[1]暑い国
夏のカラーチの暑さには格別のものがあった。年間降雨量は 150mm程度なのに湿度は 100%、温度が40度C以上もある上に風もない。3月のバンコックの暑さにも最初は驚いたが、カラーチの暑さはバンコック以上である。アジアでは海岸線に沿って西へ行くほど暑さが増すような気がする。『ネクタイ+背広』の正装は地獄の苦しみである。現地の男子の正装はダブダブの無地の木綿製でコートのように長いワンピースと、同じくダブダブの同色のパンタロンのセットである。気象条件にぴったり合った合理的な服だ。
アラブのベドウィンが酷暑の砂漠では、風通しに優れたダブダブの服で全身を覆っているのを思い出した。ベトナムの女性の正装であるアオザイとパンタロンのセットにも大変似ているが、アオザイの場合は高級品は絹製でしかも体にぴったり合わせる習慣のためか、既製服としては売られていない。美学が違うようだ。
[2]関係者の歓待
豊田通商のカラーチ駐在所長の自宅に招かれた。男の門番がいた。大きな豪邸には相応しくない、振動も騒音もけたたましい室内外機一体型のルーム・クーラーが窓に嵌め込まれていた。床は大理石で足に冷んやりと心地好い感触だった。パキスタンはイスラム教徒が96%以上もいる原則禁酒の国である。入国の際にお酒の半分はワイロとして巻き上げられるそうだ。
幾ら免税店で安く酒を買っても、結果的には日本の国内価格並になってしまう。しかも手持ち運搬であるため、持ち込み量には自ずから体力面での制限が付く。そんな話を聞いた直後だったので、『冷たいビールを幾らでもどうぞ』と出されても、通風発作の直後でもあり気安くは飲み難かった。
いくら暑い国と言っても夜の海上は微風も吹き比較的涼しい。ハビブの好意で夜、マストの高さが10m以上もある帆掛け船で蟹釣りに出掛けた。アラビア海に面した湾である。遠くの方から夕闇の中にコーランを歌う声が聞こえてくる。日本の坊さんも中高年になると、長い間の読経の訓練の成果が喉に現れるのか声が良くなるが、年配者ののんびりと響くコーランの声は意味が判らなくとも耳には何故か心地好い。音楽のようだ。コーランの喉自慢大会もあるそうだ。
この季節では有名になっている観光蟹釣りを2時間以上も頑張ったが、残念ながら1匹も釣れなかった。その事を見越していたのか、船には予め蟹やその他の食材が積み込まれていた。カラーチの蟹は北洋の蟹程大きくはなく食べるのが面倒臭かったが、焼きたての蟹で満腹した船上での楽しい晩餐であった。
インダスの河口はカラーチからは遠く離れているが、土漠を貫流する間に粘土を溶かし込んだ水が掃き出されているのか、カラーチの海岸の遥か沖の海水まで濁っている。生活排水の濁りとは違っていた。
[3]カラーチのあちこち
カラーチは第2次世界大戦後に人口が急増( 510万人)したパキスタン第1の大商業都市ではあるが、都市としての歴史が浅い上に、インダス文明などのめぼしい遺跡は少ないため観光資源にも風格にも乏しい。大きな美しい近代的なビルは殆どない。
世界には首都と最大都市とを棲み分けている国も多い。都市機能を分離するのは経済力の集中による過密公害を防ぎ合理的だ。思い付くだけでも、アメリカ(ニューヨーク、ワシントン)トルコ(イスタンブール、アンカラ)ブラジル(サンパウロ、ブラジリア)オーストラリア(シドニー、キャンベラ)ベトナム(ホー・チー・ミン、ハノイ)インド(カルカッタ、デリー)旧西ドイツ(ベルリン、ボン)ニュージーランド(オークランド、ウェリントン)中国(上海、北京)カナダ(トロント、オタワ)スイス(チューリッヒ、ベルン)等がある。
