石油ショックの翌年、昭和49年5月1日〜11月30日に掛けて、全室セントラル冷暖房完備の鉄筋コンクリート3階建て・総重量約 400トンの自宅を建設したが、資金不足で外構工事には未着手のままだった。
3年後の昭和52年の春にやっと 250万円掛けて擁壁工事も完成させ、庭には芝も張り、僅かに20坪程ではあったが念願の家庭菜園も軌道に乗せて一息付いた頃、海外旅行の宣伝広告が目にふと映った。それまでは関心外の世界であったため、どんなに派手な広告と雖も、我が視野には入り込めなかったのである。
フィリピン旅行が3泊4日『 59800円』で、しかも3食ガイド付きの上に、足に便利な名古屋発着のチャーター便だった。当時のパック旅行の標準価格の半額だ。前年度の税込み年収の約5倍にも達していた持家の借金を思えば、旅費など微々たる負担に思えてきた。
ふと考えて見たら、後 100日余りで結婚10周年を迎えるし、借金の憂さ晴らしに気分転換も兼ねて思い切って出かける決心をした。幸いにも旅券の有効期間が半年残っていた。昭和52年10月下旬の頃だった。
しかし、足もとを見ると長女は小学校2年生、次女と長男は夫々幼稚園に通っている。いかになんでも子供に留守番をさせる訳にも行かず、年老いた両親に旅費を出して、豊田まで応援に来て貰う羽目になった。実の両親と雖も自分の観光旅行のために、只ではるばる郷里(福岡県遠賀郡)から呼び寄せるのには、些か気が重かったのである。
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