| 多重がんの発見とその治療
 
 [1]受け続けた定期健診
 胃がんの告知
 食道がん2個の告知
 
 [2]治療
 胃がん・・・胃の2/3を切除
 食道がん・・放射線照射治療
 
 [3]経過観察
 新発食道がん3個の告知
 
 [4]治療
 胸部食道がん2個・・内視鏡による剥離
 頚部食道がん1個・・陽子線照射治療
 
 [5]現状
 経過観察中⇒元気回復
 
 (スライド1)
 
 ご紹介いただいた石松でございます。
 
 私はがん年齢に到達した40歳の時からがん関係の定期健診を受け続けてきました。64歳になった時に無自覚状態の胃がんと食道がんが発見されました。その治療の後も定期的に検診を受けていましたら、またもや無自覚状態で新発食道がんが発見されました。本日はそれらのがんの発見から寛解までの一連の体験を、ご報告いたします。
 
 最初の胃がんを告知された僅か二日後に、ここ博多のど真ん中、中州の飲み屋のママから日本を代表するような名医の紹介を受け、芋ずる式に次から次へと名医から名医の紹介を受け続け、とうとう最先端の医療技術である陽子線照射治療にまで辿り着き、このように元気になれました。
 
 しかし、このように元気になれたのは、各名医の的確な診断に基づく治療や私の耐えざる努力だけではなく、多くの友人達の励ましの賜物でもあった、と心から感謝しております。
 
 不断の定期健診
 
 [1] 現役時代の40歳以降
 一年に1回の定期検査、時々自主的に追加
 胃のバリウムを使ったX線検査、肺がんのX線検査
 大腸がん検査、胃カメラ、血液検査など
 
 [2] 定年退職した60歳以降
 一年に2回
 豊田市の集団検診と自主的に受けた簡易人間ドック
 胃のバリウムを使ったX線検査、肺がんのX線検査
 疑問時⇒胃カメラ、CT、MRI、MRA、血液検査など
 
 (スライド2)
 
 私はトヨタ自動車でエンジニアとして働いていました。がん年齢に到達した40歳以降は毎年定期的にトヨタ自動車社内で誕生月の8月に胃や肺などのがん検診を受けました。少しでも胃に異常があると認められた場合には胃カメラによる精密検査が追加されました。その時には、私はセカンドオピニオンを求めて、自己負担をもいとわずに愛知県がんセンターへ駆けつけました。
 
 定年退職後は豊田市の老人検診を毎年一回受けるだけではなく、それとは別に簡単な人間ドックも自主的に毎年1回受けていました。
 
 64歳の時でした。平成14年10月29日の検診で遂に、胃がんが疑われました。細胞検査の結果、11月28日には胃がんの告知を受けました。その時、私は我が人生もこれで終わりかと覚悟しました。しかし、母は38歳の時に乳がんを、73歳の時に皮膚がんの手術を受けたものの、明治・大正・昭和・平成に亘って93歳まで生き延びたことを思い出し、母を見習ってがんと闘う覚悟を決めました。
 
 
 名医との出会い
 
 [1] 藤堂和子様
 中州の飲み屋『リンドバーグ』のママ
 
 [2] 山村義孝医師
 愛知県がんセンター消化器外科部長
 平成19年度日本胃癌学会会長
 再検査⇒胸部食道がんの発見
 胃がん⇒外科手術⇒平成14年12月19日
 
 [3] 不破信和医師
 愛知県がんセンター放射線治療部長
 食道がん⇒放射線照射⇒平成15年1月14日〜3月18日
 
 (スライド3)
 
 がんの告知を受けた僅か二日後の11月30日には、前々から計画されていた10年ぶりの九大航空工学科卒業40周年記念の同期同窓会に出席しました。恩師の方々や同期の仲間に死ぬ前の挨拶をしたかったからです。その日の二次会では中州の飲み屋『リンドバーグ』に出かけました。10年前と20年前の同窓会の二次会と合わせても僅か3回目のリンドバーグでした。
 
