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旅行記
           
アフリカ
エジプト(平成16年2月1日脱稿)

      先哲は『井の中の蛙、大海を知らず』と、良くぞ喝破したものだ。過去30年間、延べ45ヶ国、約500ヶ所を訪問した結果、世界一の神殿はアテネのパルテノンかローマのパンテオンだと深く信じ込んでいた。また、世界一の土木・建築事業は万里の長城であると確信すらもしていた。  
                       
      しかし、ルクソールのカルナック大神殿を目(ま)の当たりにした時その壮大さ・荘厳さには声も発せられないほどの感動を覚えた。

      またギーザに聳え立つクフ王のピラミッドを見上げ、更にはその奥深くの玄室にまで辿り着き、1万年と推定した設計寿命とその比類なき程の精緻な土木建築技術を間近に見ると、全身から溢れ出てくる先駆者への畏敬の念を何一つ禁じ得なかった。

     『日光を見ずして、結構と言うなかれ』と言う諺が、正しく井の中の蛙の発想に思え、何と虚しく空ろに感じられるようになったことか!
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はじめに

[1] 幻に終わったエジプト出張

   丁度10年前の平成5年春、エジプトへ工場進出する価値があるか否かの検討を担当することになった。当時のエジプト関連の各種の本を、何時ものように取りあえず10冊くらい濫読した。出張準備も完了した頃、何の風の吹き回しか、検討業務は急に中止になった。
   
   その瞬間、ピラミッドを拝む機会は幻と消えた。その後、今に至るまで、トヨタ自動車のエジプトへの進出は実現しないままである。10年も経つと、当時仕入れた最新の情報は、我がぼんくら頭からは綺麗さっぱりと消え失せていた。残された唯一の記憶は、かの世にも有名な女王はクレオパトラ7世で、何とギリシア人だったことくらい。つまり、クレオパトラさんは何人もいたのだ!

[2] やっと実現したエジプト旅行

   本節は、今回のエジプト旅行とは直接の関係は無い。ご興味のない方は次節へどうぞ。齢(よわい)65歳にもなると親類や知人には高齢者が増え、がん患者としての私はエゴイストに徹しないと、下記のような事情が頻発し、海外旅行もママならなくなっているのだ。

@ 多重がんの寛解後は、束の間の余生と覚悟!

   平成14年12月19日に愛知県がんセンターで胃がんの手術(主治医は天下の名外科医・病棟部山村義孝部長)、引続いて平成15年1月14日から3月18日まで食道がんへの放射線照射治療(主治医はこれまた天下に名高い放射線治療部不破信和部長)を受けた。その後、各種の検査を経て6月30日に食道がんの主治医から寛解のご託宣を受けた。Googleの検索窓に両先生の氏名だけを入れて検索すると、両人とも100件以上もの関連記事が出てくる!

   しかし、この有難い寛解のご託宣の実態は、5mm以上の大きさのがんを、実用化されている総ての検査技術を動員しても発見できなかったと言うだけの、気休め程度の心細い診断に過ぎない。現在のがん検出技術では大きさが5mm以下のがん(がん細胞の数で言えば1億個)は、情けないことに発見できないからだ。

   何時、未発見のがんが急に成長して、がんが再発するとも限らない。以後3ヶ月置きに経過観察と検査を続けることになった。過去の多くの事例から、自覚症状がきっかけとなって再発がんが発見された場合、助からない可能性は大変高いからである。余生は泣いても笑っても、あと僅かしかないと諦めざるを得ないのだ!

   世の中は広いようでも意外に狭い。山村主治医がマン・ツー・マンで2年間も指導されていた研修医(入院中は毎日お世話になった)の後輩で且つテニス仲間だった外科医と、名前も研修医と同じ愚息健一が、その後11/16に婚約するに至るとは入院中には夢想だにもしていなかった。

   この追憶記を書き始めた平成15年末現在、幸いにして未だがんは再発していない。直近の検査は12月16日に受けたPET(異常なしだった)である。胃がんの手術からもう1年も経ったのだ。文字通り『光陰矢の如し!』と改めて痛感!

A がんに罹って、人生観が変わった!

   がんの寛解以降、何時の間にか人生観が大きく変わっていた。究極のエゴイストになったのだ。最早、他人の人生に心を配るユトリが無くなった。人に甚大なる迷惑を掛けない限り、好きなように余生を過ごすようになっていた。

   寛解のご託宣を受けた頃、92歳の母は特別養護老人ホームに入れていただいていた。1年前からは何時永眠しても可笑しくない半植物人間状態だった。しかし、誰にもその死期を予想する事はできなかった。以前の私だったら、母が永眠するまでは海外旅行の検討すらもしなかった。しかし、寛解以降の私は、何時がんが再発するかも知れない状態になったため、母の永眠を待ち切れなくなったのだ。

   各旅行社の資料を見比べた結果『シリア・レバノン・ヨルダン』のパック旅行に魅力を強く感じた。早速、郷里の兄に相談した。『上記のパック旅行を申し込みたい。万一、父の13回忌や母の葬儀と旅行が重なっても、旅行を優先させたい。たとい旅行が母の葬儀と重なっても、49日の法事には必ず帰省できるのだから』兄からのメールによる返信は直ぐに来た。

   『インターネットでシリア・レバノン・ヨルダンを検索したら、ある人の旅行記を発見。写真も豊富だった。古代の遺跡が多く、ポンペイを思わせる様な光景も見られた。観光するに値する所だと思う。父の法事は住職の都合で日程がまだ決まらないので、旅行を優先して考えても良いと思う。父も旅行が好きだったので、文句は言わないだろうよ』

   しかし、その直後、死海を挟んで向かい合っているイスラエルとヨルダンとの関係が悪化し、ヨルダンの治安が悪くなったので、この旅行は已む無くキャンセルした。出発の1ヶ月以上も前だったので、キャンセル料は発生しなかった。

   その代わりに、8/27名古屋空港発着の九州小旅行を申し込んだ。国内旅行だから旅費も小額だし、母の葬儀と万一重なれば、勿論取り止める予定だった。
   
B 母の永眠

   8月23日深夜、誰にも気付かれることなく母がとうとう永眠した。24日の飛行機で帰省。通夜は24日、葬儀は25日だった。26日に豊田市へとんぼ返りすれば九州旅行には間に合うが、また福岡空港に戻ってくるだけだ。阪急交通社に、『27日に福岡空港で待ち合わせて、一行と合流したい』と、25日に帰省先から電話で提案した。

   こんな簡単な提案でも返信が来たのは1日遅れ。受付の担当者が処置法を知らなかったのだ。物々しい『離団届』なるものが帰省先へFAXで送られてきた。利用しなかった名古屋空港から福岡空港までの往きの航空料金の払い戻し請求を、旅行社としては拒否出来るようにするための手続きだったのだ。電話で『切符は破棄してください』と申し出たのだが、旅行社には後日の紛争防止のために、証拠書類が必要だったようだ。

C 岳父の危篤

   84歳の岳父が9月6日に救急車で九大病院の集中治療室に運び込まれた。高校の同期同窓会の帰途、9月13日(土)にお見舞いに行った。休日だったので主治医には会えず、30歳代の若い当直の医師(研修医?)に病状を尋ねた。岳父は過去20年来、何度も九大病院に入院していた。当直医が厚さ1cm以上にも達しているカルテをチェックするために15分くらい待たされた。

   『病気の種類は胆管がん・腎臓病・肺炎・アルツハイマーです。もはや体力も無いので胆管がんの手術は出来ません。本人も承知しています。肺炎がまだ回復していません。もう少し強い抗生物質を使う余地が残っていますが、使えば腎臓に負担がかかり、透析が必要になる恐れがあります。しかし、透析を受ける体力がありません。

   結局、後1ヶ月くらいの余命と推定しています。がんよりも肺炎の方が心配です。病状が回復したとしても年を越す事は無理と予想しています』との病状報告だった。私は母の場合と同じ問題に遭遇した。荊妻に対し『僕はがんだから、今後もエゴイストを通す。しかし、お前にとっては実の父だ。葬儀には出ろ!』

   各社のエジプト旅行を比較した。その結果から2つのコースを選び、9月中旬に同時に申し込んだ。両者の最終選択はキャンセル料が発生しない10/26に決断することにした。岳父が幸いにして生きていれば、下記の(2)をキャンセルし、永眠していれば(1)をキャンセルする予定を立てた。

(1) 11/27〜12/6。JTB。相部屋での参加。(岳父生存)

   岳父が幸いにして生き長らえていた場合は、12月になると危篤状態が続き、荊妻は看病に追われると推定して、単独旅行を申し込んだ。

(2) 12/15〜12/24。阪急交通社。夫婦での参加。(岳父永眠)
 
   岳父の葬儀が早まれば、夫婦で参加できると考えた。
   
   岳父は10月上旬、『最早治療の方法がありません』と言われて、強制的に退院させられた。ところが、自宅療養中に元気になった。荊妻は10/20ごろになって、『私もエジプトへ行きたい』と発言。『万一の場合、キャンセル料は自分で払う』と言って、阪急交通社に11/23出発のパック旅行の受付状況を問い合わせた。

   阪急交通社から『現在満員です。4組のキャンセル待ちがあります。多分無理です』と言われて、荊妻はとうとうエジプト旅行を諦めた。結果論だが、諦めて実は良かったのだ。この日の名古屋空港出発組はカイロとアレキサンドリア間で、乗っていたバスの横転事故に遭遇したからだ。
   
   
   蛇足。

   阪急交通社はこの事故の前後にも、僅か1ヶ月以内に各1回、同じ道路で事故に遭遇している。私は事故原因を次のように推定している。

   エジプトは沙漠の国。殆ど雨が降らないため、幹線道路を初め、市街地の道路にも排水用の側溝がない。ビルにも民家にも雨樋がない。時偶(たま)の雨は自然乾燥に任されている。

   都市や道路にはサハラ沙漠から黄砂のような微粒子状の砂塵がハムシーン(熱風)に載せられて飛来し、薄く降り積もっている。カイロ近辺は亜熱帯。時偶発生するスコールが強襲するや否や、道路はぬかるみ状態に激変し、各自動車は減速運転を一斉に開始する。

   阪急交通社の海外旅行は見学個所が盛り沢山。おまけにトイレ休憩と称するお土産店への立ち寄り回数も多い。しかもホテルは中級以下、食事も日本の学校給食並にして格安料金で募集するため、集客力抜群と言う特色がある。

   今回のようにスコールに見舞われると、移動時間不足を避けるために、ドライバーに無理が掛ってくる。カイロ=アレキサンドリア間の高速道路は片側3車線でしかも渋滞もないのに、追い越し運転をした結果、横転事故を起こしたと推定している。私が参加したJTBの場合は毎日2〜3時間のユトリがあった。その間は自由行動に使った。


   岳父は、幸いにもその後も元気だ。かつて旧制高校時代、陸上選手として名を馳せ、昭和12年には中京地区大会に出場し、800mで(2分8秒9)優勝している(中馬豊をキーワードにして、Googleで検索すると、この記録が出てくる)。若き日に鍛えた基礎体力が今も尚、役立っているのだろうか?

D 息子の婚約者の父が永眠

(1)恋人のご両親と初対面

   9月中旬、息子から『合コンで知り合った女性と結婚の約束をした。ご両親に会って欲しい』との電話があった。9/20、息子の車に先導されて豊田市内のK医院に荊妻と一緒に到着。3階建ての病棟付き医院と別棟の自宅は同一敷地内にあった。

   『息子から経緯は聞きました。私は結婚式や披露宴の形式には、保護者としての希望とか条件の類は何一つありません。私の結婚式ではないので、本人達の好きなようにすればそれで充分と思っています。長女や次女の結婚式も子供任せでした。

   これは2年前に書いた身上書と家族書です。息子にお見合いをしないか?と言って、メールで本人に内容確認を含めて送ったものですが、『お見合いの意志は無い』、と断わられたままパソコンにファイルしていた内容に、今年の夏に永眠した母の項目だけ今朝更新したものです。体重は私の推定値です。ご参考までにお持ちしました』  
   
   『結婚式に対する考えは私も全く同意見です。次回は、私が誕生日に何時も使っている岡崎市の料理屋でお食事会をしたいと思います。そのときにお話したいこともあります。今年の私の誕生会(1/15)には実は健一さんも呼びました。そのときの記念写真を壁に飾っています』

   『健一!まだ婚約もしていないのに、ご家族の方々と一緒の写真に入るのは失礼ではないのか!』

   『いえいえ、私共が健一さんにお願いをしたんですよ』

(2)10月下旬、息子と恋人が突然来宅

   『父の余命は、後いくばくもありません。9月に、父が次回にお会いした時にお話したい事がありますと言った後、病気が予想外に進行したため、肝心のお食事会はできなくなりました。父が言いたかった事は、残される母のことだと思います。

   本来ならば、既に家を出ている長男が母の面倒を見るのが当たり前なのですが、母は医院に隣接している今の家から出たくないと思います。父が48歳の時に安城の更生病院の勤務医から独立して、両親が一所懸命に働いて建てた家です。遭難した船と一緒に運命を共にする、船長の心境みたいなものです。

   私は父の期待に添って医院を引き継ぎたいと思っていますが、私が母の老後を見ることにご理解を頂いた上で、父と相談したいと思っています。健一さんに母との同居を是非我慢して欲しい、と希望しているわけではありません。私達の家は近くに建ててもよいし、健一さんがよいと言えば、2世帯住宅に建て替えても構いません。私のお願いは、兄に代わって母の老後を見させていただきたい、という一点です』

   『私は多重がんの治療を受け、現在は経過観察中の身です。私が確約しても約束に重みがありません。この問題は私達夫婦よりも、健一の考えをこそ重視したいと思います。健一、ここでイエスかノーか、答えろ!』

   本人がポツリと『解っているよ』と返事しました。

(3)ご両親のご来宅

   息子を通じてご両親の来宅希望が知らされた。11/16の来宅日には、馬子にも衣装と考えて午前中にスポーツシャツを、豊田そごう倒産後久しぶりに安売り屋で買い求めた。その間の物価下落には驚愕。380円だった。更に病人の心を癒すべく、近くのトヨタ生協で2000円也の小さなテーブルフラワーを生まれて初めて買い求め、座卓を飾った。延命保存薬が入れてあるのか、一ヵ月半経った今でもこのテーブルフラワーが元気に咲き続けているのは、不思議だ。

   病院から抜け出してきた愚息の恋人の父親は、最早自力では歩行できず、奥様とお嬢さんに両脇を支えられて我が家の勝手口(注。玄関からの入室には4mの階段があるため諦めた)から入室。死ぬ前に何としてでも挨拶に行かなくては、との執念に支えられてのご来宅だった。最早座卓での正座はできず、応接セットに移動して、短くても、とてもつらい時間を過ごした。

   本人は既に発声そのものもやっと。小さな小さな、しかも途切れ途切れの単語の羅列で、奥様の翻訳を通じて病状と直近の心境を語った。これ以上痩せる事は不可能なくらいのお姿だった。奥様も看病でやつれ果てていた。9月20日に初めてお会いした時とは、両親共に別人のような風貌だった。

   『長男も次女も結婚済みだが、医師でもなく、孫も未だいないのでさびしい。長女の結婚式の準備には時間がかかるので、そのときまで生きている事は無理。無念です。結納は要りません。医院は9/1に閉鎖しました。膵臓・十二指腸は全摘出・胃は半分切除・肺と肝臓に転移。私の死後、妻の老後を宜しくお願いします』

   『実は私も多重がんの治療をし、今は経過観察中です。何時死ぬか分かりません。しかし、生きている限り、荊妻や息子夫婦と共に奥様のお力添えができたらなによりと、希望しています』

   奥様が『あなた、後、まだ言いたいことがあるのではありませんか?』『いや、もうない』とのことで、息子の車に乗った4人を見送った。
   
   つらい、つらい40分だった。当日、父親は大変嬉しかったらしく、『外出できるのは今回が最後。一番気に入っていた喫茶店に立ち寄った後、海が見たい』と、希望を述べ、愚息が3人をお連れした。

(4)K医師の永眠

   K医師は11/8、奥様の誕生日に親友夫妻と子供たち夫妻及び愚息を呼び、最後の晩餐会を開いていた。今回の葬儀の段取りは総て、そのときの親友に当たる方が引き受けてくれた。

   K医師は11/24、19:10に永眠した。最期は自宅で迎えたいとの本人の希望を尊重していたが、容態が急変し救急車でトヨタ記念病院に移送中に亡くなった。最期は医師である長女が看取った。長女は仕事中の愚息に病院から連絡。愚息が拙宅に連絡。荊妻と倉庫のように殺風景な霊安室に駆けつけたとき、奥さんと婚約者と健一とが呆然と立っていた。

   数分後に葬儀社の車が到着し、自宅に搬送した。まだ体温が残っていた。他の親戚の人は病院には間に合わず、自宅に集まった。

   深夜、愚息からお通夜は27日、葬儀は28日との連絡があった。本人は愛知県、奥様は大分県の出身。慶応の同期生は全国に散らばり、どうしてもお通夜も葬儀も延ばさざるを得なかったようだ。私も荊妻も下記の予定で共にお通夜にも葬儀にも出られなかった。已む無く11/25、2人で焼香に出掛けた。荊妻は26日早朝岳父の看病で博多へ、私は27日早朝、エジプトへと予定通り出発した。
   
   勿論、私も荊妻も予定をキャンセルできる立場ではあったが、残された奥様にご了解を頂き、お通夜も葬儀も失礼させていただいた。エジプトからの帰国後の12/10、2人で霊前に向かい改めて焼香した。
   
   愚息達は結婚披露宴を6/20に決めながらも、永眠したK医師のご冥福を祈り続けるために、氏の誕生日と結婚記念日とを一致させるべく1/15の夜、市役所に婚姻届を提出した。

E トヨタ同期の友人の突然死

   トヨタ同期入社の友人(豊田工機社長)が11/26深夜、出張先のホテルの浴室で心不全のために永眠。発見者は27日の朝、迎えにきた運転手。私は27日5:30に家を出発していたため、12/6、東名高速の豊田インターチェンジに迎えにきた荊妻から、車中で聞いて初めて知った。

   FAXと電子メールで、お通夜や葬儀の連絡がきていたが、旅行中だったので欠礼したままだった。エジプト旅行は長期の海外出張(最長体験は3ヶ月)とは異なり、たったの10日間だったのに人生の大切な儀式を2つも欠礼し、返す返すも心が痛むのを押さえきれなかった。

   幸い、氏の社葬が名古屋市覚王山日泰寺で12/18に実施された。日泰寺に出掛けたのは初めてだったが、五重の塔もある大きなお寺だった。本殿の大広間にはご親族の方が10名余り、ホットカーペットの上に正座されていた。大きな仏像の前では15名余りの僧侶が色んな祈祷をしていたが、その意味は分からなかった。


蛇足。日泰寺の由来(インターネットから)。
  
   1898年1月にイギリス人が仏教遺跡を発掘中に人骨を発見。この人骨は、「釈迦」なる人物が実在したことを立証した。

   その後、釈迦の遺骨の一部は、カルカッタ、タイ王国、セイロン、ビルマにも渡った。タイ王国より日本国民への贈物として、遺骨の一部が日本に渡り、いったん京都へ行き、明治39年名古屋に新寺院として建立された覚王山日泰寺へ送られ、現在も祀られている。

   お寺の名前の日は日本、泰はタイ王国を意味している。日本でお釈迦様の遺骨を祀っている唯一のお寺としても有名。

   お釈迦様ともなると死後さえノンビリはできないようだ。遺骨の分捕り合戦に遭遇し、骨格はバラバラに解体され、各地の寺院に持ち去られた。何と言う残酷な仕打ち。罰当たりな僧侶達め、地獄にでも落ちろ!それでも仏に仕えられる身と思っているのか、と罵倒したくなる・・・。
   
   別棟の大きな焼香場所には湯野川社長の大きなカラー写真が飾られ、右側には奥様を初めとしたご家族、左側には葬儀委員長豊田工機大西匡(ただし)会長(現役時代の元担当役員)を筆頭に各役員が並ばれていた。大西会長とふと目線が会い、深々と挨拶をされたので、私も小声で『お元気で何よりでございます』と、返礼。

   平成15年は、母(天寿)、愚息の義父(がん)、トヨタ同期の友人(心不全)、何時もゴルフの送迎をしてくれているトヨタ後輩のご母堂(天寿)、家族間でお付き合いしていた大学後輩の長男(整形外科医・クモ膜下・独身)の葬儀に遭遇した。しかし、私の親戚筋には何時永眠しても不思議ではない高齢者がまだ何人もいる。今後も何度か欠礼があるどころか、もっと増えそうな予感さえするが、已むを得ないと諦めている。
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出発まで

[1] 旅行費用

@ 旅行代金        278000円
A 成田空港施設使用料     2040円
B 空港税           4280円
C 国内線追加料金      25300円
D ビザ取得費           25$
E 合計      309620円+25$

   ビザは入国時にカイロ国際空港で添乗員が全員の分を一括して取得した。そのため、通常は請求されるビザ取得のための手数料は不要だった。支払いにT/Cは使えず、ドルの現金のみが認められた。幾らドルの暴落が噂されようとも、腐ってもまだ暫くは鯛のようだ。
   
   添乗員がビザ取得の手続きをしている間に、空港内の銀行でチップや枕銭、食事時の飲み物やタクシー代用に、ガイドの提案通り5000円分だけをエジプト・ポンドに変換した。チップや枕銭などの相場は1エジプト・ポンド(約20円)。1$では高額すぎるのだ。
   
   一流店ではドルでも円でもカードでも通用するため、エジプト・ポンドへのニーズは大変少ない。旅行中に2000円を追加交換しただけだ。

[2] 事前勉強

@ エジプト・リビア・チュニジア         朝日新聞社・1400円
A 世界遺産第6巻アフリカ大陸             講談社・940円
B 古代のエジプト ジョン・ベインズ 吉村作治訳 朝倉書店・26780円
C エジプト       日経ナショナル・ジオグラフィック社・2200円
D エジプト                     海鳥社・1500円
E エジプト                     新潮社・3000円
F エジプト                     JTB・1550円
G エジプト  ジョバンナ BONECHI社・エジプトにて購入・日本語版・9$
H 地図                     エジプトにて購入・3$

   海外旅行に行く前には何時も図書館から本を借りていた。今回もB〜Fまでの5冊を借りた。@は昔、自分で買っていた本だった。Aはがんで入院中、トヨタ先輩のテニス仲間がお見舞いに来院された折に、日頃の言動を察してプレゼントしてくれた本だ。
   
   本は集めたものの、今回は本文を読む気力が何故か全く起きなかった。ページを捲って写真を眺めただけだ。貴重な時間を潰して読んでも、直ぐに忘れてしまうくらいならば白紙の状態で現物を、偏見もなく眺めた方が旅は楽しそうだと思った一面もあるが、負担の重い事前勉強からの単なる逃避行動に過ぎないのが実態だ。がんの寛解以降、人生を積極的に生きようとの意欲の減退は、残念ながら日々深まるようだ。

[3] 持ち物の準備

@ デジカメ
  
   最近は旅行に出掛けても、写真は殆ど撮らなくなった。撮った後でも一度見るだけ。家族に見せている内に写真を撮った順番が解らなくなり、アルバムに整理する意欲も薄れて、大きな収納箱に投げ込んで終わり。

   しかし、我が旅行記の読者から写真を入れろとの注文が増えたのを契機に、今回デジカメを初めて買った。デジカメだと現像は不要。写した順序も変わらないから記録に便利と考えた。

   とは言え試しに、この旅行記に写真を入れたら、新たな問題が発生。テキストリッチ形式でファイルすると、膨大なメモリを使うのだ。画素数を落としたが3枚入れるのがやっと(予定では本文と写真の合計で2500KB以内)。これ以上入れると、電話回線で受信する友人からの苦情が殺到すると予想して、諦めた。Word形式のファイルにすれば所要メモリ量は数分の一に激減するが、受信側で文字化けなどの障害が多発するので、こちらも諦め。

   買ったのはニコン。しかし、世界的なブランドのニコンとは言っても、文字通りの名ばかり。三洋電機(中国工場)のOEM(Original Equipment Manufacturing)。三洋電機は世界に名だたる一流カメラメーカーをごぼう抜きして、今や世界一のデジカメ生産会社になった。200万画素。カメラに付いていたメモリは64MBと小さかったので、256MBのメモリを別途買った。10日間、乱撮りをしても充分な容量と考えた。100万画素だと1200枚以上も撮れる。今回は434枚撮った。メモリはあり余っていた。

   ところが、このデジカメには予期せぬ欠点があった。電池が直ぐに消耗したのだ。アルカリ単3乾電池2本では、高々数十枚しか撮影できなかった。フラッシュを焚けば撮影可能枚数が更に激減する。何が電力を大量に消費するのか、マニュアルには一切触れられていなかった。撮像素子(CCD)なのか、液晶モニタ(1.5型TFT・75000画素)なのか、オートフォーカス機構なのか???ハイテクとは名ばかり。いずれ省電力タイプが出てくるとは確信するものの・・・。

   その上に使いにくかった。スイッチを入れて5秒経たないと撮影ができなかった。節電のためか、30秒後には自動的にスイッチが切れた。この30秒は可変らしいものの、マニュアルが分厚すぎて読む気がしなかった。同行者に我が写真を撮って貰うべく、スイッチを入れてカメラを手渡しても、まごまごしている間にスイッチが切れるのだ。動画も撮れるが気に入った撮影対象にも出会えず、使わないまま。

A 電気剃刀

   過去の体験から発展途上国ではどんなに高級なホテル(ヒルトンでもシェラトンでも例外ではない)であっても、客室の消耗品(安全剃刀・歯ブラシ・歯磨き粉・石鹸・シャンプー・櫛など)は国産品中心。その品質に満足した記憶はない。
   
   泡立ちの悪い石鹸と切れ味の悪い安全剃刀の組み合わせくらい腹立たしく感じる事はない。剃刀負けすらも心配させられるからだ。若者ならばいさ知らず、年寄りの無精髭くらい貧相に感じるものは無い。私が日頃から心がけている唯一の身だしなみは、朝風呂での髭剃り(今回の旅行中でも朝早く自然に目覚めたので、同室者が睡眠中に実施した)である。
   
   今まで使っていた2枚刃の電気剃刀は電池容量が低下してきたのでこの機会に破棄し、3枚刃の電気剃刀に買い換えた。過去の体験から一度充電すれば1週間は使えるので、荷物を軽減すべく充電器は持参しなかった。
   
   過去10年の間に進歩したのは刃の数の増加や、リニアモーターの採用だけではなかった。躯体の形状が大変握りやすくなっていた。以前は断面が一定の寸胴(ずんどう)タイプ。石鹸が付くと滑りやすかった。新型は曲面を多用し、断面形状にも変化が付けてあった。太さこそ違ってはいても、ぐいと握ると過ぎ去りし青春時代を、ふと思い出させてくれた。
   
   ホテルの石鹸の泡立ちは予想通り悪かった(硬水が原因かもしれないが、確認せず)が、電気剃刀の使用には何の支障もなかった。しかも、どうしたことか、今回の旅行中どのホテルでも、安全剃刀も櫛も備えていなかったのだ!

