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健康
           
白内障の手術(平成18年11月3日脱稿)

    20年以上も前から両眼共に白内障の自覚症状が現れ、それ以降徐々に悪化して来た。ところが数年前から左目の白内障が急速に悪化し始めた。右目の視力は0.7で安定していたが、段々と小さな文字が読み難くなってきた。数年前から老眼鏡を使い始めたら、新聞を読むのにもパソコンの操作にも支障は無かった。眼鏡なしで昨年(平成17年)も免許証を更新できた。

   ところが、本年6月、父の日のお祝いに来宅した長男にビールを注ごうとしたら、差し出されたコップの手前にビールを注いでしまった。距離の視認感覚がいつの間にか衰えていたのだ。それに加えて車の車庫入れも困難になってきた。

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はじめに

   車の先端と車庫の壁(車庫の壁はコンクリートの打ち離しだった。自動焦点カメラ『α−1』でも、模様の無い平面にカメラを向けると、焦点が合いにくかったが、同じ現象だ)との距離の認識能力が落ちてきた。例えば30cmの隙間を確保したと思って車外に出ると、間隔は何と1mもあった。

   テニスでも球との距離感覚が狂い始め、空振りが増えてきただけではなく、白いラインの視認能力が低下し、打球がコート内に入ったか否かを判別するのが困難になってきた。南北に長いテニスコートで北側からサーブをする場合、冬季になると太陽光線がまぶしくなり、仲間の了解の下に私は太陽を背にした南側からのサーブのみを選ぶようになった。
   
   ゴルフの場合、然して飛ばない打球なのに落下地点が見え難くなった。更にグリーンでの芝の傾斜が解り難くなった。白内障は加齢と共に個人差はあるものの誰にでも発症するとの医学知識は脳裏に刻まれていた。手術は日常生活に不便を感じ始めたときにする予定にしていた。
   
   手術の最終的な決断は些細な出来事が頻発するようになったからだった。例えば、夜間の自動車の運転に危険を感じ始めた。左側の歩行者の視認が大変困難になった。
   
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視力の低下

   昭和48年の夏、目に異常を感じた。格子状の物を見たときに歪んで見えたからだ。トヨタ病院(現トヨタ記念病院)の眼科医は『異常なし』と診断した。その後、何もしない間に正常に戻った。

   昭和49年の夏、長男の病気で中部労災病院に出かけた序に、念のためにと眼科の診断を受けた。名大病院の助教授から転任してきたと言う眼科部長は『中心性網膜症です。網膜は既にケロイド状になっており、治療方法はありません。これ以上悪くなることもありません。原因は不明です。ストレスが引き金になるとの説もあります』とのご託宣。

   その後、左目の視力は徐々に落ちていった。10年前くらいに0.3になって以来視力の変化は無くなった。0.3とはいえ、私にとっては大変重要な価値があった。読書は実質的には右目で実施していたので、左目の役割はなくなっていたが、距離感や立体感の認識には充分に機能していたのだ。
   
   今回、白内障の手術に仮に成功したとしても、最良の場合でも0.3に戻るだけだが、それでも充分な価値があると判断していた。
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眼科医の選定

   10年以上も前に荊妻が白内障の手術をした頃は、名医を求めて福岡市まで出かけた。しかし、白内障の手術は今や盲腸並みに簡単になったようだ。我が知人・友人にも手術体験者が増えてきた。体験者の情報とインターネットからの情報とで愛知県での有名な眼科専門医院を二つに絞った。眼科杉田病院と安間眼科医院だった。

   杉田病院は12名の医師のうち、何と杉田姓が6人もいた。一族が経営していることは明白。こういう病院には一族以外から優秀な医師が集まるとは考え難いだけではなく、一族ならばこそ藪医者も潜り込んでいると推定するのが自然だ。インターネット上には医師の経歴も表示されず、医師は病院側で指名すると記載されていた。

   一方安間眼科は9人の医師のうち、安間姓は二人だけだった。恐らく院長夫妻だと推定した。医師全員の経歴も書かれていた。しかも全員医学博士だった。私は医学博士号に特別の価値は認めていないが、きちんと履歴を公開していることに彼らの誇りと情報の透明さを感じた。