 『藤堂さん、二日前に胃がんの告知を受けたので、死ぬ前の挨拶に来ました』
 『何処で手術するの、がんは一発勝負よ』
 『豊田市地域医療センター』
 『止めとき。もっと立派な病院があるでしょ。私は過去30年間、飲み屋のママを伊達にしていただけではないのよ。まかしとき』
 
 12月4日にママから『愛知県がんセンターの山村部長にお願いしてあります。12月9日が診察日です』との電話がありました。豊田市地域医療センターでコピーして貰った検診資料を山村先生にお見せしたら『消化器内科の専門医に内視鏡でもう一度念のために検査してもらいましょう』と発言されました。僅か三日後の12日には入院することになり、内視鏡の専門医による14日の検査では、何と食道がんが二つも見つかりました。
 
 その他の検査資料も克明に検討された結果山村先生は『最初に胃がんの手術をし、体力の回復を待って食道がんの治療をしましょう。食道がんも幸いにも初期なので放射線治療でも良いと思います。放射線治療部の不破部長にお願いすることにしましょう』との自信に満ちた診断を下されました。
 
 治療方針
 
 [1] 胃がん(12月19日に手術)
 執刀医・・・山村医師+助手の医師2名
 手術・・・・胃の2/3の切除
 
 [2]胸部食道がん(1月14日〜3月18日)
 体外照射・・・X線⇒25回*2グレイ
 腔内照射・・・イリジウム⇒4回*3グレイ
 副作用・・・・食欲不振・嘔吐⇒入浴中に失神⇒緊急入院
 寛解のご託宣⇒6月30日
 
 [3] 注
 1グレイ=1ジュール=0.24cal=自然放射能換算約1,000年分
 
 (スライド4)
 
 山村先生は1,000人を超える胃がん手術をされていた方でした。12月19日の手術では転移も発見されず、輸血もせずに終わりました。しかし、胃が小さくなったため一度に食べられる食事量が減り、とうとう体重が54Kgから46Kgにまで落ちてしまいました。
 
 食道がんの放射線照射治療は自宅から車で通院して受けました。最初の頃は体に何の異常も感じませんでしたが、途中から食欲が落ちただけではなく、嘔吐が頻発しました。一度嘔吐が発生すると5分から10分間隔で半日以上も続きました。
 
 半日嘔吐が続くと、息を吸っても吐いても胸や腹部の筋肉が猛烈に痛みました。このときに私は、嘔吐とは全身運動だったのだと初めて気付きました。夜は洗面器を抱いて寝ていました。嘔吐が半日間止まったかと思うと又発生しました。嘔吐を数日間繰り返した後のある朝、急に嘔吐が止まったので風呂に入りました。
 
 体を洗い終え、洗い場で立ち上がった瞬間に脳貧血を起こしたのか気絶し、鋳物ホーロー製の浴槽の淵に額を強打しました。それでも目が覚めず浴槽に上半身を突っ込んだままでした。物音に気づいた妻が駆けつけ背後から体を救い上げた時、やっと目が覚めました。間一髪で助かりました。鏡を見たら額から血がだらだらと流れ落ち、風呂の壁にも血が飛び散っていました。
 
 がん患者はこのようにして苦しみながら死んでいくのかと半ば諦めながらも、もう少し長生きしたいと思い、愛知県がんセンターに緊急入院し、嘔吐止めの点滴等の応急処置を受けた結果、事なきを得ました。
 
 放射線治療の後半には腔内照射を受けました。チューブを食道に挿入し、チューブの中にイリジウムを差込み、機械でゆっくりとイリジウムを引き上げながら、食道の内側から放射線を照射しました。
 
 食道全体にぴったりとチューブがはめ込まれていたため、唾液を飲み込むことも、胃液を吐き出すことも出来ず、その苦しさは胃カメラとは比べものになりませんでした。準備を含めて一回に付き40分くらい掛かりました。首を絞められて半殺しにされていたようなものでした。
 
 その放射線照射治療が3月18日に計画通りに終わったときには、ほっとしました。
 
 放射線照射治療は治療が終わっても、外科手術とは異なりがんが治ったか否かは直ぐには分かりません。がん細胞が消えるまでには3ヶ月近く、場合によっては半年も掛かるのだそうです。その間は定期的に検査を受けました。6月30日になってやっと待ち続けていた寛解のご託宣が出ました。
 
