本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
ヨーロッパ
イタリア(平成12年5月19日脱稿)

   60歳代の友人達との会話に海外旅行談義が増えてきた。大抵の国には好き嫌い両者がいるが、イタリアについては『良かった』と例外なく語る。何故?。古代ではエジプトやギリシア、近世ではスペインやポルトガルが1回だけ輝いた。イタリアのように、人類史で2回も世界的な功績を残した国は少ない。   

   ローマ帝国とルネッサンスはその誇りである。ヴァチカンはイタリアから独立しているが故に、欧米のキリスト教世界の、国家を越えた精神的権威を今尚保持している。

     そうだ!。イタリアには、底浅き自称ハイテク日本が逆立ちしても、敵わない魅力がありそうだ!。
上に戻る
はじめに

   定年前の10年余はトヨタ自動車の海外生産部門にいた。その結果、海外出張にも恵まれ、『禁断の木の実』程ではなくとも、海外旅行の醍醐味を知る機会を得た。その体験の故か、余生の過ごし方の方針も徐々に固まってきた。即ち荊妻との世界漫遊だ。年金生活者の特権は日本特有の観光旅行シーズン(正月・春・盆)を意図的に避ければ、格安で海外に行けることにある。海外諸国のベストシーズンと日本の人為的な連休とには何の関係もないので、好都合この上もない。

   しかし、好事魔多し。荊妻は20年以上も講師を続けている専門学校が廃校になる(平成13年度末)までは、義理もあってか仕事を続けると言う。あと2年の我慢。やむなく友達を誘い、荊妻が旅行済みの国へと出掛け続けた。

   今回は2千年紀祭(大世紀祭)で賑わうイタリアを目指し、資料集めを開始。『イタリア18都市13日間24万8千円コース。新日本トラベル』を直ちに発見。海外旅行に関心のありそうな友人に次々に声を掛けたら、香港・マカオやムガール帝国にもご同行頂いたゴルフ仲間の『天様』と、同じくゴルフ仲間の『間様ご夫妻』の同意を取り付けた。2人ともトヨタ自動車の大先輩だ。

   今回のルートは名古屋⇒成田⇒ミラノ、ローマ⇒ミラノ⇒成田⇒名古屋。往復ともに日本航空。昔は格安海外旅行は発展途上国の飛行機が多かったが、最近は日本航空も全日空も多くなった。因みに昨年のムガール帝国行きは全日空だった。今回は期間が長いので、何時もの『山崎』の代わりに『オールド・パー』の1㍑瓶を購入。山崎には1㍑瓶はないのだ。

   ご同行頂いた唯一のお礼に、この旅行記を無理やり献上する予定だ。果たして、最後までお読み頂けるような内容に仕上がるか、些か不安である。
上に戻る
イタリア史のトピックス

   イタリアの歴史書を、この歳に至るまで通読したことはなかった。高校時代の世界史(大学入試では受験科目としても選択)に出て来るイタリア史は、ローマ帝国・ルネッサンス・イタリアの統一が主たるテーマだった。その結果、我が頭には切れ切れの情報しか入っていなかった。何時もの体験だが、訪問国に関する事前勉強をすればするほど海外旅行は楽しくなる。豊田市中央図書館に早速出かけたが、開架式書棚にはイタリア通史の本はなかった。あるのは各都市別の歴史書ばかり。例えば『ベニスの歴史』。               

   やむなく、閲覧室備え付けのパソコンで情報を検索したら、誰も読まなかった立派な装丁の歴史書が書庫に眠っていた。イタリアの学者6人が共同執筆した全3巻からなる教科書(中学生用。1年に1巻を学ぶ。A4版合計 916ページ)の日本語訳だった。『その国の歴史を学ぶには、その国の著者の本がベスト』とは何度も体験していた。        

   『その国民が、自国の何に誇りを持っているか』が良く分かるだけではない。日本人との歴史観の差も鮮明だ。その他にも観光ガイドブックなどを8冊読んだ。何時もの事ながら、観光目的のガイドブックには今回も失望した。現物を見れば瞬時に意味が分かる程度の内容だ。こんな本を熟読し過ぎるのは、現地で遭遇した時に生じる感動を減ずるだけで、有害無益。役立つのは添付されている道案内の地図と写真位だ。私が求めるガイドブックとは、個々の観光資源に関する歴史的意義や評価に深く触れた本である。

[1]ローマ人の功績は2つ

   イタリアの歴史に大きく貢献した先住民はギリシア人とエトルリア人(ルーツは小アジア=現在のトルコらしい)である。ギリシア人は学問をローマ人に伝えた。ローマ人自身の学問的業績は乏しいが、ギリシア人が成し得なかった大帝国の建設に成功した。また、ローマ人はエトルリア人からは素晴らしい建築技術(アーチとドーム)を学び、ギリシア人が成し遂げ得なかったインフラも完成させた。 

   蛇足だがエトルリア人の文字は、今なお残念ながら未解読の儘である。考古学者よ、歴史学者よ、言語学者よ。それでも学者と自称するのか?。『恥を知れ。もっと頑張れ!』

[2]ギリシアとローマの建築技術は、根本的に異なる

   ギリシア建築の典型例は大神殿パルテノン(アテネ)である。その基本構造は柱と梁とから構成されている。柱は円盤を積み重ねれば、いくらでも高くできるが、梁の場合は上部に圧縮応力、下部に引っ張り応力が作用するため、ひび無し材の使用が原則。その結果、梁として使える長尺石材の調達には資源の制約を受ける。

   しかも石材は長くなればなるほど重くなり、建築時に持ち上げるのも大変だ。結局、短い梁を多用した建物内には柱が必然的に多くなり、開放感に乏しい。地下鉄の構内のようだ。或いは戦前に建設された鉄筋コンクリート造りの、暖簾を誇る名門百貨店の各本店のように鬱陶しい。

   材料に圧縮応力のみが作用するアーチを使えば、たといひびが入ったレンガであろうとも、長大なスパン(10m以上)の構造体も建設可能だ。その典型例がローマの水道橋や大浴場である。小さな石材も使えるので資源量は飛躍的に増加する。その後の巨大な教会やモスクの建設は、このアーチ技術抜きには語れない。

   アーチの3次元版がドームである。ギリシア人は山の斜面を擂(す)り鉢状の扇形に造成し、階段状に石を積んで観覧席にした大劇場を建設。その典型例はベルガマ(トルコ)の大野外劇場だ。87段もの最上階から舞台を見下ろすと、目も眩む程の高さ。ローマ人の大劇場はコロッセウムに代表されるように、アーチで円筒状の壁面を造り、その内部に逆円錐状の床(床を支えるのもアーチ)を張り、石段を組んで観覧席とした。その結果、立地の制約からも解放され、都心の平地に巨大施設も建設できた。ローマ人は帝国の各地に円形劇場を建設したが、アスペンドス(トルコ)の劇場ほど保存状態が良い大型遺跡はない。

   ドーム技術の導入により、巨大な空間を有する大神殿も出現した。ハドリアヌス皇帝によって紀元 128年頃に再建された、ローマの大神殿『パンテオン』のドームは直径が何と43.8m(投影面積は 452坪!)もある。『人間業に非ず。神の造り賜うた建築』と絶賛したミケランジェロはパンテオンの設計者に敬意を表し、サン・ピエトロ寺院のドームの直径を50cm小さく設計したそうだ。

   このアーチの形状を美しく改良したのはアラブ人である。ペルシア系の建築に多く見られる桃の縦断面のように優美な形のモスクや門がその典型例である。タージ・マハール(ムガール帝国=インド)など枚挙に暇がない。

[3]ギリシア文化の特徴

   ギリシア人の学問は魂・精神・人間の感情、幾何学のような抽象科学の研究に特化し、工学的な技術の発展への貢献は乏しかった。奴隷が安価に使えたので技術開発のニーズがなかったのだ。

   ギリシア彫刻は美しいが、それらには人間の感情が表現されていない。ギリシア彫刻のテーマは一貫して神の可視化にあった。最も美しく感じる人間の姿を神と仮定したのだ。一方、ルネッサンスの彫刻や絵画のテーマは人間の復活にある。サン・ピエトロ寺院正面入り口右側面にある、ミケランジェロの『嘆きのピエタ』には、聖母マリアの悲しみが溢れているが、『ミロのビーナス』の顔には感情が現れていない。『モナ・リザ』には、見る人を小馬鹿にした傲岸不遜な悪女の目付きが表現されており、女神をどこにも連想させない。

   ギリシア人は『国家とは小規模であるべき』と考えていた。構成人が互いに議論し管理できる大きさ、都市国家(ポリス)が最適と考えた。その結果、大帝国を建設しなかった。アレキサンダー大王は大帝国は造ったものの、死後たちまちにして崩壊した。大帝国の管理技術が未熟だったのだ。因みに政治の語源はギリシアのポリスに由来する。

[4]ローマ帝国  

   ローマ人の最大の功績は、世界帝国の建設とその運営技術の創案にあった。ローマ帝国はローマの支配下に編入した属領とは個別に軍事条約を結び、属領同士が軍事条約を結ぶのは厳禁した。その代償として軍事道路を建設し、属領の保護には全力を投入すると共に、敵対勢力には完膚なきまでに攻撃の手を緩めなかった。

   例えば、地中海貿易の覇権を争ったカルタゴとのポエニ戦役(ポエニとはローマ人がカルタゴに付けた名前)である。ローマ帝国はローマの方針に従う限り属領の民にもローマの市民権を与え、たといローマ人でなくとも皇帝にすら登用した。例えば、トラヤヌス、ハドリヤヌス、マルクス・アウレリウスである。今日のアメリカの国際政治にローマ帝国を越える本質的な発想はない。ローマ帝国に何と似ていることか!。

   ローマ人は神の探求・科学的研究・美と幻想の追及には、注意も関心も向けなかった。しかし、市民間・市民と国家・国家と国家との関係を規制する法律・規範・条約に関しては世界に冠たる実績を残した。近代ヨーロッパ諸国の法制の基礎ともなった『ローマ法』として今尚、一目置かれる所以だ。

   ローマ帝国の公共事業は今日に於いても注目に値する。道路・橋・上下水道・劇場・神殿・大浴場・公共広場などが整然と整備された。しかも、それらはローマ市内だけにあるのではない。帝国内の主要都市にも建設したのだ。今日、多くの発展途上国で栄えているのは首都だけ、と言うのとは大違いだ。

   翻って我が祖国日本の公共事業は今日に於いても、造っては壊し、掘っては壊しの連続だ。しかも今なお驚くローマの石造りの耐久性には遥かに及ばず、百年使えた設備は殆ど無い。新幹線用鉄筋コンクリート製トンネルの崩壊事故に、右往左往する始末。

[5]ローマ帝国の敵、キリスト教

   ローマ帝国は国家と対立しない限り宗教には寛容だった。皇帝の権限の源泉は西アジアに起源を有する『王権神授説』に依存し、ローマ人は等しく皇帝を神として崇拝させられていた。

   しかし、一神教のキリスト教徒は皇帝の崇拝を拒絶した。ネロのキリスト教徒迫害はまさに、俗界と宗教界の覇権争いであった。キリスト教の公認は 314年皇帝コンスタンティヌスがミラノで発布した『寛容令』に始まる。何と3百年戦争だ。

   昔の時の流れはかくも遅いが、平均寿命は今日の半分以下だったにも拘らず、超長期の公共事業やその耐久性の長さとも整合するのは興味深い。一方、今日の人類には百年単位の発想に乏しい。何と対照的なことよ。

[6]キリスト教の影響例

   ローマ時代のポンペイに代表される春画(正常位より後背位の方が写実的だ。後背位は動物界では普遍的なので、人間の場合でもより自然な体位なのか、それを好む男は多いそうだ)や浴場文化・清潔志向の生活習慣を破壊したのはキリスト教である。人前で裸になるのを悪習と見なした。日常的な入浴の習慣が復活したのは、ペストの大流行を経た後、衛生に価値を認めるようになった、つい最近の現象である。その間、西欧人は不潔悪臭の環境に耐えさせられていた。

   万葉集に見られる原日本人の性風俗や恋愛感情の自由な発露を圧迫したのは仏教である。宗教には人間の自由な感情を何故か規制する傾向がある。げに恐ろしきは宗教の呪縛だ。今日に至って、人類は宗教からやっと離脱し始めた。

[7]イタリアは多民族・多人種国家である

   近代国家は単一民族・単一言語・単一宗教から構成されるものが多い。イタリアも大局的には一見、ラテン民族・イタリア語・キリスト教(カトリック)からなるようにも見える。しかし、子細に観察するとそのようには即断し難い。

   古代のイタリアにはフェニキア人・ギリシア人・エトルリア人が住んでいた。ローマ帝国には地中海沿岸各地の属領から異民族が奴隷と共に移り住んだ。シチリア島は一時イスラム(サラセン)帝国に支配され、アラブ人が侵入。東ローマ帝国のカッパドキアからきたトルコ人は洞窟住居を建設した。ゲルマン民族の移動に伴い欧州各地から蛮族(イタリア人から見た周辺民族)が侵入した。近世になってフランス・スペイン・オーストリアにも支配された。つまり、今日のイタリアには欧州各地・北アフリカ・西アジア各地にルーツを持つ多民族・多人種が住んでいる。

   イタリア北部から南下するに連れ、人相と皮膚の色はドンドン変化する。南部の住民はアラブ人にそっくりである。北欧の白人とは全く異なる浅黒い皮膚だ。イタリア経済の南北格差の大きさは何時も話題になるが、北部の裕福な人々から南部を見れば、同胞意識は薄らぎ、自分達の生活水準を切り下げてまで支援する気にはなれないのではないかと、勘ぐりたくなる程の違いだ。

   西ローマ帝国が崩壊( 476年)した後、イタリアは無数の都市国家に分裂した。夫々の都市国家が固有の文化を育てたため、今日に至るも各地に大聖堂や市庁舎・博物館・美術館・劇場が残されている。国家の統一が早かった英仏では、首都以外の都市には文化遺産が少ない。イタリアとはまさに対照的である。

   イタリアは国家の統一(1870年)が遅れた結果、イタリア語の普及率は95%。少数話者の言語が今尚残っている。

[8]音楽

   音楽へのイタリアの貢献は多大だ。音程を5線譜に記録する楽譜を考案。音程の読み方『ド・レ・ミ…』もイタリア人の千年前の発想。聖ヨハネ讃歌の各行の頭文字からの転用だ。アレグロ、モデラートなど今日使われている音楽用語は殆どイタリア語だそうだ。

   オペラの発案やオペラ劇場の建設、作曲活動などイタリア人の活躍は目覚ましい。ベートーベンなど、ゲルマン民族の貢献は近世になってからだ。

[9]国王は今どこに?

