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旅行記
           
アジア
パキスタン(平成7年3月8日脱稿)

      私にとってパキスタンとはインドネシアやトルコで出会ったモスレムの人達と同じく、宗教や歴史の違いを越えて、心が通える事を再確認できた人達との貴重な出会いに溢れた国である。その後マレーシアのモスレムの人達に出会った時にも、全く同じ体験をした。 

      儒教(中国)や仏教(タイ)圏の人達よりも遥かに心が和むのは一体何故なのか、信仰への深さの違いなのか、今思い出しても不思議だ。
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はじめに

   インダス文明のルーツは今日のパキスタンである。決して現在のインドではない。世界第2の高峰ゴッドウィンオースチン(=K2・8611m)がある美しいカラコルム山脈に源流を持ち、風光明媚なカシミール地方を流れ、パキスタンの国土の正に度真ん中を貫流した後、遥かアラビア海へと注ぐ大インダス河こそがこの文明を育んだ。                       
        
   一方、世界第1の高峰エベレストが聳えるヒマラヤ山脈を、南北から包み込んで流れるガンジス河(チベット側のブラーマプトラ河はインド側のガンジス河に合流する)は、インドの東側を潤し、バングラデシュを経てベンガル湾へと注ぐ。出張前の私は、この両大河がインドの東西どちら側を流れているかも確信を持っては思い出せないレベルにあった。           

   インダス文明は西アジア(メソポタミア)の影響を受けて発展し、やがてガンジス河流域にまで広がった。『インド』の語源はインダス河の古名『シンドゥ』が変化した『ヒンドゥー』に由来する。今日のパキスタンこそが大インドのまがうことなき本家である。パキスタンと言う現在の国名はインドから独立した時に、主力州の頭文字から作った造語であり、古代の地名と直接の繋がりはない。

   パキスタンへの出張は1989年8/5(土)〜8/10(木)の正味僅か6日間だったが密度の高い充実した日々になった。パートナ候補『ハビブ』に当社との事業を何としても実現させたいとの強い熱意があったからである。ハビブの期待を一身に背負った『スリさん』の努力抜きには、私がパキスタンをこれほどまでに深く知ることはできなかった。

   1989-7/25〜8/12の出張が決まったのは出発1週間前位であった。トルコプロジェクトのF/S(企業化調査)の打ち合わせが主目的であった。その際、トルコからの帰途、急にパキスタンに立ち寄ることになった。日程上、夏休みに食い込むことは避けられなかった。突然の出張だったのでパキスタンのビザは日本では取る時間の余裕すらもなかった。『トルコでも取れるはずだから心配無用』と言われたものの『手続き』は不明のままで出国することになった。
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パキスタンへの道

[1]『痛風』の発作

   忘れもしない。明日は出張と言う7月24日早朝、起床しようとしたら右足の親指が何となく痛い。気が付かないうちに突き指でもしたのだろうか?との疑問を感じたものの思い当たる節がない。その内に見る見る痛みが増してきた。出張には行けるのだろうか、との多少の不安が出てきた。出勤のための車の運転はトルコン車なので、取り敢えずは左足の操作で何とかなった。

   やっとこ机に着いたが痛みは増す一方。トイレに行く時には最早まともには歩けなくなってしまっていた。人に気付かれないような姿勢で歩く努力をしたが、抜き足差し足の微速度歩行になってしまった。何故こうなってしまったのか理由は全く思い当たらなかった。
                         
   その時である。同じ職場の酒さん(事務系、トヨタ記念病院から異動)が『石松さん。痛風じゃないの?』と声を掛けてくれた。その瞬間まで『痛風』と言う病名すら知らなかった。彼は痛風患者を病院内で見慣れていたのである。痛風の窓口は整形外科だと教えてくれた。   

   病院に着いた頃には、微風が当たっただけでも飛び上がるほどに痛くなっていた。病名の語源は調べずとも体で解った。『明日からトルコへ出張なんですが大丈夫でしょうか?』。医者は即座にしかも自信たっぷりに『もちろん大丈夫』と言ったが、私には不安が消えなかった。

   『外国で万一再発した時のために、痛風の英単語を知りたい』。『Goutだ』。早速、患部に注射。患部への張り薬、消炎剤、尿酸降下剤をくれた。昼までには痛みは消えた。麻酔剤にも似た薬の威力をこの時ほどあり難く感じたことは、生まれてこの方体験したこともなかった。                          
   
