今は昼休みです。多忙でクタクタです。2/3日が報告書締め切りです。
今回の旅行記は特別圧巻です。ピラミッドと同様に1万年に1つの傑作でしょう。出版すれば1万年もちます。パピルスに印刷すべきです。観光開発については同感。特に雑魚寝のリゾートホテルは最低。新幹線の5人がけも。しかし、貿易黒字で、物価が高く、国際観光資源の少ない日本では訪日観光客の増加は無理でしょう。
オベロイはいいホテルですね。コロンボで泊りました。馬の馬糞に関しては、東照宮も英文ではTOSHOGU SHRINEです。名古屋→成田の接続便は不便でサービス悪いですね。ピラミッドの工程管理はすごいですね。アブシンベルまで行ったのですか?エンカルタ百科(注。インターネットで検索できる大型百科事典・有料)で勉強します。1時を過ぎました。
@トヨタ同期・工&経・私大教授・海外出張先から
旅行記を拝読していると、1976年と1982年のエジプト旅行が昨日の出来事のように脳裏をかすめました。次は・・・次はと文章に吸い込まれ現在のエジプト、又、歴史の知識、先人の偉大さを思い知らされ、己の小を実感 ・・・
貴重な追憶記ありがとうございました。
ところで、1982年家族でアスワンに行った時、ナセル湖の島にあるオベロイホテルに滞在しましたが、風貌は変わっていたでしょうか?
オベロイホテルがナセル湖の中の島にあるというのは、本人の記憶違い。アスワンには1902年に竣工したアスワン・ダムと、その7.2Km上流で1971年に竣工したアスワン・ハイ・ダムとがあり、後者の上流のダム湖をナセル湖と称している。オベロイホテルは両ダム間にある川中島、エレファンティン島に建てられている。
Aがん仲間・工・元愛知県工業高校校長
貴殿のエジプト紀行を楽しく読ませてもらうと同時に、貴殿の生きる執念に感心しました。
普通大病をするとなかなか感受性も失せるものですが、貴殿の場合は全く逆で、益々物事に好奇心を持ち、感性を磨かれたようですね。貴殿のがん細胞はそのように働いたわけですね。すっかりエジプトフアンになられて、かつてこの地域を担当したものとしては嬉しく思います。
エジプト出発前の家族模様は小説にも劣らぬ話ですね。それにしても貴殿の家族はみなさん立派な学校出た人たちで一杯ですね。と言う事は親である貴殿が立派ということですね。
今後もどんどん旅をされて面白い紀行文をものにしてください。まだまだ寒い日が続きます、ご自愛のほどを。
Bトヨタ先輩・工
その1
何時もながらの石松さんの研究熱心さに、ただただ感服です。私にとっては未知の国エジプト、神秘のピラミッドへの知識が大きく前進しました。
現地に溶け込み、海外旅行を楽しみ尽くせる類まれな石松さんのキャラも羨ましく、次の旅行記も期待しています。
その2
石松さんの作成文章の査読は不要です。我々凡人は殆ど見直しすることなく、変換ミスや書き間違いを残したまま発信し、後でミスに気が付いて反省すること多々ですが、石松さんの長文はその100倍の分量なるも、限りなく皆無です。
自分の書いた文章の誤りは読み直してもなかなか発見できないものですが、石松さんはよほど慎重に見直しされているのでしょう。良くミステリー小説を読みますが、プロの作家の文章にも朝日新聞にも度々誤字がみつかります。NHKなどテロップの誤字弁解はしょっちゅうですし・・・
C トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・今回初めて査読をお願いした方
今回は折角写真付き旅行記を送っていただきながら開くことが出来ず、大容量のママで再送して頂くことになって大変ご迷惑をおかけしました。お陰で、半日を掛けてエジプトを再旅行させていただきました。もっとも、アレキサンドリア等私にとっての処女地も数カ所含まれてはいましたが・・・
数日前、在職中に開発を指導していた台湾の会社から、独自開発の新製品に発生したトラブルの原因解明と対策の助言を求めたメールを貰いました。ところが、添付された損傷部品の写真数葉が圧縮処理されており、その解凍ソフトをロードしていないためにどうにもなりませんでした。
該当ソフトをダウンロードしようと検索したのですが、失敗したままです。状況説明の文章から凡その原因は推定がつきましたので、返事を送ったのですが「写真を開けなかった」とは誠に頼り甲斐のない助言者でした。
会社で使っていたパソコンには担当の部下が常にソフトを更新したり、通信用の圧縮・解凍以外にも便利な各種ソフトを、追加してくれていましたので何の不自由も感じませんでした。リタイア後、書店に山済みのパソコン専門誌等にはまったく目もくれず、横着にもハード購入時そのままで使ってきたのですが、どうにも不都合が生じることです。
娘に零したら、面倒を見てくれるとは言わず、「オトーさん、自分がADSLで接続していると思って先方の迷惑も考えず、重い写真などを送っていないでしょうネ・・・」ときつく注意されました。ADSLモデムに接続してより、どんな容量でも受・送信が瞬時になり、何の気にもならなくて気軽に写真を添付していましたので”大反省”をしています。
文中で、何時もながら活発に興味津々で貪欲に行動されていた御様子を伺うと、旅行中同行の皆さんはもとより、同室の元都庁職員氏も石松さんが1年前に手術をして、数ヶ月の大変な闘病を経験したご仁とは気がつかなかったことでしょうネ。ましてや、その半年前からご母堂を初め身近な方々を、次々と見送る不幸に見舞われていたとは知らなかったことでしょう。私達の年代は、今が丁度そんな不幸が身辺に巡ってくる時期になっているのでしょう。
私も、自らスカイラインのハンドルを握り、埼玉で事業に勤しんでいた義姉が心筋梗塞で急逝したとの報を、暮れに受けとりました。信じられず、”青天の霹靂”とはまさにこのことかと、我が耳を疑ったのでした。つい先日は、同じ電車で大学に通った友人が実家の金谷から電話をくれ、「正月2日に父を亡くしたので、3〜7日に戻っている。久しぶりに会おうか・・・」と言うではありませんか。久しぶりではなく、半年前には愛妻を3年の闘病生活の末に見送り、郷里での納骨に立ち会ったばかりだったのでした。
結婚式の司会をさせて貰ったお二人は、彼が30過ぎたところで周りから奨められて博士論文を纏めたとき、奥様が英文への翻訳を担当したという良きベターハーフ振りでした。三菱電機の技師長で定年を迎えて後、三菱系の2社へ技術顧問として週に4日の勤務をしている多忙な身で、奥様が不調を訴えての診断で多臓器癌が見つかったのでした。
子宮だけは摘出したものの「あと半年」との診断を受け、手を取り合っての闘病で一時は「持ち直すか・・・」の期待も抱いたのだそうです。「白血球が正常値に近づいた”免疫療法”を早く試みるべきだった・・・」と悔いが残る様子でした。
「不幸は踵を接してやってくる」、「死神は、訪れる時を選ばない」との西洋の諺が実感されたことですが、有能な彼を手放しそうもない2社に「せめて、勤務中は気が紛れるだろう」と感謝をしたことでした。
