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旅行記
           
アジア
中央アジア5ヶ国(平成18年7月18日脱稿)

   ユーラシア大陸のど真ん中に横たわる広大なトルキスタン地域(トルコ系民族が主として住んでいる地域の意)では有史以来、先住民として自らも大帝国(パルティア帝国・大月氏国・カラハーン朝・ホレズム帝国・モンゴル帝国・ティムール帝国・ムガール帝国・ブハラ国・ヒヴァ国・コーカンド国など)を樹立していたが周辺列強との抗争が絶えず、各国とも長続きはしなかった。

   欧(マケドニアのアレキサンダー、近代の英国)東(中国の唐他)西(アケメネス朝ペルシア、ササン朝ペルシア、アラブのアッバース朝)南(インドのクシャン朝)北(ロシア)などによる争奪戦の後、天山山脈で分断されている東トルキスタンは中国に、西トルキスタンはソ連に遂に併合された。  

   しかし、誰もが予期していなかったソ連の崩壊と共に西トルキスタンから5ヶ国もの独立国が一気に誕生。ソ連時代には外国人には強く閉ざされていた世界だったが、今や観光客にも大きく門戸を開き始めた。多重がんを患ったとはいえ、生きていて良かった、よかった! 玄奘三蔵(三蔵とは経“釈迦の教え”、律“生活規範”、論“経と律の解釈”に精通している僧侶の意)ならずとも、私でも足を踏み入れることが出来たのだ。
   
   トルキスタンとは、東・西・南文明の交流と交易の場として、近年そのネーミングの冴えから一躍有名になったシルクロード中枢部の古称でもある。シルクロードと言う言葉はこの地域の歴史的な意義を象徴的に表せる言葉として、19世紀にドイツの地理学者リヒトホーフェンがその著書『シナ China』(第1巻、1877年)の中で使い始めたザイデンシュトラーセン(Seidenstrassen・ドイツ語・絹の道の意)に由来している。
   
   各地の大型バザールには各地域産の生鮮食料品を初め、世界各国からの日用品が溢れ、人種・民族・宗教・外国人観光客間に何らの壁も感じさせること無く、かつてのシルクロードの自由な活気を取り戻していた。
   
   事前勉強では気づかなかったが、中央アジアと地中海周辺地域の大型建築の構造部材には大きな違いがあった。後者が石材中心だったのに対し、前者はことごとくレンガ(焼成か日干し)だったのだ。シルクロードを通じて世界の情報が溢れていたはずなのに、取り分け大木の少ない乾燥地帯のシルクロードの各都市に何故石造文化が導入されなかったのか、私には今なお解けない謎だ。岩山がなくとも地面を掘れば、地球上どこででも石は採れたのに!

   日干し煉瓦の建築遺産は乾燥地帯と雖も経年と共に土に戻り、今や見る影もない。『夏草や、兵どもが夢の跡』のトルキスタン版だ。しかし、焼成煉瓦建築には石ほどの耐久性はなくとも加工性に富む長所を活かした自由奔放なデザインと、建物の内・外に溢れるカラータイルを駆使した色彩美に溢れ、その華麗さは単色だけの石造の比ではなかった。
   
   乾燥地帯特有の透明な青空に一際映え輝くばかりに美しい建物は、エジプトやローマ帝国の遺産で仰ぎ見た威圧感丸出しの巨大石造建築物からは決して得られなかった『癒し効果』に満ち溢れていた。
   
   地平線まで続く緑の大草原でのどかに草を食む羊の群れや、雪を抱く天山山脈のくっきりとした山並みに目線を走らせると、多重がんでともすれば落ち込みがちだった我が心も日増しに洗われ、今回ほど晴れやかな心境へと誘い込まれていく喜びを感じた旅は、未だかつてなかった。



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はじめに

   平成11年5月14日〜18日にゴルフ仲間とインドに出かけ、ムガール帝国の大いなる世界遺産『タージ・マハール』を見た時、息を呑むほどの感動を覚えた。白亜の大理石からなる巨大なモスク風の霊廟だった。観光インドでの人気度は、日本人には今なおダントツのナンバーワンだ。

   その時以来、我が頭の片隅には世界史に名高いティムール帝国の栄華の都、サマルカンドのレギスタン広場で向かい合って聳え立つ、紺碧のタイルに輝く3つのメドレセ(神学校)をいつの日かに訪ねたいとの願いは、徐々に高まって来ていた。大理石とタイルの美しさの比較からだけではなく、似ていて非なる建物の形状美にも関心を引き付けられていた。

   昨年(平成17年)ウズベキスタンへのパック旅行を計画している2社を発見。最初に催行決定連絡があった旅行社に申し込むとの条件を添えて同時に申し込んだ。当時、政情不安が報道されていたからでもある。

   結局、小さな内乱が発生し、両社共に催行中止となりがっかりしていた。その後、政治情勢も落ち着いてきたので、再度パック旅行の情報収集を開始。

   今までしばしば利用していたJTBや近畿日本ツーリスト、阪急交通社などには手ごろな中央アジアコースは見つからなかった。インターネットで探していたら、社名もユーラシア大陸に由来するユーラシア社の『中央アジア5ヶ国大周遊・17日間・相部屋OK・成田発着関空経由』を発見。大手とは競合しない特殊コースに活路を発見している旅行社のようだ。
   
   1月だと安い(308,000円)が寒い上に日も短いので、5万円も高くなるが5月のベストシーズンを選んだ。余命が短くなると、量よりも質に選択の軸足が移動し始めたのだ。アクセスが不便(自宅⇒トヨタ自動車元町工場の従業員用駐車場⇒高速バス⇒近鉄名古屋駅⇒南海難波駅⇒関空)とはいえ、国内線(中部⇒成田)の確保に不安が絶えない成田発は見送り、関空23:30発を申し込んだ。
   
   蛇足。
   
   今回の旅程では各国に入国したり出国したりを繰り返したので、本旅行記の各国編では旅全体の時系列的な記述にはせず、国ごとの時系列に纏めて書いた。例えば4回も入国したウズヘキスタンの記述で日付が飛ぶのは、その間他の国へ出かけていたからである。
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トピックス

   順不同だが、今回の旅で私に関心のあった項目について触れる。5ヶ国をメモも取らずに旅行すると、どこの国だったか忘れてしまった話題も多いが・・・。

[1]準備

    @ 事前勉強

   今回も豊田市中央図書館に出かけて本を借りた。『シルクロード』をキーワードにして蔵書を検索すると何と数百冊ものリストが現れた。それらの中から読みたい本を選ぶのは大変なので、直近の発行に絞った。本の価格は何故か総て税別表示。@のような古い本の定価は半端な価格だ。BのNHK出版の本は何故か定価が書かれていない。大著なので数千円?

A. ロシア・北/東ヨーロッパ 独&英の会社編 同朋舎出版 1992-12-12  4,854円
B. シルクロードの未知国 緒方修 芙蓉書房        1994-4-30   1,800円
C. シルクロード NHK取材班 NHK出版       1997-6-20  ???? 円
D. ロシア・北ユーラシア 田辺裕監修            1998-5-10 7,600円
E. 遙かなり流砂の大陸 秋吉茂 河出書房新社 1999-4-23 1,800円
F. シルクロード 前原利行 旅行人  1999-5-22  1,800円
G. ウズベキスタン 関治晃 東方出版  2000-10-5 3,000円
H. 六つの国境を越えて 吉野賢二 文芸社  2001-2-15 1,400円
I. イスラムの誘惑 江国香織 新潮社  2001-4-25  1,800円
J. シルクロード 吉村貴 青春出版  2001-11-15 667円
K. 天山の小さな国 三井勝雄 東洋書店  2004-2-20 600円
L. シルクロードと中央アジアの国々 編集室 ダイヤモンド社 2005-2-11 1,880円

A 初めて申し込んだユーラシア旅行社

   ここ数年の傾向として、出発直前になると各旅行社とも最終的な出欠の確認を兼ねて、安全問題や気象条件など最新情報の提供や質疑の電話を、添乗員に掛けさせるようになってきた。
   
   昨年(2005)夏のシリア・ヨルダン・レバノン・カタール旅行は関空出発の深夜便だった。約束の時間にカウンターに到着したのに、添乗員が未だ来ていないとの口実で、受付業務の代行業者は搭乗券を渡せないと主張した。『馬鹿なことを言うな、私には何の落ち度もない。ラウンジに行きたいのだ』と言って強引に切符を取り上げた。
   
   その時の体験の改善策として、今回の添乗員からの電話に対しては、『関空での集合時間は21:30と指定されている。その時間には既にゴールドカードのラウンジは閉まっている。20:00に受付に到着し搭乗券を受け取りたいから、団体受付カウンターの代行業者に準備して置くように伝えてください』と主張。
   
『そんなことは出来ないと思います』
『貴女の主観に基づいた業者の対応の推定結果を聞いているのではない。5月3日の出発日はゴールデンウィークの真っ最中だ。観光ツアーは目白押しのはずだ。代行業者は一日中カウンターにいるはずだ。

派遣社員の貴女に、ユーラシア社の担当者を通じて代行業者に私の希望を連絡させ、代行業者の回答を私宛連絡するようにと指示しているのだ。旅行参加者の正当な要望に即座に対応するのが、サービス業の仕事の本質だ』と叱責!

『ご希望に添えるのかどうかは解りませんが、明日までに結果をご連絡します』
『受付で用意しているそうです』との連絡が翌日にあった。
『サービス業なら、当たり前のことだ』と一言蛇足。
   
   私が質問した時にいかなる場合でも最も嫌いな回答は『・・・と思います』である。知らないならば知らないと答えれば済むのに、『思います』で回答した気になっているから不愉快なのだ。これらは『1+1は?』の質問に対して『3と思います』と回答しているのと何ら異ならない。

    B 費用

A. 旅費・・・・・・358,000円
B. ビザ・・・・・・・5,500円
C. 手数料・・・・・・5,775円
D. 早割り・・・・ −10,000円
E. 現地払い経費・ 約100ドル
F. 国内旅費・・・約10,000円
G. 出国時の酒・・・・4,000円
H. 小遣い・・・・約30,000円

総計・・・・ 約414,000円

    C 関西空港

関空の団体受付カウンターには予定通り20時に着いた。

『搭乗券は現在、ウズベキスタン航空が一括して発行の準備中です。しかし、その代わりになる帰途の航空券をお渡しします。これをゴールドカードのラウンジで提示されれば入れると思います』。またしても『・・・と思います』との返事に不満だったが、

『入れさえすれば十分だ』と言って受け取った。
『お荷物を一時お預かりいたしましょうか?』との予期せぬ提案には心も弾んで、
『それはあり難い。お願いします』と言って大型かばんと機内持ち込みの小型かばんを渡した。これがサービスの本質と言うものだと、一瞬前の不満も解消した。
   
   しかし、待望のラウンジに到着してがっくり。アルコールは有料だったのだ! 中部国際空港ではアルコール類は無制限、成田や福岡空港などは缶ビールなどのアルコール類は最初の一個は無料なのに何たることかと憤慨し、セルフサービスのコーヒーを1杯だけ飲んで直ぐに退室。
   
   久しぶりに関空の中を散策。食堂街やお土産物屋街をふらふらと散策したが、福岡なら辛子明太子か下関の河豚の刺身、中部なら伊勢の赤福のような、全国的に知れ渡っている関西名物も発見できず、テナントの丸善(本屋)で週刊誌の立ち読みをして暇つぶし。
   
   今回の旅は17日間、通常のパック旅行よりもやや長いので、免税店ではジョニ黒1リットル瓶とシーバス700cc瓶を各1本、共に2,000円で買った。寝酒と朝酒用だ。同室者との乾杯にも使っているうちに早々と飲み干した。3本買うべきだったのだ。
     
[2]人文地理

@ 各国のデータ

   中日新聞の中日サンデー版(2006-2-12)から引用した。
   一人当たりのGNPは世界銀行2004年のデータ
   人口は国連人口基金の2005年のデータ

         面積(万平方Km)  人口(万人)      GNP/人($)

カザフスタン       271.73            1482           2260
トルクメニスタン   48.81                  483                1380
ウズベキスタン     44.74          2659        460
キルギス             19.85                 526                  400
タジキスタン          14.31                 650                  280
合計                  399.44               5800                  967 

日本(参考)     37.78              12733               32439?

   国土面積順に並べたが、一人当たりのGNPも何故かソックリその順番になった。カザフスタンとタジキスタン間には何と8倍もの経済格差がある。

   5ヶ国合計の国土面積は日本の10倍以上もあるが人口は半分。総GNPは560億ドルしかなく、トヨタ自動車の年間連結売上額(平成18年3月期=21兆円/113円=1858億ドル)のたった3割しかない。

A ***スタン国

   世界には接尾語にスタンが付く国名として、中央アジアのウズベキスタン・カザフスタン・タジキスタン・トルクメニスタンの他にアフガニスタン・パキスタンがある。第一次世界大戦後の一瞬の間だったがクルドスタンもあった。また、1944〜1946年には東トルキスタン共和国も建国されていたが、中華人民共和国に征服され新疆ウィグル自治区にされた。これらにはすべてモスレムの国という意味が込められている。

   中央アジアから離れた位置にあるアラブ連合22ヶ国を初めとして、イスラーム諸国会議機構には57ヶ国もの加盟国があるが、スタンを付けた国は6ヶ国しかない。とは言うものの、中央アジアに位置するのにキルギスタンではなくて、何故キルギスなのか私には不思議だった。
   
   ガイドに質問すると『ソ連から独立した直後の国名はキルギスタンだったが、その後キルギスに変更された。キルギスは多民族国家でしかも信教の自由も認められている。キルギス人が過半数を占めるだけではなく、モスレムが国民の大部分を占めるとはいえ、少数民族やモスレム以外の人々との融和を最優先にして1993年5月に国名を変えた』のだそうだ。
   
   しかし、それから13年経った今でも新国名は国内でも十分には浸透せず、あちこちでキルギスタンと言う表示すらも見かけた。現地ガイドですら、キルギスと言うべきところでキルギスタンと発音する始末。私には使い慣れてくるとキルギスタンの方がリズミカルで発音しやすいのだが・・・。
   
   政府の方針に一理あるとは言うものの、国名変更の経緯は国民感情とは異なるようだ。キルギスは建前。庶民の本音はキルギスタンなのではあるまいかと、思えてならない。
   
蛇足。イスラーム諸国会議機構加盟国

   アゼルバイジャン・アフガニスタン・アラブ首長国連邦・アルジェリア・アルバニア・イエメン・イラク・イラン・インドネシア・ウガンダ・ウズベキスタン・エジプト・オマーン・ガイアナ・カザフスタン・カタール・ガボン・カメルーン・ガンビア・ギニア・ギニアビザウ・キルギス・クウェート・コートジボワール・コモロ・サウジアラビア・シェラレオネ・ジブチ・シリア・スーダン・スリナム・セネガル・ソマリア・タジキスタン・チャド・チュニジア・トーゴ・トルクメニスタン・トルコ・ナイジェリア・ニジェール・パキスタン・パレスチナ・バーレーン・バングラデシュ・ブルキナファリ・ブルネイ・ベナン・マリ・マレーシア・モザンビーク・モーリタニア・モルディブ・モロッコ・ヨルダン・リビア・レバノン。私はこのうち未だ14ヶ国しか訪ねていない。
   
   ちなみにイギリス連邦加盟国は現在53ヶ国ある(入脱会が常時発生している)が、イスラーム諸国会議機構加盟国はそれに匹敵する規模とは、調べてみて改めて驚いた。
 
   総人口はイスラーム諸国会議機構加盟国の13億人に対しイギリス連邦加盟国は17億人だがインド・パキスタン・バングラデシュで8割を占める。インドのモスレム(1.5億人)を加減算すれば両者の差は僅か1億人。人口増加率は前者が圧倒的に高いので逆転するのは時間の問題。一人っ子政策が定着した中国(13億人)の人口増加も頭打ちになって来たので、恐らくはイスラーム諸国会議機構加盟国を人口では将来とも追い越せないと予想。

    B 半月旗の由来

   イスラーム各国には三日月が書き込まれている国旗が多い。何故三日月なのか? 真偽は不明だがガイドの解説は、下記の通りだった。

   月の満ち欠けは新月からスタートしていると考えられている。そうすると三日月は満月よりも新しいことになる。ユダヤ教の後にキリスト教が、その後にイスラームが誕生した。イスラームは一番新しい宗教である。その新しさの象徴として三日月を選んだ。

    C 国境

   5ヶ国の観光だったのに、ウズベキスタンには4回、カザフスタンには2回入国した。今回の旅行では各国に何度も出たり入ったりしていたのだ。

   空港と陸路での入出国には若干の違いがあった。空港ではハイジャック対策のために、持ち物と人体のX線検査があるが、陸路では全くなかった。但し、国境で観光バスが変わる場合はポーターがいないので各自で荷物を運ばされたが、それ自体は然したる負担でもなかった。

   どこかの空港で携帯鞄に入れていた『鼻毛切り鋏』をX線検査で発見され、規則に基づき没収され掛けた。『これは危険物ではない。鋏の先端は危険防止のため丸くなっている。旅行中の身だしなみとして鼻毛を切るために携帯しているのだ』といって、大げさに実演して見せて防戦に成功。

   課題はパスポートコントロールの手続きにあった。空港では窓口が複数あるため流れは比較的速かったが、陸路ではどの国でも窓口は一つだった。旅券番号や名前を一人ずつパソコンに入力し確認するだけでも1人につき2分は掛かる。国によっては、氏名・旅券番号・申請した持込外貨の種類と金額をノートにいちいち書き写す作業が加わった。添乗員を入れると26人いるので、2時間は優に掛かる。

   持込外貨が入出国間に減少していれば咎められないが、増加している場合は密輸品を現地で売ったのではないかとの嫌疑が掛かるそうだ。財布の中身の実物検査はなかったが万一に備えて、事前に有り金のチェックをせざるを得ず面倒だった。

   金額を書き込んでいるノートは窓越しに丸見え。ふと仲間の申告額を覗き見ると、同行者が何と大金を持ち歩いているのかと、驚いた。私(ドル+円=10万円弱)の数倍の人もいた! 買いたくなるようなものは殆どない国々なのに、日頃大金を持ち歩いている人たちは、小額だと不安に感じるのだろうか? 私は結局のところ、現地払いの入国税、ビールやワインなどのアルコール類、チップとお土産類にそれぞれ概算100$ずつ使っただけだ。

   陸路では出国手続きが終わり国境を越えると、次の国への入国手続きが始まる。合計すれば2〜4時間も掛かった。両国の出入国管理事務所が隣接している場合は楽だが、1km程度の緩衝地帯を挟んで離れている場合には、国境の管理事務所のシャトル・マイクロバスに乗せられて移動した。

   旅程では出入国にいつも半日が当てられていた。例えば昼食後国境へ向かい、国境を越えて次の国のホテルに夕方到着した。17日間の旅とはいえEUでの多国間旅行に比べれば効率が大変悪く、バスでの長距離国内移動を含めると、移動時間に旅程の半分は使ったことになる。
    
    D 内陸河川

   世界最長の内陸河川はカスピ海に注ぐ欧州最長のボルガ河(3,530km世界では23位)だが、2,3位は共に中央アジアの河だ。天山山脈に源流がありカザフスタンを貫流してアラル海に至るシルダリア河(3,019km、30位)とヒンドークシュ山脈に発しウズベキスタンとトルクメニスタンの国境を流れ、同じくアラル海に注ぐアムダリア河(2,540km、48位)である。

   戦後のソ連時代に両河川から灌漑用水路を引き、大規模な綿花栽培を始めた結果、半世紀後の今日、世界第4位の面積があったアラル海の水位は20mも低下、面積は1/3、水量は1/6となり、塩分濃度は30%近くになり、漁業は消滅した。

   両大河川のアラル海への年間流入量は50立方km(琵琶湖の水量は27.5立方km)あり、アラル海からの蒸発量=62,000平方km*800mmと釣り合っていたが、流入量が極端に少なくなった結果、年間1m近い速度で水位が低下中。

   このまま推移すればアラル海が実質的に消滅する(湖水面積はゼロにはならない。流入水量=蒸発水量になると縮退が止まるとはいえ、大変小さな究極の塩湖になる。かつての62,000平方kmの1/10?)のは時間の問題になった。チェルノブイリの原発事故を恐らくは上回る、ソ連が犯した大いなる誤算だ。

   剥き出しになったアラル海の元湖底は塩で覆われ、空中に巻き上げられた塩分は広大な農地に塩害を撒き散らし始めた。現在の農業生産高はかつての漁業生産高よりも大きいが故に、歴史の歯車を逆転させることもままならず、大きなジレンマを抱え込んだままだ。

   おまけに灌漑用水の一部が地中に浸透した結果、地下水位が上昇し、地中の塩分が溶け出し水の蒸発と共に地表で析出し、灌漑で増加した農地の4割が塩害のため既に放棄されているそうだ。

   一方、地下へと浸み込んだ灌漑用水は地球の中心にたどり着くはずもなく、最終的にはまた地上に現れて来るらしい。最近になってアラル海の近くに巨大な湧水湖(サリカミシュ湖)が誕生し、年々拡大しているという。

E 都市計画

   ソ連邦の一部になって以来、主要都市は大改造された。幅の広い道路が格子状に開通し、大型ビルがゆったりと建ち並ぶ都市景観は壮観だ。それらに比べれば東京や大阪は都心の一部分を除けば、都市計画は無いに等しい。名古屋市は戦後、都市計画面では成功組と評価されていたが、今日の自動車時代は想定外だったのか、中央アジアの大都市と比べれば見劣りして情けない。

   中央アジアに限らず私がほんの一瞬覗き見した、英国の植民地であった南アのダーバンやケープタウン、インドのニューデリーなどでも、宗主国の独裁権限の下に夫々の母国では実現できなかったほどの都市改造がなされていた。

   植民地では多くの住民が悲惨な立ち退きをさせられたであろうが、今となっては国の大きな資産になっている。これらの行為を高く評価すべきなのか否か、迷うところだ。
    
F 幹線道路

   2年前に出かけたモスクワの郊外にはまともな道がなかった。いわんや中央アジア各国を結ぶ幹線にまともな道路があるはずはあるまいと思っていたが、完全な予想違いだった。幅の広い直線道路の両側には、日本では見かけたことも無いような数列もある美しい並木が植えられていたのだ。

   乾燥地帯でも樹木の根がある程度地中深くまで到達すると、農作物よりも乾燥に耐えられるのか、周辺の景色とは不釣合いなほどの大木へと育っている。こんなに育つのならば周辺にどんどん植樹すればよいのにと思いたくなるが、略奪農法に近い遊牧生活に慣らされていた遊牧民の末裔には100年計画など立てる気もないのかと思わざるを得ない。

   簡易舗装だったが、乾燥地帯なので路面硬度は高くて耐久性は十分にあり、冷房もまともに入らない上に振動・騒音過多の旧式バスにもかかわらず、時速100Kmの走行に何の支障も無かった。

   日本の高速道路とその品質は比較すべくも無いが、交通量が極端に少ないからこれでも何の支障も無い。立体交差も信号機も無いが、片側の交通量は数百メートルにつき1台ほどなので、移動時間で評価する限り日本の高速道路との差は殆ど無かった。

    G 言語と民族

   ソ連時代には各国とも各国語とロシア語が公用語だった。しかし、独立後はロシア語の比重は下がる一方だ。各国の公用語は次のようになっている。カザフスタンでは両言語に国家語と公用語という奇妙な性格付けがなされている。

ウズベキスタン・・・ウズベク語。            ウズベク人(71%)
カザフスタン・・・・国家語はカザフ語、公用語はロシア語。 カザフ人(53%)
キルギス・・・・・・キルギス語とロシア語。       キルギス人(52%)
タジキスタン・・・・タジク語。              タジク人(65%)
トルクメニスタン・・トルクメン語。          トルクメン人(85%)

   国名と最大構成民族、言語とには大いに関連があるようだ。つまり中央アジア各国は言語別の国家でもあり、主要民族別の国家でもあったのだ。

   一人の人間の一生の中で、言語を切り替えるのは至難の業だ。今は中高年の間にはロシア語も普及しているが、半世紀もすればロシア語が消滅していくのは確実だ。言語は通貨のように一瞬にして切り替えることは出来ないものの、確実に変化していく。

   ロシア語が公用語であった名残でキリル文字表示も残っているが、いずれロシア語と共に消滅するのは時間の問題だ。

   ロシア人女性ガイドが『中央アジア各国だけではなく、アフガニスタンにはアフガン人が、トルコにはトルコ人が、イランにはイラン人がいるが、パキスタンにはパキ人がいないのにどうしてパキスタンと言うのかわかりません』と言ったので、余計な一言を言ってしまった。

   『貴女は日本語を勉強し、職業としてのガイドを選んだのならば、もう少し関連国の人文地理と歴史を勉強してください。パキスタンの国名はイギリスの植民地であった英領インドから独立したときに、パキスタンの構成主力州の頭文字とインダス文明のIを繋ぎ合わせてPAKISを作り、最後にモスレムの国を意味するスタンをくっつけて国名としたのですよ。P(unjab)+A(fghanistan?)+K(ashmir)+I+S(indh)TANです。パキ人などいた筈がありません』と嫌味!

