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旅行記
           
アジア
華南(平成13年4月15日脱稿)

      中国訪問は平成元年11~12月、平成9年2月に次いで今回で3回目。訪問地こそ違えども大局的に見れば、その間の変化は判る筈だ、との確信が私にはあった。

      前2回間、たったの7年間に起きた激変を知っているからだ。 総括すれば『東洋の眠れる獅子も、とうとう目覚めたか!』に尽きる。

      荘厳な華南の大自然を堪能できたからだけではない。『政府の政策さえよければ、人心はかくも急速に変化するものなのか!』との壮大な実験成果にも直接触れられて、中国の明るい未来を祝福できたことにも、満足を覚えた小旅行だった。
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はじめに

 [1]荊妻への感謝旅行

   我が夫婦にとり本年は秋までに孫の人数が3倍にもなる激変の年だ。8月に長女が2人目、10月には次女が初産の予定と聞くや否や、荊妻は愛知県公立学校の免許有効期限を1年間残したまま、講師を辞退することにしたそうだ。長期にわたって学校の仕事を休むのは、生徒にとっては迷惑この上なしだからだ。長女はドイツで出産すれば子供には自動的にドイツ国籍が与えられるし、海外出産の体験もしたいと希望。ドイツの産婦人科の方が初産の豊田市の病院よりも、サービスも良いらしく、気に入っているようだ。

   荊妻は2ヶ月間、支援に現地へ駆けつける予定。私は同行しても、最初は兎も角、既に2歳半を越えている孫の相手ばかりでは、疲れ果てることは必定。友達を誘ってどこかの国へと逃げるつもり。

   荊妻には人生の節目ともなる記念すべき年となりそうだ。積年の苦労にも報いるべく、本人も関心を抱いていた墨絵の世界、雲南を提案。我が家の床の間には荊妻が長女との台湾旅行のときに買ってきた、墨絵の掛け軸がかかっているのを思い出したのだ。荊妻への感謝の旅にでもなれば、何より。

[2]一度は見たかった墨絵の世界

   以前から私も多少は墨絵の世界に関心はあった。山紫水明を描くのに何故墨が使われていたのか、疑問が尽きないからだ。墨絵は写実主義の絵画なのか、それとも目に映った世界をベースとはしながらも、本人の好きな、あるいは理想としている景色を描いているのか、画家の心境を目前に展開される大自然と対比しながら考えても見たかった。
   
[3]激安パック旅行

   早速、手元に蓄積していた各旅行社からのダイレクトメールを比較。私にとっては、ホテルと食事の質に対する欲求度は近年とみに低下してきた。安全でありさえすれば、生きて帰国できさえすれば、それ以上は望まない老境に入り始めたのである。高い旅費を払えば払うほど、景色がより素晴らしく見えるわけでもないのは自明。細々と生きている年金生活者としてはごく自然な心境の変化かもしれない。

   全く同じコースなのに設定料金の違う企画が溢れていた。一番安い企画を自動的に選んだ。4泊5日、全食事・現地日本語ガイド・専用バス付で、一人79,800円。同日出発で5割以上も高い企画もあった。尤も、裸料金以外に、ビザ取得費用とか空港税などの諸経費、合わせて約1万円が加算された

   幾ら低料金であろうとも、お金を振り込んだ後に業者が倒産しては元も子もない。早速、社長に低料金にできた理由を電話で詰問した。『私どもの会社(ロータリー)は倒産した国際ロータリーの従業員が力を合わせて設立しました。倒産保険にも入っています。従業員はパート込みでも10人弱、年商は10億円弱ですが、事業は軌道に乗りました。

   ビザの取得は専門業者に委託し、人件費と交通費を削減。日本からの添乗員もつきません。しかし、現地空港までの送迎は中国の観光業者が責任を持ちます。航空便の都合で毎週金曜発、火曜日帰国のコースをご提案していますが、今までにトラブルは発生していません。中国人関係者は日本語に勿論堪能です』

   独身時代、旅行社に国鉄の指定席切符の手配を依頼したことがあった。『切符の価格は駅の窓口と同じですが、名鉄豊田市駅から最寄の国鉄駅(刈谷)までの一人分の交通費を経費として頂きます。この費用はあなたがご自分で切符を買いにお出かけになってもかかる費用です』と言われ、そんな理屈もあるのかと驚いた体験がある。

   今回の論理は個人が業者に置き代わっただけだ。業務の効率化は、これだけではない。名古屋空港での受付業務も業者委託だ。専門業者は一日中、各旅行社の団体旅行の世話をしている。何時の間にか、団体旅行も更なる効率化が進み、アウト・ソーシング(外注)化がどんどん進んでいた。   

   蛇足だが、4泊5日という表現は虚偽とは言えないが、一種の上げ底表現だ。名古屋空港13:50発(金)⇒昆明空港20:50着、重慶空港08:20発⇒名古屋空港12:50着(火)なので、実質は3日間の旅。名古屋空港までの発着区間で計算すれば4日弱となる。

[4]持参した水とビール
  
   今回初めて『ビールと水』を持参した。50ヶ国は突破したと言う4歳上の姉が『現地でいちいち水を買うのは面倒くさい。どうせ旅行鞄は只で運んでくれるのだから、水は持参』と漏らしていたが、『なるほど』と納得。盛りだくさんな寄り道も詰め込まれているパック旅行では、意外なことに水すら買いに行く機会に乏しい。ホテルでは、水でも高いのが通例だ。

   今回は3日分として、標準缶ビール12個と2リットル入り・ペットボトル4個に加えて、名古屋空港で買ったオールドパー・1リットルサイズ1瓶を持参。痛風対策で毎朝鍋いっぱい(3リットル)の薄い砂糖抜き紅茶を飲んでいる私は、大量の水分補給が欠かせない体質に変わったのだ。その結果、総重量は30Kgを超えたが、旅行鞄が潰される心配もなくなり、かえって好都合になった。帰国時に空いたスペースへお土産を詰め込めば済むことだ。 
   
   バスで移動中に飲むアルコールとして、生暖かくなるビールの代わりに、水割りのウィスキーも毎朝準備できた。一刻一刻が貴重となった残された人生を、低コストでしかも気分良く過ごすためには、多少の努力は今や厭わなくなった。

[5]団体ビザ

   観光ビザの取得にはパスポートのコピーを旅行社に郵送しただけで済んだ。団体ビザでは全員が与えられた番号順に並んで,一緒に入出国するのだそうだ。名古屋発重慶行きの乗客は、殆どが華南行きの団体観光客だった。各旅行社のバッジを胸元につけている。

   私はこのバッジは囚人が付けさせられている鑑札のような気がする上に、着衣も痛めるので、真面目に着用する気は起きない。その代わりに、ガイドのみならず同行者にも私をすぐ覚えられるようにと、何時ものように赤いチロリアンハットを恥ずかしげもなく被っている。文句を言われた体験はない。

   重慶空港では、各団体が入り混じらないように、グループごとに間隔を保ちながら待たされた。パスポートには入国のスタンプも押されなかった。税関もスーイ・スイ。重慶での出国時の手続きも全く同じ。ビザを口実にした一種の入国税だ。

[6]同行者は熟年ばかり

   欧州コースのパック旅行には、それと察知できる婚前や新婚旅行組が大抵参加しているが、今回のツアーには1組もいなかった。要望が私とは対極にある彼らは、掘っ立て小屋にでも泊まらされると心配しているのだろうか。それとも若者達には、さしもの華南も魅力が乏しいのだろうか。     

   全28名中、女性が18名、年金夫婦が数組、鍼灸治療院の熟年男2人組、調査費を貰ったと言う大学の教授と助教授の2人組、大学3年の青年と叔父の組、その他は姦しい中年女仲間だった。他のツアー客も同じような熟年一色だ。どうやら、華南は若者には人気がなさそうだ。

   大学生に『華南の何が魅力なの』と質問。『私はアジアに関心があり、東京外大で韓国語を専攻。来月からは外大を休学して、1年間韓国に私費留学。韓国語学科は日本では5大学合計約200人です』。卒業後は日韓関係にかかわるマスコミか商社で働きたいそうだ。目的意識も鮮明な好漢だ。それにしても、韓国人の湧き上がるような日本語熱とのギャップの大きさに驚く。

[7]溢れる日本人と対照的な西欧人

   観光地は日本人で溢れていた。桂林の年間観光客40万人の内、日本人は 10万人だそうだが、春休みだったためか、日本人が洪水のように押し寄せていた。国内旅行中の中国人も多少は見かけたが、何故か西欧人は微々たる存在だ。我が直感では5%もいない。此処での西欧人は少数民族そのものだ。       

   ガイドに『西欧人は何故こないの』『もっと奥地に行けばいます。大理とか、少数民族が多い山岳地帯に興味があるからです』とのことだが、中継地である重慶からの飛行機の中にもさして乗ってはいなかったから、真偽は不明。疑問のままだ。
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激変している中国

[1]古過ぎるガイドブック

   今回もまた何時ものような事前勉強のために、JTBの『中国』(1999-1-1)エアリアガイド『中国』(2000-1)近畿日本ツーリスト『中国の本』(1996-7-1)新潮社『読んで旅する世界の歴史と文化、中国』((1993-11-25)トラベルジャーナル『中国』(2000-3-21)を、豊田市中央図書館から借り出して拾い読みした。

   前3冊は従来型のガイドブック、最後の1冊はその冒頭で『旅行ガイドブックは、このままでよいのだろうか。旅なれた旅行者も増え、旅行先国の社会の仕組みや人々の暮らし振り、さまざまな文化にスポットを当てた、読んで楽しい書籍が、今は求められているのではないでしょうか』と高らかに主張し、日中の関係者20人を動員して纏めた異色の本だった。

   写真をふんだんに散りばめた本には情報が詰まっているように、一見感じられるが、実のところ著者の視点が表現されておらず、現地に行けば一瞬にして分かる一次情報ばかりの安直な本だ。私には最近、この種の本は有害無益な存在に感じられてきた。

   中国のように激変する国のガイドブックはデータもすぐに陳腐化してしまう。発行日がたとい新しくとも重版が多い。前述のJTBの場合は発行日こそ新しいが、17版でしかも初版の発行日は省略されていた。書くと売れなくなるのだろう。
  
   これらの本を眺めると、説明はおざなり。著者が真剣に熟慮したと感じられる表現に乏しく、読むのは人生の浪費に思えてきた。最後の本は初版だった。今回初めて発見した我が趣旨にも合うシリーズだった。文章中心で、写真や解説図はほんの僅かだ。

[2]美しい空港と大きな免税店

   十数年前は、国の顔でもある筈の北京空港と雖も、空調もなく、薄暗く、サービスは悪く、その上、暗い表情の中国人に取り囲まれ、憂鬱そのものだった。免税店はといえば、かつての国鉄の田舎駅の売店並の規模で,埃まみれの特産品が並べてあるだけ。買う気も起きず、がっかり、がっくり。

   それがまあ何と言う変わりようか!。昆明も桂林も立派な空港ビルだった。日本の新設空港と変わらない。しかも、都心に近い便利さだ。公共事業では、土地が国有である利点が明白。成田の泥沼闘争に対する中国政府の勝ち誇った評価が聞きたいが、言わずもがなの問題には、触れてもくれない。老朽化していた重慶の空港もいずれ整備されることだろう。

   但し、不満がないわけではない。荷物はすぐに運び出されるが、何故かどのターンテーブルにどの便の荷物が吐き出されるのかの表示がない。客は右往左往だ。何故、こんな管理体制を根気良く維持しているのか,さっぱり分からない。関係者に問題点が分からないはずがないからだ。

[3]林立している高層建築

   かつては、上海などの沿海部の大都市にのみ見られた新築高層ビルは、今や省都などの地方中核都市を初め、全土の大都市に普遍的に見られ始めた。都市部では庶民の住宅はマンションに変わり始めた。土地が国有だから、日本人のように一戸建て庭付きの家を理想とすると言った観念が消滅しているようだ。

   古くからのレンガ造りを取り壊し、道路を拡張し、高層ビルを建てればおのずから住み易い街づくりが進む。中国だけではない。東南アジアの各大都市の香港化は一斉に始まった。各国は香港よりも土地が広いだけに,大抵の都市は道路や公園にその余裕代を振り向けられるが故に、香港よりも快適な生活環境が実現できそうだ。今や残念なことに日本の後進性が一層目立ち始めた。

