさんが『トヨタサが軌道に乗ったらトルコ系諸民族の国、中央アジア諸国へトラブゾン経由で完成車を輸出したい』と夢を語っていた町だ。ソ連崩壊後ロシア人の担ぎ屋が大勢来ているとも報道されていた。その後どうなっているか、見込みがあるのか否かも確認したかった。
                  
   郊外の山の中腹にある中世のスメラ僧院も、ついでに訪問したい。写真では、俗界と決別したように険しい岩壁に貼り付いたような建物だ。中国政府がPRを兼ねて修復した、チベットの王宮ラサにそっくりだ。 500mの山登り用にと、テニスシューズも持参した。

A心配

   元駐在員から『トラブゾンには久さんが販売店を尋ねたことがあるだけで、他には誰も行った例がない。昨秋トルコがEUの関税同盟に加入した結果、無税の完成車がEUから雪崩れ込み、トヨタサは大打撃を受けている。そのため、トヨタサと販売店との関係は現在、極度に悪化している。
                 
   久さんを通じて、販売店にガイドを出すように頼んでいるが、未だに返事すらも来ない。期待はしないで欲しい。万一の場合にはタクシーで我慢して。トルコの東部の治安は悪いが、細心の注意をすれば、まずは大丈夫』と脅かされていた。

Bイスタンブール⇒トラブゾン

   早朝便だったので、簡単な機内食が出た。スイス・ホテルで優雅な朝食を満喫したので、チョット味見をしただけで、悪い気もしたが返却。片道1000Km、飛行時間は約2時間。両都市間の移動は飛行機中心なのか、満席の賑わいだ。発展途上国の常、中東の有力国トルコですら鉄道や道路網が未整備なまま、小さな飛行場を結んだ航空輸送時代に一足飛びに突入している。

   黒海沿岸の多雨地帯は緑の山野で覆われ日本並。やがて、雪に覆われた大山脈が現れた。機内誌記載の飛行経路を示した地図と、首っ引きになりながら地形を確認していたら、英語が全く喋れない隣席のトルコ人が地図上の一点を指差した。意図は完全に通じた。我が北アルプスなど、残念ながら足元にも及ばない雄大さだ。

C究極の大歓迎

   トラブゾンの空港は黒海沿岸の埋め立て地にあった。千坪足らずの小さな空港ビルと狭い滑走路が1本あるだけ。迷子になる余地もない。空港には販売店の社長自らが出迎えてくれた。大型のランドクルーザだ。

   『ドライバーは?』『いない。この車の運転席は本皮張りのシートだ。運転席が最上だ。運転をドライバーにさせて、助手席に乗るのは具の骨頂。これは私の専用車。人になど運転させられるものか!』故サバンチさんも、当時トルコでは未発売だった『セルシオ』をアメリカから輸入し、自分専用。人には決して運転させなかったのを思い出す。自動車が心(しん)から好きな金持ちに共通する行動だ。

   空港から5分と掛からぬ販売店への道中、挨拶もそこそこに、いきなり『久さんは親友だ。トラブゾンの歴史と文化、美しい自然を理解してもらうために、3コースのプランを立てた。4時間では短か過ぎるので、食事抜きのコースも考えた』と言って矢継ぎ早に紹介。

   『トラブゾンに来た目的は食事にあらず。モスレムの断食を真似るのも私には貴重な体験だ。販売店の活況と市内の雰囲気を確認した後、スメラ僧院を訪問できれば本望だ』『分った。後は臨機応変に考えよう』と言って、販売店に直行。この社長はインテリには珍しくも英語に弱く、発音にも強い訛がある。その事を本人も多少は気にしているようだった。『石松さん。遠慮しないで欲しい。旨く受け答えしていなくとも、あなたの英語の6割は理解しているから』

   販売店は拡張工事の真っ盛りだった。オフィスにはパソコンも導入され活気があった。販売実績は年間数百台らしい。修理工場にはフロントガラスの中央部が運転席側へ、直径50cm深さ20cm位、擂(す)り鉢状に凹ませられた乗用車があった。社長は『トルコ人には安全ベルトをしない者が多い。飛び出したドライバーの跡だ』と言う。正面衝突した対向車のドライバーだったのだろうか?

   道中、社長は中断することもなく、不自由な英語で喋り続けた。『トラブゾンは背後の山脈が黒海に迫り平野もなく、農耕地がないにも等しい。過去10年、人口も少しずつだが減り続けている。若者はアンカラやイスタンブールに働きに出てしまう。長男は英国に留学中、次男はイスタンブールの商科大学、高校生の長女は自宅通学だが、トラブゾンに残るかどうかは未定。親には進路に干渉する権利もない。               

   しかし私は本日、トラブゾンの自然がいかに美しく、変化に富み、豊かであるかをお見せしたい。トヨタサの日本人は久さんが来ただけ。その彼もスメラ僧院には行かなかった。是非、皆に一度はトラブゾンに来るようにPRして欲しい。

   トラブゾンは日本のように、春夏秋冬の全てが美しいだけではない。すぐ近くの山岳地帯に行けば何時でも、同時に2つの季節が味わえる。麓が春でも山腹は冬だ。また山1つ越えると気候帯が変わる。黒海側は雨量が多く、鬱蒼たる緑に覆われているが、山頂近くのトンネルを抜けると岩だらけの禿山だ。山の両側で晴雨・雨雪・晴雪に別れるのは珍しくもない。私の趣味は狩猟だから誰よりも知っている。射止めたワイルド・ピッグ(野豚かイノシシかは未確認)は我々モスレムは食べないが、ロシア人は食べる。高く売れるから愉快だ』

   私も『日本人で最初にノーベル文学賞をもらった川端康成の受賞作品“雪国”は“トンネルを抜けたら雪国だった”で始まっている。また“馬の背を分ける”と言う表現もある。その意味は云々……。』と負けずに応戦していたら、空港では晴れていたのに、急に雨になった。今回の出張で唯一雨に出会った1時間だが、幸い移動中で実害は無かった。

   トラブゾンの郊外に出たら、木曽川の上流のような渓谷美が現れた。しかし、山はより高く、谷はより深い。山腹に植えられた果樹は花盛りだ。数年前、渓谷沿いの濁流で数十人が死んだ。まだ道路の復旧工事が完成せず、未舗装のガタゴト道を進む。そのためのランドクルーザーだったのだ。『日本だったら簡単だろうが、資金不足のトルコでは、この程度の工事でも何年掛かるか見当も付かない』と嘆息。

   彼は前日、実兄の葬儀がイスタンブールであったが、私のガイドのために、とんぼ返りをしたそうだ。悲しみを見せず、満を持して私のために時間を割いてくれた好意を知るや否や、路肩に車を止めてもらい、山に向かい両手を併せて合掌した。彼からは心に染み入るお礼の言葉を受け取った。

   スメラ僧院への登山道路の分岐点に立派なレストランがあった。彼は『レインボー・サーモン(ニジマス)が美味しい』と誘ったが、時間が勿体ないので固辞した。今度は『1泊しないか?それが出来ないなら、午後4時の飛行機を8時に変えないか?』と提案する。『午後7時半に日本人仲間と夕食の約束があり、残念だが無理だ』

   スメラ僧院へは、10年前のガイドブックでは高低差5百mの登山道路を歩いて登る事になっていたが、今では擦れ違い困難とはいえ、急峻な未舗装道路が途中まで開通していた。最後の50m(水平移動3百m)のみは未だ獣道(けものみち)だった。雨で抜かるんだ道では、テニスシューズが実に役立った。革靴だった社長は『用意がいいねえ』と一言。

   僧院は観光資源として大々的に売り出すべく、本格的な補修工事の真っ最中だった。谷間に千mのロープを張り、資材を運び上げている。絶壁にしがみついているような部屋から下界を覗くと眩暈(めまい)がしそうだ。天井や壁には禿げ掛けた宗教画がビッシリ。人里離れた山間の僻地で信仰に生きた人々の強い信念に打たれ、その真似はとても出来そうにない私は暫しの間、過ぎ去った時の流れを追う。

   山を降りたら、『残り時間で訪問可能な場所は1つ。ほんの最近発見され、2年前に公開された鍾乳洞か、市内の博物館かだ。どちらが希望?』と聞く。『博物館は見飽きるほど既に見た。自然美ではカッパドキア・パムッカレ・トーラス山脈・ボスフォラス海峡・エーゲ海は見たが、鍾乳洞は初めてだ』

   近くにあるのかと思ったら百Kmも離れていた。雪を抱く大山脈の頂上付近で長さ1800mのトンネルを抜けた。トルコで体験した唯一の本格的なトンネルだ。峨々たる荒涼たる岩山が遥か向うにまで広がる。私が『今まで行く機会もないままだが、写真では見たアリゾナの谷に似ているような気がする』と感動を込めて語り掛けた。『あそこにインディアンが歩いている。助手席にはチロリアン・ハットを被ったカーボーイが乗っている』と相槌を打つ。          

   既に内陸部の過疎県に来ていた。高度2千m地点からは建設工事中の観光登山道路を登った。乗用車では到底無理な道だ。運よく歩いていた管理人に追い付き、車に乗せた。何と鍾乳洞は山頂近くの高さ2500mもの位置にあった。管理人が洞窟の鍵を開けた。小さな鍾乳洞だったが、こんなに美しい幻想的な鍾乳洞は未だ見たことがなかった。

   天井からは、蛇行した曲線に沿って発生した割れ目から、長短の鍾乳石がスダレかオーロラのような形でぶら下がっている。巧みな角度からの照明に浮かび上がる美しさは、我が拙き表現力で描写するのは無理。床には無数の石筍が異様な形で、しかも伸び伸びと姿を競っているかのようだ。飲めるほどに清らかな水が流れる。何時まで見ても飽きる気がしない。
          
   ここを見れば『鍾乳洞の価値は大きさに非ず』との結論に誰でも辿り着くような気がした。山口県秋吉台の秋芳洞も発見当初はここに劣らぬ程に素晴らしかったのだろうが、観光土産用に石筍を切り出し、取り返しの付かない破壊をしてしまった。父は生前『秋芳洞は戦前までは素晴らしかった』と何度か残念がっていた。

   『もう時間がない』と言うや否や社長は、レーサーのような猛烈運転を始めた。『飛行機に乗り遅れても構わない。出国は明日の夜だからだ。久さんや駐在員との夕食会はスイス・ホテルの日本食堂だから、事前に必ず連絡が取れる。ここで事故を起こされたら、トヨタサに行っていた筈の石松は、単独行動中に誘拐されて東部に連れ去られていたのか?と大騒ぎになり兼ねない』駐在員ですら一緒に行きたくとも実は大義名分が立たず、来れなかった隠密旅行がバレルのを、私も少しは気にしたのだ。

   空港前のレストランに着いたのは15時15分だった。社長はレストランの従業員に私のパスポートと切符を渡し『石松さんの代わりに、チェック・インの手続きをして来い』と言い渡すや、矢継ぎ早に注文を出した後『2階の方が見晴らしがよい』と言って、階段を駆け登った。『夕食会があるので、ビールだけで十分だ』と言ったが、馬耳東風。