   蛇足ながら、国内旅行でも歯ブラシと歯磨き粉は愛用の品物を持参している。使い捨てのひ弱な歯ブラシにスズメの涙ほどの歯磨き粉を塗って歯を磨かされるのは心細くて不満なのだ。愛用の軟毛豚毛歯ブラシに勝るものはない。お陰でこの歳に至るまで虫歯が無いのが自慢の種。

B ジーパン

   エジプトは埃や砂塵が溢れる国。しかもピラミッドにも潜り込む予定なので、我が人生で2着目のジーパンを買った。1着目は結婚直後だった。35年以上前の特売品で1000円だった。今回は2500円だった。中国人の努力の結晶だ。
   
   新婚時代は恥ずかしくて外出着としては使わなかった。ジーパンは独身者が着るものとの偏見を持っていたのだ。しかし、その後ジーパン文化は年齢や性別に無関係に世界中に普及していると知り、今回思い切って買った。
   
   体にピッタリ密着するし着心地もよく使い始めた途端、気に入り、今や毎日愛用するようになった。愛知県がんセンターにもジーパンで出掛けたが、何の違和感もなかった。それどころか、気分が若返ったようにすら感じた。

C チノパン

   チノパンは数年前に豊田そごうでブランド品を8000円位で買ったのが最初である。普段着兼ゴルフ用兼外出着として愛用している。丈夫で穿き心地もよいことに気付き、今では通勤時に使っていた昔ながらの替えズボンは殆ど着なくなった。チノパンの語源は各種取りざたされているが、私は下記の説(インターネットからの検索)が尤もらしいと思っている。
         
   チノパンは、正式には、チノーズ(chinos=中国の)パンツである。第1次、第2次世界大戦でアメリカ陸軍がユニフォームとして採用し、その後、一般に普及した。
   
   英国のマンチェスターで作られ、インドを経て中国に輸出され、中国からアメリカが買っていたのが始まり、とされている。綿素材の丈夫な綾織りで、防水加工なども施されている。

   今回、ジーパンに飽きたときに穿こうと、新しくチノパンを2500円で買った。これも中国人の汗の結晶だ。帰国後に洗濯したらそごうのブランド品よりも光沢が落ちた。しかし、然したる問題ではない。我が身に相応しくない立派過ぎる衣類(松坂屋本店で縫製した英国のスキャバルやドーメルの超高級背広とか、カシミヤ100%のジャケットとか)を着ると、精神的な疲れが何故か溜まるのだ!

D 室内着

   今までゴルフ友達と一緒に相部屋で、韓国・香港・マカオ・イタリア・インドなどへ旅行をした。このときにはホテルの室内では下着のままだった。寝巻きを持参することも無く、下着のままで寝ていた。海外旅行のコツは如何に荷物を少なくするかにあると体験していたからだ。

   しかし、今回は全く知らない方との相部屋旅行だ。ステテコにアンダーシャツだけといっただらしない格好は、自称紳士としては避けるにしくはない。近くのユニクロに出掛け、何か適当な衣類は無いものかと探した。あった!

   窮すれば通じると言うのではなく、そのようなニーズは誰にもあったのだ。店員に用途を聞くと、普段の室内着兼外出着だそうだ。トレーナーのような派手さはない。この無地の上下を着ればそのままパジャマとしても使える。これもまた中国人の努力の結晶だった。

E テニスシューズ
   
   ピラミッドの中に潜り込むためにも、オベリスクの石切り場で歩き回るためにも、革靴は滑り易い上に柔軟性にも欠けて使い難い。今回は使い古したテニスシューズを履いたまま自宅から出発。革靴を持参するのは荷物が増えるだけなのでやめた。
   
F 旅行鞄

   過去の体験ではサムソナイトなどのブランド品でも、豊田そごうで買った国産トップ銘柄の松崎製でも旅行鞄は数年で破損した。鞄がターンテーブルに現われると、やれやれの心境が先に現われ、鞄の破損の有無を確認する作業を忘れている。ひびが入っているだけの場合は、よほど心がけて注意しないと見落とすことになる。

   今回は春の連休に次女が欧州旅行用にと鞄を借りにきたときに、鞄の破損に初めて気が付いた。保険は聞くまでもなく当然失効している。破損の原因の殆どは飛行機への積み下ろしの際の手荒な作業に起因していると推定している。投げるのだ!

   已む無く、鞄を買いに近くのジャスコに出掛けた。何と二重電子ロック付の大型鞄が6300円だった。予想された鞄の修理代金1万円よりも安い。これもまた、中国人の努力の結晶だ!

G 巻尺

   今回の旅のハイライトはピラミッドとの対面である。観光ガイドブックの写真では実態がイマイチ解らない。ピラミッドに関する調査結果や解説書は無数にあるが、多くは考古学者系の著書である。考古学者は古来何故か文系出身者が主である。彼らはピラミッドの幾何学的な寸法や、高さと底辺の関係など、初等代数学の範囲内での分析までは試みているが、土木・建築学を主題にした工学的な考察は荷が重いのか殆どしていない。
   
   エンジニアの端くれを自負している私には、ピラミッドの構成材料としての石の大きさに関しては異常なほどの関心があった。我が郷里は筑豊炭田の一角にあり、あちこちにボタ山があった。ボタ山とは地中から掘り出した石炭の内、発熱量の低い石炭(3000kカロリー未満/Kg)や土石を選別し、廃棄してできた山である。
   
   ボタ山の成長過程では、山の斜面に沿ってレールを設置し山上の滑車を介し、反対側の地上に設置されているウインチ小屋からのロープを延ばして、ボタを満載したトロッコ貨車に繋ぎ、ケーブルカーのように引き上げ、山上でボタを捨てることを繰り返していた。
   
   このときに出来る斜面の角度はボタに働く重力と、ボタ間に発生する摩擦力とがバランスする値で自然に決まっていた。火山の傾斜角度の決定原理と同じだ。例えば富士山の場合、山頂付近では溶岩が溶融状態のために摩擦力が小さく、急斜面になっているが、裾野まで流れ落ちてくるにつれて溶岩が冷え、粘度が上昇して摩擦力も大きくなり、ゆるい傾斜面が形成されている。
   
   ピラミッドを一番簡単に作る方法は沙漠の砂や土を積み上げる方法だ。秦の始皇帝の墓は土を積み上げて山のようにしたものだ。しかし、これでは耐久性が不足するのは火を見るよりも明らか。当初には76mの高さがあったが47mになったらしい。始皇帝の墓の傾斜は大変ゆるく、しかも植林がしてあるため、自然の山かと勘違いしかねない。ボタ山も雨が降るたびに徐々に崩壊するので最近は植樹し始めた。
   
   耐久性を増すためには石を大きくすれば可能だが、石の切り出しも運搬も大変だ。設計者は砂と巨石の中間値として、石の大きさの決定には大変な苦心をした筈だと推定した私は、その秘密の一端に迫るべく、現地で石の大きさを計るために巻尺を用意したのだ!

H エジプト綿

   綿花には色んな種類があるが、極細長繊維で世界的に有名な綿花は西インド諸島を産地とする海島綿である。200番手のカッターシャツは絹のようなしなやかさと光沢があり、注文シャツ素材の花形。スイス製の生地の場合は仕立て代込みで1着3〜5万円もする。国産には何故か高級品はなく、情けない。

   海島綿に次いで有名な産地は同じく極細長繊維のエジプト綿だ。ピラミッドにお参りするからには、馬子にも衣装とばかりに、既に長年にわたり着古していたエジプト綿製のスポーツシャツと同厚手の靴下とを用意した。結婚式にモーニングを着ていく心境と同じだ。

I ブエノスアイレスで買った牛皮のハット

   リヒテンシュタインで買って以来、過去10年間、海外旅行の都度愛用していた真っ赤なチロリアン・ハットは色あせて古くなったので代わりに、5年前に最後の海外出張(世界一周)の折にブエノスアイレスで買った、牛皮製の帽子を着用することにした。

   目的はチロリアン・ハットと同じ、安全のためである。珍しい帽子を被ると周囲の人の注目を浴びるので、スリも近寄りがたいのだ。又同行者にも直ぐに覚えられ、大駐車場でバスを探す時など、仲間が『こっち、こっち!』と言ってくれるので大助かりするからだ。

J 水

   今回の旅行では毎日、500〜600ccのミネラル・ボトルが配布されることになっていたが、沙漠の国では不足するかと思い、スポーツドリンクを4リットル持参した。往きには鞄に隙間もあり、鞄を潰されないためにも役立つ。帰路には水の代わりにお土産を詰め込むスペースに転用できる。

   毎朝、自宅では痛風対策として2リットル(胃がんの手術前には3リットル飲んでいたが、術後は2リットルしか飲めなくなった)の砂糖抜き紅茶を飲んでいるので、万一水が不足する場合には現地で買う積もりだった。しかし、結局2リットル余ってしまった。正にベストシーズン、快適な気候だったためか汗も然して掻かず、喉も渇かず、ビールを飲み続けていた結果でもある。

K 海水パンツ

   JTBの旅物語の場合、出発直前に添乗員から参加予定者の一人ひとりへ電話確認がある。『今回のホテルには総てプールがあります。時間も十分あるため、海水パンツの持参をお勧めします』。

   エジプトに到着した時、1週間前までは最高気温35℃だったのに数日前から急に10℃下がったとの報告。寒がり屋の私は結局、泳がなかった。寒冷地に住むゲルマン民族は寒さに強いのか、街では半そで姿、プールでも元気に泳いでいた。一方エジプト人は私よりも寒がり屋。大抵、羊皮のジャンパーを着用していた。

L 無線受信機(ガイド・システム)

   今回、無線受信機をJTBから貸与された。初めての体験だ。大観光地ではしばしば数組の団体が鉢合わせをする。博物館などの狭い空間では、ガイドの声が干渉しあって、聴き取り難くなる。又、ガイドの説明を聞く気もない人が私語に没頭し、いらいらすることも多い。

   今回の観光対象は屋外が多かった。この場合には声が発散し、余ほど大声を出さないと、全員には聞こえ難い。今回の無線受信機は大変役立った。ガイドの方を向く必然性がない。展示物を見ながら聞くことも出来るし、ガイドから少し離れて見たいものを勝手に見ていても説明は聞こえるからだ。

   大相撲の中継でアナウンサーと隣席にいる解説者とが、イヤホーンを介して会話を交わしている利点が充分に理解できた。他の旅行社がこのガイド・システムを何故使わないのか、一度体験すると、不思議でならない。
   
   M 足の痺(しび)れ

   9月以来、時々右足が痛んだり、痺れたりし始めた。どんな条件下で発生するのか、特定できなかった。スポーツのやり過ぎなのか、椎間板ヘルニアなのか、膝の半月板の磨耗なのか、がんの転移なのか?自分でもその全体像が掴めないために、病院に行っても症状を説明できないと思い、暫く成り行き任せにしていた。

   ゴルフやテニスは途中休みながらも支障なくプレイできたので、今回の旅行は可能と判断。しかし、振り返ると今回の旅行中が一番痛かった。その結果、好奇心に駆られて歩き回るのが若干躊躇されたのが癪。

   帰国後、12/8のがんの検診日に、食道がんの主治医に質問すると『老人性椎間板ヘルニアの疑いが濃厚。整形外科での精密検査で判定できる。プール内を歩行して筋肉を鍛えると良いと思う』との診断。とりあえず12/13に近くのカイロプラクティスで、1時間の治療を受けたら『もう来なくとも良い』との判定。

   気のせいか、痺れは殆ど感じなくなり、徐々に回復。その後、インターネットを使った情報検索の結果、『脊柱間狭窄症』ではないかと自己診断している。椎間板ヘルニアとの違いは、歩いている内に、足が重くなって持ち上がらなくなる点にその際立った特徴がある。右足の親指の爪に負担がかかり、血豆ができ、爪がとうとう剥がれてしまった。軽症の場合、自然治癒するらしく、12月下旬以降では自覚症状が殆ど消えた。

[4] 旅の仲間

@ 同行者は19名(男7人、女12人=若者7人、年寄り12人)

   定年退職者夫妻3組、新婚組、70歳代の後家さん2人組、明治大学の女子学生2人組、日本大学法学部卒のOL2人組、私と72歳の男やもめ。個室参加した小企業のオーナー社長夫人、29歳の独身男子、70歳代の後家さん。
   
   何時ものことであるが、同行者は女性が男性の約2倍、60歳以上の高齢者が30歳未満の若者の約2倍。働き盛りの中年は参加しないのだ!みんな生活に追われているのだろうか?仕事や育児に追われて時間が取れないのだろうか?中年男子の中には海外出張に恵まれた人もいるとは言うものの、出張に縁のない職種の人も多い。中年女性は一体どうしているのだろうか?

A 相部屋の仲間

   旧制高等小学校(小学校6年+高等部2年)を出て色いろ苦労しながら転職し、最後は東京都の職員に採用されたものの、何時も下積みだったと零しながらの人生を、長々と語りながら自己紹介した。私はせっせと聞き役に徹した。
   
   我が体験によれば老人とは、己が自(おのがじし。自分の心任せに、の意)、我が人生を一所懸命に誰かに語る機会を待ち望んで生きているからだ。『貴方は誰よりも苦労したけれど、結局は苦労が実って、最後は幸せを掴みましたね』との感想が聞けることに、救いを求めながら・・・。

   子供2人は大学を出て結婚。奥さんとは20年前に死別。爾来一人暮らし。年金は40年間の公務員生活が役立って月に30万円。直近の1ヶ月間はガイドブックと格闘しながらもエジプトの勉強に没頭し、観光ルートの順に沿って見所を詳細にメモ書きして持参。メモは数回に渡って修正しながら書き直したため、大抵は暗記できたと言う。

   氏は一人暮らしの生活技術も披露してくれた。土地は借地、家は本人のもの。雨水はポリバケツにためてトイレや風呂に使う。水道の検針員が変わるたびに、使用量の少なさに驚き不正を疑うそうだ。東京都は高齢者に毎月入浴券を2枚支給するため、自宅では風呂を殆ど焚かない。

   百円ショップの愛用者。今回の持参品には驚いた。腕時計・目覚し時計・電気剃刀・傘・合羽・・・。こんなものまで百円とは驚くほどだ。私は霧雨の日(12/4)に未使用の合羽を借りた。105円での買取りを申し出たが辞退された。きちんと折りたたんで持ち帰られた。

   食事は自炊。食材の種類を限りなく増やす方針(これは理に適っている)。豆腐も1丁を4個に分けて使用。冷蔵庫の中は小分けした食材の山。ある時、娘が冷蔵庫を開けてびっくり仰天し『お父さん、全部捨てなさいよ』。『馬鹿なことを言うな!』と一喝。  

『52歳の男盛りに奥様と死別とは!どうして再婚されなかったのですか?』
『質素な生活をしたので、5000万円の貯金が出来た。実はそのことに気付いた何人もの遠縁の女性等から結婚を迫られたが、全部断わった。彼女達の魂胆が見え見えだからだ』
『魂胆って何ですか?』
『結婚後、私の貯金に手を出し、挙句の果てには離婚に持ち込むんですよ!結婚後1,2年もしたら、虐待されたなどの理由を捏造して裁判に持ち込み、仲間に虚偽の証言をさせて離婚が成立すれば、私の年金の半分が貰えるのですよ!』

(注。トヨタ同期・ゴルフ・テニス仲間で、社会保険労務士の国家試験に合格したばかりの東大・航空学科卒に確認したら、これは本人の思い過ごし、単なる誤解だった。現状では離婚しても厚生年金の受け取り者は変わらない。しかし、離婚後の女性を救済すべく法律が近々変更になる見込みが濃厚と解説してくれた。

しかし、新法律が出来たとしても、私は年金を積み立てていた期間と重なる婚姻期間の長さも当然考慮された上で、年金の分割比率が決まる筈と推定している。また、男性が年金受給中に再婚した女性の場合は、年金の積み立てには女性は寄与していないため、離婚しても年金の分割はありえないと推定している。そうしなければ再婚詐欺もどきの事件が多発するのでは?)

『男盛りの禁欲は苦痛ではありませんでしたか?ぬるぬるして弾力性にも富んだ生暖かい粘膜との接触摩擦下で味わい続けた究極の快感体験は、セルフサービス時とは異なり、麻薬同様に断ち切りがたかったと思いますが?』
『それは何とか解決できるよ(詳細な体験談を記すのは割愛)。それに使用頻度が落ちてくると、機能が低下するのか、今では全く使えなくなった』と、寂しそうにポツリ。

B 添乗員

   41歳の女性の派遣社員。JTBだけではなく、お呼びが掛る旅行社は阪急交通社など色いろ。日当は一日につき1万円。離婚して今は独身。子供は無し。大学卒業後20年近くもガイド業。香港に1年間留学。英語・広東語・イタリア語・スペイン語・ポルトガル語をマスターした。

   アニメの声優もしたとかで、抜群の美声。旅行出発前、参加者に確認の電話を掛けると『アルバイト学生ですか?貴方のような未熟な添乗員では心配だ』とあからさまに拒絶反応をする人も現われるとか。

C エジプト人ガイド
   
   カイロ大学観光学部卒業。日本大使館に勤務中に日本語を勉強。日本にも留学。身長190cmの大男。エジプト人男子の平均身長は170cmなので日本人(高校3年生、4月時点の男子は171.5cm、1999年)と大差がないが、実態は少し違うと思った。カイロなどの下エジプト人は典型的なアラブ人で背がやや高く、色はやや白い。一方アスワンなどの上エジプト人はヌビア人が多く、色は浅黒く脊は日本人よりも低いからだ。
   
   蛇足だがエジプトの大学での人気学部は、医学部、工学部、観光学部の順だそうだ。失業者大国の縮図か?
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トピックス

[1] ナイル川

@ 長さの定義

   昭和20年代、私が小学生の頃は世界一長い川はミシシッピー川と言われていたのに、今ではナイル川に首位を奪われた。しかし、これは石狩川が戦後の河川工事で約100kmも短くなったのとは理由が異なる。川の長さの定義が何時の間にか変更されていたのだ。
   
   (1)水源までの長さを優先する場合
   
   昔は河口から一番遠い水源までの距離で長さの順位を決めていた。それによれば、ミシシッピー川、アマゾン川、ナイル川の順番になる。この論理は、両手を上に挙げて足の裏から手の先端までの距離が身長だ、と定義しているのと同じだ。
   
   (2)本流を優先する場合
 
   現在、川の長さの順位は、最大水量が流れる本流の長さで決定されている。理科年表では幹川流路延長と呼んでいる。それによれば、ナイル川、アマゾン川、長江、ミシシッピー川の順番になる。 ミシシッピー川の本流には、途中で支流であるミズーリ川が流入している。このミズーリ川の上流に、世界で最も海から遠い水源がある。
   
A 特徴

   ナイル川の流域面積は297.8万平方キロメートルもあるが沙漠地帯も含まれるために、流量は意外に少ない。アスワン・ハイ・ダム近辺で年間903億立方メートル(注。琵琶湖への年間流入水量は53億立方メートル、ナイル川の1/17)。毎秒2863立方メートルだ。

   一方、我が国最大の流水量河川である石狩川の場合、流域面積は14330平方キロメートル、平均流量は毎秒561立方メートル(観測地点は石狩大橋)。流域面積はナイル川の1/200に過ぎないのに流量はその1/5もあり、流域面積当りの流量はナイル川の何と40倍!

   エジプトの地図を広げてじっと眺めていたら、ナイル川の形とパピルスの形が大変似ていることに気付いた。アスワンからカイロのデルタ地帯まで、ナイル川には支流が流れ込まず、本流だけが真っ直ぐに北へと流れている。デルタ部では本流が2本の大きな川と5本の小さな川に枝分かれしている。デルタ部のナイル川はパピルスの葉、アスワンからデルタまでは葉柄に見えてくるのだ!

B エジプトはナイルの賜物か?

   新潮社発行の『エジプト』の監修者鈴木八司氏(1926年生まれ・東大卒・東海大学教授・エジプト学専攻)は、同書の巻頭言で以下の説明をしているが、私は大変疑問に感じている。

   『ナイル河畔の農耕地の豊饒性を説明する際、毎年定期的に起る増水が運び堆積する粘土が肥沃であると説明されている。しかし、実際には、この粘土には肥料成分は少なく、水中の沈殿物の含有量も最大1トン当たり約4Kgで、コロラド川やインダス川の約1/2である。水質はカルシウムやマグネシウムの塩を含み、その量から並の軟水、ないしはやや硬水の範囲に入る』

   なるほど、私が見たナイルの水も大変澄んでいた。今までに我が目で確認した大河川、長江・黄河・メコン川・ミシシッピ川・ラプラタ川・ドナウ川・ライン川よりも澄んでいた事は確かだ。それどころか、小河川、セーヌ川やテームズ川よりも綺麗に感じた。

   しかし、これには2つの理由がある。第1の理由はアスワン・ハイ・ダムの出現である。ナセル湖の容積は概算1500億トン。これは年間累積流量の1.5〜2年間の水量に達するため、ナセル湖に流入する水は平均1.5〜2年間もダム内で流速0状態になる。この間に、殆どの粘土や土砂は沈殿してしまうと推定している。ナセル湖は上水道の水源地にある沈砂池の役割を図らずも果たしているのだ。

   又、アスワンからカイロまでの約890Kmの間、ナイル川に流れ込む支流は一本もない。この間の落差は約80m。ナイル川の水量は水力発電所により一年中一定量が放出されている。放出後の流れは極めて緩やか。ナイル川の水が現在澄んでいるのは理の当然と言うものだ。

   蛇足。琵琶湖の貯水量は275億トン。アスワン・ハイ・ダムの1/5に過ぎない。しかし、年間流入水量は53億トンなので、平均滞留時間は5年。水はアスワンよりも澄んでいて当然なのに、生活廃水・栄養分に富んだ農業排水が大量に流れ込む結果、比叡山から見下ろすと、沿岸部ではプランクトンが絵の具を流したように大発生している様子が手にとるように解る。

   第2の理由は更に重大である。ダムがなかった古代エジプト時代の洪水期には、ナイルの流れは一変していた。水流が運ぶ砂や石の重さは流速の何と6乗に比例するのだ(40年以上も前に習っただけなので、式の誘導方法はすっかり忘れた)。流速が2倍になれば運搬力は64倍にもなるのだ。洪水時に巨石が河原に流れてくるのはこの運搬力の作用だ。水泳の達人が川で溺れ死に、遥か下流域で死体となって発見されることがしばしば報道されているが、彼らは水力学の基本理論に余りにも無知なのだ。

   河川の勾配は洪水時でも地形的には同じだが、流れの断面積が大きくなると、水を下流に押し流す圧力も増え、流速が速まる。その結果、洪水時には河川は濁流になり、デルタ地帯まで大量の土砂を運ぶことになる。ヘロドトスが『エジプトはナイルの賜物』と喝破した言葉を評価するには、洪水時のナイル川の挙動を洞察すること抜きには語れるはずがない。 

   『木を見て、森を見ず』とは、正しくこのことだ!
   
[2] 自然

   @ 農業

   沙漠の国エジプトは日照時間が日本に比べて圧倒的に長い。しかも亜熱帯にある。水と土さえあれば、これ以上に農業に適している場所はない。ナイル川の川岸から水が引ける狭い空間と河口のデルタ地帯は、3期作(同じ作物を年に3回)も3毛作(1年に3回、異なった作物を栽培)も可能な恵まれた場所だ。
   
   とうもろこしの芽が出たばかりの畑、青々と成長している畑、収穫が終わって枯れ果てたままの畑などが隣接している。日本のように農期を感じる風景がない。各人が好きな時期に、好きな農作物を育てている結果、農地ごとに作物が異なっている。日本のように一面の水田、一面のキャベツ畑と言った風景はない。
   
   果樹栽培も盛んだ。中でもナツメヤシの畑は壮観だ。5m間隔くらいの升目状に植樹されている。樹木の頂上部からは磯巾着の頭のように、長さが3〜4mもありそうな団扇状になった大きな葉柄が360度の全方向に広がっている。成木の高さは優に10mもありそうだ。我が家の庭先に植えている棕櫚(シュロ)の木を大きくしたようなものだ。
   
   成長するにつれて葉は付け根から切り落とされ箒にされる。葉の直下にココナッツの実が密集した茎がぶら下がっている。これも何故かシュロの実の成り方に良く似ている。一本から一度に実が50Kgくらいも収穫できるのではないかと推定した。
   
   このナツメヤシは大きな畑の防砂林としても活用されていた。畑の境界線に沿って一列に植えられていた。ナツメヤシ畑の地上部は日陰とは言え、立派な畑だ。間作としてとうもろこしが植えてあった。立体的に土地が利用されていたのだ。

   A沙漠の中の川
   
   カイロからアスワンに向かう飛行機の中から、眼下の広大な沙漠を見下ろしたが、何時までも見飽きなかった。快晴の下で一木一草も見つからない茶色い大地に深く刻まれたワディ(アラビア半島や北アフリカなどの乾燥地帯で見られる、普段は水が流れていないが、雨が降った時に一時的に水が流れる川、 ワジとも言う)は熱帯や亜熱帯のスコールが持つ浸食作用の凄まじさを余すことなく顕わしている。あちこちの山々が鳥の羽根を立体化して彫った後のように、水の流れに沿って浸食されている。
   
   火星探査衛星が写し出した写真を分析して、水があったか、更には川があったかなどを形状面から検討する際に、最も参考になる景色ではないかと思えてならない。

[3] 観光産業

   @外貨獲得産業

   日本政府の要人やマスコミを初め識者と自負している方々には、日本へ入国する外国人の少なさを嘆く趣味が流行っているが、何故エジプトへ世界中から観光客が押し寄せてくるのか、一度体験して、頭を冷やすことをお勧めしたい。

   エジプトの主力外貨収入源は、観光・スエズ運河・出稼ぎ者の送金からなる。アラブ22ヶ国(パレスティナも国として数えた)はアラビア語で書かれたコラーン(コーランと記さなかったのは、現地発音に準拠したから)を媒介として普及したアラビア語が国語。1300万平方Kmにも及ぶほどの広大さで、且つ連続している面積が一つの言語に統一された地域は、この地球上にはまだ少ない。比肩されるのは北米の英語圏、中南米のスペイン語圏とユーラシアのロシア語圏位か?