ここ一年、会社から社員やOB数人の急逝を連絡されました。世話になった会長の通夜や葬儀には勿論出席しましたが、直接話を交わしたこともない人の葬儀には無礼をさせて貰いました。自分の時は、人知れず葬られれば良いと思っていますし、我々はもう浮世の義理からは離れ、自分が納得できる人生への仕上げの時に入っていると思います。それが石松さんの言われる”究極のエゴイスト”と私は思いません。
それにしても、石松さんの旅行準備万端ぶりには恐れ入りました。私は仕事での海外出張時、手荷物は機内持ち込みが許される座席下に入るパイロット・ケースと、下着から替えスーツまでの一着分だけを衣紋掛けに着せたソフト・スーツケースだけで通しました。
預けた荷物が出てくる時間が惜しいのに加え、空港に迎えに出てくれる先方を待たせたく無かったり、資料の入ったバッグが預けて出てこなくなったときの危険を避けてのことでした。
重く嵩張る電気剃刀は持って行ったことがなく、髭剃りには安全かみそり一本でした。ホテルに着いたら直ぐその日に着たワイシャツを洗濯に出し、風呂に入ったときに下着や靴下類は、必ず洗濯してカーテンレールに吊していました。シンガポールの顧客経由で欧州に向かったときは困りました。翌朝になっても全く湿気が取れていず、バスタオルに巻いて絞ってからチェックアウト間際までドライヤーをあてる羽目になったことです。
特別なものとしては、梅肉エキス1瓶とチューブ入りの蜂蜜でした。毎朝、通風対策で起き抜けにそれを水に溶かし、コップで2杯飲むのを日課にしていました。欧米の硬水でも、一度も体調を崩したことはありませんでした。
リタイア後のツアー参加を始めてから、石松さんと同じようにハード・スーツケースにお茶ペットボトルの(大)を2〜3本詰めます。自分で持たなくても良くなると勝手なもので、何着もの着替えに加え、ビデオ・カメラや大型カメラから充電器一式までも詰めていきました。しかし、最近は石松さんと同じ理由でデジカメ一台だけです。
それにしても、相部屋の元都庁職員氏のエピソードには「成る程・・・」と合点したことです。いかに質素に暮らしたとはいえ、高小卒でも都庁職員(公務員)は5,000万円を蓄えられる給与を得ていたのですネ。
高校時代の友人の一人は東京の私大を出て都庁に勤め、ウオーター・フロントの高級マンション住まいです。職場結婚した奥さんとは、二人が定年を迎えた後は海外旅行三昧です。で、どうやら、毎回ビジネスクラスを使っているようで、溜った金の使い途に困っているようなのです。
スペイン・ツアーに参加したおり、ブランド品で身を固めた一人参加のオールド嬢が良く話し掛けてき、問わず語りに大蔵省に勤めていたときのエピソードを「榊原さんの話は・・・」と言うのでした。食事のおり、出し抜けに「東大出ですか・・・」と聞いてくるので、それ以降は同席を遠慮することにしました。
いずれにしても、公務員の皆さんは我々が就職した頃のイメージとは大違いの給与を得たようで、地元高校を出た中学の同級生が市役所の収入役になったと聞き、大きな家を建てたのには魂消(たまげ)ました。
紹介されているお話のように、遠い旅先で思いもかけない人と出会うエピソードとは在るもののようですネ。我が家の愚妻と娘がイタリア観光でフレンツエを散策していた3年前、目の前のレストランから娘の高校時代に最も親しくしていた友人が、その主人と子供を伴って出てきたのだそうです。
医師になった彼女は同じく医師の夫とバルセロナに住んでおり、当日はたまたま一家でフィレンツエに遊びに来ていたのだそうです。互いに、同じ頃にイタリアへ旅行することなどは知りもせず、ましてやフィレンツエのその通りを同時刻に歩くなど想像もしていなかったことです。一瞬、双方共に言葉もなく顔を見詰めあったそうですが、今でも「信じられなかった・・・」とその時を思い出して呆けた顔をします。
とにかく、エジプトの遺跡からダム湖や風土まで、石松技師の鋭い観察ぶりと徹底した数値解析による独自の分析ぶりには恐れ入りました。私も技術者の端くれのつもりですが、クフ王のピラミッドの大回廊でこそ、その石の切り出し方法や積み方に興味を引かれたものの、カルナック神殿やアブシンベン神殿では唯々、驚き呆れていたばかりでした。
欧州の歴史家は、メソポタミア文明と比較して後世への影響度でエジプトのそれを低く見るようです。社会制度の進み具合に対する見方かとも思いますが、私はギリシア文明やローマ帝国への影響度で劣るものではないと感じています。特に、西洋の石造建築物で構成された都市文明は、エジプトの巨石を征した建築技術がギリシャ・ローマの環地中海文明を経て引き継いだものと感じています。
最近、毎年一冊ずつ買って積んであった塩野七生の”ローマ人の物語”を読み始めています。物語に出てくる地名の多くは訪れた場所となり、見た遺跡のイメージを膨らませながら楽しんでいます。そうすると、2,000年前も4,000年前も人の遣ってきたことには大して変わりがなく、これからも変わらないであろうと思われ、最近では古代エジプトからローマ時代までもが、つい先日の出来事だったように身近にも感じられるのです。
これも、両親の生まれた明治時代などは想像も出来ないほど昔のことに思えた少年時代は遠く、時間を超越したあの世に通じる身に近づいたのかと、得心をしていることです。
石松技師の、新たな”・・・の追憶”を楽しみにしています。
Dトヨタ先輩・工・何時も長文のメールをいただける方
その1
期待していました,エジブト旅行記の”エジプトその1”を今日楽しく読みました。牛革製ハットの写真から,今までと変わらぬ精悍で元気な顔艶の先輩を拝見でき懐かしく思います。
但し,私は先週の1/26(月)から風邪with熱をひいている為,後の”エジブトその2と3”の読書を楽しませて貰うのにはもう少し日数が必要となります。読後感を別途返信させて頂きます。
その2
遅くなってスミマセン。 石松先輩のエジプト旅行記を通じ,壮大なる擬似エジプトの大ロマンの旅を楽しくさせて頂きました。
愛知図書館で参考にした文献の内容を含めて(簡潔に取り上げる事が出来なかった
為、冗長になった所はバッサリ削除下さい。スミマセン)の読後感を返信します。
1. ピラミッドの底辺
第13章[1][4]で述べられていたピラミッドの大きさは,長さの単位,キュービット( 52.4cm)を基本に設計製作した、と思われます。「ギーザのクフ王の大ピラミッドは,国王が側近の人々と話し合って、一辺の長さは 440キュービットに決められた」---古代エジプト生活誌/エブジェン・ストロウハル著/原書房。 これから計算すると,
A 屈折ピラミッド(ダハシュール)スネフル王188.6mは360キュービット*52.4=188.64m で一致する。
B 赤のピラミッド(ダハシュール)スネフル王220mは420キュービット*52.4=220.08mで
一致。
C 第一ピラミッド(ギーザ)フク王230mは440キュービット*52.4cm=230.56mでほぼ一
致。誤差0.56mもあるが。
それに対し,@DEに当てはめた10単位のキュービットとの誤差はそれぞれ1.48m,0.74m,1.54mとなり,これは少し大き過ぎる。10単位のキュービットで計画したが,これだけの誤差で出来上がってしまった、と推定します。(注。10キュービット単位で考えたのは良い着想でした。私は100単位で考えていたため、気付きませんでした!)
