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旅行記
           
ヨーロッパ
ドイツとベネルックス三国(平成12年10月1日脱稿)

   7年振りに訪問したドイツは、マルクの暴落( 110⇒50円)などどこ吹く風。掠り傷にも感じられないほどの、繁栄の真っ最中だった。住宅地や大型の公園は相変わらず美しく維持されていた。安くて豊富な生活物資が店頭に溢れている旧市街は、年中歩行者天国となり人また人の洪水。人口と交通機関(鉄道・地下鉄・市電・国電・バス・自動車・自転車・徒歩・駐車場・駐輪場)のバランスも適度に保たれ、視界には快適な都市空間が広がっていた。          

      廃墟の中から立ち上がった同じ敗戦国でありながら、日本とは対照的に感じる国土復興のこの違いは、一体何に由来するのであろうか?。ドイツを旅する日本人が例外なく感じる普遍的な疑問である。
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はじめに

   トヨタ自動車勤務の長女の婿が本年1月よりドイツの子会社(ケルン在)に駐在。そのため長女はトヨタ自動車を昨秋退職し、3月より孫と共にドイツへ。現地生活にも慣れた頃だろうと推定し、荊妻と共に様子見がてら、8月16日〜9月3日の間、ドイツヘと出かけた。その序でに、ベネルックス三国(オランダ・ベルギー・ルクセンブルク)を漫遊。                    

   各航空会社は海外居住者へのサービスとして『呼び寄せ便』と『里帰り便』とを提供している。市販のどんな安売り切符よりも同一条件ならば更に安い。『細々と生きている年金生活者』には大変あり難い。蛇足だが、里帰り便は呼び寄せ便よりも更に安い。

   各社の条件を比較して、オランダ航空を選択。名古屋⇒札幌⇒アムステルダム⇒ケルンの往復だった。娘に切符を予約させたら、旅行社からマルク振込先の銀行口座番号がFAXで送られてきた。送金1週間後に宅配便で切符は到着。シーズン中だったのに、送金代込みで往復1人分12万円弱。エコノミーなのに、手荷物はビジネス・クラス並(30Kg)のサービス付き。

   娘から依頼された雑貨をバッグに詰め込んだ結果、2人で3個計70Kgになったが超過料金は勿論免除された。しかし、我が大型バッグは38Kgにも達しており、予期せぬ誓約書に署名させられた。『1個のバッグの最大許容重量は30Kgです。それを越えているので荷物が損傷しても、損害賠償の請求は受け付けられませんが、宜しいですか?』。今までも何度か30Kg以上のバッグを持ち込んだ体験はあるが、誓約書は初めてだ。オランダ航空独自のルールかも知れない。

   アムステルダムからケルンへは50人乗り位の小形プロペラ機に乗った。その客席から荷物の積み込み作業が覗けた。大男が我がカバンに手を掛けたが、見掛けでは分からぬ(実は6.25Kgの変圧器が2個入っていた)予期せぬ重量に困惑。『エイッ!』を意味するような掛け声を、オランダ語で叫んだ。大きな力を出す時に思わず声を出すのは、人間には普遍的な習慣だろうか?。苦笑。

   入れ違いに婿の両親と妹が日本航空で9月7日出発した(5人一緒に行くと寝具が足りない!)が、こちらには1人20Kgの制限があり、JALに問い合わせたら『超過重量1Kgに付き6千円』と言われたそうだ。『担当者がルールを説明したのであって、超過料金を取られるとは思いませんよ』と説明。結果は勿論フリーパスだったそうだ。

   旅行に先立ち、酒氏(昭和40年トヨタ自動車入社。東大計数工学卒。ふとした機会に友人が我が追憶記を氏に回送して以来、何時も読んで頂けるようになり、毎回的確な読後感を拝受してはいるものの、未だにお会いしたこともないお方)から電子メールで下記のような宿題を頂いた。本追憶記がまともな回答にはほど遠いとは知りつつも、氏にお届けすべく取り急ぎ書き纏めたものである。

…………………………………酒氏からの宿題全文転載………………………………

   来月中旬からドイツにやや長い間滞在されるということですので、日頃考えています『ドイツと日本』のことの中から自然の美しさや自然環境について書かせて載きます。そして帰国の後貴兄の博識から感じられたことなどについてご意見を伺わせて載きたいと存じます。

   私のような無粋な人間でも最近の日本の田舎の美しさには感動を覚えています。戦後半世紀を経て、ここまで戦争もなく何とか平和な社会が続いているとこのように美しくなるのでしょうか。通勤途中でも農家の庭に花が、また農道のそこここに花が咲いているのを目にします。              
     
   先日故郷へ戻った折りのことですが、流石に近くは小さな小さな住宅で埋まっていました。しかし少し田舎まで出てみましたところ、昔では考えられないことですが、小路に花が溢れていました。自分の家の周りではなくて人家もないこうした人気(ひとけ)のない通りがフラワーパークの如しといった様子なので、すっかり感動してしまいました。                         

   初めて欧州(主にドイツ)へ出張に行きましたときに、一番感動したことは『日本に比べて公共の場が何と美しいのだろう!』ということでした。しかし今の私は少し考えを改めました。川端康成氏がノーベル文学賞の受賞記念講演で話されたように『美しき日本』なのではないかと思い出しております。

   戦後半世紀を越えて漸くドイツに追い付く環境になって来たと思うのですが、ここまでに至る途中過程では同じ戦災を受け国土の荒廃から立ち直る取り組み方が、少なくとも環境という点では随分異なっていたのではないかと思います。経済成長だけにしか目が行かなかった我が国と、あれほどの壊滅的なダメージを受けながらも環境を整備して行こう、更には戦前のままの町並みに復旧して行こうとしたドイツとで、何が根底の違いだったのか考えてみました。

   これはドイツが自然に恵まれていない、一方日本は恵まれている。この違いが一番大きいのではないでしょうか。我が国は恵まれているからそれ故に、環境に対して甘えが有ったと言えるのではないでしょうか。聞くところによると、ドイツは緯度でカラフトと同じくらいだから、日照時間が少なく降水量は亜熱帯日本の三分の一とのこと。樹木の成長には日本の三倍の年月が掛かるそうです。日本で五十年(杉を例とした場合)で育つとすればドイツでは百五十年掛かる計算です。また樹木や花の種類が乏しく、厳しい環境にあるということなのではないでしょうか。

   マルチン・ルターの言葉を思い出します。『世界が明日滅びると言われても、私は今日リンゴの苗木を庭に植える』。ドイツ人の魂を表しているように思います。一度破壊してしまったら、回復するのに膨大な労力を必要とする国と、我が国のように簡単に樹木が生長し、木造の建築がたちどころにできてしまう国とでは、環境保護への意識にどれほどか差がついてしまうと考えても良いのではないかと思うのです。

   日本でも最近は環境は水と同じくタダで手に入るという従来の意識から、随分と変化してきたと思います。根尾村の『薄墨桜』と言えば樹齢千五百年と言われる大変な老木ですが、伊勢湾台風で枯れ朽ちる寸前になっていたのを、宇野千代さんが保護を訴え、今は見事に甦っているとのことです。樹齢何百年というような木を保護する気運も盛んになって来ました。

   元祿三年(1690)から五年(1692)までの僅か2年間ですが、長崎の出島の『オランダ商館』に医師として勤務した人でケンペル(エンゲルベルト・ケンペル)というドイツ人(北部ドイツのレムゴー生れ)がいるそうです。2度の参勤交代で長崎から江戸までの自然や風物に接しています。          

   医師であるだけでなく宗教・哲学・自然科学(特に植物学)など幅広く勉学してきた人でもあり、また日本に来るまでに北欧・ロシア・中近東・インド・インドネシアなどの国を見て来た人なので、日本という国を短期間で深く見通しているようです。この人が次のようなことを書き残しています。(『日本誌』1727年英訳版)

   『日本には美しい花や葉の植物が他の国に比べて断然多い』『日本の家屋にはどんなに粗末であろうとも必ず目を楽しませる草花がある』『キクやユリには数え切れないほどの変種がある。ユリは山野に咲き乱れる。スイセン・アヤメ・ナデシコ、などの咲く自然は他の諸国では見られぬ美しさである』

   幕末に来日したイギリス人ロバート・フォーチュンという人も『もしも花を愛する国民性が、人間の文化生活の高さを証明するものとすれば、日本人の低い層の人々は、英国の同じ階級の人達に比べ、ずっと優れている』。こうしたイギリス人やドイツ人や他の欧州の人も、江戸時代の日本に来て、『国全体が公園の如くに美しい』と感嘆していた…ということを知りました。

   ケンペルなどは母国ドイツに比べて『国の美しさ』『平和』の点で如何に日本が素晴らしいかということを感動して綴っています。ケンペルは『かくて日本人は世界でも稀に見るほどの幸福な国民である』とまで言っています。ここまで言われるとこそばゆい観を抱きますが、とにかくもともとは日本は自然環境を大切にする美しい国であったのであり、むしろドイツなどはこうした極東の国の話を手本にして営々として自然に立ち向かい木々を守り育て、花々を育て各自の家々の窓を飾ってきたとも言えるのではないでしょうか。

   貴兄は世界を見聞して来ておられます。前述のケンペルよりもずっと幅広くまた深く見て来ておられます。そうした貴兄がドイツを更に深く見てこられるということで、私は大変期待しております。前述のような見解を修正するべきか否かを判断する為の良き指針になると思っているからです。そんな訳で一方的に私の私見を書いてきましたが、頭の片隅にでも置いて戴ければ幸いです。平成12年7月4日

…………………………………………………………………………………………………

   今回の旅行では娘婿に大変お世話になった。2回あった週末のうちの初回は月曜日に有給休暇を取ってくれたので、2泊3日でベネルックス三国計6都市、延べ走行距離1100Km、2回目は北部ドイツのメルヘン街道に向かい1泊2日3都市、走行距離 900Km。孫の生活リズムに合わせたゆとり十分の計画だったが、天気にも恵まれた上、アウトバーンを 150Km以上の猛スピードで飛ばしてくれた結果、訪問地も増え、期待以上に旅が楽しめた。

   婿は高校〜大学時代にラグビーで鍛えた体力の故か、疲れた様子も見せなかった。彼は不幸にして体質的にお酒が全く飲めない。一方私には酒なしの旅など想像すらもできない。道中、『悪いなあ〜』と思いつつも、とうとう断酒はできなかった。ここに改めて、謹謝。
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ドイツあれこれ

[1]飲食物

@ビール

   ドイツと言えばビール、ビールと言えば…。1516年にバイエルンで『ビールは麦芽・ホップ・酵母・水のみから作れ』との『ビール令』が発布されたが、ドイツ統一(1871年)後も『ビール法』に受け継がれ、今日まで厳守されている。ドイツ各地には地ビールメーカーが千社以上もある。大きく異なるのは酵母だけ。地ビールの販売許可区域は醸造所から50Km圏内らしい。

   早速、朝昼晩ケルンの地ビール『ケルシュ』を飲み続けた。2週間も経つとドイツビールの特色が分かってきた。室温でも美味しく飲める。逆に日本並に冷やし過ぎると、味蕾(みらい)が麻痺して味が余り感じられず、炭酸ガスの刺激のみが強く、結局美味しいとは感じられない。一方、日本のビールは室温では水っぽくて苦いだけ、飲めた代物ではない。                     

   そのためかキンキンに冷やして飲むが、ホップの苦みと炭酸ガスの刺激のみが強調され、銘柄間の味の区別も付かない。これこそがビールの味だと長い間ビールメーカーに思い込まされていたのだと、愚かにも初めて気付いた。その延長線上に究極の偽ビール、発泡酒がある。

   発泡酒以前にも、かつて似たような商品が日本では頻出していた。原料にブドウを使わない『ポートワイン』。その昔、ポルトガルのポルト市(旧首都・国家名のルーツともなった)のワイン醸造組合が名前を利用されたと憤慨したものの、馬鹿馬鹿しくて抗議を中止したそうだ。レモンが入っていない『ポッカレモン』が『暮らしの手帳』に取り上げられて生産中止に追い込まれた。果汁0%の粉末ジュースも40年前は売られていた。日本人の発想は貧し過ぎて悲しい。

   ドイツのビールは同容量のコーラよりも安い。 500CCの瓶ビールがスーパーで1本1マルク(50円)。日本のような大瓶サイズはなく、缶ビールも殆ど売られていない。缶はリサイクルができない上に味も落ちるからだ。レストランや酒場では生ビールのみ販売。普通は細長い円筒状の何とたったの 200CCコップで出され、2マルク前後。特別に希望すれば 300CCと 500CCコップもある。大型の1gジョッキで飲むのはミュンヘンなどに限定されるそうだ。

    500CCコップで注文すると、準備に3分も掛かる。コップ2個に生ビールを注ぐと容積の半分は泡で満たされる。お客さんに渡すコップの泡が収縮すると、もう一方のコップのビールを継ぎ足すこと3度(みたび)。コップには線が引かれているか、くびれがあり、泡は線よりも上に浮いている状態を堅持させられている。

Aハム・ソーセージ・チーズ

   それぞれ種類が大変多く、ハム・ソーセージやチーズだけの専門店がある程だ。ハムの半分強は生ハムで百グラム百円前後。サラミ・ソーセージも種類が大変多く、これも百グラム百円程度。サラミ風の生肉もあった。豚の赤肉と脂肪のミンチが混ぜ合わされており、一見すると色はサラミにソックリだ。パンに付けて食べると、マグロにソックリの味がした。日本には刺身で食べられる無菌豚が売られ始めたが、そのドイツ版だろうか?。

   ビールの摘みに生ハムとサラミを食べ続けていたら、日本の刺身に対する観念が変わった。大トロなどの例外はあるが、私が買えるレベルの刺身は水っぽくて旨味がなく、ワサビと醤油なしでは食べられないことに気付いた。一方、生ハムやサラミには香りと適度の塩分が含まれ、調味料も不要で便利だ。 
  