   不幸にしてエジプトは地下資源には恵まれないが、マシュリク(日出る地、イラク・シリア・ヨルダン等)とマグレブ(日没する地、チュニジア・アルジェリア・モロッコ等)に挟まれている上に、アラブ諸国では最大の人口と文化の蓄積を持つ中核国。アラブ諸国から留学生や病気治療を受けに病人が殺到。一方、石油資源に恵まれた近隣のアラブの富裕国へ、エジプト人はアラビア語を武器にして出稼ぎ進出。それに比し、日本語が通じる国のなんと少ないことか!

   エジプトには世界に冠たる古代遺跡がある。アブシンベル神殿を訪問する観光客のために、アスワン国際空港からナセル湖を280Kmも縦断してやっと辿り付く飛行場まである。日本には農産物出荷用の採算性も無視した農業用小型飛行場はあっても、成田一つをとってみても未完成のままである。

   香港やシンガポールには観光資源がなくとも、激安市場(尤も最近は物価が上昇し、私には何の魅力もないが・・・)がある。日本にあるのは世界一の激高市場。外国人に魅力があるのは高々、秋葉原の電気街くらい。

   日本のホテル事情は最近、少し改善された。ビジネスホテルのように狭かった都市ホテルの部屋も改装が進み、一部のホテルでは1部屋40平米以上の国際標準に近づいた。しかし、観光地の大型観光ホテルの殆どは外人向きではない。宴会後に雑魚寝させられる大部屋主義だ。外国人は日本の温泉大浴場には魅力を感じ始めたが、日本の文化を一番理解しているはずの韓国人や台湾人と雖も、1部屋2人主義が基本だ。

   日本人の宴会は1泊2食が基本だから、面積効率の高い大部屋主義も成り立つが、短くとも1〜2週間は滞在してもらいたい外国人観光客に、その期間中、禁欲を強要しているのも同然な受け入れシステムは人権侵害に近い。サービス業の本質を忘れた行動だ。多重がんと闘い、体力を失った65歳の私でも、たった10日間に過ぎない今回の旅ですらも辛かったのだ。こんなことで、観光立国が成り立つ筈がない!

   今回泊まったあるホテルでは日本人向けの涙ぐましい努力に遭遇。漢字・カタカナ・ひらがなを動員して、日本式朝食がアリマスと大書。味噌汁の材料・焼き魚・卵料理・ご飯等も用意されていた。

   味噌汁の材料として、だしを溶かしたお湯、刻んだ葱の他に、八丁味噌のような色の物質と白味噌のような物質が準備されていた。早速、味噌汁作りに挑戦。八丁味噌かと思った物質はなんとココア、白味噌かと思った物質は蜂蜜のようなシロップ!彼らの無知を笑う前に、彼らのひたむきな努力に驚愕!

   Aエジプトの5つ星ホテル

   今回のホテルは全部5つ星。広大な敷地には芝生と樹木が美しく管理され公園かと見間違うほどだ。沙漠地帯なのにナイル川沿線だけは水も豊富。何時も好天だから植物天国だ。沙漠の中の人工都市、ラスベガスをふと思い出す。

   庭園には大きなプールもあった。観光地のホテルにプールは必需品だ。日本では海水浴場ですらプール付き観光ホテルを殆ど見かけないのとは対照的だった。欧米人は阪急交通社が天下に誇る超過密観光計画よりも、自宅では味わえない、ホテルでゆったりと寛ぐホテルライフに無上の歓びを感じているのだ。疲れ果てて部屋に戻るや否や爆睡する日本人とはそもそも目的が異なるようだ。

B エジプトの安全対策
   
   空港は勿論、ホテル、入場料を取る観光地など出入り口がある場所では何処でも、X線による荷物と人体の検査装置が導入されていた。安全確保は観光立国エジプトの生命線でもある。それ故なのか、金属片の検出感度は著しく鋭敏に設定されていた。
   
   腰にベルトで取り付ける貴重品入れ、無線受信機、カメラなどはその都度、検査装置を通さざるを得ず、大変煩わしかった。我が愛しの帽子まで脱がされるのだ。とうとうこの煩雑さに耐え切れず、ベルト式貴重品入れは使用停止。ズボンもジーパンに履き替えた。ジーパンのポケットの入り口は前面にあり、且つ体に密着しているため、スリも接近困難と判断した。
   
   主力観光地には鉄砲を持った監視人(警察?軍隊?)が何人もいた。それらの努力の効果か、危険を感じた事は幸い一度もなかった。

C お土産物

   各観光地にはテント張りのお土産屋が、初詣時の参道の屋台のように軒を連ねていたが、私には買いたいものが見つからなかった。パピルスに描いた絵、石で作ったピラミッド・スフィンクス・オベリスクの置物、歴代の有名な国王やクレオパトラの人形などのミニチュアは無数にあったが、買い求めても飾る場所もない。もう我がウサギ小屋は各地の記念品で満杯になっているのだ。   

D 絨毯の織姫は何と少年!

   エジプトのあちこちにカーペット・スクールがあった。そこで勉強しているのは10歳台前半の何と少年達だった。過去何度も見たことがあるトルコの絨毯工場の織姫は女性だった。天津の段通工場も織姫は女性だった。しかし、敬虔なイスラーム国家エジプトでは、労働の第一線は老若を問わず男性が支えていたのだ。
   
   此処では年配者が手織り絨毯の織り方を少年に教えながら、自らも高度な技術を要する絨毯を織っていた。少年達の指裁きの速さには驚くばかり。一つの結び目(ノットと言う)造りを3秒くらいで完了する。単純な繰り返し作業に無心になって没頭できるのは子供の特権か?
   
   このスクールの一角には製品の売店もあった。日本語をマスターしている大勢の売り子が、これはと狙いを定めた客を捕まえようと押しかけてくる。同行の若い独身男性が『売り子は、私のような若い客には目もくれなかった』と零す。
   
   売り子の熱意に根負けした私は長男の婚約祝いにでもなればと、ラムセス2世(古代エジプトで最も権勢を誇った王)がクレオパトラ7世に摘み取ったばかりのパピルス(紙に加工する前の素材)をプレゼントしている図柄(両人が生きていた年代は大きく異なる!)や象形文字(全部で約600字判明しているが、雨を表す字はないらしい)を織り込んだ、ウールの玄関マットを話の種にでもなればと、100$で買ってしまった。
   
E パピルス

   ピラミッドと並んで古代エジプト文明の象徴とも言えるものはパピルスによる紙の生産にあった。カイロにある『エジプト考古学博物館』の正面玄関には人工の小さな池があり、その中でパピルスが育てられていた。

   パピルスに画いた絵を売っている工房を見学した。最初に紙の作り方を実演した。パピルスの茎は断面が三角形、一辺が15mm位。緑色の表皮を剥ぎ、芯を厚さ1mmにスライスし、縦横に交互に並べて広げ、プレスで高圧をかけたまま1週間くらい放置すると圧着完了。指で破るにはかなりの力が必要だ。和紙よりも丈夫だ。完成時の色は薄い黄土色。
   
   この紙に古代のエジプトの絵を真似て画いたものをお土産として売っていた。クレオパトラやツタンカーメン、ピラミッドやスフィンクス、ラムセスU世とヒッタイト王とのカデシでの戦い(世界最初の和平講和条約を結んだことで有名な戦争)など画材は多種多様。
   
   一枚一枚、手で描いたもの、印刷したものなど値段もピンからキリまで。高いのは1万円もするがA4サイズで数ドル以下も多い。このパピルス絵画はエジプトでは至る所で売られていたが、トルコでも売られていた。
   
   ガイドの説明では、バナナの葉で作った偽パピルスもあり、一枚1$以下の絵は偽物に印刷しただけだから注意が肝心という。偽物は1週間後に色が変色するが、そのときに解っても後の祭りと言う。しかし、私には値段の差はわかったものの、真贋の区別はできず、結果としては特別に安いものを避けただけだ。
   
   今、15年前にトルコで買ったものと今回の物とを額縁に入れて並べて飾っているが、どちらも何の変色もないから本物だったのだろうか?私は1万円以下の海外での買い物は、遊びの一種と考えている。偽物をつかまされても、長い人生では誤差の内と考えているからだ。

  F サハラ沙漠とは馬の馬糞?

   エジプト人ガイドが『サハラ』とは『沙漠』と言う意味だから、サハラ沙漠と言う表現は可笑しいと言った。私は日本人がサハラ沙漠と言うのは日本語の言語構造に由来しているから、エジプト人が何万回可笑しいと言ったところで、日本人に跳ね返されるよと回答。

   日本語では、山とか川とか沙漠の名前は総て『固有名詞+接尾語』で表現する習慣である。富士では人名なのか地名なのかすらも解らない。富士山なら山、富士川なら川になる。沙漠の呼称ではサハラ沙漠とかタクラマカン沙漠のようになる。サハラと発音するだけでは魚の名前『鰆』と勘違いされるのが落ちだ。

   宗教の名称でも同じルールが定着している。キリスト教、仏教、イスラーム教と表現する。宗教の名称には『教』と言う接尾語を付ける習慣だからだ。イスラームと言う言葉には教と言う意味が含まれているにも拘らず、イスラーム教と言うのは、日本語の言語構造に由来するのだ。
   
   しかし、馬の馬糞といわないのは馬糞に使われている漢字が表意文字なので馬糞のままで意味が通じるからだ。外来語はサハラのように表音文字であるカタカナ表記が定着しており、サハラ単独では意味を内蔵できないという国語表記法上の性格も加算される。従ってエジプト人識者のちょっとやそっとのご意見ぐらいでは『サハラ沙漠』という表現方法がなくなる筈がない。と、補足したが、ガイドに通じたか、否かは疑問だ。
   
  G スエズ運河

   世界史の本は西欧中心の歴史観で書かれているため、読むたびに腹立たしく感じる場合がある。例えばコロンブスが新大陸を発見した、の類だ。スエズ運河に関しても同じだ。スエズ運河(工事中の死者は病死者を中心に何と12万人!)はフランス人レセップスが恰も人類史上初めて開通させたかのような書き方をしているからだ。座右の大学受験参考書『詳解世界史・吉岡力著・旺文社・1988年版』でも同じ書き方だ。
   
   しかし、西洋人が歴史書でレセップスをどんなに褒め讃えようとも、過去の史実を覆す事はできない。紀元前600年頃に第26王朝の王ネコ2世はナイル川と紅海を結ぶ運河を建設した。その後、グレイオス1世、プトレマイオス2世、アントニウス、トラヤヌス帝、アムル将軍、アラブ人等によって修復されたが、国力の衰退と共に砂に埋まっていただけだ。

   レセップス時代のスエズ運河は狭いところでは僅か22m、喫水深度も7m足らずの小規模な運河に過ぎなかった。その後、喜望峰経由の大型船も取り込むべく拡張され、現在では平均幅148m、喫水深度は1996年には18mにもなっている。

   日本のODA援助でスエズ運河に初めて橋が掛けられた。スエズ運河を通過する大型船の運航に支障をきたさないようにするため、桁下高さは南京長江大橋、ボスフォラス海峡等の世界各地の海峡大橋や本四連絡橋を上回る世界一の70m、アプローチを含む全長は4Km、幅員は20.8m。景観美も素晴らしい斜張橋である。
   
   スエズ運河の幅は日本各地ご自慢の一級河川よりも格段に狭いのに、運河を跨ぐ橋がかくも大型になるのは、架橋条件が全く異なるからだ。
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第1日目

[1] 国内線

@ キャンセル待ち
   
   豊田市のような田舎に住んでいても、百貨店・専門店・ホテル・レストラン・ゴルフ・テニスなどの身近な日常生活では、東京や大阪などの大都市と比べても、昔はいさ知らず、今では何らの見劣りも不便さも感じない。                                                                                                             いや、それどころか、スポーツ環境では当地の方が断然充実している。近くにあるのに混みもせず、しかもプレイ料金は安い。我が友人達でゴルフが上手いのは地元民と元海外駐在員、下手なのは関東地区の定住民。これぞ正しく環境の差!とは言え何事にも例外はある。私は1000ラウンドは既に突破しているのに、ハンディキャップは依然として24のまま。
   
   25年前にゴルフを始めた時には、何時の日にか子供達と一緒にプレイする日を楽しみにしていたが、心境は一変した。身長僅か162cmの私は、長女の婿(177cm)、次女の婿(175cm)、長男(177cm)と一緒にプレイする気は、全く起きないのだ!
     
   しかし、ひとたび海外旅行を計画すると、日本は未だに東京一極集中の国だった、との現実を突きつけられる。名古屋空港発着の旅行プランが成田発着に比べて極端に少ないのだ。理由は単純。客が少なく旅行社としては採算が採れないからだ。
   
   今回の旅程は成田発着。名古屋空港と成田間の国内線は個人手配だった。団体客用の切符は半年前に発売されるが、個人客向けは2ヶ月前の9:00。しかし、今回のように成田11:00発の場合、間に合う飛行便はANA338便(7:25発)だけ。この切符が確保できなければ、前日に家を出て成田のホテルに泊まることになる。私の2日後が出発日で、JAL系の旅行社のエジプト旅行を選んだテニス友達夫妻は、とうとう前泊の憂き目。
   
   私はJTBの旅物語の受付窓口と豊田支店の2ヶ所に切符購入を頼んだ。共に予約出来れば豊田支店分をキャンセルする約束だった。タイマーをセットし、9:00ジャストにパソコン端末で申込むシステムだったが、共に切符は確保できず、キャンセル待ちになった。しかし、JTBの経験則では出発日の2週間前くらいからキャンセルが多くなるから、待つ価値はあると慰められた。
   
   出発1ヶ月前に、突然切符が取れたとの連絡。当日飛行機に乗ったら、2割くらいの空席!一体、誰がキャンセルしているのか?いつも発売と共に満席になるため、旅行業者が実需以上に切符を確保しているのだろうか?このイタチゴッコは何時になったらなくなるのだろうか?更に不思議なのは、トヨタ自動車の現役時代によく発生した突然の出張でしばしば同便を使ったが、切符が取れなかったとの体験は一度もないのだ!
   
   結局、私は切符が取れるか否かの不安感と、国内線の高い航空運賃を背負い込まされた上に、成田での乗り継ぎ待ち時間も押し付けられるのだ。蛇足ながら、帰路は午後で便数も多く、BAの乗り継ぎ便扱いのJALだったので料金は10000円。往路は個人手配になり15300円。

A 茶髪の観察

   69歳のゴルフ仲間の奥様(60歳代半ば)は流行に詳しい。ゴルフ仲間から受信したメールで『茶髪は廃れ始めた。緑の黒髪が最先端のファッションになった』との奥様の情報を披露された。そう言えば、空港のカウンターに勢揃いしている美女軍団に茶髪は少ないようだな、との記憶が蘇った。

   名古屋空港の全日空のカウンターで詳細に観察したら、茶髪はおろか、パーマも見かけず、更には髪の毛を後ろで束ねて丸くさえもしている。さては、これが最先端のファッションなのか?しかし、全員が同じ流行を追うのも少し変だ、との疑問もむらむら。早速、質問開始。

『あなた達のように若くて美しい女性(勿論、お世辞!)は、ファッションに敏感と思いますが、どうして茶髪にしないのですか?おまけに後ろで髪の毛を丸めると、おばさんどころか、お婆さん臭く感じるのですが』

『社内規則なんです。茶髪は禁止。髪の毛を肩より下に伸ばすのも禁止。延ばした
 場合はご覧のように丸めさせられるのです』

『髪の毛は個人の持ち物。何色に染めようが、何メートルも伸ばそうが勝手に出来るのかと思っていましたが、そんな規制があるのですか!』と驚きの感想を大声で発して退散した。

  帰途、成田空港のJALのカウンターでも同じ質問をした。
  
『社内規則です。肩より髪が長くなる場合は丸めさせられます。茶髪には色の濃さでランクがあり、極めて薄い色の場合は許可されます』。大同小異とは正しくこのこと!

[2] 出発

   @成田空港

   日本の旅行社には最悪の混雑を前提に、国際線の場合には、離陸の2時間も前に空港に集合させる悪い習慣がある。今回も搭乗手続きが完了した後、離陸まで1時間半も待ち時間があった。仕方がないので、JCBのゴールドカードが使える無料のラウンジに出掛けて一服。機内のお酒が待ちきれないので、缶ビールを1個飲み干した。
   
   搭乗客が大勢いる成田空港なのに、ラウンジはガラガラ。みんな、どのように工夫して暇つぶしをしているのだろうか?不思議でならない。

   免税店なのに缶ビールは1個200円くらい(うろ覚え)もするのに腹が立つ。いつも寝酒用に買う輸入の洋酒も免税店なのに国内の安売り酒屋並。空港内の独占業者による税金分の掴み取りの実態を知ると、無性に腹が立つ。

   長い間、海外旅行の出発時には山崎を買っていたが750cc瓶しかなく、今回は1000ccのオールドパー(3600円)に変更。オールドパーだけは何故かディスカウント店よりも格段に安かったのだ。輸入代理店の価格支配力の差だろうか?私には日頃からよく飲んでいるオールド−パー、ジョニーウォーカーの黒、シーバスリーガルー間の品質格差の評価は全くできないのだが・・・。

ABA機内

   乗務員による飲み物サービスを待ちかねたように、ウィスキーの水割りとビールを同時に注文。日本人は、何故か飲み物は一度には1個しか注文しない。私は面倒なので何時も2個単位だ。国内線でもスープとジュースの組み合わせ等2個単位だ。
   
   隣席は33歳の独身男性英国人。暫くノートパソコンで暇つぶしをしていたが飽きたのか、話し掛けてきた。転職をしばしば繰り返した。その間に半年くらい世界中を旅行した。日本にも出掛けた。日本では北海道から九州まで、主要10観光都市は回っていた。エジプトにも勿論出掛けていた。

   日本人は若干の社会体験をした後、視野の拡大も兼ねて世界を旅する機会を持つ事は殆ど不可能だ。最初に就職した狭い社会(職場)に定年まで閉じ込められるのが落ちだ。この英国人の場合、ゆっくりと海外旅行を楽しんだ後、まだ若き日に真に自分に適した職を求め直すチャンスがあることが羨ましくもある。彼の国籍は英米2ヶ国。就職先は無限に広がっている。

   最近は日本も転職が盛んになりつつあるが、英米のようなトップクラスの転職ではなく、リストラ、ふるい落とされ組中心だから、本質的には別世界だ!
   
   この英国人は酒を飲まなかった。何とウィスキーの銘柄を殆ど知らなかった。オールドパーの瓶を手荷物から取り出して見せたが、これも知らなかった。我が友人には日本酒や焼酎の銘柄に詳しい人がいて驚いているが、今回の英国人とは正反対。人は誰でも関心がなければ、どんなに価値がある情報であろうとも、所詮『馬の耳に念仏』みたいなものか。私も野球選手の松井が米国で有名になるまでは、その存在すらも全く知らなかったのだ。

   今回の国際線はBAだったため、ロンドン(理科年表では、東京―ロンドン間は9585Km。これは大圏距離{最短距離}なので、実際の飛行距離よりは少し短い)経由カイロ往き。ロンドンーカイロ間(3513Km)に5時間もかかった。成田―カイロ間(9587Km)に直行便があれば、ロンドンでの乗り継ぎ時間も加えた所要時間(20時間)は片道8時間、4割も短縮できるのに。結局は、まだ日本人のエジプト旅行客が少ないのだ!

[3] ホテル(メナ ハウス オベロイ)

   深夜にやっとホテルに到着。イスマイル・パシャ(レセップスにスエズ運河の建設を許可した当時の太守。在位1863〜1879)の別荘だったというオベロイホテルは4階建て525室もある大型ホテル。最近流行の高層ホテルではなく、ピラミッドがどの部屋からでも見られるコの字型に配列された4階建て。建物の長さは優に400mはありそうだ。脊柱間狭窄症で歩くのが困難だった私には、レストランや玄関が遠くなって苦痛だった。

   普通のホテルは建物の中央に廊下があり両側に客室が配置されているが、このホテルの場合、ピラミッドが見えない部屋に価値はないと判断しているのか、部屋は片側だけ。廊下の幅が優に5mはあるゆったりとした設計だ。

   知らない方との相部屋だったが思い切って『客室を更衣室にしませんか?バスルームを更衣室にすると、下着置き場にも困るし、湿気を吸うのが嫌だし』等の理由を添えて提案した。相棒は即座に快諾した。裸体を見られて恥ずかしがるような思い出多き青春時代は、2人とも遥かなる彼方へと過ぎ去っていたのだ。

   『御風呂はお先にどうぞ』と提案したが、氏は荷物の整理をしたいからとの理由で逆提案をされた。氏には入浴にはその後も余り関心はないようだった。毎日、お先にどうぞと繰り返したが、先に入られたのは2回だけだった。

   このホテルには3連泊した。荷物を置き去りにできるので大変楽だった。翌日はホテルに到着すると直ぐに入浴。部屋を出た途端に廊下ですれ違ったボーイ(中年男子)に部屋番号を聞かれた。その後、散歩したりホテル内の店を覗いたりして帰室した途端、先ほどのボーイがノックして入室。

   『バスルームはまた掃除したからね。タオル類も交換したからね、との念押し』更には『あっ、靴が汚れている』と言うや否や靴を電光石火のごとく室外に持ち去って磨いてくれた。チップを渡さざるを得ない。彼らには生活がかかっているのだ!相棒と共に苦笑。
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第2日目

[1] クフ王のピラミッド

@ やむを得ない予約制

   今回の旅行中、最も期待していた観光の目玉はピラミッドの見学。JTBの旅行案内には『クフ王のピラミッドの内部が見学できます』と特記されていた。一方阪急交通社のパンフレットには『3大ピラミッドの何れかには入れます』と小さく書かれていた。クフ王のピラミッドに入れる可能性すらも仄(ほの)めかしている。この差は何を物語っていたのか。
   
   私がJTBを選んだ最大の理由は、クフ王のピラミッドの内部に入れることが保障されていたからである。旅費が阪急交通社よりも約10万円高くなる事は承知の上だった。過去に新日本トラベルでゴルフ友達とイタリア縦断旅行に出掛けた時、自由時間にミラノのサンタ・マリア教会の壁画『レオナルドダビンチの最期の晩餐』を見に出掛けた時、予約システムに阻まれ見学を拒否された苦い体験がベースにあった。日本から拙い英語を使いながら、電話で予約したつもりだったが、残念ながら受付簿には記録されていなかった。
   
   クフ王のピラミッドの見学者数は一日当り300人限定の予約制。JTBは催行募集前に予約しているのだ。人数制限には当然のことながら理由があった。内部に入る通路の一部は一人が通れる幅しかない。対面移動ができないため、ある団体が一度内部へ入ると、全員が出てくるまで、次のグループは入れないのだ。その結果、午前と午後、入場者数を各150人に制限していた。
   
   2番目に大きなカフラー王のピラミッドは現在修復中なので内部の見学は中止されている。一番小さなメンカウラーのピラミッドは対面移動ができ、一方通行でどんどん内部に入れるそうだ。グアム島に復元された横井さんの洞穴見学システム(本物の竪穴はL字型で行き止まりのため大勢の見学者を捌けず、已む無くU字型に変えて復元)と同じだ。現地で幾つもの阪急交通社の団体に出会ったが、総てメンカウラーのピラミッドに案内されていた。かつての羊頭狗肉の現代版とも言える阪急商法だ。
   
A 風化とは無縁な内部

   建設時の正規の入り口は閉鎖中。9世紀に掘られた入り口でカメラを預けさせられての入室。狭くて急な階段を歩いた後は、恰もウサギ跳びをしたかのように足が痛くなった。天井が低く慣れない姿勢を強要させられたのだ。大回廊の壮大さ、隙間一つ発見できない精巧な石組みには思わず感嘆の声を挙げざるを得ない。
   
   クフ王の大きな玄室には蓋もない欠けた石棺が唯一ひっそりと鎮座していた。4500年の時を経ても、内部空間は太陽光線や雨とも無縁なためか、構成材料の風化(劣化)は何一つ発見できなかった。
   
   この現状を観察する限り、後5500年は優に安泰だ。想定可能な唯一の課題は耐震性だ。我が知る限り、設計寿命1万年を誇りうる大型土木・建築物は人類史上、ピラミッド以外には全くない。ニューヨークを初めとした各地ご自慢の摩天楼だって、高々100〜200年の耐久寿命ではあるまいか?
   
B 数値チェック

   一辺が230m、高さが146mの正四角錐と仮定すると体積は257万立方メートル。重量鉄骨製超高層ビルの階差を4mと仮定すると、延べ床面積64万uの超大型ビルに匹敵する。崩壊したニューヨークの世界貿易センタービル1棟の45万uより4割強も大きい。我が国初の超高層ビルである霞ヶ関の三井ビル(15万u)の約4倍以上もある。東京駅前にあった旧丸ビルの約10倍だ。
   
   クフ王のピラミッドの数値解析遊びで一番有名な式は、二辺の和を高さで割ると円周率が出るというものである。
   
   2*230m/146m=3.15
   
   この数値は余りにも円周率に近い値であるが、ピラミッドの設計者が円周率という概念とその値を知っていたかどうかは謎とされている。
   
C 石の大きさ

   平均的には1個の石は1立方メートルの立方体と推定し、クフ王のピラミッドは250万個前後の石を積み上げたものと考古学者に推定されているが、石の数のこの推定値は大変疑わしい。各種ガイドブックに紹介されているピラミッドの写真からは、石の大きさが均一なのか否か私には判定できなかった。天然資源としての石を切り出すときに、現代の工業製品のように寸法のバラツキを極度に小さくした石を、鉄器時代以前の当時の技術で切り出すことは不可能に近い筈と私は推定した。
   
   建設コストを最小に押さえる使命を帯びていた筈の設計者に要求された最大の配慮事項は、切り出された様々の大きさの石を総て活用する方法の案出にこそあった筈、と私は推定してピラミッドを見上げた!
   
