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旅行記
           
アジア
西安・南京他(平成9年4月23日脱稿)


      僅か8年の間に中国は激変していた。高層ビルに溢れた町は美しく変わり、人々は自信に満ち紳士・淑女になった。表情は豊かで明るく、清潔な服装に身を包み、革靴を履き颯爽と歩く。化粧した女性は若さに輝き、これがかつてと同じ中国人かと目を疑うほどだ。

      現地のガイドは素晴らしく綺麗な日本語を喋り、胸を張って名所旧跡を誇らしげに案内してくれ清々しかった。
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はじめに

   1度や2度の出張や旅行で、歴史的にも面積的にも大国である中国の全貌を知ることは、そもそも無理と分かってはいても、何とか理解したいと思っていた。数年前から『華南方面』に焦点を当てた計画を半年毎に3回も立て、日頃から関心を示していたゴルフ友達を誘ったが、その都度仲間の足並みが揃わず『光陰矢のごとし』を地で行く日々であった。 
                      
   ところが、平成9年2月16日(日)の朝日新聞見開きの2ページをも埋めた『中国西北航空名古屋就航2周年記念企画旅行』の巨大広告が目に留まった。平成9年3月26日(水)出発。5泊6日で僅かに12万円。募集2コースの内1つは『西安・蘇州・無錫・南京・上海』で、8年前の出張『瀋陽・北京・上海・天津』とは殆ど重ならない願ってもない観光ルートだ。 
                
   受け付け開始は翌月曜日の午前9時半からだ。電話戦争では10年以上も、毎週のゴルフ場の予約受け付けで腕を磨いていた。9時半になるのを秒読みして電話したら、一発で掛かった。受け付け第2号だったのである。

   ある人は親戚も動員して一斉に電話したが1時間も話中だったそうだ。尤も申込が余りにも殺到した結果、臨時便を出したそうだから、最終的には希望者全員が旅行出来たのではないかと思う。当日は2コース合わせて58名だった。

   我がコースは21名。私より若い人は高校教師1名と荊妻だけの老人集団だ。夫婦6組(元教師3組、会社員2組、無口な1組)、兄弟1組、トヨタ自動車出身で76歳の『男やもめ』を含む単独旅行の男子7名。過去の海外旅行でも女性の単独参加者には出会ったことがない。
                     
   共稼ぎだった教師夫妻の年金は月に約50万円にもなり、生活のゆとりは十分のようだ。年寄りに中国の人気が高いのかと思っていたら、欧米や中東の代表的な観光地は既に体験済みの、安いパック旅行を常時探している暇人達の集まりだったのだ!
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最大の古都、西安

[1]機内

   名古屋発、上海経由西安行きだったが機内食は2回も出た。大国中国では国内線でも機内食が出るのだ。最初の機内食は名古屋で積み込む筈だから、日本で調理した料理とばかり思い込んでいたら、味付けにどことなく違和感がある。2回目の食事が出たら前回とほぼ同じ内容だった。                

   容器・ナイフ・フォークだけではなく、砂糖・バター・胡椒・粉末ミルク・チーズなども全く同じ銘柄の輸入品だ。帰国便でもほぼ同じ内容だった。結局、最初に出された機内食も経費節減の下、中国で加工した弁当と断定。生物(なまもの)は危険と判断して食べなかったが、全部食べた妻は早速、下痢に襲われた。

   機内で配られたお絞りの不潔さには閉口。小さい。薄汚れている。生暖かい。生地が悪い。臭う。手を拭くのがやっとの思い。顔を拭く気には全くなれない。お絞りを配るスチュワーデスの5m後には、それを回収する別のスチューワーデスが続く。渡したかと思うと、直ぐに回収だ。ゴミ扱いされて捨てられるのを心配しているのだろうか?

   中国人は『西安』を『セイアン』ではなく『XIAN:シーアン』と発音。その昔、唐の都だった『長安』である。当時、東ローマ帝国の首都『コンスタンティノープル(現イスタンブール)』と並び称された国際都市だ。日本からも何人もの留学生が国命を一身に帯びて、危険な海を命懸けで渡った。 

   今では『一衣帯水』(いち・いたい・すい。殆どの日本人は『いちい・たいすい』と弁慶読みしていることに、気付いてすらいない)の東シナ海など、ビール3缶(飛行機の中では遠慮せずに一度に2〜3缶貰う)飲んでいる間に横断。
   
   飛行機の信頼性が年々高くなって来たと幾ら関係者に自慢されても、死の確率がゼロになったわけではないので、夫婦で飛行中は何時も1名分だけ死亡保険を掛けている。死ぬのは多分同時だから2人分の死体処理費と葬式代が出れば十分だ。毎度の事ながら、保険料が高過ぎて腹立たしい。上海空港で入国手続きをしたが団体観光ビザのためか、パスポートにスタンプは押されなかった。    

[2]西安空港〜ホテル

   郊外に新設された飛行場は建屋も美しく機能的だったが、飛行機の横付けは出来ず 100mも歩かされた。荷物を点検されることもなく税関を通り過ぎた。空港内の職員は写真入りの身分証明書を胸元にぶら下げ、一見きびきびと働いている。8年前に見た国営工場内のぶらぶら勤務とは様変わりだ。
           
   しかし、どんな仕事をしているのかとガラス窓から、事務所内での挙動をじっくりと観察していたら、誰もが視線を逸らしたり、用でも思い出したかのごとく部屋を出て行ったりしたのは不思議だった。

   夜の西安郊外は暗黒街道だ。両側には光が殆ど見えない。光を時たま眼にするとホッとする。ベトナムの田園地帯の夜のように暗い。発電所の巨大な冷却塔が微かに見えた。日本の火力や原子力発電所は海岸にあるため冷却塔がない。内陸部特有の風物詩だ。

   途中、黄河最大の支流『渭水』を横断する。支流とは言え、周・秦・漢・唐の繁栄を支えた大河川だ。川幅は優に1kmを越える。しかし、帰路の朝に確認したら水面の幅は約10m位でしかも水深は浅く、河原の中を蛇行して流れる水量は豊田市内で見られる、乾季の矢作川(長さ 122Km)よりも少ない。『黄河本流も最近、河口から 300〜600Kmもの上流地点で水が涸れてしまい、黄海に水が辿り着けない』との報道も間違いではなさそうだ。河原は黄土で埋まっている感じだ。草は少ない。荒れ果てた印象は拭えない。
         
[3]西安唐華賓館

   バスの中で配られた『西安市の地図』にはユニークなアイディアが採用されていた。地図の中に郵便番号が印刷されていたのだ。地名を捜す時に、日本で発行されている地図は、緯度経度の概念の応用か、索引を引き『Aーあ』などの線を追い掛けて調べるように作られているが、郵便番号なら一度に目的地近辺に辿り着けて合理的だ。ガイドが説明した目的地が直ぐに捜せた。その後貰った、蘇州・無錫・南京の地図にも郵便番号が書き込まれていた。日本の地図屋は模倣すべきだ。

   今なお残っている城門をくぐり抜けて広大な城内に入る。電力事情が悪いのか照明も少なく、都心と雖も西安の町は暗い。ガイドがあちこちの建物の由来を説明してくれるが、薄暗がりの中では疲れもあって聞き続ける根気が続かない。

   やがて直径2百mもありそうなロータリー式交差点が現れた。その中心部に高さ10mを越えるレンガで築かれた台形状の基礎の上に、高さ20m位の鐘楼が聳えているのが見えて来た。暗がりの中では実物以上に大きく見えるような気がする。ここから東西南北へ幹線が伸びているそうだ。数Km移動後別の門から城外へと抜けた。周囲はだんだんと寂しくなって来た。誰かが我慢できなくなって『ホテルの回りには繁華街がありますか?』と聞く。   

   程なく閑静な場所にある『XIAN GARDEN HOTEL』に着く。『夜、散歩するような所はありません』とのガイドの説明に納得。4階建が平屋に見えるほど平面的に広がったホテルだ。別送のカバンは未到着。風呂にも入れないので部屋に手荷物を置いて、ホテル内をぶらつく。売店で冷やかしの買い物をゆっくりと済ませて、エレベータのドアを開けた途端、中から血走った目付きのまま飛び出して来た女性添乗員(人件費節減のためか、日本からの添乗員はどの旅行社も今では殆どが女性)とバッタリ。

   『ボーイと一緒に荷物を届けたけれど、部屋からは応答がない。心配で心配で探し回っていました!』『荷物を部屋で当ても無く待つのは時間の浪費と考え、あちこちを散歩していました。ボーイは合鍵を持っているだろうし、取られて困るような品物もカバンには入れていないし、この程度の遅延には海外旅行で何度も出会っているし、平気でした。御免ね!』    

   早速湯船に給湯開始。茶色いお湯が出て来た。黄土地帯では常識なのだろうと諦めていたのも束の間、程なく湯が止まり蒸気が噴き出す。フロントに『点検に来い』と電話で怒鳴っても『しばらく待て』と言うだけで確認にも来ない。皆んなが一斉に給湯を開始した結果、ボイラーが空になったと推定。しばらくしたら茶色いお湯がまたチョロチョロと出て来た。汗を流しただけで風呂から飛び出た。体を汚されてしまった。

   早起きをして給湯したら、ほぼ綺麗なお湯が出たのでやっと体を洗う。何時ものように出国時に買った、免税店の『山崎』の水割りをタップリと飲み、元気一杯に回復して、寝殿造りを大型化したようなホテルの立派な中庭を夫婦で散歩。柳の新緑が事の外美しい。芝生も真っ青に育っているが、芝刈りをしている様子はない。芝刈り機を持っていないのではないか?安い人件費を活用しているのか雑草は全く生えていない。

[4]散歩

   ホテルの隣は『大雁塔』が建てられた『慈恩寺』だった。慈恩寺は唐の高祖がその亡き母『文徳皇后』のために建立したお寺である。正面玄関には直径が2m位の長い化繊のチューブで高さ10m位の半円形の門を作り、派手な風船が2〜3個くくり付けてあった。チューブの両端にはコンプレッサーが取り付けられ空気を吹き込んでいた。派手な色の臨時ゲートだ。今日の午後には『玄奘三蔵』の法会があり、一般客の見学は午前中のみだそうだ。

   『慈恩寺』正面の大通りの、広場ほどもある幅10mの歩道では 100名位の老若男女がラジカセに合わせてダンスを無心に楽しんでいた。2人ずつのペアを組んでいる。男女のペアとは限らない。会話を交わしている気配もない。パートナのいない人は1人で踊っているが、楽しいのだろうか?それともパートナが現れるまで我慢をしているのだろうか?