   あまりに美味しかったので、生ハム( 1.5Kgパックを10個)とサラミ( 650gパックを5本)を購入。酒の摘みとしては半年分だ。12年前、出張帰りにフランクフルト空港でハムとソーセージを10種類ずつ2万円分ほど買い込み、両手が千切れる思いをしながら持ち帰った。名古屋空港で検疫のために申告したら、何としたこと、『お気の毒ですが、禁輸品です』と言われ、全品没収された。国産メーカーの保護が目的なのだろうか?。

   ドイツ人はハム・ソーセージを買う場合、それぞれの薄切りを10種類くらい少しずつ買う。どのように食べ分けているのかさっぱり分からない。秤売りなので、先客があると売り場で数分も待たされることになる。

   チーズの種類は幾つあるのか、どのように分類されているのかさっぱり分からず、戸惑うばかり。色・堅さ・匂い・形・大きさも様々。鏡餅の形をした1個10Kgは優にありそうな大きな物もある。娘曰(いわ)く。『ドイツ人は朝食時、多くの種類を少しずつ食べる』

B燻製

   魚の燻製も種類が豊富だ。鮭・サバ・ウナギ・イワシその他名前も知らない魚も多い。ドイツ人にとってのウナギの燻製は日本人の蒲焼に相当する伝統的な食べ方だ。鮭の燻製品には真空包装もあるが、注文に応じて店頭で薄切りにした秤売りもある。たった2切れ60gを買ったドイツ婦人を目撃した。この売り方は高級食材店『明治屋名古屋支店』で見ただけ。鮭の燻製も美味しかったので、真空包装パック( 200gを15個)を買い求めた。

   燻製はなぜ美味しいのか、先日NHKの『試してガッテン』で興味深い実験を紹介していた。過去10年近く毎年真冬に鮭(紅鮭やキングサーモン)の冷燻(蛋白質が凝固しない30℃以下の低温で燻す)を20Kg以上(半年分)も作っていたが、それまでに読んだどの本にも書かれていない新説だった。
                       
   材料を濃塩水に漬ける最初の工程では、塩分の働きで蛋白質が小さく切断される。塩抜きと風乾後の燻煙工程では、材料が再結合されて蒲鉾のような『プリプリ』とした食感が得られるように変化すると共に、グルタミン酸が増加する。我が経験に照らしても納得できる結論だ。その上、燻煙工程とその前後の風乾工程で水分が減少するので、素材の水っぽさも感じられなくなり一層美味しくなる。

B百貨店の青果売り場

   商品は包装されず大型運搬容器に入れたまま山積みされている。リンゴとかマンゴーは1個単位で売られている。小さな果物や野菜類は1Kgまたは百グラムの価格表示だ。価格はマルクとユーロの2重表示。しかし、ユーロはまだ流通していないため、支払いはマルク。

   売り場に常備されている薄い透明な袋に必要量だけを入れて重量計に載せ、表示パネルのキー(百種類くらい)を押すと、糊の付いたラベルに価格が印字されて出てくる。ラベルを袋に貼り付けるまでは客の仕事。必要な量だけを買え、パック容器も不要。トヨタ生産方式の小売り版だ。

   日本ではレジで無料の袋をくれるが、ドイツは有料(1枚10〜15円)だ。そのためか大抵の人は布製の買い物袋を持参している。ゴミ対策の先進国だ。

[2]珍体験 

   赤いチロリアンハットを被っていると周囲の注目を浴びるためか、今回も予期せぬ体験に出会った。

@テレビ局の取材

   ケルンの大聖堂前の広場でキョロキョロしていたら、突然テレビ局の客引きに声を掛けられた。『私たちは音楽番組で使う街頭録画を担当しています。一種のクイズ番組です。英国の歌を歌ってくれませんか?』と、担当者が楽譜を渡しながらメロディを口ずさんだ。私の知らない歌だった。『アニー・ローリィ』なら知っていると言って、一節歌ったが今度は相手が知らない。スコットランド民謡ならば幾つか知ってはいるものの、英語の曲名が思い出せない。『チョット待って。荊妻はピアニストだから、多少は知っている筈だ』と言って、20m先まで呼びに行った。

   案に相違して、荊妻も曲名を殆ど知らなかった。ピアノ曲はベートーベンとかモーツアルトの作品が多く、知らないのは当たり前だった。『ここはドイツだ。そこにはライン河も流れている。ローレライなら歌える。但し、日本語だ』と、逆提案。直ちに『OK』。2人で一緒に歌ったのは初体験だ。思うに、彼等のクイズとは『今歌っている人は、何国人か?』と、言ったものだったのではないか?。

A乞食

   繁栄しているドイツにも乞食がいた。普通の国には『乞食道』がある。乞食大国イタリアですらも、無言で掌を上にして差し出すか、控え目に『マネー』と、か細く呟(つぶや)く。しかし、ドイツの乞食は積極的だ。

   ケルンの大聖堂前の広場で30歳位の男が近付くなり『日本人か?』『イエス』『今朝、アムステルダムから飛行機で来たが、途中で財布を落とした。片道の飛行機代を貸してくれないか。私の住所はここだ』と言って、掌を広げて皺くちゃのメモ用紙を見せた。『人に貸すほどのお金は持っていない』と言った途端、サッと諦めて別の鴨を探しにUターン。

   別の日に同じ広場でまた声を掛けられた。20歳位の男だ。単刀直入に『お金を頂戴』と言う。『何故お金が必要なのだ?』と詰問すると、無言で左手を出し、右手で掌から何かを掴む動作をし、そのまま口元へと運んだ。『それなら、銀行に行きなさい』と、強盗をするように唆(そそのか)したら、苦笑いをして立ち去った。一般大衆には余り普及していない英語も、商売道具なのかインテリ乞食にはちゃんと使えるようだ。

B鳥撃ち帽のお爺さん

   フレッヘン(後述、娘が住んでる町)の繁華街を夜歩いていたら、鳥撃ち帽のお爺さんに呼び止められた。ドイツの男は無帽が殆どだ。ドイツ語で『私とは帽子仲間だ』と言っているらしい。長椅子に腰掛け、お互いに意味の通じない英語とドイツ語の会話が続く。40年前に無理やり学ばされたドイツ語はすっかり忘れていたのだ。

   翌日夜、繁華街を歩いていたら、またそのお爺さんに会った。無理やり 500CC缶のビールを飲まされた。『もう1本飲め』と言う。堅く辞退したら、とうとうポケットに押し込まれた。パスポートを見せたら彼の友達と入出国記録を見ながら、国の数の多さに感嘆の声を挙げる。ドイツで出かけた都市名を挙げながらの会話が続いた。

   更にその翌日、『きっと、あのお爺さんに会えると思う』と言って荊妻を誘った。予想通り来ていた。荊妻に『旦那はマフィアのボスだ』と話しかけてきた。意味は分からなくとも心は通じる3人の楽しい会話が続いた。

[3]大道芸人

   日本では殆ど見掛けない大道芸人があちこちの広場にいた。日本人はチップを滅多に渡さないから大道芸人が滅んだが、こちらの人は気前がよい。

@人間彫刻

   薄い単色(ねずみ色とか白など)の衣で全身を覆い、目だけを出した状態で広場の目立つところに立っている。外観は彫刻そのものだ。マリア像や自由の女神など様々だ。時々手足や口を動かし人々の意表を突いて笑いを誘っている。写真のモデルになってチップを貰うなどしながら、雑収入を手堅く確保。

A音楽家

   数人で楽器を弾くグループ、グループサウンズのように歌う人々、一人で楽器を弾きながら歌う人など思い思いのスタイルだが、概して若い男だ。足元の缶には多少のお賽銭が入っているが紙幣は少ない。演奏も歌声もあか抜けしている。後一歩でプロだ。
                              
B絵描き                                 

   大聖堂前の広場の石畳の上に6畳位の長方形を確保し、大きな絵を画いていた。キリスト・マリア・モーツアルトなどテーマはいろいろ。長方形の四隅に缶を置き、その横に『感謝します』との記述。

Cオルガン弾き

   紙芝居の小父さん風の老人が自動演奏オルガンを載せた屋台を引いている。楽譜がパンチされた幅の広い穴明きテープを読み込むとメロディが流れ出してくる。曲の長さに限界があるオルゴールに比べ、テープは幾らでも長くでき、どんな曲でも演奏可能だ。テープをゆっくりと巻き取りながらの演奏だ。     

[4]園芸

@自宅の庭

   大都市の周辺部に住む人(殆どは長屋)には狭いながらも大抵5〜20坪の庭がある。日本の一戸建ちの庭よりも概して狭いが、その管理と活用振りは何と素晴らしいことか!。庭のデザインは千差万別だが、花や葉が美しい小さな植物が隙間なく植えられ、ミニ公園の風情だ。時には家庭菜園も楽しんでいる。雑草は殆ど見掛けないから、普段の維持管理努力が偲ばれる。
                      
   日本庭園のように庭師に頼むような管理が難しい木や、奇妙な形の石を並べる習慣はない。庭には散策と管理のための狭い通路がある。10坪を越える庭の多くは中央部に芝生が広がる。広い庭を芝生以外の植物で埋め尽くすのは管理が大変だからだろう。庭の周辺には50cm以下の低い柵がある場合もあるが、道行く人の視界を妨げない気配りだ。                  

   庭かテラスにはテーブルと椅子がある。庭を楽しみながら家族で談笑しつつ軽食や飲み物を摂り、あるいは新聞や本を読みつつ、人生の余暇をユックリと楽しんでいる。そのためにこそ庭があり手入れにも熱心なのだ。家族の会話が消えつつある日本とは大違いだ。

   日本人は人に自慢できるような立派な庭を作っても、日常生活には殆ど活かしていない。我が体験では屋内では煙が籠るバーベキュウを楽しむくらいが落ちだ。ドイツ人に触発されて、白ペンキ塗りのアルミ鋳物製椅子とテーブルを買ってきた。我が家にも、5畳大(2×4m)のレンガ張りテラスはあったのだ。  

   今年の5月から週に1度(以前は2週間毎)芝刈りをし続けたら、芝だけはゴルフ場のように綺麗になった。雑草は刈り込みに弱く、成長点を摘まれると多くは消滅し、除草作業は不要になった。しかし、椅子に座って庭をじっくりと眺めたら何と見苦しい事か!。芝の周辺には花も少なく雑草だらけ。頑張らなくっちゃ。

   取り敢えずノンビリ過ごそうと、ビールと摘みを持ち出した。しかし、頭上の棚にはキューイフルーツが茂っているのに、暑さに耐え兼ねて2時間で退散。夜、オリンピックの開会式を見ながら荊妻と夕食を摂ったが、蚊の襲撃を受けてこれまた30分で断念。ドイツ人の真似も簡単ではない。

   フレッヘン郊外にある敷地1万坪を優に越えそうな巨大園芸店には、北国なのに日本の店に比べ、種・苗・園芸用品・肥料・用土など、取扱商品の種類は格段に多い。これだけの商品があれば、特殊な趣味人でも、希望の品を見付けられる筈だと感嘆!。

A車で出かける庭

   都心部に住む人には残念ながら庭がない。その人達のためであろうか、市の周辺には広い園芸集積地があった。ケルンからデュッセルドルフへと汽車で出かけたら、両都市ともに園芸地を見掛けた。豊田市の貸農園の場合は1区画3〜4坪だが、こちらは20坪位もありそうだ。                     

   そこには3〜4坪の立派な別荘風の家が建っている。農機具小屋とは格段の違いだ。庭の作り方は庭付き住宅と全く同じ。週日だったのに人が多い。お年寄り中心か?。テラスや庭には椅子とテーブルがあり、のんびりと幸せそうに過ごしている。

…………………………………補足(平成13年1月21日)………………………………

   本日の朝日新聞の家庭欄にドイツの家庭菜園に関する紹介記事が特集されていた。私が汽車から眺めた前述のガーデンは『クラインガルテン(小さな庭の意)』と言い『滞在型市民農園』と訳されていた。ドイツが発祥の地だそうだ。

@歴史

   クラインガルテンは19世紀初頭、急激な都市化で悪化した住宅環境を補うものとして、郊外にラウベと呼ばれる休憩小屋付きの農園を作ったのが始まり。第二次世界大戦中は疎開先にもなった。

A日本の事例

   日本では1990年、『市民農園整備促進法』などの法が整備され、建設が始まった。減反などで増え続ける遊休農地の有効利用と都市住民の自然志向とが一致して、各地に広がっている。年間賃貸を原則とする長期滞在型の他に、短期の宿泊が可能な施設を付けたものもある。農機具のレンタル、有料作業委託などを行っているところもある。

   長野県松本市から北へ十数キロ、標高約 700mの四賀村からは北アルプスが望める。村が作った滞在型市民農園『坊主山クラインガルテン』は小高い山の上にある。10年ほど前に村議がヨーロッパの滞在型農園を視察したのをきっかけに、研究会を発足、法律面や資金問題をクリアして、1994年にオープンさせた。

   利用条件として@最低月4日の利用A菜園での野菜は原則として有機無農薬栽培B生活用品は村内で購入するC入村者には村の1戸と『田舎の親戚』関係を結び、お付き合いをする意思があること、だそうだ。

   1区画平均 300平方メートルの農園が52区画。それぞれの敷地内にコテージが建っている。賃貸料は1年に25万円、競争率は10倍以上。クラブハウスもあり、夏の週末にはクラブハウスでビアガーデンが開かれる。

   茨城県笠間市に今春(2001)オープンする『笠間クラインガルテン』も、1区画の平均が 300平方メートル。各区画ごとにキッチン・フロ・トイレ・居間・ロフト付きのロッジ風の小屋がある。賃貸料は年間40万円もするのに50区画に平均57歳の人が72組応募。