2.ピラミッドが造られる様になった背景
「エジプトを初めて統一したのは伝説上のメネス王=第1王朝最古の王ナルメルorアハ王、という説があるが定かでない。エジプト統一の象徴として、南部出身のナルメル王が北部を軍事征服し、北部の王女であるネイトヘテブと婚姻することによって統一を磐石なものとした。
ネイトヘテブのものと思われるマスタバ墓(箱形状の墓)は,上部構造に日乾レンガ製の外壁を持つ最古の墓である。初期王朝時代の王墓は,アビュドスやサッカーラに造営された日乾レンガ製のマスタバ墓であった。それが,古王国第3王朝2代目の王ネチェリケトの時に、初めて切石を使用した石造のマスタバ墓が計画された= 階段ピラミッド。両者の関連性が指摘されている。---細部省略」---エジプトの考古 学/近藤二郎著/同成社
これらを辿って検討すると、ピラミッドが造られるようになった要因として、@エジプトで統一王朝を造ったナルメル王が統一の象徴として、婚姻したネイトヘテブ王女の為に日乾レンガ製のマスタバ墓を初めて造った。女性強しであった。Aナイル河両岸が大規模な石灰岩、花崗岩等の石脈に恵まれた自然環境であった。B象形文字の発達に象徴される、形として心を表現する意識の強かった民族であった。等々が挙げられます。その中でも真因はAだと推定します。
3. 豊田市での生活
「都市は自然と人文環境との因果関係によって、ある特定の地域的性格を持つようになる。現在のエジプトは第三紀の4500万年前ごろまではテチス海に覆われていたが、第三紀末期ごろになると大陸プレートの造山運動の結果、地中海やエジプトが出現した。 550万年前ごろ気候変動や地裂運動によってエオ・ナイル(原始ナイル河)が出現したようだ。
人類は約50万年前、ナイル河畔に最初の痕跡を印したといわれる。」---古代エジプト都市文明の誕生/古谷野晃著/古今書院
その後、古代エジプト都市文明が誕生した訳であるが、これらの経過を鑑みながら、 現在住んでいる藤岡町を('05年には豊田市に併合)大ロマンのある都市に発展させて行くには、市民としてどうしたら良いか?を対比させて考えてみました。
一つの提案として、 国家100年の計、1000年の計として、豊田市に冠婚葬祭ピラミッド⇒近代的ドイツ式ピラミッドを建設する、というのはどうでしょうか。それも労役はトヨタ関連企業をリタイアした人々のボランティアを使う。無駄金を極力使わなければ市民からの文句も少ない。(注。トヨタ関連企業のリタイア者という潜在的な選良意識が飛び出すようでは、国家1000年の計なる壮大な志の達成は難しいのでは?)
豊田市は本年から田畑の賃貸を40アール(1200坪)から10アール(300坪)に縮小して(市の条例を改定)、増大するトヨタ関連企業リタイアの人達の便宜をはかる様です。私も豊田市民になったら、すぐにでも田畑を借りて、老後生活の楽しみと足しにしようと思っています。田畑開墾の合間に豊田市ピラミッド建設の石積みの役務・荷役には喜んで参加します。
Eトヨタ後輩・工
「エジプトの追憶」を受信、拝読しました。過去の訪問国のいずれよりも感動された由、大神殿・ピラミッド・ナイル川はいつの日か是非実物を見てみたい気になりました。それにつけても、寛解したとはいえ癌手術後の経過観察中で、身内に病状不安の高齢者を抱え、しかも治安不安定のイラン(イスラエル?)の隣国へ単身で旅するとは普通の人にはできない大冒険。度胸のすごさに感服。
エゴイストと言われるが、日本人、特にサラリーマンは相手に配慮しすぎる為に何を考えているのか判り難く、差し障りのない付き合いしか出来ないような気がします。貴殿を見習いたいと思いますが、小心の私には出来そうにもありません。
ともあれ、大変勉強になりました。お礼まで。
Fトヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間
有難うございました。大変、面白く読ませていただきました。本にしたらと思いますが、どうでしょうか。
G食道がんの主治医
その1
「エジプトの追憶」を受けとりました ゆっくり読ませていただきます。どうも有難うございました。
ピラミッドを背景にした貴兄の写真を見て六本松(注。九大元教養部の所在地名)時代の「あんた・・・」と始まる石松さんの口癖を思い出しました。
その2
読後感想です。 追憶シリーズもいよいよ佳境に入ってきたようですね。
「持ち物の準備」が13項目にも及び、市販の旅行案内にはない側面を知ることが出来、これから旅行に出かけるときの参考になります。45カ国500ヶ所の経験をもとに「石松流、旅の心得」についてもいずれご披露願います。
追憶シリーズに出てくる「旅の仲間」は旅行中の様子が想像され、楽しみのひとつです。今回の相部屋の仲間はそこらに見かける極一般的な高齢者の姿ではないでしょうか。彼の語る自分史は平凡な70余年の歩みでしょうが、その中には一人の日本人として子孫に伝えたいことがきっとあると思うのです。
かつて貴兄は故郷への想いについて諸兄の意見を求めていましたが、小生には幸か不幸か現在まだ両親が健在であり、長男という立場もあり出生地、生育地とは、墓とはなどについて最近考えることが多くなってきました。しかし庶民の墓についてはさして意味がないように思います。
近くの名刹「功山寺」は戦国大名毛利家の菩提寺であり、比較的立派な墓地があり瀬戸内海を見渡せる絶好の立地条件ですが、それでも、もはや誰も訪れるもののいない苔むし傾き哀れな姿となった墓石が多くあります。多分孫の世代になればもはや忘れ去られた存在となるのが普通の家だということです。
話しは横道にそれましたが、要は墓を何十万円も出して造るならその金で子供、孫への贈り物として自分史を残すのが、庶民には最も相応しい遺産相続になるのではないでしょうか。
上記の「功山寺」には「万骨塔」があり、その碑文には「功成レトモ名伴ハス寂然トシテ八方無名ノ士ヲ追慕シ・・・」とあるように、庶民と雖も一人の人間として歩んだ足跡を、後に続くものに自分史として渡していく価値はあると考えます。
相部屋の方も思いをその方向に向ければ、5000万円も生きるのではないでしょうか。それにしても「それは何とか解決できるよ(詳細な体験談を記すのは割愛)」割愛とは残念。
(注。スポーツ仲間からも、口頭でこの件に関しての質問を受けてしまった。皆さん、まだ強い関心がおありのようで・・・)
茶髪の衰退は博多在住の娘からも聞きました。流行、廃れは世の常とはいいながら奢れるものは久しからず、盛者必衰の理を表す、ですね。それにしても親から授かった大事な体に、勝手に手を加えることに嫌悪感を覚えるものの一人としては、やっと緑の黒髪を靡(なび)かせる乙女が復活するか、と思うと嬉しくなります。
茶髪といえば耳や鼻に穴をあけピアスをぶら下げるファッションも、早く消えうせることを願っているのですがこちらはどうですかね。件の奥様に尋ねて貰えませんか。これは冗談です。『身体髪膚、之ヲ父母ニ受ク。敢ヘテ毀傷セザルハ孝ノ初メナリ』と昔から言われていますから、髪の毛一本、皮膚のひとひらと雖も、粗末にしては親に申し訳ないですから。
嘗て、商談でロンドン滞在中、ロゼッタ・ストーンを大英博物館で見たときの感激は、今も忘れることが出来ません。「これが世界史の教科書にあったロゼッタ・ストーンか」と黒光りする石の塊の周りを幾度となく回り、飽くことがありませんでした。矢張り本物の迫力は文字で表現することは不可能です。
万事に博学な貴兄が今回エジプトを訪ね大きな感動を覚え、再び好奇心を掻き立て、エネルギッシュに世界を駆けめぐる機会になったことはご同慶の至りです。一昨日の新聞広告によると、かの吉村作治先生が引率されるエジプトツアが企画されているようですが、参加されたら先生と良い勝負ができるのでは?
