本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
南アメリカ
インカ帝国(平成17年6月23日脱稿)

      JTBによれば中南米で日本人に最も人気の高い観光地はペルーだそうだ。その魅力の根源は、アジア系の先住民が築き上げた南北5,000Kmにも達したインカ帝国が、狡猾なスペイン人に騙されて一瞬の内に滅ぼされた史実や、日系出身のフジモリ大統領の追放への判官贔屓(ほうがんびいき)、長さは世界一・高さはトランスヒマラヤやカラコルムなどアジアの大山脈に次ぐアンデス山脈に展開される、雄大な大自然に由来するものだけではなさそうだ。

      プレ・インカ時代に描かれた世にも珍しい巨大なナスカの地上絵。20世紀に至って発見された、これまた想像を絶するようなマチュピチュの空中都市の威容。鉄も使わずに巨大な多角形の石を隙間無く、まるでジグソウパズルのように組み立てた石造建築遺跡の素晴らしさもまた、世界にその類例が無い。

      海抜は富士山頂よりも高く、汽船の国際航路すらもある山紫水明のチチカカ湖。アマゾンの源流地帯に広がる熱帯雨林。熱帯から寒帯までの気候帯が垂直に展開され、そこで育まれた多様な植物相に恵まれたアンデス山間部。トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・トマト・タバコを初め、今日の豊かな人類の生活を支えている多種多様な種の原産地としての突出度など、一つの国とは思えないほどの多様性に満ち溢れた大自然にも魅力があるからだ。

      しかし、何よりもかによりも私の心を強く捉えたインカ帝国の魅力とは、南米の先住民がインカ帝国の樹立に至るまで文字を発明することも無く、経済活動には不可避と思われた貨幣も使わずに1,000万人以上もの国民を統治できただけではなく、国民を飢餓の不安からも解放し、巨大な遺跡までも何ゆえに残し得たのか。更には、人類史で最初にして最後になるかも知れない程に完成度の高い、大規模なゲマインシャフト(共同社会)をどのようにして完成させたのかの謎解きにあった。                 

      歴史考古学者が所謂4大文明にインカ文明を加えて、5大文明と何ゆえに言わないのか、今回の旅行を通じても理解できなかった私には、彼らの怠慢こそがその理由だと思えてならなかった
上に戻る
はじめに

[1] 海外旅行の新目標

   多重がんを患い死神にも追い駈けられ始め、いよいよ死期が近付いたとの認識が深まるに連れ、『累積訪問国数で歳の数を追い越す』との海外旅行の目標達成は意外に困難と気付き始めた。行きたい国はどんどん減り、再訪問国が増えてきたので、時間が足りなくなってきたのだ。

   例えば昨年(平成16年)は、ロシア・ドイツ・フランス・オーストリアに出掛けたが、新規国はロシアだけだった。朝令暮改の誹りなどには馬耳東風。『君子は豹変する』とばかりに、もっと実現性の高い目標に変更することにした。

   新目標とは世界史上に出現した帝国の総てを尋ねるというものだ。帝国とはその版図に複数の国があるものを意味している。大帝国はそれを帝国と呼ぶのに異論はない。しかし、いくつかのミニ帝国を帝国と呼ぶのに若干の疑問は感じるが、枝葉末節は気にせずに世界史の受験参考書に取り上げられている帝国を拾い上げると、その数は20を超えた。

   卑しくも帝国と呼ばれている国のかつての首都には、それなりの世界遺産・美術工芸品・都市景観が大抵残されている。歴史的な出現順とは無関係な羅列だが、例えば下記のような諸帝国が存在していたそうだ。

   エジプト帝国・アッシリア帝国・ヒッタイト帝国・アケメネス朝ペルシア帝国・ササン朝ペルシア帝国・サラセン帝国・セルジュークトルコ帝国・オスマントルコ帝国・ローマ帝国・西ローマ帝国・ラテン帝国・ニケーア帝国(この帝国の存在は今まで知らなかった! トルコの一部だったので既に訪問済み)・東ローマ帝国・フランク帝国・神聖ローマ帝国・スペイン帝国・オーストリアハンガリー帝国・ハプスブルク帝国・ドイツ帝国・ロシア帝国・大英帝国・モンゴル帝国・ティムール帝国・ムガール帝国・インド帝国・中華帝国(秦・漢・唐・明・清)・アステカ帝国・インカ帝国・大日本帝国(?)。
   
   私は各帝国の版図のほんの一部、場合によっては首都以外の地方都市を覗き見しただけに過ぎないが、それでも訪問国扱いにすると平成16年末現在で残るのは、サラセン帝国・ティムール帝国・スペイン帝国・アステカ帝国・インカ帝国のみであった。これだけならば残り少ない余生の内に、何とか訪問できそうだ。
   
   何しろ、たとい駄文と解ってはいるものの、旅行だけではなく、海外旅行記を書き残すことも生き甲斐の一つにしているため、事前の勉強と事後の執筆に時間が掛かり、せいぜい年間2〜3回の旅行に落ち着くからだ。とはいえ、サラセン帝国(バグダッド)だけは残念ながらイラクの政情不安が続く限り、見果てぬ夢に終わるのかも知れないが・・・。
   
   『善は急げ!』と、インカ(ペルー)帝国に出かけることを決意。主要国首都間の大圏距離(最短距離)の最大値はソウル〜ブエノスアイレスの19,429kmであるが、リマ〜東京間でも15,493kmもあり、東京〜南極間の13,953kmよりも遥かに遠く、東京〜モスクワ間(7,502km)の2倍以上もある。
   
*******************蛇足*****************
   
   首都間の最大距離はソウル〜モンテビデオ(ウルグァイ)と思われるが、手持ちの理科年表には記載されていず残念。緯度と経度から計算は出来るが面倒なので省略。尚、モンテビデオはブエノスアイレスの東、数百キロの地点にある。

**************************************
   
   しかも成田からの直行便はなく、ロスアンジェルス経由なので飛行距離は更に加算され、実飛行時間は往路でも18時間半、偏西風に立ち向かう復路では20時間も掛かる。テニスやゴルフ仲間にも声をかけたが、遠すぎるなどの理由から賛同者が一人も現れず、がっかり!
   
   仕事もあって気が進まないと漏らしていた荊妻を強引に連れ出した。がん患者と雖も『廃用萎縮』を恐れている私には10日間もの連続した禁欲は辛いし、一人旅も面白くないからだ。還暦も過ぎているのに専業主婦嫌いの荊妻は、平成16年12月〜平成18年3月まで豊田市教育委員会からの呼びかけがあったのを幸いに、嬉々として市内の小学校で月〜金まで働き始めたが、学校長以下教職員の配慮で何とか休みが取れたらしい。

[2] 事前勉強

   何時ものことだが、豊田市中央図書館からインカ帝国やペルー関係の書物を借り出した。Hは国内で、Iはペルーで買い求めた。いつも愛用していたJTBのポケットガイド海外版はペルーに限らず、どの国に関しても何故か本屋で発見できなかった。絶版にしたのだろうか?

@ インカ帝国  1959 岩波書店                  泉 靖一
A インカ文明  1977 白水社      アンリ・ファーブル著、小池祐二 訳
B インカ帝国  1988 小学館      フランクリン・ピース、増田義郎共著
C ペルー    1992 国土社                武田三千代 訳
D インカの反乱 1992 思索社                   寺田和夫
E インカの世界 1994 東方出版               橋本善元写真集
F ペルー100の素顔  1999 東京農大出版界      松田藤四郎他15名
G ナスカの壺      2000 ペルーからの手紙 JTB      飯尾響子 
H ペルー発見(日本語訳)2004 イポカンポ出版         ホセ・ミゲル  
I 地球の歩き方(ペルー他3ヶ国)2005 ダイヤモンド社        編集室

   写真中心のE、F以外の日本人による書物には失望した。インカ時代を含む南米の先住民の政治・経済や庶民生活の実態に関する記述の殆どは、著者の主観に基づく憶測の展開に終始していた。文字のなかった時代の歴史的考察には余りにも物的証拠が少なく、止むを得ない面もあるが、納得のいかない結論の羅列では、読み進めるにつれて疲れが溜まった。

   不満タラタラだったが読み終わると、現地現物で確認したい疑問点(トピックス)も脳裏に刻まれた。これらの中で私に関心があった項目については、あちこちの本文中でも報告することにする。
上に戻る
トピックス

   以下に列挙した事項は私が今回の旅行を通じて集めた現地現物情報のうち、興味を感じた分野から順不同で選んだ話題である。もともと観光ガイドブックを総合的に書こうとしたものではないので、断片的になるのは想定の範囲内だ。

[1] データ

@ 旅費(約324500円/人。夫婦で約65万円)
  
  旅行代金・・・・・・・・・・・・・298000円
  中部国際空港使用料・・・・・・・・・・2500円
  国内線往復・・・・・・・・・・・・・・4000円
  ペルーの空港税=47.95$*108=5180円
  オイルチャージなど・・・・・・・・・14800円
  
   オイルチャージとは航空燃料の暴騰により、航空運賃の改定が間に合わず、乗客に臨時に課せられた追加料金を意味している。
   
   現地での臨時支出(追加飲食やチップ等)やお土産代金を入れると、今回の旅費は約70万円。最近は海外で物を買う意欲が払底した。現地でこれは素敵だと感じて買った特産の記念品も、いざ自宅に持ち帰ると適当な飾り場もなく何故か興ざめするのだ。
  
A 参加者(男性13名+女性16名=29名)

      単独参加者=女性6名+男性3名=9名。
      老夫婦8組+新婚1組+婚前1組=20名
      成田集合組=27名。
      地方参加組=2名(我が夫婦のみ)

B 日程 平成17年4月7日〜4月16日

   足かけ10日間の旅程の割には欧州・中東・アジアなどへのパック旅行に比べ旅費が若干高いように感じるが、飛行距離の長さが影響しているのではないかと思っている。

C 同行者

   パック旅行では最近つとに単独参加の高齢者が増えてきたように感じる。夫婦の関心や趣味が一致しない人だけではない。今回は熟年離婚した男性、奥様が肺がんで闘病中の男性の他、珍しくも若い独身男性も一人いた。友達同士の中年女性2組の他、海外旅行嫌いのご主人を残しての女性も参加。女性参加者の方が多いのは毎度のこと。
   
   JTBによれば南米一の人気観光コースとは言え、ペルーが最初の海外旅行と言う同行者はいなかった。それどころか、最早行く所が払底したと言わんばかりの高齢者が多かった。以下に我が印象に残った数名の同行者を紹介したい。

   ●A氏は旧制中学4年の時に旧制一高に合格(4進組。現在の飛び級と同じ)。当時の一高は英語2、仏語1、独語2の5クラス200人。本人は独語クラス。同期の半分が東大医学部へと進み、本人は昭和28年(旧制の最後)東大工学部船舶(九大では造船という)を卒業後、三菱日本重工業(後の三菱重工業)へ。久し振りに有識者と出会ったので嬉しくなり、つい議論に花が咲いた! その一部を蛇足として書いた。

*******************蛇足*****************
   
   『日本の造船業界は、石川島播磨の故真藤恒さん(九大造船卒。後のNTT社長⇒会長)が考案したブロック建造法による大型タンカーの低価格化に成功して、世界に雄飛したものの一瞬の繁栄でしたね。戦艦・大型客船・コンテナ船・LNG船・LPG船・舶用エンジンなどの主力分野で、何一つ世界一の技術はなく、寂しい限りです。
   
   船舶は資本財であるため客船以外の分野ではファッション性は然したる意味を持たず、一物一価の世界。性能やコストで優位性を確保しない限り、韓中並の賃金しか支払えないのは火を見るよりも明らかと思いますが?』
   
   『その通りです。しかし、真藤さんの功績評価には業界内では若干の異論があったのですよ。当時の日本の造船業界は売り手市場でした。それなのに真藤さんの値下げ方針に巻き込まれて、業界各社はあたら利益を取り損ねたのですよ』
   
   『生産技術の進歩によるコストダウンの成果をお客様に還元するのは、産業革命以来の王道。問題の本質は韓中が追随できないほどの画期的な技術開発が、その後出来なかった不甲斐なさにあると思いますが・・・』『・・・。』
   
   『三菱自動車の愚挙には、馬鹿馬鹿し過ぎて誰もあからさまには口にしないものの、日本の自動車各社は迷惑至極と感じていますよ。過去延々と努力して築いた日本車の信用を傷つけられました。経営者の言動たるや、評価するのもあほらしく開いた口が塞がりません。
   
   例えば、本社を京都に移転すると発表して置きながら、本社を移転すると女子社員が辞めると言っているから移転計画は中止することにした。女性に辞められると仕事が出来ないのが理由だそうだが、仕事をしているのが女性ならば、社長以下男性は無駄なので全員やめれば済むじゃないですか! 本音は快適な東京から移動したくないだけでしょ。女性を弁解の出汁(だし)に使うなど、幼児性丸出しと思われませんか?
   
   自動車会社の経営管理部門は、工場に張り付くほどの現場主義に徹しなければならないのに、品川の快適な事務所にいてどんな管理が出来ますか? 鉄鋼や造船などの営業は顧客がいる東京が中心にならざるを得ませんが、自動車の営業は各地の販売店が第一線ですね。経営管理部門が東京にある必然性は全くないと思いますが・・・』『・・・。』
   
   『三菱重工業も可笑しな会社ですね。長崎造船所では度重なる放火の挙句、進水直前の大型客船をとうとう焼かれたり、名古屋誘導推進システム製作所では点検整備中の自衛隊機の操縦ワイヤを意図的に切断されたり・・・。現場管理の杜撰さよりも、低賃金や労働条件の悪化に根ざす現場作業員や派遣社員の不満に真因があるような気がしますが・・・』『・・・。』

**************************************
   
   超秀才だった筈なのに何故か英会話は苦手のようだったし、日本語も途切れ途切れの話し方だったので『貴方は脳梗塞を患っていませんか? 私は還暦後に2回も脳ドックでMRIとMRAによる検診を受けました。今後も定期的に検査する予定ですが・・・』『人間ドックで脳を調べたが異常はなかった。話し方に流暢さを欠くのは、実は若いときから・・・』でも、私は半信半疑のままだ。
   
   『行きたい国とは、人間の努力の成果が残っているところ』だそうだ。『地球が作った北欧のフィヨルドや南米のイグアスの滝も素晴らしいので、わざわざ除外されることもないと思いますが・・・』と水を向けると、『無理に避けているわけではない。例えばグランドキャニオンには、序があったので出かけた』
   
   病身の奥様と一緒だった。バイキング料理の場合、奥様の希望を聞きながら料理を運ばれた。いつも奥様のケアに終始された。マチュピチュでの『インカ道』をトレッキングする程度のミニ登山でも、多少の体力を要するような場合には麓で奥様と一緒に一行の下山を待たれた。下車見学の場合でも、奥様がお疲れの場合にはバスの中で休憩される場合もあった。そこに老夫婦の無言の愛を感じたが、私には短期間のマネすら出来そうも無い。
   
   奥様のご不幸を嘆かれる事は一切なかった。帰路ロスアンジェルスでJALの搭乗手続きの折には、身障者優先扱い窓口に並ばれた。このとき初めて奥様が身体障害者手帳をお持ちだったと知った。
   
   帰国後ホームセンターでばったり出会った先輩(大学&トヨタ)が同じような計画をお持ちであることを知った。1年前から脳梗塞で倒れられた奥様との生活では介護と主夫業で、へとへとに疲れながらも『元気な内に、何とかしてナイアガラの滝を見せてやりたい』そうだ。我が家の絶えざる夫婦喧嘩は未だ2人とも元気な証拠と、私は喜ぶべきか!?
   
   『お2人での海外旅行は鞄運びが大変ではありませんか? タクシーをお使いですか?』
   『JTBの場合、片道は宅配便のサービスがあるし、JALのゴールドカードでも片道宅配サービスがあるため、何とかなります。自分で運ぶ荷物は、帰国時にいつも買っている機内持込可能な好物のワインが主です』
   
   ●B氏は美術館・博物館詣でが趣味。今まで出掛けた海外の博物館などは103ヶ所。訪問国(28ヶ国)・訪問地・訪問済みの美術館と博物館のリストを持ち歩いていた。関心の高かった博物館などには何度も出かけたそうだ。累積海外旅行日数(552日)も記録されていた。世界一周旅行は何と既に4回!(私はたったの1回、それも出張!)
   
   この方の几帳面さには完敗。私は、訪問国は何とか覚えているが、忘れてしまった訪問地名は数知れない。自分の意志で出かけた地名は何とか思い出せても、駐在員や商社員とか現地外国人に案内された受身の場所の記憶は薄らぐばかりだ。
   
   出張で何度も出かけた国だと、何回出かけたかすらも今や正確には思い出せない。いわんや累積旅行日数に於いておや。ワープロ購入以前は旅行記を書く習慣もなかったし、記録も取っていなかったのだ。
   
   ● 30歳代半ばのC氏は婚前旅行組。外資系保険会社勤務のC氏は婚前旅行とは言っても、実質的には新婚旅行。男性は永年勤続旅行(節税扱いの恩典がある)。同じ会社に勤務していた女性は勤続年数が足りず、さりとて2週間も会社は休めないから、退職しての旅行。
   
   『私は息子に騙された体験がある。息子が友達とグアムに行くといった時、聞くまでもなく男の友人と一緒だと思い込んだ。所が、結婚披露宴で参加者に配られた二人の生い立ち紹介写真集を見て驚いた。グアムでの二人の写真が臆面もなく・・・』
   『あなた達の婚前旅行はご両親には報告しているのですか?』
   『勿論です!』。ああ、何と言う愚問を発したことか!