   反対側の歩道では遠足に行くのか、小学生が 200名くらい隊列を組んでいた。今回の旅行では唯一出会った子供の大群である。1人っ子政策が厳守されているのか、何処に行っても子供群は見掛けない。女児は赤地に白線、男児は青地に同じ白線の入った派手なトレーナーを着ていた。                 

   男女とも色は違っても同じデザインの服だ。こちらが手を振ると、子供は先生の話は聞かずに、横向きになって一斉に手を振る。手を振って挨拶するのは万国共通のようだ。子供は底抜けに明るい。日本の子供の表情が暗いのと対照的だ。

   『慈恩寺』の反対側の細道には、活気溢れる典型的なアジアの朝があった。凸凹した窪地に汚い水が溜まった未舗装の道路の両側に、屋台や日用品の店などが並ぶ前を、大勢の人が歩いている。2頭立て馬車が通り過ぎる。小麦粉を一心に捏(こ)ねている姿を写真に撮ろうとしたら断られた。別の所でも断られた。中国人は写真に撮られるのが嫌いなのだろうか?それとも恥ずかしかったのだろうか?
      
[5]大雁塔

   『慈恩寺』の開門時間に合わせてホテルを出発。再建時の資金不足からか、大雁塔は7階建てまでに低くなったとは言え74mもあるどっしりとした存在感のあるタワーだ。一番奥にある大雁塔までのアプローチの回りの景色には関心も沸かず、ガイドの解説ももどかしく急ぎ足で歩く。他のツアー客も多く、写真撮影は早いもの勝ち。遠慮していると何時までも待たされる。

   『大雁塔』とは、玄奘三蔵が国法を犯すほどの勇気を出して『天竺』に出かけて仏教を学び、唐に持ち帰ったサンスクリット(梵語)の『経論75部1335巻』を漢訳した仏典を収納した、言わば図書館として 652年に建てられた建物である。

   大雁塔の前でガイドが『登るのには30分掛かります』と言って暗に時間が足りないと匂わした。交渉は藪蛇とばかりに間髪を入れず『10分で降りて来ます』と言うや否や返事も聞かずに駆け出した。呆気に取られた仲間から思わず驚きのどよめきが沸いた。後に妻と1組の夫婦が続いた。階段を必死で掛け登った。

   夫々の階には覗き窓があるが、黄砂で霞んで遠くは見えない。どこかに仏典が飾ってないかと探すが1冊も展示されていない。がっかりしたが7階の展望台へと急ぐ。椎間板ヘルニアの妻が珍しく殆ど遅れていないのを確認して一安心。1分位キョロキョロして記念撮影後、階段を一気に駆け降りる。        

   その間ジャスト10分。以後数日間、股の筋肉が軽く痛んだのに、日頃スポーツもしない妻が『痛い所は全くない』と言うのが不思議だった。観光に来た筈の同行者は、旅の目的も物かは、階段前の御土産物屋に入り浸って品定めに夢中だった。

[6]西の城門

   旧市街を長方形に囲む堀に内接し、明代に再建された城壁は全長12Km。高さは20m近く、基底部の幅は約15m、頂上の道幅は約12m。城壁の構成材料は内部まで全てがレンガかと思っていたら、土が詰め込んであるのだそうだ。レンガの1枚1枚に製作者の住所氏名が彫り込まれている。品質責任を持たせるためだ。日本でも最近、生産者の写真を張り付けた食料品などの特産物が増えて来たが、このアイディアのルーツはあちこちにありそうだ。   

   城壁の上ではマラソン大会が開かれるそうだ。車も通らぬ一番安全な道だ。古い長安城に比べ、再建された城内の面積は1/6だそうだが、それでも雄大だ。日本では、堀に囲まれた城に一般市民は住んでいなかったが、中国やヨーロッパでは生活の場だ。今となっては都市は城外にも膨脹し、城壁は城内との出入りの交通障害にすらなっているが観光資源でもあるために、『撤去すべきか否か』今ではさぞかし難問になっていることだろう。

   城壁の真ん中には 100m四方位の台形があり、その上に『東大寺大仏殿』の2/3位もある巨大な『西の城門』が威風堂々と建っていた。これだけでもちょっとしたお城に感じる位だ。その真下を貫通しているトンネルこそは遥か西のコンスタンティノープルにまで辿り着ける、シルクロードの東の出発点である。この城門は単なる御土産物屋に改装されているだけではない。シルクロードを象徴する高価なシルク絨毯の制作実演・販売の会場でもあった。

   西安は内陸部であるため寒暖の差が大きいかと思っていたら、豊田市と大同小異だった。それにしても黄砂が酷い。視界は500m位だ。ガイドは『埃だ』と言うが風も吹いていないし車は砂だらけだから、何と説明されようが黄砂と独断! 片側3車線はありそうな立派な道を真上から眺め、黄砂に霞む西の果てに視線を移しながら、しばし往時の繁栄に想いを馳せた。

[7]華清池

   『火山も地震も少ない』と言われる中国にも温泉があった。しかし、温泉とは言っても源泉の温度はさすがに42℃と低く、日本人の感覚ではぬるま湯に近い。『華清池』とは2千年も前に温泉を引くために作られた、石で囲まれた数百坪大の池である。この池を核にして公園が開発された。公園の後には小高い山があり、今やロープウエーも開通し、『蒋介石』が逃げ込み捕らえられたと言う、山腹の小屋までが観光資源化されている。

   唐の玄宗皇帝が『楊貴妃』と遊んだらしい、プールのように大きな石組みの浴槽が1986年に発掘され、全体の遺構を保護するために巨大な建物で覆われていた。露天風呂だったのかは不明。そこまで大事にするのならば、臨場感を観光客にもっと感じさせるべく温泉を引けば良いのに、カラカラに乾いた儘の浴槽は埃まみれとなり些か興ざめ。池の周りの柳の新緑が美しい。中国人は柳が好きなのか?理由は聞き忘れた。

[8]興慶(こうけい)公園

   玄宗皇帝と楊貴妃が住んでいた興慶宮の跡地に建てられた何の変哲もない公園だが、日本人には必見の名所である。遣唐使として長安に学び、唐で活躍しベトナムの総督も勤めた『阿部仲麻呂』の記念碑があるからである。 
       
   高さ6mはありそうな四角い石の顕彰碑が建っていたので、かの有名な望郷の歌『天の原、振りさけ見れば春日なる、三笠の山に出でし月かも』が彫り込んであるかと、4面全部を確認したがなくて残念。阿部仲麻呂の数多くの業績よりも、たった1首の和歌の方が私の頭には印象深く記憶されていたからだ。公園内に建てられた立派な売店に案内されて無料のお茶を一服。

   売店内には非売品の阿部仲麻呂の肖像画、福田元首相の書なども飾られていた。手ぐすね引いて待っていた店員達は、掛け軸・習字道具・絵画・石の彫刻品・絹製品の売り込みに突進して来る。『逃げるが勝ち』と外に出ると今度は、ハンカチセットや手編みのテーブルクロスの売り子がまとわり付き煩わしい。手編みそのものは魅力だが糸の質が余りにも悪く光沢に乏しい。旅慣れている筈の同行者が次々と買い込んだのが不思議だ。          

   『長安は真に国際都市だったんだなあ!』と思うのは、外国人が大勢いた大都市というだけではない。たとい外国人であろうとも、実力があれば政府の要職にも抜擢した、内外無差別の国際感覚溢れる中国人の町でもあるからだ。それに引き換え、もうすぐ21世紀にもなろうというのに、官民挙げてこの種の感覚のない日本人の島国根性が情けない。

[9]西安碑林博物館

   碑林とは中国各地から集めた石碑が林の如くあるの意か?石林・桂林と言う地名を連想させられた。全部で1,095基もの大小様々な石碑が陳列してあるのは壮観だ。石なのに、ここでも全て建物の中にある。

   皇帝の業績、千字文など、書かれている内容は千差万別。千字文は『天地人…』に始まる詩と思っていたら『天地玄黄…』で始まっていた。我が書道の教科書は途中の文字をあろう事か、飛ばしていたのだ!
                   
   字体も様々。書いた人も書聖『王羲之』他、漢・隋・唐・宋・清の名筆を網羅。漢字の本家、中国政府の保護への熱意が伝わってくる。50cm四方もありそうな大きな字から毛筆サイズまで様々、合計65万字に達すると言う。『平成』のルーツとなる漢文が記された石碑の前では、ガイドが取り分け誇らしげに熱弁を奮う。

   湿拓による拓本作りをしていた。石碑に水を含んだ紙を張り付け、刷毛で皺を延ばし、紙の上に墨汁を塗って剥がすと字体が白く残った刷り物が完成する。版画とは逆、字が裏返しにならない。博物館内のあちこちでこの刷り物造りをしていた。絹布で表装した作品を売店で大量に売っていたが、我が家には飾る部屋がない。

   どんな字体ならば美しいと感じるのか、教えてもらったことも、事前にチェックしたこともないのに、目の前の字を美しいと感じるのは何故なのか、どうしてもその理由が分らない。初めて出会う読めもしない漢字でも美しいと思うのが不思議だ。『美人とはどんな姿形か?』との教育を受けなくとも、識別できるのと同じ現象のようだ。立派な芸術作品とは、絵画・彫刻・音楽など何でも、解説を聞く対象ではなく、自分の頭で感じるものだと納得。

   この逆の反応を数年前名古屋大学医学部付属病院で体験したことがある。顔に出来ていた黒子(ほくろ)が大きくなって来たような気がした。皮膚科の教授に『先生。皮膚癌に掛かりました。念のため確認して下さい』『癌じゃないよ!』と即断。『証拠は何ですか?細胞検査はしてくれないのですか?』『経験だ』『では、私の場合は何と言う症状ですか?』『老人性イボだ。美顔手術を望むのなら、取るのは簡単だ』

   腑に落ちない顔をしていたら、診断や発言を禁じられているインターンの学生が『先生、例の写真集をお持ちしましょうか?』と言う。『皮膚癌なら、この写真のように、見ただけで分かる。汚らしい。見るだけで不快感を感じる』とのご説明に半分納得させられて、退散した。つまり、どんな場合に人は不快感を感じるのかを事前に説明されていなくとも、見ただけで頭は反応するのだ。

   ガイドに『中国人には何種類位の文字が読めるのか?』と質問すると、曖昧な回答をした。5千〜1万字らしい。日本のように義務教育期間中に読み書きが出来るようにと定められた教育漢字(1992年では1,006字)、一般の言語生活で用いる上での目安としての常用漢字1,950字(注…かつての1,850字からなる当用漢字は、既に常用漢字と呼称も変更されている)のように決められている様子はない。高校時代の漢文の先生が『1万字読めれば十分だ』と言っていたのを思い出す。