パキスタンの首都はイスラマバードである。イスラム圏には『**バード』と言う都市が多いが、バードは鳥ではなく『abad』が語源でその意味は『モスレムが住む土地』である。従って、日本語のイスラマバードはイスラム・アバードの方がベターと思う。
1.パキスタン国立博物館
インダス文明のルーツ、モヘンジョダロ(4200〜4500年前)の遺跡から発掘された、『高さ約10cmの男の上半身像』に出会ったときの驚きは今も鮮明に蘇る。大英博物館やルーブル美術館(有名な絵画・彫刻などの美術品だけではなく、ここにもミイラや中近東の古代文明の発掘物が多数展示されている)、アテネやアンカラの考古学博物館に溢れるほど展示してある、端正な顔立ちの彫刻品とは全く異質の印象を受けた。
ほのぼのとした幸せが満面に溢れていた。人相は今のパキスタン人のような彫りの深い顔ではなく全く別の人種のようだ。先住民であるドラヴィダ人か?。現在のパキスタン人はインダス文明の先住民を征服したアーリア人の後裔である。この博物館の他の展示品はすっかり忘れてしまったが、この展示品だけは何故か脳裏に刻み込まれた。
2.都心の雑踏
過去4000年に発明された全ての交通手段が未だに競争関係にあった。人力車・自動車・荷車・自転車・二輪車と歩行者がひしめき合っている。都心では自動車の速度は一番遅い交通手段と同じだ。荷車を追い抜くのは大変難しい。交通ルールを無視した早い者勝ちの世界だ。『衣食足りて礼節を知る』は永遠の真理だ。
小型トラック販売の競争相手は馬車なので価格競争力はないに等しい。ラクダが引いている『馬車』も多い。ラクダの方が馬よりは暑さに強いだけではなく、体も大きくて力も強そうに感じる。大型トラックの車体は全面イスラム様式(幾何学的な図案)の色彩鮮やかな模様で覆われている。ファションだそうだ。持ち主の誇らしげな気持ちが伝わってくる。家畜が多いせいか、何故なのか蠅が多い。
3.チョウカンディ
カラーチの中心から当社の工場(当時は候補地)に向かって幹線道路を27Km来たところの左側に、3000個とも言われる大墓石群が忽然と現れた。全てレンガ造りの思い思いの形をした墓石(後で調べたら、レンガではなくて、石だった)である。家のようなもの、日本のような積み上げ式の墓石など構造も様々である。大きさも10坪〜1坪など色々。周辺には誰も住んでいない。土漠のど真ん中にある。墓地には墓参りにきている人も見掛けず、切り花が飾られている痕跡もない。
レンガの破損状況から推定するに、大変新しく感じる。今は誰かが維持管理しているようにも感じられない。観光客をほんの10人くらい見掛けただけである。現代の金持ちは大理石、貧乏人は普通の石で出来た石板を墓に立てるだけだそうだが、最新墓地を確認するチャンスは残念ながらなかった。
4.シェラトン
カラーチの蠅の多さには驚く。最高級ホテルのシェラトンの食堂にすら蠅が飛び回っている。しかしシェラトンは腐っても鯛。欧米のシェラトンのレベルほどではなかったが、朝食は欧米人向きのバイキング形式。パキスタン料理に馴染めない人にはオアシスに来たように感じる。
朝ホテルを出るときには、フルサイズのVHSカメラとαー7000のカメラを重たそうに両肩からたすき掛けにした上、両手に鞄などを持っていたので、シェラトンの中のお土産物屋の人達にはすぐに顔を覚えられた。夕食後ふらふらとウインド・ショッピングの積もりで店の前を歩いていると、呼び止められ話し込まれる。
そうこうするうちに巧みにお土産を売り込まれる結果とはなる。世界各地からの来客相手に商談技術の腕を磨いている様子が伝わってくる。しかし、客を騙してまで売り付けている訳ではない。商品の魅力や価値の説明力の迫力に驚きながらも、しばしの会話を楽しんだ。
5.路端修理屋