   日本人の書いた歴史書にはどれも『イタリア国王は第二次大戦後、退位された』とのみ記述。退位の理由もその後の事情にも全く触れていなかった。そこに不自然さを強く感じていた。

   イタリアの教科書には、さすがに詳しく書かれていた。イタリアは1946年6月2日、君主制か共和制かを問う国民投票を実施。投票日直前の5月9日、エマヌエーレ3世は王位を皇太子ウンベルト2世に譲位。皇太子は危機に瀕した君主勢力を立て直そうと必死に努力した。

   しかし国民投票は、ファシズムの台頭と戦争を阻止できなかったエマヌエーレ3世の責任を、その子ウンベルト2世にも求めた。その結果、国王一家は国外に追放された。しかし教科書にも、追放先までは書かれていなかった。

   ある時、イタリア人ガイド(添乗員のガイド兼務は法律で禁止されている)に質問した。『国王一家は今どこに?』『スイスです』『戦後半世紀も過ぎただけではなく、今年はイタリアに取っても記念すべき2千年紀。この機会にイタリア国民には、国王一族を故国へお招きする気持ちは生まれないのですか?』     

   『一部の政治勢力にはその気持ちがあります。が、王族を利用しているのではないかとの疑いも持たれ、その動きに反対する勢力もあり、国民的合意が得られるとは思いません。それに王族には十分な生活費が渡してあり、着の身、着の儘で追放したわけではありませんよ!』
 上に戻る
イタリアあれこれ

[1]日伊の差の例

   添乗員がイタリアの特徴を4つ解説した。①自販機がない。『盗難に遭うからである』と説明したが、観光立国として違和感のある物は禁止、との政府の方針ではないかと、私には思えてならない。②コンビニがない。何故なのか理由が分らない。旅行中、飲み水やビールの店探しに追われた。その代わりにバスには冷蔵庫があつた。ドライバーから時には水を買う一方、持ち込んだビールを冷蔵庫に入れさせて貰った。

   ③交番がない。観光立国を標榜しているのに治安が悪い。『おんば日傘』の日本とは異なり、『自分の身は自分で守れ』とでも言う事か!。乞食がウヨウヨ。ローマ市内を散歩中、ジプシー(語源:インド出身の民だが、欧州でエジプト人と誤認されていた名残)が汚い手を差し出して『マネー』と請求。『ノー!』と大声で一喝したら、驚いて手を引っ込めた。

   ④公衆トイレが殆どない。ホテル・御土産屋・レストランで用足しするが、その絶対数は何故か少ない。どこでも行列。あるときトイレ・タイムで立ち寄った御土産屋の便器は1個。一行35名の内、緊急性のある人が用足しをするだけで30分。女性の場合1人につき、2~3分は掛かるようだ。            

   男女の所要時間差を考慮し、便器数の男女比を1:2以上にしているところに出会った体験は今までにないが、イタリアでは男子の小水用の便器がないトイレは多い。男女仲良く共用してくれとの方針か?。日本の高速道路のサービス・エリアほど便器数の多い事例には、外国で今までに出会ったことがない。

   実利的な電線処理技術を発見。日本では電力線・電話線などが蜘蛛の巣のように道路上に張られているが、イタリアでは建物の壁面に張り付け、建物と同じ色を塗り、目立たなくしている。道路に面した建物は相互に隙間が殆どない状態で建てられているため、建物間に張られた電線にも最初は気付かなかった。工事費の高い地中配線にせずとも対策はあったのだ。                  

[2]広場文化

   欧州の都市には大抵広場がある。イタリアの各都市は都心だけではなく、至る所に広場がある。大きな広場から小さな広場まで大きさや形は様々だ。日本には何故かこの『広場文化』がない。日本の駅前広場はバスや車の単なる発着場に過ぎず、似て非なるものだ。皇居前広場は単なる空き地に過ぎない。

   広場は教会・市庁舎・裁判所・美術館・博物館・オフィス・百貨店・専門店・露店などに囲まれた歩行者天国みたいな場所で、終日市民や観光客が集まる。広場の中央は噴水・彫刻・オベリスク・凱旋門などで飾られている場合が多い。

   中でもイタリア人の噴水文化への執念は凄まじい。都市によっては水源地は数十Kmも離れている。浄水なのか、大抵水飲み場も併設されている。惜しげもなく出しっ放しにしている。乾季に節水騒ぎは無いのだろうか?。一方、日本の噴水は循環水が多く汚い。我がロイヤル・カントリークラブの噴水は藻が茂っている上に、青い殺菌剤が投入されていた。支配人に苦情提言。それでも少し綺麗になっただけ。

   日本でこの広場文化に近いものは、巨大なショッピング・センターや地下街の中心部の空間だ。しかし、空がなく開放感もない。日本各地の商店街が沈没しているのは、ただ単に駐車場不足が原因とは思えない。人が行きたくなる広場のような場所がないことに、より本質的な理由があると思っている。
                         
[3]大聖堂

   イタリアの各都市には、必ず大聖堂(ドーモ。概してその町で一番立派な教会)があるそうだ。入場料は無料。大聖堂にはその町の『守護聖人』が祭られている。教会の建築様式には、平面図が長方形・ギリシア十字(縦横が同じ長さ)・ラテン十字(縦長)の3種類があるが、ラテン十字型が多かった。

   ミラノ・ピサ・フィレンツェの各大聖堂は総大理石造り。白く輝く外観の壮麗さはタージ・マハールに匹敵する美しさだ。日本では総檜造りを贅沢建築の象徴扱いにしているが、総大理石造りの巨大建築を目の当たりにすると、何と貧弱に感じることか。

   帰国当日、成田空港で10時間も待ち時間があったので、暇潰しに成田山(新勝寺)に出掛けた。正月の参拝客数が日本一のお寺である。大聖堂を見た興奮が未だ覚めやらぬ目に映った成田山のみすぼらしさ(鉄筋コンクリートにペンキ仕上げ)にがっくり。

   大聖堂に限らず、欧州の巨大な教会の建物は壮麗だが、何故か境内がない。一方、日本のお寺には素晴らしい庭園がある。古い木造建築に壮麗さはなくとも、その優美な美しさは世界に冠たる(北欧の世界遺産に登録されている木造教会などに比べて)ものだ。庭園を歩けば心も安らぐ。欧州の公園(例。ハイド・パーク)は日常の単なる寛ぎの場に過ぎない。神社仏閣の庭園は外国人に、自信を持って、もっと宣伝する価値があると確信した。  
                       
[4]市庁舎

   イタリアに限らず欧州各地の市庁舎は皆同じ形に感じる。英国の国会議事堂の小型版だ。都心の広場に面し、百m前後のタワーがあり、時計か鐘楼がある。タワーに上ると市街地全体が見渡せるので便利だ。分針がない時計・24時間時計・絡繰り時計など、アイディアを競っているようだ。

[5]行政

   イタリアは州制度を採用しており、県がない。各州都は歴史のある元都市国家が多い。州は日本の県に比べ、どの程度多くの権限を国から委譲されているのかさっぱり分からない。
                    
[6]鉄道駅                               

   イタリアの終着駅(ターミナル)の構造は、日本の駅と大きく異なっていた。ミラノ駅(規模は欧州最大)と再開発後のローマ駅の構造は瓜2つだった。ホームの数は24~26本。そのホーム全体を天井の高いカマボコ形の屋根が覆っている。中央には大きなカマボコ、その左右に小さなカマボコ。ホームの幅は 200m、長さは 400mはありそうだ。                           

   ホームとレール面との高低差は僅か30cm位だ。ホームから軌道面に落ちてもホームに戻るのは簡単だ。その代わりに、客車に乗るには3段もあるステップを登ることになる。車椅子の乗り降りには不便でも、健常者には安全な構造だ。

   駅舎は2階建て。1階には切符売り場と商店とがあり、2階へはエスカレータで上る。改札口はなく、検札は車内。2階のホームまで自由に入れる。ホームの平面図は櫛を横にした形だ。地下道も歩道橋もなく、ホーム間は同じ平面内の移動で済み、全体も見渡せ大変分かり易い。2階には売店(キオスク)が無数にあった。

[7]ホテル事情                 

   イタリアのホテルは政府により格付けされている。等級は星の数で、入り口に掲げられたホテル名の横に明示されていた。今回は4つ星5ヶ所6泊、3つ星3ヶ所5泊だったので、激安パック旅行としては一見満足すべきデータの筈だが、実態は概して異常だった。

   部屋に冷蔵庫がない場合すらある。冷蔵庫があっても中身がない場合がある。(持ち込んだビールを冷やすためにのみ使うから、直接的な不満は勿論ない)。バス・タブにカーテンがない場合がある。カーテンの付け忘れではなく、カーテン・レールがない。ホテル内にはブランド品や御土産等のショッピング街どころか、売店すら殆どない。食堂と部屋のみだ。

   何よりも不満だったのは、8ホテル中、6ホテルでバス・タブにお湯を張るのに20~30分も掛かることだった。お湯は最高温度でも我が適温(43度)よりも低い。蛇口の元が最初から絞られており、全開にしてもチョロチョロ。洗面台やビデのお湯はジャージャーと出るのに、バス・タブ(コックを切り替えて使うシャワーも同じ)の徹底した節水には、驚き呆れる。これでも、サービス業か!と。

   室内にある消耗品は石鹸とシャンプーだけ。硬水なので石鹸の泡立ちが悪く、風呂に入った気がしない。カトリックの大本山ヴァチカンもある国なのに、部屋には常備の聖書(読む気は勿論無いが)もない。部屋には温水式放熱器があるものの、夜間に暖房が切られ、朝は寒い。空調の観念は全くない。

   ロビーでの添乗員によるスケジュールの説明が終われば、部屋に直行。夕食の開始時刻は何時もその30分後に設定されていた。入浴後にビールを飲むのは私の生き甲斐の1つだ。最初の日、『天さん、お先にお風呂にどうぞ』『荷物の整理をしたいから、石松さんどうぞ』の声に甘えて、早速給湯開始。20分後、3分で汗だけ流して飛び出る。

   天さんが『石松さん、3分で風呂から上がれるのなら、明日からも僕に遠慮せず先に入ってね。僕は長湯したいから、お湯は流さないで』と提案された。恐縮の至りだ。私はその後毎日、部屋に入るや否や給湯開始。3分間で汗を流しては、飛び出た。                                

   その代わりに早起きをして、ゆっくりと朝風呂に入り直し、空腹に持参のウィスキーとビールをガッポ、ガボ。たまに天さんが起きられた時には、2人で楽しく痛飲。しかし、大抵の日は天さんは寝た振りをされていたようだ。何しろバスルームとベッドルーム間だけではなく、部屋間の防音対策すらないも同然。何時も隣室だった間夫妻から、私たちの会話は筒抜けだった、と知らされて唖然。

   過去10年以上も自宅でシャワー式トイレを使っていると、紙だけの処置では落ち着かず、旅行中はいつも朝風呂で解決していたが、今回のようにお湯の出が悪いと準備が間に合わない。

   私には入浴前に陰部を洗う習慣はあるが、今までビデとは女性のみが使うものと誤解していた。間夫人に『女性はどんな姿勢で、ビデを使うのですか?』と質問。『人間の骨格は男女とも同じですよ。誰でも同じ格好をしていますよ!』。とうとう、意を決してビデに初挑戦。どのホテルにも、ビデ専用の尻拭きタオルはあった。女性だけではなく、毛深い西洋人男性にも、ビデは必須のようだ。

[8]食事  

   イタリアはパスタ王国。昼も夜もパターンは同じ。最初はパスタ。メインは肉(豚・鳥・牛)か魚料理。その他はパン・サラダ・デザート。結局、生鮮野菜の摂取量が極端に少なく、時々果物を買って補填。

   日伊では団体客への配膳方法が異なっていた。日本では昼食でも夕食でも、盛り付け済みの料理が配膳されている。イタリアでは食器のみが用意されていた。料理は大きな容器に入れ、客の目の前で小分けしていく。調理したてだから暖かいだけではなく、物流が効率的だ。しかし、家畜に餌を配っているようで、同じ内容でも高級感がしない。