    H 多民族

   中国・インド・ベトナムやロシアと同じように中央アジア諸国も多民族国家だ。東西南北の陸続きの周辺国から諸民族がなだれ込んだ痕跡だ。各種ガイドブックにはそれらの民族の構成比率が詳しく書かれている。バザールや都心の繁華街を歩けば、人相骨格から嫌でも多民族・多人種国家であると理解できる。

   一人ひとり所属民族が決められているが、その分類にどんなルールがあるのか聞き漏らした。ユダヤ人の場合にはユダヤ人の女性から生まれた子供はすべてユダヤ人。父親の所属民族とは無関係である。女性の場合は、DNAが発見される以前の大昔でも、親子関係が100%厳密に特定できたからだろうか?

   私には国家が個人の所属民族を特定する伝統的な習慣にどんな価値があるのか、大変疑問だ。区別するがゆえに民族間の対立抗争が助長されているように思えるからだ。これらの多民族を一国の中で共存共栄させるために、政府はどんな工夫を凝らしているのだろうか?

   幸い日本では現在、国籍こそ厳密に管理しているが日本人を民族で区別する習慣は消滅している。本当は、中国系・韓国系・南方系・北方系にとどまらず、熊襲系・邪馬台国系・出雲系・伊勢系・アイヌ系、縄文系・弥生系など数え切れないほどのルーツがあったはずと思えるが・・・。
   
    I 職業

   民族と職業とにはかなり深い関係があるのではないかと思った。旅行者が接する人のうち、飛行機の乗務員・空港内や国境の職員・観光名所の関係者・ホテルやレストランの従業員は比較的色の白い人が多いのだ。ロシア系の人が人気の高い安定した職業を独占しているかのようにも感じられた。

   一方、バザールの商人、都市中心部の雑踏ですれ違う人々、国境で出国手続き中の出稼ぎ労働者の顔は相対的に黒いのだ。これらの違いは屋内勤務者と屋外労働者の条件の違いだけとは言い切れないような気がした。

    J ホテル

   日本人には発展途上国のホテルは大変みすぼらしく設備も悪く快適性にかけるのではないか、という牢固としたとんでもない誤解があるようだ。

   シルクロードのオアシス都市にはキャラバンサライ(隊商宿)の伝統の上に、観光立国の現在、国際的なホテルチェーンも進出し大型ホテルも林立。2ベッド、40平米サイズ、バストイレ付が標準だ。何の不自由も不満もなかった。

   江戸時代から戦後暫くまで日本中に普及していた、プライバシーも専用のバストイレもない旅館とか、ひところ大増設された小さな部屋のビジネスホテルなどは海外では通用しない奇妙な宿泊設備だ。
   
   ビジネスホテルだけではない。石油ショック後に出来た豊田市初の大型都市ホテル『豊田キャッスル』に宿泊した知人の外国人が『部屋が小さくて、小さくて・・・』と肩をすくめながら感想を述べたとき、泊まったことのない私は『さもありなん』と思いながらも恥ずかしかった。豊田キャッスルは豊田市駅前に現在建設中の再開発大型ビルに、とうとう移転するそうだ。

    K ドル経済

   ソ連の呪縛から開放された中央アジアにはいつの間にか、ドルが至る所に浸透していた。ルーブルは完全に消滅していた。バザールでは自国通貨とドルとが共に流通していた。ドル払いを拒否されたことは一度もなかった。我が日本人の世界的な貢献品のひとつ、電卓のおかげだ。商人は直ぐに換算してくれるだけではなく、旅行者相手の一流店では最初からドルでの値札が付けられている場合が多かった。

   ドルを銀行などの公的窓口で各国通貨に両替する時のレートは、我が体験の範囲内ではどの国でも同じだった。ロシア・中国・ベトナムなど社会主義国での両替レートは国内では統一されていたが、中央アジアにもその伝統は残っているようだ。

   しかし、闇ドル相場もあった。時には現地ガイドがバスの中で両替のアルバイトもしていた。それらは公定相場よりも旅行者側に5〜10%有利だった。公定相場は現地通貨を高く買わせる相場だったのだ。とはいえ闇市を探すのも面倒なので、ホテル内の銀行で必要最小限の両替に終始した。

   レストランでの飲み物はドル価格と現地通貨での価格が提示され、どちらでも支払えたが、ドル換算の場合は半端な価格は1$単位に切り上げられた。結局のところ、現地通貨の主たる用途は1$もしない水などを買う時とか有料トイレの支払いだった。ドルは取り扱いの最小単位が1$札なので高額すぎたのだ。

[3]風俗・習慣

    @ 結婚

   ガイドに『多民族国家では、所属民族の違いは結婚相手の選択時に影響しますか? 日本では最近、全国平均で5%、東京都では10%も国際結婚をするようになりましたが・・・』と質問。
   
   『各民族間には生活習慣と宗教にも違いがあります。この二つの理由から同じ国内であっても、異民族間の結婚は多くはありません』と回答したが、街ですれ違う人は十人十色の人相骨格。民族のモザイク(同一民族間の結婚)なのか坩堝(異民族間の結婚)の世界なのか、一見の旅行者としては皆目見当も付かなかった。
   
   日本でも国際結婚が進んでいるとはいえ、そこには際立った特徴がある。若い日本女性は欧米系の男性との恋愛結婚などの『上方婚』が多い。結婚市場であぶれた独身男性、離婚した男性、奥様に先立たれた男性、いずれも中高年男性が主とはいえ、結婚相手はアジア系の若い女性との見合い結婚などの『下方婚』が多い。日本男性の場合、女性の国際結婚とは経緯も性格も少し違うようだ。

   私の友人や知人のお嬢さんにも上方婚が大勢いるが、何故か両親はそのことに触れたがらない。本心は反対のようだが、口をさしはさむ余地が無いらしく、諦めているようだ。一世代の間に結婚観一つとっても、こんなに激変するとはと、改めて驚く。

A パオでの夫婦生活

   中央アジアの遊牧民の移動用組み立て式住宅として、世界的にもユニークなパオの実物サイズの見本はあちこちの見本市や万博などでも見慣れていたし、今回の旅行中でも各国の博物館の目玉展示物として何度も見た。もちろん観光用ガイドブックの写真でも見ていた。
   
   パオ内部の実物見本の展示形式は大同小異だった。周辺にベッドと長椅子や台所用品があり、壁に衣類が掛けられている簡素な構成だった。しかし、私には親子がこの丸い一室でどのように生きているのか、の具体的な展示や解説には出会わなかった。
   
   そこで若い現地の女性ガイドに『遊牧民は動物と同じように子供の眼の前で、セックスをしているのですか?』と質問したら、同行者が『そんな質問はセクハラだ!』と一斉に非難。
   
『私はこの地域の生活の実態を知りたいのです。いわゆるフィールド調査の類です』。女性ガイドは添乗員やドライバーなどと相談した結果、意を決したかのようにやっとのこと、
『子供が小さい間は、親子の間にはカーテンを掛けます。しかし子供が大きくなると、もう一軒パオを造ります』と回答。
   
   私は迂闊だった。一家族にパオが2セットあるという発想には、辿りつけていなかったのだ。ガイドブックや実物の展示物が何故この切実な疑問に答えていないのか、今でも不思議でならない。

    B 民家と果樹園

   民家は狭いながらも土地付き、平屋の一軒家(20〜30坪)が殆ど。壁面の部材には日干し煉瓦、屋根材にはトタンが多かった。これだと断熱効果は小さいが地震対策にはなっている。

   屋敷内では日本人のようにミニ公園風の箱庭を作る習慣はなく、殆どは小さな花壇と果樹園と化していた。バラが特別好きなのか、民家にも大公園にもホテルにも街路にも、あちこちで無数に植えてある。果物も多種類。りんご、さくらんぼ、ぶどう、スモモなどいろいろ。果樹は屋根を覆うほどに大きく育ち、住宅街は日本よりも遙かに緑が豊かだ。乾燥地帯との先入観が強すぎた。水のある所に人が住んでいたのだ。   

    C 刺繍(スザニ)

   シルクロードの各国やイスラーム圏の民芸品の典型は手織り絨毯だが、ウズベキスタンではスザニと称する刺繍が有名だ。壁掛けやベッドカバー、テーブルクロスとして愛用されている。
   
   白の丈夫な木綿のキャンパス生地に花柄や唐草模様、イスラーム圏特有の幾何学模様などが主とは言うものの、各都市特有の伝統的なデザインもあるとか。商品はバザールやホテル内だけではなく、観光地で客を待ち構えている行商を初め至る所で売られていた。
   
   刺繍には機械刺繍と手作り刺繍があった。現地のガイドが見分け方を説明したが、一見しただけでは私には区別が出来なかった。裏表を見比べていたらある特徴に気が付いた。手作りの刺繍の場合は糸の長さが長くなると作業効率が激減する。一針ごとに糸の全長を布に通さなければならない。刺繍ミシンにはその制限がない。
   
   刺繍を裏返して、糸の端切れが無数にぶら下がっているのが手作り刺繍、糸の末端が殆どないのが機械刺繍。機械刺繍のデザインは単調とはいえ、それだけでは区別が付かなかった。商人は如何に手の込んだ手作り刺繍であるかと強調するものの、簡単には真に受けられない。
   
   私は、テーブルクロスとベッドカバーを各一枚、別々の場所で旅の記念にでもなればと購入。共に商人の最初の言い値100$に対し40$まで値切って買った。商人は仕入れ値の3倍程度の価格を提示しているのではないかと思いながら・・・。

    D キルギスの民族帽子(カルパック帽)

   私は海外旅行のつど、その国のユニークな民族帽子が目に留まれば買い込み、ゴルフやテニスの折に愛用していた。仲間と旅の話題を交わすきっかけにもなった。中央アジアで最も有名な男性用の民族帽子はキルギスのカルパック帽である。

   カルパック帽は白いフェルト地で作られた縁付きの山高帽子。縁部には白とは対照的な黒布で裏を張り、折り曲げて黒布を外部に鍔(つば)状に出させて被る。帽子の内側には黒い薄い布が裏生地として縫い付けてあった。帽子の外側には黒い糸で大胆なデザインの刺繍が施されていた。私が買い求めた帽子の場合は草原の主役、羊の頭部を連想させるようなデザインだった。

   この帽子の価格はバザールやホテル内の店舗での値引き交渉で幾ら頑張っても10〜25$だった。しかし、あるとき幸運にもホテル内で3$の店を発見。あまりにも安かったので気の毒にも感じ言い値で買った。爾来旅の終焉の日まで愛用し続けた。

   この帽子ほど中央アジアの人々との交流に役立ったものはない! 出会ったどの人もこの帽子がキルギスの民族帽であることは熟知していた。その割にはこの帽子を被っている人には殆ど出会わなかった。一般の人が被っていたのはもっと安価な、刺繍が施された半球状の1$で売られていた帽子である。

   私と視線が会うと帽子を指差しながら笑顔で親しく『キルギス! キルギスタン!』と声を掛けてくれた。私も負けずに『ヤポーネ! ジャパニーズ!』と応えた。

   キルギスを観光中、若者の一団に出会った。早速『この帽子はメイドイン、キルギス』と言ったら、彼らは自らの頭を指差し『我々もメイドイン、キルギス』と機転を利かせての応酬。その後、簡単な挨拶。

   バザールの商人であれ、ホテルマンであれ、出入国管理事務所の係官であれ、道行く人たちであれ、どの国でも何時も親しく声を掛けられた。握手を交わした人数は何と優に50人は超えた。たった3$の帽子が国際親善にこんなにも役立ったとは信じられないくらいだ。

   彼らにとっては、日頃から民族の魂と誇りに思っている憧れの帽子の価値を、外国人に認められたと感じ、嬉しかったのだろうと思った。

    E 金歯

   中央アジア各国では男女ともに総金歯の人が多かった。歯並びは綺麗だし虫歯が多いとは予想しがたかった。ガイドに聞くと、

   『金歯は財産にもなるし、金持ちのシンボルとも見なされています。それで金歯に人気があるのですよ。しかし、最近はその習慣も下火になってきました』

   ふと20年位前の日本での事件を思い出した。火葬場の灰泥棒が逮捕されたのだ。その時の解説によれば、火葬場の灰の金の含有率は優良金鉱山の金の含有率よりも格段に高い。灰は火葬場の関係者の間では、密かなる役得として分配されていたのだそうだ。

   私には夢想すらしていなかった珍事件だった。考えてみると灰を水で流し去ればいとも簡単に入れ歯の金は回収できそうだ。イスラームでは原則として土葬だ。中央アジアの人たちは土葬前の死者の歯から、金を強引に剥ぎ取っているのだろうか?

    F 飲料水

   乾燥地帯の中央アジアでは安全な飲料水の入手には苦労するのではないかと思い、日本から4リットル持参した。鞄の自重は8kg、衣類が8Kg(旅行中に洗濯をしない主義の私は下着が増えるのだ)あったので、エコノミーの上限までの余裕残は4kgだった。

   しかし、水不足が杞憂だっただけではない。ホテル内は勿論あちこちの店で水は売られていた。おまけに旅行社からは連日500ccボトルの差し入れがあった。昼夕食事にも無料の水が用意されたので余った分は持ち出した。水道水が安心して飲める日本よりも飲料水の流通システムは完備していたのだ! しかも安い、安い。1リットルが5〜25円程度。高い日本の水を重たい思いをして運んでいたとは! 後悔先に立たず。

    G ビールなどの酒

   30度を超える乾燥地帯での楽しみは食事ごとのビールだった。店で買えば500cc瓶
が大抵1$以下の安値だが、レストランでは外国人相場。2〜5$。あるとき2$のビールを注文。ビール瓶に触れると生暖かい。私は即座に冷たいビールに換えるようにと注文をつけた。

   数分経っても持ってこないので、冷蔵庫を覗きに出かけた。『この一番手前にあるビールを取り出してください』『それは見本です。古くなっています』『古くても冷えておれば十分だ』。取り出してもらったら、それも生暖かかった。冷蔵庫が故障していたのだ。

   諦めて戻ろうとしたら、傍らで生ビールの供給装置を発見。『生ビールはあるの?』『あります』『値段は高くても良いから、生ビールを持ってきて。幾ら?』『1$です。直ぐにお席に届けます』。『生ビールが1$だった!』と仲間に意気揚々と報告。

   添乗員が『お店の方が恐縮して1$にしてくれたのだから、皆さんには言わないで』と言っても後の祭り。私の大声が響き渡った後だった。その結果、交渉することもなく仲間の瓶ビールも1$になり、些細なことだったが仲間からはお礼を言われた。

   中央アジアでは、旧ソ連圏のバルト三国やロシアからのやや高い輸入ビールに加えて、国産ビールもあった。しかし、ビールの味はイマイチだった。赤ワインには雑味が多く、白ワインの方が飲みやすかった。ウォッカも時々飲んだがイマイチだったので、結局ビールに戻った。朝風呂の後で飲むビールは観光途中の店で買い込み、部屋のミニバーで冷やした。ホテルは若干の例外を除けば、国民の生活とは別世界だった。

    H 羊

   広大な大草原では当然のことながら至る所で数百頭単位の羊の放牧を発見。しかし、不思議なことに黒や鼠色や白の羊が一緒に混じったまま放牧されていた。これだと羊の交雑が進み羊毛の品質確保が難しくなるのではとの疑問が湧いた。ガイドに聞くと、

   『放牧している羊は食用と羊毛用の2種類に分けられます。羊毛用はメリノー種が主です。このあたりで見かけるのは総て食用の羊です。体毛の色は区別されません』。とのことだったが、食用の羊の毛と雖も何かに使えると思うのだが、毛布用なのだろうか?

    I 桑の木

   桑の木はシルクロード沿線のいわばシンボル。幹線道路の並木としても大量に植えられていた。旅行中は丁度実の収穫期だった。トイレ休憩の折には殆どの同行者が一斉に毛虫のような外観の実を取って食べた。熟すと実が赤黒くなるものと白くなるものの2種類あったが、味には大差がなかった。

   日本でかつて養蚕用として植えられていた桑の木は、勢いよく徒長した枝を根元から刈り取っていたので、自然のままに育てた桑の木を私は見たことがなかった。今回の旅で桑の木の幹の直径は30〜50cm、優に7〜8mの大木に育つと知った。この巨木から切り出された木目も美しい硬い板はギターに良く似た楽器の胴体の材料にも使われていた。

   モスクの庭の中心には大抵桑の大木が1本、大事に育てられていた。手が届く範囲の実を見つけては食べたが、多くの実は誰も食べることなく落下していた。モスクに桑の木を植える故事来歴を何かの本で読んだが、内容は忘れてしまった。



   桑の実は食事時の果物としても大量に準備されていただけではなく、バザールでも大量に売られていた。これほどに美味しい果物なのに、日本ではスーパーでもデパートでも売られているのを見たことがないのが不思議でならない。鮮度管理が難しいためなのだろうか?

    J 青空トイレ
   
   今回の旅の特徴の一つに『青空トイレ』があった。観光地巡りでは数百キロメートルもバスで一度に移動することもあった。その間にドライブインとかお土産屋の類が全くない場合もあったからだ。

   2時間おきにトイレ休憩があった。トイレ休憩の場所は砂漠地帯では手ごろな砂丘のある所、農業地帯では手ごろな並木のある所が意図的に選ばれた。道路の左右で且つ車の前後に男女が分かれた。男子は常に道路を横断する側に指定された。時速100Kmくらいの車が時折疾走してくる。年配女性には横断はやや危険だ。

   男子は立ち小便、女子は日傘の影での用足し。事前に知らされていたので特別驚くほどのことではなかった。心配していたのは下痢だったが、エジプトやインドと異なり、何故か同行者に下痢の噂はなかった。

   料理はすべて加熱処理されたものばかりだった。それ以外にサラダと果物が出た。最初はサラダを警戒したが異常事態にならなかったので、安心してサラダも果物も十分食べた。中央アジアの水道の水源は河川ではなく井戸水が主だったのではないかと推定した。オアシスを初め湧き水は地中で十分に濾過されているので安全だったのだろうか?