   医師がくれた小さな本によれば痛風患者の平均死亡年齢は、53歳(昭和31〜40年)、60歳(41〜44年)、63歳(45〜54年)とのことであった。寿命が伸びてきた原因は良質の尿酸降下剤の発明らしい。殆どの人は尿毒症で死んでいるそうだ。爾来、痛風との長い付き合いが続いている。死ぬまで直らないと聞いて憂鬱だった。あの注射の薬は尿酸を中和させるための、アルカリだったのではないかと今では邪推している。                   

   その後の痛風に関する勉強から、痛風の4大原因(老化現象、食べ過ぎ、運動のし過ぎ、酒の飲み過ぎ)を知った。日常生活と定期的な血液検査の組み合わせ結果とから、私の場合の主たる原因は酒の飲み過ぎにある事が解った。酒はアルコール量でビール大瓶に換算して2本以下/日を目標にしたが、節酒がこんなに苦痛だったとは予想もしなかった。     
                  
   尿酸の積極的な排出のために、薄い紅茶を毎朝3gも30分掛けて飲んでいるが、午前中はトイレへ行く回数が増え煩わしい。ゴルフの場合には用足し後に出発しても40〜50分後、クラブハウスに到着するや否やトイレに駆け込むはめになる。
                           
   しかし大量の水分の摂取効果として便通が大変爽やかになり、大腸癌だけは心配しなくなった。人間の消化器官は口から肛門まで1本のパイプラインで構成されており、口から水鉄砲のように水圧を掛ければ紅茶が体内を貫流して清掃は完了。3g以上の紅茶を一度に飲むと肛門からそのまま過剰分が出てくることも解った。お負けに大量の水分は血液を浄化して老廃物も尿へと排出してくれる。           
  
   その後、幸いなことに痛風が6年間も再発していないので、今では治ったも同然とすっかり安心してはいるものの、摂取量が1/6になったとはいえ薬は旅行中でも手放せない。

[2]入国準備

   イスタンブールの小さな古い雑居ビルの中にパキスタンの大使館はあった。手続きは簡単に済ませることができた。ビザの取得を自分でしたのは初めての体験である。東京にもしも住んでいる場合ならば、高い手数料を払って旅行社にビザの取得を代行して貰う価値は全くないと思った。

   当社のパキスタン・プロジェクトの歴史については出張の2年も前に調べさせられたことがあったので、今回の出張の立場は十分に分かっていた。パートナ候補の『ハビブ』も推進役の豊田通商も、共に私の調査が果たす影響の大きさは十分に認識している様子だった。                       

   私の使命は出来るだけ沢山の部品工場(計20社)等の技術や経営水準を評価すると共に、訪問先の工場の実態をビデオに撮り、関係者に鮮度の高い1次情報を提供することにあった。酷暑にも拘らず、早朝からのハードスケジュールが待ち伏せていた。豊田通商の東京勤務の担当者とはカラーチで落ち合うことになった。

[3]日本からは不便な国

   パキスタン航空は流石にイスラムの国だけあって、機内食には豚肉を使っていないとのコメントがメニューにわざわざ書いてあった。乗客の希望を重視するのか、機内食はワゴンに積まれた個々の料理の中から選ぶバイキング形式になっていた。                                  

   生まれて初めて見たパキスタン料理には、中華や日本料理のような見た目に美しい色どりの工夫は感じなかった。食材が何であるのか見分けも付かなかったが、ロンドンで食べたイラン料理やインド料理に外観が何故か大変似ていた。その時、両国はパキスタンの隣国である事を思い出した。ベトナム料理がその隣国である中国やタイの料理に似ていたのと同じ関係なのだろうか?。

   ここに千慮の一失を起こした。海外では食材不明のものは食べない方針だったのに!。機内食は加熱調理してあるから大丈夫。千載一遇のチャンスだから珍しい食べ物には積極的にチャレンジしようとの野次馬根性の結果、激しい下痢に襲われてしまった。

   イスタンブールからカラーチに着いたのは真夜中である。国際線の時刻表は日本や欧州からの発着には好都合にできていることに気が付いた。南回りでトルコに出掛けたときには、シンガポールでの給油が深夜になっていた。しかし、真夜中でもほんの僅かな数だけ開いていた商売熱心な免税店で、水牛の角の置物を記念に買うことが出来た。
                            