   医師が9人もいて医院なのはベッド数が19だからだ。ベッドが20以上の場合は『病院』扱いになり、法的な規制(どんな規制かは知らない)があるから避けているのは聞くまでも無い。安間院長は名大医学部講師を辞し、カリフォルニア大学バークレイ校で研鑽し、仲間と共に『医療法人 安間眼科』として開院した。専門は網膜硝子体、白内障、緑内障、視覚生理だった。

   電話の受付嬢に『執刀医の指名が出来るか?』と質問したら、『出来ます』と即答した。私は還暦過ぎてから、がんであれ、何の病気であれ、自分で探し出した名医を指名できなければ受診しないことにしていた。日本の保険制度では同じ治療では名医も藪医者も同じ料金になるだけではない。

   結果的には藪医者に掛かると入院期間が長くなることもあり、患者の肉体的な負担が重くなるだけではなく、治療費も高くなるからだ。我がトヨタ先輩は盲腸の手術後、何と1週間で永眠。名大卒の奥様は進学塾を開き、その後は豊田市会議員としても活躍されたが、医師への恨みは電話でもたっぷりと聞かされ、心に受けた傷跡は一生涯消えないようだ。
   
   トヨタ同期のゴルフ友達は59歳の時、初期の肺がんの手術後、たったの 2週間後に何と肺炎で永眠。統計によれば肺がんの手術後1ヶ月以内にがん以外の病気で永眠する確率は1%以内なので、藪医者に切り殺されたと判断している。
   
   電話の受付嬢の返事を聞くや否や即座に、安間院長に執刀医になってもらう決心をして、初診日(7/10)を予約した。


蛇足。平成18年12月26日追記

眼光学会会長   和気典二(中京大学)
眼科ME学会会長 佐藤 美保(浜松医科大学)
事務局長      安間 哲史(安間眼科)

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初診

   白内障の患者は激増しているようだ。手術日の予約は3ヶ月待ち。10月の前半は海外旅行を予定していたので10月30日を予約した。手術日の1週間前には再度の検査日が設定された。

   初診日には各種の検査をした。視力・角膜や水晶体の写真撮影・眼底撮影・手術に使う各種薬剤による副作用の有無の検査・眼圧・血圧・脈拍・血液検査・アレルギー反応の検査・人工レンズの設計に必要な眼球の大きさや屈折率の検査などいちいち覚え切れなかった。主治医の検診も、途中の検査を挟んで2回あった。その時に念のため質問した。

『私は安間院長の執刀を希望していますが、そのように連絡されているでしょうか?』
『希望は伺っています』。一安心した。
『私は30年以上も前に、中心性網膜症との診断を受けていますが、現在網膜はどうなっているでしょうか』
『白内障のため網膜が外からは見えないので、どうなっているかは解りません』
『私は白内障発症以前の視力0.3に戻れば満足です。視力は乏しくても立体感・距離感の復活には充分だからです』
『私もそのように判断しています』

   診察完了後に看護師からこまごまとした説明と共に詳しい資料が渡された。

@ 白内障と手術法に関する説明書
A 手術中の注意事項。万一の場合の意思の疎通方法
B 手術直後の注意事項
C 手術後1ヶ月間の注意事項
D 手術1週間前・2日前・前日・手術日・1日後・2日後・3日後・7日後〜15日後までの詳細な検診内容・投薬方法・日常生活の注意事項などが、A3用紙一枚に引かれた格子状の枠内にびっしりと記載されていた。
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手術前の検査

   手術予定日の1週間前に再検査があった。検査内容は7/10の初診日と大変よく似ていた。但し、人工レンズの設計データの採取は当然のことながら無かった。

   特殊なものとして、涙が目から鼻を通り口へ流れ落ちるか否かのテストがあった。苦い薬剤だったので口に到達したのは直ぐに知覚できた。安間院長の診察があった。水晶体の写真を見比べて

『3ヶ月の間に、白内障がかなり進行していますね』との発言。
『今では、左眼は擦りガラスを通して見ているようなものです。光は充分知覚できますが、隣にいる人の人相は全く判りません。視力検査表の一番上の記号も読めません』
 
