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旅行記
           
ヨーロッパ
ロシア(平成16年8月1日脱稿)

  ロシアは世界最大の国土と天然資源だけではなく千年を超える歴史にも育まれ、世界に冠たる宇宙科学技術・軍事技術に加えて、文学・芸術・オリンピック等にも輝かしい実績を残しながら、国民の生活水準は今尚、発展途上国並のままであるのは、一体、何故なのか?       
        
  長い間ロシア民族は極寒の自然環境と闘っただけではなく、異民族からは勿論のこと、あろうことかその時々の同朋の為政者による理不尽な支配にも苦渋させられ、時には何百万人もの餓死者すら発生し、ひたすら生き延びるだけの人生を送っていた。ロシア革命でやっと掴んだかと思えた幸せは、為政者の弾圧下に一瞬にして吹き飛ばされただけではなく、独ソ戦やその後に発生した米ソ間の冷戦負担に、ロシア人は国力の総てを注ぎ込まされて来た。

  『物言えば唇寒し秋の風』『長いものには巻かれろ』『触らぬ神に祟りなし』は世界の七不思議、我が人生観とは対極にある日本人特有の生活の知恵かと思っていたら、ロシア人こそそれを完璧に身に着けて生き続けていたと知り、予期せぬ分野での彼我(ひが)の共通点を再認識させられる旅にもなった。

  ソ連崩壊後やっとロシア人は自由を得たものの、超インフレにより年金制度は崩壊。74年という中国の2倍もの長きに達した共産主義時代の生活習慣は、市場経済化への柔軟な適応力を中高年から奪い去り、生活水準の低下の為か総人口は減少に転じ、不幸にも男女合わせた平均寿命は5歳も低下した。

  しかし、人生に絶望しているかのように感じられる無表情な高齢者とは対照的に、街中で時折見かける青少年の明るい立居振舞の中に、ロシアの洋々たる未来も微かではあるが感じ取れ、我が心はほのかに癒されたのであった。
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はじめに

   世界遺産(@自然遺産A文化遺産B前二者の複合遺産)は2004年現在788ヶ所も登録されてはいるが、数が増えるに連れて新規登録物件は小粒になり始めた。しかもその登録物件はキリスト教関係の只単に古いと言うだけの、いわば大同小異に過ぎない二級遺産が多く、我が関心とは乖離が感じられてきた。

   世界遺産人気が世界的に大きくなると、観光開発の目玉にしたいとの本末が転倒した不純な動機も強まり始め、私には世界遺産への畏敬の念が徐々に薄れてきた。その結果、限られた余生の中で何を見に行くかを考える時に、世界遺産リストは単なる参考資料に転落してしまったのだった。

   自然遺産への関心も何故だか低下してきた。何を見ても然(さ)して感動しなくなったのだ。地球科学や物理学、時には天文学などの初歩的な予備知識が災いするのか、意外感を味わえなくなったのだ。ハッブル望遠鏡で撮影した深宇宙の珍しい写真や、日食とか月食や流星群到来のニュースに無関心になったのも同じ心境だ。人間にはどんな分野でも初体験の感動の再現は、難しいどころか有り得ないと確信するようになった。

   一方、私には石油ショック後に中東やイスラーム世界への関心が俄に大きくなったのと同じように、ソ連崩壊後の旧共産圏諸国の行く末への関心も深まってきた。幸にも現役時代には中国やベトナムへ何度か出掛ける機会も得ていたし、定年退職後の平成14年には中欧の4ヶ国(ポーランド・ハンガリー・チェコ・スロバキア)にも出掛けてはいた。しかし人類の歴史に於いて20世紀以降、世界的な規模で甚大な影響を与えた共産圏の中枢国家ロシア抜きには、我が海外旅行も満願成就には程遠いと思わざるを得なかった。
   
   我が心の中で何時までも消え去らぬ海外への関心とは、『人間のひた向きな努力や、喜びとか悲しみ等が、その国、その町、その遺産の中にどのように刻み込まれているのか』を知るべく畏敬の念の元、現地現物に接しながら我が心の奥底深くに、過ぎし日の人々の営みを刻み込みつつ、一方ではその地の人々が、逃れることの出来ない過去の因縁を背負いながらも、未来を信じて懸命に生きている今日の姿に感動と共感を覚えたいことにある。
   
   今回のロシア旅行に関して言えば、
   
  • @ ロマノフ王朝時代のロシア民族の血と汗の結晶は、ロシア帝国の遺産としてどんな形で残っ ているのか
  • A ソ連崩壊後のロシアの市場経済は順調に立ち上がっているのか
  • B ロシア人の生活水準はマスコミの報道通りに低いのか
  • C ロシア人に宗教は復活しているのか

等を見極める喜びに浸りたくて、何がなんでも訪れたかったのであった。  
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出発まで

[1] またもや催行中止の憂き目

   人類史上最後の大戦と言われた第二次世界大戦後、半世紀以上も経つのに未だに不安定な政情は続き、その影響に曝(さら)されざるを得ない海外旅行には今尚ハプニングは付き物。
   
   3年前の2001年夏には、かつてのアケメネス朝ペルシャ帝国の繁栄が刻まれている世界遺産、ペルセポリス探訪を目玉としたイラン旅行を申し込み、ビザも取得し事前勉強も持ち物の準備も完了し、いざや出掛けんと心身ともに気合も十分入っていたのに、同年9月11日にニューヨークやワシントン等で同時多発テロが突然発生し、無念にも催行中止となったこともある。その結果、ビザ取得費用は丸損になった!

   がん寛解後の1年もつつがなく終わり、がんの後遺症(腹部の縫合線の痛み・食道内部の違和感・疲れやすさ等)も徐々に収まってきたので、命ある内に未知の世界に飛び出さんものと意気込んで各旅行社の資料を見比べ、阪急交通社の5/17出発の『エストニア・ラトビア・リトアニア・フィンランド・ロシア』合計5ヶ国巡りのパック旅行を申込んだ。豊田市立図書館からガイドブックなどを借りて全部読み終え、満を持して出発日を待っていたのに、直前になって参加者不足を理由とした催行中止の連絡が舞い込み、これまたがっかり。

   このような5ヶ国も巡るコースは、旅行人口の少ない中部圏では成立しない可能性が高いためか、名古屋空港発着コースでは計画されず、成田空港の発着のみだった。荊妻とは日程が合わせられず、一人部屋代金を追加しての単独参加だった。しかも、名古屋・成田間の国内線の運賃3万円も加算されるとは言え、がんが何時再発するかもしれないとの不安感が常時脳裏を掠めていたため、旅費への不満は棚上げにし、行けるときに行こうと決意したのだった。
   
   しかも念には念を入れるべく申し込み時に、申し込み者数が最も多かった出発日を選んだ。その時、催行の可能性は十分にある、との受付担当者の自信たっぷりな応対振りに安心もしていた。しかし、阪急交通社の集客力をもってしても、特殊なコースは参加者不足で催行中止になる場合もある、との苦い体験になった。

[2] 催行決定済みのコースから選んだ

   5ヶ国巡りの催行中止を受けて、急遽似たようなコースを探したら、近畿日本ツーリストの『世界遺産の宝庫“黄金の環”と美しきロシア7日間』を発見。過去の催行中止に懲りて、旅費が高くなるのも我慢して、催行決定済みのコース(5/28〜6/3)を選んだ。
   
   今度は幸いなことに名古屋空港発着、相部屋可能のコースで旅費面でも足の便でも助かった。大韓航空を使い、ソウル経由なのが多少気にはなったが、心配すれば切りがないので我慢した。以前からロシアへの関心が高かった荊妻は、私と日程の調整が再び出来ず、友人達と4人で催行決定済みのコース(9/17〜25)を申し込んだ。

[3] 事前勉強

   昨秋エジプトへ出掛けた時にも豊田市立図書館からガイドブックを多数借り出したが、その時の事前勉強はただ単に本を捲って写真を眺める程度で終わった。本文を読む気力・好奇心が何故か湧き上がらなかったのだ。

   しかし、今回は下記の書物(発行年代順に列挙)は合計厚さ18.5cmにも達したが毎日1冊ずつ取り上げ、最後まで読み終えた。気力と体力とは多少の関係があるように実感した。とは言うものの、狂牛病に罹って脳がスポンジ状になっているかのように、読んでも読んでも、残念ながら記憶には殆ど残らなかった。

@ サンクト・ペテルブルク探訪・1993−3−25。草の根出版会。2200円。
A ロシア・民族の大地・・・・1993−5−20。恒文社。9800円。翻訳物。
B ロシア・・・・・・・・・・・・・・1994−2−20。新潮社。3100円。
C モスクワ⇒ペテルブルグ縦横記・・1995−3−29。岩波書店。2200円。
D ロシア・・・・・・・・・・・・・1995−11−15。弘文堂。2575円。
E ロシア・トラベルジャーナル。1997-7-31。株式会社トラベルジャーナル。1700円。
F ロシア・・・・・・・・・・・・・・・JTB。2000−6−1。1750円。
G 現代ロシア見聞記・・・・・・・2000−10−30。三一書房。1800円。
H ロシア・・・・・・・・・・・・2001−4−20。山川出版社。1800円。
I 現代ロシアを読み解く・・・・・・2002−2−20。ちくま書房。700円。

[4] 事後勉強(ロシアで購入した日本語版)

   現地では下記の書物を買った。写真中心の解説書だった。旅行中に取れる写真の撮影場所には限りがあるし、室内でのフラッシュを禁止している対象も多く、手ごろな価格(何故かB以外はどの本も9$か1000円)だったので、躊躇することなく買い込んだ。ロシアの印刷技術は日本と然して変わらない。カラー写真は大変鮮明で実物以上に美しく感じた。

   観光客が多い主要国の言語(英・日・独・スペイン・仏など)に翻訳されたこの種の本は、世界各地の観光地で売られているが、印刷機械に取り付ける刷版(さっぱん。版下から作られる)の精度が悪いのか、カラー写真は発展途上国の場合、色が滲んでいる場合が多いが、ロシアの本はどれも素晴らしい出来栄えであった。しかも、ポルノ関連の本のようにフィルムで密封した状態で売るため、露天商から買っても本の美しさは同じだ。
   
   森の国でもあるためか厚めの上質紙を贅沢に使い、32ページしかなかったB以外はA4で各百数十ページしかないなのに、合計厚さは35mmもあった。

  @ サンクト・ペテルブルグ及びその郊外(ペテルブルグ創立300年記念)
  A エルミタージュ
  B 琥珀の間(エカテリーナ宮殿)
  C モスクワ
  D クレムリン

   本の販売価格は露天商でも博物館内でも差が殆どなかったので、買いたいときには即、安心して買った。露天商が観光客に本を売る場合でも、『買わないよ』と言えば、拍子抜けするほど素早く諦め、引き下がった。東南アジアや中東では追い払っても蝿のように売り子に付き纏われるのが常だが、こちらの商習慣は全く異なっていた。その代わり、値下げ交渉は無視された。言い値が不満ならば買わなくとも良いという態度だ。ソ連時代の国営商店時代の習慣がきっと残っているのだろうと推定した。

[5] 総費用・・・・・・・・270580円

@ 旅費・・・・・・・・・249000円
A ビザ・・・・・5000円+4200円(税込み手数料)
B 国内外の空港税合計・・・・2380円
C バレー観劇・・・80$(10000円)

[6] 参加者27人(男性9人・女性18人)

   単独(相部屋)参加。・・・男性3人、女性3人
   グループ参加。・・・・・・夫婦6組、何組かの女性グループ合計9人

   参加者の殆どは60歳以上。50歳代は女性グループに数人いただけ。

[7]相部屋の割り振り方

   過去にも相部屋で参加したことが2回あった。1回目(中欧)は私一人、2回目(エジプト)は2人だけの参加だったので、部屋の割り付け相談は不要だった。しかし今回は3人だったので、添乗員から籤を引くようにと指示された。大変公平な方法である。

   全部で僅か5泊だったが、宿泊日の初日から1,2,3,1,2と数字を割り付け、3人が数字の1,2,3を籤で引いた。私には2が当たった。その結果、2日目と5日目の2回は単独で宿泊。その他の日には残りの参加者と同室になった。なお、4日目は寝台列車であった。

   結果的には、話し相手がいる日の方が楽しかった。一人で宿泊するのは、海外出張では何度も体験したが、無駄話の相手もいないので退屈なだけではなく、孤独感に襲われて虚しかった。相部屋の唯一の欠点は、風呂・洗面所・トイレが同時には使えないことだが、夫婦で旅行しても避ける事はできず、本質的な問題とは思えない。
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トピックス&ロシア愚考


 今まではロシアとかソ連に関しては、世界史の教科書の一節とか新聞・テレビなどからの断片的なマスコミ情報にしか接していなかった。しかし、この機会にロシア関連の本を旅行前に濫読した結果、様々な話題を目にすることになった。

   それらや、今回の旅行中に私が興味を感じたものの中から若干の項目を取り上げ、順不同のままメモ書きした。尚蛇足ながら、この追憶記はガイドブックの要約版を書くつもりは無く、私が何に関心を持ち、何を感じたかを書き留めるのを目的としているので、ご興味のないところはご自由に飛ばし読みをされたい。

[1] ロシアを世界一の大資源国と無条件に評価するのは正しいか?

   今回読んだどの本にもロシアは世界一の天然資源国だ、と書かれていた。長い人生を完璧主義に徹して生きてdきた私には、この説明は余りにも雑すぎるとの不満を、最後まで消せなかった。
   
   @ 地下資源の埋蔵量は第一次の近似で言えば占有土地面積に比例するから、たとい未だに無調査の資源であろうとも、世界一と結論付けるのは必ずしも誤りとはいえないが、無意味な情報だ。

    私が知りたいのは、世界の陸地面積(地下資源量が不明な南極を除外すると、13536万平方キロメートル)に占めるロシア(1707万平方キロメートル)の面積比率(12.6%、世界の約1/8)よりも、各種の個別資源が多いのか少ないのか、であるにも拘わらず、その視点からの定量的な解説データは絶無だった。つまり、何らの付加価値もない解説なのに、意義ある情報を書いているかのごとき態度が著者に散見されるのが無性に不愉快だったのだ。
    
   A たとい資源量が土地面積の相対比率よりも高かったとしても、それを採掘し消費地まで運んだ時の原価が海外各国の資源を輸入した時の価格よりも安くなければ、その資源の存在価値は無いのも同然である。この点に関する資料ともなれば正しく絶無だった。

   シベリア各地の地下資源の採掘に関わる労働環境の苛酷さ、それらに伴なう労務費の負担増(ソ連時代は原則として一般地域の2倍)は述べるまでも無い。結局、ロシアの天然資源で国際競争力があるのは、パイプラインが使える結果、搬送費が安くて済む原油と天然ガス、伐採が容易な木材が主だ。大平原があるにも拘らず、主食や家畜の飼料すら一部を輸入に頼らざるを得ない国なのだ。
   
   日本では原発は大都市から離れた僻地の臨海部に建設された。しかし、1993年末現在ロシアで稼動中の29基の原発は、冷却水の地域暖房への利用も目的としてモスクワやサンクト・ペテルブルクなどを初めとした都市部(9都市)に総て建設されている。大資源が消費地である大都市周辺にないためであるという。これではエネルギー資源の点では実質的には無資源国の日本と何ら変わらないことになる。

   ロシアの石炭産業には、露天掘りが主力のオーストラリアやブラジルほどの国際競争力は無く、金(きん)など特殊な資源に限れば国際競争力はあるものの、その産出金額は僅か。世界の金の8%を産するとは言え面積比率よりも低く、1993年は132トン。1グラム1400円としてもたったの1848億円にしかならない。
   
   一方、黄金の国ジパングはその名にも恥じず、世界の金の累積生産量14万トンに対し、1500トンも産出。面積比率は0.27%だが、産出比率はその4倍の1.07%もある。
   
   我が祖国、岩手県松尾村には大正3年に採掘を開始した松尾鉱山があった。かつて昭和41年には硫化鉄鉱68万トン、翌42には精製硫黄10万トンを産し東洋一を誇った。しかし、原油の精製過程で不可避となった脱硫装置から回収された只同然の硫黄に押され、昭和47年にあっけなく閉山に追い込まれた。
   
   私は閉山日に、最終業務を終えて地底からトロッコで出てきた筋骨逞しい鉱夫達が無念さにむせび泣く姿をテレビのニュースで見て、悲しみを抑えることが出来なかった。それでも、鉱毒水で死の川と化していた北上川が昔の清流に戻ったことに、今では僅かな救いを感じてはいるが・・・。

   日本人に資源大国ロシアを羨ましがらせるような情報の書き方には、結局の所、不快感のみが残った。

[2]大河

   ロシアにはエニセイ(5540Km、世界5位)オビ(5410Km、7位)レナ(4400Km、11位)を初めとして長大な河川も多いが、冬期は凍結し、欧州のライン川やドナウ川のような物流河川としては、あまり役立たないどころか、東西の物流には障害にすらなっている。
   
   そんな中で欧州では最大であるばかりか、漁業資源だけではなく、河川物流にも役立ち、最終的にはカスピ海に注ぐヴォルガ川(3530Km、23位)は、異色の存在である。
   
   尚、この川は外洋に河口を持たない世界最大・最長の内陸川でもある。2位の内陸川はアラル海に注ぐウズベキスタンのシルダリア川(3019Km、30位)。こんなデータに接すると、未だ見たこともない日本の信濃川(367Km)が、大蛇と比べれば青大将のような存在にしか思えず、無性に愛しくなる。

[3] 白夜

   5月末からサンクト・ペテルブルクは白夜の季節に入ったと、ロシア人ガイドは誇らしげに且つ嬉しそうに説明したが、少しオーバーだ。サンクト・ペテルブルクは北緯59度57分。地軸の傾斜角度は23.45度なので、太陽が沈まない夜を白夜と言うのであれば、北緯66.55度以北にしか白夜はありえないことになるからだ。

   しかし、真夜中でも程ほどに明るければ白夜と言っても良いのであれば、サンクト・ペテルブルク辺りでも夏至近くになれば白夜に近い。ガイドの立場では、白夜を強調したくもなろうというもの。事実、真夜中でも外は程ほどに明るかった。ホテルのカーテンの遮光性能は完璧だった。気温は20℃を超えてはいても北国だとの実感が迫る!
   
   白夜という言葉にはロマンも感じられて人口に膾炙しているが、その反意語の『極夜(きょくや)』と言う単語を知る人は少なく、広辞苑(我が蔵書は第一版)編集者からは哀れにも無視されたのか、見出し語にも採用されていない。『黒昼』と言わないのは日本語への翻訳発案者が、極地の現象にせめてもの敬意を表していたからであろうか?
   
   夜のショーである『サーカス』や『バレー』を見終わって、外へ出た時、白昼夢に襲われたような気がした。かつて現役時代、係長に昇格以降毎年一回開催されていた観劇会(係長会主催など・・・)で、名古屋市内の劇場(大抵は御園座だった)に出掛けていた。21:30〜22:00頃に劇場から外へ出ると、真っ暗な夜だった。
   
   所がロシアでのショーが引けて外へ出ると、西の空には太陽が輝いていた。外の方が断然明るい世界へ出ると、パブロフ(ロシア人)の条件反射の世界に生きていた私には、ヤヤッとの驚きが脳裡を掠めた。

[4] 何と、蚊が多かった。

   ある時、モスクワ周辺の観光地めぐりの折、専用バスの中に蚊が入り込んできた。最終日にサンクト・ペテルブルクで泊まったヒルトンクラス、5つ星の素晴らしいホテルには、電気蚊取り線香と一日分の固形薬剤が用意されていた。高級ホテルだからこそ、蚊取り線香のサ−ビスがあったのだ。世界に冠たる一国の首都モスクワなのに、初日の低級ホテルにはそのサービスすらも無かった!

   スエズ運河の開通に成功したレセップスが、パナマ運河の開削で失敗したのは蚊の襲来によるマラリアの蔓延だったが、幸にもロシアはマラリアの棲息北限地の遥か北に位置している。蚊に刺されても心配無用と頭では認識しても、嫌なものは嫌! 何故北の国のロシアにも蚊が多かったのか、我が観察推論結果は下記の通りである。

   モスクワ周辺は限りなく平坦な大平原になっている。機上から下界を眺めると、眼下に広がるのは果てしなく続く原生林。そのほんの一部を乱開発して都市が建設されている様子が即座に理解できる。

   ロシアでは原生林と言っても日本の原生林、例えば屋久島や白神山地とは対照的な地形だ。日本の原生林は山にあり、山には必ず斜面があり、斜面の下には谷川が発生し、その先は自ずから川となる。
   
   一方、ロシアの原生林は平原にあり、雨が降っても水が流れないのだ。したがって自然の川は殆ど見かけない。河川密度は山国日本と比較すれば格段に小さい。しかし、道路から原生林をよくよく眺めると、原生林は完全なる平面ではなく、高度差1m以内の凸凹が随所に見受けられる。結局の所、林間のあちこちにある低地は水溜りと化していた。これこそが蚊が発生する主原因である、と断定せざるを得なかった。

[5]東ローマ帝国を継承

   1462年に即位したイワン3世は1453年に滅んだビザンツ帝国最後の皇帝の姪と1472年に再婚し、ビザンツ帝国の紋章、双頭の鷲を自らの紋章にした。と同時にビザンツ皇帝とモンゴルのハンのみが使っていた『ツァーリ』の称号を使い始めた。
   
   ツァーリとはラテン語のカエサルに由来し、皇帝を意味している。

[6]ロシア人がロシアを支配した期間は意外に短い。

   @ ロシアのある建国伝説では、氏族間の争いが絶えず、とうとうノルマン人に『こちらに来て、公となって私達を統治して下さい』と頼み、882年に『キエフ・ルーシ』が誕生したことになっているそうだ。キエフはソ連では人口3番目の大都市、現在はウクライナの首都である。

   A 1237年にモンゴル人が侵入し、モスクワも支配。爾来、タタールの軛(くびき)と言われ、1380年にモスクワ大公ドミトリーがドン河畔でタタール軍に大勝するなどしたが、250年ものモンゴル人の支配から完全に解放されたのは、1480年モスクワ大公だったイワン3世がモンゴルに対し大勝利を収めたときからである。

   B 偽者ドミトリー事件。1601年は冷夏。モスクワ公国では1/3も餓死。皇太子ドミトリーは死んだ筈なのに民衆は、皇太子は生きていて、自分達を救いに来ると期待していた。1604年ポーランドの一青年が自分は生き延びた皇太子ドミトリーだと名乗り、民衆に浸透していた『救い主ツァーリ』の観念を利用し、貴族の支持の元に、とうとう1605年7月21日に皇帝ドミトリーの戴冠式が行われた。

    しかし、偽者とわかって1606年5月17日に殺された。こんな偽物事件が起きた国は主要国ではロシアだけだ。こんな事件が起きた背景には、他民族に支配され続けていた結果、ロシア人には為政者の出自が何であるかへの関心が薄くなっていたのであろうか?

   C 1608年6月には第2の偽ドミトリーが現われて実権を握ったが1610年に殺された。第2の偽ドミトリーを担いでいたポーランド軍は、モスクワ解放軍によって1612年追放され、1613年にロシア史上最強のロマノフ王朝が成立した。

   D ロマノフ王朝時代、歴史上特に有名なエカテリーナ女帝はドイツ人である。

   E スターリンすらロシア人ではなく、グルジア人である。

   大国でそれを構成する主要民族がその民族出身者によって統治され続けた長い歴史を持っている国は意外に少ない。ロシアだけではなく、アフリカなど植民地化された国以外でも、例えば中国は漢民族以外(元や清など)に支配されたこともあるし、インドの主要先住民は侵入してきたアーリア人に今尚実質的に支配され続けている。日本は寧ろ世界史的に見れば例外だ。

[7]民族

   民族の定義は色いろある。例えば新明解国語辞典では『人種・言語・文化などの観点から見て一まとまりであるとされる人々』と、三要素が必須なのか一要素でもよいのか否かも不明なほど、不明解に解説しているが、ロシアでは簡単明瞭だ。

   ロシアの民族は言語のみで分類され、100以上も存在している。この考えは古来、他でも良く使われた。ローマ帝国が東西に分裂した時の境界線は言語で決められた。西はラテン語圏、東はギリシア語圏だった。現在のインドの州は言語で決められているから、言語州制度といわれている。

[8]偉人

   ロシアに関係した世界的な有名人も数知れない。

@キリル&メトディス兄弟(863年キリル文字のルーツを考案)
Aハバーロフ・・・・(1600年代の探検家・ハバロフスクの由来)
Bベーリング・・・・(1681〜1741・デンマーク出身・ベーリング海峡の由来)
Cトゥルゲーネフ・・(1818〜1883・猟人日記・父と子)
Dドストエフスキー・(1821〜1881・罪と罰・カラマーゾフの兄弟)
Eトルストイ・・・・(1828〜1910・戦争と平和・アンナカレーニナ)
Fメンデレーエフ・・(1837〜1907・周期律の発見=1869/3)
Gチャイコフスキー・(1840〜1893・白鳥の湖)
Hチェーホフ・・・・(1860〜1904・桜の園)
Iティモシェンコ・・(1878〜1972・材料力学、私にとって座右の参考書の著者)
Jパステルナーク・・(1890〜1960・ドクトルジバコ)
Kコンドラチェフ・・(1892〜1938・長期景気周期は質の変化に連動)
Lイリューシン・・・(1894〜1977・世界初のジェット爆撃戦闘機の開発)
Mオパーリン・・・・(1894〜1980・生命起源の仮説=1922年)
Nルイセンコ・・・・(1989〜1976・環境が遺伝に影響する。後年に否定された)
Oショーロホフ・・・(1905〜1984・静かなるドン)
Pガガーリン・・・・(1934〜1968・地球は青かった=1961年4月12日)

[9]ニコライ2世

   ニコライ2世はロマノフ朝最後の皇帝であるが、日本史にも出てくる有名人物だ。皇太子時代の1891年に来日。5月11日午後1時30分過ぎ、滋賀県大津市で皇太子を乗せた人力車が通ると、挙手をしていた津田三蔵巡査が、急にその手を下ろしてサーベルを抜き、額を切り付け2ヶ所の軽傷を負わせた。
   
   2日後、明治天皇はお見舞いのため東海道線に15時間(今では最速だと2時間21分)もお乗りになり、煤煙で真っ黒に煤けたまま京都の宿舎に皇太子を訪ねられたご努力もあって、ロシアの怒りはやがて沈静化した。日本中を震撼させたほどの大事件だ。
   
   津田巡査は、ロシアの強圧的な態度に反撥し、『彼の心を寒からしめんとせり』とその動機を述べている。1914年6月28日、オーストリアの皇太子フェルディナンドがセルビアの青年に狙撃され死亡した事件を契機として、1ヵ月後の7月28日に第一次世界大戦が勃発した時代を思えば、当時の日本政府が日露戦争の引き金になることを恐れたのは、当然の判断であった。
   
   軍事大国ロシアに配慮した松方内閣は『皇室罪』を適用して死刑にせよと大審院に迫った。しかし、事件の3日前に大審院院長に就任した児島惟謙(これかた)は三権分立の信念を貫き通し、皇室罪の適用は我が国憲法を破壊して、裁判史上の汚点となると考え、無期懲役にし、司法権の独立を保持した。

   その後、津田三蔵は4ヶ月絶食して病没。ニコライ皇帝はロシア革命で1917年3月退位させられ、1918年処刑(銃殺)され、303年続いたロマノフ王朝は滅亡した。このロマノフ王朝と我が徳川時代とは奇(く)しくも大部分が重なる時代でもあった。

[10]漂流民

   日本では、1841年に14歳の時に足摺岬で操業中に漂流し、鳥島で米国の捕鯨船に救出され、米国に渡り教育も受け、後年『日米和親条約』の締結交渉で活躍したジョン・万次郎が有名だが、鎖国時代にロシアに漂着した後、日ロ関係で活躍した日本人も多い。彼らの功績が余り知られていないのは何故だろうか?

