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健康
           
全身こむら返り(平成8年8月20日脱稿)

   さる平成8年8月13日(火)、昨年8月27日に引き続き、救急車をまたもや煩わしてしまった。

      昨年に比べ、格段に深刻な状況だった。これに懲りて、再発防止対策も立てた。以下はその反省も込めての顛末記である。 

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はじめに

   8月13日は夜明けに雨が降った。名古屋グリーンテニスに9時集合。水掻きからのスタートだった。湿度は100%に近い。本日の参加者は5人。プレイの順番を決めるジャンケンでは一番勝ち残った。仲間の腕も年々上達し、接戦が多くなるにつれて試合時間が徐々に伸びて来た。過労防止のため今年から、いつもの6ゲーム先取のルールを変え、夏は4ゲーム先取に短縮して休憩者とのメンバーの入れ替えを早めるようにした。 

   いつものようにダブルスによる試合を開始した。ジャンケンに勝った私は、運悪く4セット連続して試合をする羽目になった。途中雨が2回位だったが降ったので、湿度は依然として高い。水掻きだけでも滝のような発汗。

   4セット完了後、仲間がプレイ中に待望の休憩を取り、いつものようにビール大瓶1本とお刺身定食を平らげた。5セット目に入った時、左横腹が多少痛んだが、どうせ6セット(長い間続いている仲間間の約束・1日の試合回数は6セット)で終わるのだし、食後直ぐに運動を始めたからかも知れないと思い、日頃とチョットだが体調が違うことに気付いてはいたが、そのまま試合を続行した。

   6セット完了後、サウナも5分間に短縮し、風呂に入りのんびり過ごした。余りにも暑かったので、服も着ずに裸のまま更衣室の長椅子に仰向けになり、10分くらい休んだが、吹き出す汗が止まらない。誰かが更衣室に冷房が入っていないことに気付く。上半身は裸のままロビーまで来たら、コーチの伏間さんにバッタリ出会った。
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疲れからか、こむら返り発症

  “更衣室に冷房が入っていませんよ!”と報告して、ロビーと風呂との中間にある子供用の遊戯室で涼む。やっと汗が止まる。スポーツシャツを着た後、食堂横にあるゆったりとした椅子に座って休憩。日頃は帰り際になって、こんな場所で休んだことはない。思うに当日は疲れていたようだ。レストランの、氷で冷やされた水をコップで4杯飲んだ。600ccくらいか?

   暫くして、足の一部に軽い『こむらがえり』を感じた。しまった!との不吉な予感が走った。“どうしよう”と一瞬迷ったが、伏間さんに対応策を尋ねるべく、食堂からフロントへの階段を登り掛けたら、急に足の痛みが強まり始めた。 
   
   伏間さんが半ズボンからはみ出しているふくらはぎに手で触れ“これは冷たい。風呂で暖めたほうが良い”と即断。“風呂まで歩けますか?”“多分大丈夫です”と答えたものの足取りは既におぼつかない状態だった。過去の体験でも、こむらがえりが発生して、それが全身に波及するまでの時間は大変短い。

   伏間さんに手を引かれ、痛みを堪(こら)えながら歩く。途中にある短い階段の登りは大変苦しかったが、何とか自力で風呂場の入り口まで辿り着いた。痛みは一層強まり最早靴はもちろん、靴下も下着も自力では脱げない状態だった。伏間さんを煩わしてやっとの思いで脱衣。 
                      
   スポーツシャツを着たまま風呂に飛び込む。シャツを脱ぐほどの精神的余裕は既に失っていた。その間、痛みに耐え兼ねての悲鳴が、無意識の内に口から飛び出して来る。
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風呂での自覚症状

   風呂の中では浮力が働くためか、筋肉への負担が軽くなり、若干だが痛みが薄らいで来た。昨年8月(この時も連休中)の類似体験の記憶『風呂で3時間ものんびり休んでいたところ、幸い痛みが消えてしまった』が急に蘇って来た。           
 