   巻尺を使用するまでもなく、直ちに答えを発見!

   ピラミッドは石をサンドイッチのように層状に積み上げて作られていたのだ。各段に使われている石の高さは一定だった。しかし、前面から見る限り同一段の石の幅は総て異なっていた。恐らく奥行きも総て異なっていると推定した。つまり、同じ大きさの石は一つもなかったのだ。段差が高い層、低い層がランダムに配置されたまま、上へ上へと積み上げられていた。



   このように積み上げるためには、準備段階として大まかな高さ別に分類した広大な石置き場があった筈と推定した。ピラミッドの直ぐ近くで、岩盤が露出し、しかも平坦になった10万坪はありそうなそれらしき空き地は直ぐに見つかった。そこに並べられた石を一覧した建設指揮者は、高さ一定の石が一段分集まる都度、それらの石を一斉にピラミッドの表面に運び上げさせたと推定した。

   一定の高さの石を建設段階のピラミッドの表面にピッタリと並べ尽くした後で、その表面が完全に水平面になるように突出部を一斉に削り落とせば、一段分の建設が完了した筈。この場合でも、大きな石は極力外周部に、小さな石は内部に設置することにより、後日の崩壊防止対策とした筈と推定。

   以上の推定により、何故石段の高さが高くなったり、低くなったりしたのかは、ほぼ説明できたと自負している。この石段の総数は210段。平均すれば一段が146m/210=70cmになる。石の平均値が1立方メートルと言うのは、こんな簡単な計算とも矛盾する。平均サイズが70*70*70cmの石ならば、石の数は一気に2.9倍にもなる。

   とは言え、石の平均大きさが1立方メートルと仮定しても、一直線に並べれば何と2500Kmにも達し、日本列島(北海道〜九州)以上の長さになる。ピラミッドの建設期間に匹敵する過去40年間に建設した新幹線の総延長2152.9Km(2000年現在)よりも長い!

   中国の分厚い城壁では外側はレンガであっても、内部は粘土を突き固めたものが多いそうだが、ピラミッドの内部には屑石とまでは行かなくとも、小さな石も埋め込まれていると推定している。

   私だったら、ピラミッドの内部には格子状の隔壁を大きな石で作り、隔壁で囲まれた部分には、砕石を詰め込みたくなる。その場合は使った石の平均的な大きさは、外から見える石の平均値よりも遥かに小さい筈だ。但し、大回廊や玄室周辺には崩壊防止対策として超大型の石を集中的に使用しているのは当然のことと、これまた推定している。
   
D 労働力

   奴隷制度下で繁栄していたギリシアに育ったヘロドトスは、肉体労働は奴隷の仕事との観念の呪縛に捉われていたのではないか?彼は2000年前からの言い伝えを整理して、ピラミッドは奴隷によって建設されたと断定した。爾来この説はほんの20年前までは定説の座を占めていた。ヘロドトス以降の歴史学者は、今度は歴史の父と賞賛されていたヘロドトスの呪縛に捉われていた。
   
   最新の発掘調査によりピラミッドの建設工事は洪水期の農民への失業対策事業の手段として実施されていたと判明。ストライキもあったものの、農民達は国王に感謝しながら働いていたことが過去の記録から解読され、一気に新しい解釈として定着した。
   
   近代経済学の創設者ケインズが政府による需要喚起策による不景気脱出法を提案し、米国のニューディール政策の成功で一躍有名になった。しかし、ピラミッド建設の最終目的が国王の墓であれ、何であったにせよ、失業対策を通じての景気振興策の提案とその実施者としての元祖の栄誉は、エジプトの国王にこそ与えられるべきだったのだ。
   
E 化粧石

   ピラミッドの4面は平らな化粧石で覆われ、頂上には四角錐状のキャップストーンが鎮座し、全体が完全なる平面で覆われていた。後年、この美しい化粧石が建材として無残にも持ち去られた。クフ王のピラミッドの場合、最下段に少し、メンカウラー王のピラミッドの場合、頂上部分にかなり多く、まだ化粧石が残されていて、往時の美しさを連想できる。

   ピラミッドに限らず、コロセウムなどの大型石造建造物は後年の実力者によって建材に転用された場合が多い。昔のリサイクルは廃棄物からではなく、現役中の建造物の破壊を伴う凄まじさだ。   

[2] カフラー王のピラミッド

   カフラー王のピラミッドは一辺215.5m、高さ143m。頂上部には化粧石がまだ残っている。建設時にはクフ王のピラミッドよりも低かったが、クフ王のピラミッドの頂上部は欠けているので、今では高さが逆転した。その上に建設場所の海抜も高いので、一層高く見える。
   
   見物人の誤解を防ぐためか、クフ王のピラミッドの頂上部には本来の高さを示すために、高さ約10mの鉄塔が取り付けてあり、下からでもその先端が判る。

[3] メンカウラー王のピラミッド

   一辺が108.5m、高さ66.5m。これでも単体だけを見れば見上げるような大きさであるが、体積はクフ王のピラミッドの約1割。気の毒なほど小さく見える。しかし、阪急交通社のお客様には大変喜ばれているようだ。  

[4] スフィンクス

   スフィンクスと対面した時、仲間が異口同音に『アレッ、小さい』と一斉に発声。私はエジプト人ガイドのプライドを傷つけたくはなく沈黙したが、同じ印象を強く受けた。



   理由は単純だった。@周囲には壮大なピラミッドしかなく、心理学の実験通り、人には相対的に小さく感じられるのだ。A事前情報でスフィンクスは一個の石に彫られた世界最大の彫刻(57m*20m)であるとの先入観が、過剰な期待を抱かせていた。Bピラミッドの見学はその周囲に設置された20m以上も離れた柵の外、しかもその柵の位置は砂から掘り出されたスフィンクスの高さの半分位もあった。そのため、やや、見下ろし気味でもあった。

   古代エジプト時代は自由な発想を妨げる文化の蓄積が少なかったのだろうか?スフィンクスに留まらず、残されている絵画や彫刻にユニークさが溢れている。

   胴体と頭を異なった動物から選ぶとの発想は、色んな組み合わせで実現していた。『ライオン+人間』『人間+動物(頭)』『動物+動物』。組み合わせは正に自由奔放である。一方、人間の画きかたには一定の習慣がある。何故か首から下は正面を向き、頭部は横向きなのだ。なで肩はなく、皆奴凧のようないかり肩。

   我が国でよく見かける神社の狛犬のような役割をスフィンクスは担っているのか、あちこちの神殿で大小様々のスフィンクスを見かけた。参道に数十対も並べてある様は壮観だ。不寝番の人間の代わりに、日夜ロボットのように頑張ってくれているように思えるから不思議だ。

[5] 太陽の船

   死後、国王が毎朝川を渡って天国へ旅ができるようにとの配慮から、当時ナイル川で使われていたと推定される全長43mの大型船を、1954年エジプト考古学局がクフ王のピラミッドの南側隣接地から発掘した。沙漠の国エジプトでは大木は調達できず、レバノン杉(一般には杉と称されているが、植物学上は松)製。1224個ものかけらに崩壊していたものを14年もかけてユセフ博士らが復元し、発掘現場の真上に博物館を建設して展示している。世界一難解なジグソーパズルだったのだろうか?

   天国からの夕方の帰途に必要な船もある筈との推定から、同型船をもう一つ遂に発掘。早稲田大学の吉村先生の快挙だ。こちらは未展示。

[6] 駱駝乗り

   短い距離ではあったがピラミッドを見ながらの駱駝での散歩。2人ずつ乗った。駱駝乗りの体験はパキスタンについで2回目。

   駱駝は前足を折りたたんで座っているが、思いのほか大きい。やっとこ背中に乗り、目の前にある取っ手を一所懸命に掴む。離れてみると駱駝はゆっくりと立ち上がるように感じるが、乗っている側からは急激に立ち上がっているように感じる。降りる時も前へ滑り落ちそうに感じるので、取っ手を必死になって掴まざるを得ない。

   Uターン地点で駱駝使いに写真を撮ってもらうのが恒例のようだ。チップを忘れた振りをする人がいるのが情けない。それとも、海外でのチップの習慣に日本人はまだ充分には慣れていないのだろうか?
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第3日目

[1] アレキサンドリアへの道

   カイロはナイルデルタの南端部、かなりの内陸部にある。アレキサンドリアは西端部の海岸。カイロ・アレキサンドリア間は沙漠と隣接したようなデルタの一辺に沿って200Km余り。エジプトで唯一の有料高速直線道路とは言え、100Kmもの速度は出せそうもない路面品質の道だった。途中のトイレ休憩を入れて、3時間はたっぷりと掛った。早起きを強要されて6:30に出発。

   この間、農業用水路が完備している畑には、立派な野菜やバナナ(袋掛けがしてあった)などの果物(バナナは草の一種なので狭義の果物ではなく、スイカやメロンと同じくと果菜の一種)とか、雄大なナツメヤシが育っていた。水の供給がないところは無残にも沙漠。見事なほどに対照的な姿だ。

   そんな畑のあちこちに累積100塔以上もの白い鳩小屋が並んでいた。鳩小屋は昔の赤い丸型ポストを大きくしたような形をしている。下部の直径は3〜4m、上部は2〜3m、高さは5〜10mもある。壁面には丸い形をした鳩の出入り口が、点字文字のようなデザインで開けられている。デザインには持ち主のアイディアが溢れている。いわば絵画だ。鳩には帰巣本能が発達しているから、自分の小屋を間違えないそうだ。鳩料理はエジプト名物だが、鶏肉と然したる差を感じなかった。

   アレキサンドリアの入り口、つまり料金所は威風堂々たるギリシア建築様式だった。

[2] グレコ・ローマン博物館

   アレキサンドリアはマケドニア出身のアレキサンダー大王が建設した町。かつて中東の各地に70ヶ所もアレキサンドリアと名づけられた町があったそうだが、ここが最も有名。当博物館はギリシア・ローマ時代の遺物中心の展示館。古代エジプト時代からは遥かに若返る。それでも日本では国家すらも成立していない頃の文化遺産なのだ。

   アレキサンダー・クレオパトラ・シーザー等の頭部の彫刻、牛や鷹の彫刻など一つ一つが世界的な価値に輝く一品。勿論、人だけではなくワニ等のミイラも忘れずに展示。

   展示物の一つに石を刳り抜いて作られた浴槽があった。五右衛門風呂のように下から湯を沸かすのではなく、ホテルの浴槽のように上から湯を入れるタイプ。本人の死後は、石の蓋を載せて石棺に転用していたそうだ。

[3] カイト・ベイの要塞

   マムルーク朝のスルタン、カイト・ベイ(在位1468〜1495)が、世界7不思議(BC150年ごろ、ギリシアの数学者ビザンティウムのフィロンが選定)の一つ、大灯台(高さには諸説あるが最低説でも120m)跡地に建設した要塞。トルコのイスラーム様式にそっくりの形だ。この要塞の庭からは、紺碧の地中海が見渡せた。岩場や岸壁には釣り人が溢れていた。海には無数のヨット。金持ちも結構いるようだ。

[4] コム・エル・シュカファのカタコンペ

   紀元1世紀から2世紀にかけてのキリスト教徒一家の墓。地下3階建ての石造り。中央には死体を釣り下ろすための直径4mくらいの大きな円筒状の空間があった。井戸にそっくりの形だ。その周辺を取り巻くような螺旋階段があり地下へと下りられる。

   地下には何室もの死体置き場があった。壁面や天井には奇妙な彫刻が施され、天国なのか地獄なのか判然としない。蓋がされた石棺もあったが死体も人骨も見かけなかった。収容能力は数百人分。今日、こんな立派な墓を作っているエジプト人はいそうにもない。いずれの国でも死後の世界の魅力や価値は、減る一方のようだ!

[5] ポンペイの柱

   名前の由来にはイタリアのポンペイの遺跡とは何の関係もない。十字軍の兵士達が、カエサルの宿敵で、紀元前48年にエジプトで殺されたポンペイウスの墓と間違えたことに由来する。

   元々は紀元300年頃、ディオクレティアヌス帝を讃えるために建てた柱で、その名が刻印されている。高さ22m、台座を加えると30m。アスワンで取れた赤色花崗岩の一体岩。直径は3mくらいと推定。傍らにはエジプト特有の人頭スフィンクスが鎮座。1700年も経過しているのに表面は磨いたばかりのようにつるつる。乾燥地帯の保存性の良さには改めてびっくり!



   隣接するところには4〜8階建てくらいの集合住宅が建っていた。今にも倒壊しそうな雰囲気だ。洗濯物が満艦飾。スラム街そのものの雰囲気だ。大の男が観光客に写真を取ってあげようかとか、見所を教えようとか言って近づいてくる。チップ目当ての商売だ。触らぬ神に祟り無し、とばかりに気の毒には感じるが無視。

   アレキサンドリアの海岸線は片側3車線の立派な道。海にはヨット、陸側には綺麗な美しい建物。国際観光&リゾート都市としての貫禄は充分。

[6] ディナーショー

   夕食は天井が高いオペラ劇場のような豪華な造りの、ホテル内にあるレストランだった。我がグループの予約席は舞台の真横にある特等席。男女のダンサーによる踊りが続いた。日本舞踊と比べると動きが速く、若者でも息が切れそうだ。汗を掻いていた。

   ベリーダンス等の他に、スカートを穿き、体を回転させると揚力でスカートが水平に持ち揚がる踊りもあった。典型的な重労働なので踊り子は元気な青年。トルコのコンヤで見たメヴラーナの踊りと同じだ。
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第4日目

[1] アスワンへの飛行

   エジプトでの空の旅は楽しい。遥か遠くまで視界を遮る雲が全くない快晴。眼下の様子が手にとるように良く分かる。しかし、何とはなく霞みが掛かっているようにも感じた。窓ガラスの傷や曇りではなく、沙漠から飛来する微粉状の土煙のようだ。夜間、満天の星が見られるかと期待していたが日本と大差がなかった。中国やベトナムの照明も少ない田舎の闇に包まれた夜とは、見える星の数に雲泥の差。

   アスワンには有名なアスワン・ハイ・ダムがある。ダム湖に沈んだアブシンベル大神殿は、ダムの遥か上流280Kmの地点にあり、見学者専用のアブシンベル飛行場がある。

[2] アブシンベル大神殿


  紀元前1300年ごろにラムセス2世によって建設された神殿。神殿は岩山の中にあるため、写真には写っていない。


  アスワン・ハイ・ダムの建設に伴い、ユネスコの努力で1963〜1972年に移築された。


   エジプトの巨大神殿は殆どが切り出した石を積み木のように積み上げて作られているが、アブシンベル神殿は岩山を彫って作られていることに最大の特徴がある。従って、床・柱・梁・壁・天井など神殿の構成部材は総て一体となった石で構成されている。つまり、岩窟神殿だ。



   残念なことに一体構造のままでは移築ができない。ラムセスの巨像だけではなく、背後の岩山を刳り抜いて作られた大神殿も2000個(平均重量22トン)余りものブロックに切断し、湖岸の平坦地に巨大な鉄筋コンクリート製のドームを造り、その内部に運び込んで再建。上の写真に写っている背後の山も、ドームを覆い隠すように岩を積み上げて築き上げたものである。

[3] アブシンベル小神殿

   大神殿に向かって右側には小神殿があり、こちらも移築されたものだ。この辺りの湖水はそのまま飲めるのではないかとさえ思えるほどに澄んでいた。この大神殿の周りの遊歩道とダム湖との間に植林された並木は既に10m近い高さに育っていた。ポンプでくみ上げられた水が孔の開いたパイプから自動的に供給されていた。

   観光立国エジプトには流石に魂があった。かかる僻地まで世界遺産を尋ねて、遥遥(はるばる)やってきた観光客の目を休ませるために、木や花を植えているのだ。木々の隙間越しに仄(ほの)かに見える紺碧に輝くナセル湖が美しい。ナセル湖も世界遺産かと、うっかりすれば勘違いしかねない。
   
[4] イシス神殿

   ダム湖に沈むことから救われたのはアブシンベル神殿だけではなかった。アスワン・ハイ・ダムに近いアギルキア島に移築されたイシス神殿もそうだ。こちらはアブシンベル大神殿よりも格段に大きく、カルナック大神殿の小型版とも言うべき壮大な大神殿だ。島へはフェリーで渡るが、その間に見られるナイル川から見た、真っ青な空の下に輝く湖岸の景色もなかなかのものだ。



   しかし、イシス神殿の移築はアブシンベル神殿の場合に比べれば技術的には簡単だ。石造建築物は構成材料として使われた個々の石に分解して、再度組み立てれば済むからだ。日本の国宝となっている複雑な構造の寺院の解体・修理に比べれば、遥かに容易だ。
   
   とは言え、巨大な柱、梁、そそり立つ壁面、それらに彫られたそれぞれに意味を込められている彫刻の一つ一つから発信されてくる古代人の祈りや願いを、読み取るに至れない、想像力の貧しい我が頭に付ける薬は残念ながら未開発のまま!

[5] アスワン・ハイ・ダム

@ 規模

   ナセル大統領の命令で建設されたこの巨大ダムの堰堤は長さ3600m、高さ111m、上部の幅40m、底部の幅180m。ダム湖は総面積5000平方キロメートル(琵琶湖は674平方キロメートル。ティラピィア漁が盛んで、漁師は3000人、年間3万トンの漁獲高にも達するとか)、全長500Km、最大幅35Km、貯水量は1500億トン。工事での殉死者数451人。堤防をテロ等で破壊されれば、空前の大惨事になるのは火を見るよりも明らか!結局、警備のために軍隊が常駐しているほどだ。
   
   沙漠地帯のダム湖からの水の蒸発量は桁違いに多い。太陽定数は1.37KW/u(理科年表)、その半分が水の蒸発に使われたと仮定し、真昼換算の正味日照時間を5時間、水の昇温を含む気化熱を365cal/ccと仮定すると、年間総蒸発量は3m*5000平方キロメートル=150億トンにもなる。その証拠に、ダム周辺の気候が変わり、雨が増えたそうだ。とは言え、沙漠は沙漠。灌漑地帯を除けば、天然の植物は何一つ見かけなかった。
   
   但し、この蒸発量の計算に自信はない。昼間の太陽熱の大部分がナセル湖全体の水温上昇に消費され、夜間は湖面からの放射冷却で水温が下がることの繰り返しによる熱循環の割合が高いと、実際の蒸発量は上記計算よりも少なくなるからである。ダム湖の場合は水田のように水深が浅い場合の蒸発量計算とは異なるのは明らかだが、その定量的な差が私には解らない。

   堰堤が長すぎるため、黒部ダムのように雄大なアーチ式は強度的に成立しないのか、御母衣ダムと同じ重力式ダムだった。堰堤の総体積はクフ王のピラミッドの約20倍。重機械を使った現代の工事能力の巨大さが理解される。堰堤から上流を見ても、当然のことながら対岸は見えず、水平線のみ。

   しかし、これほどの大工事をしても、JTBのガイドブックによれば、発電量は年間約100億KWh。意外に少ない。三峡ダムとは異なり落差が小さい上に、流水量も意外に少ないからだ。簡単な数値チェックを示す。

@ 平均流水量2800立方メートル/秒(理科年表)
A 有効落差60m(現地で見た我が推定)
B 水車+発電機の連結効率70%(我が推定)
C 1KW=100Kg*m/秒

年間発電量=2800トン*1000Kg*60m*70%*24h*365日/100Kg/m=103億KWh

最新の大型原子力発電装置1基の電気出力は135万KW。保守点検による停止期間を含む平均稼働率を85%と仮定すれば

年間発電量=135万KW*85%*24h*365日=100億KWh。

   結局、たったの原発一基分にしかならないのだ。しかも、この貴重な電力の主力消費地は890Kmも離れたカイロ。送電線の碍子は見るからに小さく、超高圧送電でない(10万ボルト前後?)事は一見して明らか。送電ロスも大きい筈だ。

A 大いなる課題

   ナイル川の年間平均土砂含有率(重量比)は少なめに見積もっても1%(前述の鈴木八司教授説では0.4%)はあると推定。比重を2と仮定すると、毎年約10億トンの土砂がナセル湖に堆積し、300年でナセル湖は土砂で完全に埋まる。しかし、ダムが半分も埋まれば、貯水容量は年間流水量を下回り、洪水調整機能は危機を迎える。早ければ100年後には大問題に直面するのではないか?

   一体どうやって土砂を除去するのか、私には見当もつかない。土砂が放置されれば、最終的には昔のようなナイル川の大氾濫が復活する。この問題は規模こそ違うものの、日本各地のダムが抱え込んでいる今日の普遍的な課題だ。遅かれ早かれ、三峡ダムでも同じ難問に直面する。

   古代エジプト時代にはナイル川から氾濫した水の一部はベイスン(畑の周囲に掘られた深さ0.5〜1mの溝。一種の遊水地、溜池)に確保して灌漑用水に使ってはいたものの、大部分の水は海へと流れ込んだ。氾濫の効用は耕土の補充だけではなかった。連作障害となる有害物質(農作物自身が出す自家中毒物質)と塩分の除去にもあった。水田で連作できるのは正に水の効用である。

   ダムの放水量が一定になり、年中一定の灌漑ができるようになった結果、耕地面積は30%も増加した。その結果、ナイル川の灌漑水は耕地に沁み込むだけ、地下水と共に上昇してきた塩分を除去する役割を喪失。この問題は取り返しのつかない大いなる負の遺産となるのは、火を見るよりも明らか。

   歴史的に見れば乾燥地帯に灌漑設備が導入される都度、最終的には塩害により耕地が放棄された。中央アジアではアラル海へと注ぐ川の水を綿花栽培の灌漑に使った結果、大塩害が発生しつつあるばかりではなく、アラル海も今や水量はかつての10%以下に激減し、消滅寸前になっている。

[6] 切りかけのオベリスク

   アスワン市中心部から僅か1〜2Kmの地にある花崗岩の石切り場に、切りかけのオベリスクはあった。たった一本でも世界遺産に登録された貫禄は、見るものの度肝を抜くには充分の大きさ!4*4*41.75m、推定重量1152トン。
   
   表面はほぼ平らに、両側面も既に切り出されていた。後、底面を分離すれば石切り場の仕事は完了するのに、そのまま放置されたのは何故か?我が推定理由は大きすぎて諦めたのではないかと思った。一個の建築資材でこれよりも大きい石を見たことがないのがその根拠である。

   一説には本体にひびが発見されたからとも言われている。しかし、我が詳細なる目視観察では表面に浅い溝は彫られていたが、ひびは全く発見できなかった。このオベリスクの表面に登ることも、切り出された側面に隣接する1〜2m幅・深さ3〜4mの溝に降り立つのも禁止されている事は承知していたが、鉄砲を持った見張りの目を盗んで行動開始。序に同行者に記念撮影も依頼。飛んできた見張りにはサッとチップを渡して握手。



   エジプト人ガイドに新規輸出産業の創設を提案。ニューヨーク・ロンドン・パリ・ローマ・イスタンブールなど、世界的に有名な大都市の中心にはエジプトのオベリスクが守護神のようにそそり立っているではないか!オベリスクはブエノスアイレスのように形だけを真似て、鉄筋コンクリートで作ったのでは、幾ら巨大な物を作っても何の有り難味もない。エジプト産であってこそのオベリスクだ。

   ここアスワンの石切り場を見渡せば、赤い花崗岩の埋蔵量は無尽蔵に近いではないか。オベリスク生産を輸出産業に育て、世界中の大都市の度真ん中に立てさせたら?豊田市だって買うかもしれない、と一言。夢想だにしていなかった奇襲提案だったのか、『お父さん、お父さん』と親しく声を掛けてくれていた滑らかなガイドの舌は、エンストのように突然停止!

[7] ファルーカでのセーリング

   ファルーカとはナイル川名物の帆船。高さ10〜15mくらいの帆柱に張られた白い帆が美しい。20〜30人は乗れる大きさだ。微風なのに帆が大きいためか船足は速い。セーヌ川など都会地の観光船はどぶの匂いに包まれて辟易するが、ここは爽やかで澄んだ秋風。日没が美しい。

   日本人よりも小柄なやや色黒のヌビア人の青年2人が日本の歌を日本語で歌って歓迎。更には現地の歌と手拍子・足拍子の振り付けを同時に教えながら、観光客と一緒に歌う。カラオケ天国発祥の地の日本人なのに、最期まで断乎として歌わなかった頑固爺さんがいたのが寂しかった。日本人の国際化は『日暮れて未だ道遠し』と、溜息をつかずにはおれなかった。

[8] アスワン オベロイ&スパ

   ギーザのオベロイホテルの姉妹ホテルだった。島に建設されていたためフェリーで上陸。ナイル川を介しての対岸の夜景が美しかった。緑がうっそうとしていたが、これもまたナイルの水の賜物だ。
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第5日目

[1] 東岸観光

   ルクソールはカイロの南671Km。古代エジプトの中核都市テーベだ。日本で言えば正に古都京都に当たる。古代エジプト人はナイル川の東岸は現世、西岸は来世の町として使い分けたのだろうか?東岸は市街地、西岸は墓地になっているが・・・。

[2] カルナック・アメン大神殿

   何処そこの神殿が如何に壮大だったか等と貴重な海外報告を聞かされても、カルナック神殿と比べれば見るまでもなく月とスッポン。アテネのパルテノンや、かのルネッサンスの偉人ミケランジェロが『人間の業には非ず、神の造りたもうたもの』と絶賛したローマのパンテオン(今尚世界最大の石造ドーム建築)ですらも、格違いだ。延々と2千年もかけて、歴代の国王が建設を引き継いだ成果だ。その建設期間たるや、日本史よりも長い!

