本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
アジア
韓国(平成13年1月31日脱稿)

      韓国も台湾もほぼ同時期に日本の植民地となり、共に総督府の支配下で日本語教育を初めとした日本化が推し進められた。第二次世界大戦後日本からは解放されたものの、嫌日の韓国、親日の台湾と言われるようになったのは何故か?。産業の発展形態も大財閥牽引形の韓国、中小企業牽引形の台湾と大きく異なった事情は何に由来するのであろうか?。                                                      

      隣国でありながら啀(いが)み合いが今尚続く日韓の現状は、イギリス(日)とアイルランド(韓)との関係に似ているとも言われるが、和解の道はないのだろうか?。韓国人の本音は何なのか?。

      蟷螂(とうろう)の斧とは承知しつつも、その謎の根本を探り当てるのは私に取って、観光地巡りよりも遥かに興味深い積年の関心でもあった。
上に戻る
はじめに

   還暦後アッと言う間に2年が過ぎたある日突然、海外旅行に関する新目標、即ち『訪問した国の数≧歳』が脳中をフッと掠(かす)めた。中国やアメリカのような人口も面積も大きい国と、都市国家のように小さなシンガポールやサンマリノ等とを同格扱いするのには、さしたる意味もないのは自明の事だが、大変シンプルで誰に話しても解りやすい指標だ。本当は都市、あるいは訪問地域を数えるのが妥当とは思うものの、平成12年だけでも尋ね歩いた地域数は39にも達し、忘れてしまった都市名すらもあり、目標管理の指標には扱い難い一面があった。

   定年2ヶ月前の最後の海外出張で訪問国数は一挙に4ヶ国も増えて35ヶ国になったが、その後の2年間では僅か5ヶ国増に止まった。目的地は初めてでも、再訪問国となる場合が多いからである。この比率(2年で5ヶ国)のままで推移すると、15年後にやっと77ヶ国となり、目標に到達する計算だ。各旅行社から定期的に送られてくる旅行案内を見比べていたら、目標をいち早く達成するためには、行きたい国よりも行ける国からドンドン出かけるべきだと、考えが少し変わり始めた。

   ある時、韓国8都市(釜山・慶州・太田・扶余・公州・水原・ソウル・坡州)4世界遺産(仏国寺・石窟庵・水原城・宗廟)、3泊4日全食・韓国人ガイド付き、1室2人で5万円ポッキリ也の手頃なパック旅行(平成12年12月4日〜7日)を発見した。講師として愛知県下の公立学校を毎年のように転々と異動している荊妻に誘いの声を掛けても、既に年度末の職員懇親旅行で2回も韓国に旅行していて無関心。そこで“旅は道連れ”とばかりにゴルフ仲間に次々と誘いの声を掛けたら、気楽に海外旅行を楽しんでいる悠々自適の児さんから朗報を得た。児さんも韓国は初めてだったのだ。
上に戻る
韓国あれこれ

   私は海外出張や海外旅行の場合、事前に何冊かの簡単な入門書を読むのを習慣にしている。今回も観光ガイドブック3冊と、高校時代から永年に亘って熟読し復習もしている旺文社の大学受験参考書・故吉岡力著『詳解世界史・1988年改定』、韓国人・金達寿著・岩波新書『韓国・1958年』、台湾人・黄文雄著・カッパブックス『韓国人の反日、台湾人の親日・1999年』を読んだ。著者が外国人の場合、自国の歴史をどのように評価しているのかに興味をそそられるだけではなく、私の積年の疑問点は読書だけで氷解する場合も多いからである。

   残された疑問点については、現地現物主義に徹しながら自らその解を考える一方、タイミングを見計らいつつガイドに的確な質問を発するのは、海外旅行の楽しみ方の一つだった。しかし、どうしてなのか今回もまた何時もの海外旅行のように、『石松さんの質問が怖い』と、ベテラン女性ガイドに連発される憂き目にあってしまった。

   本章では私の関心事を中心に、結果としては今回の旅の収穫ともなったトピックスを、順不同のまま書き留めることにした。

[1]地理

   朝鮮半島の面積は約22万平方Km、本州から青森県を除いた大きさとほぼ同じである。韓国の人口は北朝鮮の2倍強だが、国土面積は逆にやや狭く、北海道と四国の合計、約10万平方Kmである。北朝鮮の面積は北海道と九州の合計値に近い。

   韓国の人口は4657万人(1997年末)にも達し、北海道+四国の約1千万人の約5倍、域内総生産では5割増だ。日本は明治以来人口密度の高さでは世界的にも突出していたが、今や韓国の方が気の毒にも遥かに過密だ。

   朝鮮半島はアジア大陸から東南に伸びているとばかりに思っていたが、念のためにと地図で確認したら、中国東北部(旧満州)からほぼ真南にぶら下がったナスビ見たいな半島だった。その結果、朝鮮全体は狭い経度内(東経 124〜131度)にスッポリと収まっている。従って、標準時間は東経127.5度、日本との時差を30分に設定するのが私には合理的だと思えるのだが、何故か日韓の間には時差がないのだ!。世界的に見れば30分単位の国はインド(日本との時差は3.5時間)等僅かだが、ちゃんとあるのに。

   時差の設定には1時間単位が便利なためだろうか?。それとも日韓併合時代の名残りなのだろうか?。反日を国民統合のスローガンに掲げているのならば、せめて時差くらいは旧宗主国の中国(中国と日本の時差は1時間、しかも中国全土の標準時間は1つ)に合わせれば首尾一貫とは思うのだが…。その結果、韓国(北朝鮮も)は正午に太陽が南中する地域が全く存在しないと言う、特異な国になっている。 
  
   韓国本土の山は全てなだらかで且つ2千メートル以下、最高峰は済州島の漢拏山(かんださん・1950m)である。雑木で覆われた山には針葉樹の植林は殆どなされていない。建築資材に使えるような真っ直ぐに伸びた大木は、観光バスからは全く見掛けなかった。なだらかな山地は英国やニュージーランドのように、牧草地として活用すれば少しは役に立つのに、東南アジアの米作民には、中央アジア以西の民族のような放牧の習慣がないためだろうか、貴重な民族の資産である国土をこれほどまでに捨て置くとは、何と勿体ないことか!。

   尤も、建築資材となり得る樹木の植林に熱心だったのは、世界的に見れば日本とドイツ位だ。殆どの国には植林のような百年単位の事業に取り組む観念がなく、太古からの大いなる遺産を食い潰しているだけだ。その結果はと言えば、禿山と砂漠化が進み、今になってやっと地球温暖化問題と一緒にあれこれと騒ぎ始めている。

   低い山では勾配も緩やかとなり水流も遅いためか、長さの割には川幅が大変広い。急流の多い台湾各地の河原には巨岩がごろごろ転がっていたが、韓国の川には生コン用には最適と思える素晴らしい川砂のみが堆積していた。釜山からソウルまでの道中、車窓に広がる平野は狭く、耕地整理も不十分な上に、小さな水田や畑が多く、農業で生計を立てるのは至難の業と直感できた。韓国民が有史以来2千年間、日本人以上に苦労したであろう事は一瞬にして理解できた。

[2]歴史

   明治以降の日本は欧米から先進文化を積極的に取り入れたが、古墳時代の日本は韓国から、その後は遣隋使や遣唐使を通じて中国からそれらを直接導入していた。韓国独自の文化が少ないとはいえ、当時は後進国だった日本への貢献度は高い。また地勢学上韓国は長い間、意図的ではなくとも大陸と日本との間の軍事的な緩衝地域となり、日本の安全には大変役だった。
 
@三朝時代(紀元前57年〜西暦676年)     

   紀元前後の朝鮮半島では部族集団が群雄割拠していた。満州に紀元前37年に建国し、西暦 313年には漢の直轄地(漢四郡)をも制圧した高句麗と、西暦 346年に建国した南部の百済と、西暦 356年に建国した東部の新羅は、お互いに 300年間も覇権争いを続け、三朝時代と呼ばれた。

   一口に韓国人と言っても、実は2つの人種から構成されているのではないかと感じた。日本人そっくりの体格・体型の人と、10cm位身長が高い人とが目に付いたからである。かつて高句麗の末裔が満州と朝鮮北部に跨がる広大な地域に『渤海』を建国(西暦 700〜926年)したものの、契丹(きったん)族に滅ぼされて韓国に舞い戻った。私にはこの長身族は、滅ぼされた渤海人の末裔ではないかと思えてならなかった。かつての現役時代、中国東北部(旧満州)に出張した折に、満州人の身長はラテン民族(ゲルマン民族はラテン民族よりも大型)並だと知って驚いたことを思い出すからだ。

A統一新羅時代(西暦 676〜935年)

   唐と連合した新羅は西暦 660年に百済を滅ぼし、百済救済に駆け付けた日本水軍も白村江で撃破。西暦 668年には高句麗をも滅ぼし、半島を統一した。新羅は唐を宗主国と仰いで仏教文化を導入。その結果、かつての首都慶州には貴重な仏教遺跡が数多く残されているためか、東洋のイスタンブールだ!と言わんばかりに、恥ずかしげもなく大袈裟に野外博物館と自称している。

   半島を統一した新羅は3国の文化を融合し、李読(りとう)文字を発明し、朝鮮固有の文化を発展させ、今日の朝鮮民族の根幹を形成した。しかし、新羅の古くからの社会身分制度である『骨品(こっぴん)制』は韓国の絶えざる争いの元凶ともなった。『骨』は血族、『品』は身分・地位を表している。第1骨は聖骨・真骨と呼ばれ、朴・昔・金の3氏の血族のみが独占し、国王となり得る資格が与えられている。以下、第2骨、3骨、…と延々続いている。

   しかし、第1骨内での王権の争奪戦を初めとした同一ランク骨内の争いだけではなく、韓国では奴婢・農民のような最下層民によっても反抗・反乱が絶えず繰り返されていた。こうした同一民族内の絶えざる階級間の争いこそは、韓民族の本質的な特徴ともなった。今日、韓国での労使紛争や選挙戦の過激さには、日本人の私には異様にも感じるが、韓国の歴史を知れば、細(ささ)やかな対立に過ぎないことに嫌でも気付く。聖徳太子ならずとも『和をもって尊しとなす』を信条とした多くの日本人とは対極にある国民性だ。

   9世紀に入ると新羅の国力も衰退し、西部の『後百済』、北部の『後高句麗』と合わせた後3国時代を迎えた。

B高麗時代(西暦 936〜1392年)

   後高句麗が統一新羅を西暦 935年に滅ぼし、高麗を建国。高麗は西暦 958年には中国から科挙の制度を導入し、内政も安定したが、6度に及ぶ元の来襲にとうとう西暦1259年に屈服。西暦1392年には将軍・李成桂が王位に付き高麗は滅亡した。

   高麗時代の西暦1234年には世界最初の金属鋳造活字で仏典を印刷した。西暦1450年代のグーテンベルクの印刷技術に先立つこと2百年だが、この功績が世界に余り知られていないのは、韓国の宣伝不足だけなのか、私には史実としての真偽も含めて分からないままだ。

C朝鮮王朝時代(西暦1392〜1910年)

   李成桂はソウルに遷都し、仏教を廃止し、儒教による国家作りを推進。高麗時代に始まった『両班(やんばん)制度』を引き継ぎ、儒教的な身分制度も確立した。両班制度とは『両班は貴族、中人は役人、常民は農工商人、賤民は僧侶・奴婢など』とした階級制度だ。仏教を遠ざけた結果、僧侶は何と賤民にまで蹴落とされてしまった。

   李朝を朝鮮王朝と呼称するのは、西暦1392年李成桂が古朝鮮の名を復活させて国号を朝鮮に改めたからである。韓国民にとって民族の誇りとも言える筈のこの『朝鮮』と言う言葉を日本人が使うと、韓国人は『侮辱された』と思うそうだが、情けない反応だ。中国人が『秦』に由来する『支那』から生まれた言葉『支那人』を日本人が使う時に示す反応と同じだ。同じ語源に由来する英語の『チャイナ』や『チャイニーズ』を日本人が使っても、何等の反感も現さない微妙な心情だ。