   新幹線以前の東海道や山陽本線の特急寝台夜行列車の時刻表の設定は正にその国内版である。東京と博多を夫々夕方に出発すれば、出張者にとっては翌朝便利な時刻に到着できるようなダイアが設定してあるため、名古屋〜大阪〜広島間の発着時刻は深夜になっていた。

   入国手続きのために、外国人の長い行列の後に並んでいた時のことである。雲付くような大男(2mを越えていた。しかし後で解ったがこの方は、パキスタンでも特別な大男で、販売店のオーナ且つ税関にも顔が利く人であった)がつかつかと近付いて来た。直ちに私からパスポートを受取り、行列の先頭まで連れて行き真っ先に入国手続きをさせてくれた。
                     
   真面目に並んでいる人達に、深夜なので一層申し訳ない思いがしたが、誰一人咎め立てをする素振りも示さなかったのでほっとした。『パキスタン人は背が高い』とのJTBのガイドブックの内容を、早速確認したようなものだった。

   『会ったこともない私を、どうして見付けることができたのだ?』と尋ねると『日本人はネクタイピンを外から見えるようにして使っている』との答だった。帰国後、真偽を確かめたら99%以上の確率で正しかった。今まで全く考えた事もなかった判定法である。それ以来私は残り1%の国際的な日本人に入るべく、ネクタイピンをネクタイの内側に隠す癖が付いてしまった。  
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パキスタンの点描

[1]暑い国

   夏のカラーチの暑さには格別のものがあった。年間降雨量は 150mm程度なのに湿度は 100%、温度が40度C以上もある上に風もない。3月のバンコックの暑さにも最初は驚いたが、カラーチの暑さはバンコック以上である。アジアでは海岸線に沿って西へ行くほど暑さが増すような気がする。『ネクタイ+背広』の正装は地獄の苦しみである。現地の男子の正装はダブダブの無地の木綿製でコートのように長いワンピースと、同じくダブダブの同色のパンタロンのセットである。気象条件にぴったり合った合理的な服だ。                     

   アラブのベドウィンが酷暑の砂漠では、風通しに優れたダブダブの服で全身を覆っているのを思い出した。ベトナムの女性の正装であるアオザイとパンタロンのセットにも大変似ているが、アオザイの場合は高級品は絹製でしかも体にぴったり合わせる習慣のためか、既製服としては売られていない。美学が違うようだ。

[2]関係者の歓待

   豊田通商のカラーチ駐在所長の自宅に招かれた。男の門番がいた。大きな豪邸には相応しくない、振動も騒音もけたたましい室内外機一体型のルーム・クーラーが窓に嵌め込まれていた。床は大理石で足に冷んやりと心地好い感触だった。パキスタンはイスラム教徒が96%以上もいる原則禁酒の国である。入国の際にお酒の半分はワイロとして巻き上げられるそうだ。             
    
   幾ら免税店で安く酒を買っても、結果的には日本の国内価格並になってしまう。しかも手持ち運搬であるため、持ち込み量には自ずから体力面での制限が付く。そんな話を聞いた直後だったので、『冷たいビールを幾らでもどうぞ』と出されても、通風発作の直後でもあり気安くは飲み難かった。

   いくら暑い国と言っても夜の海上は微風も吹き比較的涼しい。ハビブの好意で夜、マストの高さが10m以上もある帆掛け船で蟹釣りに出掛けた。アラビア海に面した湾である。遠くの方から夕闇の中にコーランを歌う声が聞こえてくる。日本の坊さんも中高年になると、長い間の読経の訓練の成果が喉に現れるのか声が良くなるが、年配者ののんびりと響くコーランの声は意味が判らなくとも耳には何故か心地好い。音楽のようだ。コーランの喉自慢大会もあるそうだ。

   この季節では有名になっている観光蟹釣りを2時間以上も頑張ったが、残念ながら1匹も釣れなかった。その事を見越していたのか、船には予め蟹やその他の食材が積み込まれていた。カラーチの蟹は北洋の蟹程大きくはなく食べるのが面倒臭かったが、焼きたての蟹で満腹した船上での楽しい晩餐であった。