   今や、主なものだけでも、長野県3・山梨県2・群馬県1・三重県1・大分県に1ヶ所もあるそうだ。

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B墓

   教会の境内には墓がある。墓地1区画は3〜4畳分だ。1人、夫婦、家族用と形式は様々だが、墓石以外の場所は全てミニ庭園だ。切り花を花瓶に挿すような手抜きはしない。日曜礼拝帰りに手入れをするのか、管理が行き届いている。各自の墓以外の場所や共用通路は一括して業者が手入れしている。墓地全体が庭園化していた。素晴らしい習慣だ。
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ドイツ各都市

[1]フレッヘン

@街の点描

   フレッヘンはケルンの郊外にある衛星都市である。娘達は市の中心から歩いて10分足らずの位置にある新築10軒長屋に住んでいた。観光客も来ない静かな住宅都市で東洋人もアフリカ人も見掛けない。大きなスーパーでもVISAカードやトラベラーズチェックは受け付けず、現金のみ。

   長屋が多く一軒家は大変少ない。一軒家かと思って近寄ると郵便受けが数個あったりもする。一軒当り数坪の庭があるが、芝生・花・果物・植木が箱庭のように綺麗に植えてあり、窓辺には赤い花が飾られている。休日は朝から庭の手入れをしている人も多い。我が居候中にも空き家(隣家)の芝刈りに管理人が現れた。

   フレッヘンへはケルンの中心から毎時4本出る4両連結の路面電車で丁度30分。切符は車内の自動販売機で購入し、自動刻印機で乗車時刻をプリント。時々抜き打ちの検札があるそうだ。停留所には時刻表と料金表があり、電車到着までの待ち時間が電光板にリアルタイムで表示されている。市内では低速だが、郊外では優に80Kmも出す。郊外電車と市内電車の折衷型だ。電車の内壁にも駅名が電光掲示されるので、外国人でも迷わない。降りる時は身近にあるボタンを押す。
     
   フレッヘンの中心街は電車通りを挟んで 500mに亘り広がっている。スーパーは8〜20時まで営業。サマータイムで1時間繰り上げられている上に、朝が早い。市内中心部は年中日曜天国。中心街だけは単線になっている路面電車が時速10Kmでゆっくりと進む。路面電車の架線は両側の建物に打ち込んだボルトで吊られているため電柱がない。電話線も地中化したのか、道路には街灯しかない。銀座並だ。

   鉄道と両側の建物との間には並木が続き、木陰にはテーブルと椅子が並び、朝から連日満席の賑わい。コーヒー・ビール・コーラ・ジュース・軽食などを取りながら、仲間と談笑しつつゆっくりと人生を楽しんでいる。殆どはリタイアーした老夫妻だ。中には子供連れもいるが少数派だ。働き盛りの人は少ない。日曜天国へは自転車で来る人も多く、木陰には自転車用の頑丈な駐輪場がある。

   乳母車に孫を乗せて町へ出たら、バリアフリーが徹底していることに気付いた。車道より一段高の歩道から横断歩道へと移る場合には、どこかに緩やかな斜面が用意されている。自転車専用通路が歩道と車道との中間にある。車椅子であっても安心して街へ出かける障害者や老人が多い。

   幼児用のバネ付きの跳馬やシーソーなど安全を確保した頑丈な遊具が路面に固定されていた。孫はこれらの遊具が気に入っているらしく、あろう事か私に使い方を教え、乗るようにと強要した。

   毎週金曜日には中心部で市が立つ。長さ12mの国際コンテナサイズの屋根付き車体を用意し、肉・魚・野菜・果物・加工食品を初め、衣類・日曜雑貨など種類も多く屋台は20以上もある。冷蔵庫の電源は少し離れた位置にある専用電源車から引いている。中心街の店との相乗効果で押す押すなの賑わいだ。

   木イチゴやブルーベリー、珍しいキノコなど、朝採りの新鮮な珍しい野菜や果物が溢れている。焼きたてのパンの種類は数え切れない。しかも、1個が20〜30円とびっくりするほど安い。トースト用のパンは人気がないのか、ほんの僅かな量しかないが、長さ40cmもある大きな物が百円。ドイツの人件費は本当に高いのだろうかと疑問に思えてくるほどだ。税金・年金・保険料が高く、サラリーマンの手取りは給料の半分になり、購買力に見合った物価との説も聞く。

   9月3日(日)からはお祭りだ。数日前から朝市の広場と通りに沿って、本格的な屋台の組み立てが始まった。日本の劇場で時代劇を見ると舞台にプレハブの家が現れるが、ここの屋台もそれに似ている。店舗の2階の部分には壁面に絵を描いた屋根が取り付けられている。
                      
   軒先に並べた電灯での間接照明に映える屋根が美しい。屋根の裏には勿論何もない。屋台と屋台との隙間には家を描いた板塀が取り付けられた。典型的な旧市街の再現だ。水道・排水・ガスも取り付けられた。飲み物や料理も出す。9月1日に前夜祭が始まった。広場の中央では手品や歌の出し物もあった。残念ながら翌朝は帰国だ。

   大型スーパーでの、ビール・水・ジュースなど箱売りの重量品売り場は、入り口が別だ。商品には箱代や瓶代が含まれている。空箱を返却するとレシートを発行し、新しく買った商品代と相殺する。ペット・ボトルのリサイクルも徹底しており、その分、捨て去られるゴミが少ない。

   荊妻がベルギー製のチョコレートを発見。ベルギーはチョコレートの原料にカカオ・バター以外の油脂の混入を一切認めない国として有名だ。安いチョコレートには植物性油脂がさりげなく混入されているから、油断は禁物。試しに1箱買って味見。満足した結果御土産用に 250gパックを25箱も買った。その他の御土産物を含めると、食料品だけで30Kgを突破し、カバンに入るか否か、些か心配になった。

A娘の友達

   娘が『子供会』で親しくなり、お付き合いを始めた一家から『お茶』に呼ばれた。奥さんはベルリンに住んでいたそうだ。イラン人と結婚し丁度2歳になる女児がいた。テヘランから義理のご両親が2ヶ月の予定で遊びに来ていた。英語ができる奥さんは娘にとり貴重な相談相手だ。フレッヘンの大人は英語に弱いらしい。観光客のいない商店街などのサービス業者も、英語の勉強は殆どしていない。

   奥さんはインドネシアに旅行し、御土産が居間を飾っていた。ピアノを弾き、絵も画くなど、なかなかのインテリだ。徳川家康・織田信長・宮本武蔵などの名前が自然に出てくる一方、長崎・オランダ・鎖国・ペルーによる開港など、日本史の主だったトピックスにも詳しい。

   『70歳の義父は内気なので口数こそは少ないが、気にしないで』との奥さんの気配りもどこへやら、たどたどしい英語でドンドン発言。『息子2人はドイツで医者。ホメイニはイランを破壊した。モスレムは酒を禁じられていると言うが、ビールは酒の内には入らない、ワインはイスラム以前からあった飲み物だ』等と言いながら痛飲。

   孫娘の両脇下を手で支え、頭上高く持ち上げて『高い、高い!』と言って、遊んで見せた後、手を添えて同じ遊びを女の子に体験させた。当惑気味の表情を最初はしたが、一度体験すると病み付きになったらしく、孫娘と順番争いまでするほどの喜びよう。子供に言葉は不要なのだ。

B大公園

   フレッヘンの中心から数Km離れた位置に、百万坪はありそうな大公園があった。森を切り開き、大きな噴水もある人口湖からの排水のためか、堀川があり、その両側には夫々2列からなる並木が巨木(20m以上)へと育ち、並木に挟まれた空間は散歩道兼サイクリングロードとなっていた。白鳥や鴨が泳いでいる。あちこちに程よい間隔でベンチが配列されている。

   公園の入り口には大駐車場と物置ほどもある大きなゴミ箱が数種類用意されていたが、自動販売機はない。ゴミ箱にはクレーン車で持ち運びできるフックが取り付けられていた。ゴミの持ち帰りを強制するのではなく、駐車場で捨てたまま帰宅できるシステムだからこそ、人は積極的に協力するのだろう。

   サイクリングロードが園内に張り巡らされ、延べ5〜10Kmは優にありそうだ。10〜20町歩くらいの広大な芝生(かと思ったら牧草だった)が広がる空間があちこちにあった。芝刈り機の代わりに数百頭の羊が飼われていた。

   市民はゴザや安楽椅子を持参し、裸になって寝そべったり、本を読んでいる。森の中にはクネクネと曲がった散歩道がどこまでも続く。これだけの巨大空間なのに、週日だったためか、百人も来ていない。何と贅沢な環境であることか。こんな公園があちこちにあるそうだ。

C農家

   近くの農家に野菜や果物を買いに出かけたら生憎の定休日。屋敷の広さは千坪を軽く越えそうだ。大きなサイロや農業機械がある。北海道の大型酪農農家クラス、1億円の投資は不可避な規模だ。入り口の横に売店があった。ガラス窓越しに中を覗くと、瓶詰など自家製加工食品が並んでいた。屋外には値段が書かれた野菜や果物とお金入れのポスト。無人販売所だった。早速、採り立てのトウモロコシを購入。

   ドイツ人の春は白く軟化されたアスパラガス(シュパーゲル)に始まる。日本人の松茸騒ぎに似ている。茎の直径が2〜3cmもあり、巨大だ。アスパラガスに掛ける専用ソースも売っている。残念ながらシーズンは終わっていたが、輸入品を発見し、季節感を味わった。次女夫妻が来年の春の連休に長女一家を尋ね『シュパーゲルを、満腹するまで食べる』と、今から張り切っている。

   尋ねた農家の近くに広大なアスパラガスの農場があった。葉が藪のように茂っていた。家庭菜園用に種を買い求めた。2〜3年後が楽しみだ。

[2]ケルン

   ケルンの名はローマ人の植民地コロニーに由来し、オーデコロンの発祥地。ライン河畔の大都会だ。人口はベルリン、ハンブルク、ミュンヘンに次ぐ。ローマ人の遺跡も、博物館もある。

@大聖堂

   6百年掛けて1880年に完成した大聖堂は高さ・奥行き・幅が 157・ 144・86mにも達する巨大さ。戦争でも攻撃を免れた。509段の階段で95mまで上ったら丁度正午。自動化された鐘撞き操作に運よく直面。モーターでリンクを動かす仕掛けだ。上り下りだけで30分。ドーム内には真新しい巨大なパイプオルガンがあった。堂内を揺るがすほどの大音響が轟いたが、金属性の音が強く荘重な低音が少なくてがっかり。

   ドイツには大理石が少ないのか、光沢もなく小さな穴が多いコンクリートブロックのような石が建材として主に使われていた。過去の石炭暖房の煤煙で黒ずんでいる。ほぼ同規模のミラノの大聖堂が白い大理石で輝いているのとは対照的だ。近くのレントランの経営者に『ケルン最大の観光資源だ。美しく磨いたら?』と、問い掛けると『経費が掛かり過ぎる』と寂しげな返事。炭素を溶かす溶剤は聞いた事もないから、磨くのは大変なのだろう。さりとてペンキを塗るくらいなら、黒ずんだ今の状態の方が歴史の重みに加えて、荘重さも感じられ、大聖堂には相応しいか?。

Aライン河

   岸から岸まで満たされた水の流れは意外に速く、目測では秒速1m。緑豊かな国土なのに水は泥を溶かし込んだように濁っている。長さ百m位の細長くて平ぺったい『はしけ』のような貨物船がユックリと通り過ぎる。ライン下りの観光船も時たま見掛けるが、船の混雑度は低い。

   こんな大河川でも堤防がない。ドイツに限らず欧州の河川には殆ど堤防がない。年間降雨量も、集中豪雨も少なく、洪水の心配も少ないからか?。一方、東海地方は昨夜(9月11日)来の記録的な5百ミリを越える集中豪雨に見舞われ、新幹線は20時間以上も運行停止され、トヨタ自動車も部品不足に陥り操業停止。高速道路も一部閉鎖。名古屋市内の一級河川『新川』の堤防が百mも決壊し大騒ぎしている。豊田市では矢作川の東側堤防から水が溢れて浸水騒ぎが起きた。衛星放送を見て心配した娘や、福岡県遠賀町在住の兄から電話がある始末。

   当局は『百年に一度の豪雨だ』と不可抗力説を早くも唱えているが空々しい。ドイツに比べれば年間降水量は3倍もあるのに、コンクリートとアスファルトで覆われてしまった市内の緑地比率は圧倒的に低く、遊水池はなきに等しい。ヒートアイランド現象による上昇気流も手伝い、最大時間降水量は熱帯のスコールに匹敵する百ミリにも達する始末。かつては時間降水量60ミリを越える豪雨は殆どなかった日本なのに、近年は大都市部で百ミリ突破のニュースも頻発。今後は10年に一度は覚悟させられる水害の走りか?。しかし、死者が僅か10人とは驚く。昭和20年代ならば軽く千人単位だったのだ!。

B観光トロッコ・バス

   大聖堂前の広場からトロッコを連結した観光バスに乗った。車幅が狭く旧市街の隙間も擦り抜けられた。一周30分コースを童心に戻って味わう。密閉された大型観光バスからの眺めとは異なり、窓もなく吹き抜けるそよ風が楽しい。

   車掌兼ガイドの若者が便利な集金カバンを持っていた。コインを種類別に入れる円筒状の筒が取り付けられ、底からは1枚ずつ取り出せるようになっていた。切符をお札で買ってもお釣をさっと渡せる。さながら携帯式レジそのものだ。視力が衰えた私はコインの種類を区別するのが面倒臭く、ビールやアイスクリームを買った時には財布からコインを全部掌に取り出し、店員に必要なだけ拾い取ってもらっていた。

C旧市街

   賑わいの中心は復元された旧市街だ。デパートの外壁は物々しい石造りだが、内部は鉄筋コンクリート。旧市街と言っても復元されているのは外壁中心のようだ。

   町の賑わいはフレッヘンの大型版だ。握り寿司屋もあった。デパートの食料品売り場では、寿司のバイキングもあった。1個 2.5マルク。食料・飲み物・軽衣料が日本の半値以下なのに、寿司だけはさすがに日本よりもやや高い。ドイツ人がドンドン買っている。日曜天国の通りは溢れるばかりの人込み。大都市だけあって若者も多い。