   こうなった以上“後悔先に立たず”とは言え“暫くは我慢せざるを得ないな”と半ば諦めの境地。スポーツシャツを着て風呂に入っているのを、人に見られるのは幾ら何でもミットモないので、痛みが小康状態になった瞬間、苦労しながらもシャツを脱ぎ捨て、脱衣棚へと投げ込んだ。

   暫くは“う〜ん、う〜ん”と悲鳴を上げつつも我慢してお湯に浸かっていた。誰かが“私にも体験がある。睾丸にまでこむらがえりが発生した。痛い気持ちが手に取るように分かる。その時は車の運転が出来ず、友達に家まで送ってもらった”と言う。                                  

   名古屋の長者町でファッション衣料の問屋を経営されている、同世代の『宮地千太郎さん』(テニスは旨過ぎるのでお相手をしていただくのは遠慮しているが、サウナで出会うと、何時もおしゃべりを楽しませて頂いている方)は“大丈夫ですか?”と聞きながらも“石松さんが風呂の中で苦しんでいる様子を見れば、他の人には『他山の石』、文字通りの生きた教材になる”などと、励ましているポーズを取りながら、からかい半分のジョークを飛ばして帰られた。     

   まだ深刻というほどの症状ではなかったので“大丈夫ですよ”と気楽に答えた。全身の痛みが“す〜”と消えたかと思うと、数秒も経たない内に何処かの筋肉がまた痛み始める。あちこちに痛みが移動する。1ヶ所に定着する様子はない。1分以上継続して全身の痛みが取れた状態になれば、風呂から出ようと大体の方針を考えたりして過ごしていた。

   風呂に浸かり続けた場合、出てくる汗は見えないが、意外に発汗作用が促進されている。脱水症状を恐れて、途中何回かに分けて浴槽への給水蛇口から、累積すれば1リットル位の水は飲んだ。お湯を飲みたかったが、湯水混合栓のある洗い場に向かって体を移動出来ず、やむなく水ばかり飲んでいた。               
  
   2時間位経過した頃、急に吐き気を感じ、数時間前の休憩中に食べたものを全部吐いた。全く消化されていなかった。胃液は出ず、臭みもなかった。不思議な気がした。
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救急車

   徐々に痛みが酷くなり始めた。危ないな!と危険を感じ始めた。風呂に入ってほぼ3時間後、とうとう救急車を呼ぶ決心をした。しかし夕方だったので風呂の周りには誰もいない。幸い洗い場の外側の窓が開いていた。思いきって“助けてぇー”と叫んだ。しかし応答はなかった。数分後外で人声がした。またもや“助けてぇー”と叫んだ。今度は続けて2回叫んだ。

   “どうしました?”と誰かが声を掛けてくれた。“救急車を呼んでぇー”と頼んだ。その人はフロントへ連絡してくれた後、再度風呂場を訪れ“安心して下さい”と報告した。伏間さんが直ぐに様子を確認に来た。                    
  
   “3時間も風呂に入り続けるなどとは予想もしていなかった。上(のぼ)せてしまったんですよ”と悠長な発言。全身にこむらがえりが波及した体験は今回で6回目だったので、私は多少の確信を持って“とにかく救急車を呼んで下さい”とまたもや頼んだ。                                
   
   溺死を恐れただけでは無く、救急隊員の仕事もやり易いようにと考えて、伏間さんに浴槽の栓を抜いてもらった。最早自分自身では栓を抜く力も残っていなかった。伏間さんは“全身こむらがえりで死んだ人はいない。心配しないで”と言い残して、救急車の呼び出しに出掛けた。このクラブには、サウナにも風呂にも緊急連絡用の電話や非常ベルが何故か無いのだ!