   ワゴンで運ばれてきた前菜の中から、これもあれもと手に取る。トルコのサラダの彩りは赤と緑の組み合わせが一際美しい。メインの料理は黒海の底に棲むと言う通称『イボカレイ』のフライだ。白身の魚で、日本人の天然タイへの信仰に匹敵するトルコ人の人気魚だ。
                             
   眼前に広がる荒れ狂う黒海の波頭を見ながら『黒海の水の色は季節や気象、太陽の位置で常時変わる』などと嬉しそうに語りつつも、珍しいデザートを薦めた。私は彼の全身から溢れ出た親切心に心底感謝しながらも、これが夜だったら、奥の細道に詠まれた芭蕉の句、『荒海や、佐渡によこたふ天の川』を連想するんだろうな、と思いつつ別れを惜しんだ。

   唯一の心残りは、『このガイドブックを久さん達に見せてくれたら、彼等もトラブゾンに行きたくなる筈だ』と言って、社長が買ってくれた鍾乳洞の素晴らしいカラー写真集を車の中に忘れて来た事だ。時間との戦いをしている内に注意力が落ちてしまった。ああ、残念。(注。定年直前に出張者が持ち帰ってくれた)

Dスイス・ホテル

   部屋に入って僅か1分後、小便の真っ最中に電話が鳴った。早口の英語が聞こえるが、落ち着いては聞けない。それでも、間違い電話でない事だけは直ぐに分かった。『ゆっくり、もう一度、最初から話すように』と頼んだ。『私はスイス・ホテルの社長***です。ご利用頂きありがとうございます。サービスなどでお気付きになった、ご不満がございませんか?』『洗面台も風呂もお湯の出が悪い。時間が掛かり過ぎる。湯水混合栓の故障か、水圧低下か原因は分からないが、昨夜も今朝も同じように悪かった』『直ちにエンジニアを差し向けます』

   5分後には修理屋の若者が大きな道具箱を抱えて現れた。早い対応に驚く。それにしても不思議だったのは5百室もある大ホテルの社長が、客室に一々電話で挨拶する時間があるとも、社長の仕事とも思えない。挨拶するのが習慣ならば、初日である昨日の筈だ。と思い巡らしていたら、心当たりがあった!例の赤いチロリアン・ハットだ。昨日、ホテルの何処かで社長は私をキット見掛けたのだ。それで何か一言話したくて、フロントからの連絡を待ち構えていたのだろう。
    
 上に戻る
ドバイ国際空港

[1]断酒も覚悟

   トルコ(イスタンブール)からパキスタン(カラーチ)へ行くのは10年前と同じように、今なお不便だ。欧州のハブ空港へ戻れば、昼間の直行便があるが、まる1日を空費するのは、総日程2週間の制約下ではあまりにも時間が勿体ない。分厚い航空便の時刻表と格闘して見つけた経路はアラビア半島の東側、アラブ首長国連邦の国際空港ドバイ経由便だった。搭乗機もアラブ首長国連邦の運航便だ。

   アラブ首長国はサウジアラビアと並んで、イスラムの戒律を異教徒の外国人に至るまで厳守させる政策で、つとに有名な国だ。飲酒の証拠となる軽い匂いすら処罰の対象になるらしい。いわんや荷物に酒の類いを隠していたら、どんな酷刑が待っていることやらと、想像するだけで気が重くなる。溢れるばかりの石油と天然ガス資源を武器に、欧米諸国に有無を言わせない無言の力で睨を利かせている現状は、石油危機以来マスコミを通じて熟知していた。

   しかし、我が職場にドバイ通は不在。やむなく情報音痴のまま出発。無用の摩擦は避けるべく、まず最初に決めたのは断酒の覚悟だ。ドバイ空港に着くのは午前0時35分、出発は午前8時の予定だ。空港の中でも目立たぬようにヒッソリと時をやり過ごすにしくはなしと、得意とする好奇心丸出しの行動だけは、やむなく我慢することにしていた。

   イスタンブール空港では『末期の水』を飲む思いで、生ビールを心行くまでがぶ飲みして、気を紛らわせた。飛行機の搭乗口には、臨検のための私服警官らしき人はさすがにいなかったが、それでも離陸するまでは、全身の緊張を押さえることはできなかった。『海外にもすっかり慣れた』と口ではいくら自慢していても、心とは無関係に正直に体は反応するようだ。

[2]アラブ首長国連邦機

   力が抜けてしまうほど、ガックリした。機内でも酒が只で飲めたのだ。大枚をはたき、イスタンブール空港で高い酒(空港内のレストランの物価は、ツーリスト価格)をたっぷり飲んだのは、何と馬鹿げた行為だったか。腹立たしかったので、即座に『ウイスキーの水割り』と注文。しかし、持ってきたのは、コップに満杯のウイスキーと別のコップに入れた僅かな水だった。男の乗務員すら、ウイスキーの飲み方を知らなかったのだ!

   機内食は何とまずい事か!酒が飲めると分かった途端、反動も手伝って、アラブには世界に通用する料理は全くないのかと、ムラムラとした不満が募る。豚肉料理が出せない事情はもちろん承知している。しかし、豚より美味しい牛のヒレ肉、エビカニの類いは何処でも調達可能だ。食材もアラブ産に拘る必要はない筈……。
      
   アラブが真に豊かになったのは石油危機の演出以降だ。雑草を齧って育った堅い羊肉中心の粗食に、有史以来ドップリと浸かり、贅沢な料理とはキット縁がなかったのだろうか?それとも国営企業の常、お客様へのサービスとは何か等、考えもしないのだろうか?

   機内に閉じ込められている客の、唯一の楽しみは食事である。欧米各国の航空会社との競争が不可避となった今日、こんな料理のあてがい扶持を続ける限り、見捨てられて行くのは火を見るよりも明らか!

   眼下にドバイ国際空港が見えてきた。あり余る電力に使い道がないのか、市街地・道路・空港等、およそ人がいそうな場所という場所には、オレンジ色の明るい照明が何処までも続く。先進国の2倍もの明るさに感じる。発展途上国である中国やベトナムの夜の暗さとは、まさに対照的。

[3]ドバイ国際空港

   金が溢れているのか、空港のあちこちで工事中だ。建築物の何もかもが真新しい。今まで出会ったどの空港よりも大きなショッピング・センターがあった。単なる大型免税店ではない。有名ブランドは専用の店舗を構える。カメラやオートバイの専門店もある。乗用車すらも売っていた。空港ビル内には乗り継ぎ客相手のホテルもあったが、貴重な機会なので、店を一軒一軒尋ね歩いた。

   生鮮3品専門のスーパー・マーケットもあった。殆どは輸入品だ。旅行客が主力客とは思い難い。空港内の職員や労働者が買うのではないか?と思わざるを得ない。缶ビールも売っていた。その昔パキスタンでは、駐在員がビールの調達に大変苦労していたのを思い出し、早速御土産に1ダース買った。これ以上は重くて運べない。ここで買ったものなら、機内には当然持ち込めると確信したのだ。仮に没収されても1缶がたったの87円だから、痛くも痒くもない。

   店員は全て同じデザインの制服を着ていた。殆どが女性である。長い髪の毛を垂らし、背が低く、前後左右何処から見てもアラブの女性には思えない。『東南アジア出身者に感じるが、お生まれは?』『タイです。フィリピン人も沢山います』と言う。出稼ぎの女性達だったのだ。商品には全て定価が印刷されたバーコードが添付されており、レジの操作とお金の計算さえ出来れば、英語力は二の次で十分なのだ。

   スポーツ洋品店で、テニス用の帽子を記念に買った。砂漠の国、ドバイ人のあこがれは緑だ。緑を基調に、砂漠の黄色と組み合わせたデザインだった。正面には大きく『DUBAI』のマーク。純綿の丈夫な製品だった。帰国後、早速愛用開始。

   一角には酒・タバコ・香水の大型免税店もあった。この空港内はイスラムの戒律とは無関係、欧米と全く同じルールに支配されていた。昔、ドバイの価格が世界一安いと聞いた事があるが、現在は香港とさして変わらない。ドバイの通貨が米ドルに連動しているため、過去数年の円安の結果、日本円に換算すれば物価は高くなったのだ。

   歩き疲れ、腹も減ったので、航空会社のラウンジ(無料)に出掛けた。ウイスキーを注文したら、機内と全く同じ方法。ボーイがコップに並々と注ぐ。最高のサービスの積もりらしい。砂漠の国だけあって、ブドウやスイカは糖度が高く大変美味しかった。しかし、日本の温室栽培の果物と異なり、果肉が堅いのが玉に疵。カウンターに舞い戻ると『ウイスキー?』と先回りして聞く。『あのテーブルの上を見てくれ。まだ半分以上も残っている。欲しいのは水だ!』

[4]アラブの香港

   パキスタンの駐在員から聞いた話だ。ドバイはアラブの香港と思えば分りやすい。外国人がイスラムの戒律から解放されているだけではない。アラブ各国と欧米やアジアを結ぶ物流の玄関口でもあり、ハブともなっている。『なるほど、なるほど』と即了解。
           上に戻る
パキスタン

[1]カラーチ

@国際空港

   ターン・テーブルの近くまで来たら、写真入りの大きな身分証明書を胸に付けた大男が『ここで待て』と言い残すや、手押し車を押しながら引き返してきた。『自分で荷物運びは出来るから、手伝いは要らない。それにパキスタン・ルピーは全く持っていない』と言ったが、そんな台詞くらいで引っ込むような気配は全くない。サービスの押し売りを仕掛けなければ、生きては行けない国だと、今回も何度か不本意にも体験させられたのであった。

   『チップは不要』と言うや否や、手荷物のカバンとビールを強引に取り上げ、カートに載せる。税関も何1つチェックしない。彼の目的は明らかだ。ビールを無事持ち出せた場合の成功報酬としての過大なチップを当てにしているのだ。 
  
   空港では駐在員の高さん、田さんが出迎えてくれた。『この男は何度も断ったのに、勝手に荷物を運んだのだ。パキスタン・ルピーは持っていないし、チップなどやる気も起きない』と言ったけど、手慣れた田さんは間髪を入れずに、パッとお金を握らせた。 

   『所で、田さん。持ち込んだお酒の半分は税関で取られると前回聞いたけど、今度は何とも言われなかった。パキスタンも少しは変わったの?』『日本人は大目に見られるようになった。カバンの中までは調べないから、お酒は隠して持ち込むんです。幾ら何でもこれ見よがしみたいに、外から丸見えの状態では摩擦を起こしますよ』とのご忠告。

A市街地

   十年一昔と言うのに、カラーチの町並みは何一つ変わっていなかった。ビル・道路の混雑・全外板を花電車のように満艦飾にした大型トラックなど、何もかもが昔のままだ。建設工事はまるで見掛けない。昔はいさ(ざの誤植にあらず)知らず、情報化時代の今日といえども、各国の発展速度がかくも違うものかと溜め息が出る。

   シェラトンに向かう途中、突然、高さんが『IMC(インダス・モーター・コーポレーション)はパキスタンの自動車文化を変えました。見て下さい、このディーラーの建物を。天井まで大きなガラス窓が嵌め込まれ、日本と同じ形式のショーウィンドーでしょ。他社も一斉に建て替えました。
                        