   各観光地にはトイレがあったが、有料なのにその不潔さには耐えられないほどのものが多かった。水洗化されているものは少なく、まともな便器も少ないからだ。昼夕食のレストランでも無料とはいえトイレの数が少ない上に大抵は汚かった。人件費は安いにも拘わらず、サービス業とは何かという意識が乏しいのではないかと推定した。それゆえにこそ、青空トイレは逆に好評だった。

   尤もホテルではシャワートイレこそなかったが、水洗だし綺麗だった。紙の質も悪くはなかった。

    K 観光バスの故障

   あるとき、バス後部の振動がだんだん大きくなったと思ったら路肩に急停車。目的地まで後10km足らずの郊外だった。運転手が車外に出たものの戻ってこない。おかしいと思い私も見に出かけた。リア・アクスル・シャフトが外れていた。車内に戻り、

   『皆さん、リア・アクスル・シャフトが外れています。ドライバーでは直せませんよ。修理業者を呼んでいるそうです。持久戦ですね』。現地の旅行社に代替バスの手配を頼んだそうだがいつ来るのか見当も付かないらしい。みんなは諦めてしまって、バス内でぐったり。1時間半経った頃添乗員が『路線バスが来ます。臨時に止めてもらって乗り移ります』。携帯電話のおかげだ。

   我が一行でバスは超満員になったが、ホテル近くのバス停にたどり着けてやれやれ。夕食時に飲み物の注文を添乗員が取り終ったときに私は、『私たちには何の落ち度もないのに、1時間半もの貴重な時間をバスの故障により浪費させられた。このお詫びとして、今夕の飲み物代はユーラシア社が負担して当然だ。
   
   しかし、真の原因はオンボロバスを手配した現地旅行社にあるのは明白だから、その付けは現地の旅行社に回せば済むことだ。これは貴女を苛めるために提案しているのではない。最終的にはユーラシア社の信用を高めることにもなる。誤解はしないで欲しい』
   
   しかし、我が提案も添乗員の独断では受け入れられなかったようだ。でも、翌日の昼食時にバス事故のお詫びとして飲み物は無料、負担は現地旅行社との報告があった。同行者たちは『金持ち喧嘩せず』を地でいくような方々だったが、私は積年の体験から、この種の主張は常にするべきだと思っていた。関係業者のためにも。

    L 添乗員や現地ガイドの知識レベルの例

   いつものことだが、添乗員や現地ガイドの誤解には開いた口が塞がらない。本人たちには勘違い若しくは間違っているとの認識もなく、自信たっぷりにしゃべるので、一層困惑するのだ。同行者のために私も余計な口出しを、ついついすることになる。

   大きな河の橋を横断する時、添乗員が1Kmの彼方に見える建物について『この河に作られたダムの水を使った水力発電所です』と紹介した。私は即座に『添乗員の説明は間違っています。あれは火力発電所です。建物の横に巨大な冷却塔が2基そびえていますが、水力発電所ならば蒸気タービンを使わないから冷却塔は不要です。しかし、日本の火力発電所は臨海部にあり、海水を冷却水として使っているため、冷却塔はありません』

   添乗員は現地ガイドとドライバーに確認後『先ほどの私の説明は間違っていました。火力発電所だそうでした』。添乗員に工学の基本知識がないと、しゃべっていることの真偽を評価することも出来ず、どこかで逆に覚えてしまった情報を解説する間違いを起こす。

   ロシア人ガイドがある所で古代遺跡の建物を指差し、その特徴について説明した。『この建物の壁は日干し煉瓦で造られていますが、その壁の外側には枯れ草と粘土を混ぜた土が塗られています。夏涼しく冬暖かくなるための断熱材として枯れ草が使われています』。

   ああ、またかと思ったが私は『ガイドの説明は間違っています。枯れ草は粘土のひび割れ防止のために混入されたものです。FRP(繊維強化樹脂)に使われるガラス繊維やカーボン繊維、鉄筋コンクリートに使われる鉄筋と同じ目的です。日本語ではこれらを総括して複合材料、英語では Composite Material と言います』

    M 料理

   羊の焼肉が多かったが匂いは気にならなかった。しかしやや硬く、和牛の軟らかさとは別物の感。

   和食に味噌汁が付き物のように、必ずスープが出た。日本では味噌汁でもラーメンでも、出汁を取った後の食材は濾過して破棄するが、中央アジアでもロシアでもスープは出汁の原料と一緒に食べる習慣のようだ。小さく刻まれた野菜や肉類が具材を兼ねていた。

   中華の鱶鰭スープでもフランス料理のコンソメスープでも、出汁の原料は破棄され、如何に美しく提供するかの努力をしている。味噌汁に煮干や鰹節が入ったまま出されては興ざめの習慣に生きていたので、ゴミが浮いたように感じたスープは幾ら美味しくても、イマイチ馴染めなかった。

   沙漠の民は羊を殺した時には、血の一滴まで無駄なく食べつくす習慣らしく、食材を大事に食べつくすのも同じ発想なのだろうか?
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同行者の素描

   中央アジアは日本人にはイマイチ観光地としては人気がない。政情不安とか危険とか衛生状態が悪いとか食べ物が美味しくないとかの誤解も多いらしく、特に女性に嫌われているようだ。最近出かけたパック旅行では女性客が2/3以上を占めるのが常だったが、今回の男女比は逆だった。参加者25名中3組の夫婦を入れても女性は僅かに8人だった。

   そんなにも不人気な中央アジアにはどんな方々が参加しているのだろうか? 事前には予想もつかなかった。会ってみてびっくり! 殆どの方は海外旅行の超ベテラン揃い。既に世界中を駆け巡り、行くところが無くなったような人たちだ! 平均的な日本人よりも少しだけ海外旅行慣れしていると自負していた私も初心者の類だったのだ!

   旅行回数だけではなかった。並みのサラリーマンとは別世界に住んでいた人たちだった。日本にもこんなにユニークな人たちがいたのかと、自己紹介を聞くたびに驚きの連続だった。その中でも我が印象に強く残った方々とは・・・。

   下記の内容は本人たちから直接聞き取ったものだが、一部に誇張された部分があるかも知れないが、利害関係のない私に嘘をつく価値もないので、多少の聴き違いがあったとしても本質的には真実を語っていたと思っている。

[1]A氏

   同室のA氏の自己紹介を聞いて仰天するほどに驚いた。オーナー会社の現役社長だった。本年7月に古希を迎える方とはとても思えない若々しさ。毎日2時間の散歩の効果とかで、数十メートルの高さの塔に登っても、『痛みは全くない!』と涼しげな顔。同じ塔に登った直後から暫くの間、腿(もも)に疲労感と痛みを感じた私とは大違い!
    
   毎年奇数月には海外旅行。来る7月には奥様と欧州最北の街への旅を予定。奥様との旅は常にビジネスクラス。今回は一人120万円のコースとか! 一人旅の場合は原則として相部屋で且つエコノミー。ビジネスクラスでは相部屋希望者が少ないのでつまらないとか。同室者との情報交換や語らいが何よりの楽しみとか。その結果として旅仲間がどんどん増えたそうだ。私では力不足なので些か恐縮。
   
   氏のお気に入りの旅行社は『ニッコウトラベル』。出発日は前泊が基本。荷物の集配付。現地では連泊が基本。観光地では9時出発、16:30帰着。同行者の殆どはビジネスクラス。相部屋で申し込んでも相手がいないときは一人部屋の追加料金が請求される。帰国後インターネットで検索したら、阪急交通社とは対照的な金持ち相手の旅行社だったと判明。
   
   少年時代には6,000円/月(約100軒)の新聞配達。期末試験のときは3,000円で人に頼み、本人は集金(こっちの方が大変だったとか)に専任。音楽関係の会社を設立して大成功! 森進一など超有名歌手も会社事務所に出入りする繁盛振り。音楽教室も経営し常時1,000人を超える生徒を抱え東京芸大にも合格させているとか。カラオケ装置の販売も手がけているなど、音楽・音響・映像関連の多角経営。
   
   建売住宅の場合、ピアノを設置後、床が抜けることも珍しくなかったそうだ。同行者の一人が『中古ピアノを買います』という業者にピアノを売ったら、お金を貰えるどころか処分費を取られたとこぼしたら『当たり前ですよ。長い間使っていないピアノは最早楽器ではありません。たいていはピアノ線も錆び付いています。調律以外にも手を加えなければ売り物にもなりません。撤去処分費用を貰わなければ採算に合いません!』
   
   公私合わせた年金は毎月100万円に設定した。生命保険は1億円かけているそうだ。一方の私は今や生命保険も海外旅行保険も全くかけていない。月給は数百万円レベルらしい。お付き合いされている第一部上場企業の社長クラスでもA氏より安月給が多いと驚かれていた。熱海には税込み年間維持費が200万円の別荘。軽井沢にも別荘があるだけではない。エキシブ(会員制リゾートクラブでは、今や一番有名な高級クラブ)の会員権も2〜3箇所。
   
   資産管理では会社と個人とは峻別し、それぞれに顧問弁護士がいるとか。どうやら会社と個人とは資産面では相反関係(社長の給料を上げれば会社は利益減、A家は収入増など利害が相対立するの意)なので、一個の人格の弁護士に相談するのは難しいためか?
   
   海外旅行中の前半は『タケノコ生活』、後半は買出し生活。旅行中に下着を穿き捨てられるだけではない。ブランド物の新品同様のスポーツシャツやズボンも、気に入らないものはほいほいとゴミ箱へ。荷物が減った鞄の空間にはせっせとご家族へのお土産を詰め込まれていた。昔は女性従業員60人へのお土産選びに苦労していたそうだが、海外旅行に誰でも出かけるようになった現在、お土産は不要になったとか。
   
   会社へ通勤する日の朝には、奥様がその日の天候などを考え、各2種類用意されたネクタイ・靴下・シャツからその日の気分で選択。結婚以来、家では靴下を自分で履いたことがないとか! 海外旅行の場合も奥様が行き先の条件に合わせて、衣類や持ち物は全部準備されるとか! これは廃棄するようにとか、恐らくはご指示もあるのでは?
   
   奥様は旅の同室者との団欒に備え、珍しい酒の摘みや二人分の梅干までご用意されていた。私は毎朝梅干も頂いた。A氏の私への気配りも完璧。私はいつもの癖から抜けきれず、毎朝風呂に入り勝手に朝酒を飲んでいたが、何一つ苦情を言われなかった。
   
   若さを保つためと称して、友人の製薬会社社長から贈られた小瓶の試供品を持参されていた。1gが何と100円の化粧品だ。手のひらに2,3滴落とし、両手の手のひらで伸ばした後、洗髪後の頭髪につけた後、手のひらに未だ残っている化粧品を顔全体に薄く延ばすのだそうだ。
   
   髪はつやつやと輝き、皮膚にはみずみずしさを保つ効能があるとか。鏡の前で見比べると、明らかに私よりも顔の皮膚は若々しい。私も毎朝勧められるたびに使ってみた。細くなった頭髪では昔ながらの柳屋のポマードを使うとボリューム感が無くなるが、この化粧品だと髪の毛がばらばらにもならず快適だった。
   
   今や会社経営は二人のご子息にほぼ任されており、旅行中にも何の心配もないとかで、一度も会社へ電話されることも会社からの電話もなかった。目下A氏の最大の関心事は遺産相続の節税対策だとか。

[2]B氏

   A氏に劣らずB氏にも仰天! フジモリ大統領のご親族。一瞬にして同行者が名前を覚えたほどに容貌は瓜二つ。海外へは300回以上出かけた。国の数も百数十ヶ国になり数え切れないとか。

   60坪の冷暖房完備の車庫に3,000万円のフェラーリ2台(内1台は登録もせず)・フォルクスワーゲンのキャンピングカー1台・ベンツ3台。自動車の整備のためにメカニックを一人雇用(毎週一日くらいだろうとは推定したが・・・)。BMWはイマイチなので買わないという。『この秋にはトヨタ自動車のレクサス店から1,000万円台のセルシオが発売されますが・・・』と水を向けても『・・・』。氏にはセルシオと雖も魅力は感じられないらしい。

   B氏は元公務員。12年間の勤務後に両親の反対を無視して脱サラ。写真家を目指し大成功。氏の定義によれば給料を貰っている人はカメラマン。自立している人は写真家。毎年写真を集めたカタログを作り取引先17,000社に送付。カレンダーとか自社製品の総合カタログなどに採用してもらっている。一番売れた写真は取引先の30%に採用されたとか。
この世界にも相場があるらしく、写真一枚が数万円/社らしい。

   総合カタログとは別に、自然・料理・世界遺産などの特集編も作成。写真のネタ探しに世界中を飛び回られていたのだ。中央アジアには今回が2回目。前回は気象条件が悪く、今回は撮り直しの旅だそうだ。

   3脚はカーボン繊維強化樹脂などで軽量化を図られているが、それでも携帯用の機材だけで23kg。観光地点に到着するや否や撮影ポイントを目掛けて一目散。旅行中に数千枚撮影されたが、直ぐに出来栄えを確認し90%の写真は即削除。デジカメの機能をフル活用されていた。

『写真の現像・焼付けはご自分でされるのですか?』
『業者に委託します』
『それでは、現像や焼付けの希望条件の説明が煩わしくありませんか?』
『諸条件は撮影時にセットしています。後は業者の標準作業で十分なのです。但し、依頼するのは火曜日の午後から金曜日までを選びます。土日が休みなので業者の現像液などが劣化していることもあり、月曜日から火曜日の午前中までは品質が安定しないからです』
『成る程、成る程・・・』と、さすがはその道のプロの厳密な視点と経験に驚く。
『17,000点ものカタログの発送も大変ですね』
『印刷会社に住所録も渡して、発送まで委託しているのですよ』

[3]C氏

   C氏はバブルの頃、不動産取引で大成功。持参していたノートパソコンで過去の写真を見せて貰って仰天。

   前国連事務総長エジプト出身のガーリ氏、時期は異なるがガーナ出身のアナン現事務総長との懇談中の写真があっただけではなかった。フジモリ大統領を尋ねた折には同大統領の手料理もご馳走になったとか。
   
   かつてはデビ夫人(スカルノ大統領の第3夫人)に頼まれて一緒に北朝鮮に出かけた。デビ夫人から北朝鮮に米6万トンを無償提供するための仲立ちを頼まれたのだそうだ。米は中国で調達し鉄道で運んだ。北朝鮮のナンバー2以下政府首脳10人位に歓迎されていた写真を見て驚いただけではない。あちこちの国の大統領にも会っていた方だった。
   
   氏の解説によれば『北朝鮮と日本とは現在も戦争状態が続いている。北朝鮮の言い分によれば拉致家族は戦争捕虜に過ぎない。平和条約を締結するまでは日本に帰らせる気は全くない。核兵器も手放す気は全くない』そうだ。
   
   氏の海外旅行中の趣味は無精ひげを伸ばすこと。今回の推定目標は10mm。日本では儀礼上から出来ないが旅行中は許されるとかで、日々伸びていく髭を撫ぜながら傍らの奥様と人生を謳歌。まだ50歳代の若さ! 最終日のタジキスタンでの買い物は、キャビアの大型(4オンス=113g入り)瓶詰め20個だった。
   
[4]D氏

   D氏もバブルの寵児。まだ50歳代。昨年は26回も海外旅行に出かけた。家族には人並み以上の生活を保障している。自分の才覚で儲けたお金を何に使おうが家族(奥様?)には口出しさせないそうだ。
   
   こうした人に出会うとバブルとは正しくゼロサム・ゲームだったと改めて気づかされることになる。破綻した人の話がマスコミを賑わしているが、当然のことながら社会の表には出てこない無数のバブル長者がいたのだ。彼らは賢いので爪を隠しているだけだ。
   
   次々に不動産を買い、今ではその家賃が使いきれないほど入る。一年間の海外旅行費用は5〜600万円。何回海外に行ったとか、何ヶ国出かけたとかはもう解らないし関心も薄れた。語学に堪能というわけではないのに、旅慣れているためか直ぐに現地の人と打ち解ける能力は抜群。兼高かおる女史の男版といったところか! これぞ正しく正真正銘の国際人。
   
   氏にとって印象深い思い出は先進国にはなく、エチオピアなどの最貧国だそうだ。いつも軽快な服装で、近所に出かけるような感覚で海外へ出かけられているようだ。
   
[5]E寡婦
   
   E寡婦はインテリ。女優の故沢村貞子(日本女子大卒。弟は加東大介、俳優津川雅彦・長門裕之の叔母)にそっくりな容貌だけではなく、話される内容までそっくりだったのには驚いた。ご本人も沢村女優を尊敬していたそうだ。

   沢村女優は引退した時、住み慣れた家や家財を初め膨大な舞台衣装や写真なども処分し、海が見える横須賀市秋谷のマンションへと転居。その時、愛着の篭った台所用品を初めとして家財道具などは夫婦二人住まいに必要な最小限の物だけを選択。

   引退すると大きな家や膨大な家財は邪魔になるだけではなく、維持するだけでも疲れるから処分したと、テレビで話されているのを私は偶々見ていた。未だ若かった私はその時、何ともったいない事をされるのかと思ったが、定年退職した上に多重がんを患った現在の私は、まさしく沢村女優の心境が少しだけ理解できるようになっていた。

   寡婦とはつゆ知らず、たまたま同席した折に、私の自己紹介としてがんの体験談をした時の質問の的確さに驚いた。そばで聞いていたA氏は『Eさんは女医ではないのか?』との推定。その後『ご主人はどうして来られなかったの?』と聞いて真相が判明。ご主人は50歳代半ばに胃がんで永眠。胃がんの症状や治療法に詳しかったはずだ。

   ご本人は膨大な遺産を引き継ぎ、優雅に海外旅行三昧。何と今回の参加者の内、唯一人ビジネスクラスで参加されていた!

   A氏と同じように海外旅行で衣類を捨てるところまでは同じだが、必ず鋏で切り刻むそうだ。部屋の清掃人が持ち帰れば十分使えるものであろうとも、中古衣料を結果的には与えることになる行為は大変失礼に当たるとの判断からだそうだ。人が見ていないところでこそ、人品骨柄が強く表れるようだ。
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ウズベキスタン

[1]タシケント空港(5月4日、朝)

   今回の国際線はウズベキスタン航空だった。関空からウズベキスタンの首都タシケントを経由しカザフスタンの旧首都アルマトイへと向かった。旅に慣れてくると予期せぬ失敗に出くわす。添乗員からタシケント空港に着いたら、タラップの前で待っているバスに乗るようにとの連絡があったが、その説明を馬鹿馬鹿しく感じ、最後までは聞いていなかった。

   私が小雨の中で勝手に乗ったバスは入国者専用ビルに到着した。ビル内でふと周りを見ると同行者は一人もいなかった。バスは@入国Aイスラエルの首都テル・アビブ行きBカザフフスタンのアルマトイ行きのコースに別れていたのだ。それぞれの建物は後日の増設なのか、別々の場所に建てられていた。今までの体験ではバスは何台待機駐車していても、その到着先は何時も一箇所、建物内で行き先が分かれていた。

   空港内の職員に事情を説明したら、英語は通じなかったのに即座に理解し、直ぐにどこかへと電話。迷子が今日もやっぱり現れたかと言ったような対応振り。程なく迎えの大型バスが私一人のために車掌付きで到着し一件落着。目的の建物は1kmも離れた位置にあった。同行者も添乗員も我が迷走には気づいてもいなかった。

[2]タシケントへの再訪(5月8日、夕)

   タシケントは中央アジア最大の都市。何と地下鉄が3路線もある。郊外の戸建て民家の建築様式も変わり始めていた。屋根材にトタンが普及している。屋根の軽量化は地震対策としては効果的だ。

[3]ヒヴァ(5月9日)

   日本を出発して6日が経過し、軽い時差ボケも解消。体調も万全。この日は強行軍だったが、観光への気合も湧き出し充実した一日だった。
   
   緊張のためか3時に目覚めた。ゆっくり朝風呂に入り、朝酒も満喫して5時10分にホテルを出発。タシケント空港からは10〜14世紀に掛けてのホレズム帝国の首都だったウルゲンチへと向かう。眼下には中央アジアの沙漠地帯の開拓状況が一目瞭然。アムダリア川からの灌漑用運河から樹枝状に農業用水路が引かれ、緑の穀倉地帯が広がっている。

   しかし、水路から離れた山のなだらかな傾斜地は、所々塩分で白く覆われ放置された不毛の大地のまま。それだけではない。あちこちの谷間にあったはずの小さな池や湖は完全に干上がり、露出した湖底の塩は太陽光線をきらきらと空しく反射していた。
   
   時々整然と区画整理された戸建て新興住宅街が現れた。そこだけは別世界のように緑の樹木が眩しい。車が殆ど無い点以外はロス近郊と変わらぬ風景だ。人は水なしでは生きられない証拠物件だ。
   
   ウルゲンチからはホレズム帝国の新首都ヒヴァへとバスで向かった。ヒヴァは今回の旅ではサマルカンドと並ぶ観光の目玉だ。途中、灌漑用に開鑿された運河を横断したが、今までに私が見たことも無いほどの泥水だった。急勾配でもないのに水量が多いためか、秒速1m以上もありそうな異常に速い流れだ。そのためか泥水が沈殿する恐れも少なそうだ。
   
   ヒヴァは二重の外壁で囲まれた城塞都市。内壁(高さ9m*周長2,300m)の内側全体が1969年には博物館都市に指定され1990には世界遺産に登録された。20のモスク、20のメドレセ(神学校)、6基のミナレットも、補修しながらも往年の姿で残っていた。
   
    @ アタ門(西門)

   観光バス用の広大な駐車場の前に西門が聳え立っていた。大きなミナレット風の2本の塔を上層部で連結した威風堂々たる門だ。

    A ムハンマド・アミン・ハーン・メドレセ

   ムハンマド・アミン・ハーンが建設を命じ1852年に完成した『ロ』の字型をした神学校。広さは71.7*60m、中庭は38*38m。中庭を取り囲む2階建てには125部屋があり、最盛期には99人もの神学生が学んだそうだ。
   
   当日、私たちはこの神学校を改装したホテルに泊まった。中庭に面した側に廊下、外周に面してテラスがあり風が部屋を心地よく通り抜けた。1部屋の占有面積は30平方メートルくらいもあった。ベッドを2台入れても十分な広さだ。トイレとシャワーもあり快適だった。
   
   九大教養部に戦後建てられた田島寮に私は昭和33年の後期(前期は満室で入れなかった)に入居した。その部屋たるや廊下に面してドアがあり、1畳大の下駄箱付タタキ、その内側に1畳の押入れ付の6畳が壁を挟んで2室、計4人部屋(占有面積は合計15畳)だった。6畳の和室に机や本箱を持ち込むと、布団を2組敷くのがやっとの面積だった。敗戦後の国の貧しさはその時点から100年も遡った頃の神学校の寄宿舎以下だったのだ。

   戦後65年を経過した今日、九大の新キャンパス(土地は約280万平米、取り敢えず延べ50万平米の建物を建設中)にやっとまともな学生寮が建ち始めた。鉄筋コンクリート10階建て。占有面積13平米の個室。付帯設備として、机・椅子・本棚・ベッド・下駄箱・収納戸棚・ミニキッチン(IHヒーター・ミニ冷蔵庫)・エアコン・ユニットバス(バス・シャワー・トイレ・洗面台)・インターホーン・テレビ端子・インターネット端子。

   共用設備としては、自販機・コインランドリー・複写機・駐輪場・多目的ホール・各階には談話コーナー。無いものは駐車場(学生に自動車は今なお贅沢、との認識は情けない!)と食堂。

   私が寮の全権管理人だったら、これだけの環境を与えられても留年するような怠惰なボンクラ学生には即座に退寮を宣告したいほどだ。これでやっと、欧米からの留学生も我慢して住めるレベルになったか! トヨタ自動車の大卒用独身寮(45年前のものを未だに使っている! 当時から個室だったが占有面積はたったの10平米)のレベルを超えたようだ。
   
    B カタル・ミナル

   1852年に着工したものの、ムハンマド・アミン・ハーンが1855年に戦死したため26mの高さで工事が中断されたまま。基礎部の直径は14.2mもあるので、109mとか70〜80mとか、目標としていた高さに関しては諸説紛々。