   ●72歳のD氏は定年と共に協議離婚。敷地も2分割。縁あって70歳まで働いた過去は失敗だったと嘆かれた。
   『最近急に体力の衰えを感じ、余命幾ばくもないと思い始めた。こんな事ならば、65歳で仕事を辞め、人生をもっと楽しめば良かった!』

D 日本語ガイド

   日本人のペルーへの関心は日系2世のフジモリ大統領の就任(1990〜2000)や日本人のペルー移住開始100周年記念行事(1999)などを通じて高まり、今世紀に至って急に観光客が増え始めたとは言え、昨今でも未だたったの年間1万人台。

   現地の日本語ガイドは過剰気味だそうだ。インカ帝国の首都クスコだけでも国家資格保有者は30人(ペルー人26名、日本人4名)。『ガイド1人が毎日20名の団体を案内するだけで600名も受け入れられるけれど、観光客が少なくて失業する日も多い』と、ペルーに永住しているベテラン日本人ガイドは零した。

   国家資格保有ガイドは主要観光地に多数いるため、ガイドは移動のたびに変わる。クスコの標準的な観光コースは1日なので、新しい団体契約が取れない日はガイドは失業するのだ。

   氏は25歳のときに魅せられてペルーに出かけ、ペルー観光に来た日本人女性と結婚。クスコでガイドの国家資格を取った日本人の第1号。日本語ガイドの日当は皆150$。

『ペルーの物価水準では、実質的には高給取りになりませんか?』
『毎日仕事があればね。米国人との契約が取れた英語のガイドが最高! 米国人はチップをはずむので、一日に千ドルになる日もあるらしいからね』
『でもお見受けする所、60代後半ではありませんか? 年金もお有りでしょうし!』
『いつも皆さんから年寄り扱いをされますが、まだ52歳です。この国での苦労が顔の皺に現れているのですよ!』

*******************蛇足*****************
   
   今回のペルー旅行は甥の結婚式(4月17日)に参加するため、4月1日の出発コースを申込んだが、締切日までの申込者は我が夫婦を入れてもたったの4名。最少催行人員15名に達せず催行中止の連絡。
   
   しかし4月7日出発コースには16名の申し込みがあり催行決定と言われ、急遽変更した。成田発着でも集客は難しいらしい。いわんや中部国際空港発着のパック旅行は成立しないと予想しているためか、各旅行社の資料からはペルー行きコースは発見できなかった。

   帰宅予想時間は4月16日22:00の予定だった。疲れきった顔で結婚式に駆けつけては晴れ舞台には興ざめ。弟夫妻に事情を話し、御祝い金(兄弟間の約束額は5万円)に1万円のお詫び料を加算して結婚式は欠席させてもらった。

   多重がんが寛解したとは言え、死神に追い駆けられている心境からは依然として脱出できず、兄弟間の義理よりも我が人生を優先した。中部〜福岡間の超割り切符(往復で14,000円。正規料金は往復割引後で38,200円。割引率は63%強)も確保していたが、残念ながらキャンセルの憂き目。
  
[2] 国内移動

@ 国内線

中部発 9:00⇒成田着10:05(国内移動でも国際線扱い)
成田発17:20

成田着16:25
成田発18:15⇒中部着19:00(国内移動でも国際線扱い)

   成田発着のパック旅行では度々地方在住の悲哀を味わう。タイミングの良い国内線の接続便が確保し難いからだ。運が悪ければ成田での前泊を強いられる。今回、前泊は避けられたものの成田で7時間強(移動や搭乗手続きなどの所要時間を除いても実質6時間)もの待ち時間が発生。出発直前に切符が確保できた今回の国内線は、国内移動だけが目的の客は利用できない国際線との接続専用便だった。

   出発直前に添乗員(日本の大学を卒業後、米国とアルゼンチンの大学に留学した、と自己紹介した50歳台と推定される超ベテラン女性。スペイン語は堪能だった)から自宅に電話があった。『参加申し込みの変更はありませんか? 何か質問はありませんか?』

   『成田空港での待ち時間対策として、JCBのゴールドカードが使えるラウンジで休みたい。成田でも出国前に使えるラウンジがあるのは知っていますが、私は中部国際空港から出国するので、成田の免税店がある側にラウンジがあるのか否か教えてください』

   添乗員には我が質問の目的が、何度説明しても何故か伝わらなかった。そこでJCBの電話番号を教え、ラウンジの場所を調べて連絡するようにと伝えた。

   『出国後にも使えるラウンジはあります。ご希望でしたらFAXで地図を送ります』
   『あると解れば、場所は成田空港内で聞くから地図は不要』と伝えた。

   しかし、添乗員の情報は間違っていた。成田で初対面の時に『免税店がある側には、ラウンジはありません、とJCBから訂正の電話がありました』と私に詫びた。長いこと添乗員として働いていても、この件に限らず、私が知りたい分野に関する情報などの知識不足は旅行中に随所で発覚した。私にとっての添乗員とは何時ものことだが、パック旅行参加者の迷子対策要員程度にしか感じられない。肝心な時には何の役にも立たないのだ。

   今回の件ではちゃんとした対策があることが出発当日に判った。中部国際空港でのチェックインの時、成田で一時入国ができる手続きをすれば解決するのだ。3枚綴りの伝票を貰い、中部での出国・成田での一時入国・成田での再出国時に伝票を一枚ずつ提出すればよいのだ。

   同じ手続きは、帰国時に成田で入国をし、又一時出国し、中部で再入国する場合にも適用される。今回は短い時間だったが、帰国時も成田で一時出国をした。疲れていたのでラウンジで休みたかったし、新聞も読みたかった。

   中部国際空港内のラウンジはお酒もその他の飲み物も無制限だったが、成田のラウンジではビールは缶ビール1個だけだった。しかし、二つあるターミナルビル内に夫々ラウンジがあったので、はしごすることによりビールは2個飲めた。
   
A 中部国際空港へのバス

   名古屋空港時代は、豊田市の中心部にある名鉄豊田ホテル前始発、自宅から3Km離れたトヨタ自動車元町工場前経由の空港行き特急バスを利用していた。巨大な従業員駐車場に自家用車を無断で乗り捨てられるので大変便利だ。特急バスはバス停から2Km地点にある東名豊田インターチェンジから、東名高速道路⇒東名阪道に入り、楠インターチェンジから一般国道へ。

   しかし、一般国道で名古屋空港までの僅か5Km?の移動にいつもヤキモキしていた。大抵の場合は渋滞の連続で10〜20分の延着も珍しくなかった。

   一方、中部国際空港への特急バスには渋滞はなかった。元町工場前を経由して東名豊田インターから東名高速道路に入ったバスは東京方面に向かい、豊田ジャンクションで伊勢湾岸道(第二東名の通称)に入り大府インターから、知多半島道⇒知多横断道⇒中部国際空港連絡道を経由して空港ビルまで、一般道路を経由することもなく往復共に時刻表通りのピッタリの運行だった。所要時間もほぼ同じ50分。
   
   料金は10円上がって片道1,500円。しかし、私は一級身体障害者である荊妻の付き添い人扱いなので、2人とも半額の料金。
   
B 中部国際空港の評価

   平成17年2月17日に鳴り物入りで開港した新空港は、大変使いやすいレイアウトにはなっていた。空港内での歩行移動距離が大変短く、大型鞄を持ち歩く旅行者に優しい配慮がなされている事は即座に判ったが・・・。

   しかし、マスコミ報道とは違った側面も感じた。建設費が当初の計画額よりも大幅に削減されたので、大型機の着陸料を成田よりも29.23万円減の65.57 万円に下げることが出来たと自慢していたが、旅行者に課せられる空港施設使用料金は成田の2,040円よりも大幅に高い2,500円だった。ジャンボの平均乗客数を450名と仮定すれば、何と20.25万円の負担増になる。これでは航空運輸会社への課金減の大部分は乗客から強奪したことになる。

   名古屋空港時代の着陸料は50.797万円。国際線の空港使用料は750円だったので、これではエアラインも乗客も浮かばれない。しかも以前は無料だった国内線の使用料も200
円取られるのだ。建設費を過大に見積もっておいて、建設費が下がったと吹聴するのは笑止千万(せんばん)!
   
   開港当初、数万人もの見物客が連日殺到しマスコミを賑わしていた。食堂街やブランド店街はショッピングセンター顔負けの繁栄振りで、新観光名所としても成功するかのような報道が溢れていた。

   しかし、2ヵ月後の今日、あの賑わいは霧散霧消していた。今は万博客でかろうじて賑わっているが、爾後が思いやられる。欧州を模したと称した食堂街の建物は石造りかと思ったら何と張りぼて! 大きな柱をコンコンと拳で叩くと空虚な響きが木霊してがっくり。人気絶頂だったアイディア先行型の展望風呂の行く末や如何に? 温泉でもないし、何時まで人気が続くことやら・・・。

   空港の建物の平面図は『凸』の字の形をしている。3棟の建物の結節点に乗降客用の設備が集中している。豊田市に住む私の場合、空港内のブランド店に片道1,500円のバス代を掛けてまで出かける価値があるのかに関心が湧いた。名古屋市の中心部の栄や名古屋駅までの高速バス(700円)の2倍以上も掛かるからだ。

   資金力のある有名ブランド店は既に都心の一等地に自社の専売店を構え、その他の海外有力ブランドは百貨店内にテナントとして既に進出済みである。それらに対抗できるほどの未進出の著名ブランドが空港に集まる筈もないから、わざわざ空港にまで目的をもって買い物に来る客がいるとは、開港当初から信じられなかったが、我が予想通り既に閑古鳥が鳴いていた。海外旅行の時に私が利用する空港店とは、寝酒を買うための免税店だけだ。

   国内旅行での我が買い物はと言えば帰省の折、名古屋空港では名古屋名物のきしめん・守口大根の味噌漬・伊勢の赤福などの食料品、福岡空港では各種博多ラーメン・辛子明太子・下関の河豚刺しなどの食料品をお土産として買うだけ。その他の商品には全く関心がなかった。往路では無料ビールがラウンジで飲めるので、食堂は全く利用しなかった。帰宅時は『帰心矢の如し』の心境のため、食堂に立ち寄る動機は皆無。

   ロンドン・フランクフルト・成田などの国際ハブ空港の場合は、数時間待ちの乗り継ぎ客相手の商売は成り立つものの、ロスアンジェルスクラスの空港ですら食堂以外の店はほんの僅か。中部国際空港クラスの地方の中規模空港でこの種の商売が成立するのか、人事(ひとごと)ながら大変心配だ。

[3]ペルーあれこれ

@ 地理

   ペルーはブラジル、アルゼンチンに次ぐ面積138.5216万平方Kmもある南米第3位の大国。国土はアマゾン川の源流地帯である熱帯雨林地方(セルバと言う)、沙漠も多い乾燥した海岸地方(コスタと言う)と標高6,768mのワスカラン山(南米の最高峰はアルゼンチンのアコンカグアの6,960m)を含むアンデス山地地方(シエラと言う)とで構成されている。

   アマゾン川の支流のひとつでペルーを貫流するウカヤリ川のイキトス(人口32万人)まで、大西洋から何と4,000kmも小型外洋船が航行している。

   ペルーには、北東アジア人がベーリング海峡を経由し、北米を南下して紀元前8000年前に到着したと言われている。紀元前4000年前からの文明遺跡も発見されているが、国土の60%をも占める熱帯雨林地方には今尚、裸で暮らす先住民もいる。
   
   A 世界遺産
   
   ペルーには世界遺産が何と10ヶ所も登録されている! 今回の旅行で見たのは下記の内、4ヶ所(@AFH)に過ぎなかった。尚、日本の世界遺産への登録はペルーに10年も遅れてスタートしたが、何時の間にか12ヶ所も登録されている。しかし、日本の象徴である筈の富士山は管理不行き届きにつき、世界遺産への登録はお預けの憂き身。
   
ペルーの世界遺産

   世界には複合遺産(文化遺産と自然遺産を同時に含んでいる世界遺産)は23ヶ所しかないが、その内の2ヶ所はペルーにある。
   
   @ クスコ市街       1983  文化遺産
   A マチュピチュ      1983 ◎複合遺産
   B チャピン古代遺跡    1985  文化遺産
   C ワスカラン国立公園   1985  自然遺産
   D チャンチャン遺跡    1986  文化遺産
   E マヌー国立公園     1986  自然遺産
   F リマの歴史地区     1988  文化遺産
   G リオ・アビセオ国立公園 1990 ◎複合遺産
   H ナスカの地上絵     1994  文化遺産
   I アレキバ歴史地区    2000  文化遺産
   
蛇足=日本の世界遺産
   
   @ 白神山地  1993
   A 法隆寺地域の仏教建造物 1993
   B 姫路城 1993
   C 屋久島 1993
   D 古都京都の文化財 1994
   E 白川郷・五箇所山の合掌造り集落 1995
   F 広島の平和記念碑(原爆ドーム) 1996
   G 厳島神社 1996
   H 古都奈良の文化財 1998
   I 日光の社寺 1999
   J 琉球王国のグスク及び関連遺跡群 2000
   K 紀伊山地の霊場と参詣道 2004
   
   私は自分が日本人であることを忘れるほどにはボケていないが、未だ白神山地と屋久島へは出かけていないまま。
   
B 先住民の大いなる遺産

   人類はその生存のための基幹食物をプレ・インカ及びインカ帝国からの贈り物として受け取った。トウモロコシ・ジャガイモ・サツマイモ・落花生・インゲン豆・トマト・南瓜・キュウリ・唐辛子・食用ホウズキ・キャッサバ・パパイア・アボカド・カカオ・パイナップル(以下略)等、大量に生産される食物の原産地が、これほどに集中していた国はペルーの他にはない。

   中北欧等で時々発生していた麦の収穫不足による飢饉を、寒冷地でも栽培できるジャガイモがどれだけ救済したことか! 更に今でこそ、その害が喧伝されているが、タバコもまたインカからの贈り物である。

   『虎は死して皮を残す』と言うが、スペインに滅ぼされたインカ帝国の人々が、かつて営々と育ててくれていた食物遺産に謹んで感謝!
   
   一方、スペイン人が持ち込んだ代表的な伝染病として、天然痘・結核・はしか・おたふく風邪がある。これらの病気に対する免疫を持っていなかったインカの人々にとっては、植民地化されたことと並ぶ想像を絶する疫病神だった!
   
   また、梅毒は新大陸からコロンブスの一行によって欧州にもたらされたとの俗説があるが、最近になって濡れ衣説も現れ、再検討が始まった。

[4]先住民が発明していなかった諸技術

   『コロンブスの卵』は古来、大変有名な伝説である。独創的な発想が如何に難しいか、旧大陸(アジア、アフリカ、ヨーロッパ)の隣接地間では如何に多くの知識が情報の相互交流によって伝播普及していたことか! 情報伝達ルートから孤立していた中南米では、とうとう発明されなかった典型的な技術の代表例を取り上げる。
    
@ ろくろ

   南米には文化が芽生えてからでも数千年の歴史があるのに、インカ時代に至ってもついに『ろくろ』は発明されなかった。軸対称の陶器を粘土で成形するのに、ろくろが如何に有益であるかは言わずもがなだが、人類最初のろくろは誰が一体発明したのだろうか? この発明の価値の前には、青色ダイオードの特許裁判で話題になった中村氏の発明と雖も、その時代に於ける相対的な革新性では月とスッポン!

A 文字

   人類が、猿人⇒原人⇒旧人⇒新人へと進化した過程で、言語を自由に操れるようになったのは新人以降らしい。旧人と新人は、一時は同時に棲息していたらしいが、新人が旧人との闘いで勝ち残れたのは、言語によって仲間との意志の疎通が可能になった結果、集団戦で勝ったからだとの説がある。いわんやマンモスや強力な野獣などとの生存競争でも人類が勝ち残れたのは、正しく言語の持つ情報伝達力による連携作戦の賜物らしい。

   更に文字の発明により人類は発明や経験知を整理記録し、後世に伝達できるようになった。新情報が内部記憶の遺伝子だけではなく、外部記憶によって後世にバトンタッチできるようになって以来、文明の進歩は急激に加速された。

   いわゆる4大文明には総て文字の発明があったが、インダス文明の文字は未だ解読されていない。インカやプレ・インカの南米の壮大な文明を歴史学者が5大文明に入れないのは、文字の価値を過大評価しているのだろうか? それとも、新大陸の文明は旧大陸に比べ歴史的に若干新しい(独立に発達した人類の各歴史から見れば、誤差の内と思えるのだが)が故に無視しているのであろうか?

B アーチ

   アーチも土木建築の歴史では画期的な発明である。エジプト人もギリシア人もアーチは発明できなかった。それ故に石造大型建築では材料調達に大変な苦労をしている。長大な梁に使える無傷の石材の調達には限界があった。アケメネス朝ペルシア帝国のペルセポリスでは梁材にレバノン杉を使ったが、アレキサンダー大王の焼き討ちで壊滅的な打撃を受けた。

   アーチの発明はローマの先住民であるエトルリア人の功績だ。その結果、レンガですら梁材に使えるようになりローマの大水道橋も完成した。アーチを3次元的に活用してドームを作れるようになり、パンテオンを初め各地に巨大な空間を確保した宗教建築が完成した。

   しかし、このアーチ技術もまた、インカではとうとう発明されなかった。
   
C ガラス

   ガラスの発明もなかった。インカの末裔はガラスで作った鏡に驚き、その低コストを見抜けず、物々交換で大量の金を失ったそうだ。世界の物価水準を知らないと、インカに限らず膨大な損失を発生させる。江戸時代の日本では金に比べ銀が相対的に高く取引されていた結果、明治維新の頃、西洋人にまんまと安い銀と金とを交換され、国家的な損失を招いた。

D 鉄

   アナトリア(小アジア、現在のトルコ)のヒッタイト帝国で最初の鉄の生産が始まったと言われ、武器として鉄は最強の材料になった。残念ながら南米では鉄は使用されなかった。

   酸化鉄の還元には青銅の生産よりも高温が必要だが、その高温の発生技術が発明されなかった。同じ理由で、高温が必須の磁器の生産も出来なかった。

   鉄を使った武器も鉄砲の発明もなかったのが、少数のスペイン兵にすら敗れた主因である。戦争の勝敗に与える武器の価値は何時の時代でも何ら変わらない。

   歴史書の上では、インカ帝国が僅かな人数を率いただけのピサロに敗北したのは、純朴な皇帝がピサロの姦計にまんまと乗せられた結果だと記録されている。しかし、仮に皇帝が策略を見抜き、ピサロの軍勢を一時的には殲滅し得たとしても、当然のことながら後日、大軍隊を派遣すると推定されるスペインの逆襲の結果としてのインカ帝国の敗北は避けられなかった筈だ。

E 貨幣

   ヘロドトスによれば、アナトリアのリュディア王国のギユゲス王が金と銀との合金で人類最初の鋳造貨幣を作ったそうだ。以後、貨幣の便利さが深く認識され、一気に周辺国へと広まった。

   しかし、中南米では貨幣はとうとう、発明されなかった。

F 車輪

   車輪はメソポタミアのシュメール人がBC3500年ごろに発明したと言われている。これによって物流効率があがっただけではなく、戦争では戦車戦も始まった。秦の始皇帝は度量衡だけではなく、ゲージの統一すら実施した。ポンペイの遺跡を見ると石畳に深い轍(わだち)が残っていることから、ローマ時代もゲージが統一されていたと推定できる。

   しかし、中南米ではついに車輪は発明されなかった。

[5]インカのノウハウ

   文字はなくても、インカに文明は立派に開花した。

    @ 十進法

   文字としての数字は発明していなかったが、数値の表現方法としての十進法は発明していた。数値は2進法でも何進法であっても数学的には表現できるが、人類が十進法を使うのは、手の指の数が10本あるからだろうか?

   数を表現するために長さ約1mの紐(キープと言う)に結び目をつけた。結び目の数が数値に対応した。ゼロは結び目の無い紐で表わした。これらの紐を長いメイン・ロープに暖簾のように結び付けた。桁はメイン・ロープから結び目までの距離で区別した。この方法の本質的な原理は、アラビア数字による今日の十進法による数値の表現方法と全く同じである。

   紐が表わす対象の種類は色などで区別した。その結果、人口・ラマの頭数・軍隊の人数など国勢調査の結果を集計し管理も出来た。

   ゼロの発見はインド人が最初と言われているが、それとは独立に南米人も発明していたのだ。
    
A サイフォン

   ローマの水道橋を見て、ローマ人はサイフォンの原理を知らなかったとの説もあるが、インカではサイフォンは発明されていた。水道や灌漑の配管に活かされていた。

B ジャガイモの保存法

   基本的な食糧であるジャガイモの保存法は高野豆腐の作り方と原理的には同じだ。屋外の寒気に曝して凍結させ、昼間解凍した時に足で踏んで水分を排出させることを繰り返して脱水すれば、堅い澱粉質の塊になる。この塊は何年間も保存できるそうだ。
   
C 石垣

   私が世界各地で目撃した範囲内では、石垣作りの技術はインカ帝国が世界一である。石垣を構成する石の形は、長方形とは限らない。寧ろ5角形以上の多角形が主である。中でも有名な石はクスコにある12角形。一つの石に凹部も凸部もある複雑さだ。各辺は直線とは限らず、円弧もしばしば見かけた。重さが何トンと言うほどの石もザラ。役用に使える大型動物はいなかったので、総て大勢の人間の共同作業だ。

   これらの大きさも角数も異なる石が、隙間がまったくない状態(ガイドブックでは誇らしげに、剃刀の刃一枚すら通らないと書かれるのが常だが、現物を見たら大袈裟でも何でもないと納得した)でジグソウパズルのようにして組み立てられている。鉄もない時代に、現物合わせ(現物合わせとは機械工学の専門用語!)で完璧な加工をしていた証拠だ。彼らには効率とかコストなる観念は全くなかったに違いない。

   スペイン人が作った石垣は地震で崩れたが、インカ時代の石垣は崩れなかったそうだ。加工精度の高さと複雑な嵌め合い技術の勝利だ。水抜きの穴や隙間がなくとも、幸いなことに雨量が少なく、石垣の内側に溜まる地下水から発生する土圧は小さく、崩壊には至らなかったと推定した。

D 石の鏡

   ガラスを知らなかったインカでは黒い石を磨いて鏡として使った。酸化する金属製の鏡よりも耐久性は高く、重たいのが難点とは言え実用性は充分にあった。博物館の見本でトライしたら、鏡としてのその性能に驚愕。これも石垣作りと共通の技術の成せる業だ。
   
E 織物

   インカの解説書では、織物技術を例外なく絶賛している。その原料には低地で栽培される綿花と高地で放牧されている駱駝科のアルパカやビクーニャの体毛が使われた。染色には草木を初め、天然染料を配合して190種類を超える色も使われた。

   簡単な構造の織機を使いながら、男性用の腰布やポンチョ、女性用の肩掛けや胴を帯で締める寛衣も織った。更に、錦織・刺繍・綴織(つづれおり)などの高度な技術も開発した。

   人や動物ほか色んな形のデザインを多色の糸で鮮やかに表現した織物が、遺跡から発掘されている。沙漠が幸いし、保存状態は大変よく、各博物館の主力展示品になっている。
   
F 絨毯

   シルクロード沿線には絨毯文化が花開いた。私は海外へ行く度にその国の代表的な絨毯を記念に買い求めた。中国・ベトナム・パキスタン・トルコ・エジプトの手織り絨毯は今でも愛用している。
   
   しかし、ペルーではどうした理由があったのか、素晴らしい織物文化は開花したのに、絨毯文化が育っていなかった。
  
G 壺

   ろくろが発明されていなかったためか、逆に壺文化が花開いた。つぼの形が多種多様なのだ。人間や動物の頭に似た形、ジャガイモなど植物に由来したと思われる形状など、多種多様! 形状の分類は不可能に近い。

   壺の表面には当時の社会生活を連想させる絵が画いてあったり、各地の異なる人相が画いてあったり。アジア系、ポリネシア系、アフリカ系、アラブ系など殆どの人種の顔が画かれていた。これらの証拠品を根拠に大航海時代以前から、世界各地の人々が既に到着または漂着していた筈と推定する人も多い。

H 皿

   アジアや欧州各国では、技術の粋を凝らした装飾用のお皿だけではなく、食器としてのお皿も無数に作られて各地の博物館の主力展示品として収まっているが、ペルーの博物館などでは、目を皿のようにして探したのに、お皿を殆ど見かけなかったのは一体何故なのか?