   インダスの河口はカラーチからは遠く離れているが、土漠を貫流する間に粘土を溶かし込んだ水が掃き出されているのか、カラーチの海岸の遥か沖の海水まで濁っている。生活排水の濁りとは違っていた。

[3]カラーチのあちこち
       
   カラーチは第2次世界大戦後に人口が急増( 510万人)したパキスタン第1の大商業都市ではあるが、都市としての歴史が浅い上に、インダス文明などのめぼしい遺跡は少ないため観光資源にも風格にも乏しい。大きな美しい近代的なビルは殆どない。                            

   世界には首都と最大都市とを棲み分けている国も多い。都市機能を分離するのは経済力の集中による過密公害を防ぎ合理的だ。思い付くだけでも、アメリカ(ニューヨーク、ワシントン)トルコ(イスタンブール、アンカラ)ブラジル(サンパウロ、ブラジリア)オーストラリア(シドニー、キャンベラ)ベトナム(ホー・チー・ミン、ハノイ)インド(カルカッタ、デリー)旧西ドイツ(ベルリン、ボン)ニュージーランド(オークランド、ウェリントン)中国(上海、北京)カナダ(トロント、オタワ)スイス(チューリッヒ、ベルン)等がある。 
      
   パキスタンの首都はイスラマバードである。イスラム圏には『**バード』と言う都市が多いが、バードは鳥ではなく『abad』が語源でその意味は『モスレムが住む土地』である。従って、日本語のイスラマバードはイスラム・アバードの方がベターと思う。

   1.パキスタン国立博物館

   インダス文明のルーツ、モヘンジョダロ(4200〜4500年前)の遺跡から発掘された、『高さ約10cmの男の上半身像』に出会ったときの驚きは今も鮮明に蘇る。大英博物館やルーブル美術館(有名な絵画・彫刻などの美術品だけではなく、ここにもミイラや中近東の古代文明の発掘物が多数展示されている)、アテネやアンカラの考古学博物館に溢れるほど展示してある、端正な顔立ちの彫刻品とは全く異質の印象を受けた。                            

   ほのぼのとした幸せが満面に溢れていた。人相は今のパキスタン人のような彫りの深い顔ではなく全く別の人種のようだ。先住民であるドラヴィダ人か?。現在のパキスタン人はインダス文明の先住民を征服したアーリア人の後裔である。この博物館の他の展示品はすっかり忘れてしまったが、この展示品だけは何故か脳裏に刻み込まれた。

   2.都心の雑踏

   過去4000年に発明された全ての交通手段が未だに競争関係にあった。人力車・自動車・荷車・自転車・二輪車と歩行者がひしめき合っている。都心では自動車の速度は一番遅い交通手段と同じだ。荷車を追い抜くのは大変難しい。交通ルールを無視した早い者勝ちの世界だ。『衣食足りて礼節を知る』は永遠の真理だ。
  
   小型トラック販売の競争相手は馬車なので価格競争力はないに等しい。ラクダが引いている『馬車』も多い。ラクダの方が馬よりは暑さに強いだけではなく、体も大きくて力も強そうに感じる。大型トラックの車体は全面イスラム様式(幾何学的な図案)の色彩鮮やかな模様で覆われている。ファションだそうだ。持ち主の誇らしげな気持ちが伝わってくる。家畜が多いせいか、何故なのか蠅が多い。

   3.チョウカンディ

   カラーチの中心から当社の工場(当時は候補地)に向かって幹線道路を27Km来たところの左側に、3000個とも言われる大墓石群が忽然と現れた。全てレンガ造りの思い思いの形をした墓石(後で調べたら、レンガではなくて、石だった)である。家のようなもの、日本のような積み上げ式の墓石など構造も様々である。大きさも10坪〜1坪など色々。周辺には誰も住んでいない。土漠のど真ん中にある。墓地には墓参りにきている人も見掛けず、切り花が飾られている痕跡もない。
                               
   レンガの破損状況から推定するに、大変新しく感じる。今は誰かが維持管理しているようにも感じられない。観光客をほんの10人くらい見掛けただけである。現代の金持ちは大理石、貧乏人は普通の石で出来た石板を墓に立てるだけだそうだが、最新墓地を確認するチャンスは残念ながらなかった。