   ミナレットの外周は青タイルを主に、そのほかの色のタイルと組み合わせたイスラーム式デザインは青空の下で一際輝く。どこからでも見えるので、直ぐ横にあったホテルへ戻る時の目標になった。

   

    C クフナ・アルク

   クフナ・アルクとは17世紀に建てられた『古い宮殿』と言う意味だそうだ。新宮殿が出来て以来の呼称。公邸・くつろぎの間・モスク・ハーレム・兵器庫・火薬工場・造幣所・罪人の処刑場などがあった。

 玉座に座ってみた。

   建物の天井も壁も青を基調にした幾何学模様のタイルが張られていた。タイルの片隅には数字が書き込まれていた。タイルを焼く前に壁面のデザインを完成させ、それをタイルの大きさに分割し、焼成後のタイルを貼るときの番地を意味していたのだ。

   テラスの天井を支える柱は彫刻が凝らされた木材だった。中東各地のイスラーム様式の建物の場合には、必ず石柱だったが、中央アジアではここに限らず木の柱だった。乾燥地帯のため、大きくひび割れてはいたが腐食箇所は一切見かけなかった。

   罪人の処刑方法は残忍だ。高さ1mくらいの先端が研ぎ澄まされた槍が地上に固定され、肛門から挿入して串刺しにする方法、小型の野獣と同じ袋に入れ噛みつかせて失血死させる方法、地中に生き埋めにする方法などなど、恐怖感を煽る知恵比べの感があった。

   城壁内には車も乗り入れられず、いわば日曜天国。大通りにはお土産屋や露店が続く。縦長のバザールそのものだ。家族で経営しているためか、子供も商才を鍛えられつつ、大活躍している。観光客との丁々発止の駆け引き術は経験の産物のようだ。

    D ジュマ・モスク

   どこでも見かける普通のモスクの場合、天井をアーチで支えるため内部には柱が殆ど無い。ところが、ジュマ・モスクは柱だらけだ。多柱式モスクとして中央アジアでは最も有名だそうだ。

   天井は5mと大変低く、柱が3m間隔で216本もある上に広さが55*46mもあるので床下に迷い込んだ感じがした。柱には総て夫々に異なった彫刻がなされている木製。大木は貴重品らしく、周辺各国からの調達品。一つとして同じものは無い上、新旧いろいろ。

[4]ブハラ(5月14日)

   5月13日に再びウズヘキスタンへ入国。5月14日は一日中ブハラの遺跡見物。今回の旅行のハイライトの一つ。

   2500年以上の歴史があるというブハラは中央アジアばかりか、イスラーム世界全体の文化の中心地のひとつだった。一日中、遺跡を見学するとどれが何という建物だったか、頭が混乱してしまった。そこでやむなく記憶に残った代表的な物について記すことにした。

   今回の旅で出会った巨大な建物の多くは、何故かメドレセ(神学校)だった。中東各地のイスラーム遺跡はモスクが主だったのと対照的だ。中央アジアが如何に教育に力を入れていたかが解る。明治〜大正時代の日本の田舎で、一番大きくて立派な建物の多くは小学校だった。当時の日本の教育への意気込みといい勝負だ。

   ガイドブックにはこれらの遺跡にまつわる種々の伝説が紹介されているが、根拠も疑わしく、観光客を楽しませる作り話に思えてならないのでここでは触れない。

    @ シトライ・モヒ・ホサ

   ブハラ最後の王、アミール・アミル・ハーンの命で1911年に建てられた離宮。日本や中国製の無数の磁器が飾られていた。

   日本のコタツと瓜二つの暖房装置が展示されていた部屋もあった。絨毯が敷かれた床にはコタツが置かれ、その上にコタツ毛布が掛けられていた。



   『炬燵』という字はいわゆる国字(『峠』と同じように日本人が考案した『漢字』)。そのことから炬燵は日本人の発明品とも言われている。炬燵のルーツは室町時代まで遡れるそうだ。究極の省エネ暖房器として今なお日本中で愛用されている炬燵が、ひょっとしてシルクロードを逆流して中央アジアに伝わったのであろうか?
   
    A カラーン・モスク

   シャイバニ朝時代の1514年に再建され、中庭と合わせて1万人も収容できるといわれる巨大なモスク。サマルカンドのビビハニム・モスクに匹敵する規模だ。ソ連時代は倉庫になっていたが、分離独立後はモスクとして復活。

   入り口は7箇所もあり、中庭が回廊で囲まれている。回廊は288個もの丸屋根で覆われている。ブルーのタイルで装飾された正面の巨大な建物が美しい。

    B カラーン・ミナレット

   カラーン・モスクに付随しているミナレット。1127年に建てられた46mの高さを誇るブハラのシンボル。基礎部は地中10m。基底部の直径は9m。給水タワーのように頂上部が基底部より少し細くなる円筒形状。地震で街が壊滅状態になったときにも崩壊しなかった堅牢さだ。

   塔の壁面は14層の壁面に分け、夫々が異なったデザインになっている。しかし、圧巻は頂上部である。円周に沿って16個のアーチで屋根を支え、その屋根は細密彫刻で覆われている。



   蛇足だが、地球の歩き方2005年版の表紙にはカラーン・ミナレットの絵が紹介されている。中央アジアの象徴といわぬばかりの取り上げ方だ。インドで最も高い石造りの塔、デリーにあるムガール帝国の世界遺産『クトゥブ・ミナール』に準じる美しさだ。

    C ミル・アラブ・メドレセ

   1536年に建てられた神学校。1階は教室・図書館・食堂、2階は寄宿舎。ソ連時代ですら神学校としての開校が認められていた。

    D タキ・バザール

   タキとは大通りの交差点の真上で、建物を十文字に交差させドームで繋いだバザール。内部は一種のアーケード構造。 通路を跨いで建てられた長さ数十メートルもある4棟の建物内は夫々小さな店舗に分割され、通路に向かって店を開いている。

   今までに見たバザールは規模こそ大きかったが、建物は貧弱。タキ・バザールは欧米でも見劣りしない堂々たる建物からなり、宝石や貴金属、各種民族帽子、絨毯など高価な商品が多かった。

    E ナディール・ディバンベギ・メドレセ

   ナディール・ディバンベギによって1622年に建てられた神学校。偶像崇拝を否定するイスラームなのに正面入り口には、夫々が白い鹿を一頭ずつ掴んだ2羽の大型の鳳凰が向かい合い、その真上には人間の顔をした太陽が描かれているのだ。話題づくりには十分成功しているようだ。
   
   中庭をぐるりと取り囲んだ建物はお土産物屋の店舗としてフル活用。広大な中庭でディナーショーを楽しんだ。客席は数百もあり、雨の心配は無く、夜のそよ風は快適だった。踊り子たちは白人ではないかと思えるほど色白・長身。10人くらいの中年男性の民族楽器の演奏に合わせて、10〜20人の踊り子が衣装を時々変えながら踊り続けた。
   
   欧米人が静かに食事をしながら舞踊を楽しんでいるのに、我が一行は夫々親しくなった仲間同士が大声でおしゃべり。音楽に詳しい同室のA氏は怒り心頭に発したのか、仲間に強く注意されたが、馬耳東風。仲間の海外旅行回数の多さに当初は驚いたが、いわゆる教養・礼儀などの欠如は今までに参加した団体旅行と変わらないことが、いつの間にかばれてしまった。我が独断ではまともな旅人は30%くらいしかいなかったのだ。

   帰国時に旅の感想を全員一言ずつ書かされ、ユーラシア社経由で集合写真と一緒にコピーが自宅に送られてきた。A氏の場合⇒『旅慣れた方が多く驚きましたが、基本的なマナーを意外に忘れた行為が目立ちました。ディナーでの雑会話が気になりました』。私の場合⇒『多重がんの再発を怖れつつも、広大な西トルキスタンを元気に観光でき、喜んでいる』

[5]シャフリサブス(5月15日)

   ソグディアナの古都とはいえ、シャフリサブスはティムール生誕の地として一気に有名になった。大帝国を築いたティムールは故郷に錦を飾るべく、サマルカンドに匹敵する街を目指し壮大な建物群を建設した。一部の建物は既に崩壊しているとはいえ、当時の壮大さを連想するには十分な遺産だ。

@ ティムール

   1336年にモンゴル系遊牧民バルラス族の一員として生まれたティムールはチンギス・ハーンの末裔と自称し、大帝国を建設した。彼は若いころ足を負傷し片足が不自由だったそうだ。

   1941年6月にソ連の学術調査団により、サマルカンドのグリ・アミール廟に納められていたティムールの石棺が開けられ、足の負傷が確認されている。

A アミール・ティムール像

   町の中心部には大きな公園があり、その中心にウズベキスタンのシンボル、ティムールの像が威風堂々たる姿で立っていた。



   ソ連時代にはレーニン広場と呼ばれ、レーニン像が建っていたそうだが、ティムール像に置き換えることに民族意識の高まりとソ連離れが象徴的に現れている。

   像の近くで結婚式後の記念撮影をしている若者に出会った。海外でいつも感じることだが、女性は幸せを正直に満面に表すものの、男性はこれからの人生行路の困難さに思いをはせるのか、初夜を夢想しているのか、困惑したような無表情になるのが不思議だ。



   新郎の友人たちが楽器を演奏しながら祝福をしていた。その中に直径2〜3cm、長さ1.5m位の筒の先にラッパが付いた特殊な楽器があった。今なお4,900ccの肺活量があるので皆を驚かそうと、その楽器を借りて思い切り吹いてみたが何も音が出ず、がっかり。何かコツがありそうだ。

B アク・サライ宮殿跡

   1380年に着工され、ティムールの死後の1405年に完成。ティムールが残した最大の建物といわれているが、現存するのは入り口のアーチだけ。ティムール像の背後にあるアーチの高さは38mだが、建設時は50mもあったそうだ。ふと、私はエジプトのルクソール大神殿の門を思い出した。その壮大さは写真では想像しにくい規模だ。

   この宮殿の周辺には青い丸いドームを抱く種々の建物があり、あれはモスク、これは廟といわれても私には覚えきれなかった。

[6]サマルカンド(5月16日)

   中央アジアの都市名や固有名詞は私には大変覚えにくいにも拘わらず、サマルカンドだけは一瞬にして覚えられた。意味は解らなくても勝手に『サマーカントリー』を連想し、太陽が燦々と輝く美しい街に思えたのだ。

   サマルカンドは人口こそ首都のタシケントに追い抜かれているが、中央アジアの歴史とともに繁栄してきた街。京都やイスタンブールの存在感に似ている。今回の旅の最大の目的はサマルカンドの美しい遺跡の中に身を置き、来し方行く末に思いを馳せることにあった。

   この日は移動も無く一日中、サマルカンドの観光に当てられた。数え切れないほどの美しい建物を見たが、特に印象に残ったものについて触れる。  

@ ウルグベクの天文台
   
   ウルグベク(1394〜1449、チンギス・ハーンの孫)が建設し、天体観測をした大型の天文台が、1908年にロシア人考古学者によって発掘され、一躍有名になった。

   現在は天文台の基礎と六分儀の地下部分のみが残されている。この六分儀は地下の11mと合わせて40mの高さがあり、弧長は63m。高さ30m以上の建物の中にあった。

   記録によればウルグベクは恒星年(地球の公転周期)を365日6時間10分8秒と観測。
これは最新の観測データよりも約1分長い値だが、真実ならば当時としては驚異的な精度である。

   しかし、私にはこの六分儀を使ってどのようにして恒星年を測定したのか解らなかっただけではない。当時、こんなに正確に時を刻む時計があったとは信じられないからである。とかく、この種の功績は伝説化され、大げさに吹聴される傾向があると思っている。
   
A シャーヒズィンダ廟群

   アフラシャブの丘の南麓にあるサマルカンド随一の聖地。ウルグベクが建てた門を通り抜けると長い階段が続く坂道があり、その両側にティムールゆかりの人々の霊廟が一直線に並ぶ。

   霊廟の一つ一つは高さ20m以下の小ぶりなものが殆どだが、ドームのデザインは夫々異なり、さながら霊廟の展示会場と勘違いするほどだ。観光開発のためか修復工事中の霊廟も多く、清掃人も常時いて、通路は綺麗に維持され、霊廟の中には管理人も多い。その坂道を上り詰めた丘の上や斜面には数百基以上の墓石が並んでいた。

   金持の最新型のお墓は大きい。10坪くらいの面積を確保し、周辺を石で囲み、中央部に思い思いのデザインの墓石が美術品のように飾られている。偶像禁止などは無視されたのも同然。石の表面に故人の業績や大きな肖像が彫られているものも多い。キリスト教徒の墓と区別も付かないような墓もあった。日本の墓は何故、地味で陰気くさいのだろうか?

B ビビハニム・モスク

   1399年、インド遠征から帰ったティムールは世界一のモスクを造る決意をし、陣頭指揮の下、1404年異例の速さで完成。

   しかし、構造上の問題があったのか、落成後まもなく崩壊が始まり、加えて度重なる地震にも見舞われ殆ど崩落してしまったそうだ。現在はほぼ修復が終わり、サマルカンドの中核遺産として往時の偉容も復活。でも、丸いドームの外表面に縦の溝が無くつるつるとしており、大きいだけで私にはイマイチ魅力が感じられなかった。

C シャブ・バザール

   国力はバザールの建物にも反映するようだ。サマルカンドのバザールの建物は鉄筋コンクリートの堂々たる造り。内部には柱があるだけで仕切りの壁も無く見通しがよい。空調は当然のことながら無いが、爽やかな乾燥した風が通り抜けるので苦痛は感じない。欧州各地の広場の市場(ヨーロッパ式バザール)との違いは、生鮮3品以外の商品が多い点にある。

   買い物中の人は何故か生き生きとしている。日本人がデパ地下に殺到するのと、現地の人がバザールを目指す心境は似ているなと、自己体験からも感じた。

D レギスタン広場

   レギスタンとは砂地の意。レジスタンの誤植ではない。サマルカンドの繁栄振りを感じさせるような、美しくて大きなメドレセが立ち並ぶ。

   17年掛けて1636年に完成したシェルドル・メドレセの入り口のアーチには、子鹿を追うライオン(絵が何故か幼稚。トラにも見えるし、頭部は竜を連想したくもなる)が向き合い、ライオンの背中の真上には人面が描かれた太陽から後光が放射状に光っている。偶像崇拝のイスラームの教義をあざ笑っているような絵を描かせたのは、皇帝の自己顕示欲だろうか?

   商業の中心地としてだけではなく、公共の広場としての機能も果たし、謁見式や閲兵、罪人の処刑も行われた。ソ連もこの歴史遺産には一目置いていたのか、修復に力を注いだそうだ。

E グリ・アミール廟

   グリ・アミールとは『支配者の墓』の意。ティムールを初めとして息子たちの眠る墓である。1403年にトルコ遠征中に戦死した息子のために建てた霊廟だったが、1404年に完成した翌年、中国遠征中にティムールも急死。

   ティムールは生誕地のシャフリサブスに葬られることを希望し、廟も造っていたが、遺言は実施されなかった。廟の内部は1996年までに修復。黒緑石で作られたティムールの石棺は廟の中央に安置されていた。

   廟の外観を眺めると、ドームがとりわけ美しい。ドームの表面に彫られた無数の襞(ひだ)がアクセントを添えた結果、廟に被せた帽子のように感じられてきた。左右に立つ2本のミナレット風のタワーは、日本の葬儀に使うペアの提灯のイメージと重なってしまった。


 
  ドームの縦襞の数にも由来があるとか。民族の数とかティムールの享年だとか諸説紛々。

F 大邸宅での夕食会

   漆喰職人で財を成したというお金持の豪邸の居間で夕食。30坪はありそうな居間は吹き抜け。居間を見下ろす2階には回廊式の廊下があり、廊下に沿って豪勢な部屋が並んでいた。

   1階の居間で民族料理を食べ終わった後、ガイドが手作りで用意したお土産品を、参加者にくじ引きさせながら全員に配った。彼女の健気な努力には一目を置いたものの、ゴミ箱に捨て去ることもママならず、ありがた迷惑とはこんなものか・・・。ユーラシア社がチップを渡しているのだろうとは思ったが・・・。

[7]タシケント(5月18日)

@ ウズベキスタン工芸博物館

   1907年に建てられたロシア公使の私邸を博物館にしたもの。各部屋の内装にはイスラーム式装飾が施されているが、ミフラーブ(祈りの場所)の位置がメッカとは逆向きに設定されているところに、公使の本音が隠されている。
   
   ウズベキスタン各地の地方色が現れたスザニ(刺繍)が目玉展示物。スザニは未婚の女性が結婚に備えて準備する習慣。通常10枚も持参するとか。トルコでも結婚時に持参する絨毯を未婚女性が織る習慣があるが、手織りの絨毯作りは時間が大変かかるため、1枚持参。

   日本政府から提供された豪華な展示用陳列棚に、各地の陶器が収まっていた。陳列棚には日本政府提供と書かれていた。中身よりも容器の方が立派に感じられたが・・・。

A ナヴィオ・オペラ・バレー劇場

   シベリアからタシケントに移送抑留された日本兵捕虜が主となって1947年に完成した1,500人収容の大劇場。稽古場などもあり、延べ床面積は我が推定では1万坪。名古屋市公会堂よりも大きくて立派。強制労働にもかかわらず、手抜きも無く、その後の地震にもびくともしなかった。地元民に流石は日本人、働き方が違うと一目置かれているとか。

   鉄筋コンクリート製の外壁はレンガが貼られた重厚な造り。側面には日本語とウズベク語で『平和と友好、不戦の誓いの碑』と大書し、その下に経緯が書かれた銘版が貼り付けてあった。

   内部の見学は出来なかったが、内装も素晴らしく、6つのロビーにはタシケント・サマルカンド・ブハラ・ホレズム・フェルナガ・テルメズの各地域を紹介するレリーフが飾られているそうだ。

B 日本人墓地

   私は今なおシベリア抑留兵の悲惨な歴史に胸を痛めている。シベリアからの帰国兵だった担任の先生はその苦労をテーマに原稿を書き下ろされ、小学校4年生の時(昭和23年)、学芸会のテーマにされた。最後の場面では『異国の丘』を出演者全員で熱唱した。今なお私はカラオケでは歌わずにはおれない歌であり、歌うたびに涙が溢れるのを抑えきれない。

   日本ではシベリア抑留が余りにも強く報道された結果、シベリアから中央アジアへ
移送された抑留兵の話題は消え去っていた。ウズベキスタンだけで3,000人もいた。私は今回の旅で初めてその事実を知った。

   タシケント市街の一角に大きなモスレムの墓地があり、その一角に、1990年5月に建立された、300坪くらいの大変手入れの行き届いた日本人墓地があった。ウズべキスタン各地で無念にも永眠した英霊の亡骸は一人ひとり個別に埋葬され、その上には半畳大の石版が水平に置かれている。その数は79基。


 
  墓の中央部にはバラの花で囲まれた大きな660人の合同慰霊碑が建立されていた。墓地へ来る途中、添乗員が1人につき一本のバラの花を買い求めてきた、慰霊碑の周りに1人ずつ献花し、英霊のご冥福を祈った。

   途中墓の管理人ともすれ違った。日本政府が雇っているのだろうか? 大きな樹木も植えられているのに落ち葉が見つからない。枯れ果てた献花も無かった。毎日、管理人が墓掃除をしていると推定した。
  
C スーパーマーケット

   街の中心部に売り場面積500平米ほどの小型スーパーがあった。ごみごみしていたが、値札も付いていたし、売り方は日本と同じ。価格交渉が不要なので何故かほっとする。

   しかし、買いたいものが見つからない。結局偽物のキャビア(ランプフイッシュの卵)と承知の上で、子供3家族と自家用として合計5個を買っただけ。

D アミール・チィムール広場

   ウズベキスタンにおけるティムールへの国民的な崇拝ぶりは、アレキサンダー大王やチンギス・ハーン並の扱いに近く、日本史には匹敵するような人物が残念ながらいない。義経・信長・西郷が束にかかっても敵わないくらいか?

   街の中心部にあるティムール広場の中心には、右手を高く揚げて凱旋しているティムールの騎馬像があり、周辺に植えられているうっそうたる樹木で囲まれていた。広場からは放射状に広がる大通りがあり、その一つを散策。

   大通りの両側にある20mを超える大木の緑陰の下には屋台が並び、さながらお祭りの観。旅の疲れを癒すには十分な雰囲気を満喫。東京の銀座には大木が無く、あるのは周辺ビルからの廃熱だけ。潤いも感じられず情けない。

E 最後の夕食

   中華レストランでの夕食時に、添乗員が日本から持ち込んだソーメンが旅の疲れを癒してくれた。最後の晩餐会の気分になった。

   ソーメンが『わんこそば』のように一口大に丸められ、各テーブルまで大皿に広げられて運ばれてきた。誰ともなくその数を数えて1人分を確認し、宝のように感じながら食べ始めた。我がテーブルでは全員誤解していた。後から後から、食べきれないほどのソーメンが運ばれてきた。この日のために添乗員が日本から持ち込んできたのだそうだ。

F タシケント国際空港

   添乗員が旅行中何度も、機内預かりの鞄は20Kg、手持ち鞄は5Kgを越えると超過料金を取られると念押しをしていた。しかし、旅行中に一度も重さを計る機会は無かった。空港に到着した時、私はいつもの要領で勝手に係員のいないカウンターに出かけて、重さを量ったら、各1Kgずつの超過。我が行動を発見した仲間が一斉に真似を始めた。

   親しくなった仲間同士が荷物のやり取りをして重量調整。出発待ちの機長などの数人の職員を発見したので『ウズベキスタン航空は鞄の重量制限が厳しいと聞いているが、本当か?』『30Kg以内なら問題なし』と即答。添乗員にその旨伝えたら『あの人たちの個人的意見ですよ』と応えるだけ。仲間全員が無駄な事前努力をさせられただけで、結局何事も起きなかった。

   添乗員は重量制限を口やかましく注意するよりも、体重計を現地旅行社に預けておき、最終出発日のホテルに届けさせ、ロビーで希望者に使わせる努力をこそすべきではないのかと、提案した。ユーラシア社にこの意見を採用する気があるのか否かはわからないが・・・。改善意欲が無い者を、まともに相手にするくらい馬鹿馬鹿しいことはない。
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カザフスタン

   カザフスタンは大国である。国土面積はロシア・カナダ・アメリカ・中国・ブラジル・オーストラリア・インド・アルゼンチンに次ぐ第9位である。旧ソ連内の共和国の中にこんなに大きな国があったとは夢にも思っていなかった。

   調べてみると、ロシアにはサハ共和国(310万平方キロメートル)など、カザフスタンどころかアルゼンチンを上回る国もまだあるのだ。広大なシベリア各地の先住民の国が、ロシアのくびきから解放されるのはいつのことだろうか?

