社会人になった頃からの私にとって、読書とは著者との知的闘い、若しくは知的交流と考えるようになった。良書に巡り合えると、優れた人物との出会いに似た喜びを感じるからである。
読書をしている間は、貴重な人生の時間の一部を著者との交流に使っていることになる。逆にミリオンセラーの著書ともなれば、読者が使った時間の合計は、優に一人の人生をも上回るほどになる。それ故に、中身のないミリオンセラー書の執筆は、人殺し以上の犯罪に思えてならない。
私には、その書物と付き合うか否かを判断するために、前書き・目次・後書きを、読むのが永年の習慣になっている。前書きには著者がその書を書くに至った動機や苦労が、目次には内容を表わすキーワードが、後書きには本文で述べたかったことに関する、違った視点からの要旨と、本文を読んでくれた読者への感謝の気持ちが、何らかの形で書かれているのが普通だからだ。
前書きや後書きは書物の飾りでは決してない。それどころか、本文を超えるほどの価値が書き込められていると、私には感じられる。そこには著者から読者へ託された簡潔で大切なメッセージが迸っているからだ。それ故に、それらは本文と三位一体となって、読者に語り掛けている書物の重要な構成要素だ。
私は短い旅行記を今までに26編、概算延べ百万字くらい書いたが、何時も最も努力を払っていたのは、『全体の要旨・はじめに・おわりに』の部分だ。この3点は、書物の場合と同様、本文全体以上の価値があると信じているからだ。
本書の後書きと本文との関係は大変希薄になっている。本文で読み取ったと私が感じた内容と、後書きに書かれた著者からのメッセージとが一致したとき、私はその本を読んで本当に良かったと、密かに著者に感謝する癖が付いている。 |