   救急車が到着するまでの間に、伏間さんには荷物の確認・脱衣類の整理をしてもらった。伏間さんの求めに応じて、スペアキーのありかも説明。最早残っている着替えは、汗が既に染み込んでいる半ズボンとブリーフのみであったが、全身が痛くてとても着る気力がない。浴槽の底に一糸纏わぬ不様(ぶざま)な姿で長々と伸びてしまった。やがて救急車のサイレンが聞こえて来た。“助かった”と痛みに苦しみながらもホッとした。
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移動

   救急車の担架は意外に大きい。いろいろ工夫したものの、結局浴槽内には据え付けられなかった。やむなく男3人掛りで私を抱え上げて担架に乗せ、そのまま救急車に運び込んだ。喉がカラカラになり声が殆ど出ない状態だった。名古屋グリーンテニスのあり合わせのバスタオルを数枚体の上に掛けただけの状態だった。

   “掛り付けの病院がありますか?”首を横に振る。声が出ないのだ!
   “何か持病がありますか?”首を横に振る。
   “初めての体験ですか”首を横に振り“去年も救急車を呼びました”
   “何処の病院に行きましたか?”“トヨタ記念病院”
   “トヨタ記念病院に行きますか?”“遠いから嫌だ”
   “何処の病院を希望されますか?”“自宅に近い三九朗病院”
   “あそこは?科(聞こえなかった)が無いから駄目だ”“近くなら何処でも”  
   “加茂病院は?”“お願いします”
   “連絡先は?”首を横に振る。

   運悪く、妻は白内障の手術のため8月4日〜8月末の予定で博多に、長女は大学時代の友人の家(東京)へ、次女も大学時代の友人の家(東京)へ夫々1週間の予定で遊びに行ったまま。長男は9月の日本電気学会での論文発表準備のため、夏休み中も帰省せず大学の研究室に缶詰状態だったのだ。

   転げ落ちないようにとベルトで体を担架に括り付けられたが、急にこむらがえりが酷(ひど)くなり、ベルトをはずしてもらい、かつ膝を曲げた。ベルトの代わりに、係員が手で支えてくれた。酸素マスクを2〜3分使わされたが、直ぐに方針が変わり、高さ30cm位の紙で出来た3角錐を顔に取り付けた。酸素の吸い込み過ぎは悪いらしい。自動車の排気ガス再循環装置みたいだ。脈を取られる。                
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診察

   “私が分かりますか?”と言って医師が目を覗き込む。“首を縦に振る”  
    “意識レベル1の1”
   “頻呼吸”
   “脈が飛ぶ”
   “血圧 80”などと30代の若い医者が叫ぶのを、看護婦がメモする。
   “連絡先は?”首を横に振る。
   “プレイ時間は?”無言のまま指で4を示す。

   5〜6人いた看護婦達は、付添人がいない救急患者に違和感を感じたらしい。テニスをしていたのなら、仲間がどうして付いて来なかったのだろうか?との疑問のようだ。救急隊員も私の属性に関しては何にも情報を持っていなかった。運ばれる途中にいろいろ質問されたが、発声するのが大変苦痛になった私が答えなかったのだった。

   彼女達は僅かの情報を出発点にし、不足分は現況に矛盾しない推測で補って、全貌を合理的に説明出来るようなシナリオを考え始めた。

   “テニスは、きっと一人でされていたのよ。独り者じゃないの?”と言うのが結論のようだった。書類に空白欄があるのは落ち着かないらしい。丸裸で担ぎ込まれた所持品無しの『みすぼらしい男』から、治療費が取れるかどうかも心配しているようだ。                               
   
      『馬子にも衣装』との諺は正しいようだ。2〜3年前からゴルファー仲間では世界的に流行している金の腕輪(この腕輪をしていると、パットの成績が良くなるとの風説)は、私にも必需品のようだ。

   “そんな話より、早く点滴を始めてくれ!後で話すから”と最後の嗄れ声を振り絞って要求した。“頻呼吸をしてはいけない。ゆっくり呼吸するように。酸素の取り過ぎには害があるのだ”と医者は注意するが、無意識の内に呼吸が早まる。
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治療