   @ ゴンザ

   ゴンザは薩摩地方の漁師で、11歳の時(1729年)、乗船していた船が難破して、カムチャツカに漂着した。当時ロシアは、日本との通商を望んでおり、漂着民を保護すると、首都サンクト・ペテルブルクに移送して、日本の情報を得ようとしていた。

   首都に移送されたゴンザはロシア語を学び、僅か17歳で1736年に科学アカデミーに設立された最初の日本語学校の教師となった。その後、ゴンザは1739年に21歳の時に異国で不運にも没した。

   ゴンザは死亡する少し前、18歳から20歳の間にボクターリフと協力して1738年には世界初の露日辞典『新スラブ・日本語辞典・約12000語を収録』を編纂した。自由と言う言葉もあり、哲学の意味として『学者スルコト』、女郎屋は『ワルカコトスルトコロ』と解説しているそうだ。現在、モスクワだけでも美女は4万人もいるそうだが、残念ながら今回の旅でも毎夜オプションに参加した結果、会いに行く時間は取れなかった。

   当時の辞典の内容を編集した『新スラヴ・日本語辞典の日本版』から、日本語訳を拾い読みするだけで、ゴンザの苦労とともに、その生活といったものまでもがかいま見えてくるそうだ。

   A 大黒屋光太夫(1751〜1828)

   1782年駿河湾沖で遭難。8ヶ月の漂流後アリューシャン列島アムチトカ島に漂着。この孤島に4年間暮らした後、バイカル湖の近くイルクーツクへ。

   イルクーツクではキリル・ラックスマンの愛顧を受け、シベリアを横断してサンクト・ペテルブルクのエカテリーナ女帝に謁見。彼女の手に接吻を許可され金牌を賜わる。

   漂流10年後に、日本との通商を開くことを条件に女帝の許可を得て根室に帰国。帰国後将軍徳川家斉に拝謁を許可された。ロシア事情を書いた著書もある。当時の日ロ交渉を影で支えた偉人だ。日本史の教科書に登場しないのが不思議だ。

[11]黒い人

   ロシアから見れば陸続きで今尚実質的な植民地である、アゼルバイジャン・アルメニア・グルジアなど、カフカス地方出身者に対して使われている言葉に『黒い人』がある。ロシア人(スラブ人)よりは肌が浅黒いことを理由にした人種差別用語だ。  

   人類はアーリア人がインドに侵入した昔から、愚かにも皮膚の色で差別するようになった。何処でもいつでも白が上、黒が下に見られる理由はなんだろうか? 価値観を黒が上と逆転させる方法は無いものだろうか?

   しかし、人類における差別問題は、皮膚の色素分析だけではなく、もっと普遍的に存在する厄介な問題だ。アメリカでは同じ白人でもWASPが最上位に君臨している。人には、下には下があるとの秩序を確立して、無意味な幸福感に浸る習癖があるようだ。士農工商にしてもしかり、同和問題にしてもしかり、男尊女卑にしてもしかり、選挙権が国民に遍く認められるようになったのは各国とも最近のことだし、セクハラも同じ意識下に発生しているような気がしてならない。

[12]殺人や自殺
   
   ブレジネフ時代の後半、お金目当ての殺人は僅かに6%。一方妻殺しは15.8%、酒に酔って喧嘩になり、気がつくと殺していたと言った理由不明な偶発的な殺人は52.5%。
   
   殺人手段はナイフ・包丁・斧などの刃物が50.3%、ピストルなどの銃器が21.3%、絞殺は1件も無い。社会主義時代の荒廃した人間関係から生まれた粗暴犯罪だそうだ。
   
   日本の自殺者は1980年代には2万人前後だったが、バブル崩壊後は急増して3万人を突破。2003年は前年より2284人も増加して34427人となり新記録。しかし、日本よりちょっとだけ人口が多いロシア(2002年、14518万人)は1990年では4万人、1991年には何と6万人に急増。たったこれだけのデータからでも、自殺の動機が所得の絶対値ではなくその変化率にあるのは明白だ。

   マスコミは交通事故死対策を何十年も自動車業界に求め続けているが、その数倍にも達している自殺者対策をこそ、政府と一体となってもっと取り上げるべきだと思っている。しかし、大組織の会社方針に染め上げられた記者は視野が狭くなるのか、話題に窮すると書き易い問題を性懲りも無く取り上げる傾向がある。

   定年後は暇になったのにテレビや新聞に接する時間は逆に減少、また減少。半世紀以上も読み続けた朝日新聞も一年前から購読停止。唯我独尊に落ち込み、自己反省能力を喪失した輩と付き合うのは人生の無駄と、馬鹿を自認している私は、この歳に至ってやっと気がついたのだった。

[13]資本主義的経済犯罪
   
   かつてソ連には『投機罪』なるものが存在していた。投機とは商品の転売によって利益を得る行為、例えばセーターを5着買って転売し利益を得た場合にも処罰された。
   
   市場経済下では単なる経済活動であるが、社会主義社会ではこの種の不労所得は犯罪とされていたのだ。

[14]都市は日本よりも美しい!

   モスクワもサンクト・ペテルブルクも町並みを見ていて疲れを感じることが少ない。只単に、電柱や電線、広告やネオンサインが少ないからだけではない。大通りに沿って建ち並ぶ建築物が程ほどに大きいのだ。道に沿った長さは短くとも50mはある。

   石造りや鉄筋コンクリートの中低層ビルは高層ビルとは異なり圧迫間が無く、疲れを感じない。あるところでは、欧州最長と称する長さ600mのビルもあった。同じ形の柱と窓が600mも続くと、眺めていて疲れないだけではなく美しく感じる。しかし、長すぎる建物はいわば壁みたいな一面がある。ビルの裏側に行く場合、大きく迂回させられるからだ。

   日本は土地の所有権が保護され過ぎた結果、敷地が細分化され、断面積の小さなビルがくっつきあって建ち並んでいる場合が多い。その結果、せせこましく、ゆとり観も無く、エゴイスト同士の闘いを目撃しているようで疲れてくる。その典型例は東京の銀座通りだ。   

[15]欧州の猿真似文化

   サンクト・ペテルブルクの町並みを見ると、ある時にはイタリアのヴェニス、ある時にはドイツやフランスかと思いたくなるほど似た場面に出くわす。それには、ちゃんとした理由があった。
   
   サンクト・ペテルブルクはピョートル大帝によって建設された。この場所はスウェーデンとの北方戦争(1700−1721年)で勝ち取り、バルト海に面し『ヨーロッパへの窓』として開かれ、約200年間もロシアの首都になった。市名はピョートル大帝と聖使徒ペテロに由来する。
   
   欧州の文化に憧れていたピョートル大帝は都市建設にあたり、アムステルダムをモデルに多数の運河を配し、欧州から大勢の建築家を招いた結果、欧州そのものに思えるような町になったのだ。

[16]金箔偽物文化

   今回訪問した建物は教会の葱坊主の屋根だけではなく、各宮殿などの外壁にも金箔がふんだんに貼られていた。また金箔を全身に貼られていた人物の彫刻も多かった。由緒ある建物の場合、その内部でもいたる所に金箔が貼られていた。ロシア人ガイドは金色を見るたびにあれも金箔ですと例外なく強調した。

   しかし、私はそのガイドの説明には疑問を感じた。ほんの僅かの物件には本物の金箔が貼られている、とその輝きから判断したが大部分は偽物と断定している。色に艶が無く、光の反射率が低い。表面には雪の結晶のような形をした黒ずんだ錆が点在している。建物内の金箔が貼られていると称した窓枠や柱に近づいて凝視すると、筆で塗ったようなはみ出し部の痕跡が残っていた。金色(きんいろ)の合金の粉末や塗料を使っているのは明白だと判断したのだ。   

[17]地域集中暖房

   ロシア各地の火力発電所は意図的に都市内に建設され、蒸気タービンの冷却水が地域暖房に使われている。道路に沿うがごとくのように温水のバイプラインが敷設されていた。温水のパイプは断熱材で覆われているから、直径は30〜50cmもの大口径が多かった。パイプラインが道路を横切る場合は、横断歩道橋のような門型に持ち上げ、道路を跨いでいた。中心街に近づくと、地下に埋設しているのか、石油化学工場のような目障りな配管は見かけなくなった。

   モスクワなどの大都市では一戸建ちの民家は絶無に近く、皆集合住宅だった。51歳になるという航空工学出身の元エンジニアのガイドに、

   『温水パイプは何時も一本しか見かけないが、復路のパイプはどこにあるの? 温水パイプはいわば動脈。末端の家の放熱機まで送られた後、温度が下がった温水を静脈のように回収して、発電所まで送り届けていると思うのだが。それとも温水は末端で捨ててしまっているのですか?』

   『温水の一部は風呂とかのお湯としても使っていますが、残りの大部分は発電所に戻ります。でも、どんな方法で回収しているのかは、知りません』

   ロシアの大地は広大だが、地域暖房網の効率も考えているのか、15階前後の大型住宅が密集して建てられている。数Kmは軽く越えると思われる温水配送に要するエネルギーや放熱ロスがどの位に達するのか、私には見当もつかない。我が家の小さなセントラルヒーティングですら、冷温水循環ポンプは1馬力もある。一軒に付き1馬力必要と仮定すると、モスクワだけでも300万Kw、大型原発が3基も必要になるのだが・・・。

[18]鉄道

   @ ターミナルの駅名

   JR各社には、欧州各国では普遍的に見かける巨大なターミナル駅を感じさせる始発駅は少ない。東京駅のホームの大部分は通勤通学電車の通過駅に過ぎないし、西の拠点となっている博多駅も九州新幹線の全線開通に時をあわせて大改築され、新幹線ですら始発駅の2面ホーム4線から3面6線の単なる通過駅に変わってしまう。

   東京や大阪の環状線の駅と接続している私鉄各社の郊外電車の始発駅は文字通りのターミナル駅だが、通勤通学電車のイメージが強く、長距離列車の始発駅に強く感じる旅情などは全く無い。しかし、モスクワ・ロンドン・パリ・ローマ・イスタンブールなどには、長距離列車の始発駅となっているターミナル駅が都心近くに存在している。

   このターミナル駅の名前の付け方に、ロシアではユニークさがあった。終着地の都市名がつけられているのだ。サンクト・ペテルブルク行きのモスクワ市内の始発駅名はレニングラードだった(ソ連崩壊後、レニングラード市はサンクト・ペテルブルクに変わったためか、オクチャブリ駅に改称されたが、何故サンクト・ペテルブルクにしなかったのか、確認するのを忘れてしまって残念)。キエフ方面行きのモスクワ駅名はキエフ。モスクワ行きのサンクト・ペテルブルク駅名はモスクワである。何とわかりやすい名前であることか!

   石川啄木が『故郷の訛り懐し停車場の、人ごみの中にそを聞きに行く』と、かつて詠ったのは旧国鉄では最もターミナル駅らしい上野駅だったのだろうか? 上野駅の名前が青森か岩手ならば九州出身の私にも、もっと臨場感が溢れるような気がするのだが・・・。

   A ゲージ(線路の幅)

   ロシアの鉄道のゲージは欧州にあっても何故か国際標準軌(新幹線でも採用された、4フィート8インチ半)ではなく、ジャスト5フィートの広軌である。これならば走行安定性にも一層優れ、高速運転が容易と思えるのだが、路盤の管理が不十分なのか、レールの品質が悪いのか、必ずしも乗り心地は良くないらしい。

   かつてトヨタ自動車では、シベリア鉄道の利用価値を評価するために、自動車部品を欧州に試験的に輸送したら、コンテナ内の段ボール箱が破損し、荷痛みが激しく諦めたそうだ。いくら輸送費が安くても、肝心の商品が破損するのでは・・・。

   B シベリア鉄道

   ロシアには11もの標準時間があるが衝突防止のためか、シベリア鉄道はモスクワ時間で運行されている。そのため、普通の感覚では時計を2個並べるのに、ハバロフスクの駅舎の時計には針が何と3本もあるそうだ。
   
   長針(ロシアではどの標準時間の場合でも、長針の位置は同じ)は分を表すが、現地時間とモスクワ時間を表す短針が2本。他の駅の時計はどうなっているのだろうか?

[19]教会

   988年、キエフ・ルーシのウラジーミル大公はキエフの支配者としての権力を権威付けるべく、当時の原始多神教を廃止しギリシア正教を国教として取り入れた。葱坊主の形は火焔をあらわし、教会内での聖霊の活躍を象徴している。

   当初、葱坊主は一つだったが、17世紀の教会改革者ニコン主教の命令で、イエスを現す大きな葱坊主を中心に福音書を記した4使徒を象徴する4つの葱坊主がそれを囲むように作られるようになった。

   葱坊主の天辺に飾られる『ロシア十字架』はカトリックと形が異なり、十字架の横棒の上下に短い横棒がついている。上の横棒はキリストの額に打ち付けられた『我はユダヤの王』と記した板を、下の板は足台を表わしている。

[20]インフラ未整備

   ロシアには未だに高速道路は全く無く、在来線での高速化も全く進んでいない。いわんや新幹線はない。アジア各国の大都市で普遍的に見かける重量鉄骨作りの超高層ビルは一つも見かけなかった。都市内の道路ですら雨水用の側溝も少ない。

   ロシアでも富裕層は自家用車を持ち始めたが、冬期には悲鳴を挙げるそうだ。融雪剤と泥濘に覆われた側溝のない道路を走ると、洗車しても50mで車は元の木阿弥になるとか。さもありなんと、思った。

   1917年にソ連が成立して以来、5ヶ年計画で重化学工業化を背景にして軍需産業は大発展したが、後回しにされたインフラの整備は国土が広いだけに大変な負担が予想される。平時ならば大抵の国は国民総生産の20〜30%は国民生活の向上に繋がる分野(公共投資、インフラの整備、民生品生産の工場建設など)に使っているのに、米ソ冷戦の下、国の余力の総ては軍備に投入し、生活水準の向上には一切使われなかったのだろうか?

   ナポレオンのロシア侵攻は自然の防波堤、冬将軍によって撃退されたが、ヒットラーはソ連のインフラに撃退されたとも言われている。第二次世界大戦当初、ドイツの戦車部隊は短期間に欧州の隣接国は占領できたが、ソ連の道路はドイツの戦車の運行には耐えられず、それが戦車による侵攻を阻止したとは、何と言うヒットラーの誤算!

   ロシア人ガイドに『かつてフルシチョフは自信たっぷりに、ソ連は10年でアメリカに追いつき追い越せると発表したが、国民は信じていましたか?』と質問したが、苦笑いをしただけで、とうとう答えなかった。

   国際標準軌の在来線があるからというだけで、最新型の高速鉄道車両を投入すると何が発生するか、火を見るよりも明らかなのに、無謀にもトルコは本年6月に入り実行してしまった。去る7月22日にイスタンブールとアンカラを結ぶ幹線鉄道で、時速150Km運転を目指した旅客列車が時速132Kmに達した時に横転事故を起こし乗客240名中36名が死亡した。中国は300Km級の新幹線の新設と並行して、在来線の200Km化を計画しているが、何時の間にかロシアを追い越す勢いだ。

   私は15年前に、イスタンブールとアンカラを結ぶ欧州国際道路(E5と言った)を何度も車で行き来したが、一部の山岳地帯(トルコの国土の2/3は海抜600〜800mのアナトリア高原)では舗装すら不十分、並行して走る鉄道は車に追い越される鈍足列車だった。この在来幹線鉄道を高速化するには、列車運行の自動制御装置の導入以前に、曲率半径を大きくすべく一部の路線は新設し、路盤整備をやり直し、レールと枕木を取替えざるを得ないのに! シベリア鉄道を初め、ロシアの幹線鉄道の高速化には気も遠くなるほどの資金が必要だ。

[21]公衆トイレ

   ロシア人はどこで生理的現象の後始末をしているのか不思議でならない。公衆トイレが絶無に近いからだ。レストランや大きな店に入った時には、必要時ではなくとも先ずはトイレへ駆け込むことになる。大抵は有料で女性の管理人がいた。チップの制度ではないため、高額紙幣も安心して使える。お釣りをちゃんとくれるからだ。

   赤の広場のような所には、日本の建設現場で見かける移動式の簡易トイレに似たものが、国家の恥じなどとは思いもしないのか、ずらりと並べてあるが、一度も使わなかった。ぞっとするほど汚いと聞いていたので。

[22]バウチャー

   ロシアは1992年8月14日の大統領令で、1992年9月20日以前生まれの全国民に1万ルーブルの価値を持つ株式交換券(バウチャー)を無償で配布した。国営企業を民営化するためである。この奇想天外な発想の根源は何だったのか?

   国営企業を民営化するとき、ロシア人には国営企業の全資産を買い取るほどの資産の蓄積が無かっただけではない。憲法の上では国民が国営企業の共同所有者とされていた。それにも拘らず、国民が自らのお金で国営企業の株式を何故買わなければならないのかとの、絶対矛盾の解決策だった。

   バウチャーと株式とを交換した結果、バウチャーは政府へと環流し、一部を除き国営企業は民間企業へと変わり、株式への交換は1994年6月までに終了した。しかし、これはロシア人の貧富の差を急拡大させた。

   インフレが急速に進み、大部分の人はバウチャーを市場で売ってルーブルに変え生活費として使った。一方、目先の効いた一部の人が暴落していたバウチャーを市場で買い集め、大株主になった。今やロシアにも10億ドル以上の個人資産を持つ世界的な大富豪が誕生している。

[23]肉の価格など

   ロシア人と日本人とは肉に関しては全く逆の評価をしている。価格は鶏・豚・牛の順に安くなる。豚肉は骨付きに人気がある。ロシア人にとってのスープは、日本人にとっての味噌汁よりも料理間の相対的な格は遥かに上、中核料理の一つだ。骨付きの豚肉からは美味しいスープが作れるから高くなるのだそうだ。一品でも一食扱いにされる昨今流行のラーメン並だ。愛知県の名古屋コーチンとか、鹿児島県の黒豚とか、三重県の松阪牛に類するようなブランド名はとうとう発見できなかった。

   しかし、味覚に拘らないと一見感じられたロシア人にも銘柄に拘る食材があった。キャビアだ。瓶詰め用ガラス容器はベルーガ(オオチョウザメ又はシロチョウザメ)は青色、オセトラ(ロシアチョウザメ)は黄土色、セブリューガは赤色のラベルで解りやすく分類し、容量も1,2,4オンスの3種類に層別し、宝物のように管理していた。価格は青、黄土、赤の順に安くなる。私には鮫の種類はどうでも良かったが・・・。街頭で観光客に売り付けに来る行商の偽キャビアも容器とラベルだけは本物と全く同じだった。
   
   ベルーガはチョウザメの中では最も大きく体長は8m、体重は1トンを越えるものもいるが、普通は40〜300Kg。体重の約15%がキャビア。産卵までに20年掛かかるそうだ。近年はお決まりのごとくに漁獲量が激減し、希少価値から暴騰。空港の免税店では1gが約100円。300Kgのチョウザメを捕獲できれば、キャビアが何と450万円分! 本物の松阪牛1頭並の価格だ。これでは密漁がなくなる筈がない。

   しかし、日本人の食への変な拘り方は世界的にみれば極めて異常だ。高価な材料選びよりも、低級食材でも美味しく食べられる調理法を料理学校の講師、有名ホテルのシェフなどは率先して開発すべきだと思うのだが。
   
   松阪牛やマグロの大トロを毎日食べている人などいる筈がないのに、スーパーでは何を買ったかを人に知られるのが恥ずかしいと思うのか、パック化された食材を買い物篭に入れるときには、裏表をわざわざ反転させている人さえ見かける。貴女の生活水準は靴だけではなく、立居振舞の中に包み隠すことも無く表現されているのに・・・。

[24]正露丸

   家庭常備薬で有名な正露丸の語源は征露丸。日露戦争の時に、大陸で下痢をする兵士が多かったので、これを飲んで下痢を止めてロシアを征服しようとの願いを込めて「征露丸」と命名されたのだそうだ。

[25]蛇足

@ ロシアは何故貧しいか?

   ロシア人ガイドに『ロシアには科学技術も天然資源もあるのに、何故貧しいの?』と質問したら『その質問は、私には難しすぎる。暫く考えさせてください』と言った。翌日になって、バスの中でおもむろに回答。

   『理由は2つ考えられます。その一つはロシアの気候が寒いからです。そのために暖房費が掛かります。二つ目は、ロシアの国土が広いからです。そのために道路とか鉄道とかの建設と維持にお金が掛かります』

   彼が一晩考えて思いついた理由だったが、私には納得性が得られなかった。ロシアの一人当たりのエネルギー消費量は、2001では石油換算で年間4.3トン、日本の4.1トンと差はないに等しく、8トンの米国の半分だ。高速道路も高速鉄道も無くインフラの立ち遅れは言うまでもないからであるが、それ以上の質問はしなかった。私には彼がどんな理屈を考えるかに関心があっただけだからだ。

   ロシア革命の結果、ロシアは一国だけの共産主義国に留めておれば良かったのに、世界へと共産主義を押し広めようとして、防衛ラインを拡大させすぎた。独ソ戦には米英の支援もあったが、朝鮮戦争勃発後は米英を敵に回して孤立した。東欧や中欧を初め支援すべき国家が増えすぎ、結局は国力の総てを軍事に注ぎ込み、自滅したと私は思っている。

A 都市部の家

   都市部でのマンションの一戸当たりの広さをロシア人ガイドに質問しても、的確な回答は無かった。しかし、多くの書物は一様に50〜70平方メートルと紹介している。これは一見小さく感じるが、それは日本の一戸建ちの持ち家と無意識に比較しているからである。

   ロシアのマンションは国家が建設した言わば公営住宅である。日本でも市営や県営住宅、国家公務員の官舎、民間会社の社宅と比較すれば、然したる差は無い。当てがいぶちの家とは所詮、一家が何とか生きられる最少面積に落ち着かざるを得ない。贅沢は許されないのだ。

B 乞食

   観光地には、五体満足な乞食も散見された。働く意思の無い頑強な中年男の乞食には、誰にも憐憫の情は湧かないようだ。

C 筍生活

   道端で埃まみれになって、僅かに残されたゴミのような家財道具を並べて売っているお婆さんがいた。買う人がいるのだろうか?

D 衣服

   ロシアの季節は長い冬と短い夏。合服を着る季節は短すぎる。従ってロシア人は冬服と夏服しか持っていないそうだ。今回の旅行期間は季節の変わり目だった。まだ皮のジャンパーなどを着込んだ冬服の人、衣替えを済ませた半袖の人が入り混じっていた。

E ロシア暦

   ロシアはロシア革命まではユリウス暦(西暦が100で割れる年も閏年扱い)を使用していた。そのためにグレゴー暦に比べ、当時13日遅れていた。
   
   革命後ロシア暦の1918年1月31日を1918年2月14日のグレゴリー暦に一致させた。従ってロシア史では1918年2月1日〜2月13日は存在しない空白期間となった。
   
   現在、世界各国の暦は西暦に統一されつつあるが、まだイスラーム暦や台湾暦など幾つか残っている。日本は元号と西暦を併用している。

E ゴルバチョフとエリツィンの本質的な違い

   ゴルバチョフは社会主義としてのソ連の枠組みを温存した上での改革を目指したが、エリツィンは社会主義を悪の根源と見なし、ソ連を解体した。ソ連の改革にはインテリで穏健なゴルバチョフよりも、反対者は国会議員であろうとも皆殺しにするくらいの意気込みで猪突猛進したエリツィンを必要とした。
   
   エリツィンは、時の抵抗勢力だった延暦寺を焼き討ちにした織田信長に匹敵すると、私は評価している。

F アイスクリーム

   寒い国なのにロシア人は何故かアイスクリームが大好物。本物だろうかと試したくて食べてみた。本物だった。安くてしかも美味しかった。

   日本では昭和26年に厚生省令で、アイスクリームとは重量比で乳固形分15%以上、乳脂肪分8%以上と決められているのに、それ未満の成分で作られた、アイスクリームもどきが平成の今でも尚氾濫している。氷菓とか何とか言い逃れの名前をつけて売られてはいても、外見はアイスクリームそのものだ。

   ここまで書いてふと立ち上がり、我が家の冷蔵庫を点検した。生乳100%使用と書いてある牛乳の場合、乳固形分は8.3%以上、乳脂肪分3.6%以上だった。つまり、本物のアイスクリームは概算すれば牛乳よりも2倍も濃くしてあるのだ。

   私は偽物と承知した上で少しだけ安価に価格設定された偽物を、喜んで買う習慣が大昔から日本にあったがために、バブル崩壊後の苦境に時を合わせたがごとく、中国産野菜に日本の産地名を付けたり、偽和牛、偽魚沼コシヒカリ、偽関鯖、偽学歴事件などが後を絶たないのだと判断している。これらの主役が零細業者か二流業者であるのならばまだしも、その頂点には日本を代表するような一流業者もいるのだ。

   名付けて『発泡酒』。私には武士は食わねど爪楊枝のような無意味なプライドはないが、意地でも発泡酒は飲まないことにしている。僅かばかりの節税のために偽物で我慢している人生が、余りにも虚しく感じられるからだ。ロシア人ですら、本物のビールを飲み、アイスクリームを食べているのに!