   韓国は豊臣秀吉との陸戦には完敗したものの、海戦では李舜臣将軍の活躍で大勝し国難(壬辰の倭乱)を免れた。その結果、李舜臣将軍は国民的な英雄となり、釜山の竜頭山公園には、誇らしげな彼の銅像が対馬海峡の彼方にある日本を睨んだ姿で立てられている。この時、豊臣秀吉が日本に連行した多くの陶工の活躍で、唐津・薩摩・萩など日本各地で窯業が発展した。         

   明治以降、日本と清国との朝鮮に対す覇権争いは日本の勝利に終ったが、日清戦争の遠因にもなった。日韓併合推進者の伊藤博文がハルビン(中国東北部黒竜江省)で西暦1909年、安重根に暗殺されたものの、とうとう韓国は西暦1910年、日本に併合された。韓国では安重根を抗日運動の烈士として顕彰すべく『安重根義士記念館』を建てた。

   初代朝鮮総督寺内は『小早川加藤小西が世にあらば、今宵の月をいかに見るらむ』と詠んだそうだが、言っていいことと悪いこととの区別も付かぬ、当時の日本人の国際感覚が丸見えで悲しい。

   韓国人に最も悪名が高い日本人は豊臣秀吉と伊藤博文だそうだ。安重根自身がいかなる正義を考えていたにせよ、目的のためには手段も選ばないと言ったようなテロリストを顕彰する姿勢に、韓国人の日本人に対する屈折した国民感情の存在を否定し得ない。オーストリアの皇太子フェルディナンドが、西暦1914年セルビアの反墺秘密結社の青年に射殺された事件は、第一次世界大戦の引き金にすらもなったが、セルビア政府がこの青年を顕彰したとの話は聞かない。

   戦後韓国は日本に韓国の固有名詞を韓国読みで取り扱うことをかたくなに要求した。例えば金大中をキム・デジュンと書かせるが如きである。しかし、一方国内では天皇を何と『日王』と書いていた。ここに韓国政府の品格が象徴されている。しかし、西暦1998年秋、金大中が来日して以来、天皇としぶしぶ書くようになった。漢字のみの中国にはどのように書かせ、どの様に発音させているのか聞きたいものだ。日本人に取って、北京は現地読みのペイジンではなく、あくまでもペキンと発音する北京の儘だ。それに対して中国政府が何の苦情も言わないのは、少しは大人になっている証拠か。

   外来語や固有名詞はそれらを使い易いように、その国の言語体系の中に取り入れるのが効率的であるが故に、世界的な習慣にもなっている。カエサルをシーザー、ヘンリーをアンリーと呼ぶなど枚挙に暇がない。折角の漢字名を片仮名で書いたのでは、名前が持つ最も重要な意義、つまりそれに託された意味が失われるだけではない。                    

   日本人にとっては無意味綴りを暗記させられることになり、覚え難くて不便この上もない。私は我が唯一の貴重な資源である頭脳をそんな瑣末事に酷使するのはアホらしいので、受験勉強ならいさ知らず、今では頭から無視しているので覚える気も起きない儘だ。

D西暦1910年〜現代

   日韓併合時代に総督府予算が黒字だったのは大正9年だけで、残りは日本からの持ち出しだった。結局日本は西欧各国のような海外からの金銭面での収穫はなかったのだ。その間に、教育制度を確立し、インフラを整えた。戦後民族自決ブームで世界各地に独立国が激増したが、いち早く奇跡とも絶賛される程の躍進を遂げたのは、経済成長への離陸準備が日本の支配下で整っていた韓国と台湾だ。  
 
   韓国民からは日本の努力が評価されないどころか、何時までも非難され続けているのは情けない。国徳のなさか?。我が子に『今日あるのは、誰のお陰か!』等と言う気が全くないのと同じように、韓国に日本の貢献について一言ぐらいは触れたら、と言う気も勿論ない。しかし、いつかは再評価される日が来ると確信している。

   西暦1945年からは朝鮮は米ソ両国により分断統治され、西暦1948年に至り大韓民国と朝鮮人民共和国とが分離独立したものの、西暦1950年6月25日〜1953年7月27日までの3年間は朝鮮戦争。西暦1991年には南北同時に国連に加盟したものの、民族の分断は不幸にして今も続いている。

   韓国の教育制度は日本と同じ6・3・3・4制だが、義務教育は何とたったの6年間だ。しかし、日本の高校進学率が 100%近くに上昇しているのと同様に、韓国でも進学熱は高く、義務教育には授業料が只と言う意味以上の意義は既になくなっている。

……………………………………平成13年1月28日追記………………………………

   平成13年1月26日、JR山手線の大久保駅で線路に落下した日本人の酔っ払いを助けようとした韓国人留学生と日本人カメラマンとが不幸にも轢死した。私は涙が止まらなかった。いずれは何とか善処するのであろうが、政府は間髪を入れずに哀悼の意を表し、法律が何であれ遺族にはお見舞い金(我が見積もりは5千万円)を即日出すべきだった。領収書も不要な外務省の機密費があるではないか!。いわんや安全対策も不十分だったJR東日本に於いておや。

…………………………………………………………………………………………………

[3]民族

@同祖国家

   日本人のルーツ論は戦後雨後の竹の子のように出てきたが、どれも物証が乏しく決め手を欠いているように、私には思えてならない。とは言うものの、東アジアに住む人達のDNAを詳しく解読する事により、いつの日にかはルーツ論にも終止符が打たれるであろうが、それと同時にロマンも失われてしまう。ルーツが分かったとて何の役に立つと言うのか?。先祖のお墓を暴き散らすような気がしてならないのだ。

   我が独断では、旧石器時代から弥生式時代までの日本には、アイヌを中心とした北方系、韓国・中国・ベトナムなどの大陸系、台湾などの南方系が入り交じり、耶馬台国等の小国が乱立していたが、満州方面から朝鮮半島経由で先進軍事技術を持った民族が侵入し、先住原日本人を征服し、大和朝廷が成立したと思っている。金沢庄三郎著『日鮮同祖論』には何と書いてあるのだろうか?。

   日本人は東南アジア人と同じモンゴロイドとはいうものの、中央アジア人とは皮膚の色がかなり異なっている。人相は食べ物と言語で簡単に変わるようだから、顔付きは当てにはならない。言葉が変わると顔の筋肉の使い方が異なり人相が変わるそうだ。中国の残留日本人が中国人そっくりに見えるのは言語の影響が強いからだ、と推定している。逆に日本語の旨いアジア人は日本人によく似ているように感じられる。

   民族が持つ諸要素を歴史的なスパンで観察すれば、長い間安定しているのは言語構造だけだと分かる。日本周辺国で日本語と語順が似ているのは韓国語だけだそうだ。その根拠から、私は日本と韓国とは最も関係が深く、『同祖国家』と言えるのではないかと思っている。大和時代に多くの韓国人が日本に帰化し、仏教を中心とした先進文化を持ち込んでくれた。その点では無信教の私でも、昔の韓国人には大いに感謝している。

   大和朝廷が帰化人を歓迎し優遇したのは、同郷のよしみもあったのではないかと推定している。百済と飛鳥時代の仏教文化の類似性は、百済と大和朝廷の繋がりの深さの何よりの証拠に思えてならない。アメリカ大陸の先住民を征服し、独立戦争では英国と戦ったにも関わらず、アメリカ合衆国が英国からの移民を優遇したのと同じ関係だったのではないか。第一次、第二次世界大戦の後半に至ってアメリカ合衆国は英国を助けるために派兵し、大和朝廷は高句麗に攻め込まれた百済の支援に派兵したが、両者に共通する大きな要因として、血の繋がりの深さを挙げずにはおれない。

A国民性…その1

   韓国は有史以来、中国の強い影響下にあった。その間に『弱きを挫き、強きに従う』と言う、誇りを失った国民性が育ったようだ。聖徳太子が遣随使(小野妹子)に託した『日出ずる国の天子…。』の気概はどこにもない。弱き者が生き延びるための生活の知恵だったとは言うものの、その選択の結果は民族全体が劣等感に汚染されてしまうと言う、悲しい結果をも招来してしまった。

   宗教でも、強国の影響下では簡単に改宗してしまった。古代ではインドに生まれた仏教を中国経由で導入したものの、朝鮮王朝時代には中国で生まれた儒教を国教にまでした。しかし、朝鮮戦争後はキリスト教徒が激増し、今では儒教徒は僅か2%にまで減少した。とは言え、儒教だけは伝統的な社会のモラルや生活習慣として、今尚日常生活に深く根を下ろしている。例えば、いずれの宗派も葬式は儒教式で行うそうだ。この点では、元旦には神社に初詣でをし、教会で結婚式を挙げ、お寺で葬式をする日本人と大変似ている。

   国家としては中国を宗主国と仰ぎその庇護のもとに属国として生きてきた。元冦の役では元の命令を受け、大軍を差し出させられた上に戦艦も作らされ、日本に元軍と一緒に押し寄せてきた。しかし、日本に対する加害者としての反省は今に至るまで一言も発していない。とは言え日本人がこの歴史的事件への韓国の関わりに全く触れもしないのは、大人になった証しの一つだと、私は密かに喜んでいる。

   韓国人は政権交代期には前の王朝文化を徹底的に破壊してきた。このやり方も、秦の始皇帝以来の中国と同じで『小中華』と言われる所以だ。毛沢東も死後は生前の功績を抹殺された。日韓併合時代は日本に従い、戦後は日本への悪口雑言はやむところがない。大統領の交替の度にマスコミを総動員して、徹底的に前大統領を叩く習慣は今も堅持している。悲しい国民性だ。

   しかし、夜明けは徐々に近付いたようだ。そんな行動では第三者から蔑視を受けることはあっても、尊敬の念を勝ち取ることはできない、と言う空しさを味わい続けたからだ。韓国政府(韓国人)が日本政府(日本人)をどのように非難しても、日本人には何の影響も与えていないことを、若い人達は既に気付いている。一昔前に韓国を訪問した我が友人達は、日本人への敵意を感じたと言ったが、私は今回そのような視線を全く感じなかった。若い世代から徐々に態度が変われば、たといタイムラグが多少あろうとも、いずれは韓国政府の公式発言も正常化(常識化)するだろう。

B国民性…その2        

   歌にはその国の国民性が濃縮されているような気がしてならない。ガイドが懸命になって歌った『アリラン』と日本の『演歌』には何かが似ているような気がしてならない。ピアニストである荊妻は我が閃きに基ずく独創的な仮説を『音楽的には別物だ』と、一刀両断に切り捨てたが、私には疑問が残ったままだ。そこには『人生の嘆き』が共に歌い込まれているように思えるからだ。

   ユーラシア大陸の東西に位置する韓国とポルトガルに共通するものは、強大
な大陸国家からの圧迫に耐えざるを得なかった弱小国の悲哀だったのであろうか?。『アリラン』やポルトガルの民謡『ファド』に共通するものは、人生の宿命や哀感を表現している点にあるような気がしてならない。

   人間とはたとい人種や民族は異なっても、同じような立場・瀬戸際に追い詰められれば、同じような発想の詩を作り、同じような節回しの歌を歌い始めるような気がしてならない。明るく積極的に愛を語るロシア民謡とは、異質の世界に感じる。

C姓の種類は極端に少ない

   韓国では『金・李・朴・崔』姓だけで国民の半分を占める。日本の『佐藤・藤原・田中』の比ではない。同じ姓の人が多ければ多いほど、人を区別するための姓の存在価値が小さくなるのではないかと余計な心配すらしたくもなる。西暦1956年の調査によれば全国では 296姓、 285は1文字姓、2文字姓はたったの11である。 
 
   一説によれば日本には20万姓もあり、その殆どは2文字姓であるが、庶民に姓が普及したのは明治以降であり、姓に対する執着度は軽く、結婚と同時に改姓するのにはさしたる抵抗感もないようだ。

   我が娘達に至っては姓には何の思い入れもないようだ。長女はトヨタ自動車に在職中結婚したものの、女性3人が『加藤』姓で小さな職場にひしめく事態となり、混乱防止のため人事部と相談して退社するまでの2年間、社内では旧姓で通してしまった。次女は結婚2年後に『臨床心理士』の資格試験を受けたが、受験願書の準備が面倒なのか旧姓のまま申請していた。合格通知も当然の事ながら旧姓宛て。