   昔は商品は倉庫に隠したままで、値段の交渉に全精力を投入していたのですが、今では車を前面に置くだけではなく、透明性を全面に出し価格も明示するようになりました』などと、元気な話題を提供。心配するほどの事はない。パキスタンの自動車産業も部分的ではあるが、徐々に離陸し始めたようだ。

   シェラトンはカラーチを代表するホテルだ。建物のデザインに特色があり、遠くからでもそれと直ぐに分かる。ホテルニューオータニ(東京・紀尾井町)の本館と同じように、エレベーターホールを中心軸として3棟の建物が放射状に広がっている。当日はパキスタンとタイとの修好関係をお祝いする行事があるらしく、制服に身を固めた大勢の治安部隊が内外に溢れ、庭園では楽団が生演奏をし続けていた。

   ホテルの一室で田さん達とスケジュールの確認調整を終えるや否や、町へと飛び出した。

   田さんが『パキスタンの卵の黄身は白に近い』と不思議な話をした。私は
『卵の殻の色は鶏の羽根の色に似ているが、中身の色には差が殆ど現れない。むしろ餌の種類に影響される。タイでは日本人好みの濃い黄色にするため、赤いトーモロコシの餌を与えると聞いたことがある。NHKテレビで、毎日餌を変える事により、白身がバウムクーヘンのような年輪状になった卵を産ませた実験を見た事もありますがねえ』 

   翌朝シェラトンのレストランで卵の色を確認すべく、待望の茹卵を食べた。気味が悪いほど、黄身が白い。うっかりすると白身と間違えるほどだ。よほど特殊な餌を与えているのだろうか?日本では昔、放し飼いの鶏は雑草を食べるから、黄身が濃いと言われていたが、パキスタンの鶏は緑餌を与えられていないのだろうか?それともパキスタン人は白い黄身の卵が好みなのだろうか?パキスタン人に聞くのを忘れたのが悔やまれる。

   シェラトンの果物ジュースは自分で飲みたいだけ作って飲むシステムになっていた。大きなハンドルの付いた搾り機に半割りのオレンジをセットして、力一杯潰してもほんの僅かしかジュースが得られない。面倒臭くなってコップ1杯で止めた。             

   『飲みたいだけ、遠慮なく飲めるようにした』というのは建て前。その目的は元々安い人件費だけでなく、序でにオレンジまで節約しようとの魂胆が見え見えで情けない。トルコの空港ですら今やロンドンの空港と同じタイプの、オレンジジュース絞り専用のロボットが稼働しているのに。

B生鮮3品マーケット

   何はさておいても、マーケットに出かけたかった。『日曜日は商品が少ないか
ら面白くないよ』と言われたが、今日しか時間が取れないのだ。  
     
   かくも不潔なマーケットがこの世にあったとは!無数の蠅が飛び回っている。複合化した腐敗臭が鼻を突く。牛小屋の中で食べ物を売っているようなものだ。雨は殆ど降らないので、日除が目的の屋根は穴だらけのぼろ布で覆ってあるだけ。

   牛の頭が無造作に積み重ねられている。牛の足の膝から下を薪のように積み上げている。蹄には牛糞が付いたままだ。その傍らでは、牛糞がたっぷり付いたまま、脛の毛と皮をナイフで一心に削り落としている。別の場所には大きな肝臓や胃等が枕のように積み重ねて置いてあるが、蠅が真っ黒にたかっている。ああ、気持ちが悪い!

   牛の肉や内臓売り場に比べれば羊売り場は可愛い。中身は同じでも、各部品が小さいし、トルコで見慣れていたせいもある。死ねば目は自然に閉じるものかと思っていたら、例外なく開けたままだ。断末魔の悲鳴が聞こえてきそうだ。

   魚売り場の臭気も負けず劣らずに凄まじい。大きな魚の内臓が床に撒き散らされている。綺麗に洗うと言う観念がない。活魚で売るとの習慣もない。生で食べる習慣がないからだろう。私を客と見なしたのか、手掴みにした魚を差出し『チープ。チープ』と叫ぶ。胃を戻したくなるほどの気持ち悪さだ。

   野菜や果物売り場は、動物性蛋白質のような腐敗臭がないだけに多少はましだ。それでも、生ゴミの腐敗臭が漂う。駐在員婦人は一体どこで何を日々買っているのだろうか?『これが本物のサフランだ』との呼び掛けに応じて、使い道も知らないまま記念に1箱買った。2グラム8百円だ。20分足らずでとうとう退散してしまった。

C国立博物館

   日曜日だったが、運よく国立博物館は開いていた。展示物の配置は昔と変わり、パキスタンの発展史が分かるよう、年代別に再整理されていた。とは言え、前回正面玄関の突き当たりで見た筈の、全人類の宝と言っても過言ではない、モヘンジョダロからの発掘品である『国王の小さな胸像』が見当たらない。

   やっと見付けた。博物館は大きな建物なので、順路で一度見落とすと時間損失は甚大。奥まった一番立派な部屋の、そのまた中心部に位置する台座の上の、防弾(?)ガラス箱に収まっていた。時々世界的な美術館や博物館で展示品が盗まれる事件が発生しているが、これ程の有名品になると盗んでも換金できる筈がない。重要な事は、観光客の不注意で傷つけられないようにする事のようだ。私はかつての国王を表敬訪問したかのような厳かな気分を味わいながら、一緒に記念撮影した。

Dクリフトン海岸

(1)ラクダ初体験

   アラビア海に面した景勝地、クリフトン海岸へと急ぐ。一瘤ラクダに乗りたかったのだ。ラクダの背中には木製の籠が取り付けてあり、一度に2人は乗れる。立ったままの背が高いラクダに乗り降りするため、専用の階段もあった。 
              
   ラクダが歩き始めた。アッ、股が痛い!乗り心地は最悪だ。上下に大きく揺れる。ラクダは左右それぞれの側の足を同時に動かす結果、馬よりも上下動が大きくなるそうだ。下から突き上げられるような動きには、堪え難い痛みが走る。前述した地震力と同じ現象だ。   
                      
   ラクダの背の上下動に連動して体を動かせば、体に作用する加速度が減少し、加振力も比例して減少するはずだと頭では理解していても、振り落とされないように籠にしがみ付くのが精一杯。『月の砂漠』の王子様の乗り心地は味わえそうにもない。乗り物としては楽だ(ラクダ)とはとても言えない。シルクロードを行き来した隊商の場合、ラクダは荷物を運び、人は地上を歩いたのだろうと、勝手に推定して自己満足せざるを得ない。

   ラクダ使いが一声発した途端、ラクダは急に走り始めた。今度こそは籠から振り落とされるのではないかと思うほどに揺れる。尻の痛さも忘れて、籠の枠に更に一所懸命になってしがみついていたら、またもや急にラクダ使いが一声。ラクダが急にしゃがみ込んだ。エレベータのような垂直下降ではなかった。前足を先に折り畳んだ結果、体が前に滑り落ちると同時に、面取り不足の木製の枠により左足の腿(もも)の内側に8mmもの切り傷発生。出血!

   破傷風の予防注射は2回しないと効果が発生しないらしい。海外出張の度にいつもは予防接種を欠かさなかったが、慣れてきて気が緩みとうとう省略したのが悔やまれてきた。ズボンの外まで血が滲んで来たら、急遽病院へ行こうと思ったけれど、ステテコに滲んだだけで幸いにも止血した。これならば傷口が外気にまで大きくは触れてはいないから大丈夫だと判断し、同行者に怪我は伏せたままにした。その後2週間、朝晩消毒を繰り返した。約1ヶ月で完治しホッとしている。

(2)猿回し

   目の前で実演する猿回しを初めて見た。今まではテレビで見たことがあるだけだった。ここの猿回しは、大勢の客を前に演じるのではなく、個々の注文客の前で芸を見せる。今回は私たち3人だけが客だ。猿回しの指示に一瞬にして対応する猿を見ていると、猿の知能水準の高さは大したものだと改めて感心。

(3)コブラ

   蛇にだって人間の指示に従って巧妙に踊る能力があったのには、今更ながら驚いた。蛇使いの笛の音のリズムに乗って、鎌首を持ち上げたり、左右に振ったりする。客に飛び掛かるしぐさをしたりもする。

   こちらは、毒蛇だと言う認識の下に見ているから、動きに一層迫力を感じる。蛇使いが『マングースとの闘いも見たいか?』と聞いたが、沖縄で見たことが既にあったので辞退した。コブラと言えども、天敵との闘いには一瞬にして負けるし、余りにもあっけない勝負の割りには、蛇代が高く付くからだ。

(4)波の形 

   アラビヤ海の水平線をジッと眺めながら、この先にはインド洋、そのまた先には……と感傷に耽っていたら、高さんが突然『日本の海岸でよく見掛ける波の形態とこちらとは現象が違うと思いませんか?海岸線に平行に押し寄せた大波が最後に崩れ落ちるためには、海底の地形が影響しているのでしょうか?クリフトン海岸は遠浅なので、ただ単に波がヒタヒタと押し寄せるだけなのでしょうか?』不意打ちを食らった私は『う〜ん』と唸ったまま、即答できずじまいだった。

   その後、考えた結果は次のようなものだ。海風によって発生した沖合からの波には運動のエネルギーが含まれている。移動しているのは波であって海水ではない。海表面の海水はその場所で単に上下に振動しているだけであるが、運動のエネルギーは波と共に移動している。

   ここはインダス河の沖積平野の延長にある大変緩い傾斜の遠浅である。従って波が海岸に到着する前に、運動のエネルギーは海底との摩擦により徐々に失われ、波高も低くなり、消滅する。高塩さんの想像通りだ。

   一方、波の高さに比べて十分に深い海底があり、海岸が岸壁のように垂直になっている場合には、波が岸壁に衝突すると共に運動のエネルギーの一部は消滅し、残りは反射波となる。その場合、岸壁前の海水はただ単に上下に振動する定常波を形成する。

   従って波打ち際で波頭の美しい崩壊現象が見られるのは、程よい斜面のある海岸だ。波の高さよりも浅い位置まで来た波は、運動のエネルギーが消滅するまで海底を駆け上がる。従って波の最終到達地点は海水面よりも高くなる。その結果、浜辺を駆け上がった海水はその後、斜面に沿って滑り落ちることになる。そこへ、次の波が押し寄せてくると、波の先端が前へ崩れ落ちるような回転運動が発生し、日本の海岸で普遍的に見られる逆巻き現象が起こるのだ。

E海軍基地

   パキスタンの軍事基地は広大なだけではなく、軍人家族の生活基地をも兼ねていた。入門手続きをすると外国人も入れる。基地内は市街地と何等変わりがない。民家・モスク・教会・商店もごく普通に見られる。ごみごみとした町並みまでも同じだ。

   海軍基地とは言うものの、巨大な戦艦は見掛けなかった。遠浅の海岸なので大深度軍港やそのための水路の建設と維持が困難なのだろうか?その代わりでもあるまいが、海軍兵学校みたいなものがあった。訓練中の若者が大きなグランドで大勢走り回っていた。

   近くの海岸には各団体の海浜保養所が建ち並んでいたが、倒れかかつて放置されたままの鉄筋コンクリート造りの保養所もあった。基礎の下に空洞ができていた。温暖化現象の結果、海水面が上昇し基礎を崩し始めたのではないかと一瞬感じた。我が推定が正しければ、海抜ゼロメートルに近い大都市カラーチが水没するのは時間の問題だ。