   蛇足だが米・中の国土面積順位には異説がある。上記の順位では外務省のホームページの米(963万平方キロメートル)中(960万平方キロメートル)を採用したが、台湾(3.6万平方キロメートル)を中国に入れれば順位は逆転する。

   なお米国領土には植民地とは言わないが、海外領土が14箇所もある。例えばグアムとかプエルトリコが領土面積に含まれているのか否か、私には不明である。国土面積には通常植民地は含めない。例えばデンマークの国土面積には自治政府のあるグリーンランドは含まれていない。

[1]アルマトイ(5月4日)
 
   カザフスタン南部に位置するアルマトイは1923年にカザフ社会主義共和国の首都になった。その後1997年12月に首都が北部のアスタナへ遷都したとは言うものの、依然としてアルマトイはカザフスタンの看板都市の地位を確保している。

   アルマトイとは『りんごの里』と言う意味とか。昔は市内にりんごの木が多かったが今では少なくなった。でもカザフスタン人はりんごが好きなのか、国内の随所でりんごの木を目撃。花は既に散っていた。

   入国後はホテルへ直行。沿線では桃の形をしたブルーのタイル張りの屋根を抱くモスクやミナレットも発見。中東とは建築様式の異なる中央アジアのイスラーム国に来たと実感。荷物を部屋に置き、やっと身軽になりホテル内のレストランにて昼食。午後歩いてバザールへ。時々、トヨタ車も発見。売り込みに苦労した営業マンの苦労をねぎらいたいと思った。

    @ 中央バザール

   100*100mくらいの鉄骨作りの仮設建築みたいな建物内が商品別(生鮮三品・衣料・生活雑貨)に区割りされていた。生鮮三品売り場は特別賑わっていた。冷蔵庫の普及率がイマイチなのか、戦後の日本の市場を連想させるが、肉売り場だけは全く異質だ。

   大きな枝肉(例えば牛や羊の足一本)に釣り針のようなフックを通し、物干し竿のような鉄製パイプにぶら下げていた。昨夜屠殺したばかりなのだろうか、悪臭の類は全く漂っていない。皮を剥いだ羊の頭もテーブルの上にごろごろ。



   遊牧民の末裔は家庭での肉の解体には慣れているのだろうか? 大きな肉の塊を所要分だけ切り離して購入している。日本の肉屋のように、直ぐに調理が出来るようにスライスした肉を売る習慣はないようだ。

   野菜の種類も豊富だ。日照時間が長い乾燥地帯の野菜は青々とビタミンがたっぷり含まれているかのように、大きく育っている。蕪・人参・ニンニクなどの根菜や玉葱・ジャガイモなどの茎菜も大きくて立派だ。大きさも日本ほどではないがほどほどに揃えてある。いずれも土を綺麗に洗い落とし、根なども切り落として売られていた。キュウリには棘がない。レストランではトマトのようにキュウリもスライスしてサラダとして出された。

   果物も種類が豊富。りんご・バナナ・スモモ・イチゴなど総て季節物ばかりだった。中央アジアでは甘さに定評のあるスイカとメロンを食べるのを楽しみにしていたが、シーズン前だったのか売られていなかった。残念! 省エネ時代に逆行した温室栽培が普及し、季節感が無くなった日本の方が、世界的に見れば異常だ。

   意外に多いのは胡桃(クルミ)などの木の実、干し葡萄などの乾燥果物。乾燥地帯だから天日干しが簡単なのだろうか? これらの売り場では売り子が大声で試食を勧めるのは商人(あきんど)の常。商品は何でも量り売り。随所に大きなバネ秤が配置されている。

   中東同様、シルクロード沿線は香辛料の交易でも今なお賑わっている。私には区別も付きかねる各種の香辛料が大きな樽に山盛りにされて売られていた。私が真冬に紅鮭の燻製を作る時に松坂屋豊田店で買い求める各種香辛料(ローズマリー・タイム・ナツメグ・セージなど)は僅か20〜35g入りのガラス瓶。薬を買っているようなものだ。この何と言う違い!

   この中央バザールの周辺には小さな建物が無秩序に延々と密集し、バザールの延長部分になっていた。縦横に伸びている狭い通路は迷い兼ねない程の複雑さだった。

   内陸部の乾燥地帯のためか川も池も少なく、水産物はさすがに少ない。冷蔵庫を備えた一角にキャビアなどの魚卵や各種燻製が売られていた。主としてバルト三国など欧州からの調達品だ。

    A パンフィロフ戦士公園

   第二次世界大戦時にカザフ共和国から出征し、モスクワを防衛したパンフィロフ将軍が率いた28人の部隊を弔うための慰霊碑が巨大な公園内に造られていた。永遠に火が点し続けられている無名戦士の墓もあり、百束位もの生花が置き場もないくらいに献花されていた。

   『喉元過ぎれば、熱さを忘れる』のが日本人。我が靖国神社では、毎日の参拝者が献花しているのだろうか? 多少の疑問が湧く。私はお参りしたことも無い。

   中央には1904年に建てられた木造のゼンコフ正教教会があった。窓の付け方から数えると5〜6階分、高さが20mはありそうだ。欧州各地の大聖堂とは異なるが、モスクワではよく見かけたデザインだった。ここにロシアの大統領などがお参りに来た場合には、モミの木の記念植樹をさせるべく、参道の両側には4m*4m位の区画が用意されていた。まだかなりの人数分の空き地が残っていた。



    B 国立考古学博物館

   カザフスタンの自然・歴史・文化を発掘品や展示物で紹介している。目玉は『黄金人間』。アルマトイの近郊の墓から発掘された古代のスキタイ兵士。黄金で作られた帽子や衣装で全身が覆われていた。

   しかし、残念ながらここの黄金人間は複製品。本物は首都アスタナに出来た国立博物館に持ち出された。

    C メディオのスケートリンク

   海抜1,690mの地点にある観客席13,000人の巨大なスケートリンク。ソ連時代に選手の強化訓練にもっぱら使われたとか。長野五輪のスピードスケートの金メダリストである清水宏保選手も、ここで2001年に記録を更新したとか話題にはこと欠かない。しかし、空気が薄いところでの記録は価値が落ちるのではとの疑問が残る。

   あまりにも有名になっているためか、氷も張られていないリンクを見学するだけで1$の入場料を取られた。

    D パオ(カザフスタンではユルタと言う)での夕食

   スケートリンクの近くにある大型のパオを模したレストランに出かけ、民族料理を楽しんだ。客の便宜のためか、床に座るのではなくテーブルと椅子が用意されていた。その時、『馬乳酒』を振舞われた。馬の乳を醗酵させて作った酒である。一口飲んでがっかり。あまりにも酸っぱい味がしたのだ。同行者も殆ど一口で諦め。
   
   馬からは乳牛ほどには搾乳できない。子馬がある程度育ち母乳が不要となると、乳は馬乳酒の原料に使えるが、乳絞りは一日に2回。一度に2リットル絞れるそうだ。一日に20リットル搾乳される標準的なホルスタイン種に比べると、搾乳量は格段に少ない。現地で貴重品扱いされる所以だ。
   
[2]タラス(5月8日)
   
   5月7日の午後、キルギスから再びカザフスタンに入国した。山岳国家のキルギスから大草原の国カザフスタンに戻って暫くすると、周辺の景色は一変。大草原・巨大な畑・広大な休耕地、溢れるばかりの可耕地だ。50〜100ヘクタールはありそうな巨大な畑の耕運には東南アジア各国のような人・馬・牛・水牛の苦役は見つからず、低所得国にも拘わらずソ連時代からの穀倉地帯の伝統か、大型農業機械が導入されていた。
   
   日没が近づいた。太陽が遙か遠くの山に接してから沈み終わるまでの時間は、太陽の視角が約30秒なので僅か2分間。山の高さはバスの移動と共に変動し、雲もあったり無かったり。写真撮影のための適地選択は賭けみたいなものだ。自己満足に過ぎないが、まあまあの日没夕焼け写真を3枚。
  
@ 東西の天下分け目の戦い

   748年に唐はカザフスタンとキルギスの国境を流れるチューイ川周辺にまで進出した。一方、中央アジアにアラブ軍も進出。遂に751年タラス川にて会戦。唐のトルコ系傭兵部隊がアラブ側に寝返り、アラブ軍の勝利に終わった。関が原の戦いでの小早川秀秋の寝返り事件を思い出さずにはおれない。

   このときの唐の捕虜が製紙技術を西アジアへ伝えたとも言われる。このときの古戦場があったタラス川をバスで横断したが、どこが古戦場跡なのか、解らかった。

A アイシャ・ビビ廟

   移動途中に、カラハーン朝時代の小さいが美しいデザインのアイシャ・ビビ廟に立ち寄る。廟の中に入りイスラームの導師のお祈りを受けた。導師はこの廟の管理者を兼ね、お参りに来たモスレムに数分間のお祈りの言葉をかける日々だそうだ。モスレムの人たちがお礼の寄付金を入れる箱もあった。

   毎日の発声の効果か、日本の住職や神主のように声が大変綺麗だ。私は貴重な体験に感謝して別れ際に1$を手渡したら、大変喜んでくれた。同行者は超お金持ちのはずなのに、いつもの体験だがお礼を渡そうとはしなかった。日本人の醜さが時々散見されるのが情けない。入場料は只だったのに!

   帰り際、お参りに来ていた現地の方々にもお願いして記念撮影。日本人と変わらぬ顔、また顔。3人の日本人以外は総て敬虔なモスレムの方々。信仰心厚い人の穏やかな表情が私には眩しく感じられてならない。


   
   午後またもやウズベキスタンへ入国。夕方タシケントへ到着。
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キルギス

[1]カザフスタンからキルギスへ(5月5日)

   アルマトイのホテルを出発しキルギスとの国境を目指して、バスは草原の中を疾走。遙かなる地平線までの草原を眺めると、ケープタウンの絶壁(海抜210mのケープポイント)から眺めたインド洋と大西洋がぶつかる水平線と、幾何学的には同じ雄大さとはいえ一味違った印象を受けた。海面からは地球の壮大さこそ感じられたが、人間の営みが連想できなかった。しかし、陸地からは放牧中の羊飼い達の優しい牧歌的な匂いが漂って来たのだ。

   幹線道路の南側には中腹から山頂まで真っ白な雪を頂く6,000〜7,000m級の天山山脈が延々と続いていた。文字通り天まで届きそうな山々だ。毎週ゴルフ場へと出かける折に見かける西三河の山々を幾ら熱心に眺めても、そこから荘厳さは一切感じとれないのに、大草原を背に天山山脈を凝視すると、山々に神が宿ると古代人が考えた心境に、然もありなんと自然に頷いている自己を発見して驚く。

   カザフスタンは天然ガスや石油だけではなく、ウランも豊富な大資源国。今や資源開発の真っ最中で給料は急上昇中。現地ガイドの説では、平均給与はカザフスタンでは月給700$、一方隣接国のキルギスでは何とたったの50$だそうだ。国土が細分化されればされるほど各国間の生活水準の格差は開いていくが、正しくその実験場みたいなものだ。

   途中、初めての青空トイレを体験。私は子供の頃は勿論、ゴルフ場でもしばしば立小便を体験していたので抵抗感は全くない。戦後暫くまで日本の農村地帯では、女性は腰巻を常用。農作業中にしゃがまずに前屈(かが)みで排尿していた。

   昭和7年12月16日、白木屋百貨店(後の東急百貨店日本橋店。バブル崩壊後、三越本店と高島屋東京店との競争に敗れ敢え無く閉店⇒COREDO日本橋と名づけられた斬新なデザインの高層建築に立て替えられた)で火災が発生し、綱にすがって脱出しようとしていた女性が、裾がめくれるのを押さえようとして綱から片手を離したため、体重を支えきれずに13人も墜落死した事件を思い出す。
   
   ズロースを履くようになった今時の女性は、今回は逆に些か不自由していたようだ。私は青空トイレ対策としては傘持参よりも、腰巻持参をこそお勧めすべきだと思ったが・・・。

[2]国境も無事に通過
   
   カザフスタンとキルギスの国境はアフリカの国境やアメリカの州境のような緯度や経度に平行な直線ではなく、チューイ川だった。国境の通過は時間の浪費となったが我慢に我慢! いよいよ山岳国家キルギス(国土面積の40%以上が海抜3,000m以上の高地。最高峰は勝利峰=7,439m)に入国。キルギスの首都ビシュケクの郊外のレストランで昼食後、ホテルに到着。

[3]ビシュケク
   
   ビシュケクは北緯43度、札幌とほぼ同じ。キルギスの北端に当たる。海抜750〜900m
の高原の町。周囲に山々もあり緑豊かな、景観も素晴らしい街だ。

   ソ連時代の1926年に赤軍司令官の名に因んでフルンゼと名づけられていたが1991
年に馬乳酒作りの道具の名前『ビシュケク』に改称。ソ連離れはこんなところからも徐々に進むようだ。

@ 国立歴史博物館

   ソ連時代に建てられた壮大な軍事会議所を改装し、2階はレーニン博物館、3階がキルギス各地からの発掘物と遊牧民の生活道具などの展示場となっていた。実物大のパオも展示。

A カルダイ・プラザ(専門店の集合体)

   ビシュケク最大の有名百貨店ツムに行く予定だったのに閉店直前の到着で入店できず、近くの専門店の集合体のような2階建ての新しい店へと移動。何とエスカレータもあった。回遊する通路の両側に『コ』の字型の壁面で囲まれた店舗が向き合っていた。
   
   衣料品と生活雑貨の店。電化製品もあったがキルギス人の所得水準からは高すぎるのか客は少ない。衣料品の品質や価格は日本でのスーパーのバーゲンセールとあまり変わらなかった。中国などからの輸入品が主であるためか?
   
   どこかで買いたいと予定していたキルギスの民族帽も発見したが、飾りがあまりにも装飾過多だったので見送った。当日宿泊したホテル内の売店で手ごろなものを発見。日本から被ってきていたペルーの牛革の帽子と取り替えて、翌日からは帰国する日まで被り続けた。その後、あちこちの店で同じデザインの帽子を発見したが、ホテル内の店の3$が最安値だった。
   
[4]ブラナ(5月6日)

   ビシュケクの高層ホテルからの眺めは絶景だった。遠くには雪を頂く天山山脈、眼下には広大な果樹園や大公園。あちこちに建設中の高層マンション。果樹園を切り開き、緑地帯もたっぷり確保した、同じデザインの赤い屋根が美しい総2階建ての分譲住宅街も覗ける。さながら別荘地帯の風情だ。

@ ブラナの塔

   10〜13世紀にトルキスタンで栄えたカラハーン朝の遺跡。直径の大きな煙突のような形(円錐台)をしたレンガ造りの塔。45mもあった塔は地震で崩壊し24mになった。外周は数メートルの高さ毎に淡色と濃色のレンガを交互に使用し、横縞のデザインがくっきり。外敵への見張り台だったらしい。


   
   内部の狭い暗い螺旋階段を上ると修復された展望台に到着。周囲を見渡すとどこまでも続く草原や畑。遠くには天山山脈。ここもまた素晴らしい眺めだ。

A 石人(せきじん)

   ブラナの塔の近くには野外博物館があった。キルギス各地に点在する突厥戦士の墓の上に置かれていた『石人』と呼ばれる、石で作られた等身大の上半身像が百体くらい集められ、草地に無秩序に展示されていた。多民族国家なのか、顔の表情はいろいろ。お地蔵様に似ている。



   その一角には直径1m以上もある大きな丸い石臼など、生活用品も展示されていた。

   昼食を民家で摂った。民家と言っても大きな家。30人近いグループを2部屋に招き入れ、それだけの食器と食事を家族だけで準備するのは大変だ。実質的には民族料理を提供する家族経営の民宿風レストランだった。旅を楽しく演出するための旅行社の演出か?

B 岩絵野外博物館

   人類最古の絵の一つとして、スペインのアルタミラの洞窟内に描かれた絵が古来有名であるが、これも一種の岩絵である。世界遺産ブームの影響か近年、世界各地に残された岩絵の紹介が盛んになってきた。アフリカやアメリカの沙漠地帯の岩絵が特に有名であるが、キルギスにも膨大な岩絵が残されていた。
   
   天山山脈とイシク・クル湖(後述)に挟まれた一角に氷河時代に運ばれた大小(数メートルから数十センチ)様々な岩が転がっていた。その岩の表面にスキタイ人が描いたといわれる4,000年前からの岩絵が900個もあった。遺跡保存のためか、鉄柵で囲まれていたし、入場料ももちろん取られた。


 
   代表的な岩絵には解説の立て札も立てられ、幾つかのコース(長・中・短距離)が用意され、矢印に沿って見学できるようになっている。羊とか狩りの様子とかテーマは種々。岩に黒い特殊な塗料を塗りつけた後、塗料を掻きとって岩肌を露出させることにより得られた線画。長い間、コケに覆われることもなく保存できたのは驚異的。

[5]イシク・クル湖(5月7日)

   天山山脈の麓に煌くイシク・クル湖は『中央アジアの真珠』とも言われながら、ソ連時代には兵器開発の拠点もあったとかで、外国人は立ち入り禁止状態に置かれていた。

       イシク・クル湖    チチカカ湖     琵琶湖

高度       1,608m              3,882m          85.6m
面積           6,332km2           8,562km2       670km2
最深部          702m                 285m         103.6m
体積           1,738km3              903km3        27.5km3

   イシク・クル湖はチチカカ湖とその美しさが並び称される高原の大きな湖である。琵琶湖の10倍弱の面積なのに体積は何と63倍もある。高原なのに凍らないので『熱い湖』とも言われている。冬季、凍結の可能性がある限界値まで気温が下がるものの、熱容量が大きすぎる結果、凍結をまぬかれているのではないかと推定した。


 
  流出河川は無く、年間降雨量の変動で海抜も多少は変化。やや塩分も高いため魚種は少なく、透明度はバイカル湖に次いで世界2位とも言われ(かつて透明度世界一と称されていた摩周湖を11年前に初めて見たときには、湖面までは降りられず透明度を確認できなかったが、観光開発の影響から濁り始めたのだろうか?)、晴天下に輝く紺碧の湖面の美しさは格別だった。

   岸辺からは長さ100mくらいの遊歩道が架けられ、振り向けば視野に迫る湖岸の後に雪を抱く雄大な天山山脈が美しく立体的に望めて、いつまでも見飽きなかった。

   かつて玄奨三蔵も立ち寄ってその美を大唐西域記に『大清池』と書き記し、ティムールはその避暑地にしたとか。今や湖岸では観光開発が進み、周辺全体が巨大公園と言っても過言ではない。広大な水面・透明な水・美しい砂浜・緑の木々・立体感溢れる山々、こんなに美しい景色には滅多と出くわせない。何としてでも守られるべき地上の楽園だ!