カラーチから郊外へと伸びる幹線道路の両側に、自動車の修理サービス屋が続く一角があった。ありとあらゆる種類の中古部品が貴重品扱いで大切に保管展示されている。車を修理する土間は廃油が染み込んで真っ黒になっている。こんなに汚い修理屋は見たことがなかった。修理屋といっても間口は車がせいぜい2台入る広さ。パキスタンでは路端修理屋と言うそうだ。
ここのハイレベルの修理能力に裏付けされた労働の対価も、この国の国力が示す賃金の相場の制約からは抜け出せない。日本人であることの幸せは外国で初めて実感することができる一方、人件費が主因である日本のサービス物価の高さには腹が立つ。
6.土漠
市街地を離れると幹線道路の両側は土漠の荒れ地だった。雨量が少なくてもゴルフ場のバンカーのような砂一面の美しい砂漠にはなっていない。インダス河の沖積平野であるためか、海岸近くの土は微粒になっており毛細管現象にも支えられているのか、若干の保水力もあるようだ。
見渡す限り灌木がパラパラと生えている。その間にしぶとい雑草が茂っている。粘土質の土は堅く、灌漑設備抜きには農業は成り立ちそうにもない。こんな土漠の一角に広大な工業団地が開発されていた。当社の候補地もその一角にあった。
7.難民
幹線道路に沿った土漠の中に難民らしき人達の住居があった。2×2mくらいの面積で四隅に柱を立て、枯れ草で編んだ筵で周囲を覆っているだけの物であった。雨は降らないも同然なので屋根は張られていない。暑い所なのでこんな家でも役に立つらしい。
ぼろを着た薄汚れた人が住んでいた。アフガニスタンからの難民ではないかと思った。アジアでもアフリカの難民に近い生活レベルの人達がいることに心を痛めながらも、非力な一個人には救済手段は全くない。
8.ゴルフ場
郊外で灌木の密度が高い一角にあるゴルフ場に連れて行って貰った。9ホールだったので、ティーグランドの位置を代えて2度回るようになっていた。ここの木は棘が多く葉の表面積が小さい。芝生が植えてあるのはグリーンとフェアウェイのほんの一部であった。それもやっと芝生らしき物があると言う程度だった。芝刈りがしてあるのはグリーンだけだった。
キャディは大の男だった。プレイ中、『しまった、OB!』と思ってもキャデイが先回りして球を探しだし、私が辿り着いたときには、球は打ちやすい位置に置き換えてあった。『ラッキー。セーフだった!』と言う。チップを上げざるを得ない。
パキスタンではゴルフ場だけではなく、工場でも女性従業員は1%未満。事務所のお茶汲みですら男だ。パキスタンのゴルフ場はどんな雰囲気かを知る事に強い関心があった。しかし、連れてきて頂きながら実態が解ってしまうと、2度とプレイをしたいとは思わなくなってしまった。日本ではゴルフ代が高いがそれだけの快適さはあると思う。生活環境の悪さに起因する、単身赴任の駐在員の辛さは気の毒に過ぎる。
ゴルフの最中にとうとう下痢の我慢ができなくなってしまった。不用意な事に散り紙を忘れていた。同行者の誰にも用意がない。万事休す。意を決して灌木の林の中に入り込んだ。ここでは面積の広い葉を持つ雑草も木も生えていなかったので、最悪の場合には砂を使う覚悟だったが、あちこちに乾燥した使用済みの紙切れが落ちていた。助かった!。同類項がいたらしく沢山のそれらしき痕跡があった。
9.古代遺跡
モヘンジョダロに行く時間はもともとなかったので、その代わりにと希望して古代遺跡の片鱗を尋ねた。郊外の海岸が見える地点に詳細不明の古代の城跡があった。石とレンガで造られた砦や住居の跡があったが殆ど形を留めていなかった。海からの外敵を防ぐ効果があったのか疑わしいほどに荒れ果てていた。周囲には人が住んでいる形跡もない。見栄えがしないためか観光客は見掛けなかった。砦に登って眼下に広がるアラビア海を眺めながら、遥かなる古(いにしえ)の人々の苦労を思いやった。