F造船所

   クリフトン海岸の近くに造船所があった。10数隻の木造船が組み立てられていた。最大の船は長さ50m、深さ10mは優に越える巨大さだ。船は遊園地のボートと正しく相似形だった。梯子を登って上から船底を覗くと眩暈がした。船底では作業員が弁当を食べていた。『ノアの方舟』を作っている感じだ。

   帆掛け船なのか機械船なのかさっぱり分らない。船内はまだどれも空っぽなのだ。設計図も見掛けない。船大工達は船体構造を熟知しているのだろう。船殻は30m角くらいの頑丈な木材を曲げて作られていた。船側を構成する板の厚さは10cmもある。板というよりも柱に近い。それを長さ20cmはありそうな大きな真鍮製のボルト状の釘で留めていく。日本ではとっくの昔に消滅した造船技術だ。

G拝火(ゾロアスター)教徒の集落

   拝火教とは紀元前7世紀、ペルシア(イラン)のゾロアスターが始めた世界初の一神教だ。ササン朝ペルシアの国教にもなった。一神教のユダヤ教の成立にも影響を与えた。イスラムの勃興と共に拝火教徒はペルシアを追い出され、インドに逃れた。同族結婚と鳥葬の習慣に特徴がある。イスラムともヒンドゥーとも一線を画して、今日まで生き延びてきた。ユダヤ人以上に教育熱心とも言われ、商才に長け金持ちが多い。インドのタタ財閥は世界的に有名だ。

   カラーチの一角にこの拝火教徒のコロニーがあった。コロニー全体が塀に囲まれ、出入り口は厳重に管理されていた。どの家も延べ百坪は優に越える、驚くほどの豪邸ばかりだ。一般市民の家とは隔絶した素晴らしさ。コロニーの中央部に丘があり、そこが鳥葬の場所だ。上空では大きな鳥が死体を発見すべく、悠然と旋回している。鳥葬の場所には監視小屋があり、鉄砲を持った2人の守衛が行きつ戻りつ歩いていた。

   鳥葬の現場を見たかったが『好奇心に駆られた異教徒ごときに、聖なる場所を覗き見されてたまるか』との気迫を感じて、残念ながら遠望しただけで無念にも退散した。

H新モスク

   ムガール帝国の初期の首都ラホールにある『バードシャーヒー・モスク』そっくりのモスクがあった。規模がちょっと小さいだけだ。内部には巨大な絨毯が敷き詰められていた。50×100m位の大きさになるような格子状の縦横線と各格子の中央部には肉太の大きな矢印が織り込まれている。

   大勢の信者がモスクに入ってはお祈りを済ませて出て行く。入り口でじっとその様子を眺めていたら、いかにも導師と言った感じの老人が近付いてきた。『まずかったのかなあ?』と対応策を考えていたら、いきなり『内部に入って写真を取っても構わない。何か質問はないか?』と聞かれて、ホッとする。

   『あの絨毯の枠は一人分のスペースを意味するのか?矢印の意味は?』『枠には意味はない。デザインに過ぎない。矢印こそが重要だ。メッカの方向を示している』

   門前には露天商が様々の珍品を売っていた。その中に直径1cm、長さ20cm位の木の枝を50本位束ねた商品があった。用途を全く想像できない。『これは何だ?』と聞くと、1本を手に取り、口の前で左右に動かした。先端をナイフで平らに削って使うハブラシだったのだ!鉛筆のように毎回削れば衛生的でもある。その後、あちこちでこの珍品を見掛けた。生活必需品なのだ。

Iスリさんの豪邸

   パキスタンの工場長スリさんは強盗に襲われ、不運にも全財産を奪われた結果、超安全地帯に移転を決意。周りには民家が殆どない。広大な陸軍基地に隣接した、大平原の一角だ。陸軍基地も海軍基地同様に内部は関係者の生活空間だった。ゲートで手続きを済ませ、基地を横断するルートは民有地への近道だ。

   ここほど安全な場所はない。陸軍に守られているのも同然だった。新築直後のスリ邸のお披露目会に運よく、会社幹部や駐在員と一緒に招かれた。敷地 550u、玄関の屋根を支える柱はギリシア神殿風。1階は 300u、2階ですら 200uもある大邸宅は夜間照明に浮かび上がっていた。  

   土地代込みの建設費は1200万円だそうだ。土地は只みたいに安いとしても、建物の安さには驚く。建物の価格は建設労働者の賃金に比例すると嫌でも気付く。スリさんの年収は3百万円弱だそうだが、男子標準労働者の15倍以上もの収入に相当し、人を只みたいに使える結果、こんな贅沢な建物も建てられる。長男は英国に留学。次3男も大学生。お嬢さんもいた。
                    
   『スリさん。私の換算では日本なら、年収1億円の高額所得者並ですよ。トヨタ自動車には会長以下7万人以上もの従業員がいますが、豊田家出身者を除けば、年収1億円以上の人は勿論、こんな大きな家に住んでいる人も、私の知る限り1人もいません』

   ホテルのような天井の高い、20坪はありそうな大きな応接室に案内された。日本の民家の天井高さは 2.4mが基本だが、大きな部屋がないからだ。床面積が広い場合、天井を高くしないと床下に住んでいるような圧迫感が生まれ息苦しい。日本が好きなスリさんらしく、分厚い壁を繰り抜いた棚には、博多人形などの民芸品がさりげなく飾られていた。早速好みの飲み物を注文して乾杯。

   庭に植えられた花木と芝生はほぼ根付いていた。立食パーティの料理は屋外に準備されていた。奥さんの陣頭指揮の下、お手伝いさんたちが朝から準備していたのだ。パキスタン料理だけではなく、日本人向けにツグミに似た焼き鳥も用意してあった。殊の外美味しく、骨までバリバリと食べ尽くしたら、ドンドン食べろと勧められるのを良いことに、更に食べ続けた。アフリカからの渡り鳥だそうだ。

   酒にも気持ち良く酔い、宴もたけなわ。さわやかな夜風に当たっていたら、つい調子に乗って、敬虔なモスレムを前に、恥ずかしさも忘れてコーランについて思い付くままに語ったのだ。

J私の理解したコーラン

   コーランと聖書とを比較したら、コーランの言葉には異教徒の私にも強い納得性を感じる箇所が多い。アラビヤ語で書かれたコーランは他言語への翻訳が厳禁されているので、私は解説書を読んだに過ぎないが。

   ………コーランは『人は神の前に全て平等』と言う。フランス革命(1789年)の人権宣言よりも、1100年以上も古い。コーランの平等の観念は今日の欧米の平等思想よりも、更なる厳密さを求めている。例えばイスラムには、人の上に立つ聖職者は存在しない。また、メッカへの巡礼では皇帝も国王も国民も、全く同じ服装と行動を強制されている。

   ………モスレムの1日5回のお祈りは大変健康的だ。繰り返し大きく体を曲げながらのお祈りは、健康維持のための体操を兼ねている。また、お祈りの前には衣服から露出している体の全てを洗って清潔にしている。日本人はラジオ体操やストレッチ体操をしているが、1日5回も繰り返して運動する人はいない。日本人は風呂好きを根拠に清潔さを自慢しているが、1日に5回も入浴する人もいない。その意味ではモスレムの生活は日本人よりも遥かに健康的かつ衛生的である。

   ………お祈りの開始時間は厳密に決められている。したがってモスレムには時間を守ると言う、社会生活に有益な習慣が自然に身に付く。

   ………コーランは偶像崇拝を禁じている。キリスト教(モーゼの十戒の第2条:汝自己のために偶像を造りてこれを拝すべからず…とあるにも拘らず)も仏教もヒンドゥ教も今なお布教の手段に、絵画や彫刻を使っている。偶像は大昔、文盲の民への布教の手段として考え出されたものだ。言葉を通じて抽象的な概念(教義)を理解させる立場にたつ宗教は、どんなに賢い動物をも信者にすることはできない。偶像抜きにコーランを理解できるモスレムは、他宗徒よりも平均的には頭が良い証拠だ。

   ………コーランは4人までの妻帯を許しているが、本来の趣旨を踏み外した多妻主義者のモスレムがいるのは恥ずべき事だ。コーラン成立の頃は部族間の抗争が絶えず、結果として戦争未亡人が生活に困窮した。余力のある者は正妻の同意の許に、戦争未亡人の支援のため4人までの妻帯が許可される一方、それ以上の妻帯者には4人までと制限した上、全ての妻に全く同じ愛を注ぐ義務を課した。

   信号待ちをしていたら、今にも死にそうな乞食稼業の老女が車のドアを叩きました。多妻主義者の真のモスレムならば、第2婦人以降の結婚相手はあの方々の中で最も気の毒な方をこそ選び、若くて美しい正妻へと同じような愛を注いでいる筈。もしもそれが実行出来ないのならば、結局は一夫一婦制にならざるを得ない。その意味ではコーランの教えは、今なお通用する正しさを失わない。

   ………富める者は貧しき者に喜捨せよとの教えも素晴らしい。今日の国家は本人の意志とは無関係に税金を取り立てるが、喜捨で集める方が遥かに崇高である。

   ………禁酒の教えも素晴らしい。過度の飲酒は健康を害し、深酒は過ちを得てして起こし勝ちだ。

   ………断食は毒素と化す体内の滞留物を排除するので、禁酒以上に健康に益する。しかも、断食明けには天地の恵みに心底感謝する気持ちが生まれる。 
  
   私にはコーランに記された内容の大部分は、当時の人達が人生をより幸せに送れるようになるために、教祖マホメットが考え抜いたガイド・ブックのように思える。神の啓示をマホメットを通じて、人間の言葉で表現させたコーランを信じることは、神を信じることに通じる。しかし、神を信じお祈りをする目的は、人生の難問を神に解決してもらうためではない。

   神を信じることの最大の価値は、神と共に生きる事にある。詰まりは生きている限り、神のお導きから逃れる事が出来ないと思えばこそ、他人の目の有無に関わらず、自律した人生を送るようになる点にこそある。

   スリさんが大変喜んだだけではなかった。別れ際に『IMC主催の夕食会に集まった仲間に、今のコーランの話をもう1回、語って欲しい』と頼まれた。

[2]部品会社     

   スリさんの方針で、過去10年の間に躍進した2社と、社長に改善意欲など丸でなく、10年1日の如く時が流れるだけの会社を訪問する事になった。共に一度訪問していた会社だ。前者の社長には努力を称え、後者にはお説教を暗に頼まれていた。

@ 離陸したPROCON社(PAK社の報告は省略。ほぼ同じだからだ)
    
   初訪問の時に、設備の古さ・工場内の汚さ・生産管理の未熟さ・原材料の質の悪さ・作業員の技能水準の低さ・製品の品質の悪さ、何を取っても気が遠くなるほどの驚きを感じたことを鮮明に思い出す。当社がパキスタンに進出したとしても、山ほどの苦労が待ち受けている事態は十分に予想出来た。

   社長は『パキスタンの工業はインドからの分離独立以降に立ち上がった。従ってインドよりレベルが低いのは当たり前だ』と、演説調で堂々と解説してくれた。それが、何と様変わりした事か!この会社の場合、タイや台湾の当社の中堅取引先に何の遜色も感じない。何よりも驚いたのは、蠅が1匹もいなかった事だ。