   点滴装置の先端を右手に繋ぐ。並行して太ももの付け根から血液採取(この事情は後で質問して判った)体温の測定や心電図のチェックなど検査がテキパキと進む。ベッドに仰向けにされたまま、点滴装置を取り付けられた状態でレントゲン室へと移動。                          

   胸部をほんの僅か持ち上げ、フイルムが装填されている40cm角位の柔らかくて薄い平板を、ベッドと体の隙間に挿入。医者が顔を覗き込み意識を再確認。X線を真上から照射して撮影は程なく完了し、最初の治療室に戻った。救急隊員は“私達はこれで”と言って退室。喉が干からびていた私には、お礼の言葉も出せない。

   昨年の場合は点滴開始後、僅か15分で“す〜”と痛みが解消したが、今回は少し様子が違うようだ。体のあちこちが交互に痛む。膝を立てたり延ばしたり、痛みが最小になる姿勢を求め続ける。右手の指が突っ張って痛い。左手で揉みほぐす努力をする。看護婦が“手を動かさないで!点滴の注入速度が落ちる”と叫ぶ。

   看護婦が席を外したスキに、手の位置や向きを変えて点滴液が中間の溜まり場に落ちて来る頻度をチェックして見た。注入速度は手の姿勢で2〜3倍も変わる事に気が付いた。医者や看護婦が周期的に経過観察にやって来る。

   “水が飲みたい”と請求した。看護婦が“水道水しかないけどいいですか?”と聞く。“何でも良いから、早く早く!”と催促。一口大に千切った脱脂綿に水を含ませ、口に挿入。繰り返す事、数回。一度に大量の水を飲んではいけないのだろうか?との疑問が湧いたが声を出す気力がないので、なされるが儘にして我慢。

   1時間経過した頃、名古屋グリーンテニスクラブの支配人加藤さんが、ヒョッコリ病室にやって来た。救急隊員が病院名を連絡してくれていたのだろうか?

   “お家は名古屋じゃなかった?申し訳ないね”と僅かだが声が出始めた。 “お盆で、グリーンテニスの近くにある実家に帰っているんですよ。家には遅くなる、と連絡したから気にしないで。伏間が石松さんのお宅に電話したけれど留守だった。車を届けようかと思ったけれども、病状確認が先だと思って、取り敢えず来たんですよ”

   足の指が引き吊って痛い。加藤さんがマッサージをしながら、“指が長いですねえ。私のは短いけれど、親父のは長いんですよ。足の指が長い人はスポーツが旨いそうですよ”などと話してくれる。“末端巨大症だ”と言いたかったが、直ぐに嘘とバレるので止めといた。

   “看護婦さ〜ん。水が飲みた〜い”とまたもや叫ぶ。今度は飲み口の付いたガラスの容器に水を入れて運んで来た。これならば仰向けの状態であっても水が飲める。3杯(500cc?)飲んだ。“一度に飲み過ぎると吐くから”と言われて我慢。15分後位にまたもや水を請求。加藤さんが看護婦に連絡してくれた。やっと小康状態に至る。点滴は2本、計1リットルを約2時間掛けて注入完了。医者が再度、血液採取。結果が出るまで、次の処置はお預け。

   “血液が正常になったから、もう大丈夫ですよ。ゆっくり休んで下さい。昼間のテニスは避けた方がよい。テニス中は常に少しずつ水分を補給した方がよい”などと言わずもがなのお説教。

   “明日はロイヤルカントリーでゴルフの予定ですが、大丈夫でしょうか?”
   “無理。当分スポーツは止めた方がよい”

   “ところで、先程来の検査結果はどうだったのですか?チンポの付け根に注射したようだったけれど、膀胱から検査用の尿を採ったのですか?”