[4]豪華なホテルには有料テレビも
                    
   ホテルのキーは全て最新のカード式。入り口のカード入れにカードを差し込むと点灯。部屋の広さも40㎡はあり、室内の調度品や絨毯も質さえ問わなければ、ヒルトンにあるものは一通り揃っている。玉に瑕なのは室内冷蔵庫の冷却温度を最低に設定しても、持ち込んだビールがさして冷えないことにあった。ガイドの説では中国人は極端に冷えた飲み物は嫌いらしい。まだ冷蔵庫時代に慣れていないためだろうか。

   室内のエアコンも自動制御しているのは温度だけなのか、空調の機能はなく、朝になっても室内に干したタオルは生乾きのままだ。エアコンの温度設定を30℃にしても、25℃くらいにしか上がらず寒がりやの私には不満だった。とは言っても、数年前と比べれば格段の進歩だ。かつては、外観が如何に立派に見えるホテルと雖も、例えば風呂水すら透明で潤沢に出るか否かは、事前情報だけでは予測できなかった。今回は全て日本並だった。但し、水質の良否はもちろん不明。歯磨きには使ったが、飲む勇気は出なかった。

   立派なガウンも準備されていた。トイレットペーパーの品質もまあまあだ。しかし、タオル類の品質はいまいちだ。日本のタオル産業が中国製品の輸入で瀕死の打撃を受けているのに、何としたことだ。上質のタオルは日本に輸出し、国内では安価な低品質物で我慢しているのだろうか。

   超大型テレビが置いてあったホテルもあったが、大き過ぎて見難い。部屋の奥行きをも考慮した最適サイズと言う観念が育っていないようだ。中国産のテレビはまだ画質も音質も悪く、幾ら安くても買う気は起きなかった。

   ホテルによってはケーブルテレビでCNNも開放。教育テレビでは日本語の講座が毎日続いていた。商品の売り込み交渉を題材にした会話の練習だった。文法の説明は全く出てこない。登場人物が日本語を使っている会話場面と、そのときに喋った日本語の漢字仮名混じり文表示画面とが、交互に現れる。ひたすら反復するだけだ。実用会話の勉強はこれで十分なのだろう。

   有料ポルノテレビ映画も準備されていた。料金も高低2種類あり、日本の温泉旅館の料金(500~1000円)と大して変わらない。一週間分のタイトルと放映時間割とが室内に用意されていたが、タイトルは露骨な表現になっていた。ぼかしの有無は見ていないので不明。昆明のホテル前にあった温泉に夜出かけた人の話では、パンツ(ブリーフ)の脱着まで係員がやってくれ、しかも入浴中の中国人は陰部を隠さなかったそうだから、ポルノのぼかしもないのではないかと推定するのが自然だ。

   最終日は朝6時20分にホテルを出発。レストランの朝食開始時刻は7時だったので、弁当を受け取る予定だった。ところがガイドを通じて携帯電話で到着前にホテル側と交渉した結果、バイキング形式の朝食を5時40分に準備すると知らされた。中国も変われば変わったものである。

[5]充実してきた高速道路網

   平成元年では、高速道路はなきに等しく、政令指定都市である北京と天津間ですら工事中だった。今では1万Kmを越すらしい。雲南のような僻地でも空港と都心間には高速道路が開通していた。片側3車線が標準のようだ。道路の平坦さには不満があるが、渋滞もなく、国産バスの性能向上もあり、以前とは雲泥の差だ。

[6]整備されてきた市内幹線道路

   市内の再開発が進むにつれて、幹線道路の整備が進んでいる。自動車道・自転車道・歩道がちゃんと作られている。道路幅は50mにはなるので、歩いての横断も大変だが歩道橋は殆どない。信号機の数も少ない。しかし、車のドライバーのマナーは意外に良く、歩行者としては危険を感じなかった。
            
   乗用車も多かったが、恐らくは専任の運転手で、事故を起こせば首になる恐れから、慎重な運転に徹しているのだろうと推定。自家用車を買える程の金持ちが自分で運転しているとは思えないからだ。

[7]マンションには鉄柵も

   都心部に林立するマンションには鉄格子が散見される。昔、台北でも見かけた構造だ。台所やお風呂の窓だけではなく、ベランダ全体を猛獣の檻のように縦の鉄格子で覆い尽くしているのだ。住んでいる住民は檻の中の生活でも満足しているのだろうか。やっと憧れのマンションを入手した喜びが、全ての不満を洗い流してくれるのだろうか。

   今回見たマンションには洗濯物が殆ど干してなかった。ガイドの話では、湿度が低いから室内でも十分だと言う。尤も、最初からベランダのないマンションも多い。建設費の節約との説も聞かれたが、真偽の確認は無理だった。同じ中国人でも洗濯物を外に干す習慣がある香港人とは違うようだ。

[8]太陽熱利用温水器の普及

   今回意外にも、日本の田舎でしばしば見かける、いわゆる『太陽風呂』がマンションの屋上に整然と並べてあるのを発見。私は新築移転以来26年、太陽温水器の売り込み攻勢を受け続けているが、美観を壊すだけではなく、耐乏生活の実態も告白させられているように感じるので、今に至るまで断固として買わないままだ。高層マンションの中では、安い石炭も使えず、ガスと電気だけでは光熱費もかさみ、太陽風呂にも人気が出てきたのだろうか。

[9]表通りは徹底して清掃

   重慶・昆明・桂林での、各都心に於ける徹底した清掃には驚きを禁じ得ない。早朝から箒を持った人が一所懸命に働いている。今や日本ではあまり見かけなくなった光景だ。

   今回の訪問地は外国人が大勢来るとの理由だけから、清掃に努力しているのだとは、私には思えなかった。観光都市の昆明・桂林だけではなく、重慶も含まれていたからだ。

   恐らくは、中国全土の省都・政令指定都市を初め、地方中核都市が一斉に美化運動を始めているのではないかと予想している。シンガポールからスタートした美化運動が、マレーシア、台湾、韓国にも伝播し、とうとう東南アジア全体に波及したのであれば、慶賀の至りだ。早く日本にも伝染して欲しい。

[10]観光スポットでは更に徹底した清掃

   今回の観光地では随所に一日中、箒と塵取りを持った清掃員がいた。ゴミ箱中のごみの処理も随時行っている。その結果として、ゴミ箱にはごみが殆ど入っていない。観光地はディズニーランドと異なり、常緑樹も多く年中落葉が降り注ぐ。何と、その葉を一枚一枚拾っているのだ。

   そのゴミ箱にも美観上の工夫がなされていた。昆明の龍門に昇った折に、本物そっくりに作られた杉の切り株に似たコンクリート製ゴミ箱が道端にあった。直径40cm、高さ50cm、肉厚5cm位の重たい容器だ。まるで地面から生えていた木をそのまま使っているみたいだ。重くもあり風に吹き飛ばされる心配もなく、自然の景観の中に溶け込んでいた。

   此処まで清掃を徹底されると、押し合いへし合いしている人込の中と雖も、人は誰しもごみを撒き散らすには,勇気を要求されるらしい。マナーが自然によくなるようだ。結局、現行犯を発見することはできなかった。

   観光地のトイレも綺麗に清掃されていた。悪臭が一掃されていた。大抵はそれも無料だ。しかし、トイレットペーパーはない。一箇所だけ有料トイレがあったが、一人たったの3角(5円)だった。小銭を持っていなかったが、お釣りはちゃんと払ってくれた。

   あるとき、ドアのないトイレを発見。しかし、入り口にドアがないだけだ。隣との間には高さ1m位の衝立があり、使用時は相互に覗けないように配慮されていた。上から覗き込んだが,新聞を一心に読んでいて、不埒な輩に気づく様子も関心も示さなかった。日本でも高級ゴルフクラブの大浴場で、導入が始まった洗い場の仕切り方式と構造が似ている。日本人には誰しも、亀頭のくびれの恥垢を無心になって洗っているところを覗かれるのには、恥じらいがあるのだろうか。

[11]溢れる程の消費物資、外出スタイルも垢抜け

   都市部では品質さえ問わなければ、もはやお金で買えない消費物資はないようだ。都心の大通りにも横道にも各種の小売店が溢れている。しかし、個々の小売店の売り場面積は小さい。大きくてもコンビニサイズ、大部分はその半分以下。商売人の資本蓄積もいまだ小さく、やむを得ないか。

   日用品の価格は工業製品と雖も日本の半値以下。高級志向の日本製品が進出する余地は乏しそうだ。茶碗・スプーン・鍋など何でも、品質さえ落とせばこんなにも安く製造販売できるのかと、元生産技術のエンジニアとしては、想像を絶する世界だ。

   日本製品の原価低減を考えるときには、同種製品の中国工場を見学させたいとの欲求が、退職後の年金生活者の立場をも忘れて、突然頭をもたげる。人件費の差だけとはいえない気がするのだ。販売量が頭打ちになったときに、無意味な機能を付けて、付加価値を高める戦略には、何時の日にか消費者に見捨てられる陥穽があるのではないかと心配になる。

   パソコンも10万円で売っていた。17インチ液晶・128メガメモリ・40ギガディスク・CD&DVD・TV・音声入力・ワイヤレスキーボード&マウスの富士通製パソコン(FMVC6/86WLT)を使い始めて2ヶ月弱経つが、使う気も起きない機能が多過ぎる。音声入力の練習中に、コップにコードが触れて、キーボードに水割りをうっかり零したら、一瞬にしてショートし破損。10気圧防水が当たり前の時計屋に、パソコンメーカーは頭を下げるべきだ。

   私は販売店にパソコンセットを持参して故障を再現し、『私がキーボードを壊したのではない。壊れたのだ』と断固として主張。翌日、メーカーから宅配便で新品が無料で届けられた。良く見ると、原産国はマレーシア。友人の話では1個千円もしないそうだ。

   我が友人はビールで、知人はコーヒーで失敗したそうだから、全国的には大発生している事故の筈だ。友人はノートパソコンだったから、被害は甚大。このパソコンの仕様の中で、欲しかったのは字を大きく出来る17インチの画面だけなのに、余分な機能にお金を払わされた。爾来、音声入力は断固中断。

   中国人の外出着(カジュアルウェア)の水準は、遠くから眺める限り、日本人との差を感じない。日本人が中国からの輸入品を着用しているから当然のこととはいえ、国民生活の急速なる向上には、驚きを禁じ得ない。衣類の場合、日中の差は持ち物の数と、高級外出着だけのような気がしてきた。

   かつて日本での交通事故を取材した新聞記者が、立派な背広の内側に、何時もは見えなかった使い古しの下着を発見。その慎ましい耐乏生活を肴にして、コラムを執筆。それを読んだ私は、怒り心頭に発した記憶があるが、中国人の下着のレベルは、かつての日本人並なのだろうか。

   私が下着や靴下を破棄する条件とは、破れるか、ゴムが使えなくなるかにある。決して、変色ではない。ゴルフ場でもテニスクラブでも、脱衣場で見かける他人の下着は新品同様だ。しかし、戦後の物資乏しき時代を生き抜いてきた私には、今なお心理的にそんな生活態度の真似はできない。 

[12]携帯電話の普及

   携帯電話も急速に普及していた。私には無用の長物だが、世界的には先進国でも発展途上国でも、同時に普及し始めている。外出時の業務連絡用ならば、いさ知らず(注。『いさ』が正しい日本語なのにWordでは、警告を表す赤い並線のアンダーラインを付けた。『いざ』に変えたら警告が消えた)、携帯電話が何故日常生活で必需品になったのか、一向に理解できない。

   2年前に豊田そごうでシルク百パーセントのジャケットを注文した時に、『携帯電話を入れるポケットは、いかがなされますか』『そんなものは要らない。携帯電話でまで、追いまわされては敵わない』と即答した心境は、今尚変わらない。非日常性の空間を求めてやってきた海外においてすら、老いて行く日々を一歩一歩嫌でも確認させられるとは。