G 給料

   ロシア人のガイドによれば、モスクワ市内の平均給料は4〜5万円もあり飛び切り高いが、地方都市ではその半額だそうだ。概算すれば年収は日本人の1割。幾ら物価が安くとも、これでは、トルコやタイと然して変わらない。

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第1日目(5月28日))

[1] 名古屋空港

   最近のパック旅行では、出発日の2〜3日前に添乗員から各申込者に参加確認のための連絡がある場合が増えた。ドタキャン対策なのだろうか? 昨秋のJTBのエジプト旅行に続き、今回の近畿日本ツーリストからも電話があった。『名古屋空港に7:30との集合時間は早すぎる。私の場合、トヨタ自動車元町工場前6:36発の空港行き高速バスに乗ると7:15に到着するが、乗り遅れれば、7:06発になる。携帯は持っていないので遅れた場合、航空券は団体受付の係員に預けておいて欲しい』と一方的に伝えた。

   静岡県からの参加者など何人かは前泊したそうだ。成田のような大型空港ならばいさ知らず、名古屋空港クラスでも搭乗時刻の2時間前に集合との永年の習慣は、年3回の長期連休期間(年末年始・黄金週間・盆)のような混雑期以外は、空港内の業務改善で1時間前の集合程度に短縮して欲しいものだ。セキュリティ検査と出国手続きの窓口を増設すれば簡単に解決できる課題だ。総仕事量は同じだから人員増無しで解決できるはずだ。

   国際線の場合、JCBのゴールドカードを使いラウンジで無料の酒を飲みながら暇潰しをしても、飛行機の中でも無制限に酒は飲めるので、有り難味はないも同然だ。しかし、他には名案も浮かばず、今回もがらんとしたラウンジで1時間も一人でぼんやりしながら暇潰しをしていた。

   何時ものように搭乗直前に、オールドパーを寝酒用に1本買った。水割り用には2リットル入りのスポーツドリンクを2本、自宅から持ち出していた。ホテルの部屋に冷蔵庫がない場合、生ぬるい水割りよりも、スポーツドリンクでウィスキーを薄めた方が私には飲みやすい。カンパリオレンジを飲むような感覚だ。

[2] ソウル空港

   ソウルでの待ち時間は5時間10分もあった。大韓航空を使えば航空運賃は安かったのだろうが、5時間強もの待ち時間は長すぎる。当日のソウルは土砂降りの雨だったので、空港を脱出してソウル市内に出掛ける気も起きなかった。

   ソウルの新空港は文字通り素晴らしかった。空港の旅客ターミナル・ビルは円弧状の形をし、長さは1066m、延べ床面積は何と496000平方メートルもある。建物の三等分点からはウサギの耳のように二本の建物が分岐していた。関西空港は248000平方メートルなので丁度半分、やや大きな中部新国際空港でも306000平方メートルしかない。
   
   それぞれの建物の中心部には幅15m位のゆったりとした通路があり、その両側には免税店やレストランなどの商店が連なり、先端から建物の中央部に向かって半分くらいまでには搭乗口が配置してあり、道に迷う余地もなかった。中部新国際空港の建物はT字型になっているのに対し、ソウルはπ(パイ)の字になっているだけの違いだ。

   免税店などに沿って一筆書きで1500mぐらい歩けば、最初の位置に戻れる。帰路にも立ち寄るので韓国土産の事前の品定めをしたが、岩のり、朝鮮人参、キムチ、タラコくらいしか視野には入ってこない。韓国の岩のりで作った板のりには穴がたくさん開いているのが特徴だ、とわざわざ解説されても日本の稠密な板のりを見慣れている目には、どう言葉巧みに説明されても不良品にしか映らなかった。

   かつて朝鮮人参を買い求め、煎じて飲んだが苦いだけで美味しくもなく、残った固形物としてのニンジンを齧ってもこれもまた苦いだけでこりごり。本場の本物のニンジンといくら勧められても、二度と買いたいとは思わなかった。桐の箱に詰められたキムチを買ったこともあるが、帰国後食べたらありきたりの味がした。キムチはソウル空港よりも日本のスーパーの方が断然安い。という事は市内の市場では日本よりも更に安いはずだ。
   
   あれこれ物色した結果、若鶏を丸ごと一羽そのまま香辛料と一緒に煮込んだ賞味期限1年のスープを、帰国時に買った。どんな味がするのだろうか? 6/20、長男の結婚披露宴に参加のためドイツから一時帰国する長女一家と一緒に賞味の予定だ。
   
   韓国で見かける日本語には変な表現が多い。今回買ったスープの調理説明書には『袋を切ってから内容物を容器に入れて、電子レンジに暖めて、お好みによってネギ、胡椒の粉などを盛り合わせて召し上がると、王宮の独特な味わいを好めます』と書いてあった。

   
蛇足。

   後日、韓国のスープ(ちゃんとした料理名がついていたが、忘れた)を食べた。若鶏の腹部の内臓は除去され、その中に米・人参・香草など色んな食材が詰め込まれていた。この料理の煮込み時間は余ほど長かったのだろうか? 鶏の肉と骨は簡単に分離できただけではない。骨も柔らかくなっていたので、そのまま食べた。

   しかし、残念ながら塩味が薄く、物足りなかった。でも醤油など調味料を適宜追加したら美味しく食べられた。食べ方の説明書には記載されていなかったが、韓国の人は唐辛子などで作られた調味料を、お好みに合わせて使っているのではないかと推定した。
   

   免税店の商品には世界各国の最高級品は少なかった。ブラックオパールやダイアモンド等の高級宝飾品、クロコダイルなどの鞄、ロレックスなどの高級時計も発見できなかった。品揃えは海外へ出掛ける一般韓国人の購買力に合わせているようだ。韓国特産の食料品だけが異常に高いのは、日本人向けのためだろうか?
   
   韓国では半導体・自動車・造船・鉄鋼などの資本財や中間財では、価格競争力もあるが、それとても所詮は借り物技術。従って非価格競争力はないも同然である。消費財で世界のトップに辿り付くためにはかなりの時間が掛かるのは、空港内をちょっとぶらつくだけでわかる。私には韓国製の衣料品、日用品、雑貨で買いたくなる商品をとうとう発見できなかった。

   韓国の識者の間では、日本はGNP/人が1万ドルに達した後、一気に2万ドルに上昇したが、韓国(注。2003年、日本=32859$、韓国=10641$)は何故足踏みをしているのかとの議論が盛んだそうだが、空港内の商品を見れば一目瞭然だ。韓国の商品で非価格競争力のある商品は殆ど見かけない。

   日本は1万ドルの頃、既に非価格競争力のある輸出品が世界中で売れていた。その結果、急激な円高にも拘らず輸出競争力は落ちず、ドル換算の名目上のGNPが急増したのであって、日本人の円での収入が急増したわけでもなく、輸入品が少し安くなっただけだから、生活水準もさして変わらなかったのは当然だ。
   
   韓国が当時の日本円のようにウォンを切り上げれば一気に輸出力が落ち、不況に突入するのは火を見るまでもなく明らか。そんな簡単なことが韓国の識者に解らぬ筈はないが、かつての極貧時代からようやくにして脱出できた歓びから、背伸びをした話題を交わしたかったのではないか、と思えてならない。思春期の青少年が急に大人の会話を真似始めるように!

   2時間くらい暇つぶしをしたが、それでも未だ、たっぷりと時間が余った。已む無く入国することにした。空港ビルの地下と一階の見物のためだ。地下にはコンビニやスーパーもあった。日用品や加工食品などの包装技術が未熟なためか、貴重な商品がみすぼらしく、薄汚く感じられてこれまた買う気をそそられない。私は何時の間にか、日本の包装文化に汚染されていたことに気付いた。
   
   居たたまれなくなって、正面玄関に移動。其処には素晴らしい吹き抜けの空間があり、高さ10mを越える松林があり、根元の下草の緑が鮮やかであっただけではなく、綺麗に揃って咲いていたオレンジ色の百合の花は一際美しかった。浅い池には透き通った水が張られ、お決まりの習慣から投げ込まれた無数のコインが光っていた。旅の疲れも忘れそうな素晴らしい癒しの空間だった。



   だが、直射日光は当たらず、間接照明の中で松が育つのだろうか? との疑問がふと湧きあがった。松葉が落ちていない! 一本一本拾って捨てているとは考え難い。早速、植え込みの中へと勝手に入り込んで調査を開始。植栽は本物だった。しかし、松の幹は何とプラスティック製だった。少し曲がった幹、鱗のような樹皮、一本一本の松葉に到るまで本物以上に本物らしかったのには驚いた。通りすがりの空港職員を捕まえて、

『あの松は本物ですか?』
『勿論、本物です!』と即座に断言。
『ちょっとこちらに来て』と言って、腕を引っ張りながら移動し、傍らに立たせたまま、松の幹をコンコンと叩いて音を聞かせた。
『空洞からの音に聞こえませんか?』
『実は、本物ですか? と何度も聞かれるのですよ。その都度、自信たっぷりに本物です、と答えれば、皆さん信じてくれていました!』と、白状した。

   暇潰しにも飽き、出国手続きをした。頻発する国際テロの影響からか、靴まで脱がされた。靴は篭に入れてX線検査、靴の代わりにあてがい扶持のスリッパを履かされて同じくX線検査。検査を拒否する気はないが、検査に時間が掛かるから、検査装置をもっと増やして欲しいものだ。

[3] 大韓航空機内

   大韓航空のエアバスは新品同然だった。窓ガラスに傷が全くなかった。外の景色が鮮明に見える。テーブルを前席の背面に畳むと、テーブルの裏にコップを入れて固定できる円筒が現われた。このアイディアに接したのは初めてだ。テーブルの上面には通常、浅い円形のくぼみがあり、ビール等のコップを置けるようになってはいるが、飛行機が突然乱気流に出会うと、コップが倒れたり、滑り落ちたりするのではないかと、何時も不安に感じていたからだ。

   機内食の品質は全く当てにはしていなかったが、予期せぬほどに工夫がしてあった。殆どは賞味期間の長い加工食品である。白米も完全に密封された容器で出された。米は何時も食べている富山産コシヒカリ並の美味しさだ。おかずもプラスティックの容器に密封されて出てきた。デザートの出し方にそっくりだ。清潔でもあり味も上々。エコノミー席では、近頃珍しく立派な食事だった。

   しかし、ワインの出し方には不満が残った。一流と言われている航空各社は180cc入りの小瓶を支給するので赤白各1本同時に注文するが、大瓶からコップに小分けしたので、2種類注文するとコップの置き場に困るのだ。しかもワインはコップに半分しか入れてくれない。
   
   ウィスキーは飲み物を配るワゴンには事前に用意すらされていなかった。しかし、それでも注文したら忘れた頃には持って来た。直ぐに出してくれたのはソフトドリンクとビールだけだった。準備が足りないのではなく、高価なものは出したくないのでは?

   横9列(ジャンボは10列)、300人以上も乗れる大型機だったが殆ど満席。ロシア行きの韓国人の多さにもびっくり。韓国も豊かになったものだと実感。ご同慶の至りだ。

[4] モスクワ空港

   モスクワ空港が近づいた。眼下を見ると大平原に緑の絨毯のような原生林が広がっていた。その原生林の中に乱開発かのように森林が無定形に切り払われ、住宅街が開けていた。郊外の住宅は一戸建ち。敷地は日本と余り変わらない狭さ。土地が広い国なのに何故? との疑問が湧く。家の向きも揃わずのままだが、町並みに美観があるのだろうか?

   大国ロシアの玄関口である筈のモスクワ空港のみすぼらしさ、建物の小ささには驚きを禁じ得ない。一昔前のアジア各国の空港とさして変わらない。ソウル、バンコック、香港、シンガポールなどの壮大な新空港とは比肩すべくもない。

   迷路のような通路を通って、入国審査の窓口にやっと辿り着いた。天井は低く照明は暗い。審査窓口の数が少なく、延々と待たされる。空港設計時には、大型機で一度に大量の乗客が吐き出される時代は夢想だにしていなかったに違いない。一時間以上も待たされた。それにしても日本人団体客のなんと多いことか! きっと、成田や関空からの客も、今や東南アジアの代表的なハブ空港に昇格したソウルに集まったのだろう。

   空港内には小さな免税店が一つあった。世界各国の銘酒に混じって、日本製の日本酒やウィスキーもあった。酒の価格は何処の国の空港も大きな差はないが、ロシア人にとっては高価に感じるに違いない。輸入酒は国産の安価なウオッカとは別世界に映るのでは?

[5] HOTEL IRIS CONGLES

   午後10時過ぎにホテルに到着したが、まだ外は明るかった。ソウル⇒モスクワ間で2回も出された機内食が夕食代わりの扱いにされていたので、ホテルでの夕食はなし。正面玄関前には大きな丸い植え込みがあり、周囲には日章旗を初めとして高さ10mくらいの10本の旗が飾られていた。このホテルはどうやら日本の各旅行社御用達のようだ。

   入り口には鉄道の踏み切りの遮断機に良く似た装置があり、傍らにはプレハブの物置のような守衛小屋があった。重量感溢れるホテルの建物に比べれば、仮設小屋にも思えるほどだ。

   室内には石鹸とタオル類しかなかった。剃刀・歯ブラシなどの消耗品は勿論のこと、冷蔵庫(ミニバー)もなかった。

   初日の相棒は林野庁勤務の元国家公務員で63歳。内勤職員だったとは言え、現場を周りながらの外注業者(樵{きこり}みたいな仕事)の管理監督が主業務。早速持参のオールドパーを勧めながら談笑開始。トヨタ関連の人に取り囲まれて生きていた私には、他業種の人の話を聞くのは、別世界を旅する楽しみに近かった。

   豊田市出身で現在は岐阜県中津川に住まわれている。兄上がご健在の頃には時々帰省しては50本も植えていた柿畑の手伝いをしていたが、今や荒れ放題のままだとか。林野庁は赤字現業官庁の代表格。何と57歳で退職させられた。国家公務員は原則として60歳が定年と思っていたが、部署によって差があるようだ。

   結婚後13年目に長男誕生。現在20歳で名古屋市内の大学生。まだ現役の奥様の収入と本人の年金とで何とかやりくりしていると自己紹介されたが、私にはゆとり十分な引退生活に感じられた。

   今では子供達に林間訓練を楽しませるためのボランティア活動に汗を流されている。今の子供はマニュアル頼りのゲーム時代に生きているためか、自分で臨機応変に工夫する意欲に乏しく、保護者と一緒でなければ上手く動けないらしい。地域にある国有林の一部を開放してもらって一緒に山小屋を作ったりしているが、既に参加者は250人を越えるとか。本人は林野庁で森と共に生きてきた経験を社会還元できて楽しいそうだ。素晴らしい人生に喝采!

   相部屋の時には何時も相棒に御風呂はお先にどうぞと言う習慣にしている。風呂の後先を気にする人も居るそうだが、私は一向に気にならない。ゴルフは原則として10時前後のスタートにしているので、ゴルフ場では一番風呂に入ったことも殆どない。先に風呂に入ると、相棒のために浴槽などの掃除をきちんとしなければならないだけ面倒でもあるのだ。

   エジプト旅行の相棒に続き、今回も何故か一番風呂は辞退された。已む無く先に入ることにした。お湯を出して驚く。水が大変濁っていたのだ。西欧人はシャワーを使うことが多く、濁りには気付かないのであろうか? 配管の中のさびが出ているのではなく、原水が濁っているのだ。中国の西安とかトルコ東部のアダナ(人口ではイスタンブール、アンカラ、イズミールに次ぐ第4位)のホテルなど辺境の地では体験したが、まさか世界の一方の中心地である筈のモスクワでとは・・・。

   浴槽は小さいのに、なかなか湯船にお湯がたまらないことに気付く。栓がピッタリとは嵌っていなかったのだ。いくら工夫しても上手くは嵌らない。仕方がないので、踵(かかと)で押さえて湯に浸かった。疲れてもいたし、お湯は濁っていたし、石鹸を使って体を洗う気もしなかった。汗を流しただけで飛び出した。
   
   給湯設備にはがっかりしたが、流石は森の国! トイレットペーパーは新パルプを使っているのか、習字紙のように綺麗だった。しかし、私には紙は再生紙でも良いから、温水洗浄タイプの便器を使いたかった。20年前の原始生活に逆戻りするのは辛いのだ。個人差はあるが、ゴルフ場などあちこちの大浴場における我が長年の観察に寄れば、日本男子の場合肛門周辺には恥毛も生えており、紙だけでは清潔に出来ないからだ。時間も十分にあったので、朝風呂で解決した。

   当ホテルの玄関横には本棚に似た小さな飾り棚があり、ロシアのカラフルな可愛い民芸品などが並べてあった。ミニチュアの教会、マトリョーシカ(入れ子式の人形、元祖は箱根の民芸品)、絵を書いた卵の殻、各国語版のガイドブックの見本などが展示されており、実物は傍らの売店で売っていた。
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第2日目(5月29日)

[1] ウラジーミル
  
   海外では個人の名前を都市名とする古都が多い。代表的なものにエジプトのアレキサンドリア市やトルコのコンスタンチノープル(現在のイスタンブール)がある。ロシアにも人名都市は枚挙に暇がないが、政権が変われば過去を抹殺したくなるのか、改名はさも当然かのようになされている。
   
   スターリンやレーニンに由来し、独ソ戦の主戦場ともなったスターリングラード(現在のヴォルゴラード)やレニングラード(現在のサンクト・ペテルブルク)に限らない。モスクワ郊外のウラジーミルは1108年、キエフのウラジーミル・モノマフがロストフ・スーズダリ公国を守るためにクリャジマ川北岸の高台に要塞を築いたのが町の始まりだ。

   その後、ウラジーミル・スーズダリ公国の首都に定められ急速に発展し、多くの世界遺産があると言われているが、どの建物が世界遺産に登録されているのか、私が読んだガイドブックには記載がなかった。
   
蛇足
   
   日本では都市名の変更例は少ない。人名が使われたのは挙母(ころも)が難読地名とも言われ、地元で大論争の挙句に改称された豊田市だけだ。この場合でも人名の読みは豊田(とよだ)だが、市名は豊田(トヨタ)になっている。
   
   歴史的には、豊田(とよだ)佐吉に由来して、トヨダ自動車工業が誕生した。その後、10画のトヨダを末広がりに繋がる8画のトヨタ自動車工業に改名。一方、町村合併で昭和26年3月1日に挙母藩に由来して挙母市が誕生。その後トヨタ自動車工業に由来して昭和34年1月1日に豊田市と改名された。同年に日本初の乗用車専門工場として、元町工場が完成した。私がトヨタ自動車工業に入社する(昭和37年4月1日は日曜日だったので、入社式は4月2日だった)以前の出来事である。
   
   一方、天理市は昭和29年4月1日に6町村が合併して、市が誕生した際に、天理教に由来して名付けられたので改名でもなければ、人名でもない。
   
  
@ モスクワ⇒ウラジーミル

   モスクワ市は110Km弱の環状道路に囲まれている。この道路が唯一の自動車専用道路に思えた。とは言え高速道路ほどの仕様ではなく、80Kmくらい出せる都市高速並だ。環状線の内側には大型の集合住宅が密集していた。外側はかつては森だったが、今ではモスクワの膨張の結果か、市街化が進み始めている。

   モスクワからウラジーミルへはバスで約3時間もかかる。高速道路はなく、かろうじて舗装されているだけの凸凹道が通じているだけだ。あちこちで道路の拡幅工事中だったが、一部は中国を連想させるような人海戦術だった。ロシアの後進性には同行者も驚く。

   道路の周辺は果てしなく続く原生林だ。ロシアには都市部の公園や並木を除けば、植林を感じさせる光景には出くわさなかった。世界的に見れば植林をしたのは日本やドイツなどほんの僅かな国に過ぎず、多くは原生林の伐採が林業の中心だ。原生林の特徴は樹種の多様さに現われる。大きな木、小さな木、倒れたままの木、樹間に育ちつつある小さな木が足の踏み場もない程に密生している。間伐という習慣もないようだ。

   移動中、建材に出来そうな木を殆ど発見できなかった。白樺が多かったが、幹はくねくねと曲がり且つ細い。薪にしか役立たないように感じられた。原生林なのに20mを越すような巨木もない。何故巨木が育たなかったのか、気象条件なのか土質なのか樹種なのか見当も付かない。林間のあちこちに水溜りがあり、蚊が発生するのか、バスの中にまで薮蚊が侵入してくる。

   道中、ロシア特有の数十戸からなるダァチャが林間に時々現われた。ダァチャとはソ連時代、一家族に600平方メートルの国有地が家庭菜園用地として政府から与えられ、それぞれが日曜大工で一間(ひとま)くらいの掘っ立て小屋を建てて別荘としたものだ。別荘とは名ばかり、実態は農機具小屋に近い。

   ダァチャに近づくと、道端で野菜の苗を売っていた。道路に沿った売り場の長さは軽く1000mは越える。モスクワではホームセンターなどは見かけず、青空マーケットが花盛りだった。車を道端に止め、家庭菜園用の資材や苗を買い、週末を掘っ立て小屋で過ごすのは最高のレジァーらしい。

   当然のことながら、家庭菜園は一毛作。夏野菜だけだが600平方メートルあれば、一家の1年間分の野菜は、我が30年に及ぶ家庭菜園の実績から推定しても、充分過ぎるほどの収穫が得られる。一人に必要な野菜は年間100Kg。豊田市近辺では春・夏・秋冬野菜用として3回土地が使えるので一人10平方メートルあれば十分だ。
   
   保存が効かない野菜はロシア人の好物、ピクルスなどに加工して保存しているそうだ。いわばロシア式漬物だ。

A 農家の住居

   ロシアの典型的な田舎の家は丸太小屋である。丸太と言っても日本で見かけるか細い間伐材を使ったログハウスとは雲泥の差! 直径30〜40cmの丸太をふんだんに使っている。アメリカのツーバイフォー(断面が2*4インチに標準化された木材で家を作る)の木造家屋が華奢に見えてくる。正倉院の校倉造もいささか見劣りするくらいの豪華さだ。しかし、窓は総て2重。開口部は軸組み工法(在来工法)の日本住宅とは比べ物にならないほど小さい。丸太の隙間には綿状に解(ほぐ)した麻の繊維を詰め込んでいた。
   
   家の広さは20〜30坪、平屋で天井が低く、厳寒期の対策にはなりえても、外観のみすぼらしさには心が痛む。電気は来ているものの水道は無く、何と屋内にはトイレもない。冬期、子供はオマルを使うそうだ。
   
   しかし、時には2階建ての豪邸にも出くわす。四角い窓の上部には小さな屋根を飾りとして壁面に貼り付けている。

B 昼食

   ウラジーミルのレストランで昼食。ロシアの典型的な大型ログハウスだった。新築直後でもあり、むせるような木の香が漂う。民俗衣装を着飾った数人の若い女性が歓迎してくれた。一緒に写真を撮らせて貰った。市場経済化が進み始めたとの実感が伝わる。

   今回の旅行中、食事の時には原則として500〜600ccのペットボトル入りの水が配られた。持ち出しも可能である。観光中に水を買いに出掛けることもママならない観光客には大歓迎されている。新思考のサービスである。お陰で日本から持参したスポーツドリンクはいつも大型鞄に入れたまま、ホテルの部屋で飲むだけになった。

   ビール、ウオッカ、ワインなどの飲み物は別料金。ビールは酒屋やスーパーで買うと500cc缶が15〜20ルーブル(1ルーブルは4円弱)と驚くほど安いが、レストランでは数倍となり世界共通の価格水準に跳ね上がる。葡萄が採れない北国なので輸入品のワインは高いが、ウオッカは地元だから酒の中では流石に一番安い。それでもレストランでは50ccでも5ドル。

   昼と夜の食事は前菜・スープ・メイン・デザートのパターン。森の国だけあってスープにはキノコが使われていることが多い。蓋つきでデザインにも凝った壺型の容器に入れて出されることが多く、用意されているスプーンでは飲みにくくて困惑。作法を無視して壺を手にとり、直接口にした。メインは魚か鶏肉中心。美味しく感じる事は殆どなかった。
   
   ホテルでの朝食のバイキングだけは楽しみだった。バイキングは欧州の一流ホテル並だったからだ。ハムやソーセージなどの加工食品も種類が多く、いつもスモークサーモンや果物類を満喫した。温室栽培が普及しているとかでサラダ類もびっくりするほど充実していた。
  
C 黄金の門

   ウラジーミルの西を守る白壁の門。我が目測では高さ20m。1158〜1164年にかけて、キエフの黄金の門を真似て作られた砦でもあり、凱旋門でもある。人間が股を開いて立っているようでもある。パリの凱旋門とはデザインは全く異なり、一部に中国の門の形も連想した。

   左右対称をした4階建てだったが、上に行くほど建物は小さくなっている。直線で囲むと正三角形になりそうだ。4階の上に載せてあるような丸屋根には金箔が貼られているのか、黄金色に輝いていた。しかし、名前の由来は丸屋根からではなく、扉に金メッキされた銅板が貼られていたからとか。



D ウスペンスキー寺院

   1158年建立。モスクワ市内のクレムリン内にもウスペンスキー寺院があるがウラジーミルのこのウスペンスキー寺院のコピーである。ウラジーミルやモスクワ大公から15世紀のイワン3世までの戴冠式が行われた格式を誇る。
   
   ロシアの教会内には椅子もなければ、パイプオルガンなどの楽器もない。教会の屋根には大きな円筒状の建物が突き出て、その上に半球状の屋根が乗っかり、大抵金箔が貼り付けられている。

   十字架の種類は世界には20種近くあり、カトリックのラテン十字のような人型、ギリシア十字のように縦と横の長さが同じになっているものは良く目にするし、十字架の形と教会の平面図とは一致している。しかし、ロシア正教の十字架には横棒が3本あり、一番上は短くて水平、一番下は短い上に右下がりに取り付けてある。壊れかけた電柱のようにも見える。勿論、教会の平面図と形は無関係だ。



   このウスペンスキー寺院の屋上には何本ものロシア十字架が取り付けてあった。丸屋根毎に、まるで避雷針かテレビ用アンテナのように十字架が取り付けてあった。磔刑にされたイエス・キリストはただ一人しかいないので、十字架は一本あれば足りる筈と思うのだが、今や十字架も装飾品として利用されているかのようだ。

   すぐ近くにある高さ10m位の展望台のような、なだらかな所へ登った。参道のような道中では、簡単な組み立て式テーブルを用意し、土産物屋が民芸品を並べていた。マトリョーシカは何処でも見かけた。白樺材の民芸品も多いが買う気は起きず、そのまま通り過ぎた。

   丘の上から小型の火力発電所が見えた。隣接して大型の冷却塔が1基。ガイドの話では日本人はしばしば原子力発電所と勘違いするそうだ。日本の原子力発電所は臨海部にあり、冷却には海水を使っているので、大きな冷却塔は皆無である。しかし、欧米の原発は内陸部にもあり、冷却塔の写真を見慣れているための誤解のようだ。

   ここでも地域暖房に発電所の廃熱が使われているそうだ。近くの緑滴る公園で新婚カップルが写真を撮ってもらっていた。新郎は無表情だったが、新婦は嬉しそうにドレスを広げ、見物人の注文に答えて激しいキッス。どうやらロシアでも結婚式の主役は花嫁のようだ。

   集まっていた子供には肥満児が含まれず、女の子の足はか細く、すらっと伸びお人形のように可愛い。ロシア人ガイドに、

   『ロシア人は若い頃は男女共に、日本人に比べればはるかに美しく、羨ましい。しかし、お年寄りは逆に、深い皺に包まれ、空ろな目つきとなり、どんなに贔屓(ひいき)目に見ても美しいとは感じられないのだが、それは何故でしょうか? 貴方にもそのように感じられますか?』

と質問したが、彼は聞こえなかった振りをした。このガイドは度々、質問から話題をそらす癖があった。答えてくれなくとも彼の答えは聞いたのも同然だった。ロシアで現在生き残っている老人達が如何に苦労をして来たかは、実は聞くまでもないことなのだ。隠せないほどの積年の苦労がその顔、その表情に刻み込まれていたからだ。

E 賛美歌

   ウスペンスキー寺院の中で若い4人の牧師による賛美歌の重唱を聞いた。身長190cm、体重は90〜100Kgもありそうな大男達だった。その歌声は石造りの教会の屋根や壁と共鳴し、人の声がこんなにも綺麗に響くのかと驚いた。ダークダックスのロシア民謡も彼らの歌唱力の前にはどう贔屓目に見ても勝ち目はなかった。まさしく立川澄人や五十嵐喜芳のロシア版だった。

   ロシアの教会には楽器が無いため、その分、人間が努力するのだという。彼らは初対面の時『こんにちは』と、明るく挨拶をし、さり気なくお賽銭箱を用意した。ロシア語の賛美歌の意味は分からなかったが、チップを払うのに躊躇する気は起きなかった。

   ロシア人ガイドに、『あの牧師達は結婚できるの? いくら信仰心が厚くとも、あんなに立派な体の青年だと、性欲を抹消する事は難しいと思うけれど』と質問。『ロシアでは都会の牧師は結婚できませんが、田舎の教会で働く人は結婚も許可されています』。日本では生涯独身で仏門に生きている人は何人いるのだろうか? 延暦寺のトップは今年104歳で独身だそうだが・・・。

   冬期は余ほど寒くなるのであろうか。教会の片隅には大きな暖房用のラジエーターが何と10基も厚さ方向に並べて設置されていた。上から見れば設置場所は正方形になる。

   この教会内の一角に御土産品売り場があった。民芸品に混じって白樺の皮で編んだ帽子があった。サイズも3種類。一番大きいものでも多少小さかったが何とか被れたので早速購入。440ルーブル、約1700円だった。今ではテニスやゴルフのときに愛用している。ロシア人にとって白樺は樅の木と並んで大好きな木。日本の松竹梅並の扱い。