[10]兵馬俑坑博物館(俑=殉死者の代わりに死者と共に埋葬した人形)

   今や兵馬俑坑は『万里の長城』と並ぶ中国観光の双璧になっただけではない。ピラミッドと比肩される壮大な謎を秘めたお墓だ。1974年井戸掘りをしていた百姓が発見。故周恩来首相に良く似た風貌のお爺さんは人気絶頂。大きな御土産物屋の中央部に専用の机と椅子があり、観光客の記念写真に収まったり、サインやスタンプ押しをするのが今や本職だ。

   兵馬俑坑には、8年前に見た万里の長城よりも強い感動を受けた。長城の特色は『長さ』だけ。換言すれば工事費・工事期間・皇帝の権力の巨大さを語るには事欠かないが、敵の侵攻を防ぐ物理的な城壁として役立ったとの記録を目にしたことがないだけではない。   
                       
   城壁の断面の大きさ(幅×高さ)では、長城など歯牙にも掛けないほどの巨大な城壁をあちこちで見たからでもある。しかし、兵馬俑坑に匹敵する類似遺跡に関しては、今に至るまで聞いたことも見たこともない。神話の世界が発掘されたほどの驚きだ。
   
      兵馬俑の発掘現場は面積 250×120mものカマボコ型の建物で覆い尽され、内部には一方通行の観光コースが完備している。写真撮影は厳禁。『発掘物を紫外線から保護するために、希望者は日本のメーカーに委託開発した特種カメラを持つ専属の写真屋に依頼するように』と言う。『フラッシュを使わない場合は無害の筈だ』と交渉したが『見張りの警官が飛んで来る』と脅すだけ。

   平均身長 180〜190cmとも言われる写実感溢れる兵士達が隊列を組んで立ち並んでいる姿は壮観だ。ここの兵士は中空の頭部と胴体に手足を組み込んだ人形である。実際の兵士よりも少しだけだが大きく作られている理由は何だったのだろうか?当時のどんな強力な敵軍よりも強い巨人軍団に守らせれば、死後も安全と考えていたのだろうか?古墳時代に流行した日本の埴輪のミニチュア振りが微笑ましくて堪らない。大帝国と小さな島国の落差はかくも大きかったのか?

   しかし、貴重な人類の遺産なのだから、解説にはもう少し正確さが欲しい。『現在は発掘途中だが、全部で6,000体になる予定』と数を自慢するので『発掘中なのに、どうして全体の数が分かるのだ?』と質問すると『古い資料で分かった』とデタラメを尤もらしく言う。資料があったのならば、井戸掘りなどの偶発事件で発見される筈がない。

   それにしても『死後の世界を快適に過ごすために、生活用度品を埋設するだけではない。人権を無視した殉死の代わりに、護衛の兵士に似せた泥人形を道連れにすると言う発想は、全てが始皇帝独自のものだろうか?』との疑問が湧き上がる。

   ピラミッド建設の発想が2,000年間もの間に、シルクロードを経由して古代中国にまで伝わっていたのではなかろうか?また、埴輪には見られた女性俑が未発見なのも不思議だ。死者に女性は不要と考えたのだろうか?今一つ納得性が得られない。

   門前市は大繁盛だ。兵馬俑ゆかりの御土産品だけではなく、ここだけで中国各地の記念品が全部買えそうなほどだ。どこだったか忘れたが、現寸大からミニチュアまでの兵馬俑のコピーの生産工場もあった。売り子が大声を挙げて日本語で呼び掛ける。日本人観光客の多さを物語る生き証人達だ。焼き芋屋が多いのは不思議だ。1本1元(15円)は安いが、食欲はない。機内食を食べ残した空腹に、朝御飯を詰め込み過ぎた。

[11]秦の始皇帝陵

   高さ55m、周囲2,000mのなだらかな饅頭状の山に感じる。『70万人の囚人を動員して作った』との言い伝えの割りには、その苦役振りが直接五感に伝わって来ない。中国には『白髪三千丈』流の表現があるとは言え、往々にして期待過剰に誘い込まれる。境界を示している墓らしい塀がなければ、見落としてしまうほどだ。

   墓に面した道路で下車し、記念写真を撮るだけ。募集広告では恰も観光目玉であるかのように書いてあったが、『羊頭狗肉』を連想させられて空々しい。

[12]昼食 
                               
   パック旅行の良さは、豪華ではなくとも厳選された特色ある料理にも出会えることにある。同行者の1人に『パックと独り旅は、どっちを選びますか?』と質問された。『時間とお金に余裕があれば、最初はパックで全体像を掴み、2回目には関心の引かれた所に焦点を合わせた独り旅。旅行の回数や訪問国数を目標にするのは次元が低いと思いませんか?』と回答したものだ。

   中国にも『シャブシャブ』があった。しかし、調理しながら食べると言う中華料理には出会ったことがないので、日本人相手に開発されたメニューではないかとも感じた。食べ方は日本と殆ど同じだ。薄くスライスされた牛肉や生魚・豆腐・野菜・麺類など食材も似ている。

   中華料理では見掛けない、つゆが入った小さな鍋と固形燃料のコンロのセットが1人ずつ用意されていた。『茶碗に生卵の白身だけを入れ、黄身は鍋へ』と食べ方まで指示される。薬味には中国らしく、唐辛子などの香辛材も多い。材料は4名分単位の大皿で支給された。不作法者が現れないように配慮した積もりになって『材料が4の倍数になっている』と皆に説明し、後になって恥を掻いた。お代わりは無制限だったのだ! 夕食のことなどすっかり忘れて、満腹してしまった。

[13]ナイトショー

   夕食は中国西北航空主催の豪華な中華料理だった。ナイトショーが開かれる劇場の2階にある特別室に集まり、西北航空の社長の歓迎の挨拶も受けた。待望の北京ダックも出た。帰りには御土産に、身長25cm大の兵馬俑が張り付けられていた木の壁掛けまで貰った。

   その後、大劇場に移り、中国古代からの派手な舞踏や芝居等を観賞した。数百人は入れるディナーショー形式(テーブルは舞台に垂直。客は横を向いて座る)の会場にいるのは殆どが西洋人である。我がグループは食事済みなので飲み物のみを注文。  

   『西安の観光客の25%を占める』と言われる日本人は何処へ消えてしまったのか?日本では映画・演劇・ショーの類いの人気は凋落した儘だが、ここでしか見られない貴重なショーよりも、買い物への関心の方が高いのだろうか?寂しい限りだ。3割しか参加者が集まらなかった我がグループは、端っことはいえ最前列の良い場所だった。

   中国語、英語、日本語で簡単な解説を事前にしてくれたが、英語の素晴らしい発音には驚愕。日本人には出せない発音だ。木琴のように大きな自作の笛群で鳥の囁きを演じる名演技には殊の外驚く。日本ではこの種の特技を持つ芸人が急減しているが、中国ではまだ職業として十分成り立つのであろうか?
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運河の都、蘇州

   西安からは飛行機で上海へ。機内食は相も変わらず汚く貧弱。ビールで我慢。ホテルの中華料理は美味しいのだから、機内食が改善できない筈はないのに。上海からはバスで蘇州へ。再開発済み地区以外の上海の町は、昔のままで気も遠くなるほどの汚さ。小雨が降った後でもあり、道路には至る所に水溜まりがある。南京まで開通していると言う高速道路に程なく入った。

[1]豊かな近郊農村

   アスファルト舗装もされていない、コンクリート製の高速道路の平坦度はかなり悪いが、交通量が少ないので時速 100Km程度は安心して出せる。その両側には豊かな農村地帯が開けている。1戸建ち、2〜3階建ての豪邸が続く。戦前の面影を残す小さなレンガ造りの平屋造りは1割も残っていない。
          
   外観は日本の平均的な家よりも立派。沖縄の豪邸に似た50〜100坪級も少なくない。平均家族数は3世代で5人だそうだ。都市近郊では農村でも子供は1人だ。やがて同じデザインの総2階の家ばかりになった。延べ50坪はありそうだ。
                          
   ガイドに『家が立派すぎる! 高速道路から見える範囲内にのみ、中国の豊かさを外人に宣伝するために建てた家ですか?』『違います。この辺りはどこも立派な家が建っています。都市近郊は野菜の出荷と出稼ぎで金持ちになったからです』。一頃喧伝されていた『万元戸』も今では『10万元戸』に昇格しているそうだ。   
   
   大都市の住宅事情の悪さとは雲泥の差が感じられる。それにしても何故同じデザインの家ばかりなのか腑に落ちない。ガイドは『隣人の真似をするからだ』と言うが、真の理由だろうか?

   さらに不思議だったのは、どの家も空き家に見えた事だ。部屋には家財道具もカーテンも何もない。窓ガラスを介して反対側まで透けて見える。人影も洗濯物も目に触れない。建てた直後だったのだろうか?道路に沿って数十キロもこんな風景が続いている謎は、最後まで解けなかった。

[2]情けない日本の住宅

   不法入国で掴まった中国人が『2階建てのレンガ造りの家を立てるのが夢だった』と涙ながらに語った記事が、今月(4月)の朝日新聞に載った。高速道路の沿線の高級住宅は彼等の夢が実現した姿だったのだ。

   それに引き換え、日本人一般には『家の理想像』がないようだ。夢を育て、何としてでも実現させるとの執念を、地価が高いためか最初から捨てている。『家は雨露を防げば良い、方丈の庵で十分だ』との諦めが先回りした結果実現したのは、世界にも類例のない堀っ建て小屋生活だ。

   戦前までの住宅で主力だった土壁は、今やカラー鉄板に変わっている。言わばトタン小屋だ。これでは自動車並の耐久性しかないし、子供に相続させる価値もない。いわんや中古住宅としての転売価値はゼロどころか、撤去料が必要なマイナス価値だ。                                
   最も耐久性のある建材は石だが、高価に過ぎる。期待された鉄筋コンクリートは意外に耐久性が乏しい事が判明。材木には資源に限界がある。資源量・耐久性・コストの3要素を満たす最良の建材はレンガだ。            

   日本では関東大地震でレンガの耐久性に疑問が持たれた結果、一気に建材価値を失ったが今漸く復活し始めた。鉄骨との併用による復活だ。レンガの超量産技術、レンガを駆使した住宅設計と施工技術の開発をこそ、住宅建材会社に頑張って欲しいだけではない。日本人全体が資産価値の高い耐久性のある家造りに全力を挙げるようにならないと、何時の日にかは中国にすら追い越されないとも限らない!