[13]既に普及段階にあるエアコン

   華南の地は亜熱帯だ。3月でも昼間は25℃にもなる。マンションの窓にはエアコンの室外機が取り付けられている。幸いなことに、エアコンの性能は急激に上がったのに、価格はまるで反比例するかのように暴落した。低所得者でもかつての金持ち並の贅沢ができるのだ。私が徳川家康よりも部分的ではあるが、海外旅行のような贅沢ができる理由と同じだ。

   回顧すれば昭和34年、日本では東京芝浦電気(現在の東芝)が98,000円でルームクーラーを発売した。14インチの白黒テレビが63,000円もしていたころだ。コンプレッサーの出力は0.5馬力だった。日立製作所は、1馬力以上はないと実用性に乏しいと批判した。当時は標準的な日本家屋の6畳間の場合に、必要な冷房能力は幾らなのかすら、把握されてはいなかったのだ。

   今から考えると、当時の空冷の成績係数(注:熱力学の術語。ヒートポンプの場合、発生した熱量を投入した熱量(消費電力量)で割った値。最新のエアコンでは空冷でも5を超える)は我が推定では1.5未満。日立の判断が的確だが、いつかは私も買いたいと、店頭で実演中のクーラーの前に立ち、細々と噴出する冷気を浴びながら夢を描いたものだ。

   昭和34年当時の日本人よりも、今尚実質的には低所得の中国人が、部分的ではあっても当時の日本人よりも遥かに贅沢ができる。後で生まれるほど、大抵の場合は有利だが、人類の進歩とはこんなものだ。それゆえにこそ、今出来ることは今しなければ、後日の後悔は不可避。人生全体を視野に入れ忘れたような、闇雲の勤倹貯蓄は考えものだ。

[14]一元ショップ

   日本の百円ショップなど片腹痛いと言わぬばかりの一元(15円)ショップがあった。驚いたことには、ちゃんとしたニッパーすら売っていた。材料代・製造費・流通費・税金・利益をどのように分配しているのだろうか、これもまた、私の想像を絶する世界だった。
 
   ニッパーに限らず、私にも買う価値がある商品も多かった。原始時代の不便さを解決すれば十分と言うのではなく、平成の我が家でも利用価値が十分にあり、日本では百円でも売れる、と私には思えた商品があまりにも多かったのだ。

[15]千円ショップ

   一方、観光地には千円で軽工業品を押し売りする行商人が溢れていた。千円とは言っても、1個の価格ではない。テーブルクロス・財布・人形を初め、小さな仏像など商品の種類は多種多様だが、どの商品の場合でも同じ物を数点纏めて千円で売っているのだ。

   価格が高いし、要らないと言うと、自動的に数を増やすが、売値の千円は据え置いたままだ。私にとっては粗悪な装飾品はどんなに安くとも魅力に欠け、一切買わなかったが、同行者の購買意欲の逞しさには、何時ものことながら驚きを禁じ得なかった。お土産のつもりだろうが、あんなものを『嫌』とも言えずに受け取らされた人の困惑した表情を想像すると、苦笑を禁じ得ない。『あり難迷惑』とは、きっとこんなときの心情に違いない。

   ガイドの説では、一日に一回売れれば生活費が稼げるのだそうだ。利益率が3割とすれば、概算月1万円(都市部での生活費は、一戸当たり6,000円)にはなるから、あながち嘘とも言い切れない。ある時、子供が大学生の胸のポケットに人造カーネーションの花を1本差し込んだ。気の弱い大学生は突き返すことも出来ず、百円を支払った。子供の作戦勝ち。

[16]普及して来た日本語

   観光地では、英語に次いで日本語が普及し始めたようだ。簡単な日本語くらいは、観光客と接する立場の人は理解しているようだ。同行者には英語も話せない人も多かったが、何一つ不自由している様子もなく、お陰で私も通訳扱いされずに済んだ。

   同行の女性ガイドは『日本には行ったこともない』と言うが、素晴らしく流暢な日本語を喋った。あれほど流暢に外国語を喋る日本人は、我が現役時代の職場(海外生産企画部)には殆どいなかった。それどころか、多くの海外駐在員には奇妙なことに、英語の中に日本語の接続詞を入れて話す癖が染み付いていた。次の言葉が出てこないときに、ついうっかり日本語の『あの~』等を入れるのだが、私は恥ずかしくてその真似は、さすがにできなかった。

[17]大男と大女

   世界一の人口を抱え、適齢期の男女の組み合わせ数を数学的に言えば、無限大に近いのに、中国でも結婚難が進行しているようだ。適齢期を過ぎた独身男女を『大男・大女』と呼ぶらしい。体が大きいと言う意味ではない。

   大男は農村に、大女は大都市に多い。この現象は日本と同じだ。都会の女性は農村男性に魅力を感ぜず、農村の女性は都会に憧れる。これらの大男と大女が出会っても結婚に結びつく筈もないが、悲劇の本番はこれからまさに始まろうとしているのだ。男児を尊ぶ中国では一人っ子政策の結果、男子が女子よりも2割も多くなってしまった(何と、女児が密かに殺されていたのだ)。

   情報化時代の現在では、中国人の結婚観も世界各国とはもちろん、日本人とも共通する条件が多い。例えば女性の場合は、日本では最近廃れた言葉である『3高』、中でも高身長への要求が目立つ。174cm以下は二等残廃(半身体障害者)、169cm以下は残廃(身体障害者)とまで言うこともあるそうだ。162cmの私は日本に生まれて、よかった、よかった。助かった。

   中国人の身長に対する拘りは異常だ。1年くらい前に、中国政府が、中国人の男子平均身長が日本人に追い抜かれたと言って、国民に問題提起をしたとのニュースに接したが、我が耳を疑ったものだ。このときの政府の真意は『経済成長を持続し、栄養水準を高め、せめて身長くらいは日本人を抜き返そう』と言う趣旨の発言と理解はしたが、政府すらもがこんな発言をするようでは、女性の要求がエスカレートするのも当たり前だ。

[18]激減した子供達

   人口の膨張を止めるとの目的でスタートした一人っ子政策は、十分に成果をあげているようだ。都会でありながら、子供を殆ど見かけない。一人っ子育ちの弱点は社会性の欠如といわれて久しいが、まだ目立った悪影響は聞かれない。それよりも貧困家庭でも教育にお金を懸けられるがゆえに、中国全体の知的レベルが急速に向上する、という長所の方が勝るのではないかと思う。

   一方、ガイドの話では、適齢期の男子の結婚難もあって、最近の都会の若者夫婦の間では子供に男児を強く求める風潮も廃れ始めたそうだ。中国全体としては、今しばらくの我慢か。  

[19]復活している宗教

   共産主義では『宗教はアヘンだ』と言って、毛嫌いし、かつての文化大革命では宗教界に大弾圧を加えた。しかし、雲南各地の寺院は信者が常時お参りをし、床に置かれた座布団に額をこすりつけて、仏像を拝んでいた。

   ガイドに『中国では宗教は廃れたのではなかったの』と水を向けると『文化大革命のときにも、雲南のような少数民族が多い辺境の地では、放任されていたのです』と答えたが、信じがたい。
   
   数年前に上海でも、信者で溢れていたお寺にお参りしたことがあったからだ。文化大革命の際、強(したた)かな一般大衆は宗教に関しては、面従腹背を決め込み、時が過ぎ去るのを、唯ひたすらじっと待っていたのではないかと思えてならない。

[20]百円玉も使えた

   海外ではどこでも日本円のお札は使えるが、コインは使えなかった。使えるコインは現地通貨だけだった。逆に、海外のコインは日本の銀行では円と交換してくれない。先進国で100円クラスのお札があるのは米ドルだけだ。それゆえ、米ドル札の中で一番重宝されているのはチップ用の1$札だ。高額ドル紙幣は主役をトラベラーズチェックに既に譲渡済みだ。

   ところが、中国では日本の百円玉も流通していた。ガイドの説明通り、ベルボーイもごく自然に受け取った。普通の国では、外貨での買い物のお釣りは現地通貨だが、中国では日本円で買い物をした場合には、お釣りも円で受け取れると付け加えた。中国人は現実的な国民だ。中国政府の日本批判・戦争責任・歴史認識・教科書問題など、出会ったどの中国人からも聞かされなかった。

[21]変わりつつある対日感情

   戦後一貫して、まるで韓国と秘密裏に同盟政策を結んでいるかのように、日本に対して厳しく対応してきた中国にも、韓国と同じように国民段階では変化の兆しが現れてきた。

   日本政府関係者は国連の常任理事国(私には然したる価値があるとは思えない)になりたいばっかり(と私は断定している)に、拒否権を持つ中国には何時も頭をさげ、献金させられてきた。また、賛成票を獲得すべく世界中に『経済支援』との口実で、選挙の買収運動と勘違いするほど、お金をばら撒いてきた。輸出企業が骨身を削る思いで獲得した外貨を浪費している実態ほど腹立たしいものはない。

   かつては中国も日本側の輸出超過国の一つだったが、日本企業が大挙して進出し、開発輸入を推進した結果、対中国との輸出入は大幅に逆転した。中国に取り日本は米国に次ぐ輸出超過国になった。

   それは工業製品だけにとどまらない。かつては欧米企業が発展途上国でプランテーションを強力に推進し、農業分野でも大成功したが、日本の商社を中核とした流通資本は、土地所有に基づくプランテーションとは異なり、現地生産を委託した開発輸入に注力してリスクを軽減し、特定商品で大成功を収め始めた。その嚆矢が『畳表・生シイタケ・葱』の関税引き上げ問題に象徴されている。

   しかし、かつての日米経済摩擦と日中摩擦とには本質的な差がある。日中の場合は原因者は日本企業にある。中国にしてみれば、日本企業に協力しただけではなく、日本の消費者にも感謝されているはずなのに、『関税引き上げとは何事だ!』と大声を張り上げたいところだ。私は日本政府の対応に不満だ。どんどん農産物を輸入し、日本の農業や流通業の効率化への圧力を高めるべきだと確信するからだ。

   その原因が何であれ、今や中国に取り日本市場は命綱になり始めた。実質的な力関係が大きく逆転し始めたのだ。日本もじわじわと中国へ経済的な圧力をかけることが出来るようになった。

   一方、大衆段階では、膨大な日本人観光客との接点が全国的に広がり始めた。もともと商才の資質に恵まれている中国人は、政府が何と言おうと、日本人との接し方は自らの判断で工夫し始めた。私は、今回の旅行中に接した中国人からは、歓迎されることはあっても、敵意を示されたことは一度もない。昨年末の韓国旅行の時に受けた韓国人の対応と期せずして同じだった。

   禁断の木の実の味を知った中国人は、日本人に対し『武士は食わねど、高楊枝』等よりも、現実的な行動を採り始めたようだ。
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変わらない中国

[1]過去に封印されたままの気の毒な農村

   今回の旅でも農村地帯とは接点が殆どなかった。昆明から石林に至るバスで2時間の沿線風景と、飛行機の上からの観察と、機内雑誌やホテルの部屋に置いてあったパンフレットの類に過ぎない。しかし、制約は多くとも、それなりに推定することはできる。読者のご体験と比較されて、いかが感じられたでしょうか。

   バスが通る道の整備はまだ不十分だった。舗装はしてあってもやっとすれ違いができる程度の道幅も多かった。観光地そのものの美化活動は軌道に乗ってきたとはいえ、中核都市と観光地とを結ぶインフラの整備にまでは手が及ばないようだ。
   
   その小さな道に沿って、早朝から観光バスが行列を作りながら走っている。大都市での通勤バス並だ。視野に入るだけで、軽く10台は超える。地元民が乗っている車は殆ど見かけない。観光客の方が多いこんな風景に出会ったのは初めてだ。日本に来る外人観光客の少なさは国際的に見れば異常中の異常だ。総数は台湾よりも少ない。観光業者の努力不足は明白だ。
   
   沿線の民家は徐々に改築が進んでいるが、屋根が低い小さなレンガ造りの住居も多い。私には、屋根が低い平屋には、建築面積が同じでもみすぼらしさが強く感じられて心が痛む。
   
   昆明は海抜1900mもの高原都市。近郊農村では、なだらかな山の斜面を切り開いて作られた耕地に、野菜や花卉(かき)類が栽培されていた。真っ白な蕎麦の花が満開だった。誰かが『あの白い花は大根の花です』と言う。私が『どうして、大根だと分かったのですか』と聞くと『大根の花は白いからだ』と答えた。『白い花が咲く油菜科の野菜には、大根以外にもありますけど』『……』
   