   4.シェラトン 

   カラーチの蠅の多さには驚く。最高級ホテルのシェラトンの食堂にすら蠅が飛び回っている。しかしシェラトンは腐っても鯛。欧米のシェラトンのレベルほどではなかったが、朝食は欧米人向きのバイキング形式。パキスタン料理に馴染めない人にはオアシスに来たように感じる。

   朝ホテルを出るときには、フルサイズのVHSカメラとαー7000のカメラを重たそうに両肩からたすき掛けにした上、両手に鞄などを持っていたので、シェラトンの中のお土産物屋の人達にはすぐに顔を覚えられた。夕食後ふらふらとウインド・ショッピングの積もりで店の前を歩いていると、呼び止められ話し込まれる。

   そうこうするうちに巧みにお土産を売り込まれる結果とはなる。世界各地からの来客相手に商談技術の腕を磨いている様子が伝わってくる。しかし、客を騙してまで売り付けている訳ではない。商品の魅力や価値の説明力の迫力に驚きながらも、しばしの会話を楽しんだ。

   5.路端修理屋

   カラーチから郊外へと伸びる幹線道路の両側に、自動車の修理サービス屋が続く一角があった。ありとあらゆる種類の中古部品が貴重品扱いで大切に保管展示されている。車を修理する土間は廃油が染み込んで真っ黒になっている。こんなに汚い修理屋は見たことがなかった。修理屋といっても間口は車がせいぜい2台入る広さ。パキスタンでは路端修理屋と言うそうだ。               

   ここのハイレベルの修理能力に裏付けされた労働の対価も、この国の国力が示す賃金の相場の制約からは抜け出せない。日本人であることの幸せは外国で初めて実感することができる一方、人件費が主因である日本のサービス物価の高さには腹が立つ。

   6.土漠

   市街地を離れると幹線道路の両側は土漠の荒れ地だった。雨量が少なくてもゴルフ場のバンカーのような砂一面の美しい砂漠にはなっていない。インダス河の沖積平野であるためか、海岸近くの土は微粒になっており毛細管現象にも支えられているのか、若干の保水力もあるようだ。                  

   見渡す限り灌木がパラパラと生えている。その間にしぶとい雑草が茂っている。粘土質の土は堅く、灌漑設備抜きには農業は成り立ちそうにもない。こんな土漠の一角に広大な工業団地が開発されていた。当社の候補地もその一角にあった。

   7.難民

   幹線道路に沿った土漠の中に難民らしき人達の住居があった。2×2mくらいの面積で四隅に柱を立て、枯れ草で編んだ筵で周囲を覆っているだけの物であった。雨は降らないも同然なので屋根は張られていない。暑い所なのでこんな家でも役に立つらしい。                           
  
   ぼろを着た薄汚れた人が住んでいた。アフガニスタンからの難民ではないかと思った。アジアでもアフリカの難民に近い生活レベルの人達がいることに心を痛めながらも、非力な一個人には救済手段は全くない。

   8.ゴルフ場

   郊外で灌木の密度が高い一角にあるゴルフ場に連れて行って貰った。9ホールだったので、ティーグランドの位置を代えて2度回るようになっていた。ここの木は棘が多く葉の表面積が小さい。芝生が植えてあるのはグリーンとフェアウェイのほんの一部であった。それもやっと芝生らしき物があると言う程度だった。芝刈りがしてあるのはグリーンだけだった。                   

   キャディは大の男だった。プレイ中、『しまった、OB!』と思ってもキャデイが先回りして球を探しだし、私が辿り着いたときには、球は打ちやすい位置に置き換えてあった。『ラッキー。セーフだった!』と言う。チップを上げざるを得ない。                   

   パキスタンではゴルフ場だけではなく、工場でも女性従業員は1%未満。事務所のお茶汲みですら男だ。パキスタンのゴルフ場はどんな雰囲気かを知る事に強い関心があった。しかし、連れてきて頂きながら実態が解ってしまうと、2度とプレイをしたいとは思わなくなってしまった。日本ではゴルフ代が高いがそれだけの快適さはあると思う。生活環境の悪さに起因する、単身赴任の駐在員の辛さは気の毒に過ぎる。

