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旅行記
           
アジア
フィリピン(平成7年10月18日脱稿)

      フィリピンがいかに近い国とは言え、夫婦揃って海外旅行に行ける時代がこんなに早く到来するとは、結婚した昭和43年の春には夢想だにしていなかった。                   

      日本の生活水準が実質的にヨーロッパに追いついたのは、日本列島が沈没すると言われた石油ショックを、巧みに乗り越えた正に昭和50年代以降のことであった。岳父からはお礼の電話もあり、お金は掛かったがこの旅行に出掛けて良かったと改めて満足した。      
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はじめに

   石油ショックの翌年、昭和49年5月1日〜11月30日に掛けて、全室セントラル冷暖房完備の鉄筋コンクリート3階建て・総重量約 400トンの自宅を建設したが、資金不足で外構工事には未着手のままだった。             

   3年後の昭和52年の春にやっと 250万円掛けて擁壁工事も完成させ、庭には芝も張り、僅かに20坪程ではあったが念願の家庭菜園も軌道に乗せて一息付いた頃、海外旅行の宣伝広告が目にふと映った。それまでは関心外の世界であったため、どんなに派手な広告と雖も、我が視野には入り込めなかったのである。

   フィリピン旅行が3泊4日『 59800円』で、しかも3食ガイド付きの上に、足に便利な名古屋発着のチャーター便だった。当時のパック旅行の標準価格の半額だ。前年度の税込み年収の約5倍にも達していた持家の借金を思えば、旅費など微々たる負担に思えてきた。 
                        
   ふと考えて見たら、後 100日余りで結婚10周年を迎えるし、借金の憂さ晴らしに気分転換も兼ねて思い切って出かける決心をした。幸いにも旅券の有効期間が半年残っていた。昭和52年10月下旬の頃だった。

   しかし、足もとを見ると長女は小学校2年生、次女と長男は夫々幼稚園に通っている。いかになんでも子供に留守番をさせる訳にも行かず、年老いた両親に旅費を出して、豊田まで応援に来て貰う羽目になった。実の両親と雖も自分の観光旅行のために、只ではるばる郷里(福岡県遠賀郡)から呼び寄せるのには、些か気が重かったのである。
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憧れの海外旅行

[1]当時の海外旅行観

   妻には初めて、私に取っても昭和48年にニューヨークで開かれた国際会議で、技術論文を発表するために初出張して以来の、僅かに2回目の海外旅行であり、初めても同然であった。来秋(1996-11-16)結婚予定の長女が既に7回も海外旅行をしているのと比較するにつけ、まさに隔世の感がある。      
             
   当時は名鉄の東名高速空港路線バスはまだ開設されておらず、小牧空港(現在の名古屋空港は、小牧空港と呼ばれていたような気がする)まで出掛けるだけでも、名鉄バスセンター経由となり一仕事だった。       

   現在のレベルから見れば究極のミニ海外旅行に過ぎないのに、当時のレベルでは『日常性からの離脱感』にたっぷりと浸る事も出来、しみじみと『幸せ』を満喫した。幸・不幸は身近な所で生きている人達との相対評価から沸き出す感情だと、今尚確信している。

   当時の所属長で定年も近づいていた某氏は子供もいなかったので、経済的な余裕度たるやまさに職場一、と誰もが認めているお方であったが、私的な海外旅行はまだなされてはおられなかった。海外出張だって1回行かれただけであった。有給休暇の申請理由を説明した時の氏の驚き振りは、当時の社会通念を象徴しているように思えた。          

   当時は海外への新婚旅行組が時たま羨望の話題になるくらいで、普通の中年夫婦が打ち揃って遊びに外国へ出掛けるなどは、『寡聞にして知らず』の時代だった。昭和48年の海外出張の折、ハワイからの帰国便『もちろんエコノミー』に乗った時、隣席には野村證券の専務ご夫妻がおられた。聞けば奥様を連れての初海外旅行だったそうだ。いわんや庶民階級においておや!。

   同世代の三井銀行の融資係長(その1年前に、募集中のロイヤル・カントリークラブの会員権を買う時、住宅ローンと同じ金利で 250万円全額を融資してくれた。この時、私は世間話をしながら、金利交渉に3時間も粘った)が、旅行計画を聞いてびっくり仰天したのを、今なお忘れる事が出来ない。