   日本国内のパック旅行は温泉と懐石料理中心の食事の贅沢さがセールス・ポイントだが、格安海外旅行は予想通りとは言え、食事と部屋の質では対照的に最低水準。食べる楽しみは剥奪された。飲み物は別途追加料金。ワインは安いがビールは酒屋(小瓶は概ね百円)の数倍もする。何と言う暴利!。

[9]オリーブの収穫法

   アメリカ式サクランボ収穫法は加振機のアームをサクラの幹に当て、平面状に広げた受け面に揺さ振り落とし、樋に流し込んで一気に集めたり、地面に広げたシートで受ける。

   オリーブの実も小さい。山の斜面に植えられたオリーブの木から木へとグルグル巻きにされたネットが括り付けてあった。帰国後、テレビで収穫法に接した。木の下に網を広げ、木の枝を棒で叩いて実を落としていた。殆どがオリーブ油の原料なので、実に傷が付いても何の支障もない。アメリカ式サクランボ収穫法の簡略版だった。
   
[10]高速道路の無停止料金徴収

   日本企業(トヨタ自動車も)は無停止料金徴収技術を海外に売っているのに日本政府は同技術を未だに導入していない。恐らくは、ゲートで働く人達の失業を恐れているのだろう。自動徴収の導入では料金を14%割り引いて普及を促進させるとの案も、ちらほら出始めた。利用者側には通信装置代も掛かるからだ。本技術を導入すれば渋滞が減るだけではない。ゲートの通過効率が上がるとゲート数も大幅に削減(車線数×2?)でき、インターチェンジの造成費用も下がるのは、火を見るよりも明らかだ。

   イタリアでは当技術を既に導入していた。自動支払装置を装着していない車のために、従来法と併用。我が観光バスはノンストップでゲートを通過していた。勿論、ゲート幅は従来のままなので、徐行しながら通過した。時には、従来法のゲートに間違って乗り入れ、バックした後、正規のゲートに入り直した。
                               
[11]観光施設の自動改札

   観光施設での入場券の検札は殆どが無人化されていた。入場券は新幹線の切符に似た磁気カードだった。日本でもようやく普及してきた新幹線や地下鉄の自動改札と同様のシステムだ。イタリアは『習うより慣れろ』なのか、新技術の導入に社会的な抵抗が少ないのか、はたまた外国人観光客が日本の10倍もおり、効率を考えざるを得ないのか?。理由は何であれ、結構なことだ。         

[12]イタリアの車は小さい

   イタリアの都市建設は自動車時代以前に完了している。殆どが石造りのため、家屋の寿命は長い。駐車場の確保は不可能に近く、マンションの住民は路上駐車をしているようだ。路肩にビッシリと縦列駐車。車間距離は30cm以下。私でもこの悪環境下に住めば、車庫入れが上手くなりそうだ。

   イタリアではカローラ・クラスでも大き過ぎる。カローラと軽四輪の中間、正(まさ)しくトヨタの国際戦略車『ヴィッツ』向きの国だ。小型車に特化しているフィアットとの競争が面白くなりそうだ。

[13]テレビ番組

   ホテルのテレビで天気予報のチャンネルを探した。3分割画面表示の放送局を発見。音声と連動している主画面はニュース番組、残りの小画面は天気予報と世界のマーケット情報だった。天気予報では地図に都市名が現れ、絵文字で表示されていた。言葉による説明はなくとも誰でも理解出来る。

   文字情報で表せるマーケット情報はリアルタイム表示。日伊間の時差は7時間(夏時間)。朝の7時に東京の午後2時の様子が分かる。日経平均株価は1分間隔位で更新しながら表示。この時間帯で市場が開いている東南アジア諸国(香港・シンガポール等)のデータも流していた。為替レートも同様。

   朝の貴重な時間帯にニュースを聞きながら、文字情報も読めるこのアイディアは素晴らしい。視聴率を気にするのなら、何故日本の放送局は本システムを導入しないのか理解に苦しんだ。

   NHKの朝の放送では、ニュース・天気予報・マーケット情報は同時には放映されず、見たい情報が現れるまで待たねばならず、もどかしい。恐らく変な規制が存在しているのだろう。『目の不自由な人にも分かるよう、必ず音声で伝えるように』など。仮に我が推定通りだとしても、ニュース放映中に、小画面で天気予報とマーケット情報を流すのはプラスにこそはなれ、マイナスにはならないと思うのだが…。健常者と非健常者との差別になるとでも言うのだろうか?。

   イタリアでも日本のテレビ漫画が吹き変えられて放映されていた。どこの国にも日本漫画は進出している。テレビゲームと並ぶ数少ない文化輸出のようだ。

[14]タクシー

   ローマで自由行動中の体験だ。同行の中年女性2名が『石松さん達が行く所に、私達も一緒にくっついて行っても良いでしょうか?』『どうぞ、ご遠慮なく』との経緯で、6人で行動するようになった。やむなく、タクシー2台に分乗。私と中年女性が相乗りした。

①その1

   ドライバーが『料金はイエロー・リラで払ってくれ』と言う。『イエロー・リラ?。僕が持っているのはこのお札だ』と言って紙幣を見せた。『それは、ブルー・リラだ。色が違う』『イエロー・リラなど見たことがない。どんな物か見せてくれ』と言っても、英語が通じない振りをして見せようとはしない。

   昔、中国では外国人が外貨を現地通貨に交換した時には兌換券(使い残した時、また外貨に逆変換出来る)をくれた。一般の中国人は非兌換券を使っていた。その結果、国営デパート(友誼商店)の価格は2重表示になっていた。建て前上はどちらの紙幣も同価値なのだが、実勢価値は兌換券が2割増し位だったのだ。

   先進国のイタリアでも2種類のお札があるのだろうか?。どのガイドブックにもイエロー・リラについては触れてなく不思議な気がしたが、やっと掴まえたタクシーだったので、多少の差は我慢して『ブルー・リラしか手持ちがない。これでは駄目なのか?』と再確認。『ノー』『仕方がない。ストップ。降りる』と言って、一銭も払わずに降りた。

   後で添乗員に聞くと『噂では聞いたことがあります。リラ札にまだ慣れていない外国人相手に、手品のような早業を使う詐欺です。リラ札は皆良く似ています。例えば、お客さんが5万リラ札を渡すと、これはイエロー・リラではない。と言いながら瞬間的に1万リラ札と取換え、1万リラ札を返すのだそうです。イエロー・リラ札は勿論ありません』。やれやれ。

②その2

   ホテルへ帰るべくタクシーに乗った。メーターを倒さずに走り始めた。『メーターを倒せ』と言っても倒そうとしない。『どの位掛かるんだ?』『4万リラ=約2千円』と言う。『高い。メーターを倒さないのなら、2万リラだ』と走行中に交渉。『ノー。4万リラ』と繰り返すので、怒り心頭に達し、大声で『ストップ。降りる』と言って降りた。

   余りにも興奮していたためか、タクシーの中にカメラを忘れていたのに気付いたのは、次に乗ったタクシーの中でだった』。仲間が『警察に届けたら?』と提案したが、止めた。タクシー番号も会社名も覚えていないからだけではない。『ホテル名は分かっているし、カメラには名札も付けてあるし、善良なドライバーならば、届けてくれますよ。しかし、あのドライバーでは…。』

蛇足

   忘れたカメラは4年前に長女が結婚した時に、買ってくれた物だった。長女が婚約した時に『親としての義務は全部果たした。いわゆる花嫁道具は一切買わない。その代わり、家にある物ならば何を持って行っても良い』と宣言。『パパ、この頃写真には興味がなくなったと言ってたよね』。14年前(昭和61年)13年振りの海外出張の折に買ったミノルタの“α-1”を持ち上げ、『これ貰って行くわ。しかし、カメラが全くないと不便だろうから、代わりのカメラは用意するわ』

   今春から婿がケルンに駐在。長女はトヨタ自動車を退職して孫と一緒にケルンへ。荊妻が早速、電子メールで報告。『安物のカメラ1個で済んで良かったじゃないの?。レンタカーでイタリア旅行中に、トランクに入れていた荷物を全部盗まれた人等、こちらでは色々な体験を聞くわ!』

   写真そのものには今でも関心はないが、この旅行記を書くためのメモ替わりに写真を取っていたのだった。惚けは徐々に忍び寄るようだ。愛用の時計『ロレックス』の代わりに、昨年末にグアムで買った『スオッチ』を今回は使用。成田山で時間を確認した記憶があるのに、どこに置き忘れたのか思い出せない。ロレックスではなくて、良かった、良かった。
           上に戻る
各都市

  今回の旅行で訪れた順番に、記憶に残ったトピックスのあれこれに触れたい。ある本では、ミラーノ、ピーサ、ナポーリ等と、殆どの都市名にローマのように長音を入れていたが、原音に近いのか未確認だ。イタリア人はサッカーの中田選手を『ナカータ』と、発音している。

[1]ミラノ

   ミラノは東に向けて流れるポー川の流域に開けたロンバルジア平原の中部にある中核都市だ。関東平野よりも広く感じる大平原にはまだ未開発地域が多い。イタリアの山岳地帯は北部のアルプス山麓を除けば、概ねなだらかで低く、その気になれば半分は牧草地や麦畑に転用できそうだ。急峻な山岳の多い日本とは大違いだ。活用できる国土面積の比率は英国と日本の中間、50%位か?。

①大聖堂

   総大理石造りの大聖堂は壮観の一言に尽きる。英仏にはこれに匹敵するほどに豪華な教会はない。今夏訪問予定のケルンの大聖堂よりも規模が大きいだけではなく、写真で比較する限り、より立派に見える。エレベータで途中まで昇り、階段を経て屋根の上にも登った。屋根瓦は分厚い大理石の板だ。屋根の斜面で大勢が日向ぼっこを兼ねて寝そべっている。私達には真似たくとも時間がない。

   地下に有料の小さな宝物館があった。教会の権威で信者に寄進させたのだろうか?。ロンドン塔やトプカピ宮殿(トルコ)の宝物に比べれば、都市国家と大帝国の差は歴然。質量共に格が違う。

   大聖堂の真横には日本の水準では小型のデパート(推定売り場面積1万5千平方メートル)があった。建物の外観は豪華だが、内部はハロッズ(ロンドン)同様貧弱だ。都心にあるためか押す押すなの賑わいだった。しかし、我が関心対象となる食料品や超高級品売り場がなく、大型スーパーみたいで目の保養にもならなかった。イタリアも英国同様、デパートよりも専門店に高級品はあるようだ。緑化された屋上にはカフェがあり、満席の賑わい。                  

   空席をのんびり待つ時間が惜しく、若いカップルのテーブルに近付き、相席の同意を求めた。欧州には相席の習慣はないが、外国人だったためか快諾してくれた。大聖堂や夕日を見ながら天さんとビールをゴックン、ゴクリ。ビールには予期せぬ摘みがドッサリ付き、食べ切れない。イタリア人は一杯のコーヒーやコーラで30分以上も粘っている。 
                              
②ガレリア

   大通りで互いに向き合う建物の屋根から屋根に跨がった巨大な半円筒形のガラス屋根と、その中央にガラス・ドームを載せた超大型のアーケードを百年以上も前に12年(1865~1877)も掛けて完成。こんなに立派なアーケードを見たのは初めてだ。ナポリの中心にもこれに良く似たアーケードがあった。ミラノのアーケードを真似たのだそうだ。日本のアーケードは仮設建築に見え、安っぽ過ぎる。

   アーケードの下に確保された大空間は全天候型歩行者天国だ。両側の建物の1階は専門店やレストランだった。通路に張出したレストランのテーブルは満席の賑わい。世界に冠たるマクドナルドもミラノの建築規制の下、あのけばけばしさはどこへやら、やっとそれと分かる地味な店構え。

③スカラ座(スカラ教会の跡地に建設されたのが名前の由来)

   世界3大オペラ劇場と言われる割りにはみすぼらしかった。パリのオペラ座程の豪華さも、ブエノスアイレスのコロン劇場程の大きさもない。付属の博物館の収蔵品にも、さして心が引かれなかった。当時の支配者、オーストリアの横槍で、ウィーンのオペラ座よりも豪華にはできなかったそうだ。

④スフォルツェスコ城

   レンガと石造りの城だが、建設途中の足場の組み立て用に建物や城壁の壁面に穴を開けていた。その穴は開けたまま。遠くから見ると、縦横等間隔に設置したデザイン穴に感じられて美しい。

   水を抜いた堀の跡地の芝生も美しい。日本の城の堀は大抵汚い。水を綺麗に維持する気がないのならば、芝生に変えて欲しいものだ。

   この城のタワーの頂上にはムガール帝国の建物に固有な飾り『キュポラ』がチョコンと乗っかっていた。

[2]ベローナ

   ダンテの像が飾られた小さな広場があった。広場は大き過ぎても落ち着かない。広場には周辺の建物とのバランスを考慮した最適大きさがありそうだ。シェークスピアの作品で有名になった『ジュリエットの家』は今や貴重な観光資源。木造数階建ての豪華な館だ。木造なのに各階に暖炉があった。

   近くには小振りだったが保存度の良い、コロッセオムに似た円形劇場があったが、外から見ただけ。

[3]ベニス(ベニスとその潟は世界遺産)

   ベニスはアドリア海に面した町だ。百余の島があると言われても、島々は無数の橋で連結されているため、島を殆ど意識しなかった。大型バスはイタリア半島側の駐車場まで。数百台もの観光バス群は壮観だ。傍らには乗用車を推定1万台は収容出来そうな超大型ビルもあった。毎日数万人の観光客が押し寄せるそうだ。船で島へ移動。つまりベニスには車がなく、年中歩行者天国だ。