   沿線の農地は耕地整理も一切なされず、百坪くらいの不定形のままで、使われている。これでは農機具を導入しても効率があがらない。しかし、人が後ろから歩いて操作する小さな耕運機(テーラー)は時々見かけた。日本では最近、家庭菜園用として復活している。体力が衰えたら、已む無く私も買う予定だ。
   
   飛行機の上からは、どこまでも一様に広がった広大な農村風景が見えた。イスラム世界のようにモスクを取り囲んで家が密集している集村は見かけなかった。インドのように上位のカーストが中心に、下位のカーストがそれを取り囲んでいる村落形態でもなかった。
   
   典型的な散村だ。小さな一戸建ちの家が前後左右に一様に分散していた。相互に孤立したままでも生きていけるのだろうか。疑問は尽きない。あの密度では、一戸当たりの耕地面積はせいぜい数反、江戸時代の水飲み百姓と何ら変わらない。中国政府が,農村籍の住民の都市への移動を今尚禁止している事情がひしひしと理解されてくる。

   雑誌などには、典型的な棚田の美しい写真が載っていた。耕して山頂に至る姿だ。中国は、ロシア、カナダに次ぐ面積大国だが、土地の人工扶養能力からは、既に生存可能人口の限界に近くなってきたのではないかと、ため息が思わず出てしまう。

[2]逞しい屋台文化

   アジアの屋台文化はいまだに健在だ。小道具と材料を積み込んだリヤカーを、大勢の人々が取り囲んでいる。単純に考えれば外食は加工賃だけ、内食や中食(なかしょく)よりも高くつくから、贅沢産業の一種に思えるが、アジア各国の屋台には異なった経済原則が働いているように思える。

   日本では朝食は自宅で摂るのが一般的だが、アジアでは、三度の食事を外食で摂る人も多い。台所がない家庭が多いとの理由からだけではない。屋台でも量産効果で原価が極端に下がるだけではなく、屋台ごとにメニューが異なるから選択肢も広がり、人気が沸騰するようだ。朝の散歩中に何度も客引きから声を懸けられたが、美観が今ひとつ足りず、食べる勇気は湧かなかった。

[3]相変わらず不潔な路地裏

   表通りは前述したように役所が清掃管理をしているのか、ゴミひとつ落ちていないが、一旦わき道へ入ると、同じ都市とは思えない汚らしさだ。昔のアジアそのものだ。ゴミが撒き散らされている。屋台だけではなく、ビル1階の食堂や小売店も賑わっている。朝の何時から営業しているのか見当もつかない。

   不潔感があるとは言え、意外なことにハエが殆どいない。乾燥地帯であるにも拘らず、ハエが雲霞のように飛び回っていたパキスタンとの違いは何に起因するのだろうか。住宅が高層化した結果、水洗便所が普及してきたからだろうか。とは言っても、便を拭き取った紙はゴミ籠に入れさせられる場合も多いが、汚水は浄化処理もせずに、大河に直行させているのだろうか。

[4]建設工事は今尚人海戦術

   建設工事は政府主催の最大の失業者対策事業のようだ。高速道路の建設現場では、中国初体験の1989年に見た方法と大差がない人海戦術だった。日本の道路工事との差は、交通安全のための旗振り人がいないことだ。『所変われば何とやら』を、思い出す。

   錘を吊るした糸に沿って、石垣を垂直に組んでいた。海外で見る石垣は何故か垂直に組まれたものが多い。日本の石垣は、城にしろ、造成地にしろ斜面が殆どだが、雨量が少なく水圧が掛かり難い乾燥地帯では、直方体の石を垂直に積み上げるだけで済む重力壁方式の方が工事が楽な気がしてきた。傍らでは石の形を整えるべく、金鎚と鑿とでのんびりと整形作業をしていたが、産業革命以前の技術だ。

   それでも、土の運搬などには、重機や大型トラックが少数ではあるが導入されていたのを見つけると、人間尊重精神が少しはあると感じられて、ホッとした。

[5]街路樹は植えても、植林はせず。

   道路に果物のなる街路樹を植え、旅人には日陰と非常食とを提供するとのアイディアは、遣唐使が学んだ中国文化の一つと何かで知った記憶がある。今では果樹は見かけなかったが、街路樹を新設道路にも植えるという習慣は続いているし、立派な樹木に育っている。

   にも拘らず、中国人には農地としては使えない山々に木を植え育てるという観念がないようだ。とっくの昔に原生林は切り払われ、表土は流失し、岩山には痩せこけた小さな木がしがみつくように所々生えているだけだ。墨絵の画材にはなっても、材木には出来ず、今更植林するのも困難なほどの荒れ山になっている。しかし、潅木が茂っているだけのなだらかな山肌も散見され、今ならば植林も間に合う場所もあると思えるのに、費用のみ掛かる植林事業に政府の腰は重そうだ。

   私に『中国人は、何故植林しないの』と詰問された男性ガイドは、『内陸部には10万人も移転させられた植林事業もある』と答えたが、口からの出任せか否か、真偽を確認すべくもない。

[6]あってなきがごとき、飛行機の発着時刻

   中国では満席になれば、時刻表を無視して、離陸するそうだ。一方私達は、初日の乗り換え空港(重慶)から市内へ出て、中華料理のフルコースの夕食を摂り、予定より大幅に遅れて飛行機に戻った。我が仲間の予約席である機内後部座席のみ空で、満席の観光客(殆ど日本人)は、1時間も待たされていた。

   ガイドには夕食中に私達を急がせる言動もなく、遅刻など気にもしていない様子だった。今回のツアーは毎週金曜日出発の日程で繰り返されているから、遅刻は毎回の筈。お互い様と、慣れてしまっているせいなのだろうか。

[7]今尚続く、一部の外人向け価格

   かつては、持ち込んだ外貨と交換して得た兌換紙幣(余れば、逆に持ち込んだ外貨と交換できる)と交換不可能な紙幣とが流通し、友誼商店の販売価格は2重表示(当然のことながら、兌換紙幣の方が、物は2割くらい安く買えた)だった。今は非兌換紙幣(中国人は外貨に変えられないが、外国人は使い残しの元は多分外貨と交換できる)に統一され、価格設定が自由な消費財の外人価格は消滅した。

   しかし、交通機関の利用料、観光地の入場料などのいわゆる公定価格は、外国人にとって、避けようのない場面に限って、今尚高い価格を強要されるのだ。外貨が不足していた時代ならばいさ知らず、今や世界有数の外貨保有国になっているにも拘らず、こんなふんだくり商法を国家が続けているとは、情けない。
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中国あれこれ

[1]奇妙な標準時間の設定

   中国の標準時間の決め方には首をかしげる。日本との時差は1時間、つまり東経120度の標準時を採用している。しかし、地図を開けて中国全体を鳥瞰すれば、標準時が国土の東の外れを通っていると直ぐに分かる。人口の中心地(重心)でもなければ、北京の経度でもない。上海のやや西、北京の遥か東を通る。やむを得ず標準時を一つに統一するのであれば、日本との時差が1.5時間になる東経112.5度に設定するのが、現行よりも遥かに国民には便利だと、思うのだが…。

   西部のカシミール地方は東経75度、標準時間とは実質3時間のずれがある。不便を解消するために勝手にローカル時間を設定している都市もあると聞くが、真偽は不明。ガイドに質問しても知らないことが多く、情報収集に行き詰まり、イライラが募る。

   外国人との接点にいる観光ガイドは国を紹介する代表との誇りを持ち、外国語が使えるだけではなく、いろんな想定質問にも答えられるように、もっと勉強して欲しい。国家も定期的に免許(生涯有効なのか否か聞き忘れた)更新試験をして欲しい。

[2]振幅の大きな価格体系

   ガイドは『中国の物価は、高いものはより高く、安いものはより安い』と言う。最初はその意味がわからなかった。たった一つの単語、『日本で』が抜けていたのだ。

   日本で高く売られている品物は、輸入税が場合によっては百パーセントも掛かり、中国価格は極端に高くなる。自動車がその一例である。一方、日用品や食料品は断然安いと言う意味であった。つまり、高いものは輸入品、安いものは国産だから当たり前の話だ。

   しかし、そんな表現とは別種の価格体系も存在していた。極端な『一物多価』の世界だ。野菜などの農産物なら当たり前だが、量産されている工業製品の価格が一流の店と場末の店とは数倍も異なるのだ。その典型例がビールである。需給関係が極端に価格に反映しており、市場経済が正常に機能している証拠ではあるが、外国人からはふんだくるとの姿勢に感じられ、好感は持てない。

   御土産用として有名になった食品や雑貨も、中国人が出入りしている路地裏の店と、百貨店や空港の売店とは、2,3倍も違うのだ。その象徴が、観光地で雲霞のように押し寄せてくる、物売りの価格だ。値切り上手な人は、言い値の何と2,3割で買っているが、何のことはない、それが正常な価格なのだ。

[3]買値はどこでも交渉次第

   『一物多価』が存在していると言うことは、売買価格には交渉の余地があることを示している。路地裏の汚い店では、最初から低価格が提示してあったのか、価格交渉には全く応じない店もあったが、ちょっと小奇麗な高級店は弾力的だった。

   ガイドの話では、デパートでも値切れるそうだ。荊妻は空港内の店でも値引き交渉に成功した。私には恥じらいがあって、そんなことまでは思いつかなかった。

[4]日本人向けの中華料理と小さなお皿

   今回の昼食と夕食とは全て中華料理だった。10人で1つの円卓を取り囲むのが標準だ。味付けは、日本人向けに変更されているのか、四川料理・石林料理・雲南料理・広東料理の味付けの差を認識できなかった。

   出てくるメニューもほぼ同じだった。北京ダック・草魚・野菜炒め・豚肉料理・スープ・おかゆかご飯など最低でも10品。何時も食べ切れなかった。しかし、どこのレストランでも摂り皿が小さ過ぎるのが難点だった。更に、骨入れも用意せず、食べ終わった大皿を皆でゴミ捨て場として使う始末。潔癖症の日本人は、困惑するのだ。

   北京ダックは日本人には高級イージが先行しているが一羽たったの12元。一人当たり僅か20円足らずで賞味できるのだ。毎回、豪華に感じたフルコースの中華料理も、それとなくガイドに聞くと、一人前2百円前後らしい。日本での1割以下の価格だ。中国の物価の安さを満喫。しかし、高級食材として有名な、熊の手や鱶鰭スープなどは、もちろん一度も出なかった。

   今回のパック旅行では新しい体験をした。昼・夕食では何時もテーブル1つにつき、大瓶のビールが2本と1㍑サイズのソフトドリンクがサービスされた。全員で分けると、コップに1杯余となる。全員で何時も乾杯。

[5]ビールとは名ばかりの、水っぽいアルコール水

   中国のビールを飲みながら考え込んだ。大瓶1本が50円もしない。世界で出合った最も安いビールだ。しかも、美味しくないのだ。ラベルには材料名として、麦芽・ホップ・水・大米と書かれている。更に麦芽率12%とも読める。酒精率3.4%。

   麦芽率から見れば、これは発泡酒と結論付けるのが妥当である。どのガイドブックにも触れられていないが、我が舌を信じる限り、この結論に辿り着かざるを得ない。レストランでは5から10元で追加のビール(大瓶)が飲めたが、結局一度も注文しなかった。酔うためだけに飲むのは馬鹿馬鹿しいのだ。

   一説によれば、中国には値段も高い、チンタオ(青島)などのプレミアムビールがあるそうだが、今回は残念ながら一度も出会えなかった。きっと、こちらは本物のビールなのだろう。

[6]種類豊富な北京ダック

   北京ダックは全国至る所で食べられるようだ。移動中の車窓から軒先に、毛を毟(むし)られた数十羽ものダックが吊り下げられているのを目撃した。皮と肉との間に空気を入れて、皮をぱりぱりに焼き上げる手の込んだものから、単なるアヒルの丸焼きをぶつ切りにしただけのものまで色々だ。

   皮の色もあめ色や地肌のまま等様々。しかし、私には美観はともかくも味には然したる差を感じなかった。それよりも、単なるアヒルの肉なのに、美味しく食べられる調理法を開発した、中国人の食への執念に敬服。養殖可能なアヒルは希少資源ではないため、安価に供給されるのも嬉しい。