[6] 政治
   
   インカ文明はアイユと呼ばれる親族の集団を基本的な社会の単位としていた。総ての土地は皇帝(国家と実質的には同じ)に属し、アイユに貸し与えられた。その土地はアイユ用と皇帝用と神殿(宗教組織)用とに分けられた。アイユ用の土地はアイユの構成人数を考慮して毎年見直された。
   
   人々はアイユに割り当てられた皇帝用と神殿用の土地も耕し、そこからの収穫物は全て国家と宗教組織に収めた。アイユの消費のための農産物も余剰があれば国家に収めた。飢饉などに備えた国家管理の食糧備蓄である。貨幣の無いインカでは農耕作業の労務提供が税金の代わりをなしていた。
   
   道路や橋、神殿や砦の建設などの公共事業も労務提供を通じて行われた。これらの労務提供には食糧や衣類などが対価として与えられた。人々は備蓄食糧を通じて生活が保証されていたので、労務提供を厭わなかった。エジプトでピラミット建設に動員された農民と国家との関係に大変似ている。有償労働だったので喜んで働いた。
   
   全国に張り巡らされたインカ道の建設とその保守管理、インカ道を使った飛脚制度も沿線の住民の労務提供によって維持された。人が交代しながら走る飛脚の速度は時速10〜15Kmだったといわれる。これは信じがたいほどの速さだ。海岸から200Kmも離れた首都クスコに住む皇帝に毎日鮮魚が届けられていたそうだ。
   
   個人が借りた土地の遺産相続制度はなく、死後は国家に返還された。遺産相続がない代わりに生活が国家によって保障されていた。貨幣が無いため個人に金融資産の蓄積はありえなかった。当時の国富とはインフラ、公共建築、土地、国家に集まった金や銀などの貴金属であった。
   
   貨幣が無くとも、文字が無くとも、1000万人を超える大帝国を運営できた統治能力には驚嘆せざるを得ない。その基本を支えたのは貨幣の代わりとして機能した労務提供とその見返りとしての対価を与える双務制、キープを使った統計管理の巧みさにあった。
   
[7] 高山病

   『インカ帝国の見学旅行中は、メールへの返信は中断』とメール仲間に連絡したら、大学の級友(日本航空OB)から、『石松さんの母校(福岡県立東筑高校)出身者で九大航空工学科卒の5年先輩に当たる人(日本航空OB。今までそんな身近な所に先輩がおられたとは知らなかった)がペルー旅行中に、奥様が不幸にして高山病(?)で亡くなった』との恐ろしい情報が舞いこんだ。
   
   友人は余りにもお気の毒に感じ、詳しい症状や死因についてはお尋ねすることすら出来かねて、詳細は判らないままだが、用心にしくはなし、との趣旨のメールだった。
   
   早速、高山病についてインターネットで調べたが、すんなりと納得できる解説には出会えなかった。でも下記の情報は得た。先輩の奥様の場合も、持病(?)をお持ちだったのではないか、それが高山で悪化したのではないかと、推定した。
   
   
   http://www.everest.co.jp/wec/tour2004/ams.htm
   
   上記の記事には下記のような記述があった。
   
   最近高所で亡くなる登山者の死因が、高山病である高所脳浮腫や高所肺水腫ではなく、病理解剖がなされておらず確定はできないが、脳卒中や心筋梗塞など心血管系の障害によるものではないかと思われる。中高年トレッカーが増大した結果かもしれないが、たとい医師でも対処は難しい。
   
   ツアーガイド(リーダー)にできることは脱水を防ぐための水分の補給がせいぜいであろう。この意味でも事前の健康診断は必須で、それ以上は登山者個人のリスクの捉え方であると思う。
   
   
@ 症状

   いわゆる高山病とは、血中溶存酸素低下に伴なって発症する頭痛・嘔吐・不眠他様々な不快な症状の総称である。心肺機能の衰えた高齢者ほど罹りやすいそうだ。JTBの旅行案内にはその対策として、禁酒と充分なる水分摂取を勧めているが、そのことが何故高山病対策になるのかの説明はなかった。
   
   そこで私は以下のように推理した。高地で気圧が下がると、空気の抜け掛かった風船も膨らむように、全身の血管も膨らみ、血管の総体積が増える。しかし、液体である血液の体積膨張率は小さいため、血圧が下がる。血圧が下がれば血液の供給量が下がり、貧血状態になり酸素不足に落ち込む。更には洞不全症候群の患者と同じように、運が悪ければ血流不足から血栓が発生しやすくなり、脳梗塞や心筋梗塞の引き金にもなる。
   
   つまり、酸素不足に起因する直接的な症状と、血流不足に起因して発生する血栓が引き金になる2次症状の二つがあり、後者の場合は酸素吸入では解決しない。
   
   低地でも飲酒すれば血管が拡大して血圧が下がり貧血を起こし、最悪の場合には失神する。飲酒後の入浴で血管が膨張して発生する貧血で失神し、溺死した事例は枚挙に暇がない。我が身辺でも、航空工学の恩師・名古屋グリーンテニスのコーチ(元全日本チャンピオン)・名古屋グリーンテニスのシェフ・トヨタ同期入社の友人・トヨタ同期入社の友人の父・義兄を初めとして数え切れない。皆60歳以上での油断からの事故死だ。
   
   水を大量に飲めば、血液量が増して低血圧化が避けられるだけではなく、血液が水で薄められて粘度も下がり、流れも良くなるのではないか。それならばJTBの注意書きは正しい対策だ。

A 高山病に挑戦

   私は独身時代には北アルプスなど3,000メートル級の登山を数回、12年前にはスイスのユングフラウヨッホの鉄道駅(3,454m)周辺、6年前には還暦記念に富士山に初めて登ったが何の影響もなかった。独身時代には肺活量が5,950ccもあったが、2年半前のがん手術の直前検査では4,900ccに落ちていた。多重がんで落ちた体力ではどうなるのかに関心が起き、一度軽い高山病にも罹って、その顛末を旅行記で報告もしたかった。

   成田で寝酒用に買ったオールドパーの1g瓶と日本から持参した2g入りのスポーツドリンク及びホテルから無断で借りたガラスコップをアタッシュケースに入れ、連日移動中のバスの中でカクテルを作り、1週間で飲み干した。昼夕食の度にビールも飲んだ。しかし、残念ながら高山病らしき症状が現われず、がっかり!
   
[8] 先住民

   中南米の先住民は各種の調査からアジア系と断定されている。しかし、現在のペルーでは先住民とスペイン系との混血が進み、生粋のアジア系は大変少ないが、先住民の風貌を感じさせる人も多い。
   
@ 禿率

   世界的に見れば、黄色人種には禿げが少ない。ペルーでも禿げている男性は大変少なかった。添乗員や日本語ガイドに『禿げ率』を聞いたが即答はなかった。翌朝、バス内で添乗員から『石松さんから、ペルー人の禿げ率は幾らかとの生まれて初めての質問を受けました。いろんな方に聞いたところ5%位ではないかという回答を得ました』。日本人よりも禿げは大変少ない。

   尚、顔とは動かせる皮膚で被覆されている場所をいい、皮膚が動かせない額上部から後輩部は頭皮。日本人の場合、頭髪があるかに見えていても、前頭部の頭髪を失った老人は多い。

A 包茎率

   観光地では両側に衝立のない簡易トイレもあったので、チャンス到来とばかりに左右をそれとなくではなく、意図的に凝視。アジア人では日本人の包茎率が一番低い(我が積年の観察では30%?)と思っているが、ペルー人は包茎率が高いように感じた。
   
   包茎率を日本人のガイドに聞いても判らなかったが、日本での留学歴もあるペルー人の日本語ガイドは即答した。『殆どが包茎です!』
 上に戻る
リマ

[1]ロスアンジェルス

   ロスアンジェルスの郊外には碁盤目状に区画整理された一戸建ちの広大な新興住宅街が広がっていた。しかし、プールのある家はほんの僅か(推定1%)。一般庶民の家はアメリカと雖も今や慎ましくなったのか。機上からの観察では敷地は150坪、建築面積は50坪程度に見えたが、本当はどうだろうか? でも、芝生と庭木の緑が輝き、せせこましく感じさせる塀の類はなく、電柱も殆ど見かけず、景観美は日本とは格段の差!

   米国は同時多発テロの発生以来、入国管理が異常なほど厳しくなった。ロスアンジェルス空港では、成田空港で身体検査済みのリマへの単なる乗換え客だけではなく、中部国際空港で預け、リマで受け取る予定の我が鞄までも再検査されるそうだ。

   友好国である筈の日本人の乗換え客でも、ゲートでは最初に左手の人差しの指紋、次に右手の指紋を光学的読取装置の上に乗せて撮影され、最後に顔の写真も撮られた。大型鞄は各自が一端引取り、開錠後に再度預けることになった。検査過程で疑問が出ると、何時でも確認できるようにするためとか。

   チェックインカウンター前では、持ち主はいなかったが、疑われた鞄の中身の検査をしていた。小型懐中電灯大のセンサーらしき器具を、鞄の内壁に沿って一周させていた。麻薬検査と思えた。完璧に包装されていたお土産品らしき物の場合は、カッターナイフで包装の紐を切り、中身を取り出しての検査。

   添乗員に『開錠して預けても、盗難事件は起きないの?』と聞くと『米国での盗難は聞いた事がありません。ロシアでは貴重品だけではなく、お菓子等の食料品ですらも盗まれる事があるそうですよ!』と他国を非難して、一行の不満を宥(なだ)めた。

   ロスでは2時間55分もの乗り継ぎ時間があったのに、チェックイン待ちの行列に並んだりして、2時間も浪費させられうんざりした。空港内には小さなスーパーと免税店が各一軒、数軒の食堂があるだけで些か拍子抜け。食堂街には握り寿司、ラーメンなどの麺類、中華料理のバイキングもあった。価格は意外に安く日本並。しかし、何処となく薄汚くて試食する気も起きなかった。

[2]シェラトン

   リマ空港には午前0時35分着。シェラトンでは何時でも使えるウェルカムドリンク券が配られた。部屋に入ったのは2時半。一風呂浴びるべく浴槽に給湯開始。しかし、気が付いた時には給湯中のお湯は既に低温の水に変わっていた。評価は五つ星の世界に冠たるシェラトンでも発展途上国(2003年のGNPは2,050$/人)のお風呂は油断できない。微温湯(ぬるまゆ)に浸かって我慢。腹立たしくて石鹸を使う元気もなくなり、汗を流すだけ。就寝したのは午前3時に近かった。

   朝、18階の非常口から市内を眺めると、部屋からは見えなかった方向に一国の首都の風格を発見。片側6車線の大通りには渋滞こそ発生していないものの、車の洪水。リマには鉄道がなく市民の足はバスとタクシー(インドから輸入した超低価格車)。広々とした公園には芝生の緑も眩しく樹木も鬱蒼と繁っていた。道路の中央分離帯を初め街路樹には毎日散水車が水を撒くそうだ。

   シェラトンの広大な敷地の外周道路を一周すべく、レストランから裏道に出た途端、従業員から『そちらの通りは危険!』との大声。道を挟んで反対側にある大型ビルでは、その玄関先からビルを取り囲むような失業者の長い行列に、ペルーの厳しい現実を目撃。シェラトンの玄関に戻ってドアマンに詳細を聞くと『散歩ができるのは表通りの何処から何処まで』との厳しいお達し! 

   朝食はバイキング。料理人の中に日本人もいるのか、美味しい味噌汁やお粥もあった。味噌汁の実としては、短く刻まれた細いネギ、サイコロ状に切られた豆腐(日本で見かける水増しされたぶよぶよの豆腐ではなく、苦汁で固めた本物だったが、昨日の残り物なのか、プ〜ンと匂った)も別の容器に用意されていた。

   煮物料理の幾品かは、インカ帝国時代と同じ断熱性の高い素焼きの大きな壺で供与され、観光ペルーを演出していた。初めて見る珍しい熱帯の果物も多く、疲れた胃に重い料理は避けて、果物とか元祖(原産地)のトマトや搾りたての生ジュースを楽しんだ。日本で改良された糖度の高いトマトを食べ慣れていたためか、元祖のトマトは残念ながら舌に馴染めなかった。

   ロビーのお土産品売り場の前には、インカ時代の手織りの織機で壁掛けを織る中年男の職人が、機織(はたおり)の実演をしながら注文取り。過去の自慢の作品も紹介していた。その中には日本人移住100周年記念行事(1999年5月)にご出席された、清子内親王殿下(紀宮様)の上半身像を織り込んだタペストリーもあった。



[3]リマ点描

   インカ帝国の首都は高地のクスコだったので、スペイン人は海運にも便な海岸のリマを基地に選んで植民地経営を開始。国民の30%(750万人)以上が住むリマは、都市圏人口ではサンパウロ、リオデジャネイロ、ブエノスアイレスに次ぐ南米では人口第4位の大都市に成長。

   熱帯なので水さえあれば、緑と花々に囲まれた素晴らしい環境作りは簡単だ。官公庁などの重要地域や高級住宅街は花壇も美しく維持されているが、一般庶民の住宅は気の毒にも土埃が舞い上がるような殺伐とした状態に放置されたまま。

   寒流であるペルー海流(別名フンボルト海流)が南米の西岸に沿って北上するため、大気が冷やされて霧が常時発生するとかで、沙漠地帯なのに視界が悪い。

   街角で昭和37年の秋にモデルチェンジされた2代目のクラウンを発見(今から43年前、私がトヨタ自動車工業に入社した年。その年の秋に創業以来累積100万台目の車として新型クラウンがラインオフした。今や年間生産台数でも概算700万台、名目売上額はとうとう当時の100倍以上にもなり、今昔の観に堪えない!)。ぼろぼろに傷んではいたが、乾燥地帯のためか錆の進行が遅く、今尚立派な現役!



   バッキンガム宮殿を連想させるような威圧感のある頑丈な、しかも二重になったフェンスに取り囲まれた新しい超大型の駐ペルー日本大使公邸の入り口には、退屈そうな数人の見張りの警備員がいた。同行者が『外務省は贅沢三昧をしている』と誤解するのを避けるためか、添乗員が『大使の私邸部分は小さくて狭いそうですよ。大部分は公務で使っています』と、耳障りな解説。

   @ 天野博物館

   インカ帝国やそれ以前の先住民の土器や織物など3万点にも達する故天野芳太郎氏の収集品の中から、300点が展示されている、日本人観光客が訪れる定番の小型博物館。天野氏はリマ名誉市民にも選ばれている。しかし、ペルーで発行されている『ペルー発見』という日本語の総合ガイドブックには意図的なのか、天野博物館に関しては全く触れていないのは残念なことだ。



   天野氏は個人が集めた発掘品を展示して入場料を取るのは邪道との信念の下、無料で開放されている。博物館としての規模こそは異なるものの、無料の大英博物館と同じ方針だ。展示物をじっくり見てもらいたいとの趣旨から、入場は予約制。案内人はボランティアの日系青年だった。毎日同じ説明を繰り返しているためか、芝居の台詞のように簡潔で判りやすい説明力が身に付いていた。

   アンデスの土器は形に特色があった。動物の顔を髣髴とさせる物が多い。お酒を入れる土器の場合、ウサギの耳のように長くなった注ぎ口が2本あった。一方が空気の吸入口になるため、スムーズに注げる。また、注ぎ口までの管の中間を繋いで把手にし、運びやすい形状にしたデザインも見かけた。土器の表面には様々な絵が描かれていた。

   別室には保存状態の良い織物を展示。織物、編物、レース、刺繍など今日見かける織物の形式の総てが既に存在していたそうだ。材料は動物の毛と木綿。草木染めの色彩の耐久性にも驚く。乾燥地帯の保存性に守られたのか、古さを全く感じさせないほどの鮮やかさ。

   先住民は大事な織物に鋏を入れるのは極端に嫌ったとか。貫頭衣の一種であるポンチョなどが発達。男女別々のデザインからなる衣類の展示も豊富。典型例となる織物は壁面に展示しているが場所不足となるため、多くは和ダンスのような浅い引き出しに広げて保管。一覧性は無いが、代表的な物は学芸員代行のボランティアが引き出しを手前に引いて見せてくれた。

   売店ではお土産品の他、ペルー観光の本や絵葉書も売っていた。私は『ペルーの発見』を22US$で買った。A4で僅か128ページ。紙質も印刷技術も悪くはなかったが、みんなは口々に『高い、高い』という。

   私が『この程度の本なら、10$が世界の相場と判ってはいるが、天野さんの心意気と功績に応える意味を込めて買いました。入場料に代わるいわば寄付の心積もりです』と言ったら、何人かが『その通りだ』と言って買い求めた。観光地のあちこちで同じ本を売っていたが、16〜25$の範囲だった。日本人観光客が少ないから、止むを得ない価格と思う。

A 黄金博物館

   実業家だったミゲル・ムヒカ・ガーヨ氏が収集した金製品などの小型博物館。名称は黄金博物館だが、ミイラや頭蓋骨、武器などの展示もあった。トルコ・イタリア・ロシア(クレムリン)など各地で軍事博物館を見たが、多くの博物館の展示品は何処となく埃まみれの物が多いが、ここの武器は種類が多いだけではなく、鉄砲や銃剣を何時でも使えるほどに磨き上げて展示していたため、一層迫力を感じた。

   脳外科手術後の頭蓋骨があった。戦い(投石器や円形または星型の石を付けた棍棒による近接戦)で頭蓋骨が陥没した兵士の脳外科手術に成功し、4cmくらいの陥没穴が治癒している痕跡が明らかだった。一説では60%もの死亡率だったとか。それでも今日のがんの外科手術とそれほど変わらないくらいの成功率だ。誰だって僅かの可能性でもあれば痛さを我慢してでも、生き延びたいのだ。傍らには皆で兵士を押さえつけて手術をしている模型も展示。

   頭蓋変形を受けた頭蓋骨があった。赤ん坊の時に頭に枠を嵌め立方体や直方体などの形状に育てた頭蓋骨に接すると、余りにも痛々しく感じられて、中国の纏足(てんそく)の習慣にも似た古代人の異常な発想に驚く。四角に育てたスイカなどには遊び心が感じられるが・・・。

   黄金博物館の正面には広々とした庭園があり数軒のお土産物屋もあり賑わっていた。その一つでこれぞペルー製品と思えた牛皮製帽子を発見。つばには『PERU』と刻印。更にナスカの地上絵の典型例である『猿・クモ・ハチドリ・人の両手』も刻印されていた。暫くの間、テニスとゴルフで使うべく、言い値の12$で即座に購入! 帰国後、愛用しながら友人達とペルー談義。

B マヨール広場

   1535年に都をクスコからリマに移すと決めたピサロが、スペインのイベリア様式(どんな特徴があるのか知らないが・・・)を真似て作った旧市街の中心にある広場。この広場を囲む四辺には大型の建物が残っている。
   
   その一辺にはカテドラル(大聖堂)もあった。この周辺の石造建築物の2階にはユニークな木製の、壁も屋根もあるベランダ(バルコニー)が取り付けられていた。このベランダは超豪華な仏壇を連想させるほどの複雑な彫刻で覆われていた。乾燥地帯なので木造なのに保存性が良いのだそうだ。



C 大統領官邸

   外から見ただけ。この種の公共建築物は国力に比例するのか、小さ過ぎてがっかり!

D カテドラル

   1535年1月18日に起工したペルーでは最も古い教会。度重なる地震に見舞われたが、最終的な修復は1755年。欧州で大型の大聖堂を見慣れた目には、規模が小さ過ぎてこれもまたがっかり!