取留めのない事を書き連ねましたが、貴兄の旅行記を読ませて頂いたお礼に替えさせていただきます。有難うございました。お蔭様でエジプトの素晴らしさの一端を知ることが出来ました。
H大学教養部・級友・工
お早うございます。
いつもの長文の旅行記、感嘆しながら、いやむしろその気力に感心しながら読んでおります。今回のエジプト旅行記、その前後の始末記も含めて丁寧な考察と果断な実行力は、とてもがん経験者とは思えません。
カイロには私も約38年前、DC-8 の航空機関士時代に一度給油のため着陸したことがあります。カラチからローマに行く途中でした。夜間でしたから外の景色は見えませんでしたが・・・
ご家族のご紹介の中にありますご令嬢の夫君、加藤裕一郎氏はもしかしたら加藤寛一郎東大名誉教授のご子息(注。残念ながら、人違いです)ではありませんか。加藤先生とは、私も縁がありまして先生の退職記念旅行に、ご夫婦でアメリカにお出でになった際の帰りのロス・アンジェルスで、ご夕食を一緒にし、翌日の成田行きで私の便にご搭乗になり、巡航中操縦席でしばらく話をしました。今みたいに操縦席立ち入り禁止ではない時代です。
その後、シリーズ「墜落」の出版記念会や、年毎の忘年会にはご夫婦でお出でになります。豪放磊落ながら、ユーモアのあるお話でいつも座の主役です。私は高校時代に一度は東大(航空学科)を目指していた時期があり、家庭の事情で進学はかないませんでしたが、実務で航空界に縁ができて、子供時代の夢を別の形で実現することができました。
今日これから五反田にある NTT 東日本関東病院に入院します。5日に手術をする予定です。病名は脊柱管狭窄症、いわゆる腰痛です。入院期間は4週間、おそらく2月末まででしょう。病室にはノートパソコンを持ち込みますので、今まで通りのインターネット利用はできるでしょう。メールも同様です。
ではお元気で。
I高校級友・元JAL機長
旅行記ありがとう。ようやく読み終えました。いつかは行ってみたくなりました。神殿が2000年もかけて建造されているとのこと。エジプト王朝は何年続いたのですかね?小生の乏しい世界史の勉強では、エジプト時代など古代史はさっと過ぎ去っていったようで、想像力の限界を越えています。
ダンスで目立ち、旅先で苗村さんに声をかけられたとのこと、どんな帽子にしたのですか?テニスでも被っておられるとのこと、機会があれば拝見したいものです。エジプトの魅力いっぱいの旅行記ありがとう。取り急ぎお礼まで。
Jトヨタ同期・経・元テニス仲間(今は横浜に転居)
労作拝見。すばらしい旅行記ですね。観察力、洞察力、エネルギーに感心しました。
いずれエジプトには行く予定ですので、市販の観光案内書よりも参考になります。ありがとうございました。
Kトヨタ後輩・工・ゴルフ&テニス仲間
60頁余の追憶記、大変なご努力と自信作であることはよく分かっており、それだけに一気に心して拝読せねばと構えていましたが、自堕落な生活をしていると纏まった時間が取れなくて、真に恥ずかしい次第。
エジプト旅行が出来るまで色々悲しい出来事が集中してあり大変であった訳ですが、それを乗り越えて目的を達成された意思の強さにまたまた感心しました。そしてそれが、紹介された石松さんご一家の素晴らしい経歴にもつながっており、これからの益々のご繁栄が約束されたものだと感じ入った次第です。
何時もの追憶記と同じに、今度も歴史・経済・人文地理・土木工学全ての分野にわたり、よく調べ記憶し考察されておるのにまたまた感心しました。素晴らしい頭脳ですね。そして今後の海外旅行は「量より質」とのこと、益々磨きがかかるでしょうからそれを楽しみにしています。
エジプトは自分も行って見たい所の一つですが、石松さんのこの高度な記を見せていただくと、愚人旅行しか出来ない自分は内緒でこっそり行かなければ、という心境にもなります。
凡人は凡人らしく生きるしかありませんが。今度はデジカメでかなり写されたとのこと、お暇な時に写真だけ少し送っていただけたら見たいですね。個人毎の要望にこたえるのは面倒でしょうが。
どうも有難うございました。
Lトヨタ先輩・工・ゴルフ仲間
長らくご無沙汰しています。当方、ぎっくり腰を10日程前にやってしまいましたが、今にして思うと、「体力アップ教室」のスクワットとかいう運動のやり過ぎのように思われます。しかし、やっと良くなってきました。
さて、6万字を超すレポート、驚異的です。そのエネルギーに脱帽!!
今、読み始めたところですが、まず1ページ目の、石松さんのお元気そうな写真を、懐かしく拝見させて戴きました。これから読み進めていきますが、兎に角、お元気でご活躍下さい。
Mトヨタ同期・工・元テニス仲間
詳細にわたる旅行記を送って頂きありがとうございました。一昨年末に私もエジプトへ行きほぼ同じコースを見てきていますので、懐かしく思いながら読みました。
こんなに詳細な観察力は到底私には出来かねます。石松さんの理工学見地からの物の見方は勉強になります。このメールで一段と興味をそそられましたので、またエジプトに関する本を読みたいと思いました。近いうちに市図書館へ行って探してきます。
寒い折健康に留意されお過ごしください。お礼まで。
N荊妻の知人・企業コンサルタント
ここ3,4日風邪をひきパソコンに向き合えず、やっと読み終えた。何時もの事ながら事細かく観察、物を良く覚えていることに感心させられた。事前に本で勉強してもいるだろうが、それにしても良くここまで書けるものだと、改めて脱帽。おそらく他の人も皆そう思っているに違いない。
中でもテニス友達に背後から声をかけられたとは。。。地球も、、、、そんなに狭いのかと、これ又ビックリである。事の外、懐かしかったのではと思う。元気な内に楽しんだ旅行で良かったと思う。と同時に自分も自分の命を考える一つのキッカケにもなるかな?、、、、とも思うが、、。口だけのゴマかしか、なかなか実行が出来ない。
O実兄
エジプト旅行記、大変面白く・興味深く読ませていただきました。
今更ながら、石松さんの豊富な知識と探究心には感心した次第です。私もエジプトへ行ってみたくなりました。その時のためにメールをファイルに保存しておくことにしました。これからも楽しい旅行を続けていってください。
なお、同室の人の話、そんなことまでしなくてもと思うと同時に、男も一人になるとその様なことを考えるのかと、なんとなく寂しくなりました。
これからもよろしくお願いします。
Pトヨタ後輩・経・ゴルフ&テニス仲間
その1
エジプト紀行を読ませていただきました。相変わらずの凄い記憶力と深い工学的洞察に加え、ユーモラスなエピソードを交えた記述に魅了されました。未だエジプトには行った事がありませんが、自分が行っている様な錯覚すら覚えました。どうも有難うございました。
蛇足ですが、ごく最近読んだ本の中に「なぜエジプト人はピラミッドを造ったか」という興味ある記述がありました。竹村公太郎著「日本文明の謎を解く」清流出版刊で、著者は国土交通省OB、河川工学の専門家です。著者の仮説を箇条書きで要約しました。
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貴重な読後感を賜り、書き甲斐があったと嬉しく感じました。有難うございました。
竹村氏の著書は存じませんが氏の主張には、無理が多すぎると思います。私の意見を書き込みました。
> 1.発見されている80基のピラミッド全てがナイル川の西岸にある事がその鍵。
人は太陽が西に沈むことと、人の死を重ね合わせ、西方に死後の世界があると、多くの古代人が考えました。仏教も同じです。エジプト人は死後の世界をナイルの西側に求めたと考えられています。
> 2.ナイル川の東岸には山脈が連なっているが西岸は砂漠で、自然のままに放置しておくと洪水の度にナイル川は西方にどんどん移動してしまい、終には川が消えて無くなり、地中海までは水は届かなくなる。
古代のナイル川には黄河のような流路の大きな変動は記録されていません。ナイルデルタ内では、多少の移動はありましたが。
ナイル川が洪水のたびに西へ移動するとの論拠は全くありません。流れの変動には、力学の根本原理の一つ、『最小作用の原理』が働きます。その時、その時、最も流れ易い(熱力学的に言えば、エネルギーが最小で済む)方向に流れるだけです。
なお、エジプトの地図を見れば議論するまでもなく一目瞭然ですが、ナイル川はナイルデルタ部を除けば、エジプト国内では幅10〜15Kmの峡谷(峡谷と言っても流れの勾配は極めて緩やか)を流れており、サハラ沙漠へ流路を変える事は不可能。ルクソールの西岸に位置する王家の谷もハトシェプスト女王の葬祭殿も背後には山が迫っています。
エジプト国内の緑地は峡谷沿いの平地とナイルデルタ及びサハラ沙漠内のオアシスに限られている。ナイル峡谷の西側の台地に広がる広大なサハラ沙漠を灌漑で緑地化することさえ不可能です。
> 3.川の移動を防ぐ対策として西岸に堤防が必要であったが、千何百キロもの堤防を造る代わりに考えたのが「搦み(からみ)工法」であった。
搦み(からみ)工法は最近、日本でも復活してきました。戦後の河川工事は洪水を一刻も早く海へと流すべく流路の直線化にひたすら走りましたが、洪水対策としては、拙劣だったとの反省があります。堤防が高速水流で抉り取られ決壊したからです。釧路川の一部は、元の流れ(蛇行)に戻そうとしています。
堤防は両岸に必須のもの。東岸には堤防を作らず西岸だけに作った堤防に何の意味があるの?東岸は山脈で代用するのであれば、市街地は河原化!頭隠して尻隠さず以下の幼稚な論理?