   日韓の違いは姓の構成字数や種類の総数だけではない。家門を重視する韓国では改姓は最大の屈辱と考え、女性は結婚後に姓を変えようともしない。姓には夫々始祖発祥の地があり、本貫(ほんがん)と呼ばれている。同じ金姓でも本貫が異なる家系が存在し、慶州の金氏、義城の金氏のように区別している。      

   韓国では本貫が同じ姓の男女の結婚は法律で禁止されている。近親結婚の弊害は避けられるとは言うものの、我が日本では4親等間(例・従兄弟)でも結婚できるのに比べれば、何という違いか!。

   韓国の婚姻習慣の対極にあるのがインドだ。インドにはカースト制度が2千年以上も続き、4大カーストの下に、3千種とも言われるジャーディがある。ジャーディとは血縁で結ばれた同一職業集団である。配偶者は同一ジャーディ内で捜す習慣なので、『内婚主義』とも呼ばれている。尤も、同一ジャーディ内であっても、極端な近親結婚は避けられているそうだ。この習慣は、同一ジャーディ内の伝統的な掟に従う限り、最貧国に近い状態であるにも関わらず、その生存が所属集団により保証されているため、今尚続いているそうだ。

   韓国に何故『金』姓が多いのか、の由来が岩波新書『朝鮮』に載っていた。『天から金の函が降りて、その中から6つの金の卵が現れ、それが孵化して童子となり、6つの国の王様になった』。ガイドにこの神話の有無を問うと『知らない』と言う。韓国の古墳からは金の装飾品が沢山発見されている。『金持ちになりたい』との庶民の素朴な願いの現れではないかと、私は邪推しているのだが…。

D素晴らしい文字『ハングル』

   朝鮮には万葉仮名に似た『吏読文字』が、新羅時代の僧『薜聡:せっそう』によって提案された。朝鮮語表記用の漢字であった。しかし、言語構造が中国と異なる韓国では、日本での万葉仮名同様実用性には欠けていた。

   李朝第4代世宗王は学者を集め東洋列国の言語・音韻・表記法を10年に亘って研究した結果、西暦1446年に『訓民正音(くんみんせいおん)』と呼ばれる『ハングル』を創定発布した。ハングルのお陰で朝鮮の民族文学が大発展したそうだ。『ひらがな』の発明で平安文学が生まれたのと同じ現象だ。今日、世宗王の功績は肖像を紙幣や切手に使うことで顕彰されている。韓国のように、自国民が創案した文字を今も使っている国は、今日そんなに多くはない。大抵の国はアルファベットのように他国民からの借り物の文字を使っている。

   このハングルは文字と言うよりは記号のように感じる。世界的に広く普及している文字のルーツは象形文字である。従って絵を連想するし、書くと美しく感じる。その典型例が書道の対象にもなっているアラビア文字や漢字である。ハングルからは位相幾何学を連想するだけで、形状に美しさを何故か感じない。

   ハングルは10個の母音と14の子音を表すたった計24個の音標文字からなり、その組み合わせで種々の形声文字(一種の合成文字)が作られている。僅か10個の文字で、全ての数値(つまり、その数は無限大)を表現できるアラビア数字と同じように、ハングルにはたった24個の組み合わせを通じて、韓国語に必要なあらゆる表現能力が生まれるとは何と素晴らしいことか!。

   自然科学はできるだけ簡素な方程式で全ての現象を説明すべく発展してきたが、何万個も必要とした漢字の世界から、24個にまで簡素化されてしまったハングルは、アルファベット・アラビア数字・仮名等に比肩され得る、画期的な文字だ。

   韓国では日本の漢字仮名混じり文のように、『吏読文字』と『訓民正音』との混用表記が、日本の学者の提案で一時普及していたが、北朝鮮ではハングル表記のみとなり、今では韓国でも完全なハングル化に向かっている。

   しかし、北朝鮮や韓国でのハングルへの特化は新しい問題を起こしてきた。私が万葉仮名や返点送りがなが付けられていない漢文を読めないように、『吏読文字』や『漢文』で書かれた民族の古典を、若い世代も読めなくなり、文化の継承に支障を来たし始めたからだ。

   かつて小学生の頃、在日韓国人1世がカタコト交じりの日本語を話すのを不思議に感じながら聞いていた。ガイドにその理由を聞くと、日本語には韓国語にない子音があり、その発音が難しいからだと言う。55年前の疑問がやっと解けた。

E韓国での日本語

   昭和1桁生まれ以前の高齢韓国人は台湾人と同様に、話し言葉としての日本語は、日本人並に使えるが、戦後の若い世代は政府の反日政策の影響か、殆ど日本語は使えないと言われていた。しかし、今回の旅行中、ホテルや御土産屋を初め至る所で日本語を流暢に話せる若い人に出会った。ホテルマンに聞くと夜の女性すらも日本語が使えればショートで2万円、ロング(一泊)は4万円、使えなければ25%引きだそうだ。言語と雖も消費財同様その普及度は法律による強制ではなく、『神の見えざる手』即ち、需給関係に依存するようだ。

   しかし、不思議なことに、観光地で見受ける掲示板やパンフレット等の日本語には、奇妙な間違いが含まれている場合が多いのだ。動詞の活用語尾が間違っていたり、掛かり結びの対応が不自然だったりする。あれだけ流暢に日本語を喋る人達がいるのに、添削できる人がいないのだろうか?。それとも、話し言葉では日本人ですら間違いだらけ(喋っている言葉をそのまま文字化すると、まともな文章になる日本語を喋っている人は殆どいないことが分かる。大抵は単語を適当に並べているだけ)なので、韓国人の間違いにも、私が気付かなかっただけなのだろうか?。

   因みに、持ち帰ったパンフレットから、どことなくおかしな日本語を、若干転記して紹介する。誤字・脱字のような単純な間違いではなさそうだ。

          ………ホテル・ニューワールド………

   『ジョギングコースも設けられていて、あなたのお疲れを拭い取られる』

          ………………コリアハウス……………

   『コリアハウスの本館は四角いになっていて前の庭に面する海隣館、…』
   『韓国伝統料理で構成されたバイキングが提供している』

F民間のお墓

   韓国内を移動中、沿線の随所でお墓を見た。南面の日当たりのよい場所に、高さ約1mの土饅頭型をしたお墓群が寄り添うように作られていた。古墳公園で見た古墳(後述)の小形版だ。

   中国では築墳技術と盗墳技術が凌ぎを削って発展した。前王朝の文化や伝統を徹底的に破壊する習慣を初め、何でも中国の真似をした韓国民の唯一の例外は先祖の墓を大切にすることだそうだ。どこで見掛けたお墓も管理が行き届いていたのには、新鮮な驚きを感じた。と言うのも日本人は、彼岸とお盆位にしかお墓の掃除や墓参りはせず、お墓が荒れていても大して気にも掛けないからだ。

[4]今日

@クリーン・シティ

   韓国に来て一番驚いたのは、ゴミ一つ落ちていない道路の美しさだった。アジア各国の殆どの大都市はたった10数年前(西暦1980年代前半)までは、ゴミと異臭に包まれていた。                           
 
   しかし、シンガポールが先ず最初に綺麗になった。法律違反者には厳罰主義で対処した結果だ。連鎖反応を起こしたかのように、隣国のマレーシアの首都クアラルンプールがクリーンになった。引き続き台湾が台北でクリーン化の試行を始めだした途端、ライバル意識を刺激されたのか、台湾の主要各都市も一気に美しくなった。これぞ正しく、波及効果の典型例である。

   韓国では西暦1988年のソウル・オリンピックの開催を契機として、全国的に綺麗になった、との説も聞かれた。それと同時に、犬をこよなく愛する西欧人の神経を逆撫でするのを避けるためか、犬を食べる習慣も廃れ始めたようだ。厳罰からスタートしたとは言うものの、国民がクリーンさの価値を認め、習い性となったのか、日本の各都市よりも遥かに清潔だ。日本人の公徳心の低下が情けない。

A地下鉄

   ソウルの地下鉄網は何時の間にか、総延長距離では12路線もあるパリをも抜いてしまった。平成12年1月1日現在の路線長はロンドン、ニューヨーク、モスクワ、東京に継ぎ、8路線2百Kmを越える。東京の山手線よりも長い1周48Km43駅からなる環状線も、既に開通している。1路線が意外に長いのも特徴だ。

   ソウルは東京や大阪と異なり、都心と郊外の住宅地とを結ぶ通勤鉄道が極端に少ない。鉄道建設に先立ってビルや住宅で狭い空間が埋め尽くされ、路面鉄道を建設するのが困難になり、地下鉄建設に全力を投入したのだろうか?。

   道路は既に自動車で埋め尽くされてはいたが、更なる所得の上昇に伴い、空恐ろしい渋滞の発生が待ち受けているのではないかと、人ごとながら些か心配になった。道路拡張の余地も少く河川敷の上に橋を掛けて道路の幅を広げ、自動車専用に使っている程だ。日本でも東京や大阪では堀や川を埋めたり、川に蓋をして道路に転用しているが、洪水等の自然の反撃をいずれ受けるのではないかと、私は本気で懸念しているのだが…。

B活況のデパート、その影には…。

   韓国のデパートは我が学生時代(昭和30年代)の日本のデパートを彷彿とさせる活気に溢れていた。釜山の現代百貨店もソウルのロッテ百貨店もまさに繁栄の頂点にあるようだ。各主要デパートは日本のデパートと提携しているからか、各フロア毎の商品構成は日本と極めて似ている。地階は食料品、1階は化粧品・装飾品、2階は婦人服等。

   最新のデパートの地下数階は大駐車場だ。駐車専用ビルは殆どない。都心には建設場所がないのだ。最上階には食堂街以外に体力作りの会員制のクラブがあった。エアロビクスに没頭したり、自転車に乗ったり、機械の上で手足を激しく動かしたり、歩行器の上で走り続けたり、バーベルを持ち上げたり、若者達が真剣に努力していた。                               
  
   しかし、健康管理が若者よりも重要な筈の中高年者が殆どいないのは不思議だった。モルモットが籠の中で走り続けるのを強制されているようにも見えるが、可処分所得が激増した若者の生活に余裕が出てきた証拠とも思えば、先ずはご同慶の至りだ。

   かつては『韓国製品の品質は??』と言われていたが、今や耐久性を気にしなくても済む家庭用品・衣料品などの一般消費財の品質に日韓の差は殆ど感じられない。我が家にも韓国製品が既に溢れているご時世だ。価格は日本の概ね7割。欧米のブランド品も溢れてはいるが、価格は日本並。偽物を掴まされる心配もあると言われている韓国では、『旅の記念になるから』と言った程度の単純な理由だけでは、高価なブランド品をわざわざ買う気にはなれない。

   日本のデパートは上の階に行くほど客が漸減する傾向があり、地下に客を呼んで上に誘導する噴水効果、最上階の催事場に客を呼んで下に誘導するシャワー効果狙いが流行しているが、デパート全盛時代の韓国ではどの階にも客足が絶えない。平成12年12月1日から閉店セールが始まった豊田そごう並の人出だ。電気製品や家具売り場も賑やか。専門チェーン店や大型ショッピングセンターとの本格的な闘いが始まる前の、最後の繁栄でなければよいがと気に掛かる。

   日韓のデパートに似て非なるものを、店員の性差に発見!。各売り場には30歳前後の男性社員が大勢いた。身嗜みを整え、接客態度も洗練され、日英両語も最低限は使える。日本の百貨店の売り場には男子社員は殆どいない。男子は管理職・購買・外商に特化し、店頭には、独身女性正社員・既婚女性パート・派遣女性社員が溢れている。世界最大の小売企業『ウォルマート』が時給7〜8$で百万人もの女性パートを動員しているのと同じ構造だ。

   統計によれば日本のデパートの場合、正従業員1人当たりの年間販売額は1億円にもなるが、派遣社員やパートも入れると1人当たりは外商込みでたったの2千万円に落ちる。店頭売りだけだと、更に2〜3割減か?。年商2百億円の豊田そごうの場合1千人強も働いていた。粗利益率が26〜28%とすれば、一人当たりの年間付加価値は5〜6百万円。その中から家賃・経費・人件費を賄う限り、大卒男子を店頭に配置すれば採算割れになるのは火を見るよりも明らか。    

   男子若手基幹社員には粗利益率がたとい10ポイント落ちようとも、デパートの信用を背景に年間1億円は稼げる外商で働きながら腕を磨くしか、生きる道はないようだ。私は高額商品とか、結婚式の引き出物等、総額が10万円を越える場合には、豊田そごうか松坂屋の店頭で品定めをした後、外商担当者と値引き交渉を楽しんでいた。

   男子社員が店頭に溢れる背景には、韓国の厳しい不況が察知される。大卒者の就職率は卒業時で2〜3割、一家を養うに足る職場が可愛そうにも払底しているのだ。我が観光バスには、日本語も達者な若くてハンサムな男子カメラマンが同乗していたが、大学を出たものの職が見付からず、やむなくアルバイトをしていると言う。焼け石に水とは承知の上だが、心の励ましにでもなればと、1枚だけ大きな記念写真を撮って貰った。

C韓国の工業力は本物か?