   蛇足だが、鱶鰭の材料は宮城県が最大の輸出基地だ。日本人はそれを美味しく食べる技術開発ができなかったからだ。今では、中国人が開発した鱶鰭スープを高級中華料理として、大金を叩いてあり難がっている。中国は料理の分野では、大先進国と評価せざるを得ない。

[7]小骨が何故か多い川魚

   毎回尾頭付きの大きな草魚が一匹出された。何故か小骨が大変多くて食べ難かった。ある人が『川魚には小骨が多いのですよ』と言った。初耳だ。毎年燻製にしているキングサーモンも小骨が多い。鮎にも小骨が多いが、丸ごと食べてしまう私は苦にはしていなかった。

   何しろ、就職以来40年近く、鯉と鮎以外の川魚は殆ど食べていなかったので、川魚に小骨が多いか否かの基本データが頭には全くない。あるゴルフ友達は『狭い川の中で生き延びるためには、海と異なり敏捷性が要求されて、骨が増えたんですよ』と自信満々に答えたが、私には疑問が残った。骨は体形を形成するために存在しているのであり、体を動かしているのは筋肉の力だ。その証拠に軟体動物だって敏捷性があるではないか。

   猛獣の敏捷性だって、骨の数とは無関係だ。運動神経と筋肉の連係プレーの賜物だ。鰯にも小骨が多いではないかと思い至ると、相対的に小さな魚は、大きな魚の餌になりにくいようにと、小骨が増えたのだろうか。マグロの解体を見たこともあるが、小骨は少なそうだった。読者諸賢の方々、ご存知の方は教えて下さい。真の理由を知らないと、心理的に落ち着かないんですよ。


   元日本航空の友人から、コメントを頂いた。

   『筋肉は引っ張り力を発生するだけだ。そのためには、支点となる骨格も必要だ』。これで、半分は納得した。しかし、小骨が多い根拠の説明としては、更にもう一つの理由が欲しい。


[8]独特の売り方をしているパイナップル

   街頭の至る所でスイカと共にパイナップルを売っていた。売り方はどこでも同じだった。先ず最初に皮を剥く。次に直径1cmくらいの鉄パイプを斜めに切り落とした道具で、根気良く表面の棘を繰り抜くのだ。

   時間は掛かるが、缶詰用の加工のように、外周をドッサリ取り去るのに比べれば、可食部分が大きく残る。食べてみたかったが、道端で砂塵を被りながら並べてあるし、汚い手で作業をしているので、已む無く見送った。

[9]ガソリン代と有料道路料金

   ガソリン代は1㍑40円、安いと思ったら、中国ではガソリンは無税だったのだ。税抜き価格は日本よりも高い。妥当な価格は30円だ。

   ガイドの解説では、高速道路の建設財源は、自動車の保有税と有料道路料金とで調達されている。保有税ならば安定して資金が集められるが、ガソリン税ならば不安定。しかし、ガイドは『道路建設費は使う人から取るべきだから、ガソリンにも税をかけるべきだ』との持論を展開。まだホンの一部の富裕層しか自家用車を持っていないから、税金のかけ方も過渡期の状態なのだろうか。

   あるとき、観光バスが有料道路代を払っていたが、他の車は無料だった。『どうして、バスだけ有料なの』『バスだからと言う理由ではありません。他の省から来た車は有料なのです。ナンバーで識別しています』

   あるとき、全車有料の道路があったが、ゲートを過ぎても、どこからでもその道に侵入できる交差点が次々に現れた。『ゲートを迂回すれば、只になるのでは』『地域の人には無料の恩典があり、車を見れば分かります』フロントガラスに何か貼り付けてあるのだろうか。

[10]日本よりも小さな区画の野菜畑

   今回の旅行中に見た農地は東北地方(満州)で見た広大な農地とは別世界だった。日本の家庭菜園を少し大きくしたような小さな畑が大部分だった。傾斜地が多く、大型化が難しい地形だ。形も曲線で囲まれており、機械化の効率があがりそうにもない。昔ながらの人力依存の農作業だった。

   農民は夫々の判断で農作物を選択しているのだろう。畑一つの中でも、多品種少量生産になっている。自転車やリヤカーで市内まで運び、朝市が賑わっているが、単価も安く、彼らの生活水準の引き上げが如何に困難か、政府にも名案はなさそうだ。

[11]準備が大変な婚姻届

   中国では婚姻届の準備は一仕事だ。①健康診断書と婚前教育の受講証明②身分証明書③戸籍関係書類④単位(職場)の証明書⑤2人が仲良く一枚に収まった写真の準備だ。

   ①は『婚前健康検査結果』と呼ばれ、一般的な健康診断の他に、血液・性病・性器官・性行為に起因する肝炎などの検査も含まれる。④は重婚や結婚詐欺を防ぐために、本人の事情を把握している職場がいわば保証人にさせられている。⑤は写真館での正式写真。女性は右で上半身。

   ガイドに確認すると、自分も性器の検査を受けたし、間違いはないと言う。最近は、処女膜再生手術も流行しているそうだ。男女がホテルに泊まるときには結婚証明書の提出が求められるが、最近は廃れ始めたらしい。

[12]野生人間扱いにされていると感じた少数民族

   中国には漢民族以外に55もの少数民族が住んでいる。雲南省にはその内の24もの民族が住んでいる。中国人は、いずれの民族に属しているか、戸籍簿で全員管理されている。

   『異民族同士が結婚すると、どの民族に登録されるの』『本人は不変、子供は父親の民族として登録されます』『漢民族は女性不足だから、少数民族の女性と結婚すれば、徐々に少数民族が減少することになりませんか』『その通りですが、少数民族には一人っ子政策は強制されていませんから、すぐには減少しません』

   観光地のあちこちで、民俗衣装で正装した少数民族が、民芸品を売ったり、写真のモデルになったりしていたが、市街地ではあまり見かけなかった。ガイドは『少数民族は、山の中で暮らしています。時々、山から街へ下りてきます』と言う。

   私には、山に住んでいる野生動物が餌不足になると、里に進出してくるような話し振りに聞こえて仕方がなかった。かつて、少数民族名には獣偏(けものへん)の文字が多かったが、最近は改められたとの解説記事を思い出す。
   
   雲南からベトナムやタイ北部に至る地域には多数の少数民族が住んでいる。しかし、私には人種は殆ど同じに思えた。民俗衣装こそ違え、顔立ちは皆そっくりなのだ。

   古代インドの先住民は、インダス文明を築いたドラヴィダ人に追われて、東のアッサム丘陵地帯に移住した。此処はインドで少数民族の種族数が最も多いところである。

   飛行機の上から中国南部~インドシナ半島の北部を眺めると、深い谷と山脈とでこの一帯は無数の孤立した地域に分断されていた。大昔、中国に大国が成立するに連れて、あちこちに住んでいた先住民が周辺の山間部へと追いやられ、生き延びてきた結果、生活習慣も言語も独自に発達し、形の上では、異なった民族として分類されているのではないかと、私には思えるのだが…。

   手元の資料に寄れば、中国には1万人未満の少数民族が6つ、最小民族の人口は僅か2,300人だが、独立した民族として今後も存続し得るのか、大変疑問だ。存続に必要な最低個体数を切った結果、突然絶滅した動物の種は意外に多い。

[13]いつも満席の中型旅客機

   今回利用した航空機は200人乗り位の中型機だったが、常に満席だった。切符を安売りしているからなのか、便数が少ないためか、理由は不明だが、単独の一般客は困らないのだろうか。疑問は解けない。

[14]日本語も達者なスチュワデス

   今回のエアラインは中国の西南航空だった。飛行機は新しかった。頭上には液晶テレビが左右に各7台取り付けてあった。未使用時は天井に嵌め込まれる。

   スチュワデスは全員中国人だったが、ガイド同様に日本語をマスターしていた。男子乗務員もいた。彼は出入り口のドアの開閉など、力仕事を担当していた。揃いも揃って何故か美男美女だ。しかも、きびきびと良く働く。一昔前の中国人の怠惰さのかけらもない。希望者が殺到する職場なのだろうか。

   日本とアジア各国を結ぶ国際線の乗務員の大部分は、今や日本語が話せるようだ。日系航空各社の国際線では,乗務員はそれぞれの国の言葉を話せるように訓練されているのだろうか。いささか心配だ。


   元日本航空の友人のコメント

   日系各社の日本人乗務員の外国語能力は英語が基本。日系各社の国際線は、日本人と乗り入れ国の乗務員との共同作業。欧米各社の日本乗り入れ便には各国乗務員と日本人の共同作業だそうだ。先進国は何と楽をしていることか。


[15]浸透している日本製品

   かつて、日本から中国への輸出品は設備などの資本財か、鉄板や自動車の構成部品などの中間財が主力だったが、最近は完成品も増えてきた。

   日本製品は、高い、高いと言われながらも、高級品分野では徐々に中国にも浸透してきたようだ。中国が豊かになってきた結果だろうか。化粧品・オートバイ・自動車などの最終消費財だ。高級便器やホテルの浴槽などへのTOTOの進出振りには、率直に驚いた。

[16]郡県制

   中国の地方行政組織のルーツは秦の始皇帝にまで遡る。秦の始皇帝の業績としては全国の統一が日本の歴史教科書には挙げられてはいるが、その歴史的意義への踏み込んだ解説は少ない。それどころか『焚書坑儒』が喧伝され、始皇帝の名誉を傷つけている嫌いがある。この焚書坑儒には、実質的に全国を統一した織田信長の比叡山焼き討ち同様、旧勢力の一掃にこそ、その最大の意義がある。

   始皇帝は春秋時代の乱戦は周が採用した『封建制』、つまり、家臣に領地を与えたことにあると判断し、『郡県制』を採用した。全国を36郡に分け、首長は中央から任命。中央集権国家の成立だ。魏志倭人伝に出てくる『楽浪郡』のルーツだ。つまり、県の上に大きな郡がある。今の省に匹敵する大きさだ。日本の廃藩置県が、廃藩置郡と呼ばれなかったは、郡が藩の下の行政単位として既に定着していたからであろうか。

   更に、始皇帝は秦の文字『小篆』(しょうてん)を採用して、全国の文字を統一した。『同文同軌』政策だ。この小篆は現在の五書体(篆書・隷書・楷書・行書・草書)の一つである。道路の軌道幅も統一した。当時の馬車は道路に造られたレール状の窪みに轍を入れて走った。外国の戦車の侵攻を防ぐために、国ごとにゲージが違っていたのだ。更には、経済活動(商取引)の円滑化を目的に、度量衡と貨幣も統一した。

   自らを皇帝と名乗り、一人称として独占的に『朕』を使い、諡(おくりな)を廃止(皇帝の死後、部下が業績を評価して名前を付けるとは何事か、許せぬとの趣旨)した。万里の長城を築き、殉死を廃止して兵馬俑坑を造るなど、その発想の斬新さと後世への影響力は中国史上最大級と言っても過言ではない。

   結局、中国大陸は、始皇帝が大胆な政策を推進した結果、欧州のように小国に分裂せずに済んだのだ。

[17]ガイド泣かせか、私の質問

   ガイドが『雲南には未だ野生の象がいます』と言った。間髪を入れずに『中華料理では、飛行機以外の空を飛ぶ全ての鳥、人間以外の全ての動物を食材に取り入れている』と聞いているが、残念ながら未だ『象』のメニューは見たこともないし、もちろん食べたこともない。どこに行けば、象が食べられるのですか。『……』
   
   昆明一の有名なお寺で、ガイドが『中国の線香は、日本の物よりも大きいし、色の種類も豊富』と言った。『日本では線香は杉の葉から作ります。中国の線香の匂いは日本製とは少し異なるような気がします。それに、中国では杉の木を見た記憶がありません。中国の線香の原料は何でしょうか』『……』

   お寺に龍の絵や彫刻が飾ってあった。『龍の足の爪の数は国によって異なるそうですが、中国では何本でしょうか。あの絵の場合には、一匹の龍なのに、足によって爪の数が違います。隠れていると解釈すればよいのでしょうか』『……』