[6]クラスナヤ・レチカ遺跡

   5月7日は600kmもの長距離移動の日だった。途中の単調さを紛れさせるのが目的か、クラスナヤ・レチカ遺跡に立ち寄った。

   ここは6世紀の頃栄えたシルクロードの要衝の一つだそうだ。ソ連時代に発掘調査がなされ、涅槃像なども発掘されたそうだが、小高い人工の土山は崩れ落ち、あちこちにある原形を留めない日干し煉瓦の廃墟は『想像力を奮い立たせて見るものだ』そうだ。

   再びカザフスタンに入国。添乗員がパスポートを集め、管理事務所に申請手続き中はバスの中で待機。やがて係官がバスに乗り込み、写真と本人を照合してパスポートを返却して完了。
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トルクメニスタン

   5月10日の朝、ウズベキスタンのヒヴァを発ちトルクメニスタンへと向かう。ここでの出入国には3時間も掛かりうんざり。

   国土の70%もの面積をカラクム砂漠が占めるが人口密度も10人なのでゆとりは十分にある。天然ガスは旧ソ連圏ではロシアに次ぐ産出量があり、天然資源も豊富。国土を東西に走るアムダリア河から引かれた灌漑用のカラクム運河は何と1,100kmもあり世界最長。泥水が轟々と流れている姿は圧巻。

   トルクメン人の父と称されているニヤゾフ大統領は旧ソ連時代の個人崇拝の伝統に身を置く独裁者のイメージが払拭できない。国内至る所に写真や肖像画が飾られている。法律では大統領の任期は5年なのに、終身大統領扱いになっているそうだ。肖像画は当然のことながら写真よりも遙かに美男に描かせているが、情けない魂胆だ。

[1]クフナ・ウルゲンチ(5月10日)

   クフナ・ウルゲンチはホレズムの首都。モンゴル軍やティムールに破壊されたが10
〜14世紀までの500年間、ペルシアに通じる交易都市としても栄えたものの、アムダリア河の流れが変わり、首都がヒヴァに遷都して衰退。

   人家も見当たらないような荒野に遺跡や墓地が無秩序に点々・・・。それらの内の代表的な幾つかを訪問。

@ トレベク・ハニム廟

   クトゥルグ・ティムールの妻の廟。二重ドーム構造の建物だったが、上部のドームは破壊されたまま。下部のドームの球殻のような天井のタイル張りの模様が美しかった。

A クトゥルグ・チィムール・ミナレット

   ミナレットとはモスレムの各集落にあるモスクに付随したタワー。導師がタワーに上りお祈りへの参加を呼びかける目的で建てられた。その後、大帝国が都心に超大型のモスクを建て始めると、ミナレットがそれに連動して大型化しただけではなかった。

   エジプトの大神殿に建てられたオベリスクのような記念碑の性格を帯び始め、単なるタワーから、全体を彫刻で覆う豪華版へと変貌した。時には戦勝記念碑になり、皇帝の威厳を誇示する建築へと変わっていった。

   クトゥルグ・チィムール・ミナレットは中央アジアでは最も高い67mのタワー。横縞になるようにレンガやタイルの色が変えられてはいたが、デザインは単調。火力発電所の煙突を連想しただけ。デリーにあるムガール帝国の世界遺産『クトゥブ・ミナール』に比べれば、そのデザインの精緻・華麗さは正に月とスッポンほどの差があった。



   中央アジアの広大な面積を武力で支配しても、人口は少なく、経済力(国力)は意外に小さかったのではないかと思えてならなかった。

B スルタン・テケシュ廟

   1172〜1200年、ウルゲンチの黄金期を支えた王の廟。ドームの形が普遍的に見られる球形ではなく、円錐だった。円錐の表面はブルーのタイルを貼った幾何学模様。但し、少しタイルが剥がれたままになっていてうら寂しい。

C イル・アルスラン廟

   ウルゲンチの治水工事を命じた王の廟。ドームの形は12角錐。青タイルで水を表す波型の模様を表現していた。廟のドームの形や模様にそれぞれ工夫が凝らされているのが看取される。



D 墓地

   バスで移動中に集団墓地が観光専用道路から数百メートル離れた一角に現れた。梯子に似た枠が立ててあるのは男性の墓、横にしてあるのが女性の墓。何を意味しているのか、見当も付かない。

   夕食後、北部のタシャウズから南部の首都アシハバードへトルクメニスタンを飛行機で横断。ホテルに着いたのは24時40分。

[2]アシハバード(5月11日)

   アシハバードの中心街はトルクメニスタンの顔。中東の石油大国を髣髴とさせる目の覚めるような美しい街に変容。沙漠の国なのに緑が溢れ、建蔽率は20%以下かと思われるほどのゆったりとした敷地に建つ官庁街・集合住宅・ホテル群。夫々のデザインも目を見張るほど。格子状に張り巡らされたゆとり十分な道路網。一般国民の生活とは別世界。中央アジアにもこんなに美しい大都市があったのだ。

@ タルクーチカ・バザール

   郊外にあったトルクメニスタン最大の規模のこのバザールに隣接した、超大型の駐車場には百台以上のバスやトラックが勢ぞろい。自家用車は普及していないも同然なので、買い物客を乗せてきたバス群と推定せざるを得ない。200*200mは優にありそうなバザールは格子状に通路が設定されていたので、迷子にもならず合理的なレイアウトだ。

   雨が殆ど降らないので、仮設店舗が主。強い日差しと埃避け程度のテントが張られている。ここのバザールは日本でバブル崩壊後、雨後のタケノコのように続々とオープンしたショッピングセンターよりも商品の種類は格段に多く、スーパー・食料品店・ホームセンター・自動車部品店などの集積場の観があった。中でも絨毯売り場は圧巻だ。地面に広げたり、洗濯物干しのような横棒に掛けたり、その模様や品質の全貌が即座に把握できる売り方だ。

   自動車部品売り場はいわばリサイクルセンターだ。歯車・ネジ・スプリング・タイヤ・バッテリ・工具など、無いものは無いと思えるほどの陳列。日本政府にしごかれながら各社が嫌々ながら格闘している国産車のリサイクル率(70%前後?)とは雲泥の差だ。

   超満員の客を押し分けながら駆け巡っていると、大昔からシルクロード沿線各地で繁栄した通商都市の歴史的な目撃者になったような気がしてきた。ここでは人種や民族、宗教すらも何の影響力も無いようだ。商取引さえ成立すれば、みんな幸せなのだ。

   歩き疲れてビールが飲みたくなった。モスレムが殆どなので店頭ではビールを見かけなかった。しかし、何軒目かでとうとう発見。目立たぬように冷蔵庫の下の方に隠してあった! これぞ商魂の象徴! 沙漠のど真ん中でオアシスを発見した心境になった。

A ニサ遺跡

   紀元前2世紀から紀元後3世紀に栄えたパルティア帝国の都市遺跡。ゾロアスター教の塔や神殿があったとガイドに解説されても、日干しレンガ造りの各種建築物は殆ど形を留めぬほどに崩壊し、再建するための膨大な日干し煉瓦が作られている最中だった。

   第二次世界大戦で瓦礫の山になった欧州各国が昔の美しさに再建された国力との違いをまざまざと見せ付けられた。添乗員が『想像力を働かせて遺跡を見てください』と幾ら叫んでも、何のためにこんなものを見に連れてこられたのかとの、同行者たちの不満は収まらなかった。

B 国立博物館

   1998年にオープンした豪華な2階建ての博物館。1階はニヤゾフ大統領の自己宣伝の場。2階はトルクメニスタン各地の発掘物の展示。日本各地にも石器時代の発掘物の展示館があるが、この種の発掘物は大同小異なので、些か食傷気味。

C 競馬場と馬舎

   トルクメニスタンは中国の歴代皇帝が垂涎の的にしていた軍馬(汗血馬)の産地。大きな競馬場を見物。トラックの内側は雑草が伸び放題のまま。美しさを維持するという観念も無いようだ。競馬の休日に汚い競馬場だけを見ても、時間の浪費と感じただけ。

   競馬場に隣接して大きな厩(うまや)があった。競走馬は総て個室生活。100頭くらいか? 建物の外観も内側も汚くて、汚くて馬が可哀想に感じられてならない。カタールで昨年見た厩の美しさとは大違い。これが彼の有名な汗血馬だといわれても、サラブレッドよりも一回り小さいし、迫力を感じなかった。

   汗血馬とは血のような赤い色の汗を掻くことに由来するそうだが、とかく伝説と言うものは大げさだ。軍馬の価値は俊足よりも長距離疾走の耐久力にあるのだろうと類推しただけに終わった。

   厩で半勃起状態の陰茎を発見。包茎に感じたので添乗員に日本語で早速質問。『汗血馬は包茎ですか?』私は包茎の英単語を知らなかったのだ。どうやら添乗員も英単語を知らないらしい。『私は通訳ではありません。直接聞いてください』。そのやり取りを聞いていた同行者は『セクハラだ』と、またもや一斉に私を非難した。

   若い飼育係がいたので英語で質問。彼は英語を理解した。包茎と言う言葉を使う代わりに『陰茎の先端を覆っている皮膚は、交尾中も先端を覆ったままですか?』。彼は即座に我が質問の意味を理解した。

   『貴方が厩で見たのは半勃起状態です。交尾中は亀頭が露出します。私たちモスレムは割礼をします。何のために割礼をすると思われますか?』と逆に質問してきた。
   
   『包皮と亀頭との間に恥垢(ちこう)が溜まり不潔になるのを避けるためです。しかし、日本人の大部分は大人になると、平常時でも包皮が反転して亀頭が露出したままになるので、割礼の習慣はありません。でも恥垢はリング状のくびれに溜まるので入浴時に取り除きます。非常に少数ですが大人になっても勃起時に包皮が反転しない人の場合は、手術で包皮を切除します』
   
   彼は興味深く私の話を聞いてくれた。本当は言葉よりも実物を見せながら解説したかったが、仲間が聞き耳を立てていたので中止の憂き目。馬は仮性包茎(平時は包茎、戦時は非包茎)だったのだ!

D アナウ遺跡

   日干し煉瓦造りの建物が幾つかあったものの、どれもが崩壊状態。とはいえ、未だ完全に土には戻っていず、半分くらいはレンガの形は残っていた。

   一角には完全に復元された小さなモスクもあったが、ここまで見に来て満足したとの心境にはほど遠かった。

E 民族舞踏(ディナーショー)

   暗くなったころ屋外に準備されたテーブルで夕食を取りながら、トルクメニスタンの民族舞踊を鑑賞した。特殊な楽器による演奏に合わせて、民族衣装に身を固めた美男美女による各種ダンスだ。

   世界どこでも民族舞踊に出てくる人は、若い美男美女が厳選されるのが世の常。タイルが貼られた土間が舞台代わりだ。ダンスの上手さよりも体型(身長と体重のバランス)や容貌が優先されるのは、美人が結婚市場で高く評価される習慣同様に、人間の本性からなのだろうか?

   次の時代のスターになれそうな小学校高学年くらいの美女も、既に一人前のダンスを見せてくれた。終了後に踊り子一同と一緒に記念撮影。

[3]メルヴ(5月12日)

   トルクメニスタン第2の都市マーリの東30kmにあるメルヴは、ペルシアと中央アジアを中継したシルクロードの代表的なオアシス都市だった。

   アケメネス朝・セレコウス朝・パルティア帝国・ササン朝でも栄え、一時はセルジュク・トルコの首都にもなった。

   古代都市には建設と破壊が同じ場所で繰り返され、トルコのトロイのように重層的になった遺跡が発掘される場合が多いが、メルヴでは上記の5つの異なる時代の街が隣接して存在している。その結果『さまよえる町』と称されてもいる。

   メルヴにはゾロアスター教・キリスト教・イスラーム・仏教も栄えた。仏教遺跡の西端地としても有名。

@ スルタン・サンジャール廟

   立方体の建物の屋上に半球形のドームが乗っかった、外観からは何の特色も感じられなかったが、メルヴに残っていた唯一の原形を留めている遺跡。高さは38mもある大きな建物だ。内部は修復され磨き上げられた石棺が一個建物の中央部にあり、信者の寄進したお金が石棺の上に並べてあった。私も入場料のつもりでささやかな献金をした。

A エルク・カラ(カラとは城の意)

   半砂漠状態の大平原の中に人工的に高さ数十メートルの小山を築き、ゾロアスター教の神殿があったそうだが、今や日干し煉瓦の建物は土と化し、何も残っていない。こんな小山の上まで連れてこられて、古代の壮大さを口頭で幾ら熱心に説明されても、困惑するだけで聞く気も起きなかった。

   小山の上は一種の展望台。崩壊した遠くの城壁などを眺めただけ。

B グャウル・カラ

   添乗員がこの同じ場所でゾロアスター教・キリスト教・仏教が信仰され、あれが4
世紀に建てられたストーパですというが、いずこも土と化したでこぼこした土塊に過ぎず、
どれが何やらさっぱり解らない。

   本人も全くわからないことをしゃべっているだけで聴くのも馬鹿らしくなり、添乗員に確認の質問をすると『私はガイドではありません。添乗員です』と言ってまたもや逃げた。

    C 大キズカラ・小キズカラ

   メルヴの遺跡で最も有名で、どのガイドブックにもその写真が載っているのは大キズカラである。ササン朝時代の豪族が6世紀に建てた日干しレンガ造りの巨大な城址である。天井は既に落ちて土塊と化ししているものの壁面は残っている。乾燥地帯のためか日干し煉瓦でも往時の姿が残されているのは興味深い。



   少し小ぶりではあるが似た形状の小カズカラも200m離れて現存。近くには放牧されている100頭もの駱駝がのんびりと草を食べていた。駱駝の放牧は初めて見た。

    Dバザール

   100*100mくらいの壁の無い大きな平屋作りのバザールに出かけた。周辺には掘っ立て小屋がバザールの建物を取り囲むように軒を連ねていた。食料品と衣類や雑貨が主だが買いたくなるものが見つからない。

   やっと探し当てたのは乾しメロンと梅によく似た果物の種。珍しく感じて買った。掘っ立て小屋でも紅茶と緑茶を各1kg買った。数分後、この香りがしないお茶の品質に疑問を感じ返却を決意。

   商人は一度納得して買った物は受け取れないと尤もな主張。押し問答の末、1割引の価格なら買い戻すと軟化。でも数分前の商談だったので諦めずに強引に再交渉の末、お金を取り戻したが、悪いことをしてしまったとの自責の念も若干だが残った。

   集合場所に戻ったときに、片手に副え木を当てた小学生が数人の仲間と談笑していた。彼の聡明そうな目と視線が合ったとき、即座に1$を上げた。商人を落胆させた罪滅ぼしの気持ちが働いたのだ。少年はバスの駐車場までの200mを私たちの後ろから付いてきた。感謝の気持ちを込めながら手を振って別れを惜しんでくれた。

[4]移動日(5月13日)

   一日かけてトルクメニスタンからウズベキスタンへと移動した。途中カラクム沙漠の端っこを横断。サハラ沙漠並みの砂丘も時たま現れたが、大部分は草もまばらに生えている半沙漠。

   灌漑用水が来ている所は農耕地に変わっていた。10cmくらいに伸びた棉花の間引き作業は今なお人海戦術。

   アムダリア河にかかる長さ800mの橋には重量制限があるのか、バスから降ろされ橋に並行して掛けられた歩道専用の浮橋を歩いて渡った。浮橋は流されないように車道用の橋に連結されていた。空のバスは無事に通過。でも大型トラックが通過していたので、この制限には何か別の目的があるのではないかと疑問にも思えた。

   アムダリア河の水量はこのあたりでは豊富。両岸まで満水。しかし、泥水の濁土は飽和限界に近い。浚渫船が一隻作業中だったが、焼け石に泥水の感。
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タジキスタン

   タジキスタンは旧ソ連15ヶ国の中での最貧国。現地ガイドの説では平均月給は30ドル。面積は北海道、九州、四国の合計に近い14.31万平方Km。国土の半分は3,000m以上の山岳国家。中央アジアの最高峰ザマニ山は7,495m、富士山の約2倍もある。

   サマルカンドからの日帰り旅行とはいえ、はるばるタジキスタンに来ても、これといって感動するような観光対象にも出会えず、訪問国数が一つ増えただけの収穫に過ぎなかった。客寄せのために『中央アジア5ヶ国大周遊』と観光募集に書きたいために付け加えられたような国だった。

[1]ペンジケント(5月17日)

@ ルダーキ記念博物館

   ルダーキはサーマーン朝時代に活躍したイラン古典文学の父とも言われる、タジキスタンでは超有名な歴史的な人物。彼の名前を冠した通りの名前や建物も多いとか。

   この博物館の庭には彼の銅像が立てられていた。博物館内部には下記のペンジケント遺跡からの発掘品も展示されていたが、特記するようなものには出会えずのまま。

A ペンジケント遺跡

   ペンジケントの郊外の台地の上で1933年に羊飼いが発見した、ソグド人の古代都市遺跡。『中央アジアのポンペイ』といわれるそうだが、日干しレンガ造りの遺跡は、殆ど崩壊していた。ガイドが熱弁を奮って、あれこれが商店街・住居・拝火教(ゾロアスター教)の神殿・宮殿などと幾ら説明しても、空しく遺跡に向かって木霊するだけ。

   眼下の谷あいを流れるサラフシャン川に沿って、膨大な数の民家が眺められた。背後に聳える草木一本も無い不毛の山塊とは対照的に、川原に近い平地には地下水も豊富なのか、屋敷は緑の大木に埋まったかのような美しさ。我が質問に農業が主な生業とガイドは答えたが、周辺には農地も牧草地も殆ど見かけず、何をしているのか、実際は解らなかった。



B バザール

   国の貧しさはバザールの建物や商品にも現れる。ガイドによればこの国では蜂蜜がお買い得だそうだ。蜂蜜には砂糖を混ぜた偽物が多いが、ここの蜂蜜は本物だそうだ。本物は何時まで保存しても結晶が現れないと強調。

   帰国後インターネットで検索できるウィキペディア百科事典で調べると『蜂蜜は糖の過飽和溶液であり、低温で結晶化する。結晶化した部分はブドウ糖、結晶化しない部分は果糖』と書かれている。砂糖を混ぜなくても蜂蜜に沈殿物は発生するが、蜂蜜らしさは果糖にあるので、高級品は沈殿物を濾過したものらしい。タジキスタンの蜂蜜は果糖比率が高いと理解したが、蜜源は何の花なのだろうか?

   私は今まで結晶が沈殿するのが本物と誤解していた。かつて、トヨタ自動車保険組合が組合員向けに蜂蜜の特売をしていた。いつも1Kg入りを10本買った。発砲スティロール製の断熱容器にぴったりはめ込んであるのに、冬になると沈殿物が1/3も溜まった。たとい偽物ではなくとも、粗悪品と知ってしまった今となっては忌々しい思い出だ。

   蜂蜜の容器の形状はまちまちだった。コカコーラやミネラルウォータなどのPET容器の再使用品だった。ラベルも貼られていない。一本1.5Kg入りを記念に買った。帰国後、我が家で取れる甘夏のジュースにこの蜂蜜を少し混ぜて飲んでいるが、本物と吹聴され洗脳されているためか、美味しく飲めるから不思議だ。

C 夕食

   この日の夕食はサマルカンドのレギスタン広場にあるウルグベク・メドレセの庭で民族バレーを鑑賞しながら摂った。

   その時、ウェイターが客席を回りながら、ワゴンに載せた子羊の丸焼きを見せた後、全員に均等に配られた。観客も多いから、一人前は2,3切れ。これも、話題提供の一齣か?


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おわりに

   観光予定地に関する書き物を濫読し、脳裏に刻み込まれた疑問点について、一つずつ現地現物で確認しながら解消していくのは海外旅行のいつもの醍醐味のひとつだった。しかし、これまたいつものことながら今回も、ガイドなどに確認しても解けない疑問も残念ながら残ってしまった。

   一方、『人の価値観は、何故千差万別なのか?』と、海外旅行のつど感じていた積年の命題について、多数の多民族国家を一度にかいまみた結果、私なりにほんの少しだが考える機会にもなった。

[1]人口問題

   中央アジアは日本の10倍以上、400万平方キロメートルもの広大な国土に恵まれていながら、人口は日本の半分にも満たないたったの5,800万人なのは何故なのか?

   極寒のシベリアとは異なり、冬こそ若干寒いとはいえ気候は概して温暖だった。沙漠や山岳地帯があるとは言うものの、広大な居住可能な可耕地は十分に存在していたにもかかわらず、何故という疑問だ。

   現地ガイドが熟慮した挙句の我が質問への回答とは、『周辺からの異民族の侵入が歴史的に相次ぎ、虐殺が絶えなかった』というものだった。ガイドブックにも『元』の侵攻では皆殺しにあったと、物的根拠も明示せずに気楽に書いてあるが、私には大変疑問だった。

   近代以前の戦争は兵士間の闘いが中心であり、庶民は殺されるよりも奴隷にされる場合が多かったからだ。中央アジアではソ連の植民地になるまで、奴隷市場が存在していたのが何よりの証拠だ。一説によれば中央アジアでは、ロシア人の壮年男子奴隷の取引相場は駱駝4頭分だったとか。

   遊牧民は移動しながら生活するので物的資産の蓄積は難しい。彼らの主な資産は羊などの放牧動物だ。当時の周辺の強国から見た中央アジアの価値(現在では地下資源が最大の価値になっているが・・・)とは、放牧動物と奴隷化できる住民及びシルクロードを通じた交易への課税権くらいしかない。住民を皆殺しにすれば放牧動物の管理人もいなくなり、資産の獲得に繋がらないことは十分予測可能である。

   私には中央アジアの最大の弱点は異常気象への備え不足にあったのではないか、と思えてならない。かつての遊牧民には穀物を蓄積し、定住化して家畜を穀物飼育する習慣が無かった。時たま発生する雨不足で一斉に草原が枯れて放牧動物が餓死すると、たちまち食糧不足に陥り、最終的には人間も餓死。その結果として、人口の増減が繰り返されたと推定するのが自然だ。

   冷涼な気候の欧州北部ではペスト以外でも、食糧不足での餓死による人口減は何度も発生したとの記録も残されているが、中央アジアにはそのような記録が残されていないだけのことではないか、と思えてならない。

   とはいえ、戦争による虐殺説も我が餓死説にも弱点がある。古代遺跡が大量に発掘されるのに、人骨は何故大量に発掘されないのかという疑問だ。人骨は日干し煉瓦よりも保存性は高い上に乾燥地帯だし、火葬の習慣が無いモスレムの国なのに不思議でならない。

[2]三つ子の魂

   手持ちの古い広辞苑では『三つ子の魂百まで』の意味として『幼児の性質は老年まで変わらぬことのたとえ』とのみ解説されているが、私には三つ子の魂には性格だけではなく、本人が意識していなかった幼児期に吹き込まれた価値観の働きがあるように思えてならない。海外を旅して強く感じるのは『何故、所変われば人の価値観も変わるのか』に関する疑問である。

@ 言語

   人は自らの意志では両親を選べないのと同じように、母国語を選ぶことも出来ない。生れ落ちた環境で最も多く使われている言語を無意識下に学ぶだけだ。

   言語の中にはその言語を使ってきた人々の文化や価値観まで埋設されており、その呪縛から脱出するのは困難である。その結果、言語によって国民性のかなりの部分まで自然に共有されることになる。

   同一人物(外国人でも)が日本語で話す場合と英語を使う時とでは、態度が変わることは良く知られている。英語の場合には能動的に、日本語の場合には受動的に自然に変わるそうだ。また、日本語には人称代名詞が数え切れないほどあり、敬語法が網の目のように言語に埋設されているため、自己主張が単刀直入には出来にくいことも、しばしば指摘されている通りだ。

A 宗教

   自らの宗教観が形成される以前の幼児期から、両親や地域社会の方針や習慣により、ユダヤ教・キリスト教・イスラームの各国民(経典の民)は、生れ落ちた時から洗礼・礼拝などの宗教活動に半ば強制的に組み込まされている。

   その結果、誘い込まれた宗教の呪縛から自由になれない人が大勢発生している。彼らは三つ子の魂を死ぬまで忘れることも出来ず、命を落とすようなテロをもいとわない。三つ子の魂を最大限利用しているのは宗教界だ。3宗教界の抗争が何千年も続いている最大の原因だ。

   3宗教界と対照的な行動をとるのは日本人である。幼少期に宗教による影響を受けることが殆ど無いため、狂信的な仏教徒にもなれないし、何時までも信仰心は身に付かない。宗教による洗脳は、物心付いた大人になってからでは遅すぎるようだ。

B 教育

   教育界も三つ子の魂を大いに利用しているようだ。中国・韓国・北朝鮮における反日教育は大成功している。戦前の日本の愛国心教育の成功も笑い話ではない。

   判断能力の乏しい幼少期に洗脳すれば、物忘れも激しく認知症になりかけたような老人や老女相手の教育よりも格段に効率的だ。

   この種の教育効果は一生涯を通じてかなり持続するので、国民の行動意識を急激に変えさせるのは困難だ。

C 環境

   どこの国の人も『どこで余生を過ごしたいですか?』との質問には『私はこの地で生まれ育ちました。私の故郷はここです。ここで生きながらえて死ぬのが最も幸せです』と答えるのは何故か。客観的に評価すれば快適な気候、快適な生活環境とは全く対照的な不毛の地に生まれた人すらも、同じように答えるようだ。