   この帽子はロシアの『山窩(さんか)』みたいな人が作っているのではないかと思いながら。しかし、今やこの山窩という言葉すら、我がスポーツ仲間にも知らない人が多く、驚いている。


蛇足。

大辞林からのコピー。さんか 【山▼窩】

   山間部を移動しながら漂泊生活をおくっていた人々。山菜などの採集や狩猟・川漁、あるいは箕(み)・籠(かご)などの竹細工を生業としていた。東北地方以北にはいなかったといわれる。さんわ。
   55年以上も前のことだ。小学生の頃、山窩と思しき人が実家を訪ねてきた。山で取れた蔓(つる)細工の篭など日用品を持ち込んで、米と交換していた。今では勿論、このような人は、日本にはいなくなった。

   ソ連の崩壊後、信仰はどんどん復活。この歴史ある教会内のタワーの修復工事が進んでいた。日本では足場は今では標準化された寸法のスティールパイプを組み立てて使うが、此処では昔ながらの木の丸太を組み合わせて建物を覆っていた。足場の高さも不揃いだし、安全管理は十分なのだろうかと、些か不安に感じた。

[2] スーズダリ

   スーズダリはカメンカ川沿いに栄えた古都。11世紀後半にはキエフ・ルーシ公国の強力な軍隊に守られた。この街にもクレムリンがある。クレムリンとは要塞と言う意味なので、モスクワに限らず、ロシアのあちこちにある。

@ ウラジーミル⇒スーズダリ

   両都市間は近かった。のどかな田園部をバスで通り抜けること1時間弱。ここは本当に北国なのだろうかと信じられないほど、緑に覆われていた。

A クレムリン

   似たような形の教会がたくさんあった。白い壁、金色をした葱坊主の屋根。私には代表的な教会を一つだけ見れば充分だった。英仏独伊にある大聖堂と称されるような巨大な教会は一つも無かった。

B 木造建築博物館

   ロシアは森の国。教会も民家も昔は木造だった。明治村のように貴重な木造建築が移築された博物館があった。

   葱坊主すらも木造製の教会があった。形が余りにも複雑になっていて、6階建てなのか7階建てなのか、内部には入れず判断が難しい教会もあった。



   格式の高そうなログハウスも何棟かあったが、屋根の数はいずれも2面。和風住宅は高級化するに連れて屋根の数が増える傾向にあるが、ロシア住宅の外観はシンプルそのものだ。
   
   風車はオランダの専売特許ではない。ロシアにも同じ形式の風車があった。しかし、オランダの風車小屋の外観は円錐台だがロシアでは角錐台だった。風車に帆が張られていないため、プロペラ部は骨組みだけで回転はせず、興ざめ。

   井戸用の水汲み木製大型水車があった。水車は井戸小屋の中に収まっていた。日本で現在も使用されている水車としては、福岡県朝倉郡の3連水車(直径は、何と4.76m、4.30m、3.98m)が有名だが、運転方法は全く異なる。

   3連水車では水車の下部は川の水面下にあり、水流の圧力で水車を自動的に回すのに対し、ロシアの水車は水車の内側に人が入り、永遠の山登りのように歩き続け、ハツカネズミのように水車を回す機構だ。平原の国のロシアでは急流も乏しく、川の水流では水車は回せなかったのだろう。

C ロジェストヴィンスキー聖堂

   私には聖堂・寺院・教会の区別がわからない。同じ建物なのに、ガイドブックによって寺院になっていたり、聖堂にも教会にもなっていたりする。

   ロジェストヴィンスキー聖堂も壁面は真っ白、立派な葱坊主を頭に載せた教会だった。この教会内部の食堂で夕食が予定されていた。

   食堂内に小さな舞台があり、ロシアの民族服を着た若い男女がロシア民謡を1時間にわたり歌い、歌にあわせて民族ダンスを軽やかに舞った。しかし、歌はこの芸能人たちよりもウスペンスキー寺院の牧師の方が、声量もあり格段に優れていた。

   舞台は食堂の中央にあり、周囲には欧州人もいたが、いつも我がグループの方を向いて芸を披露してくれたので、私は敬意を表すべく、リーダーと思しき人の傍へつかつかと歩み寄り『ステンカラージン』を注文。彼らに楽譜の用意は無かったが流石はプロ、サッと全員で合奏してくれた。僅か100ルーブルのチップだったが、喜んで受け取ってくれた。
   
[3] ウラジーミルのホテル

   小さな町スーズタリには大きなホテルが無いためか、ウラジーミルに戻り夜遅く、『Golden Ring Hotel』に到着。本日は一人で泊まる順番だ。

   部屋には巨大なベッドが一つだけあった。シーツを剥がすと普通のベッドを2台、ピッタリとくっ付けただけだった。一人では詰まらない。体力を温存すべく、ウィスキーをガボッと飲んで熟睡。

   ホテルの窓からの早朝の眺めは素晴らしいの一言。何処までも続く緑の絨毯は、昨秋見たサハラ沙漠の焼け爛(ただ)れたような褐色とは正反対に、目に優しく強い癒し効果を感じるものの、樹間に点在する小さな民家を見ると、途端に心が痛み出す。
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第3日目(5月30日)

[1]セルギエフ・ポサード

@ トロイツェ・セルギエフ修道院

   14世紀中ごろ、聖セルギーが脱俗的信仰を求めて開いた大修道院。イワン雷帝(イワン4世。イワン3世の孫にあたる。1533〜1584)が築いた高さ15m、長さ1Kmもの城壁で取り囲まれている。
   
   この日は運良く特別な行事がある日だった。修道院を取り巻く城壁の外側にある大通りを練り歩くパレードに出会った。100名単位くらいの一団が色彩鮮やかな揃いの衣装で身を飾り、楽器を演奏したり、踊ったり、太鼓をたたいたり、笛を吹いたりしながら移動していく。一体何組くらい参加しているのか、見当も付かない。10分くらい眺めた後、城壁内へと移動。

   
   ここの修道院では撮影は自由だが、カメラ、ビデオ共にお金を払って接着剤付きのバッジを買い、上着の解りやすい位置に貼り付けさせられた。

   ここには、種々の教会、宮殿、図書館、病院など古い建物が犇(ひしめ)いている。中庭の中央部では聖セルギーの井戸から湧き出る霊験(れいげん)あらたかなる奇跡の水を求めて、大きな容器を持参した信者の行列が延々と伸びていた。
 
   日本でも何処其処の湧き水が健康に良いとの風説をもとに、得体の知れない水を求めて遠方まで出掛ける人も多いが、岩山から濾過されて出てくる清涼な水ならばいさ知らず、平野部の町の真ん中の湧き水を有り難がる人々が、こんなに多いとは!
   
   この城壁内の中核寺院であるウスペンスキー大聖堂は、モスクワのクレムリン内にある同名の寺院を真似て、16世紀後半に建てられたものである。同名で且つ形もそっくりな寺院をあちこちで見学すると、一見(いちげん)の観光客に過ぎない私には頭が混乱するばかりだ。

   中央部の葱坊主は金色、周辺の葱坊主は明るいブルーが塗られ、その表面に画かれた金色の小さな丸い模様が星のように感じられ、それなりに美しい。

[2]モスクワ

@ ロシアサーカス
   
   サーカスの語源はラテン語の『円』。舞台の円形を意味する。サーカスの歴史は古く、古代の労働、風俗や宗教の儀式にも関係があった。ロープの強度を試すためにその上を歩いたり、跳んだりした。古代ペルシアでは戦士が見張りをするために、戦友が支える棒によじ登った。アフリカでは戦士の教育に空中や地上での宙返りの動作が課題として与えられた。

   サーカスの歴史が古いとは言え、世界で最初の半常設館ができたのは1764年のモスクワ、1765年のサンクト・ペテルブルクである。それだけにロシアには、サーカスの本家としてのプライドがあるようだ。

   夜、サーカスの常設館に出掛けた。入城料金は250ルーブル、1000円弱。妙技よりも先に料金の安さに驚いた。直径約50mの円筒の上に半球状のドームを載せた形の建物だった。内部は障害物になる柱がない大空間だ。中央の床に直径15mくらいの円形の舞台があり、その一部は上下にも移動できる『迫り(せり)』を兼ねていた。ドームの頂点の高さは目測では25m。

   舞台を取り巻く周囲は約2000席の客席。どの位置からも舞台は15m以内。我が席からはたったの5m。人物の表情もはっきりと識別できた。壁を隔てた客席の外側の空間はサービスヤード。トイレ、売店、雰囲気を盛り上げるためのミニ・オーケストラ、展示物、生きている動物のコーナーなどもあった。

   サーカスと言っても、出し物の種類は多面的であった。思い出すだけでも、

@ 手品。
A 奇術。美女の胴体輪切り、無数の剣を体に突き刺す等。
B 猿、犬、馬と連携した曲芸。
C パントマイム。
D シーソーを使った曲芸。シーソーの一端に人が乗り、反対側に高所から2人が飛び降りると、一 端の人が数メートルも飛び上がり傍らの人間櫓の上に着地する等。
E 人間ピラミッド、高さ10mにも達する人間櫓。
F 薄い不透明な灰色の服を着た青年達による、柔軟なアクロバット競技。本来は鍛え抜かれた肉体を、ギリシア時代のオリンピア(古代のオリンピックの出場者は全員男性。しかも全裸で競技をしたそうだ)のように裸で見せたいのだろうが、観客の前では無理なので、体の輪郭が明確に解る皺一つ寄らない衣装で出場。陰部の形や大きさまで丸見え。
G 空中ブランコ。

   私にとってのサーカスの花とは、空中ブランコだ。昭和21年小学校2年生の時、旧八幡製鉄の起業祭(1901年11月18日の操業開始記念日にある、年に一度のお祭り。溶鉱炉からの出湯状況と鉄道レールの圧延作業の見学も出来た。我が人生で最初の工場見学だった)に、学校をサボって父に連れらて出掛けた折に、仮設小屋の中で見た巡回サーカスが『美しき天然、明治33年、田中穂積作曲』の歌と共に思い出されるからだ。それにしても、何故美しき天然がサーカスの歌として有名になったのか、私には解らないままだ。

   丸天井のドームは空中ブランコのためにあるようなものだった。天井からは何本ものブランコや、昇降用の紐がぶら下っていた。舞台の上にはネットが張られていた。出演者が最も多い時は同時に12人が入り乱れて演技。手に汗握るとは正にこのことだった。中でも華やかなのは空中遊泳をしながら、ブランコからブランコへと何人もの人が、同時に猿のように飛び移る演技だった。しかし、時々、人がネットへと落下した。

   最初は、観客を沸かすために意図的に落ちているのかと思って、ガイドに聞くとそうではないとの回答。極限に挑戦した結果の失敗だったのだ。その時は、芸に成功するまでやり直しを命じられていた。落下事故は数回も起きた。

   サーカス小屋ではフラッシュを焚く撮影は厳禁だった。動物が驚くからだけではない。演技者にも大変危険だからだ。注意されずとも誰にでも解る規則なので、観客も掟は忠実に守った。
   
   ロシアの冬は長く家に引きこもりがちな市民にとって、サーカス、バレーなどの興行は欠かせない。サーカスは夏場には毎日2回、その他の季節は1回だそうだが、正味2時間の出演とは言え、大変な肉体労働に思えた。しかし、鍛え抜かれた若者の肉体美からは、日頃の弛まぬ猛訓練が連想され、感動を覚えると共に敬意を表せずには居れなかった。

[2]Aerostar Moscow Hotel

   この日は62歳(?うろ覚え)の方と一緒になった。氏は日立製作所が出資していた家電品の卸売り会社に勤務の元幹部社員だった。
   
   バブル崩壊後、東海3県の卸会社が一社に統合された。従業員も1000名をこえる大会社になったが、管理職といえども小売店からの応援要請があれば、手伝いに出掛けざるを得なかった。冷蔵庫の配達据付などの肉体労働に駆り出された。給与は卸し会社から出ているので、小売店からは一銭も支給されず、無償支援だった。
   
   その後も不況は加速され、とうとう55歳以上は役員や管理職も含めて全員リストラされてしまった。数年前、大手電機会社は何れも本体自身ですら何万人と言う人数のリストラを実施していた頃である。いわんや傘下の子会社に於いておや。日本の終身雇用制はとっくの昔に消滅していたのだ。
   
   リストラ後は仕事も見つからず、ぶらぶらしていたら急に肥満化が進み危機感を感じた結果、待遇は無視して再就職。現在は毎日午後の数時間、スーパーで棚への商品補給をしているそうだ。その結果、体型は元に戻ったと嬉しそうに語られた。しかし、何と時給は750円。60歳以上では時給1000円以上の仕事は全くないという。でも、時給の多寡よりも健康管理が出来たことを喜ばれていた。氏を通じて改めて世間の厳しさを知った。
   
   私は何年も前から毎年2回位の頻度で、庭木の選定、襖の張替え、床の張替え、フェンスのペンキ塗り、キューイフルーツの棚作りなど、こまごまとした日曜大工のような仕事を豊田市の外郭団体『シルバーセンター』に頼んでいた。現在は時給1100円である。安くて気の毒と思っていたが、60歳以上の定年退職者の時給としては悪くは無かったのだ。
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第4日目(5月31日)

[1]モスクワ市内観光・・・その1

@ モスクワ大学

   小学生の頃、図鑑でモスクワ大学とエンパイア・ステート・ビルの写真を見ながら、その大きさに驚いていた。しかし、その後巨大ビルを見る機会が増え、大きさへの感動は激減し、評価の視点も変わってきた。旧ソ連には『スターリン建築』と一括されている大型ビルが7棟あるそうだが、その代表的なものがモスクワ大学やロシア外務省である。それらとは別にワルシャワにもスターリンが寄付した墓石とも蔑称される巨大なビル(文化科学宮殿)があった。

   どのビルも何故か外観の形状がエンパイア・ステート・ビルに似ている。上部に行くに連れて建物の断面積が墓石のように小さくなるのだ。ただ、高さは200m前後でエンパイアの半分だ。

   同じ図鑑で旧丸ビルとエンパイア・ステート・ビルの柱の断面構造を比較した図面も見た記憶がある。共にレールを垂直に立てたようなI(アイ)ビームが柱の真ん中に埋め込まれた重量鉄骨・鉄筋コンクリート造だったが、エンパイアのIビームの厚さは10cm以上、大きさが1m以上もある巨大さだった。エンパイアの場合は柱の密度も高く、壁も厚く、質量も熱容量も大きいので、ジェット機が衝突しても、世界貿易センターとは異なり倒壊は免れたのではないかと思う。
   
   建設当時、ソ連の鉄鋼業界の実力では、エンパイアに使ったようなIビームを圧延する機械は無く、已む無く寸詰まりのビルを建てざるを得なかったのではないかと思った。

   モスクワ大学の敷地は100万坪。講義室や研究室などは別棟。本部の巨大ビルは留学生や教職員など6000人もの人々の寮やアパートとして使われているそうだ。建築技術への尊敬の念が消滅すると、記念撮影する気も同時に霧散霧消した。



A 赤の広場

   赤の広場とは広場の色に由来したのではなく、隣接するクレムリンの城壁に使われているレンガの色に由来。広場としては、中国の天安門前、ヴァチカンの広場の次に広いらしいとはいうものの意外に狭く感じられるだけではなく、周りの建物が実用主義一点張りのものが多く殺風景なので、美しいとの印象も湧かなかった。

   天安門前の広場にもトイレが無かったが、赤の広場にも本格的なトイレは無く、建設現場で使う仮設トイレに似たものが一角に並べてあった。一国の顔、玄関とも言える場所なのに・・・。

B 聖ワシリー寺院

   この寺院はクレムリンの城壁外に建てられているが、城壁内のどの建物よりも有名だ。モスクワのガイドブックの表紙にはたいてい採用されている。小さな寺院だが、奇抜な外観と色彩は鬼面人を驚かすには充分だ。

   火炎状のドーム屋根の形もいろいろだし、派手な原色の使い方も他に類を見ない。ロシアが世界に誇る最も有名な建築物に思えてならない。



C お土産物屋

   お土産物屋に立ち寄るのは、パック旅行の常。ロシアでは更に無料で使えるトイレの存在も貴重となる。大抵の所ではトイレは有料だが、お土産物屋は流石に無料。ウオッカの試飲も出来た。

   主たる商品は、琥珀、キャビア、ウオッカ。キャビアやウオッカはレジの下にある鍵が掛かったケースで管理。立ち寄ったお土産物屋の主力商品は琥珀だった。琥珀はピンからキリまで。工業製品ではないので、形も色も虫の有無もいろいろ。虫入りが最も好まれるとかで高価だった。

   サンクト・ペテルブルクには同行しない予定のロシア人ガイドは『キャビアが買える場所は少ない。しかもサンクト・ペテルブルクはここより高い』という。『帰国まで未だ時間があるから常温では腐る恐れがある、心配だ』といえば、『この店で保管してもらうから大丈夫。最後の日に私がモスクワ空港まで届けるから、心配無用』という。バックマージンが貰えるのだろうか?

   添乗員が連れ込むお土産物屋の価格は、一般よりも少し高いのが過去の体験だが、自由時間が殆どない今回の旅行では已む無く此処で少しだけ買うことにした。4オンス入りの青色ラベルのキャビアを1個。最高級品のウオッカ『チャイコフスキー』を1本。荊妻には同行の女性に選んで貰った琥珀のブローチを1個。

   キャビアは生(なま)とは言え塩漬けなので漬物と同じ。1週間は常温でも心配はないと知っていたので、店の冷蔵庫に預ける事は勿論しなかった。

D グム百貨店

   ロシアを代表する巨大百貨店とは言うものの、30〜50貨店だった。赤の広場とは道路を介してクレムリンとは反対側にある。長さ250m、幅20m、地下なしの3階建ての建物が20m間隔くらいで3棟あり、建物間の空き地は3階の上にある蒲鉾型の巨大なアーケードで覆われ、お土産物屋などがちらほら。総売り場面積は我が推定では数万平方メートル、日本の標準的な都市型デパート並だ。

   此処には建物が一区画100〜200平方メートル位に仕切られ、アーケード側に面して商店街のように店が並んでいた。日本のデパートとは異なり、長屋を使ったテナントショップに思えた。エスカレータは上りだけ。下りは遠くの階段まで迂回させられ、うんざり。2,3階部分は回廊式になっていて3棟の建物を繋ぐ橋が各階の所どころにあるため、隣の棟に行く便は計られていた。

   欧州のブランド店を中心とした衣類が中心。今や飽食日本の象徴ともなった、売上の25%を占めると言われるデパ地下に代表される食料品は全く無くてがっかり。輸入品が多いのか、価格は欧州の本場と何ら変わらない。ロシア人の平均収入からは高嶺の花に思えるが、所得格差が拡大中なので、モスクワの富裕層だけを相手にするだけで商売は成り立つのであろうか、空き店舗は発見できなかった。しかし、客はほんの僅か。

   歩き疲れて、アーケードの中央にあった生ジュースコーナーで、オレンジを5,6個、中型コップ(300cc位)に一杯絞ってもらったら、500円くらいした。トルコでは150円くらいだが、輸入品のオレンジを使うロシアでは当然の価格か。

E スーパー

   憧れのスーパー見物も予定に組まれていた。今回の旅行で唯一体験したロシア人の生活情報との接点だった。1000平方メートルくらいの小さなスーパーだった。ロシアでは巨大なショッピングセンターは見かけなかった。

   生鮮3品(肉・魚・青果)と加工食品(ハム・チーズ・チョコレート・お菓子・缶詰など)にビールなどの飲み物が主な商品だった。しかし、ここでもキャビアを発見。お土産物屋よりも、当然とはいえ1割安かった。

   加工食品売り場で大きなスモークサーモンを発見。フィーレ(魚を三枚に下ろした時の半身)1枚を買おうとしたが店員はそのような買い方に出会わなかったのか、意味が通じない。スライスした100g入りのパックを指差すだけ。英語が通じないと不便だ。

   カウンターの内側に入り込んでフィーレを一枚鷲づかみにし、全体を買うことをジェスチャで演技したらやっと納得。重量は2.5Kgあった。我がスモークサーモン作りの体験では、この鮭は加工前、尾頭付き、内臓抜きの状態だと10Kgくらいもある大物だ。こんなに大きな鮭は豊田市では入手困難。帰国後、一度に食べる大きさのブロックに切り分け冷凍保存した。半解凍状態で薄くスライスし、家庭菜園から収穫した生野菜と一緒に食べるのが我が食習慣だ。

   スーパーの中は迷路同然。雑然と無秩序に商品が積み上げてあり、通路は狭く、見通しが悪い。かつての東南アジアのスーパーと余り変わらない雰囲気だ。大抵の商品は日本より2〜3割り安いが、包装も汚く、買い気をそそられない。しかし、バナナなどの輸入青果の種類も多く、レジでカードが使えたのには驚いた。ロシアではカードはそのときまで殆ど使えなかったからだ。

F 雀ヶ丘(展望台)

   飛行機の上からは平坦な平原の中の町と思えたモスクワにも丘(高さ70m?)があった。鬱蒼とした緑の木々に覆われていた。無数の雀が棲息していたから『雀ヶ丘』と名付けられた。モスクワの雀を見るのを楽しみにしていたが、一羽も見つからずにがっかり。

[2]モスクワ市内観光・・・その2(クレムリン)

   各地のクレムリンの中で、モスクワ市のクレムリンが最も有名なのは言うまでもない。かつての鉄のカーテンの心臓部も今や単なる観光資源に転落。観光客が押すな、押すなの盛況ぶりだ。

@ 武器庫

   武器庫は名称と実態とが乖離している博物館の典型例だ。かつて牢屋として使われたロンドン塔が宝物館に改装されているのと同じ現象だ。私は名前からロシアの先端科学兵器の歴史が一覧できる軍事博物館かと思っていた。しかし、武器庫とは1485年に建設された当初、ここで武器が製造されていた名残を示す言葉だった。

   ここには、大昔の武器の展示品も小規模ながらあったが、主力はロマノフ朝時代の宮廷用品や宝物の展示だった。衣装の豪華さにも驚くが、それを着せられるお妃達の苦労が偲ばれる。平安時代の十二単は豪華でも絹なので軽いが、ロシアの衣装は毛布のように厚く、しかも金銀宝石などの飾り物が多すぎる。

A 世界最大の大砲

   屋外には1586年に鋳造された青銅の大砲があった。重さ40トン、砲身5.34m、口径890mm。大きさは世界一だそうだが一度も発射されたことがないと自慢。飾り物の砲弾が一個、転がされていた。

   しかし、応用力学の一端を学んだ私には見た瞬間、砲身が口径のたった6倍、ピストルを相似的に大型化したようなこの大砲では、砲弾は発射できないと推定した。火薬の爆発温度は大砲の大小とは無関係に一定(高々5000℃)。従って爆発時に発生する圧力も一定。
   
   大砲の断面積は口径の2乗に比例するが、砲弾の重さは3乗に比例する。砲身の中で砲弾は爆発圧力を受けて加速されるが、充分なる弾丸速度に達するには、少なくとも口径に比例した長さ以上に砲身が長くなければならない。鉄砲の砲身の形には相似則は成立しないからだ。

B 世界最大の鐘

   1735年に鋳造されたこの鐘は、重さ200トン、直径6.6m、高さ6.14mもある。1737年の大火で破損。現在は地上の台座に飾られている。ニックネームは『鐘の王様』。私には鐘は単なる実用品。音は鐘外面の振動で発生する空気の振動に過ぎず、音量は表面積に比例はするが、重さに比例して大きな音が出る筈も無い(大きすぎると、人力では鐘を振動させることも出来ないから、音も出なくなる!)のに、その重さまで競う人間の欲の深さに薄気味悪さを感じただけ。

C ウスペンスキー寺院

   クレムリンの中にも教会が沢山あるが、『聖母の昇天』を意味するウスペンスキー寺院が最も重要な教会だそうだ。1479年にウラジーミルのウスペンスキー寺院(12世紀に建てた)を真似て建てられた。



D 地下鉄

   最初の予定には無かったが、ロシア人ガイドに地下鉄に乗りたいと要望。希望者が続出したので、全員で最寄の駅に出掛けた。スターリンが世界一の地下鉄を作れと大号令を掛け、原爆の避難壕も兼ねたとかで、ロシアが世界に誇れる数少ない物件の一つだ。

   駅舎は石造り。地底50〜70mまで、超高速エスカレータ(日本で使われているエスカレータの速度の5割増に感じた)で一直線に上下する。所要時間は1分程度。日本だとエスカレータを数回乗り換える距離だが、途中に踊り場もないエスカレータだ。エスカレータの故障による突然停止だけではなく、誰かが転倒すれば、大惨事が発生するのではとひやひやした。添乗員が、地下へ到着する前に足を上に持ち上げて、下りる用意をするようにとコツを伝授。

   天井は大理石で覆われ、ホームの幅は広く中央部には彫刻が展示されていた。モスクワの地下鉄の駅は一つ一つデザインが異なり、美術館のように展示物が飾られているそうだ。切符は全線同一料金なので、自動検札機械は入り口側だけにある。時刻表もない。2,3分間隔で運行されているので不要との判断か。なまじ時刻表があると早く着きすぎた場合には時間調整のための停車時間が発生するが、その必要もない。

   しかし、稼動中の車両は限りなく古く、一気にロシアの現実に引き戻される。また、駅間距離は意外に長く、パリの4倍、日本の2倍、平均2Kmもある。冬など利用者には不便に違いないと思うが、豪華な大深度地下駅を高密度に配置するのには資金に限界があったのだろうか?