 寛解とは検査でがん細胞が見つからなかったという意味に過ぎず、完治とは異なります。でも、ほっとしました。
 
 放射線の量を表すグレイという単位は熱エネルギーとしては小さな単位ですが、自然放射能に換算すると1グレイでも約1000年分に相当します。
 
 私は体重こそは体力のバロメータと長い間確信していました。過去40年間変わらなかった54Kgの体重に戻すべく、毎日5回無理やり食べ続けた結果、年末までには体重の奪還にも遂に成功しました。
 
 経過観察
 
 [1] 機械的な検査
 PET(陽電子断層撮影装置)⇒全身のがん検査
 CT(コンピュータ断層撮影装置)⇒肺がん
 PET-CT⇒PETとCTの新型複合検査機
 血液検査⇒マーカー値⇒がんの判定
 遺伝子検査⇒N/M型(ヘテロ接合体)⇒
 飲酒⇒食道がんに罹りやすい⇒節酒決意
 
 [2] 人為的な検査
 内視鏡による目視観察⇒胃と食道
 ルゴール染色法⇒食道がんの有無
 細胞検査(生検)⇒がんの判定
 
 (スライド5)
 
 寛解のご託宣が出されても、がんが転移したり再発したりする可能性は常に残っています。
 
 主治医不破先生のご指示により、いろいろな検査を定期的に受け続けました。4年後の昨年5月11日に受けた第7回目のPETでも異常は見つかりませんでした。しかし、6月1日の内視鏡によるルゴール染色法で、新しい食道がんが同時に3箇所も見つかりました。これは再発ではなく、新発がんと診断されました。食道がんは一度発生すると寛解後でも何度も発生する傾向があるのだそうです。
 
 『全身のがんが一度に発見できる』との鳴り物入りで10年位前に登場したPETにも、盲点があることが分かりました。私の食道がんのように面積は広くても限りなく薄く広がっているがんの発見は困難だったのでした。がんの種類別に特化している従来からの検査法の価値を、今回の体験で再認識しました。
 
 治療方法の選択
 
 [1] 二度目の胸部食道がん
 放射線や粒子線⇒同じ部位には2回目は使えない
 ⇒内視鏡による剥離手術(6月27日)
 
 [2] 初めての頚部食道がん
 放射線も陽子線も使える⇒放射線の副作用に懲りた
 ⇒陽子線を選択
 
 [3] 兵庫県立粒子線医療センター
 食道がん患者第一号
 
 (スライド6)
 
 放射線や粒子線で一度治療した場所にがんが再び発生した場合、放射線治療も粒子線治療も再度使うことは危険だといわれています。その部位の食道粘膜が劣化しており穴が開いたり出血したりするからだそうです。
 
 新しく出来た胸部食道がんの治療方法としては、食道の切り取り手術がありますが、これはすい臓がんの手術と並び称されるほどの10時間を越える大手術になります。しかし、今回は初期がんだったため、不破先生や内視鏡医との相談の結果、内視鏡による剥離手術を思い切って選択しました。万一失敗すれば食道の切り取り手術に突入する覚悟でした。50例以上の手術体験があった内視鏡医の腕は確かなものでした。幸い手術に成功しました。
 
 頚部食道がんは大きく広がりすぎていて内視鏡での剥離手術は難しいと診断されました。しかし、頚部食道は放射線照射治療を未だ受けていない部位だったため、4年前と同じ放射線治療でも寛解の可能性は高い、と不破先生は診断されました。
 
 私はインターネットで粒子線治療についての初歩的なことは既に勉強していました。粒子線治療センターは全国に6ヶ所あるものの、食道がん患者は何れも殆ど受け入れていないことは承知していました。粒子線には炭素の原子核を使う場合と、水素の原子核つまり陽子を使う場合の二種類がありますが、皮膚の薄い食道がんには強度が弱い陽子線が向いていることも理解していました。
 