   旅行から帰って暫くの間は、あちこちの職場の知人や先輩からは、何かと妬み半分の話題にされた。その都度私は次のような心境を、浅ましくも得意げに述べたものだ。

   『人生で一番貴重なものは、若さ付きの時間である。断じてお金でも無ければ、老いたる日々に寝たきりになって持て余す、死を待つまでの長が〜い時間でもない。住宅ローンの支払い完了後お金に余裕が出来てから、人生最後の贅沢である海外旅行に出掛けるなどとは考えてもいない。この先いつ突然死ぬかも分からないのに、貯金などする気がしない』 
                              
   『多少の無理を覚悟すると射程圏内に入るのであれば、人生では何でも先取りすることにしている。カラーTVだって結婚直後の昭和43年5月1日に買った。1枚目のゴルフの会員権だって、ゴルフのゴの字も知らない時に全額借金をして買った。家だって同じ事、冷暖房抜きの掘っ立て小屋には住む気もしない。人間の尊厳に関わる問題だ。子供の教育と同じで、人生に待ったは決してない!』

[2]安さの秘密

   スーパー『ダイエー』系観光旅行社の『創業10周年記念特別募集』のツアーだったので、利益を多少は我慢したのかも知れないが、原価が下がった下記のような理由もあったのではないかと推定している。

   @チャーター便はフィリピン航空だった。飛行機は米国の航空会社『デルタ』の中古機だった。客席に着いた時、ふと窓を見たらデルタの社名が書かれたシールが張り付けられたままままだった。

   A団体旅行の規模が大きかった。全席エコノミー・ 280人乗りのボーイング(機種は忘れた)が満席の賑わいだった。空港で超大型バス5台(A〜E号)に分乗したが、E号車だけは何と全員男性で宿泊ホテルも別だった。皆がEをもじってエロチック号と呼んでいた。

   B同年の夏、フィリピンへの団体旅行から帰った和歌山県有田の人々にコレラが発生し、日本中が大騒ぎになった。その結果、やっと離陸し始めた日本人のフィリピン観光熱はアッと言う間に沈没し、マニラのどのホテルも瀕死の打撃を受けていた。

[3]素晴らしかった観光ホテル

   マニラ湾に面した大通りに沿って、数百室クラス・10〜20階建ての巨大観光ホテルが、たっぷりとした敷地を確保した上に、 200m間隔位に十棟前後も並んでいた。壮観なその一角だけを見れば、ハワイのワイキキ海岸に何等遜色は無かった。それらのホテル資本は外国、特に日本からの観光客を当てにしていたのであった。

   私たちの泊まったリージェント・ホテルはその半年前に開業したとの事で、絨毯は靴がのめり込んで躓き兼ねないほどにふかふかとしていたし、客室の冷房は利き過ぎて困ったくらいだった。他グループの客は少なく、貸し切り同然だった。

   数年後『このホテルが火事で全焼した』とのニュースを新聞で読んだが、保険金の取り込み詐欺でなければよいがと思ったものだ。
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厳しい現実

[1]マニラ空港

   空港ビルから出た瞬間、視野に飛び込んだ光景にはアッと息を飲む程に驚いた。無数の青少年がウンカのように、集まっていたからである。塀によじ登っている者もいた。何千羽ものスズメが電線や木の枝にとまっている姿を彷彿とさせた。

   知り合いの送迎のために空港へ来ているのではなく、1日中暇潰しにどこからともなく現れているのだそうだ。空港ビルから吐き出されて来る観光客相手に乞食稼業をしている様子もない。一体、何が面白いのだろうか?             