   中央アジア人が地震のたびに圧死するような日干し煉瓦の家を繰り返し建てるのも、逃げ出したくなるような不潔なトイレに平気なのも、石油成金のアラブ人が沙漠でのベドウィンのテント生活に憧れるのも、第二次世界大戦後の欧州人が万難を排して戦前の町並みを復活させたのも、日本人が掘っ立て小屋を造っては壊しの生活で資産を使い果たし、60歳すぎてすら余生のためにせっせと働きたがるのも、田舎の両親を親孝行のつもりで高層マンションに引き取ったら脱走されてしまったという悲劇も、経済性が全く無い家庭菜園に私が没頭して心に安らぎを感じるのも、これら総ての真因は各自の遺伝子に書き込まれている先天的なプログラムの発現ではなく、後天的に埋め込まれた三つ子の魂にあったと思えてならない・・・。

[3]中央アジアの魅力

   私にとっての中央アジアの魅力とは、日本に閉じこもっていては得られない雄大なスケール(大自然・壮大な歴史遺産・多民族の文化)との出会いにあった。日本人をふと観察すると不遜にも、ガラパゴス諸島で進化(退化?)したともいわれる動物を連想・・・。

    @ 大自然

   天山山脈の迫力はアンデス山脈を上回った。山脈の長さはアンデスが世界一であるが、全貌を一度に見ることは出来ず、アマゾン川の源流の渓谷から見上げただけだ。一方、天山は大草原からその雄大さを眺望できた。

   天山山脈の最高峰はキルギスの勝利峰(7,439m)、アンデス山脈の最高峰はアルゼンチンのアコンカグア(6,960m)。高さそのものの違いは大同小異だ。紺碧の青い空にくっきりと浮かび上がる白雪に覆われた山頂は荘厳だ。安曇野や富山湾から眺めた北アルプスを激賞するのは、我が心の中で無理だとのホイッスル・・・。



   天山山脈の麓のイシク・クル湖も宝だ。湖の命は透明度。日本各地の湖の汚さにはうんざり・・・。

   大草原の美しさも格別だ。遙かなる地平線まで一様な緑が続く。欧州や北海道の農業地帯のなだらかでゆったりとした緑溢れる農場も美しいが、残念ながら境界線となる道路や樹木がアクセントにはなっても、視界の夾雑物と化している。ましてや日本各地で激増している荒れ果てた休耕地には雑草が・・・。

A 歴史遺産

   中央アジア各地に残る日干しレンガ造りの古代遺跡は今や殆どが崩壊し、往時の壮大さは想像すら出来ないが、焼成煉瓦と色彩タイルとで造られた建造物の壮麗さ・美しさを見ると、当時の人たちの意気込みが生々しく伝わってくる。

   我が祖国日本の各地に、再開発の号砲の下に高層建築物が増え始めて久しいが、世界遺産になれそうな美観が伴わないのは、エコノミック・アニマルの三つ子の魂のなせる業か?・・・。

B 多民族

   中央アジアではアジア各地の殆どの民族に会える。ユーラシアの中心だから東西南北の各民族が雪崩れ込んだのは自然の成り行きだ。

   人が最初に出会う外国人は物々交換を初めとした買い物の世界だ。バザールに行けば人種・民族・言語・宗教の異なる多民族に一気に出会える。商談を通じて誰でもいながらにして各民族の価値観に根ざした行動に触れざるを得ない。その結果として、多民族との交流術を自然に身に付け、本物の国際人へと成長していくようだ。  

C 日本人

   私ははるか昔、初めて外国人と出会ったとき、その異質な行動に戸惑ったが、今では頭の中はすっかり逆転してしまった。外国人の行動こそが普遍的であり、日本人が極東の孤島に閉じ込められたまま異常繁殖した結果、ガラパコスの動物のように島の環境に適合すべく特化してしまったと感じるのだ。

   帰国して暫くの間は、奇妙な言動を振りまく非国際人との交流に疲れてしまった。ああ、困った、こまった・・・。
   
   でも、死神に追いかけられながら、多重がんと闘いつつも三年半が無事に経過した。そして、とうとう遥々中央アジアまで出かけられた。生きていて良かった、よかった。

   多くの方々の励ましに感謝しつつ、拙い筆を擱く。


蛇足。

   帰国後の去る6/23に愛知県がんセンターにて、内視鏡による食道がんと胃がんの目視とルゴール染色法による食道がんの検査を受けたが異常なし。半麻酔方式で検査を受けたので苦痛は無かったが、検査終了後は休養室で1時間もこんこんと熟睡。

   主治医は『今後は両がんの再発よりも新発や転移の可能性がある肺がんと大腸がんの有無検査に重点をおきます。10/17には第6回目のPET/CTの検査を予約しました。10/27にご来院ください。もしも肺がんが見つかったら、放射線照射治療は最早使えないため、陽子線治療を採用します』とのご託宣。

   陽子線治療装置は愛知県がんセンターには導入されていないものの、静岡県がんセンターなど数箇所に設置済みなので、紹介状を書いてもらって出かける予定。陽子線治療は未だ公的保険が認められていないため『細々と生きている年金生活者』には自己負担金の2,883,000円はがんよりも痛いが、止むを得ない。

   更に、老化現象に追い討ちをかけられた結果、7/10に名古屋市安間眼科(眼科医が9人もいる専門医院・全員医学博士)で目の検査。10/30に白内障の手術を予約。10/23は手術前の再検査。主治医はカリフォルニア大学バークレイ校で腕を磨いた元名大講師の安間院長。50歳代半ばと推定。手術後のスポーツは2週間も厳禁らしい。

   それまでの貴重な時間を生かして、10/1〜10/15にコーカサス3ヶ国(グルジア・アルメニア・アゼルバイジャン)に出かける予定。カスピ海をクルーズしながら、本場のキャビアを肴にビールをほんの少しだけ飲むのが楽しみ。成田発着・428,000円・西遊旅行社。まだ参加者不足で催行未定。どなたか一緒に行かれませんか?
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読後感


   「中央アジア」を、世界地図を片手に読みました。天山山脈の雄大さは抜群のようですね。地平線まで続く緑の大草原の奥に雪を頂く7000メートル級の山並みに荘厳さを感じられた由。

   富山県出身の私は富山平野から望む立山連峰が最も荘厳な景色だ、と子供の頃から思っていました。10数年前にカナダで見たロッキー山脈に圧倒され、移動するバスの中でカナディアンロッキーを見続けていたのを思い出しました。石松旅行記では、天山山脈はアンデス山脈を上回るとのこと、死ぬ前に見てみたい。

   パックツアー同行者、添乗員や現地人とのやり取りが楽しみです。バス事故のお詫びとして飲み代をただにさせたとのこと。さぞうまかったでしょう。パックツアーの成否にガイドの果たす役割は大きい。ガイドの教育は所属する会社(ユーラシア旅行社)の管理者には出来ない。
   
   客の反応が最大の指針。率直に判りやすく伝えてやることが最良の肥やしになる。ガイド本人はその場では嫌な思いをするが、後で感謝しているはず。「指摘されれば一瞬の恥、指摘されねば永遠の・・・」です。「火力発電所の冷却塔」、「日干し煉瓦の枯れ草」、「パキ人がいないのにパキスタン」、いずれも然りです。拍手。

   「・・・と思います」の口癖について、私も不快な思いをしたことがあります。2ヶ月ほど前、スペイン旅行を計画しJTB岡崎店へ申し込みました。出発10前に日程表を貰いスケジュールの説明と諸注意を受けました。
   
「搭乗機に預けるかばんは施錠をしないほうが良いと思います。X線で不審物が発見された場合、鍵を破壊して検査されるからです。」
「私のかばんは施錠したままチェックインできるTSAロック搭載(米国連邦航空省運輸保安局公認のロックを搭載。検査員が特殊ツールで開錠出来るため施錠して預けてよいことになっている)ですが。」
「それはアメリカだけです。他の国には通用しません。」
「スペインは盗難が多い国と聞いているが、大丈夫でしょうか?」
「それは判りません」
「JTB東海地区管轄で今年になって強制開錠された件数はどれ位発生していますか?」
「判りません」
「万一、鍵が壊された場合、携行品損害補償保険で直せますか?」
「それは対象外でだめです」
「そうなら鍵をかけるわけにいきませんね。施錠してはいけないとはっきり言ってもらったほうが判り易いですよ」
「そこまでは言っていません。施錠しないほうが良いですよ、と言っているだけです。」

「あなた個人の意見ですか?それともJTBの見解ですか?」責任者が出てきた。
「施錠しないほうが良いですが強制はしません。あとはお客様でご判断ください。」

    帰宅後、名古屋市JTB栄店(電話帳で一番大きいと思われた店)へ電話した。
「一週間後に出発するスペイン旅行をJTB岡崎店へ申し込んだ者です。岡崎店の説明に納得がいかないので、筋違いでありますが教えていただきたいのですが。」
「どうぞ」経緯を具体的に説明。
「しばらくお待ちください」。上司に相談している気配。
「お待たせしました。JTB栄店としては、アメリカ線のお客様のみに施錠しないように申し上げ、明記した書類をお渡ししています。アメリカ線以外は従来通りです。従って、施錠してお預けになって結構です。なんでしたら、日本航空お客様窓口へ電話で確認してください。」
   
   電話番号まで教えてくれたので、後学のためにTELした。JTB栄店とまったく同じ答えでした。

   「・・・と思います」は、不勉強で責任逃れの答えだった。

@ トヨタ先輩・ゴルフ&テニス仲間・工

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   頭書の件、中央アジア旅行記一気に読みました。今回は出発前からその計画を直接伺っていましたので、結果どうなったのだろうか、と興味もありました。

   私も旅行が好きで国内外あちこち行っていますが、旅行の最大の魅力は未知の世界を体験できることです。特に外国は自分の想像力の枠の外の出来事が起こり、原因と結果の落ち着くところのプロセスがまた想定外。たまらない刺激で、ものの見方、考え方に広がりを与えてくれます。
   
   石松先輩の旅行記を読むと、これらを居ながらにして自分が体験しているようで、新たな知見を得たように感じます。多分先輩は記述の何十倍もの知見を肌で得ており、うらやましく感じています。
   
   現地ガイドの当たり外れで、旅行の楽しみが大きく左右されるのには困ったものです。卑近な例では、ゴルフ場のキャディの当たり外れと同じ、下手に説明してくれない方がまし。

   私が個人旅行を主にするようになったのも、ガイドの質とお土産ツアーに辟易したからです。尤も、吉田兼好は「何事にも先達はあらまほしきこと」と言っていますので、ガイドが先達としての知識経験を持っているかどうかが決め手だと思います。某旅行社では人気ガイド(添乗員)を指名したパック旅行を売りにしています。

   以上、私の読後感です。写真が入っているのが理解しやすく、帽子の実物を見る機会が来るのを楽しみにしています。

A 高校後輩・工・昨年同窓会でお会いして以来、お付き合いしている方

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   いつもの様に興味深く拝読いたしました。先ずは長文の旅行記を帰国後速やかにまとめられたそのバイタリティに敬服いたします。

   「同行者の素描」には驚かされました。貴兄の上を行く海外旅行を趣味にしている人がいたとは世の中は本当に広い! しかしオーナー社長、不動産長者、バブルセレブなど有り余る金で世界の果を訪ね歩いて見聞を広めている人々が、この日本にいるということはそれ自体結構なこととは思うも、観光地でのわずかなチップを惜しむとは、そのギャップに戸惑いを感じます。
   
   ウズベキスタンのタシケントにシベリア抑留将兵の墓地があるとは全く知りませんでした。小生の親戚、知人の親族にもシベリア抑留後生還した方がいましたし、題名は忘れてしまいましたが当時映画もあり、郷愁をそそる「異国の丘」は小学生の頃、子供心にもこみ上げてくる悲しみを押し殺しながらよく口ずさんだ記憶があります。写真によると日本人墓地は木立に囲まれ行き届いた手入れが施され、献花も絶えないとのこと。せめてもの慰めです。
   
   先日も父の友人からこんな話を聞きました。抑留生活は酷寒の中悲惨を極めた。ある日、1日の森での伐採作業を終え凍てつく山道を、俯(うつ)き加減に重い足を引きずりながら帰っていた。ふと見ると雪にまみれたジャガイモが点々と転がっているのを目にし、仲間とこれはしめたとばかりポケットに押し込み宿舎に持ち帰った。
   
   早速鍋で湯を沸かしポケットのジャガイモを投げ入れ、茹で上がるのを皆で鍋の周りを取り囲み、固唾をのみながら今や遅し、と湯面を凝視していた。頃あいを見て鍋の中のものを掬い上げるも、一向に件のジャガイモは顔を出さない。
   
   ついに互に猜疑心を露にし「貴様が皆の見ていぬ間にどこかに隠した」と口汚く罵る者も出てきた。やがて鍋の湯気の立つ中に、何やら細かくちぎれた藁ようのものがつぎつぎに浮いてきた。実はジャガイモと思ったものは馬糞であり、それが凍りついてジャガイモに化けていたものを拾ってきたのだった。
   
   敗戦を目前にした1945年8月9日未明、旧ソ連は日ソ不可侵条約を一方的に破棄し、満州に侵攻。107万人もの軍人と一部民間人を強制的に連行し、死者行方不明者は30数万人に及んだと言われています。また北方4島には現在も日本からの経済援助を期待しながら、ロシア人が居座り続けています。今もって旧ソ連のロシアへの不信は拭い去ることはできないのです。
   
   山本五十六の言葉に「國雖大好戦必亡天下雖安忘戦必危」(國、大ナリト雖モ戦ヲ好ババ必ズ亡ブ、天下安ラカナリト雖モ戦ヲ忘レナバ必ズ危シ 司馬法−仁本)がありますが、人任せで国は果して存続できるのでしょうか。
 
   蜂蜜成分の違い、刺繍の手織りと機械織り、金歯、スープ、パオの構成などいずれも貴兄の洞察力と機知に富んだ推断を面白く拝見しました。パオについては日本を含め多くの国々で、大同小異の環境にあると思います。つい最近まで、わが国の住宅事情は“うさぎ小屋”と揶揄されていましたから。
   
   三つ子の魂についてさまざまな観点から論じておられますが、この問題こそ真剣に且つ速やかに日本人の1人ひとりが考え、コンセンサスを整え実行に移さなければならない喫緊の課題ではないでしょうか。教育さえ道を間違えなければ、荒んだ日本を立て直すにはそれほどの時間は要らない。20年も経てば今生まれた赤ん坊は、日本人としてのアイデンティティをしっかり持った成人になるのだから。
   
   いま国際化の流れに乗り遅れないようにと、小学校からの英語教育導入が一部計られ、教育現場では戸惑いも出てきています。小生は藤原正彦の「国家の品格」や「祖国とは国語」に共感を覚えます。
   
   ささやかな経験から考えても、国語すなわち日本文化を知らずして外国の人との会話は成立しないのです。商談で技術打ち合わせをするにしても、Technical な折衝については何とか支障をきたさず進めることは可能であっても、仕事を離れたとえば食事や歓談の場になれば、生半可な日本文化の持ち合せではすぐ種切れし、相手の興味を繋ぎとめることはできなくなります。
   
   相手は流暢な英語での内容のない無駄話より、拙い英語でも耳を傾けたくなる日本人のものの考え方を期待しているのです。小・中学生は先ずはしっかり日本語を勉強し、本を読むべきでしょう。
 
   最後に宗教についてですが、今まさに世界では3大宗教の争いの真っ只中。本当に宗教は人間を救うのでしょうか。

B 教養部級友・工

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   トイレ事情で、中国への旅行を敬遠する女性が多いとは聞いていました。しかし、中央アジア観光がそんなにも日本人に人気がないとは知りませんでした。そんな中でのツアー同行者が、並みのサラリーマンとは別世界に住む人々であったとは面白いことです。

   私には目をむく所得と資産内容でしたが、日銀総裁と雖も所詮はサラリーマンで、中小企業オーナーやバブル長者から見れば、「日銀総裁でもあの程度か」と見られていたのでしょう。
   
   同じ中学を卒業した同級生で最も成功(?)したのは、どうやら地元の高校を卒業して家業の牛乳屋を継いだ男となりそうです。中学時代は掃除を要領良くさぼる抜け目のない生徒で、よく教師にこっぴどく叱責を受けていたものでした。
   
   家業を継いで暫くは、飼っていた数頭の乳牛から絞った瓶詰めの牛乳を配達していた筈でした。それが、いつの間にか大手乳業メーカとタイアップして地域最大のボトルメーカになり、近隣で見かける清涼飲料水の自動販売機の多くにその社のロゴがついています。
   
   今や、商工会議所の会頭だそうで”遠州の花火”には毎年1,000万円近い寄付で応えています。東大を出て農林省へ入ったのもいますが、資産形成には高卒で中小企業オーナーとして成功するのが最も良いようで、バブル期の投機でも資産を膨らませたようです。
   
   彼の場合、海外旅行が趣味とも思われませんので、”花火”に寄付をして名前が出るのを喜びにしているのかも知れません。
   
   ”生保”業界に籍を置いた高校時代の友人も、バブル期には会社から借りた金で土地を購入し、上手く売り抜けて億近い利益を得たそうです。バブル景気時の投機相場に参戦したにせよ、十数億円以上の金融資産を蓄えた長者は、甲子園出場を果たせた高校球児ほどの確率。多くはホームレスほどではないにしても、尾羽打ち枯らした人の多い”死屍累々たる世界”であったのではないか? と経済音痴は自らを慰めています。

   ユーラシア大陸のど真ん中とは、漢とローマ・ペルシャや、ウマイヤ朝イスラーム帝国と唐、との東西両強国の狭間にあって少数民族が生き生きと活躍し、オアシスを結んで人とモノが行き交った文明の十字路として実に興味深い所です。
   
   しかし、多くの人を養える農耕に適する土地(豊かさ)の無かったのが、強大な覇権国家を形成できなかった地域であったとのことでしょう。しかし、そこを出自とする蒙古人やトルコ人が農耕可能な地域に進出して大帝国を築いた事跡を見ると、民族の生命力と言ったものが、何で養われるかを教えてくれて興味深いものです。
   
   シルクロードの呼び名が、古来のものではなかったと認識してはいましたが、拠点のオアシス都市に蚕を養う大きな桑の木が植えられ、その並木までがあるとは知りませんでした。テレビで紹介される中央アジアの映像では見事なポプラ並木、ブドウの木やハミウリ等は紹介されても、シルクロードに相応しい桑の大木は出てこなかった気がします。
   
   敗戦直後に身を寄せた父の実家では未だ蚕を飼っており、広い桑畑の中に身を隠して遊んだ覚えがあるのですが、話に聞いていた桑の実は食べませんでした。実の付く前に枝ごと刈り取っていたからでしょう。

   我々は、アジアの歴史の中で漢民族や、匈奴や突厥と呼ぶ遊牧騎馬民族系の人々が中央アジアを跳梁していたと教わりました。その突厥がトルコ系であるのは明らかとして、匈奴と呼ばれた人々が蒙古人やトルコ人と無縁には思われませんが、現在中央アジアに分布する多民族の中でどの民族と最もかかわりが深いのか分かりません。石松さんの見立てではどんなだったでしょうか?
   
   ユダヤ人のラビが、「バビロンの捕囚となったユダヤ人の多くは、メソポタミアから離れて東西交易路のオアシス拠点都市に広く分布し、語学の才を活用して絹を中心とした東西交易の実質的担い手となった」と主張していました。今回回られた都市で、そんな説を裏づけるユダヤ人らしい容貌や風俗の人に出会えたでしょうか?

   国際結婚として「上方婚」「下方婚」の見方は面白いと思いました。選民意識の強いユダヤ人は、基本的には異民族との結婚を推奨することはないでしょう。それと、アーリア人が自分たちを優等人種と固く信じているのは決してヒットラー独りではなく、多くのドイツ人が彼の主張に共感してナチス党に票を投じたはずです。
   
   金髪の比率が高くなる北ドイツほど純潔意識は高く、結婚相手に同じ金髪女性を選んでいた気がします。今はなき名門日本商社のドイツ支店を訪ねたとき、支店長の奥さんはドイツ人でした。支店で雇用していた女性と結婚したとのことで周囲から羨望されていましたが、金髪ではありませんでした。
   
   欧米の男性と国際結婚する「上方婚」の女性例が増えていますが、エリート意識の強いアングロサクソン系で、旧貴族に連なる上流階級の男性と結婚した例は稀のような気がします。
   
   混血となる国際結婚は男性側に”事情”があって、同民族の女性を伴侶として求め難いときに、どうも成立する例が多いような気がします。その点で女性はより子孫繁殖への本能に忠実で、相手とその社会に自分と子供たちを養える豊かさと安定感さえあれば、民族や国籍の違いを問うこともなく伴侶として選んでいるように思います。
   
   宗教はともかく、混血が進んで民族の違いが無くなれば、大きな国際紛争が起きにくくなるのは間違いないと思われ、非婚を含めてしがらみから解き放たれた女性の結婚感が、世界平和に繋がれば結構なことですが・・・。

   ソ連時代に行われた農地拡大の灌漑工事で、アラル海の縮小や耕地に塩害が発生しているとは深刻な事態です。そこに生まれ育った遊牧民族・蒙古人が古来全く草原を損なったことがなく、漢民族が草原の耕地化で北京近郊まで砂漠化を招いているのと、同じ誤りを犯していたことになるのでしょう。

   砂岩や花崗岩が採掘出来ない土地とも思われないのに、中央アジアの由緒ある建造物が全てレンガ積みだとは意外でした。エジプトの神殿遺跡で花崗岩、砂岩、焼成レンガや日干しレンガが巧みに使い分けられているのに感嘆し、その石像から各種建造物を建造する技術が、中東を経てギリシャ・ローマの地中海文明に伝えられたと感じていました。
   
   その技術伝播の流れ中で、雨の少ない中央アジアに相応しい建材としてレンガ材が選択されたのではないでしょうか? ペルシャから伝えられた正倉院の文物を見るにつけ、古代日本にもオアシスの交易路を経て西域のあらゆる情報が伝えられたことと思います。
   
   明日香の石舞台等を見ると石造建造技術も入ってきたと感じるのですが、さすがに梅雨のある列島に日干しレンガは使えない、という事になったのではないでしょうか? 
   