 私は4年前の放射線治療の副作用の苦しさを思い出しました。不破先生は『放射線治療の副作用は個人差が大きいものの、通常は軽いのですがね』との経験を話されました。しかし、私は陽子線治療を引き受けてくれるところがあれば、全国何処のセンターであろうとも出かけたい、と強く希望しました。
 
 不破先生からは『何処かが引き受けてくれる可能性はありますよ。私が国立がんセンター東病院に送り込んだ患者さんは、東病院での食道がん患者第一号になりました。今度は兵庫県立粒子線医療センターに相談して見ます』との嬉しい回答を頂きました。
 
 兵庫県立粒子線医療センターの菱川院長と医療部長村上医師とは快く私の治療を引き受けてくれました。でも、此処では私が食道がん患者としての第一号になりました。食道がんが治療対象として今まで取り上げられなかった理由は、治療中に患者が呼吸すると食道の位置が移動するため、陽子をがんに正確に照射するのが難しい点にありました。
 
 華岡青洲の奥様が夫を信じて、世界最初の全身麻酔手術になった乳がんの手術に立ち向かった勇気に比べれば、私の場合は月とスッポンほどの差があります。失敗の可能性が残るとは言え、大げさに言えば私はモルモットになる決心を敢えて致しました。医療技術の進歩のためには、いつかは誰かがモルモットにならざるを得ません。
 
 胸部食道がん
 
 
 
  
 (スライド7)
 
 これは内視鏡で剥ぎ取られた胸部食道がんです。
 
 兵庫県立粒子線医療センター
 
 
  
 (スライド8)
 
 これは兵庫県立粒子線医療センターの航空写真です。兵庫県西部の静かな山の中に建てられています。病院内には一流ホテルに匹敵する快適さが維持されています。
 
 粒子加速装置
 
 
  
 (スライド9)
 
 この粒子加速装置は直径30mもある大きな装置です。兵庫県立粒子線医療センターの粒子線治療機は日本で唯一、水素の原子核も炭素の原子核も取り扱えるため設備費は128億円も掛かったそうです。
 
 粒子加速装置は安全確保のため、壁が1m天井が1.5mもの厚さの鉄筋コンクリートで作られた建物内に据え付けられています。
 
 治療中の石松
 
 
  
 (スライド10)
 
 患者は、患者一人ひとりの体の形にぴったり合わせて作られた硬質プラスティックス製のカバーによって、治療中に位置が変わらないようにベッドに固定されています。
 
 食道がんの治療の場合、この固定具の他にお腹の上に位置決めセンサーを取り付けられました。呼吸によってセンサーが動きますが、そのセンサーから発せられているレーザー光線をカメラがキャッチし、その移動量に連動して陽子線の照射深さを制御し、陽子ががん細胞にぴったりと届くようにできました。
 
 この治療を成功させるために私は、一定のリズムで一定の大きさの呼吸が出来るようになるまで、何度も何度も呼吸の訓練を受けました。私は必死になって猛練習しました。
 
 陽子線照射治療
 
 [1] 治療期間
 平成19年7月24日〜9月13日の月〜金
 36回*2グレイ/回=72グレイ
 週末(金夕方〜月早朝)は帰宅
 
 [2] 副作用
 食道に炎症発生⇒嚥下時に痛み⇒食事時間倍増
 食欲減退⇒体重2Kg減
 無気力状態⇒新聞やTVへの関心喪失
 性欲減退(回数半減)
 
 [3] 副作用の消滅
 治療完了2週間後
 
 (スライド11)
 
 陽子線照射治療に先立ち、患者一人ひとりに必要な道具の準備や諸検査を済ませた後、7月24日から毎日1回の照射治療が始まりました。途中機器の定期的な保守やお盆の短い休み等で治療の出来ない日もありましたが、ほぼ順調に治療は進み、9月13日には退院できました。
 
 土日は退屈だったので金曜日の夕方は自宅に戻り、早起きをして月曜日に病院に戻る生活をしました。
 
 放射線や陽子線の累積照射エネルギーには許容限界値があり、おおむね70グレイ前後といわれています。今回36回の照射で72グレイに達しましたが、この上限一杯まで照射してもがん細胞が消滅しなければ、最後に残された手段としては外科手術のみになることは覚悟していました。
 