   産業革命以来の各国の国民経済の発展史を洞察すると、後発国の成長率は最初は先発国より高いが、やがては停滞に至る。その結果、先発国を追い抜いた国は未だかつて殆どない。追い付くのと、追い抜くのとには根本的な差がありそうだ。先発国である欧州諸国を明らかに追い抜いた国はアメリカだけだ。日本は欧州に追いつきはしたが、追い抜いたとは必ずしも言えない。      
                   
   同一分野の製品が先発国の製品よりも高く売れて初めて追い抜いたと言える。トヨタはベンツを追い抜いたとは必ずしも言えない。日本で一番歴史があり、かつては輸出の中核産業だった繊維産業ですら、今なお高級品では欧州のブランド品に勝てず、低級品では後発国に追い捲られ、閉鎖された工場の跡地には大型ショッピングセンターが繁栄している。

   設備投資資金の調達と技術導入さえできれば、先発国に追い付くのは比較的簡単だ。人件費が安ければ価格競争力で一時的には勝てる。しかし、人件費が先発国に追い付くと、競争力は結局なくなる。追い抜くには、先発国にない技術を開発する以外に道はない。さもなければ、より人件費の安い後発国との厳しい競争に晒される。韓国は中国との厳しい価格競争を結局は避けられない。

   韓国の国際競争力は重要な設備(資本財)と材料・部品(中間投入財)を日本から買い、安い人件費(日本の30%?)を駆使して価格競争力を保持しているに過ぎず、同じ製品の場合には必ず日本製品よりも安く買いたたかれている。

   ガイドによれば韓国人の日本での買い物は、ブランド名だけではなく、原産国も確認するそうだ。かつて電気炊飯器が人気絶頂の頃、観光客は一人で20個も買って帰ったそうだ。パナソニックでも買うのはあくまでも日本製であって、マレーシア・松下電器等の海外法人からの逆輸入品は注意深く避けたそうだ。

D意外や意外、人気凋落の『金大中大統領』

   西暦2000年のノーベル平和賞受賞者として日本では高く評価されている、現職・韓国大統領金大中氏の人気は、韓国では私が予期しないほどに低かった。韓国民の冷めた見方を知ったとき、私は大変驚いた。

   曰(いわ)く、『政府専用機を使い数十名の随員を引き連れて授賞式に望むとは、公私混同ものだ。平和外交も重要だが、大統領のもっと重要な仕事は、経済不況の解決だ。今や大手企業の倒産も相次ぎ、失業者が巷に溢れているではないか。個人的なスタンドプレーに走り過ぎている』

   日本人が氏を高く評価する背景には、来日中の金大中氏がその昔、白昼公然と宿泊先のホテルから拉致され、米国の政治的圧力で危うく一命を取り止めた事件に対し、警備不足で事件を未然に防止できなかったとの、原罪意識が深層心理にあったからだけではない。                        

   その後の大統領選挙での落選でも、判官贔屓(ほうがんびいき)になりがちな日本人の同情を集めた。また、日本のマスコミを通じて、親しく日本語で親日感情を吐露していた氏に対し、歴代の韓国大統領とは違った親近感も抱いていた。ペルーの元大統領フジモリ氏に対して、物心両面から惜しみない支援をしていたのと類似の心理関係にもあった。

   しかも、同氏の粘り強い外交努力で、南北首脳の直接対話にまで辿り着き、積年の課題であった日朝関係の和解交渉にも援護射撃をして頂けた、との感謝の気持ちも強かった。かつて故佐藤首相が同じノーベル平和賞を受賞した時には、佐藤氏個人の功績と言うよりは積年の日本人の平和への努力が高く評価されたからだ、と冷めた評価をしていたが、金大統領の場合は個人の成果を顕彰するノーベル賞の趣旨にも沿っていると、誰もが両手を挙げて拍手喝采していたのだ。日本人全体の論調に影響され易い私は、金大中の評価の低さに関する驚きが鮮明に脳裏に焼き付いている。
                                     
[5]食文化

   日韓には『米食と箸』と言う共通した食文化がありながら、大局的に見れば一衣帯水(いち・いたい・すい)とは程遠い別世界に感じた。

@キムチ  

   韓国民にとってのキムチとは、三度の食事にも欠かせない存在だ。1日平均2回しか飲まない、日本人の味噌汁への執念の比ではない。それだけに、台所を預かる主婦にとってキムチ作りは、何よりもやり甲斐のある意義深い仕事である。団塊の世代以降、日本の主婦は『糠味噌漬け』を殆ど作らなくなったそうだが、何と対照的なことか。  
                           
   市場には粉末化など事前処理に工夫を凝らした各種の唐辛子が、山のように積まれて売られていた。大きなキムチ熟成用の甕(かめ)を軒下に何個も並べている、小さな食堂を発見。蓋を開けて中を覗き込んだら、それぞれに種類が違うキムチがどっさり漬っていた。

   今回の旅行中、朝昼晩全ての食事にキムチが添えられた。キムチはどこのホテル・レストラン・食堂でも食べ放題だ。日本のレストランや食堂で、食べ放題扱いにされているこの種のメニューは見たことがない。タクアンは必ず2切れしか出さないけちな習慣がその全てを物語っている。かつては無料だったお茶も姿を消し始め、今や無料で無制限なのは、水だけだ。これとてもミネラルウォーターではなく、単なる水道水だ。

   ガイドから『キムチを食べ過ぎた日本からのお客様は、帰国後おなかを壊しているそうですよ』と注意を促された。しかし、私はここ数年の間に嗜好が変わり、芥子明太子や激辛ラーメンが大好きになったので、この忠告を頭から無視し、毎食お代わりを要求しながらキムチを食べ続けた。

   天罰覿面。キムチで胃が荒れたらしい。帰国後の3日間は食欲が殆どなくなり、ビールを飲むだけの絶食状態が続いた。帰国直後にゴルフに出かけ、いつものように注文した加茂カントリー倶楽部の激辛ラーメンも半分食べ残してしまった。『過ぎたるは何とやら』を苦々しく思い浮かべざるを得なかった。

   韓国のキムチ文化の頂点には白菜漬けが君臨しているが、今や唐辛子を活用した応用食品の種類は無数にあった。その典型例が即席キムチラーメンだ。白菜キムチは種類がさすがに多く、お土産物屋では木箱入りの豪華な詰め合わせセットすらもあり、ブランド品にまで昇格。価格帯も幅広く高い物は百グラム2〜3百円もし、高級な肉と大して変わらない。

   キムチ漬けの瓶に溜まった赤い液体は調味料の主役にもなっていた。日本での醤油以上の存在だ。ある時、ソウル最大の市場『南大門市場』を散策していたら、屋台で草鞋大の殻付き牡蠣を発見。初めて見た大きさだ。一個7百円もしたが無性に食べたくなり早速注文。何と酢醤油の代わりにキムチ液が振り掛けられて出された。調味料としての味覚には満足したが、生牡蠣の肉は堅過ぎて失望。ガイドに聞くと中国産と言われたが、下痢にもならず、や〜れやれ。
   
   今やキムチの主材料は白菜だけではない。春にはキャベツ・ゴボウ・ニラ・カラシ菜、夏にはナスやキュウリ。野菜だけではなく、イカ・海老・魚まで、何でもキムチにしてしまうそうだ。

A石焼きビビンバ 
                            
   石器時代に舞い戻ったような感じがする、石の食器で食べる料理だ。直径20〜25cm、高さ7〜10cm、厚さ1cm位の一体型円筒形の容器をガスで暖め、御飯を入
れ、その上に調理済みの焼き肉・生肉・椎茸・モヤシ・ゼンマイ・松の実・野菜・生卵・キムチなど多種類の食材を散らし寿司のように美しく並べている。日本のすき焼きに御飯を入れて食べるような感触だった。

   比熱は小さいが重量があるため、石の熱容量は意外に大きく、保温器も兼ねている。愛知県下で起業したファミリーレストラン『あさくま』では、ステーキ皿の一角に、分厚い円板状の鋳鉄を熱して載せているが、目的とする保温効果は同じだ。

   スプーンを使い、全体を掻き混ぜながら食べたが、大変美味しかった。サッカーのワールドカップが日韓共催になったことも手伝ってか、日本では韓国料理が今や大ブーム。我が家から1Km地点の住宅地にすら、石焼きビビンバを目玉商品にした韓国料理店が昨夏開業した程だ。

Bカルビ焼き肉

   カルビとは肋骨の周りの牛肉を意味するが、屑肉ではない。豊田そごうでは松阪牛の場合、百グラム千円もしていた。我が家では鉄板焼きにして食べていた。この食べ方では一人2〜3百グラムで満腹。

   韓国では骨付きのカルビを炭火と網を使って焼いた後、仲居さんがハサミで一口大に切り分けた。それをサラダ菜のような葉っぱに包んで食べた。この食べ方では何と5百グラム位も食べられた。北京ダックの場合は、パリパリに焼いたアヒルの皮で葱などの野菜を巻いて食べるが、韓国式カルビはその逆だ。しかし、複合材料にして食べると言う考え方は同じだ。このようにして食べると、お寿司のように食欲が衰えないのには、深い理由がありそうだ。

C韓定食

   日本が世界に誇る懐石料理と雖もお皿の数では韓定食には敵わない。5味(塩・甘・酸・辛・苦)5色(赤・黄・白・黒・緑)を基本に15〜30品で構成される。激安パックにも関わらず、15品位の韓定食にありつけた。一人分ずつ小さなお皿に小分けし、テーブル一杯に並べている。椅子に座った儘では遠くのお皿には手が届かない。一皿に盛られた量は少ないが、全部食べると超満腹だ。

Dキムチチゲ鍋、その他

   チゲとは鍋と言う意味なので『キムチチゲ』と言うのが正しいが、日本人に分かりやすくするためか、馬の馬糞式にキムチチゲ鍋とメニューには書かれている。同じような習慣にイスラム教と言う表現がある。イスラムには宗教と言う意味も既に含まれており、発音も考慮すると正しくは『イスラーム』であるが、日本語としては未だに定着していない。

   キムチチゲは鍋の中にキムチや野菜・肉など多種類の食材を入れて食べる料理だが、どんな味がしたのかすっかり忘れてしまった。その他、韓朝食・お好み焼きチヂミ・うどんすき・海鮮鍋なども食べた筈だが、何故かその特色を全く思い出せない。何とはなしに食べてしまうのか、日本でも一日過ぎると夕食のメニューを思い出せなくなるのと同じ現象なのか、これを老化と言うのだろうか?。

[6]日韓台

@ かつての日本人は韓国人を尊敬していた。それなのに…。 
         
   有史以来日本人は、中国の文化を吸収し発展した朝鮮半島の人々を尊敬していた。鎖国の江戸時代と雖も韓国との国交は続いていた。徳川将軍の交代時期には朝鮮からは『通信使』の一行が日本を訪問、沿道の大名は幕府の命令もあって彼等を国賓としてもてなし、沿線の国民はビートルズが来日した時のように、物見高さもあってか大歓迎していた。