   その背後には想像を絶する程の就職難が隠されているようだ。パンツ1枚、殆どの者が上半身裸だった。フィリピン人には胸毛がない。赤銅色に日焼けした逞しい皮膚と、バサバサの髪の毛を見て、不遜にも『土人』の大群を連想せずにはおれなかった。

[2]お説教

   ホテルのワンフロア分の客が1台のバスに振り分けられていた。参加者は各階のロビーに集合させられた。日本から来た添乗員が長々と旅行中の注意事項を説明した。説明が終わるまでルーム・キーを渡してくれないので部屋にも入れない。愚にもつかぬお説教など聞きたくもなかったし、私には必要もなかったのに、結局は我慢して聞かされる羽目になった。

   同行の客の殆どは海外旅行が初めてだったらしく、旅行社側としても不慮の事件・事故を未然に防ぐべく必死になっていたようだ。客の殆どは不満も漏らさずに、1時間も素直に聞いている様子だった。形式的ではあっても『戒厳令』がまだ解除されてはいなかった背景も、添乗員を一層慎重にさせていたようだった。

   チップの出し過ぎにまでコメントがあった。日本ではチップの習慣がないために海外初体験の人達には、どんな場合にどの位出せばよいかの勘所が掴み難い。その結果日本人は見栄も手伝って、現地の所得水準との整合性を狂わせてしまうほどに、チップを沢山出す傾向があるとのことだった。              
   
   『現地の人が可哀そうと思う必要はない』と強調した。チップの支払いに慣れてくれば、無意識に判断できるほどの簡単な事だが『彼等の所得水準にまで降りて、受けたサービスを評価するように』と繰り返した。

[3]現地人ガイドは大学教授

   日本語の旅行ガイドは免許制になっていた。この資格を獲得すれば一生食えるとのことだ。私のバス・グループのガイドはフィリピン大学教育学部の教授だった。ガイドは彼にとっては実入りの良いアルバイトだ。神戸大学の学芸学部に留学していたそうだ。                              

   50歳代だったがヨーロッパ人のように頭頂部が禿げ、丸々と太っていた。典型的なフィリピン人とは異質の体型だ。生活水準の差だけなのだろうか?。
    
   フィリピンでも『禿は絶倫家』と信じられているそうだ。『でもこの年になると相手を変えないと毎日は無理だ』と告白した。英語によるひそひそ話を傍らでこっそり聞いていた妻は『似たような頭同志で、何をしゃべりあっていたの?』とかまとと。                

   ガイドの教授がフィリピンの国名のルーツを説明した。『スペインのフィリップ国王の所有物=Philippe’sの意味からスタートしたが、アポストロフィが抜けてPhilippinesと表記されるようになった。今では末尾のSは複数を表すSと解釈されるようになり、多島国家を象徴している』のだそうだ。

   並のガイドとはひと味違った折角の講釈だったのに、関心を示したのは私只一人だった。更に彼は追い討ちを掛けてきた。『日本で発行されている世界地図の殆どには、フィリピンのスペルを間違えてPhilippineと書かれている。フィリピンの象徴Sをあろう事か忘れている!』と最後は憤慨。

   私には『空前絶後』の驚きだった。帰国後、早速手持ちの何種類かの世界地図でスペルを確認した。ナント教授の言う通りだった。外国の学校教科書で、日本の紹介記事には時代錯誤があり過ぎるとの報道にしばしば接するが、いやしくも国名を間違えている本がこの日本でこんなに氾濫しているとは、この時まで夢にも思っていなかった。                        

   間違いの原因は国名をフィリピナスと呼ばずに、フィリピン(昔は正しい発音からはもっと離れたフィッリッピン)と間違えて発音した結果が引き起こした錯覚からではないかと推定している。参加者に配布されている資料で、搭乗航空会社名を再確認したら、フィリピナス航空と正式名称がちゃんと書かれていた。日本人と雖も自分の会社の名前までは間違えないようだ。

   教授は『プロフェサー意識』を捨て切れないようだ。観光客へのガイドとしての態度よりも、何かと『教えてあげる』という立場や、たとい自分自身はいかに貧乏であろうとも、並の日本人観光客よりも知的水準は遥かに上だ、との潜在意識があるためか『指導する』との立場を取りたがった。       
                          
   ある時、同行の頑固爺さんが日本語で『ここのフィリピンの料理など食えた代物ではない。まずいまずい!。日本料理を出せ!』と彼に反発しながら、聞こえよがしに連発した。
                                 
   教授はさっそく職業意識に駆られて『外国人が日本に来て、日本料理など食えた物ではないと喚いたら、貴方だって気分が悪くなるでしょう。ガイドの私たちはフィリピンの良さを知って貰うと共に、観光に来られた一人ひとりに満足して頂ける価値あるコースを、一所懸命に企画しているのです』と正論。