E ロシアホテル

   この日はホテルでの宿泊は無く、夜行の寝台列車でモスクワからサンクト・ペテルブルクへと移動する日だ。添乗員が『今晩は風呂にも入れないので洗顔だけですが、ロシアホテルを只で使いましょう。但し、皆様が一斉にホテルになだれ込むと目立つので数グループに分かれて、行くことにします』と提案。

   この3000室もあるロシアホテルは、かつて一つの建物の中にある部屋数が世界一なのを誇っていた。1973年に海外初出張で泊まったニューヨークの『ホテル・アメリカーナ』は当時、米国一だったが2000室。その後、ラスベガスには4000室級のホテルも出現。

   このロシアホテルも赤の広場とは道路を介してクレムリンの反対側。一つの建物とは言え、一辺が150m位の正方形だった。4棟からなる建物を正方形になるようにくっ付けた構造になっていた。これでは一つの建物とはいい難い。モスクワ最大のマンモスホテルとはアーチを描いて聳え立つ、1777室のコスモスに軍配を挙げたくなった。

   各一辺の建物の中央部に玄関・ロビー・売店・受付などがあった。実質的には4つのホテルが一ヶ所にあるのと同じだ。各辺を構成している建物の中央部に廊下があり、その両側に客室が配置されていた。内側の部屋からは殺風景な物置が点在する中庭側を眺められるだけだ。

   私は無料のしかも清掃も行き届いたトイレに出掛けた後は、時間が勿体無くて洗顔も省略しホテル内を見物。エレベータのスピードが遅くていらいら。最上階の14階からの眺めは絶景。モスクワにはスターリン建築以外に高層建築は殆ど無いので、遮る障害物はないも同然。部屋の大きさはヒルトンの標準と変わらず40平方メートルくらい。

[3]寝台列車(モスクワ⇒サンクト・ペテルブルク)

   サンクト・ペテルブルク行きのターミナル駅のホームには発車30分以上も前に到着したが、既に寝台列車が入線していた。大型鞄類はポーターがホームまで運び込んだ。しかし、我がグループの客席は何故かバラバラに分散していた。それぞれ鞄を受けとリ自分の車両まで移動した。

   18車両、全車両寝台車。各車両には2名単位の個室が9室。部屋の大きさは2*2m前後。サンクト・ペテルブルク方向に向かって右側に通路。各車両に一室洗面所があった。車掌は各車両に1名。車掌の業務は検札、機内食に似た食事の配達、早朝に洗顔用のお湯の配達程度。配達された食事は総て保存が出来る加工食品だった。満腹状態だったのでそのまま日本へのお土産として持ち帰った。

   室内ではベッドが向かい合って設置され、上部には棚があり、手荷物が置けた。ベッド間の隙間に大型鞄を置く。ベッドの幅は狭かったが、毛布を体に円筒状に巻いて寝袋のようにして使ったので、不便さは無かった。

   各車両についているトイレは発車後30分までは鍵が掛けられていて使えない。発車後、車掌が只乗りを決め込む不審者などがトイレにいないことを確認した後、鍵を開けるそうだ。到着30分前にも車掌がトイレに鍵を掛ける。しかし、乗車時間は長いし、トイレ1ヶ所当りの客は少ないので、飛行機内のように混むことは無かった。

   客室内からは鍵が掛けられるが、外からは客は鍵が掛けられない。室内からは何と2個もの頑丈な鍵を掛けるようになっていた。盗難防止のため、二人が同時に外出するのは避けるようにとの事前注意があった。

   モスクワからサンクト・ペテルブルクまでの約500Kmに無停車で8時間もかかる。高速が出せないのではなく、朝の便利な到着時刻に合わせての最終列車のような気がした。昼間の特急の所要時間は5時間くらいとも言われている。

   森や湿地帯を切り開いたような場所をとろとろと走る。スピードが遅いので揺れも気にならない。新幹線の場合、揺れは少ないが景色の流れが速すぎるためか、同じ経過時間で比較する限り、この寝台列車よりも格段に疲れるような気がした。
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第5日目(6月1日)

[1]サンクト・ペテルブルク

@ ピョートル大帝の夏の宮殿

   ピョートル大帝が園遊会を開くために、サンクト・ペテルブルクの郊外に1704年に造ったもの。例年5月末から運行している水中翼船に間に合った。船内には大きな冷蔵庫がありビールなどの飲み物を2人の乙女が販売していた。客は船外の景色に見とれ、結局私一人がビールを1本買っただけ。人件費も賄えない。船着場は今にも壊れそうな桟橋だった。
   
   素晴らしかったのは正面玄関前から見下ろされる階段状に配置された噴水、あちこちに展示されていた彫刻、それらを取り巻く美しい花壇や木々の配置だった。観光客が多すぎ、予約していても1,2時間待ちの行列が出来ている。一団の観光客が目の前まで進むと、臨機応変にその国の音楽を演奏するチップ目当ての楽団(老人6人で編成、純白のかつらを被り緑色の衣装にも凝っていた)もいてお祭りのように賑わっていた。日本の歌も商売になるのか心得ている。

   
   更には、ピョートル大帝やエカテリーナ女帝の服装で身を飾った男女が、観光客と一緒にカメラに収まる商売もあちこちで営業中だった。若さのある一瞬の間だけ可能な職業だ。建物としての宮殿は欧州のあちこちにある宮殿建築の模倣だし、室内も同じく模倣に終始していて、何の感動も起きなかった。大衆の犠牲の上に、皇帝の贅沢な人生が実現していたかと思うと、ロシア人が気の毒で・・・。
   
   独ソ戦で破壊された宮殿は完全に修復されていた。しかし、床の補修状況には驚愕。フローリングのように敷き詰められている板と板との間には殆どの場所で2〜3mmの隙間が開いていた。工事後の乾燥結果とも思えなかった。この補修方法はエルミタージュ美術館などでも普遍的に観察されたからだ。細部には拘らないのがロシア人の感覚か?
   
   とは言え、欧州ではロシアに限らず戦争や火災等で破壊された歴史遺産は元の姿に復元する習慣と執念がある。昔は日本でも火災で焼失した法隆寺も再建(年輪でその木が育った時期を特定する研究により、再建材の伐採時期が特定された結果、長年の再建論争にも決着がついた)されたし、信長に焼かれた延暦寺根本中堂も徳川家光によって再建された。
   
   しかし、神武以来の経済力が漲(みなぎ)っている筈の現在の日本なのに、国宝級の神社仏閣以外の再建は殆ど無く、僅かの物件が明治・大正・昭和村に移築される程度で、我が国民の努力の結晶たる物的証拠は消滅する一方だ。これでは外国人に見せたくなる歴史遺産は減るばかりだ。

A エルミタージュ美術館

   エルミタージュはロシアが誇る、ルーブルと比肩されている世界屈指の美術館である。1764年にエカテリーナ女帝がベルリンの画商から225点の絵画を購入して以来、国力に物言わせて有名絵画を買い付け、ロシア革命後は貴族所有の絵画も国有化して掻き集め、今日では収蔵点数300万点にも達するという。



   収蔵美術品もさることながら、元宮殿だった建物そのものも豪華だ。レオナルド・ダヴィンチやラファエロの絵、ミケランジェロの未完の彫刻を初め、レンブラント、ルノアール、モネ、セザンヌ、ゴッホ、ゴーギャンなど私でも知っている画家の絵も多い。

   人だかりがしている絵は人気があるのだろうと推定して、人気の根源を見極め、我ながらこれはよい絵だとの結論が出たら初めて、傍らに貼られている作者などの解説を読み、なるほどラファエロだったのか、と自分自身の審美眼の水準を検定したいのに、ロシア人ガイドが邪魔をしてしまうのが常だった。
   
   人だかりがしている絵まで辿り着く途中で、作者名を真っ先に口走るからだ。作品よりも作者の方が重要視されているようでは、本末転倒と思うのだが・・・。

   レオナルドと知ってから絵を見ると、芸術音痴の私は無理にでも良い絵だと思わざるを得ず、大変苦痛だった。芭蕉の句だからとの理由だけで『松島や、ああ松島や、松島や』を半ば強制的に良い俳句だ、と評価させられる不快さに通じるのだった。

[2]バレー(白鳥の湖)

   バレー見物は希望者のみのオプション。一人80$。低賃金国のロシアにしては入場料が意外に高い。サーカスの10倍もする! 出演者は30人弱。オーケストラを入れても50人もいないのに。観客の殆どが外国人であるための暴利か? ロシア旅行が2回目という人は参加しなかった。バレーに関心のない男性も多く、結局参加者は半分くらいだった。

   劇場は宿泊予定のホテルから僅か1Kmの近距離なのに大渋滞。開演10分前にやっと辿り着いた。パリのオペラ座よりも少し小さかったが、本格的なオペラ劇場だった。客席は一階のフロア、そのフロアを取り囲むように馬蹄形をした5階までの客席があり、どの階も奥行きが浅いために舞台までの直線距離は短い。舞台までは遠くても20m位の至近距離だ。観客席は1500程度と推定。

   この劇場は格式が高いのか、遅刻者は次の幕間までロビーで待たされていた。観客はそのことを承知しているためか、開幕直後に1階フロアの側面の観客が中央部の空席へと殺到。私も負けじと移動。幕間での休憩後に本来の席へと何食わぬ顔つきで戻った。

   オーケストラは舞台と1階の客席との間の窪みに配置されていたので、1階の我が座席からは死角になっていた。開演当初、音楽はスピーカーから発せられているものと勘違いしていた。念のためにと、幕間に覗きに行ってオーケストラの存在がわかった。

   曲目は『白鳥の湖』だったが、聞き慣れていた曲はほんの一瞬の時間で終わった。ストリーが解らず、音楽会に参加したようなものだった。幕間では外国人がワインを飲んでいたので、真似すべく注文。しかし、100cc位なのに何と600円もした。

   私にはバレーに限らず芸術の評価法が解らない。オリンピックの種目の殆どは度量衡の単位で数値化して評価するから、子供でも私でも解る物理学の世界だ。砲丸投げは長さ、重量挙げは重さ(質量)、マラソンは時間で評価するから曖昧さは全くない。計測技術の単なる応用分野に過ぎない。

   しかし、力学的には不安定な爪先立ちの姿勢で、バレーは何故踊らなければならないのか? 踊りの途中でこれまた不自然な姿勢のまま、剥製にでもされた白鳥ででもあるかのように長時間にわたって、静止状態を何故維持しなければならないのか? 解けない方程式を前にして、途方に暮れていたようなものだった。
   
   解ったことといえば、バレーでは意外に運動量が大きく、特に男性のバレリーナは女性を持ち上げる場面もあるなど、筋肉労働の負担も重く、若者向きだという程度。今回のバレーとアルゼンチンで見たタンゴなどのダンスとの違いも解らないままだった。

[3]Corinthia Nevsky Palace

   この日のホテルは世界の何処に出しても一流の名に恥じない素晴らしさだった。部屋の広さも国際標準の40平方メートルは充分にあり、調度品もバスルームも綺麗だったし、水道の水も澄んでいた。何と、電気蚊取り線香と、一晩分の固形薬剤も用意してあった。

   初日のモスクワのホテルとは月とスッポン。こんな豪華な部屋での一人寝はなんとも侘しく、早々と就寝。
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第6日目(6月2日)

[1]サンクト・ペテルブルク

   @ エカテリーナ宮殿

   この宮殿はサンクト・ペテルブルクの郊外、プーシキン市に建てられている。建物の長さは300mにも達し、東京駅ほどにもなる。外壁に塗られた白とブルーの色彩が美しく輝く。800平方メートルもの大広間も豪華だが、人気ナンバーワンはサンクト・ペテルブルク建都300周年(2003年)を目標に完全に修復された『琥珀の間』である。

   今回同行した会社オーナー会長(がんの先輩。69歳。前立腺がんのホルモン療法による延命治療中。完全なるインポになった。性欲が消滅すると勃起不全になっても不満は起きないのだそうだ)は今回のロシア旅行の目的は、前回見られなかった琥珀の間を見たいがためだったという。

   たった一間だが、それを紹介するだけのガイドブックすらも売られていた。壁面全体を琥珀のかけらをモザイク代わりに使って絵が描かれている。しかし、私には使われている膨大な数の琥珀が本物なのか、樹脂で作った偽物も紛れ込んでいるのか、見分けることも出来なかった。
   
   広大な芝生の庭園では高校生ぐらいの若者の一団が十数人、恐らくはボランティアと思える出で立ちで甲斐甲斐しく働いていた。刈り取った芝生を松葉掻きのような道具で集めていた。竹がないロシアでは芝生掻きの柄にはどれも多少曲がった木の枝が使われていた。嬉しそうにカメラに収まってくれた笑顔が眩しい。老いたる私にもかつてはあった、あの青春時代の輝きだ!

A 宮殿広場

   エルミタージュ美術館前の広大な広場の真ん中には、1834年にナポレオン戦争の勝利を記念して建てられた、高さ48m、重さ600トン、天使の像を頂上に載せた赤い一枚岩の円柱が誇らしげに聳えていた。

   何処かアレキサンドリア市(エジプト)の『ポンペイの柱』にそっくりだ。ロシアで買ったガイドブックを帰国後に覗くと『アレクサンドルの円柱』と、紹介していた。さもありなん、真似たのだろうと思った。
   
   しかし、1812年にロシアに侵攻したナポレオンを打ち破り、逆に1814年3月にパリに入城したのはアレクサンドル1世である。名前が似ていると我が推理も混乱するばかりだ。

B カザン寺院

   1811年に建てられたカザン寺院はヴァチカンのサンピエトロ寺院をそっくり真似た外観をしていた。ちょっと小さいだけだ。半円形に列柱を並べた回廊もさることながら、寺院本体の外観もデッドコピーだ。



C 聖イサク寺院

   この寺院もロシアの葱坊主タイプの教会と異なり、回廊部が無いことを除けば、サンピエトロ寺院に似た外観をしていて、古色蒼然とした輝きを持ち、ロシア形式の寺院ばかりを見てきた目には、何故だかほっとした優しさを感じた。



   火炎タイプの外観の寺院は沢山見すぎると、疲れてくるのだ。あの強烈な印象を与える奇妙な形と、カラフルな色彩は刺激が強すぎるのだろうか?

[2] サンクト・ペテルブルク空港

   添乗員が『ロシアの航空会社の重量管理は厳しい。エコノミーは20Kg、手荷物は一人5Kgまでです。重量オーバーの場合は勿論追加料金が課されます。飲み水など不要になったものは捨てられることをお勧めします』と言う。

   ホテルには重量計はなかったし、同行者は日本出発時のうろ覚えの重量から、加減算をして大方の重量を推定していただけなので、不安が走った。添乗員が団体の搭乗手続きをしている間に、私はチェックインカウンターに鞄を持って出掛け、係員に荷物の重さを量らせてくれと言ったが、英語は通じなかった。

   航空券も出さずに、勝手にさっと鞄を重量計の上に載せた。係員は最初困惑したが直ぐに事情を悟った。21.8Kgあった。手荷物の鞄は6Kg。これは大変と大げさにポーズで示したら、ニコニコして『OK』と言った。

   このやり取りを遠巻きにして見ていた仲間が一斉に重量を測り始め、一部の人は鞄を広げ中身を取り出して手荷物化するなどの重量調節をした。戻ってきた添乗員に私は『団体の場合は、荷物の重量は全員の合計で管理するのが普通ですが、ロシアでは個別管理ですか?』『全員分の合計で管理されます』と返事。最初からそう言って欲しかった。

   心配そうな仲間に向かって私は『仮に重量オーバーになったら、添乗員に代わって、私が航空会社と交渉します。重量管理は乗客の体重と荷物の合計で決めるべきだ。ロシア人に比べれば、日本人の体重は10Kgも軽いではないか、と言うつもりです』と言うと『そうだ、そうだ。石松さん、頑張ってね』と一斉に賛同。

   搭乗手続きが完了したら、機内預かりの重量の合計には、まだ90Kgの余裕があると解った。手荷物の重量チェックもなく、一件落着。
   
[3] モスクワ空港

   モスクワ空港では、最後の買い物をした。6/20の長男の結婚式に参加をするための長女一家を含め3人の子供達へのお土産だ。チョコレートなどかさ張らない食料品と、お決まりのキャビアだった。キャビアは小さいからお土産には好都合だ。

   昆虫が内部に密封されている琥珀の飾りも買ったが、偽物臭い印象がした。余りにも昆虫が生き生きとしているからだ。しかし、私は海外での1万円以下の買い物は遊びの内と思っている。空港内の免税店とは言え、信用度は低そうだ。ここではまだJCBは使えなかったが、VISAカードは通用した。

   ここの免税店では普通の商品は買い物篭に入れてレジに直行すれば良かったが、キャビアと琥珀の売り方だけは違っていた。商品が鍵の掛かった冷蔵庫や商品ケースに入れられていた。暇そうな店員に頼み、鍵を開けさせ、商品を指定すると店員が取り出し、ケースに鍵を掛け、レジまで手持ちし、代金を払った後にやっと商品を渡してくれた。窃盗防止が徹底していたのには驚いた。

   搭乗前の待ち時間を活かしながらの人種観察。大韓航空機だから、韓国人のグループが大勢集まっていた。

   よくよく眺めたら韓国の女性の人相は日本人にそっくりな風貌をしているが、韓国の男性の場合は何故か日本人とは明らかに区別できることに気付いた。しかし、男性の場合でもテレビ等に出てくる韓国のインテリ・国会議員・大学教授の場合は一般市民と異なり、これまた日本人にそっくりなのを思い出した。これは私の錯覚なのだろうかと心配になり同行の女性達を、戦前派の高齢者グループと戦後派の熟年グループに分けて別々に質問。

   『上記の私の判断は、私が男だから感じるのでしょうか? それとも女性の目から見ても同意できますか? 韓国人はこの周りに大勢いますから簡単にチェックできると思いますが』。異口同音に全員『石松さんの見方に賛成』と即答。

   元々、日本人のDNAの25%は韓国系、25%は中国の沿岸部系、25%は南方系との説もあるし、似ていて当然なのだが、何故その似方に男女差が発生したのか、見当も付かない。韓国の女性が日本人の女性の化粧法などを真似しているのか、その逆なのか解らなかった。

   『やっぱり貴方達もそう思われますか。私の錯覚ではないと解りホッとしました。何しろ貴方達は韓国人と間違われても、不思議ではありませんね。今回のロシアでも間違われたことがあるのではありませんか?』。何人もが『間違えられた』と答えた。
   
   ある女性が『人相は似ていても、アジア人は日本人よりも原色に近い衣装が好きな人が多いですね』と補足。それには私も同感。
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第7日目(6月3日)

ソウル着は11:40、ソウル発は18:50.何と7時間10分もあるのだ。その暇潰しに韓国人女性ガイドが乗った専用バスが出迎えていた。

[1] 統一展望台

   統一展望台は3年半前の平成12年12月に訪問済みだったのでわざわざ行く気も起きなかったが、単独行動も疲れていて面倒なので皆に付いていった。

   以前とは宣伝ビデオも変わっていた。売店の商品が充実していた。今や日本並に試食コーナーも充実している。買う気も無いのに岩のりをパクパク。前回に買ったものは砂が残っていたが、今回は砂落としも完璧だ。同行者は展望台の見学に来たというよりも買い物に出掛けたようなものだ。冬のソナタブームとかで、女性客、それも60歳代にもなっているのに、主役のヨン氏の写真を1000円で買う人までが続出。

   帰路、石焼ビビンバの昼食を食べたが、私には掻き混ぜて食べるビビンバは汚らしく不潔感を感じるだけで、今回も好きにはなれなかった。

[2] 帰国便の機体交換

   さあ、搭乗かと思ったら、機体不良が発見され、待つこと1時間半後に代替機が到着。大韓航空への何とは無しの不信感が現実のものとなり、がっかり。予定では20:30に名古屋空港に到着し、21:40の最終バスに悠々と間に合う筈だったのに乗り遅れてしまった。

   気分の面からもどっと疲れが出てきた。電車やバスを乗り継ぐのは考えるだけでも面倒だ。同行者はそれぞれ帰りのタクシー代を推定しながらぶつぶつ。添乗員が旅行社を通じて大韓航空と交渉した結果、名古屋空港からJR名古屋駅まで無料バスを出すことに落ち着いた。バス待ちの30分もいらいら。
   
   バスに乗った後、私は運転手と更に個別交渉。豊田市行きでは最も便利な地下鉄の『伏見駅』で降ろしてくれることになり、豊田市まで名鉄と相乗りしている地下鉄の最終便に間に合ってやれやれ。

[3]ああ、良かった!
   
   僅か1週間の短い旅だったが、帰国後最初に取り掛かった作業とは、お土産の類が破損もせず、腐敗もせずに持ち帰れたかの確認ではなかった。体重測定だった。ロシア料理には必ずしも食欲が刺激されず、朝食のバイキングに重点を置いただけでは体力を消耗し、2Kgくらいは痩せ細ったのではないかとの不安に襲われていたのだ。
   
   がんの再発と闘うには過去何十年も変わらなかった54Kgの体重を何としてでも維持し、免疫力を保持する以外に道はないと今も確信しているため、体重計の数値が53.8Kgを示した時には、全身の力が抜け落ちへなへなと座り込みたくなるほど、ホッとしたのであった。
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おわりに

   『現地現物主義』とは、在職中から耳に胼胝(たこ)が出来るほどトヨタ社内に飛び交っていた台詞だ。何か問題が発生したら、先ずその現場に飛んで行って現物や現象を確認し、真因を突き止め、対策を考えよとの意味である。関係者の報告を聴いて解ったような気になる事は、最も避けるべき行為であるとの教訓だ。

   ロシアに出掛ける前に10冊もの本を読んではいたが、書物から得られる情報とは、著者の価値観で織られた大きなフィルターを駆使して濾過した後に残った僅かな痕跡だったと、今回も思えてきた。足掛け1週間、実質的には僅か五日間に過ぎなかったが、現地では五官を通して我が空っぽの頭に、密度の高い生々しい情報が滝のように流れこんできた。僅か五日間に過ぎなかったがそれでも現地で得た見聞は、旅行前に読んだ10冊の本よりも格段に強いインパクトを我が頭脳に与えた。

   画像情報としての写真や活字情報としての書物は時空を越えた、非現地現物情報としては勿論それなりの価値はあるが、それらは現地で現物を見て初めて、花咲爺さんが枯れ木に花を咲かせたが如く、魂を吹き込まれたかのような生きた情報として復活されるものだ、と今回も体験した。その意味からもこの『ロシアの追憶』に、現地現物情報に勝る価値を書き込める筈もなく、賢人各位に『ロシアにでも行って見ようかな』との動機付けにすら成り得ないのは、我が非力だけが原因ではない筈と我が身を慰めている。

   ソ連の崩壊後、ロシアは輸出市場としての旧共産圏を一瞬にして失った結果、戦後一斉に先進各国で花開いていたハイテク化に遅れをとり、まともな国際競争力も無かった国営企業の経営は一気に悪化し、ロシアの国民総生産はたちまちにして半減した。その結果、国内市場にすら欧米や日本からの輸出品が溢れる有様! 
   
   例えば日本車は、新車は勿論のこと中古車までもが引っ張りだこの人気。何処かの自動車学校の教習車が日本語の社名が書かれたまま、誇らしげに使われていた。一昔前までは東南アジアや南アジア各国でもしばしば見かけた光景である。
   
   ロシアにとっての20世紀とは一体何だったのだろうか? 社会主義が目指したかの壮大な実験は何だったのだろうか? 国民は草臥(くたび)れ儲けだったのだろうか? 時の為政者が道を誤ればかつての日本同様、ロシアもまたその例にもれず国民こそがその愚かな政治の犠牲になったのであった。
   
   しかし、人類が辿った悠久の歴史から見れば、ロシアの前世紀(20世紀)の不幸は一瞬の出来事に過ぎない。ロシア正教のシンボルだった絢爛豪華たる教会も、ロシア革命後には惜しむこともなく爆破されたが、今や多額の資金を投入して続々と再建され始めた。あちこちの教会には多数の信者が集まり、十字を切りながら神に敬虔な祈りを捧げていた。自己を失いかけていた国民の心も、やっと落ち着きを取り戻し始めたようだ。
   
   今は、復元された街並みからだけではなく、ロシアの歴史時計すらも20世紀初頭に舞い戻ったかのように一見感じられたが、実はそれらはかつての20世紀と同じである筈がない。エネルギー資源の国際的な逼迫を背景に、今や順風がロシアの背中を押し始めたからだけではない。かつての鉄のカーテンの中にまで、通信衛星から世界の情報が日夜自由に飛び込んでくる時代を迎えたが故に、如何なる政権と雖も、言葉巧みに国民を騙せる時代は完全に過ぎ去ったからだ。
   
   昨年のサンクト・ペテルブルクの開都300年祭を契機として、ロシアは今や世界的な観光ブームの真っ只中にある。どこに出掛けても大勢の外国人観光客が列をなしている。ロシアの再出発は上からの政治改革から始まるだけではない。街角で外国人と国民の一人ひとりが会い接するたびに、日々新しい生の情報をそれぞれが吸収し、明日への糧にしているからだ。
   
   ロシアの復活は一朝一夕に出来うる筈もないが、共産主義とは無縁の21世紀に生まれた若者達が自由な生き方と最新の技術を身に付け、国の至る所で中枢となって活躍する頃には、広大な天賦の大自然とその地下に眠る膨大な資源にも命が吹き込まれ、建国以来願い続けた幸せを、ロシアの民にも掴み取れる時代がやっと訪れることを期待しつつ、拙い筆を措(お)く。
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読後感

猛暑お見舞い申し上げます。

   旅行の追憶をいろいろ読しましたが、石松さんの旅行追憶記を拝読しますと自然に歴史を感受でき、現在の姿を知ることが出来ます。ありがとうございました。

   体力維持を兼ねてのスポーツは、青年のスケジュールですね ・・・ 素晴らしい!!!

   小生は、「何のために生きるか」 ・・・ そろそろ卒業しようと思っています。いろいろご教授頂き、感謝いたします。

@ がん先輩(闘病生活20年以上)・元愛知県工業高校校長・工
                            

   いつも感心して旅行記を読ませてもらっていますが、今回は驚嘆ですね。ところで、治安は如何でしたか。(何の不安も感じることなく、旅を楽しめました。今や外貨を落とす観光客は、大切なお客様扱いです)

   小生はモスクワ空港でトランジットの際、スーツケースを開けられ弱ったことがありました。「マスコミ」に関しての記述のところでは、思わず手を打ちました。

   戦後、日本の風潮を悪くした責任の3分の1は、マスコミにあると思います。

   まだまだ暑さが続く折から、お身体ご自愛を。

A トヨタ同期・経


書中お見舞い申し上げます。

   あの七月の耐え難い暑さからすると、朝方の外気は肌に涼しさを感じさせるようになりました。また、一昨日は夕方に、裏庭で初めてヒグラシの声を聞きました。それでも、日中の街路はひたすら秋の到来が待たれる灼熱地獄で、焼けたシートの暑さを考えると、車での外出もはばかられることです。

   そんな中、石松さまには溌剌と日々スポーツに励んでおられるご様子、羨ましくも何よりのこととお喜び申します。この月は、ご予定になっている大変な奥様の手術を前に、盆供養の帰郷先で知人方にご挨拶をされてくるご予定とか。

   焼けして精悍な顔の石松さまがどんな挨拶を考えていられるのか知る由もありませんが、お相手の戸惑う顔だけは想像出来ることです。

   勿論、急逝した従兄弟と義姉の初盆を迎える小生も、そろそろ身辺整理等の支度に入らなくてはと思いつつ、何げなく日々を送ってしまっています。先ずは、この月の親戚縁者の集う機会から、一期一会を心に接してこようと思い始めている次第です。

   さて、渾身の「ロシアの追憶」を拝読しました。茫漠とした大地と大河の国を相手にすると、旅行記も長編となるのは必然のようで、「現地現物主義」からするとお叱りを受けそうですが、お陰とこの掴まえどころの無い国のありさまが大分理解できました。

   毎度のことながら、辛辣な質問を浴びせられた現地ガイドの”聞こえなかった素振り”や、翌日に答えを引き伸ばした苦心惨憺振りが目に浮かび、彼が少々気の毒に思えたことです。共通の航空工学を話題にされて、少しは彼の顔も立ててやったのでしょうが...。

   私にとってロシアは、機会があったらエルミタージュ美術館を覗いてみたいと思ったことがある程度で、是非とも訪れたいと特別の興味を引く対象の国ではありませんでした。スエーデンの北にある大学を訪問したとき、近くの史跡等を案内して貰いながら、さして川幅もない橋の辺で、「川が凍結したあの年の冬、ロシアはそこまで攻め込んできた」と200年ほど前の事を話されたときには、日露戦争の挿話以上に生々しくロシアを感じたことでした。

   10年近く前、娘がモスクワ経由のアエロフロート機でパリ在住の友人を訪ねたとき、給油の間を乗ってきた航空機の下に腰を下ろして過ごすしかなかったと聞いたり、知人からモスクワでは綺麗なお姉さんがカネ持ち日本人をカモにするよう手ぐすねを引いていると聞くに及び、いよいよ腰が引けるのでした。

   そんなこともあり、今回拝見した詳細な国の紹介や旅行記で、旅行社には悪いのですがパック旅行1回分の費用が浮いてしまった気分です。いまだに”ブン蚊”国家であったり、資源大国ロシアのはずが実際にはまるで宝の持ち腐れになっている点、ガイド氏の言う”寒さ”と”広さ”が影響していると、温暖で狭い国土にひしめく日本人として理解できなくもありません。

   解説していただいた通り、純朴なロシア農民達が国土をマルクス経済理論の実験場にされた挙げ句、過大な軍事費負担にあえいで経済的に破綻し、いきなり資本主義の大競争場に放り込まれたとは誠に無残なことです。

   最近、経済出身の友人から近代資本主義経済理論の諸説を解説してもらう機会を得ました。彼ら経済学者は心理学者でもあるかと感じたのですが、資本主義経済成立の前提には、キリスト教に基盤を置く弱者保護の倫理感を求めているように理解しました。一旦、唯物史観でまとめられた社会が自由主義経済に参入したとき、どんな価値観の社会になるのかと、ロシアと中国の今後を興味深く見ています。

   それにしても、旅行中に同室された元家電卸会社幹部氏のお話にはびっくりしました。経験豊富で能力も十分な男性ですら、60才を過ぎたと言うだけで時給750円の働き口しか無いのが日本の現状になっているのですね。

   日本社会が、これまでに誇ってきた安定と秩序を大きく崩しつつあることを象徴しているように感じます。どうやら、武士階級が消滅した明治維新以上の変革が密かに進んでいることを表しているのかも知れません。何せ、社会に占める対象者の比率は当時の武士階級の比ではなく、これまでの生活基盤を脅かされて不安を感じているのは公務員を除き、民間サラリーマン、農業及び小売業従事者を網羅していると思います。

   Y証券(山一證券?)で幹部に登用されていたと聞いた高校時代の同級生は、あの倒産後に消息を聞きません。安定の代名詞だった銀行に就職した者も定年を待たずに音信不通になりました。成長分野にあっても、経営幹部の判断誤りで多数の従業員が整理されることになるM自動車の例もあります。

   機械サービスで回った日本国中の農村で、後継者の目処もたってこれから先も自立していけそうな稲作農家は数えるほどでした。両隣の街を含め、人口10万に満たない街では駅前近くの旧商店街にシャッターを閉めたままの店が目立ちます。
   
   100万都市を誇る北九州市の副都心、かつては黒崎そごうと井筒屋百貨店黒崎店が競い合っていたJR黒崎駅前の1Kmもある長大なアーケード付商店街もシャッター通りと化していました。黒崎駅の乗降客数はJR九州では博多、小倉に次ぐ第3位というのに!