   ケルンの大聖堂のように欧州には数百年もかけて完成された教会が幾つもあるものの、2000年には勝てない。

  列柱室の一角に立つと、巨人国のガリバーの世界。人間とは蟻のように小さく、ひ弱な存在に過ぎないと自覚せざるを得ない。


  この柱は円盤や扇形に加工された石を積み重ねて作られている。直径は4〜5mもありそうだ。高さ23mの中央の柱12本を初め、全部で134本が格子状に並ぶ。天井の梁はあったり、なかったり。


  この壮大な空間に佇むと、一人ひとりの人間はたといどんなに非力であろうとも、協力さえすれば、何と大きな成果を出せるものかと、誰しも考え込むのではないか。


   この大神殿の正面の参道には羊頭のスフィンクスが40体も勢ぞろい。突き当たりにある未完成の第一塔門は高さ43m、幅113mもある。この塔門の裏側には日干し煉瓦を積み上げた仮設斜面が放置されていた。期せずして塔門の建設プロセスが解明されるというものだ。



   塔門は50cm角くらいの石を積み上げたものだ。ピラミッドの建設技術の応用問題だったと連想した。神殿内にはハトシェプスト女王のオベリスクが他を圧するように聳え建っている。高さ30m、重量380トン。現存するオベリスクでは最大だ。当時、頂上部には金と銀の自然合金が貼り付けてあったそうだ。

   一角には対になって建てられていたハトシェプスト女王のオベリスクが、台の上に横倒しにされたまま展示されていた。地震で倒壊し折れたのだ。

[3] ルクソール神殿

   ルクソール神殿はカルナック・アメン大神殿と対をなしている。カルナックにいるアメン神が、毎年ナイル川の氾濫期に船で出掛ける『オペト祭り』の南の聖域として建設された。かつては両神殿間の3Kmもの参道には人頭のスフィンクスが並んでいたそうだが、今でも100mくらいの長さ分ほどは見事な状態で残っている。

   アメン大神殿ほどの規模ではないが、ルクソール神殿も壮大な遺跡だ。正面には高さ25.03m、底辺の一辺が2.51mもあるオベリスクが対になって聳えていたが、1本がフランスに寄贈され、パリのコンコルド広場に移設されている。

[4] ソネスタ・セントジョージ・ホテル

   ナイル川に面し、対岸の景色が楽しめる豪華なホテルだった。各部屋には8畳大のテラスがあった。時間さえあれば、雄大なるナイルの流れに目を注ぎ、テラスに出て古代エジプト方式で作られたビールでも味わいながら、遥かなる歴史に思いを馳せたかった。
  
   だが、現実は厳しい。一刻も早く市場(バザール)へと飛び出し、夕方の貴重な自由時間(たったの2時間)を活用したかった。テラスから数枚の記録写真を撮り、真下に見えるプールではどんなタイプの観光客が、ノンビリと泳いでいるかを一瞬の間だけ観察。
  
[5] 市場

   市場の見学こそは、名物ガイドの言葉によるどんな説明よりも、その国の今日が解る。タクシーで僅か数分のところに大きな市場があった。

@ 野菜

   生育環境が抜群なのか、日本で見慣れている同種の野菜なのにどれもこれも重量換算で数倍は大きい。カリフラワーやブロッコリーは日本の大型キャベツほどもある。キャベツは直径50cmもありそうだ。茄子が大根のように大きい。
   
A 鶏

   面白いものを見せてやると声を掛けられた。生まれて初めて、鶏の羽の取りかたを見学。羽がついたままの鶏を熱湯につけた後、遠心脱水機のような容器に投げ込んだら、数秒で完了。発展途上国だったら人が一本一本羽を毟(むし)り取っているのかと思っていた。小学生の頃に私は、自宅で飼っていた鶏の羽を一本ずつ毟らされていたのだから。
   
B 魚

   日本の川魚と異なりナイル川の魚は鮭のように大きい。種類も豊富だ。農薬が流れ込むような支流もないから、魚は安全なのだろうか?原則として尾頭付きで売っていたが、1mもあるような巨大魚は客の注文に合わせて切り身にしていた。

C 街頭修理屋

   ミシン一つを商売道具にして、靴・衣類などの修理をする街頭職人がいた。まだ使い捨て文化時代には至っていないようだ。
   
D スパイス

   エジプトの特産品はスパイス。無数の種類のスパイスがあちこちで売られている。陳列方法はデパートのコーヒー豆の売り方にそっくり。イスタンブールにはエジプト・バザールがあるが、主力商品はスパイスだ。色いろ買いたかったが使い方が解らないので、胡椒など知っているものを少しだけ購入。
   
   マーケットの商人は知っている日本語を総動員して、直ぐに声を掛けてくれた。多かった言葉は『中田』『バザールでゴザール』『山本山』『見るだけ』『見るだけは只』『大阪』『東京』。牛皮の帽子に注目して『カーボーイ』。日本にきた外国人観光客にその国の言葉でこんな風に商人が声を掛けているとは夢想すらできない。何よりも不思議なのは、私をちゃんと日本人と識別していることだ。
   
   帰途には観光2輪馬車に乗った。数人が乗れる大きさで日避けがついている。馬は小走りに馬車を引く。料金はタクシーと変わらないが、相乗りした場合には一人一人が一人乗りの場合と同額の料金を支払う。
   
   御者が『女に用はないか?20$だぞ』と、熱心に勧誘する。『夕食後、神々とファラオのドラマ、音と光のショーを見に行く予定だから、もう時間がない』と言うと『5分で済むぞ』と反論。『エジプト人はあの長さが25cmもある』と自慢するので『そんなら証拠を見せろ』と言うと『ここは大通りだから、見せるのは無理だ』等と言っている内にホテル前に到着。
   
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第6日目

[1] 西岸観光

   かつて西岸に行く手段はフェリーだけだった。観光業者にとってはホテルから東岸の乗降船場までのバス、西岸の乗降船場から観光スポットまでのバスの手配も必要になる。結局、ナイル川に橋を掛けることが提案されたが、侃侃諤諤(かんんがくがく)の大論争が発生。『古都ルクソールに鉄筋コンクリート製の橋を掛ければ観光地の雰囲気を壊す』との切羽詰ったフェリー業者の言い分も無視はできない。
   
   妥協の産物なのか、市街地から遠く離れた地点に橋が完成。直ぐ目の前の対岸に行くために、大きく迂回せざるを得なくなった。

[2] メムノンの巨像

   王家の谷を背後に従え、ナイル川を真正面に見ているかのように、荒地の中に高さ21mのアメンホテップ3世の巨像が2体、椅子に座った形(座像)で鎮座している。かつては背後に葬祭殿があったが、後の国王により建築資材として持ち去られ(リサイクル?)今はその面影すらもない。

 

   この巨像はエジプトのあちこちで見かける人物彫刻のように、一個の石から切り出されたものだそうだが、ピラミッドのようにブロックを積み上げて造ったものとの区別は、幾ら眺めても解らなかった。

   紀元27年の地震でひびが入ったそうだが、どれがひびでどれが最初からあったかも知れないブロックの接触線なのか判らなかったからだ。像の周囲には杭が打ち込まれ立ち入り禁止の縄が掛けてある。縄を跨いで中に入ろうとしたら、看視人に見つかった。手を縛られる真似をする。仕方なく諦めた。

   この巨像の周りにはスフィンクスなどを初めとした飾りも何一つなく、イースター島の海岸に並び建つモアイの巨像(まだ未訪問)のように、何となく寂しさを感じさせる像だった。しかし、この巨像も大事な観光資源だ。鉄砲を担いだガードマンが巡回している。

[3] 王家の谷

   一木一草もない荒れ果てた火星の表面のような赤茶けた山岳部に到着。大駐車場でバスを降りた。バスの排気ガスによる環境汚染を防止する為と称してタイヤのついた連結トロッコ(レール式にあらず)に乗り換えた。とは言え、先頭の牽引車は自動車。ディーゼルがガソリンエンジンに代わっただけ。トイレもここが最終場所だった。若干のお土産物屋もあり、トロッコ待ちの暇つぶしには充分の価値。

   国力の衰退なのか、価値観の変化なのか、盗掘対策なのか、ピラミッド時代は終わり、歴代の国王の墓はこの峡谷に建設され始めた。発見済みのピラミッドは80基前後と言われているが、王家の墓は60基くらい既に発見されている。未発見も含めて大局的に見れば似たような数か?

   王家の墓の構造はどれも良く似ているのだそうだ。岩山の山腹に穴を開け、刳り抜いて通路や玄室を造り、天井を支える柱を残した岩窟墳墓だ。平野部の神殿が切り石を積み上げて作られているのに対し、こちらの墓は空間部分の石を除去した後にできた一体構造だ。大きいものでも奥行きは50m、玄室の面積は100坪?ピラミッドに比べれば桁違いに小規模。

   通路の壁面には王の業績が象形文字と壁画で表現され、天井には当時の宇宙観・世界観・人生観が絵で表現されている。乾燥地帯であったためか、それらの文字や絵は色彩も鮮やかな状態で保存されていた。

   ラムセスU世・ラムセスV世・ツタンカーメン王の墓を見学。前二者の場合、墓の中には何もなかった。ツタンカーメンの場合は埋葬品2000点あまりがエジプト考古学博物館に移され、墓にはかつてミイラが入っていた、蓋をした石棺だけが、一つ寂しく取り残されていた。見学者が余りにも多く、U字型に設定された通路に沿って止まっては進み、止まっては進みながらの尺取虫行列。勿論撮影禁止。

[4] ハトシェプスト女王葬祭殿

   この葬祭殿で約6年前の1997/11/17に、イスラーム原理主義者による観光客無差別襲撃事件が発生した。死者は日本人10人、スイス人36人など外国人の合計は58人。爾来エジプト政府は観光客の保護のために最大限の努力をしている。例えば当日のバスには、ホテルを出発する時点から屈強な30歳台の観光警察官が乗り込んできた。



   広大なバス駐車場に到着。100台近いバスが駐車している。登録ナンバーの数字はアラビア文字なので覚えられない。駐車場の一角はお土産物屋の屋台が続く。駐車場から葬祭殿までは自動車式トロッコ列車で数百メートル移動。

   ハトシェプスト女王(在位BC1503〜1482)は史上初の女性ファラオ。葬祭殿は断崖絶壁を背景に一部は絶壁に食い込む形で作られた3階建て。両翼の合計は100m近い大きな建物だった。

   ガイドの説明終了後の30分間は自由行動。帰路はトロッコには乗らずに歩いた。途中、捨ててあった日干し煉瓦を発見。手にとって眺めつ、眇(すが)めつ。単なる粘土なのに硬度は大変高い。建築資材としての圧縮強度は十分すぎるほどにある。しかし、レンガの角に別のレンガを軽く当てただけで簡単に割れた。衝撃強度は大変弱い。日干し煉瓦は古代から中東各地の重要な建築資材であり続けたが、地震で簡単に家が倒壊するのは、理の当然だった。

   屋台のようなお土産屋に立ち寄り、エジプトの古い絵がプリントされている、1.5m*2.5m大のテーブルクロスとナプキン6枚のセットを、20$の言い値を4$に値切って購入。ふらふらと広場を横断していたら、パピルスに画かれた絵の束を手にした若者に商談を持ちかけられた。既に同種の絵は買っていたので、即座に要らないと返事。

   そのときである。我が仕事発生とばかりに何処から発見したのか、観光警察官が突然現われて、パピルスの絵の束を男から取り上げるや否や、地面に叩きつけた。何て手荒なと思う暇もなく、今度はボクシングのように握りこぶしで男の胸倉を力任せにぶん殴った。私は危険を全く感じてもいなかったのに、可哀想にとも思いつつ、後ろ髪を引かれる思いで急いでバスに。

   次なる目的地では仲間に気付かれないようにと、意図的に最後にバスを降りた。そのとき、小さく折りたたんだ1$札を右手の手のひらに忍ばせ、小声で観光警察官に『サンキュウ』と挨拶しつつ、握手しながらそれとなくチップとして手渡した。彼も我が心を察したのか、小声で『ノー、プロブレム』と挨拶。

[5] カルナック大神殿の光と音のショー

   日本人観光客も今や、大集団になった。夜のショーは言語別に実施される。日本語のショーの時間帯に来るのは勿論全部日本人。日本人は何故か夜が早いそうだ。各旅行社の団体が揃い踏みしたようなものだ。他にも英語・フランス語・ドイツ語などがあった。

   ライトアップされた大神殿の中で、大出力のスピーカーから荘厳な音楽と共に古代エジプト人の信仰の世界が語られる。一つの話題が終わると、次のステージへと案内されてはまた説明が始まる。

   その間、自由に移動しながら適宜写真を撮っていると、フリーのガイドらしき中年男が何処からともなく現われ、手ごろな撮影場所へと案内してくれた。頼む気は全くなかったけれども振り払うのも億劫。已む無くチップ。

   最期に『聖なる池』と呼ばれる500m角はある大きな人工の池を見下ろす観客席へ移動したとき、真っ暗闇なのに突然背後から『石松さん、今晩は。苗村です』と、元テニス仲間の苗村夫人から声を掛けられた。
   
   苗村夫人はテニスのやり過ぎなのか膝を痛められ、我が男性中心のグループから女性中心のグループへと3年位前に移られて以来、お会いしたこともなかった。また、今回のカーボーイハットをテニスでも使い始めたのは最近のこと、苗村夫人にお見せしたこともなかった。それなのに大群衆の中から私を発見されたとは!私の歩き方には何か特徴があるのだろうか?
   
   苗村夫妻とは事前に旅程情報の交換もしなかったし、現地でお会いできるとは夢にも思っていなかった。ルクソールにはヒルトンやシェラトンなど一流ホテルが林立する中で宿泊ホテル(ソネスタ・セントジョージ)名も同じだったとは。それともソネスタは日本の旅行社に人気があるのだろうか?何にしても地球は小さくなったものだ!
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第7日目

[1] カイロ市内

   カイロは日本の大多数の大都市同様、無計画に膨張してしまった都市だ。小さなビルがひしめき合っている。ホテルからアリ・モスクへと移動する高速道路に面した部分に新品の空家が無数に現われた。
   
   政府が高速道路から80m?(正確な数値は忘れた)以内での新築を、とうとう禁止したのだ。法律を無視して建てた業者が苦しんでいる証拠物件だった。

[2] ムハンマド・アリ・モスク

   1830〜1857年にかけて建設されたオスマン・トルコ様式のモスク。トルコのあちこちにあるモスクと形が似ている。半球状のドーム屋根を多用した建築だ。古代エジプトの遺跡を見続けてきた者にとっては、江戸時代に建設されたと聞かされても、ほんの最近のように感じる。

   中庭に1845年、フランス政府からオベリスクのお礼に贈呈された時計塔があったが、時計は修理中だった。お礼とは名ばかり、とても等価交換品には思えなかった。

   このモスクは高台にあり、庭からはカイロの町並みが一望できた。カイロが如何に人口稠密都市であるかが、いながらにして理解できる。

[3] 水道橋

   地中海周辺各国にはローマ時代の巨大な水道橋の廃墟が残っているが、カイロには新しい水道橋が残っていた。14世紀前半に建設され、後年拡張され、1872年まで使われた。
   
   牛が引く巨大な水車でナイル川の水を高さ25mの塔まで汲み上げ、後は重力によって3405mもの長さにわたり給水されていた。橋の橋脚は砂岩で作られ、水はアーチ式の梁で支えられた水路を流れる。建設直後のように新しく感じた。

[4] エジプト考古学博物館

   展示面積はそれほど広くはない(2階建て、延べ20000u位と推定)が、展示物はどれを取り上げても人類の宝だ。正面玄関前の庭園中央には小さな石造りの池があり、エジプトの象徴たるパピルスとロータス(ハス)が植えられている。既に12月初めだったがパピルスは青々と繁っていた。
   
@ ツタンカーメン

   展示物の中の圧巻はツタンカーメン王の墓からの出土品だ。黄金のマスクは特別室の且つ特別展示棚に収められていた。

   王のミイラは人形(ひとがた)の棺桶に納まり、それが又少し大きな人形の棺桶に収まり、更に又人形の棺桶に収まり、最期にそれらが石棺に収まっていた。更に今度はその石棺が直方体の大きな箱(一種の厨子)に収められ、その箱が更に大きな箱に納められ、結局5番目の箱は10畳以上もの大きさになっていた。ミイラから数えると石棺以外に8重棺にもなる。まばゆいばかりの黄金を惜しげもなく使った棺桶群が並べてあるのは壮観だ。

   ロシアには入れ子式のマトリョーシカという人形(にんぎょう)がある。人形の中に同じ形をした人形が入っている。10個くらい順番に取り出せる。尤もこの入れ子式の人形の原型は、箱根の民芸品だ。ロシア人がその真似をして、1900年のパリの万国国際博覧会でデビューさせ、今では本家よりも有名になってしまった。しかし、本当のマトリョーシカの元祖はエジプトにあったのだ!

   A キャップ・ストーン

   ピラミッドの頂点に載せる、輝くばかりに磨き上げられた高さ1m位の四角錐が展示されていたが、どのピラミッドのものだったのだろうか?
   
   B パピルス

   古代に画かれたパピルスの書や絵が何百枚も壁面に展示されていた。それらが鮮やかな色彩で保存されていたのには驚愕した。今日、酸性紙問題で洋紙に印刷された書物が、たったの100年すらも、もたないと世界各国の図書館で大騒ぎしているが、パピルスの足元にも及ばないとは、なんとも情けない。

   C ミイラ

   本場中の本場だから、ミイラの加工プロセスまで展示されていた。ラムセス2世のミイラを初め、無数のミイラを見ていると、死者を敬う心が希薄になっていく我が心境の変化に耐えられなかった。
   
   D ロゼッタ・ストーン

   ロゼッタ・ストーンこそは古代エジプト文明解読の突破口となった記念すべき遺産だ。1799年8月上旬、ナイル河口のラシード(英語名ロゼッタ)で要塞の補強工事中に偶然発見された。高さ114cm、幅72cm、重量762Kgの黒色玄武岩。
   
   1798年5月19にフランスのトゥーロン港を出向したナポレオンのエジプト大遠征は、最終的には1801年9月3日にイギリス軍に降伏した。フランス軍が発見したロゼッタ・ストーンは戦利品としてイギリス軍の手に渡り、今や大英博物館の至宝となった。
   
   上段にヒエログリフ(象形文字)、中段にデモティック(民衆文字、象形文字の省略タイプ)、下段にギリシア文字で、BC196年のプトレマイオス5世の功績と戴冠式などに関する広報が書かれていた。多くの学者がヒエログリフの解読に挑戦したが敗退。彼らはヒエログリフが表意文字との伝統的な解釈の呪縛から抜けられなかったのだ。
   
   しかし、遂に1822年、フランス人シャンポリオンが象形文字の解読に成功。本物は大英博物館に、コピー品が当博物館に展示されているが、早く本物と取り替えて欲しい。物はあるべきところにあってこそ、一層輝く。

[5] ハーン・ハリ市場

   1000年以上もの歴史を持つカイロ最大の市場。単なる市場としてだけではなく、観光スポットにもなっている。969年に城塞都市として建設され、エル・カーヒラ(勝利の地の意)と名づけられたのが、カイロの語源だ。

   細い迷路のような通路が四通八通。迷路の両側にはありとあらゆる種類の日常雑貨・お土産品・宝石・貴金属・衣類・スパイスなどの店が無秩序に並んでいる。商品ごとに店をグルーピングするという概念はない。

   通りをノンビリとしかし、キョロキョロしながら歩くと、商人からひっきりなしに呼びとめられる。その熱意にはあきれるほどだ。日本語が使える商人も多い。但し、食料品は殆ど見かけなかった。ルクソールで食料品市場を覗いていて良かった。

[6] マリオット ホテル&カジノ

   当ホテルのルーツは1869年にスエズ運河開通式に参列する貴賓客の宿泊のために建てられた王宮。高層ホテル棟が100m離れて向き合い、その間はショッピングセンターや銀行、レストランなどもある低層。全1250室もの巨大ホテルだった。

   カジノもあった。どんな様子か見物すべく受付に行くと当然のことながら、『パスポートを預かる』『部屋に置いている。こんな大きなホテルでは取に行くのは面倒じゃないか!』『じゃあ、いいや。但しカメラと帽子は預かる』と返答。杓子定規でないところが気にいった。国際観光ホテルとしての対応力は満点。

   ホテル内の店でエジプト記念にと、象形文字が刺繍されているスポーツシャツを買った。ところがカードが使えない。ドルで支払ってもお釣りの1$札がない。店主は店に鍵を掛けた後、ホテル内の銀行まで案内してくれた。

   しかし、何としたことか、銀行には10$札以上のお金しかなかった。此処でエジプト・ポンドを貰っても、使い勝手が悪いので店主に、あくまでドル札によるお釣りを要求。彼は商店街の店主に次々と相談。とうとう目的成就。みんな親切だ!
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第8日目

[1] ダハシュール

   カイロの郊外ダハシュールにはクフ王の父、スネフル王(5基ものピラミッドを建設したそうだ)のピラミッドが何と2基もあった。当日の朝は霧雨。旅行案内には雨具持参が望ましいと書いてはあったが、沙漠の国で雨が降る確率は小さいと思って無視したのが裏目。

   相部屋のお爺さんが百円ショップで買った簡易合羽を貸してくれた。結果的には雨が降ったのは一瞬だったが、合羽を着ていることによる安心感は絶大。お爺さんには心から感謝。

  @スネフル王の南のピラミッド(屈折ピラミッド)
  
   底辺188.6m、高さ101.15m。これは2Kmも離れた駐車場から遠望しただけだが、高さ49.01mのところで角度が54度から43度へと変更された屈折点ははっきりと認識できた。何故ピラミッドを屈折させたのかは、設計を途中で変更した、王が病気になり完成を急いだ、外装の化粧石が崩れた、傾斜角度が大きく内部が崩れたなど、諸説紛々。
  
  Aスネフル王の北のピラミッド(赤のピラミッド)
  
   底辺220m、高さ99m、角度43度。地元の赤い砂岩で作られているため、赤のピラミッド(私には明るい茶色に感じられたが・・・)とも呼ばれている。高さ28m地点に入り口。天井は低く通路の幅も狭い階段を手探りしながら移動。懐中電灯持参要請の意味が分かった。
   
   内部には電気配線もされ入り口にはガソリンエンジンを使った発電機もあったが停止中。私は懐中電灯を持っている人の真後ろにピッタリくっ付いた。照明がなければ完全な暗闇。狭い玄室まで到着したが何もなかった。

[2] メンフィス

   カイロの郊外にあるメンフィスは、上下エジプトを最初に統一したナルメル王が、BC3000年に造営した首都とも言われているが、現在は廃墟。此処に到着するまでの道は前夜の雨で、舗装面に降り積もっていた土を溶かしてどぼどぼの状態。両側の民家は箒を持ち出して泥水掻き。そうしなければ自動車から泥水を噴射されることになる。バスは気を利かせてのろのろ運転。

@ ラムセスU世像

   ラムセスU世(治世はBC1304〜1237年)の巨像(12m)が発掘され、そのための展示館ができた。元々は全長15mの立像だったが破損し、立てることができないために寝かせてあった。3300年前の石造彫刻だが、活力溢れる逞しい男の体臭が匂って来るかのように感じる。

   像の周囲からも観察できるが、回廊式の2階からも見下ろせるようになっている。上から見ないと像が大きすぎて、全体が把握し難い。

A スフィンクス

   展示館の前の庭には巨大なスフィンクスが展示されていた。かの有名なギーザのスフィンクスはピラミッドがあるため割を食って小さく感じたが、こちらは狭い庭園に鎮座し、至近距離から眺められるので、望遠レンズで眺めているように大きく感じた。全長は8m、高さは4.25m、重量80トン。蒸気機関車並だ。エジプトでは2番目に大きなスフィンクスらしい。その傍らにはラムセスU世の高さ7mの立像が建てられていた。

B 聖牛アピスの解剖台

   大きさ5.41m*3.09m、高さは1mくらい。硯石のように上面が窪んだ直方体の石でできた俎板(まないた)が展示されていた。聖牛をミイラにするための解剖台だ。エジプトではミイラは人だけではなく、牛、ライオン、ワニ、猫などその加工対象はいろいろ。

[3] ジェセル王の階段ピラミッド

   カイロの郊外サッカラには修復中の城壁(東西277m、南北545m、高さ10.4m)に囲まれた6段に積まれた階段ピラミッドがある。140m*118m*60m。底面は真四角ではない。BC2630〜2611年に在位したジェセル王のピラミッドだ。

   城壁の中には祭殿などもあるため、ピラミッド・コンプレックスと呼ばれている。祭殿の柱の一辺は壁面までそのまま櫛の歯のように伸ばして接合されている。柱の断面の形は前方後円墳にそっくりになる。ブロック塀などの内側に設置する『控え』(業界用語)と考え方は同じだ。当時の設計者が壁から離した場合の柱構造に不安を抱いたらしい。

[4] ナイロメーター

   夕食まで2時間の自由時間があった。ナイル川の川中島の一つ、長さ3Km、幅600mのローダ島の南端にナイロメーターがある。今回の観光対象には設定されていなかった。同行者に『一緒に行きませんか?』と誘ったら『写真で見たから、充分です』と言う。写真で充分ならピラミッド見物であれ、何であれ海外旅行を否定しているようなものだ。
   
   古代のエジプト人にとって死活問題に近い重要な情報は、ナイル川の氾濫時期の予測である。氾濫時期は数日の誤差しかないほどの規則性があった。かつて新年の始まりにはナイル川の氾濫が始まった日が選ばれた。彼らはナイル川沿いの各地にナイロメーターを建設した。ナイロメーターとはナイル川の岸辺の陸地に大きな井戸を彫り、中央部に柱を建て、井戸とナイル川の川底とを横穴を通じて連結したものである。その結果、井戸の水面はナイル川の水面と常に同じになる。

   
   柱に洪水開始時の水面の高さを目印として刻んでおけば、氾濫開始時期を推定することができる。かつては24時間の監視体制が採用された。日本では今日、各地のダムの堰堤や主要河川の橋脚に水面の高さが読み取れる線を書き込んでいるが、目的は皆同じ。
   
   エジプト人がカイロに作った石造建築物内のナイロメーターの豪華さたるや、今同じ物を作れば10億円は掛かるのではないかと推定。彼らの完璧主義はピラミッドの建設を初め、尋常ではない。今やカイロのナイロメーターは入場料も取る立派な古代遺跡兼公園になり、管理事務所もあり、有料ガイドが手薬煉(てぐすね)引いて観光客を待ち構えている。
   
   応用自然科学たる工学を志した者の端くれとして、私は古代エジプトのこの発案者に敬意を表すべく、お参りすることにした。運悪く雨がぱらぱらと降り出した。ホテルの玄関で待っているタクシーはリムジーンばかり。通りへ出て流しを探した。雨のためか、なかなか捕まらなかったが10台目くらいでやっと拾えた。
   
   何とタクシーの運転手は英語が全く解らない。地図で示しても英語が読めない。英語が読めなくても地形は解る筈と思ったが・・・。後でJTBの添乗員に聞くとエジプト人は地図には慣れていないという。しかし、ここからドライバーの奮戦が始まった。道行く人に声を掛けては、私に質問をさせること数度。やっと英語が通じる地元民を発見。ドライバーは簡単に行き先を理解した。
   
   途中から雨はスコールも顔負け、文字通りの豪雨に変わった。傘もなく困ったなと思ったが、幸い40分の移動中に雨は止んだ。しかし、これでは帰りのタクシーは拾えそうにもない。ナイロメーターの入り口に到着した時、英語の解らないドライバーに此処で待つようにと、紙にUターンを意味する地図を書いたら『Stop?』と発言した。理解したのだ!