 陽子線照射治療にも軽い副作用が発生しました。最初の一週間は何の影響も出ませんでしたが、徐々に食道の粘膜に軽い炎症が発生したのか、食べ物を飲み込むときに軽い痛みを感じるようになりました。そのため、食べ物を噛み砕く時間を倍増させ、流動食のようにして少しずつ飲み込みました。
 
 精神的には何となく無気力感に襲われ、病院に備え付けられているテレビを見たり、新聞を読む意欲が消えました。食欲も徐々に衰えたため、体重の減少を恐れ、売店で間食用に握りずしやチョコレートを買ってはカロリー不足を補ったものの、とうとう2Kgも体重が軽くなりました。しかし、治療完了後には僅か2週間で副作用も消滅し、年末までには体重も54Kgに戻りました。
 
 これらの陽子線照射治療に伴う副作用は、4年前に受けた放射線治療の副作用の強さに比べれば格段に小さなものでした。陽子線照射治療を選んでよかったと満足しました。
 
 コリメータ
 
 がんの輪郭の形状をワイヤーカット放電加工機で
 真鍮の厚板から切り出したもの
 
 
  
 ボーラス
 
 がんに照射した陽子が止まる位置を決めるために
 三次元NCフライス盤でポリエステルのブロックから
 掘り出したもの。この空間にがんがぴったり嵌まり
 込む形になっている。
 
 
  
 
 
             (スライド12)
 コリメータやボーラスは、陽子線を個々の患者の体内のがんの位置とがんの形にぴったり合わせて照射できるようにするために、患者ごとに作成されるものです。
 
 このコリメータやボーラスは陽子線の照射通路に設置して、陽子線の流れを制御し、陽子ががんに正確に到達するようにするためのものです。
 
 これらの製作のために病院内には、三次元NCフライス盤やワイヤーカット型放電加工機等だけではなく、三次元測定器も導入された立派な工作室がありました。
 
 経過観察
 
 [1] カルテの共有
 兵庫県立粒子線医療センター
 愛知県がんセンター
 
 [2] 内視鏡による検査
 第一回目(11月5日)
 第二回目(12月7日)
 寛解のご託宣(12月10日)
 
 (スライド13)
 
 兵庫県立粒子線医療センターは、北は北海道から南は沖縄まで全国各地の病院から紹介された患者を受け入れています。粒子線治療を受けた患者の退院後の経過観察には地理的な事情もあり、紹介元の病院で実施してもらわざるを得ません。
 
 そのための対策として粒子線医療センターと紹介元の病院とは患者のカルテを共有する体制をとっています。粒子線医療センターを退院する時に、患者は夫々のカルテをコピーしたファイルを渡されます。退院後に紹介元の病院で検診を受けた場合にはカルテのコピーを受け取り、粒子線医療センターへ郵送することになっています。
 
 その結果、万一問題が発見された場合には、粒子線医療センターの医師と紹介元の病院の医師とが同じカルテを手元に置きながら、直接電話で対策を相談できます。私の場合は愛知県がんセンターの主治医が対応してくれています。
 
 第一回目の検査
 
 
  
 (スライド14)
 
 この写真は11月5日に撮影した食道です。蛍光灯のグローランプのようなものが2個ありますが、がんの位置をX線透視のときに分かるようにするために埋め込まれている金属です。半年もすると自然に剥がれ落ち排泄されます。
 
 この写真を見て、主治医はまだ寛解していないと判断しましたが、12月7日の検査の写真を検討した結果、12月10日に寛解したとの診断を下しました。
 
 友人達の励まし
 
 [1] 最後の晩餐会
 自宅(平成19年6月19日)
 
 [2] 温泉旅行
 お見舞い・・有馬温泉(平成19年8月21日)
 退院祝い・・荊妻と尾瀬(平成19年10月1日)
 退院祝賀会・下呂温泉(平成19年11月21日)
 寛解祝賀会・強羅温泉(平成19年12月16日)
 お礼参り・参宮&伊勢志摩(平成20年1月6日)
 
 (スライド15)
 
