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随想
           
故郷よ、さらば(平成15年9月4日脱稿)
   
      自宅から2Km離れた位置にある特別養護老人ホームに入居中だった母が平成15年8月23日22:30に永眠した。享年93歳だった。兄夫婦が駆けつけたときには既に死亡していた。最後を看取ったのは、職員・看護師・医師だった。
   
   父は12年前に享年88歳で永眠。両親の平均死亡年齢は90歳2ヶ月だった。多重がんの治療後、経過観察中の私には辿りつけそうもない高齢である。父は死の直前まで元気だった。夜半に誰にも気付かれることなく永眠した。高齢者の死はこのようにある時、突然訪れるようだ。
   
   郷里を遠く離れた子供は親の死に目にも会えなくなるといわれて久しいが、同居していても老衰で大往生する場合には、親の最後を看取るのは無理な場合が多い。

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葬儀用の写真
 
     母は葬儀に使う写真を撮ることには、何度か提案したが反対した。長期的に見ると白黒写真でも変色するのが嫌いだったようだ。

   その代わりに10年前、肖像画家を自宅に呼んで、カラーで描いてもらった。流石はプロである。たとい無名であっても、本人そっくりに描けていた。その絵を額縁に入れ居室に飾っていた。私は後日、兄から『あれは写真ではなくて、絵である』といわれるまで、そのことに気付かなかった。
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電文に驚く
  
     71通の電報が到着。電文を読んで驚く。母と父とを取り間違えているものもあったが、これは単なる連絡ミスに過ぎないと判断。しかし、母が一度も会ったことのない方からの電文に『・・・在りし日のお姿を偲び・・・』というものが散見された。電話帳に載っている文例の丸写しなのだ。

   ここ数年、電報なるものを打ったことがなかったが、電文を挟む台紙の高級化路線にも驚いた。NTTが民営化された効果だろうか。民営化では高価格化もあったのだ!本文よりも台紙の料金の方が高くなっている。『餅よりも粉が高い』との諺にもライバルが現われた。お悔やみ用には2000〜5000円が多い。

   受け取った電文の厚さは合計30cm以上もあった。殆どの電報が高級台紙付きだった。   
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葬儀での誤算

   母は8人兄弟の3人目だったが兄弟姉妹の中では最後の死だった。既に親しかった友人達も先立たれていたので、兄は近くに住む親族を中心にした少人数だけが参加する葬儀を計画。私もその趣旨に賛同して、子供3人に『香典を立て替えておく』とメールで連絡しただけだった。
  
   8/24,18:00から通夜。喪主兄の指示で、私と弟達の3人で葬儀会場に泊まった。線香と蝋燭の火を絶やさないように、と葬儀会場の職員に指示された。蝋燭は大きなものだったので、一晩は消えることなく燃え続けた。通夜用の線香は蚊取り線香のように渦巻状に成型されていて、延べ長さが直線状の線香よりも長く、6時間は持つとの説明を受けた。携帯電話時代なのか、情報の伝達は早く、夜半まで弔問客が続いた。
   
   葬儀は翌8/25,13:00からだった。会葬客数の推定に誤算があると気付いたのは、葬儀開始直前だった。急遽隣の小ホールから40脚椅子を持ち出した。これ以上は椅子を並べる場所がなかった。已む無く遅く来た方々には立っていただくことになった。
   
   誤算は当然の結果として、椅子の数だけではなかった。多めに用意したはずの、会葬お礼のお茶と挨拶状が足りなくなった!葬儀中に急遽100セット追加した。流石は葬儀屋である。挨拶状の印刷は出棺までに間に合った。司会を通じて葬儀中にお詫びはしたものの、何とか切り抜けられた。
   
   しかし、葬儀完了後、自宅で初七日を始めたら、連絡が遅れた方々が自宅にこられ始めた。又もやお礼の品物が足りなくなり、30セット追加発注。父の葬儀の800余名を考慮しての会葬者(通夜+葬儀)は最大300人との推定だったが、結局400余名になり、とんだ誤算だった。連絡を省略しても結局のところ会葬者はさして減らず、却って礼を欠く結果を招いてしまったのだ。(その後も更に30+30セット追加したそうだ)
   