  [5]ナイル川ディナークルーズ

   エジプト最後の夜は3階建ての船に乗ってのディナークルーズ。観光客を国別に纏めて同一階に案内するのか、我が階は日本人団体客と中国の4人組。舞台を前にしてテーブルは3縦列。我が仲間の予約席は右の窓側の舞台に一番近い特等席。右側最前列のテーブルには中国人。此処だと背後から舞台を見ることになる。

   舞台とは反対側の船尾に料理が用意され、バイキング方式の夕食。船はナイル川をするすると移動。川岸はカイロの一等地。高層ビルも建ち並び、照明が水面に美しく映える。

   夕食が一段落した頃からショーが始まった。歌と踊りが披露された。ベリーダンサーは逞しい中年女性。上半身を至近距離からよくよく観察したら、透明な下着を発見。皺隠しが目的なのだろうか?

   ベリーダンスの後半は観光客参加番組。舞台に近い人をダンサーが呼び出す。半分くらいは誘いに乗るようだ。私もとうとう声を掛けられた。旅の思い出に気分よく踊った。みんなの拍手を浴びると心が高揚してくる。当然のことながらプロのカメラマンが不要な写真を撮リまくる。写真代金5$は参加料金みたいなものだ。

   隣の中国人グループは、1本のぶどう酒を嬉しそうに全員で仲良く分けながら飲んでいた。その席に出かけ、一緒に踊らないかと誘ったが、驚くほどはにかんで一向に立ち上がらない。彼らは仕事でエジプトへ来たのだそうだ。一人は英会話ができた。私とのやり取りを仲間に通訳。

   遥かなる昔、日本人が最初に欧米に仕事で出張した頃は、会場の隅っこで小さくなって遠慮しがちに振舞っていたのだろうかと推定すると、彼らの嬉し恥ずかしの行動が愛しく感じられてならなかった。
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第9&10日目

[1]カイロ空港

   旅は終了。しかし、仕事は残っていた。お土産買いだ。過去の体験からお土産で一番喜ばれるのは食料品。エジプトの特産品としては香辛料を少し買ってはいたが、これは主婦向き。免税店は小さく、これといったエジプトらしさのある食料品が見つからない。やっとココナッツ・クッキーを発見。ココナッツ畑は至る所で見ていたからだ。

   最期に定番のチョコレートを探したが、適当なエジプト製の品物が見つからない。結局、スイス製のプレミアム・チョコレートを買った。1年前にEUでチョコレートの規格論争が決着し、ココアバター100%のプレミアム・チョコレートだけではなく、植物油脂を混入した安価なチョコレートも、EU内での販売が認められるようになった。

   爾来、チョコレートを買うときにも注意が必要になった。かつて偽物扱いをされたものが堂々と出回るようになったからだ。支払いは米ドルの現金のみ。T/Cもカードも使えず、何とも不便な免税店だ。
   
[2]ロンドン空港

@ 最高価格のウィスキー

   暇つぶしに免税店街を右往左往。ウィスキーの専門店に出掛けた。

   『貴店で一番高いウィスキーはどれですか?』と聞くと、得意げに奥まった一角に案内してくれた。鍵が掛かったガラス窓の内側に鎮座していたのは60年物、750ccが1本、何と22000ポンド(440万円)。過去に出会った最高価格は香港の免税店で見た100万円。価格は勝手につけられるが、買い手がなければ無意味。とはいうものの、上には上があるものだ。

A スモーク・サーモン

   世界各地でスモーク・サーモンを買ったり食べたりしたが、一番気に入っていたのがイギリス製。此処では日本のデパートのように試食させてくれた。本場物は流石に美味しい。しかし、ポンド高もあってか異常に高い。原料はサーモン・トラウト(最高級品の原料は紅鮭)だったのに1500円/100gもする。お土産用と自宅用とを買った。人に差し上げる前には、念のために自宅で自分でも味見をしていないと、高級品と雖も不安なのだ。

[3]成田空港

@ 旅での不思議な出会い

   ターンテーブルに鞄が出てくるまでのひと時を待っていたら、突然見知らぬおばさん達から声を掛けられた。

『私は11/27に成田空港で、貴方を見かけたような気がします』
『本当ですか?尤も私はBA。ロンドン経由でカイロに行きはしましたが。それにしても、お歳にも拘わらず、驚くばかりの記憶力ですね!』
『帽子に見覚えがあるのです。昨日のナイル川クルーズで、ベリーダンスを踊られていましたね。私達の仲間内では、あんなに楽しそうに、しかも物怖じすることもなく、現場の雰囲気に溶け込んで踊れる人とは何処の人でしょうか?キット関西人ではないだろうか等と、噂していました。』
『トルコのイスタンブールでも、カッパドキアでも実はダンサーに引っ張り出されて踊ったことがあります。何処となく、私は目立つと同時に、声を掛けやすいのでしょうか?』

A 苗村夫妻との再会

   苗村夫妻とまたも出会った。帰りの飛行機が同じだったのだ。名古屋―成田間は、私は待ち時間も殆どないJAL便との順調な接続だった。気の毒に苗村夫妻は何と4時間待ち。最後の記念撮影をして分かれた。


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ピラミッドに関する蛇足と愚考

[1] 今回、訪問したピラミッド

   上・下エジプトを統一したのはBC3000年頃、第1王朝のナルメル王と言われている。その後、第30王朝がアレキサンダー大王にBC332年に征服されるまで、古代エジプト国家は途中ヒクソス(ヒッタイト)による侵略などを受けはしたものの、約3000年間も続いた。
   
   エジプトが統一されて僅か数百年後に、ピラミッドの第1号が建設された。長方形の鏡餅を積み重ねたような形をした、6段からなる階段ピラミッドである。今日までに80基前後(本によって数値が異なる)ものピラミッドが発見されている。数が曖昧なのは、ピラミッドなのか自然の山なのか区別しがたいものがあったり、砂に埋まっていたり、崩壊していたりして、ピラミッドと特定しがたいものもあるからである。
   
   下記の数値はガイドブックから抜き出したものであるが、本によって数値も有効数字もまちまち。ピラミッドの3個の数値は縦・横・建設時の高さ(現在の高さ)、傾斜角度(稜線の角度ではなく、平面の最大角度。Bの計算例を参照)を表す。どのピラミッドも建設時の高さよりも現在は、当然のことながら少し低くなっている。国王の名前に続く数値は在位期間(これも、本によってまちまち)を表す。ピラミッド名の後に所在地名を記した。その後にピラミッドの設置方向を記した。
   
@ 階段ピラミッド(サッカラ)。東西南北。
 140*118*60m。傾斜角度は不明。高さも現在値なのか不明。
   第3王朝。ジェセル(BC2630〜2611)

A 屈折ピラミッド(ダハシュール)。向きは不明。
 188.6*188.6*105(101)m。
   基底部54°31′13″。上部43°21′。屈折点49.07m。
   第4王朝。スネフル(BC2575〜2551)

B 赤のピラミッド(ダハシュール)。向きは不明。
 220*220*104(99)m。43°40′注。tan-1(104/110)=43°
   第4王朝。スネフル(BC2575〜2551)
  
C 1ピラミッド(ギーザ)東西南北。
  230*230*146(137)m。51°50′
    第4王朝。クフ(BC2551〜2528)

D 第2ピラミッド(ギーザ)東西南北。
    215.5*215.5*143(141)m。53°8′
    第4王朝。カフラー(BC2520〜2494)

E 第3ピラミッド(ギーザ)東西南北。
  108.5*108.5*66(62)m。51°
    第4王朝。メンカウラー(BC2490〜2472)

[2] スネフル王のピラミッドの建設順序

   スネフル王はダハシュールだけでも2基のピラミッドを造ったが、屈折ピラミッドが先に造られたと言われている。屈折ピラミッドは最初54°の勾配で建設を開始したが、途中から何らかの理由で43°に変更された。一番有力な角度の変更説は『技術的な難問に遭遇したから』と言うものである。
   
   赤のピラミッドが43°なのは前者の苦い経験を活かしたものではないか、とも言われている。その判断が正しければ、屈折ピラミッドの後で造られたことになる。

[3] 傾斜角度の変遷

   階段ピラミッドの角度については手元のどの本にも記載がないが、見学時の目視では45°以下と推定した。結局、初期のピラミッドの勾配は、赤のピラミッドのように緩やかな勾配だったと推定している。下から見上げた時には、威風堂々たる威圧感には欠けるが、緩やかだと造りやすい。しかし、高くした場合、急な勾配にした場合と比較すると、底面積に正比例して体積が増えるから、造るのは大変だ。
   
   赤のピラミッドは底辺の長さがクフ王のピラミッドの95.6%もあり、全ピラミッドの中では2番目に長いが、高さは第1ピラミッドの70%しかなく、第2ピラミッドよりも遥かに低い。結局、屈折ピラミッドの最初の壮大な設計方針は、ピラミッド建設の最盛期、ギーザの3大ピラミッドになってやっと実現された。

   初期のピラミッドの傾斜角度は作り易い43°〜45°に集中していたが、建設技術の進歩により、見栄えのする51°〜53°に変えたのだと思う。

[4] 形と大きさ

   ピラミッド第1号の底面の形は矩形だったが、その後は総て正方形に変えられた。エジプト人の完璧主義は形にも完璧な単純美を求めたのであろうか?
   
   それにしても何故正四角錐にしたのか、全く判らなかった。正三角錐にはどんな欠点があるのだろうか?

   ピラミッドの設計者は、四辺の長さ、頂点の高さをどうしても決めなければならない。それらを決める合理的な根拠は何だったのだろうか?メートル法で数値を表すと当然のことながら端数が出るが、古代エジプトの長さの単位で表現すれば、100などの切りの良い数値になったのだろうか?

   当時エジプトで使われていた長さの単位に、ひじから指先までの長さとして、キュービット=52.4cmがあるが、これを使っても意味のある数値は出てこない。
   
   エジプトで購入した本の中では、ヘロドトスの本に書かれていた情報として、『クフ王のピラミッドの一辺は、8プレトリ』だったと紹介しているが、これだと、
1プレトリは230/8=28.75mになる。しかし、この単位を使っても、他のピラミッドの場合に、切りの良い数(ラウンドナンバー)にならないから、然して信用するほどには感じられない。
   
   結局、私には残念ながらピラミッドの大きさの決定条件は、推定することすらも出来なかった。

[5] 設置方向

   設計施工者にとって、建設開始前に決めなければならない第2の問題は、ピラミッドの設置方向である。太陽の見かけの運行によって昼夜が決まっているのは明白だから、何らかの方法で太陽との関係を決めたくなるのではないか。そうは言っても、当時の計測技術で方向を確定するのは簡単とは思えない。

   唯一、明快な方向は北極星、つまり北だったと思う。北さえ決めれば東西南は自動的に決まる。上記のピラミッドの内、階段ピラミッドと3大ピラミッドは全部、正確に東西線と南北線に4辺を直交させていた。何故か、屈折&赤のピラミッドはどの本にも向きが記載されていなかった。

   しかし、私は当然、東西南北に向きは合わせていた筈と推定している。それ以外の方向では、その向きを選択した合理的(誰もがなるほどと納得する)な理由が見つからないと思うからである。

[6] ギーザの3大ピラミッドの相対的な位置関係

   ピラミッドの横に別のピラミッドを作る場合、相互の関係をどのように配置するかにも設計者は苦慮したに違いない。地図で確認すると、3大ピラミッドの各東南の角は正確に一直線上にある。
   
   このことは、第3ピラミッドの建設責任者が、第3ピラミッドの東南の角が既設ピラミッドの東南の角を結んだ一直線上にあるように、意図的に決めた何よりの証拠と思う。

[7] 王妃達のピラミッドは3大ピラミッドの試作品?

   クフ王のピラミッドのような大きな建築工事を、工法に関する何の事前検討もなく始めたと断定するのは、私には大変疑問に感じられる。クフ王のピラミッドの直ぐ東とメンカウラー王のピラミッドの直ぐ南に、王妃達のピラミッドと称されている極端に小さなピラミッド(高さはクフ王のピラミッドの1/10位)が各3基ある。いずれも崩れかかっている。

   ピラミッドは総て王の物ばかりなのに、2基のピラミッドにだけ王妃のピラミッドが付随しているのは不自然である。もしも超小型ピラミッドが王妃のピラミッドならば、ギーザで2番目に造られたカフラー王のピラミッドの横にも王妃のピラミッドがあるのが、極めて自然であるのに、全く存在していないからである。    

   私はこれらの小さなピラミッドは、3大ピラミッドを造る前に、工法の妥当性を確認するために挑戦した試作品ではないかと推定した。用済み後に、王妃達のピラミッドとして転用しただけではないのかと、思えてならなかった。

[8] 石の加工精度の向上とその大型化

@ 階段ピラミッド

   階段ピラミッドに使われていた石は厚さ30〜50cm、長さ40〜100cm、立方体や直方体に加工した石が多いとは言え、その6平面の加工度は極めて悪い。積み重ねても相互に隙間が多発した状態である。それらを、内側がやや下になるようにして積み重ねていた。重力による外側への崩壊防止のためである。
   
   場所によっては単なる砕石のまま、平面への加工は全くしていない石も使われていたが、これらの薄くて鋭利な形をした先端部は風化してぼろぼろ。手にとって石で叩くと簡単に割れた。これらも内側がやや下向きになるように積まれていた。今日、日本の山村等でしばしば見かける、古い簡単な石垣の積み方に大変よく似ていた。

   このような積み方では、高くすると崩壊の恐れがあるためか、高さ10mくらい石を積む毎に面積を縮小して次の段を作ることを繰り返した結果、6段の階段ピラミッドになったと推定した。このピラミッドの石は小さいため、小さいものは一人で、大きなものでも数人で簡単に運び上げることができたと思う。

   隙間だらけのまま積み上げただけなので、雨水の殆どは内部へ浸透したと思う。外側の石は風化が進み、極端なものは日干し煉瓦並の強度にまで落ちていた。各段の上には、上から崩落した石が2〜4mも積もっていた。このピラミッドは既に耐久寿命に到達していると判断している。補修工事は必須である。
   
A 赤のピラミッド

   使われている石は階段ピラミッドの石よりも総じて大きくなっただけではない。直方体の平面精度が向上していた。石一辺の厚さが50〜70cmくらいもあった。もはや人手だけで運べる大きさではない。そりに乗せるなど運搬には道具を要したと思う。

   しかし、耐久性から考えれば、石の大きさはまだ不十分だったと思われる。赤のピラミッドの周辺には崩落した石がうず高くて積もっていた。それらの石は風化が進み、簡単に割れる状態だった。結果論ではあるが、耐久寿命を上げるには、風化代(しろ)をもっと見込んで、より大きな石にすべきだったと思う。

B ギーザの3大ピラミッド

   過去の学習効果の集大成として、更に石が大きくなった。形状の管理も厳密になった。その結果、傾斜角度も大きく取れた。ピラミッドの建設技術の世界にも経験を活かしながら、技術革新(建設技術)が徐々に進んだ様子が、ありありと観察された。
                               上に戻る
おわりに

   現身(うつせみ)の義理を欠きながらのエジプト旅行だったが、過去のどの海外旅行や海外出張と比較しても、今回ほど心底から感動し、往時の関係者への畏敬の念を深く、深く心の奥底にまで刻み込まされた体験はなかった。
   
   ピラミッドやカルナック大神殿は鉄器時代以前に建設された。当時、建設に参加した労働者の恐らく大部分は文盲だったに違いない。しかも今日のような機械力は一切使えず、人間と動物等の自然力のみを駆使して、かくも壮大な建設事業を成し遂げた当時の人々の、溢れるばかりの情熱は一体何処から湧き出してきたのか、我が想像を絶する世界だ。

   何十年というスパンを要する壮大なる事業を計画し、何万人とも言われる未熟練労働者を組織化し、正確無比で完璧な大型石造建築工事を完成させた設計施行技術者の工事推進管理能力の高さには、感嘆の声を挙げざるを得ない。
   
   一人一人の能力はたといどんなに小さくとも、ほんのわずかな道具を駆使しながらでも、大勢の関係者の足並みを揃えさせ、一歩一歩着実に前進させながら、究極の目標をとうとう実現させてしまった彼らの功績に比べれば、バブル経済崩壊後の日本で、上は政府から下は国民の一人ひとり(勿論、私も典型的なその内の一人)に到るまでもが、未来の人類に自慢できるような成果が、揃いも揃ってかくも乏しいのは、一体何でだろうか?

   今までは、日本では得がたい非日常的な体験さえ味わえるならば、海外のどこであろうとも旅行対象として気軽に選んでいた。しかし今後は、文字通り『量よりも質!』へと、今回の旅を契機として海外旅行への取組方針を大変更した。たとい再発がんに侵され弱体化した肉体になろうとも、我が落ち込みつつある精神を感動の余りに天空へと高揚させてくれるような、究極の目的地のみを厳選することにしたのだ。
   
   それこそが私への、ナイル川に代わる古代エジプト人からの賜物(たまもの)だった。多重がんとの闘いに疲れ果て、感動することもすっかり忘れてしまっていた我が人生に、再び灯を点し、生き甲斐を復活させてくれた彼らに、深く感謝しながら拙い筆を措(お)く。
                               上に戻る
読後感

今は昼休みです。多忙でクタクタです。2/3日が報告書締め切りです。

   今回の旅行記は特別圧巻です。ピラミッドと同様に1万年に1つの傑作でしょう。出版すれば1万年もちます。パピルスに印刷すべきです。観光開発については同感。特に雑魚寝のリゾートホテルは最低。新幹線の5人がけも。しかし、貿易黒字で、物価が高く、国際観光資源の少ない日本では訪日観光客の増加は無理でしょう。

   オベロイはいいホテルですね。コロンボで泊りました。馬の馬糞に関しては、東照宮も英文ではTOSHOGU SHRINEです。名古屋→成田の接続便は不便でサービス悪いですね。ピラミッドの工程管理はすごいですね。アブシンベルまで行ったのですか?エンカルタ百科(注。インターネットで検索できる大型百科事典・有料)で勉強します。1時を過ぎました。
   
   @トヨタ同期・工&経・私大教授・海外出張先から


   旅行記を拝読していると、1976年と1982年のエジプト旅行が昨日の出来事のように脳裏をかすめました。次は・・・次はと文章に吸い込まれ現在のエジプト、又、歴史の知識、先人の偉大さを思い知らされ、己の小を実感 ・・・

   貴重な追憶記ありがとうございました。

   ところで、1982年家族でアスワンに行った時、ナセル湖の島にあるオベロイホテルに滞在しましたが、風貌は変わっていたでしょうか?

   オベロイホテルがナセル湖の中の島にあるというのは、本人の記憶違い。アスワンには1902年に竣工したアスワン・ダムと、その7.2Km上流で1971年に竣工したアスワン・ハイ・ダムとがあり、後者の上流のダム湖をナセル湖と称している。オベロイホテルは両ダム間にある川中島、エレファンティン島に建てられている。

   Aがん仲間・工・元愛知県工業高校校長
                  

   貴殿のエジプト紀行を楽しく読ませてもらうと同時に、貴殿の生きる執念に感心しました。
   
   普通大病をするとなかなか感受性も失せるものですが、貴殿の場合は全く逆で、益々物事に好奇心を持ち、感性を磨かれたようですね。貴殿のがん細胞はそのように働いたわけですね。すっかりエジプトフアンになられて、かつてこの地域を担当したものとしては嬉しく思います。

   エジプト出発前の家族模様は小説にも劣らぬ話ですね。それにしても貴殿の家族はみなさん立派な学校出た人たちで一杯ですね。と言う事は親である貴殿が立派ということですね。

   今後もどんどん旅をされて面白い紀行文をものにしてください。まだまだ寒い日が続きます、ご自愛のほどを。
   
   Bトヨタ先輩・工


その1

   何時もながらの石松さんの研究熱心さに、ただただ感服です。私にとっては未知の国エジプト、神秘のピラミッドへの知識が大きく前進しました。

   現地に溶け込み、海外旅行を楽しみ尽くせる類まれな石松さんのキャラも羨ましく、次の旅行記も期待しています。

その2

   石松さんの作成文章の査読は不要です。我々凡人は殆ど見直しすることなく、変換ミスや書き間違いを残したまま発信し、後でミスに気が付いて反省すること多々ですが、石松さんの長文はその100倍の分量なるも、限りなく皆無です。

   自分の書いた文章の誤りは読み直してもなかなか発見できないものですが、石松さんはよほど慎重に見直しされているのでしょう。良くミステリー小説を読みますが、プロの作家の文章にも朝日新聞にも度々誤字がみつかります。NHKなどテロップの誤字弁解はしょっちゅうですし・・・
   
C トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・今回初めて査読をお願いした方


   今回は折角写真付き旅行記を送っていただきながら開くことが出来ず、大容量のママで再送して頂くことになって大変ご迷惑をおかけしました。お陰で、半日を掛けてエジプトを再旅行させていただきました。もっとも、アレキサンドリア等私にとっての処女地も数カ所含まれてはいましたが・・・

   数日前、在職中に開発を指導していた台湾の会社から、独自開発の新製品に発生したトラブルの原因解明と対策の助言を求めたメールを貰いました。ところが、添付された損傷部品の写真数葉が圧縮処理されており、その解凍ソフトをロードしていないためにどうにもなりませんでした。

   該当ソフトをダウンロードしようと検索したのですが、失敗したままです。状況説明の文章から凡その原因は推定がつきましたので、返事を送ったのですが「写真を開けなかった」とは誠に頼り甲斐のない助言者でした。
   
   会社で使っていたパソコンには担当の部下が常にソフトを更新したり、通信用の圧縮・解凍以外にも便利な各種ソフトを、追加してくれていましたので何の不自由も感じませんでした。リタイア後、書店に山済みのパソコン専門誌等にはまったく目もくれず、横着にもハード購入時そのままで使ってきたのですが、どうにも不都合が生じることです。
   
   娘に零したら、面倒を見てくれるとは言わず、「オトーさん、自分がADSLで接続していると思って先方の迷惑も考えず、重い写真などを送っていないでしょうネ・・・」ときつく注意されました。ADSLモデムに接続してより、どんな容量でも受・送信が瞬時になり、何の気にもならなくて気軽に写真を添付していましたので”大反省”をしています。

   文中で、何時もながら活発に興味津々で貪欲に行動されていた御様子を伺うと、旅行中同行の皆さんはもとより、同室の元都庁職員氏も石松さんが1年前に手術をして、数ヶ月の大変な闘病を経験したご仁とは気がつかなかったことでしょうネ。ましてや、その半年前からご母堂を初め身近な方々を、次々と見送る不幸に見舞われていたとは知らなかったことでしょう。私達の年代は、今が丁度そんな不幸が身辺に巡ってくる時期になっているのでしょう。

   私も、自らスカイラインのハンドルを握り、埼玉で事業に勤しんでいた義姉が心筋梗塞で急逝したとの報を、暮れに受けとりました。信じられず、”青天の霹靂”とはまさにこのことかと、我が耳を疑ったのでした。つい先日は、同じ電車で大学に通った友人が実家の金谷から電話をくれ、「正月2日に父を亡くしたので、3〜7日に戻っている。久しぶりに会おうか・・・」と言うではありませんか。久しぶりではなく、半年前には愛妻を3年の闘病生活の末に見送り、郷里での納骨に立ち会ったばかりだったのでした。
   
   結婚式の司会をさせて貰ったお二人は、彼が30過ぎたところで周りから奨められて博士論文を纏めたとき、奥様が英文への翻訳を担当したという良きベターハーフ振りでした。三菱電機の技師長で定年を迎えて後、三菱系の2社へ技術顧問として週に4日の勤務をしている多忙な身で、奥様が不調を訴えての診断で多臓器癌が見つかったのでした。
   
   子宮だけは摘出したものの「あと半年」との診断を受け、手を取り合っての闘病で一時は「持ち直すか・・・」の期待も抱いたのだそうです。「白血球が正常値に近づいた”免疫療法”を早く試みるべきだった・・・」と悔いが残る様子でした。
   
   「不幸は踵を接してやってくる」、「死神は、訪れる時を選ばない」との西洋の諺が実感されたことですが、有能な彼を手放しそうもない2社に「せめて、勤務中は気が紛れるだろう」と感謝をしたことでした。

   ここ一年、会社から社員やOB数人の急逝を連絡されました。世話になった会長の通夜や葬儀には勿論出席しましたが、直接話を交わしたこともない人の葬儀には無礼をさせて貰いました。自分の時は、人知れず葬られれば良いと思っていますし、我々はもう浮世の義理からは離れ、自分が納得できる人生への仕上げの時に入っていると思います。それが石松さんの言われる”究極のエゴイスト”と私は思いません。

   それにしても、石松さんの旅行準備万端ぶりには恐れ入りました。私は仕事での海外出張時、手荷物は機内持ち込みが許される座席下に入るパイロット・ケースと、下着から替えスーツまでの一着分だけを衣紋掛けに着せたソフト・スーツケースだけで通しました。
   
   預けた荷物が出てくる時間が惜しいのに加え、空港に迎えに出てくれる先方を待たせたく無かったり、資料の入ったバッグが預けて出てこなくなったときの危険を避けてのことでした。
   
   重く嵩張る電気剃刀は持って行ったことがなく、髭剃りには安全かみそり一本でした。ホテルに着いたら直ぐその日に着たワイシャツを洗濯に出し、風呂に入ったときに下着や靴下類は、必ず洗濯してカーテンレールに吊していました。シンガポールの顧客経由で欧州に向かったときは困りました。翌朝になっても全く湿気が取れていず、バスタオルに巻いて絞ってからチェックアウト間際までドライヤーをあてる羽目になったことです。
   