> 4.搦み工法とは、日本でも1000年以上も前から行われているが、海や川の中に障害物を置くといろんな物が絡みつき土砂が周囲に堆積する。従って、ある間隔で障害物を設ければ周りに土砂が堆積してやがて堤防が出来上がる。
障害物に土砂が絡まるとは言うものの、洪水時の最高水面よりも高くなる事は、原理的にあり得ませんね。土砂は河川の内側から堆積するため、最終的には実質的な川幅は狭まり、結局、洪水時に堤防が破壊しますね。
日本の搦み(からみ)工法は河川の曲がり角に限定し、流速を落として、護岸するのが目的です。
なお、搦み工法が目的ならば、ピラミッドの全表面をぴかぴかに磨いた化粧石で覆った意図の説明が出来ません。つるつるにすればするほど、土砂などが搦み難くなります。
長江や黄河は壮大な堤防に、現在は一見守られているように見えるものの、河床に土砂がどんどん堆積し、一部は天井川になっています。結局堤防は更に高くせざるを得ませんが、永遠には続きませんね。時々決壊しています。その時、水は天井川には戻れず、流域は100日間も水没しています。
欧州の大河川には堤防が殆どなく、水面は周辺の地面よりも低くて安全ですが、時々雪解け水で氾濫しています。しかし、本流の平常時の水面は地面よりも低いため、水は短期間に引きます。
黄河や長江の水害対策は、上流部の禿山や沙漠の緑化対策抜きにはあり得ないと思っています。三峡ダムも無策のままでは、いずれダム湖も埋没し、大洪水と共に大惨事が発生することは不可避と思っています。
> 5.後年発見された全てのピラミッドは砂に埋まり、堆積土砂は見事に連続した堤防を形成していた。
総てのピラミッドが砂に埋まったとの説は、大嘘です。ヘロドトスもナポレオンもギーザのピラミッドを見ています。クフ王のピラミッドさえ砂に埋もれたのであれば、ナイル西岸には高さ130m以上もの壮大な堤防が出来たことになります!アスワン・ハイ・ダム以上の高さですが、仮に一瞬の間、出来たとしても文字通り砂上の楼閣。
大沙漠の中には砂丘が無数にあります(タクラマカン沙漠やオーストラリアの沙漠を飛行機で縦断中に見ました)が、高々30mです。しかも孤立しています。山脈のようには形成されていません。
小さなピラミッドが、崩壊したり、一部が砂に埋もれたりしていますが、その面積はピラミッドの底面積の2倍以内でした。ピラミッドを繋いで堤防にするのであれば、ピラミッドの配置、間隔、高さ等に何らかの規則性が求められますが、そんなものは全くありません。
堆積土砂が見事に連続して堤防を形成したなど、どこにも証拠はありません。飛行機の上から見ると、各ピラミッドはランダムに離散的に配置されていたし、ピラミッド間に堤防らしき痕跡は全くありませんでした。
砂にうずもれたり、掘り出されたりした遺跡としては、ギーザのスフィンクスが有名ですが、もともとスフィンクスの設置場所の地面は、何故か周辺よりも低く、背丈も低いためでした。スフィンクスは周辺の地面と同一高さまで砂に埋没し、頭だけを出していました。
> 6.従ってピラミッドの建設は農民の失業対策ではなく、エジプト文明の存亡を懸けた大事業であった。 以上ですが現地をつぶさに観察して来られた貴殿のご見解は如何に? 2月9日
『風が吹けば桶屋が儲かる』ほどの論理の展開も、『机上の空論』ほどの内容も、この本にはありませんね。
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その2
早速のご返事有難うございました。
小生はエジプトやピラミッドの知識は全くありませんでしたので、貴殿に論破されれば成るほどそれもそうだな、と思う始末で話になりません。
しかし、只々失業対策のためだけに1000年以上もの長い間、営々と意味の無い建設作業を続けられる程人間は単純ではなかろうと思います。矢張り何か国家の存亡を賭けたような大きな目的があったと解釈するのが自然でしょう。
ピラミッドは何が目的だったのか、有力な説は未だ現れていませんね。2月11日
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ピラミッドが何故作られたかの、万人を納得させる解釈はまだ出ていないがために、多くの人々に建設目的の解読の夢やロマンを与えているのだと思います。
私の勝手な解釈は次の通りです。
人類は、猿人・原人(北京原人など)・旧人(ネアンデルタール人など)・新人(現代人 )へと進化してきました。少なくとも1万年前の新人と現在の人類との間に、先天的な知的潜在力の有意差はないと判断しています。
一見、現代人の方が頭が良さそうに感じるのは、過去1万年間に解き明かされた知識の集積(後天的な能力)の差にあるからだと思います。
アリストテレスに対して私は、科学知識では格段に上回ると自負していますが、知的創造能力では、足元にも及びません。
動植物の一生は、生命誕生以来、生きながらえるための食料確保に終わっています。食料が確保できなくなった時、病気や捕食で死ぬ以外は、天寿ではなくて、餓死(枯死)しています。
古代エジプト人にとって、一番の関心事は餓死の恐怖からの脱出だったと推定しています。そのような不安な日々に明け暮れている民衆の心を掴んだ者が、仲間の統率者として頭角を現し、最終的には国王になったと思います。
勿論、国王が飢餓や周辺民族からの襲撃から民衆を守る努力と引き換えに税金を課したのは、互恵的な取引として誰もが納得したと思います。
平和になると、国王の最大の任務、別の表現をすれば、国王の指示に民衆が納得して従う場を与える最良の方法は、飢餓からの不安の解消だったと思います。そのためのアイディアとして、ピラミッドの建設を誰かが思いついたと考えます。
但し、飢餓からの脱出が保障されたとしても、それだけでは人は動かないと思います。誰にも判り易いこの大事業の意味付け、目的の説明は不可避だと思います。それには神なる国王の墓との説明も充分あり得たと思います。
ただ、これも長続きはしませんでした。冷静に考えれば馬鹿馬鹿しい事業です。出来上がったピラミッドそれ自体からは、今でこそ観光収入をもたらしていますが、当時の民衆には何の収穫・利益も得られていません。
その結果、考え出されたアイディアは神殿の建設、つまり国家統一・維持のための象徴の建設だったと思います。国王個人のためではなく、国民全体のための目標設定に切り替えたのだと思います。動物は飢餓からの脱出だけを考えていますが、人間は死後の安寧も求めました。そこから宗教が生まれたと思います。
このような事情で創造された宗教も今日では曲がり角に来ていますね。最早、新しい巨大な宗教施設の建設はあり得ず、過去の設備の補修・更新のみに限定されてきました。
少なくとも私には死後の世界には全く関心がありません。恐らく今後人類は、宗教を手段に使って壮大な事業を開始する事は無理と思います。