   『中国のお坊さんは結婚できますか』『出来ません』『お坊さんになるためには、年齢とかの制限があるのでしょうか』『独身であれば、年齢などの制限は一切ありません』『それでは、妻帯者も離婚さえすれば、お坊さんになれるのでしょうか』『……』

   『中国の一人っ子政策は大成功しましたね。しかし、中国人が後継ぎの男子を望んだ結果、男児が女児の2割増しにもなり、今や独身の男女の人口差は2千万人にも達し、独身女性を輸入しなければならないほどと聞いていますが、本当でしょうか』『……』

[18]ガイドが出したクイズ   

   『昆明から南に向けて狭軌の鉄道が走っています。フランス人が作りました。終点はどこでしょうか』『ベトナムです』と即答。ハノイで中国との相互乗り入れの鉄道を見たことがあったのだ。『このクイズの正解者第1号です』とお世辞。

   中国の大きさを印象付けようとして『昆明から北京までの距離は』『2,500Km』
『残念でした。3,000Kmです』。私はこの説には疑問を感じたので、帰国後、地図で計ると直線距離は2,500Kmだった。道路なのか、鉄道なのか、直線距離なのか、条件を正確に言わないと、意味を失うクイズだった。

[19]ガイド最大の心配事

   今回、全行程に女性ガイドが1名、男性ガイドが昆明で1名、桂林で交代した男性ガイドが1名、女性カメラウーマンが1名同行した。ガイドはいずれも日本語に堪能だ。

   同時にはいなかった男性ガイドが、2人とも期せずして同じ発言をした。『私は日本語を猛勉強して、ガイドの職を得ました。私達の会社は、日本の旅行社と契約している観光コースの全てにお客様をご案内する義務を負っています』

   『もしも、お客様全員のご同意を得ることなく、一ヶ所でも省略したと、お客様の一人からではあっても、そのことを日本の旅行社に報告されれば、ガイドは首になります。しかし、契約観光ポイントが場合によっては、ご案内できない場合があります。その場合には、代わりの候補をご案内いたしますが、全員のご賛成を得られた場合に限ります』

   同行者は黙って聞いているだけだった。ガイドを安心させるために、私が大声で『ご提案の通りで、問題は何にもありません』と言った。『沈黙は賛成と同じ』等と言う勝手な解釈は、日本でのみ成り立つ習慣だ。

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石林

[1]大石林

   昆明の南東120Kmの地点にあり、バスでの日帰りコースだ。元珊瑚礁に起因する石灰岩が隆起して山となり、周りが雨で浸食されても残っていた石柱累々の奇観である。山口県の秋吉台の大型版だ。

   高さ10m前後の石柱が集中的に残っている一角が観光スポットになっている。有料だった。ゲートを潜るとそこは別世界の美しい公園。花木が植えられ、徹底した美化活動を継続。専任の清掃人がゴミを探しながら園内を隈なく歩き回っている。庭木の手入れも行き届いている。

   石柱だけでは、景色が単純になると考えたのだろうか。池を配し、美しい芝生が張られた一角もある。芝は高麗芝とも西洋芝とも異なり、葉の幅が狭く緑が濃い。その葉を5cmくらい伸ばしてカット。葉の密度は大変高い。芝の中には、雑草が見つからない。日本の観光地もこのくらい美化運動に努力して欲しいと願わずにはおれない。

   突然ガイドが、同行者にコメント。『あのネクタイをした背広姿の男にご注意。スリです。ズボンの後ろのポケットが一番危険です』よく見ると、この公園内の関係者は全員、カラー写真が貼られた身分証明書を首から吊り下げていた。この方式は今や世界スタンダードだ。私は現役のときに、これを胸のポケットに付けさせられたが、鑑札みたいに感じて嫌だった。

   団体観光客はバッジを付けているし、服装がカジュアルだから、それとすぐに分かる。黒い背広の青年は、どこから見ても異常なスタイルだった。おまけに眼光が何処となく、やーさんに似ている。私達を護衛するかのように付いてくるが、何故あんなに目立つ格好をわざわざしているのか、彼の作戦を直接聞きたかった。
   
   石林に地震はないとはいうものの、地球の歴史時間で見れば、安心は出来ない筈。海底が無地震でこんなに大隆起する筈がないからだ。それに昆明には地震と相関性が高い温泉もあった。所々、石柱が倒れて隣の石柱にもたれ掛かっている。物によっては侵食が進んだ結果、何時倒れても不思議ではないと感じられるほどの不安定な状態になっている。
   
   観光客が天災で石の下敷きになって死亡した場合には、保険から1億円支払われるそうだ。ガイドは冗談めかして、『私は此処に来る度に、地震で死ねたら本望と願っています。中国での1億円は大金です』。負けずに誰かが『日本でも大金だ』
   
   奥まった丘の上に『望峰亭』があった。観光客が密集しているので、遠慮していると写真も撮れない。この場所からは、周囲に荒れ果てた不毛のカルスト地形が、眼下には石柱群が広がる。

[2]小石林

   同じ敷地内の異なった場所に、小規模だが石柱群があった。山を借景とし、石柱の前面に芝生と池を配し、樹木を植え、浮世離れした景観を確保。人家が視界に一軒もなく、一幅の絵を超えた世界だ。近くでは大きな花びらがダリアのように無数についた見事な八重桜があった。ほぼ満開だ。
   
[3]横着な中年女と対照的に清清しい若者

   中年女には日本でも、中国でも辟易することが多い。人に迷惑をかけても平然としている。社会的なルールを守ると言う観念に乏しい。坂道を一列になって登る場合で、途中に踊り場があると、平気で割り込み、追い越していくのがその一例だ。一刻を争うニーズは、団体行動の私にはないのだが、不快になる。

   中国の中学生くらいの団体とすれ違った。一人っ子政策のもと、中国人の子供は大事にされ過ぎて、社会性が育たず、欠陥人間が多くなったとの批判を見かけるが、今回出会った子供達には、その種の印象は全く持たなかった。込み合ってくると、年配者に道を譲るのは決まって、若者達だった。同じ中国人でありながら、中年女とは対照的な行動だ。
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昆明

[1]花が溢れる常春の街

   昆明も桂林も台北と同緯度、北回帰線の少し北に位置する亜熱帯だ。しかし、昆明は海抜1900mの高原都市。年中春のような気候に恵まれ、冷暖房装置も不要。『春城』とも言われているそうだ。このくらいの海抜では高度は全く意識せずに、町も闊歩でき、快適な一夜を過ごせた。

   鉢植えの花が多い。中国では花が必要な場所には、鉢植えの花を大量に並べる傾向が見受けられる。切花よりも長持ちするし、移植がやり難いビルの内部でも、舗装された広場でも支障がない。ホテルのロビーでも鉢植えなら大量に並べられ、豪華に感じさせる演出も可能だ。

[2]散歩

   早朝、30分の余裕を活かして荊妻と散歩。日頃は全く散歩しないので落ち着かない。徘徊老人の真似はしたくないのだ。

   ホテル前の大通りには、早朝から自転車が走り、通勤客が歩く。バトミントンで遊んでいる夫婦がいる。業務の宣伝用に名詞を配る人もいる。裏通りに出たら、庶民の活気が漲っていた。商店も、屋台も既に営業開始。8時間労働どころか、これでは16時間労働もやりかねない活力だ。

[3]ガス臭い街

   昆明の市街地には大型石炭発電所も、煙突産業も視界には見当たらなかった。
マンションには暖房用の煙突も見かけない。しかし、なんとなく、硫黄臭い匂いが漂う。かつて、冬のイスタンブールや中国東北地方の瀋陽で嗅いだ思い出(懐かしくはない)溢れる匂いだ。

   ガイドに聞くと『屋台で使う石炭が原因です』。つまり、街中が硫黄臭くなるほど、屋台が多いのだ。

[4]西山龍門

   昆明市の西北17Kmに西山(2400m)がある。その山の絶壁に沿い、1781~1853の長期に亘って登山道路を掘削。要所要所にお寺や展望台を配置。台湾の花蓮の登山道に似ている。水平な耶馬溪を縦にしたような地形でもある。転落防止の柵は枕木大の石柱の組み合わせ。まさに恒久工事だ。昔の人は耐久性第一主義で、工事期間の長さは気にしないようだ。日本人の気の短さとは対照的。

   山の中腹までバス。そこからは歩行か、短距離のトロッコか、長距離のゴンドラかを選ぶ。我がグループはトロッコに乗り、下車後は、バス停での集合時刻を聞かされた後、自由行動。私はひたすら階段を登った。

   階段の石の表面には滑り止めと排水目的の、洗濯板のような溝が刻まれていた。好天時には溝の有無と摩擦力の大小には然したる関係もないが、雨天時に排水用の溝は、滑り止めとして威力を発揮するのは明らか。本質的な壷を抑えた丁寧な工事だ。

   登山道路の道幅は狭いところでは一人分。登りと下りとが出会うと一方が待つことになり、渋滞が発生。中年女の割り込み行動には辟易。休みながら徐々に登る。眼下には大きな湖が広がる。疲れた人は適宜下山するようだ。段々混雑が解消して来た。やがて、ゴンドラの終着駅に到着。

   駅の入口には改札口のような柵があった。全員、ここが最終地点と誤解したようだ。構内を抜けると更に登山道路があり、数百メートル歩くと展望台があった。この間の往復で出会ったのは清掃人とパトロールしていた3人組の警官だけだった。

   トロッコの終着駅からバス停までの下りの2Kmはのんびりと歩いた。道から眼下を見下ろす側には、延々とお土産物の露天商が店開き。その中で素晴らしい作品を発見した。孟宗竹を素材にし、上半分には老人の顔を彫刻、下半分の竹は繊維をばらばらにほぐし、長く伸びた顎鬚に整形。深山幽谷の仙人を連想させる出来栄え。日本人は異口同音に絶賛。

   ガイドが『数年前の万博では一日に10万人も登った』と吹聴するので、『それは不可能だ。一日は8万秒余り。この細道を1秒に一人通過できると仮定しても8万人だが、夜は危険だから無理。1時間に千人とすれば、1万人が妥当な数だ』と、つい意地悪にも反論してしまった。

[5]翠湖公園

   市内にある大型の中国式公園だ。水を入れ替える構造になっていないのか、池の水が汚く濁っている。ガイドに『池の水は湧き水ですか』と質問したら『川から引いています』と答えたが、導水路は発見できず、説明通りかは疑わしい。

   中国人は池の辺(ほとり)に柳を植えるのが好きなようだ。ここでも柳の並木には新緑が芽吹き、綿帽子が飛び交っていた。

   園内には日本のデパートの屋上遊園地みたいな子供用の遊戯施設があり、賑わっていたが、何と全体が天井の高い檻で囲まれていた。檻の中の壁際には引率の父兄が並んでいた。入場料を確実に取るためなのか、子供の安全確保のためなのか、檻を作った目的が今ひとつ、理解できなかった。

[6]乾燥松茸

   雲南の名物は乾燥松茸。伝説によれば日中国交回復交渉の後、故田中元首相が北京から昆明にヘリプターで訪れ、松茸を賞味。そのとき初めて、中国人は日本人の松茸狂いを知ったそうだ。此処で伝説と書いたのは、私には北京から昆明までヘリコプターを飛ばす筈がないと思えるからだ。ヘリコプターの巡航時速は200Km余り。機内の騒音と振動は耐えがたいひどさだ。10時間以上も掛かる距離を乗る意味もない。第一、航続距離が足りない。

   雲南の少数民族には好物でもなかった松茸が、日本人を相手にすれば、大金に変わると判り、突然雲南の特産品に昇格。秋のシーズンには日本の店頭を賑わし、我が家まで毎年1回は食べる習慣が定着。しかし、何回食べても、私には余り美味しいとは思えない。秋に雲南に行けば、採れたての松茸が籠一杯買えそうだ。

   今回のような季節外れ用にと、乾燥松茸が開発された。水で2時間、微温湯で20分、熱湯では10分で戻せると袋に書いてあるが、どの方法がベストとは書いていない。空港・百貨店・加工食品店など一流の店では必ず売っていた。80g入りが標準。生のときは500gあったのだそうだ。松茸は全て薄くスライスした後、乾燥させている。丸ごとの乾燥松茸は一度も発見できなかった。価格はピンからキリまでで数倍も違う。