   日本人が韓国民を蔑視し始めたのは明治の中葉からだ。一説によれば、韓国の民衆が韓国政府に対して反乱を起こした時、関係のない無防備な日本大使館を急に襲撃した事件を契機に、日本政府が韓国を非難し初めてからだそうだが、真偽は分からない。徳川時代には一般国民の不満を反らすために、同じ日本人でありながら意図的に特定の職業集団を『部落民』と称して最下層に位置付け、下には下があるとした政策があった。欧米への国民の劣等感を反らすために、特定の国をスケープ・ゴートにし蔑視させようとしたのではないかと、思えてならない。

   経済不況の今日、失業者が溢れている日本でも、いわゆる3K(危険・汚い・きつい)の仕事には希望者が少ない。従って、外国人にドンドン働きに来てもらえば良いとの声が大きくなっているが、新しい民族摩擦問題を起こすだけだ。自分達はやりたくはないが、誰かがやらなければならない仕事を外国人に札束でやらせれば問題が起きない筈がない。就業希望者が少ない仕事と雖も給料をドンドン上げれば、日本人失業者が必ず殺到するはずだ。失業保険費や生活保護費が減るだけではなく、所得の平準化も計られ、誰もが幸せだ。             

   数年前、汲み取り業者の作業員に1千万円以上の平均年収を与えていた某都市(名前は失念)がマスコミからの集中砲火を浴びていたが、絶賛されるべきだった。その逆に、必要な仕事でありながら、日本人の能力不足で解決できない高度な仕事なら、明治政府のように外国人に頭を下げ、高給を払ってドンドン頼むべきだ。高級経営者・高級研究者などなど。  
                   
   日産のゴーン社長がその典型例だ。そうすれば、外国人への態度も変わるし、志しある日本人にもよい刺激になる。アメリカ政府は今なおこの政策を堅持して世界から有為な人材を掻き集める一方、中南米からの単純労働者の不法入国を断固として阻止し続けている。

A 韓国は何時まで日本を憎み続けるのか?。その1

   かつて欧州各国が世界各地で先住民の土地を勝手気ままに取り上げ、植民地化・人種差別化・奴隷化・虐殺・略奪に明け暮れたが、被害者側の声は今に至るまで気の毒な程に小さいままである。世界史はまさに勝てば官軍の世界のようだ。韓国内では前述したように政権交代の度に前政権を徹底的に叩いていた。その習慣を敗戦国日本にまで適用したのか、韓国政府が発する日本への恨み節は久しく絶える日がなかった。
   
   しかし、私には韓国人の深層心理には上述の理由とは別の根本原因があるように感じられる。それは不幸にして日韓両国民がお互いに区別が付かないほど似通った、いわば同祖人種だったことにあると邪推している。先進国として一足早く飛び出した欧米人ならいさ知らず、祖国を捨てた棄民の末裔に過ぎないような日本人が栄えていることへの僻(ひが)みまでもが加算されてしまった。いわゆる近隣憎悪だ。この種の弱者の叫びほど扱いに苦慮するものはない。           
          
   30年近く前、タイやインドネシア等のアジア諸国で日本企業の焼き討ち襲撃事件が頻発したことがあった。その時も私は同じ原因を推定した。欧米人に支配されるのは諦めるとしても、同じ皮膚の色をした日本人に支配されるのは我慢ができないとの僻みを感じたのだ。しかし、最近は彼等も日本人の実力を知るに連れて、一目を置くようになり、類似事件は減少してきた。物ごとを冷静に判断できるようになったのだ。

   韓国では日韓併合時代の関係者がドンドン少なくなり、国民の大多数は戦後派になってきたこともあり、和解の日もだんだんと近付いて来たようだ。本人自身と目の前にいる日本人とが、直接の被害者対加害者との関係でもない場合が増え、物理的に憎み難くなってきたのだ。『親の敵討ち』等と比べ、対象が格段に漠然としてきた。教育による洗脳でも力が及ばない現象のようだ。残され問題は政府間の交渉に一任して、個人のレベルでは友好を深めた方が建設的だと考え始めたようだ。

B韓国は何時まで日本を憎み続けるのか?。その2

   韓国は戦後長い間、義務教育を通じ健全な判断力が育つ前の子供達に、日本が韓国にいかに被害を与えた国であったかを一方的に教え込み続けた。一方、トルコ人の親日感情(我が体験では世界一の親日国!)は、小学校時代に受けた歴史教育の成果と言われているが、その由来を知る日本人は悲しいことに大変少ない。 
                           
   かつて明治政府を表敬訪問したオスマン・トルコの巡洋艦が帰途和歌山県の沖で遭難した時、串本町の漁民が必死で助け、僅かな生存者を日本政府がトルコまで送り届けた海難事件だ。幼少時の刷り込み教育の影響力は、戦前の皇国民教育でも実証済みだ。かつての共産主義各国の『資本主義の批判教育』についても周知の通りだ。言葉による洗脳力のかつての強さには唯ただ驚く他ない。

   韓国は日本文化によって韓国民の心が汚染されるのを阻止するとの立場で、歌謡曲や映画に代表された大衆文化の侵攻を阻止すべく、様々の制約を課した。自国の文化を守るために海外の文化の導入を阻止するとの主張は、歴史的には珍しい例ではない。かつてのフランスはアメリカ映画の上映に制限を加えたり、パリ郊外へのディズニィーランドの進出にも反対した。                 
               
   しかし、言葉による国民へのマインド・コントロールはかつては成功したが、今や衛星放送等による映像情報の氾濫の前には、国家権力による強力な情報管理政策もとうとう綻び始めた。いわんや海外旅行の大衆化と共に、国民が手にした直接情報は最後の駄目押し効果を発揮し始めてきた。『百聞は一見にしかず』は正しく、国家の強制よりも何よりも、個々人の心を虜にする程の武器だったのだ。ソ連や東欧の政権は、繰り返された画像情報による反撃で、結局は崩壊せざるを得なかった。

   本格的な情報化時代に突入し、多様な文化、多様な価値観が選択に困るほど溢れるようになった今日、いずれの国も守るべき自国の文化とは何か、学ぶべき他国の文化とは何なのかについて、一つ一つ真剣な検討を迫られる時代になった。金大中大統領の英断『日本文化の段階的な開放政策』は、近い将来きっと、日韓両国民双方に大きな果実をもたらすと確信している。

C台湾はなぜ親日国家なのか?。

   台湾の先住民は西太平洋の南方系が主力であり、島内のあちこちに分散して住んでいた。4百年前にオランダの植民地に一瞬の間なったが、その後、オランダ人は撤退した。後から移住してきた漢民族は、全体を統治するには至らなかった。

   台湾の諸民族が平定され統治されるに至ったのは日本時代である。戦後、中国大陸から蒋介石と共に敗走してきた中華民国の漢民族(外省人)が実権を握り、戦前からの台湾人を徹底的に差別し始めた。中でも『知情不報』、犯人を知っていても政府に密告しない者は同罪と言う、国民総密告制度ほど評判の悪い法律はなかった。

   糅てて加えて蒋介石は自らの彫刻・銅像を全島に4万3千体も配置し偶像崇拝を国民に押しつけた。また、日本時代に立てられた日本人の彫刻の中に気にいるものがあった場合は、首から上を切り落とし、自分の頭と取り替えたそうだ。銅像の密度はアマゾンやシベリアの人口密度を越え、1平方Km当たり1体以上だ。生前からこれ程の密度でその彫刻像を支配地域に配置した者は、我が知る限り人類史上一人もいない。かのスターリンも顔負け、時代錯誤も甚だしい狂気の沙汰だ。
   
   その被害意識も加わって、統治者としての日本の良さが再評価されたのだ。台湾には至るところにカラオケがある。漢民族の中国には大衆音楽が何故か少ないらしく、今や本省人も日本の歌を楽しく歌っている。台湾には戦友会がたくさんあり、日本に出かけて、日本人との旧交を暖めるのを楽しみにしている老兵も多い。日本人と台湾人との心を因数分解すると共通因子が多いことに気付く。残念ながらこの種の話を韓国では聞けなかった。

D韓台の行方は?

   韓国は日韓併合時代の日本の政治を非難し続けているが、それ以外の全ての面に至るまで何でもかんでも非難していた訳ではない。それ所か学ぶべきと評価している政策には、本気で学んでいる。シンガポールの元首相リーさんのように『ルックイースト、日本に学べ』等とは、建て前としてあからさまには言いたくないためか、言わなかっただけだ。     

   例えば、経済の面では日本の政策をそのまま取り入れてきた。明治政府のように政府主導で財閥を育成し、大規模設備投資が必要な基幹輸出産業を強化した。その典型例が鉄鋼業・造船業・自動車産業・半導体産業である。しかし、これらの産業の内でも造船業は、国内に安定した市場を確保しないと、世界経済の好不況の影響を特に受け易い。しかし、とうとう受注量では日本を時には抜くほどの造船王国にまで辿り着いた。国民一人当たりで比較すれば、完勝だ。

   彼等は日本と同じ設備を導入すれば、人件費が安い分だけ確実に対日競争力が付く筈で、日本価格よりも1割安くすれば、日本の輸出先に割り込めるとの机上の皮算用から出発した。この政策は資本財中心の鉄鋼業・造船業・半導体産業の場合にはほぼ成功したようだ。企業は個人とは異なり、その購買動機には価格指向性が特に強いからだ。昔から鉄鋼業は『王者か乞食』と言われる程に浮き沈みが強く、日本が全面支援した韓国と中国以外に、世界に冠たる鉄鋼業の育成に成功した後発国の例は殆どない。

   しかし、個人が消費者となる自動車では苦戦している。先進国との商品の品質や性能に格差が少なくても、自動車先進国の西欧ではブランド力不足で売れないのだ。とはいえ、価格志向の強い発展途上国や米国では売れ始めた。しかし、重要な機能部品は輸入に頼っているため、生産が増えれば増えるほど、日本からの輸入も増えると言うジレンマに落ちている。

   日米を初めいわゆる先進国でも、大企業の直接雇用力は意外な程小さい。日本の場合、全上場企業の雇用者は有職者総数の10%に過ぎない。大企業を支えているのは実は中小企業なのだ。韓国の高失業率を下げる最善策は、中小企業の育成強化にある。韓国の中小企業の実力不足を支えているのは日本からの輸入品である。韓国が成長すればする程増加する対日貿易赤字は、韓国経済の最大のジレンマだ。

   中小企業の実力は設備ではなく人材にある。一朝一夕には人材は育たない。韓国は今、本格的な胸突き八丁の踊り場に来ている。韓国の民衆やマスコミが金大中を初め政府を攻撃しただけでは解決しない、根の深い国民的な課題だ。

   更に加えて、かつては大企業は潰れないとの神話が各国でも信じられていたが市場経済化が進むに連れて、この神話が間違いであることが判明してきた。日本では巨大銀行や百貨店も倒産したが、韓国でも国の屋台骨だった巨大財閥が倒産し始めたのだ。あの『大宇』が倒産し、現代グループも青息吐息。いずれも『それ行け、やれ行け』との押せ押せムードに流されて、堅実さを失ったのだ。韓国は当分の間、臥薪嘗胆時代を迎えそうだ。それは10年か?。

   一方、台湾は韓国とは対照的に中小企業の育成からスタートした。人口が少ないが故に国内市場が小さく、大量生産大量消費型の産業からは入りにくかったのだ。香港やシンガポールと同じように、少額の設備投資で起業できる消費財からスタートし、アメリカへの輸出で成長してきた。この3ヶ国で活躍しているのは中国系の事業家である。海外で活躍している中国人には『鶏頭となるも牛後となるなかれ』との独立心も旺盛だ。
                                
   無数の優良中小企業が育ち、それらも徐々に大規模化してきた。今や日本の『百円均一ショップ』は、各国の中国系企業の活躍抜きには成立し得ない程だ。中小企業の最大の強みは出資者でもある社長が全リスクを負い、経営の隅々に至るまで目を見張り、堅実に経営している点にある。今の台湾にはこれと言ったアキレス腱がない。今後の10年間は台湾の更なる成長が期待できそうだ。
 上に戻る
釜山