古代エジプト人が残した最大の遺産、その後のどんな強大な国家も建設できなかった事業、その典型例がピラミッドとカルナック大神殿だと思っています。
民主主義という現代の呪縛下では、古代エジプト時代を上回る壮大な無駄に繋がる建築土木工事は出来なくなりましたが、それに代るものはありますね。アポロ計画、宇宙開発、核融合開発・・・。しかし、これらとても、事業費/GNPで評価すると、古代エジプトの国家プロジェクトに比べれば、微々たる比率ですね。
Q大学&トヨタ先輩・工
エジプト旅行記楽しく拝見しました。偶然に同じ様な時期にエジプトを訪れまして、旅先でご一緒にもなりましただけになんだか、私の感想を極上の文章で表現して頂いた様な気持ちで、前編と後編とを一気に読みました。読後の感想をお送り致します。
確かにエジプトは私が旅行しました数少ない遺跡の中で、美しさとスケールの大きさの点で素晴らしいと思いました。美の点では単純化されたフォルムが現代に劣らぬ美しさで迫り、時間が許せば時間を掛けてずっと眺めていたいものが沢山ありました。
博物館の中に黄金のカウチ(注。ベッドの一種。王をミイラにする時に使った処置台)が3種ありましたが、その中のライオンのカウチ(注。ライオンの四足が処置台の脚。平面にした背中の上が処置をする場所)の後ろから眺めたお尻はとても官能的な造形でしたし、アラバスター(注。雪花石膏。彫刻用素材に使われる)製のカプノス容器(注。ミイラを作る過程で取り出された内臓を入れる容器)の4神のお顔は可憐に映りました。
カルナック神殿の大列柱はずんぐりとしてなんとも美しく、おまけに浮き彫りが施され感嘆しました。アブシンベル小神殿入り口には大好きな象形文字が、深く刻まれ心地よく眺められました。
まだまだありますが、省きまして、気の遠くなる様なはるかなる昔にこの様に美しくて、中には大きいものを造りだした古代の人達に比べて、現代は本当に進歩しているのかと、心底疑問に感じました。
重くて大きくて古いカメラと補助のデジカメでエジプトを撮り、約4冊の写真集に纏めました。エジプトの遺跡は大きすぎて、出来の良い写真は少ないのですが、海外旅行の通例で忘れた頃に眺めるのを趣味にしております。
今回の旅行で日本画の女性の画家とご一緒となり、その方に5時間のビデオテープを頂きました。石松様の旅行記と併せて忘れた頃に見たり読んだり眺めたりして楽しみます。素晴らしい旅行記に感謝。
Rトヨタ先輩・テニス仲間・何時もプレミアムエコノミークラス(ビジネスクラスとエコノミークラスの中間)で海外旅行をされる方
エジプトその1やっと今読みました。「チャタレイ夫人の恋人」を昨日やっと読み終えましたので・・・。遅くなりましたが、やっと読みました、その2その3はウィルス付きで削除されています。
その1だけで充分!よくもこれだけ書いたものです。貴台は自分史、自分が生きていた証!と言われるが・・・。これを喜んで読む人がそれ程多くいるでしょうか?
文字、文章を追うだけで大変!わたしはメモをとりながら読みました。注意を惹く記述は、がんに罹って人生観が変わった、究極のエゴイストになった!がん寛解以降人生を積極的に生きようとする意欲が減退した!などです。
第2章まで読みましたが、事実の羅列には読むのにほとほと草臥れました。健一さんのご結婚のこと、第2章旅行費用、事前勉強、持ち物の準備、旅の仲間など読みましたが、草臥れるの一言!貴台の努力は大したものですが、読む方は大抵のひとはもう勘弁!と言うのでは?
(蓼食う虫も好き好き)
S大学級友・工・私小説(未完成)を書きかけている人
力作を拝読いたしました。
これまでの豊富な海外経験や理系魂溢れるコメントが随所に挿入されており、”なるほど”とか”へー”とか感心しながら楽しく読ませて貰いました。それにしても、大手術・難治療を受けて未だ一年も過ぎぬ中のこのヴァイタリティは、凡人の到底真似の出来ぬところとそちらの方も敬服しております。
エジプトへはリスク管理の面から時期を見てと考えておりましたが、治安がそんなに悪くないことを知りました。中部国際空港が来年2月に開港されることでもあり、そろそろ計画を具体化しても良いのかと思い始めております。
今後 益々ご健勝にてご活躍され、数多くの旅行記を発信されることを祈念しております。
21。トヨタ同期・工・読後感を必ず発信してくれる方
石松さんの旅行記 久しぶりに読ませていただきました。石松さんらしい技術者の目からみた考察を興味深く読みました。
エジプトにはまだ行ったことがありませんが、26年前、米国駐在時メキシコに旅行し、アステカ、ウジマル(?)、チチェンニツアなどのピラミッド、天文台の跡(?)などを見学したことを思い出しました。
生贄を捧げたとか、近くの巨大な隕石の落ちた跡とみられる陥没地(池)など現地のガイドの説明だけで、旅行前後の勉強をしていませんでしたので、石松さんのようなしっかりした報告・考察はできませんが、我々が学校で学んだ歴史以外に人類の長い歴史と文化があることの、深い感銘をうけた思い出があります。
メキシコの民族文化博物館などで多くの文化遺産・美術品などを見る機会もありました。石松さんは行かれたことがあるかどうか存じませんが(注。いずれ行きたい候補地の一つです)、ご紹介しておきます。
ところで、芥川賞受賞2作品・選評を昨日読みました。「蹴りたい背中」の緻密な観察と文体には、小説家として将来の期待がもてると感じましたが、「蛇にピアス」は特異な体験からのもので、@小説とはこんなものなのかA19歳、20歳の若い女性作家の感性と自分とのあまりの違いB選者の判断基準のバラツキなど、色々な違和感を感じました。
また、先日の、青色LED開発者への東京高裁の200億円の判決について、@裁判官と原告は経営を知らない、A被告である会社の報奨金2万円は時代遅れ、B多分、最高裁では大幅減額(同感。私の推定値は20億円)の判断が示されると思いますが、これも大変な違和感を感じるものでした。
今、世間の関心はイラク、少子高齢化・年金、景気回復、情報化社会、色んな感染症などに向いていますが、悠久の歴史の流れの中で、人は何を学び、何を考えていくのか、石松さんの旅行記の末尾の深い感懐は、こうした心の奥の黙示的認識に根ざしているのか、タイムスリップによる時間差ショックなのか、個人の中の文明の激突か、あるいは、それらがからんだ葛藤なのか・・・・・・
病気から回復され余裕がでてきたこと、そして事故にも遭わず元気に帰国されたことに、先ず祝杯をあげましょう。
Bottoms up!(注。底まで飲む、転じて乾杯の意)
22。ゴルフ仲間・経
相変わらずの力作に感動します。やっと今日読み終わりました。
本文もさることながら、最後の機械力をいっさい使わずの項はまったく同感です。小生の仕事ではこのごろ機械の入らない現場がかなり出てきて「大昔はどうして作ったのか?」と調べる事が良くありますが、知恵は失われて悪い頭で珍案を考えることが良くあります。これが人間の歴史の必然でしょうか?