   “採血だ。手の血管はぺチャンコになっていて、採血出来なかったのだ。点滴前の血は酸性になっていた。点滴後は正常。その他の検査で異状は発見出来なかった。疲労と脱水状態がやや進行して、熱痙攣の状態だったんですよ。更に進行すると、後遺症が残る。手遅れの場合は死ぬ。もう一度言いますが、やり過ぎないように”とまたもやお説教。医者のお説教好きには辟易。
                             
    “実は、全身こむらがえりはこれで、6回目です。自己反省能力がないもんですから、わかっちゃいるけど止められない口です。ともかくお世話になりました”

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帰宅

   延べ6時間にわたって苦しんでいたので、すっかり疲れてしまった。運動はしていなくとも、こむらがえりを我慢している間は、筋肉の立場からは常に力を出していたのに相当するようだ。ぐったりとしてしまった。軽い状態にはなったが、まだあちこちにこむらがえりが発生しては消えて行く。加藤さんに手伝ってもらってやっと下着を着る。着る物がない上半身は裸の儘。

   加藤さんが“車の中にワイシャツを入れていたような気がする。サイズが合わないかも知れませんが、取って来ましょう”と提案してくれた。お言葉に甘えることにした。病院内は冷房が効いていて寒いし、体は冷やさない方が良さそうだったから。

   会計窓口で“保険証も現金も全く持っていない。どうしたら良いですか?”“明日の締切りは午後5時、明後日は休日、お金は後で結構です”と言われ、診察券だけを受け取る。

   加藤さんが“自宅まで送りましょう”と声を掛けてくれた。その直後の事である。“キーが無い”加藤さんがあちこち探したり、受け付けに落とし物として届けられていないか確認もしたが見つからない。
                          
   非日常的な環境に置かれると、私もしばしばキーを閉じ込めた苦い経験がある。その最たるものに、福岡市のど真ん中で披露宴も終わり、皆に見送られて新婚旅行に出発する直前、最後の挨拶を済ませるべく車から降りた瞬間、キーを閉じ込めていたケース、がある。

   “きっとワイシャツを取り出した時に、トランクの中にキーを落としたんだ。ワイフがスペアキーを持っているから持って来させます” 

   待つこと30分。何とか歩ける位にまで回復して来た。成り行き次第では明日以降の過ごし方も変わるので、車を取りに名古屋グリーンテニスまで送っていただくことにした。車は何とか運転出来た。家に辿り着いたのは午後8時半だった。
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その後

   帰宅しても食欲は殆ど無かった。体のあちこちが痛い。まだこむらがえりが時折発生するが、我慢出来る範囲だ。夜中に何回も目が覚める。水分を何回にも別けて補充する。体重が5kgも減っていた。細胞内の水分もかなり減少していたようだ。

   8月14日朝、室内を歩くのがやっとだった。結局ゴルフはやれそうに無かったので、医者の忠告に従うまでもなくキャンセル。1日中、寝て過ごした。夕方、加茂病院に治療費を支払いに出掛ける。1890円だった。あれだけ苦しみ大勢の手を煩わした治療費としては、安かったので拍子抜けした。“豊田そごう”で買った加藤さんへのお礼のお菓子代よりも安い。                    
  
   8月15日は、リハビリを兼ねてテニスを復活。今日からは麦茶を1リットル持参。試合が1セット終わる度に、200ccずつ水分を補給。何故かビールを飲みたいとの欲求が生まれないし、食欲も出ない。この日はレストランには立ち寄らないまま帰宅。

   8月16日もテニス。体調は急速に回復したが、食欲は半分。レストランでは、いつもなら5分で飲み干す大瓶1本のビールに1時間も掛かった。何故か美味しくない。好物だったいつものお刺身定食は、刺身はもちろん、御飯やみそ汁まで食べ残した。生物(なまもの)への食欲が湧かない。

   8月17日は最後のテニス。ビールもお刺身定食も止めた。スパゲッティを初めて注文した。熱い料理には不思議と食欲が湧く。体重はほぼ平常値に戻った。細胞への水分の注入には時間が掛かるようだ。萎(しお)れた植物に水を掛けても、元に戻るまでにはかなりの時間が必要なのと同じ現象か?
                             