 私は64歳の時に初めてがんの治療を受けて以来、常にがんの再発や転移、新しいがんの発生の可能性を考えながら、不安な日々を過ごしていました。幾ら月日が経ってもこの不安はなくなりませんでした。そんな不安が消え去らなくても、次第に心が落付いてきたのは、親しい友人達や家族の励ましの賜物でした。
 
 昨年6月1日に新しい食道がんが見つかった後、私は粒子線医療センターに入院する前に、過去20年以上もの長い間ゴルフを一緒に楽しんできたトヨタの先輩・同期生・後輩を、6月19日に自宅にお招きして最後の晩餐会を開きました。
 
 入院中の8月21日には晩餐会に参加していただいた仲間達が豊田市から4時間もかけてお見舞いに来てくれただけではなく、その夜には病院から程近い有馬温泉に私を招き、励ましのひと時を準備してくれました。
 
 10月1日には、長い間私を支えてくれた妻に感謝すべく群馬県の尾瀬に出かけ、草紅葉を見ながら静かなひと時を心安らかに過ごしました。
 
 11月21日には何時ものゴルフ仲間達が岐阜県の下呂温泉にまたもや私を招き、心から退院を祝ってくれました。
 
 12月16日にはトヨタ同期の親友達が箱根の東にある強羅温泉に私を招き、寛解を祝ってくれました。
 
 引き続いて1月6日には、別のゴルフ仲間達が寛解を祝って伊勢神宮へのお参りを提案しただけではなく、伊勢志摩への旅行にも誘ってくれました。
 
 私ががんとの闘いを、本日こうして心穏やかにご報告できるのは医療関係者のご尽力だけではなく、多くの友人や家族の励ましの賜物でもあったことも付け加えたいと思います。
 
 余生を満喫
 
 [1] 寛解のご託宣(12月10日)
 
 [2] 西アフリカ8ヶ国漫遊旅行
 申込書の到着締め切り(12月3日)
 私の申し込み日(12月11日)
 旅行期間(平成20年1月15日〜2月1日)
 
 (スライド16)
 
 12月10日に寛解のご託宣を聞いた途端に胸が高鳴りました。他でもありません。以前から出かけたいと思っていたのは、サハラ沙漠の南、ブラックアフリカといわれている西アフリカでした。
 
 旅行社(旅のデザインルーム)への旅行申し込み書類到着期限を既に一週間超過していましたが、強引に申し込んだら引き受けてくれました。今回の旅行ではビザ申請のため、銀行預金の残高証明書とかイエローカードとか400ドルのトラベラーズチェックの添付とか奇妙な条件が付いていましたが、あちこち走り回って準備しました。
 
 ドゴン族の仮面踊り
 
 
  
 (スライド17)
 
 ドゴン族の若者達による元気溌剌とした仮面舞踏会を眺めていたら、がんの不安など吹き飛ばされてしまいました。私は中央部に写っています。
 
 泥で築かれたモスク
 
 
  
 (スライド18)
 
 泥で作られた世界最大の規模を誇るジェンネの巨大なモスクからは、信仰に生きる人たちの団結力の凄さに驚嘆させられ、がんの悩み如きはすっかり忘れて、私もまだ何か出来るのではないか、との気概を受け取りました。
 
 バオバウの大木
 
 
  
 (スライド19)
 
 アフリカの過酷な大地に、どっしりと何百年にも亘って聳え立つバオバウの大木からは、これまたがんを吹き飛ばすような元気を貰い受けました。
 
 まとめ
 
 [1] がんを怖れず、されど侮らず
 
 [2] 早期発見・早期治療
 ⇒がんに勝つ王道
 
 (スライド20)
 
 皆様、がんを徒に怖れる必要はありません。でも油断大敵、あなどることも出来ません。
 
 定期的に検診を受け続けて自覚症状が出る前にがんを発見し、最新の医療技術を駆使しての早期治療に徹すれば海外旅行に限らず、一秒一刻がますます貴重に感じられる余生をもっともっと長く満喫することが出来ます。その生き証人の1人が私です。
 
 ご静聴、有難うございました。
 
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