   郊外に出店した大型ショッピングセンターに客を奪われた結果ですが、その大型店の間でも盛衰が激しく、街中には大きな更地が出来てしまいました。電器店に至ってはこの10年で個人専門店がどんどん無くなり、エアコン、テレビ、冷蔵庫を買い替えた大型店は全て別の店になったのですが、今やその全てが店仕舞をしてしまいました。故障修理を何処に頼んだものかと思案中のDVDは、浜松の大型店に出向かなくてはならない始末です。

   この国民全階層を巻き込んだ大競争は、人口10倍で一人当たり所得が0.1倍(以下?)近い隣国が自由主義経済圏に仲間入りをし、あらゆる意味で敷居を低くしてきたことに起因していると思います。

   駅前商店街や個人商店の崩壊原因は安価な輸入品の氾濫ではなく、消費者から見た駐車場などの利便性不足と、魅力溢れる商品の調達努力・能力の不足にあると思います。

   問題は我が国の為政者で、この大変革期に多くの国民が安心して家庭を営んでいけるのにはどうすべきかとの答えを未だに準備できず、国境を越えた資本とモノの奔流にただ流されてしまっています。ロシアに劣らない日本での自殺者増加は、その期間の長短を問わず働く場を締め出され、社会から疎外されたと感じたことによる絶望からきていると理解します。

   全国民に、人間としての尊厳を失わせること無く働く場を確保するにはどうしたら良いのか? それのみが、今や国と社会の指導者に問われていると思います。表に表れた数字の上だけの失業率を言うのではなく、その数字から漏れている大都市周辺のホームレスや、地方都市で途方に暮れている潜在(半)失業者が問題です。政治家がそれを数え忘れた振りをしたり、企業基盤の再構築であるリストラを人員整理と考えている経営者がいる限り、日本社会の将来に展望は開けないように思います。
 
   乗り継ぎの韓国で、空港周辺での限られた観察からだけでも、日本に比較した経済発展の足取りの遅さに鋭い分析を加えられていて感心しました。確かに、非価格競争力のある商品を生み出し得ていないのは大きな問題です。

   私の体験では、韓国企業の発展は一部の財閥系に限られており、それを支える中堅企業が育っていない点や、経験や情報が個人に抱え込まれる傾向が強く、組織内共通のものにして活用する意識の薄さが問題と感じました。

   しかし、権力の集中しているトップは意思決定が早く、資本の効果的活かし方(投資・投機)では先見性に優れていると思いました。それが、一部工業製品で世界市場のシェアーを稼げている理由と感じています。そのための原材料の多くが日本からの輸出品であるのは彼らにとって問題ですが、それによって我が国競合企業がリストラを強いられるのも問題です。

   とにかく、海峡が人・モノ・金の流れにとって何の障害でもなくなってしまった時代、日本が大陸や半島の人々と競って溌剌とした国であるためには、若い”人”を育て、壮・老の”人”も生かす社会にしていく以外にないものと思います。

   どうも、例によって取り留めもない感想となりました。
  
B トヨタ先輩・工・まだ一度もお会いしたことのない方


その1。
 
   何時もの大作・力作、速読するにも大変です。石松さんは新聞/テレビ/小説に無駄な時間を消費しない主義とのことですが、凡人は閑があれば寝そべったり、ロッキングチェアーでくつろいで、気楽にテレビ/新聞/小説相手の暇潰しです。

   パソコンにも会計データ整理(氏は定年後友人とミニ会社を設立し、経理を担当されている)やE−Mail交信等で毎日相当時間のお付合いですが、小説にも匹敵するこの追憶記は椅子に腰掛け、パソコン画面で読了するにはそれ以上の根気と時間が必要でした。も少しボリュームが小さかったらさっと読破できたのでしょうが、読後感の送信が遅れてしまいました。

   科学技術に優れ、資源も豊富な筈なのにロシアは何故貧しいのか、文中フルシチョフが10年でアメリカに追いつき追い越すと語った、とありますが、かつての2大国の一つも、今や弟分の中国ばかりが目立って、殆ど先進国からライバル視されることはなくなりました。
 
   高速鉄道/道路も無く、自家用車も富裕の人たちにようやくの段階ですか。それでもモスクワ空港は同じ首都のハノイとは違うでしょう。ホーチミン空港はまずまずの国際空港ですが、ハノイは田んぼの中の田舎駅の印象でした。でも地下鉄の高速スカレーターは凄いんですね。

   ハノイやホーチミン空港よりもちょっと建物が大きい程度と感じました。

   読ませてもらいながら次の2箇所が難解でした。
   
P:15 自殺の動機が所得の絶対値ではなくその変化率にあるのは明白だ。

   自殺の動機は勿論良くはわかりませんが、ソ連の自殺者がソ連崩壊後急増したのは、失業・実質所得の減少・将来への展望が開けない苦しみなどと推定しました。所得の絶対値がソ連以下でも徐々に向上している国では自殺者の増加がないからです。

   ロシア人から見れば10倍の名目所得を得ている日本人は高嶺の花ですが、バブル崩壊後の日本でも自殺者が増えているのは、所得が減少している人たちが増えているからだと思いました。人は生活水準の低下には絶望感を感じると思いました。

P:28 既に非価格競争力のある輸出品が世界中で売れていて。ちょっと止まって考えてみましたが解りません。

   非価格競争力とは価格を上げてもライバルがいないため、売れる力を意味します。燃費の良い日本車、性能に優れた電気製品、自動車用の鉄鋼製品など日本には無数にあります。これらは円高分をそのまま現地での販売価格に上乗せすることが出来ました。

   非価格競争力のない商品とは、差別化できない商品のことです。

   石炭・原油・天然ガス・半導体メモリ、農産物など、世界の税抜きの市場価格は一つに収束します。

   又、誰でも作れる簡単な商品はライバルが多すぎるため、自己都合で価格を上げられません。上げれば売れないからです。中国製品も非価格競争力がありません。従ってどんなに外貨が多くなっても、元の切り上げが出来ません。韓国も同じです。

   それから文中の挙母藩ですが、確かにパソコンで文字変換できません。しかし司馬遼太郎の著名な剣豪小説”北斗の人”では、千葉周作最後の試合は挙母藩が舞台で豊田市内の長興寺も取り上げられ、昔から有名だったようです。

   ロシアの他、欧米の白人、中東アラブの少女や若い女性は魅力的です。でも年を取ればどこの国も同じで、平均寿命に差異が有るだけ年輪を重ねた夫々の人種のカオに落着くようです。貧しい国は違っていますか??

   私にはその生涯を幸せに生きた人の場合、柔和で綺麗な顔をしているように思います。精神的にも肉体的にも苦労した人の顔には、美とかやすらぎを感じません。同じ日本人でも拉致被害者の顔は、最早平均的な日本人ではなく、北朝鮮人に似ています。中国からの帰国子女も中国人に似ているように感じます。

   最近のおば様族は”冬ソナ”ヨン様ブームとかで 韓国美青年にはまってるとのことですが これも一過性の社会現象です−−これ解りますか?? 

   私にはその理由は全く分かりません。日本女性の一部の馬鹿が韓国人と結婚したいといっているそうですが、一層解りません。


その2。

   早速の詳しい解説有難うございました特に”非価格競争力”はよく解りました。非現実的、非凡、非常、非常識、非科学的等の非は、後ろの否定(反対)の為に使われるので、これから解釈し解らなくなったものです。そういえばこの語句どこかでお目にかかったような気もしてきました。

   『非』の解釈は貴台のご指摘の通りと思います。価格競争力があるという意味は、安いから売れるという意味であり、非価格競争力があるとは高くても売れるという意味だからです。

   ただ厳しく貧しく一生を送っても 人夫々に美しく老いていけるように思いますが。

   隣人が豊かに暮らしているのに、たとい貧しくとも僻まず、羨ましがらずに生きていける人は幸せですが、私が知る限り少ないですね!『細々と生きている年金生活者』の典型例と自己評価している私をすらも、広い世間には羨ましがる人が稀にはいると知った時には文字通り驚愕しました。

C トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間


立秋を過ぎたと言うのに猛暑の日々が続いていますが、お元気にお過ごしのことと思います。

   さて「ロシアの追憶」拝読させていただきました。私はまだロシアの地を踏んだことがありませんので、貴兄の目を通して様々なロシアの現実を知ることが出来ました。5フィートの鉄道ゲージ、今だ整備されない高速道路、原発と地域暖房などいずれも「現地現物主義」の実感から得られたものでしょう。最初の1ページと最後の第11章でロシアのすべてを簡潔にまとめているのはさすがだと思いました。

   かつて欧州に出張した帰りにモスクワ空港に立ち寄ったことがあり、その時の印象は薄暗い空港内で小銃を小脇に抱え込んだ女性兵士がパトロールし、みやげ物屋には埃をかぶったような商品が僅かばかり並べられていた、と言う陰鬱な雰囲気でした。そして夕暮れ迫るモスクワを飛び立ち、窓から広大なロシア平原を見入っていました。周りが流れる河川の少ない原生林であれば、ホテルに蚊とり線香が準備されているのも、むべなるかなです。
 
   ところでソ連、ロシアにはある種の警戒感を本能的に抱きます。5歳の時、外地(現北朝鮮・平城近郊)で終戦を迎え、白昼機関銃を構え土足で踏み込んで略奪・暴行の限りを尽すソ連兵におびえた日々。そして夜の逃避行。

   ソ連が昭和20年8月8日、日ソ中立条約を破棄し宣戦・布告、日本が降伏した8月15日の3日後の18日に参戦してきたことを学校の社会科で知り、その非情さに怒りを覚えたのでした。
   
   歯舞、色丹、国後、択捉の北方四島は149年前の1855年(安政元年)「日露通好条約」で確定した日本固有の領土であり、国際的にも認知されているにもかかわらず、現在も不法占拠され続けています。
   
   地勢学的には世界地図を逆さにしてみるとロシアにとり日本が如何に目障りな存在かが見て取れます。まさに南へ進出する際の出口を塞ぐ大きな砦、まさに浮沈空母であり凍てつく大地の民にとってこれほど障害になる国はないでしょう。
   
   1855年の「日露通好条約」締結交渉にあたっては幕府勘定奉行川路聖謨の誠意と毅然たる態度は、ロシア使節プチャーチンをして尊敬を受けるほどであったと言われています。外務省も先人の達識に学びロシアとの領土交渉を進め、北方四島の返還を実現させてほしいのです。

   それにしてもミサイルが頭上を飛び越え、国民が拉致されても穏便に事を納めようとしている国を、狡猾なロシアはどう見ているのでしょうか。先日のアジアカップサッカーにおける日本に対する悪意に満ちた中国の仕打ちにも、通り一遍の抗議で幕引き。このような国にまだODAが必要でしょうか。

D 大学教養部級友・工


   「ロシアの追憶」を拝読。いつもながらの大作に市販の旅行案内書に無い感動を覚えました。正確な観光の描写もさることながら、パック旅行の仲間との会話に興味を惹かれました。
   
   中でも帰途、ロシアの航空会社による重量管理の厳しさに対して、「仮に重量オーバーになったら、添乗員に代わって私が航空会社と交渉します。重量管理は乗客の体重と荷物の合計で決めるべきだ。ロシア人に比べれば日本人は10Kgも軽いではないか、と言うつもりです。」に仲間は一斉に喝采。
   
   おそらく、パック旅行の仲間は観光コースのことより、石松さんとの出会いを楽しい思い出にしたことでしょう。
 
E トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間


   「ロシアの追憶」興味深く拝読しました。何時ものことながらよく事前調査され、現地現物の観察考課もあらゆる分野にわたっており勉強になりました。蚊についても全く予想外のことでしたが、蚊の卵は冷凍になっても生きているということでしょうか。
   
   植物の種子、動物の精子・卵子・受精卵の長期冷凍保存能力には驚愕されます。しかし、冷凍マンモスは食べられても、冷凍人間が生き返るとは思いませんね。
   
   外国では異民族に支配されたケースが多く日本は稀な国だとの御指摘、改めて気付きましたが、国全体がもう少し外国並に愛国心を持つようになりたいです。漂流民、殺人・自殺考、偽者等興味ありましたが、この中で発泡酒をビールの偽物との位置付けには異議があります。
   
   ビールと称するなら偽物ですが、発泡酒は国の税制を笑う工夫品だと見ていますし、今や麦芽を全く使わない「雑酒」がヒットしています。石松博士(ご本人が私をからかうときに使われる常套句、接尾語)に考察していただきたい点は味覚論議で麦芽の使用率が如何に大切かと言う点です。その上で我がDraft One族を笑っていただきたいですが。
   
   ゴルバチョフ(自分は彼も偉かったと思っていますが)とエリツインによって自由を得たロシアは今観光大国でもあるとのこと。今後益々普通の国に発展して行くと期待していますが、これと対比して最近起きた北京での日中サッカー試合での抗日活動を見ると一党支配の洗脳教育の恐ろしさと、この中国が何時の日に普通の国になるのか、少人化が進み、小国となる日本が心配になりました。以上簡単ですがお礼に代えて。
   
   『弱い犬ほど、よく吼える』の典型例が、戦後続いている、中国や韓国・北朝鮮の日本に対する行動と評価しています。実質的には何の影響力もありません! 直接の関係者の総てが永眠すれば、早ければ後40年(第二次世界大戦の終結から起算して百年後に相当する2045年ごろ)、遅くとも22世紀ともなれば、抗日活動は歴史の彼方へ消え去ると考えています。

   ロシアは対日行動では一足先にすっかりおとなしくなりました。韓国もトーンが落ちてきました。中国がもう少し豊かになれば、衣食足りてなんとやら、に近づくと予想しています。
   
F トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間


残暑お見舞い申しあげます。

   ご無沙汰しています。貴兄の近況とロシア旅行記拝見しました。いつもエネルギッシュに活動されている貴兄に感服しています。何事にも人一倍興味と関心を抱き続けることは若さを保つ秘訣ではないでしょうか。
   
   海外旅行、今年2月にニュージーランドへいきました。仕事では行かなかったところを優先的に旅していますが、ロシアはもちろん、エジプト、インド、南米諸国など一杯残っています。
   
   5月に四国遍路の2回目(高知〜松山)を歩き終えましたが、その感想をやっと素原稿に整理してみました。推敲不十分でお恥ずかしい文章ですが、前回同様お届けします。末筆ながら奥様のご回復と貴兄のご健康をお祈りいたします。 
   
   18756文字にも達した、素晴らしい巡礼体験記でした。
   
   G トヨタ同期・経・元テニス仲間・リタイア後に横浜へ移転


   ロシア旅日記を楽しく一読(一部斜め読みでしたが)し、改めて「石松節」の健在が確認でき、嬉しく思いました。貴殿との触れ合い(ゴルフのみですが)とかEメールを通じて、私の率直な感じたことを申し上げると、2回の大病を克服された、石松さんを改めて見直したと同時に、最近はなにか人間的に大きくなられたような気がします。

読後感他です。

1、バレー(白鳥の湖)観劇。

   芸術の評価法がわからないとの事。物理的評価とは異質(揶揄的に述べたと思いますが)のもので、主観評価ですから、素人は楽しめたら良いのではないでしょうか。その中で琴線に触れるものがあったら、最高ですね。

   私は環境を整え、体調・気持を良い状態に維持し、緊張感を高めて毎日稽古(能楽)に取り組んでいますが、思い通りに出来た時の気分は最高です。これは素人の楽しみ方ですが・・・・

2、がんとの上手な付き合い方。免疫力がキーポイント。

   同じ事を私の趣味の先生が数年前強調されたのを思い出しました。この先生は現在82歳で健康そのもの(17歳年下の私よりスタミナがあります)ですが、3年前に大腸癌を患った方です。貴殿同様、癌とわかった時猛勉強し、良いと言われたものは片っ端から実行したそうです。暇になったら、癌に関する本を執筆したいぐらい、と酒を飲みながらおっしゃっていました。

3、旅日記とは関係ありませんが、文中に貴宅の集中冷暖房のフレーズがありましたので、フト我が家の事を紹介したくなりました。

   我が家も32年前の新築時、当時の流行であった、セントラルヒーティングにしまた。20年前の改築時には、ファンコイルユニットを2部屋追加し、家中配管がされています。15年前にボイラーが故障し、暖房のみ個別に切り替えました。
   
   冷房は使えたので、故障するまで使う積もりで今日まできました。毎年、チラーを動かす時、ここ10年はいつも、大丈夫かなと心配しながらスィッチを入れていました。前から「大艦巨砲からスタンドアロンへ」と思っていましたが、ある出来事をきっかけにようやく実現できました。
   
   解体・撤去費は結構かかりましたが,永年の念願かない、ホッとしているところです。(昔、大西利美さん[元トヨタ副社長]がこれからは、スタンドアロンの時代だよ、と言っておられたのを思い出します)
   
   30年前の空冷エアコンのCOP(応用熱力学の専門用語。成績係数。出力する熱エネルギー/入力した電気エネルギー)は冷房で1.5〜2。一方水冷のCOPは5くらいでした。しかも、冷凍機やクーリングタワーは屋外に設置するため、室内はきわめて静か。三相200ボルトの低圧電力の従量電力費は安かったので、調査不十分のまま不用意に私は飛びつきました。しかし、皮算用とは異なり電力費は安くならず誤算でした。
   
   契約電力費は10月〜5月の未使用期間中には減額されるとは言え、意外に高くつきました。補機(クーリングタワーの扇風機・冷却水や冷温水の循環ポンプ)の電力費、老朽化による部品の取替えや補修費も馬鹿になりません。稼働時間が長い冷温水循環ポンプの寿命は意外に短く、今は三代目。しかもクーリングタワーからは循環水量の1〜2%が霧化・蒸発し、水道代金も加算されます。統計によれば総コストの4割は補機に掛かると、後で知りました。
   
   一方、空冷エアコンの性能は急上昇。COPは6を突破し、暖房コストも灯油並まで低下。騒音も激減。私も思い切って2年前にセントラル冷房は個別のエアコンに変更。しかし、エアコンの急速暖房力には未だに不満なので、セントラル暖房は継続。とは言え、これもボイラーが破損すれば撤去の予定。機械室は倉庫に転用の予定。
   
   セントラル冷房の撤去と同時に実施した水周りのリフォームで都市ガスの契約を解除し、電磁調理器に変更したにも拘らず、夏場の月間電力使用量は1300KWhから半減。なんとも苦々しい体験でした。

4、「死ぬ前の挨拶計画」順調ですか?

   大変楽しく死ぬ前の挨拶巡りをしました。最後だから、皆に自慢話を聞かせてくれと要求。ある女性は毎年固定資産税を何と500万円も払っていると言いました。ある男性は、巻紙に墨で今生の別れの挨拶を書いてきました。
   
   私に胃がんの名医を紹介していただいた命の恩人、福岡市中洲の飲み屋『リンドバーグ』のママさんを訪ねてお礼の言葉を述べたら、美女軍団が一斉に起立して私の方を向いて目礼。歓談していたお客様が何事ならんと驚く始末。今回お会いした方々はママさんを初め誰一人と雖も、私から会食費や飲み代などを受け取ろうとはしませんでした! 

   私も貴信でその話を聞き、感心しました。出きる事なら私もやりたいな・・・・と思っていましたら、石松さんが即実行とは改めて貴方の行動力には敬服しました。私はその前に、未だ滑り足らない(スキー)、踊り足らない(仕舞・舞囃子)、吹き足らない(笛)、打ち足らない(小鼓)、謡足らない(謡曲)と欲で凝り固まっているので、そちらに力を入れています。

H トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間


その1

今回は、10時間以上もかけて読ませて頂きました。

   当初、添付ファイルが見つからなかったのですが、某氏から転送して貰いました。それを判読するのに数時間かかりましたので、正味はどれくらいでしょうか。ともあれ、私なりの読解力の許す範囲で近来まれなほど、一生懸命読んでみました。
   
   某氏の好意に応える意味もありますが、今年は日露戦争100周年の年なので、ロシアに興味を抱いた故でもありました。残念ながら日露戦争には直接触れておられませんでしたが、私なりにヒントは得られました。

   日露関係史に触れると、それだけで大テーマとなり、観光から脱線するので敢えて割愛しました。

[読後の感想]

1、全体の印象

   これだけの長文を作成される文才と同時に気力、体力に先ずもって敬意を表します。尤も、できれば、本文と参考部分は分けて(注)書きでもしていただけると、もっと読みやすくなるように思いますがいかがでしょうか。例えば参考文献や、ロシア以外の事例(豊田市の市名由来など。)生意気言って申し訳ありませんが、今後の参考までに。

   本題から離れるときは括弧にしたり、蛇足と断わったりして、それと解るようにしましたが・・・

2、前書き

○ 輝かしい実績を残しながら、国民の生活水準は今尚、発展途上国並のままであるのは、一体、何故なのか? ………

■ 恐竜が滅びたのと同様、国にもある程度の適正規模が求められるのかも知れませんね。それに大きいだけで極寒のシベリアなどは、これまで領土としての有効性が発揮されてこなかったように思います。

しかし、領土の広さが天然資源の確保に繋がる限りその有益性は変わらず、今後のロシアは決して軽んじることは出来ないと思います。

○ 我が心の中で何時までも消え去らぬ海外への関心・・・

■ 私はこの6月フランス旅行をしましたが、いわゆるツアーではなく、夫婦二人で1か月滞在してきました。事前の調査も大してやらず、ガイドさんもいなかったし、加えて語学力も不足という三重苦の旅でしたが、逆に失敗を重ねながらも現地の人に接したり、現地の生活ぶりを覗いたりするには面白い側面もありました。
   
   時間さえあれば、一人旅ほど面白い体験はありません。私は単独出張時で訪問国の駐在員が多忙な時は、大喜びで密かにあちこちの探訪を繰り返しました。

○ ロシアを世界一の大資源国と無条件に評価するのは正しいか?

■ 世界一かどうかは別として、又現在は資源を有効に活用していなくとも、将来性には期待ができるかも知れないし、ロシアの潜在的国力をどう評価するかの問題かも知れませんね。

○ 民族の定義は色いろあるが、ロシアでは簡単明瞭だ。ロシアの民族は言語のみで分類される。

■ そうですか。でも、そう単純に割り切っていると、又分裂するように思いますけれど。

   かつてのソ連の分解は未だ不十分と思います。現在のロシア国内の異民族集団である各共和国は、チェチェンを初め何れ独立すると思います。ロシア民族から見れば実質的な陸続きの植民地の管理コストが、益々高くなると推定するからです。

○ 大津事件を当時の日本政府が日露戦争の引き金になることを恐れたのは、当然の判断であった。

■ ロシアはその頃の日本から見れば大国でした。けれど、臆せず戦うことが結局国を守る結果となりました。さて日本の自衛隊、イラクの反米闘争、どうなるのでしょうか。

○ ロシア各地の火力発電所は意図的に都市内に建設され、蒸気タービンの冷却水が地域暖房に使われている。

■ 日本の原発も東京の度真ん中に作ったら、世論の動きも変わってくるでしょうね。

   私もそう思います。米英仏が太平洋で核実験してきた問題と同じです。原発が安全と主張するなら、先ず都心に作るべきです。それが否ならば、せめて電力会社の本社や研究所は総て原発構内に移動すべきです。原発は当初エネルギーコストが下がると誰もが思っていましたが、最近は誤算だったと解って来ました。原発が真に復活するのは遠い将来、化石燃料が少なくなり、価格が上昇した遠未来だと思っています。

○ ロシアではどの標準時間の場合でも、長針の位置は同じ

■ これって当たり前と違いますか? 尤も時差30分という国もあるようですが・・。

   国際標準時に対し、N時間+30分の標準時間を設定している国は少数ですが存在します。ロシアのように11個も標準時があると、東西の両端では最大1時間の誤差を避けるために30分差の標準時間も気楽に設定するのではないかと、気を回す読者への老婆心から触れました。

○ ソ連が成立して以来、軍需産業は大発展したが、後回しにされたインフラの整備は大変な負担が予想される。

■ 日本は平和産業ばかりで発展したのでしょうね。加えて優秀な若者が戦争に取られないから経済が発展したといえませんか。

   ここで書きたかったのは軍備に全国力を投入したとの主張です。軍需産業・軍隊・その他、その他。

○ ロシアは公衆トイレが絶無に近い。

■ パリでも苦労しました。なお、青森の公衆トイレは綺麗でした。

   ロシアやパリだけではなく、欧州各国何れも公衆トイレが少ししかありません。私にはその根本理由が解りません。単なる推定ですが、本質的には欧州人はケチケチ集団だと思っています。一方、エジプトではチップを貰う叔母さんの自己負担でトイレットペーパーを用意する習慣のため、その紙の質の悪いこと、悪いこと! 