①ゴンドラ遊覧

   狭い水路に沿って移動する数人乗りのゴンドラに乗る。団体の一行単位でゴンドラ群を編成。集団で移動するゴンドラ群の中央の1隻にだけ歌手と楽器弾きが付いた。我がゴンドラ(天さんと間夫妻の合計4名)にその貴重な歌手が乗っていた。『石松さんの質問が怖い!』と言うのが口癖になった添乗員の気配りのようだ。   

   60代と感じた老船乗りは風邪気味だったが、渾身の力を込めて歌った。チップは不要と聞いてはいたが、『石松さん、チップを渡しましょうか。私達の船は特別扱いですもの』との間夫人の一声で、臨時にチップを振る舞った。『ありがとう』と、楽器弾きの女性(歌手の娘?)が、日本語で挨拶。

②リアルト橋

   橋の中央には歩道。それを挟んだ両側に、小さな商店がひしめきあっているユニークな構造だ。フィレンツェにもその上に商店がある橋があったが、日本にはない(きっと奇妙な規制があるに違いないと推定)習慣だ。しかし、商店が邪魔になり橋からの眺望が悪い。イスタンブールのガラタ橋はこことは逆に、レストラン街を中央に配置し、両側は歩道にしている。

③ベネチュア・グラス

   工房と売店とがセットになっていた。古いビルの中に電気炉を持ち込んでいるが、建物外からは分からないよう、美観への配慮は徹底している。

   昼食時に飲んだワイン瓶の色が美しく、間夫人が貰い受けられた。私がその瓶を見せて『これは、ベネチュア・グラスですか?』『………。』。店員には即座に偽物と分かるようだ。

[4]ラベンナ

   雨の中、ダンテの墓を目指す。同行者の中に松葉杖を使う60代の未婚女性がいた。『道中が長いのでダンテの墓は割愛し、近道を通り集合場所まで私が道案内致しましょうか?』と添乗員が提案(私達は現地ガイドが誘導)したが、拒否。身障者には気の毒とは思うが、全員の動きが遅くなり誰彼と無く『ぶつぶつ』。

   現地ガイドによれば、この町の広場の名前は『ケネディ広場』。米伊友好の象徴だそうだが、嘘か本当か未確認のまま。

[5]サン・マリノ

   サン・マリノ(60平方Km)はヴァチカン(0.44平方Km)モナコ(1平方Km)ナウル(20平方Km・南太平洋)に次ぐ世界で4番目に小さな国だが、世界最初に出来た共和国でもある。我が旅も大小合わせて、とうとう累計37ヶ国目に達した。

   ベニスとローマの中間、アドリア海に近い山上の要塞国家だ。観光客のバスや車は城壁外の大駐車場まで。従って城内では車を殆ど見掛けず、歩行者天国と大して変わらない。

   当日は雨。視界を雲に遮られて残念。国全体が観光都市且つ免税都市。狭い坂道の両側には御土産物屋が並ぶ。気まぐれに革製のリュックサックを35$に値切って購入。即日使用開始。飲み物運びが楽賃。山上の城も国家に見合って小さい。博物館に転用されていた。

   欧州にはこの他にも小さな独立国がある。スペインとフランスの国境にアンドラ( 500平方Km)、地中海にマルタ(島国。 300平方Km)、スイスとオーストリアの国境にリヒテンシュタイン( 200平方Km)。小さな独立国の存在理由に関する的確な解説には未だ出会えず、残念。小国を併合するメリットよりも、周辺国との摩擦により失う価値の方が大きいと、大国が判断したのだろうか?。

[6]ピサ

   サン・マリノからイタリア半島を西へ横断し、リグリア海に面したフィレンツェへ。ピサはフィレンツェの直ぐ北だ。

   大駐車場からシャットルバスに乗り換えてピサの斜塔へ。斜塔の倒壊対策工事が始まっていた。中腹にベルトを巻き、巨大な杭にロープで繋いでいる。塔を垂直に戻すと価値は激減するので、その兼ね合いをどの程度にするのか?。地盤工事のやり直し計画が工事壁に描かれているが、作業員も殆ど見掛けず、いつ完成するのやら。危険防止のため、立ち入り禁止とは無念。

   斜塔に隣接して、ここにも総大理石造りの大聖堂があった。これも輝くばかりの美しさだ。堂内には小学生の一団が見学に来ていた。先生の指図通りに素直に行動していた。『おやっ。治安の悪さが有名なイタリアでも、子供の躾教育はちゃんとやっているではないか!』と、驚くと共に、日本の今後こそが思いやられる。西洋人は犬の調教だけに熱心なのではなかった。

   帰国後、愛知県では高校生が『人間を殺して見たかった』との動機から殺人。そのすぐ後に、少年が西鉄バスをバスジャックし、老女を殺害。保険金目当ての殺人事件も相次ぐ。残念ながら日本では、益々物騒な事件が増えそうだ。

   70歳代の独身女性が30分も遅れてバスに帰着。私は『待たされた同行者に、ご挨拶をなさったら』と発言。ある女性が『“時間です。戻りましょうよ”と声を掛けたのですが“折角ここまで来たのだから、この洗礼堂も見ていくわ”と答えられた』と、私に後で耳打ち。彼女が独身だった理由を聞かされたようなものだ。

[7]フィレンツェ

   雨の中、メディチ家の大遺産、ルーブルを越えるとも激賞されるウフィッツィ美術館入り口で2時間も待ったが、入場の見込みが立たず諦め。ピサでの出発が30分遅れになったのが祟(たた)った。

   自由行動になり、大聖堂の見物に出かけたが、こちらも入場待ちの行列が長く、建物の外側を一周しただけ。しかし、総大理石造りの威風堂々たる姿には息を飲んだ。装飾過多のミラノの大聖堂よりも、こちらの大聖堂により荘厳さを感じた。

   ベッキオ宮殿前には、ミケランジェロの『ダビデ像』の複製品が飾られていた。いくら立派に見えても、模造品と分かってしまうと、立派なダッチワイフ同様どこか白々しい。

   ダビデ像を展示するために建てられた『アカデミア美術館』へと急ぐ。閉館直前だった!。ダビデ像は、その高さにバランスさせたドームの中央に安置されていた。この像の唯一の欠点は身長との比例関係から推定される大きさより、意図的に陰茎が小さく作られている点にある。                   

   しかし、これを見た多くの男性は、お風呂の鏡に写る同じポーズの我が身を眺めながら、筋骨隆々たる姿がそこにはなくとも『ダビデよりも大きくて、良かった、良かった』と、無意識のうちに自己満足しているのではないか?。

   蛇足…ダビデが背中に垂らしている細長い物体はタオルではなく、敵を攻撃した時に使った鞭。

[8]シエナ(歴史地区は世界遺産)

   町の中心部にあるカンポ広場は貝殻状の形をしており、且つ全体が緩い傾斜面になっている。ガイドブックでは『世界一美しい広場』との風評を引用していた。斜面には観光客が思い思いのポーズで座っている。そこからは町の景色が一望出来る。広場の輪郭曲線に合わせた形状の古いビルが、スカイラインも揃えて建ち並んでいる。1階には御土産屋やレストランが入っている。典型的な広場のパターンだ。

   帰国後、テレビでカンポ広場でのお祭り行事を見た。砂を撒き競馬場としても使っていたのだ。ここにも大聖堂などがあったが、段々と飽きてきて、感動が薄れるばかりだった。

   広場の一角には 400段の階段からなる高さ百メートルの塔があった。頂上からの景色は、ローテンブルク(ドイツ)にそっくりだ。美しい田園風景がどこまでも、なだらかに広がっていた。

   新京都駅ビルには巨大な屋外階段があり、観光客が座り込んでいる。階段を上へ昇る手段としてだけはなく、展望台としても使っている。カンポ広場やスペイン広場に似ており、日本版『広場』の始まりになるのだろうか?。

[9]アッシジ

   丘の上にあるサン・フランチェスコ大寺院が観光の目玉だ。珍しさは建物の構造にあった。3階建てなのだ。1階毎に床も天井もある。今までに見たどんなに巨大な教会でも、天井が1つしかない平屋建てだった。たとい2階があっても、回廊に過ぎなかった。何故、この教会は3階建てにしたのか、理由を聞き忘れた。敷地にゆとりがなく、上へと延ばしたのだろうか?。

   夕方、若干の時間があった。ドライバーの特別サービスで麓のスーパー兼御土産物屋に出発。イタリア風マツタケ・乾燥トマト・トリュフの瓶詰・トリュフの加工品・生ハム・ソーセージ・ビールなどを買い集めた。御土産は面倒でも、その時その機会に買わないと、チャンスを失う場合が多いからだ。         
       
   アッシジのホテルは大寺院のまん前、見晴らし抜群の位置にあった。私達には、2階で且つ唯一広々としたベランダが付いている、最上級の部屋が割り当てられていた。翌朝出発時に玄関先からホテルの部屋を見上げた時に気付いたのだ。ベランダから眼下の夜景を、酒を呑み飲みじっくりと楽しむチャンスを失って残念。

[10]ローマ

   ローマ市への大型バスの乗り入れは混雑防止から禁止されていた。途中で中型に乗換えた。我がバスは空のまま、バーリへ直行。道路の渋滞でローマへの到着が遅れ、車窓からの市内観光は省略。ローマ駅前で現地日本人ガイドと合流。

   『私達は自由行動したいから、集合場所と時刻を教えて下さい』と要求すると、『自由行動は危険です。私に付いてきて下さい』『パンテオンまで出かけたい。歩いてどのくらい掛かるか?。タクシーでは?』と聞くと『物理的に不可能です』と答え、何を聞いても曖昧にし、三越まで連れ込む。ここでやっと最後の集合場所を白状。

   天さんとすぐ近くの大聖堂に直行した。現地ガイドはあらゆる努力を払ってでも三越に連れ込み、リベート稼ぎを狙っていたとしか、思えない。最終日に分かったことだが、パンテオンに行く時間は十分にあったのだ。

   今回に限らず私は欧州各国での現地日本人ガイドの行動には度々失望している。ガイドの供給源は①日本人駐在員夫人②国際結婚をした日本女性③留学生と自称する留学生崩れが殆どだ。ガイドに生き甲斐を求めた専門家では無く、日本語が使える強みでアルバイトをしているだけだ。勉強不足だけではなく、マナーも悪い。

   一方、現地人ガイド(現地人と言う言葉には、蔑称が何となく感じられるので、本当は使いたくはないのだが…。理由:ジャカルタの現地人とは言っても、ロンドンの現地人とは無意識でも使わないからである)は、たどたどしい日本語を使いながらも、必死に責務を果たすから、遥かに好感が持てる。

[11]バーリ

   旅行案内には『ローマからバーリまではイタリア新幹線を利用する』と明記されていた。ところが実際に乗ったのは普通切符を使う急行だった。イタリアでは、新幹線とインターシティのみは特急券が必要だ。旅行社には契約違反で旅費の一部返還を請求出来るが、面倒なのでやめた。

   汽車に乗り込むと我が席には中年女性が乗っていた。車両の一番端だったので、壁との間にトランク置き場があった。『そこは私の席だ』『私は自分のトランクを見張るため、ここに座っている』。大声で『出ていけ』と一喝。しぶしぶ女性は立ち上がった。トランクは別人の物だった。イタリア人に対しては何時も一切の妥協をせず、毅然とした態度を通した。彼等は横着なのだ。

   この急行は最高時速 130Km位の速さだ。4時間半(497Km)も掛かった。椅子の方向を変えることも出来ず、進行方向に背を向けたまま。車両内に2個あるトイレの一方の鍵は壊れていた。車掌が何度も乗客に呼び付けられた。

   列車内のトイレが込み、つい行きそびれた。バーリの駅前でバスに乗車した直後、何となく前途に不安を感じ、駅のホームにあるトイレを使うべく引き返した。ここの駅も、ホームへ出るまでに改札口はない。同行者を待たせてはならじと、キョロキョロしながら脱兎のごとく走った。その時である!。

   トイレの場所を質問もしないのに、擦れ違う人々が『あちら、あちら』と指差す。苦もなくトイレに到着。何故、人は我が目的に気付いたのだろうか?。ホームに列車はないので、『トイレを探している』と瞬間的に分かるのだろうか?。

   バーリの町は亜熱帯の雰囲気だった。エーゲ海沿岸のトルコの都市にそっくり。街路樹は背の高い椰子。車窓からの通過見物だったので、印象は浅い。心は既に目的地、アルベロベッロに飛んでいた。

[12]アルベロベッロ

   アルベロベッロはユニークな形の民家で有名だ。屋根が全て円錐形になっている。しかし、家の底面は使い易い矩形だ。屋根は地元産のねずみ色のスレート板を積み重ねて葺く。建築資材は石灰岩。外壁は2年毎に漆喰で真っ白に塗り直すそうだ。道路の清掃は徹底している。石畳を毎朝水洗いしている。家に大小の差こそあれ、同じ建築様式で統一され、地区全体が観光資源となっている。

   傾斜地に立ち並んでいるため、全体を一望しやすく、お伽の国のように感じる。一見、トルコのカッパドキアに似ている。但し、カッパドキアの場合は、浸食された岩の形がここの民家に似ているのだ。