   名古屋空港 13:50発、釜山の金海国際空港までは 105分。上昇と下降時間とを除くと、水平飛行時間は1時間弱だ。国際線はどんなに飛行時間が短くとも何故か機内食が出る。その結果、食前の飲み物サービス・機内食の配達・食後の飲み物サービス・食器の回収・免税品の販売を仕事とする男女の乗務員は目の回る忙しさ。 
              
   韓国航空乗務員は流暢な日本語を喋り、人相も日本人にソックリなので、髪形には若干の特徴があるものの、本当に韓国人なのかと、疑問に思い続けたほどだ。そのせいか、殆どが日本人らしい満員のお客さんには緊張が取れるらしく、気楽に乗務員に話しかけている。

   今やエコノミー・クラスの機内食は駅弁以下の品質に低下、小学校の給食の方が遥かに豪華だ。飛行時間が2時間以内のコースでは機内食を廃止して、高級な飲み物サービスに特化してもらいたいものだ。ブドウ酒を注文したのに、乗務員は忙し過ぎてなかなか持って来ない。小瓶(1合)とグラスをセットにしてパッと渡すのが通例なのに、3度も催促したら、配膳室でコップにたったの50cc位入れて、やっと運んできた。大瓶から栓を開けるなど余分な作業が加わるので、注文処理が後回しにされていたようだ。

   釜山に近付くと眼下には広大な温室群が広がっていた。この辺りは愛知県の平野部よりはやや寒く、12月の果菜栽培は路地では無理なのであろう。豊田市ではビニールで被覆された簡便型温室を見掛けるが、こちらはオランダのようなガラス張りの本格派だ。そこには我が事前予想を上回る豊かさを感じた。

   釜山は韓国第2の大都市、地下鉄も開通し、人口は名古屋市の2倍、 400万人もいる。山が海岸近くにまで迫り、立錐の余地もない程だ。唯一の解決策は香港化である。川岸に沿って20階建位のマンションが密集している。日照権とか建蔽率がどの様に設定されているのか、ガイドに尋ねても『知らない』と答えるだけ。名古屋市は、都市の高層化では釜山に一気に追い抜かれてしまった。

   日没前に市内を見下ろす高台にある龍頭山公園に出かけた。韓国は平均すれば東北地方並の寒さのためか、南端に近い釜山には海水浴に、遠くソウルからでも車で押しかけるそうだ。しかし、そんなリゾート向きの海岸がどこにあるのか、視界には入らなかった。眼下には、シンガポール・香港・高雄と並び、神戸や横浜を一気に追い抜いたコンテナ積み替えの国際ハブ港・釜山の埠頭群が広がる。

   観光資源らしきものはなく、公園には大きな鐘を吊った鐘楼などがあっただけ。お土産物屋で韓国土産の代表は、キムチ・高麗人参・紫水晶(アメジスト)・味付け海苔と知った。

   ホテルの風呂に入るとき、室内で裸になるのには何時も抵抗を感じるが、自分自身を納得させられる理由は今尚思い付かない。児さんとのゴルフ歴は20年以上にもなり、ゴルフ場の脱衣場で裸になるのには何の抵抗も感じないのに、ホテルの部屋を脱衣場感覚では使えないのだ。下着が湿っぽくなるにも拘らず、結局浴室で着替えた。この感覚の呪縛はゴルフ友達との海外旅行では何時も必ず現れてくる。

   釜山の山肌には新しい民家がビッシリと建っている。一戸建ちは恐らく最高の贅沢なのであろう。家の大きさは日本の都市部の住宅と大して変わりがないが、庭と車庫は殆どない。敷地が狭く、解決策はないようだ。

   釜山では、結局スラムを発見できなかった。これもまた、ご同慶の至りだ。これほどの規模の都市であれば、アジア・アフリカ・中南米の各国ではスラムがあるのが普通だが、韓国はシンガポールや香港に続いて、既に発展途上国を卒業していると考えるべきだと思うに至った。
           上に戻る
慶州

   慶州は紀元前57〜西暦 935年まで、約千年間に渡って新羅の首都として栄えてきた。尤も、新羅が韓国を統一したのは西暦 676年である。新羅は仏教の普及に努力したので、慶州には奈良京都のように仏教遺跡が多く、韓国随一の観光地だ。

[1]石窟庵(世界遺産)

   韓国に6ヶ所ある世界遺産の1つである。世界遺産の選定基準には規模の大きさや古さだけではなく、ユニークさも評価されるようだ。

   石窟庵は西暦 751年に、時の宰相『金大城』によって仏国寺と一緒に建てられた。インドや中国の石窟寺院は岩山をくり抜いて作られているが、この石窟は石を組み立てて庵としたものである。大きな台座の上に高さ3.26mの釈迦如来像が鎮座している。石像であるため経年劣化も殆ど感じられず、今でも作り立てのような美しさだ。しかし、人相は現在の韓国人とは異なり、ふっくらとした顔だ。

   石なのでカメラのフラッシュに損傷される筈もないが撮影禁止。観光資源の撮影可否に関する制約は国ごとに異なるが、厳しいルールの大部分は、被写体の保護を口実にしながらも、写真やガイドブックを売りたいがための下心が察知される場合が多くて情けない。

   ここの釈迦如来像に限らず、仏像は何故か左右対称に作られた顔をしているため、人間らしさ、生き生きとした印象が私には感じられない。現実の人間は非対称の顔をしているため、写真を裏返して見ると別人に見えるくらいなのに。

   日本では有名なお寺も如来像も大抵は木造。奈良や鎌倉の大仏は例外的に鋳物だが、何故大陸の石像文化が導入されなかったのか不思議だ。

   道中のあちこちで、陶器製の大きなゴミ箱を道端で見掛けた。プラスティックスや金属製のゴミ箱よりも、その自然な色が周りの景色に溶け込み美しかった。ゴミ箱があればこそ道にゴミを捨て去る人もいなくなる。どのゴミ箱にもゴミは殆ど入っていなかった。ゴミの回収頻度の高さが偲ばれる。

[2]仏国寺(世界遺産)

   仏国寺は韓国で最も有名でかつ参詣者もまた最も多いお寺である。西暦 535年に建てられた小さな『華厳法興寺』が増改築を経て今日に至った。広大な境内には池も配置され、中国よりも日本の庭園に似ている。

   日本の古い寺院は全て木造だがこちらは石造だ。建物は日本の大寺院に比べると一回り小振りだが、縦・横・高さのバランスもとれ、圧迫感もなく心静かにお参りできた。僧侶達が高圧の水を軒下に吹き付けて建物を洗浄していた。石造りの建物の意外な便利さを目撃。

[3]古墳公園

   死者の霊の慰め方には民族固有の考え方が反映している。鳥葬・ミイラ・埋葬・火葬と枚挙に暇なしだ。墓の形や副葬品の種類も様々だ。ネアンデルタール人は死者の復活を恐れるが余り、体を折り曲げ、花を添えて埋葬していたことで一躍有名になった。どの墳墓にもその時代の人類の価値観や創意工夫が集積されており、我が好奇心を奮い立たせてやまない。

   儒教を処世術の根幹に置く韓国民の、先祖を大切に敬う習慣は日本人の比ではない。新羅時代の王族の古墳(1〜4世紀)が集中している一角を古墳公園として美しく管理し一般公開している政府の姿勢にもそれが現れている。

   ここには20基以上の古墳があったが、ほぼ同じ形をしていた。鉄兜を地面に伏せたような盛り土の中にお棺が埋められていた。高さは5〜15m、直径は高さの3倍位だ。この盛り土の表面に木は1本もなく、本家本元の高麗芝で全面を覆われていた。                                

   古墳公園の外周は鬱蒼とした林になっていたが、古墳には雑草も、飛んできた落ち葉もない。ゴルフ場以上に完璧に維持管理されているのか、豪雨で土が流れ落ちている様子も全くない。古墳と古墳との間の空き地も全て高麗芝で覆われていた。芝刈りの後は箒で丁寧に芝をかき集めているのではないかと推定。
                                 
   1基だけは2瘤ラクダの形をしていた。王様夫妻の墓だ。また公園入り口近くには、1基だけ木が沢山生えている古墳があった。古墳造成以来過ぎ去った千年以上の歳月を思えば、古墳は木で覆われているのが自然だ。仁徳天皇陵も木で覆われている。とすると、韓国政府が木を切って芝生を植えたと考えたくなるのだが、どの掲示板やパンフレットにもその間の事情には触れていなかった。

   1基だけ、見学者の便を考えてか、復元された内部を公開していた。天馬が描かれた副葬品の馬具が発見された結果、『天馬塚』と名付けられた古墳である。鉄筋コンクリートで覆いを作り、その内部に石組みの墓が復元され、複製(本物は博物館)された人骨や副葬品が埋蔵状態で展示されていた。コンクリートの壁面には水族館のような展示室が嵌め込まれ、副葬品が飾られていた。コンクリートの覆いの上には土を被せ芝生を植え、外観は完璧に復元されている。

[4]国立慶州博物館

   韓国の先史時代からの発掘物が年代順に展示されていた。歴史を文章からではなく、物的証拠で効率的に学べる。百聞は一見にしかずか?。日本がいかに多くの文化・技術を韓国から学んでいたか、直ちに理解でき、韓国人への感謝の念が自然に湧いてきた。

   博物館前の広場の一角には大きな鐘楼があった。鐘撞きは禁止され、四隅の天井に嵌め込まれたスピーカーから間欠的に鐘の音が聞こえてくる。鐘の材料強度は人力で突いたくらいでは疲労破壊とは無縁の世界なのに、鐘撞き禁止とは興冷めだ。盲目的に物を大切にするのではなく、科学的な対応が望まれる。
                               上に戻る
儒城温泉

   韓国や中国には、日本の特徴である火山・温泉・地震が少ない。韓国全体で発見された温泉は全部で16ヶ所、しかも泉源の最高温度は手元の資料では53℃しかない。その貴重な温泉が慶州と扶余の中間にある太田市にあった。太田市は忠清南道(道とは日本の県に相当する)の道庁所在地で高層ビルが林立している。

   その中心部にあるホテルに隣接し、空中の渡り廊下で繋がったビルの2〜3階に温泉浴場があった。男女は別々の階だ。宿泊したホテルにリンクしているとは言うものの、服を着用し靴を履いて出かけるシステムだった。入り口でスリッパに履き替え、更衣室では鍵がかかるロッカーを使用。床暖房されたフローリングは歩いていて足の裏に快適な感触だ。浴衣を羽織り、脱衣籠に下着を脱ぎ捨てるだけの、日本の気楽な温泉風呂風景とは異なった習慣だ。

   温泉の楽しみ方は単純だった。ビルの中と言う制約があるとは言え、露天風呂や打たせ湯がない。韓国式マッサージや垢擦り(別料金)・人工太陽光線照射室・サウナ・大浴場・洗い場のみだ。しかし、洗い場の設計は合理的だった。日本では浴場の壁面に沿って洗い場があるが、ここでは壁面に垂直に高さの低い壁が櫛の歯のように設置され、その壁の両面に各3人分の洗い場があった。その結果、収容能力が約3倍になる。

   西洋とは異なり、水着を着用せずに入れるのは日本と同じ習慣だ。韓国人には西洋人同様陰部をタオルで隠す習慣はないようだ。尤も、何故陰部のみを隠す習慣が日本人にはあるのか、私には分からないままだ。『頭隠して尻隠さず』と何等変わらない。しかし、この韓国人の習慣は我が情報収集癖には大変便利だった。 

   韓国人と日本人を裸体で区別するのは不可能に近い。韓国人の仮性包茎比率は2〜3割、亀頭の大きさも形も日本人と変わらない。しかし、詳細に体全体を観察すると多少の差には気付く。大人でも陰部・脇・頭部以外には、体毛が殆ど生えていない。この点では、台湾・ベトナム・タイ人と似ている。禿が少い。日本人は戦後禿が特に増えた。ストレス・栄養過剰など諸説あるものの、死に繋がる病気でもなく、研究成果がノーベル賞の受賞対象にもなり得ず、学者には研究意欲が沸かないらしい。禿一族には諦めが肝心か!。