   一方、日本の高速道路のサービスエリアとデパートの無料トイレは美しさ、清潔さ共に世界一! その影響は高速道路の利用料金の高さや商品価格などに埋没され、隠されてはいますが・・・

○ ロシアは何故貧しいか? 結局は国力の総てを軍事に注ぎ込み、自滅した・・・

■ アメリカのように両方凄い国もありますけれど・・・。システムの問題もあるかも知れませんね。

   かつての大英帝国は同時に2ヶ国と闘える海軍力を維持する方針でしたが、最終的には挫折しました。今や空母すら手放す状況。敵を知り己を知れば、百戦危うからず、を思い出します。貴台の主張、システムの問題とは何を意味するのか不明ですが、近代戦は総力戦。国力とは何かを考えさせられます。

○ 観光地には、五体満足な乞食も散見された。

■ フランスでもよくみかけました。因みに日本では禁止されています。

   流石は法律家! 日本では乞食稼業が禁止されていると知りませんでした。でも、時たま見かけますが・・・

○ 意地でも発泡酒は飲まないことにしている。

■ 発泡酒、うまいですよ。尤も、何か有害物質でもはいっていると嫌ですね。

○ 林野庁は赤字現業官庁の代表格。何と57歳で退職させられた。

■ 公務員も厳しいようです。彼らの仕事振りはもう少し見直してやるべきかも知れません。

○ スーパー

  今回の旅行で唯一体験したロシア人の生活情報との接点だった。
  
■ スーパー見物はいつか奥様と同行なさるといいかも知れませんね。私の場合も家内の意見を聞きながら見物したら楽しく思いました。又そこで買ったもので美味しかったものを、日本へのお土産にしたら喜ばれました。

   スーパーは生活情報の窓口だけではなかった。日経朝刊8月27日の5ページで小樽市の珍事が紹介された。小樽市は財政難から70歳以上の高齢者に交付していたバスの無料券を本年4月から廃止。閉店間際に実施される恒例の食材の割引販売に群がっていた高齢者が何と消滅し、店員も愕然!

○ 世界最大の大砲

■ 1586年(天正14年)にそんな大砲があったというのは凄いですね。尤も、性能面について言えば、例えば、日露戦争の時も、数ではロシアが勝っていても性能では日本の方が勝っていたようです。

   日本人の品質第一主義は、戦後に始まったものではありませんね。昔から究極を窮めることに生き甲斐を感じる国民性があったと思っています。製造業だけではありません。日本の農産物は外国人から見れば、芸術品です。ロシア人のいい加減さとは対照的です。海外工場で一番苦労するのは、ちゃらんぽらんな従業員への5S教育(整理・整頓・清掃・清潔・しつけ。言葉をローマ字表記すると総てSで始まるから5S)です。
   
   私のゴルフ友達は自宅の芝生の中に生えてくる雑草を、毎朝早起きをしてはバケツを片手に何とピンセットで抜き取っていました!

○ 地下鉄

  最初の予定には無かったが、ロシア人ガイドに地下鉄に乗りたいと要望。
  
■ パリでも地下鉄によく乗りました。東京の地下鉄でも上手く乗り継ぎが出来ないのに、パリでは失敗続きでした。でも、後から思えば楽しい経験でした。

   パリの地下鉄路線名は番号で呼ばれており、電車の先頭には終点の駅名が表示されていたし、固有名詞が覚えられない私には大変利用しやすかったのですがね。ホームに出ると壁面には広告がなく、大きな字で駅名が20mくらいの間隔で書かれてもいたし・・・

○ 私にはバレーに限らず芸術の評価法が解らない。

■ 確かに芸術の場合、人によって評価が異なることが多いようですね。有名な作家でも生前は評価されず貧しかったなんて話はよく聞きます。でも、逆に言えば自分流の楽しみ方でいいのではないでしょうか。

私もよく解りませんが、バレーもオペラもパリで見に行きました。事前にちょっとCDで聞いて行ったら楽しみが増えました。

美術館もよく行きました。ルーブルやオルセーより、ピカソ、ロダン、コクトーなど個人の美術館の方が展示の数も手ごろでゆっくり楽しめました。

追伸

■ 素朴な質問ですが、帝と公とはどう違うのですか。モナコでも公国と言っていますよね。英語ではプリンスですか。

帝国、王国、公国の絶対的な区別は私には解りません。幾何学の回答とは異なり主観依存ですが、大体の解釈としては

@ 帝国は支配下に複数の王国があり、その頂点にいるのが皇帝。
   
   手元の世界史の大学受験参考書では、ペルシア帝国、ローマ帝国、東ローマ帝国、インカ帝国、アステカ帝国、サラセン帝国、神聖ローマ帝国、モンゴル帝国、ティムール帝国、ムガール帝国、セルジュクトルコ帝国、オスマントルコ帝国、ロシア帝国、スペイン帝国、大英帝国、ドイツ帝国、オーストリア帝国、大日本帝国(ちょっと大げさ)・・・。皇帝と天皇とは同格扱い。

A 王国は王様が支配している国。

   王家が断絶すると公爵(プリンス)から王を選んだ国もあったとか。

B 公国は公爵が支配している小国。
   
   現在の公国は国の機能の一部は密接な関係にある隣国に依存していますね。リヒテンシュタイン公国はスイスに軍事を委託。公爵の資格がわかりませんが・・・。ロシアは建国のいきさつから王様が誕生しなかったので、大国になってもモスクワ公国などと言わざるを得なかった?

その2

帝国などの用語について。

貴兄のご説明、辞書を引いても同様の解説があり、ほぼ了解しました。しかし、細かいことを言うとやはりよく分かりません。

1) 例えば、天皇は現在でもemperorと訳しますが、日本帝国とは言いません。尤も、天皇をemperorと訳するほうがおかしいのかも知れません。

2) 大英帝国の場合、kingが支配しているのに、Empireでした。大辞林によると、〔British Empire〕は、17世紀以降、イギリス本国および世界各地の植民地・保護領などを含めたイギリス帝国の称。その名称は1931年まで用いられた。

3) 公国は2種類あって、1国内で公爵の支配するdukedom(かつてのフランスのブルゴニュなど)とリヒテンシュタインやモナコのように、他国に軍事等を委託する小国の場合があるように思われます。モナコの公は英語ではprinceといっているようで、princeの意味は我々が考えるのと少し違うのかも知れません。(因みに、イギリスの女王の夫はprince)

   そもそも、国ごとに勝手に?つけた名前を日本語の翻訳で論じているわけですから、貴兄が言われるように、「幾何学の回答とは異なり」正確さを期することは難しいのでしょう。けれども、お互いに知りうる範囲で情報交換することでいいのではないかと思います。
   
インターネットからの検索。

大日本帝国(だいにっぽんていこく)は、明治維新から1946年まで用いられた日本の国号。

   慶応3年(1867年)徳川幕府第15代将軍・徳川慶喜が、天皇に大政奉還したことを受け、朝廷は王政復古を宣言した。これにより討幕派の薩摩藩や長州藩が中心となり出来上がった明治新政府が帝政国家を目指し、大日本帝国を名乗った。

   これが国号として公式に表れるのは、明治22年(1889年)の大日本帝国憲法の制定の時であるが、その後も「日本」「日本国」「大日本」「大日本国」「日本帝国」「大日本帝国」といった国号が乱用され、正式な国号として大日本帝国に統一されたのは、昭和11年(1936年)である。

   第二次世界大戦終戦の翌年である昭和21年(1946年)に、敗戦後の新しい国家体制を作るべく、国号は日本国に改められた。
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   貴台のご意見に賛成。各国が勝手に名乗り、日本語には整合性抜きで翻訳しただけと思います。北朝鮮等は天皇の称号を認めたくないためか、日王という言葉を使い始めました。
   
   国号を何と命名するか、その頂点にある方を何と呼ぶかは、それぞれの国がそれぞれの国の言語を使い、自由に決定している結果、世界全体としての統一性はないのが、当たり前と言うことでしょうか。例えば、ナポレオン皇帝とはいっても、フランス帝国という表現にはあまり出会いませんね。
   
I トヨタ後輩・法


『ロシアの追憶』 興味深く読ませていただきました。 

   毎回思うのですが大変な力作ですね。 同じ物を見ても、豊富な関連知識、深い洞察力、鋭い感性の助けを借りなければ、これだけ示唆に富んだ紀行文は書けないと思います。

   冒頭に挙げられている今回の4つの目的に関連する記述は、勿論面楽しく読ませていただきましたが最後の

ロシアにとっての20世紀とは一体何だったのだろうか? 社会主義が目指したかの壮大な実験は何だったのだろうか? 国民は草臥(くたび)れ儲けだったのだろうか?

のくだりは、まさに至言だと思うと同時に、まだ世界の各所でこうした無益な実験(?)が繰り返されていることに心が痛みます。

J トヨタ後輩・工・パソコン通


ロシアの追憶コメント(序章)

   ロシアはつかみどころがない国である。高校世界史にでてくる帝政ロシアの拡張主義と南下政策、シベリア鉄道すらないときの陸路極東への進出と領土拡張(カムチャツカ、アラスカ、日本近海まで)。満州、朝鮮をめぐっての日露戦争、昭和に入ってのノモンハン事件、終戦時の満州侵攻、シベリア抑留。朝鮮戦争そして東西冷戦。
   
   左翼学生の愛唱歌であったロシア民謡が支配した歌声喫茶。宇宙開発・科学技術競争や軍拡競争。更に途上国への援助競争と革命の輸出。日米安保の仮想敵であった極東ソ連軍。そして日本人にとっては突然のソ連崩壊。など日本をめぐる19-20世紀の世界史でロシアの動きは非常に多彩であった。
   
   そういえば1945年に消滅した帝国陸軍の仮想敵も明治以来ロシアであった。関東軍はもっぱら対ソ戦に備えていた。終戦をはさんでも、ソ連が軍事強国であるかぎり、地理的に軍事対象国であることは変わるはずがない。

   私は1993-1996年当時モスクワ空港経由で何回か欧州と成田を往復した。空港の規模の小ささ、照明の暗さ、天井の低さ、航空便数の極端な少なさが印象的であった。これはとても米国に対抗するような国の首都の空港とはいえないと思った。免税店は商売気がなく良心的とも言えた。

   空港の外には出たことはなかったが、ロシア上空は何十回と今日まで飛んだ。東独はともかく、ポーランドの地上風景はかなり寂しく、ヨーロッパロシアに入るとさらに寂しく、森林、原野、たまに粗放な農地であった。シベリア上空は成田行きの場合大圏コースで北極圏を通るが、冬は何もかも凍結していた。それでもところどころに灯火が見えるのが印象的であった。

   1993-1995年の国連勤務は丁度、旧共産圏が援助提供国から援助受入国に転換した直後であった。勤務地がウィーンであったので、旧ソ連・東欧の実情についてはよく見聞することができた。日本にいたころは理解できなかったが、共産主義の後遺症はひどく、また市場経済への移行は非常に大変だと思った。親しかったアメリカ人課長によれば、ソ連は70年間の共産主義という愚行で、国富はすっかり使い果たしたといっていた。

   しかし国富の喪失だけでなく、人間の質の劣化がもっと深刻な問題である、と認識した。野生の動物を檻に入れることは1日で可能であるが、檻の生活に慣れた動物を野性に戻すのは何十倍も大変である。
   
   檻の中の権力闘争には長けても野生の生活(=付加価値を作り出すこと)は不可能になってしまった。共産圏政府からの出向の国連職員は権力闘争の本当のプロという印象で、共産党組織は本当に恐ろしい人間を作ると思った。組織を離れればロシア人は大陸的で善人が多かった。

   その後2001-2002年と日本政府の援助調査団員としてモルドバ共和国に延べ180日滞在した。旧ソ連15カ国のうち、飛び出したバルト3国を除く12カ国で作ったCIS(独立国家共同体)のうちの1国である。CISは、ロシアとその身内にちかいベラルーシ、ウクライナの3国、中央アジアの「○○スタン」5カ国、コーカサスの3カ国、そしてウクライナとルーマニアに挟まれたモルドバの12カ国で構成されている。

   モルドバに来て知ったことは、国連時代に接触の多かった東欧諸国と旧ソ連は、相当に違うということであった。共産主義をやった期間の差、植民地支配といえるモスクワと周辺国の関係、そして徹底的な中央集権体制などである。その結果独立後も自立できない周辺国として、モルドバの漂流状態は続いている。CIS加盟国ではないが、モンゴルが似た状態である。

   援助は上水道関係であったが、都市集中暖房、効率度外視のシステム、インフラの貧しさなどは、まったくこの追憶記に出てくる話と同様であった。ロシアよりは更に深刻であって、都市集中暖房はストップしているところが多かった。ロシア製のミニバスは乗り心地が最低で、道路条件のいい都心の近距離の移動以外には使えなかった。

   このように、私はロシアを周辺からずっと見てきたが、いよいよ本論に入ることにする。
                                    (つづく)

ロシアの追憶コメント(本論1)

1. ロシアは資源大国か?

   追憶記にあるように、陸地面積に比例した資源以上のものがあるかどうかははっきりしていない。ただし、開発・探査が進んでいないという意味では、世界陸地平均以上に、未使用で残っている資源の割合は大きいかもしれない。シベリアの森林(寒冷地なので再生産不可能な鉱物資源と同じ)や天然ガスなどがそれにあたる。
   
   かりに陸地平均並みとしても、陸地面積は広大だから人口1人あたりの天然資源は多いといえるし、1国としての天然資源の量も世界各国で上位かもしれない。こういうイメージが資源大国ロシアという見方を作っているのかもしれない。

   また絶対水準からみて資源が豊かであるかないかとは別に、現実に外貨を稼げる商品として資源しかないという現状がある。各国ビジネスマンにとっても、各国政府にとっても、ロシアの魅力は一義的には資源である(あるいは資源大国としてのイメージに振り回されている)と思う。
   
   広い国土に点在する所得の低い1億余りの人口のマーケット価値は、資源大国の魅力よりは劣るのではないかと思う。かりにマーケットとしての価値を認めても、それは資源収入あっての購買力である。

   資源の消費地において、商品としての競争力がなければ資源ではない、というのはまったく同感で、広大なシベリアから長距離を輸送して採算が合うのは、現存する資源のうち一部であろう。そういう意味でも資源大国というのは幻想的要素があるといえる。資源の開発技術や経営管理能力は別にロシア人が担当する必要はなく、政情が安定しており、採算が合えば、世界最高水準のものを投入することは可能である。

2. ロシアは今なお大国か?

   大国の定義というのも難しいが、それは省略することにして、単純に考えることにする。まず超大国でありえないことは明白であるが、大国、準大国といえるだろうか? 人口が日本よりやや上、国民1人あたりGDPが日本の十分の一とすれば、要するにGDPは日本の十分の一、すなわち韓国なみの経済規模となる。

   購買力平価で比較すれば日本の十分の一以上であるという議論がでてくるが、結局1億4千万人の人口の持つ力如何ということになる。高い自殺率(追憶記にあるように真剣に取り組むべき問題、日本でも)、高い失業率、多いアル中患者、低い出生率(数字失念、日本よりはるか下と記憶?)、がたがたのインフラから見て、とてもこの1.4億人は国際競争力のある集団とはいえないと思う。
   
   元気な若者に期待するとしても、健康人口に換算して数千万人と評価すれば、やはり人口規模で今の韓国並み、経済国力では昔の韓国並となる。

   そもそもロシア製の消費財はモルドバにはまったくなかった。安価な消費財を量産・輸出している中国とは非常な格差である。結論としてロシアは大国ではないということになる。準大国でもないだろう。イメージとしての大国は残っていても実態は中クラスの国、それも余り健康的でない病身の中クラス国といえる。輝かしい歴史を持ちながら没落した三井鉱山や鐘紡を思い出す。

   それではあの拡張主義のロシア人のエネルギーはどこへ行ったのか? 共産主義は一時的にはロシア人のエネルギーを引き出し、長期的にはまったくスポイルしてしまった。若い世代が健全な社会を作れるかどうかは判らないが、多くのマイナスの遺産を持ってのスタートであるから、かなりの長期間を要する話である。
   
   少なくともロシア建国以来の発展・拡張史は終わり、衰退、長期低迷の時代に入ったといえよう。明治維新と西南戦争で蓄積エネルギーを使い果たした鹿児島県に似ている。しかし鹿児島県は共産主義にスポイルされたわけではないから、中央直結のいい空港と、いい高校(ラサール)、それに九州新幹線の先行開業と、まだ昔の気迫は残っている。

   今回の追憶記は条件に恵まれた大都会、首都近郊、外人観光客で潤う観光業者、超高級ホテルなどを見ているので、平均像よりは明るい面を見てきていると思う。厳冬に集中暖房の止まった零下40度のアパートや失業者の群れ、お湯の出ないホテルやびっくりするほど汚いトイレなどを見てまわれば、ロシアについて更に深刻なイメージが生まれたであろう。
   
3. ロシアのインフラのひどさ

   ライバルであったアメリカの高速道路(最近は傷んでいるが)などのインフラ整備に比べて、インフラ軽視のロシアの歴史は驚きである。道路、鉄道、水道その他全部だめだと思う。当初の設計計画思想や建設にも不備があるが、それ以上にメンテナンスが極端に悪い。しかもだんだん悪くなっている、といわれている。
   
   共産主義時代には多少は回ってきた修理予算も、今はほとんどもらえない現場が多い。税収や料金収入が確保できないからである。インフレ予算をやめようとすれば、修理費は配賦できない。いままでの10年間はだまし、だまし使ってきたがもう限度だといわれ、鉄道などもこれからは事故が多発するだろうといわれている。

   私はかねてシベリア鉄道に興味を持っていた(大陸横断鉄道はまだアメリカしか経験していない)が全区間寝台車に乗った人の話しでは、とんでもない苦行だそうで絶対に薦めないといわれた。日本海側の各県では、環日本海開発の議論が相変わらず盛んであり、その中の柱の1つにシベリア鉄道ランドブリッジ構想があるが、これはまったく無責任な発想である。トヨタ自動車での部品輸送実験の通りの状態である。

   保守費用を確保するメカニズムが機能していないのだから、これは鉄道技術とは別の問題である。しかし共産主義後遺症とは別に、鉄道は世界的には斜陽交通機関であり、シベリア鉄道を含むロシアの鉄道に、再生の可能性があるかどうかはわからない。なおモスクワ、ペテルブルグ間は私のデジタル地図では直線で640キロ。追憶記の500キロ(ガイドブックからの単なる孫引きでした)よりは長い。

4. 牛肉のまずさ

   モルドバではじめて、鶏、豚よりもまずい牛肉を2年間体験した。それまでは牛肉は「肉の王様」と信じていた。まずい原因は野草だけの飼育にあるようである。餌として穀物を与える必要があるらしい。
   
   松阪牛は米国人も美味しいと評価している。層状に脂肪と蛋白質が組み合わされた霜降り肉は柔らかくてかつ美味しい。そのためには穀物肥育と中年肥りが必須。高価な飼料代と体重増なしの肥育期間の長期化がコスト高となる理由。
   
   ビールを飲ませるのは箔付けのための単なるパフォーマンス。松阪肉のまがい物は世界に冠たるハンバーグ。蛋白質と脂肪を撹拌して作るが、この程度でも世界的に人気があるのは、安い割には美味しいからである。
   
   ところで、パナマでも同様の理由で牛肉はまずかった。パナマは共産国ではないが、商品競争力のある牛肉を作ろうという気迫のない国で、運河収入という不労所得と、ヨーロッパ仕込みの社会主義思想に汚染されている国(社会主義思想は東側世界の独占物ではない。西欧も非常に汚染されている。そもそも社会主義思想は欧州社会全体の産物である。だから私は、通貨としてのユーロは信じない)なので、牛肉はやはりまずかった。
(つづく)

ロシア追憶記コメント(本論2)

1.韓国の国民1人あたりのGDPは、なぜ10000ドルで止まったのか?

   それは追憶記に書いてある通りである。日本の1人当たりGDPは「エンカルタ百科(デジタル百科)03年版」によれば38000ドルに達しルクセンブルグに次いで世界2位である。東独を併合したドイツは22000ドルと低迷している。
   
   ルクセンブルク公国の一人当たりGNPが世界一になっているのには、特殊な事情がある。大手鉄鋼会社などの本社があり、法人所得が個人所得に計算上加算されているからだ。人口は僅か41万人強なので、法人所得の影響が大きく働く。人口35万人強の豊田市が、『豊田共和国』になると、一人当たりGNPは一挙に倍増し、ルクセンブルクを追い抜く。
   
   戦後、大阪府から本社を東京都に移動した大会社が増えたため、府民所得は形式的に落ち、その分都民所得がかさ上げされたのと同じ理由だ。国民の豊かさをGNPで比較する場合には、法人所得を除いた計算法がより現実的である。ルクセンブルクに行けば直ぐに分かるが、私にはオランダやベルギーの方が民度は高いと感じられた。

   アジアではシンガポールが20000ドルでイギリスと並んでいる。アジアでシンガポールに次ぐ地域は、独立国ではないのでエンカルタには掲載されていないが、香港、台湾が次いでいる。「シンガポール、香港、台湾、韓国」の順位となっている。この4国・地域の発展を支え、またこの序列の原因となっているのは英日の植民地経営であり、またその期間の長さが重要である。

   イギリスの植民地経営のうまさには一応定評があるところであるが、もしシンガポールや香港の植民地経営の期間が35年であったならば、今日のシンガポール、香港の繁栄は絶対にありえない。
   
   韓国経済の「基礎学力不足」は、日本の植民地経営の期間が「わずか35年」であったことと深く関係している。ここに来て、畑を耕した深さ、浅さの問題が表面化したのである。この基礎学力不足の問題を解決する方法は簡単に見つかるはずがない。当面は10000ドル経済になったことを、幸運と思い感謝するしかない。
   
   日韓併合当時の韓国経済にはまったく基礎がなく、日本の植民地経営はほとんどゼロからスタートしている(この項は、インターネットで意見を公開している太田述正元防衛庁審議官の記事を参考にしている)。

   なお最近の韓国は経済面だけでなく政治面でも混迷しているが、太田氏によれば、戦後の歴代韓国大統領の中で、韓国の発展を正しく引っ張ってきたのは3人の軍人大統領だけだという。朴大統領は日本の陸士卒の満州国軍中尉であり、後継の2人は韓国陸士卒であるが、韓国陸士を作った軍人たちは、日本の旧軍の軍事教育を受けた韓国人たちであった。
   
   要するに3人の軍人大統領の教育基盤は日本陸軍であったという。もはやそういう世代が消えた今日、これからの韓国政治は混迷の時代に入るのではないか、と太田氏は危惧している。

   韓国ブランド品にも、岩のりにも、キムチにも、大韓航空機の整備不良(私もNYで経験あり)にもこの基礎学力不足が反映していると思う。しかしインチョン空港はいい空港である。計画されている4000メートル平行滑走路4本が完成したらすばらしいと思う。
   
   これに対し、わが関空は、地盤の沈下、経営の沈下、財務の沈下の三重苦だそうである。これは運輸官僚による経営の必然の結果であるが、トヨタ自動車が深く経営に関与する中部新空港では、このようなだらしない空港建設を再演することなく、空港経営の模範演技をぜひ見せて貰いたいものである。

2.日露関係をどう考えるべきか?

   この追憶記の直接の主題ではないが現在の日露関係をどう考えるべきか? 南北朝鮮と中国は隣国である。アメリカも同盟国でもあり、また太平洋は広いが川のようなものであるから、アメリカも隣国である。太平洋が川であるとは、1975年にカリフォルニアの海軍大学院に短期留学したときに実感した。しかしロシアも間違いなく隣国であるが、戦後59年間没交渉に近い。

   伊藤博文は、日露戦争の終了後わずか4年後に、日ロ関係の関係修復を当時のロシアの実力者政治家ウィッテとハルビンで交渉しようとでかけて、同地で暗殺された。それに引き替え59年の膠着状態は、冷戦構造などいろいろな事情があったとしても余りにも長い。

   現在日ロ交流を望んでいるのはロシア側であるが、日本側が北方領土返還に固執して没交渉状態が続いている。ロシア側も交流は望んでも領土を返還してまで交流促進ということではなさそうである。わずかに鈴木宗男代議士が風穴を開けたが挫折してしまった。

   日本側でも経済界は交流促進(資源大国や市場幻想からか?)で、その意向を受けて通産省などもJETROや関連機関を使い極東ロシアの調査などを若干やっているが、遅々として進まない。外務官僚の中の強硬派が領土返還に固執して、交流を阻止しているといわれているがよくは知らない。

   しかし、そもそも北方領土はそんなに重要か? 北海道ですら、面積のほとんどは過疎地である。北海道の更に先の根室沖の島々がそんなに重要であるとは考えられない。水産資源があるというがそんなものは購入すればいい。事実、日本は魚の輸入国になりつつある。かつて小沢代議士の4兆円の北方領土購入案が伝えられたことがあるが、とんでもない話である。
   
   私は北洋漁業で遭難死が報道されるたびに悲しくなる。こんな危険な仕事は仕事もない外国人に委ね、日本人は付加価値の高い商品を輸出し、魚は輸入すればよいと思っている。クジラ漁もそろそろ引退時期だ。クジラは刺し身に出来る一部を除き、余り美味しくはないからだ。
   
   とは言え、北方領土は日本の固有領土。民族の誇りと密接な関係もある。この返還をロシアに強力に且つ不断に迫るのは、対ロシア交渉にかかわる無数の案件を日本側に有利に展開させるために一番役立つ強力な切り札になるからだ。相手の最大の弱点になっている。
   
   羊肉も美味しくはないが、それを神からの贈り物等と言って有り難がる経典の民(ユダヤ・キリスト・イスラム教徒)にせっせと食べてもらい、日本人は海外の広大な牧場で穀物肥育させた美味しい和牛を輸入すればよいと、予てから考えていた。

   国境に固執すれば、これはゼロサムゲームであるが、実際は灰色ゾーンがあっていいし、特に平時に国境線の変更に固執するのには無理がある。中国だって台湾返還は気長に待って日本の敗戦で回収した。ドイツは、オーテルナイセ以東の広大な国土を放棄している。

   日ソ中立条約とか、千島の範囲、固有の領土などという議論はくだらないと思う。日本側だって1941年の関東軍特別大演習は対ソ不意打ち侵攻の準備であった。結局侵攻の隙が見つからないうちにチャンスを逸してしまった。戦争とはダイナミックなものであり、地図を書き換えるものである(軍隊には立法作用(=既存秩序を変える)がある)。

   ODAをロシアにも与えれば、日本とのパイプは太くなる。日本型式の製品が浸透してゆく。民間ベースでの投資の誘い水ともなる。日本のODAで得意な土木インフラ整備をロシアでも推進すべきである。援助というが資金のかなりは日本企業に還流する。幸いにロシアは混迷中で、中国への進出と違ってバスに乗り遅れるというあせりは必要ないかもしれない。しかし日本が進出しなければライバルの欧米主要国が進出することになる。

   そもそも地政学的に極東地方のロシアは、日本の経済圏に組みこまなければ発展しない。日本としては南に豪州、北に極東ロシアを資源フロンティアとして交流を促進すべきである。

   またロシアのこれからの経済発展のためにも、日本を含む外資の進出、観光客の流入は非常に重要である。要するに彼らに外の世界を知らせること、新しい技術やノウハウを与える必要があるが、それには日本を含む先進国との交流が不可欠である。
                                   (つづく)

ロシア追憶記コメント(本論3)

1. 世界を知るということの難しさ

   地球は狭くなったとか、情報は瞬時に伝わるというが、必ずしもそうではないという話。1993年にウィーンで国連勤務のときに、ルーマニアで科学省関係者に市場経済の特徴について講演したときに、講演終了時の質疑応答で、市場経済が依然何もわかっていないことが判明し、がっくりしたことがある。
   
   そこで海外旅行の経験者を聞くと、約半数が経験ありだったが、行先は隣国のブルガリアだけがほとんどであった。当時は1ドル札が現地では大金であって、国立図書館でも西欧の新聞雑誌の購入は不可能で、援助での寄贈に頼っているとのことであった。これでは世界は動いている、変化しているといっても、理解するのは難しいことになる。それから11年たって多少は改善しているであろうが、まだまだ大変であろう。

   日本では明治維新の元勲、井上馨も当初は品川の英国公使館に対しテロ攻撃をやっていた。今のイラクでも攘夷派が暴れている。いずれも世界情勢が読めていないが、イラクのテロ撲滅も米国側には、目途は付いているらしい。

   2001年にモンゴルで市場経済について講演したときの反応も同様であった。ビジネスマンは理解できるが、肝心の経済の民営化政策を取り仕切っている政府官僚や経済学者が市場経済を理解できず、民営化は遅々として進まない。

   ロシアよりも改革のエネルギーや人材にとぼしいCIS周辺国では依然共産党(=保守派)が支配しているところが多く、外資も寄り付かず混迷している。共産党には人材が集中しており、彼らの牙城を崩すためには、外国の援助や観光客の流入は重要である。
   
   単なる講演ではなく、現地現物をみるチャンスを与えるからである。しかし観光客の受け入れ態勢がないだけではなく、観光客を嫌う攘夷体制のCIS周辺国もある。こういう国は結局沈没してゆくしかない。

   日本国内でも、企業内で意識改革と騒ぐ人がよくいるが、終身雇用制にどっぷり浸かっていては意識改革もむずかしい。大きな改革は追憶記にあるようにエリツィン型、あるいは織田信長型でなければできない。勢いと犠牲者の数量が重要である。明治維新は西南戦争だけで数千人死んでいる。

2. インフラの未整備(つづき)

   米国では市場原理によって地域間分業も発達している。全米で消費される野菜、果物はカリフォルニアとフロリダで主に集中生産され、ハイウエーで消費地に運ばれている。高速道路網が発達しているから、このような地域分業が可能である。イギリスでは鉄道の時代になって、ジャガイモの値段も一物一価になった。輸送手段がなければ、価格を平準化する手段がない。市場経済は交換経済であるが、運べなければ交換できない。

   ところで旧ソ連は計画経済ののもとに極端に地域間分業を推進した。いまその弊害が特定産品や部品のみの地域別集中生産体制ということで各地域を苦しめている。ところが、この偏在した産品を輸送するインフラが不備では、地域間分業がそもそも成り立たない。

   パソコン搭載の全世界航空時刻表によれば、ロシアの都市間の航空便は極端に少ない。特に極東地方の各都市は孤立状態であるといっても過言ではない。物流にはビジネスマンの移動を伴う筈だが、それがまったくない。貨物も動いていないと想像せざるを得ない。地域分業で作った中間製品は輸送されず、結局使われずに終わったのではないか?