   ここの住民は自宅で御土産物を売っている。当日の現地ガイドはイタリア人と結婚した日本女性だった。最後には皆を自宅見物に案内した。家の形は奇妙でも生活に不便な様子は見受けられなかった。彼女の最終目的は御土産品の販売だ。彼女の口車に乗って3500円の黒いワインを1本買った。同行者の購買意欲は凄まじい。アッと言う間に推定20万円も売れたようだ。

   ここが、世界遺産に登録されていないのが、不思議な位だ。世界遺産として登録するニーズを感じないほど、既に有名になっているためだろうか?。

[13]マテラ

   トルコのカッパドキアのキリスト教徒がイスラム化の圧力から逃げ出し、渓谷沿いの岩山を繰り抜いて岩窟住宅を造って住み着いた。岩窟住宅の構造はカッパドキアの民家に大変似ているが、こちらにはカッパドキアにあるような地下都市はない。岩山を掘って教会も造った。

   『岩窟住宅は国辱もの』とイタリア政府は判断し、居住を禁止したそうだが、現在でもあちこちに人が住んでいた。全盛時の住民は2万人もいたそうだ。観光地として宣伝するのなら、人が住んでいる方が現実感があって魅力的と思うのだが…。一部地域には水道や電気もきている。洞窟住宅が御土産屋になっているだけではなく、周辺にも観光客相手の店が続く。

   この近辺では、果物が採れるサボテンの自家用栽培が盛んだ。サボテンの実は夏ミカン大となり、スイカのように2つに切ると薄い白色の断面が現れる。その果肉の中には胡麻粒大の黒い種が無数に入っている。種ごと食べるが甘みはやや少なく、水分が多く、シャキシャキとした歯触りは梨に似ている。果皮は暗赤色で、表面には大きな鱗状の突起がある。皮は薄く重量の90%以上も食べられる。

   10年前にベトナム土産に空港で買ったことがある。数年前からメキシコ産が輸入され始め、シーズンには豊田そごうでも1個5百円位で販売している。

   マテラの市街地には樹木が茂る小公園があった。ベンチに腰掛けた大勢の老人(男)がお喋りに夢中だった。女性は外には余り出ないそうだ。『男は外に、女は内に』とのアラブの習慣にそっくり。心なしか人相までアラブ人そっくりに感じる。若い頃に苦労したのか、深い皺と日焼けした肌が痛々しい。   

[14]サレルノ・アマルフィ海岸

   移動途中車窓から海岸都市サレルノを見た。イタリアのどこにでもある海岸都市の典型的な風景だ。大型バスの乗り入れ規制が始まり、風光明媚なアマルフィ海岸へは行くこともできずに、ソレントへ。同行者は『羊頭狗肉』とぶつぶつ。

[15]ソレント

   ソレントは断崖絶壁の狭い場所にできた町だ。見晴らしが良い。ナポリとヴェスビオス火山も目と鼻の先だ。あちこちで既に巨大な建築物を見ていたので、地方の小振りな建物には歴史的な価値がいかにあろうとも、心に時めきを感じなくなって終い、残念。

   7年前の銀婚旅行の際には聞けたナポリ民謡『帰れソレントへ』を、夕食時に給仕の誰もが歌ってくれず、がっくり。『JTB』と『新日本トラベル』との料金格差を時々思い知らされた。

[16]カプリ島

   ソレントから丸見えの小さな島だ。イタリアのどこにでもあるような観光都市だ。断崖に沿った一本道の両側に店が続く。ここの特産はレモン酒だ。アルコール度数に20%と32%とがあった。試飲コーナーもある。アルコールの作用は意外に強い。2本買った後、『買ったんだ』と強調して、試飲を更に続けたら、微酔い加減になった。

   カプリ島の目玉は『青の洞窟』だ。ボートに分乗し、小さな入り口から洞窟に入る。入り口の天井は低く、波が引き水面が下がった瞬間、船頭がサッと船を動かす。私は仰向けに寝ていた。

   洞窟の面積は千坪足らず。天井は10m位。水は澄み切っていた。目が暗闇に慣れた頃、一斉に喚声が上がる。入り口からの明かりが水中で散乱した結果、水が青い宝石のように輝いているように感じられたのだ。こんな幻想美に接したのは生まれて初めてだ。曇りの日だったのに美しかった。快晴だったらどんなに美しかっただろうか?。ふと、狭い膣から子宮内へと逆戻りしたら感じるであろう安らぎを連想。

   『船頭が歌のサービスをした場合にのみ、チップを渡すように』との回覧メモは最後までは、読んでいなかった。字が小さく老眼には面倒臭かった。我が船頭は歌いもせずに、『チップ』と降り際に向こうから請求。千リラ(55円)を渡す。洞窟入り口に差し掛かった時、天井を手で押さえながら船を沈め、無事に通してくれたのを下から見上げたのを思い出し、努力には敬意を表した。
                     
   ベニスもカプリも船頭は若者だった。重筋作業に青年達が全力投入。統計上では10年以上も前から、一人当たりの国民所得でイタリアは英国よりも上になってはいるが、今なお信じ難い。単なる為替レートの不整合ではないか?との疑問が晴れない。昨今のユーロ安ポンド高で両者の地位が逆転すれば、当然と思う。

[17]ナポリ(歴史地区は世界遺産)

   ナポリの治安は悪いとかで車窓からの見学だ。しかし、治安を口実に観光業者が手抜きをしているように思えてならない。

   夕方。時間に余裕があったので、タクシーで都心に向かった。都心は押すな押すなの人込み。ジプシー風の大道芸人が家族総出で人形劇を熱演。しかし、小道具が余りにもみすぼらしく、臨場感を欠く。乞食の多さにも驚く。わずか30分位で20人もの乞食に出会う。

[18]ポンペイ

   2回目の訪問だが、観光客は激増。自由に歩くことすらできない。大浴場・豪邸・売春宿等の建物に入るには長い行列があり、割り込み防止に専任者がいる始末。余りの混雑のため、前回は見たポルノ画や、苦痛に歪む人体(火山灰に埋もれて肉体は消滅。その後に出来た空洞に石膏を流し込んで取り出した人型)との再会も割愛させられた。

   ポンペイの価値は当時の生活がタイムカプセルのように凍結されていたことにある。当時の選挙制度から庶民の生活に至るまで、証拠をもとにしてかなり詳しく推定されている。

   ポンペイからローマまではバス。しかし、大型バスはローマに入れないので我が一行は途中でドライバーと別れる予定になっていた。旅慣れた老夫妻のご主人が『石松さん。チップを集めてドライバーに渡すのはいかがでしょうか?。実はご祝儀袋は用意させていただきました。一人1万リラ位ではどうでしょうか?。皆さんのご意見を聞いていただけないでしょうか?』

   『大賛成です。但しチップの額については添乗員の意見も聞きたいと思います。日本人はチップを出し過ぎる傾向があり、各国で鴨にされると同時に、顰蹙も買っています。同行者には私がマイクで声を掛けます。所でお名前をお伺いしたいのですが』『それは、勘弁して下さい』

   『ドライバーさんにチップを差し上げたらいかがでしょうか』と、ある方からご相談を受けました。奥様が銀座の店の名前が入っているこのご祝儀袋を、ご用意されていました。お名前は教えていただけませんでした。私の先輩である天さんは『あの方の奥様は陰になり日向になり、松葉杖のお婆さんに肩で力を貸しておられていました』と、教えてくれました。                 

   10日間交替運転手もなく、2千キロも安全運転に徹して頂いたのでチップを差し上げられればと、僣越ですが提案させて頂きます。添乗員と相談した目安は、お一人5千リラ(合計約1万円)です。この提案への賛同者だけを対象にしていますので、くれぐれも誤解なきようにお願いします。1万リラ札を入れて袋の中から、お釣を取り出されるのも差し支えありません。チップは別れ際に袋に入れたまま、添乗員さんから手渡しして頂きます。では、回覧致します。

   後で老紳士から、丁重なお礼の言葉を頂き、恐縮してしまった。

[19]ローマ(歴史地区は世界遺産)

①ヴァチカン(世界遺産)

   早朝、ヴァチカン美術館に到着。またもや長い待ち行列にうんざり。彫刻・絵画・壁掛け等の貴重品にも驚かなくなった頃、ユニークな天井画に出会った。平面に描かれた絵なのに彫刻のように3次元的に浮き上がって見えるのだ。まるで立体映像のようだ。影の付け方と遠近法の活用で錯覚するのか、理由が分からない。

   2千年前の彫刻群の中に『自由の女神』の原型(人身大)があった。自由の女神にはモデルがあったのだ!。

   サン・ピエトロ寺院の内部は豪華。大きいから威圧感や壮大さは感じても美しさを感じないのは何故なのか?。壮麗な大聖堂を見過ぎたためだろうか?。外観のデザインは単純だ。大理石不足だったのか、石灰岩が沢山使われている。屋外の柱にも輝きがない等と、覚めた目で余裕を持ちながら見るようになったためなのだろうか?。

②パンテオン

   今回のローマ行きで、何としても拝観したかった建物だ。古色蒼然、2千年の時を経て尚、びくともせずにそそり立つ石造り(一部はコンクリート)の頑丈さ。直径43.8mのドームの真ん中に直径9mの穴がぽっかりと開いている。穴の開いたドームを見るのも初めてだ。晴天の夜ならば天国からの光に感じても、雨が降り込む時は気が滅入らないのだろうか?。今までに10万回以上も雨は降った筈だが。

   なお、ローマ人は多神教だった。パンテオンとは全て(パン)の神々を祭る神殿の意。

③スペイン広場

   スペイン広場は狭かった。階段には無数の観光客が鈴なりに座り、立錐の余地もないほどだ。真下の道路には擦れ違えないほどに観光客が渦巻き、タクシーからも途中で下ろされる始末。

   階段を上り詰めたところに教会がありミサの最中だった。特別の日だったのか参列者はみんなオリーブの小枝を持っていた。線香を焚いたかのような匂いが洪水のように入り口から噴き出ていた。

   階段の踊り場からの景色は正しく画材になる。大勢の画伯が絵を描きながら、商売にも精を出す。買う気はないのにジックリと絵を見ていると、客かと誤解して熱心に話しかけて来るので気の毒になる。

④骸骨寺(カタコンプ)

   欧州にはカタコンプと称される骸骨寺がある。銀婚旅行でパリの骸骨寺に荊妻と出かけた時は運悪く昼休み中で閉鎖されていた。私が初めて見た人骨は父の火葬後の姿だった。小さな骨などは姿も殆どとどめない程に完全に焼き尽くされた結果、予期に反し髑髏の怖いイメージはなかった。爾来、完全な人骨を一度は見たいと思い続けていた。

   キリスト教徒やモスレムは土葬が原則。きっと立派な骨があるのだろう、との期待を胸に、やっと辿り着いた骸骨寺は、教会とは気付かない程の地味な建物だった。管理人を兼ねた牧師に『拝観料はいくらでしょうか?』『無料です。しかし、お布施を頂いています』『私はどのくらいお布施を出せば良いのか分かりません。相場を教えて下さい』『お布施は心の問題です。あなたが考えて下さい』と窘(たしな)められた。

   ここには歴代牧師の骨を葬ってあるのだそうだ。大部分の骨はバラバラにされ種類毎に集められていた。壁面には大腿骨が薪のように堆(うずたか)く積まれ、その上に無数の頭蓋骨が帽子のように積み重ねてあった。

   ある部屋では、人骨で天井画が描かれて吊されていた。肋骨は曲線に、幅が広い骨盤は水平に置いて隙間を埋める材料に、複雑な形をしている喉仏は飾りに使われていた。洗い清められ十分に乾燥している骨には匂いもなく、意外に美しく、怖さを全く感じさせない。骨の表面にペンキを塗れば、もっと美しかろうに、と不謹慎な発想が浮かぶ程の出来栄えだった。

   それにしても、不思議な習慣だ。死者の霊を汚(けが)す行為のようにも感じるのだが、生前の希望にも沿っているのならば、異教徒にとやかく言われる問題ではない。拝火教徒の鳥葬を初め、死者の尊厳を大切にする習慣の差の大きさに今更ながら驚く。彼等から見れば、ヒンドゥー教徒や日本の仏教徒のように、死者を火葬にするなどは以ての外なのかも知れない。しかし、膨大な数の骨を眺めていると、仏壇や墓石の前よりも、死者の魂から発せられる声が聞こえてくるような気がしてくる。

   人骨は乾燥するに連れて収縮するのだろうか?。子供の骨ではないかと疑問に思えるほどに、小さく感じるのだ。隣にいた見学者の頭と比べても頭蓋骨が大変小さく見えるのが不思議だった。ミイラも展示してあった。ミイラ造りの習慣はエジプトやシルクロード周辺だけではなく、藤原3代のミイラを初め世界中に普遍的にあるようだ。

⑤トレビの泉

   ここもまた鈴なりの観光客が溢れ、泉にコインを投げ込むだけでも一苦労。何しろ、後ろ向きになって投げ込むのが、ここの流儀だからだ。水は流しっ放しだが、これだけの観光客が集まれば、お釣も十分貰えそうだ。

⑥フォロ・ロマーノ

   ローマ帝国最大の遺跡群だが、残念ながらルネッサンス以降、他用途のために建築資材が持ち出され、廃墟になってしまった。隣接するコロッセオも構成部材が持ち出され、欠けた茶碗のような格好で空(むな)しくそそり建つている。

   石造建築が主体の中東でも、新しいモスクの建設に古い教会を壊して材料を調達したとの話は何度も聞いたことがある。機械力のない時代には、石材の切り出しがいかに大変だったかが偲ばれる。