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葬儀での挨拶

   母が親しくしていた友人達も先立たれていたので、葬儀恒例の友人代表挨拶は省略。次男の私の『親族代表』挨拶と出棺時の喪主挨拶だけになった。

      長い間、あちこちの葬儀に参列し、親族代表挨拶なるものは、一族を代表できる立場に到達している長老の役割と信じていたが、あろうことか、とうとう我が身にその順番がやってくるとは! しみじみと老いを感じさせられた。
   
   葬儀屋からは固有名詞の所が空白になっている模範例を渡されたが、魂が篭っていないように感じて破棄し、勝手に下記のような独自の挨拶に変えた。
   
   
   本日はお忙しい中、亡き母・石松ふじゑのためにご会葬賜りまして、誠に有難うございました。ここに、母の人生の一端をご報告して、おん礼に代えさせていただきたいと存じます。
   
   母は身長140cm、体重40Kgの小さな小さな体でしたが、父を助けて7人の子供を育て、18人の孫と11人のひ孫にも恵まれました。
   
   母はまた、多くのお友達にも恵まれました。大好きだったゲート・ボール(注。道具一式を棺桶に入れました)を楽しむ傍ら、父と一緒に毎年のように海外旅行にも出掛けていました。
   
   晩年に至ると、母は父の身の回りの世話にも生き甲斐を見つけていました。父の永眠後は残念ながら、徐々に徐々にボケが進んでいきました。しかし、幸いにも特別養護老人ホーム『遠賀苑』に入れて頂き、ホッとしました。郷里を遠く離れていた私には何一つ母の世話が出来なかったからです。
   
   大勢の職員・看護師・お医者さんに心身共に支えられて、母は余生を心静かに送ることも出来、苦しむこともなく大往生しました。関係者の方々に心から感謝申し上げる次第です。
   
   こうして、明治・大正・昭和・平成の4つの時代にわたり、92年と半年余りの長かった人生を幸せに生き抜いた母を、私は心から誇りに思っています。
   
   本日は誠に有難うございました。
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故郷よ、さらば

   私は結婚後も本籍地は出生地のままにしていた。戸籍謄本の取り寄せなど父や兄に頼むのは心苦しかったが、両親は戸籍が出生地にあるままを望んでいたからだ。そこで、兄には両親が共に永眠するまで、戸籍の移動はしないと伝えていた。
   
   両親が生きている間は、盆・暮れの長期連休には800Kmの道中を、万難を排して子供達と一緒に帰省していた。元気な家族の姿を見せるのが最大の親孝行と確信していたからだ。
   
   母が永眠した今、帰省の動機が消滅。いわゆる冠婚葬祭の中で残ったのは、婚・葬のみである。婚は石松家の9人と中馬家(荊妻の旧姓)の10人の未婚の甥姪。最近の我が国の生涯未婚率を考慮すると後14,5回か? 葬儀の数は予想もつかない。
   
   残るは、同期生の懇親会(小・中学校は各隔年、高校と大学は不定期ながら今後は凡そ5年間隔。今年は5月に小学校、9月に高校同期会)に、都合がついたときにのみ参加するだけ。最早、帰省時期を楽しみに待つという心境も消滅。世代がとうとう代わったのだ。
   
   長女の婿(一家はドイツに駐在中)と長男はトヨタ自動車の社員であるため、いずれ豊田市近辺に持ち家、次女一家は既に刈谷市に新築移転。大学時代以外は郷里にいた我が子供達には、故郷の観念こそ育まれてはいても、帰省時に感じる『ときめき』の感覚は恐らく絶無ではないかと推定している。
   
   来る10月10日に母の49日と父の13回忌を一緒にすることになった。この序に遺産放棄書に署名し、福岡県遠賀町の役場へ出掛けて戸籍謄本を取り寄せ、豊田市役所に本籍地の移動手続き書類を提出すれば、名実共に『故郷よ、さらば』になる。
   
   我が人生の終着駅は自ら望もうが、望むまいが自己の意思とは無関係に、『三河の国』にとうとうなってしまったのだ。その心境を見透かされたのか、がん死の予想話が広まったのか最近になって、墓地の押し売り電話が頻々とかかってくるようになった!
   
   賢人各位!多くの方々には恐らく過ぎし日のいつかの時点で『故郷よ、さらば』の節目を体験されたと思います。その時のご心境は如何だったでありましょうか?
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