[3]寒山寺

   蘇州は『呉越同舟』の呉、越は紹興。呉は越に滅ぼされ越は楚に滅ぼされたとガイドブックに書いてはあるが、それらしき遺跡に出会うこともなく、バスは寒山寺に直行。寒山寺の玄関前は運河の船着き場になっており、水の都の片鱗は伺えるが、溝(どぶ)と化した運河はこれまた限りなく汚い。

   寒山寺は小さなお寺にも拘らず、日本人には有名だ。高僧『寒山と拾得』が学んだお寺。2人の全身彫刻が仏像のように飾られていた。また別棟には、長安に学んだ若き日のハンサムな『空海』の全身彫刻も安置されていたが、6頭身に見えた。ここには明治時代に日本から贈られた鐘があり、一突きで10年若返るとの伝説が生まれ、鐘撞きの行列が続く。3回も鐘撞きをする馬鹿な欲張りが多く、渋滞は一向に解消しない。

   ここでも大きなロウソクに火を付けて奉納する敬虔な信者が引きも切らない。徐々に仏教徒が増えて来たそうだ。ロウソクは毒々しいほどに赤い。日本の白いロウソクとは異質だ。中国では赤色は縁起が良いらしく、お寺では柱を初め至る所に赤い色が塗られている。とうとう、ローソクの色まで赤くしたのだろうが、生き血の塊に火を点しているようで気持ちが悪い。

   『救いを求める人が信仰の対象にしている、絶対者を欠いているから、教の字が付いていても儒教は、私には宗教とは思えないが、中国人は宗教とみなしているのか?』とガイドに尋ねると『思想に過ぎず、宗教ではない』と言う人から『中国人にとっては、一種の宗教です』まで答えはいろいろ。 

   途中これぞ蘇州名物と言えそうな運河に出会う。運河に面した両側の民家からは石の階段を降りて水面に辿り着ける。昔は運河の水は生活用水にも使われたのであろうが、今はその面影も感じられないほどの汚水と化している。

[4]拙政園(せっせいえん)

   明代の御史(中国の官名)を辞した『王献臣』が寺を買い取って拙政園を造った。拙政とは晋代の藩岳の著した『閑居賦』にある『拙き者のため、政るなり』に由来する。中国4大名園の一角を占めるそうだが、個人が造った庭園なので規模は小さい。
                                
   平らな敷地に変化を持たせるため、池を掘った土で山を築き、船を模した家も建てた。池が園内の60%も占める。一角にビワの実がなっていたが、果物としての果実は大きくは育たないそうだ。こういう場所は大抵有料トイレ。同行者には2角(3円)を惜しむよりは、有料と言う習慣に馴染めないためか、御土産屋の無料トイレまで我慢する人が多い。

   中国庭園にも昔から芝生を植える習慣があったのだろうか?一角には芝生が広がっている庭もあったが、どことなく違和感を覚えた。京都の寺院のように苔の方が似合うような気がする。芝生の上に数人掛りで鉢植えを並べていた。夏には池一面に蓮の花が咲き、それを観賞するための家まで建てて『遠香堂』と称した。

[5]虎丘

   蘇州を都とした呉王『夫差』の父『闔閭(こうりょ)』のお墓。高さ30m位の岩山の頂上に宋代( 961)に建立された高さ47.5mの『雲巌寺塔』は中国版『ピサの斜塔』だ。石で造られたピサの斜塔は地盤の不等沈下で傾いたが、雲巌寺塔は耐久性が落ちる素材のレンガが崩壊した結果15度も傾いた。今では立ち入り禁止。コンクリートで補強してあった。                  
   境内の階段の両側は岩ばかりなので草花を植え付ける事ができないが、代わりに鉢植えをビッシリと並べ、満艦飾の美しさ。必要に応じ鉢植えを簡単に取り替えられるので植え付けるよりも即応性が高い。

[6]刺繍

   蘇州名物の刺繍は世界に類例がない。1,700年の歴史があるそうだ。1枚の薄い布に染色された絹糸で、花鳥風月を刺繍しているが、出来上がりは油絵のように美しいだけではない。物によっては布の両側に同じ絵が完成していたり、別の絵になっていたりする根気の籠った作品だ。

   ここの刺繍は台が付いた丸や扇型などいろんな形状の枠に、ピンと張られて売られている。シルクロードの沿線に売られている絹の手織り絨毯を越える芸術作品である。立派な作品は半畳くらいで4百万円もしていた。
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大湖のほとりの景勝地、無錫

   夕方、バスで無錫(むしゃく)の湖濱飯店に到着。琵琶湖の数倍の面積があると言う『大湖』のほとりに建つ新しいホテルだ。『外は暗いから夜の散歩は足元が危険、朝が安全』とガイドが注意。無錫とは錫の産地だったが、掘り尽くされた後に付けられた名前だそうだ。固有名詞の付け方にも国民性が現れるようだ。

   夕食には名物料理『無錫腓骨』が出た。大きな骨付きの豚肉の煮込み料理だ。長時間煮ているのか油も落ち、骨も直ぐ外れ食べ易かった。また無錫料理として大きな淡水魚(大湖産?)の煮魚も出た。45年位前に食べたことのある『雷魚』の味がしたが、形は別ものだった。小骨が多く、給仕が取り分けてくれた。
      
   食堂の壁面には掛け軸が掛り、出入り口は売店も兼ねており、給仕が売り子も兼任していて、落ち着いて食事もできなかったのが『玉に瑕』

[1]朝の散歩

   早起きをして散歩に出た。湖畔は公園化され木々が美しい。人家はない。岸から長さ50m位の橋を渡ると、開店前の水上レストランがあった。大湖は泥水で満水だ。最大深さは10m程度らしい。長江の3日月湖の名残ではないかと推定したが、成因は聞き忘れた。対岸が一切見えない程の広がりだ。  
                     
   中国庭園には欠かせない、骸骨のように凸凹した石灰岩は大湖から掘り出されるのだそうだ。こんな所でどうして石灰岩が採れるのか不思議だ。遥か昔は珊瑚礁だったのが、隆起作用と長江の堆積物で周辺が陸地化したのかも知れない。

   ホテルの裏に回ったら金網に囲まれた敷地に、盆栽が2百鉢以上も並べてあった。幹の太い立派な盆栽をどっさりと養生中だった。その奥には鍵の掛かった大きな温室があった。若い中国人と視線が合った。勝手に庭に入っていたのを咎めるかと思ったら『温室の中も見たいか?』と言っているようだった。以心伝心、サッと中へ案内してくれた。さして珍しい花はなかったが『謝謝=シェシェ』と一言。

[2]錫恵(しゃくけい)公園

   中国の庭園は、繰り返し見ている内に『同工異曲』に感じ始めた。庭・池・木・石・建物の形が似過ぎているのだ。農村の豪邸も互いに瓜2つだが、庭園も同じだ。国民性ではないかと考え始めた。

   ここには『名泉』と称する石で囲まれた水溜まりがあったが、飲めるようには管理されていなかった。中国人は『昔の状態を完全に復元する』との完璧主義には価値を感じていないようだ。日本人なら我慢出来ないところだ。傍らには雷で股割きにあったイチョウの大木や、1本の木に5種類の接ぎ木をしたと言う奇妙な庭木もあった。

[3]龜頭(げんとう)渚公園
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   大湖に突き出た龜頭状の半島を生かした景勝地。日本の姉妹都市から贈られた桜が満開だ。今年は日本同様暖冬の影響で開花が早いそうだ。

   『四海五湖』と言う言葉があるそうだ。4海とは渤海・黄海・東シナ海・南シナ海のことか?五湖の4番目は大湖だそうだ。『四書五経など、中国には数字と組み合わせた表現が多いのは何故か?湖は沢山あるのに何故5番目で打ち切りになるのか?』とガイドに聞いても、答えられない。       

   言語としての日本語をマスターしているほどの努力家ではあっても、中国に関する基本知識は意外にも少ないような気がする。有名な四書五経はもちろん、ヘロドトスと並び称される司馬遷の『史記』を読んだと言うガイドにもとうとう出会えず些かがっかり。尤も日本人でも国文学者以外で、記紀や源氏物語を原文で最後まで読んだ人は絶無に近いから当たり前のことか。

…………………………………追記(平成9年5月20日)………………………………

   中国の大学院で日本語を専攻した、トヨタ自動車の正従業員である中国人女性にこの旅行記を読んでもらったら『素晴らしくて感動しました。しかし、1ヶ所誤りがあります。四海五湖ではなく、五湖四海と言います。なお、五湖四海と言う言葉は、“全国各地=津津浦浦から”と言う意味にも使われています』との貴重なご指摘を頂いた。           

   更に、『実は私も史記を読んだことがありません』と補足された。

…………………………………………………………………………………………………

   しかし、さすがにガイドとしての職業意識は天晴だ。客の所望に答え、伴奏なしで、かつて日本で大流行した『無錫旅情』を歌ってくれた。その上で『私は日本語の知識と無錫旅情がヒットしたお陰で生きています。日本の皆様、ありがとうございます』と挨拶。ガイドに取っては中国の古典の知識よりも、日本からの観光客との関わり方の方が大事なのだ。

   その瞬間、20年近く前の出来事を思い出した。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』の著者『エズラ・ボーゲル』さんがトヨタ自動車に招かれて講演をされた。質問の時間になった時『難しい言語の1つと言われる日本語を、何故わざわざ学ばれましたか?でも、苦労された甲斐もあったのではありませんか?』と質問した。

   『アメリカではスペイン語に人気がありました。それだけに秀才が殺到し競争も激しい事が予想されましたが、日本語コースはその逆だったので、ライバルも少なく楽でした。しかし、それとは別の理由から私にとって、日本語の選択は大成功でした。それは私個人の努力の結果ではありません。       

   言語の選択と人生の成否はその言語の母国の盛衰と不即不離の関係にあります。スペインの国力は低下し、日本が経済的に成功するに連れて私にも道が開けて来ました。その結果、天下のトヨタさんからすらも、こうしてお座敷が掛かるようになりました』エズラさんからは、後日『あの質問をして頂いて、とても嬉しかった』と担当役員を介してお礼が届いた。

[4]泥人形工場

   博多人形のように泥で人形を作り、焼き、彩色して仕上げる。土曜日で休日だったが観光客のために、1人だけ女性が出勤し実演していた。今や日本人観光客は、中国人の勤務体系にまで影響を与え始めたのだ。

[5]三国城

   三国志の連続テレビドラマ撮影のために作った実物大のセットを、そのまま観光資源化した中国版戦国村である。園内が広過ぎて1周するだけでくたびれる。その一角に騎馬戦の会場があった。1周 600m位の土のグラウンドに20〜30頭の馬、歩兵を含め総勢 200人位が実戦さながらの模擬戦を見せてくれる。蒙古出身の馬使いが出演しているそうだ。        
                 