E 昼食

   太平洋を望む景勝の地にあったレストランで昼食。ロビーにはテーブルに飾る、世界中の小さな国旗が何百本も用意してあった。何処の国からの観光客であっても間に合うようだ。波は荒れていて水泳には無理だったのか、海岸の砂浜では無数の海水浴客が甲羅干し中。埠頭には釣り客がいたが釣果はなし。
   
   レストランの背後は切り立った高さ数十メートルの崖があり、その上には見晴らしの良さそうなリゾートマンションが無数に建っていた。崖には木も草も見られず、崖崩れを心配したが、雨が降らないため心配無用と言う。本当かな? との疑問は解けなかったが・・・。
   
F ディナーショー

   シェラトンでは毎夜9〜11時まで、ディナーショーが開かれている。我がグループは8時までに夕食は食べ終わっていた。レストランはロビーに隣接していた。レストランとロビーとの間には高さ1m程度の壁があるだけ。舞台はロビーからも丸見え。
   
   ロビーから見る場合は無料。レストランだと食事付きの特等席は舞台の近く、食事なしでも有料なのに食事付きの席の後ろ。舞台からは遥かに遠くなるので舞台近くのロビーから眺めた。踊り子は10人余。楽器の演奏者や歌手を入れて総勢20人位。
   
   民族衣装は原色をふんだんに使ったものが多く、中国南部(雲南省)の少数民族の衣装に良く似ていた。踊りや音楽を楽しむと言うよりも民族衣装に関心をそそられた。
           上に戻る
クスコ

   クスコはインカ帝国の首都。リマから海抜3,360mのクスコまで飛行機で一気に移動。高山病対策も必要らしい。クスコは日本第2の高峰、南アルプスの北岳の3,192mよりも高地にある。

@ アルマス広場

   インカ帝国では首都でも地方の拠点都市でも、その中心部には広場があり、それを囲んで宮殿・太陽の神殿・尼僧院・食糧倉庫が配置されていた。クスコの広場をスペイン人はアルマス広場へと改造し、中央に設置した大きな噴水が憩いと癒しの場を提供。第11代インカ帝国皇帝ワイナカパックの宮殿(インカでは皇帝にも庶民にも遺産相続制度が無く、皇帝が代わる度に専用の宮殿を建てたらしい)を壊して、大聖堂を建設。この大聖堂は、1週間前に逝去したローマ法王ヨハネ・パウロ2世の法要準備のために閉鎖されており、運悪く見学も出来なかった。

   大都市の中心部にまともな広場の無い日本は、世界的には珍しい存在だ。やっと各地に都市再開発の一環として駅前広場が整備されつつあるとはいえ、大部分はタクシーやバス乗り場が占拠し、広場とは名ばかり。

  日本人には、花と緑に溢れた広場や都市公園のような、人々に安らぎを感じさせる非生産設備には、大昔から官民共に金を出し惜しみ過ぎるようだ。その究極の姿は、庭も車庫のスペースも無いような戸建ち建売住宅が今尚売れ続けている現実に象徴されている。

A サント・ドミンゴ教会

   アルマス広場の近くにはインカ帝国時代には『太陽の神殿』があった。これもまたスペイン人に破壊され、内部の装飾にふんだんに使用されていた金は強奪された。跡地にはサント・ドミンゴ教会が建設された。

   とは言え、インカ時代の石組みも一部残されていた。その中には優美な曲線を描いた石壁があった。平面で構成される石壁に比べ、建設時間は格段に増える筈なのに、皇帝の意図を汲んだインカの石工(いしく)達の執念に感服!

B 12角石

   インカの石壁は何処も多角形の石組みを特徴としているが、最も有名なのは12角石だ(マチュピチュには20角を超える石もあったが・・・)。インカ・ロカ宮殿を支えていた石垣に埋め込まれていた。周辺の石も風化は殆ど感じられず、ピッタリと嵌め込まれているのを見るのは何と気持ちの良いことか!



   こんな気持ちになれたのは、クフ王のピラミッドの内部で、大回廊を見上げた時以来だ。大回廊は大変精密に加工されているだけではなく、その構成要素である石の大きさではインカの遺跡に遥かに勝るが、総て直方体だった。精緻な美しさを感じさせる石の加工技術ではインカに軍配!

C サクサイワマンの要塞

   クスコの町はピューマの形をしていると言われるが、その頭部に当たるのがサクサイワマンの巨大な要塞である。3万人が80年掛けて建設したとか。クスコの町を一望できる位置にある。ここは高原なのに、なぜか低地のように暑い。ガイドの予告通り摂氏30度を軽く超える。盆地の影響か?

   クスコの民家の屋根はどれも同じ明るい茶色の瓦(瓦の材料である粘土が一種類しかないため、瓦の色が結果として統一された)で葺かれている。総てが同じ色に統一された美しさは別格だ。日本では屋根や壁の色にはドイツなどとは異なり規制もなく、一戸、一戸は豪邸でも相互に打ち消し合う結果、街全体としての統一された色彩美はないも同然!

   多角形の巨石を積み上げた3層の要塞壁(5層だったのにスペイン人に破壊された)は壮観だ。万里の長城は長いだけで石組みとしての豪華さや壮観さは皆無に近い。此処の最大の石は高さ5m,360トンもの重量だ。モアイの巨像を初め世界の古代文明には巨石建造物が共通するかのように残されているが、その建設動機も建造方法も想像の域を脱していない場合が殆どだ。



   アフリカの蟻塚の写真や国内でもスズメバチの大きな巣を見るたびに、小さな動物でも力を合わせれば、想像も出来ないような成果を挙げていることに感嘆する。しかし、彼らの場合には一度に運搬できる物体の質量は固体体重の高々10倍程度。360トンの石は60kgの人間の何と6,000倍。この比(600=6000/10)が人知の象徴に思えてならない。

   要塞の前には広大な広場があり、毎年6月24日(冬至前後。夏至の誤植にあらず!)にはインカ時代の儀式『太陽の祭り』が復活され、南米ではリオのカーニバルに次ぐ人出で賑わうそうだ。今やペルーの人々も自らの出自の誇りを取り戻し、インカの祭りは年々盛んになっているとか。

   我が豊田市にも『おいでんまつり』(おいでん=いらっしゃいを意味する三河語)が創設され、毎年7月下旬の週末の夜には数百組の同好者が揃いの衣装に身を飾り、自動車を締め出した都心部の通りを踊り狂い、20万人もの観光客で立錐の余地もない程に賑わっている。生き延びるために豊田市まで移住したとは言え、生まれ故郷の祭りを思い出しながら、心の安らぎを求め続けている踊り子や見物人の深層には、インカの祭りの賑わいと共通する心理があるのではないか?

D ケンコー

   サクサイワマン近くの丘の上に祭礼場として使われたケンコーの遺跡があった。此処の遺跡の特徴は、石を組み立てて作らず、そこにあった大きな石から彫刻のように削り出して作られた点にある。階段すらも大きな石から削り出された一体構造だった。



   マチュピチュにも一体構造の階段などがあったが、一説によればこれらの石の加工には硬度の高い隕石が工具として使われたとか。(しかし、総ての石工に隕石や隕鉄製の工具を使わせるほど、隕石等が沢山発見されたとは思えないが・・・)

E タンボマチャイ

   ケンコー近くの山の斜面に4段になった石の擁壁が作られ、小さな滝のように清水が流れ落ちていた。年中枯れることもなく一定量の湧き水が出ているそうだ。憩いの場所として使われたらしい。

   この種の湧き水の利用場面にはあちこちで出会ったが、アンデスの大山脈から溢れ出てくる水は、聖水として崇めたくもなろうと言うもの。飲みたいとの誘惑に襲われたが、崖の上は岩山ではなく、高山植物も生い茂っていたので、風土病を恐れて断念!
                               上に戻る
マチュピチュ

   『空中都市』の異名を持つマチュピチュはインカ帝国が残した世界的にもユニークな遺跡であるがため、ナスカの地上絵と並んでペルー観光の双璧だ。今回の正味滞在日数7日間の内、ここの観光に2日間も当てられていた。初日にはマチュピチュの全貌を、翌日にはマチュピチュを眼下に見下ろしながらの、これまた素晴らしい『インカ道』の高原トレッキング。かつて味わった小学生時代の遠足前の心境を久々に思い出しながら、朝から期待に心が弾む。

   早朝にバスでウルバンバを発ち、オリャンタイタンポの駅前に到着。この周辺の山腹にも無数の石造りの遺跡が遠望された。駅前の広場では大勢の労働者が退屈そうに屯(たむろ)していた。幸運にも仕事に有り付けた人達だけが十数人、トラックの荷台に積まれて何処やらへと出発した。

   直ぐ横には露天市と屋根のある常設市場とがあった。野菜・果物・肉類・雑貨の種類も豊富。何故か蝿がいなかった。名物料理の食材になるクイ(ハツカネズミの一種)の餌も売っていた。穂が出る前の麦に似た草だ。添乗員がミネラル豊富な岩塩が名物と紹介。但し岩塩はハンドキャリーで持ち帰らないと、帰路ロスで見つかれば没収されるそうだ。麻薬と紛らわしいのかも知れない。
   
   東南アジア(香港・ベトナム他)とは異なり、鶏なども既にさばいたものを売っていた。生きたままで売られている食用動物は無かった。肉屋の店頭で写真を撮っていたら、若い店員が大きな包丁を2本取り出し、包丁を胸の前で交差させ、擦り合わせながら研ぐ仕草を始めた。早速パチリ。嬉しそうな表情もばっちり。

   海外では食糧品売り場がある大型市場に出かけるのが何時もの楽しみだったが、今回はこのときが唯一の機会となった。最終日の夕方に予定していたリマの中央市場は、帰路の移動が遅れてとうとう断念! 結果的には貴重な一瞬になった。

@ 高原列車(ビスタドーム)

   マチュピチュ往きの高原列車は狭軌。あまりの狭さに驚き、2人の駅員に別々にゲージはいくらかと質問。自信なげに90cmとの返事。添乗員に聞くと『知らないから聞いて来る』と言って持ち帰った答えは、90,94,96,98cm。聞けば聞くほど答の種類は増える。
   
   発展途上国の人には何かを聞かれると、知らないと答えるのは恥と思う傾向があり、出鱈目な返事をする場合がある。そのため本当に知りたい問題の場合は、同じ質問を多くの人に独立に聞く習慣にしているが、解の精度が必ずしも上がる訳ではない。

   尚、世界には下記の資料のように色んなゲージが使われてる。

   http://www.geocities.co.jp/CollegeLife-Lounge/3290/chishiki/gauge.html

   この高原列車は天井の両側から各60cm幅くらいまでガラスが嵌め込まれた窓があり、左右の山岳地帯の眺望が楽しめるようになっていた。ここからマチュピチュまでの105Kmは、アンデス山脈の谷間沿いの登山列車(ディーゼル機関車による牽引)のみが移動手段になっている。谷間には濁流が轟々(ごうごう)と流れていた。アマゾンの源流の一つ、ウルバンバ川だ。

   高原列車からの景色は『絶景かな!!』に尽きる。両側は軌道面からの高さでは推定2,000〜3,000mのアンデス山脈が連なる。海抜なら4,000〜5,000mにも達し、キリマンジャロクラス(5,895m)の万年雪を冠した5,700m超の山(アンデスの最高峰はアルゼンチンのアコンカグアの6,960m、ペルーの最高峰はワスカランの6,768m)も紺碧の空に突き出ていた。

   左右の山裾間の距離は僅か数百メートル。両側の山肌は文字通りの絶壁だ。しかし、低緯度地方なので谷底まで太陽光線は届き、明るい空間だ。山頂には植物は一切見かけなかったが、高度が下がるに連れて植生は、雑草⇒高山植物⇒温帯植物⇒亜熱帯植物⇒熱帯植物へと変化した。私はこれまでこれほど多彩な原生植物を、一ヶ所で観察できる植物園には出会ったことがない。

   同行した日本人ガイドは、積年の体験からか質問攻め対策として植物図鑑を携帯。ここは中国雲南省の桂林や璃江下りで、かつて堪能した峡谷よりも谷は更に深く、山は更に高く、長さでは世界一の大山脈アンデスの、峰嶺の迫力は流石に桁違い。大宇宙に煌く星々から見れば、取るに足らない程度の地球でも、自然の力は大したものだったと再評価。

   スイスアルプスの解放的な明るさには雄大さこそあれ秘境は感じさせないが、ここは正しく世界に冠たる秘境中の秘境! 日本の観光業者が黒部を秘境扱いにして集客するのは『井の中の蛙』の発想とまでは言わないが、箱庭の世界に過ぎなかったと気づく!

   高原列車の各車両には男女各1名の車掌が勤務。意図的に美男美女が採用されているのだそうだ。帰路は車内がファションショーの会場に変わった。2人は衣装を交互に着替えては車内を往復。1人で凡そ20枚は披露した。ショーが終わると、今まで紹介した衣装の車内販売を開始。アルパカのセーターなど特産品が程ほどに売れていく。

   途中の停車駅で『茹でたジャンボ・トウモロコシ』を購入。窓から頭を出し、線路内にまで入り込んだ売り子から窓越しの購入。山羊のチーズと一緒に食べた。程よい甘味がチーズの塩味と複合して美味しかった。粒が種無し葡萄(デラウェア)ほどもあり食べやすかった。



   海抜2,000mのアグアス・カリエンテスに到着。とりあえず荷物を宿泊予定のホテルに預けて、バス停へと向かう。小型バスに分乗して高度差280mの未舗装のいろは坂を30分かけて登った。途中何度も下山バスとすれ違うが、谷底への転落事故も起こしかねないような狭い道だった。堅牢そのもののインカ道の安全性とは月とスッポン!

   終点には鉄道とバスの独占運行会社が経営する小さなホテルがあった。一泊何と600$。しかもリマの一泊600$の系列ホテルも同時に予約しないと山上ホテルの予約は出来ないそうだ。一般観光客はホテルのトイレは使用禁止、近くの有料トイレを使うようにとの添乗員の指示。私はその説明に疑問を感じたのでホテルに出かけ、何食わぬ顔をしてトイレを使用した。何一つ苦情は出なかった。
   
   『皆さん、ここのホテルのトイレは無料でした。美しくて快適。更にがら空きでした。私は1,200$を払える金持ちのお客さんに見えたみたいですよ』と、自慢げに大声で報告したが、同行者は気後れするのか、誰一人ホテルへ出かけようとはしなかった。海外で物怖じするようでは、旅のベテランと自慢している人達の底の浅さが、バレたも同然!

A マチュピチュの遺跡

   マチュピチュの遺跡は三方が断崖になった山の頂上にあった。スペイン軍によって追われたインカの人達が建設し、その後破棄され、樹木に覆われていたが、1911年に探検家ハイラム・ビンガムによって発見され、インカ帝国史の主役の一つに踊り出た。
   
   樹木が取り払われ、遺跡の一部が復元された。ここには住居の他、太陽の神殿・神官の舘・牢獄・水汲み場など各種の公共設備がある。建物の床と壁は石、梁は木、屋根は草で葺かれた。2,3の屋根付きの住居例が復元されていた。ここでも多角形の石を隙間無く積み上げた堅牢な建物も幾つかあったが、石以外の材料は総て除去された状態になっている。近くの高台からは全体の建物の配置が一望できる。

   
   建物類も然ることながら、驚愕に値するのは周辺の絶壁に近い斜面に開拓された段々畑である。段々畑に不可避な擁壁は石積み。日本の石垣のイメージからは程遠い、垂直に積まれた石の壁であり、日本の棚田の脆弱さとは雲泥の差!
   
   現在の段々畑は観光資源として復元されているだけなので、農作物の代わりに緑の芝生で覆われている。芝刈り“人”としてアルパカなども飼われていた。段々畑の総てが復元されたわけではなく、残りは未だ樹木に覆われたままだ。しかし、観光資源としては全部を復元するほどのニーズはないと思う。メンテナンスが大変だからだ。
   
   今やマチュピチュには年間40万人以上もの観光客が押し寄せ、鉄道運賃は往復1万円、ホテル代、マチュピチュの入場料、いろは坂のバス代、麓(ふもと)のマチュピチュ銀座や露店の賑わいなどから、観光客が落とすお金は軽く年間100億円は突破しそうだ。遺跡の管理やメンテナンスだけでも60人も働いているそうだ。大いなるインカの遺産だ。登山客数が似ている我が富士山に落ちる金は、マチュピチュにはとても勝てそうにもない。
   
B マチュピチュ銀座

   エレベータがあるホテルはアグアス・カリエンテスでは一つだけ。その宿泊ホテルを出ると坂道の両側に添って数百メートルもレストラン・お土産屋などが軒を連ねるマチュピチュ銀座があった。坂を登りきった所にある露天風呂の料金を確認して戻った。

   坂の上り口には商店に取り囲まれた小さな広場がある。その中央部に位置する国旗掲揚台にはローマ法王の死去により半旗が掲げられていた。ペルー国民の95%はカトリック教徒だ。制服を着た3人の職員が教会の7時の鐘を合図に、半旗を降ろし始めていた。情報集めは真面目な公務員相手に限る。

   若者のズボンの上から陰部に軽く手を押し当て『相場はいくらかね?』。仲間同士、意味が分からないような素振りをしていたが、元気そうに見える青年たるものそんな筈はあり得ない。明らかに困惑の表情が走っている。再度聞くと小さな声で『50$くらいですが、ここでは午後10時以降しか認められていません』と教えてくれた。世界的には100〜200$が多いのに、貧乏国の女性はいくら美人に生まれても、市場原理には勝てないようだ。

   ホテルでの夕食後、着替えと部屋のバスタオルとを袋に入れて、露天風呂体験へと出発。軽い高山病に罹った荊妻は外出の意欲無し。水着は忘れていた(旅行案内には露天風呂があるから、希望者は水着持参との注意書きはあった)が、着用していた猿股は紺地にカラーの花柄模様だったので、十分水着に見える筈と判断した。第一、水着とは何かとの定義がある筈もない。ここの脱衣箱には鍵が無いので入浴料金きっかりを持参。

   谷川沿いに露天風呂が10個近く配置されていた。露天風呂は6〜10畳大のコンクリート製の四角いプールのような箱だった。底には一面に砂利が敷かれていた。水風呂も一つ。他の風呂は上から順番に温泉が流れ落ちていく配置だった。どれも体温よりやや高い程度で、高温の温泉に慣れている私には物足りなかった。
   
   夜間なので暗くて充分には観察できなかったが、水が薄汚れているし、温泉特有のぬるぬる感も無く、かすかに硫黄の匂いがするだけ。日本人の観光客にも数人出遭ったが、白人は少なく、ペルー人が中心。ペルー人も温泉が大好きらしい。

   帰り道で『マッサージ』の看板を発見。客引きに『いくらかね?』『所要時間にもよるが、10,15,20$などいろいろ。ちょっとこちらへ』と言って20mくらい路地へと連れ込まれた。『ここで、ちょっと待って』と言って客引きは家の中へと消えた。1分後、女性を伴なって現れた。若い美人だった。『相場を聞いただけだよ。ホテルで妻が待っているから』と言って別れた。

   谷川を挟んでマチュピチュ銀座とは反対側の広い斜面は露天商が活躍する舞台だった。直径5m位の大型円形テントが何と数十張り。民芸品・インカ帝国を連想させる飾り物・アルパカの各種セーター・毛皮の装飾品などペルー土産の総てが揃っていた。こちらの方が銀座よりも賑わっていたし、見ていて楽しかった。

   あちこちから『お兄さん』との呼び声が頻発。日本語も少しずつ普及し始めたようだ。『若い男がお兄さん、私のように年寄りの男はお爺さん』と教えた後、『私はお爺さん、それともお兄さん?』と質問すると、間、髪を入れずに声を揃えて『お兄さん!』
  
C インカ道
   
   翌日はインカ道のトレッキングか、マチュピチュの眼前に聳えるピラミッドのような山に登るかの選択肢があった。山には急斜面もあり、危険個所には鎖が付けてあるとは言うものの、時には遭難者も出るらしく、登山口には記名帳が用意されていた。我がグループからは元気な女性が2名この登山に参加。強くなったのはナイロンの靴下だけではないと納得。

   インカ道はインカ帝国全土に張り巡らされた3万Kmにも及ぶ幅3〜4mの石畳道であり、スペイン人がローマ帝国の道よりも素晴らしいと褒め称えたとか。山岳道路が中心になっており、段々畑の擁壁と同じく道の谷側は要塞のような石積み。昨年、世界遺産にやっと登録された『熊野古道』など、インカ道と比べれば、みすぼらしくて、貧弱で・・・。

   マチュピチュからインカ道を登ると程なく石造りの立派なゲートが現れた。関所跡であった。道端には野生のランの花、巨大なしょうが、摘み頃のワラビもあった。ペルー人はワラビを食べないそうだが、山菜が大好きな私には勿体無くて、勿体無くて・・・。

   片道1時間半程度のトレッキングだったが、天気に恵まれ、爽やかな風も吹き、素晴らしい景観も満喫! 目標地点の大型遺跡『太陽の門』で全員一緒の記念撮影。全員のカメラを一ヶ所に集め、ガイドが次々に撮影。カメラの使い方は夫々異なるのに、ガイドは殆ど迷うことなく操作していたが、自動焦点時代の賜物か?