   『何故、蠅がいなくなったの?』と質問すると、『蠅は大変賢い動物である。餌さえなければ寄り付かない』建物は昔のままだったが、工場内はピッカピカに磨きあげられていた。それと同時に、IMCの関係者の厳しい要望に素直に対応した努力の成果が、私には即座に理解出来た。

   『トヨタは世界のどこに進出しても、性能と品質でその国のトップを維持すべく努力してきた。どこかの国で手抜きをして評判を落とすと、情報が世界を駆け巡るようになった今日、その他の国でもたちまち評判を落とすことになるからだ。たった1つの部品の欠陥が原因で、車全体の評判を落とした事例すらある。それ故にこそ、素材会社も部品会社も自動車会社と運命共同体なのだ。しかし、当社の要求にチャレンジした会社は、後になって感謝してくる場合が多い。貴社は?』
  
   『本田の担当者が尋ねてきた時、質問はたった1つだった。“トヨタ(IMC)との取引があるか?”“ある”と答えたら、彼等は何1つ調査することもなく直ちに取引の契約を結んだ。その後も、多数の会社と同じような経緯を経て取引が始まった。その体験から、今ではIMCには“問題点が発見されたら、何でも言ってくれ”と、逆にこちらから頼んでいる』と答えた。

   PROCONの社長は『時間が勿体ない』と言って自分で運転する自家用車に私を乗せ、あちこちの工場を案内しては、私に評価を求めた。最後に『当社の近くには、まともなレストランがない』と言って、ホテルから豪華な仕出し弁当を取り寄せてくれた。『仕出し弁当』と言うのは、日本固有の伝統とばかり長い間、誤解していた。

A変化率ゼロのALI社

   中世のように時計の針が止まっていた。ALI社では10年もの歳月がただ空しく過ぎ去っただけだ。案内してくれたIMCの部長がウルドゥ語(公用語は英語とウルドゥ語)でALI社長に苦情を言い始めたら、最後まで聞くどころか間髪を容れずに反論を始めた。両者は共に譲らず、ついには同時に凄まじい不毛の言い争いを、大声を張り上げながら延々と続けた。

   『インド人の屁理屈展開力には、日本人はとても太刀打ち出来ない』と聞いてはいたが、インドと同じ国だったパキスタン人の理論武装力もインド人に負けないようだ。海外で初めて体験した、理屈合戦のエネルギーの凄さに、ほとほと驚く。スリさん達が梃(てこ)ずってきた様子が、眼前にありありと再現されている。
      
   ALI社長は『我が社にはお金がないから設備投資が出来ない。設備が古いから部品の品質が悪くなるのは当たり前だ。金さえあれば、何の苦労もしない』と言っているのだそうだ。我慢して30分くらい、両者の言い合いを聞いていた振りを装った。        
                         
   両者が疲れるのを待って徐(おもむろに)に発言開始。日本では坊主と説教者は遠くから呼んだ方があり難がられるとかで、当社も時折、社外の学識経験者や有名人に大金を出して招聘しては講演会を開いている。遠来の人、つまり我が説得力が試されてもいるのだ。

   パキスタン人はイギリスの元植民地だったからか、英語は誰でも得意。通訳は不要。私も楽。『ALIさん。近くのPROCON社かPAK社を訪問したことがありますか?』『ない』                       

   『砂糖(オルガスムスと言いたかったが、昼間だったので止めといた)を嘗(な)めた体験もない人に、砂糖の味とは何かについて、言葉だけを使って説明する能力は私にはない。従って、両社の過去10年の変化について、どんなに詳しく語ったとしても、貴殿が納得するとは思えないがそれでもなお、本日の観察結果をご報告しましょう。

   両社の技術水準は、10年前は貴社と同じだった。今日でも両社共、建物・設備・作業者は昔のままだ。しかし、工場内の整理・整頓・清潔・清掃は完璧だ。蠅1匹翔んではいない。設備はピッカピカに磨かれている。機械の配置にも仕事がしやすいような工夫がされている。1時間ずつの生産計画が立てられ、工場の中には無駄な材料や製品在庫もない。今では社長以下全社員が楽しみながら改善活動に知恵を絞っている。

   中国には“百聞は一見に如かず”と書かれた2千年前の歴史書(漢書)がある。英語には“Seeing is Believing =見れば、信じられる”と言う諺がある。同じ意味だ。あなたが社長室の中でどんなに頑張ったところで、品質が良くなるとは思えない。私達は貴社との取引を続けた結果、IMCの製品の評判を落とす事になったならば、迷わず取引を中止する積りだ。どうか、たった一度で良いから、両社とは言わない、1社で良いから訪問されたい。貴方ほど頭が切れる人なら、何をすれば良いかは即座に理解出来ると信じている』

   頑固一筋の社長がIMCの部長に『連れて言ってくれ』と頼んだので、約束の時間より1時間早かったが、ここが潮時と思い引き揚げた。その後どう変化したか、いずれ聞いて見たいもんだ。

[3]インダス・モーター

@一難去って…

   FSの時に、私が一番心配したのは砂塵の防止策だった。近くの他社の工場の植木が殆ど枯れていたのを見た時、土漠の国で木を育てる事の難しさを直感したのだ。その時『工場の廃水を使うのだ!水代が只だ』と繰り返し、主張した。

   土漠の中に建てられたインダス・モーターは、パキスタンの従来の工場とは一線を画す立派な外観だった。砂塵を防ぐユーカラの防砂林は7〜8mの高さに育っていた。工場の廃水は後処理を済ませた後、全量(現在1日 250トン)散水に使われていた。そのための配管も完備していた。この大きさまで木が育つと、後は自生できるそうだ。

   第2段階の緑地帯作りとして、背の低い花木が植えられ始めた。給水余力の出た廃水を使って防砂林だけではなく、工場の美化を目的とした緑化活動も始めたのだ。

Aまた一難…

   一方、FSの時には予想もしなかった珍現象に工場は襲われていた。蠅と鳥の襲撃だ。工場の近くに屠殺場があり、蠅が大発生するのだそうだ。工場から数Kmの位置の港では、輸入の穀物が陸揚げされていて、こぼれた穀物を食べた鳥が涼しい工場内に移動し、巣を掛けるらしい。

   塗装工場で塗りたての塗膜に蠅が止まると足跡が付く。蝿取りに威力を発揮したのは、天井から吊す蝿取り紙だった。蠅対策は峠を超えたそうだ。しかし、鳥対策は今なお未完成。暑さ対策のため、天井には至る所に換気孔があり、数種類もの鳥が飛び回っている。巣造りのためにゴミを間断なく運び込んでは落とす。糞も常時落としている。

   本田の工場は密閉式なので鳥は入らないそうだ。ある会社では鉄砲で追い払い続けた結果、小康状態になった。IMCは工場が大き過ぎて途方に暮れている。天井から吊された片目の大きな球状模型も役立たず、鳥と人間の知恵比べは当分、終わりそうにもない。

B初体験

   工場を案内してくれたパキスタン人は気が付いた都度、工場内のゴミ拾いをした。『貴方は大した方だ。何回位、ゴミを拾った?』と質問した折に、不思議な行動を目撃した。左の掌を広げ、右手の人差し指で左手の指の関節を1つずつ押さえている。『日本人には指を1本ずつ折り曲げ、片手で合計5までの数を数える習慣がある。ひょっとして、あなたは関節で数を数えているのでは?』

   『その通りです』『ああ、驚いた!片手でも15まで数えられることに、60近くなったこの瞬間まで、私は考えた事もなかったからだ』異文化と出会うと、時々予期せぬ習慣に出会えて楽しくなる一瞬だ。

[4]高氏邸

   パキスタンでの初日は駐在員の高氏邸で夕食をご馳走になった。最終日にもお世話になった。何しろ午前2時55分の出発だったからだ。私には奥様とコックが腕を振るった和洋パの混合食や冷えたビールなどよりも、駐在員婦人の苦労話を聴いたり、駐在員住宅を垣間(かいま)見る方が遥かに関心が高かった。
              
   今までの海外出張で駐在員の家を訪問したのは僅かに4回、オーストラリアの当社駐在員の日本並に小さな家、トルコ三井物産社長や副社長の大きな家、前回のパキスタン出張時の豊田通商所長の大きな家だけだ。大きな家は関係者が集まる社員クラブの機能も兼ねていた。今回は大きな田氏邸もチラッと覗いた。

   高氏邸は広い屋敷に相応しい大きな邸宅。日本では芸能人とか特殊な金持ち以外、全く縁がない高級住宅だ。海外の一流邸宅ではどこでも客間と寝室の区別がない。米国式に共にベッドルームと言うだけだ。ホテルの部屋のようにバス・トイレ付きの独立した部屋を意味するベッドルームが5〜6室もあった。
           
   日本のサラリーマン家庭では客間は勿論、夫婦寝室でもこの種のベッドルームを持つ家は絶無に近い。バス・トイレは家族の共用設備だからだ。所詮貧しさの象徴みたいなものだ。昔々、『私の家には、2階にもお風呂がある』と、お見合いの席で、場違いな自慢をした地酒メーカー社長の娘(福岡女子大卒)を思い出すが、それでも情けない話題だ。

   パキスタンにもインドのカースト制度に近い習慣が未だ残っているらしく、庭の管理・屋内の掃除・洗濯・コック・守衛・ドライバーなど、仕事毎に人を雇わねばならず、お手伝いさんを使った体験のない日本人には、天国どころか地獄の気苦労を味わうらしい。何しろ家族よりも使用人の方が多く、多勢に無勢。時には使用人に使用されているような錯覚も覚えるらしい。

   守衛は原則として1組2人以上の交代制。1人では強盗に立ち向かえないらしい。東京三菱銀行の駐在員が強盗に襲われた結果、1組3人で3交替、計9人の守衛を雇ったそうだ。

   高さんに御土産のビールを渡したら、お返しに『寝酒にどうぞ』とオールド・パーとお摘みを貰ってしまった。『海老で鯛を釣った』ような予期せぬ結果になった。

[5]IMC主催の夕食会

   大きなホテルの屋上でバイキングをご馳走になった。見晴らしも良く、ビアガーデンのような雰囲気だった。酒類は一切なくて残念だったが、成り行きながらも私には心に染み渡るハイライトを、またもや迎えることになるとは知る由もなかった。 
                                 
   スリさんが居並ぶ会社関係者に私を改めて紹介した。『ミスター・イシマツは丁度10年前の1988年8月に、TMCから初めてパキスタンにきたエンジニアだ。灼熱の暑さの中、私と一緒にカラーチとラホールの自動車部品会社を駆け巡り、延べ4時間ものビデオに撮り、TMCの関係者にパキスタンの実情を詳しく紹介してくれた。 
                                
   彼の努力の結果、IMCだけでも 600人にも及ぶ働きの場が生まれた云々…。石松さん。昨日のコーランの話はとても面白かった。もう1回、皆に聞かせて欲しいのですが!』。その時、田さんが『石松さんはIMCの父です』と大袈裟な紹介を追加した。

   『コーランに関する私の理解は……。以上が、私が信仰に生きる真のモスレムを心底、尊敬している所以です。しかし今回、IMCの従業員や社内で出会った人々からは、全く違った印象を受けました。