Dローマ・ゲルマン博物館(有料)

   閉館30分前に到着。受け付けの女性が『見学時間は残り少ないけど、宜しいですか?』と気遣ってくれただけあって、展示物は本場イタリアやトルコの博物館ほどではなくとも、大変充実していた。しかし、最大の感動は、あちこちで見飽きているローマ人やゲルマン民族の歴史遺産から生まれたものではなかった。

   ネアンデルタール人の全身骨が展示されていたのだ!。ネアンデルタール人はデュッセルドルフの東28Kmの谷で発見された。しかし、デュッセルドルフの『ネアンデルタール博物館』には本物はなく、コピーが展示されている(まだ未訪問)だけだそうだ。本物はボンの博物館にあると聞き、娘と出かけたら、博物館は改築中で入れず、がっかりした翌日だった。

   ネアンデルタール人の骨は大きかった。ローマのカタコンプ(骸骨寺)で見たどの骨よりも2〜3割は大きく2mはありそうな巨人だ。目の上の骨が出っ張っていて、明らかに現代人(新人)とは異なる。哺乳動物は発生以来、どの種も徐々に大型化して来たのに、猿人⇒原人(例・北京原人)⇒旧人(ネアンデルタール人)⇒新人への進化の中で、最後の新人の発生時に何故小形化したのか、大いなる謎を感じた。

[3]ボン

   ケルンの南にボン、北にデュッセルドルフがある。共にライン河沿いの町だ。娘の運転でボンへ。いつの間にか逞しく変身し、アウトバーンをぶっ飛ばすようになっていた。

   欧州には観光資源化した有名人の家が多い。日本では長崎のグラバー、松江の小泉八雲、明治村に夏目漱石(森鴎外も住んだ)の家などがあるが、数は少ない。長持ちする家が少ないためではなく、荒れ果てた墓に象徴されるように、先人への畏敬の念も乏しく歴史的価値を認めていないためではないか?。マンチェスター郊外ではシェークスピアの家、フランクフルトではゲーテハウスを見た。ボンにはベートーベン生誕の家やシューマン晩年の家があった。

   今までに見たどの家も決して贅沢な作りではない。質実剛健そのものだ。生前の遺稿や生活用品など、良くもまあ保存していたものだと感嘆する。家そのものも維持管理の労を惜しまないためか、小綺麗だ。欧州人が物を大切にする心構えの原点に接した気がする。

[4]デュッセルドルフ

@鉄道

   デュッセルドルフへは一人で出掛けた。荊妻は娘や孫と一緒にケルンの動物園へと別行動。ケルンの中央駅は終点ではなく、通過駅だった。ドイツの鉄道はアウトバーンに押されて衰退しているかと思いきや、その繁栄振りに驚く。時刻表で数えると1日の発着数は合計約千列車。

   切符は航空券の大きさ。封筒並だ。注意書きが満載されている。日本の切符とは違い、発着ホーム番線も書かれている。新幹線と在来線が同居している。国際標準広軌だからできる技だ。今回はインターシティ(都市間特急)に乗った。改札口はなく車内での検札だ。省人化は極力進んでいる。車内は片側3列と通路を挟んで1列の座席。3列側は対面する6座席毎の個室になっていたがドアはなく、開けっ放しだ。仲間連れには便利。                   

   列車には日本では見た事もない自転車専用置き場もあった。市内の自転車専用通路だけではなく、旅行者には運搬の便宜も計っている。インフラ全体に整合性がある。時速 150〜180Kmは出ている。日本の在来線の特急よりも5割は速い。
 
A日本人町

   3百社6千人とも言われる日本人相手の商売が盛んだ。回転寿司まであった。『サークル寿司』ではなく『寿司サークル』だ。百坪はありそうな大型の日本語専門高木書店があった。価格は2倍弱だ。個人が日本から取り寄せるよりもチョット安い価格だそうだ。日本人相手の御土産屋同然の『三越』も、売り場の半分は本屋だった。駐在員の子弟向けか、学習参考書や幼児向けの本が異常に多い。価格は高木書店並。

   丁度日本週間だったらしく中央駅前の広場には大きな日章旗がドイツの国旗と一緒に掲揚されていた。旧市街の目抜きビル中央、吹き抜けのロビーで、ドイツ人による『合気道』の模範演技が披露されていた。 180cmはありそうな巨漢の迫力は見栄え十分。スローモーション演技だったので、技が理解しやすい。提灯などもぶら下げ異国情緒を演出。畳の代わりに発泡樹脂を青布で覆った床だけが玉に疵。

   その傍らには長野県から来た蕎麦打ち団体が10割蕎麦(普通の蕎麦はニハチ蕎麦といい、蕎麦粉80%)を手打ちし、日本から持ち込んだ大釜で茹で、片言英語でドイツ人に無料で振る舞う。自弁で来たそうだ。粉から蕎麦切りまで20分。さすがに鮮やかな手打ち演技だった。
                      
B旧市街と対照的な新市街

   戦災で殆ど破壊されてしまったデュッセルドルフにも中世風の旧市街が再建され、長さ1Kmに亘る歩行者天国が続く。道路はテーブルで埋め尽くされ『ドイツ一長いカウンター』とご自慢。ライン河畔にも巨大な屋外レストランがあった。

   旧市街の一角にあった 100×100m位の広場が潰されて、恒久的な市場に変り買い物客が殺到していた。大きなテントが張られ、その下に屋台が並ぶ。雨降りにも困らない。食料品・花・植木・日常雑貨が中心だがライバル店が多く、比較するだけで疲れてしまうほどの広さだ。スーパーやデパートよりも賑わっているのは、価格以外の要素に、買い物の楽しさがあるように見受けられる。注文を出すと売り子が嬉しそうにニッコリとほほ笑む。大型店のレジの女性には見られない反応だ。

   一方新市街は日本とあまり変わらないオフィス街。建物は鉄筋コンクリート中心で10階以下が大部分。壁面の装飾も殆どなく実用本位。所々に中高層ビルがあるが、重量鉄骨+ガラスからなり、ドイツらしさは全くない。この機能本位の新市街には観光客も地元民も関心がないのか、歩道は閑散としていた。

   この町にも個人を顕彰する『ハイネの家』とか『ゲーテ博物館』があるが、この種の記念館も見飽きてしまい、未訪問。町の概況を散歩しながら観察する方がはるかに楽しくなった。

   新旧市街の境目には大きな教会があった。中を覗いたら何と半分を仕切って飲食店として使っていた。プロテスタントはカトリックに比べ信仰心が薄れているのか、教会も副業を始めないと生き残れないのか、周辺には住民が少なく檀家が減ったのか、初めて見た光景だ。

   歩き疲れて、デュッセルドルフだけでも3ヶ所もある大型百貨店『カウフホーフ』に入り、食堂街に出向く。カウンターで『デュッセルドルフで一番有名なビール!』と叫んで注文。『アルトビールだ』と、嬉しそうに教えてくれた。この町自慢の地ビールだ。赤ブドウ酒のような色だった。パンはいくら沢山食べても無料。日本では水は無料だが、御飯が無料の店に出会った試しがない。

   カウフホーフはケルンにもあったが、全国各地にあるそうだ。どれも地下1階、地上5階建ての低層建築だったが、外壁だけは物々しい石造りなのはオーナーのプライドか?。日本のスーパーと百貨店の中間的な存在だった。食料・衣料・生活雑貨・電気製品中心で高級衣料品は見掛けなかった。取扱品目から言えば五十貨店だ。しかし、延べ売り場面積は3万平方メートルはありそうな大きさだ。

[5]ブレーメン

   最後の週末は『メルヘン街道』を目指して北上。グリム童話のルーツ(昔話や伝説)を誇る町々を北のブレーメンから南のフランクフルト郊外ハーナウまでを結ぶ、総延長 600Kmからなる観光コースだ。途中アウトバーンの補修工事に何度も出くわし予期せぬ渋滞。日帰り予定を1泊旅行に急遽変更。

   アウトバーンの標準は3車線だが、工事中は片側の車線を4車線に引き直す。元々の車線幅が広いので、1車線増やせるのだ。しかし、安全のために 100〜130Kmの速度規制があり、道路容量が結局下がり渋滞化。

   ブレーメンは北海からヴェーザー川を64Km溯った、ハンブルクに次ぐドイツ第2の貿易港である。田舎で食いはぐれた人々が、繁栄するブレーメンで一旗揚げようとした動きの象徴とも言われる『ブレーメン音楽隊記念像』がマルクト広場の目玉だ。ロバの背中に犬、犬の背中に猫、猫の背中におんどりが乗っている。

   第2次世界大戦では英国パイロットの判断で中心部だけは、京都・奈良のように破壊を免れた。長さ百mの折れ曲がったベトヒャー通りはマルクト広場と競い会う観光名所。20世紀の初め、コーヒー商人ロゼリウスが中世の町並みを再現すべく、様々な建築様式で芸術性の高い建物を作らせてできた通り。本物の中世の建物ではない。

   市庁舎地下の老舗ドイツ料理店に立ち寄る。ワインが常時 600種 100万本あるそうだが、本当だろうか?。格式はあっても観光客相手のドイツのレストランは、ネクタイ着用などの無意味な要求をしないから、入りやすい。ドイツ料理を満喫。

   『ドイツ料理は美味しくない』と物知り顔に言う人もいるが、無知を晒しているに等しい。ちゃんとしたレストランでそれなりのお金を払えば、どんな国でもお国自慢の美味しい料理に出会えると言うのが、我が体験に基づく確信だ。私は日本料理は海外では原則として食べない。高くてまずく、がっかりするからでもある。

   『ロイヤル・クイーンズ』と言う立派な名前のホテルに泊まる。イギリス様式のパブもあった。今時珍しくシャワーだけのホテルだったが、シャワーの吐出量が普通のホテルの2倍はあり、滝のように流れ落ち、バスタブなしの不満がないどころか、シャワーの真の醍醐味が味わえて快適。その上、満水までの待ち時間も不要で合理的だ。

   ドイツのホテル(オランダやベルギーも)は大抵朝食付き。バイキングのメニューは出張で泊まり慣れたイスタンブールのヒルトンの朝食25$にも劣らない。ハム・ソーセージは勿論、大好きなスモーク・サーモンや果物も豊富。2〜3人前をせっせと食べた。昔の保存食時代の伝統か、何故か塩辛いのが玉に疵。これ程の内容で16%の税込み2部屋計 300マルク(1万5千円)也。

   今やドイツ・オランダ・ベルギーのホテルも日本の温泉旅館並に有料テレビが蔓延している。ボカシなどは全くないそうだが、62歳ともなると残念ながら関心も薄れる。人生はかくして走り去るのみか!。

[6]ハーメルン

   メルヘン街道のほぼ中央に位置し、『大発生したネズミを退治した笛吹き男に対して、町民が約束の報酬を拒否したために、今度は町の子供たちが誘い出され連れ去られてしまった』との伝説を元に書かれたグリム童話『ハーメルンのネズミ捕り男』で有名な街だ。この伝説は1284年6月28日、130人の子供たちが失踪した史実に基づくそうだ。東方植民地に売られた、少年十字軍に参加した、ペストで死んだなど諸説あり。

   観光コースの順路に沿って番号の書かれた立て札があり、通路にはネズミの絵が書かれ見落としなく巡回できるようになっている。そのコースの一部は『音楽を演奏しない通り』と名付けられ、大道芸人などへの規制が今も守られている。

   大通りでは楽団を編成した市民が生演奏に合わせて合唱していた。毎日歌っているのか意外に上手い。広場の舞台では毎日曜日、地元の老人が正装して合唱。これも上手い。引き続きネズミ取り男の芝居があるそうだが、見る時間がなく残念。

[7]カッセル

   グリム兄弟が30年間も居を構え、伝説を収集したヘッセン王国の首都。言わばグリム童話発祥の地でもある。グリム兄弟博物館があるが未訪問。 
     
   しかし、ここの観光名所はヘッセン王国時代に建設された欧州最大の丘陵公園(無料)だった。山全体が公園化され、公園内には美術館に転用されている宮殿もあるが割愛して、孫を叱咤激励しながらひたすら山登り。

   山頂にそそり立つ八角堂(高さ60m)の屋上に据えられた、高さ8mのヘラクレスの巨像が市街を睥睨。素晴らしい人工の滝が、高度差約百メートルの頂上から水飛沫を挙げながら流れ落ちる。前半では階段を水が流れ落ち、後半では垂直の滝が数箇所続き最後は池へと流れ込む。5〜9月の水・日・祝日 14:30〜15:00に滝のショーがあり、無事見学できた。

   滝の原理は揚水発電所と同じだ。下の池から水を山頂の塔の中の貯水池に汲み上げ、水門を開く仕掛けだ。ポンプの揚水効率を50%、毎秒1トンの水を30分流していると仮定すると、滝のショー1回分に1000KWH、約2万円の電気代がかかることになるが、観光客が地元に落すお金でいとも簡単に回収している筈だ。
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オランダ

   アウトバーンの両側にはトウモロコシ畑が続く。時たまジャガイモやレタス等の野菜畑が現れる。ドイツ料理にはトウモロコシがふんだんに使われるメニューはなく、恐らくは家畜の餌だと推定。ドイツでは牛・豚・羊等の大型家畜を合計すると、人口の半分(日本は1/8)にも達する。かつてライン河の水質汚染の主原因に家畜の屎尿が槍玉に上がった程だ。国全体では家畜の総摂取カロリーは人間よりも多いと思えるので、農場の半分は家畜用か?。1家族当たり毎年1頭、百Kgもの肉を食べ尽くしている計算だ。

   農場の大きさは一見して、1枚10〜20町歩。北海道(十勝平野)の10倍、耕地整理後の日本の大型水田の30倍はある。日本のようなチマチマとした境界の畔道も少なく、美しい光景だ。1年中雨が平準化して降るせいか、灌漑用の池や水路も見掛けない。