   マチュピチュを後に、いろは坂をバスで降り、高原列車でアグアス・カリエンテスに戻った。その後はバスで高原を疾走し、クスコに到着。

   クスコのホテルの夕食もディナーショー。ペルーではショーは付き物のようだ。予約席はかぶり付きだった。このレストランではバイキング料理は舞台からは最遠隔地に配置。ベストな席とは? ショーと料理のどちらを優先するか、痛し痒しだ。

   この日はペルー料理のオンパレード。ハツカネズミの一種、クイの料理を初め、少しずつ試食。果物の種類も豊富。満腹で最早食べられないと解っていながらも、超立派な大きなマンゴーが目に留り、セーターの下に2個隠して持ち出した。帰途、ロスの空港でこのマンゴーを満喫。江戸時代からの老舗、東京の『千疋屋』だったら、一個5,000円?
   
   5月15日に松坂屋百貨店の本店に立ち寄った折に、ほぼ似た色合いと大きさの宮崎県産の温室マンゴーを発見。1個8,400円! この価格でも買う消費者が日本にはいるのに驚く。病気見舞いに貰ったとしても、相場を知らないと有り難味も分からないのでは?
                               上に戻る
高原の移動

   早朝、クスコの町を散策。4月9日にクスコに来た時はローマ法王の死去に伴なう追悼行事で町中がごった返していたが、その喧騒も収まり、高原の静かな古都の遺跡を再確認。
   
   スペイン人がインカ時代の『太陽の神殿』を土台だけ残して壊し、その上にサント・ドミンコ教会を建てた。その後、地震で教会は崩壊したがインカの土台はびくともしなかったとの話題を残した。
   
   その後再建された教会の壁面を撮影した我が写真を改めて眺めると、基礎部から3mまでの地上部はインカの石組み。その上には小さな、大きさも種類も不揃いな貧弱な石がモザイクのように嵌めこまれていた。その前に飾られた十字架には日本のお地蔵様のように布製の飾りで覆われていた。十字架の飾り方にも国民性が現れるようだ。
   
   この日はクスコからプーノまで8時間ものバスでの移動。添乗員に『この8時間の移動にどんな価値があるの? 飛行機を使えばもっと時間が有効に使えるのではありませんか?』と尋ねた。移動中の魅力を聞けるのかと期待したのに、『私が企画したわけではありません。企画者の意図は知りません!』と、憮然とした回答。
   
 @ トイレ休憩、その1

   クスコ近辺では職業別に町が発展している。パン焼きの町、レンガ工場の町、屋根瓦工場の町のように、幹線道路に沿って夫々の職業集団が集まっていた。最初のトイレ休憩はパン焼き工場だった。

   直径3m、高さ2m位の日干し煉瓦で作られたドームがパン焼き窯だ。内部で薪を焚いてドームに蓄熱した後、パン生地を入れて焼く。ここの自慢の製品は円形の座布団大の丸いパン。添乗員が『イースト菌は使わず、何も添加せず小麦粉だけで自然発酵しているから20日間も持つ』と説明。

   添乗員が『皆さんから集めた空港税は1ドル未満を切り上げて集めたため少しお金が余っています。それで名物のパンを1個買います。どうぞ千切ってご賞味下さい』と言ったので、欠片(かけら)を皆で食べた。水分が少なく、密度が高く、やや堅かった。

   『このパンは小麦粉だけの味ではない。甘味もあるし、何か混ぜてある筈だ。あなたの説明には疑問が残る。焼いた人に確認してきて!』と私は要求した。『牛乳と蜂蜜を入れていたそうです』。添乗員の説明のいい加減さは何時もの通り。何人かがこの巨大なパンを買ったが、日本まで持ち帰るつもりなのだろうか?

   途中、トウモロコシやソラマメの農場が続く。ソラマメの原産地は中央アジアだが、アンデス山地の気象条件は中央アジアに似ていてソラマメには適地のようだ。

   沿線には所々にインカ道が残されていたし、石で作られた遺跡が次々に視野に入ってきた。民家の屋根の中央部に小さな十字架と天使か何かの彫刻が一対飾られていた。沖縄の民家で小さな獅子の焼き物(シーサー)を、屋根などに飾る習慣に似ていた。お守りみたいな物だそうだ。竹はアジアの特産物かと思っていたら、ペルーにも竹があった。竹の篭が実用品としてパン屋でも使われていた。

    A トイレ休憩、その2

   トイレは有料でも、サービスのコカ茶が振舞われ、お土産の売店もあった。29名もいると、何人かは必ず買い物をするから共存関係にある。

   ここでは中庭でアルパカやリャマを飼育していた。全部で数頭。観光客が写真撮影するためのサービス用に思えた。納屋の一角では食用のクイを飼っていた。モルモットの一種とは言え、ウサギのようなふさふさとした毛に覆われ、体長も25cmはある大型の可愛い鼠だ。一般の民家では台所で飼育するそうだ。

   道路沿いにはアルパカが数百頭いそうな放牧地が次から次に現れた。農地には使えない荒地でも放牧可能な雑草が生い茂っていた。周囲には雪を抱いたアンデスの大山脈が続く。

    B 4,450mのララヤ峠

   今回の旅行で到達した最高高度の峠で小休止。絶景かな!! 周囲には民家など全くない大自然そのもの。この雄大さを味わうとバスでの移動にも大きな価値があったと納得。ここは余りにも眺望が良いためか、一角はお土産の露天市と化していた。通過する観光バスが、休憩地として選んでいるためだろうか?

   沿線の放牧で無数のアルパカを見ていたので、急にアルパカの毛皮製品とセーターを買いたくなった。セーターは買った途端、着用開始。柔らかい毛糸と誰にもインカの風俗と連想できるデザインが気に入っている。帰国後、早速テニスやゴルフの時に着用開始。

   ここの峠から数キロメートル地点で、同行の1人が『買い物した場所にカメラを忘れた』と言った。早速引き返した。バスが露天商の一団がいる場所から100m地点まで引き返した時、売り子のおばさんがバスに向かって走って来る姿を発見して、一同感動!

   バスの引き返しに遠くから気づいたこと、カメラを持って駆けつけてくれた親切さ! ペルーの先住民が見せたこの行動! 日本人が忘れ去っていた人間本来が持つ、この魂から発したような他人への思いやり! 私は不覚にも落涙。

   添乗員が発した『チップを忘れないでね!』の言わずもがなのアドバイスには、思わず白けてしまった。

C シルスタニ遺跡

   チチカカ湖湖岸の都市プーノから32Km、標高4,000mの高原に紀元前後のプレ・インカ時代の墳墓群が残されていた。ここは強風が吹きすさび、真冬の寒さ。私は牛皮の分厚いジャンパーで防寒。防寒具を忘れた同行者は寒い、寒いと連発。

   周囲に人家は全く無く、眼下にはウマヨ湖(カルデラ湖)の紺碧の水が美しく、湖の中央には頂上部を水平に切り落とされたような島がくっきり。ケープタウンのテーブルマウンテンそっくりだ。

   石造の墳墓は円筒形。最盛期には100基以上もあったとか。今でも数十基は残っていた。最大の物は高さ12m、直径7.5m。頂点の少し下には伏せた鉢巻のように石が突き出していて、性器(陰茎)を連想させる。一辺が1m以上の大きな石を曲面に加工して積み上げている。

   この墳墓を見ていると、石の加工技術はインカ帝国以前の先住民が既に完成していた事は明白だ。石の加工法だけではなく、国家統治を含むノウハウもまた先住民からインカ帝国は引継ぎ、集大成したとか。
  上に戻る
チチカカ湖

    @ ホテル周辺

   湖畔のホテルは見晴らしもよい一等地に建っていた。高原の空気は澄み渡り、遥か遠くまで鮮明に見渡せる。我が左目は過去2年間に白内障が急速に悪化し、読書は左目だけでは最早不可能になっている。日本での景色に鮮明さを欠くのはこの白内障の所為と思っていたが、ペルーに来て誤解だと気づいた。

   よく見える右目で見たチチカカ湖周辺の景色は眩しいほどに新鮮だった。景色の美しさは空気の透明さが加わると一層光ると初めて実感した。今までも大気汚染の少ない、南アのケープタウンや欧州のエーゲ海などでは眩しいほどの美しさに感動していたが、4,000m級の大気の清涼さにはこれらと雖も勝てないことに気づいた。ヒマラヤなどの超高地トレッキングに人気があるのは、この美しさが味わえる醍醐味にもあるのではないかと思わずにはおれなかった。
   
   当ホテルの裏にはプロパンの大型ボンベ大の酸素ボンベが3本保管されていた。高山病に罹った宿泊客に吸引用の酸素を無料で提供するためのものだ。その傍らの土間にはジャガイモを上下に重ねることなく一面に並べてあった。夜間の冷気で凍結させ水抜きを予定しているようだ。

    A チチカカ湖

   チチカカ湖は自然景観系ではアンデス山脈と並ぶペルー観光の双璧。南米最大、世界では23位の面積8,372平方キロメートル(琵琶湖=670.3平方Km)を誇るだけではない。標高は何と3,812m。富士山よりも高く、汽船が運航されている湖としては世界一標高が高いところにある。岸壁には3階建ての大型船が停泊していた。ペルーとボリビアを行き来する国際定期航路があるそうだ。



   チチカカ湖はペルーの最南部近くに位置し、湖上にはボリビアとの国境線が走る。その容積は893立方Km(琵琶湖はたったの27.5立方Km)もあり、容積ランキングでは世界15位に上がる。アメリカの五大湖のように成因が氷河性の湖は水深が浅く、カスピ海やチチカカ湖など地殻変動に起因するテクトニック性の湖は水深が深いからである。

   外国の固有名詞は日本語との関連性が少なく私には覚え難いが、チチカカ湖は誰でもサッと覚えるのは日本語の父と母を連想するためだろうか? 同じことがトルコの『カッパドキア』にもいえるようだ。架空動物の『河童』と発音が余りにも似ているからだ。

   この巨大な湖の水が、何処へ流れ出ているのか、地図を見ても、添乗員やガイドに聞いても判らなかった。伏流水として流れ出し、どこかでラ・プラタ川かアマゾン川の支流に流れ込むのではないかと思ったが・・・。

B トトラ船
   
   チチカカ湖の名物にトトラ船がある。トトラとはチチカカ湖の水深の浅い所に生えている水草名だ。直径2cmくらいの断面が一定な緑色の茎だけからなり、普通の植物のように枝分かれした葉がない。ハピルスの茎にそっくりだが、遥かに柔らかい。
   
   茎の内部は発泡スチロールのように無数の小さな気泡状の白い物質が詰まっている。皮を剥いて食べることも出来る。子供達のおやつにもなっていた。かすかな甘味があった。このトトラを束ねて作った船には、長さ数メートルの小型船から、数十人が乗れる双胴船まであった。漁にも人の移動のためにも使われている。動力源は人力で動かす櫓だった。双胴船には6人もの漕ぎ手がいた。
   
   トトラの気泡は一つずつが独立しているため、個々の気泡が潰れたり破れても、トトラ船には沈没の恐れが全くない。舳先(へさき)はフラミンゴの頭のように優美な形に編み上げられた物など色々。

   
C ウロス島

   トトラを厚さ1mくらいも積み上げて出来た直径100mを超えるほどの大きさの島が幾つもあった。それらの中でウロス島など3つに上陸して観光。その島の上にはトトラで作った民家があった。住居は全島で数百戸もあるらしい。

   大きさは6〜8畳くらいの一間。屋根を支えているのは木。屋根もトトラで葺かれていたが、最近外部から移り住んできた人はトタン屋根にするそうだ。内部にはベッド、壁面に吊るされた衣服、数個の鍋類と食器が家財の総て。

   島の中央には広場があり、お土産屋が特産品を売っている。夫婦で働いている商人も多いが、値段交渉の前線で闘っているのは女性。言い値を3割も値切ろうとすると、役者も顔負けするくらいの寂しそうな落胆した表情に変わるので、値段交渉を楽しむことも出来ず大変辛い。

   比較的大きな島には小学校もあった。木造一間の教室で複式授業中だった。パック旅行には学校見学も組まれていた。20人余の子供たちが、インカの歌と日本の歌を各数曲合唱した。『チューリップ』『さくら』などだった。発音の明瞭さには驚いた。

   旅行社から事前にボールペンなどの学用品の自主的な提供を求められていたので、私はボールペンを纏めて10本提出。これらは子供に手渡さず、教卓の上の箱に入れる約束だ。最後に観光客が壁際に並び、子供達全員が一番端の人から順番に握手して別れた。チップ入れの箱が出口に用意してあったので、僅かだったが1$プレゼント。
   
   子供達は何種類かの外国の歌を知っていて、観光客の国ごとに対応している。学校もいくつかあるので、日本語の歌を歌う学校は決まっているそうだ。とは言え、毎日のように観光客のために僅か15分程度とは言え、授業を中断されるのは気の毒でならない。

   『チチカカ湖の上で生活するのは不便ではありませんか? 直ぐ近くに陸地があるので移転すればよいのに!』と質問すると
   『昔は大勢が湖上に住んでいましたが、30年位前までに大変少なくなっていました。ところがその頃から観光客が増えてきて、政府も生活補助金を給付するなどの支援を始めました。その結果、陸から湖上へ移転する人も増えてきました。主な収入源は漁業・お土産売り・政府の補助金です』
   『しかし、問題点はあります。湖上で生まれた人同士の結婚はうまく行きますが、湖上生活者と陸上生活者が結婚して湖上に住む場合には、離婚が多くなっています。元陸上生活者が湖上生活に適応できないためです』

   『三つ子の魂、百まで』とは、人の性質を良くぞ喝破したものかと、改めて驚く。生れ落ちた環境が客観的に見てどんなに苛酷であろうとも、そここそがその人にとっては、極楽地になってしまうのだ。

   皇室に生まれた方々は皇室の伝統的な生活環境にお慣れになっているけれども、民間から皇室へと嫁がれた美智子さんや雅子さんが苦労されるのも、人間の本質に起因するように思えてならない。

D とんだ災難

   この日はチチカカ湖近くのプーノからフリアカ経由でリマに19:05着の予定だった。プーノの飛行場の待合室では、インカの歌と踊りの無料のショーも開かれ、程よい暇潰しになると共に、ペルーが如何に観光に力を入れているかに驚いた。

   ところが、搭乗予定時刻がきても手続きが始まる気配が無い。そのうちに『機体の整備不良が発見されたので出発が遅れます。1時間後に再度状況を発表します』とのアナウンス。2時間経っても状況は不明だった。とうとう、航空会社が機内食を乗客に夕食として配り始めた。

   やがて、機体を交換することになったとの発表。出発は午前0時以降! JTBと現地の旅行業者との話し合いで我がグループは前日昼食を摂ったホテルで夕食を摂り、一休みすることになった。ペルー最後の夜はリマのシェラトンで日本食を食べたりしてゆっくりできる筈だったが、儚くも夢と消えた。 
                               上に戻る
ナスカ

   ナスカの地上絵には人類史上、他に類例を見ないほどの雄大さがある。大きい物の典型例として、古代のピラミッドや万里の長城、現代のエンパイアステートビルなどが、かつては人口に膾炙していた。しかし、これらに比べれば格段に少ない労力で作られたナスカの地上絵は、絵の大きさランキングで世界一のタイトルを大変効率的に獲得した。これこそ、ノーベル賞を上回る価値があるアイディア賞ものだ!
   
   独創性こそは人心を引き付ける最大のポイントだ。今更、この絵の描き方の単なるアイディアの一つ(比例拡大法)を実証できたからと言って、何処かの沙漠にたといモナリザやピカソの絵を本物以上に立派に描いたとしても、二番煎じには観光客を集める力はない。ナスカにあってこそ価値が永久に輝く世界遺産だ。今では、絵に近づく事はできるが、ペルー政府により絵の中は立ち入り禁止地域にされているそうだ。絵が観光客の足跡で壊されるのを防ぐためだ。
   
   この地上絵の存在は20世紀に入り、定期航路のパイロット達によって機上から発見された。今やエジプトのアブシンベル大神殿と同じく、その観光だけを目的とした専用飛行場まで出来た。ここもマチュピチュと同じく観光客の飛行案内は、独占企業に委託されているのだそうだ。飛行運行計画は業者の一存で変更されるので、旅行社が出す飛行予定時間は参考値に過ぎない。その影響なのか、地上絵の観察時間はたったの正味20分でしかないのに丸一日がかりだ。

@ 移動
   
   リマの空港から小さなプロペラ機に乗り、ナスカ往き専用のイカにある小さな飛行場へと向かう。眼下に広がるのは太平洋の海岸と沙漠のみ。草木一本発見できず。ところが海岸線のほんのちょっと内側に、温室を連想されるような短冊形をした、数え切れないほどの建物が見えた。熱帯でしかも水のない所に温室がある筈がない。
   
   添乗員に『あの建物の用途は?』と聞いても『私は何度も上空を飛んでいますが、今まで気がつきませんでした。ひょっとするとカタクチイワシを原料とする魚粉工場かも知れません』。ペルーにはカタクチイワシだけで毎年500〜1000万トンもの漁獲高があり、殆どが魚粉に加工されるから、さもありなんと思うだけ。
   
   帰国後、スーパーでカタクチイワシの干物を偶々発見したので、早速1パック買った。シシャモとよく似た大きさだった。20尾で105円。焼いて食べたら鰯の目刺と全く同じ食感がした。初体験だった。鮮度さえ維持できれば、魚粉などへの加工よりも遥かに付加価値高く売れるのに!
   
A イカの空港

   イカの空港には小型旅客機が3機しかなく、29人の我が団体は3グループに分かれての観光。私は第2グループに割り付けられた結果、乗る前にも、乗った後にも待ち時間が発生。

   待ち時間の使い方には4種類あった。第1は小さなお土産屋、第2はビデオ鑑賞、第3は無料のミニ動物園、第4はレストラン。ビデオ映写室では日本で日曜日の夜放映されているソニー提供の『世界遺産』シリーズから『ナスカの地上絵』の部分を、CM部分を削除して映写していた。テープが擦り切れ始めたのか、画像の質はイマイチ。

   ミニ動物園の目玉は良く飼い慣らされたコンドル。体長110cm、体重10Kg、羽根を広げると3mはありそうな大きさ。我が姿を見かけるや否や係員が、コンドルを小脇に抱え込んで、檻から広場の芝生の中へと運び出した。仕方なくコンドルと一緒に記念撮影。写真は何枚撮影しても、夫婦でも単身者でもモデル代金は一組一律1$。



   世界最大の大きさを誇り、死体のみを食べると言う猛禽類なのに、ここのコンドルは驚くほど従順だった。背後からの姿の美しさと雄大さには感動。参考までにコンドルの紹介アドレスを以下にコピーした。

   http://big_game.at.infoseek.co.jp/raptor/condor.html

B 地上絵

   地上絵見学の飛行機ではパイロットの左側の席が取れた。ベストポジションだ。最初の地上絵と対面するまでには、離陸後30分以上も掛かった。途中、眼下には農業用水が確保されている離散した長方形の畑だけが青々としていたが、その他は全くの荒れ果てた沙漠のまま。畑が離散していることから、水源は井戸と推定した。

   予め飛行前に英語で名称が書き込まれた地上絵の配置図が手渡された。人間・猿・犬・人の両手・コンドル・木・クモ・ハチドリ・鷺・オウムの10個だった。絵は原則として何故か一筆画きだった。大部分の絵は100m*100m内に収まる大きさだ。機上から見ると線は必然的に細くなるし、周囲の沙漠の色に埋没して認識し難かったが、一応確認することは出来た。

   絵を確認しながら写真も撮った。飛行機の窓ガラス越しなので、明確に絵が認識できた写真は2枚だけだった。夫々の絵は直線と円弧で表現されていた。写実性は欠いていたが、対象物の特徴は夫々よく描けていた。太陽の位置が低い場合は描かれた線には黒い影が発生して認識も楽だそうだが、最悪条件の真昼だった!