   武器を手に目の前を疾走する勇姿は見応え十分だった。疾走する馬上で物干し竿のように大きな矛を振り回して敵と戦い、時には落馬もしなければならず、慣れているとは言え怪我はないのだろうか?それに引き換え歩兵は『枯れ木も山の賑わい』扱いだ。

   三国城の近くには建設中の『ミニ・ワールド』があった。ピラミッドやトルコのアヤソフィアも目に入った。縮尺比は揃えていないようだ。アヤソフィアの高さは実物の半分に感じた。建造物の高さは皆同じみたいだ。国内外で一時流行したミニ・ワールドではガリバーの気分は味わえても、建物の中には入れないほどに小さく興ざめだったが、ここで建設中の建物は中にも十分入れる大きさだ。

[6]準新幹線

   国際標準軌である上海〜無錫〜南京間の幹線鉄道は狭軌の東海道本線よりも高速が出せる。全線にコンクリート製枕木が敷かれ、時速 140Kmのディーゼル機関車が18両編成、総2階建ての客車を牽引する。車両の長さは25mはありそうだ。JRには少ない一直線のホームに、停車したときの迫力には些か度肝を抜かれた。

   『大都市の駅ならともかく、田舎の駅でもこんな長い列車用のホームがあるの?』『中国の土地は広いのです』とガイドは答えたが、暫くは半信半疑だった。特急が止るような基幹駅のホームだけが長いのだろうと勝手に考えたからだ。ところが発車後、間もなく18両編成の通勤列車や長大貨物列車と数分置きに擦れ違った。『井の中の蛙』を連想。日本と違うスケールでの思考に、急には移れない。『慣性の法則』は、物理現象以外にも広く適用できそうだ。

   私達は見晴らしの良い2階席だった。軟座(グリーン車)では2名ずつが対面して座るようになっている。窓際には座席1人分の幅までの小さなテーブルがあり、その上には30×20×5cm位のステンレス製の浅い容器(パン)が置いてある。ビールやつまみ類はそのパンの中に置くようになっている。振動で缶ビールが滑り落ちず便利だ。パンはごみ箱を兼ねている。

   大平原に敷かれた鉄道は直線に恵まれ、客車の揺れも小さい。カバーが掛けられたシートもゆったりとしている。全部指定席だ。ほぼ満員だ。ワゴンに飲み物やつまみを載せた売り子が通り過ぎる。終着駅が近付くとゴミ袋を担ぎながら、パンの中のゴミ集めを開始。快適な汽車の旅だった。発着時刻も予定通りだ。堂々たる幹線だ。
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緑に包まれた南の古都、南京

[1]南京古南都飯店(南京グランドホテル)

   南京と名古屋は姉妹都市。ホテル名の中に使われている『古』は名古屋市を意味し、名鉄との合弁で出来た24階建の5つ星ホテルだ。『部屋の水道水は飲める』と誇らしげに特記してあったが、君子でなくとも『危うきに近寄らず』とばかりに、飲むのは止めた。水飲みにはチャレンジする価値が全く無いからだ。透き通った風呂水に初めて出会い、気分よく浸かる。

   部屋は6×8m位もあり使いやすい。ベッドと机との隙間に大きな旅行カバンを広げても1m位の余裕が残り、室内通路としても不自由なく使える。ヒルトンの標準サイズ(5×8m位)でも、荷物を広げると足の踏み場もなくなるのだ。

   タンスには真っ白なガウンも用意してあった。海外のホテルでは初めての体験だ。12階の部屋だったが眺望は抜群。南京の高層ビルの数は8年前の上海に近い。24階のレストランに入り『夜景を見に来ただけ』とお断りして、窓際から外の雰囲気をしばし楽しむ。

   南京では『南京板鴨=アヒルの塩漬け』を賞味。1ヶ月間位の塩漬けらしく肉が板のように平たくなっている。燻製作りの中間製品の味だ。ここまで来れば、あと燻製化するのは簡単なのに、中華料理には燻製と言う発想がない。食には極端に拘る中国人にしては『画竜点睛を欠く』思いだ。

[2]南京**

   日本では中国由来のものに南京を冠したそうだ。この事に気付かせてくれたのは南京のガイドだった。こんな知的な刺激を与えてくれるガイドには滅多と出会えない。言われてみると、中国の他都市名を冠した日本語は全く思い出せない。日本語にはもともと『北京虫』も『長安袋』もないのだ。
                
   広辞苑を引くと驚くほどの数の言葉が出て来た・南京操り・南京小桜・南京軍鶏(ししゃも)南京人・南京繻子・南京錠・南京銭・南京玉・南京鼠・南京黄櫨(はぜ)南京鳩・南京袋・南京米・南京豆・南京虫・南京木綿・南京焼き。

[3]町の印象

   早朝の30分間、大通りを夫婦で散歩。道幅が広過ぎて、信号機のない所を横断するのには勇気がいる。中国人を盾にして恐る恐る渡る。加工食料品店を覗いたら、日本のコンビニに似た商品構成だった。

   南京の街路樹の素晴らしさは別格だ。ガイドは中国一と自慢する。大通りには必ず素晴らしい街路樹がある。夏は緑のトンネルに覆われるそうだ。木の剪定位置,枝の張らせ方も揃っている。落ち葉の処理は市民が挙げて協力していると強調。

   西安では2回見ただけだが、南京の大交差点の信号機にはしばしば、後何秒で信号が切り替わるかを示す電光文字時計が併設されていた。日本では一方交通にしている山岳部の道路工事で、遠くの状況が分からない時に、この種の電光時計を見たことがあるだけだ。『どんな分野でも、日本の方が中国より先行している筈だ』などと思っていると、とんだ恥を掻く。          
[4]中山陵

   中山(ちゅうざん)とは孫文の号。1911年の辛亥革命で清朝を倒し、中華民国を設立した中心人物。国民政府からは『国父』と尊称されている。孫文は国民政府を台湾に追放した中国政府からも一目置かれ、現在も中国人から深く敬われている。

   ガイドが『階段の段数を当てた人には賞品をあげます』と言う。退屈な階段登りなのに、皆な小学生のようにはしゃぎながら数え始めた。

   中山陵は南京市を眼下に眺望できる紫金山の斜面に建設された。参道に植えられたヒマラヤ杉も大きく育ち、素晴らしい眺めだ。 292段もの階段を登って、総大理石作りの陸陵にお参りする内外の人波は絶えない。往復するだけで1時間も掛かった。ロープウェー等を付けるのは神聖さを汚すと判断しているのだろうか?高齢者や体の不自由な人々への特別な配慮をする余裕はまだないのだろうか?

   バスの中で階段数の報告が口々に始まった。妻1人が当てた。精神を集中しお喋りを止めて登らないと間違えるようだ。

[5]中華門

   南京城の正門だった中華門は雄大だ。南北 128m東西 119m。4重の門からなる。攻め込んだ敵兵が門内に入った時、前後のゲートを締め、門内に隠れていた3,000人の兵が飛び出して殲滅できる構造になっていたそうだ。13ヶ所もの門があった城壁は、今では殆ど撤去され道路になっている。

   門の上に聳える建物の中には往年の南京の立体モデルが展示してあった。中国の城壁は長方形が一般的だが、珍しいことにくねくねと曲がった長江の支流に沿って築かれていた。川を掘り代わりに流用していたのだ。この建物の中もご多分に漏れず、御土産物売り場に改装されていたが、ガイドは珍しいことに『時間がないから買い物はするな』と言う。リベートをけちられたためだろうか?

[6]南京長江大橋

   重慶、武漢と並ぶ3大長江大橋。1960年ソ連の技術支援の下に着工。中ソ対立の結果ソ連の技術者は全員帰国したが、中国は自力で1968年完成。長江の川幅はここでは約1,500mだがアプローチを入れると鉄道は6,772、道路は4,589mの2層橋。鉄道は直線コース、道路は2層部に斜めに入り斜めに出て行く。2層部は約1,700m。

   長江とは河全体の名称。揚子江とは下流(起点は忘れた)だけの名称とは知らなかった。日本の地図は書き方が悪い。同じ誤解は信濃川にもある。信濃川は越後と信濃の国境から河口までを意味していたのに、何時の間にか川全体の意味で使われている。信濃川の本流は高瀬川・千曲川・犀川・信濃川から構成されているが、この場合は川全体を意味する名称を考えなかった方が悪い。

   大橋開通以前に発行された広辞苑第1版(1955年)には『揚子江の可航区域は3,800Km(武漢の一地域)までは大型汽船が通じ得る』と書いてある。中国政府はこの大橋の自力建設を自慢しているが、今や後悔しているのではないか?橋桁が低過ぎるため大型船は航行出来ず、はしけのような小船のみが往き来していたからである。そのとばっちりを受けて、広辞苑も書き換えを迫られたのではないか?

   ガイドまでがいろんな数値を挙げて自慢したので『橋の総重量は?』と質問。『材料が10万トンと聞いたことがある』とでたらめを隠してもっともらしく回答。『脚の断面積は 400u、基底からの高さは70m』との説明データが正しいのなら、鉄筋コンクリートの密度は 2.2なので脚1本が 61,600トン(= 400×70×2.2)。9本ある橋脚だけで55万トン。アプローチ部などを入れれば優に百万トンにもなるのだ。尤も、鉄筋と鉄骨だけの総重量の積りならば妥当な値である。

   『日本語が喋れるだけではガイドとしては失格。喋る内容をもっと勉強して置け』と言いたかったが、日本人添乗員に『石松さんの質問は何時もユニーク。私が今まで聞いたこともない質問が多いのですが、ご職業は?』と言われてしまった。

   長江に2層式の橋を架けたのは考えものだ。鉄道と自動車とでは登坂力・荷重・必要な道幅が異なる。鉄道に引きずられたのか、片側2車線ほどの狭い道路になっている。将来の交通量を考えれば、幹線自動車道路として幅員40mは欲しい。
   
   自動車は排ガスは出すが登坂力が大きいので、汽船航行のため一部だけ高くし、アプローチ部を低くすれば建設費は大幅に下げられた。幅が10mで十分な鉄道はトンネル化すれば良かったのだ。トンネルは橋に比べ維持費も遥かに安い。深い海に架ける本四連絡橋とは条件が異なるのだ。

   日本が名神高速道路を建設するために世界銀行から借金した時に、アメリカ人は片側3車線を勧めたそうだが、日本人には今日の渋滞を予想する力がなかった。金がないと雄大な発想も出にくいようだ。上海の交通量は未だ少ないが、パンクするのは時間の問題だ。人口は上海の半分しかないイスタンブールですら、ボスフォラス海峡に今や3本目の吊り橋を建設中である。

[7]ガイドのクイズ

   南京のガイドはアイディア・マンだ。移動のバスの中で暇潰しに、またもやクイズを始めた。ガイドが説明した内容が対象だった。観光客の記憶に残るようにするための工夫のようだ。

   『長江大橋の2層部の長さは?』『ハ〜イ。1,700m』
   『南京の城壁にあった門の数は?』『ハ〜イ。13門』
   『南京市にある県の数は?』『ハ〜イ。5県』 
            
と3回続けて答えたら『石松さんは、もう答えないで!』と言われてしまった。皆はまともには説明を聞いていなかっただけなのだが、私は何故か数値化された説明は1回で覚える癖があったのだ。同行者は呆気に取られていた。

   クイズの賞品は『博愛』と記された文字の付いたバッチだった。孫文の好んだ言葉だが、バッチは参加者全員に配るべく最初から用意してあったのだ!