   ゴルフの最中にとうとう下痢の我慢ができなくなってしまった。不用意な事に散り紙を忘れていた。同行者の誰にも用意がない。万事休す。意を決して灌木の林の中に入り込んだ。ここでは面積の広い葉を持つ雑草も木も生えていなかったので、最悪の場合には砂を使う覚悟だったが、あちこちに乾燥した使用済みの紙切れが落ちていた。助かった!。同類項がいたらしく沢山のそれらしき痕跡があった。

   9.古代遺跡

   モヘンジョダロに行く時間はもともとなかったので、その代わりにと希望して古代遺跡の片鱗を尋ねた。郊外の海岸が見える地点に詳細不明の古代の城跡があった。石とレンガで造られた砦や住居の跡があったが殆ど形を留めていなかった。海からの外敵を防ぐ効果があったのか疑わしいほどに荒れ果てていた。周囲には人が住んでいる形跡もない。見栄えがしないためか観光客は見掛けなかった。砦に登って眼下に広がるアラビア海を眺めながら、遥かなる古(いにしえ)の人々の苦労を思いやった。

   ここの海は遠浅のためか塩田が開けていた。あちこちに生産途中の塩の山があった。雨が少ないから塩造りは簡単だ。

[4]ラホールのあちこち

   ムガール帝国の初期の首都ラホールはこれがカラーチと同じパキスタンかと思うほどに立派な大都市であった。『ラホールはラホール』と言うそうだ。他の町と同列に扱われるのを極端に嫌った言葉だが、住民がそう言うのもなるほどと初めての外国人にも納得できた。道路には巨木が茂り、今なお使われている運河には水が満々と溢れるように流れている。雨量は少なくても大木になると地下水が吸えるのか土漠の国とは思えない緑に囲まれた美しさだ。 
             
   日本の都心の並木は電線の邪魔になると称して背丈も低く剪定されているが、電線こそ地中化し、木は伸び伸びと成長させてくれたらと思う。インダス文明ですら下水道を完備していたのに、現在の日本は付加価値を生まない物への投資をけちり過ぎ、何と住み難い国であることか!。                    
 
  石やレンガ造りの美しい巨大な建築物をスリさんにお願いして見に行った。北部にあるラホールの夜は涼しく快適だった。市民も夜は公園などに大勢涼みがてら繰り出していた。

1. バードシャーヒー・モスク 
                   
   昼間は工場の調査に追われていたので、真っ暗闇での見学になった。電力不足なのか、照明設備は極端に少ない。世界一美しいモスクとも言われている左右対称形の建物である。赤い砂岩の建物の上に白い葱坊主のような大理石張りのドームを3つ載せた姿を遠くから眺めるとうっとりとしてくる。トルコ系のドームは半円球だが、パキスタン系のドームは都市ガスのタンクのような球に近い。     

   インドのタージ・マハールやモスクワのクレムリンのドームに似ている。四隅には高さ46mのタワーがあり、高い塀にも囲まれたレンガ張りの 130×160mもある境内には10万人も入れると言う。ドームの中でも5,000人は軽く入れる大きさである。東大寺や東西の本願寺が急に小さく思えてきた。

2.シャーリマール庭園

   37haもある人工の庭園。ヴェルサイユ宮殿の庭園のように直線で区切られた構成になっている。貴重な水が惜しげもなく使われている噴水のある大きな長方形の池があった。砂漠の国の最大の贅沢は水の浪費である。公園の中の植え込みも幾何学模様の配置にデザインされており、ここがパキスタンである事をうっかり忘れ兼ねない。公園内の植木列の中にレモンがあったのが不思議だった。

3.ラホール博物館

   閉館直後に辿り着き『日本からはるばる来たんだ』と強調しながらの交渉でやっと手にした貴重な5分間であった。ガンダーラ仏教美術彫刻の真髄と言われる『断食する仏陀…Fasting Buddha』と対面したいと言ったら、職員が消灯後の暗闇の中を案内してくれた。 
                            
   仏教の布教手段としてギリシア彫刻の手法を導入した、ガンダーラの彫刻家の着眼点の秀逸さに息を呑む。骨皮筋衛門になりながらも一心に信仰に生きる僧の壮絶な姿が迫真のリアリズムで迫ってくる。いかな無神論者もしばしの間、声も出せないのではないか?。ガンダーラ彫刻が現れるまで仏教界には、文盲に仏像を使って布教すると言う着想がなかった。
                     
[5]パキスタン人

   ポルトガルから東へ来るに連れて徐々に人相が変わって行く。ギリシアからトルコに来ると色が少しだけ黒くなる。トルコから西になると褐色が深まる。パキスタン人はアラブ人にもインド人にも見えてくる。中にはヨーロッパ人そっくりな人もいる。
   
   顔の彫りが深く、男は髭を蓄え、背は高くなかなかに魅力的なスタイルだ。日本人は男女とも見栄えではとても太刀打ちできない。特に子供の美しさは格別だ。それに引き替え、老人は生活苦が累積したのか異様なほどに、みすぼらしく感じるのはどうしてなのか?
   