   機上からは無数の、意味不明な直線や地上絵らしき図形が視野に現れた。一説によれば地上絵は数百点もあるとか。しかし、私には地上絵の発見以来、多くの来訪者が勝手に画いた絵が無数に入り混じっているのではないか、と思えてならない。

   ナスカの絵が画かれた年代はBC800〜AD800年まで諸説紛々だが、インカ帝国時代以前に画かれたという結論だけは一致している。画かれた目的もこれまた諸説紛々。

● 巡礼者が巡礼した神聖な道
● 数ある台形は儀式用の広場
● 天文カレンダー
● 豊作を神に祈るためのお供え物
● 呪術的文様
● その他、その他のアイディア合戦

   私は当時の人の遊び心が発端ではないかと思ったが、そんな仮説はどの本にも書かれていない。皆もっと価値のある目的だった筈と信じたいようだ。

   私にとっての最大の関心事でもあり謎とも思えたのは、絵を画いた目的よりも、深さは僅か10cm、幅20cmの単なる溝が2000年間も何故消えずに残っていたかという、驚異的な保存性をもたらした真因探しにある。ここは沙漠とは言っても時には雨も降るだろうし、風によって砂塵も舞うだろうし、この程度の地上絵ならば、普通の沙漠ならば100年間すら維持できないと思えたのだが・・・。

   私には地上絵は画いた後、そのまま放置していたのではなく、永年の間、関係者によってメンテナンスされていたのではないかと思わざるを得なかった。

C ワカチナ湖

   イカ郊外の沙漠の中には南北アメリカで唯一残っていると称する、素晴らしく美しいオアシスがあった。昔はオアシスがたくさんあったが消滅したそうだ(ガイドの受け売り。真偽のほどは不明)。ともあれ、我が人生で初めて出会った本格的なオアシスだ。

   100m*60m大の楕円形のワカチナ湖(私には池に思えるが、現地では湖と称している)はアンデスからの透明な湧き水が満満と湛えられている。水は沙漠で濾過されているためかきらきらと輝く。湖の外周には各種の常緑樹や花木が植えられ、憩いの場としても演出。勿論、お土産屋はあちこちで、場所取り合戦!



   直ぐ近くには高さ30m位の砂丘があった。ここの砂の粒子はサハラ沙漠の砂と瓜二つと言えるほど大変細かく、我が家の芝生の目土に使いたいほどだった。その斜面を利用したサンドスキー場があった。時間が僅かだったので、希望者だけしかも一回だけの限定体験。私を含めて数人が挑戦。

   長さ1m、幅20cm大のスキーの形をした板の裏面に業者が油を塗り、各自その板を1枚手に持ち斜面を登った。登るに連れて富士山のように傾斜が急になった。何とか登れる限界の高さ20m辺りで、靴(特別の靴ではなく、今まで履いていたテニスシューズのまま)を板に取り付けて、横向きに滑り始めた。比較的簡単に滑ることができた。料金は1$だった。



   時間のある観光客は低圧大型タイヤを付けた4輪駆動車で砂丘を登っていた。
                               上に戻る
おわりに

[1]アンデスでの所感
    
    @ 大自然美を、更に一際輝かせるものとは?

   かつて、北欧のフィヨルド、南米のイグアスの滝や南アの喜望峰などの絶景に出会ったときには、小さな島国の日本では逆立ちしても味わえない、その壮大な美しさに心底から感動した。しかし、今回4,000m級の高原でパノラマのようなアンデスの立体的な風景に接した時、自然美を引き立たせる重要な要素として、空気の透明さも大変重要だと気づいた。

   ペルーの西は太平洋。沙漠の砂塵や、発電所や工場からの排煙が飛来しないだけではない。高原の湿度は低く、そこでの空気の透明さはジェット旅客機の窓から眺める成層圏と然したる変わりが無かった。遥か遠方に聳えて光る急峻な岩肌、強風に吹き飛ばされている山頂の雪煙や、黒くさえ感じるほどの紺碧の空に浮かぶ白い雲までもくっきりと、鮮やかな色彩と一緒に我が視界に飛び込んできた。空気が透明であればあるほど自然は際立って美しく輝くものだと、再認識した。

   ペルーの大自然の美しい思い出を反芻しつつ、一日がかりでやっと到達した成田国際空港の上空からふと下界に目を転じると、我が祖国は地獄から噴出してくる毒ガスに覆われているように思えて愕然! 同じ地球上に住みながら、筆舌では表せない彼我のこの何と言う大きな格差! 大地を破壊しかねない産業活動と掛け替えのない自然美との調和は、何時の日に実現されるのだろうか?

A 雄大な視界

   地球の形はほぼ球になっているため、地上から眺める視界の広がりは観測点の海抜さえ決まれば、視点と水平線を結ぶ直線で囲まれた範囲になるから、何処の国に行っても、視界の広さは似たような大きさの筈と、直感的に考えていた。今までこれに大きく反する事例に出会っていなかったからでもあった。

   所が、広大なアンデス山脈を目の当たりにして、上記の短絡思考を一気に吹き飛ばされた。視界に現れた空間の巨大さ、そのことによって誘発される視界の雄大さに驚いた。今までは視界の広さを自らの狭い体験から愚かにも、視点から見下ろす立場でのみ考えていたのだ。遠くの高山を下から見上げる場合には、山が高くなればなるほど視界はその広がりを増すのは理の当然だった。

   アンデスは空気が澄んでいるため超遠距離の連山までくっきりと眺められ、地球が格段に大きくなったように感じられた。この雄大さとの出会いは現地に行ってこそ、初めて体感できる。ガイドブックの写真やテレビ画像ではたとい理性では認識できたとしても、感性で受け止めるのは無理な世界だった。何時の日にかネパールを訪ね、このアンデスを凌ぐヒマラヤの雄大さを満喫したい、との意欲を嫌が上にも掻き立てさせられた。

B 三つ子の魂

   豊田市(平成17年の大合併で豊田市には人も住めないような奥三河の野獣の生息地も含まれるようになり、面積は全国の都市では何と13位=918.47平方Km、人口は42位=405.635人にもなった)郊外の山間部のゴルフ場に辿り着くまでの細道の両側には、急峻な山肌を切り開いて作られた狭い敷地に、“豪邸”を建てて住んでいる人々が大勢いる。

   それらの家屋敷を見るたびに、日当たりは明らかに悪く、集中豪雨が起きれば直ぐにも山崩れが発生しかねず、小中学校や日々の買い物にも不便な場所に、何故大勢の人が住み着いているのだろうか、と疑問に思ってきた。

   きっと、その周辺に先祖が代々保有して来た広大な山林を相続し、その維持管理のために、子弟の誰かが住まざるを得なかったのでは? と想像していた。あの豪邸も元を辿れば、自己所有の山林から切り出した材木ではないかとさえ思ったりもしていた。しかし、それは私の誤解ではないか、と考えが変わってきた。

   実は、私には未だにその謎が解けない問題がある。『三つ子の魂、百まで忘れず』との諺があるように、人が幼少期の原体験に心を強く支配されているのは何故なのか、と言う素朴な疑問である。

   私には『三つ子の魂』は世界各国の人々に共通して存在しているように見受けられた。生れ落ちた時からチチカカ湖で湖上生活をしていた人々は、この不自由な生活を楽しんでいたし、アマゾンの源流地帯で今尚一糸まとわぬ原始生活をしている人達も、自らを特別不幸な存在とは考えていないらしいと聞く。

   新潟県山古志村の村民も東京都三宅島の島民も、地震や火山活動で壊滅的な被害を受け、今後もそこでは同種災害の再発が充分にあり得る危険地帯と解ってはいても、そこで生まれ、人生を過してきた方々にとっては、自らの生まれ故郷以上に魅力があり、心を癒してくれる場所は、この地球上には無いらしく、『脱故郷』など夢想だにもしていないらしい。

   この性質こそが他の生物と異なり、人類が地球上の至る所で繁殖しえた根本理由に感じられてきた。移民の一世に取って新天地は心に馴染まなくとも、二世にはそこが本人の故郷になり、食糧さえ確保できれば、永住への心理的な障碍は一気に消滅するからだ。

   高度成長時代に地方から大都市へ出かけて就職し、都会育ちの女性と結婚し、定年が近付いたころ、郷里に戻って晴耕雨読の余生を楽しみたいなどと夢見ていたら、奥様に『私はデパートも無いような鄙びた田舎に移り住む気はさらさら無いわ。どうしても行きたいのならば、お一人でどうぞ!』と肘鉄を食らう人が続出しているそうだが、これは人間の本性に主因があるため、解決策は無い! と気の毒だが断定せざるを得ないようだ!

[2]インカ帝国に学ぶ

   我が祖国は先進国トップクラスの1人当たりの名目所得水準と貯蓄残高を維持しているのに、官民共に自業自得とはいえ、将来に大きな不安を抱き続けている。そんな日本人が学ぶべき立派な見本はインカ帝国に五萬とあるようだ。

   今日、国富とは固定資産と金融資産の総和を意味するが、貨幣の無かったインカ帝国には当然のことながら金融資産は存在しなかった。土地は皇帝の所有物(実態は国有と同じ)だったし、庶民の家は日干し煉瓦などで造った簡素な自家製なので資産といえるほどの価値もなく、野生の動物界同様、遺産相続の習慣もなかった。

   土地、鉱山、重要家畜などの生産手段は全部国有で、共同作業によって生産するなど、綿密な計画経済を推進。皇帝一族と雖も遺産相続は許されず、永眠すれば宮殿(住居)は国家の管理資産になり、新皇帝は自らの宮殿を建設せざるを得なかった。

   結局、インカ帝国の国富とは道路などのインフラとか、石造りの官公庁の建物や宗教建築物と国家管理の貴金属程度しかなく、残る貴重な国家資産は労働力(注。労働力は国富には含まれない。国富を産むポテンシャルに過ぎない)だけだった。

   貨幣がないため徴税の発想も無かったが、その代わりを果したのが労務提供とそれに対応しての報酬の供与、つまり、国家と国民とは互恵の関係で成り立っていた。インカ帝国では個人と個人、個人と地域社会などどんな組み合わせであっても、見返りのない労務提供の習慣は無かった。労務提供による生産と報酬の差額が、国家による国富の形成とその維持や備蓄(食糧・衣類・貴金属・兵器など)に回された。

   国家による備蓄は飢饉への備えだけではなく、社会的な弱者(未亡人・孤児・身体障害者・病人・天災被災者など)の救済にも当てられた。国家による国民への生活保障である。これらの円滑な運営のために、コンピュータは無くとも、結節縄(けっせつじょう・キープ)を使った十進法による数値表現処理で国勢データは管理された。

   広大な版図の安全確保と膨大な人口の管理には『インカ道』を整備し、飛脚制度を導入し、7.25km置きに里程標を設置し、一日の行程ごとに宿場や備蓄食糧と必需品の倉庫も作った。庶民にはインカ道の使用は許されず、軍隊の移動と通信手段にのみ使用された。

   一方、文字もなく、個人の財産や事業も無かったので法律は刑法的なものに限られ、簡単・明瞭且つ厳罰主義で臨んだ。例えば公共倉庫から物を盗んだり、橋を焼いたり、尼僧院を壊せば殺人罪と同じ死刑!

   その結果、犯罪が極めて少ない安全な社会が実現した。処罰は身分が高くなるほど同一罪に対しても厳しかった。この点は我が国の現状とは正反対だ。我が国の犯罪に対する処罰は極めて軽く、その上、あろうことか官民共にトップはトカゲの尻尾切りを率先して行い自らは安泰!!

   ボーダンと言う学者はインカ帝国を『社会主義的帝国』と称したが、私は『大いなるゲマインシャフト(共同社会)』と呼ぶのが妥当と思っている。インカ帝国が短期間の間に版図を急拡大できた真因は、歴代皇帝が私利私欲に走らず国民のための統治活動に全力を尽くし、国民も納得して従ったことにあったのは火を見るよりも明らかだった。

   結果としては小さな政府が、巧まずして実現していたのだ。今日の日本では大きな政府を抱え、税金の3割は公務員の人件費に使われ、インフラ投資は建設土木業界の救済に費消されている。公務員は不要な仕事を作り続けては自己増殖を繰り返し、納税者を上回る高給と年金とはやりたい放題のお手盛り! 結果として、国民は公務員に奉仕させられている! 正しく本末転倒だ。

   何よりも我が国民に欠けているのは、自立精神だ。子供は成人しても親の脛をかじり続け、国民は脱税に智恵を絞り、政府からの補助金の獲得合戦に血眼の体たらく。ああ!と溜息を吐(つ)かざるを得ない。

[3] INCAには、我が青春の思い出が埋設されていた!

   インカ帝国とは全く関係はないのに、私の脳裏には今尚『INCA』ならぬ『TOYOTA−iNCA』という響きが刻み込まれている。丁度10年前に書いた『アメリカの追憶』の『はじめに』からその一部をコピーした。
   

   トヨタ・グループ6社の10名を越える精鋭と一緒に無我夢中になりながら数年掛りで、3軸NC型彫り機のためのアプリケーション・プログラム『TiNCA=TOYOTA integrated Numerical Control Approach』を開発した。その時に仲間と共に考え出した情報処理技術を論文に纏め『NCS=Numerical Control Society』主催の国際会議に応募したら、幸いにも発表の許可を得た。入社10年後、昭和47年の秋のことだった。(論文の発表は翌昭和48年の4月)

   当時、私が所属していた開発課(生技開発部の前身)に於ける海外出張のチャンスは、先端技術調査か、または国際学会での論文発表かのいずれかであった。所属長(後のトヨタ自動車副社長)が課員への機会均等を考慮しながら社内での政治力を発揮して努力されても、出張にあり付ける者は1年間に精々1人であり、平均すれば定年までに実現出来るか否かと言う、気も遠くなり兼ねない程の小さな機会(当時の年間海外出張者数は約200人、今は何とその100倍の2万人以上!)に過ぎなかった。

   『TiNCA』は数年来の論文精査と幾つかの先行試作プログラムの評価を踏まえて、プログラムの基本構造を抜本的に考え抜いて開発したものである。本質的にはいわゆる『CAM=Computer Aided Manufacturing 』に分類される応用プログラムである。私にとっては会心の大作でもあった。
            
   爾来30年近い歳月が流れたが、後輩達が絶えざる改良を続けた結果、今なお当社の代表的な大型システムとして活用されている。更に、当プログラムからの派生商品として当時の仲間が開発した『ケーラム』は、新規事業としても今や大成功している。

   当時、コンピュータ・プログラムの世界では、ソフトウェア・システムにそれを開発した会社の名前を冠する命名法が世界的にも流行していた。この分野の先駆的なシステムとしては、世界最大の電機会社『GE』の『GE−MESH』や同じく世界一の航空機製造会社『Boeing』の『F−MILL』(このシステムの場合は『B』の代わりに『Face Milling』の意味を込めて『F』を冠したが、例外に近い事例である)が有名であった。        

   開発初期の頃は『T−MESH』と名付けていたが、所属長から『名前が小いせえ!』と酷評されたので、少々大袈裟とは思ったが思い切って『TiNCA』と改名した。名は体を表すようになるのか、この名前は関係者にも大変気に入られ、『名前負けしないように』と頑張った若きシステム・エンジニア達の、プライド高揚にも繋がった。

   TiNCAは独りソフトウェアの分野に止まらず、当社独自の技術の名称に社名を冠した第1号でもあった。『トヨタ生産方式』を初め『トヨタ****』と言うネーミング法はこの後、堰を切ったが如く社内に流行して今日に至っている。


   『TiNCA』の開発に没頭していた頃は、何時の日にかインカ帝国を訪問することになるとは、夢にも思っていなかった。単なる言葉の偶然の一致に過ぎないが、私には人生の面白さに思えてならないのだ。

   我が旅行記も今回の第31編を加えると、累積文字数は98万字を超えた。『チリも積もれば山となる』を文字通り実感。インカ人の努力には及びもつかないが、人差し指一本で書き続けた我が旅行記の、百万字突破も目前! 次回の旅行記にもご期待をしていただきながら、拙い筆を措く。

__________________蛇足__________________

   6月17日から9日間、友人とティムール帝国(ウズベキスタンのサマルカンド他)に出かける予定だったのに、政情不安から催行中止となり、がっかり。

   目下、下記対象コースを検討中。どなたか、一緒に行きませんか?

@ アステカ帝国(メキシコ)
A アケメネス朝ペルシア帝国(ペルセポリス)
B シリア(パルミラ)・レバノン(バールベック)・ヨルダン(ペトラ)
C バルト三国(エストニア・ラトビア・リトアニア)
D チュニジア(カルタゴ)
E ネパール(カトマンズ)
_____________________________________
上に戻る
読後感

   大作を送って頂き有難う御座いました。フィリッピン出向前にワープロ打ちの旅行記を頂いて赴任。事前調査を綿密にやられていたのに感心しておりましたが、今やますますの冴えを感じます。

   私は日本電産在職中の9年半、身内の葬式にも出ないで(もちろん長期海外旅行は不可)頑張っていたので、4月に帰国後毎月海外へ出かけています。古巣のバンコクは別にして今まで行った事の無い所へは取りあえずパックツアーで探していますが、一人参加は何かと不利ですね。
   
   病院通いをしているワイフを置いてきぼりにして先日オークランドへ行きましたが、何時も偶数プラス1での行動でした。ゴルフは無理して一人でアレンジして貰い、現地で勝手にローカルメンバーに合流しました。この次の旅行日程が合えばご一緒します。

   今月は20〜29日タイへ行って、再度今年末からの仕事の準備がてら、毎日ゴルフをしてきます。日本では一人でふらっと行ってゴルフするのは大変だ、と先日平谷で実感しました。2,3人の組に入れて貰おうとしたのですが断られ続きで、とうとう平谷の職員が一緒してくれました。

   早くリタイアしてゆっくり(5月にオークランドへ行った時、同行の二組夫婦は何れも早期退職組でした)という考えも有りますが、一応今年末頃にはタイへ赴任して、再度新工場を稼動させようかと計画しています。日本電産に較べればまだまだ精神的にゆとりを持ってやれそうなので、日本で余生を送るよりは良いのではという判断です。

@ トヨタ後輩・工


   二時間四十分かけて一気に読破。感想はやれやれである。とても真似の出来る事ではない。

A 実兄

 
   インカ帝国より無事ご帰還、貴殿の気力にはいつも感心しております。私も当地に関心がありますが、高山病の気配があり、訪問することはないと思っています。
   
   最近はヨーロッパに行くこと多く、3月にドイツに行きロマンチック街道をレンタ
カーで2日間ドライブしました。

   返信する事無く申し訳ありませんが、貴殿の活動に負けない様、脳味噌と体力の刺激にさせてもらっております。

   貴殿のご健康を祈念するとともに、メールアドレス変更のお知らせを致します。   

B トヨタ同期・法


   「インカ帝国の追憶」を拝受。読後感の督促を受け面目ない。何故いつもより遅いのかと詰問されたが、ページ数が多いので後で読もうと思っただけ。

   貴殿の旅行記は数値で表現されており、正確無比、信頼性抜群。同行者や添乗員とのやり取りは辛口で当事者は閉口していただろうが大変興味深い。末尾の章「おわりに」では、客観的な記述を踏まえた貴殿の哲学が披露されているので、感動が深まり市販の旅行書で味わえない充実感で満たされました。

   海外旅行の楽しみは、ブランド品の購入、グルメ、贅沢なホテルだったが、究極は歴史のある遺跡と大自然の景観に帰結されることを改めて痛感しました。
   
   「空気の透明さ」は初耳で、何時の日か味わってみたいです。〇〇帝国など大昔の集落は食料の入手がし易い土地が選ばれているが、時が経つにつれ産業に便利な土地に移り、産業活動とともに自然が破壊されている歴史を思うと、自然美 殊に空気の透明さと人間生活は排反事象のような気がします。

   「三つ子の魂」の記述には同感です。『高度成長時代に地方から大都市へ出かけて就職し、都会育ちの女性と結婚し、定年が近付いた頃、郷里に戻って晴耕雨読の余生を楽しみたいなどと夢見ていたら、奥様に「デパートも無いような鄙びた田舎に移り住む気はさらさら無いわ。どうしても行きたいならお一人でどうぞ」と肘鉄を食らう人が続出しているそうだが、これは人間の本性に主因があるため解決策は無い!』・・・・
   
   私のことを言われている気がした。小学生時代(戦時中)、授業はろくに無く、遠足と称して食糧難を補う為に栗拾いやわらび取りがしょっちゅうあり、今は懐かしい思い出である。
   
   「定年になったら故郷に戻り、わらび取りをしながら碁を打ちたい」とある時妻に話したら、「わたしゃ電車の音の聞こえないところへ行くと、気が狂っちゃうからね!」と一蹴された。妻は子供の頃阪急電車駅の近くで育った。「三つ子の魂」は正反対か? しかし、今は「三つ子の魂」が「住めば都」に変わった。

   『インカ帝国では処罰は身分が高くなるほど同一罪に対しても厳しい』とのこと。これは名案! M自動車会社のクレーム隠し、どこかの市長の、産廃物不当埋め立ての黙認など。トップの舵取りの罪は社会的被害が莫大であるだけに、処罰を厳しくすることが効果的と思うが。

   インカ帝国へ行ってみたくなりました。

C トヨタ先輩・ゴルフ&テニス仲間・工


   いつものことながら、貴君の詳細にして感性豊かな記述には感動さえ覚えます。今回はユーモアもタップリで!