   清潔好きのモスレムの筈なのに、工場内の至る所にある、5S(整理・整頓・清潔・清掃・躾)を誓う場所を示す円内にすら、あろうことかゴミの山。神と共に生きている筈のモスレムが泥棒稼業を平気でするのか、鉄砲を持った30人ものガード・マンが工場内を巡回せざるを得ない始末。コーランの掟が忠実に守れるモスレムならば、部品棚に誤品を入れたり、作業標準違反者は出ない筈。

   本日の夕食会の集合時間に間に合ったのは私只一人。皆様が全員揃ったのは約束の30分後でした。ひょっとして皆様は、ご自分の時計が壊れていたのにお気付きにならなかったのでしょうか?念のために、時計を拝見させて下さい。
    
   敬虔なモスレムとしての日々の行動と今回直面した事実からは“あなた達の信仰は単なる見せ掛けに過ぎず、あなた達は揃いも揃って究極のエゴイストだ”と言う結論のみが自動的に誘導されるのですが…』

   ある参加者が『遅刻して申し訳なかった。しかし、私達がモスクに定刻に集まれるのには地理的な事情があるのですよ。モスクは歩いて行ける生活圏内にあり、予想もできない交通渋滞の影響を全く受けないからです。このホテルは都心にあり、家からも遠く、今日は渋滞に運悪く巻き込まれました』

   チャンス到来とばかりに、私は演説を開始した。『先程も申し上げましたが、偶像禁止に生きるモスレムの頭の良さと、そこから生まれた歴史的な実績は、世界的にも抜群だと思っています。かつて、ヨーロッパが暗黒の中世と言われた頃、ギリシア・ローマ時代の文化を引継ぎ発展させたのは正しくあなた方の先輩、中東のモスレムでした。

   あの輝かしい“ルネッサンス”はイスラム文化圏が存在していたからこそ、生み出された成果と言っても過言ではありません。今日でも使われている科学用語の中には、あなた方も知っているように、アラビア数字・アルカリ・アルカロイド・アルコール・アルジェブラ!など、無数のイスラム科学に由来する言葉が組み込まれています。

   今日の日本では、インダス文明(モヘンジョダロ)で既に実用化されていた下水道ですら、3000年以上経った今なお完成していません。インドで生まれた仏教はパキスタン⇒シルクロード⇒中国⇒朝鮮経由で日本に伝わりました。大昔のパキスタンから日本が受けた大きな恩恵に比べれば、日本人の返礼は誠に小さく、未だにパキスタンの人々には頭が上がりません。微力ながら私達もTMCを通じて貴方達に、何らかの貢献ができれば、これに優る喜びはありません。

   日本人は片手では5までしか数えられないが、パキスタン人は指の関節を使う事により15までも数える特技すら持っています。つまり数学的能力は3倍も高いとさえ言えます。長い間カラーチで生きていた頭の良いあなた達の場合には、過去の体験からこのホテルに定刻に来るためには、最悪の場合を考えて何分前に家を出れば十分かは、いとも簡単に推定できる筈だと思います。カラーチに来たばかりの、しかも頭の悪い典型的な日本人の私ですら、定刻に来れたのですぞ!』

   静かに聞いていたある参加者が堪え難くなったのか『勝負あり。石松さんの方が正しい』と言ったら堰を切ったように、別の人が続いて発言した。『石松さん。貴方のご指摘には、矢で心臓をその都度、突き刺される思いです。近い将来もう1回、IMCに来て下さい。改善をここに誓います』

   『はるばるIMCまで来て、眼で確認する必要はありません。巡回しているガード・マンの人数の減少度を聞けば、全ては分かります。それに、先程自己紹介しましたように、私は本年9月1日にTMCの定年を迎えます』

   やがて、お開きの時間になった。スリさんが円筒状に包装された品物を取り出しながら『石松さん。貴方はコーランに書き留められていた神の言葉を使って、私達モスレムを完膚なきまでに批判してくれました。貴方のご指摘は余りにも奥が深かった。コーランの教えを深く理解した上で、私達に語り掛けてくれた私が出会った唯一の日本人です。これは、私達IMC関係者からの感謝の印です』と言って、1畳大の手織りのパキスタン製絨毯(時価はワーカーの半年分の収入)を差し出された。

   驚いた私は日本人駐在員に『貴方達がスリさん達に出させたんじゃないの?』と詰問。『違います!スリさん達の本心です。TMCからの来訪者に、あんな立派な贈り物をしているのを見たのは初めてです。役員といえども、記念にもならないような御土産ばかりでした』と田さんが答えた。

[6]カラーチ国際空港   

   発展途上国の空港では何時もの事だが、チップをせしめようとする人達との駆け引きにウンザリする。

@その1

   タイ航空のカウンター前で並んでいたら、写真入りの身分証明書を見せながら、タイ人の若い男性が近付いて来た。『私はタイ航空の職員です。お客様が搭乗手続きを無事完了されるまでのご案内をするのが任務です』と言う。『私は旅慣れています。それに離陸まで2時間もあるし、手続きは1人で全部できるから結構です』と辞退したら、機先を制するように『私たちはチップは貰えない事になっています。ご遠慮は要りません。出国カードのご準備がまだでしたら、私が代筆します』と言う。            

   無理やり拒否するのも気が重く、航空券とパスポートを彼に手渡した。彼はカウンターから記入用紙を取ってきて、必要事項を手際よく書き終えた。30Kgにも達していた我が大型カバンをヨロヨロしながらも、カウンターの重量計の上に載せた。無事チェックインも完了したので『ありがとう』とお礼は述べた。

   これで終わったかと思ったら『お買い物のご予定はありませんか?免税店にご案内しますが』と言う。そら来た!と嫌な予感。機内持ち込みのカバンを手にするや『こちらです』と我が意向を聞くこともなく歩き始める。『買い物の予定はない』と言うと、今度は『搭乗口へご案内します』と言って、長い動く歩道へと案内した。
                                  
   歩道の終点近くになって、後ろに付いていた私の方を振り向きざま『チップを10$もらいたい』と請求。『あなたは最初に、すべて無料サービスと言った筈だ。払う気はない』と拒否。いろいろ食い下がられたが、断固拒否した。若干のチップは上げざるを得ないなとは思っていたが、指定した10$は不当に高いと感じた瞬間、反射的に起こした行動だった。日本人を見付けるや否や、駄目元覚悟でまとわり付いているのだろうか?失望した彼が肩を落としてスゴスゴと引き返したのを見届けた後、暇潰しに免税店へと出向いたのであった。

Aその2

   半分飲んだだけのウイスキーを忍ばせていた手荷物に関する、X線検査後に起こされたミニ事件である。係員が『カバンを開けろ』と言う。ホテルのマッチを見付け出して、さも疑惑の品と言わぬばかりの素振りで、『これは何だ?』と、分かり切っているのに質問。『マッチを集めるのは我が趣味だ。マッチの火の付き方、燃え方を見れば、一国の工業水準が分かる程だ』と言ったら、本命であるオールド・パーの瓶を取り出して『これは何だ?』と新たな質問。

   新品ならばともかく、飲み掛けまでが問題にされるとは思っていなかったので堂々と『これはウイスキーだ。確認したいか?』と言って栓を開けた上で手渡した。係員は匂いを嗅ぐや否や、如何にも嫌な匂いと言わぬばかりの表情を装った後『没収だ』と言って返そうとしない。 
                   
   『これは友人からプレゼントされた我が貴重品だ。個人の品物だ。返せ!』と言って強引に取り返したら、人には見えないようにして、カバンの中に手を入れ、掌を上にして暗に『チップ。5$』と言わぬばかりの仕草を指で演じた。仕方がない。掌の上にじゃんけんのチョキで2を示したら、足りないと言わぬばかりの動作を再演して、またもや瓶を取り上げた。

   大声で『ウイスキーを返せ!』と、またもや叫んだら、異変に気付いたのか、数人の係員が現れた。責任者らしき年長者が『日本人か?』と質問。『そうだ。ウイスキーを彼に没収された。我が旅の貴重品だ』と答えると、『日本人ならば問題ない。OK』といとも簡単に裁決!パキスタンの外国人への対応も、どうやら変わり始めたようだ。
                               上に戻る
ベトナム

   カラーチからホーチーミンへはバンコック経由便だった。共に首都を越える両国最大の繁栄を誇る巨大都市だったが、直行便が開設されるほどの需要は未だ生まれていないのだ。数千万人以上の人口大国の最大都市間の全てに、直行便が飛び回る時代が早く来るのを願わずにはおれない。

   久しぶりに訪れたバンコック国際空港のビルは一新されていた。香港やシンガポールの空港ビルにそっくりだ。細長い直方体なので通路は直線。迷子になる心配も全くない。昨年来のアジア通貨危機の悪役を最初に演じたタイバーツの暴落も、空港内の免税品の価格には全く影響していない。タイ産品は元々少なく、酒類を初め主力商品であるファッショ品は欧州ブランドもの中心で、米ドル価格が基本だからだ。むしろドル高円安のため、日本人から見れば物価は逆に高くなっており、暇潰しをしただけで何も買わなかった。

[1]ホーチーミン

@復活し始めた旧サイゴンの繁栄

   僅か8年間でホーチミンは劇的に変化していた。空港内に立派な免税店ができただけではない。豊田通商の人達と初めて訪れた8年前には、営業担当者は通関で訪問先への御土産品を2時間も掛けて念入りに検査された上に、一部をワイロとして巻き上げられた。私は持参していた僅かばかりの外貨の一覧表も申告させられた。   

   4年前に私はベトナム人が大好きなタバコ『555』を手土産に3箱持ち込んだら、『規則だ』と言われて2箱は空港預かりにされてしまった。『帰国時に返却されてもタバコを飲まない私には何の価値もないので、面倒臭い手続きをさせられるよりも、あなたにプレゼントします』と提案したが、職務に忠実で几帳面な女性職員に拒否された。

   今回は30Kgにも達していた我が旅行カバンと航空会社の預かり証との照合をしないどころか、中身の点検すらしない。スーイ、スイ。60年前、サイゴン市民の平均所得は東京都をやや上回り、アジアで最も豊かだったと書かれた本(真偽は不明)も眼にしたことがあるが、この勢いが続けば東南アジア有数の都市に成長しても不思議ではないと思った程だ。

   常夏のホーチミンの空は抜けるように青かった。空に浮かぶ白い雲が眼に眩しい。日本のお盆の連休期間と変わらない。しかし、大気汚染対策が日本並になったからではない。残念ながら黒煙モクモクの煙突産業が未だ離陸せず、人海戦術の軽工業止まりだからだ。

   都心には外国人や外国企業目当てのホテルやオフィスの高層ビルが10本以上も完成していた。外観は日本の最新ビルに劣らず美しい。アジア各地を席巻した日本の流通業者(百貨店やスーパー)はさすがに満を持しているのか、バンコック・クアラルンプール・台北・香港・上海等とは異なり、未だ1軒も開業していない。
                            
   擦(す)れ違う人々の表情は、先月見掛けた香港人と正反対だと感じるほどに明るい。人々の元気の良さは所得の絶対値や貯蓄額の大きさではなく、その微分値の大きさに比例して生まれてくるようだ。日本の中高年の表情が暗くなったのも、微分値がマイナスになり始めた結果ではないか?