   特別なものとしては、梅肉エキス1瓶とチューブ入りの蜂蜜でした。毎朝、通風対策で起き抜けにそれを水に溶かし、コップで2杯飲むのを日課にしていました。欧米の硬水でも、一度も体調を崩したことはありませんでした。
   
   リタイア後のツアー参加を始めてから、石松さんと同じようにハード・スーツケースにお茶ペットボトルの(大)を2〜3本詰めます。自分で持たなくても良くなると勝手なもので、何着もの着替えに加え、ビデオ・カメラや大型カメラから充電器一式までも詰めていきました。しかし、最近は石松さんと同じ理由でデジカメ一台だけです。

   それにしても、相部屋の元都庁職員氏のエピソードには「成る程・・・」と合点したことです。いかに質素に暮らしたとはいえ、高小卒でも都庁職員(公務員)は5,000万円を蓄えられる給与を得ていたのですネ。
   
   高校時代の友人の一人は東京の私大を出て都庁に勤め、ウオーター・フロントの高級マンション住まいです。職場結婚した奥さんとは、二人が定年を迎えた後は海外旅行三昧です。で、どうやら、毎回ビジネスクラスを使っているようで、溜った金の使い途に困っているようなのです。
   
   スペイン・ツアーに参加したおり、ブランド品で身を固めた一人参加のオールド嬢が良く話し掛けてき、問わず語りに大蔵省に勤めていたときのエピソードを「榊原さんの話は・・・」と言うのでした。食事のおり、出し抜けに「東大出ですか・・・」と聞いてくるので、それ以降は同席を遠慮することにしました。
   
   いずれにしても、公務員の皆さんは我々が就職した頃のイメージとは大違いの給与を得たようで、地元高校を出た中学の同級生が市役所の収入役になったと聞き、大きな家を建てたのには魂消(たまげ)ました。

   紹介されているお話のように、遠い旅先で思いもかけない人と出会うエピソードとは在るもののようですネ。我が家の愚妻と娘がイタリア観光でフレンツエを散策していた3年前、目の前のレストランから娘の高校時代に最も親しくしていた友人が、その主人と子供を伴って出てきたのだそうです。
   
   医師になった彼女は同じく医師の夫とバルセロナに住んでおり、当日はたまたま一家でフィレンツエに遊びに来ていたのだそうです。互いに、同じ頃にイタリアへ旅行することなどは知りもせず、ましてやフィレンツエのその通りを同時刻に歩くなど想像もしていなかったことです。一瞬、双方共に言葉もなく顔を見詰めあったそうですが、今でも「信じられなかった・・・」とその時を思い出して呆けた顔をします。

   とにかく、エジプトの遺跡からダム湖や風土まで、石松技師の鋭い観察ぶりと徹底した数値解析による独自の分析ぶりには恐れ入りました。私も技術者の端くれのつもりですが、クフ王のピラミッドの大回廊でこそ、その石の切り出し方法や積み方に興味を引かれたものの、カルナック神殿やアブシンベン神殿では唯々、驚き呆れていたばかりでした。
   
   欧州の歴史家は、メソポタミア文明と比較して後世への影響度でエジプトのそれを低く見るようです。社会制度の進み具合に対する見方かとも思いますが、私はギリシア文明やローマ帝国への影響度で劣るものではないと感じています。特に、西洋の石造建築物で構成された都市文明は、エジプトの巨石を征した建築技術がギリシャ・ローマの環地中海文明を経て引き継いだものと感じています。
   
   最近、毎年一冊ずつ買って積んであった塩野七生の”ローマ人の物語”を読み始めています。物語に出てくる地名の多くは訪れた場所となり、見た遺跡のイメージを膨らませながら楽しんでいます。そうすると、2,000年前も4,000年前も人の遣ってきたことには大して変わりがなく、これからも変わらないであろうと思われ、最近では古代エジプトからローマ時代までもが、つい先日の出来事だったように身近にも感じられるのです。

   これも、両親の生まれた明治時代などは想像も出来ないほど昔のことに思えた少年時代は遠く、時間を超越したあの世に通じる身に近づいたのかと、得心をしていることです。

石松技師の、新たな”・・・の追憶”を楽しみにしています。

   Dトヨタ先輩・工・何時も長文のメールをいただける方


その1
   
   期待していました,エジブト旅行記の”エジプトその1”を今日楽しく読みました。牛革製ハットの写真から,今までと変わらぬ精悍で元気な顔艶の先輩を拝見でき懐かしく思います。

   但し,私は先週の1/26(月)から風邪with熱をひいている為,後の”エジブトその2と3”の読書を楽しませて貰うのにはもう少し日数が必要となります。読後感を別途返信させて頂きます。

その2
   
   遅くなってスミマセン。 石松先輩のエジプト旅行記を通じ,壮大なる擬似エジプトの大ロマンの旅を楽しくさせて頂きました。
   
    愛知図書館で参考にした文献の内容を含めて(簡潔に取り上げる事が出来なかった
為、冗長になった所はバッサリ削除下さい。スミマセン)の読後感を返信します。

1. ピラミッドの底辺

   第13章[1][4]で述べられていたピラミッドの大きさは,長さの単位,キュービット( 52.4cm)を基本に設計製作した、と思われます。「ギーザのクフ王の大ピラミッドは,国王が側近の人々と話し合って、一辺の長さは 440キュービットに決められた」---古代エジプト生活誌/エブジェン・ストロウハル著/原書房。 これから計算すると,

A 屈折ピラミッド(ダハシュール)スネフル王188.6mは360キュービット*52.4=188.64m で一致する。

B 赤のピラミッド(ダハシュール)スネフル王220mは420キュービット*52.4=220.08mで
一致。

C 第一ピラミッド(ギーザ)フク王230mは440キュービット*52.4cm=230.56mでほぼ一
  致。誤差0.56mもあるが。
   
   それに対し,@DEに当てはめた10単位のキュービットとの誤差はそれぞれ1.48m,0.74m,1.54mとなり,これは少し大き過ぎる。10単位のキュービットで計画したが,これだけの誤差で出来上がってしまった、と推定します。(注。10キュービット単位で考えたのは良い着想でした。私は100単位で考えていたため、気付きませんでした!)

2.ピラミッドが造られる様になった背景

   「エジプトを初めて統一したのは伝説上のメネス王=第1王朝最古の王ナルメルorアハ王、という説があるが定かでない。エジプト統一の象徴として、南部出身のナルメル王が北部を軍事征服し、北部の王女であるネイトヘテブと婚姻することによって統一を磐石なものとした。

   ネイトヘテブのものと思われるマスタバ墓(箱形状の墓)は,上部構造に日乾レンガ製の外壁を持つ最古の墓である。初期王朝時代の王墓は,アビュドスやサッカーラに造営された日乾レンガ製のマスタバ墓であった。それが,古王国第3王朝2代目の王ネチェリケトの時に、初めて切石を使用した石造のマスタバ墓が計画された= 階段ピラミッド。両者の関連性が指摘されている。---細部省略」---エジプトの考古 学/近藤二郎著/同成社

   これらを辿って検討すると、ピラミッドが造られるようになった要因として、@エジプトで統一王朝を造ったナルメル王が統一の象徴として、婚姻したネイトヘテブ王女の為に日乾レンガ製のマスタバ墓を初めて造った。女性強しであった。Aナイル河両岸が大規模な石灰岩、花崗岩等の石脈に恵まれた自然環境であった。B象形文字の発達に象徴される、形として心を表現する意識の強かった民族であった。等々が挙げられます。その中でも真因はAだと推定します。

3. 豊田市での生活

   「都市は自然と人文環境との因果関係によって、ある特定の地域的性格を持つようになる。現在のエジプトは第三紀の4500万年前ごろまではテチス海に覆われていたが、第三紀末期ごろになると大陸プレートの造山運動の結果、地中海やエジプトが出現した。 550万年前ごろ気候変動や地裂運動によってエオ・ナイル(原始ナイル河)が出現したようだ。

   人類は約50万年前、ナイル河畔に最初の痕跡を印したといわれる。」---古代エジプト都市文明の誕生/古谷野晃著/古今書院

   その後、古代エジプト都市文明が誕生した訳であるが、これらの経過を鑑みながら、 現在住んでいる藤岡町を('05年には豊田市に併合)大ロマンのある都市に発展させて行くには、市民としてどうしたら良いか?を対比させて考えてみました。

   一つの提案として、 国家100年の計、1000年の計として、豊田市に冠婚葬祭ピラミッド⇒近代的ドイツ式ピラミッドを建設する、というのはどうでしょうか。それも労役はトヨタ関連企業をリタイアした人々のボランティアを使う。無駄金を極力使わなければ市民からの文句も少ない。(注。トヨタ関連企業のリタイア者という潜在的な選良意識が飛び出すようでは、国家1000年の計なる壮大な志の達成は難しいのでは?)

   豊田市は本年から田畑の賃貸を40アール(1200坪)から10アール(300坪)に縮小して(市の条例を改定)、増大するトヨタ関連企業リタイアの人達の便宜をはかる様です。私も豊田市民になったら、すぐにでも田畑を借りて、老後生活の楽しみと足しにしようと思っています。田畑開墾の合間に豊田市ピラミッド建設の石積みの役務・荷役には喜んで参加します。

   Eトヨタ後輩・工


   「エジプトの追憶」を受信、拝読しました。過去の訪問国のいずれよりも感動された由、大神殿・ピラミッド・ナイル川はいつの日か是非実物を見てみたい気になりました。それにつけても、寛解したとはいえ癌手術後の経過観察中で、身内に病状不安の高齢者を抱え、しかも治安不安定のイラン(イスラエル?)の隣国へ単身で旅するとは普通の人にはできない大冒険。度胸のすごさに感服。

   エゴイストと言われるが、日本人、特にサラリーマンは相手に配慮しすぎる為に何を考えているのか判り難く、差し障りのない付き合いしか出来ないような気がします。貴殿を見習いたいと思いますが、小心の私には出来そうにもありません。
   
   ともあれ、大変勉強になりました。お礼まで。
   
   Fトヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間
   

   有難うございました。大変、面白く読ませていただきました。本にしたらと思いますが、どうでしょうか。
   
   G食道がんの主治医


その1

   「エジプトの追憶」を受けとりました ゆっくり読ませていただきます。どうも有難うございました。
   
   ピラミッドを背景にした貴兄の写真を見て六本松(注。九大元教養部の所在地名)時代の「あんた・・・」と始まる石松さんの口癖を思い出しました。

その2

 読後感想です。 追憶シリーズもいよいよ佳境に入ってきたようですね。
 
   「持ち物の準備」が13項目にも及び、市販の旅行案内にはない側面を知ることが出来、これから旅行に出かけるときの参考になります。45カ国500ヶ所の経験をもとに「石松流、旅の心得」についてもいずれご披露願います。

   追憶シリーズに出てくる「旅の仲間」は旅行中の様子が想像され、楽しみのひとつです。今回の相部屋の仲間はそこらに見かける極一般的な高齢者の姿ではないでしょうか。彼の語る自分史は平凡な70余年の歩みでしょうが、その中には一人の日本人として子孫に伝えたいことがきっとあると思うのです。

   かつて貴兄は故郷への想いについて諸兄の意見を求めていましたが、小生には幸か不幸か現在まだ両親が健在であり、長男という立場もあり出生地、生育地とは、墓とはなどについて最近考えることが多くなってきました。しかし庶民の墓についてはさして意味がないように思います。
  
   近くの名刹「功山寺」は戦国大名毛利家の菩提寺であり、比較的立派な墓地があり瀬戸内海を見渡せる絶好の立地条件ですが、それでも、もはや誰も訪れるもののいない苔むし傾き哀れな姿となった墓石が多くあります。多分孫の世代になればもはや忘れ去られた存在となるのが普通の家だということです。
   
    話しは横道にそれましたが、要は墓を何十万円も出して造るならその金で子供、孫への贈り物として自分史を残すのが、庶民には最も相応しい遺産相続になるのではないでしょうか。

   上記の「功山寺」には「万骨塔」があり、その碑文には「功成レトモ名伴ハス寂然トシテ八方無名ノ士ヲ追慕シ・・・」とあるように、庶民と雖も一人の人間として歩んだ足跡を、後に続くものに自分史として渡していく価値はあると考えます。
 
   相部屋の方も思いをその方向に向ければ、5000万円も生きるのではないでしょうか。それにしても「それは何とか解決できるよ(詳細な体験談を記すのは割愛)」割愛とは残念。
(注。スポーツ仲間からも、口頭でこの件に関しての質問を受けてしまった。皆さん、まだ強い関心がおありのようで・・・)
 
   茶髪の衰退は博多在住の娘からも聞きました。流行、廃れは世の常とはいいながら奢れるものは久しからず、盛者必衰の理を表す、ですね。それにしても親から授かった大事な体に、勝手に手を加えることに嫌悪感を覚えるものの一人としては、やっと緑の黒髪を靡(なび)かせる乙女が復活するか、と思うと嬉しくなります。
  
   茶髪といえば耳や鼻に穴をあけピアスをぶら下げるファッションも、早く消えうせることを願っているのですがこちらはどうですかね。件の奥様に尋ねて貰えませんか。これは冗談です。『身体髪膚、之ヲ父母ニ受ク。敢ヘテ毀傷セザルハ孝ノ初メナリ』と昔から言われていますから、髪の毛一本、皮膚のひとひらと雖も、粗末にしては親に申し訳ないですから。

   嘗て、商談でロンドン滞在中、ロゼッタ・ストーンを大英博物館で見たときの感激は、今も忘れることが出来ません。「これが世界史の教科書にあったロゼッタ・ストーンか」と黒光りする石の塊の周りを幾度となく回り、飽くことがありませんでした。矢張り本物の迫力は文字で表現することは不可能です。 

   万事に博学な貴兄が今回エジプトを訪ね大きな感動を覚え、再び好奇心を掻き立て、エネルギッシュに世界を駆けめぐる機会になったことはご同慶の至りです。一昨日の新聞広告によると、かの吉村作治先生が引率されるエジプトツアが企画されているようですが、参加されたら先生と良い勝負ができるのでは?

   取留めのない事を書き連ねましたが、貴兄の旅行記を読ませて頂いたお礼に替えさせていただきます。有難うございました。お蔭様でエジプトの素晴らしさの一端を知ることが出来ました。

   H大学教養部・級友・工


お早うございます。

   いつもの長文の旅行記、感嘆しながら、いやむしろその気力に感心しながら読んでおります。今回のエジプト旅行記、その前後の始末記も含めて丁寧な考察と果断な実行力は、とてもがん経験者とは思えません。
   
   カイロには私も約38年前、DC-8 の航空機関士時代に一度給油のため着陸したことがあります。カラチからローマに行く途中でした。夜間でしたから外の景色は見えませんでしたが・・・

   ご家族のご紹介の中にありますご令嬢の夫君、加藤裕一郎氏はもしかしたら加藤寛一郎東大名誉教授のご子息(注。残念ながら、人違いです)ではありませんか。加藤先生とは、私も縁がありまして先生の退職記念旅行に、ご夫婦でアメリカにお出でになった際の帰りのロス・アンジェルスで、ご夕食を一緒にし、翌日の成田行きで私の便にご搭乗になり、巡航中操縦席でしばらく話をしました。今みたいに操縦席立ち入り禁止ではない時代です。
   
   その後、シリーズ「墜落」の出版記念会や、年毎の忘年会にはご夫婦でお出でになります。豪放磊落ながら、ユーモアのあるお話でいつも座の主役です。私は高校時代に一度は東大(航空学科)を目指していた時期があり、家庭の事情で進学はかないませんでしたが、実務で航空界に縁ができて、子供時代の夢を別の形で実現することができました。

   今日これから五反田にある NTT 東日本関東病院に入院します。5日に手術をする予定です。病名は脊柱管狭窄症、いわゆる腰痛です。入院期間は4週間、おそらく2月末まででしょう。病室にはノートパソコンを持ち込みますので、今まで通りのインターネット利用はできるでしょう。メールも同様です。

ではお元気で。

   I高校級友・元JAL機長


   旅行記ありがとう。ようやく読み終えました。いつかは行ってみたくなりました。神殿が2000年もかけて建造されているとのこと。エジプト王朝は何年続いたのですかね?小生の乏しい世界史の勉強では、エジプト時代など古代史はさっと過ぎ去っていったようで、想像力の限界を越えています。
   
   ダンスで目立ち、旅先で苗村さんに声をかけられたとのこと、どんな帽子にしたのですか?テニスでも被っておられるとのこと、機会があれば拝見したいものです。エジプトの魅力いっぱいの旅行記ありがとう。取り急ぎお礼まで。

Jトヨタ同期・経・元テニス仲間(今は横浜に転居)


   労作拝見。すばらしい旅行記ですね。観察力、洞察力、エネルギーに感心しました。
   
   いずれエジプトには行く予定ですので、市販の観光案内書よりも参考になります。ありがとうございました。
   
   Kトヨタ後輩・工・ゴルフ&テニス仲間


   60頁余の追憶記、大変なご努力と自信作であることはよく分かっており、それだけに一気に心して拝読せねばと構えていましたが、自堕落な生活をしていると纏まった時間が取れなくて、真に恥ずかしい次第。

   エジプト旅行が出来るまで色々悲しい出来事が集中してあり大変であった訳ですが、それを乗り越えて目的を達成された意思の強さにまたまた感心しました。そしてそれが、紹介された石松さんご一家の素晴らしい経歴にもつながっており、これからの益々のご繁栄が約束されたものだと感じ入った次第です。

   何時もの追憶記と同じに、今度も歴史・経済・人文地理・土木工学全ての分野にわたり、よく調べ記憶し考察されておるのにまたまた感心しました。素晴らしい頭脳ですね。そして今後の海外旅行は「量より質」とのこと、益々磨きがかかるでしょうからそれを楽しみにしています。
   
   エジプトは自分も行って見たい所の一つですが、石松さんのこの高度な記を見せていただくと、愚人旅行しか出来ない自分は内緒でこっそり行かなければ、という心境にもなります。
   
   凡人は凡人らしく生きるしかありませんが。今度はデジカメでかなり写されたとのこと、お暇な時に写真だけ少し送っていただけたら見たいですね。個人毎の要望にこたえるのは面倒でしょうが。
   
どうも有難うございました。

   Lトヨタ先輩・工・ゴルフ仲間
   

   長らくご無沙汰しています。当方、ぎっくり腰を10日程前にやってしまいましたが、今にして思うと、「体力アップ教室」のスクワットとかいう運動のやり過ぎのように思われます。しかし、やっと良くなってきました。
   
   さて、6万字を超すレポート、驚異的です。そのエネルギーに脱帽!!
   
   今、読み始めたところですが、まず1ページ目の、石松さんのお元気そうな写真を、懐かしく拝見させて戴きました。これから読み進めていきますが、兎に角、お元気でご活躍下さい。

   Mトヨタ同期・工・元テニス仲間


   詳細にわたる旅行記を送って頂きありがとうございました。一昨年末に私もエジプトへ行きほぼ同じコースを見てきていますので、懐かしく思いながら読みました。
   
   こんなに詳細な観察力は到底私には出来かねます。石松さんの理工学見地からの物の見方は勉強になります。このメールで一段と興味をそそられましたので、またエジプトに関する本を読みたいと思いました。近いうちに市図書館へ行って探してきます。
   
   寒い折健康に留意されお過ごしください。お礼まで。

   N荊妻の知人・企業コンサルタント
   

   ここ3,4日風邪をひきパソコンに向き合えず、やっと読み終えた。何時もの事ながら事細かく観察、物を良く覚えていることに感心させられた。事前に本で勉強してもいるだろうが、それにしても良くここまで書けるものだと、改めて脱帽。おそらく他の人も皆そう思っているに違いない。
   
   中でもテニス友達に背後から声をかけられたとは。。。地球も、、、、そんなに狭いのかと、これ又ビックリである。事の外、懐かしかったのではと思う。元気な内に楽しんだ旅行で良かったと思う。と同時に自分も自分の命を考える一つのキッカケにもなるかな?、、、、とも思うが、、。口だけのゴマかしか、なかなか実行が出来ない。

   O実兄


エジプト旅行記、大変面白く・興味深く読ませていただきました。

   今更ながら、石松さんの豊富な知識と探究心には感心した次第です。私もエジプトへ行ってみたくなりました。その時のためにメールをファイルに保存しておくことにしました。これからも楽しい旅行を続けていってください。
   
   なお、同室の人の話、そんなことまでしなくてもと思うと同時に、男も一人になるとその様なことを考えるのかと、なんとなく寂しくなりました。

   これからもよろしくお願いします。

   Pトヨタ後輩・経・ゴルフ&テニス仲間


その1

   エジプト紀行を読ませていただきました。相変わらずの凄い記憶力と深い工学的洞察に加え、ユーモラスなエピソードを交えた記述に魅了されました。未だエジプトには行った事がありませんが、自分が行っている様な錯覚すら覚えました。どうも有難うございました。

   蛇足ですが、ごく最近読んだ本の中に「なぜエジプト人はピラミッドを造ったか」という興味ある記述がありました。竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」清流出版刊で、著者は国土交通省OB、河川工学の専門家です。著者の仮説を箇条書きで要約しました。
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   貴重な読後感を賜り、書き甲斐があったと嬉しく感じました。有難うございました。
竹村氏の著書は存じませんが氏の主張には、無理が多すぎると思います。私の意見を書き込みました。

> 1.発見されている80基のピラミッド全てがナイル川の西岸にある事がその鍵。

   人は太陽が西に沈むことと、人の死を重ね合わせ、西方に死後の世界があると、多くの古代人が考えました。仏教も同じです。エジプト人は死後の世界をナイルの西側に求めたと考えられています。

> 2.ナイル川の東岸には山脈が連なっているが西岸は砂漠で、自然のままに放置しておくと洪水の度にナイル川は西方にどんどん移動してしまい、終には川が消えて無くなり、地中海までは水は届かなくなる。

   古代のナイル川には黄河のような流路の大きな変動は記録されていません。ナイルデルタ内では、多少の移動はありましたが。

   ナイル川が洪水のたびに西へ移動するとの論拠は全くありません。流れの変動には、力学の根本原理の一つ、『最小作用の原理』が働きます。その時、その時、最も流れ易い(熱力学的に言えば、エネルギーが最小で済む)方向に流れるだけです。

   なお、エジプトの地図を見れば議論するまでもなく一目瞭然ですが、ナイル川はナイルデルタ部を除けば、エジプト国内では幅10〜15Kmの峡谷(峡谷と言っても流れの勾配は極めて緩やか)を流れており、サハラ沙漠へ流路を変える事は不可能。ルクソールの西岸に位置する王家の谷もハトシェプスト女王の葬祭殿も背後には山が迫っています。

   エジプト国内の緑地は峡谷沿いの平地とナイルデルタ及びサハラ沙漠内のオアシスに限られている。ナイル峡谷の西側の台地に広がる広大なサハラ沙漠を灌漑で緑地化することさえ不可能です。

> 3.川の移動を防ぐ対策として西岸に堤防が必要であったが、千何百キロもの堤防を造る代わりに考えたのが「搦み(からみ)工法」であった。

   搦み(からみ)工法は最近、日本でも復活してきました。戦後の河川工事は洪水を一刻も早く海へと流すべく流路の直線化にひたすら走りましたが、洪水対策としては、拙劣だったとの反省があります。堤防が高速水流で抉り取られ決壊したからです。釧路川の一部は、元の流れ(蛇行)に戻そうとしています。

   堤防は両岸に必須のもの。東岸には堤防を作らず西岸だけに作った堤防に何の意味があるの?東岸は山脈で代用するのであれば、市街地は河原化!頭隠して尻隠さず以下の幼稚な論理?