   診察後、看護師から手術前の準備の説明と薬剤の使用法の説明があった。二種類の目薬は朝・昼・夜・寝る前の4回、まつ毛の周りの殺菌用軟膏の塗り方、抗生物質の服用時間などだった。主たる目的は常在菌の殺菌と化膿防止だった。

   我が唯一の不安は『外からは検査できなかった網膜の状態(視力)が、どのようになっているか』だった。白内障の手術に成功しても網膜が既に機能していなければ、手術の価値は全く無いからだ。
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手術

   手術前30分から手術後に容態が安定するまで、出来れば家族が病室で待機するのが望ましいとの指示があり、荊妻と共に指定の9時半前に病院に到着。荊妻は待ち時間つぶしに近くの繁華街に出かけた。安間眼科は嘗て名古屋市一の商店街といわれた大須商店街に隣接していた。手術日の午前中は4人部屋のベッドで各種の検査や準備作業を受けた。

   やがて、手術は午後3時からと告げられた。
   
@ まつ毛をはさみで切り落とされた。ほどほどの長さに復活するのには一ヶ月くらい罹るそうだ。看護師の話ではまつ毛の白髪化は眉毛よりも遅れるそうだが、今まで関心が無かったのでデータも頭に無く、半信半疑。
A 血圧・体温・心電図の測定。
B 精神安定剤の服用・お尻に痛い筋肉注射。
C 病院食(昼食)を食堂で摂った。
D 午後処置室に移動し、3種類の薬剤で目をごしごし3回も洗っての殺菌後、蒸留水で洗浄。目に麻酔剤を噴射された。
E 看護師が病室に迎えに来た。持参させられたスリッパと靴下を履くようにと催促した。
『何のために靴下を履くのですか』
『ベッドを足で汚されないようにするためです』
F 手術室は2部屋あった。我が手術室には手術が丁度完了した患者がベッドに横たわっていた。数人の看護師がベッドの両側に立ち、手術の後始末を手際よく実施した。ベッドのシーツや枕カバーも取り替えることも無く、私はベッドに横たわった。
G またもや数人の看護師が心電図の測定準備、点滴の準備など手術の準備を始めた。その間10分くらいか。やがて医師が現れた。
H 水晶体は『超音波水晶体乳化吸引法』で取り除かれた。超音波は耳に聞こえないはずだが、治療中ジジィーという雑音が聞こえた。手術後はまたもや数人の看護師がてきぱきと後処理。まるでトヨタ生産方式の前段取り・後段取りを実施して、医師の実稼働率を上げているかのようだった。私は当日6人目、全部で13人の予定だったそうだ。治療後は車椅子で病室に運ばれた。手術時間は20分くらいと推定した。
I 病室に戻ったら、急に眠くなった。荊妻にはもう大丈夫だからと言って帰宅させた。2時間後に目覚めた時には点滴なども既に外されていた。

   夕食の準備が出来たとの連絡があった。眼帯をつけたまま食堂まで歩いて行けた。特に不便さは感じなかった。夕食はおかゆ食だった。消化器系の手術ではないのに、何故おかゆなのか理解できなかった。明日の朝食は普通食だそうだ。食後は精神的な緊張感も解けてそのままうつらうつらとしていたら、回診に来た安間医師に起こされた。

『何か、異常がありませんか?』
『何にもありません。ありがとうございました』

   愛知県がんセンターと安間医院の病室の設計や備品の配置は瓜二つだったが、一つだけ違いがあった。病室には、どこの大病院にもあるプリペイドカード挿入式の貸しテレビが無かった。眼科医院だから当然のことだったのだ。
  
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翌日

   早朝、トイレの鏡の前でそっと眼帯を外してみた。入射光線量が一桁増加したのではないかと思えるほど外が明るく感じられた。網膜に変化は無くくっきりと周囲の輪郭が識別できた。今までは乳白色のベールが掛けられたように感じていたが、色彩も鮮やかに且つ強いコントラストを感じた。

   手術は予想通り成功していたのだ。但し、中央寄りの白目の半分は真っ赤な色をしていて、見ていて気持ちが悪かった。左目を手で覆い右目だけを使うと視野全体に薄くベールが掛かっているように感じた。入射光線量が明らかに少なく、軽い白内障に罹っていることは明白だった。左右の目の透明度が逆転したのだ。