⑦コロッセオ

   ここにも大勢の観光客が押し寄せていた。切符を買うのに30分近く待たされた。入場制限をしていたのではない。切符売り場の窓口が3つしかなく、捌き切れないのだ。2度目の訪問になる私は、天さんのためにガイドを買って出た。

   さすがのローマ帝国も建設材料調達に困ったのか、同じ強度部材でも場所によって石になったり、レンガになったり様々だ。材料の種類を問わないアーチ技術を、遺憾なく活用していた。

⑧コンスタンティヌスの凱旋門

   以前は門の下にも入れたのに、今回は柵で囲まれていた。文化財の管理では日本よりも観光客の自由な行動を認めていた鷹揚なイタリア政府も、とうとう堪忍袋の緒を切らされたのだろうか?。

   ローマではこの他にも、あちこちの広場や宮殿など天さんと歩き回ったが、同工異曲が多く、我が記憶からは消え去った。

⑨ディナー・ショー

   最後の夜にはディナー・ショーの募集があった。パック旅行のオプションは期待外れが多く、最近は申し込んだことはなかった。添乗員が『石松さん、ディナー・ショーに行かれませんか?。最少催行人員に対し1名不足なのです』。折角希望されている方々を失望させても気の毒、それにローマで特に行きたい場所もなくなったので『天さん、どうされます?』『行こうか』と言うことになり、序でに間夫妻も参加された。

   添乗員に『料金はリラで払えますね』と質問。『日本円です。私が会社に払うことになっているのです』。この時点で『おかしなショー』とは気付いたが、たった8千円だし、面倒だったので行くことにした。イタリアのちゃんとした劇場でのディナー・ショーならば、リラ表示の定価があって当然だからだ。
      
   迎えの大型バスには、ローマで最初に出会った女性ガイドが乗っていた。嫌な予感がした。『劇場はそんなに遠くはありません。大して時間は掛かりません。料理のメインは子牛のビフテキが出ると思います。お客様はドイツ人・アメリカ人・ロシア人と日本人が主ですが、最近はロシア人が多くなりました。今日はドイツ人やアメリカ人は来ないかも知れません』。ガイドは例によって距離や時間に限らず、何でも曖昧な言葉で語るのだ。

   ローマ市内からドンドン郊外へと移動。誰彼ともなく、『どこまで行くのだ』との私語が始まるが、ガイドは一切無視してドライバーとイタリア語でお喋り。私はイタリア通との演技努力が続く。

   やがて、物寂しい駐車場に到着。そこから小さなおんぼろ劇場に入った。客は案の定、日本人ばかりだった。ガイドは外人も来ないことはないと、ロシア人を出汁に使い、徐々にトーンを下げ、同行者の不満を躱そうと工夫していたようだ。

   ある方が『このビフテキは噛み切れない』と発言。間髪を入れず『当たり前ですよ。肉牛業者は子牛は殺しませんよ。余程高値で肉が売れなければ採算が会いません。子牛の肉を売っている店に出会ったことがありません。この肉は乳の出なくなった廃牛です。日本流に言えば、国産牛です』と私。         

   おざなりの歌謡ショーが続く。これでも、ディナー・ショーに違いはないのだ。同行者には『私のカラオケの方が上手い』と、恥じらいもなく、一言。
                                                                上に戻る
おわりに

   今回の旅行ほど『温故知新』と言う表現に隠された含蓄の深さを痛感したことはなかった。今までこの言葉の意味としては『文字で表現された古典』を学ぶ動機付け位にしか受け止めていなかった。大学入学後40年以上もの長い間、最後までまともに読み終わった古典は殆ど無い。四書五経などに代表される古典読破に挑戦するのは、凡人の私には無理だった。

   しかし、イタリアでは『温故』のために本を読む必要は全くない。全国至る所に先人の努力の結晶である『遺跡』が溢れている。『温故』の対象は何も『古典』だけに限定する必要はなかった。たとい黙して語らずの遺跡であろうとも、『論より証拠』『百聞は一見にしかず』の世界に入り込むと、先人から、理想・執念・成果について、あたかも直接語り掛けられているかのように感じるのだ。この時に体験する身震いするような感動こそ、私が無意識に期待している旅の醍醐味だったのだ。

   イタリア人は幸せだ。全国が世界遺産になっても不思議ではないほどの先人の成果に囲まれ、生まれながらにして素晴らしい環境に育つことができる。今回、あちこちで修学旅行中の中学生に出会った。彼等は立派な教科書『イタリア史』で歴史を学んだ後、歴史の生きた証拠である遺跡と対面し、先人を嫌でも敬まわざるを得ない原体験をし、イタリア人としての誇りを持てるようになるからである。

   ヴァチカン宮殿内にあるシスティーナ礼拝堂の『ラファエロの間』に入った時、イタリア人女性ガイドが、赤いチロリアン・ハットを被っていた私に、『帽子をお取り下さい』と苦言。『それなら、貴女も帽子を取りなさい』と言って、彼女の帽子を取り上げた。                         

   『ここで帽子をお取り頂く意味は、先人に敬意を表すことにあります。女性の場合は、帽子は衣服と一体と見なされているため、被ることが許されています』『奇妙な理屈ですね。女性は先人に敬意を表さなくとも良いのですか?』『論理的には貴方の主張に、私は反論できません。しかし、イタリアの伝統だとは言えます。日本でも伝統は大切にするのではありませんか?』

   『ローマに入らば、ローマ人のように振る舞え』『郷に入らば、郷に従え』との有名な東西の諺に、私は盲目的に従ったのではなかった。レオナルド・ダヴィンチ、ミケランジェロと並び称されるルネッサンスの巨人『ラファエロ』の天井画を見上げた時、マナーや伝統が何であれ、『帽子を脱がねば、罰が当たる』との、鳥肌が立つほどの感動が背筋を貫いたが故だ。

   残された人生はそう長くもないが、体力と資金が続く限り、更なる感動を求めて世界をさ迷いたい。エジプト、ケニア、イスラエル、サウジアラビア、イラク、イラン、中央アジア(シルクロード)、スペイン、東欧、ロシア、アラスカ(オーロラ)、メキシコ、ペルー、アマゾン、南極、スリランカ、ミャンマー、カンボジア、ネパール……。天さん、間さん、また出かけませんか?。


* *********追伸(2002-2-6日経夕刊)**********

   イタリア上院は5日、ムッソリーニ政権に加担したとして第二次世界大戦後に廃位、国外追放処分を受けていた旧王家・サボイア家の帰国を禁止した憲法を見直すことを235:19(棄権15)の圧倒的多数で承認した。順調に行けば今夏までには56年ぶりに帰国を許される見通しだ。

   1948年施行の憲法に同家の男子の入国を禁じる条項が盛り込まれたため、同家の子孫はスイスなどで亡命生活を強いられていた。

   同家が欧州人権裁判所に『移動の自由をうたった欧州統合の理念に反する』と提訴したほか、国内でも『入国禁止は時代遅れ』との声が強まった。


* ***********(2002-7-13日経朝刊)**********

   伊下院は11日、伊旧王家男子子孫の入国を禁じる憲法の改正案を可決、憲法改正がほぼ確定的になった。王政を廃止した伊の戦後史に終止符が打たれる。

上に戻る

本文へジャンプホームページ タイトル
旅行記
           
日本


温泉旅行平成24年(平成24年2月20日脱稿)

海外旅行も96ヶ国に出かけたら、疲れただけではなく遂に飽きてきた。無数の世界文化遺産を眺めると、人間の知恵など浅そうで深く、深そうで浅く感じただけ。その価値とは見る者の洞察力次第と悟るに至った。がん治療による5回もの入院に加齢も加わり体力が落ちたとの自覚もあってか、大げさに言えば我が帰巣本能が徐々に覚醒し、国内旅行へと関心が移り
始めた。

   今までも新年会や忘年会などに仲間を誘っては時々近隣の温泉に出かけてはいたが、長期を見据えた計画性には乏しかった。毎週のように顔を合わせるテニス仲間のうち、国内旅行に関心のありそうな人に声を掛けて、3年前から試行開始。平成21年の体験をホームページの旅行記編に『温泉旅行事始』のタイトルで報告。引き続いて平成22年の体験は『温泉旅行平成23年』のタイトルで、同じくホームページに報告した。

   今後も元気な間は国内温泉旅行を続ける価値があると思うに至り、仲間の要望も組み込み、2ヶ月間隔・一泊または連泊を基本パターンにし、1台の車で出かけられる地域の温泉郷を選ぶことにした。おおよそ片道500Km圏内だ。それでも数え切れないほどの温泉郷がある。

   日本の地理・歴史に関しては大学入試(昭和33年)後、まともに勉強したことは無かった。この際、旅行の都度情報も集めながら旅行記に纏め、ホームページに報告することにした。読者の我が祖国への関心を少しでも高め、寂れつつある温泉観光地へ出掛ける動機になることも多少は期待しつつ・・・。

              上に戻る
はじめに

   中部地方は温泉天国。奥飛騨温泉郷・穂高温泉郷など枚挙に暇なしだ。山紫水明とは言えこれらは山岳地帯。一方、伊豆半島の景観には海もあるのだ。伊豆の魅力は温泉湧出量の多さだけではない。各私鉄沿線の観光開発も進み、今や誰もが手軽に楽しめる我が国屈指の温泉郷に成長していた。

   私は子供達が小さいころ、トヨタ自動車の保養所がある富士山麓・箱根・強羅・
熱海などに宿泊した折には、海岸に沿って伊豆半島を何度か一周した。中でも石廊崎の丘の上からの眺めは、南アの喜望峰にある海抜248mのケープポイントに匹敵するくらいだ。アリストテレスに今更指摘されなくても、地球は丸いと素直に納得させられる。しかし、末っ子が中学生になったころから家族旅行の頻度も落ち、伊豆半島にも出かけなくなっていた。

紀元前5世紀にはピュタゴラス派によって、地球球体説が採られていた。完全な形は球だけというのが理由だった。アリストテレスは月蝕の際、月面に丸い陰を作るのは球だけという説明をしている。

地球球体説は、紀元前4世紀にアリストテレスによって証明され、その後アレクサンドリアのエラトステネスという科学者がシエネ(現在のアスワン)とアレクサンドリアの太陽高度の差から地球の周囲の長さまで計算している。

   伊豆半島は豊田市からも近い距離だ。今後もトクーのフラッシュマーケットに注意しながら、出かけるようにしたい。小さな半島なのに天城山脈など中心部に私は出かけたこともなく『伊豆の踊り子』に関連する名所も巡りたい。

フラッシュマーケット

一定時間内に一定数が揃えば、購入者は大幅な割引率のクーポンを取得することができるという手法。たとえば「24時間以内に30人の購入希望者が集まれば、フルコースディナー7400円相当が54%割引の3500円になるクーポンを提供」のような形態をとる。

指定された時間内に最低販売数に到達しなければ不成立となり、クーポンは提供されない。このため購入者がTwitterやソーシャルネットワーキングサービスを使って口コミを起こし、他の共同購入者を短時間のうちに集めるという行為が行われる。

特徴
* 共同購入型クーポン系サイトの特徴は以下の通り。
1. クーポンの掲載期間に時間制限がある
2. 最低購入数と上限数が決まっている
3. 1日1エリア1クーポン

上に戻る
伊東温泉その1

 我が温泉仲間の平成24年の新年会は伊東温泉にて開催した。外気温は低かったが天候にも恵まれ仲間は超満足。我が温泉仲間には一流ホテルでフルコースのフランス料理を食べながらの宴会は向かないようだ。普段着のまま出入りできるところならば、ストレスも小さく心がより強く癒されると体験。私は国内だけではなく海外旅行ですらも、擦り切れたジーパンと履き慣れたテニスシューズを愛用しながら出かけるのが大好きである。

   フラッシュマーケットで人気沸騰中の『トクー・・http://www.tocoo.jp/』への申し込みにも慣れてきた。今回は一泊二食なのに僅か4,150円の『たぬきの里』を選択。昨秋来、トクーの非会員である友人・知人に頼まれて延べ数回・30人弱のたぬきの里のクーポンを我が名義で購入したが、我が温泉仲間と宿泊したのは今回が初めて。

   5階の角部屋二室が割り当てられていた。広々とした入り口・床の間付の10畳二間続き・2面ある窓側の広い縁側からは素晴らしい眺望。籤引きで3人ずつに分かれた。夕・朝食は広々とした特別室でこれまた専属の仲居が付くという特別サービス。一般客は大きな食堂のテーブル席に集められていた。どうして、我がグループだけが特別待遇を受けたのか、支配人の私への感謝の気持ちの一端だろうか? 当日は満室だったそうだ。

 




に戻る
往路
      富士川SAで一服。電線が写真に写らない場所を探した。雪を抱いた富士山の美しさを再認識。新幹線や車中から横目でちらっと見る姿とは異なり、真正面からの眺めだ。



   アルメニアとトルコとの国境の河を見下ろす位置から眺めた、トルコ東部のアララット山に何と良く似ていることか。キリスト教徒がノアの箱舟の伝説にも背中を押されて、最も神聖視している山と思う心境にも納得。

   渇水続きだったのか、名にし負う日本三急流のひとつ富士川も『五月雨を集めて早し、最上川』(芭蕉は何故速しとしなかったのか、私には解らない)とは似ても似つかぬ別世界。その流れはがん患者のように痩せ細って弱々しい。積雪あっての富士山。夏の富士山は見るよりも登る山だと改めて納得。