   平坦な国土には未開墾地が大量に残されている。これ以上開墾しても、余剰農産物が増えるだけ、さりとて欧州一高い人件費を考えるとEU諸国への輸出競争力はなさそうだ。いわんや、EU域外の農業大国、アメリカ・オーストラリア・アルゼンチン等に勝ち目は一層なく、残りは人工林として維持されているのだろうと推定しながらも、ゆとりに満ちた国土は羨ましい、と思わざるを得なかった。

   時には家畜が放牧されている広大な牧場や牧草地も現れる。刈り取られた牧草は機械で円筒状(直径1m×長さ2m)に梱包され、畑に転がされたり、積み上げられたりしたまま放置されている。

   たまに火力発電所と擦れ違う。近くに大河川がないためか、高さ百mは優に越す徳利のような形の冷却塔を見掛けた。日本では原子力や火力の大型発電所は全て臨海部にあり、冷却水には海水が使え、クーリングタワーは不用。欧州はアジアのモンスーン地帯に比べ大河の密度は圧倒的に小さく、やむを得ないようだ。孫は冷却塔からモクモクと立ち上る大量の湯気を見ながら『雲、雲!』と興奮気味。

   アウトバーンのサービスエリアにはガソリンスタンドとコンビニがあった。トイレはコンビニ客用の小さなものだけ。日本のサービスエリアのような巨大設備はついぞ見掛けなかった。通行料は無料なので必要時には町へ出れば済み、独占の最たる産物のような高価格施設は成立しないのだろう。しかし、日本同様アルコール飲料だけは店になく、アイスクリームで我慢。立ち寄るのはドライバーだけとは限らないのに!。

   今やEU内の移動は国内扱い。アウトバーンにも国境はない。昔のゲートは取り壊されずに建ってはいるが人影はない。路肩に国境を示す直径1m大の丸い立て札があるだけだ。オランダの高速道路もアウトバーンと連結されており、一見しただけでは規格の違いは分からない。しかし、婿は『多少、落ちる』と評価。

   オランダに入っても沿線の風景は殆ど変わらない。トウモロコシ畑や家畜ののどかな放牧地が延々と続く。乳牛が数十頭単位で牧草を食(は)んでいる。餌は只に近く、乳製品が安い筈だ。人口密度が高い国と言うイメージは全く沸かない。時々、アルミの支柱と梁にガラスの屋根が輝く温室( 100×400m)が現れる。園芸大国オランダの面目躍如、さながら野菜や花の大型量産工場だ。この位が1軒の農家が管理できるサイズかも知れない。愛知県渥美半島の電照菊栽培温室の貧弱さが思い出される。

[1]アムステルダム

   オランダにはアムステルダム、ロッテルダムを初め、『**ダム』と言う地名が多い。『黒部ダム』などと同じ命名法だ。アムステルダム市の名前はアムステル川に築かれた堤防に由来する。

   低湿地の地盤が劣悪なためか、よく見れば殆どのビルが傾いている。旧市街のビルは互いに隙間なく建っているから、相互に持たれ掛かっていたり、個々のビルが前後に傾いたりしている。地震の心配はないし、多少のことは気にしない国民性か?。しかし、殆どのビルが傾いているブラジルのサントス程ではない。サントスでは傾いたビルを引き起こしている工事現場を何箇所も見た。

   アムステルダムの中心はダム広場だ。ケルン大聖堂前の広場同様、ここにも大道芸人が自分の演技力だけを頼りに、逞しく生きている。鳩も多い。孫は夢中になって走り回っている。油断していると姿を見失ってしまいそうだ。

@運河の町

   アムステルダムには 165もの運河が張り巡らされている。物流を目的にしたのではなく、排水用に掘ったのではないかと推定。海に沈みつつあるベニスにそっくりだ。今では観光船が賑やかに往来している。

   運河のお陰で1292個もの橋がある。大阪市の 808橋(本当にこれほどあるのか、未確認)も影が薄い。船の通過時に手動で中央部が分離されて上へ持ち上げられる跳ね橋は、1671年にマヘレが作った木製以外に、もう1ヶ所あった。この橋すら今や観光資源だ。運河に沿って道があり並木も美しく水辺に映え、巧まずして頭上に大空間が確保され、開放感に満ち散歩が楽しい。

   運河に沿って『ノミの市』があった。日本人は骨董品ならば関心を持つが、生活雑貨や中古衣料品には屁も引っ掛けないためか、この種の市場は見たことがない。この賑わいからオランダ人の堅実な生活態度が胸にグサッと突き刺さった。オランダ本国にはこれと言った天然資源がない。あれこれ長時間掛けて吟味した結果、大の男が爪切り1個を買った。

Aアンネ・フランクの家

   運河に沿ったありふれたビルの中にアンネ・フランクの家があった。外観も目立たず、大きな看板もなく、地図を片手にしながらも辿り着くのが難しい位だ。今やアムステルダムの新観光名所になってはいるが、近くには駐車場も少なく、困り果てた婿が、1時間後に迎えに来ると約束する始末。

   アンネの家は博物館を兼ねている。ビデオも各部屋にあり、ユダヤ人を逮捕し貨車に積み込んで鍵を掛ける場面や、収容所での軟禁状態の記録映画が放映され、迫力満点。自由に操作できるパソコンも多数用意され、膨大な映像情報が取り出せる。スペースが限られている場所では、大変合理的なシステムだ。アンネに合掌。

B東京駅のモデル

   アムステルダムの中央駅は東京駅のモデルとしても有名だ。赤に近い色のレンガだけではなく、外観も大変似ている。東京駅は3階建てだったのに、関東大震災で壊れ、2階建てに立て替えられた。爾来、日本ではレンガ建築が廃れてしまっが、本場の駅は今なお健在だ。

Cアムステルダムの宮殿

   日蘭友好を記念して宮殿の大広間とそれを取り巻く小部屋が、そのための展示室として使われていた。主として鎖国後の遺品が展示されていた。逆に、日本には本格的なオランダ記念館が、どこかにあるのだろうか?。

D飾り窓

   かの有名な飾り窓があるビル街を通り抜けた。デパートのショーウィンドーのような奥行きの浅い小部屋があり、水着姿の女性がマネキンのような格好をして入っている。昼間から賑わっていた。『幾らなの?』『50フランです』。約2500円なので聞き間違えたかと再確認。『50フラン?』『イエス』。国際相場(1〜2万円)に比べこれ程安いのは、生活に困ったバルカン半島や東欧出身の女性達が主力なのだろうか?。

   その日は、アムステルダム空港ビルに隣接した『シェラトン』に泊まった。アメリカ式の機能的で美しく且つ大きな部屋だ。

Eオランダ人は大きい

   国民の平均身長が一番高い国はノルウェーとの説があるが、両国を比較すると、オランダ人の方が高いような気がした。 177cmの婿も目立たない。オランダ人が大型化したのは酪農王国となり、牛乳をふんだんに飲んだ結果らしい。昨春より骨粗鬆症対策として牛乳を毎日1gも飲んでいるが、遅過ぎた。

   栄養状態が良くなっても、遺伝子が変わらない限り元の木阿弥になると思えるのに、明治以降の日本人の大型化を初め、体位が変化するのは何故なのか不思議だ。ベルゲンで見たノルウェー人の昔のベッドも、風車小屋(後述)で見たオランダ人のベッドも意外に小さく、両国民が大型化したのは近世以降なのだろうか?。

[2]スキーダム

   全盛期には1万基超の風車大国だったが、今では観光資源として、所々に残されているだけである。スキーダムにはオランダ最大の風車を含む5基があった。運転は特定日の特定時間帯のみだ。私達が出かけた日は残念ながら停止日だった。その内の1基は博物館になっていたがこちらも運悪く休館日。しかし、そんな事情は私に取り何の失望にもならなかった。その巨大さに驚愕したのだ。

   今までにも風車の写真は何度も見ていた。風車小屋に風車が取り付けられている写真だ。その小屋の大きさは2階建ての民家大と、勝手に推定していた。ところが、小屋の高さは推定30〜40mは優にあった。近くのマンションよりも高い。世界最大の風車の直径は何と28mもあった。マダガスカル島のバオバウの木(未だ未見学)に似た小屋だ。

   風車の羽根=2m(幅)×14m(長さ)×4枚、風速=10m、回転数=毎分15回と仮定し、空気力学の簡単な方程式で計算すると、何と2百馬力の出力になる。10年前の風力発電機並(最近は大型化が著しく、千馬力を越える発電機も増加)の出力だ。風車小屋がレンガ造りでお城のように頑丈な理由はすぐに納得できたが、風車の制御方法については疑問を残したままだった。掲示板には工学的な説明は全く書かれていなかった。不満、不満!

   風車は揚水以外に粉挽きにも使われていた。石臼はギリシアのパルテノン神殿の柱を輪切りにしたほどに大きかった。1トンは軽く越えそうだ。

[3]キンデルダイク

   世界遺産にも登録されているキンデルダイクの風車群は、やや小振りではあったが30基もあった。こちらも残念ながら停止中だったが、掲示板に基本情報が記載されていた。30基の風車で毎分1350トンの水を2段階で合計3mも揚水していた。情報がこれだけあると、元気が急に溢れ、風車の出力を嫌でも推定したくなる。

   風車群の内、1基は幸い見学できた。風車の回転軸は水平だが、小屋の中心に設置されている木製直立角柱(50×50cm)に、直径3mの木製歯車でトルクは伝達され、水平に設置された揚水水車の回転軸に木製歯車でもう一度変換される。揚水水車(直径4m)の構造は、日本でも戦後暫く(昭和30年代)まで農村で使われていた水田の揚水水車と同じだった。密閉度が低く漏水が多い。風車から水車までの摩擦損失を加味し、全体の効率を30%と仮定して風車の平均出力を逆算すると、1基百馬力にもなる。

   風車の中は住居を兼ねていた。台所や寝室もあり、時計や鍋釜・食器など生活用品も展示されていた。ベッドが小さいのに驚く。1家族が生活するには十分な広さだ。しかし、狭い上に急勾配になっている階段の不便さは否めない。川の対岸には管理人なのだろうか、水車小屋で一家が生活していた。

   塔を介して風車とは反対側に逆三角形をした大きな木枠が取り付けられ、1mの高さには、船舶の操舵に似た円輪に放射状の取っ手を付けたような回転装置があった。切符切りの青年に聞くと、目的は3つあるそうだ。@風車の回転軸が傾かないようにするためのカウンター・ウエイト。A風向きに合わせて風車の位置を変えるための機構。B風車の回転を止めるブレーキ。

   風車は塔内中央部にある垂直の回転柱及びその上にある屋根と一緒に、塔の回りをぐるぐる回せる構造になっている。屋根はホテル・ニューオータニ屋上にある回転式レストランみたいなものだ。イナーシャ(慣性質量)を小さくするためか、屋根は茅葺きだ。風車の羽根は木枠で作られ帆(厚い布地)が張られている。風車を止めた後は帆が畳まれ、羽根は格子のみとなり風はすり抜けて行く。
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ベルギー

   ベルギーはゲルマンとラテン両民族の接点の国だが、ややラテン寄りか、フランス語の普及度が高い。隣国のオランダではドイツ語に加え英語も普及しているのとは大きな違いだ。

   ベルギーにはまだ石畳の道路が多い。10cm角大の石が敷き詰められている。この位の大きさだと、道路に不等沈下が起きても,発生する曲げ応力は小さく石が割れる心配も少ない。舗装は長持ちするものの、自動車の乗り心地は悪く、歩道も歩き難い。ベルギー人にとっては、使い心地よりも耐久性の方が大事なようだ。

[1]アントワープ

@ノートルダム大寺院(聖母大聖堂)

   建設期間1352〜1521年、高さ 123mもあるベルギーで一番大きな教会だ。この教会は美術館も顔負けの異色。『フランダースの犬』の主人公、ネロとパトラッシュが見たかったルーベンスの大作など、立派な絵画が祭壇近くに展示されていた。

A昼食

   奇妙な食材が多い。私は久し振りに食用ガエルを食べた。筋肉の塊のような足は柔らかな鶏肉のような噛み心地だが、淡泊でコクが今一。濃厚なソースが添えられていた。爪楊枝のような細い骨も、虫歯のない私はバリバリと食べてしまった。

[2]ブリュッセル

   湾曲した形に特色のあるEU本部の建物は、旧市街の石造建築とは対照的に鉄とガラス製ビルで、修復中だった。修復中の石造建築は殆ど見掛けなかったので、欧州でも近代建築は寿命が短いようだ。或いは改修し易いと評価すべきか?。戦後作られたニューヨークの国連ビルも約1千億円の予算で改修するとの新聞記事を見たばかりだ。日本最初の超高層ビル『霞ヶ関の三井ビル』は床面積15万平方メートル、150億円で1964年に完成したが、数年前に 450億円も掛けて改修された。物価上昇が大き過ぎて比較困難だが、改修費も新築費も大差ないような気がする。

   観光の中心地グラン・プラスの広場へと急ぐ。70×110mの広場には砂が厚く撒かれ、ビーチバレーのコート2面で試合の真っ最中。階段状の大型プレハブ観客席がコートを取り囲んでいた。組み立てと撤去の手間は気にしないらしい。優勝チームの選手達は、コートを見下ろす市庁舎のベランダに立ち並んで表彰されていた。やんやの喝采。

   甲乙付け難いほど豪華な建物群が広場を取り囲んでいる。典型的な欧州の風景だ。類似の都市美を日本では全く見掛けない。明治以降欧州文化の良いとこ取りをした筈の日本人が、この広場文化を導入しなかった理由が分からない。今回の旅行中に初めて雨が降った。広場のテーブルで談笑していた人々が一斉に逃げ出す。テラスが大好きな欧州人でも、雨に濡れるのは嫌いらしい。