   突厥戦士の墓にあったと言われる「石人」の写真にはハッとしました。飛鳥資料館にある”石人”や、吉備姫王墓の”猿石”橘寺の”二面石”は、その容貌から拝火教と共に列島に入ってきたペルシャ人の石工が、故郷に帰れるあてもなく、自らの墓標として彫り上げたものと勝手に推論していました。
   
   写真の”石人”は明日香の”石人”と瓜二つで、中央アジアの草原から移したのではないかと疑うほどです。中央アジアが今までにもまして身近に感じられたことでした。
   
   それにしても、写真に写るカルパック帽の石松様は、観光バスから降りたのでなければ、オアシスの長老として周囲に受け入れられ、バザールの雰囲気に溶け込んで何の違和感もなさそうです。日本人のルーツの一つが中央アジアであると改めて認識したことです。
   
   今回も旺盛な好奇心を発揮して”フィールド調査”された成果を公開くだされ、大いに勉強になりました。
    
C トヨタ先輩・工・一年で退社された方・昨年(平成17年)始めてお会いした・いつも貴重な読後感を賜る方

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石松 良彦さま

はじめまして。中央アジアの検索をしておりましたら、こちらにたどり着きました。
http://www.hm3.aitai.ne.jp/~isimatu/nakaasia.html

私は愛知万博にて、中央アジア共同館のアテンダントとして勤務をしておりました者です。当時、私は初めて中央アジアの国々を知りました。お恥ずかしながら、ロシア語なんて一生かかわらないとタカをくくっておりました。

大変でも有り、しかし楽しくもあり、懐かしくまた貴重な体験でした。ただ石松さまのような知識は全く無く、今現在も人との交流のみ思い出されます。いまさらながらですが本当に勉強になります。。。

もしよろしければ、下記サイトをお暇つぶしにご覧頂けたらと思います。

http://www.tatsu.ne.jp/shukrona/expoMC.wmv(anouncement)
http://www.geocities.jp/umibon/EXPOhistory/index.html(万博の歴史)
http://www.geocities.jp/umibon/EXPOanniversary/index.html(万博後)

ご病気の石松さまから、逆に元気を頂きました。これからの益々のご健闘を名古屋よりお祈り申し上げます。

シュクローナ
(タジク名命名いただきました)

D 平成20年9月17日に上記のメールを突然拝受した見知らぬ方・素晴らしいホームページを上記サイトで公開されている方

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中央アジア旅行記の感想について

    暑い毎日ですが如何お過ごしですか。私の場合、今年の会社(トヨタすまいる)の夏休みは13〜21日まで。昨年まではお盆が終わると早速ビールボケした頭にネジを巻いて、会社への心の準備に取り掛かっていましたが、今年はやや様子も違っています。


    さて、大変遅くなりましたが、石松さんの中央アジア旅行記をゆっくりと楽しく拝読させて頂き、有難うございました。

      

    前回の中東旅行記までは膨大な内容を一度に拝読出来ない為、一旦印刷(約50ページ前後?)して数回に分けて拝読していましたが、今回からは、ホームページを開かれて、そこに掲載されたので、印刷する手間も省けて、いつでも簡単に開けて拝読できるようになりましたので助かっています。
      

    私が中央アジアと聞いてまず連想するのは、中学や高校時代の教科書に記載されていた、モンゴル帝国以降のごく限られた歴史上の興亡史だけでした。

    最近の出来事ではソ連邦の崩壊と独立、共産主義に代わってイスラム諸国の連帯の動き、多民族同士の紛争、アメリカの後押しによる初めての民主選挙。にもかかわらず、強権政治の名残による政治的混乱。そして、黒海周辺の国々への地下資源確保の為のアメリカの橋頭堡構築とそれを阻止しようとするロシアの政治的圧力・・・等が記憶に残っていますが、一般的な都市や住民の暮らしぶりは粗末な丸木小屋に住むコサック風?のイメージしか湧いてきませんでした。


    このようなイメージを払拭させてくれたのが、昨年の万博のパビリオンで紹介された、中央アジアの国々の
PR内容と今回の石松さんの旅行記です。欧米によるオイルの収入は一部の国には近代的な高層ビを林立させ、緑豊かなオアシス都市へと変貌させたようですね。


    以前は中央アジアで唯一興味をもっていた都市は、名前にロマンチックな響きを持つサマルカンドです。その中でチムールの眠る、有名な青のタイルに彩られたモスク(グミアミール廟)を目でみたいとの願望はずっと持っていました。


    以前読んだ興亡史では、モンゴル軍が頑強に抵抗するサマルカンドを攻撃中、チンギスカンの一族のひとりが流れ矢により戦死した為、怒ったチンギスカンがすべてを殺戮せよとの厳命の下、陥落したサマルカンドでは生きとし生きるもは死に絶えたとのこと。約10数年前、たまたまサマルカンドの郊外を発掘中、当時殺された何万の人骨が層を成して発見されたとか・・。

    

    しかし今回の旅行記では、サマルカンド以外にも興味をそそる風物が沢山あることを知り、私もいつかは是非訪問したいと思っている国々のひとつになりました。特に水平線上に広がる天山山脈の山並みは、写真で拝見しても見とれるほど素晴らしいですね。

    
    では、また、次回の旅行記を楽しみに待っています。

D トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間

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    今回の旅行記を拝読しての感想は、石松さんがまさに文字通り『ご自愛されて、グローバルに活躍されておられる』の一言です。

    常にご自分の健康状態を事細かにチェックされ、通常の健康状態の人でも尻込みしそうな状況の国々へ、果敢に旅行しておられる。今回の旅の後でも検診を怠らず、10月に次のコーカサス3カ国の旅に出る予定を既に立てておられる。ホームページ表紙の地図で見れば、大半の国を訪問され、酷い紛争地域のアフリカと中東を残すのみと言って良いくらいである。

    今回の旅行記では、石松さんの訪問地での観察眼は相変わらず鋭いものがあり、自分も一緒に旅したような気分を味わったのですが、それはそれとして特に楽しませてもらったのは、同行者のプローフィル並びに古くから言われているように『旅の恥はかき捨て』とならぬ自律の心構えについてでした。

    ところで、冷戦終了後かえって地球上に紛争地域が増えたと言わざるを得ません。石松さんのことですので、十二分に気をつけておられることと拝察いたしますが
、安全第一に旅を楽しまれるよう祈っております。

E トヨタ同期・工

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   もうクアラルンプールでの滞在も残り4〜5日になってしまいました。来る前に計画していたことも殆どやり残して帰ることになりました。

    その中の一つに日ごろゆっくりみて居れない貴殿のようなホームページを見ようと思ってましたが、これも出来ませんでした。何しろ貴殿のページは量が多くて読みきれません。例え最近のマルマルスタン国だけでも始めから終わりまでは一気に読めませんでした。どうしても拾い読みになってしまいます。観光旅行の案内書より詳しいのだから。

    興味あるのはツアー同行者の寸描とガイドさん苛め話でした。貴殿が一人旅ではなくツアー旅行を好まれるのは、このあたりに楽しみがあるのでしょう。もっとも中央アジアはわれわれくらいの年になると、一人旅は体力的にも無理になってくるが・・・・・

F トヨタ先輩・工・奥様永眠後一人旅を楽しまれている方

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  大変遅くなりましたが。

  ホームページへの記載案内を頂いて直ぐに読み始めたのですが、膨大な量に直ぐにダウン。コピーをPCに取り込んでぼちぼち読もうとしたのですが、何時もカザフスタンまでたどり着かずに止まっていました。今日は日本からの出張者のアテンドで、一日中ホテルで予定無し。途中の居眠りを含めて4時間でやっと読了しました。

  何時もの事ですが、色々独自の観察が随所で記載されていますので楽しく読まさせて頂きました。法事と自動車部のOB会が有って、小生は参加出来出来ませんでした(都合が付けば一緒に海外旅行をするとの有難い約束を頂いている方。バルト三国には同行していただけた)が、従来の同行者とは異質の方が相部屋になってかえって良かったかも。

  今回の参加者紹介には本当に驚きました。ちまちまと会社を始めようとしている我々とは人種が違いますね。後3年新会社の立ち上げを終えたら、今度こそゆっくり彼方此方旅行したいと考えています。もっともタイからのツアーは行き先も少なく料金も高めのような気がしますが(フィーリングで物を言うのは良くないとは判りつつ)。

  小生最近タイ国内、周辺の遺跡巡りツアーに参加しておりますので、陸路で国境越えを経験しています。確かに時間は掛かりますが、色々観察出来るので国境の雰囲気も楽しいものです。タイ⇒ラオス国境はオーストラリアが作った大きな橋ですが、タイ⇒カンボジャ国境は小川なので歩いて国境越え。

  荷物はポータがリヤカで運んでくれました。最初は長い行列にいらいらしましたが、ニューデリー空港の行列よりはましだと思い楽しむ事にしました。(蛇足ですが歩いて国境越え出来るので、タイのビザ延長ツアーなるものが商売になっております)。

  今回も?添乗員の訓練に取り組まれたようで(最初が問題?)添乗員の方とのやり取りがリアルに判って参考になりました。小生もどちらかというと金持ち(では有りませんが)けんかせずタイプですので。

  今回のホテルの部屋は予約したタイプが無いといわれたのですが、粘って交渉したら少しアップグレードした部屋にしてくれました。やはり要求はきちんと言うべきか?

  カザフスタン等やっと日本の総理大臣が訪問して資源外交を始めたようですが、外国暮らしが長いと日本の教育(日教組のわがまま)や外務省の長年のナーナ体質が日本を漂流させているような気がします。やはり三つ子の魂は大切なので、安部さんの教育改革の内容に期待したい所です。

  小生農場育ちなので桑の木を間近に見て、桑の実も食べていたのですが、桑の木が巨木になるとは新しい発見です。今後も楽しいレポートをお願いします。

  10月末に私もPET検査を予約していますが、病気にかかってないので全て保険無し。昔から保険料だけ払っていた人は報われませんね。

  最後に。なじみの無い国なので何処を移動されているのか、イメージ出来ませんした。初めに地図など貼り付けて頂けたらというお願いです。

G トヨタ後輩・工・タイに家まで建ててご活躍中

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      貴兄がインターネットに次々と精力的に紀行文を掲載されておられますこと、その尽きせぬ意欲と情熱に感心しますとともに、敬意を表します。そもそも紀行文を書くということは、旅行をして来なければできないことは当然のことですから、その若者をも凌駕する体力と気力にただただ脱帽するばかりです。

      今回も膨大な博学知識を駆使され、事前準備を欠かさずに、いろいろの角度から、中央アジアという我々に馴染みの薄い国を現地現物で深く観察して来られました。ページ数が多いので、少し日数が掛かるかと思って読み出したのですが、一気に読み終えました。

      恥ずかしながら、中央アジアの国々については、殆ど何も知らず、確かカスピ海の東辺りに在ったようだくらいしか知識がありませんでした。「○○スタン」の区別は未だ良く分からず、適当に想像しながら読ませて戴きました。まさに、「ダメンズ(?)スタン」国の住人といったところでしょう。

      貴兄の「中央アジア」を読ませて戴き、少しばかり知識が向上したように感じております。本当に勉強になりました。書物を何冊も読まずして、貴兄の紀行文を読むだけで、相当の知識を吸収でき、理解を得られるように思いました。良くあれだけの内容を詳細に記憶してこられるものと、まさに信じられないような気がします。また、帰国後瞬く間にあれだけの長文を書き上げてしまうこと、本当に驚くばかりです。

      いつもながら感心しますのは、詳細なメモもなく、良くあれほどまでに途中途中の遺跡や歴史的な建造物の名前や由来などを記憶してこられるものだということです。あれだけの膨大な数になるといつどの建物を見学したかさえ怪しくなってしまうだけでなく、そもそも、その建造物の名前すら忘れてしまいそうです。

      貴兄の記憶力の尋常でないこと、改めて感銘を受けた次第です。そして、貴兄の紀行文が単なる旅行記でないのは、深い歴史・文化・地理・政治・経済などの知識に裏付けられて、事前に「テーマ」というべきか「疑問点」を有しつつ、観察してその疑問を自らの考察によって解決しようとする態度ではないかと思います。しかもその疑問点がポイントを得たものであり、またその解が石松流の独自のものでありつつ、しかもなるほどと思える説得力のあるものだから、なおのこと素晴らしいと感心してしまいます。

      他の国々で見聞きした体験による知見から、比較文明論になっているということで、この観察に一層の深さを創り出しております。これは貴兄の如く世界を巡って来られた方でなければ、できないことだと言えましょう。今回の感想としましては、全く知らないことばかりですので、直接の感想というより、少し違った観点から書かせて戴きます。

      @ 今回の貴兄の一番の感動的な文は「大草原から仰ぎ見る雪を戴く天山山脈の荘厳さ」ということでしょうか。松本や安曇野から見る日本の北アルプスしか見たことがありませんで、アンデス山脈もロッキー山脈も知りませんが、それでもなんとなく想像できるような気にさせられました。一度は見てみたいとは思いますが、とてもかなえられるようなものではなく、夢のまた夢でしょう。

      昔荒畑寒村氏だったかが、齢い90歳を越え、死ぬ前に一度で良いから外国へ行きたいと願い、行ったところはアルプスの見えるスイスであったという話を聞きました。あるいは、死ぬ前に一度で良いから本当のアルプスをこの目で見たいと願った、という話であったかも知れません。

      それほどに高い山の頂きは人をして憧れさせるものなのでしょう。たとえその場を実際に見られずとも、何の苦労も費用負担もせずに、貴兄の紀行文で大いに楽しませて戴き、実際に行ったかの如き気持ちにさせて戴きましたこと、感謝申し上げます。

      A 知人から戴きましたプリントアウトした頁の中に写真がありました。今までにない親切な配慮で、一段と臨場感が沸き、想像を掻き立てられました。そこで発見したことなのですが、貴兄の表情にまことに穏やかで悟りの境地に達した高僧の如き何とも言えない雰囲気を感じたことです。

      そこで、考えてみますに、還暦を過ぎて人はその顔にその人の人生そのものが現れてくると言います。人を羨み、妬み、誹謗し、社会を恨むなら、その人の人相はそれに相応しい下劣なものとなると言われます。他方、自らの人生に満足し、人を愛して暖かく接し、社会を肯定的に受け入れ、恵まれない人に心を配るなら、その人の人相はまことに素晴らしい円満な穏やかさをたたえるものとなると言います。貴兄の写真に見る顔の表情はまことに素晴らしいものです。

      これはどうやって到達したものなのでしょうか。貴兄のメールの発信にはいつも「細々年金で暮らす」とありますが、そのような細々とした生活(多少ジョークとして書かれている面があるかも知れませんが)に満足し、「同行者の素描」に登場するA氏〜D氏のような庶民のレベルをはるかに超えた現世における成功者の言動にも何ら動じず、羨むこともなく客観的に描写できるだけのしっかりした基盤を心に築き上げられている故なのでしょうか。それとも、並の人間には乗り越えられないほどの病苦を克服してこられた強い精神力故に到達し得た悟りの境地から来る表情なのでしょか。

      B 国際結婚について『上方婚』と『下方婚』について論じられております。大変興味深い視点かと思いました。私の居ります職場には外国語の翻訳をしている女性が居ります。以下職場の若い男性から聞いた話で直接入手した話ではないのですが、ほぼ間違いない事実と思いますので、書かせて戴きます。

      この職場の翻訳家の女性が次々と結婚して行くのですが、半数以上はこの『上方婚』です。一人は遊びに行ったグアム島で知り合った米軍の兵士と結婚し、今年の7月に退社して米国本土へ渡って行きました。その少し前にはパリの男性と結婚すると言って、さっと会社をやめパリへ行ってしまった女性もおりました。

      それぞれ、なかなか素晴らしい女性なのですが、こうして次々と国際結婚をされると、余り良い気分がしないのは、自分がもしその若さだったとして、職場の女性が多分自分を選ばず外人の方を選ぶのであれば、どう感じるのかとついつまらないことを想像してしまうからのような気がします。

      次ぎのケースは女性ではなく職場の外国人男性がトヨタの女性と結婚した例ですが、やはり『上方婚』になるかと思います。詰まり、今年の1月に職場にいた英国人男性がトヨタの社員の娘さんと結婚しました。面白い人でオックスフォードとケンブリッジを卒業した人で、バイリンガルでしたが、日本に居る間に中国語を習い、中国で教職に採用されたと言って、専門の経済を教えるとのことでしたが、今年の春中国へ奥さんを連れて行ってしまいました。

      C 職場の話が出ましたついでに、石松さんには遠く及ばないものの、海外に頻繁に行っている女性が身近に居りますので、一言紹介させて戴きます。(これも職場の男性から聞いた話になります)

      その女性はローマ帝国の第2代の皇帝「ティベリウス」を尊敬といいますか、ぞっこん惚れ込んでおりまして、長期連休の度にイタリアへ行っております。「ティベリウス」が晩年隠遁生活をしたというカプリ島が特にお気に入りとのことで、何度も行ったとのことです。そこで、以前に有名な高級靴店の創始者フェラガモの未亡人と親しくなり、帰国してほどなく、未亡人からフェラガモの伝記本が贈られてきたとのことでした。

      とにかくローマであれ、フィレンツェであれ、ヴェネチアであれ、本当に隅々まで知ってい るとの話です。イタリアの歴史書を読んだり、塩野七生さんの小説を読んだりすると、その背景となる場所を巡りにイタリアへ行くのだそうです。私などイタリアへ行ったこともなく、どうしてそんなにイタリアやあのくせのある「ティベリウス」に惚れ込んでいるのか良く理解できませんが、外国語の翻訳を仕事にしているような女性は、やはり日本は知らずとも自分の好きな国は無性に好きなのでしょうか。

      D ウズベキスタンのタシケント市に日本人墓地があるということを貴兄の紀行文で初めて知りました。シベリヤからウズベキスタンへ移送された日本人抑留兵が3000人も居たという話も初めて知りました。

      1945年8月9日に長崎へ原爆が投下された直ぐ後にスターリンのソ連は日ソ中立条約を一方的に破り、突如満州へ進撃を開始し(といってもソ連側としたらナチスドイツへの漸くの勝利の後、満州や樺太や日本の領土を狙って必死に準備していた)、日本がポツダム宣言を受諾して終戦を迎えた後も日本に対し、ますます侵略し捕虜を獲得し続け、モンゴールや満州のみならず北方4島まで奪って行ったスターリンの行為を私は決して許せません。

      ソ連に頼って米英と戦争終結をしようと考えた日本の外務省や軍幹部も馬鹿だったといえましょうが、その日本を弄び、あげくのはて瀕死の重傷の日本に襲い掛かってくるというのですから、共産主義の理念も何もないといえるのではないでしょうか。

      領土だけではなく、64万人の日本人捕虜を違法(ポツダム宣言違反)に強制労働収容所で10年以上の強制労働にこき使い、6万人以上をシベリヤの「異国の丘」で悔し涙のまま悲残な死に至らしめられたことは、今でも考えるだけで怒りを覚えます。その一部の人3000人がウズベキスタンに移送され、強制労働を強いられていたのですか。このことは決して忘れない積りです。こうした重要な情報を教えて戴きましたこと、大変感謝します。

      E 今回の貴兄の紀行文の「おわりに」に貴兄の思想の一部を開陳されておられます。深い洞察力に感心しました。特に「三つ子の魂」の章はなるほどと思いました。そこに「・・・60歳を過ぎても余生の為にせっせと働きたがるのも先天的なプログラムではなく、後天的に埋め込まれた三つ子の魂にあったと思えてならない・・・。」と記されております。

      私も現在その通りの生活(しかし余生のためにではありません)で日々余裕のない生活をしておりますので、自分でも気付かずに、三つ子の魂によるものなのかと考えてみました。確かに私の親も喰うために必死で働き通しでした。遊びとか余裕とかゆとりとかは縁の無い毎日でした。小さい時から、そうした親の姿だけ見て育ちました。

      少し余裕ある生活ができる経済力があったなら、あんなには働き続けることはなかったように思います。そんな親の後姿を見て育った故、三つ子の魂を植え付けられたのかも知れません。私はトヨタに在籍していたとき、そのときそのときでは、結構必死でやったように思っておりましたが、定年で退職するとき、自らトヨタでの数十年を反省してみて、自分の能力不足のために皆さんに貢献することが少ないのに、人並みに給料を戴いていたことを恥じました。(勿論給料が多すぎたなどと思ったのではなく、働きが足りなかったことを反省したのですが)

      そこで、ちゃんとやった人ならその後悠々自適で生活をするものでしょうが、私はそれまでの分の補いをするべく、これから、損得ではなく、世のためといいますかトヨタの皆さんの為にお返しをせねばならないと考えました。そこで、定年退職後、今のところに底辺の立場で雇って戴き、殆ど年休も取らずにやって参りました。

      従って、外国どころか日本の中でさえ一度も旅行に出たこともありません。別に自慢している訳ではありません。ただし、こうして貴兄の紀行文や、その他いろいろの方々の書物を通して、各地の知らない話や歴史の話などを読ませて戴き、現地現物のトヨタ流とは全く異なるヴァーチャルな世界でですが、勉強をさせて戴いておりまして、それなりに多少は成長してきていると感じますし、結構楽しく過ごさせて戴いております。

      本当は全くのボランティアで働くのが、尊い行いと思うのですが、ささやかながら給与を得ておりますので、余り褒められたことではないと自分で思っております。ふと気付いてみますと、紀行文への感想というより自分の考えの発露のようになってしまいまして申し訳ありませんでした。次回に行かれるという「コーカサス3ケ国」の紀行文を楽しみにしております。益々の鋭い視点からの紀行文を期待しております。

H トヨタ後輩・工・いつも的確な読後感をいただける方・流石は東大卒。私が汲み取って欲しいと思っていたところを余すところ無く指摘された。

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石松 良彦さま

はじめまして。中央アジアの検索をしておりましたら、こちらにたどり着きました。
http://www.hm3.aitai.ne.jp/~isimatu/nakaasia.html

私は愛知万博にて、中央アジア共同館のアテンダントとして勤務をしておりました者です。当時、私は初めて中央アジアの国々を知りました。お恥ずかしながら、ロシア語なんて一生かかわらないとタカをくくっておりました。

大変でも有り、しかし楽しくもあり、懐かしくまた貴重な体験でした。ただ石松さまのような知識は全く無く、今現在も人との交流のみ思い出されます。いまさらながらですが本当に勉強になります。。。

もしよろしければ、下記サイトをお暇つぶしにご覧頂けたらと思います。

http://www.tatsu.ne.jp/shukrona/expoMC.wmv(anouncement)
http://www.geocities.jp/umibon/EXPOhistory/index.html(万博の歴史)
http://www.geocities.jp/umibon/EXPOanniversary/index.html(万博後)

ご病気の石松さまから、逆に元気を頂きました。これからの益々のご健闘を名古屋よりお祈り申し上げます。

シュクローナ
(タジク名命名いただきました)

I 平成20年9月17日に上記のメールを突然拝受した見知らぬ方・素晴らしいホームページを上記サイトで公開されている方

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