ここの海は遠浅のためか塩田が開けていた。あちこちに生産途中の塩の山があった。雨が少ないから塩造りは簡単だ。
[4]ラホールのあちこち
ムガール帝国の初期の首都ラホールはこれがカラーチと同じパキスタンかと思うほどに立派な大都市であった。『ラホールはラホール』と言うそうだ。他の町と同列に扱われるのを極端に嫌った言葉だが、住民がそう言うのもなるほどと初めての外国人にも納得できた。道路には巨木が茂り、今なお使われている運河には水が満々と溢れるように流れている。雨量は少なくても大木になると地下水が吸えるのか土漠の国とは思えない緑に囲まれた美しさだ。
日本の都心の並木は電線の邪魔になると称して背丈も低く剪定されているが、電線こそ地中化し、木は伸び伸びと成長させてくれたらと思う。インダス文明ですら下水道を完備していたのに、現在の日本は付加価値を生まない物への投資をけちり過ぎ、何と住み難い国であることか!。
石やレンガ造りの美しい巨大な建築物をスリさんにお願いして見に行った。北部にあるラホールの夜は涼しく快適だった。市民も夜は公園などに大勢涼みがてら繰り出していた。
1. バードシャーヒー・モスク
昼間は工場の調査に追われていたので、真っ暗闇での見学になった。電力不足なのか、照明設備は極端に少ない。世界一美しいモスクとも言われている左右対称形の建物である。赤い砂岩の建物の上に白い葱坊主のような大理石張りのドームを3つ載せた姿を遠くから眺めるとうっとりとしてくる。トルコ系のドームは半円球だが、パキスタン系のドームは都市ガスのタンクのような球に近い。
インドのタージ・マハールやモスクワのクレムリンのドームに似ている。四隅には高さ46mのタワーがあり、高い塀にも囲まれたレンガ張りの 130×160mもある境内には10万人も入れると言う。ドームの中でも5,000人は軽く入れる大きさである。東大寺や東西の本願寺が急に小さく思えてきた。
2.シャーリマール庭園
37haもある人工の庭園。ヴェルサイユ宮殿の庭園のように直線で区切られた構成になっている。貴重な水が惜しげもなく使われている噴水のある大きな長方形の池があった。砂漠の国の最大の贅沢は水の浪費である。公園の中の植え込みも幾何学模様の配置にデザインされており、ここがパキスタンである事をうっかり忘れ兼ねない。公園内の植木列の中にレモンがあったのが不思議だった。
3.ラホール博物館
閉館直後に辿り着き『日本からはるばる来たんだ』と強調しながらの交渉でやっと手にした貴重な5分間であった。ガンダーラ仏教美術彫刻の真髄と言われる『断食する仏陀…Fasting Buddha』と対面したいと言ったら、職員が消灯後の暗闇の中を案内してくれた。
仏教の布教手段としてギリシア彫刻の手法を導入した、ガンダーラの彫刻家の着眼点の秀逸さに息を呑む。骨皮筋衛門になりながらも一心に信仰に生きる僧の壮絶な姿が迫真のリアリズムで迫ってくる。いかな無神論者もしばしの間、声も出せないのではないか?。ガンダーラ彫刻が現れるまで仏教界には、文盲に仏像を使って布教すると言う着想がなかった。
[5]パキスタン人
ポルトガルから東へ来るに連れて徐々に人相が変わって行く。ギリシアからトルコに来ると色が少しだけ黒くなる。トルコから西になると褐色が深まる。パキスタン人はアラブ人にもインド人にも見えてくる。中にはヨーロッパ人そっくりな人もいる。
顔の彫りが深く、男は髭を蓄え、背は高くなかなかに魅力的なスタイルだ。日本人は男女とも見栄えではとても太刀打ちできない。特に子供の美しさは格別だ。それに引き替え、老人は生活苦が累積したのか異様なほどに、みすぼらしく感じるのはどうしてなのか?