   考古学をやったためか、愚妻(賢妻の誤植!)がインカとモアイへ行く希望を捨てきれずにいますので、この旅行記を読ませて満足させるつもりです。

D トヨタ同期・経


長文の旅行記興味深く読ませていただきました。

   まず貴兄の元気さと精力的な行動の数々に脱帽いたします。私にはとてもそんな元気さや行動力はありません。一般的な健康の定義に疑問を感じます。貴兄はまさに「無病息災」ならぬ「一病息災」を地で行っています。
   
   旅行記についてはいつものことながら、事前の予習や事後のフォローがよいので、自分が旅行するよりはるかに多くのものを、居ながらにして楽しめました。芋やトウモロコシ、きゅうり、トマトなど多くの食物が古代ペルーからの遺産とは知りませんでした。

   インカの遺跡が高地にあることは聞いていましたが、ペルーは熱帯雨林にも恵まれているというのも、地図を開けば分かることでしたが。
   
   以前、トヨタから光洋精工にいかれた坪井さん(元トヨタ役員)が、巨大石文明に興味をもたれていて、「マヤ、インカの巨石はどのようにして運ばれたかについて書いた本はないか」と聞かれたことを思い出しました。

   今日の建築土木機械を導入しても600トンの巨石を荒野で運ぶのは困難です。陸上で使う大型クレーンは分解して現地に運び、再組み立てすれば使えますが、巨石の運搬手段がありません。鉄鉱石や石炭の露天掘りで使われている最大級のダンプカーの積載量は380トン。仮に600トンダンプが開発されても、運搬可能な道路を作らなければ運べません。

   株式会社タダノが、倒壊していたモアイの巨石像14体を復元した経緯は下記のホームページで報告されている。私はその経緯をテレビで見た。私企業による素晴らしい社会貢献だった。

http://www.tadano.co.jp/moai/

   インカの巨石移動を私が計画したら次のようになった。智恵不足をひたすら嘆くのみ!

@ 現地で、重量鉄骨製の超大型の橇を作る。
A ブルドーザーで道を整備する。
B 現地で組み立てたクレーンで巨石を橇に載せる。
C 複数のブルドーザーを繋いで、橇を牽引する。

   大豊に移った頃、トロイボロジーの話から、ピラミッドの石を運ぶ方法や橇に油のような液体を注ぐ絵が残っていることなどを話しているときに、そんな話になったのです。インカ文明に文字がなかったことが影響して詳細が分からないままかもしれませんね。紹介する文献でもあったら教えてあげてください。取り急ぎお礼の感想まで。
   
E トヨタ同期・経・元テニス仲間


   貴兄のご期待に沿える速さで読後感を報告出来なかったのは残念ですが、自分なりのペースもありますので御了解を。
   
   何時ものことながらよく事前勉強され要点を解説されておられるのに感心し勉強になります。そして石松さんならではの追憶記で期待して読むのは、同行者の人物観察とその遣り取り、現地での探求活動で、今回も興味深く読ませていただきました。
   
   同行者の中には協議離婚をした72歳の方を初め、異色の方が多いようですが、海外旅行好きの方々は我が凡人と違う強い方が多いと納得する次第。でも海外で物怖じしない人が貴兄を除いて他に居られなかった点は、自分もその仲間と安心。
   
   マチュピチ、チチカカ湖での高地自然景観の素晴らしさを空気の透明さと関連付けて説明されており、自分も是非行って見たい気が起きるものの長時間の旅を考え決断出来ないまま時を過ごすのみです。
   
   ナスカの地上絵では、10年程前ベストセラーになった「神々の指紋」にも取り上げていたのを思い出し読み返した次第。貴兄の疑問である絵の保存方法も勿論ですが、人間が飛べなかった時代に、誰が何の為にどのようにして書いたか等謎は尽きないのですね。
   
   チチカカ湖湖上生活者の離婚と「三つ子の魂百まで」説、他人事でない気がしています。それはロスに居る孫達で近い将来日本人になるかアメリカ人になるかの決断をし、その後に来る困難に立ち向かう時がくるからですが、一方日本には第三国人という存在もあるが、将来はどうなのかと思います。
   
   例えに出されている田舎での住い人については「住めば都」という人間の順応性の方が当てはまるように思います。以上簡単な読後感ですが、写真を見せていただく機会があれば幸いです。
   
F トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間


   インカ帝国の追憶楽しく読ませていただきました。こんなに精力的な石松さんだから、多重がんも逃げて行ってしまったようですね。まずはおめでとうございます。ですが、石松さんのタフな旅行記からみると、もともとがんなんて誤診ではなかったか、とも思えます。

   石松さんの華麗な海外経験に比べると全く貧弱な人生の私ですが、登山の傍ら、旅行してみようか、と思いますが先立つものとの相談が先決で、その点も羨ましい限りです。

   「インカ旅行」には石松さんの個性が随所に感じられ、いろんな文明論、民族論などは、さしずめフランス構造主義の源流となった文化人類学者レヴィ・ストロースの「悲しき熱帯」を思い出させました。その目線は、構造人類学に通じるものがあると、共感した次第です。一言で言えば劣った文化・優れた文化があるのではなく、それぞれの状況にあった個性のある様々な文化があるのだと。

   ガラスがなかったり、絨毯文化がなかったり、結構いろんなものがない文明というのは、スペイン人が来るまでは隔絶した大陸で他国との交流、戦争、競争がなかったためでしょうか。伝播の力でしょうか。その点、他の4大文明と違って「大文明」とはいえない気がします。


   高山病への挑戦は、石松さんの旺盛な肺活量では、失敗するでしょう。山ヤの端くれとして、私はヒマラヤトレッキング(ゴーキョピーク、15人パーテイ)において4300mで高山病にかかりダウンし、近くのロッジに残った後、バンコクで同室だった二人はその翌日、4400mのところでリーダーに止められたが、強行し、2日後死亡しました。
   
   日本の3000mでも時々高山病に罹る人がいますし、富士山ではもう少し多くなります。私は富士山でも全く大丈夫なので安心していました。4200m前後、6000m前後、8000m辺り(エベレストのサウス・コル)が高山病に罹る関門と言われています。
   
   4500mの高さで定住民がみられるのは、ヒマラヤとペルーだけです。石松さんご存知のように、高山登山では水一日4〜5Lの摂取、(禁酒は勿論)、ゆっくりのマイペース、高所順応として高所を稼ぐ過程で一旦低い所に降りることを繰り返して高度を上げる、といったことがやられています。
   
   高所では呼気によって平地の数倍の水分が失われるといわれています。七大陸の山を制覇するなんていっても、無酸素で登らない限り価値があるとも思えません。ましてや最年少記録(東大卒)なんて噴飯者。年が若ければ体力勝負では当たり前、日本の登山文化の低さを象徴しています。

   マチュピチュはつい先日NHKの特集で見た映像と重ねて、楽しく読ませていただきました。

   私が最も訪れたい街はイスタンブールですが、それはビザンチューム、コンスタンチノープル、イスタンブールと様々な帝国の首都だったからですが、しかしイスラムの常として過去のものを一掃して新しい街を作るため、ビザンチン帝国や西ローマ帝国のものは殆ど偲ぶものがなくなっていることを知って残念です。(ジョン・フリー著イスタンブール三つの顔を持つ帝都)
   
   若干の誤解があります。私はかつて延べ半年以上も、トルコでトヨタ車の現地生産化の可能性を見極めるための調査活動をしました。そのチャンスを活かして週末は東西南北を隈なく観光! 
   
   イスラーム化以前の遺跡はイスタンブールでも数え切れないほど残っています。例えばアヤソフィア・地下宮殿・ガラタタワー・ローマの水道橋・城壁・古代競馬場・蛇の円柱・・・。
   
   カトマンズは私が訪れた17年前と違って今や公害のひどい街のようです。治安もすこし悪いようです。文明開化で江戸の情緒が失われた明治、大正、とりわけオリンピック以後の東京のような運命と同じく、多くの都市は過去の遺産を失っていくのでしょう。
   
   その意味でベルンのように都市まるごと世界遺産になることに救いがあるようです。ヨーロッパにはそのような英知があるようです。空気が澄んでいるという点ではアンデスに敵(かな)うところはないのではないでしょうか。

   以上お礼とともにとりあえず。有難うございました。
   
G 高校同期・経・今回からメール仲間に入っていただいた方・生まれてこの方、対面
  した記憶のない方。


   今回の大旅行も、雄大な地球景観への新たな感動と、人類の成してきたことへの謎解きで、大きな成果を上げられたようで誠に結構でした。高山病を体験できなかった悔やみは残るようですが、生命力に溢れた石松様では無理な期待だったと言うものでしょう。

   同じ10日間のツアーを”禁欲”意識もなく終えてきた『廃用萎縮』の進んだ身には羨ましくも驚嘆のことですが、”10日の禁欲生活が耐え難いから”との願いに応えて、奥様が同行してくださったばかりか、同行者に話の合う有識者にも恵まれた旅であったようで何よりでした。
   
   それにしても、超秀才のA氏が『貴方は脳梗塞を患っていませんか?』とまで畳み込まれたのには、少しお気の毒な気がしました。あれだけ詳しい経歴を述べられた方の口が重いとは考えられず、自分の属してきた業界や会社の保守的な体質を、石松様に鋭く指摘され、返答に窮して絶句していただけの事でしょうに...。

   美術館・博物館詣でが趣味とは、海外の103ヶ所も巡ったB氏にして言えることで、出張の合間に寄っていた程度で”趣味”とはおこがましいことだと反省しています。
   
   熟年離婚D氏の「65歳で仕事を辞め、人生をもっと楽しめば良かった!」とのつぶやきには身をつまされました。10年近く前だったと思いますが、番組で元気そのものの100才が長寿の秘訣を聞かれ、「自分の人生は失敗だった。病気が怖くて若いときから酒もタバコも一切やらず、それで人付き合いも出来ずに友達もできなかった・・・」と答えたのを思い出したことです。
   
   日本語ガイド氏の「年寄り扱いをされますが、まだ52歳です。この国での苦労が顔の皺に現れているのですよ!」にも、南フランスで会った50年配のガイドが思い出されました。「芸術家を志して来たものの・・・」と顔に生活の疲れが表れていました。日本人で海外生活を成功裡にエンジョイ出来るのは、数年の大使館勤務で国に帰る高級官僚くらいのものではないかと感じたものです。
  
   我々の日常生活で身近な野菜類の多くが、その原産地をペルーに負っていたとは意識しないことで、豊かな食卓を前に日々インカ帝国に感謝しなければならないことです。

   インカがろくろ、アーチ、鉄や車輪はともかく、文字や貨幣を用いずにあの豊かな文明を開花させたとは驚きで、どのようにして複雑で高度な意志を遠く広範に伝えたり記憶したりしたのかに謎が残る気がします。結節縄を使った十進法で全てが処理できたのでしょうか?
  
  私にも、勿論解りません。狼煙(のろし)による意思伝達に似て、単純明確な命令の場合は飛脚間の口頭引継ぎ連絡も併用していたのではと、想像はしていますが・・・
  
   遺跡に見られるインカの石壁が現合による多角形の石組みで成っていたとは驚きです。エジプトやレバノンの遺跡で、オベリスクや礎石に巨石が扱われているのに驚嘆したのですが、技術が伝わったとは思われないインカでも360トンもの巨石が使われていたとはどう理解したら良いのでしょうか。
   
   何時もながら石松様の旺盛な好奇心には脱帽で、「禿率」や「包茎率」を実地に観察した上で、現地の人に確認までしています。そればかりか、奥様同伴にもかかわらずマメに”ジョセイ”の美醜から相場までを確認されてきたのには頭が下がります。このあたりは、いずれ一覧表に整理されてご報告頂けるのでしょうが・・・。

   日本人として、同じアジア系の民族インカが、遠い南米の地に見事な文明を築いたのには誇らしい気がします。それを実現できたのは、皇帝すら遺産相続が許されない機会平等の社会であり、権力者が私利私欲に走らず国民のための統治活動に全力を尽くし、小さな政府を実現できていたからだとの解説には納得がいきます。

   インカ帝国が認識していたように、国の富とは、結局のところ民の労働力以外にはなく、全ての人が生き生きと働ける犯罪の無い社会を構成できたときに豊かな平和社会が実現するということでしょう。
   
   それに、犯罪に対する処罰が、身分の高くなるほど厳しかったとは素晴らしいことで、公正な社会を作るのに必須の条件であったように考えられます。権力者の犯罪が大目に見られる社会が大きく発展するはずもないのは、歴史が証明するまでもなく海外からもたらされる最近の報道でも明らかなことです。

H トヨタ先輩・工・未だお会いしたこともない方


   先日NHK-TVで放映された、インカ帝国の遺跡の画像を思い出しながら、石松さんの旅行記エッセイを読みました。世界各地の文明にロマンを抱き、訪問国数でエージシュートを目指す、未知への探求の情熱に、先ず敬意を表します。
   
   私は、ペルーには行ったことがありませんし、インカの文明に知見も持っておりませんが、メキシコのテオテイワカン(アステカ文明)、チチェン・イッツア(マヤ文明)等、昔、見た経験と関連して、感想を述べます。
   
   ● 「文字、貨幣がなく共同社会をつくり、統治し、巨大遺跡を遺したのはなぜか、旅行を通じて理解できなかった・・・歴史考古学者の怠慢・・・」と言われますが、南米の文明は、西洋史・東洋史主体の人類史の中で、これまで情報が少なく、調査と解明がこれから進められる・・・ものと、私は思います。
   
   私が昭和20年代高校で学んだ「世界史概観」では、インカ文明、マヤ文明があった・・・位に、ほんの半ページしか記述がなかったと記憶しています。従って、30年近く前、当時アメリカに駐在していた私は、アメリカの観光客と一緒に、メキシコの遺跡を見、民族博物館などで文化遺産に触れた時には、カルチャーショックを受けたことを思い出しました。
   
   ● アステカ、マヤの遺跡では、進んだ天文学との関連が多くありますが、インカはどうでしたか?

   天文学は発達していたらしいのですが記録が不十分で、私には実態がつかめないままです。

   ● 遺跡だけでなく、動植物や巨大な隕石の跡(?)など南米には「未知なもの」があることを実感しました。

   ● マヤでは、"sacrifice"(生贄)から心臓を取り出し、チャックモール像の上に捧げる、そうしないと、太陽が勢いを失って再び上がってこなくなると信じていたとか。

   (注)昨秋、チャックモールを主体に、カラコル(天文台)の中からカステイーリョ神殿(ピラミッド)を見て、戦士の像などを配した「チチェンイッツア追想」(題名)の30号の絵を描き、絵の構成が評価されて区長賞をもらい、名古屋市民展に出品しました。(現在は、天文台の崩壊が激しく、中には入れないようです)
   
   ● 石松さんがペルーで見たように、インカの宗教施設を破壊し、その基礎の上に教会を建設した例はメキシコ・シテイにもあります。既存の文化を否定し、自分達の文化を持ち込んだ征服者こそ、歴史の上で批判されるべきかもしれませんね。
   
   全く同感です。ペルー人ガイドに『スペインに行きたいか? スペインは好きか?』と質問したら『行きたくない! 大嫌い! でも先年、パパ(カトリック教徒が親しみを込めて使うローマ法王への呼びかけ語)がペルーに来た折に、スペイン人の過去を詫びたので水に流している』と、寂しそうに答えたので、以後話題にしなかった。

   先住民とスペイン人との混血者に、スペインの悪口を言わせる事は、自らの先祖を非難させる、という絶対矛盾(インカの血が流れていることを誇りにしているのに、一方ではスペインの血を嫌悪する行為)に追い込むことになるからです。

   ● ユカタン半島の先端にある町、メリーダは、スペイン風の面影のある町ですが、TAXIの運転手が連れて行ってくれた「野口英世の像」の前で、こんなところで研究していたのか、私の無知を恥じ、現地の人達から尊敬されていることに感銘しました。

   また、チチェン・イッツアの遺跡で、現地の人が、「我々の祖先はアリューシャン列島を伝って、日本からやってきた」と言われましたが、私の知識を超えておりコメントできませんでした。

   ● テオテイワカンは宗教都市、ここから掘り出された「太陽暦」のレプリカは、名古屋市がメキシコ市と姉妹都市になっている関係で、栄の公園の北部に飾られています。石松さんが、メキシコのこうした遺跡を研究しご覧になる機会があれば、知見をご教示ください。

   (注)今開催中の万博、自然と宗教の関係が一部の国(アイルランドなど)の他は、避けて(?)いる様に思います。日本は自然の中に神を感じて生きてきており、自然を征服する考えではなく、この考えこそ、自然との調和に必要と思うのですが。ペルーのすばらしい自然と遺跡から同様な感慨をもたれたのでしょうか?
   
   アンデスの荘厳で且つ雄大な美しい大自然に接すると、自然への畏怖観が我が体内にも自然に沸き起こりました!
   
I 元ゴルフ仲間・経


   「インカ帝国の追憶」楽しく読ませていただきました。いつもの事ながら凄い。今回もガイドさんを困らせたようですね。その分お仲間には頼りになるリーダーだったと推察されます。でも、隣りの奥様に「あなた、止しなさいよ」と袖を引かれたのではありませんか。

   さて旅行記の件ですが、矢張り、事前勉強があっての内容だと思います。凄いの一言ですね。特に「インカ文明には文字が無かった」、これにはショックを受けました。関心
が薄かったとは云え、恥ずかしい限り。

   今までもそうでしたが、あなたの文章の面白さは表現が断定的である事。風景の描写にすら常にあなたが存在している事。これは、徹底した事前の調査にあると思いますが、叙情的な物をも数値に変換して評価をしてしまう技術者としての力なのかとも思います。

   ふと、こんな事を思い出しました。あなたと卒業以来、初めて逢った浜松のホテルでの出来事。絨毯を汚した時にあなたがフロントに「縦横○○cm位汚しました」と報告した事です。古野君と一緒に笑いながらも驚いたことです。あなたの分析力、表現力の凄さは今に始まった事ではないんですよね。いずれにせよ、今回は55ページ完読。そして感動をありがとう!

   それから、奥様もお元気のご様子で嬉しく思います。そして、あなたの旅行記を読んだら大概の厄病神も敬意を払って近寄らないと思います。間違いない!
 
J 高校同期・関東地区在住同期会世話役(私も時々参加)


   今回の旅行記『インカ帝国の追憶』脱稿によって、旅行記31篇 累積98万字超えの偉業達成の由、まことにおめでとうございます。常人の真似の出来ることでは有りません。
   
   最初は、ご自分のために記録として書いておられたのでしょうが、少なくとも当方が拝読させてもらっているものは全て、はっきりと読者を意識して書いておられます。特に今回は、それを強く感じます。

   まさに”もの書き”の心境では、と拝察しております。巧みな構成やここまで書くのか、との驚きを感じます。まさに作家魂のようなものを感じます。ご自愛され、ますますのご活躍を祈念申し上げます。

K トヨタ同期・工・元トヨタ役員


   何時もながらの文明論を交えた「インカ帝国の追憶」面白く拝見しました。
   
   四大文明発祥の地の真裏に位置する中南米は文明から孤立し、その恩恵に浴することがなかった具体例を「諸技術」として列挙、その上で文明がすべて人間を幸せにするのか、という疑問を「インカ帝国に学ぶ」として問題提起されていますが、ひとつの文明論と言えるのではないですか。
   
   最近ラジオに耳を傾けることが多くなり、音に特化された様々な情報に魅せられています。容赦なく音と色と形を押付けてくる不毛のテレビより、創造の世界が得られるラジオが、穏やかなスローライフには似合うようです。
   
   ところで海外旅行の新たな目標として帝国巡りを掲げられた由、残るはアステカ帝国他3地域ですから、そろそろ帝国文化論をまとめられては如何ですか。期待しています。
   
   トピックスにある中部国際空港の着陸料や建設費のからくりを数値で示されるとなるほどと納得し、貴兄が指摘する空港の行く末にも関心を抱いたしだいです。最後に一言、“10日間もの連続した禁欲は辛い”には唯、脱帽!
   