> 4.搦み工法とは、日本でも1000年以上も前から行われているが、海や川の中に障害物を置くといろんな物が絡みつき土砂が周囲に堆積する。従って、ある間隔で障害物を設ければ周りに土砂が堆積してやがて堤防が出来上がる。

   障害物に土砂が絡まるとは言うものの、洪水時の最高水面よりも高くなる事は、原理的にあり得ませんね。土砂は河川の内側から堆積するため、最終的には実質的な川幅は狭まり、結局、洪水時に堤防が破壊しますね。

   日本の搦み(からみ)工法は河川の曲がり角に限定し、流速を落として、護岸するのが目的です。

   なお、搦み工法が目的ならば、ピラミッドの全表面をぴかぴかに磨いた化粧石で覆った意図の説明が出来ません。つるつるにすればするほど、土砂などが搦み難くなります。

   長江や黄河は壮大な堤防に、現在は一見守られているように見えるものの、河床に土砂がどんどん堆積し、一部は天井川になっています。結局堤防は更に高くせざるを得ませんが、永遠には続きませんね。時々決壊しています。その時、水は天井川には戻れず、流域は100日間も水没しています。

   欧州の大河川には堤防が殆どなく、水面は周辺の地面よりも低くて安全ですが、時々雪解け水で氾濫しています。しかし、本流の平常時の水面は地面よりも低いため、水は短期間に引きます。

   黄河や長江の水害対策は、上流部の禿山や沙漠の緑化対策抜きにはあり得ないと思っています。三峡ダムも無策のままでは、いずれダム湖も埋没し、大洪水と共に大惨事が発生することは不可避と思っています。

> 5.後年発見された全てのピラミッドは砂に埋まり、堆積土砂は見事に連続した堤防を形成していた。

   総てのピラミッドが砂に埋まったとの説は、大嘘です。ヘロドトスもナポレオンもギーザのピラミッドを見ています。クフ王のピラミッドさえ砂に埋もれたのであれば、ナイル西岸には高さ130m以上もの壮大な堤防が出来たことになります!アスワン・ハイ・ダム以上の高さですが、仮に一瞬の間、出来たとしても文字通り砂上の楼閣。

   大沙漠の中には砂丘が無数にあります(タクラマカン沙漠やオーストラリアの沙漠を飛行機で縦断中に見ました)が、高々30mです。しかも孤立しています。山脈のようには形成されていません。

   小さなピラミッドが、崩壊したり、一部が砂に埋もれたりしていますが、その面積はピラミッドの底面積の2倍以内でした。ピラミッドを繋いで堤防にするのであれば、ピラミッドの配置、間隔、高さ等に何らかの規則性が求められますが、そんなものは全くありません。

   堆積土砂が見事に連続して堤防を形成したなど、どこにも証拠はありません。飛行機の上から見ると、各ピラミッドはランダムに離散的に配置されていたし、ピラミッド間に堤防らしき痕跡は全くありませんでした。

   砂にうずもれたり、掘り出されたりした遺跡としては、ギーザのスフィンクスが有名ですが、もともとスフィンクスの設置場所の地面は、何故か周辺よりも低く、背丈も低いためでした。スフィンクスは周辺の地面と同一高さまで砂に埋没し、頭だけを出していました。

> 6.従ってピラミッドの建設は農民の失業対策ではなく、エジプト文明の存亡を懸けた大事業であった。 以上ですが現地をつぶさに観察して来られた貴殿のご見解は如何に? 2月9日

   『風が吹けば桶屋が儲かる』ほどの論理の展開も、『机上の空論』ほどの内容も、この本にはありませんね。
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その2

早速のご返事有難うございました。

   小生はエジプトやピラミッドの知識は全くありませんでしたので、貴殿に論破されれば成るほどそれもそうだな、と思う始末で話になりません。

   しかし、只々失業対策のためだけに1000年以上もの長い間、営々と意味の無い建設作業を続けられる程人間は単純ではなかろうと思います。矢張り何か国家の存亡を賭けたような大きな目的があったと解釈するのが自然でしょう。

   ピラミッドは何が目的だったのか、有力な説は未だ現れていませんね。2月11日
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   ピラミッドが何故作られたかの、万人を納得させる解釈はまだ出ていないがために、多くの人々に建設目的の解読の夢やロマンを与えているのだと思います。

私の勝手な解釈は次の通りです。

   人類は、猿人・原人(北京原人など)・旧人(ネアンデルタール人など)・新人(現代人 )へと進化してきました。少なくとも1万年前の新人と現在の人類との間に、先天的な知的潜在力の有意差はないと判断しています。

   一見、現代人の方が頭が良さそうに感じるのは、過去1万年間に解き明かされた知識の集積(後天的な能力)の差にあるからだと思います。

   アリストテレスに対して私は、科学知識では格段に上回ると自負していますが、知的創造能力では、足元にも及びません。

   動植物の一生は、生命誕生以来、生きながらえるための食料確保に終わっています。食料が確保できなくなった時、病気や捕食で死ぬ以外は、天寿ではなくて、餓死(枯死)しています。

   古代エジプト人にとって、一番の関心事は餓死の恐怖からの脱出だったと推定しています。そのような不安な日々に明け暮れている民衆の心を掴んだ者が、仲間の統率者として頭角を現し、最終的には国王になったと思います。

   勿論、国王が飢餓や周辺民族からの襲撃から民衆を守る努力と引き換えに税金を課したのは、互恵的な取引として誰もが納得したと思います。

   平和になると、国王の最大の任務、別の表現をすれば、国王の指示に民衆が納得して従う場を与える最良の方法は、飢餓からの不安の解消だったと思います。そのためのアイディアとして、ピラミッドの建設を誰かが思いついたと考えます。

   但し、飢餓からの脱出が保障されたとしても、それだけでは人は動かないと思います。誰にも判り易いこの大事業の意味付け、目的の説明は不可避だと思います。それには神なる国王の墓との説明も充分あり得たと思います。

   ただ、これも長続きはしませんでした。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい事業です。出来上がったピラミッドそれ自体からは、今でこそ観光収入をもたらしていますが、当時の民衆には何の収穫・利益も得られていません。

   その結果、考え出されたアイディアは神殿の建設、つまり国家統一・維持のための象徴の建設だったと思います。国王個人のためではなく、国民全体のための目標設定に切り替えたのだと思います。動物は飢餓からの脱出だけを考えていますが、人間は死後の安寧も求めました。そこから宗教が生まれたと思います。

   このような事情で創造された宗教も今日では曲がり角に来ていますね。最早、新しい巨大な宗教施設の建設はあり得ず、過去の設備の補修・更新のみに限定されてきました。

   少なくとも私には死後の世界には全く関心がありません。恐らく今後人類は、宗教を手段に使って壮大な事業を開始する事は無理と思います。

   古代エジプト人が残した最大の遺産、その後のどんな強大な国家も建設できなかった事業、その典型例がピラミッドとカルナック大神殿だと思っています。

   民主主義という現代の呪縛下では、古代エジプト時代を上回る壮大な無駄に繋がる建築土木工事は出来なくなりましたが、それに代るものはありますね。アポロ計画、宇宙開発、核融合開発・・・。しかし、これらとても、事業費/GNPで評価すると、古代エジプトの国家プロジェクトに比べれば、微々たる比率ですね。

   Q大学&トヨタ先輩・工


   エジプト旅行記楽しく拝見しました。偶然に同じ様な時期にエジプトを訪れまして、旅先でご一緒にもなりましただけになんだか、私の感想を極上の文章で表現して頂いた様な気持ちで、前編と後編とを一気に読みました。読後の感想をお送り致します。

   確かにエジプトは私が旅行しました数少ない遺跡の中で、美しさとスケールの大きさの点で素晴らしいと思いました。美の点では単純化されたフォルムが現代に劣らぬ美しさで迫り、時間が許せば時間を掛けてずっと眺めていたいものが沢山ありました。
   
   博物館の中に黄金のカウチ(注。ベッドの一種。王をミイラにする時に使った処置台)が3種ありましたが、その中のライオンのカウチ(注。ライオンの四足が処置台の脚。平面にした背中の上が処置をする場所)の後ろから眺めたお尻はとても官能的な造形でしたし、アラバスター(注。雪花石膏。彫刻用素材に使われる)製のカプノス容器(注。ミイラを作る過程で取り出された内臓を入れる容器)の4神のお顔は可憐に映りました。
   
   カルナック神殿の大列柱はずんぐりとしてなんとも美しく、おまけに浮き彫りが施され感嘆しました。アブシンベル小神殿入り口には大好きな象形文字が、深く刻まれ心地よく眺められました。
   
   まだまだありますが、省きまして、気の遠くなる様なはるかなる昔にこの様に美しくて、中には大きいものを造りだした古代の人達に比べて、現代は本当に進歩しているのかと、心底疑問に感じました。
   
   重くて大きくて古いカメラと補助のデジカメでエジプトを撮り、約4冊の写真集に纏めました。エジプトの遺跡は大きすぎて、出来の良い写真は少ないのですが、海外旅行の通例で忘れた頃に眺めるのを趣味にしております。
   
   今回の旅行で日本画の女性の画家とご一緒となり、その方に5時間のビデオテープを頂きました。石松様の旅行記と併せて忘れた頃に見たり読んだり眺めたりして楽しみます。素晴らしい旅行記に感謝。
   
Rトヨタ先輩・テニス仲間・何時もプレミアムエコノミークラス(ビジネスクラスとエコノミークラスの中間)で海外旅行をされる方


   エジプトその1やっと今読みました。「チャタレイ夫人の恋人」を昨日やっと読み終えましたので・・・。遅くなりましたが、やっと読みました、その2その3はウィルス付きで削除されています。
   
   その1だけで充分!よくもこれだけ書いたものです。貴台は自分史、自分が生きていた証!と言われるが・・・。これを喜んで読む人がそれ程多くいるでしょうか?
   
   文字、文章を追うだけで大変!わたしはメモをとりながら読みました。注意を惹く記述は、がんに罹って人生観が変わった、究極のエゴイストになった!がん寛解以降人生を積極的に生きようとする意欲が減退した!などです。
   
   第2章まで読みましたが、事実の羅列には読むのにほとほと草臥れました。健一さんのご結婚のこと、第2章旅行費用、事前勉強、持ち物の準備、旅の仲間など読みましたが、草臥れるの一言!貴台の努力は大したものですが、読む方は大抵のひとはもう勘弁!と言うのでは?

(蓼食う虫も好き好き)
   
   S大学級友・工・私小説(未完成)を書きかけている人


力作を拝読いたしました。

   これまでの豊富な海外経験や理系魂溢れるコメントが随所に挿入されており、”なるほど”とか”へー”とか感心しながら楽しく読ませて貰いました。それにしても、大手術・難治療を受けて未だ一年も過ぎぬ中のこのヴァイタリティは、凡人の到底真似の出来ぬところとそちらの方も敬服しております。
 
   エジプトへはリスク管理の面から時期を見てと考えておりましたが、治安がそんなに悪くないことを知りました。中部国際空港が来年2月に開港されることでもあり、そろそろ計画を具体化しても良いのかと思い始めております。
 
   今後 益々ご健勝にてご活躍され、数多くの旅行記を発信されることを祈念しております。

   21。トヨタ同期・工・読後感を必ず発信してくれる方


   石松さんの旅行記 久しぶりに読ませていただきました。石松さんらしい技術者の目からみた考察を興味深く読みました。
   
   エジプトにはまだ行ったことがありませんが、26年前、米国駐在時メキシコに旅行し、アステカ、ウジマル(?)、チチェンニツアなどのピラミッド、天文台の跡(?)などを見学したことを思い出しました。
   
   生贄を捧げたとか、近くの巨大な隕石の落ちた跡とみられる陥没地(池)など現地のガイドの説明だけで、旅行前後の勉強をしていませんでしたので、石松さんのようなしっかりした報告・考察はできませんが、我々が学校で学んだ歴史以外に人類の長い歴史と文化があることの、深い感銘をうけた思い出があります。
   
   メキシコの民族文化博物館などで多くの文化遺産・美術品などを見る機会もありました。石松さんは行かれたことがあるかどうか存じませんが(注。いずれ行きたい候補地の一つです)、ご紹介しておきます。

   ところで、芥川賞受賞2作品・選評を昨日読みました。「蹴りたい背中」の緻密な観察と文体には、小説家として将来の期待がもてると感じましたが、「蛇にピアス」は特異な体験からのもので、@小説とはこんなものなのかA19歳、20歳の若い女性作家の感性と自分とのあまりの違いB選者の判断基準のバラツキなど、色々な違和感を感じました。
   
   また、先日の、青色LED開発者への東京高裁の200億円の判決について、@裁判官と原告は経営を知らない、A被告である会社の報奨金2万円は時代遅れ、B多分、最高裁では大幅減額(同感。私の推定値は20億円)の判断が示されると思いますが、これも大変な違和感を感じるものでした。

   今、世間の関心はイラク、少子高齢化・年金、景気回復、情報化社会、色んな感染症などに向いていますが、悠久の歴史の流れの中で、人は何を学び、何を考えていくのか、石松さんの旅行記の末尾の深い感懐は、こうした心の奥の黙示的認識に根ざしているのか、タイムスリップによる時間差ショックなのか、個人の中の文明の激突か、あるいは、それらがからんだ葛藤なのか・・・・・・
   
   病気から回復され余裕がでてきたこと、そして事故にも遭わず元気に帰国されたことに、先ず祝杯をあげましょう。
   
   Bottoms up!(注。底まで飲む、転じて乾杯の意)
   
22。ゴルフ仲間・経
   

   相変わらずの力作に感動します。やっと今日読み終わりました。

   本文もさることながら、最後の機械力をいっさい使わずの項はまったく同感です。小生の仕事ではこのごろ機械の入らない現場がかなり出てきて「大昔はどうして作ったのか?」と調べる事が良くありますが、知恵は失われて悪い頭で珍案を考えることが良くあります。これが人間の歴史の必然でしょうか?

   なおベリーダンスを踊ったのであれば、貴殿の体力には問題がないように思います。お互い平均寿命まで元気で生きましょう。

   なにはともあれ、お礼まで。写真を2、3枚メールしてください。

23。大学級友・工


   当方 最近目がショボショボで老眼をはめても疲れやすく難儀しています。従って貴兄からの膨大な旅行記、全て印刷し時間をかけて興味深く拝読の途中です。

読書中途での感想

   旅行に際しての事前準備、情報収集等での用意周到さ、旺盛な探究心、几帳面さ、時に触れての自分の判断とその正鵠性、充実した内容の膨大な旅行記を纏め上げた根気、自分流の自己PR。

   記憶力が低下しかけ、根気のなくなった俺にはとても真似はできないなー、とただただ感服。でも、いろいろな事に興味を持ちプラス志向で、これからの人生を楽しく有意義にと考えています。

24。東筑高校同期・昨年リタイア・東海東筑会幹事を長年にわたり引受けてくれた方


その1

”エジプトの追憶”、さすが石松様の自信作です。圧巻です。再度読み直しております。

   死を意識した後の人生は、モノの見方、考え方はそれまでとは随分違ってくると言われましたが、体験者でなければ理解できない次元なのでしょね。感覚としてはわかる気がしますが、私などには今のところ煩悩が優先するだけで、、、修行が足りない自分を恥ずかしく思います。

その2

   舘山寺温泉(注。浜名湖にある温泉)でお会いしたのは3年前でしょうか?随分久しくお会いしていません。”エジプトの追憶”に載っている石松様の写真を拝見すると、当時より少し太られた感じがしますが。癌手術を受けられ、一時は体重も激変されたと窺っておりました。お写真からはお元気な様子が偲ばれ、嬉しく存じます。

   石松様が今回のエジプト旅行の最終章で語られている一節、”多重癌との闘いに疲れ果て、感動することもすっかり忘れてしまっていた我が人生に、再び灯を点し、、、、、、、、、”
たとい再発がんに侵され弱体化した肉体になろうとも、我が落ち込みつつある精神を感動の余りに天空へと高揚させてくれるような、、、、、、、”

   石松様の生き様の覚悟とも言うべき最終章の締めくくりは、読者にとって新たな勇気と生き甲斐を教示され、深く感銘を受けるものでございます。
   
25。中堅企業オーナー社長・財テク指南役


   いつもながらの、エネルギーにあふれた旅行記に感銘を受けます。

   今回は特にご自分の健康それに近親者のことで、よくぞこの旅行が出来たという思いでしょう。さらに初めの旅行社を選んでいたら事故にあったはず。そういうものからも一層このエジプト記にかける強い思いが伝わります。この様な条件は大変稀な、全てがよくぞ何とか行った、ということでしょうね。

   実は私はこれまで団体で、外国旅行を完全な形でしたことがありません。しかし、この旅行記を読んで、良い旅行社を選べば、団体旅行でも沢山の所に行くことが出来、良いものだなと感じます。お金と健康が有れば私もエジプト旅行をします。

(3月末には使い切れないほどの退職金、いざや世界へ・・・)

26。高校同期・工・千葉大学教授・まもなく定年


その1

   「エジプトの追憶」の読後感をお送りすることを以前にお約束しておりながら、なかなか果たせずにおりまして、申し訳なく存じます。

   実は大分前に「エジプトの追憶」を読み終えてはいたのですが、読書後の感想を書こうと思いながら、書けずにおりました。(昨年の夏から埼玉県で一人暮らしをしているお袋の具合が悪くなり、毎週介護に通っておりまして、途中の新幹線の車中でものを読む時間はあるのですが、書く時間が見付からずにおりました)(ご母堂様には、お健やかな日々であらせられるよう心から祈念申し上げます)

   読むに当っては第1章を一日で、また後半の第2から第14章までを3日間ほどで読み終えたのでした。それは、いつもながらの貴兄の「石松節」とでもいうのでしょうか、歯切れがよく、明快で、率直な語り口が余りに魅力的であったからです。
   
   その上、以前からご指摘させて頂いております科学的、工学的に一流域にある深みが加味された視点が素晴らしい旅行記、随筆となっているからです。現代の日本に於ける最高の知性と謳われております「加藤周一」さんに匹敵するのではないかとまで、私は考えているのですが、自らを隠し立てなく、気持ちをありのままに記述し、それが少なくとも文面から嫌味をほとんど感じさせない点では、世にその名を知られた方々を越えているのではないかと思っております。
   
   特に、癌という極めて辛い深刻な病気を克服し、まだそれほど経ていない時期に、こうしてエジプトへ旅行されたことが示す強靭な精神力の貴兄が、その闘病により一回りも二回りも精神面で大きくなられた視野が随所に感じられました。
   
   以前ですと、海外旅行に慣れない人、海外に出て引っ込み思案の人、歴史や地理文化に疎い人達に対する目が多少厳しいものがあったように思いますが、今回のツアーでは温かいものに変わってきているように思いました。感じたままを箇条書きさせて戴きます。

   @ まず、貴兄ほどに海外のさまざまな国々を出張で、あるいは旅行で見聞しておられる人は、まだまだそんなには居られないと思うのですが、そうした貴兄をしても「ルクソールのカルナック大神殿の壮大さには、声もでないほどの感動を覚えた」と言わしめたのですから、神殿やピラミッドやスフィンクスなどを擁したエジプトはよほど素晴らしいのでしょう。

   私自身全く足を踏み入れたこともありませんので、想像するしかありませんが、以前のいろいろの国々の貴兄の追憶を読ませて戴いていることから、貴兄をしてそこまで言わしめるのであるからには、途轍もない壮大さなのであろうと信じる気持ちになります。

   A 旅行に出掛ける前に「事前勉強」ということで図書館から沢山の本を借りてこられたけれど、結局今回は読まなかったと述べられておられます。但し、10年前にエジプトへの工場進出検討時エジプト関連の本を10冊くらい読まれたとのことですが、私が感心しますのは、10年も前に読んだ知識が訪ねる先々で迸り出てくることです。なんという記憶力と驚く他ありません。記憶力というより、身に付いているとしか思えません。

   さて、本日はもう大分夜も更けて参りましたので、この辺でキーを置かせて戴きます。また、続きを近いうちに書きますので、それまで暫く休憩させて下さい。

その2。

   B 世界一長い川はナイル川であるということは、ついぞ知らないままで過ごしてきてしまいました。仰られる如く、小学生の頃でしたか学んだまま、ミシシッピー川とばかり思っておりました。理科年表で見てみましたら、確かに貴兄の言われる通りのことが書いてありました。
   
   また、「サハラ」というのは「砂漠」という意味なのだということも知りませんでした。これについてガイドから聞いたときに、貴兄が全く動じることなく日本語の言語構造からして、別におかしなことではない。宗教の名称でも同じようなことがある、という説明には流石の博学ぶりと、切り返しの巧みさに感心した次第です。
   
   C British Airwaysの機内で隣席の英国人がウィスキーの銘柄を殆ど知らなかった、という話は面白いと思いましたが、関心がないことはまるで知ろうとしない、というのは世界どこへ行っても共通する現象のように思います。
   
   私なども「おまえ、それでも日本人かよ!」と言われるようなことが多々あるように思います。なにしろゴルフはまるでしたこともなく、ゴルフ用語もまるで知らないのですから、日本人でサラリーマンをしていたことがあるのか、と言われそうです。
   
   そういえば、以前仕事上で知り合ったドイツ人と話をした折りに、たまたま西ドイツの首都が第2次大戦後何故ベルリンからボンに移されたのか、という話になったことがありました。その人は知らないと言っていました。
   
   ドイツ人なら当然知っていると思ったのでしたが、そうでもなかったようです。私が「時の首相アデナウアーの自宅がボンにあったことから、ボンを首都にさせたと聞いたことがある」と言いましたら、妙に感心していたことを思い出しました。

   (注。インターネットから。アデナウアー(初代西ドイツ首相)は手記にこう書いている。「私が連邦首都としてボンを支持したのは、ボンが私の家があるレーンドルフに近いからだ、としばしば非難された。この非難はとても単純だと思った。ボンを選んだ決定的理由は、結局こうだった。

   イギリス占領軍は、もしボンが暫定的な連邦首都に選ばれるならば、ボンの領域をイギリス占領地区と軍事行政から外す用意がある、と声明した。アメリカ占領軍は、このような声明をフランクフルトに関しては行わなかった。そこには、たくさんのアメリカの諸組織や非常に重要な行政機関が置かれており、それは他の都市ではおよそ確保するのが困難なくらいの広さだったからだ」。

   1949年5月10日、基本法制定会議は、「ボンかフランクフルトか」を決める表決に入った。結果は33対29。わずか4 票差でボンが首都と決まった)

   D エジプトに於ける安全対策が相当厳しくなっている、とのことが記述されておりました。第5日目に行かれた「ルクソール神殿」で、確か1997年に原理主義者の乱射事件が発生し、日本人も犠牲になったことは未だ記憶に新しいのですが・・・
   
   当時トヨタでは欧州や中近東、アフリカ向けにある商用車を発売する寸前で、その名も「ルクソール」の予定だったのですが、あの事件のお陰で一時ラインを止め、商標の変更の為、車体の一部を変更せざるを得なくなったことは、貴兄も良くご存知のことであったかと思います。ルクソールと聞く度に、あの当時のことを思い出します。

   貴兄の精力的なそして驚くべき精密な記憶力により完成された「エジプトの追憶」の未だ一部までしか、感想を書いておりません。また暫くお時間を下さい。

その3。

   前回読後感(続)をお送りしてから、少し経ってしまいましたが、その続きを送らせて戴きます。

   E 歴史、地理、言語等々に一流の、そして技術者としてのセンスでは超一流の石松氏の本領が十分に発揮されているのは、まずピラミッドを実際に見ると直ちに、各段の石の高さは一定で、幅が異なり恐らくは奥行きも異なることを見抜いたことです。

   更には、圧巻なのはアスワン・ハイ・ダムを前にして平均流水量、有効落差、効率から年間発電量を計算するところです。また、ダムからの年間の水蒸発量を計算するとか、全くもってぼんやり大きさだけを感心して帰ってくるということがない、姿勢に感心してしまいます。
   
   また、「大いなる課題」として取り上げられた土砂堆積の問題には、大変感銘を受けました。こうした観点でダムについて考えたことがありませんでした。日本の各地の水力発電所でもいつかは貯水容量が減少し、発電量が不足して行く事態が起こり得ることを学びました。川の氾濫の問題にもいつかは直面することになるのですね。地震の発生に目が奪われて、こうした河川やダムの問題を忘れていることは恐ろしいことなのかも知れません。

   F 水といえば、以前出張でサウジアラビヤ等の中近東の国へ参りましたとき、ホテルの部屋の洗面所に、水を大切にするように、との注意書きがあったことを思い出します。水に少しばかり、海水の臭いがしました。海水を蒸留して得ていることが分かるものでした。
   
   原油の採掘により膨大な収入があるので、王族や自国民は随分と豪勢な生活をしている人も多いようでしたが、天然の水にだけは困っていたのでしょう。なにしろ、昼間は50度を越す暑さでしたから、水の乏しさと緑の少なさには参った記憶があります。とても長期間の滞在はできない、とそのとき思いました。
   
   「アラビアのロレンス」の映画で美しい砂漠(インターネットから。撮影場所はヨルダンのアカバから北東に30kmほど入ったワディ・ラムと呼ばれる赤い岩砂漠です。ここは地学的に言うとヌビア砂漠の一部で、古代の河床跡との事らしいです)を見たこともあり、想像していたところが、実際にはそんな場所は殆どなく、私の移動した場所の大部分は薄茶色の土漠か、塩が浮き出た砂漠で美しさを感じませんでした。
   
   日本人のように冬といえどもかなりの緑を目にできる環境に住んでおりますと、緑の殆どない場所では身体が拒否反応を起こすのではないかと、そのとき思ったものでしたが、貴兄は如何でしたか。(私は、植物の葉や花、池や川などの美しい水、温泉には、強い癒し効果があると信じています)
   
   夏場でなかったこと、エジプトではアラビヤ半島の国と少し自然環境も異なることから、私のような感じ方はなかったかも知れません。いや、それよりも環境に順応する個人差の方が大きいかも知れませんが。

   G そういえば、オマーンに行きましたとき、現地の人から聞いた話ですが、いくら現地の人でも猛烈な暑さには参るとのことで(尤も我々よりも格段に耐力はありますが)、あるときホテルでエレベータに乗っていたとき、停電になって外へ出られなくなったそうです。
   
   勿論クーラーも止まってしまったために、エレベータ内の温度はどんどん上昇してゆき多分60度以上になったのでしょうが、数時間後復旧して助け出されたとき、流石の現地の人も倒れて動けない状態だったそうです。
   
   そこで、言われたのは間違っても、日本人などが留置所に入れられるようなことがあってはいけない(交通事故などで)、数日後に出されても生きていないかも知れないから、ということでした。
   
   ああいうところは、現地の人たちでも相当に暑さで参るそうです。そういえば、ホテルの屋外にプールがありましたので、プールの水がどのくらいの温度か試してみようと、裸足になってプールの周りのコンクリートに足を置いたとたんに、余りの暑さで飛び跳ねてしまい、水に到達できませんでした。私には貴兄のような機知に富んだ瞬間の対応はできず、そのまま室内に戻ってきてしまったことを思い出します。

27。トヨタ後輩・工・何時も貴重な読後感をいただける方・しかし、残念ながらまだお会いしたこともない方


   さて、全文を通読させていただいての感想ですが、いつものことながら事前の勉強と現地で見て感じられたこと、考察等が緻密に書き尽くされていることを強く感じました。構造物の素材、寸法、製作方法にいたるまで「現役の建築家でもここまでは…」と感じるほど掘り下げた記載にただただ驚きを禁じえません。

   具体的に例を挙げるにもその数が多すぎて出来かねます。そんな中で私が若干疑問に感じたことを2,3だけ記載させていただきます。余りにも些細なことであり、的外れかもしれませんが。

   第1章の終わり近くで「大きな仏像の前で15名余りの住職が色んな祈祷をしていた」とある“住職”は“僧侶”が適当でないか。住職とは寺の長のことをいい、15の寺から出席されているそれぞれの長ということならそれでよいと思います。

   ジーパンなど多くの商品が非常に安価に売られていることを「中国人の努力の結晶」という表現で何度か書かれているけれど、日本に比べたらバカ安である人件費のおかげではないか。

   第13章の冒頭部分[1]の第2段落目「長方形の鏡餅を積み重ねたような」の鏡餅は切り餅ではないか。鏡餅は丸く平たい大小の餅を重ねたもの。

   なお、今回初めて写真を入れていただいたけれど、文章全体のサイズが膨大になるということで詳しい解説を補足すべき写真がほとんどない。私のように想像力の衰えた老人には詳しく書かれるほど混乱するのみ。

   そこでぜひお勧めしたいのが超縮というjpgの発展形の画像形式です。1980円のソフトで加工することによって1/10に圧縮してもさほど画質が低下せず、送信先の方がそのソフトを持たなくても自動的に復元できるそうです。私は持っていますがまだほとんど使っていません。
   
28.トヨタ先輩・工
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