[8]夫子廟(ふしびょう)

   夫子廟とは科挙(随の時代に始まり、清末に廃止)試験会場だったそうだ。大きな建物ではないので、受験者は少なかったのだろうか?宗代の町並みが復元され、一画には自由市場があった。狭い通りの中央部にも店が並び『日用品・雑貨・食料・動物・ペット・ペット用飼料・花卉・各種の苗』等が溢れる売り場を、押し合いへし合いしながら歩く。

   バケツ一杯もの『ミノムシ』も売っていた。『中華料理に使うのか?』と聞いたら、ペットの餌だった。よくもまあ集めたものと感心。1cm位の細長い明るい茶色の生きた虫もどっさり売っていた。これもペットの餌だった。こう言う所では何時ものことながら、文化遺産の真面目な見学とは異質のときめきを感じる。

   南京から上海までの約 300Kmはまたもや鉄道だった。指定席に辿り着くと中国人の先客がいる。誰かが苦情を言うと空いている別の席に移動し、そこでもまたもめると何処かへ消えた。常習犯のようだ。
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繁栄が復活した商都、上海

   人口でも経済力でも中国最大の都市でありながら、上海には4大古都(西安・洛陽・北京・南京)のような文化遺産は残念ながら殆どない。上海は香港同様、アヘン戦争後に発展した経済都市だからだ。その代わりでもあるまいが、良きにつけ悪しきにつけ、激変中の中国の課題や特徴をたっぷりと観察出来る町だ。

[1]上海駅

   上海駅に着いたのは午後7時半頃だった。ホームで待ち構えていた現地ガイドが『上海駅の乗降客は1日10万人だから、私の旗を見失わないように』と何度も念押しをした。日本では10万人位なら大したこともないので『何を心配しているのだろう、大袈裟な!』との反応が一瞬脳裏をかすめた。

   直ぐに事情が解った。発着鉄道はたった1本である。ホームは数本あるものの、駅舎は大変小さく精々2,000坪か?つまり人口密度が高過ぎるのだ。中国人の人相が余りにも日本人に似ており、しかも同行者の殆どがカジュアル・ウェアなので、大群衆の中に埋没してしまう。構内の照明も暗く、旗が見にくい。各社のツアー客の旗が入り乱れてもいるのだ。何人かに『石松さんの赤いチロリアン・ハットで何度も助かった』とお礼を言われる始末。

   長江の沖積平野に発展した町なのに、上海駅の構内通路はなだらかな坂が多く、疲れが蓄積して来た旅人には歩きにくい。完璧主義の日本人だったら床が平坦でかつ水平になるように工事し、高度差は階段で吸収した揚げ句、車椅子も使えない駅にしたのではあるまいか?

   改札口にやっと辿り着いた。そこには大群衆が待ち受けていた。迎えの人だけなのだろうか?人込みの中に1列なら通り抜けられるほどの、クネクネと曲がった隙間道が開けてあった。思わず財布を握り締める。この長い人垣の通路の最前列には、名前を書いた紙を広げた迎えの人々もいたが、通路から離れた人を探し出すのは不可能に近い。

   駅前広場も狭い。これもまた2,000坪くらいか?缶詰の空き缶を手にした幼稚園児から小学生低学年クラスの子供が蠅のように押し寄せて来る。薄汚れた手で私の大事な大事な 100%カシミヤ製超高級ジャケットの裾をむんずと掴んで離さない。蹴飛ばしたくとも余りにもいたいけない。
                               
   狭い駅前広場を取り囲むように、駅舎とは対照的な高層ビルがそそり立つ。名古屋駅西(広場からはホームが見えるので、上海駅の正面玄関の雰囲気は駅西にそっくり)にあるビルなど小さい小さい、低い低い。

   ホテルまでは僅か 200mしかないが、夕食はバスで15分掛かる別のホテルのレストランだった。ボルボ製59人乗りの大型バスが待機していた。乗降口が前と中央部の2ヶ所、トイレもテレビも付いている。ガイドが『飛行機みたいでしょ』と誇らしげに語る。
                                   
   僅かな時間だったが上海の概要を紹介した後『日本人にはジャスコに人気があります。10時閉店です。日本女性は7万円もするハンドバックを買うんです。私の2ヶ月分の給料です』と言いながら、驚いた振りをして自分の高給を仄めかす。恵まれた上海ですら、中堅男子でも平均給料は1万5千円なのだ。

   そんな雰囲気を感じたのか誰かが『ジャスコを薦める理由は?宣伝料でも貰っているのか?』と詰問。『私は行ったこともありません。ガイドの立場からは皆さんがホテルから一切外出されないのが理想です。迷子などの事件も起きないのですから。過去のお客様の評判からご紹介したまでなのですよ』と逆襲。
     
[2]最後の夜
                              
   龍門賓館は24階建ての高層ホテルだ。ロビーでは男性ピアニストが日本の歌を弾き続けている。1,000曲位は弾けるそうだ。申し出れば弾いてくれるそうだが、皆曲名が思い出せないらしい。予想された通り荷物は届いていない。24階の部屋だった。夜景が素晴らしい。高層ビルに取り囲まれているかのようだ。
      
   贅沢にも間に10cmの空気層がある2重窓だった。室内側の窓ガラスには、朝になっても結露はなかったが、外側のガラスの結露が邪魔になって外の景色が見えない。結局は戸を開ける羽目になった。サッシに多少の隙間があったのだ

   22時閉店までの30分を活かして外へ出る。ジャスコよりもホテルに近い上海駅正面にある、中国資本の大型デパートに駆け付ける。地下1階地上6階、中央部は吹き抜け、延べ1万平米はありそうだ。エスカレータは上下ともあり、吹き抜けに面した階段は螺旋式。照明がやや暗いが商品配列もあか抜けしている。妻がスーパー方式の食料品売り場で御土産品を買っている間に、全フロアを駆け巡った。

   地下には屋台村があった。閉店間際だったのか客は少ない。換気能力も十分なのか、中華料理特有の匂いもしない。大変衛生的だ。衣料品の品質は日本のスーパーに近い。価格は日本比概ね7割と感じたものの、一般の中国人には高過ぎるような気がする。テレビ・洗濯機・冷蔵庫も大型品中心だ。
           
   6階の一角には小さなボーリング場があった。得点計算も自動化されモニターに表示されている。奥行きがチョット短い。スコアが良い筈だ。ボーリングには国際規格はないのだろうか?

   閉店時間になったら、制服を来た店員は夫々の持ち場で直立不動の姿勢になりお客様を見送る。エスカレータは止めたままだ。上りを下り用に逆転運転すると言う発想がない。エスカレータを階段代りに使うのは階差が不自然で、大変歩きにくい。                                  
   デパートの建物を取り巻く歩道は、何時の間にか野宿の場に変わっていた。布団にくるまった出稼ぎ労働者が足の踏み場もないほどに雑魚寝していた。同行者の1人が『屋上にも人が寝ているビルがあった』と言った。中国の抱える深刻な問題が嫌でも目に飛び込んで来る。

   ホテルに戻ると中国人のガイドが『荷物はまだ着きません。済みません』と詫びた。『慣れているから気にしないで。それに貴女の責任ではないのだから、詫びる必要もありません』と慰めた。夜中の1時半頃、室外が騒がしくなった。
      
   やっと荷物が着いたのだ。しかし、文句を付けるほどの問題ではない。観光も無事終り明日は帰るだけなのだ。それどころか、南京のホテルの廊下に朝出した荷物が、貨物輸送システムを介してその日の夜半とは言え、 300km以上も離れた上海のホテルまで届いた事実に驚いた。変わりつつある中国の物流体制に対しては、日本の宅配便も余り威張れたものではない。

[3]朝の雑踏

   出発前の1時間を活かして『玉仏寺』へと出かける。ホテルで貰った地図は大まか過ぎて初めての観光客には解りにくい。地図には省略された交差点が多い。大昔から碁盤目状の都市計画が充実している中国では珍しいほどに、上海の道は錯綜している。首都になった歴史がなかったのが理由ではないか? 
             
   何度も何度も道を聞く。大通りには10m置きくらいに数珠つなぎのバスが通り過ぎて行く。自転車の洪水は8年前と同じだ。しかし若者の外観は一変した。男は背広にネクタイ、シャツの襟元も清潔感に溢れ、革靴で颯爽と歩く。若い女性はお化粧もくっきり、人種が変わったように感じるくらいだ。
          
   人相が良くなった。表情が出てきた。幸せが汲み取れる。『バブル崩壊後、生活苦に襲われている自分は不幸だ』と思い込んでいる日本人は、中国を訪問するのが最良の治療法だ。贅沢病だと直ぐに分かる筈だ。

   町中が埃っぽい。戦前からの古いレンガ作りの家を壊し高層ビルをあちこちで建設中だ。1,300万人が住む上海に 300万人の出稼ぎ建設労働者が昼夜兼行の突貫工事で働いている。高層ビルの総床面積は既に香港を追い越したのではないかと思った。シンガポールが高層化するのに30年掛かったそうだが、上海には郊外や農村地帯の労働力も動員できるから、後20年とは掛かるまい。

   大交差点で地図を片手にキョロキョロしていたら、交差点の真ん中の台の上に立って交通整理をしていた若い警察官が、自分の仕事を放棄してツカツカと近付いて来る。『交通の邪魔になるから、どけ』と文句を言いにやって来たかと思ったら、私に向かってパッと敬礼。早速、道を確認したら丁寧に教えてくれた。言葉は解らなくとも手で示せる。