   トヨタの大先輩中川氏(愛知県在住)の奥様が作られていた千切り絵。同夫人が兵庫県の介護病院に入院されていた故父上を励ますために、連日のように送られた絵手紙は2,000枚を突破したとか。量は質にも昇華。画才は更に磨かれて今やセミ・プロ級。その後は千切り絵にも挑戦されている。写真とは対照的な柔らかい富士山の仕上がりにも感動。



   昼食は沼津魚市場。いつものことだが、胃がん手術で小さくなった胃の一部を夕食用に欲深く空けるために、メニューの選択に迷った。でも、ここは海鮮の本場。数十軒もの魚屋が犇(ひしめ)きレストランも多い。

   評価基準は量より質。私は一貫350円のマグロの大トロなど握り寿司3貫と、どんぶり一杯の蟹の味噌汁。いつもの一皿2貫105円の回転寿司とは一味も二味も違い超満足。仲間の4人は海鮮汁付き・握りずし7貫分の海鮮丼に舌鼓。

   来る5月、今年3回目の温泉旅行は土肥(とい)温泉(伊豆半島の西側・クーポンは購入済)。往路には沼津魚市場に再び立ち寄り、仲間に超人気だった兜煮と大トロの柵(さく)は忘れずに買う予定だ。次回の昼食でも大トロの握り寿司を食べたい。今回見つからなかった世界一大きなタカアシ蟹(獲れた時任せの不定期販売)も食べたい。仲間が多いと品物選びの選択肢が広がり、楽しくなる。



   車中のBGM用になればと今年1月に通販で購入した『懐かしき日本の歌・CD・全7巻・150曲・19,000円』を聴いた。今やカーナビは単なる道案内だけではなくCDの再生の他、テレビ・AM・FMや通信などの多機能製品に成長。スピーカの数も多く車内は一転して高級オーディオルームと化し、旅の疲れすらも癒してくれる必需品だ。

   チェックインするや否や大浴場に飛び込み、部屋に戻るや愚にも付かぬ会話を楽しみながら夕食まで過ごす酒盛りこそが我が旅の最大の目的。魚市場ではマグロの刺身の他に、大きなマグロの兜煮(家庭での調理は実質的に不可能)も購入していた。初めて食べた兜煮の美味しさに驚愕。刺身よりも美味しかった。

   PM8:00~9:00はカラオケルームの無料サービス。宿泊客にカラオケ設備を勝手に使われないようにと、マイクは受付での手渡し管理。初めて聞くこのアイディアに驚く。我が体内時計はいつの間にか5時間もずれ、自宅ではいつも7時に就寝。この日は睡魔と闘ったがカラオケも諦めて遂に8時に就寝。

   私は数年前に1,000曲入りのカラオケマイクを購入し、50インチのプラズマテレビと手持ちの大型ステレオ装置とを繋いで、文部省唱歌や演歌の練習をしていた。でも、一向に上達せず(成績は数字で表される)意欲も喪失。いつの間にかマイクは埃を被ったまま。

   カラオケ嫌いになった理由のひとつは演歌の歌詞にもあった。演歌は普段は曲を音声として聴き流し、歌詞には関心が無かった。でも、カラオケとして練習する場合はテレビに映し出される歌詞を嫌でも読むようになった。

   その歌詞の殆どは、何の努力もしない怠け者の嘆き節に過ぎないと気づいた。多くのカラオケ(演歌)愛好者は自らの人生を人前で嘆く恥ずかしさの代わりに、カラオケの歌詞に儚(はかな)い人生体験を投影しながら愛唱しているのではないか、と今では解釈している。その典型は美空ひばりの『悲しい酒』。
        上に戻る
空(くう)
   
空(くう)・・・愛知県では人気度抜群の日本酒

   空は3、7、11月の3回だけ、予告なしに発売される。県下の酒屋では発売されるや一瞬にして蒸発するほどの売れ行きだそうだ。酒屋では予約すら受け付けず、一人1本の限定販売。松坂屋豊田店でも予約は拒否。確実に入手するには醸造元に出かけて予約させられる販売システムだ。

   とは言うものの空も全国的な知名度では、新潟県の『久保田』ほどではないようだ。でも、各県毎に甲乙付け難い自慢の銘酒が溢れている現在、日本一の銘酒がどれなのか判定は困難なようだ。

愛知県関谷醸造株式会社  蓬莱泉「純米大吟醸」空(くう)
 
上立ち香は果実のように上品に香り、含むと造りの綺麗さを感じながらも程良い甘味が心地よく、引き際はかすかな余韻が可憐。最低一年以上熟成されて出荷されるこのお酒は、落ち着いた味わいが低温熟成ならでは。1.8リットル=7,455円(税込)。720mリットル=3,360円(税込)。

   自宅から僅か600m地点、幹線道路を挟んで向き合って競合している愛知県下大手の酒屋(ビッグとすぎた)の朝日支店の月末恒例の安売り日は、トヨタ自動車の給料日前後の木~日。ザ・プレミアム・モルツも箱買いならば今や2割引(一缶195円)というご時勢にも拘らず、店頭の冷蔵庫に空は決して並べない。来客とのトラブルを防止しながら、お得意様お一人につき1本を売る方針を断固として堅持。

   私はアルバイト店員に倉庫内を点検させて、空の在庫を昨秋偶々発見。4合瓶と1升瓶とを1本ずつ購入。旅の仲間と一緒に飲みたくて、4合瓶は正月にも飲まずに大事に保管していた。旅仲間の酒幹事が同じサイズの湯飲み茶碗を座卓の上に並べ、均等になるように慎重に分けて、乾杯!! 

   私は実は今でも、日本の酒造業界の実態には不信感を持ち続けている。以下のような実態が横行しても咎められない本質的な理由は、酒の品質評価方法が未だに確立されていないことにあると断定している。商売優先・顧客無視の酒造業界の怠慢だ。

   とはいえ、自動車の燃費だって色んな評価法が混在しており、トヨタOBの私は大口を開けて酒造業界の商法を嘲(あざ)笑うこともできないが・・・。海外で日本食ブームが幾ら続いてもこんな実態では、国産の酒類が海外で大規模に売れるはずも無く、ジリ貧となるだけと推定している。
   
日本酒

   水の宣伝・・・。我が社はどこそこの名水を使っていると宣伝するが、名水と称してもその実態は怪しげな単なる湧き水だ。酒造に最適な名水とは何か、どんな無機塩類が含まれておれば名水と言えるのか、の成分分析結果が今に至るまで業界からは公開されていない。

   名水とは何かが解かれば工業的に生産できるはずだ。本当は解っているのだろうが、公表すれば自らの首を絞めるだけなので隠蔽していると邪推している。全国各地の中小酒造業者から掻き集めた地酒を名水の陰に隠れて、灘産と称しての出荷も公然と許されているようだ。消費者を馬鹿にした幼稚なイメージ商法だ。
   
   この種の悪徳商法は他業界にも蔓延しているのが、守銭奴うようよの日本の悲しい現実だ。魚沼コシヒカリの生産量の10倍もの同商品が流通しているそうだ。愛知県産の茶葉も宇治茶に化けているそうだ。関鯖・越前ガニ・松阪牛など枚挙に暇なしだ。これらも当該商品の品質評価法が確立していないことに主因がある。でも、DNA鑑別が簡単にできるようになり、この種の阿漕(あこぎ)な商法も徐々に駆逐され始めてはいるようだが・・・。
阿漕
三重県津市の阿漕(あこぎ)が浦に伝わる伝説がもとになっています。
親孝行の平治が病弱の母の健康を取り戻すために禁漁区にあえて入って密漁をします。しかし、現場に置き忘れた笠から平治の仕業であることがわかって捕えられ、処刑されてしまいます。村の人たちは親孝行の平治の死を悼み、その処刑を残酷なことをする、アコギなことをする、というようになります。

その後、残酷なことという意味が少しずつ転じて、欲張りなこと、あつかましいこと、強欲なことを表すようになっていきます。
   世界的に見ればコカコーラの経営方針は立派だ。どこの国でも同じ品質の製品を販売している。輸送費を節約するために、水は現地調達⇒事後処理をし、米国から持ち込んだ濃縮液を加えて炭酸ガスを注入しているだけだ。でも、濃縮液の成分を勿体振って発表しないから、私は不愉快に感じて飲まないが・・・。
      
   杜氏の宣伝・・・。私は今までにもいくつかの小さな醸造元を見学している。多くは不潔な木造工場の中の土間に、年代物の汚い桶を据付けている。発酵途中の醪(もろみ)を掻き混ぜるだけの土方仕事に駆り出されているのは、冬季仕事の無い寒村の農民だ。

   杜氏の腕(ノウハウ)が重要ならば、その作業の本質を見極め、温度管理や攪拌頻度・攪拌方法を機械化するのはいとも容易(たやす)いことだ。機械化するより人件費が安いだけの世界に安住し、白衣を着せて神主のように取り繕った姿を撮影してはPRに使っている。
   
   酒米・・・。山田錦が酒米としては有名だ。でも、製品としての酒の味覚よりも歩留まりが良いだけのように私には感じられてならない。
* 米粒ならびに中心部にある「心白」というデンプン質が大きく、かつ、鮮明に中央にある。
* タンパク質、脂肪の含有量が少ない。
* 普通の米より、大きくて、粒の中心が白い。
* 粘土の多い土地で、夏の間、昼と夜の気温の違いが大きい場所が栽培適地。
* 茎が長く、強い風が吹くと倒れやすい。倒れた場合は米の質が悪くなる。
* いもち病(稲熱病)にかかりやすく、普通の米より育てるのが難しい。
   山田錦のライバル米は全国各地で栽培されている。その言い分に言葉が踊っている。食べても美味しい郷里の誇りとなっているコシヒカリを使っている云々・・・。食用で美味しい米が酒米としてもベストだという仮定に疑問がある。
   
   インディカ米はジャポニカよりも香りが強く、カレーライスやチャーハンにも向いている。世界的にはジャポニカよりも人気が高い。日本酒に限らず凡そ酒類の命は『香り』にあると勝手に確信している私は、インディカ米を酒米に品種改良して欲しいと願っているが・・・。

   日本酒を飲む前に燗をつけるのは異臭を蒸散させるためだ。三倍酒全盛時代では必須の作業だった。その延長線上に、米以外の原料から作られた醸造アルコールを混入させた粗悪な日本酒が今でも尚横行している。高級日本酒を冷酒で飲むのは、燗を付けると揮発する香りを大切にしているからだ。ビールを冷やして飲むのとは理由は全く異なるのだ。
   
三倍酒
米と米麹で作ったもろみに清酒と同濃度に水で希釈した醸造アルコールを入れ、これに糖類(ぶどう糖・水あめ)・酸味料(乳酸・こはく酸など)・グルタミン酸ソーダなどを添加して味を調える。
こうしてできた増醸酒は約3倍に増量されているため、三倍増醸酒・三倍増醸清酒などと呼ばれる。三倍増醸清酒は、そのままの状態で出荷されることはなく、アルコールを添加した清酒などとブレンドされて製品化される。
第二次世界大戦後、外地米の輸入が途絶えた上に引揚者や復員兵によって人口が増加したため米不足が深刻となった。そのため、戦時中から認められていたアルコールの添加による清酒の増量に加えて、増醸酒の製造が認められた。
米不足が解消した後も、酒造米の配給制度が続き自由に酒造米を購入できなかったこと、低コストで清酒を生産できるので利益率が高いこと、大量に生産できるので消費の拡大に対応ができたこと、消費者が米不足のため低精白になり、雑味などが増えた純米酒よりは三倍増醸清酒を好んだことなどにより、戦後の清酒の主流であり続けた。
   各種日本酒を飲み比べた結果、私が辿り着いた結論は4合瓶で3,000円(税込3,150円)以上ならば当たり外れが少ないどころか、私にはその味の差は殆ど区別できないと体験。同1,000円前後の酒は、酔うのが目的ならばいさ知らず、舌への刺激が強すぎる結果、私は敬遠している。
   
   私が極端に嫌悪しているのは金箔入りの日本酒だ。金箔は香りどころか味覚にも影響せず、必須栄養素として吸収されるはずも無く、馬鹿丸出しの貴重な資源の無駄使いだ。金箔入りのワイン・ビール・ウイスキー・ブランデーは欧州に限らず、海外では見たこともない。
   
ビール

   国内では大手4社の寡占状態だ。しかし、トップクラスの売れ行きを示しているスーパードライや一番絞りでも、原材料名を見るとトウモロコシや食用にもならない等外米等が使われていることが解る。

   これらを原材料に選んでいる理由が公開されていない。単なる醸造アルコールの出発原料に過ぎないのに、正直に説明しないのは材料費を節約する動機が恥ずかしいのだ、と邪推せざるを得ない。ビールが美味しくなるのであれば、宣伝に堂々と使えばよいのに・・・。

   私はこれらのビールもどきは意地でも飲まなくなった。500年前からドイツでは厳守させられているビール純粋令(ビールとは麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とした醸造酒と定義)に準拠した『ザ・プレミアム・モルツ』を愛飲している。私にはビールの味覚の評価ひとつできないにも拘わらず未だに拘るのは、我が無意味なプライドからに過ぎないと承知はしつつも・・・。
   