Aオムニ・サイゴン・ホテル

   長旅で疲れ果てた挙げ句、やっとホテルに到着した時、いつもウンザリさせられていたのは、ホテル側の都合で必要としている宿泊手続き書類に書き込まされる情報量の多さだった。小さな紙切れに小さな文字で延々と必要事項が書かれているのを見るだけで、視力の落ち始めた私には苦痛を感じるのだった。例えば生年月日が何故必要になるのか、未だに分からない。『パスポートを目の前でコピーすれば済むことじゃないか』と言いたくなるのだ。

   しかし、今回は改善されていた。フロント・マンがパスポートから必要な情報を書き写し、私は名前をサインするだけで済んだ。ヤーレ、ヤレ。

   気分がよくなると、直ぐに行動に現れて来る。ベルボーイが重たい荷物を部屋まで運んで来た。国民所得水準を考えながら、チップの額を計算するのも面倒になった。最終訪問国に無事到着したことに感謝し、気前良く新品の1米ドル札を渡したら突然、『サー!。お金を間違えているよ』と声を掛けられた。
      
   『いいんだ。ベトナムのお金はまだ持っていないし、米ドルのコインの持ち合わせもないから』彼は心底嬉しそうな顔をして、丁重にお礼を述べた。モスレムが『喜捨』をしたときの心境をふと味わった。当然とばかりに受け取られるのと比べ、こんな清々しいマナーに接すると、何と大きな喜びを感じることか。

   室内の広さも調度品もイスタンブールのヒルトンに劣らない。私にとって、ホテルの評価の基準値はヒルトンなのだ。テレビの衛星放送は30チャンネル以上もあった。CNN・BBC・NHKを初め、見比べるのも面倒臭いほどだ。

   疲れてくると日本食が食べたくなる。5回目のベトナム入りともなると、ベトナム食への好奇心も薄らいだ。駐在員の山さん達とホテル内の日本食レストランに出かけ、早速好物の握り寿司を食べた。米はジャポニカ。ネタも日本と何等変わらない品質だ。驚いたことには秋田名物の『稲庭うどん』すらもあった。稲庭うどんは乾麺なので、輸出するのも簡単だ。

Bトヨタ車販売店

   豊田通商が出資しているトヨタ車販売店は、日本にある販売店に何等遜色がなかった。大通りと建物との間にある空間は庭園風に改造され、磨きあげられた新車の屋外展示場に潤いを与えていた。吹き抜けの天井まで大きなガラスを嵌め込んだ美しい冷房完備のショールームには、明るい太陽光線が燦々と降り注ぐ。大きな植え木鉢もバランス良く配置され、さながら熱帯植物園のようだ。

   店内の女性は若い美人揃い。暑さもものかわ、50cm以上もの長髪の手入れも行き届き、颯爽と肩から棚引かせているのを見ると、受験参考書では割愛されていた徒然草の一節(高校生には有害との判断らしい。私は全解釈本の筈なのに、若干の段落が何故欠落しているのか不思議に思い、全文が載っている古典全書で確認したのだった)をふと思い出した。 
                     
   『女性の髪は長い方が良い』との吉田兼好の女性観だ。面長な顔にスリムな体型、南国なのに色も白い健康そのもののベトナム女性と、ブランド物をはぎ取れば、隠していた真実が現れる日本女性との落差に愕然としてくる。

   来るべき自動車時代を迎え撃つ、修理工場の機械類の整備も、膨大な在庫部品の管理態勢も『果報は寝て待て』の状態と感じたが…。

C歴史博物館

   歴史大国のトルコやパキスタンだけではなく、ベトナムにすらも歴史博物館があるのに、我が日本には纏まった歴史博物館が東京か京都か、どこかにあるのだろうか?建設業界に金をばらまくだけの贅沢な『箱物』作りよりも、日本史の教科書と対をなす博物館があると、日本人だけではなく、来日外国人にも有益と思うのだが…。

   ベトナム戦争で全土が破壊し尽くされていたのが信じられないほどに、立派で貴重な展示物があった。戦争中は民族の宝物としてどこかに保管していたのだろうか?30万年前の旧石器時代の発掘物から今日までの、この地に住んでいた先祖の努力の結晶とも言うべき、生活用具・美術工芸品・楽器・宗教用彫刻品などの、石・貴金属・銅・青銅・鉄・木製品が、年代別・ジャンル別に展示されていた。ミイラすらもあった。

   詳細な説明文を読むのが面倒になり、案内してくれたTMV(トヨタ・モーター・ベトナム)の大卒エンジニアに、2ヶ所で質問した。『この像と女性の組み合わせは、像に乗った姉妹がジャンヌダルクのように先頭になって戦い、ベトナム建国時代の国難を救ったと言う故事を表現しているのではありませんか?先が尖った3本の木製の杭は、元寇の役の時に海面下に立て、船底を破って勝ったと言う作戦を象徴しているのではありませんか?』

   彼は予期せぬ私の質問を通して、背後にある私のベトナム史の蘊蓄(?)を察したのか、驚くと共に大変喜んだ。外国人から受けた初めての話題でもあったそうだ。この質問を契機として、彼は慣れない英語に苦労しながも、必至になって展示物の説明をしてくれた。

   ここの展示物を見ると、中国・インド・タイなど近隣諸国との絶え間ない文化の交流の下に、ベトナム独自の文化も育っていたことが一目瞭然に理解できる。人類は、猿人(アウストラロピテクス)・原人(ピテカントロプス・シナントロプス)・旧人(ネアンデルタール)・新人(クロマニヨン)などが発見された近傍だけに住んでいたのではなく、地続きだったアフリカとユーラシア大陸では、今と同じように普遍的に住み着き、周辺の人類と交流を深めていたのではないかとの仮説を提案したくなる。          

   たまたま発見・発掘された考古学上の成果のみで、人類の進化・発展の歴史を組み立てると、思いがけない間違いを起こしそうだ。あちこちに未発見の遺跡があると考えるのが自然だ。今や中国では黄河文明に先立つ長江文明があったと見なされ、国家的な発掘作業が延々と続けられている。『明石原人などいた筈がない』と戦前、学会から黙殺された、発掘者(早稲田大学教授)の無念さが思い出される。

D統一会堂(旧大統領官邸)

   1975年4月30日10時30分、旧大統領官邸の屋上に北ベトナム軍旗が翻った時、ベトナム戦争は終結した。南北統一を記念して、官邸も統一会堂と改称し、一般に公開された。元々は1868年仏領インドシナのフランス総督邸として建設された建物だ。1954年のジュネーヴ協定の後、フランス人は引き揚げた。1962年2月27日サイゴン軍隊の爆撃に遭い、1962年末から4年間掛けてサイゴン(南ベトナム)政府により全面的に再建された建物である。

   圧巻は作戦本部があった地下室。1トン爆弾にも耐えられるようにと造られた、厚さ1m以上の鉄筋コンクリートの天井や壁は厚い鉄板で全面補強され、正しく要塞そのものだ。

   古色蒼然とした真空管式の無線機など、電気通信博物館顔負けの機器が並ぶ。米国製中心だったが、日本製品も散見された。質素な事務用度品を眺めながら、誰もが不幸のどん底に墜ちた戦争の悲惨さに心が痛む。

   反面、地上部の大統領応接室などは国力を誇示する場所なのか、絢爛豪華の中にも、ベトナム製工芸品の展示場の観も呈していた。

E革命博物館

   フランス植民地からの独立戦争に始まり、ベトナム戦争に勝利するまでの、ベトナムの長い苦闘の歴史を、大きな写真パネルや遺品・武器などを通じて表現した、貴重なデータ館である。

   枯れ葉剤の影響が現れた、アルコール漬けの胎児の標本には戦慄。広島や長崎の原爆史料館を見学した時と同じ憤りが全身を走る。奴隷貿易や各地の植民地化を通じて『西欧人以外は人間にあらず』とばかりに、彼等が行った極悪非道な行為の精算は、いつの日にか果たして実現するのだろうか?

[2]部品会社    

   日本にも近く、ベトナムブームもあってか、日系工場が次々に操業開始。中でも矢崎総業は立派な工場を建設。一部の工程では絨毯の上に素足作業。床に落下した小物部品に作業者が気付くからだ。懐石料理をご馳走になった懇談の席で『トヨタの野々垣さんが書かれたCS(Customer Satisfaction=顧客を満足させる)の本“トヨタの理由:1998年2月1日、初版発行”に引用されていた“温泉旅館のサービス批判”を書いた石松さんと言う方は、ひょっとしてあなたですか?』と聞かれて、世間の狭さを実感。

   操業開始直後の日本パーカライジングでは『最初の日本人訪問者のために用意していた記念品です。漆細工の壁掛けです。ご遠慮なく』と言われた。『重たいから別途、ご自宅までお届けします』と言われて恐縮していたら、駐在員の古さんがすかさず、『私が別送します』と助太刀を出してくれた。
         
   1週間後に航空便が到着。梱包を開けてびっくり。40×80×20cmの板に何重もの漆が塗られ、その上に、貝殻の殻を磨いて得られたモザイク状の小片が漆で固定されていた。真珠のようにキラキラと輝く、素晴らしい絵だった。全部で4枚。内1枚の片隅にひっそりと日本パーカライジングと書かれていた。応接間に飾ったのを見た次女が『部屋が、急にみすぼらしくなった』と評価。

   日本ペイントの工場も完成直後だった。稼働率は気の毒にもまだ10%以下。塗料は性格上、ミキサーで材料を混合するバッチ生産なので最小単位が大きい。出向している日本人社員は、定年の1年前に帰国できる。最後の1年は定年後の生活へ軟着陸するための準備期間として自由に過ごせるそうだ。一流会社の心配りが偲ばれる。
                                 
   工場見学の御土産に細長い直方体状の包みを貰った。ベトナムの扇子かと気軽に受け取っていたら、帰国後に開けてまたもやびっくり。立派な腕時計だった。長男の就職祝いにプレゼント。

[3]ハノイ

@ダイウ・ホテル

   韓国の大宇財閥が建設した巨大ホテルだ。韓国の自動車会社は押せ押せムードで、先進国に重点を置いた日本勢が後回しにしている、あちこちの発展途上国に進出したものの、品質が伴わず苦戦しているが、ホテル事業は取り敢えず成功しているようだ。建物や設備面は資金さえ用意すれば、発展途上国に進出しても老舗に直ぐにも追い着けるらしい。しかし品位は一朝にしては身に付かないようだ。ヒルトンでは一度も体験しなかった、ボーイのアルバイト攻勢に、うんざり!