   日本と違い男子用温泉の掃除も男性が実施していた。最初は入浴客かと思っていたら、一糸纏わぬ中年男が突然掃除を始めた。タオル・椅子・洗面器・石鹸・シャンプー等の整理、カミソリなどのゴミ処理を裸のままで実施。これぞ正しく、日韓の文化の差を発見したとばかりに凝視していたら、男に気付かれてしまった。『シャワー』と言って、手をバツの字に組んだ。苦情かとの予期に反し、『温泉を浴びた後は、真水のシャワーで洗っては駄目』と親切にも教えてくれていたのだ。
                               上に戻る
扶余

   百済は西暦 538年に公州から扶余に遷都、爾来滅亡までの 123年間首都として栄えた。しかし、観光資源は破壊されてしまったのか殆どない。

[1]定林寺址

   扶余の朝は寒かった。早速、皮のジャンパーを着用。東北地方並で豊田市の真冬以上の寒さだ。定林寺址にある池の水は分厚く凍っていた。

   百済時代には塔・金堂・中門・講堂など一式が揃っていたらしいが、今は韓国式石塔のルーツとも言われる高さ8.33mの五層石塔がひっそりと残っているだけだ。塔の背後にある堂内には石仏座像が安置されているそうだが、堂の補修中でスッポリと幕で覆われ、当日は拝観もできずにがっかり。

[2]落花岩

   扶余には白馬江が流れ、その岸辺に山城があった。麓から坂道をゆっくりと登る。早朝から作業員が落ち葉をかき集め大きな袋に詰めている。観光地の美化活動は不断に続けられているようだ。

   山頂付近の木々には霧氷がビッシリ。寒さが厳しい。山城の北端にある断崖絶壁に突き出た岩場が、観光名所『落花岩』だ。百済が滅亡した西暦 660年に新羅と唐の連合軍に追い詰められた官女等3000人(白髪三千丈式表現か?)が投身自殺した場所と言われ、散るに譬えられたのが優雅な名前、落花岩の由来らしい。

   眼下に流れる白馬江の河原が美しく、堆積している膨大な川砂が羨ましい。韓国にはまだコンクリート用の砂には困らないようだ。白馬江は犬山辺りの木曾川よりも川幅は広く雄大だ。断崖の真下から遊覧船に乗り僅かな距離(2〜3Km)だったが、船旅を楽しむ。
  上に戻る
公州

   高句麗に追われた百済が漢城から熊津(公州)に西暦 475年遷都。以後63年間の首都。百済はその後扶余に遷都。

   公州では武寧王陵を観光予定だったが、管理の都合上数日間閉鎖されることになり、運悪く出国直前になって中止の連絡が速達で知らされた。代わりに公山城に出かけた。

[1]公山城

   復元された石造りの小さな城。特色も無くただ通りすがりに見ただけ。  


                               上に戻る
水原

   水原は京畿道の道庁所在地。人口40万人。ソウルの南30Kmに位置するが、国鉄と相互乗入れをしているソウルの地下鉄1号線で水原駅まで来れるので、今やソウルのベッドタウンを兼ねている。     

   水原城は李朝第22代正祖王が漢陽(ソウル)から遷都すべく、西暦1794年から3年弱の歳月を掛けて築いたが、王の死と共に遷都は中止された。高さ7m、総延長 5.5Kmの城壁の一部は今も健在だ。全体の構造は万里の長城にそっくり。

   城壁に沿ってと、城壁内に建物と門とが合わせて16棟あり、全体として世界遺産に登録されている。ソウルへの移動途中、城壁の上に登り、一番豪華な建物である長安門を見学。門内では民族衣装・帽子・白手袋・靴で正装したお爺さんが、私と一緒にカメラに収まってくれた。
                               上に戻る
ソウル

[1]夜景と南大門市場

   最後の日の夕方遅くソウルに着いた。都心の南側に標高 265mの南山があり、全山が公園化されている。ガイドによれば、10年以上掛けて民家を撤去し公園化した。今やソウルの貴重な緑地帯となり野生の動物も棲むようになった。

   山頂には 136mのソウルタワー(テレビ塔)があり、市内の何処からでも見えるその電飾が美しい。山頂の駐車場を歩いて一周しながら、ソウルの夜景を楽しむ。高層ビルの多さに驚く。高層マンションは過去10年の間に10⇒15⇒20⇒25階へと一挙に高くなり、その数は東京など足元にも及ばない。眼下には南大門市場と、一際密集している高層オフィスビル群とが煌煌(こうこう)と輝く。

@南大門(崇礼門)

   ソウルの中心部のロータリーの真ん中で、我が物顔で不自然に鎮座しているのが国宝第1号の南大門だ。花崗岩を積み上げた土台の上に二層の屋根が乗っている。中国でしばしば見掛ける城門にそっくりだ。

   朝鮮王朝(李朝)の太祖がこの地を首都と定め、西暦1396年に城壁と城門の建立に着手し2年後に完成。李朝初期の建築様式で現存する最古の建造物だ。交通の邪魔になった城壁は西暦1908年に撤去され、残された唯一の遺産である南大門はソウルのシンボルとなっている。

A南大門市場

   日本の中小都市の市場は大型ショッピングセンターとの競合に敗れ、急速に衰退し始めた。東京上野の『アメ横』は例外だ。しかし、韓国の市場は元気一杯だ。ソウルの南大門市場には生鮮3品から衣類・日用品に至まであらゆる小物商品が溢れている。

   品質も、一見日本製と見間違うほどだ。価格は3割も安いような気がした。狭い通路には屋台がひしめき、日本語で声を掛けられる。私には日本人と韓国人との区別は殆ど不可能なのに、彼等には何故か日本人扱いされるので癪だ。

   お土産もここで買うのが一番安上がりとは分かってはいるのだが、包装が貧弱なので止めてしまった。身内ならばともかく、娘婿達のご両親には届け難いのだ。結局、ロッテ百貨店と空港の免税店で海苔・キムチ・キムチラーメン等を高いとは承知の上で買ったのだった。

[2]古典演劇ショー

   韓国文化財保護財団が景福院の慈慶殿を模して作ったコリアハウスに、1時間の芸能ショーを見に行った。7千円のオプションツア−は高いとは思ったが、ソウルでは夜間出歩く魅力的な観光コースも見付からなかったので、暇潰しをかねて出かけた。収容人員約2百人、拡声器も不要なワンスロープの小形劇場だった。 

   帰国後JTBのガイドブック(1998年版)を見たら入場料は2千円だった。パック旅行のオプションツアーの料金体系には、今回に限らず、いつも疑問を感じている。卑しい商法だ。

   韓国の伝統楽器で演奏する古典音楽・楽器に会わせての謡い・羽衣伝説に出てくる天女に似た衣装の女性が扇子を持って舞う宮中舞踏・新体操みたいに紐をヒラヒラとさせて舞う踊り・音楽に合わせて進行する仮面劇などが上演された。

   観客は殆どが日本人なのに挨拶・解説・台詞は全て韓国語。舞台の両脇にあるモニターの大型テレビに日本語と英語の訳文が交互に表示される。文字を読んでいると目は舞台から離れる。小学校の学芸会レベルのストーリィと気付き途中からはモニターを見なくなった。

   ガイドブックには国宝級の人が出演と紹介されているが、見習い中かと思えるほどの若い芸人も多く、羊頭狗肉の観があった。しかし、伝統芸能の後継者不足が常に話題になる日本に比べ、若い人が挑戦している姿は立派だ。不景気で就職できず、デモシカ入門でなければ、ご同慶の至りだ。   
                              
[3]コーリアハウス
  
   コーリアハウスと同じ敷地内には韓国貴族の邸宅が移築され、往年の生活が復元されていた。床暖房の元祖の一つ、オンドルの焚口と排煙のための煙突が付いていた。一酸化炭素中毒回避のための気密構造には苦労していたようだ。

   ガイドに『このお家には生活に必要不可欠な、お風呂とトイレがありませんが、不自然だとは思いませんか?。湯船の形や給湯排水機構・シャワーの有無、トイレは汲み取り式だったのか否か等知りたいのですが』。予期せぬ質問だったのか、ガイドはまたもや『……。』と、沈黙。

[4]宗廟

   朝鮮王朝歴代(全部で19代)の王と王妃の位牌を祀った霊廟。朝鮮王朝は儒教を国教としたので、建物も儒教的。つまりは中国の建物にそっくりだ。

   韓国には2千年の歴史があるものの、大帝国を築くこともなかった。残されている歴史遺産はどれもこれも国力を象徴するかのような小振りな物ばかり。宗廟は世界遺産に登録されてはいるが、歴史的な背景を知らずに訪れれば、何の印象も残らない建物だ。韓国を代表する霊廟と言う意味だけで世界遺産に登録されたのであろうか?。
上に戻る
坡州
                       
   ソウルの北、数十キロ地点にある坡州は、南北の国境に位置する韓国側の町だ。そこには韓国民の南北統一への悲願、若しくは祈りを込めて建設された『統一展望台』があった。観光客の立場からは観光資源の見学と言うよりも、韓国側の願いを聞かされる一方的な儀式の会場だった。     
            
   私は統一展望台と同時に、対岸に見える北朝鮮側の宣伝施設も訪問したかったが、パック旅行の日程には勿論含まれてはいなかった。両方共見学できて初めて、第三者の立場から彼等の主義主張やその因って立つ立場が、より鮮明により客観的に理解できる筈だからだ。

[1]統一展望台

   統一展望台は南北国境を流れる川を挟んで韓国側の丘の上に建てられていた。国境は川の中央に論理的に設定されているだけで、物理的な壁が作られているわけではない。しかし、韓国側の川岸には何故か鉄条網が張り巡らされていた。北から密出国してくる同胞には鉄条網が邪魔になるのに!。

   タワーの中にはビデオ映写室が2フロアーあり、韓国語・日本語・中国語など、来客に会わせて常時2ヶ国語で広報ビデオを上映していた。韓国の分断から金大中のノーベル賞受賞までの民族の歴史を纏めたものだ。

   他のフロアにはお土産物屋と、北朝鮮の現状を示す国民服や教科書、復元された小学校の教室、典型的な民家の茶の間と備品、工業製品や特産品を展示し、いかに北朝鮮の国民生活がみすぼらしいかを強調している。   
        
   展望台からは川幅2〜4Kmを介して北朝鮮の山々が見える。山の木は燃料用として切り取ったらしく、丸裸だ。山肌には北朝鮮の豊かさを強調するかのような家並があり、韓国に向かって宣伝する拡声器が取り付けられているそうだが、訪問中は静かだった。ガイドが言うほどには険悪な国境には思えなかった。お互いに宣伝しても無駄だとは分かっているし、関係者も疲れ果てているようだ。

   この展望台から眺める地点で、北朝鮮からの川幅4百mの臨津江とソウルを貫流して下る漢江とが合流し、川幅4Kmもの大河となった漢江は韓国内を更に西へと流れ、黄海に出る。川は国家に先立ち、既に合流しているのだ。私はガイドに、『この事実をこそ、外国人にはもっともっと強調すべきだ』とお節介。
                               上に戻る
お土産屋

   パック旅行に付き物の御土産物屋には今回もご多分に漏れず連れ込まれた。買う気はなくともいそいそと出かけた。御土産物屋にはその国の特徴が溢れており、あれこれ眺めるのが私には楽しいからだ。

[1]皮革製品屋

   『トヨタ生産方式』の推進で世界的にも有名になられた故大野耐一さんと、かつて真冬にゴルフを楽しんだ時、氏は革の上下服を愛用されていた。『韓国の革製品は品質が良い。鞣(なめ)しも、縫製技術も一流だ。これは韓国で仕立てた服だ』と、満足そうに語られた。

   ゴルフ用に手頃な服はないものかと探していたら、早速店員に取り囲まれた。あれこれ探していたらピッタリサイズのズボンを発見。2万3千円の言い値を 150$まで下げさせた。時間があれば後20ドルは値切れたとは思った。股下長さは現物合わせだ。余分な部分は切り落とし、折り曲げて接着剤で張り付けるのだと言うが、店頭での待ち時間は殆どない。店員は『後で届ける』と言う。