   病室でお尻にまたもや痛い筋肉注射をされた。8:30から一斉に業務が始まった。入院患者が外来患者より優先された。検査室に最初に到着したら、11人の看護師が横一列に並び、患者を一斉に迎え入れた。視力検査の結果、視力は以前の0.3を取り戻していた。その後、各種の検査と写真撮影後に安間医師の診察を受けた。
   
『左目の視力が画期的なほど復活しました。ありがとうございました。左目が良くなったため、右目の軽い白内障が自覚されるようになりました。今の段階でも手術をしたほうがよいでしょうか?』
『その必要性はありませんね。もう少し進行して、不便になったときに手術すれば充分ですよ。今日は火曜日です。次回の検診は水曜日と金曜日です。もう一度繰り返します。次回の検診日は水曜日と金曜日です』

    検診後に看護師から点眼薬の説明があった。3種類の目薬を5分間隔で注すように。薬は夫々色の違った遮光袋に入っています。冷蔵庫に保管してください。朝・昼・3時・夕・寝る前の5回だそうだ。抗生物質も渡された。こちらは朝晩の2回。

『先ほど、院長は検診日を間違えました。金曜日は文化の日で休診日です。土曜日に変更します。眼帯は今日からは就寝時だけで充分です。毎日新品と交換してください』。院長は働かされすぎて、祭日も忘れてしまうほど疲れていたようだ。
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翌々日

    この日は単なる経過観察。視力検査他写真撮影後に医師の診察があった。この日は執刀医の安間院長は休診日。代わりに女医が担当。『異常なし』の一言で完了。

    眼帯が外されているので気分も良好。久しぶりに大須の商店街を散歩。各地の駅前商店街が衰退する中で、大須には未だ多少の活気は残っていた。しかし、建物の老朽化が進み名古屋駅や栄の地下街に比べ、有名ブランド店も少なく、地元の老舗中心の商店街の未来は暗そうに感じた。

   今までの支払いは下記の通りだった。インターネット上で公開されている治療費は54,000円だった。入院費は大部屋のため無料。追加料金は3度の食費 260*3*1.05=810円と眼帯を顔に固定するための粘着テープ1巻きの30円、合計840円だけだった。

  7/10***** 8,660円
  10/23**** 1,720円
  10/31*** 54,840円
  11/1***** 1,760円

  合計*****66,980円
  
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退院後の注意

   下記の注意事項を記載されたメモを渡された。

@ 洗顔
   2週間後位から出来ます。
   頬より下は洗ってもいいですが、頬より上は術後2週間は濡れタオル等で拭く程度にしてください。
   眼球を圧迫したり、眼の周囲を強く擦らないでください。

A 洗髪
   顔を下に向けての洗髪は手術後2週間は避けてください。
   但し、顔を上に向けて眼に水が垂れない状態であれば、手術数日後からできます。
   誰かに洗って貰うか、あるいは美容院で洗って貰ってください。

B 入浴
   首から下までなら構いません。
   首の周りを濡らさないように注意してください。

C 飲酒
   少量であれば差し支えありません。
   
D 喫煙
   差し支えありません。

E 運動
   適度な運動は構いません。

F その他

   退院後異常を感じられたら、至急来院して下さるか、若しくはお電話にて連絡してください。受付・病棟・医師宅の電話番号が記載されていた。

   白内障手術は手術後、数ヶ月経つと視力が低下してくることがありますが、外来での簡単な処置で視力はまた上昇します。白内障手術後視力が低下してきた場合は、その旨ご相談下さい。

   但し、手術数日後に見え方が悪くなった場合は、感染症の可能性もありますので、出来るだけ早くご連絡下さい。

   尚、白目が赤くなっていますが、2週間程で消えますので心配ありません。
 
   テニスやゴルフなどの瞬発力が必要な運動は総て厳禁だそうだ。多分、瞬間的な高血圧が発生し、眼内出血の恐れがあるからと推定し、11/1〜11/14までのテニスとゴルフ各3回、合計6回分は全部キャンセルした。再開は11/15のテニスからだ。
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手術後の経緯