ビール純粋令とは、1516年にバイエルン公ヴィルヘルム4世が制定した法。「ビールは、麦芽・ホップ・水・酵母のみを原料とする」という内容の一文で知られる。現在でも有効な食品に関連する法律としては世界最古とされている。
1516年にバイエルン公国にてヴィルヘルム4世が制定したビール純粋令では「ビールは大麦、ホップ、水のみを原料とすべし」と原料を定めた。また、1マース(約1リットル)あたりの価格制限を定めている。またそれらを故意に破った醸造業者に対しては、生産したビール樽全てを押収すると罰則も定めている。
制定には大きく分けて2つの理由があり、ビールの品質の向上と、小麦やライ麦の使用制限を目的としていた。
16世紀当時のビールは、麦芽、水、ホップの主要な原料の他、香草、香辛料、果実が用いられていた。時には毒草さえ混じる粗悪なものや、そもそもビールとすら呼べないものさえ横行していた。バイエルンでは国内のビール需要に対し質の良い北ドイツのビールを輸入していたが、当然のように割高になるため、自国内で安価で質の良いビールを生産、供給し、またそれにより税収を得ようとした。
小麦は、主要な食糧のパンの原料であったため、ビールへの使用を禁止することで食料を確保する狙いがあった。しかし宮廷醸造所や一部修道院での小麦の原料への使用を認めたので、貴族や富裕層が小麦のビールを独占することとなり、その利益は莫大となった。このことがヴァイツェンビールが「貴族のビール」と呼ばれる一因となっている。
1871年にプロイセン王ヴィルヘルム1世がドイツ皇帝に就きドイツを統一した際に、バイエルンは統一の前提条件として、ドイツ全土へのビール純粋令の適用を求めた。これには他の地方の醸造業者が強く反発したものの、1906年にはドイツ全土でビール純粋令が適用された。
ワイン
   ヨーロッパ人が誇りにしているアルコールは北(ゲルマン民族)のビールと南(ラテン民族)のワインだ。それだけに彼らの日本のビールやワイン業界を見る目は厳しい。
   一方、私の記憶の世界に残っているワインに纏(まつ)わるトピックスは、日本のワイン関係者の不祥事ばかりだ。何と情けないことか。
① 赤玉ポートワイン・・・サントリー
   平成元年にポルトガルのポルト(ポルトガルの古都)にあるトヨタ車の現地組み立て会社を訪問したとき、ポルトガル人営業マンに、ワイナリーが集中しているポルトの一角に案内された。
   日本の有名会社がポルトの名前をパクリ、ポートワインとの名称で本物とは似ても似付かぬ粗悪ワインを販売していたことが判明し、酒造組合の関係者は日本に抗議に行くべく準備をしたが、余りにも馬鹿馬鹿しく感じて中止したとの事件を聞かされた。
   私は日本人としてがっかりしたが、試飲で飲んだポートワインの美味しさに驚き、何本か買い求めた。
紛らわしいラベルと言うのは日本でもかつて赤玉ワインと言う事例があります。実際は特別な呼称とは品質・製法が程遠いものに、それらしい立派な名前(赤玉の場合は当初ポートワインとつけていたが、実際の製法はポートには程遠い合成ワインであり、ポルトガルから直接の抗議を受けこっそり、スィートワインと改名した)を付けたり、ボトルやデザインでそれっぽく見せるというものです。
ポートワイン(英語:Port Wine)またはヴィーニョ・ド・ポルト(ポルトガル語:vinho do Porto)はポルトガル北部ポルト港から出荷される特産の酒精強化ワイン。日本の酒税法上では甘味果実酒に分類される。ポルト・ワインともいう。
ポートワインは、まだ糖分が残っている発酵途中にアルコール度数77度のブランデーを加えて酵母の働きを止めるのが特徴である。この製法によって独特の甘みとコクが生まれる。また、アルコール度数は20度前後と通常のワインの10~15度に対し5~10度程も高く、保存性が非常に優れている。
ベースとなるワインはあちらこちらで作られているが、最終的に熟成する地域が指定されていて、そこで最低3年間、樽の中で熟成されたものだけが、ポートもしくはポルトと呼ぶことができる。長いものは樽の中で40~50年もの熟成を経て、だんだん香りを芳醇にして味わいをまろやかにしていく。
   イギリスでは輸入したポートワインの空樽を、ウィスキーの熟成用の樽として再利用しているそうだ。
② ドイツワイン・・・キッコーマン
   ブドウ栽培の北限の国であるドイツ(ロシアでは葡萄が栽培できず、ワインは全て輸入品)では葡萄の糖度を上げる努力を惜しまない。その過程で不凍液の混入が有益な手段とわかった。醤油の消費量が毎年減少する中、新規事業の柱にすべくキッコーマンが輸入販売に参入。高級ワインとして一本3,500円程度の贈答品として販売していた。
   醤油の醸造技術では世界一の会社の関係者が、偽ワインだと見抜けなかったとは何と情けなかったことか。マスコミに報道されるや回収騒ぎとなった。
1985年に世界を揺るがしたオーストリアの不凍液混入事件は、三一書房「ワイン・スキャンダル」フリッツ・ハルガルテン著、斉藤正美訳によれば、1970年代半ばに、ある有名企業のワイン醸造主任でケラーマイスターの職にあった生化学技師の研究開発した合成ワイン製造技術が事件の発端です。
合成ワインは葡萄からワインを造る以上に高くつき実用化しませんでしたが、研究過程で ジエチレングリコール(自動車のラジエーターの不凍液として使用されている物質)を安いワインに1リットル当たり数グラムを加えるだけで、コクと甘味がつき高級ワインに変身する ことが分かったのです。
③ 偽日本産ワイン
ドイツ、フランス、スペイン、イタリア、米国のワインが純粋に原産国の物とは限らない事を知ったばかりか、 日本のワインまでもが山梨県など日本で取れたぶどうから生産されていたものではなく、ドイツなどヨーロッパから大量に輸入されていたバルクから生産されていたワインであることを初めて知りました。
   日本の法律では国産のぶどうで作られたワインに、輸入したワインを混ぜたワインでも『国産ワイン』と称して販売することが許されている。何と情けないことか。日本の自動車・カメラ・電機・鉄鋼・造船などの主力産業が営々として築いた世界的な高品質ブランド『メイド イン ジャパン』への只乗り商法を国までもが容認しているとは憤慨に堪えない。
   石川五右衛門の辞世の歌の趣旨は今尚正しいようだ。「石川や 浜の真砂は 尽きるとも 世に盗人の 種は尽きまじ」
   私にはワインの品質評価能力が無いから、高価なワインを買う気も起きない。もっぱらカリフォルニアやオーストラリア産の3リットル入りのワイン(1,500円前後)を買い、寝酒に飲む程度だ。
   でも、一度だけだが一本6万円の超高級赤ワインを役得で、名古屋市内の超高級レストラン・ホテルオークラ(宿泊室は無い)で飲んだことがある。鈍感な我が舌でも美味しく味わえた。
蛇足・・・伊東温泉
                                                             上に戻る
蛇足・・・伊東温泉その2)
   蛇足・・・伊東温泉

   私は伊東温泉なるものの存在すらしらなかった。トヨタ自動車の保養所が無かったのも一因ではあるが・・・。インターネットで調べてみて驚いた。

① 湧出量ランキング(自噴+ポンプ)

総湧出量 【10,000リットル/分以上】 順位 温泉地 都道府県 湧出量(リットル/分) 1 別府温泉郷 大分 95,186 2 由布院 大分 41,242 3 奥飛騨温泉郷 岐阜 40,661 4 伊東 静岡 31,095 5 箱根温泉郷 神奈川 25,127 6 指宿 鹿児島 24,480 7 草津 群馬 23,313 8 山鹿 熊本 20,031 9 熱海温泉郷 静岡 17,646 10 那須温泉郷 栃木 16,873    
   伊東温泉は何と全国4位。統計によれば温泉の標準的な使用量は一泊一人200リットル。源泉掛け流しのお風呂を幾つ造ってもお湯を使い切れないのは当たり前だった。ランキング表を見ながら、我が温泉仲間とは草津にも何時かは出かけたくなった。私が永久幹事なので、多少我儘な提案も仲間には許していただけるのだ。

富士山の降水量は平均して1日約600万トン(直径40Km、降水量2m/年と仮定すれば、日当たり688万トン。富士山の降水量は理科年表によれば測定されていないそうだ。でも、山なので平野部より雨量が多いと推定)と計算され、そのうち25%が蒸発し、残り450万トンは殆ど地下へ浸み込むと言われている。浸み込んだ水は溶岩層に覆われた砂礫層や溶岩層と溶岩層の間を満たし、伏流水となり、やがて溶岩層の末端の山麓で湧き出ると考えられている。

富士山の溶岩には気孔が多いが水は透さない。したがって山麓での伏流水は上からの水圧を受けている(被圧地下水)。湧水のトリチウム濃度の調査によると、富士山斜面にしみ込んだ水は数10年かけて、ゆっくり移動して湧水となる。
 
富士山の周辺には柿田川・楽寿園・湧玉池・白糸の滝・猪の頭・富士五湖・忍野(おしの)八海など多くの湧水が見られる。

   伊東温泉の膨大な湧出量は豊かな地下水に由来するはずだが、狭い伊豆半島だけが水源とは私には思えない。富士山からの伏流水が富士火山帯で加熱されて湧出した温泉も含まれていると推定している。

富士火山帯は、富士箱根火山帯あるいは富士箱根伊豆火山帯とも呼ばれ、新潟県西部から長野県・山梨県・静岡県を通り、太平洋上を伊豆・小笠原海溝に沿って伊豆諸島・小笠原諸島へと延びる火山群である。主な火山は北から、妙高山・新潟焼山・蓼科山・八ヶ岳・富士山・箱根山・天城山・伊豆大島・三宅島・硫黄島などである。

② 宿泊客ランキング

宿泊利用人員数  【130万人以上】 順位 温泉地 都道府県 利用人員数 1 箱根温泉郷 神奈川 4,463,186 2 別府温泉郷 大分 4,020,956 3 熱海温泉郷 静岡 2,863,000 4 鬼怒川・川治 栃木 2,697,770 5 伊東 静岡 1,919,000 6 草津 群馬 1,871,010 7 白浜 和歌山 1,849,435 8 那須温泉郷 栃木 1,530,491 9 登別 北海道 1,440,716 10 伊香保 群馬 1,360,985
   伊東温泉は人口の多い関東地区に隣接しているという地の利もあるのか、宿泊客数でも全国5位。でも、たぬきの里近辺で宿泊客の混雑振りが感じられなかったのが不思議だ・・・。不景気は悲しいことに財布の紐にも影響するようだ。ランキング表を見ていたら未体験の鬼怒川・白浜・伊香保にも、我が仲間といずれは行きたくなった。

② 歌

   子供のころ、『湯の町エレジー』は良く耳にした。歌詞に伊豆の山々が出てきても単なる言葉の綾、どこの温泉にでも当てはまる歌詞と勝手に想像していた。まさか名前すら知らなかった伊東温泉に由来していたとは・・・。

伊東温泉(静岡県)。駅前から海側に温泉街が広がる。旅館、大型ホテルなどが広範囲に数多く存在するのが特徴。遊技場なども数こそ少ないながらも現存している。飲み屋も多く、昔の歓楽街的温泉の要素も数多く現存する。

江戸時代には徳川家光への献上湯を行い、湯治場としても栄えた。明治以降は幸田露伴・川端康成などの多くの文人も伊東を訪れた。戦後は歓楽街温泉としても栄えた。

近江俊郎が昭和23年にリリースした曲「湯の町エレジー」の舞台でもある。開湯は平安時代とされる。
湯の町エレジーは、野村俊夫作詞・古賀政男作曲による流行歌のタイトル。1948年に近江俊郎が歌って大ヒットした。ギター伴奏を行っているのは、作曲した古賀政男自身と弟子の古屋雅章(山本丈晴・奥様は女優の山本富士子)である。
ギターの音色を特徴とする「古賀メロディー」を代表する曲であり、同時に近江俊郎の代表曲ともなり、彼の人気を不動のものにした曲ともいえる。近江俊郎はレコーディングの際、歌い出しの低音がうまく出せず、23回のNGを出したというエピソードがある。発売当時、40万枚という当時としては驚異的なレコード売上枚数を記録した。累積すると百万枚も突破したそうだ。
1 伊豆の山々 月淡く
  灯りにむせぶ 湯の煙
  ああ 初恋の
  君を尋ねて 今宵また
  ギターつまびく 旅の鳥

2 風の便りに 聞く君は
  出湯の町の ひとの妻
  ああ 相見ても
  晴れて語れぬ この思い
  せめて届けよ 流し歌

3 淡い湯の香も 路地裏も
  君住むゆえに 懐かしや
  ああ 忘られぬ
  夢を慕いて 散る涙
  今宵ギターも むせび泣く

④ 総括
伊東は熱海と並んで国際観光温泉文化都市に指定されている伊豆第2の温泉地。大正~昭和初期に立てられた木造建築が並ぶ松川沿いは、どこか大正ロマンを感じさせるたたずまい。石畳や桜並木の散歩道も整備されているので、散策しながら古き良き時代の温泉情緒に酔いしれてみるのもよい。

源頼朝・伊東祐親・日蓮上人ゆかりの史跡・室生犀星・北原白秋・与謝野鉄幹晶子夫妻などの文人が愛した街並み・共同浴場に伊東七福神など、何度訪れても飽きることを知らない魅力がいっぱい。徳川家光にも献上されたという自慢のお湯に浸かれば、時間を忘れて心も体も安らげる。
                                                              上に戻る
帰路
                                                                上に戻る
おわりに
                                                                上に戻る
読後感
                                                                上に戻る
上に戻る