   ガイドを呼び、次に出かけるレストラン名を店員に教えさせた。食事中には約束通り配達されていた。生まれて初めて体験した革ズボンだったが、羊の革は柔らかくて軽い上に風は通さず、水蒸気となった汗は通すので暖かくて快適だ。今ではゴルフだけではなく、普段着として家でも外出時でも愛用し続けている。

[2]窯元

   高麗青磁の窯元へ立ち寄った。登り窯があったが、冬は窯内の温度が十分には上がらないので稼働させないそうだ。流暢な日本語を喋る60代のお婆さんが、焼き物作りの工程を澱みなく説明した。

   別棟の販売店には素晴らしい出来栄えの製品が展示されていた。しかし、バブルの絶頂期とは異なり、平成12年末の株式市場は平成10年の秋と並んでバブル後の最安値近辺だ。僅かばかりの金融資産でも少しは増えるかも知れないとの淡い期待を抱きながら、その半分を株式市場で運用している我が身にはいくら勧められても、買う気が起きない。それに加えて、機械工業の製品とは異なり、私には製造原価の推定ができず、価格の妥当性が分からないのも買いたくならない理由の一つだ。

   近くに水田があった。韓国の稲作は40年前に日本でも一時流行した『並木植え』だった。並木植えとは縦方向に密植し横方向の幅はやや広げる田植えだ。幅を広げれば風通しがよくなり、株数不足は密植で補うと言う考え方だが、品種改良と農薬の進歩のせいか、日本では前後左右等間隔に苗を植える旧来の方法に戻った。

[3]食料・宝石・時計他

   気軽に買える食料品から数百万円もする宝石まで選り取り見取の商品がある。若い店員は日本人と間違える程に日本語が旨い。日本人の英会話の習熟度と比べれば、雲泥の差だ。この小さな店には溢れるほどの日本人観光客が押し寄せて来る。

   こんな店でも何軒もはしごさせられると我が好奇心もとうとう冷め果ててしまつた。そんな時に一番煩わしいのは『こんなに良い品物を、こんなに安くしてあげているのに、何故買わないの?』と迫ってくる売り子の詰問だ。買いたくて来た訳ではなく、パック旅行のお任せ行程に乗せられて来ただけなので、観光だけで疲れてしまった夕方の場合は、いちいち丁寧に応対するのが面倒臭くなるのだ。

[4]免税店

   空港の免税店は大抵狭くて、品数が少ない上に、あれこれ品定めをする時間も短いのが欠点だ。ところが最近は市街地にも外国人用の免税店のある国が増えてきた。ソウルのロッテ百貨店の8階にも免税店があった。お客の管理をし易くするため、ワンフロア全部が免税店だ。

   欧州のブランド品に混じって韓国の特産品も頑張っていたが、食料品の場合、地下の食料品売り場の方が種類が多く見ていて楽しい。その上に安い物も多く、免税店の価値に些か疑問を感じた。
 上に戻る
おわりに

   今回の旅行前のある時、自宅に立ち寄った長男が、『大学院時代に韓国人留学生から“韓国にはまともな観光資源がない”と寂しそうに話したのを聞いたことがある』と、ふと漏らした。                

   韓国には日本よりも長い歴史がありながら、有史以来国内外の争いが絶えず、過去の文化遺産は殆ど破壊されていた。壬辰の倭乱に加えて、とどめを刺したのは戦後の朝鮮戦争だ。全土が焦土と化したのか、戦前からの古い家屋は殆ど見掛けなかった。文字通りゼロからの再出発を不幸にして強いられたのだ。

   世界遺産に登録された程の観光名所があるとは言うものの、大部分は復元された建物だ。その意味では本物の観光資源は、留学生の言葉通りなきに等しい。しかし、たとい再建された物件と雖も、過去の韓国民の価値観とその成果を理解したい私には、十分過ぎる程の存在意義があった。    

   今や東南アジア各国と日本との繋がりは、『日本人の顔が見えない』と永い間、批判され続けた貿易・金融面や海外工場進出だけではなくなった。かつてのカラオケに始まり、大衆芸能・テレビゲーム・アニメ・茶髪に至まで、日本との大衆文化の交流は深まるばかりだ。

   その上、航空運賃の画期的な下落で、国内旅行と変わらぬ費用で気楽に出かけられる隣国同志になってしまった。命懸けで海外に渡った古墳時代の人々が耐えた辛酸を思えば、文字通り隔世の感がある。両国民がこの利点を積極的に生かしながら相互訪問を繰り返し、過去の歴史も学び続ければ、不幸だった36年間も急速に風化して行くのではないかと、予期せずにはおれない。

   欧州ではユーロを媒介としたEUの拡大と一体化が急速に進んでいる。女王の肖像入りのお札がなくなるのは、英国民としての誇りが失われるとの屁理屈を盾に、かたくなにその導入を拒否し続けた英国も、国論は急速に変わりつつある。東南アジアでも、日韓台とアセアン10ヶ国(インドネシア・カンボジア・シンガポール・タイ・フィリピン・ブルネイ・ベトナム・マレーシア・ミャンマー・ラオス)とがより緊密な連携を取り続ければ、欧州や米州に匹敵する大文化・経済圏が誕生するのも夢ではない。                         

   その第一歩の鍵は日韓関係の再出発にある。サッカーのワールドカップの共催は正にその未来を招き入れる絶好の機会なのに、歴史を洞察して初めて育まれる良識ある国際感覚が、国名の表記順序に捕らわれた関係者の馬鹿ばかしい発言からは全く見い出せず、文字通り『蝸牛角上の争い』を連想させるだけとなり、深い失望を禁じ得ない。
   
   私にとっての海外旅行の意義とは、何時ものことながら世界遺産を中心とした人類の物的遺産や壮大な大自然との出合いから派生する、受け身の感動を楽しむ一時にあるだけなのではない。                       
 
   否それどころか、個人の力では如何ともなしがたい様々な母国の制約を我慢しつつも、幸せを求めて懸命に生きている人達との真剣な『一期一会』を通じて、心の中に鮮明に形成される深い感動に浸ることにこそ、その醍醐味はあるのだ。現地現物と遊離した日本にいるだけでは、その国の人達の生きざまや、その国の目線から浮かび上がる日本とその国との関係について、深く考えることは難しい。

   私にとっては,隣国でありながら『日韓の来し方、行く末』について真剣に考える動機が過去永い間、生まれ難かった。しかし、僅か3泊4日の短い旅であったにも関わらず、この『韓国の追憶』を纏めながら、1ヶ月以上もの長きに亘って、両国の関係をじっくりと考察できた。それに比ぶれば、若き留学生の視点から無意識の内に飛び出した『いわゆる観光資源の有無』等は、老いたる私には、正直なところ微々たる問題に過ぎなかったのだ。

………………………………平成13年2月19日(月)追記……………………………

   昨夜のNHKスペシァルで韓国の壮大な挑戦『輸出団地』についての報道を見た。23ページで触れた釜山の巨大な温室群は、韓国全土に建設された日本向け野菜の栽培基地である『輸出団地』の一つだったのだ。全国には百ヶ所以上もの基地があり、5万Haにも達したその総面積は、日本の温室総面積に匹敵する規模と言う。

   飛行機の上から眺めた温室群は、昨夏現地で見たばかりのオランダの園芸施設にそっくりだと思ったが、似ているどころか政府の補助金を得て建設された、オランダからの直輸入品だったのだ。温度管理もコンピュータ化され、高温になれば天井が必要なだけ開いて換気され、温度が下がれば配管内の温水温度が自動的に上がる完璧なシステムだった。

   オランダよりも暖かい日本では、低コスト型の温室技術の開発が遅れていた。散見されていたのは、熱帯植物園などのコストを気にしなくて済む超豪華温室位であった。しかし、昨今のバイオ園芸ブームに触発されたのか、大手企業による、サラダ菜・ケチャップ用のトマト栽培などがやっと始まって来たが、大量生産型の施設園芸技術は発展途上だったのだ。小規模自作農保護のために企業による工場型農業が規制されていたとはいえ、各大学の農学部が日本の農業のためにどんな貢献をし続けてきたのか、疑問は尽きない。

   かつて農水産物は、@トウモロコシなどの飼料A小麦などの穀物Bバナナ・ドリアン・マンゴーなどの熱帯性果物Cマグロなどの水産物D玉葱・カボチャなどの保存性が高い野菜E松茸・椎茸などの高価なキノコFランなどの高価な切り花などが、次々に輸入されてきていたことなど、眼下に広がる巨大な温室群を見て驚いただけの私は、すっかり忘れていた。たとい米作が崩壊しても、輸入品に課せられた宿命のような輸送コストと鮮度劣化の障壁の下、安価な生鮮野菜や果菜だけは、国内農家の最後の牙城として何時までも存続する筈だと、私は長い間迂闊にも思い込んでいたのだった。

   衣料・雑貨・日用品の類いはアジア各国の低コスト品に国内市場は席巻されつつあるが、どうやら、農業といえども例外ではなかったようだ。戦前戦後を通じて長い間、日本では6百万軒の農家が6百万町歩の農地(水田+畑)で生きていた。が、過去20年の間に兼業農家を加えても、その数は4百万軒に減少し、専業農家は百万軒を切ってしまった。今や専業農家の新規基幹後継者は年間1万人を切り始めた。一世代を30年と仮定すれば、農家戸数が30万軒を切るのは時間の問題だ。

   かつて、植民地全盛時代に欧米の企業がプランテーションで、バナナ・ゴム・コーヒー・ココナッツ・砂糖黍栽培などの大規模農業を熱帯各地で展開したが、温帯〜寒冷地に温室型大規模施設を導入し、生鮮野菜を栽培することは敬遠していた。輸出先国の農業に質とコストの両面から太刀打ちできなかったからだ。

   しかし、日本人の輸出産業(第2次産業)の所得水準が世界のトップクラスにまで到達した結果、他産業(第1次&3次産業)の所得水準は、その国際競争力(生産性)とは無関係に労働市場の需給関係から、ほぼ自動的に引き上げられ、人件費が7〜8割を占める食料品価格もまた、世界トップクラスにまで高まった。

   海外各国から冷静に日本市場を眺めれば、農産物こそは土地と労働コストの両面から、日本への輸出産業として、第2次産業よりも遥かに育成が容易だったのだ。この戦略に挑戦したのは、ひとり韓国だけではなかった、アセアン各国に加えて中国も本格的に参戦してきた。しかも、その事業を積極的に支援していたのは、他でもない、あろう事か日本の農政に不満を爆発させた流通業者だった。

   タイの高原では一年中アスパラガスが収穫できる。現地価格が日本の1割以下の中国産葱は、アッという間に日本市場を席巻してしまった。すべての産業の中で、農業こそは適地適作が最も合理的であるのは論を待たず、人件費の安さが加われば、正しく鬼に金棒だ。

   かくして、日本は有史以来初めて農本主義の呪縛と決別し、脱農業社会を迎え始めた。離農が進めば、農地も下がり、都市部での土地価格が下がるのは火を見るよりも明らか。その結果、土地本位制も崩壊し、やっと住みやすく、生活しやすい日本が訪れる。と同時に、真に農業が好きな人々が数十町歩規模、欧州並の大型農家として活躍する日が到来するのも、あながち夢ではなくなりそうだ。
          
   似非(えせ)識者は来るべき食糧危機を喧伝するが、エネルギー危機同様机上のたわごとである。購買力のあるところに物は集まるのだ。世界の危機と日本の危機とは別物だ。日本人の課題は、工業と金融の国際競争力から生まれる購買力の永遠の確保だ。香港やシンガポールに代表される先達は、既に『脱農業社会』を実現しているではないか。人口の大(日)小(香港やシンガポール)論はまやかしだ。
   
   我が愛(いと)しの家庭菜園に強力なライバルが現れた事は大変な脅威だが、一日本人としてこんなに素晴らしい未来が展望できたのは、かのバブル崩壊後初めての体験だった。それに付けても、釜山の上空から眼下に迫り来たあの巨大な温室群には驚きながらも、日本への輸出基地だったとは露ほども見抜けなかった我が視野の狭さと洞察力の不足には、今更ながらがっくり!。これもまた老いが始まった証拠の一つなのだろうか?。
                               上に戻る