なおベリーダンスを踊ったのであれば、貴殿の体力には問題がないように思います。お互い平均寿命まで元気で生きましょう。
なにはともあれ、お礼まで。写真を2、3枚メールしてください。
23。大学級友・工
当方 最近目がショボショボで老眼をはめても疲れやすく難儀しています。従って貴兄からの膨大な旅行記、全て印刷し時間をかけて興味深く拝読の途中です。
読書中途での感想
旅行に際しての事前準備、情報収集等での用意周到さ、旺盛な探究心、几帳面さ、時に触れての自分の判断とその正鵠性、充実した内容の膨大な旅行記を纏め上げた根気、自分流の自己PR。
記憶力が低下しかけ、根気のなくなった俺にはとても真似はできないなー、とただただ感服。でも、いろいろな事に興味を持ちプラス志向で、これからの人生を楽しく有意義にと考えています。
24。東筑高校同期・昨年リタイア・東海東筑会幹事を長年にわたり引受けてくれた方
その1
”エジプトの追憶”、さすが石松様の自信作です。圧巻です。再度読み直しております。
死を意識した後の人生は、モノの見方、考え方はそれまでとは随分違ってくると言われましたが、体験者でなければ理解できない次元なのでしょね。感覚としてはわかる気がしますが、私などには今のところ煩悩が優先するだけで、、、修行が足りない自分を恥ずかしく思います。
その2
舘山寺温泉(注。浜名湖にある温泉)でお会いしたのは3年前でしょうか?随分久しくお会いしていません。”エジプトの追憶”に載っている石松様の写真を拝見すると、当時より少し太られた感じがしますが。癌手術を受けられ、一時は体重も激変されたと窺っておりました。お写真からはお元気な様子が偲ばれ、嬉しく存じます。
石松様が今回のエジプト旅行の最終章で語られている一節、”多重癌との闘いに疲れ果て、感動することもすっかり忘れてしまっていた我が人生に、再び灯を点し、、、、、、、、、”
たとい再発がんに侵され弱体化した肉体になろうとも、我が落ち込みつつある精神を感動の余りに天空へと高揚させてくれるような、、、、、、、”
石松様の生き様の覚悟とも言うべき最終章の締めくくりは、読者にとって新たな勇気と生き甲斐を教示され、深く感銘を受けるものでございます。
25。中堅企業オーナー社長・財テク指南役
いつもながらの、エネルギーにあふれた旅行記に感銘を受けます。
今回は特にご自分の健康それに近親者のことで、よくぞこの旅行が出来たという思いでしょう。さらに初めの旅行社を選んでいたら事故にあったはず。そういうものからも一層このエジプト記にかける強い思いが伝わります。この様な条件は大変稀な、全てがよくぞ何とか行った、ということでしょうね。
実は私はこれまで団体で、外国旅行を完全な形でしたことがありません。しかし、この旅行記を読んで、良い旅行社を選べば、団体旅行でも沢山の所に行くことが出来、良いものだなと感じます。お金と健康が有れば私もエジプト旅行をします。
(3月末には使い切れないほどの退職金、いざや世界へ・・・)
26。高校同期・工・千葉大学教授・まもなく定年
その1
「エジプトの追憶」の読後感をお送りすることを以前にお約束しておりながら、なかなか果たせずにおりまして、申し訳なく存じます。
実は大分前に「エジプトの追憶」を読み終えてはいたのですが、読書後の感想を書こうと思いながら、書けずにおりました。(昨年の夏から埼玉県で一人暮らしをしているお袋の具合が悪くなり、毎週介護に通っておりまして、途中の新幹線の車中でものを読む時間はあるのですが、書く時間が見付からずにおりました)(ご母堂様には、お健やかな日々であらせられるよう心から祈念申し上げます)
読むに当っては第1章を一日で、また後半の第2から第14章までを3日間ほどで読み終えたのでした。それは、いつもながらの貴兄の「石松節」とでもいうのでしょうか、歯切れがよく、明快で、率直な語り口が余りに魅力的であったからです。
その上、以前からご指摘させて頂いております科学的、工学的に一流域にある深みが加味された視点が素晴らしい旅行記、随筆となっているからです。現代の日本に於ける最高の知性と謳われております「加藤周一」さんに匹敵するのではないかとまで、私は考えているのですが、自らを隠し立てなく、気持ちをありのままに記述し、それが少なくとも文面から嫌味をほとんど感じさせない点では、世にその名を知られた方々を越えているのではないかと思っております。
特に、癌という極めて辛い深刻な病気を克服し、まだそれほど経ていない時期に、こうしてエジプトへ旅行されたことが示す強靭な精神力の貴兄が、その闘病により一回りも二回りも精神面で大きくなられた視野が随所に感じられました。
以前ですと、海外旅行に慣れない人、海外に出て引っ込み思案の人、歴史や地理文化に疎い人達に対する目が多少厳しいものがあったように思いますが、今回のツアーでは温かいものに変わってきているように思いました。感じたままを箇条書きさせて戴きます。
@ まず、貴兄ほどに海外のさまざまな国々を出張で、あるいは旅行で見聞しておられる人は、まだまだそんなには居られないと思うのですが、そうした貴兄をしても「ルクソールのカルナック大神殿の壮大さには、声もでないほどの感動を覚えた」と言わしめたのですから、神殿やピラミッドやスフィンクスなどを擁したエジプトはよほど素晴らしいのでしょう。
私自身全く足を踏み入れたこともありませんので、想像するしかありませんが、以前のいろいろの国々の貴兄の追憶を読ませて戴いていることから、貴兄をしてそこまで言わしめるのであるからには、途轍もない壮大さなのであろうと信じる気持ちになります。
A 旅行に出掛ける前に「事前勉強」ということで図書館から沢山の本を借りてこられたけれど、結局今回は読まなかったと述べられておられます。但し、10年前にエジプトへの工場進出検討時エジプト関連の本を10冊くらい読まれたとのことですが、私が感心しますのは、10年も前に読んだ知識が訪ねる先々で迸り出てくることです。なんという記憶力と驚く他ありません。記憶力というより、身に付いているとしか思えません。
さて、本日はもう大分夜も更けて参りましたので、この辺でキーを置かせて戴きます。また、続きを近いうちに書きますので、それまで暫く休憩させて下さい。
その2。
B 世界一長い川はナイル川であるということは、ついぞ知らないままで過ごしてきてしまいました。仰られる如く、小学生の頃でしたか学んだまま、ミシシッピー川とばかり思っておりました。理科年表で見てみましたら、確かに貴兄の言われる通りのことが書いてありました。
また、「サハラ」というのは「砂漠」という意味なのだということも知りませんでした。これについてガイドから聞いたときに、貴兄が全く動じることなく日本語の言語構造からして、別におかしなことではない。宗教の名称でも同じようなことがある、という説明には流石の博学ぶりと、切り返しの巧みさに感心した次第です。
C British Airwaysの機内で隣席の英国人がウィスキーの銘柄を殆ど知らなかった、という話は面白いと思いましたが、関心がないことはまるで知ろうとしない、というのは世界どこへ行っても共通する現象のように思います。
私なども「おまえ、それでも日本人かよ!」と言われるようなことが多々あるように思います。なにしろゴルフはまるでしたこともなく、ゴルフ用語もまるで知らないのですから、日本人でサラリーマンをしていたことがあるのか、と言われそうです。
そういえば、以前仕事上で知り合ったドイツ人と話をした折りに、たまたま西ドイツの首都が第2次大戦後何故ベルリンからボンに移されたのか、という話になったことがありました。その人は知らないと言っていました。