   別の交差点では足の遅い妻を見失った。キョロキョロしていたら、背中を中年のおばさんがつつく。視線を合わせると、彼女が指差す彼方に妻がいた。既に道路を横断していたのだ。あるところで道を聞いたら、メモ用紙に地名を書いて渡してくれた。中国人が驚くほどに親切になっていた。

   『玉仏寺』の拝観料は15元。手持ちの元では足りない。しまったと思ったが、『ドルで払う』と言ったら簡単に交渉成立。民間人は融通が利く。境内には早朝なのに人がうようよ。大きな線香とロウソクが燃え続けている。ロウソク立ては直径2m位の大甕の上に組み立てられている。ロウソクを立てる場所がなくなると、掃除のおばさんが燃えているロウソクを抜き取って、甕の中の水に投げ込む。

   中国人は地面に膝を突き額を擦り付けて、モスレムのように深々とお祈りをするので、体が汚れないようにと座布団が置いてある。寺院の中では頭をツルツルに剃った 100人以上ものお坊さんが一心にお経を挙げていた。好奇心だけの者には些か近寄り難い敬虔な雰囲気だ。
                            
   思わずチロリアン・ハットを手に取り、遠くからソッとそれらしき仏像を拝んだ。時間がないので直ぐにUターンしたが、本尊はそのまた奥に祭ってあったのだそうだ。熟読していたはずの徒然草の一節『先達はあらまほしかるべけれ』を、玉仏寺で自ら体験する羽目となったのには些か苦笑。
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中国人ガイド

[1]素晴らしい日本語

   中国では日本人添乗員による観光地のガイド業務は禁止されている。その代わりに日本語をマスターしている中国人が観光案内をしてくれる。中国人の職場を確保するためだ。この方式は発展途上国では普遍的だ。ガイドになるためには国家試験もあり、日本語ガイドのプライドは高いし、それに相応しいだけの実力がある。都市を移動する度に、その都市に住んでいるガイドが案内した。結局5人と出合うことになった。

   観光客相手に話すべき話題の限界を心得えている。自らの立場を踏み外すことは終始なかった。第2次世界大戦に関する問題には誰もが一切触れなかった。観光客に政治絡みの話題を出すのは禁止されているのかも知れない。確認したかったが質問するのは、彼等の心情を察して遠慮した。

   観光地ではどこでも『シルク』と声を張り上げるハンカチ売りがいる。『あれは、偽物が殆どです。ナイロンです』と注意を喚起してくれる。昔日本では、端切を燃やし、灰の固まり具合を確認し、匂いも嗅いで真贋を見分けるほど注意深い人が多かったが、今やそんな人は殆どいないのだ。

   南京のガイドは日本人が勘違いする行政について説明してくれた。こんな所にもインテリ好みの印象を受ける。省の下に市、市の下に県がある。南京市には5県あるそうだ。漢字が同じでも意味が異なるのだ。アメリカ合衆国では州・郡・市の順になっているが『County』を郡と訳したのが誤解の始まりだ。こちらは県と訳せば良かったのだ。

   それに引き換え、ヨーロッパで出会った現地日本人ガイドのだらしなさには今更ながら驚いたものだ。ヨーロッパの日本人ガイドは旅行社の経費節減策から生まれたようだ。日本からガイドを派遣するのはコストがかかるため、現地でぶらぶらしている日本人を、必要な都度パートで雇っている。

   ガイドの主な供給源は留学生崩れだ。日本の一流大学には無理なクラスが、生活費も安い欧州の大学や専門学校に留学はしたものの、卒業もできず、やむなく働く職場の1つだ。母国語だから日本語は分かるが、まともな勉強をしてもいないので質問にも答えられず腹立たしい。

   ガイドのもう1つの供給源は民間会社の駐在員夫人達である。この場合はピンからキリまで様々だ。旅行社は、暗記すべき資料を渡して勉強させるだけではなく、特色ある現地の歴史や文化について、はるばるやって来た観光客に感動を与える語り口の特訓もして欲しいと思う。彼等に引き換え、今回出合った中国人ガイド達は素晴らしかった。

   必ずしも大学の日本語学科卒業生ばかりではなかった。ある人はラジオとテレビのみで勉強したと言う。しかし、その日本語の『発音・アクセント・てにをは・時制・単数複数・数詞・代名詞・掛かり結び』などの使い方には誤りが殆どない。東北弁特有の発音が取れない人や関西弁丸出しの日本人よりも、遥かに正確な日本語を喋るのには驚愕するほどだ。  

[2]質疑

   ここまでに書いていない話題で、印象に残っているガイドとの質疑応答が幾つか思い出される。順不同だ。

   @ある所でフサフサとした白い毛に覆われた可愛い犬に出合った。『可愛い犬を食用に売る場合には、高く売れるのでしょうか?』『ペットの犬は食べません。最近は法律で罰せられるようになりました。しかし、中国も南の方に行けば今でも犬を食べる習慣が残っています』

   A『中国の1人っ子政策が漢民族の間ではかなり徹底していることは日本でも有名だが、子供の男女比率を示すデータを見た事もない。家意識の未だ強い中国では、男児が女児より10〜20%も多いとも聞くが本当か?』『現在 800〜1,000万人位男児が多い』
                              
   中国人の平均寿命を65歳と推定すると、かつては毎年2千万人もの子供が生まれていた事になる。過去10年間にわたり1人っ子政策が厳密に実施され、子供の数が半減したとすれば、1億人の子供の内訳は男児5,500、女児4,500万人に割り振られ、『アンバランスな男女比』の噂は必ずしも大袈裟とは言えない。

   『結婚難が起きないか?それとも、兄弟が1人の女姓と結婚した昔のチベットのように、1妻多夫になるのだろうか?』『結婚への道は激烈な競争になると思います。女性の輸入も現実化するかも知れません。しかし中国では結婚難よりも、老人扶養問題の方がもっと深刻になりつつあります。子供が親を見捨てるのです』内心ではそうだろうなと思いながら、口では『親を大切にする儒教の国だから、そんな事は私には信じられないのですが』と言わずにはおれなかった。

   B『日本では老人問題を強調するために、60歳以上の老人比率を計算していると聞きました。中国では65歳以上の比率で計算します』『日本だけではなく、世界中どの国でも計算式は同じです。日本では労働者の定年は60歳です。その年齢と勘違いしているのだと思います』

   C『先進国には寿司がドンドン普及しています。あらゆる物を食材にしてしまう中国人なのに、寿司だけは何故食べようとしないのですか?』『文化が違うからです』と答えた人もいたが『私は寿司も刺身も大好きですが、値段が高いため諦めています』と正直に話したガイドもいた。寿司文化が発展途上国に普及するには、生物(なまもの)の食材が安全に供給出来るだけでは駄目なようだ。

   D上海では『バキューム・カーを全く見掛けないが、屎尿はどう処理しているのか?』『以前は未処理のまま配管を介して長江へ流していたが、今は浄化処理をして長江へ流している』と答えたが、とても信じられない。
          
   古くからの住宅街では道路に雨水を流す側溝すらなく、小雨が降っただけで水浸しになるような所に、屎尿用の下水道が埋設されているとは信じられないのだ。豊田市でもやっと数年前に下水道が部分的に開通したばかりだ。結局この謎は最後まで解けなかった。

   E『毛沢東・周恩来・ケ小平の3人をどう評価しますか?』誰に聞いても同じ趣旨の答えだった『一番尊敬するのはケ小平。周恩来は偉かった。毛沢東は晩節を汚した』

   F『4大古都の1つ、洛陽で起きた故事に因んだ表現“洛陽の紙価を高める=紙の価格まで高くなるほどのベストセラー”が日本では良く使われるが、中国人も使うか?』『そんな表現は知りません』と回答したのには驚く。中国のインテリも古典の勉強は余りしていないようだ。
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激変中の中国他

   戦後『**の奇跡』と言う表現は何度も繰り返された。最初に西ドイツ、続いて日本、アジアの4竜(シンガポール・香港・台湾・韓国)。この奇跡と言う言葉に長い間、惑わされていた。『特殊な条件に恵まれた国には奇跡は起きるが、普通の国には起きない筈だ』と勘違いしていたのだ。その揚げ句『**ごとき国が急に発展する筈がない』との間違った判断から抜け出せなかったのだ。

[1]変貌する大都市

   平城京や平安京のモデルであった長安だけが、碁盤目状の町になっていたかと誤解していた。前回の出張で見た、クネクネまがった細道だらけの上海市内の印象が強過ぎた。『中国最強の経済力を誇る上海ですらこの無秩序状態なら、その他の都市の混乱は押して知るべし』との偏見を持ってしまったのだ。

   中国各地の省都だけの地図帳を開けたら、殆どの町の道路は長安のコピーを連想するほどの碁盤目状になっていた。逆に上海だけが例外だったのだ。中国の歴代皇帝は立派な都市計画を実行していたのだ。台湾の大都市も碁盤目状の道路網が完備していたが、その謎が解けたような気がする。

   まして今日、土地が国有化されていることのメリットは限りなく高い。各大都市では、理想的な都市計画の下に古い家を撤去し、来るべき自動車時代を見越した真っ直ぐな碁盤目状の幹線道路を建設している。片側3車線の外側に街路樹を植え、そのまた外側に1車線幅の自転車道路、その外側に街路樹、さらにその外側に1車線幅の歩道がある。一方、千載一遇のチャンスだった阪神大震災の後ですら、都市計画がまともに遂行出来ない日本が情けない。

   これ程立派な道路がある都市は日本に殆どない。南京では台湾の大都市のように、道路に面した建物の1階の一部は歩道に解放していた。雨や直射日光を避ける事も出来る。この幹線に沿って、鉄筋コンクリートではあるが高層ビルが林立し始めている。ビルには大理石などの化粧板もふんだんに使われ始めた。近い将来、上海を嚆矢として中国各地の大都市が、香港・シンガポール・クアラルンプールにも負けない立派な町に変身するのは『火を見るよりも明らか』な勢いだ。

[2]自信溢れるホワイトカラー

   通勤時間帯、大通りを颯爽と歩くホワイトカラーの表情には自信が溢れている。歩行速度が速い。茶髪は規制されているのか見掛けない。無精髭も生やさず、華美ではなくとも清潔感を感じさせる身嗜みだ。人相が良くなった。ハンサムに感じる人が増えた来た。目付きが良い。大通りを歩いていても気持ち良く擦れ違える。

   同行者が期せずして同じ印象を語り合った。『中国人の方が日本人より大人だ』香港や台湾へ進出した中国人は甲高い声で、人の迷惑も顧みず、お喋りに夢中になっているが、大陸の中国人はびっくりするくらい物静かだ。街頭で口角泡を飛ばす風景は殆ど見掛けなかった。喧嘩を見掛けなかったのが不思議だ。『物言えば唇寒し』だった文化大革命の後遺症とは思えなくなった。上海で警備員らしき年寄りが、若者を叱り飛ばしていたのを目撃したのが唯一の体験だ。