   手術直後は眼に違和感があるだけではなく、ちくちくとした軽い痛みも感じていたが、11/3の本日までに痛みは殆ど取れた。

   眼帯を外した後、手術前から使用していた眼鏡を使い始めた。最初は眼鏡の度数が合っていないように感じたが、今ではすっかり慣れてしまった。眼鏡の更新のニーズも取り敢えずは霧散霧消。
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おわりに

   白内障の手術に失敗したとのニュースは知人・友人からは今までも全く聞こえてこなかった。しかし、こと眼の手術となると言い知れぬ不安に襲われ、手術の最後の決心が付きかねていた。

   手術の決断の引き金になったのは、夜間の自動車の運転に危険性を感じただけではなく、長男にビールを注ごうとしたときに、コップの手前に注いだときだった。

   一度決心すると、後は一瀉千里! 昔から調査をしたり質問をしたりすることは何よりも大好きだった私は、知人や友人に自信を持って報告できるような医師を探し出し、最善の手術を受けられるようにとの努力を開始。

   あるとき、テニスの仲間に安間眼科で手術をすると報告したら、元部下でテニス仲間のA氏が『安間さんは私の東海高校時代の級友ですよ。しかし、配席は五十音順だったのでアとヤとの席は教室の両端に近く、あちらが覚えてくれているかは疑問ですが・・・』

   診察時に院長に質問したら『勿論、知っていますよ。特徴は・・・。』と即答された。世の中は広いようで意外に狭いと、今回もまた体験した。

   ともあれ、総ては術後も順調に経過したことを喜び、他にすることも無いのでこの原稿を書き上げた。本日は文化の日。新聞を見たら我が卒論の指導教官、大平博一九大名誉教授が『瑞宝中綬章』(昔の勲三等)の叙勲を受けられていた。先生の受賞に乾杯すると共に、気の済むまで私も酒を飲む予定だ。

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手術後の総括

@ はじめに(平成18年11月30日追記)

   手術後1ヶ月が過ぎた。視力は予想(期待)以上に回復した。過去4年間がん治療に関心を持ちすぎ、白内障に関しては遙か昔に勉強したままだった。最新の医療技術に無知だったことを若干後悔している。

A 目の一生

   30年位前、ふとした機会に愛知医科大学眼科教授の講演を聞いた。

      生まれた直後の赤ん坊の視力は大変悪いが、成長と共に良くなり、そのピークは10代。後は徐々に悪くなり60代になると光の透過量は1/4になり、90代になると100%白内障に罹る。

   白内障は不可逆現象なので薬による治療は出来ない。手術には危険も伴うので、同じ手術法で両眼を一度に手術してはならない。万一の場合は両眼同時に失明しかねないからである。

   白内障の進行度は両眼で異なる。日常生活にどうしても支障が出てきたら、視力の落ちた目から手術をすればよい。

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   手持ちの家庭医学事典(1982年8月1日 初版発行 三省堂)に記載されている白内障の手術法は下記の通りだった。

   顕微鏡下で水晶体を摘出。レンズを失った目は強い遠視の状態になる。水晶体が正常な一方の目と合わせるために、眼鏡・コンタクトレンズ・人工水晶体を使うと0.7〜0.8まで視力が回復する。

   しかし、人工水晶体は合併症の心配があり、限られた人だけに用いられる。

   つまり、私が受けた人工レンズを眼内に挿入する方法は、大変新しい技術だったのだ。

B 中心性網膜症

   32年前に左目が回復不可能な中心性網膜症と診断されて以来、左目が0.3まで視力が徐々に低下した後、長い間変化しなかった。視力低下の原因は中心性網膜症、直近数年間の急激な視力低下は白内障によると自己診断していた。ところが、今回白内障の手術後の視力検査で1.0まで劇的に視力は回復した。経過観察のときの眼科医(我が主治医は米国のがん学会に参加のため夫婦で出張していた)に、疑問に思って中心性網膜症の現状を質問した。

   『中心性網膜症の痕跡はあります。でも網膜の中心(注。視力は網膜中心の直径2mmで決まる)から少し外れています。しかも、痕跡は小さく軽症ですよ』と予期しなかった回答。視力低下の真因は白内障だったのだ! 今までは網膜に損傷があると推定し、白内障の手術の効果を低めに予想していたため、手術へのタイミングを必要以上に遅らせてしまったことに、若干の後悔をする結果となった。