ドイツ人なら当然知っていると思ったのでしたが、そうでもなかったようです。私が「時の首相アデナウアーの自宅がボンにあったことから、ボンを首都にさせたと聞いたことがある」と言いましたら、妙に感心していたことを思い出しました。
(注。インターネットから。アデナウアー(初代西ドイツ首相)は手記にこう書いている。「私が連邦首都としてボンを支持したのは、ボンが私の家があるレーンドルフに近いからだ、としばしば非難された。この非難はとても単純だと思った。ボンを選んだ決定的理由は、結局こうだった。
イギリス占領軍は、もしボンが暫定的な連邦首都に選ばれるならば、ボンの領域をイギリス占領地区と軍事行政から外す用意がある、と声明した。アメリカ占領軍は、このような声明をフランクフルトに関しては行わなかった。そこには、たくさんのアメリカの諸組織や非常に重要な行政機関が置かれており、それは他の都市ではおよそ確保するのが困難なくらいの広さだったからだ」。
1949年5月10日、基本法制定会議は、「ボンかフランクフルトか」を決める表決に入った。結果は33対29。わずか4 票差でボンが首都と決まった)
D エジプトに於ける安全対策が相当厳しくなっている、とのことが記述されておりました。第5日目に行かれた「ルクソール神殿」で、確か1997年に原理主義者の乱射事件が発生し、日本人も犠牲になったことは未だ記憶に新しいのですが・・・
当時トヨタでは欧州や中近東、アフリカ向けにある商用車を発売する寸前で、その名も「ルクソール」の予定だったのですが、あの事件のお陰で一時ラインを止め、商標の変更の為、車体の一部を変更せざるを得なくなったことは、貴兄も良くご存知のことであったかと思います。ルクソールと聞く度に、あの当時のことを思い出します。
貴兄の精力的なそして驚くべき精密な記憶力により完成された「エジプトの追憶」の未だ一部までしか、感想を書いておりません。また暫くお時間を下さい。
その3。
前回読後感(続)をお送りしてから、少し経ってしまいましたが、その続きを送らせて戴きます。
E 歴史、地理、言語等々に一流の、そして技術者としてのセンスでは超一流の石松氏の本領が十分に発揮されているのは、まずピラミッドを実際に見ると直ちに、各段の石の高さは一定で、幅が異なり恐らくは奥行きも異なることを見抜いたことです。
更には、圧巻なのはアスワン・ハイ・ダムを前にして平均流水量、有効落差、効率から年間発電量を計算するところです。また、ダムからの年間の水蒸発量を計算するとか、全くもってぼんやり大きさだけを感心して帰ってくるということがない、姿勢に感心してしまいます。
また、「大いなる課題」として取り上げられた土砂堆積の問題には、大変感銘を受けました。こうした観点でダムについて考えたことがありませんでした。日本の各地の水力発電所でもいつかは貯水容量が減少し、発電量が不足して行く事態が起こり得ることを学びました。川の氾濫の問題にもいつかは直面することになるのですね。地震の発生に目が奪われて、こうした河川やダムの問題を忘れていることは恐ろしいことなのかも知れません。
F 水といえば、以前出張でサウジアラビヤ等の中近東の国へ参りましたとき、ホテルの部屋の洗面所に、水を大切にするように、との注意書きがあったことを思い出します。水に少しばかり、海水の臭いがしました。海水を蒸留して得ていることが分かるものでした。
原油の採掘により膨大な収入があるので、王族や自国民は随分と豪勢な生活をしている人も多いようでしたが、天然の水にだけは困っていたのでしょう。なにしろ、昼間は50度を越す暑さでしたから、水の乏しさと緑の少なさには参った記憶があります。とても長期間の滞在はできない、とそのとき思いました。
「アラビアのロレンス」の映画で美しい砂漠(インターネットから。撮影場所はヨルダンのアカバから北東に30kmほど入ったワディ・ラムと呼ばれる赤い岩砂漠です。ここは地学的に言うとヌビア砂漠の一部で、古代の河床跡との事らしいです)を見たこともあり、想像していたところが、実際にはそんな場所は殆どなく、私の移動した場所の大部分は薄茶色の土漠か、塩が浮き出た砂漠で美しさを感じませんでした。
日本人のように冬といえどもかなりの緑を目にできる環境に住んでおりますと、緑の殆どない場所では身体が拒否反応を起こすのではないかと、そのとき思ったものでしたが、貴兄は如何でしたか。(私は、植物の葉や花、池や川などの美しい水、温泉には、強い癒し効果があると信じています)
夏場でなかったこと、エジプトではアラビヤ半島の国と少し自然環境も異なることから、私のような感じ方はなかったかも知れません。いや、それよりも環境に順応する個人差の方が大きいかも知れませんが。
G そういえば、オマーンに行きましたとき、現地の人から聞いた話ですが、いくら現地の人でも猛烈な暑さには参るとのことで(尤も我々よりも格段に耐力はありますが)、あるときホテルでエレベータに乗っていたとき、停電になって外へ出られなくなったそうです。
勿論クーラーも止まってしまったために、エレベータ内の温度はどんどん上昇してゆき多分60度以上になったのでしょうが、数時間後復旧して助け出されたとき、流石の現地の人も倒れて動けない状態だったそうです。
そこで、言われたのは間違っても、日本人などが留置所に入れられるようなことがあってはいけない(交通事故などで)、数日後に出されても生きていないかも知れないから、ということでした。
ああいうところは、現地の人たちでも相当に暑さで参るそうです。そういえば、ホテルの屋外にプールがありましたので、プールの水がどのくらいの温度か試してみようと、裸足になってプールの周りのコンクリートに足を置いたとたんに、余りの暑さで飛び跳ねてしまい、水に到達できませんでした。私には貴兄のような機知に富んだ瞬間の対応はできず、そのまま室内に戻ってきてしまったことを思い出します。
27。トヨタ後輩・工・何時も貴重な読後感をいただける方・しかし、残念ながらまだお会いしたこともない方
さて、全文を通読させていただいての感想ですが、いつものことながら事前の勉強と現地で見て感じられたこと、考察等が緻密に書き尽くされていることを強く感じました。構造物の素材、寸法、製作方法にいたるまで「現役の建築家でもここまでは…」と感じるほど掘り下げた記載にただただ驚きを禁じえません。
具体的に例を挙げるにもその数が多すぎて出来かねます。そんな中で私が若干疑問に感じたことを2,3だけ記載させていただきます。余りにも些細なことであり、的外れかもしれませんが。
第1章の終わり近くで「大きな仏像の前で15名余りの住職が色んな祈祷をしていた」とある“住職”は“僧侶”が適当でないか。住職とは寺の長のことをいい、15の寺から出席されているそれぞれの長ということならそれでよいと思います。
ジーパンなど多くの商品が非常に安価に売られていることを「中国人の努力の結晶」という表現で何度か書かれているけれど、日本に比べたらバカ安である人件費のおかげではないか。
第13章の冒頭部分[1]の第2段落目「長方形の鏡餅を積み重ねたような」の鏡餅は切り餅ではないか。鏡餅は丸く平たい大小の餅を重ねたもの。
なお、今回初めて写真を入れていただいたけれど、文章全体のサイズが膨大になるということで詳しい解説を補足すべき写真がほとんどない。私のように想像力の衰えた老人には詳しく書かれるほど混乱するのみ。
そこでぜひお勧めしたいのが超縮というjpgの発展形の画像形式です。1980円のソフトで加工することによって1/10に圧縮してもさほど画質が低下せず、送信先の方がそのソフトを持たなくても自動的に復元できるそうです。私は持っていますがまだほとんど使っていません。
28.トヨタ先輩・工
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