   まさに『火に油を注ぐ』結果となった。爺さんは赤ん坊のように更に怒声を込めて喚く。教授は『国際理解への使命感』に燃えてお説教に情熱を一層注ぐが、勝負は直ぐに付いた。座は白け、教授は説教を諦めた。『フイリピン人ごときに馬鹿にされてたまるか』との態度ありありの爺さんの振る舞いに、国際親善の難しさを垣間見た瞬間だった。
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マニラ

[1]米軍基地

   マニラの一角には米軍基地があった。米軍基地の外観はどこの国の場合でも大変似通っている。なだらかな起伏のある広大な敷地に緑溢れる芝生、ゆったりとした間隔をキープした、垣根や塀も無いツーバイフォーの大きな家族住宅。 
                   
   アメリカ人はどこの国に行っても自分達の生活様式を持ち込み、母国の生活水準をキープしているようだ。民間会社の駐在員の待遇に対する姿勢もこれと全く同じだ。この当たり前の事を世界の隅々に至るまで常に実現出来る国こそ、名実共に一流国だと評価せざるを得なかった。

   一方、基地を縦貫する幹線道路を通り抜けた途端、フィリピンの過酷な現実へと、夢から覚めたように引き戻された。私たちが乗っているのは冷房完備のデラックス・バスなのに、ふとドライバーを見ると、背中に大きな穴の開いた汚いアンダーシャツ1枚を着ているだけだった。                  

   デラックス観光バスとは対照的なオンボロバスとも擦れ違った。もちろん冷房なし。ガラスの代わりに良くてベニア板がはめ込まれ、悪ければ窓には大穴が開いたままのバスに、現地人が鮨詰めに詰め込まれて運搬されていた。

   ジープニー(Jeepney)と称する小型車サイズのジープを改装した乗り合いタクシーが無数に走っていた。決まっているのは路線だけで、乗り降りの場所はお客さんの自由だそうだ。市内には毛細血管のように路線が張り巡らされているそうだ。                      
             
   大変合理的なシステムだけれど、土地勘のない一見(いちげん)の外人旅行者には手が出せない。車体はトラック野郎顔負けの満艦飾にペンキが塗られている。人力車よりはスピードも出るし、定員も多く効率的な交通機関だ。

[2]中国人墓地

   中国人が集団で住み付いているところをチャイナタウンと言うように、中国人のお墓が密集しているところを中国人墓地と呼んでいるようだ。

   フィリピンの華僑や華人は古代エジプト人のように死後の世界を確信しているのか、はたまた成金振りを誇示したいのか、大きな立派なお墓を作る趣味があるらしい。ここにある最上のお墓は生きている人間が住むのと全く同じような住居だ。現地人の民家など物の数ではない。                     

   冷房完備、台所もある鉄筋コンクリート作りの豪邸だ。死体を床の間にでも安置しているのだろうか?。このクラスになるとお墓の中には、死者と日夜暮している住込みの管理人さえもいる。

[3]サンチャゴ要塞
               
   スペイン人が植民地支配の橋頭堡として築いた石造りの要塞だ。たとい建設に金と時間が掛かろうとも、石文化の西欧人は『大事な物は信頼性に勝る石材で構築する』との習慣をアジアにも持ち込んだ。

   この要塞の中を歩いているとアジアにいることを忘れてしまう。ふとポルトガルの廃墟を思い出したり、ロンドン塔やロマンティック街道筋のローテンブルク(独)にある牢獄にそっくりな、水責め装置にも出食わしたりした。

[4]マニラ湾の夕陽

   この年のNHKの大河ドラマは『黄金の日々』だった。そのストーリーは忘れてしまったが、マニラ湾の椰子の葉影に沈む夕陽の美しさをセールスポイントにしていた。そんな事情もあって、フィリピン観光が一時は爆発的な人気を呼んだ年だった。           
                      
   夕陽が海に沈む都市は世界中無数にあるはずだと勝手に想像していたが、世界地図で点検すると、大都市は東〜南海岸に多い事に気付く。日本も例外ではない。西を向いたマニラ湾の地理上の特異な存在に改めて気付く。