L 大学教養部級友・工


   ペルー旅行記のメールを頂き10日近くなり、遅くなりすいませんでした。
   
   ペルーがある南米大陸は地球の反対側であり、とても遠い国、旅行先としてはあまり関心がありませんでした。しかし、石松さんのペルー旅行記を拝見するとすばらしい所ですね。
   
   今、開かれている愛地球博では「アンデス共同館」でチリを紹介していますが、その内容は映像とパネルで自然と文化を、また沢山の置物というか陶器のような民芸品が紹介されていました。
   
   万博の通り一編の映像ではペルーの素晴らしさは分からなかつたのですが、このメールで良く分かりました。自然はアンデスの深い谷と雪を抱く高い山、大きな湖、平原と山の斜面、インカへの道、高山病。食べ物はトマト、じゃがいも、チリーペツパーなど日常の食卓にあがるおなじみの元祖。文化はナスカの地上絵、マチュピチュなど。
   
   一度訪ねてみたくなりました。

M トヨタ&大学後輩・経


   インカ帝国の追憶編、有難うございました。数日掛けて楽しく拝読させて頂きまし
た。

   最初メールを頂いた時、多分今回も40〜50頁の大作だろうと思い、会社へ出勤前に女房にプリントアウトを頼みましたが、帰宅してみるとやはり50頁超の大作。この31編で文字累計数98万字を越えるとか、脱帽致しました。
   
   さて、今回のインカ帝国ツアーですが、私は未経験であり、さらに日本から離れており、マスコミや観光案内等のニュースソースも少ない為か、NHKの世界遺産シリーズで見たマチュピチの遺跡程度のイメージや知識しか持ち合わせていなかったので、非常に新鮮で興味深く拝読させて頂きました。
   
   特にマチュピチ遺跡では、石垣の石の隙間が狭いのは知っていましたが、他の国のそれと違って多角形であることを初めて知りました。それと観光本には無かったマチュピチ銀座の存在も興味を引きました。
   
   次にチチカカ湖の章ですが、せいぜい先住民が葦で造った船を使っている程度の知識でしたが、浮島の家や学校もあるのですね。観光客が増えてまた島に人が戻ってきた、学校では授業を中断してその国の歌をサービスする、島人と陸人の離婚が増えてきた、等、体験された石松さんからのみ得られた今回の知識と思いました。
   
   そして、最後に4000kmクラスの山々が連なるアンデスの風光は、空気の透明さが前提であると述べられておられますが、はるか遠方まで見渡せる大自然の雄大さに感動させられるようですね。
   
   ところで次回の帝国シリーズはどこですか。楽しみに待っています。

   6/17にティムール帝国へゴルフ仲間と申込んでいたのですが、政情不安になり催行中止。がっかり! 来年はアステカ帝国へ出かけたいと思っています。

N トヨタ後輩・ゴルフ仲間・工


   今回の旅行記は賢人各位にはイマイチだったのか、読後感を拝受したのは現在までで15人(返信率はたったの6%)。がっかりです。 十人十色ですから、反論・異論・批判・感想・その他いろいろお気軽に読後感・・・

   今回の旅行記は面白く・興味津々、楽しみながら読み出しました。今度こそ納得のゆく読後感想文が送れるなと、思っていました。ところが・ところが、大きな落とし穴が待ち構えていました。

   若者のズボンの上から陰部に軽く手を押し当て『相場はいくらかね?』。仲間同士、意味が分からないような素振りをしていたが、元気そうに見える青年たるものそんな筈はあり得ない。明らかに困惑の表情が走っている。

   再度聞くと小さな声で『50$くらいですが、ここでは午後10時以降しか認められていません』と教えてくれた。世界的には100〜200$が多いのに、貧乏国の女性はいくら美人に生まれても、市場原理には勝てないようだ。

   何たる事!! 断崖絶壁から谷底に転げ落ちた。あとは、読む気も失せ、感想も纏める気無し。

   現代版、久米の仙人をここに発見!

O トヨタ先輩・ゴルフ仲間・工


   遅くなりましたが、貴台の力作を途中読み飛ばしたりしながら、何とか一通り読むことができました。人間、自然、文化に深い洞察と、そこから導き出される興味ある推論に憧憬すら覚えます。

   私事ですが、アメリカとヨーロッパを中心に、主に駐在中の旅行で結構多数の観光地を旅しました。その中でアメリカ西部のヨセミテと夕刻のグランドキャニオンで、何億年か掛けて自然が作りだした芸術作品のような感動を味わいました。
   
   アメリカでもヨーロッパでも、古く名高い寺院や城壁などを沢山訪れ、写真も多数とりましたが、いまではアルバムを引っ張り出さないと記憶からすっかりなくなっています。ただ、美術館だけは不思議と、ほとんど全部記憶しています。

   フタバを2年前に退職し非常勤となってから、昨年6月スイスアルプス、12月カナダのイエローナイフにオーロラを見に行きました。スイスアルプスは下山時のトレッキングもあり、4000m級の雄大な山の景観に感激。また−40℃以下の極寒で見る夢幻のオーロラにも感動しました。自然が作りだす芸術と人間が魂を込めて作った芸術作品が、私の心を揺さぶるのではないかと思います。

   さて石松さんの、古代〜中世の帝国踏破の志は私には到底まねが出来ません。今回、アンデスでの4000m以上の山々の景観と、マチュピチュの人工とはいえ自然石を刻んだ建物や段々畑に感動されたことは素晴らしいと思います。
   
   私も石松さんの紀行文を読んで、是非行ってみたいと思うようになりました。差し支えなければ写真を2〜3枚メール頂くと幸いです。添付はスイスアルプスとイェローナイフの写真各1枚です。

P トヨタ後輩・ゴルフ仲間・工


その1。

   インカ旅行団は高級メンバーですね。阪急東欧旅行団とは大分違います。4年で一高とは当時の規格では最高秀才、三菱日本もいい就職先でした。しかしその後の彼は低成長ですね。
   
   石松氏のコメントの方がはるかに冴えています。的確です。真藤批判は当時の三菱社内の雰囲気でしょう。長崎造船所長の喜多さん(息子は田辺君『トヨタ同期』の精密の同級)も同じことを言っていました。カルテル破りのように思っていたのでしょう。しかし三菱重工も最近は冴えないですね。太平洋戦争は企業レベルでは、三菱重工対ボーイング、GEなどの戦いでしたが。

   私も海外出張日数は手帳を見なければ判りません。ただし援助調査団の累積収入だけはエクセルで記録しています。私は人生を楽しむ、とういうコンセプトももうぴんと来ないです。ただ当面の用事を何とかこなしているだけです。社会的地位もあがらないです。係長が残業と休日出勤で部長並みの収入を得ても、世間的には係長です。

その2。

   17日から21日まで北京(4泊)に来ています。追憶記は大学で印刷してざっと読みましたが、大学の研究室に置いてきました。急ぐ用事から片付けているので7月15日締め切りの読後感は後回しです。
   
   16日午後金沢の高校で講演、終了後タクシーで小松空港へ。羽田着。21時帰宅。17日朝0630自宅発。成田から全日空で北京へ。21日朝北京空港発、成田から羽田へ移動。羽田から小松空港へ。夜講義。23日夕方小松⇒羽田。24日ベトナムから一時帰国の調査団員と東京で打ち合わせ。夕方、新幹線で金沢へ。深夜金沢着。25日朝から大学院入試。終了後夕方鉄道で上野へ。帰宅。終了時刻がはっきりしない行事のときは鉄道を利用。海外出張が多いので、小松⇒東京⇒北京の往復は全日空の無料航空券です。

   いよいよアラブですか? いいですね。私はバグダッドに1年半(湾岸戦争以前、国連職員時代に開拓部長として駐在)、クウェートに1泊しか経験ありません。中東音楽はなつかしいです。

その3。

   「インカ帝国の追憶」の読後感の集まりが悪いようであるが、遺憾ながら「さもありなん」と思わざるを得ない節もある。今回は常連の読者が石松節に飽きたのか、石松節の切れ味が今回に限って悪いのか、いろいろの仮説が挙げられよう。メールで事前に注文をとってから配布すれば、回収率は格段に向上するであろう。

   回収率の向上は目的ではなく、回収数の増加が最終目的です。

   私は今日1日をこの感想文作成(とその前提になる読書)に充てたが、ベッドの上でウツラウツラしつつ、何度も放り出してしまった。私はペルーに行ったことはないし、行く予定も今のところない。何時かは行ってみたいとも思っているが、優先順位は高くない。
   
   そもそも途上国調査を職業としている者にとって、途上国の風物情報には当面は食傷気味である。昔の大文明があっても、現実の貧困、犯罪、非能率などへの対応で精一杯である。とてもお金を払ってまで、途上国へ出かける気にはならない。ペルー旅行記はなかなか頭に入らない。

   結局2-3回読んでいるうちに夜になってしまった。明日からは用事も貯まっており、明日以降も読む訳にも行かないので、現在までの知識で書くことになった。

   例によって、日程表、地図(市街地図や観光地略図など)、写真が一切ない。地図に出ていないローカルな地名や旧跡が次々に出てきても、ピンとこない。マチュピチュの説明もエンカルタ搭載の360度パノラマ写真2枚の方が判りやすい。「地球の歩き方」を座右に置いて読めばよいのであろうが、行く予定のない国の「地球の歩き方」を買う訳にも行かない。

   ペルーオリジンの食用植物がこんなに多いとは知らなかった。これは勉強になった。インカ帝国が、鉄器、文字、貨幣を使わなかったというのも知らなかった。日本人のペルー関係図書がつまらなかったというのには同感。旅行案内でも「地球の歩き方」よりも、LONELY PLANETの方がはるかに情報量も多いし、水準も高い。

   レール幅の情報も参考になった。モルドバ、スリランカ、ケニヤ、ベトナムみな軌間が違っていたが、この表はよく整理されている。ソウルーモンテビデオは私の測定では19760キロ(エンカルタのツールを使用)。21ページのクスコが海岸から200キロというのは間違い。最短距離で350キロ。リマからは580キロある。
   
   クスコからリマまでの距離はガイドブックからの孫引き。日本語の本の精度はこんなもの! 距離だけではなく、解説の中味も!

   相当の努力を投入された旅行記に対して、まともな感想文を書けなくて、ゲマインシャフト的には申し訳ないが、何時かペルー旅行に出掛ける時には必ず携帯し、参考にするので許して下さい。

その4。

   結局、時間を用意しても感想文は書けなかったということです。時間は必要条件であっても十分条件ではないです。たまたま、病院の予約が月曜から火曜に変更になったので、月曜は時間が空きました。しかし、中国での用事、院生7人の修士論文指導、学内の権力闘争、7月24日からのブラジル出張の準備などいろいろあると、頭の中を白紙にはできないです。ペルー問題は頭の中に進入できないです。
   
   時間が余れば横になって休養となります。昔から、学問とか芸術とかは俗事に捉われなくても良い人が担当してきました。五大陸の景勝地を回り、アンデスの空気の透明度をめでるなどはまさにそういう人たちの特権です。さすがトヨタOBです。ライフスタイルも世界のトップです。労働から解放されている人(貴族の定義=労働しなくて生きてゆける人)と私のような労働者とは別世界です。

   私はレストラン東京會舘友の会に入っています。一度行事に参加しました(風と共に去りぬ+食事)。品の良い三菱OB夫妻のようなカップルがいっぱいました。旧制一高卒もいたかもしれません。時間に追われている労働者の行くところではないです。
   
   エンカルタデジタル百科はお勧めです。日米の格差がよく判ります。
   
   今までもインターネットで公開されている無料部分は参照していましたが、近々購入する予定。内容が常に更新されているのも魅力。
   
Q 1年で退職したトヨタ同期・工(船舶)&経・私大教授
   

   「インカ帝国の追憶」拝読させて頂きました。恒例のことながら詳細なる予備知識の収集と現地での感受性には驚愕させられます。

   特にナスカの地上絵が「当時の人の遊び心が発端ではないか?」との解釈には、笑いながら納得している部分も多分にあります。以降、永年のメンテナンスはほぼ確実だろうと思われますが、永年のメンテナンスに携わる関係者の宗教色があるのでは? と、感じました。
   
   今回の追憶を読んで強く南米に行きたくなりました。

   ウズベキスタンが中止になられたことは残念ですが、ウズベキスタン方面の全てが中止になったのではありません。下記に私が興味あるツアーをコピーしておきます。

   シルクロードオアシス大周遊 ウズベキスタン&トルクメニスタン13日間
http://www.kaze-travel.co.jp/program/CA-TB-05.html

   先ずは追憶送信のお礼と、簡単な感想まで。ご自愛下さい。

R 株式の掲示板で知り合った方(上杉社長)の友人・初めて読後感を頂いた方


   定期検診の結果も順調に推移しているようで、きっと完全に病気を克服されたのだと拝察しています。何しろ強い気持ちで対応されたから、病気の方が尻尾を巻いて逃げていったのでしょう。心強い主治医が近くにいて、何でも相談できる(主治医とは今までもメールで、荊妻のペースメーカー埋め込み手術の名医探しなど、がん以外の病気も相談していました。今や最も頼りにしている家庭医になって頂いたのも同然です!)のは実にうらやましいですね。

   今月中旬からまたシリア・ヨルダンの方へ旅行にお出かけになるとか、石松さんの未知への関心は衰えを知らず、ということにただ驚くばかりです。『インカ帝国の追憶』もコメントを送り返さないままに、表面的な読み方しかしていなくて申し訳ありません。
   
   ただ、私の娘がグアテマラで協力隊員として活動した関係から南米が大変気に入って、今も活動やら旅行やらに飛び出していることから、いつもより興味を持って読ませていただきました。
   
   寄越した葉書の中に、あのスペイン人がインカ文明というすばらしい文明を自分達の利益だけのために打ち砕いていった歴史に、だんだん怒りを感じてきたということが書いてあったので、石松さんの感想と重ね合わせながら読ませていただきました。
   
   地震でスペイン人が作った細工は直ぐにつぶれたけれど、インカのそれはしっかりと残っているというのは、今の軽薄な日本の建造物と奈良時代の古寺の頑丈さを比較するようで、大変おもしろいですね。

   健康に気をつけて次の旅行をエンジョイしてきてください。

S トヨタ後輩・工・元トヨタ役員


   とっくに読了していたのですが、読後感が遅れて済みませんでした。

   貴殿の旅行記は実に面白く第一級の読み物であると思います。自分が現地に行った以上に面白いのではないかとさえ思えるほどでした。本来は途中を紐解いてコメントすべきですが、今の小生には時間のゆとりが余り無いので勘弁させて貰います。ただ、特記事項として若干述べさせて頂きます。

   初めの同行者A氏、一高・東大・三菱重工の秀才も貴殿には全く歯が立たず、終いには脳梗塞の疑いまで掛けられて、気の毒としか云い様がないですね。旅行の間中どんな心境だったでしょうか。頭脳明晰な貴殿は当たり前の会話をしたつもりでも、相手に依っては折角の楽しい筈の旅行が非常なストレスとなる事もあるので、もう少し思いやりの気持ちが必要ではなかろうか、と思います。

   一番最後の項で、TINCAと聞いて思い出しました。昭和54年頃小生の職場の業務改善の為に、貴殿の所に教えを乞いに行った事がありました。又、その前の昭和45年頃だったか、NCの業務講座で貴殿の講義を聞いた覚えがあります。貴殿はトヨタの電算化の基盤を築いた先駆者だったですね。その後ずっとその道を歩まれるのかと思ったら、後は海外関係の業務を担当され、訪問国数と自分の年齢とを競争させるほど外国通になられた。 人生色々ですね。

   自分の今までを振り返っても人生色々だなーと、近頃つくづく思います。

   今度は中東をご訪問の由、どうぞお気を付けて。また、面白い旅行記を楽しみにしています。

21。トヨタ&大学先輩・奥様の介護と主夫業でへとへと。でもナイアガラの滝を奥様に見せてあげたいと考えられている真の愛妻家


インカ帝国の追憶、一読させていただきました。ただただ感心しているばかりです。

@ 旅行の専門書を読んでいるような感じです。
A 民間の大使のようなお仕事があれば、石松様はグロ-バルなかたちでのご貢献をされるのではと思いました。
B この世に生を受けた人々がその時代の中で、持てる能力を発揮し知恵をめぐらせ築いてきた遺産や歴史に対し、凄いなあと時折思っています。この見聞録を読ませていただき一層実感しました。
C この追憶記は再読してみる予定です。

22。トヨタ後輩・6月から我がゴルフ仲間に入られたが、まだお会いしたこともない方


   毎度貴重なるレポートを送っていただき、大変興味深く拝見させてもらっています。
   
   さて、インカ帝国の歴史については、はなはだ知識も乏しく、何とコメントしてよいやらためらっていました。しかし、あえて感想を云うとすれば、世界の歴史は西欧文化を中心とした流れが現在主流となっていますが、インカ帝国の文化のレベルを見直し、西欧以外にも立派な文明・テクノロジーがあったと認識して、今後の世界観を見つめ直すきっかけになればと思います。

   貴殿の今後の旅行記は、誰もが期待していますし、日本人としての客観的見解は、 石松君ここにありとの評価が確立すること間違いなしなので、次回の旅行も元気を出して頑張って下さい。                          

23。 中学同期・工・関東地区在住同期会(私は時々参加)永久幹事


   返信遅くなり申し訳ありませんでした。大変興味深く拝見しました。また、インカ社会の仕組み等大変勉強になりました。
   
   もともと、インカには興味があり、10年ほど前、当時の仕事の関係でボゴダ、サンチャゴ間を飛んだ時、ひょっとしたらインカの遺跡が見えないか窓から下をずーと見ていたことを思い出しました

   レポートを拝見していて、小生もインカに行きたくなってきました。

   シリア等に行かれるとのこと、旅行記を楽しみにしております。取り急ぎ、お詫びとお礼まで。       

24。 トヨタ同期・工


   今日は。もうそろそろ中近東の旅から帰られるころかな。死に神に追われながら頑張って旅をしておられる様子ですが、人皆同じで一日一日と死に神に追いつかれているのは確かです。貴殿と違って意識するか、せんかの違いです。

   実は小生も6月6日から1ヶ月欧州一人旅をやってきて、帰ったらすぐオランダより友人夫婦が来て、1週間ばかりアテンドして歩いていて、貴殿の旅行記にコメントする時間ありませんでした。あしからず。

   小生の旅は『あの地、あの時そしてあの人を訪ねて』をテーマに回ってます。今回は人訪ねが多くて英国の友人宅に10日間おり、その間に彼のポルトガルのリゾートハウスに行ったりしてきました。彼はいまゴルフに凝っており、4回も付きあわされました。ちょっとしたゴルフ場でも100年まえに造られたというゴルフ場が多くゴルフ発祥の国ですね。

   小生は、ツアー旅行は一度だけ行って大嫌いになり、もっぱら個人旅行です。しかし今回の貴殿旅行記にある同行者ウオッチングは、ツアー旅行の面白みかも知れませんね。面白く読ませて貰いました。一緒に10日間も行動を共にしていれば、いろいろ人間の側面が見えるわけですね。小生は目下3〜40年くらい結婚暦のある夫婦の夫婦(みょうと)ウオッチングに興味もっています。

   訪問国数と年齢ですが、小生はアフリカで稼いだ(南アとかの海外駐在中と推定)事もあり今のところ80カ国は超えています。年齢が越えないうちに死にたいですね。

   ガイドですが、ツアーのガイドは期待してもダメですね。小生は今回バルセロナでは現地で探しました。ガウデイのサクラダファミリアなどでは日本人は見つからず、英語のガイドですが、モノを見ながらだから結構理解できます。

   飛行場が近いということは本当にありがたいことですね。今回はセントレアからパリ直行便で往復しましたが、特に帰りが楽ですね。成田では12時間のフライトのあと疲れきって名古屋にまで帰るのは大変だった。

   ペルーのリマでは小生も天野博物館に行ったことがあります。紐による数字で微分積分までやったと聞いて驚いたのを憶えています。未だに信じられないが。

   紐だけでは微積分ができる筈がありません。加減算の間違いと推定します。私の呼んだ本や現地のガイドからも微積分の情報はありませんでした。第一、彼らには微積分のニーズはなかったと思います。贔屓の引き倒しでは?

 暑さはこれからご自愛の程を。

25。トヨタ先輩・工

上に戻る