こんな見栄えのする大男の殆どが酒を飲まない。イスラムの戒律を真面目に守っている純朴さにも心を打たれる。『お酒を飲めば気分がよくなるぞ』と言って勧めても『頭痛が起きる』と言って飲まない人が多かった。
あるとき田舎の工場を見学したら昼になった。工場でパキスタン料理の御馳走を振る舞われた。そのときだけは社長である誇り高き頑固爺さんに、パキスタン方式を強要された。土間に車座になって座り込んだ。その上、全て指を使って食べさせられた。
大きなサイズに切られた豪快な羊料理は、手にとって食べる方が実に食べやすいことに気付いた。日本人だってエビ・蟹や寿司を食べる時は同じやり方だ。無理にナイフとフォークの世界に閉じ籠る必要はない。
翌日は、ハビブさんが私たちの労を汲んでか昼食をホテルで御馳走してくれた。日本人にはパキスタン料理が合わない事を知っているらしく、西洋料理のバイキングだった。生き返った心地がした。
[6]結婚観
パキスタンでは処女の価値は未だに大変高い。若い男女がホテルに泊まるときには結婚証明書をフロントに提示しなければならない。婚約中と雖も外泊は出来ない。
結婚以前に外泊した事が女性の父親にばれた場合には、女性の父親はその男を鉄砲で撃ち殺すことが出来るそうだ。この習慣はイスタンブールからの機中で隣り合わせたパキスタンの紳士から聞いた。ハビブのスリさんに確認したら『本当だ』と答えた。
[7]絨毯
シルクロードの国々には例外なく郷土色溢れる手織りの絨毯がある。どの国でも外国人観光客向けの御土産品としては人気抜群だ。未だ機械織りには成功していないので価格破壊も起きていない。貨幣価値が不安定なシルクロードの住民には換金対象としても人気が高い。
それだけに一般の商品に比べると国民全体が商品情報を熟知しているためか店ごとの価格差も小さい。その結果、競争が厳しくなるのか価格交渉における商人の執念には根負けしてしまう。
パキスタンの絨毯はトルコやイラン(ペルシア)の絨毯に比べると糸が太い。その結果単価が安くなる事も手伝ってか、売れ筋のサイズはやや大きくなり、1〜2u。それでも中国の分厚い段通と較べれば薄いため、畳めば小さくなり運びやすく御土産には最適。
絹糸と毛糸を模様の部位に合わせて使い分ける。糸の状態では混紡されてはいない。材質の違いで光の反射率が異なるので、絨毯に光を当てるとデザインが一層立体的に引き立つ。
色彩感覚も国によって異なる。パキスタンの場合は茶色と鼠色が中心だ。まるで土漠の保護色のように感じる。
[8]イスラム帝国の末裔
イスラムの歴史の中で帝国と呼ばれたものは4つある。アラブ&ペルシアを支配したバグダードのサラセン帝国、サマルカンド(現在のウズベキスタン)での栄華を誇った西〜中央アジアのチィムール帝国、イスタンブールを中心に栄えたアラブ&トルコのオスマントルコ帝国、及びアフガニスタン・パキスタンからインドまでも支配した南アジアのムガール帝国である。
パキスタンには今なお大帝国の伝統を引き継ぐプライドからか、建国後に建てた国家的な建築物は貧弱な経済力とは無関係なほどに壮大だ。
[9]美しい北部
カシミール地方は北にカラコルムの大山脈が雪を抱き、雪解け水が渓谷を流れる。この立体美の写真を見ると、スイスアルプスを上回る美しさ。工場がないため空気が特に澄んでいる。今は危険地帯なので立ち寄れないが、いずれ貴重な観光資源になると確信している。
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