   ガイドは午後6時過ぎに勿体ぶって『いま夕陽が沈みます。貴方達はラッキーでした。滅多と見られないマニラ湾の美しい夕陽が、今日は運よく見れます』とシャアシャアと言う。こんな事を毎日喋っているのかと思うと、黙っていてくれた方がまだましだ、と思わずにはおれない。マニラの11月は半年も続く乾季の始まりだ。旅行中に一度も雨には遭わなかった。

   経度が同じならば時刻は世界中同じだが、太陽の傾きが異なるため、日の出や日没の時刻は緯度によって大きく異なる。昼には太陽が真上から照らすようなフィリピンの日没時刻は、日本の夏の遅い時刻を連想し勝ちだが実際は大変早い。頭による観念的な理解と、体で感じる体験との差から生まれる違和感は、最後まで結局取り切れなかった。

[5]マーケット

   中心部の一角には外国人観光客目当てのマーケットがあった。敷地面積約1万u。クニャクニャ曲がっている道の両側に熱帯風の平屋の夜店が続く。大きな熱帯樹も適宜植えてあり、そぞろ歩きにも興を添える。

   貧しさの象徴である裸電球があちこちの店先に溢れている。フイリピンの物産展展示会場みたいだ。中でも貝細工には豪華な物が多かった。夜だからこそ『夜目遠目、傘の内』で一層美しく感じたのであろう。

   テニス用にマニラ麻製のパナマ帽を買った。爾後数年間も愛用した。この帽子には3原色のリボンが鉢巻きのように縫い付けてあった。旅行中はいつもこの帽子を被っていた。この帽子は自由行動中にも多くの人の目印になってしまった。 
   
   件(くだん)の頑固爺さんは一人になると心細くなるのか、私の10m圏内からは遠ざからなかったのがいじらしい。同行の何人かの買い物の交渉役を何時の間にか、頼まれたりする羽目にもなった。普通の日本人観光客には価格交渉を丁丁発止とやり合う程度の、英会話が出来る人は殆どいない事も知った。        

   壮年男子の正装に使われているシャツの素材は、パイナップルの葉の繊維で出来た織物だ。故マルコス大統領は何時もこのシャツを愛用していた。涼しそうだったので、カジュアルウェアとして買った。夏の旅行では何時も愛用しながら見せびらかしている。

[6]ディナーショー

   大劇場でディナーショーを見た。何と最前列にはジャルパックの客が陣取っていた。今回の激安ツアー客は末席に押し込められていた。こんな所にもコストダウンの秘密が隠されていた。一種の羊頭狗肉だ。これは安いのではなく、質相応に価格を落したのだ。 

   帰りの飛行機でたまたま隣席に座った、E号車のヤーさん風の男(初めての海外旅行とのことで、不安だったのか仲間の体験者を通じて、私が驚くほど良く勉強していた)は『ジャルパックと差別された。騙された』と言って仲間と一緒に添乗員を吊し上げたそうだ。あの口振りでは旅費を半額くらい取り返したのではないかと邪推した。

   暑い国では、私にとってビール以上のご馳走はない。妻が反対しても馬耳東風。妻が反対する理由は私の健康を気遣ってのことに非ず。折角のディナーを私が食べ残す事が、過去の体験から見え見えだったからだ。ディナーのメインは牛のヒレ肉の大きなステーキだった。                        

   フィリピンでこんな豪華なステーキが出るとは予想もしていなかった。内心しまったと後悔したが、ビールで膨脹してしまった胃袋にはステーキは30%も入らなかった。妻は何とウェイターにビニール袋を持って来させ、食べ残したステーキを恥ずかしがる素振りもなくホテルまで持ち帰った。_

[7]午後の散歩

   都心で解散した後、自由行動時間が半日あった。どこかに行くという当てもなかったので、ホテルまでの数Kmを散歩しながら、あちらこちらと覗いて回る事にした。ひっきりなしにタクシーの客引きやドライバーに呼び止められた。皆ちゃんとした英語をしゃべる。フィリピンの母国語が英語だと勘違いするほどだ。

   『ホテルはどこだ?リージェント?遠い遠い!』と必死の勧誘。『散歩しながら帰るのだから、タクシーには乗らない』と同じ会話を繰り返し続けた。仕事一筋のタクシーの勧誘を断るのに気が滅入り、散歩よりも疲れてしまった。