   近くには『小便小僧』が飾られている一角があった。びっくりするほど小便小僧は小さく、赤ん坊くらいの大きさだ。かつてルイ15世の兵士が像を盗んだ時、王が謝罪の心を込めて、金糸で刺繍された衣装を着せて返却。爾来衣装のプレゼントが続き『マネキン』の語源にもなったそうだ。日本ではお地蔵さんに涎掛けを着せているが、ああ、貧しい。

   市内中心部にある『ブリュッセル公園』は緑が鬱蒼としている宝物のような存在だ。何故かブリッセルの街路には緑が少ない。公園内の広場では大人や子供が大勢長椅子に並び、絵を描いていた。公園への通路から市街地の建物も見え、程々の遠近感に富んだ風景画が描けるからか?。

   公園とは道路を挟んで王宮があり、王宮正面には庭園がある。低い庭木はレンガを並べたような幾何学形状に、しかも1m以下の高さに剪定され、道からの視界を妨げない。庭木で囲まれた平面は芝生と花とで満たされている。イギリス人には剪定という観念がないように感じるが、ここは剪定万能主義のフランス式庭園そのものだ。

   夕食には『ムール貝』の香草入りワイン蒸しを食べた。一人前は標準で1Kg。普通サイズの鍋一杯もある。1個ずつ食べるのは面倒だが、やむを得ない。アサリに似た味だが、やや泥臭い匂いが残っている。生のムール貝も食べた。生牡蠣程には美味しくは感じなかった。何となく不衛生に感じたものの、食中毒には掛からなかった。このムール貝料理はこの辺りの特産物なのか、ベネルックス三国のみならずドイツでも見掛けた。ムール貝をもう一度食べたくなり、フレッヘンのスーパーで、冷蔵庫に入れて売っていた真空包装されたパック入りを買ったが、賞味期限までの数日間、何故生き続けられるのか不思議だった。

   ロイヤル・ウィンザー・ホテルに宿泊。今度も立派なホテルだ。婿の話では、出発直前にインターネットで予約するのがコツとか。2部屋・バイキングの豪華な朝食付きでたったの9000ベルギーフラン=22000円。

   ブリュッセルの市街地が眼下に見下ろせる『芸術の丘』とか、独立を記念して建てた凱旋門とか、有名な観光資源は五万とあり、孫の体力に合わせた旅行と雖も段々と疲れてくる。有名な教会や王宮も内部は大同小異(と勝手に推定)なので、専ら外部から市街全体とのバランスを楽しみながら、建物のデザインを眺めることに専念。
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ルクセンブルク

   我が海外旅行も、定年後にインド・サンマリノ・オランダ・ベルギー・ルクセンブルクが加わり、とうとう40ヶ国目に突入。最近ふと海外旅行の新目標が脳裏に浮かんだ。『世界遺産を巡りながらも、累積訪問国数は年齢以上にキープしょう!』。年末(12月4〜7日)にはゴルフ友達と韓国8都市巡りをするので41ヶ国になるが、目標にはまだ程遠い。その時点でも達成度はたったの66%。 
     
   まごまごしていても年は取り、折角目標に近付いた達成度がずるずると滑り落ちてしまう。最近は再訪問国が増え、新規国が減って来た。百ヶ国くらい行って置けば、取り敢えずは安心だが、チョット無理か?。困った、困った!。

   ルクセンブルクは面積2586平方Km、人口は豊田都市圏と同じ40万人の小国だが、都市国家と言うイメージは湧かなかった。首都に人口が集中し、周辺には田園や丘が広がる緑豊かな国だった。何故か旧市街らしきたたずまいに欠け、欧州らしさがない。石やレンガ造りの建物が少なくがっかりしていたら、やっぱり広場はあった。

   広場には飲食店のテーブルと椅子が氾濫。昼食時空いている椅子に座ったら、程なく若い男の給仕が『こちらに移れ』と手招き。そのレストランのテーブルは10卓程度ずつ3つに分けられ、何と客の奪い合いを3人の給仕がしていたのだ!。大勢の客を確保した後の仕事の遅いこと、遅いこと。注文を取りに来るのが遅いだけではない。料理を持って来るのも、精算をするのも遅い。結局2時間も貴重な時間を潰される羽目になろうとは、夢想だにしなかった。

   ハイテク機器はこんなレストランにも導入されていた。携帯式会計機だ。VISA等のカードを読取り、その場で領収書の発行ができる。広場のテーブル客の場合、建物内のレジだと給仕に不便なだけではなく、客もカードを不正使用されるのではないかと、余計な心配をさせられる。

   近くには城塞が公園として管理され、美しい渓谷もあった。ルクセンブルクはスイスほどではないが、内陸部の山岳国家だったのだ。
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ゲルマン民族の物心両面に亘る歴史遺産

   ゲルマン民族の国は何故美しく感じるのか、若干の重複を厭わず視野に映った世界を振り返りたい。何故彼等がこんな努力をしているかの理由は憶測に過ぎないが、結果の美しさは誰にでも自明なほど理解し易い。
                
   なお蛇足だが、ゲルマン民族中心の典型的な国は、イギリス・オランダ・ドイツ・スウェーデン・ノルウェー・デンマーク・オーストリー・スイスである。アングロ・サクソン族はゲルマン民族に含まれる1種族である。

   美しいと感じるか否かには、勿論個人差があって当然だが、そのばらつきは意外に小さい。大人同士だけではなく、大人と幼児間でも評価の差は小さいようだ。キンデルダイクで風車を見に行く道すがら、美しい花が咲いていた。長さ20cm程度の花を数本摘み取り、孫娘に渡したら、喜んで受け取った。その直後の事である。

   婿が同じ位の長さではあったが、枯れ果てた1本の茎を拾い、孫に渡した。孫は困惑気味の表情をしたものの、取り敢えずは受け取った。しかし、数秒後には、『いらない』とばかりの表情で、婿に返した。美しい物だけを選ぶとの判断力は、生後僅か20ヶ月の幼児にも芽生えていたのだ!。

[1]都市美

@遠大な都市計画

   ドイツの都市計画はヒットラーに始まる。当時の都市地域を固定し、新開発はその域内でのみ建設・立替を許可すると言うものだ。その後も今日まで続いている規制らしい。爾来、住宅の高層化が進み、人口密度も高くなり、インフラ投資も効率化するばかりだ。都市域の人口密度は日本よりも高い。ベルリン以外の諸都市の人口は百万人以下が殆どであり、交通渋滞も少ない。アウトバーン・フォルクスワーゲンと並ぶヒットラーの大いなる遺産だ。

   日本に市街化調整法が実施されたのは1970年4月1日からだ。土地が暴騰するとの噂が広まり同年2月、1年で5割も上がった土地を、坪3万円で全額借金をして私は泣く泣く買った。30年間も都市計画税を何の恩典もないまま払い続けさせられたが、2001年4月1日に我が家にもやっと公共下水道が開通する。        
                       
   市街化調整法施行以来土地は10倍にも暴騰し、東京や大阪では大邸宅の跡地を再分割したミニ開発が氾濫。彼我(ひが)の格差は広がるばかりだ。日本人が1戸建て住宅に愚かにも固執した結果だ。近ごろになってやっと、質さえよければ終いの住家はマンションでも構わないと思う世代(昭和30年代の公団住宅や社宅育ちか?)が増え、都市住宅の高層化が進み始めたが、政府が恩典を与えながら主導したシンガポール並の急激な変化は、当分期待できそうにもない。価値観の自然な変化待ちでは、3世代百年の歳月が掛かかりそうだ。

A旧市街

   欧州各地にある古い都市には、大抵旧市街がある。戦争で破壊された町も昔通りに再建されている。この旧市街の建物には共通点がある。建物同士は隙間なく隣接している。つまり隣接面は単なる強度壁に過ぎない。こんな建方ができるのは、建物に庇がなく、壁は、石・レンガ・ブロックなどを積み上げただけだからだ。その結果、個性が発揮出来るのは道路や広場に面した建物の壁面だけだ。
     
   ハンザ同盟諸都市の固定資産税は間口の大きさで決まっていた故か、道路に対して横向きに、且つ奥行きを長くした建物が多い。京都の町屋と似ている。道路に面した壁はそのままでは長方形に三角形を載せた単純な形になってしまう。三角形の部分を背後の建物の大きさとは無関係に大きく上へと拡大し、鬼瓦のように美しく飾った建物が何と多いことか。壁の背後には当然の事ながら何もないのに。

   再建された建物の本体は近代建築(鉄筋・鉄骨)でも、壁面だけは昔の石造り風の装飾になっている。どっしりとした石造建築かと思い近付いたら、鉄筋コンクリートの柱に、彫刻が浅く施された厚さ1cmの石板が張り付けてあった。ある時には、昔風の彫刻を鋳込んだ発泡硬質樹脂製の板を張り付け、古風な塗装がしてある建物を発見。柱の角が欠けていたので気が付いたのだ。            

B電柱          

   自動車が映っている時代劇映画に、もしも出会ったらどんなに興醒めに感じるだろうか。旧市街は中世の景観を徹底して復元、電柱類は全くない。20世紀の初めにニューヨーク市の幹線道路上が、今の日本並に電線で蜘蛛の巣状になっていた時、彼等は都市美化のために立ち上がった。世界大恐慌時の写真では、電線は既に一掃されている。
 
   今やドイツでは都心には新旧を問わず電線はなく、住宅地でも非常に少ない。無線化とマイクロガスタービンや燃料電池などが一般家庭に普及するまで、日本の電線は残留するのだろうか?。日本はいつドイツに追いつけるのだろうか?。

C広告

   都市内には、けばけばしい広告類が殆どない。ビルの名称が分かる程度の案内灯が散見される程度だ。時々、広告類が氾濫した通路を見掛けた時には、その異常さが大変気になった。

D河川や公園の管理

   欧州の河川にはその大小を問わず、堤防が殆どない。日本では堤防のない一級河川を見た事がない。人は誰でも何故か水辺が好きなようだ。羊水の中に生きていた原体験に由来するのだろうか?。河川・湖沼・海岸に恵まれない時は、人口湖をわざわざ作るほどだ。日本でもゴルフ場には障害物を兼ねた池がある。日本では高さ5〜10mの大堤防に視界を遮られ、大河川の側は鬱陶しい。

   ライン河の岸辺の高さは、隣接する市街地と同じ。無限に幅の広い堤防と同じだから決壊もせず、天井川のように屋根まで水没するような洪水の恐れもない。岸から岸までヒタヒタと水が打ち寄せ、河原もなく、緑滴る並木の散歩道には市民が憩う。岸辺には芝生や噴水もあり、細長い公園のような風情。誰が管理するのか芝刈りも徹底し、噴水の池は温泉旅館の岩風呂のように磨かれていた。

   あちこちの巨大な公園でも、芝刈りや散策道路沿いの草刈りだけでなく、落ち葉の掃除も行き届いている。大型機械の投入が容易な設計にもなっている。日本は公共施設の維持管理努力は手抜きばかりだ。綺麗な大空間はゴルフ場くらいと言っても過言ではない。

E民家

   民家は配色も形も美しい。しかも、地域全体で統一されて(させられて?)いる。旧市街の古色蒼然たる建物程ではなくとも、壁面の装飾には努力を惜しまない。雨戸や戸袋がない。カーテンを美しく飾り、窓際には花を欠かさない。余分な庇がない。玄関が不自然に出臍のように飛び出してもいない。

   庭が美しい。道行く人の目を楽しませる工夫がしてある。ボロ隠しを連想させるような、ブロック塀や高い垣根もない。生け垣も庭の構成要素として美しく手入れされている。庭にも壁面にも洗濯物や夜具が干されていない。屋内に乾燥機か干場がある。冬場は衣類が凍結するとはいえ、夏でも決して洗濯物を外には出さない。一方、ラテン民族は汚らしい下着さえ恥ずかしげもなく、屋外に干している。同じ欧州でも、何と言うこの美意識の格差!。

[2]農村美

@低い人口密度

   化学肥料の合成や農薬の発明以前の欧州の土地生産力は、同時代の日本よりも低かった。日本は『5反百姓』と言う言葉が示すように、1反の土地で一人生きられ、江戸時代には3千万人の静止人口を維持できた。水稲やサツマ芋は単位土地当たりのカロリー生産高が高かったのだ。

   一方、欧州の農民は領主から『三圃制度=春作・秋作・休耕』が強制され、平均すれば土地は三分の二しか使えず、しかも麦のカロリー生産力は米よりも低く、結局土地の人口扶養力は小さかった。必然的に農村部の人口密度は低かった。

   今日、専業農家の耕地面積は日本の10〜50倍。しかも、その格差は残念ながら広がるばかり。土地こそ最後の資産との考えが染み付いている日本では、離農が遅々として進まないのだ。

   人口密度が小さく、広い面積の畑が雄大に広がる田園地帯には、夾雑物(きょうざつぶつ)が視野に入らず、うっとりとするほどに美しい。

A森

   最近人気の高い新明解国語辞典では『森=遠くから見ると濃い緑が盛り上がって見え、近付いて見ると日のさすことがほとんどない所』と説明しているが、ドイツの森にもピッタリ当てはまる解説だ。

   ドイツの森の殆どは人工林だ。世界的に有名な『黒い森』見物は、今回やむなく割愛したが、黒い森の小形版は随所にあった。田植えのように、格子状に植林されている。高さの揃った濃緑の樅の木の美しさは格別だ。平野部の森は材木の切り出しにも楽だ。一方、日本の急峻な山岳部の人工林は、人件費が高騰し不運にも採算が合わなくなった。林野庁だけではなく、山林地主も今や存亡の危機に立たされている。間伐や下枝打ち等の手入れも放棄され、台風の度に倒木が増える一方だ。