   8月18日は夏休みの最終日。加茂カントリークラブにてゴルフの月例杯。ビールの味がほぼ戻った。体の痛みも解消。飛距離はいつもに比べると反って伸びたくらい。各茶店の次にあるホールの谷越えでは、飛距離不足に起因するOBの発生確率が過去の実績で50%もあるのに、今回はティーの位置がバックだったにも拘らず、2ヶ所とも楽々と谷を越えた。こむらがえりに耐えていた間に筋肉が強くなったのだろうか?不思議だ。結局この日はOBゼロ。久方振りの好スコアに満足。
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おわりに

   何か事件を起こす度に人間は少しずつ賢くなるようだ。“う〜ん,う〜ん”と唸ってはいても、意外な事に聴覚も意識も正常だった。一方、口は殆ど利けなかった。耳は努力せずとも機能する受け身の器官。口は動かすために、積極的な努力、エネルギーが必要なことを改めて認識。

   この事は死亡直前の危篤患者にも当てはまるのではないか?。患者は物が言えないほどに衰弱していても、看病人や医師などの会話ははっきりと聞こえているのではないか?との推定である。とすると、積極的な反応が患者から得られ無くても、たとえ植物人間同然になっていても、一所懸命に励ましの話し掛けを看護人が継続するのには大きな価値がありそうだ。

   救急隊員は実に親切だ。若いし、腕力があるし、使命感に溢れている。病人が苦しんでいればいるほど、職業意識が猛然と出て来るようだ。それだけに、救急車をタクシー代わりに使う不逞の輩に出会うと、逆に一層腹が立つのだろうか?

   治療中に救急車こそ使ってはいなかったが、緊急患者が数人やって来た。全て幼児だった。若い両親はオロオロしている。核家族化が進むにつれ、この種の患者は増えそうだ。

   本日(8月20日)は58歳の誕生日である。統計によれば、我が人生もあと僅かに、21年半{(110-58)×(110-58)÷100×0.8}である。最後の数年間は死を待つだけの日々に過ぎないと仮定すれば、実質的な残りの人生はホンの20年足らずに過ぎない。                         

   “スポーツを楽しみながら健康もキープ”を目標に約20年間過ごして来たが、しみじみと“過ぎたるは、なお及ばざるがごとし”との諺の意味の深さを噛み締めたものだ。

   当初はテニスも精々1時間半(ストロークの練習+1セットの試合)プレイしていただけであったが、数年前より徐々に長時間化して来た。多少でも腕が上がるにつれて、ますます面白くなって来たのだ。ゴルフだけをする友人からは、しばしば“テニスとゴルフはどっちが面白い?”と質問された。  

   その都度“そりゃあ、テニスですよ。ゲーム性があります。ゴルフは仲間との会話を通じての付き合いが面白さの中核ですね。たとえ料金は只と言われても、一人だったらコースを回る気がしませんね。平成になってからはゴルフの練習場にも、馬鹿らしくなって行ったことがありません”

   “私には、健康にいくら良いと勧められても、散歩やジョギングには興味が湧かないんですよ。籠の中で走り回るモルモットを連想するんですよ。35歳になった時、一念発起して1週間に1回スポーツセンターに出掛け、毎回1000m泳いでいましたが、半年も続きませんでした。水泳中にお喋りが出来ないのが苦痛になったのです”

   人にこれ以上の迷惑を掛けないように、との理由からだけでは無く、自分自身の人生のためにも“今度こそは自重しよう”と、遅れ馳せながらもやっと決意だけはしたが、これも今まで同様に三日坊主で終わるのだろうか?
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