   小学校低学年くらいの子供たちが集団で遊んでいる場面に出くわした。英語で話しかけても全く通じない。しかしじっと様子を見ていたら、私が子供の頃に夢中になっていたのと同じルールのゲームをしている事に気付いた。
       
   ホンのチョットの間だったが仲間に入れて貰った。フイリピンの子供達は実に交流が旨い。さっと仲間に入れてくれた。日本の子供には真似ができないのではないかと思った。

   散歩途中に最寄りのホテルや専門店に入ったりして、出くわす人ごとに適当に慣れない英語でしゃべっていた時、たまたま一緒に来ていた仲間の日本人にバッタリ出会った。その時である!。日本語が出て来ない。出て来ても吃ってしまう。 
 
   もともと僅かばかりしかない全記憶を総動員して、英会話に夢中になっていた結果、英語関係が記憶されている部分の脳味噌ばかりが活性化されて、日本語関係が記憶されている脳味噌への神経の刺激回路が、冬眠状態に放置されていたのではないかと推定したものだ。私には生まれて初めての不思議な体験であった。   

   言語の切り替えがスムーズに出来なかった現象は、海外出張を重ねるに連れて急速に消滅した。そして、とうとうあの不思議な初体験をもう1度体験したいと思っても、今や全く不可能になってしまった。               
                                
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パグハンサン川下り

[1] 沿線                                

   マニラの南東 105Kmにあるこの景勝地は、日帰り可能な観光コースだった。未舗装で赤土がむき出しのままのガタゴト道を走る。途中に数回トイレ休憩があった。そういう場所には素朴な民芸品や熱帯果物の露店があった。
        
   バナナにも沢山の種類があることを知った。長さ50cmもありそうな、天麩羅用の巨大バナナや、大人の指くらいの大きさで味が濃縮されているようなモンキーバナナも初めて見た。

   沿線にはパパイヤの果樹園もあった。パパイヤの木には枝がなく、幹から出ている葉の付け根から直接実がぶら下がっている。大きさも大小様々だ。大きいのは長さ50cmもあり、重さはカボチャ並だ。食べたかったが大き過ぎるので諦めた。 
   
   その他、名前も知らない果物も多く、珍しい物を選んでは買い込んだ。このツアーは3食付きなので、食事も果物も食べたい私はその選択に困り果てた。食べ残せば良いのだが、そうすると落ち着かないのだった。『三つ子の魂百まで』とは良く言ったものだ。育ちに由来する条件反射は、一向に消えそうにもない。

[2]川上り〜川下り

   船着き場では濡れてもよい服装に着替え、着ていた服はビニール袋に入れて持ち運ぶ。私はハワイで買った派手な海水パンツとアロハシャツ姿になった。喫水の浅いボート1隻につき、2名ずつの客を挟んで筋骨逞しい青年2人が前後に乗り込んだ。10隻位ずつロープで繋がれたボートを、モータボートが上流へと曳航していく。そのようなボート列が幾つも続いている。

   ボートの漕ぎ手の青年が、『海水パンツをくれないか』と真剣に語り掛けた。『これはハワイで買った記念品だ。あげられない』と断った。しかしその後、余りの派手さが嫌になって使ったことがない。あの時、思い切ってチップ替りにやれば良かったのだ。

   激流を中流まで溯ると水深が浅くなり、ボートは1隻ずつに分離された。いよいよ青年たちの仕事が始まる。激流に飛び込んでボートを後ろから押し始めた。彼等は水泳パンツ1枚になり、びしょ濡れになりながらも、ごまかしの利かない仕事に一所懸命だ。

   西欧人らしき人達はボートの中央部にふん反り返って悠々と川上りを堪能している。あたかも犬にソリを曳かせているかのように!。料金をたっぷり払っているから当然だと頭では思っても、ボートに乗っていた私は気分的に大変落ち着かず、座り心地も悪い。ボートから降りて一緒に押したくなった程だ。
                  
   件(くだん)の教授の言葉『ボートを押し上げる人の苦労に、キット感謝する気持ちが生まれます。その時には小瓶のビール1本分だけのチップを挙げて下さい。それ以上は出さないで下さい。他のフイリピン人に悪い影響が現れるのです』が現実感を伴って思い出されて来る。  