   しかし、朝食のバイキングには感心した。韓国人は中国人に負けないほど食への執念が強かったのではないか?(韓国は未訪問国。不勉強のまま)日本食用のみそ汁は味噌が溶かれたスープと実とは別々の容器に用意されていた。お客様が食べる直前にスープに実を入れる方式だ。元々みそ汁の実には長く煮込むような食材は使われないからだ。鮮度高く香りの高いみそ汁を久々に満喫した。

   帰国後、我が家にも『ダイウ式みそ汁』を導入するように荊妻に提案した。僅か3人家族なのに、食事時間が揃わないからだ。『面倒だ』と言って気乗り薄だったが、時々採用してくれるようになった。

   名古屋グリーン・テニスのレストランのシェフは更に徹底している。事前に準備しているのは出しを取ったスープだけ。注文を受けてから、1人分のスープを鍋に入れ、味噌を溶き、具を入れる。『究極のみそ汁とは、出来立てにあり』を実行しているが、我が家でそこまでの徹底さを求めるのは無理、と諦めている。

A水上人形劇

   世界的にもユニークな水上人形の操り方法は最後まで分からなかった。舞台には粘土を溶かしたような不透明な水を湛えたプールがあった。一般の劇場と同じような緞帳(どんちょう)も掛かっている。人形は手足の関節や頭が独立に動く構造になっていた。人形の身長は50cm前後。魚の人形もあった。

   人形劇のストーリーは民話や魚釣りなどである。オペレーターは舞台の緞帳の奥におり、観客には姿が見えない。水中に竹筒を沈め、その中に通した糸で人形を操作しているらしい。音楽に同期している人形の動きは極めて速く、同じ動作を人間が真似ても追随するのは無理ではないかと、感じるほどだ。

   人形はスルスルと木登りもするし、体操選手のような前転・後転も思いのまま。肩車など朝飯前の観。魚釣りの場合、ピョンピョンと水面を跳ねる魚を、釣竿を器用に振りながら船の上から巧みに追いかける。人形の操り糸が私の視力では確認できなかった。糸が何故絡まないのか理解できない動きも何度か見掛けた。江戸時代に発展した絡繰(からく)り人形と違い、自由奔放に動き、舞台も狭しと走り回る。

   同時に出演している人形は10体くらい。演劇終了後、緞帳の後から10人くらいの男女のオペレーターが現れて挨拶をした。1体の人形は1人のオペレーターが操作していたと推定したが、手品を見たみたいで、結局操作原理は解けないままに終わった。予約制、いつも観光客で満員らしい。

[4]トヨタ・モーター・ベトナム

@予期せぬ珍現象

   ホーチミンからハノイまでの飛行時間が2時間もあるためか、国内線なのに、珍しくビジネスクラスもあった。ハノイ着は20時10分着。南国の日暮れは早い。日はとっぷりと暮れていた。事前に聞いていた通り、隣り合わせに建つTMVと本田の工場が眼下に見えた。TMVの後から申請した本田は、政府の指示でTMVの隣接地に工場を建設させられたそうだ。

   工場を取り囲むように、オレンジ色の照明灯が一際明るく点灯している。しかし、対抗意識のなせる技か、本田の方が点灯密度が3倍も高い。結婚式場と葬式会場くらいの格差がある。こんな分野では協調して全く同じ方式にした方が、環境美化にも繋がるのに、島国根性丸出しでは情けない。

   水田地帯に建てさせられた工場とあって、予期せぬ難問が発生。野ネズミの襲来だ。殺鼠剤を撒いたが不十分。とうとう天敵の猫を5匹も導入。2匹には逃げられ、1匹は死んだものの2匹が頑張り、対策は完了。今や2匹の猫は王様のように工場内を悠然と闊歩。

   猛犬の檻のような立派な猫小屋が2軒あった。『猫小屋?。日本語には犬小屋はあるけど、猫小屋と言う単語は聞きませんね。猫は神経質でわがままな動物。無理やり猫小屋に入れたら、ストレスが発生して死ぬのではありませんか?』『実は、使ってはいないのですよ。猫が入らないのです』

   『野ネズミ対策として、ベトナム政府は猫と蛇の保護令を発表しました。ここの猫は贅沢になり、食堂の残り物を与えても食べないのですよ。魚が大好物と分かりました』『それならば、ネズミは食べるの?』『猫は姿を見せるだけで、十分です』

   協力会社の一つ、高島屋日発を訪問したら、こちらも野ネズミには苦労したそうだ。何しろ製品の自動車用シートの材料はネズミの大好物。こちらは殺鼠剤で取り敢えず解決。

   水田の中にあった膨大な数の墓(ベトナムでは至る所の水田や畑の中に墓がある!)は掘り起こされ、5百m離れた一角に無事移設され、小さなお寺も建設されていた。土地の買収や墓地の移転交渉はベトナム側関係者(日本人が前面に立てば、足元を見られるのは世の常)に一任。それでも、持ち主不明だった墓に自称墓主が現れたり、関係者も苦労したらしい。FSの時に私が一番心配していた課題だった。

A工場美化

   工場周辺には木が植えられていた。政府から植樹を求められ、従業員が植えたのだそうだ。これには思い当たる節があった。

   FSの頃、政府の意向をそれとなく探るために我が独断で、緑地帯を書き込んだ工場レイアウト図と基本構想(設備投資額1億米ドル・従業員1千人等)の私案を、当時(今も)の重工業省の副大臣チュアンさんに渡しながら『既存のベトナムの工場は設備が古いだけではなく、建物の中も外も余りにも汚い。従業員が誇りを持って働ける環境整備こそが、一番大切な品質向上運動を成功させる前提である』と強調したことがあった。

   『チュアンさんは“その通り”と言わぬばかりに頷いた。それを覚えていたのかも知れません。と言うのも、その後あちこちで出会った政府関係者が、あのレイアウト図に書き込んだ各種目標を反芻しながら、“あの通りに工場建設計画を正式に申請すれば、許可は直ぐに下りますよ”“早く出せ”と言わぬばかりに何度となく示唆されたからです』     

   『ところで上さん。私は今発言する立場にはありませんが、玄関前が荒れていますねえ。おまけに、日本人の通勤車が無秩序な駐車状態で玄関回りに置いてありますねえ。私には大変気になります。玄関前は工場の顔です。緑化を更に進め、車は工場の裏とか別の所に置いたらいかがですか?特権階級振りの振る舞いは、ベトナム人の心を傷付けますよ』『ご指摘の通り。直ちに移します』       

B さらば、懐かしのベトナムよ

   TMV社長の長さん主催の夕食会に招かれた。長さんとは仕事上は初対面だったが、もちろん知らない人ではなかった。『石松さんの海外ビデオ・シリーズは、東京本社でもファンが多かったんですよ』などと言われると、お世辞とは分かっていても、つい口元が緩み、今回の最終出張の楽しかった話題が自然に飛び出して行く。何時の間にか、長年お付き合いをしていたかのように感じ始めた。氏のお人柄の力だ。

   アジアの通貨危機の影響はベトナムにも波及しているとはいえ、TMVにはトヨタサやIMCほどの苦境は感じられず、同席者の表情も明るく、話も一層弾む。

   現地国産車販売台数も、立上がりの1996年はベトナムの自動車会社11社中6位だったが、1997年前期は3位、後期にはついに計画通り1位。最新のデータである本年2月には、2位の3倍を越える断トツの1位。ベトナム人は所得は低くとも、ブランド志向。小型車では世界一と自他共に認める当社とは元々、相性も良いのだ。

   私にとって、多くの関係者と一緒に取り組んだ、最後の新規プロジェクトとなったが、TMVの順調な快進撃を直接聞いて、心も軽く機上の人になれた。さらば、懐かしのベトナムよ。頑張れ!                     
                               上に戻る
おわりに

  正しく四半世紀前の1973年4月、初めての海外出張としてアメリカへ出かけた。にわか勉強の我が拙い英語がアメリカ人に果たして通じるだろうか?と不安で一杯だったあの頃の日々が鮮明に思い出される。しかし、歳月はいつの間にか私を更に育て、今回のパキスタンではとうとう、居並ぶインテリ管理職を前に、事前の準備もせずに恥じらうこともなく、演説もどきのお説教まで平気でするようになっていたのだ。

   同年秋に突然始まった度重なる石油危機も、世界中が驚くほど巧みに乗り切った日本経済。しかし、その日本経済の中核牽引車として、日本経済以上の大成功を収めたトヨタ自動車に幸運にも在籍していたが故に、私はたまたま同世代の日本人よりも海外に出掛ける機会に恵まれた。さる5月2日に福岡県遠賀中学校同期生(男子67名中、既に11名は死亡)の、引き続く6月6日にも福岡県東筑高校同期生の各還暦お祝い会に参加して、改めて我が幸運を感じた。

   私にとって小中学校時代、最も好きだった学科は地理・歴史だった。数学や理科は就職不安の少ない九大工学部を目指すために、嫌々ながらやむなく勉強したに過ぎなかった。自ら望んで海外生産部門に異動し、長い間忘れていた地理・歴史への関心を再び触発される機会を得た。どこの国に出かける場合でも、事前に最低10冊はその国の地理・歴史の本を熟読し、その国に関する統計データや風俗習慣、歴史的な事件の年号や偉人の業績を整理、受験勉強のように丸暗記するのは楽しかった。

   FSの時、外国人と自動車技術に関しての議論をすることは殆ど無かった。そんな瑣末事は担当者任せで十分だった。私は専ら地理・歴史や政治・経済について語り、質問を繰り返し、対象国を大局的に把握すると同時に、彼等の信頼を得る事に専念した。外国人は我が知識の正確さと領域の広さに驚くだけではなく、親しみを込めて、ある米人は私に『**博士』、しばしば人は『Walking Encyclopedia=歩く百科事典』と渾名しながら、胸襟を開いてくれた。

   短い期間ではあったが公私合せると、30ヶ国、2百都市、2百社、5百人以上との出会いがあった。海外の大自然や壮大な歴史遺産との遭遇では、心時めく感動を抑える事はできなかったが、静かに静かに回顧すると、それぞれの生まれ故郷で、懸命に人生と闘って生きている人々との心の交流の方が一層楽しかった。自然や歴史遺産は2回目の出会いからは感動は薄まる一方なのに、人との再会はその逆だったのだ。今回、10年振りに会った人達との間に交わされた心の交流は、何時までも消え去らぬ、我が人生の貴重な財産だ。                                                                 

   外国を知ることは脚下照顧、日本を知ることに繋がり、外国人を知ることはより深く日本人を知り、自分自身を再認識する事に通じると、繰り返し体験した。

   トヨタ自動車を定年退職する本年9月からの、残された我が人生のメイン・テーマも漸くにして定まった。『海外を知り、顧みて真の日本を知る』。今にして思えば、過去十年余の会社生活は、給料を貰いながら結果として、充実した老後への準備をしていたのも同然だったのだ!

追伸(平成15年3月31日)

   トルコで一緒に仕事をした久さんと井さんは共に癌死。山さんは静脈瘤破裂死。パキスタンで一緒に仕事をした田さんは癌死。ベトナムで一緒に仕事をした福さんも癌死。トルコとベトナムで一緒に仕事をした山さんは脳梗塞死。その内の4人は還暦前、2人は60代前半の早すぎた死だった。現在の私(64歳)よりも若くして、全員冥土に旅立たれたことになる。苦楽を共にした仲間達のご冥福を心からお祈りしたい。

   私は昨年(平成14年)11月28日に豊田地域医療センターでの定期検診で胃がんと判明し、12月19日に愛知県がんセンターで胃の2/3を切除した。更に同がんセンターで12月14日に食道がんも発見され、平成15年1月14日から3月18日まで、食道がんの治療のために、同がんセンターで放射線治療を受けた。その治療の効果は4月末までには出される予定である。遅かれ、早かれ、私も先立たれた仲間の後を追う事になるのだろうか?。。。
  上に戻る