   韓国では冷凍生松茸を日本人向けに売っていた。しかし、日本産の乾燥松茸も冷凍松茸も見たことはない。鮮度こそが松茸の命だ。国産品は、保存しなければ食べ切れないほどには収穫できないのだろう。

[7]茶道館。小便小僧

   中国の中でも、雲南はお茶の本場。お茶の専門店へと連れ込まれた。緑茶・ウーロン茶・紅茶はもちろん、ありとあらゆる種類のお茶を売っていた。香りの高い花弁を混ぜたお茶とか、レンガのように固めたレンガ茶もある。レンガ茶は古くなるほど高品質になると言うが、何故そうなるのかさっぱり分からない。根拠不明な説明を聞かされると疲れてしまう。

   売り場の周囲には、20~30人は入れる団体客用の試飲室が数部屋あった。そこで代表的なお茶を10種類近く飲まされた。どの場合も急須にお湯を注ぎ、一番最初のお茶は捨てた。お茶の葉っぱを洗っているようなものだ。お茶を蒸らす前に、蓋の上からお湯を並々と掛けた。急須の内外の温度差は小さい程よいと言う。

   一度に飲む量はお猪口に1杯。砂糖やミルクを入れて飲むお茶は出なかった。味・香り・色も少しずつ違うのは分かったが、私には所詮、お茶はお茶。然したる違いに関心は湧かず、買う気も起きなかった。

   お茶を買った人には、高さ10cm足らずの陶器製小便小僧をプレゼントしていた。陰茎の先端に直径0.5mmくらいの穴が開けてあり、頭からお湯をかけると2m位も水が飛び出す。中の空気が膨張して、水が飛び出るのだ。

   小便小僧を貰った人が『石松さん、水はどうしたら入れられると思いますか』『小便を出す時と逆にすればよいのですよ。最初はお湯の中に入れて、空気を膨張させて噴出させ、次に水の中に沈めれば、中の空気が収縮して負圧が生じ、水が中へと吸い込まれますよ』。傍らにいたガイドが『その通りです』
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桂林

[1]徹底した景観保護

   空港から桂林市内までの道路からも、屏風のような山々が見えた。この景観抜きの観光都市桂林はありえないと判断したのか数年前に、建物の高さ制限が導入された。今はやりの高層ビルは、法律制定以前に建てられていた19階建てのホテルのみであった。その19階にある回転レストランで夕食を食べたが、桂林の夜景は薄暗く、見るほどの夜景はなかった。

[2]璃江下り

   桂林の観光の目玉は、璃江下りだ。璃江は紅水河と合流し珠江となり、香港とマカオの間を貫流して南シナ海へと注ぐ。璃江下りは桂林に始まり約80Km4時間の船旅、終点からは待機しているバスでトンボ帰り。

   観光船は2,3階建て、100人乗り位だ。全部で約100隻あるそうだが、少しオーバーな気がした。船着場には10隻くらい停泊していた。船は一日に1回しか稼動出来ず、満席だと1日に1万人、年間ではざっと365万人運べることになるが、桂林の年間観光客40万人との整合性が取れない。ガイドの数値情報はその都度の吟味が欠かせない。それとも、年間観光客とは外国人を意味し、中国人を除いた数なのだろうか。

   我がグループは他社の日本人グループとの相乗りだった。パック料金が異なっても、船の中の待遇は同じだ。最初は1階の船室に入っていたが、程なく殆どの人が屋上の2階に移動した。吹きさらしだったが、快適な気温だった。

   璃江の川幅は200m前後、水深は数m、流れは緩やか、水は川幅一杯に流れている。香港で見かけるほどの濁りはないが、透明と言うほどでもない。日本の大きな川の河口付近並だ。上流に砂漠がない証拠だ。

   両岸には、観光の目玉ともなっている屏風のような百メートル前後の岩山が次々と現れる。その数は百を超えそうだ。岩山には潅木がしがみ付くようにして育っている。一見、山水画の世界そのものだが、墨絵の山水画とは違い、緑色・暗緑色に見える木々の中に、赤い花もかなり見かける。何故この風景を画くのに,墨を使い始めたのか、動機がわからない。 

   墨絵は写実画だと思っていたが、配色だけではなく、木と山の大きさのバランスも大きく変更されていたのに気付く。写真と比較すれば明白だが、木が相対的に大きく書かれている。100mの山に高さ2,3mの木を画いたのでは、掛け軸の上では、苔でも画いているよう大きさになる。新聞の四コマ漫画の登場人物が、2,3頭身に書かれているのと同じ発想だ。

   この墨絵の世界はベトナム北部のハロン湾でも見かけた。こちらは海の中に聳える山々だ。ベトナムに技術調査に出かけた折、陸地からハロンの屏風山(島)を遠望した。ベトナムでは海の桂林と言われていたが、規模が小さいので『海の小桂林』と言うくらいが穏当だ。

[3]百人分の昼食を一人で調理

   観光客百人分の中華料理を何とたった一人のコックが準備した。会席料理に比べ、中華料理の量産性は抜群。事前処理されていた材料を船に積み込み、直径1m近い中華なべを使い、大きなかまどに石炭を山のように投げ込み、一回に50人分位も豪快に調理。

   食事は船の中で摂った。船上とはいえ料理は5,6品もあった。食べ残すほどの量だ。此処では何時ものようなビールと飲み物のサービスだけではなく、一人500ccのミネラル水も付いた。

[4]鵜飼

   川岸の船着場に20羽位鵜を引き上げていた鵜飼に時々出会った。周りには観光客はいなかった。彼は鵜を使った漁師だったのではないかと思う。

[5]何故、山水画は墨絵なのか

   私は小中学校時代から、図画・書道・音楽・体操は嫌いだった。努力しても上達せず、面白くなかったのだ。結局、中学卒業後、今に至るまで絵を画いたことは一度もない。嫌いなものは強制されない限り、結局手を染めなかった生き証人だ。

   私には絵の鑑賞にも関心が湧かなかった。海外出張の折に、駐在員に有名美術館に案内してもらったが、これとても絵への関心からではなく、世に有名と言われているから、『見た』と言う実績作りに出かけたようなものだ。モナリザとても例外ではない。何がよいのか実のところ良く分からないからである。物理学のように評価尺度の基本となる度量衡(長さ・質量・時間)がなく、掴み所がないのだ。

   そんな生い立ちから、中国の墨絵に関しても、不勉強のままだった。今回初めて本物の自然を現物で確認し、墨絵の販売店で無数の墨絵を眺め、帰国後、参考書(新潮社発行の中国)に書かれている墨絵の項目で、下記の内容を学んだ。

   中国の絵画のルーツは書にある。心象を描くのが基本なので、写真のように実物に似せるとか、色彩を付けるとか、遠近法や陰影法の採用はせず、山水画には人物も殆ど描かれてはいない。

   水墨画の源流は二つある。その一つは八世紀の中ごろ、潑墨と言われる、筆線のない墨の濃淡(グラデーション)だけで表現する手法が作り出された。最初は雪景色のような単色表現に適した題材が選ばれた。その後、山水画へと発展した。

   第二のルーツは北宋の後半に文人が始めた,墨戯である。中国の知識人にとって、書は必須の教養科目だった。書の余技として始まったのが墨戯である。題材として、竹が選ばれた。その後、梅,蘭、菊などへと拡大し『水墨花卉雑画』に発展した。その結果、水墨画の中にカラーも登場した。

   しかし、大局的に見れば、唐以前は人物画、宋以降の千年間は山水画、清の乾隆帝以降は花卉雑画が中国絵画の主流だったそうだ。

   でも何故、水墨画の題材に山水が主流に選ばれるようになったのか、解説書を何度読んでも、分からない。そのことには触れていないからだ。

① 蛇足その1
 
   音楽も嫌いだったが、昭和50年代になって日本にカラオケブームが発生。いろんな機会に歌を歌わされるようになった。初期のカラオケは伴奏が何時終わり、どの時点から歌い始めればよいのか、さっぱり分からず、失敗の連続。

   カーステレオに音楽テープをかけて、運転中に大声をあげて歌の練習をしたが上達は遅々として進まなかった。その後、カラオケセットも進歩し、テレビ画像に歌詞がタイミングよく表示されるようになり、歌い出しのタイミングも少しは上達したが、下手さ加減は相変わらずだった。
 
   昭和60年代になると、海外出張が増え、アジア各国の場合は、駐在員にカラオケ酒場に連れていかれた。主客である私は何かを歌わねばならない。その都度、私は『カラオケ地獄』に連れていかれる心境を味わった。それにしても、駐在員の歌の上手さには、何時も驚いた。

   最近になって、さしものカラオケブームも下火となり、ホッとしている。

   ② 蛇足その2

   体操も嫌いだった。就職後、職場の仲間と少しばかり、テニスをしていたが、上達もせず、結局中断してしまった。しかし、転機が訪れた。

   40歳の定期検診で肺活量が入社時よりも1,000cc縮小していると知らされて、愕然。5,850ccから4,850ccになっていたのだ。その時に、直ちに生涯やれるスポーツとして、テニスとゴルフを選択。原則として、毎週各一回始めた。共に今日まで続けている。しかし、腕は相変わらず。上達は蝸牛の歩みだ。

   50歳の定期検診で肺活量が500cc増加していたのを発見。その間のプレイ料金・年会費・道具代・クラブでの飲食費などの合計(ゴルフ2,テニス1の会員権代の購入額900万円は除く)は約500万円だった。我が肺の価値は1ccが1万円なのだ。私は生まれてこの方、肺活量で私以上の人にはたった一人しか出会っていない。180cmもある、ラグビーでトヨタ自動車に採用された選手(6,000cc)だけだ。

   これらのスポーツは今や、私の生き甲斐の一つになっている。風邪も殆ど挽かなくなった。ゴルフとテニスの友人が75人、年齢・職業もいろいろ。社会との接点が広がった。

   年金生活に入って、一年間に5回以上出会って人生を共有できる目標人数を百人に設定した。これだけおれば、十分と考えたのだ。学生時代の友人・同期入社・昔の職場の仲間・親兄弟の殆どは、残念ながらこの条件は満たさない。年にたった1,2回しか会っていないからだ。

   60億人も地球上に人がいると言うのに、私には百人との交友の維持すらも、かなりの難問だ。その結果、スポーツを通じて広がった友人の輪は、今や掛け替えのない、人生の宝になった。

[6]蘆笛(ろてき)鍾乳洞

   カルスト地形には付き物の鍾乳洞があった。今までにも,秋吉台の秋芳洞・沖縄・トルコでも鍾乳洞を見たが、今回のは規模が一番大きく、美しさではトルコの北東(トラブゾン)の鍾乳洞に次いだ。秋芳洞は観光業者が洞内の石筍や鍾乳石を切り取り、観光土産として売り払った結果、洞内はもぬけの殻同然となり、往年(昭和24年春、初訪問)の美しさは、今や見る影もない。
 
   団体客は適度な間隔を確保して入場。洞内でガイド同士の声が干渉しないようにとの配慮からである。巨大な空間の照明には大電力が要る。要所要所に磁気スイッチがあった。ガイドが携帯している磁石に感応するのだ。1回の点灯時間は1分間。ガイドには簡潔な説明力が求められる。

   中央部に巨大な大空間があった。高さ20m,広さは10,000㎡くらい。大きな池があり、その向こう側の壁際に石筍が並ぶ、その遠景はまさしく地底に出来た桂林の小形版だ。皆が写真に撮っていたが、並みのカメラでは後で失望するのは当たり前か。

   洞内の岩にはその形から、ライオン・象・鳩など適当に名前が付けられていた。ガイドはその都度、『ライオンが皆さんを歓迎しています』等と言っているつもりだが、『ライオンが皆さんと関係しています』と発音。誰かが『俺は関係していないぞ』と、呟いたが、ガイドは間違いに気づかない。

   已む無く私は、『あなたの説明中の動詞は(け)と(げ)の違いだけで、日本語としての意味は全く変わります。濁音はWelcome、清音はSexと言う意味になります』とお節介。

[7]書画販売

   山水画や水彩画の他に、書の掛け軸もある専門店に連れ込まれた。此処には地元大学の副学長もしていると言う書の権威が、希望者全員に無料で掛け軸を書き、お客様の名前を右上に、ご自分の署名と日付を左下に、最後に印鑑を押した。