   やがてボートは一大渓谷に差し掛かった。高さは優に100mを越える垂直の絶壁に囲まれていた。11月中旬とは言えさすがに南の国だけあって、真上にある太陽からは、渓谷の隅々に至るまで日が差し込んで来る。両側の絶壁や山頂には高さ30mを越えそうな椰子の木が疎らに生えていた。

   終着点には滝壺があった。 100mの高さから轟々と流れ落ちる水は、暑さを忘れさせるのに十分な迫力だった。ここまで来て良かったと心から満足した。青年達への感謝の念が沸き起こり、ごく自然にチップを渡せた。これこそがチップの本来の在り方だと実感した。

   帰途、ボートは激流の中を一気に流れ下った。青年2人は交互に舵を受持った。1人が操縦中、仲間の1人は疲労困憊の様子でボートの上にあお向けになったまま、ぐったりとなって体を休めていた。恐らくこの世で最も過酷な肉体労働の1つではないかと思った。
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タガイタイ

[1]絶景かな複式活火山

   マニラの南64Kmに複式活火山があった。カルデラに水が溜まった結果、周囲45Kmの円形の大きな湖が生まれていた。このカルデラ湖は周囲全部が摩周湖のように絶壁で囲まれているため、簡単には湖岸へ近寄れない。そのために人も住めず、結果として素晴らしい自然が今日に至るまで無傷のままで維持されている。

   カルデラ湖の真ん中にある活火山の噴煙が望める外輪山の一角が、観光基地として開発されていた。観光バスの大駐車場の横には散策を楽しめる公園やレストランに定番の御土産物屋が密集していた。

[2]南国の珍味、椰子の実ジュース

   ここで珍しい食べ物に出会った。椰子の実のジュースである。その時まで椰子の実の内部構造については全く知らなかった。中には果肉が詰まっていてその中心には大きな種があるのだろうと勝手に漠然と想像していた。

   店員が鉈で分厚い椰子の実の殻の頭部を鉛筆のように削ぎ落して、直径数センチの穴を開けてくれた。30秒も掛からない慣れた手つきだ。何と中にはジュースが詰まっていた。ストローを差し込んで飲めるようにしてくれた。      

   晩秋とは言えフィリピンでは日本の夏と変わらない暑さだ。たっぷりと汗をかいていた私には、多少の生臭さも気にならなかった。

   高い椰子の幹の中を地下水が上昇する間に雑菌などは濾過されているはずだし、水道の水などよりも遥かに安全な飲み物だ。人口甘味料の入った無果汁の合成ジュースなど足元にも寄せ付けない自然食品だ。椰子の実1個にジュースが1gはたっぷりと入っていた。

   ジュースを飲み終えると、店員は鉈で飲み口を更に10cm大へと拡大した。中を覗き込んだら、厚さ数ミリの半透明で白い果肉が壁一面に張り付いていた。ジュースが外へ漏れ出ないための不透水膜のようだ。      
          
   この空になった椰子の実にアイスクリームを入れて、スプーンで果肉と掻き混ぜて食べるのだそうだ。言われるままの方法で賞味した。果肉にはプルンとした腰もあり病み付きになり兼ねない美味しさだ。

   その後の体験だが、椰子の実のジュースを飲む習慣はアジアのどの国にもあった。ベトナムのあるホテルでは、飲める状態にカットしてある椰子の実(彼等はココナッツと言ったが、私にはココナッツは椰子の一種なのか、その分類法は不勉強で、今に至るまで分からないまま)が2個、いつも部屋に差し入れされていた。安全性に疑問が残るミネラルウォータよりも遥かにましだ。

   学生時代に生物学を学んでいなかった私は、椰子の実を前にして考え込んだ。植物の実や種は次世代へ生命をバトンタッチする手段である。椰子の種は一体何処にあるのだ?。このジュースの存在理由は?。
                  
   椰子の実は大きい上に丸いから、いくら30mもの高さから落下させても、土の中には潜り込めない。地上に落ちて、殻の表面にある生長点から新芽が伸び、根が成長して地中に入り込むまでの水分の補給源になっているのであろうか?