   こんな見栄えのする大男の殆どが酒を飲まない。イスラムの戒律を真面目に守っている純朴さにも心を打たれる。『お酒を飲めば気分がよくなるぞ』と言って勧めても『頭痛が起きる』と言って飲まない人が多かった。
   
   あるとき田舎の工場を見学したら昼になった。工場でパキスタン料理の御馳走を振る舞われた。そのときだけは社長である誇り高き頑固爺さんに、パキスタン方式を強要された。土間に車座になって座り込んだ。その上、全て指を使って食べさせられた。
   
   大きなサイズに切られた豪快な羊料理は、手にとって食べる方が実に食べやすいことに気付いた。日本人だってエビ・蟹や寿司を食べる時は同じやり方だ。無理にナイフとフォークの世界に閉じ籠る必要はない。
   
   翌日は、ハビブさんが私たちの労を汲んでか昼食をホテルで御馳走してくれた。日本人にはパキスタン料理が合わない事を知っているらしく、西洋料理のバイキングだった。生き返った心地がした。                   

[6]結婚観 

   パキスタンでは処女の価値は未だに大変高い。若い男女がホテルに泊まるときには結婚証明書をフロントに提示しなければならない。婚約中と雖も外泊は出来ない。

   結婚以前に外泊した事が女性の父親にばれた場合には、女性の父親はその男を鉄砲で撃ち殺すことが出来るそうだ。この習慣はイスタンブールからの機中で隣り合わせたパキスタンの紳士から聞いた。ハビブのスリさんに確認したら『本当だ』と答えた。                            

[7]絨毯

   シルクロードの国々には例外なく郷土色溢れる手織りの絨毯がある。どの国でも外国人観光客向けの御土産品としては人気抜群だ。未だ機械織りには成功していないので価格破壊も起きていない。貨幣価値が不安定なシルクロードの住民には換金対象としても人気が高い。

   それだけに一般の商品に比べると国民全体が商品情報を熟知しているためか店ごとの価格差も小さい。その結果、競争が厳しくなるのか価格交渉における商人の執念には根負けしてしまう。

   パキスタンの絨毯はトルコやイラン(ペルシア)の絨毯に比べると糸が太い。その結果単価が安くなる事も手伝ってか、売れ筋のサイズはやや大きくなり、1〜2u。それでも中国の分厚い段通と較べれば薄いため、畳めば小さくなり運びやすく御土産には最適。

   絹糸と毛糸を模様の部位に合わせて使い分ける。糸の状態では混紡されてはいない。材質の違いで光の反射率が異なるので、絨毯に光を当てるとデザインが一層立体的に引き立つ。

   色彩感覚も国によって異なる。パキスタンの場合は茶色と鼠色が中心だ。まるで土漠の保護色のように感じる。

[8]イスラム帝国の末裔

   イスラムの歴史の中で帝国と呼ばれたものは4つある。アラブ&ペルシアを支配したバグダードのサラセン帝国、サマルカンド(現在のウズベキスタン)での栄華を誇った西〜中央アジアのチィムール帝国、イスタンブールを中心に栄えたアラブ&トルコのオスマントルコ帝国、及びアフガニスタン・パキスタンからインドまでも支配した南アジアのムガール帝国である。 
              
   パキスタンには今なお大帝国の伝統を引き継ぐプライドからか、建国後に建てた国家的な建築物は貧弱な経済力とは無関係なほどに壮大だ。

[9]美しい北部

   カシミール地方は北にカラコルムの大山脈が雪を抱き、雪解け水が渓谷を流れる。この立体美の写真を見ると、スイスアルプスを上回る美しさ。工場がないため空気が特に澄んでいる。今は危険地帯なので立ち寄れないが、いずれ貴重な観光資源になると確信している。
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パキスタン・プロジェクト