[3]インフラ

@ アウトバーン

   アウトバーンの総延長は既に1万Kmを越え、ドイツ全土を網の目のように結んでいる。日本で言えば、国道が全部アウトバーンになっているような観がある。全線無料なだけが特徴ではない。大都市周辺は片側4車線以上、過疎地でも片側3車線もある。しかも、車線幅にゆとりがある。土地は安く、トンネルも橋も殆どなく、建設費は恐らく日本の半分以下ではないか?。羨ましい限りだ。

   ドイツ人の走行距離は日本人の3倍、年間2〜3万Kmにも達する。暇さえあれば旅行に出かけているようだ。屋根に自転車を積んでいる乗用車が多い。日本人とは違った遊び方だ。日本の高速道路では自家用車よりもトラックが目立つが、ドイツは逆だ。それにドイツの大型トラックは5軸車が多く、積載量は優に20トンを越え、台数減に役立っている。

   しかし、トラックが少ないのは別の理由があるような気がした。道路を使った物流総量が少ないのではないか?。石油やガスの輸送はパイプライン化し、都市建設が先行したので、鉄・セメント・砂利を初め原材料の運搬需要がもともと少なく、しかも東海道沿線のような人口過密地帯がなく、需要が分散した結果ではないか?。ここでもまた『結構なことだ』との結論に、どうしても辿り着く。

A道路 

   一般道路も素晴らしい。日本の1級国道並に整備されている。都市内には信号機が意外に少なく、一方通行が多く車の流れは速い。『リング』と称するロータリー式交差点が多く、車は澱みなく流れる。フレッヘンにすら、娘の家から都心までの僅か数百mの間に小さなリングが1ヶ所あった。日本の公共事業予算の対国民総生産比率は先進国平均の2〜3倍もあるのに、何時まで経っても、何故ドイツに追い付けないのか?。失業者救済事業に過ぎないのか?。納税者としては腹立たしくなるばかりだ。

B都市交通

   地下鉄、国鉄、通勤用郊外電車、路面電車のゲージ(線路の幅)が国際標準広軌で統一されているだけではない。経営体が別でも相互乗入れをしている。主要都市内の鉄道路線密度は東京並だ。都市の中心部になると、1本の線路に6〜10本の路線が乗入れている場合もある。人口が比較的少なく、路線当たりの電車運行密度が小さいからできる面ではある。

   それでもなお、乗換え不要なこのシステムは何と合理的なことか。新宿駅など日本の主要駅が大混雑する一因に乗換え客の存在がある。しかし、1時間に20〜30本も走る東京近辺の鉄道網では、残念ながら、全面的な相互乗り入れは路線の容量不足で不可能だ。

C中央駅

   欧州各主要都市にある中央駅には特別の存在感を覚える。単なる停車場とは違う彼等の思い入れを感じるからだ。コスト第一主義からは旅客以外は、誰一人として寄り付かない無味乾燥な駅しか生まれない。有楽町駅みたいに、たとい乗降客がどれほど多かろうと、なければ不便だと言うだけの存在に過ぎない。

   上野駅は多少はましだ。石川啄木がいみじくも『故郷の訛り懐かし停車場の人込みの中にそを聞きに行く』と歌った程だ。しかし、新幹線時代を迎え、かつての旅情も薄れる一方だ。

   欧州の中央駅の駅舎は周辺の建物を睥睨する大聖堂や宮殿と見間違うかのような豪華さで、町の中央に君臨している。発車時刻の表示板は国際空港の電光掲示板とそっくりだ。旅に発つんだとの緊張感が味わえるだけではない。見送り人はホームまで自由に出入りできる。劇場ではあるまいし、人の弱みに付け込んで小銭を踏んだくる観のある『入場券』と言う奇妙な切符は存在しない。

   駅構内には乗降客のためだけではなく、市民のためのサービス機関が集中している。スーパーマーケット・食料品店・御土産屋・ブランド店・名店街・金融機関・宅配便・レストラン・ファーストフードを初め、さながら屋内広場そのものだ。つまり、旧市街の広場と同じように市民の憩いの場も提供している。

   駅ビル内の百貨店に行くか、鉄道に乗る以外の目的で日本の駅に出かけた記憶は、生まれてこの方全くない。面白さを感じないのだ。今までに見た、リヨン・ケルン・デッッセルドルフ・ミラノ・ローマの各中央駅のあの賑わいをどうしたら、取り込めるのだろうか?。

D国際空港

   欧米の国際空港にはどこでも巨大且つ安い有料駐車ビルがあり収容力十分だ。空港には各種公共施設の中では桁違いに敷地が広いと言う特色がある。少しの工夫で大型駐車ビルの建設用地は捻出できる筈だ。地下だって広大だ。これ程確実に資本回収が保証されている事業はそんなに多くもないのに。

   なのに、日本の空港には形だけの小形駐車ビルがあるだけ。その結果、名古屋空港も成田空港も周辺の民家が狭い庭を潰して駐車場の副業に大忙しのていだ。彼等の産業を守るために駐車ビルの建設が抑制されているのだろうか?。日本人の発想の貧しさがやりきれない。

[4]日常生活

@旧市街は身障者や老人の天国

   ドイツの夏の気温は豊田市よりも10度も低く日本の清秋。冷房は全く不要。なのに、街路樹は緑滴るばかりに輝く。誰もが軽井沢に住んでいるような別世界の贅沢さだ。寒くて暗い冬は戸外ではなく、暖房完備の室内で優雅にひねもすのんびりと過ごせば済むことだ。

   美しい旧市街は単なる懐古趣味や町の飾りとして再建されたものではない。そこを尋ね、緑陰の緑香しい新鮮な空気の中で、夫婦や友達と日向ぼっこしながら、一時を過ごすのは人生の至福そのものと、市民の一人一人が考えていた証しである。人が集まれば集まるほど町は活性化し、繁栄し、更に美しくなる好循環が生まれる。

   大道芸人や露天商だけではなく、寸借詐欺や乞食にスリまで集まってくる。バリアフリーのインフラ完備の町には、この国にはこんなにも車椅子のお年寄りや身障者が多いのかと、こちらが驚くほど大勢集まってくる。彼等とて人間、年中日曜天国になっている旧市街は憩いの場であり、来ると楽しいのだ。結果的には巧まずして運動を兼ねた、良きリハビリにもなっている。

   翻って、日本では『**銀座』は寂れ果て、アーケードは撤去され、身障者や体力の衰えた老人が楽しく人生を送る場所がない。家に閉じ籠り、死を待つだけかの如く、あたら人生を唯空しく過ごしている。定年後はテレビの番人と化し、朝晩散歩と称してウロウロ徘徊しているだけの健常者が何と多いことか。     

   我が友人の多くも、定年後は自由な時間が増加した筈なのに、ゴルフやテニスから逆に徐々に遠ざって行った。定年を指折り数えて待ち望んでいるか否かに、日独サラリーマンの人生観が象徴されている。

A住宅

   ドイツ人の住宅は決して華美ではない。床の間・床柱・欄間・吊天井のような生活と無関係な飾りはない。無節の檜柱や柾目の板のような高級材料を、日本人が珍重するような習慣もない。稼働率の低い夜具や座布団を収納するような押し入れもない。

   しかし、セントラルヒーティングや給湯設備、台所機器などの住宅用設備は完備している。何時でも快適なシャワーが浴びられ、ホテルのように快適に生きられる。彼等の家には天窓があり、室内は大変明るい。道は完全舗装されて靴は汚れないのに、それでも玄関には靴を拭くマットがあり、室内が汚れる心配もない。

   日本人は家の完成までは神経を配るが、その後の管理には関心が薄く、美しかった純和風の家も、数年経てば古家同然の外観に変色している。これでは中古住宅の取引価格が限りなく暴落するのも当然だ。いわんや21世紀を直前に迎えた今日に於いても尚、外壁に薄いカラー鉄板を張り付けた、物置としか言い様のない家が続々と建設され続けている現状を何と評価すればよいのか。          

   一方ドイツ人は、外壁の維持管理には不断の努力を惜しまず、築後何年か分からない程に家を綺麗に輝かせている。この事実以上に、両国民の隠し難い知性の差を感ずるものはない。『百年河清を待つ』以外に解決策はないのだろうか?。

B旅行気狂い

   ドイツ人に共通の趣味は国内外旅行だ。世界中どこに行っても、米英独オランダの旅行者が闊歩していた。日本人が目立ち始めたのは石油ショック後、つい最近の現象だ。彼等は旅行中でも大変質素だ。一点豪華主義のようなドンチャン騒ぎや買い物漁りは一切せず、地の果てまでひたすら這い回る意欲はどこから溢れてくるのか、不思議に思わざるを得ない。人間の本性なのだろうか?。

Cゴミ対策 

   家庭ゴミの分別管理は徹底させられている。フレッヘンのゴミ収集日には、市役所から支給された色別のキャスター(車輪)付き大型ゴミ箱が、各家庭に面した道路際に一斉に並べてられている。戸別管理だから、分別ミスは直ちに発見されるシステムだ。                              

   我が豊田市の場合、作業能率のみを考えたようなゴミの集積地があるが、分別ルール違反者の摘発もできずに困っているようだ。ゴミ袋が、防水紙・黒い袋・透明な袋・不透明な袋・ゴミの種類別の袋へと、毎年のように変わる。ドイツにはゴミ箱はあっても、ゴミになるゴミ袋は最初からないのだ。

D徹底した相互監視

   日本では珍しい光景を、駐車場では度々目撃した。大抵の駐車場は一方通行だ。進入方向の矢印を見落とし逆走してきたドライバーへの非難はけたたましい。数人掛りで罵倒の応酬だ。たといドライバーが若い新米の女性であろうとも容赦はしない。                                 

   庭や家の周りを綺麗に維持する、日曜日の芝刈りは禁止、静かに暮らす、窓は花とカーテンで飾るなど、快適に生きるためのルールの遵守は生まれながらにして学ばされるようだ。子供の躾は言わずもがな。いわんやペットの躾においておや。ドイツ式『5人組制度』か?。

   フレッヘンの大型スーパー内で、『ママー』と大声で叫ぶ孫娘の声が、姿も見えない50mも離れた我が位置にまで響き渡った。ああ、何としたこと!。
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酒氏への我が回答

[1]氏の仮説への素朴な疑問

   以下の駄文は氏のご高説への反論ではなく、ごく初歩的な疑問の提示と現地での観察結果の報告に過ぎません。と言うのも、ドイツの景観が美しい根本的な理由は『日照時間が少ない上に、降水量が日本の三分の一と言う厳しい環境にあるため、樹木の成長速度が遅く、必然的に自然を大切にする国民性が育ったからだ』とのご卓見に、『仰せの通り』とは言い難い面を感じたからです。

@日照時間は本当に短いか?

   1年中快晴の場合、地球上のどの場所でも、太陽が水平線上に出ている時間を 365日分合計すれば丁度半年分の長さになる。高緯度だから短いと多くの人が思うのは錯覚だ。違うのは太陽の照射角度だけだ。太陽の最大照射密度は Cos(余弦)に比例するから、豊田市が北緯35度、ケルンは51度と仮定し地軸の傾きを無視した場合、その差が最大となる正午のケルンの日射量は、豊田市の77%に落ちる。
                   
   次に、地軸の傾きを考慮すれば赤道直下ですら、太陽が正午に真上に来るとは限らず、しかも朝夕の照射角度は小さいので、地球各地の年間累積照射量は余弦の比よりも縮小される。地軸の傾きは太陽の恵みを各地に、より平準化して与えると言う劇的な効果がある。

   第2の要因に雲量がある。日本の雨量の半分が台風や梅雨の集中豪雨に起因すると仮定しても、残りの雨量はまだドイツよりも多い。雨量が雲量に比例すると仮定すれば、ドイツの方が晴天が多いことになる。樹木が育つ夏は日本よりも昼間は幸い長く、意外に累積照射量が多いと推定してもおかしくはない。『雨量が少くなれば、逆に日照時間は長くなる』と推定する傍証の極限に砂漠がある。

A樹木の成長速度は年間降雨量に正比例するか?。

   日本の雨は集中豪雨型が多く、山に降った雨の半分以上は地中に留まることなく、川へと流れ落ちると考えるのが自然である。日本の樹木は主として傾斜地に植林されているから、多雨の恩恵は多少割り引くのが妥当である。一方、平坦なドイツでは、貴重な雨は地中に浸透する割合が相対的に高く、大平原の農業地帯に、カリフォルニア州のような溜め池や灌漑設備が見られなかったのもその傍証である。

   また、樹木は地中深く根を広げるから、渇水の影響は農作物よりも更に受け難い。雨量の少ないパキスタン北部の大都市ラホール(ムガール帝国初期の首都)でも大木は悠々と育っていた。本物の砂漠ならばいさ知らず、年間降雨量が数百ミリ以上もあれば、樹木の成長速度に与える雨量の影響度は小さいのではないかと推定している。2百年前に作られたと称される公園の大木が30〜40mにも達していて、日本の同樹齢の木に何等の遜色も感じなかった。

B樹木の成長速度には気温の影響が大きいのではないか?。しかし、……。

   植物は化学反応の一種である炭酸同化作用を元に成長している。化学反応の温度依存性は大変高い。無機物質の反応速度は10℃高くなると2倍になるが、炭酸同化作用の場合、一種の触媒である葉緑素の活性度は植物の種類毎に異なり、最適反応温度の範囲は意外に狭い。秋冬物野菜の代表である大根や白菜は夏には育ち難いし、逆にナス・トマト・カボチャなどの夏野菜は低温では育ち難い。

   私には樹木にも野菜同様に温度依存性が大変高いと思える。夫々の環境に適応して今日に至っている各地の樹木の成長速度は、環境の差ほどには拡大しないと考えられるからだ。

   全ての植物に最も影響を与える環境は葉の中の水が凍るか否かの温度だと思う。水が凍れば炭酸同化作用が停止するからだ。樹木は断熱層も厚く中心部まで凍結するのは極寒の地だけだ。針葉樹の葉の水分含有率は広葉樹に比べ低く、凍結防止にも役立っているだけではなく、サボテンの棘のように表面積が小さく、水分の無用な蒸発をも防いでいる。ドイツの冬季の気温位では水分が一日中凍結するとは思えない(見たわけではない)。