   書にかかれる言葉は2種類。予め大量に書いて用意されていたが、在庫切れになり、本文もさらさらと書き始めた。さすがに達筆の走りだ。別のグループともかち合ったので、全員の希望を書き上げるのに約1時間。業者にはこの滞留時間が稼ぎ時。掛け軸や絵、書道の道具が飛ぶように売れた。我が家には既に山水画はあるので、買い物は割愛。

   掛け軸の書には 心静而長寿 とある。

   此処で売られていた山水画には、深山幽谷に咲く可憐な小さな赤い花が、あたかも紅一点で目立つように描きこまれているものもあった。山水画とは墨のみで描かれているとは限らなかったのだ。

[8]動物園

   桂林にはトラが130頭も買われている動物園がある。話によれば、午前と午後の2回、トラと水牛の1対1の決闘があり人気絶大。水牛は1頭2万円で農家から購入。トラは毎回入れ代わる。決闘時間は平均10分。トラが食べ残した肉は、係員が事後処理して、他のトラの餌に廻す。
 
   どのトラも闘い方は同じだそうだ。最初は水牛の足に噛み付き、敏捷性を奪う。次に首筋に噛み付く。狩の仕方を教えられずとも、本能的に最適手段を発見するのだろうか。

   熊と豚との決闘も実施。コブラとマングースの決闘を連想するが、大型動物同士の決闘は凄惨な気がしてならない。ガイドはお客様を仕事で何度も案内したが、水牛や豚が可愛そうだ、と言う。そのうちに、何処かの『何とか動物愛護運動組織』が、噛み付くことだろう。

[9]百貨店

   昆明最後のコースは博物館だ。予定時間は1時間。バスの中で『はーイ』と大声で手を挙げ、『私は、博物館よりも、百貨店に行きたい』と提案。

   ガイドは、『皆さん全員が賛成されるならば、コースの変更は可能です。百貨店と博物館は幸い歩いて数分の距離です。百貨店には駐車場がありません。百貨店で希望者を下ろし、残りの方は、博物館へお連れします。百貨店行きの方は約束の時間に入り口で待っていてください。迎えに行きます』28名中17名が百貨店に出かけた。

   かつては中国の百貨店は『友誼商店』と呼ばれ、国営で、サービスの悪さには定評があった。地元の中国人には縁がなく、外国人用の小型の御土産屋に近かった。今は、土地と建物を国が所有し、テナントが入って営業をしている。但し、売り場の構成とか、従業員の制服とか、全体の統一には配慮がなされている。クレジット・カードも使えた。

   出かけた百貨店は地下なしの5階建て、延べ1万㎡くらいの大きさだ。クロス・エスカレーターも中央部に設置されていた。トイレは中央の3階にのみあった。建物も新しく、商品配置も見やすく、店員も私語に没頭することなく、働きぶりは、日本と変わらない。

    1階にはロレックスを初め、資生堂など有名なブランド品も入っている。価格は日本よりも概して高い。贅沢品の税金は高いのだろうか。カッターシャツも数千円はしている。一般の国産品の品質は日本のスーパーと代わりがない。しかし、価格は中国なのに最近の日本並だ。生鮮食料品はマーケットに勝ち目がないのか、全くなかった。

    5階の一角に、加工食品や各種飲料・酒の売り場があった。集中レジ扱いのスーパーマーケット方式だ。お土産の幾つかを手にしながら、他の商品を探していたら傍らから、若い男性店員がサッと籠を差し出した。かつての中国では想像を絶する激変振りだ。更に、『何を、お探しになっていらっしゃいますか』と尋ねる。

[10]庶民向けの生鮮食品市場

   途中、免税店に案内されたがすぐに飛び出して、免税店と向き合っていた大きなバラック建て、吹きさらしの生鮮食品市場に飛び込んだ。パック旅行では自由時間が少なく、やっとの思いで、一番行きたかった所を発見。

   市場の中を駆け巡った。典型的なアジアの市場だ。鶏などの鳥類は生きたまま販売。臭気溢れる不潔さは、昔出会ったベトナムやパキスタンのマーケットほどではなかった。但し、日本のスーパーのように規格通りに揃えた売り方ではなく、不ぞろいだ。従って、売り方は重さが基本。原始的だが信頼性抜群の竿秤を使用。本物の大きな山芋を発見。2本で約3Kg。300円だった。バブルの頃、日本では1Kgが5千円もしていたのをふと思い出す。
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重慶

[1]見せ掛けの巨大都市

   重慶は数年前に周辺の自治体と合併し、世界最大の人口3,000万人と言う空前の大都市になり、人口最多省だった四川省から分離独立。北京・上海・天津に次いで中国で四番目の政府直轄、政令指定都市に昇格した。

   しかし、人口こそは最多でも、その面積たるや8万平方Kmもあるのだ。何と北海道の大きさである。日本人が市という言葉から連想する世界とはかけ離れているのだ。私は長い間、市とは民家が連続して建て込み、数万人以上の人が住んでいる地域を連想していた。つまり、その典型例は、古代ギリシアの都市国家のように、住民が日帰りで且つ徒歩で交流できる範囲だ。

   最近は交通機関も発達、自家用車も普及してきたので、通勤や通学が出来る都市圏・経済圏を市と考えるようになった。衛星都市も含めた都市圏である。この考え方はアメリカでは普遍的だ。

   世界各国の省・州・道・県・市・郡・町・村の概念は統一されていないので、言葉を介しただけでは地方自治の全体像を把握するのには限界がある。その典型例こそが重慶だ。

   重慶の都心の実態は、中国の何処にでも見かける、省都に次ぐ地方中核都市だ。中心街の再開発は緒に着いたばかりだ。

[2]三峡下りの起点

   重慶は長江に沿って発展した上海・南京・武漢の上流に位置し、重慶から武漢に至る三峡下りの起点都市でもある。長江は重慶でその大支流嘉陵江と合流し、文字通りの大河川となる。

[3]珍しく自転車がない街

   重慶には自転車王国中国では珍しく、自転車は殆ど見かけなかった。理由は簡単だ。これだけの大都市でありながら、坂だらけで、自転車は使えないのだ。日本でひところ話題になった電気自転車を売り込めば、歓迎されると思うのだが、安く造れないのだろうか。
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おわりに

[1]生物とは対照的な社会の進化
   
   人間は受精から出産までの間の僅かな期間に、その形態はあたかも生物の進化の歴史を辿りながら成長しているかのようだ。例えば妊娠初期の胎児の外見は、出産後の人間とは全く異なり、魚に似ている。

   しかし、社会の進歩のパターンは全く違うようだ。発展途上国が成長する過程は、先進国の歴史を早送りで辿ってはいない。途中をジャンプしてしまう。最初からパソコンもテレビもある状態から、所得の向上が始まっている。しかも、中国人が買う頃の先端技術製品は、先進国での普及初期に比べ性能は格段に良く、価格は逆に格段に安い。

   その結果、極端に小さな家に住んではいても、各種の電気機器も保有し、海外旅行も楽しんでいる大都市の裕福な中国人は、豊かさにおいて、何時頃の年代の平均的な日本人と、物質的な生活水準が等しくなるのかと言う問いに、私は答えられない。比較項目が1:1に対応しておらず、足し算ができないからだ。いわんや精神的な幸福感の比較評価は不可能だ。

   江戸時代に生まれた我が曽祖父(私の誕生以前に既に死亡)は、明治初期に510坪の土地を買い、60坪の家と40坪の納屋を建てた。水道も水洗便所も電気もなかったが、広々とした屋敷でゆったりとした生活をしていたのではないかと思う。しかし、今の中国都市市民ほどのハイテク製品に取り囲まれた、いわゆる文化的な生活とは縁遠かった筈だ。だが、今日の高度消費生活を知らなかった曽祖父には、飢餓意識も少なく、恐らくは十分に満ち足りた人生だったろうと推定している。

   幸福感とはあくまで相対的なものだ。物質的には豊かになった中国人も、今や情報洪水に襲われ、先進各国の豊かさを知れば知るほど、せっかく手にした幸福感を剥ぎ取られているのではないかと、懸念せざるを得ない。

[2]日中の高度成長の違いは何か。

   敗戦後、日本に残ったのは、高い教育を受けた労働力と彼らが持っていた技術力だけであった。この2つこそが加工貿易を支え続け、国力の蓄積へと繋がった。その結果、独力で先進国に追いついたが、国内需要も飽和し、今や経済成長は実質的に止まってしまった。

   一方、中国にあったものは、土地と未熟練労働力だった。しかし、資本と技術を海外に依存できた結果、急成長した。海外各国に取り、安価な労働力を活用できる中国での生産活動は大変魅力的だった。しかし、そろそろ中国での供給力が先進各国の需要に追いついたようだ。今後の中国への投資は、中国の国内需要を当てにした特殊な分野に絞らざるを得なくなりそうだ。とすれば、中国の成長を支えた資本の流入が減少し、意外な速さで成長の頭打ちが到来しそうだ。

   経済成長が頭打ちに至った時点での、国民生活の水準は国ごとに異なる。他力依存で成長している中国の頭打ち時点での生活水準は、自力依存の日本よりもかなり低い水準になると予想せざるを得ない。人件費が先進国の水準に近づくにつれ、中国での生産に、外資が魅力を感じなくなるからだ。

   中国が先進各国の生活水準に追いつくには、今後は自力による資本蓄積に軸足を移さざるを得ないが、9億人とも言われる膨大な農村人口の扶養が足かせとなり、気が遠くなるような歳月が必要となるような気がしてならない。追いつけそうで追いつけない先進国の存在は、中国人に取り、何時までも何時までも、不幸にして続きそうだ。

[3]日中の補完関係の強い絆は両国の宝だ。

   今や日中の輸出入に基づく補完関係は米中と同様、中ソとは比較できないほどの密接な間柄になるまでに至った。加えて、日本人観光客の中国への殺到振りは、史上空前の勢いを増し、国民レベルでの接点は全面的に広がる一方だ。

   結局のところは中国にも、日・米とはいろんな両国関係の課題について、是々非々、つまりは限りなく常識的な妥協点を見つけて対応する以外の選択肢は少なくなってきた。かつてのように、『失うものが、何もないという強み』を徐々に無くしてきたのだ。

   今回(平成13年3月)の米軍偵察機と中国機との接触問題も、大過なく解決しそうだ。恐らくは、日本政府による農産物の関税引き上げ問題も、教科書問題も、落ち着くところへ落ち着くと予想している。良好な補完関係の維持は、面子第一主義の中国政府と雖も、何よりも大事な外交課題になってきたからだ。日韓関係と全く同じような推移を描きながら、両国の和解は今後、一層進むと確信できた小旅行だった。


   蛇足。予期せぬほどに使いやすくなっていたパソコン

   今回初めてマイクロソフトのWordを使って長文を書いた。平成7年夏に購入して以来、使い慣れていた東芝のRupo(JW06P)と比べれば、一括かな漢字変換機能はかなり未熟だった。しかし、我がルポのメモリーは少なく、長文モードでも最大48,000字までの制約があった。

   私が何時も採用していた書式(1行37文字、1ページ43行)の場合では、最大29頁までだった。しかもそのファイルは、本体内で3つの小領域に分割管理されていた。60ページの長文を書くときには、3つの長文に分割して書き、その一つ一つをフロッピーに保存し、最後に全体を繋いだ。推敲の際に1文字でもはみ出ると、全体を連続して繋ぎ直す操作は大変面倒だった。

   我がパソコンのメモリー(128MB)は本旅行記(429KB)の執筆位では無制限にあるのと同じだ。全体の編集作業は不要になった。ワープロとしての使いやすさは、古いワープロ専用機にも敵わないが、メモリーの制限をはずされた利便性は大変大きい。しかも、本体内臓のハード・ディスク(40GB)はフロッピーよりも読み書き速度が速く、大変使いやすかった。

   また、同時に買ったキャノンの高速プリンター(BJS600)は、3行同時印刷のRupoよりも、印刷速度が更に10倍も速く、印刷時間が全く苦にならなくなった。しかもワープロで使う感熱紙よりも紙代が安く、印刷結果は感熱紙のように変色もせず、長期の保存性も高いと言うおまけ付きだ。この分野の技術進歩の速さに、改めて驚く。
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