   旧ソ連のGDPはこういうムダ製品の数量積み上げであったのであろう。ソ連崩壊後、GDPは急減したというが、こういうムダな作業をやめたのも理由であろう。そもそも共産党にとって統計とは「当面、都合のよい数字」に過ぎない。過去の高い生産水準の統計をそのまま信用することはできない。
   
   モルドバでも過大設備や使い物にならない工場などいっぱいあった。設備投資のむだだけでなく、生産工程でもムダの連続であったに違いない。官僚統制の計画経済では、効率や改善はタブーだったようである。

   中国の国内線のフライト数は年々増強されている。ボーイングやエアバスの世界最大のマーケットである。北朝鮮の高麗航空は北京と瀋陽に各週2便(機体はツボレフとイリューシュン。クワバラクワバラである)しか飛んでいない。
   
   他に瀋陽から平壌へは中国南方航空が週2便(機体はM90)乗り入れている。インチョン空港の繁盛とはすごい格差となったものである。こういう格差をもたらした北朝鮮の政権は自滅させるのが正解であって、てこ入れする小泉総理は血迷っている。ロシアの航空網は北朝鮮型である。
                                   (つづく)
ロシア追憶記コメント(最終回)

1.インフラの悪さ(つづき)

   ヒットラーの戦車の進撃を道路事情が阻害したというのは初耳であったが、そもそも戦車が悪路や道路のないところを走行できるというのは誤解である。短時間の戦闘時にはそういう行動もとれるが、長距離の移動には整備された高規格道路が必要である。しかし高規格道路の走行にはキャタピラーはかえって不便なので、トレーラーに搭載して運んだりしている。最近、陸上自衛隊もコスト削減のためにゴムタイヤの戦車を作り出したそうである(コマツの話)。

   インフラの悪さとは別であるが広軌鉄道も不便であろう。モルドバ(旧ソ連)・ルーマニア国境駅では台車交換のために国際旅客列車は5-6時間停車している。スペイン、インド、スリランカ、モンゴルも鉄道は広軌であるが、スペインも欧州各国との交流には不便であろう。

2.紅と専

   紅(思想)と専(専門)とは中国共産党での分類である。農村出身でまた外国を見たことがなかった毛沢東は専門家を嫌った。専門家は自分の中に判断基準があるから、共産党に盲従しない。それを嫌ったのである。毛沢東は文化大革命を発動して専門家集団を壊滅させた。

   ところでロシアでの紅(思想)と専(専門)の関係はどうか? 人工衛星やミサイルの話を聞くと専門家は一応、大事にされていたかとも思うが、モルドバでの工場廃墟やでたらめな水道設備計画を見ると、やはり紅(思想)支配の世界、すなわち権力闘争とゴマすりの明け暮れだったのではないかと思う。2002年当時でも、モルドバ用水公社の実力者総裁(電気屋)は精神病ということで追放されつつあった。保守派の共産党大統領による、技術人脈の粛清である。

   中国問題は本稿の主題ではないので省略するが、2004年夏になっても本来は専門家集団であるべき北京の超一流大学や超一流病院で、依然紅(思想)は幅を利かしている。北京中医薬大学付属病院で、「薬王(超名医の称号、中国の歴史で唐代に1人存在、したがって中国史上2人目)」の称号を持つ内科医は、医学部学生なら誰でも知っているホルモン名を知らなかった。ヤブ医者以下の素人に過ぎなかった。院内に掲示されている経歴では表彰無数回であったが。彼の診察室には江沢民直筆の額があった。
   
   日本でも、学術会議第三部元部会長(=全国医学部教授のチャンピオン、金沢大学医学部長→同校学長二期)は金沢星稜大学学長としては、学問嫌い、学者嫌い(専門家嫌い)、恫喝政治、4年間連日大学経費で飲み食い。結局理事長に追放された。私企業としての私学を経営危機に陥れる「雇われマダム」を、未亡人理事長は今春渾身の力で切った。

   虚業の世界はともかく実業界は大丈夫かと思うが、国際的にはトヨタ自動車以上に有名ブランドであるソニーの出井会長は、最近ワースト経営者として英文ビジネス雑誌で報じられた。私は2000年にスリランカでテレビの彼の発言を聞いて見識無い人だと思った。トヨタの薬王たちが、企業官僚に堕落せずにタイトルにふさわしい人であり続けることを祈るものである。

3.ロシア各地について

   黄金の鎖も名前だけしか知らなかった。その他は現地を見ていないのでピンと来ない。しかし広い国土は中身なくても魅力である。モルドバから国境河川越しに見たウクライナの小麦畑は壮観であった。
(おわり)

J トヨタ同期・工&経・私大教授
   
   氏は読後感ならぬ『対ロシア観』としての立派な論文(5回、合計10074文字)を寄稿してくれましたので、氏の略歴を紹介します。
   
   東大工学部(船舶)卒・トヨタは1年で退社・東大経済学部3年に編入学・在学中は東京都立夜間工業高校でアルバイト。昭和電工に入社・同社を退社後防衛庁にキャリアとして入庁・防衛大学校教授・10年余で防衛庁を退庁。国連職員に転職・湾岸戦争前はイラクに駐在・湾岸戦争時には学識経験者としてテレビにも出演。
   
   豊田学泉大学教授・東京都立工科大学教授・青森大学教授を歴任後、現在は金沢経済大学教授。最近の海外出張(公募されている政府系各種海外調査に応募し、採択されては出掛けているアルバイト)は毎年延べ約半年。北京美人の奥様は漢方医学に詳しく金沢経済大学の講師。
   
   氏にとって防衛庁時代はソ連の勉強は必須事項。自ずから、今回の読後感の執筆には力が入ろうというもの。私は氏と時々出会いますが、その都度、乏しい知識と弱々しい論理力を総動員して議論を嗾(けしか)けては、時間が経つのを忘れています。
   
   
   トヨタの先輩でパソコン通のメール仲間から、ご本人のホームページに私の『ロシアの追憶』を載せたとのメールを受信。黒色の背景に黄色の文字で我が拙文を浮き上がらせて頂いている。この方法だと何故だか目が疲れず大変読みやすい。しかも、文字化けの恐れも全くない。今後、賢人各位にお届けする追憶記はこの方式を採用しようかと思い始めた。
   
   コピーしたアドレスの矢印をクリックすると、ご本人のホームページが呼び出される。本文をスクロールすると、最後から2行目の左端に青色で書かれた『himekuri日記』という文字が出てくる。それをクリックすると、左側に暦が3個出てくる。
   
   一番上は一月(ひとつき)分の日付、真ん中は2004年、一番下は2003年の月暦。暦の右側に本文が表示される。月暦に書き込まれている赤い星型のマークをクリックすると、一番上の日付暦がその年月に対応して表示される。日付暦の中に書類のマークがある場合に、そのマークをクリックするとその日の記事が現われる。

   
   2004年5月27日には追憶記の全文が一括して、5月29日〜6月3日では冒頭に的確な写真等を1枚追加して頂いた後、追憶記が分割して掲載されている。5月28日の冒頭には日程表、その後に氏の的確なコメントやアドバイスが記されている。私の旅行期間5月28日〜6月3日とは必ずしも一致しないが、なるべくあわせる配慮がなされている。氏の気配りに心から感謝。
   
   5月27日・・・全文
   5月28日・・・氏のコメントやアドバイス
   5月29日・・・前文〜第1章
   5月30日・・・第2章
   5月31日・・・第3章
   6月 1日・・・第4章
   6月 2日・・・第5章〜第6章
   6月 3日・・・第7章〜第11章

   氏のhimekuri日記には多彩な定年後の生き様と交友関係の深さが滲み出ている。私が発信したメールが、2004年3月8日に『Iさん』との仮名で、出ていた。

K トヨタ先輩・工


遅れましたが,読後感を送付します。

   今回も石松先輩の追憶記により,擬似ロシアの散策を十分楽しませて頂きました。有難う御座いました。

   今回は特別に"コレ"と思って自分なりに追求してみようと思った読後感はありません。遅れているロシアの産業基盤の回復に、日本の技術は相当役立ちそうだ。欧州の物真似の多い建築文化であるかも知れないが,ロマノフ王朝時代を含む過去1000年以上の歴史を持つロシアは、ロマンに満ち溢れた国だなと感銘しました。

   ロシアが現在観光ブームの真っ只中にいる要因としては,21世紀の環境スタートの世紀に相応しい広大な自然を持ち合わせている事と、資本主義の効率化に汚染されていないノンビリした気質が国民に残っている所が、ロマンを感じさせる為かなと思いました。
   
   過去の為政者の失敗は国のボタンの掛け間違いであって,これから修復していけば過去の犠牲は取り返せる。ロシアにはその可能性大なり。ロシア国家はこれからは欧米,中国及び日本と違った、ロマンのある国家造りを目指していると思いますし,私自身そう願います。回復後は日本の脅威になりますが,その時はその時で正々堂々と戦いましょう。
   
   今回はこんな所です。

L トヨタ後輩・工


こんにちは。先般はロシア追憶の長文を頂き、ありがとうございました。

   いつも細やかな観察に感心する次第です。ロシアの最近の状況が目に見えるような内容です。そこいらの観光ガイドブックよりも理解しやすいことが書かれてあります。お礼が遅くなってしまいましたことお詫び申しあげます。
   
   郷里での親交も無事に済まされてホットされていることでしょうが、まだまだこれからが楽しむ人生です。一日一日を大切に過ごされることを願っています。奥様の手術は無事に済まれたのでしょうか? よろしくお伝えください。
   
   私は昨日まで北欧4ヶ国の旅をして来ました。一年の中で夏の期間6〜8月を本当に楽しんで暮らしている様子がわかりました。冬の期間は到底日本人には耐えられない寒々とした日々だと思われます。
   
   石松さんのように紀行文には出来ないので残念ですが、やはり自分の目で見て肌で感じて初めてその国の様子が分かります。ではまだまだ残暑厳しいですので、身体に気をつけられてお過ごしください。

M 経営コンサルタント・荊妻がパック旅行で知り合いになった方


12時pm過ぎまでかかって読ませていただきました。

   日露戦争とか、第2次大戦のことで、いいイメージがない国でしたが、 実際に行かれた印象を拝見しますと、それぞれの歴史や環境が、現在の状況に繋がっているのだなと感じました。
   
   あと、中国との比較をしていただけると、面白くなるかもと思います。 たとえば、今日のテレビ(8/28の世界不思議発見を意味する)で、北京は、風水で都市が、設計されていると言っていましたが、モスクワは、それに相当するものはあるのかというようなこと等、いかがですか?

   世界の古都に由来する今日の大都市の殆どは自然発生的に膨張した。碁盤目状の都市建設がなされたのは中国の古都、ローマ帝国のミニ植民都市、米国・オーストラリアなどの植民地からスタートした近代都市。日本では京都(平安京、古都)と札幌(近代都市)くらい。後はパリを初め、部分改造に過ぎないと思っています。

   中国は北京だけではなく、省都の拡大地図集で、どの都市も道路が碁盤目状に配置されていることを知りました。しかし、上海だけは例外です。自然発生的に無秩序に発展すると、中国でも他国と何ら変わらない町が生まれてしまう歴史的な証拠になっています。広い国土と強大な権力者の存在抜きには、合理的で住み易い都市計画の推進は難しかったと思います。

   風水にどれだけの価値があるのかは、私には解りません。敢えて言うならば、こじつけ、虚構の類と思っています。
   
N トヨタ後輩・工・テニス仲間

   
   貴兄の推敲に推敲を重ねて書き上げられたであろう「ロシアの追憶」の読後感を大変遅くなってお送りすること、まずはお詫び申し上げます。

   推敲を重ねたのではないかと推察しましたのは、誤字脱字がなく、また内容が大変深みがある紀行文であり、著者の知的レベルの高さのみならず、見識の高さを示しておりまして、日頃なじみの薄いロシアの歴史、風土、地理、文化等に関する教科書にもなる内容と感心致しました。
   
   実は今までも追憶記は脱稿した都度、文章力と博識においては自他共に一目を置いていた学生時代の友人に査読をお願いしていました。自分で書いた原稿に含まれる誤字脱字は勿論のこと、思い違いなどの自己チェックは大変難しく、第三者の査読は大変有り難く、友人の好意の賜物です。ワープロ時代以降は、上記の事項に加えて更に変換ミス対策までもが加わりました。
   
   現役時代に論文など活字になる原稿(延べ数十回)を書かされた場合は手当たり次第、職場の関係者・知人・友人に査読を併行して頼んでいました。我が原稿の完成度の高さに気付く人とは、まともな原稿を書いたことのある体験者だけです。『ロシアの追憶』の執筆には、今尚人差し指だけによる遅々たる入力なので、累積100時間前後も実は掛かっています。
   
   査読依頼の成果としては、例えば天下に名だたる機械学会誌や精密機械(精機学会誌)に掲載された原稿の場合、査読担当の一流の学者と雖も一言もコメントを出せませんでした。著述とは著者と読者の知的闘いと今でも確信しています。そのように思うからこそ、賢人各位から賜る珠玉の読後感を読むのは無上の楽しみになっています。
   
   まず、お断りしておかねばならないことは、これは全く個人的な性向によるものなのでしょうが、以前からロシアあるいは少し前のソヴィエト連邦には親近感が沸かずにおりました。共産主義が嫌いとかいうのではありません。
   
   世界を見渡してもあり得ないようなツァーリの絶対的強権性、あのスターリンの信じられない粛正の数々、大韓航空機撃墜事件時の国防大臣だったかの嘘を平気で並べ立てる振る舞い、国民性として独裁を好む体質、中でも第2次世界大戦の終戦間際、突如として対日宣戦布告を行い、多くの日本人を捕虜としてシベリアへ抑留したやり方などは、何とも許せない気持でした。

   勿論、一般のロシア人は人柄が良いと言いますし、貴兄も書いて居られるドストエフスキー、トルストイ、チャイコフスキーとか尊敬する人たちも沢山おりますし、最近の話題で言えば、オリンピックで見せる体操(含新体操)、シンクロナイズドスイミング、バレーボール等々鍛錬された美しき女性など世界の頂点に立つ人たちも多くいて、立派な民族だと思う面もあります。

   こうした人柄も良く、美貌(若きときと注釈が必要でしょうか)にも恵まれたロシア人が、一度政治の世界にて振る舞うとき、どうしてああした我々の想像を超えることを平気でなすことができるのか、私に取ってそれこそ七不思議の一つでした。
   
   さて、上述のことが原因でロシアに近づかないのではなく、たまたまそのチャンスに恵まれなかったに過ぎないものであり、貴兄の言われますように、現地現物でなくしては、何事も評価したりすべきではないのでしょう。
   
   その点において、直接に現在のロシアに触れて来られた貴兄のこの紀行文は、私に取って大変貴重な社会時評の論文とも言えるものです。前置きはこのくらいにして、貴兄の旅行記に沿って感想を箇条書きにて書かせて戴きます。
   
   @ まず、貴兄の観察の「何と、蚊が多かった」は確かに現地現物の最たるものでしょうが、それだけで留まらないのが、貴兄の凄いところだと思います。原因は何かを鋭く突き止めて行かれる探究心に衰えがありません。

   「ロシアの原生林は平原にあり、雨が降っても水が流れず、水溜まりと化すから」ではないかということを直ぐに気付かれる点には敬服致します。アルプス地方を除く欧州各国はやはり平地が多いと思いますが、夏の夜、野外で食事したりして談笑している風景を良く見掛けます。
   
   日本などでは蚊が多くてとてもあれほど、そこここでできることではないと思っていたのですが、あれはロシアに比べて水溜まりが少ないからなのかも知れないと思った次第です。
   
   A 「ツァーリ」についての貴兄の記述ですが、「イワン3世」が使い始めたとあります。以前尊敬する司馬遼太郎の「ロシアについて」という本を読んだときに「イヴァン4世」が称したのが最初と書いてあったように記憶していましたので、司馬さんほどの人でも勘違いすることがあるのかと思ったのですが、もしかすると私の記憶が間違っているのではないか、その方があり得ることだと思い返しまして、昔読んだ本を見つけてみました。

   するとやはり「イヴァン4世」と書いてありました。そこで、百科事典でみてみましたところ、「ツァーリ」の称号をイワン3世がビザンティン帝国から引き継ぎ、イワン4世(雷帝)が自称したとありました。
   
   ご指摘の件については、私は単に解説書からの孫引きでしたので、本日グーグルのインターネットで検索したら、下記の記事が出ました。3世が外交文書で用い始めたのをどのように評価するかに尽きる問題と思います。
   
   ロシア皇帝の称号。ドイツ語のカイゼルと同じく,専制君主カエサルのロシア訛り。東ローマ帝国滅亡(1453)後,最後の皇帝の姪ソフィア=パレオローグと結婚(1472),その紋章「双頭の鷲」を受け継ぎ,ローマ帝国の後継者を自任したモスクワ大公イヴァン3世は,時に外交文書などでこの称号を用いた。
   
   1647年,戴冠式を行ったイヴァン4世が,正式にこの称号を採用,ピョートル大帝が北方戦争に勝ち,インペラトルの称号をとるまで(1721)用いられたが,その後も併用され,一般にはロシア皇帝をこの称号で呼んだ。19世紀末から1946年までブルガリアの君主もこの称号をとる。なお普通名詞として,皇帝・帝王・王・第一人者の意味にも使われる。
   
   まあ、どうでも良いことかも知れませんが、司馬遼太郎さんがどれほど本を読み、調査をしてものを書いたかを知る機会となった追悼記念の「司馬遼太郎展」のことが印象深く思い出されたものですから、少し横道に入ったことを書いてしまいました。なお、司馬さんの本に、かのスターリンは独裁者「雷帝」をたたえていたと書いてありましたが、何となく分かるような気がします。

   B「ターミナルの駅名の付け方が、ロシアではユニークさがあった」ということが記述されております。確かに日本にはない付け方と思いますが、欧州では結構ありますので、ロシアに限られたことではなく、むしろ西の国々に倣ったことかも知れないと私は思いますが、正確なところは知りませんので、博識で且つ調査精度の素晴らしい貴兄にお教え戴きたいと存じます。
   
   ロシア及び欧州で汽車に乗ったのはたったの3回に過ぎません。ターミナル駅名の付け方は終着都市名が欧州では一般的とは知りませんでした。鉄道は英国が発祥の地。ロシアは欧州に憧れていましたから、名前の付け方まで真似したのだろうとの説には真実味が感じられます。
   
   C キャビアの種類は容器の色で青・黄土・赤に識別されていて、価格のランクがあり、この順で安くなるという話はまるで知りませんでした。また、「正露丸」の語源が日露戦争に由来し「征露丸」であることも初めて知りました。

   更に、ロシア暦からグレゴリー暦に切り替えた為に1918年2月1日から2月13日は存在しない空白時間であるという話は大変興味深く思いました。流石に博識な貴兄ならではの記述と思いました。こうした話を教えて戴きまして、大変感謝致します。
   
   なお、ついでながら、貴兄に教えて戴きたいのですが、日本でも古くは陰暦が使われていたと思いますが、「日本史年表」での記載は新暦に換算しての年月の記載なのですか? それとも、陰暦のままの記述なのでしょうか?「世界史年表」の記載では統一した暦でないと前後関係が誤ったことになるのではないでしょうか?

   歴史年表が現在どのように統一されているのかは、残念ながら存じません。しかし、日本でも大陰暦から太陽暦に切り替えた時に、空白期間は発生しました。念のためにと、またもやクーグルで検索すると下記の記事が出ました。今やインターネット様様です。

   今日が大晦日???。1872年(明治5年)に太陰暦から太陽暦への切り替えが行われ、陰暦の12月3日が明治6年1月1日となりました。そのため、この年は今日12月2日が大晦日となりました。
   
   D 以前の貴兄の旅行記に比べ、最近驚くようなバタリティと切れ味の良い発言と行動という面はやや薄れてきたように思いますが、逆に円熟味が増して益々優れた紀行文となってきていると思います。

   しかし、例えばロシアへ向かう途中、ソウル空港の正面玄関の吹き抜け空間に展示してある「松」を見つけて、空港職員に問い質す会話など貴兄一流の機智と洞察力に富み、ついに職員に偽物であることを白状させてしまうところなど、今もって往年の一流スターの輝きと言ったような冴えを感じます。
   
   E グム百貨店やスーパーでの観察や地下鉄乗車の経験、ロシアホテルの評価に関する記述等は、貴兄の素晴らしい例の抜群の記憶力と工学的な視野に富んだ見方と高い見識が示されていて、以前から感心しているところですが、今回も流石と思いました。

   帰国後のニュースでは、クレムリンの前にそそり立つ、美観もない要塞のようなロシアホテルは改築されることになりました。

   まさに「ロシア人の生活水準は報道通りか?」を現地現物で見極めてくるというロシア旅行の目的の一つを的確に把握し、それを具体的に数字を使って解説してくれていて、分かり易く且つ面白く思いました。
   
   F 帰国の途に付くサンクト・ペテルブルグ空港でのカウンターの重量管理について、貴兄の対応の仕方はやはり貴兄独特の切れ味を示しておりまして、感心するばかりです。
  
   高杉晋作がこうした切羽詰ったとっさの場合を切り抜ける天才的な才能があったということを、前述の司馬遼太郎さんが書いておりまして、こうした人の天賦の才によって日本の歴史が転換して行くのだということを学んだのですが、きっと貴兄が幕末に居られたら、歴史に名を残す活躍をされたのではないかとふと思いました。
   
   褒め殺しもことここに到と、過ぎたるは尚・・・。

   G モスクワ空港での貴兄の人種観察は本当に面白いと思いました。韓国の女性の人相は日本人にそっくりだけれども、男性の場合は少し異なり、知的水準の高い人や社会的ステータスの高い人は日本人にそっくりだが、庶民の場合は違いが分かるというコメントに同行の人たちが皆賛同したとのこと。

   その原因は何なのでしょうか。両国の男女がほぼ似たような環境下で生活しているのに、女性は両国で同じ人相をしていて、男性は異なるというのは何故なのでしょうか。面白い着眼点と思います。生活の仕方や男女の役割が両国で違うからなのでしょうか。
   
   イギリスに行くと労働者階級とインテリあるいは上流階級の人では背丈から顔つきまで異なると言いますが、男女ともそれぞれの階級で釣り合いが取れているようですので、これは生活水準や知的レベルの違いに依存すると考えてしまうのですが、現在の韓国と日本人では生活水準が多少違うとはいえ、男女で大きな違いがあるとは言えないように思うのですが。
   
   未だ、いろいろ書くことがありそうですが、明日を期限とするというお話なのに、本日書き始めまして、この辺までしか書けないものですから、ここでキーを置かせて戴くことにします。
   
   この読後感を書かれた方は、褒め殺しの超名人。今回は褒める対象が発見できなかったのか、読後感が待てど暮らせど舞いこまなかったので9/1までに送信されたい、と催促をしました!
   
   貴兄が益々冴えを保ち、且つ精力的で衰えない記憶力で旅行記を記述して居られるのに対し、私の方は冴えをなくし、中味の薄い感想文しか書けなくなっていることに気付きました。しかし、このままお送りしないのも約束違反のような気もしまして、敢えて送らせて戴くことにします。

O トヨタ後輩・工・何時も褒め殺しの読後感を書いていただける方


   先日、長野安曇野の穂高山麓でゴルフをしてきました。赤トンボが飛び交い、コスモスが咲き誇り、空は高く澄みわたり、山は秋たけなわです。

   ロシアの追憶・台風と送信いただき有難うございました。いつもながら周到な事前準備による情報収集と、それによる見学のポイントとその分析、旺盛な探究心、ガイドとのやり取り等興味深く拝読いたしました。現在のロシアの一部を垣間見た気持です。

   台風の想像を絶する膨大なエネルギーにただただ驚愕。台風18号が上陸し地震の頻発する日本で、そのエネルギーを現在の風力発電とか地熱発電の規模でなくもっと大掛かりに、取り込み利用できるようになればわが国も、資源大国、資源輸出国になるのでしょうけども!!!

   ロシアの追憶26〜27P韓国のスープは 参鶏湯(サムゲタン)だと思われます。ひな鶏のお腹にもち米、朝鮮人参、なつめ、栗等を詰め長時間煮つめた夏バテ防止に食べる滋養強壮食品です。韓国では殆どのスープ類は塩,胡椒、唐辛子味噌、キムチ等で自分流に味付けして食するようです。

   来年、私が出生し5歳まで育ち且つ親父の病没の地、旧満州国奉天省瀋陽県蘇家屯街穂高町に兄弟で訪ねるべく計画しています。どんな方法でいくのでしようね。

   以上、ロシアの追憶・台風 送信の御礼まで  2003..9.12.   

P 高校同期・リタイア後に韓国語の勉強を始めた韓国通


   ロシア旅行記拝読させて頂きました。旅行先の事前調査はもとより、帰国後も調べるなど真摯な態度には頭の下がる思いです。

   ロシアのホテル事情、インフラの整備状況などから判断して、ロシアにはあまり行く気が起きません。但し、エルミタージュ美術館だけは、是非行って見たいので、北欧三国とサンクト・ペテルブルグを巡るツアーを探すことにしました。

   これからも、外国旅行に関する情報をいろいろ教えてください。テニス、ゴルフも含め、今後ともよろしくお願いします。

Q トヨタ後輩・経・ゴルフ&テニス仲間・リタイア後に中国語をマスターした中国通

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