   帰国後、子供達にもこのジュースを飲ませたいと思っていたら、程なく何かの物産展で椰子の実を買える機会に出会った。1個1000円もした。現地価格の30倍だ。物珍しさに誘われて飲み出した子供たちは2〜3口で『もう良い』と言う。疑問に感じたので私も飲んでみたら、現地で飲んだものより遥かに生臭い。
    
   輸出する物は完熟する前に収穫するのか?鮮度が落ちたのか?原因は分からないままだ。鮮度が価値を支配するこの種の食べ物は、現地で何でも味わってこそ意味がある、と反省せざるを得なかった。
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フィリピンあれこれ

   アセアン7ヶ国(タイ・インドネシア・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・フィリピン・ベトナム)の中でもフィリピンには際立った特色がある。   

   ベースとなる人種はマレー系だが、1521年のマゼランの到着以来 380年に及ぶスペインの支配下の間に混血が殊の外進み、西欧的な顔だちの人が同じマレー系国家のマレーシアよりも格段に多い。その結果アセアンでは美人が大変多い国である。    

   またスペイン系がラテンアメリカ各国で発揮している陽気な性格は、フィリピンでも明るい太陽の下で遺憾なく発揮されている。無口で笑いも忘れた暗い性格の日本人とは正に対照的だ。

   加茂カントリーのフィリピン人キャディに『アジアで一番美人が多い国はフィリピンではないか?』と質問したら、即座に『インド』だと言う。間違っても日本とは言わない。
                             
   一瞬なるほどと納得。私はまだインドに行ったことはなかったが、インドの先住民を征服したアーリア人が白人である事をつい忘れていた。    

   気候の影響か?彼等は皮膚の色こそやや浅黒いが、顔の彫りは深く、目鼻立ちは通り、スリムで体形のバランスも取れている。平均的な日本人など残念ながら足元にも及ばない。男も例外ではない。美人が多い国には必ず美男も多いからだ。

   イスラム・ヒンズー・仏教・儒教などが支配的なアジアにあってフィリピンは、キリスト教徒が人口の80%も占める特異な国である。アジアでキリスト教徒の比較的多い地域や国は、他にはインドネシアの東部、ポルトガル領の東チモールと韓国に過ぎない。

   古くはスペイン、新しくはアメリカの 100年近い影響下にあって、アジアの中にありながら、西欧の匂いが文化的にも垣間見られる。アメリカの強い影響もあって一般大衆への英語の普及度合いは、アセアンではシンガポールに次ぐようだ。
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おわりに

   海外旅行がこんなに簡単に実現するとは夢にも思っていなかった。これならばミニ旅行なら毎年でも行けそうに一瞬は思ったが、結果としてそうはならなかった。現実は厳しかったのだ!。錫婚旅行の次に夫婦で出掛けたのは、銀婚旅行を兼ねた平成5年6月の定年旅行(ユートリップ)だった。実に15年半後の事であった。
   
   持ち家の借金の繰上げ返済。学費も生活費も高い東京の私立大学へと進んだ長女(東京女子大学⇒トヨタ)次女(早稲田大学⇒トヨタ)。地元の国立大学とはいえ1Kアパートに下宿している長男が、名古屋大学・大学院を卒業するまでにはまだ2年半もある。教育費の重圧の下、手も足も出なかったのだった。教育費がピークを過ぎたのは次女が就職した今春からだ。
                                       
   妻は銀婚旅行を契機にして、仲間と共に英会話の勉強会に参加するようになった。その後、一緒の海外旅行で、私が側にいる時は日本語しか使わなかったが、1人になると肝試しに英語も使い始めたらしい。                  

   今年の8月に長女と2人で台湾に出掛けた時、自分の英語が現地でも通じて自信を得たらしく『今後の海外旅行は、友達とのみ行く』と予告し始めた。本気かな?との疑問も解けぬ間に『今度の年末にはグアムへ行く』と宣言するや、否や申込手続きをしていた。

   妻にとって、私は一体なんだったのだ?!。

   追記(平成8年1月8日)。12月15日(木)になって突然『17日(土)〜25日(日)にイタリーへ友達と行く』と告白。文字通り『敵は本能寺にあり』を体験させられるとは何たる事! !。

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