[1]工場調査

   ハビブは今回のF/Sには大変な意気込みで臨んだようだ。調査期間が短いので、時には『5社/日』くらいの密度になってしまった。同行してくれたのはマンチェスター大学出身のスリさんだった。スリさんは夜しか時間の取れなかった観光案内にも一所懸命に付き合ってくれた。

   どこの工場に行っても女性は殆どいない。事務所でのお茶出しは大の男である。『女性は家に』とのイスラムの伝統が強いと言うよりも一家を養う男ですら仕事が少ないのだ。先方が挨拶として『お茶は如何?』と言うから、暑くて喉も乾くので『頂きます』と答えると20分後にお茶が出てくることが分かった。

   パキスタンでは紅茶は20分近くも煮沸させるのだそうだ。大変濃いお茶になるが、私にはその間の待ち時間が惜しい。親切さがあり難迷惑に感じる例だ。
                                   
   工場見学に先立つ会社概況の説明にも時間を予想外に取られることに気付いた。それも彼等の当社への期待の強さから出ていることが、解り過ぎる程解るので対応に苦慮した結果は、会うや否や『最初に工場見学、その後で質疑等に入りたい』と提案したら、どの会社でもパッと賛成してくれた。『私もエンジニアだ。質疑は工場見学の後の方が合理的だ』と言って快く対応してくれる社長すらいた。
            
   文字通り『案ずるよりは産むが易し』と感じた。ビデオを撮らせてくれと頼んだ場合でも『トヨタに隠すほどの技術等ありはしない。それでも価値があるのであればどうぞ』との回答。ハビブの根回しが良いだけではなく、パキスタンの知識人は大変物分かりがよいことをその後もひしひしと感じた。
          
   異文明との衝突など全く感じなかった。私の出会った大部分の人が西欧教育を受けていたから、とばかりには思えなかった。それまでに出会ったトルコやインドネシアのモスレムの人には『中華思想』を一度も感じたことがなかった。極めて謙虚な方々である。

   インドとパキスタンとの工業技術の比較を聞いたときのことである。パキスタンの工業は第2次世界大戦後にスタートしたからインドよりは遅れている。しかし、生活水準はパキスタンが上だと自慢した。

   『どうして解る?』と聞くと『インドに行って見ろ。橋の欄干の上にまでスリーピングピープルがいる。パキスタンでは見たことがないだろう!』と答えた。パキスタン人にはインドに対してだけは、特別の感情があるようだ。

   パキスタンの工場には流石の日本製の設備もほとんど見掛けなかった。東南アジアとは大きな違いである。距離の壁は意外に大きい。また工場建設時に必ずしも新品の設備には拘らない所がある。人件費とのバランスを考えるのか、欧州の中古機械の人気も高い。         

   工場の建物は鉄筋コンクリートばかりである。日本では鉄骨が常識であるが、発展途上国では例外なく鉄筋コンクリートの建物だ。鉄が高いからである。大きな鋳物工場で筋骨逞しい男が真っ黒になって真面目に働いていたが、日給は 300円と聞いて返す言葉も思い付かなかった。工場の給食は薄い円形のパンにカレー汁を付けて食べるだけ。それでもあんな立派な肉体が維持できるのだから不思議だ。

   ラホールにあったワイヤーハーネスの組み付け工場を訪問した時ほど驚いたことはない。工場内は余程暑いのか、屋外の大木の下で車座になって仕事をしていた。中学生位の年齢の子供も働いている。おまけに蠅が翔び回っている。ビデオの撮影と並行してナレーションを無我夢中になって喋っていたら、蠅が口の中に突然飛び込んできた。

[2]無資源国

   残念なことにはパキスタンにはこれといっためぼしい天然資源がない。乾燥地帯であるため綿花が取れるくらいだ。工場見学のとき『設備や原材料の内、国産品はどれか?』と聞くと『ワーカーは 100%国産品だ』と答えた。  
                                             
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おわりに

   ほんの1週間足らずの訪問国であったが、一度尋ねた国への関心は何時までも続くらしい。今でも新聞・雑誌やテレビでパキスタンのニュースに出会う度に当時を思い出しながら、情報を一所懸命に吸収している自分にハッとする。
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