C 白内障の手術の危険度

   今や白内障の手術は盲腸並みに安全になり、治療の標準化もなされ、何の不安もなくなったようだ。安間眼科医院のホームページでの解説をコピーした。

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   白内障とは、目の中にある小さなレンズである水晶体が濁る病気です。40歳代,50歳代から、しだいに曇りがでてきます。全体に薄い濁りが生じる場合,周辺部に濁りが生じる場合と様々です。

   一般的に、白内障に対しては,その進行を予防するために、点眼や内服がおこなわれます。最近では,ビタミンCやEなどが水晶体の酸化を防ぎ,老化を予防するのに効果があるとして注目されていますが、残念ながら、まだ研究段階です。

   白内障にたいしては古くから手術が行われていました。手術創が大きく,また縫合も十分でなかった40〜50年前までは、手術後の安静を厳密に守る必要があり、多くの場合は1週間近くベッドにじっと寝たままでした。

   また、白内障手術後の視力矯正の方法がメガネかコンタクトレンズに限られていた20年位前までは、両眼の視力が悪くなってから手術を勧めていました。片方の目の視力がいい場合にはバランスが悪くなるためにメガネがかけられませんし,コンタクトレンズは誰でもすぐにつけられるわけではなかったからです。

   しかし、最近では眼内レンズ移植術が普及し、白内障手術は格段の進歩をしました。眼内レンズのおかげで、片方の眼だけの視力が落ちた場合にも、すぐに手術にふみきれるようになりました。

   ただ、すべての方に、この眼内レンズ手術ができるわけではありませんし、近視の強い方では,眼内レンズを入れる必要がない場合もあります。糖尿病からくる網膜症のひどい方や、網膜剥離の危険性の高い方などでは,眼内レンズを入れない場合もあります。症状や,今後の治療方針とも関連しますので,疑問のある場合は,ご相談下さい。

   手術後の安静も緩やかになってきており、最近では,1〜2時間の安静の後,帰宅して頂くという,いわゆる「外来手術」も,全身状態の良い患者さんでは,できるようになってきました。
 
  ただ、白内障手術がいくら簡単になったからといっても、手術前に過度に緊張すると,血圧が変動する場合もありますし、手術時には、眼に局所麻酔を行い、多くの場合,弱い安定剤を使用しますので、全身状態が多少変化します。通常は、1〜2時間,安静にしていれば,手術前の健全な状態に戻りますが,手術当日は入院した方がより安全ですので、当院では1泊の入院をお勧めしています。

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C おわりに

   手術後も経過観察は半年続く。数日⇒1週間⇒2週間⇒1ヶ月間隔へと頻度は徐々に下がるが、通院は苦痛だ。視力検査と眼科医による目の観察だけで治療は無いのに半日つぶれるからだ。私は一ヶ月経過後の12月からは異常を感じたか、目薬がなくなったら医院に出かけることに勝手に変更した。

   目薬は3種類。一ヵ月後からは2種類。毎日4回。序に右目にも普通の目薬を注し始めた。目薬は一度に一滴注すだけなので、5ccの小瓶でも一ヶ月は優に持つ。

   視力検査は体調や検査表の照度などでも変化するので0.2〜0.3は誤差の内と思ってはいるが、両眼共に1.0まで回復した。解像力が向上しただけではなく、光の透過量が増加した結果、いつも霧・煤煙・排気ガスが充満していると誤解していた日本の空は大変綺麗だったのだと感動した。壊れかけたテレビを新品に更新したかのように視界が変わった。

   ゴルフでは芝芽が読めるようになり、パッティングの成績もたちまち向上。テニスの腕も仲間が驚くほど上達。人生が薔薇色に変わったといっても大げさではない。

   こんなに効果があるのだったら、去年のアンデス山脈、今年の天山山脈やコーカサス山脈をこの目で見なかったのが無念。でも、生きていさえすればトランスヒマラヤ山脈(エベレスト8848mやマナスル8163m)、カラコルム山脈(K2=8611m)、キリマンジャロ(5895m)、オーロラ(アラスカかノルウェー)を見に行けるのだから、と我が身を励ましている。特に、暗い夜空に輝く淡いオーロラこそは白内障のままでは感動は激減するのではないかと予想しているからだ。

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