   樹木は苗木の段階から寿命が尽きるまでの全ての期間にわたり、炭酸同化作用の速度を一定に維持しているわけではない。最大成長期と成熟期との土地面積当たりの炭酸ガス吸収量は1桁以上も違う。この事実は別の難問を突き付けている。世界各国の炭酸ガス排出総量規制のルールを作るとき、森林での吸収量の計算が実質的にできないのだ。樹木の種類や樹齢分布も分からずお手上げの状態だそうだ。

   ドイツの原生林はかつて熱帯から温帯に至る場所に育つ広葉樹から構成されていた。広葉樹は北のストックホルムでも伸び伸びと育っている。欧州の公園や街路樹は広葉樹の方が多い。枝が大きく広がるし、剪定にも強く、新緑も紅葉も美しいから人気があるのではないか?。広葉樹の欠点は幹の直線性が悪く、柱や板の取得率が低く、森林産業には向かない点にある。有名な黒い森は樅の木の人造林だ。

C高樹齢木から切り出された材木は耐久性が高い。
   
   大木の切り株を観察すると、年輪の間隔が外側ほど狭まっている事実に嫌でも気付く。中心部は成長力旺盛な若木の名残だ。木は内側から活動を停止し、中心部から枯れて行く。人間の骨は破骨細胞と骨芽細胞の働きで常に新陳代謝を繰り返しているが、木にはそのような作用はなく、年輪は外側に追加されていく。幹の外周近くには活性状態の導管が多く、柔らかく、水分が多く、材木には適さない。詰まり、若木は材木には適さないのだ。それが分かっていながら、日本の山林地主は換金を急ぐ余り50年杉を伐採し、工務店は断面形状だけを設計図に合わせて虚弱な家を建て続けている。  

   柱や梁は丸太から1本採るのがベストだ。材料強度が軸対称で安定するだけではなく、強度が弱い中心部は内部に囲い込まれ、強度の弱い外周部は切り落とされ、断面積が同じなら剛性(断面2次モーメント×弾性係数)が若木よりも高くなる。本当は丸太のまま使えばもっと強いのだが、設計や施工が面倒になる。直径50cm以上になるまで伐採を待てないものかと願わずにはおれない。蛇足だが、年輪のない竹でも古くなるほど強度は上がる。

   有名な宮大工『故西岡さん』が日経ビジネスの対談記事に、かつて残された言葉がある。『家屋の寿命は、少なくとも使った木の年齢と同じだ。大工には樹齢に相応しい耐久性のある家を建てる義務がある』。これは勿論、氏の経験から生まれた直感と使命感に過ぎない。統計的データが揃っているわけでもない。法隆寺が千年以上も健在なのは、使っている材料が千年以上の樹齢木を使っているからだとの示唆でもあるが、そこには否定し難い真理が隠されているように感じる。

   曲がっている材木は、曲がったまま使うのが最適な使い方である。昔は製材機械がなく、やむを得ず曲がったまま使ったが、理に適っている。直方体にカットすると、繊維が切断され、強度が落ちる。木は繊維強化された複合材料の一種なのだ。ドイツの古い木造建築にも曲がったままの材木が使われ、今日に至っている。

   世界最古の成文法である『ハンムラビ法典』の第 229条には『もし大工が人のために家を建てて、彼の仕事を堅固にせず、ために建てた家が倒れて家の主を死亡させたときは、その大工は殺される』と明記されている。21世紀を目前に控えた今日の日本でなお、地震の際に家の下敷きになって死亡する悲劇が後を絶たない。日本の建築業界の実態は何と情けないことか。

   氏のご卓見の前提にはドイツの 150年樹と日本の50年樹の材料強度は暗黙裏に同じとの仮定も含まれているが、たとい同じ樹種でも断面形状が同じならば、高樹齢のドイツ材の方が強度は上になる。

   蛇足だが、針葉樹は広葉樹よりも強度が落ちる。高緯度地方に育つ針葉樹はゆっくりと育つから高密度になって強くなりそうな気がするが、事実はその逆だ。高級家具は檜や杉の柾目板では作らず、ナラ・ブナ・桐を初めチーク・黒壇・紫壇で作る理由の1つに強度がある。日独両国とも木造家屋は針葉樹主体で作られているから、今回の議論の対象では勿論ない。

   かつてトヨタ自動車では、海外生産用の自動車部品は木箱に梱包して輸出していた。南方材(ラワン)のベニヤ板が徐々に高騰してきた時、強度は落ちるが資源量豊富な針葉樹を採用したいとの提案が出された。私は鉄骨と鉄板で箱を作り、国際コンテナを採用すれば、強度の一部はコンテナにも負担させられるし、港の荷役作業も効率化されるから、総コストは下がるとの試算を提案し、関係者の賛同を得た。

Dドイツの木造住宅の材料使用単位量は日本よりも多く、開口部は逆に小さい。 

   柱として使われている角材は最低20×20cmはある。日本は4〜5寸材、つまり一辺15cm以下が殆どだ。柱の間隔は階差の半分以内で且つ筋交いがある。実質的には1m間隔だ。20〜30cmの柱に挟まれた壁にはレンガやブロックが埋め込まれ、静荷重のみを考慮すれば済む無地震国では強度壁としても役立っている。

  日本の伝統的な木造建築の土壁は薄い上に強度壁の役も果たせない。我が家に至っては鉄筋コンクリートの柱こそ50cm角だが、内装用の柱はたったの10cm角、26年後の本日、初めて計測したら何と2〜3mmも収縮していた。

   ドイツ家屋の床には20×30cmの断面木材が30〜40cmピッチで並んでいる。窓は換気と明かり採りに過ぎず、大変小さい。木造と言っても石造と開口部の大きさは変わらないのだ。これだけ大量の材料を使っているから、5〜7階建ても随所に見受けられ、手入れさえ怠らなければ、『**氏の家』のように数百年経ってもびくともしない。

   欧州の木造建築の寿命が長い理由として、日本人からは『低湿度・少雨・無地震』等と、僻みっぽい意見が出され勝ちだが、彼等が構造力学的に強度も耐久性も高い家を最初から建てている事実を確認もしていない。過日の阪神淡路大地震でもちゃんとした豪邸は倒壊しなかった。前述の物言いの中に、日本人の知的レベルの底の浅さが暴露されているのが看取されて情けない。           

[2]ドイツの家は何故美しいか?

@冬季の防寒対策に出発点を求めたい

   住所不定のエスキモーやモンゴルの遊牧民は、かつて住居に対する対照的な解決策を見付け出した。

   北極圏には木が殆どない。仮に木が豊富にあったとしても、狩猟の民エスキモーには恒久的な豪邸は建てる価値がない。直ぐに移動せざるを得ないからだ。彼等の氷の家は僅か1〜数日で建設される。インドのスラムや日本のダンボール住宅よりも強度や密閉性などの住機能は遥かに優れている。寒くなればなるほど家は堅固になり、ストーブを焚く位では氷は一切溶けないらしい。

   モンゴルの遊牧民は携帯住宅『パオ』を発明。遊牧地には草こそはあれ、木がなく家が建てられない。彼等は柳の柔軟な枝で家の骨格を組み立て、断熱性と密封性の高い羊の皮で覆う。極寒の冬でも家畜の糞を使うストーブを焚いて暖かく過ごしている。人間はいやしくも温血動物なのだ。

Aドイツの冬の平均気温は零度以下である。

   平均気温の正負で人間の生活環境は一変する。水が凍ると生活に不便だからだ。どんなに貧困であっても、水が凍結しない環境は必須だ。その結果、亜寒帯〜寒帯地方にはアフリカの先住民のような雨露さえ防げば良いと言った家屋は存在しない。中国の東北部(旧満州)では、たとい家は小さくとも暖房付きレンガ造りだ。冬寒いトルコ東部では、どんなに貧困でも暖房設備完備の小さな家は確保されていた。伝統的な建築法の民家の屋根には、厚さ50cm以上もの土が盛られていた。

   ドイツ人に限らず寒冷地に住む人々にとり、何とか住める家を建てるのは、かつて人生の大事業だったに違いない。『夏向きの、風通しのよい家が理想的』との徒然草流家屋は、高温多湿な日本でならば成り立つ能天気且つ贅沢な論理だ。 
          
   耐寒建築の基本は断熱にある。ガラスウールの出現は20世紀になってからだ。断熱対策の第一歩は厚い壁と隙間塞ぎだ。旧市街に散在する古い家を見ると、石・レンガ・木を組み合わせた壁の厚さは20〜40cmもある。我が家はたったの19〜24cm(防水モルタル2cm+鉄筋コンクリート12cm+ガラスウールと内装=洋間5cm和室10cm)だ。隙間風対策は窓枠とドアの蝶番の剛性と強度の確保にある。民家と雖も、ドイツの窓枠とドアの蝶番は日本のビル用ほどの頑強さだ。

   従って、寒い国では衣食住への支出のうち、住宅費への支出比率は温暖な国々に比べ常に相対的に高かったと推定せざるを得ない。食費比率を示すエンゲル係数は古来有名だが、暖房費と維持費を含む住宅費比率は収入との関係だけではなく、冬季の気温との関連性も高く、ゲルマン諸国家では20%以上にも達すると言われている。我が国では年収1千万円(40歳代で家族4人)の標準家庭が、毎年2百万円もの住宅関連費を自己負担しているとは信じ難い。
                         
   ドイツ等、冬寒い国の人々にとっては、収入の割りにコストが高くならざるを得ない家を何度も建てるのは困難である。日本には『3回目にやっと満足できる家が建てられる』との愚かさ丸出しを勧めているかのような台詞があるが、欧州では聞いた事がない。彼等は3回家を建てる代わりに、家族構成の変化に合わせてヤドカリのように借家を移動し、必要な部屋数・種類・大きさを十分検討した上で、一生に一度の大事業である持ち家の建設に取り掛かっているようだ。一生に一回の結婚と同じ位、重要視している。

   額に汗して蓄えたなけなしの金をはたいて手に入れた物には、それが何であれ誰でも限りない愛着を感じ、バブルで手にした泡銭で買った物なら、どんなに高価な物でも惜し気もなく簡単に捨て去れるのは、正(まさ)しく人間の本性である。いわんや苦労の揚げ句、やっと手にした人生の拠点でもある我が家に於いておや。
                                   
   1回建てれば不満でも一生住み続けざるを得ない。そうだと覚悟が決まればより美しく、しかも長持ちさせるために、常時手入れをする習慣が育ったのではないか?。その習慣がやがて、家だけではなく、庭、墓地、公園、生活環境の美化運動へと発展したのではないかと邪推して見た。                

   全ての人が一生に一度家を建てるならば、家が持つべき最低耐久年数は、人の究極の平均寿命=百年もあれば十分だ。今日この水準に到達している国は英国を初めとしたゲルマン諸国だ。日本の住宅品質は石油ショック後に何故か急速に良くなったが、我が偏見に寄れば、それらすらも50年持つのがやっとだ。材料強度の経年劣化を強度計算に考慮していないのが、その主たる推定根拠だ。

   ドイツ人のお金の使い方には今日際立った特徴がある。立派な持ち家と国内外旅行だ。衣食は質実剛健、大変質素だ。大型百貨店の衣料品売り場は日本のスーパーレベルの商品で溢れ、オーダーメードの紳士服やカッターシャツは全くない。ある日、ジーパンとTシャツ姿で賑わう旧市街を、ピュア( 100%)カシミヤのジャケットを着て、颯爽と闊歩しているつもりだったら、急に違和感を感じ初め、服を脱ぎ捨てたい衝動に駆られた。愚かしい我が身をそこに再発見してしまったのだ。
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おわりに

   私には予期せぬ娘婿の海外駐在だったが、本人は希望を出し続けていたのだそうだ。大学時代には航空原動機を専攻し、就職後はエンジンの開発に従事。2年前、『F1(自動車のスピード競争)に参戦、その準備はドイツで実施』との方針がトヨタ自動車で決定された。彼はF1専任の駐在員に応募し、自らの人生を切り開いた。彼の努力の結果、棚ボタ式に今回の我が旅が実現したようなものだ。

   ゲルマン民族の『衣食は我慢しても、家は立派に』との衣食住観を30年前に知り、深く感動した。そこには人生の根幹に関わるほどの意義が凝縮されている。『資産として価値あるものは家だけだ』と言う意味ではない。『家は人生の根拠地であると共に、子供の成長に大きく影響する道場でもある。人が持つべき最も重要な資質“誇り”は、堀っ建て小屋では育まれない』との彼等の信念に触れたからだ。  
           
   当時は米・加だけで、欧州への出張体験はなかったが、私は書物で出会ったこの考え方に痛く共鳴し、両親には無暴だと言われつつも、最大限の借金をして1974年に鉄筋コンクリート造り全館冷暖房完備の家を建てた。婿も帰国時には家を建てる齢だ。ドイツ人の生き方の中からその長所を感じ取り、人生観を更に深化させて帰国するものと予想している。

   長女が3年制の『ルーテル幼稚園』に入園した時、当時の緒方園長(牧師)が父兄を前にして『人は、3歳の頃の事は誰も何1つ思い出せない。しかし、その頃にどんな教育を受け、どう生きたかはその子の人生に大きな影響を与える。自らは後日認識できないが故に直せない価値観が、頭脳深くに刷り込まれているからだ』との熱弁を奮われた。その時、私にはあながち詭弁、とばかりには思えなかった。

   我が初孫は生まれながらにして、ゲルマン民族の中核国で育っているようなものだ。娘夫妻に取っては相談相手に乏しい異国の地ではあっても、自ら望んだ駐在であるからには、海外での人生に挑戦し且つ楽しみつつも、日本人と殆ど接することもなく幼児期を生きねばならない宿命の孫娘を、どのように育てるのか、期待も半分、心配も半分。来年の再会が、今から楽しみである。
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