[3]拡大する貧富の格差

   市場経済化は一気に貧富を拡大した。上海ではクーラーの普及率は44%にも達するそうだ。都市高速に面した古ぼけた住宅にも窓毎にクーラーが付いている。1軒に1台だと仮定すると、1軒は1部屋なのだ。8年前、瀋陽の集合住宅に立つ煙突の数で家族(軒)数を推定したのを思い出す。

   3種の神器も今は昔。現在の神器は『パソコン・電話・3つ目は聞いたけど忘れた』だそうだ。再開発済みのビル街の一角に立つとき『ここは中国だろうか?』と、ふと白昼夢を見ているような気がしてくる。しかし、壁一つ隔てた路地裏に回ると紛れることなき、気も遠くなり兼ねない、正視しがたい貧困の中国も健在だ。

   今回は純農村地帯を覗き観る機会はなかった。それでも空港からの移動中に時々それらしき光景が視野に入らなかったわけではない。その貧しいたたずまいは路地裏の都市の貧困者層と外見上の差はなかった。大都市の上位、1割の人々は、恐らく国民平均値の10倍の収入に到達していると感じられたが、ガイドの説明では彼等と雖も、自動車や30坪以上のマンションは高嶺の花らしい。都市住民の目標は15坪マンションだ。

[4]普及し始めたバイキング料理

   ホテルの朝食は5回ともバイキング料理だった。いくら美味しいと言われても朝から中華料理を食べたいとは思わない。バイキング料理は日本人にも西洋人にも抵抗なく受け入れられている。西洋系ホテルの典型である『ヒルトン』との違いは、洋風料理に加えて、中華式惣菜・みそ汁・お粥・各種の漬物も多く、更に選択肢が広がっていたことだ。

[5]食傷気味のシルク製品

   泊まった全てのホテル内の店、観光地の全ての御土産屋には必ずシルク製品があった。ハンカチから下着・寝間着・ガウン・ジャケット・大型の絨毯までシルク製品が溢れている。中国のどこでこれだけの生糸を生産しているのか、その情報が全くないのも不思議だ。本物だろうか?

   絹製品は洗濯が厄介だし、汗が出るテニスやゴルフウェアには不向きだし、日常生活では意外と不便なのだ。洗濯機で丸洗いができる 100%の綿製品が欲しいのに、利幅が薄いのか御土産屋には少ない。

   一方、ブームが去ったのか、カシミヤ製品は殆ど見掛けなかったのも不思議だ。日本人は『シルクロード』に限りない憧れを抱いているらしい。その延長線上に、シルク製品の商売が繁盛しているような気がしてならない。

[6]買い物

   今回も最初から何1つ御土産を買う気はなかったのたが、同行者の中に書道に凝っている人がいて、一所懸命に筆を探していた。大昔お見合い用の身上書を紹介者に毛筆で書かされた。その時の毛筆は、年賀状書きだけに使っていたが、穂先が大部摩耗していたのを思い出す。『軸は水牛の骨、毛はイタチが良い』と言う。私も釣られて3本セットを買う。これだけあれば、死ぬまで持ちそうだ。

   上海空港の免税店は大きくて綺麗になっていた。『酒以外の食料品にはトラベラーズチェックは使えない、現金取引だ』と予期せぬことを言う。洋酒は日本の安売り屋と変わらないので、買う気がしない。何にも買わないのも寂しいなと思っていたら、サントリーの『響き』が48$だった。               

   日本での定価は1万円だ。安売りでも9千円もする。ロイヤルサルートでも最近は1万円なので、響きの価格設定が異常と分かってはいるものの、儲かったような錯覚を楽しんで重たいのに3本も買ってしまった。         

[7]管理能力はいまいちか?

   中国全土は北京時間に統一されている。本当は東経 75,90,105,120,135度の5つの標準時間が欲しい。北京時間は日本より1時間遅れの東経 120度の時間だ。ガイドに『どうして北京時間だけしかないの?チベット人はそれでも12時に昼御飯を食べるの?』と質問。

   『標準時間を増やすと、鉄道の運行に混乱が起きる。チベットでは午前10時に会社は始業し、14時から昼休みです』と回答。アメリカにも大陸横断鉄道はあるし飛行機は飛び回っているが、夫々の地方時間が混乱もなく守られている。とすると、これは中国の管理能力が不足している証拠の1つだろうか?
        
   それにしても半分以上の国民が不自然な時刻の下で生活しているとは! シベリア鉄道も運営時間は1本に統一されているそうだが、これもロシアの後進性の現れか?

[8]がっかりした名古屋市

   上海や南京の高層ビル林が焼き付いている目には、ポツンポツンと僅か数棟の高層ビルしかない名古屋市の田舎ぶりには改めて驚く。上空から見ると何と平べったい町に見える事か! 中国だけではなく、アジアの各大都市に日本の都市は一気に追い抜かれるのではないかと思わずにはおれなかった。日本の豊かさはやはり名目上だったのか?それらしき豊かさの明らかな証拠が視界に入らないのが寂しい。
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おわりに

   一個人の努力だけで一国を正しく理解する事は所詮無理なことだと諦めるのは簡単だが、それでは旅行に面白さもなくなる。小さな国でも大きな国でも、今やどの国でも自国の歴史や文化を世界に向かって語り始めた。初回の訪問では見るもの聞くものの全てに興味が拡散し『**国とは?』との問に、自分なりの答を纏めることも難しかった。 
                               
   しかし、不思議なことに数年後に再訪すると、初回の疑問がドンドン解けて来る一方、新しい疑問もまた追加される。今回の中国旅行は、訪問地こそは初回と違ったが、中国人にはより接近出来たような気がする。日本語の分かるガイドや商人などにも直接質問出来たのがよかった。   
               
   8年前に仕事で来た時には、中国人との間には強い壁があった。中国人の生の声を聞きたくとも、当時は英語や日本語を喋る中国人は殆どいなかった。しかし、通訳を介して私的な質問をするのは憚られた。仕事に関係する質問でも、仕事にマイナスと感じた場合には、中国人の考えを聞いてくれる代わりに、自称中国通の日本人が自分の意見を講釈する場合が多かった。 
                
   今更、教科書に沿って古代から現代までの世界史を復習する気は起きないが、仕事や観光でスポット的に縁のあった国に関してはその都度、集中的に資料を集めて読むだけの準備は欠かしたくない。教科書の主テーマは政治史だが、そんな立場の情報は観光や仕事には余り関係がないように感じる。むしろ、文化・風俗・宗教・食料・料理・物産や庶民の喜怒哀楽と、日本の現実との対比にこそ深い関心が湧き上がって来る。

   大中国で、私にとって未だ全く縁がないのは『華南の水墨画の世界』と『シルクロード』である。今回は西安の西の城門から、遥かかなたにある筈のシルクロード(中央アジア)を拝んだだけだった。幸いなことに最近は、海外旅行の広告が毎日のように新聞に溢れている。定年になれば何時でも行けると言う最大の特権を活用すべく、割安なパック旅行に出会える日まで、焦らずにじっくりと腰を据えて機会を待つ積もりだ。

蛇足…油断・痛風の再発

   第1回目の痛風発作は8年前の 1989-7-24だった。原因は飲酒過多にあった。爾来、毎朝薄い紅茶を3g飲んでは尿酸の排出を促進。正味アルコール量はビール大瓶2本以下に制限し且つ、尿酸降下剤は飲み続けていた。定期的に尿酸値を測り、徐々に薬の量を落として来た。初期の頃の毎日3錠から5日に1錠まで落とせるようになったので、主治医(トヨタ記念病院副院長高松先生)は否定しても、病気は直ったも同然と思うようになった。

   その間、時に足の親指の付根の関節に腫れぼったい違和感を感じた時には、薬を即座に飲むと症状は半日以内に解消していた。車の運転から解放される海外出張やパック旅行中には『待っていました!』とばかりに飲酒量を増加させても、臨時処置として薬を毎日1錠に増やしていたら、大過なく8年間も過ごせた。

   今回も旅行中は、朝・昼・晩・夜と4回、楽しく酒を飲んだ。しかし、うっかり油断して薬は2日に1錠位にしていた。帰国後、4月2&3日は立食パーティだった。気楽に酒を飲んでいた。天罰覿面!

   4月6日左足親指の付根に軽い異常を感じた。『しまった!』と思って薬を6時間毎に飲んだが間に合わなかった。4月7〜10日の間、軽い腫れと痛みが継続した。最初の発作よりは遥かに軽かったがビッコを引いた。それ以降、やむなく飲酒量を大瓶1本以内に制限している。酒は飲みたし、痛風は怖し。人生は諦めが肝心か!?『神の鉄槌』からは『逃げるが勝ち』を結局は選択。


蛇足2…司馬遷の『史記』から抜粋

@ 春秋に富む
A 禍福は糾(あざな)える縄の如し
B神(しん=精神)大いに用うれば則ちつき、形(けい=体)大いに労(つか)るれば則ち弊(やぶ)る=心も体も使い過ぎると衰弱する=何事もほどほどに
C慈母に敗子(はいし=道楽息子)あり=母親が優しいだけでは育児に失敗する
D家貧しければ良妻を思う=生活が苦しくなると、妻の才覚に期待したくなる
E男は内(家庭)を言わず、女は外(仕事)を言わず=夫婦に役割分担あり
F刎頸(ふんけい)の交わり=生死を共にするほどの親交
G尾生(びせい)の信=ばか正直で融通がきかない
H泰山は土壌を譲らず、故に能くその大を成す。河海は細流を択ばず、故にその深きを就す
I智者も千慮に必ず一失あり、愚者も千慮に必ず一得あり
J燕雀安んぞこうこくの志を知らんや
K断じて行えば、鬼神もこれを避く
Lむしろ鶏口となるとも、牛後となるなかれ
M韋編三度絶つ
N嚢中(のうちゅう)の錐=優れた才能のある人は、すぐに世の中に認められる
O桃李もの言わざれども、下自ら蹊を成す
P月満れば則ち欠く=奢れる者久しからず
Q先んずれば則ち人を制し、後るれば則ち人の制する所となる
R王侯将相、いずくんぞ種あらんや=家系や血統ではなく、努力で到達
S民の口を防ぐは水を防ぐよりも甚だし=言論の抑圧は難しく、危険である
(21)網、呑舟の魚を漏らす=法律が大雑把だと大罪人も逃がす
(22)奇貨居くべし=奇貨は値上がりする=チャンスはうまく利用すべし
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