[1]はじめに
トヨタ・グループ6社の10名を越える精鋭と一緒に無我夢中になりながら数年掛りで、3軸NC型彫り機のためのアプリケーション・プログラム『TiNCA=TOYOTA integrated Numerical Control Approach』を開発した。その時に仲間と共に考え出した情報処理技術を論文に纏め『NCS=Numerical Control Society』主催の国際会議に応募したら、幸いにも発表の許可を得た。入社10年後、昭和47年の秋のことだった。
当時、私が所属していた開発課(生技開発部の前身)に於ける海外出張のチャンスは、先端技術調査か、または国際学会での論文発表かのいずれかであった。所属長が課員への機会均等を考慮しながら社内での政治力を発揮して努力されても、出張にあり付ける者は1年間に精々1人であり、平均すれば定年までに実現出来るか否かと言う、気も遠くなり兼ねない程の小さな機会に過ぎなかった。
『TiNCA』は数年来の論文精査と幾つかの先行試作プログラムの評価を踏まえて、プログラムの基本構造を抜本的に考え抜いて開発したものである。本質的にはいわゆる『CAM=Computer Aided Manufacturing 』に分類される応用プログラムである。私にとっては会心の大作でもあった。
爾来30年近い歳月が流れたが、後輩達が絶えざる改良を続けた結果、今なお当社の代表的な大型システムとして活用されている。更に、当プログラムからの派生商品として当時の仲間が開発した『ケーラム』は、新規事業としても今や大成功している。
当時、コンピュータ・プログラムの世界では、ソフトウェア・システムにそれを開発した会社の名前を冠する命名法が世界的にも流行していた。この分野の先駆的なシステムとしては、世界最大の電機会社『GE』の『GE−MESH』や同じく世界一の航空機製造会社『Boeing』の『F−MILL』(このシステムの場合は『B』の代わりに『Face Milling』の意味を込めて『F』を冠したが、例外に近い事例である)が有名であった。
開発初期の頃は『T−MESH』と名付けていたが、所属長から『名前が小いせえ!』と酷評されたので、少々大袈裟とは思ったが思い切って『TiNCA』と改名した。名は体を表すようになるのか、この名前は関係者にも大変気に入られ、『名前負けしないように』と頑張った若きシステム・エンジニア達の、プライド高揚にも繋がった。
TiNCAは独りソフトウェアの分野に止まらず、当社独自の技術の名称に社名を冠した第1号でもあった。『トヨタ生産方式』を初め『トヨタ****』と言うネーミング法はこの後、堰を切ったが如く社内に流行して今日に至っている。
[2]作戦成功
僅かに3週間の出張ではあったが、土曜日の出発で日曜日の帰国、更に途中にアメリカの祭日『Good Friday』を含む3連休もあり、密かに『This is The USA』と報告出来るような観光情報収集計画も織り込んだのであった。
Good Friday の由来が分からず、豊田市内の牧師に質問したが即答出来なかった。日本の暦とは直接の関係がないためか、牧師すら知らないことに若干の驚きを感じた。調べてみると『Easter直前の金曜日と定められているキリスト受難の記念日』だった。『Easterとは春分後の満月直後の日曜日』と決められている事もついでに知った。従って必ず『3連休』が保証されているのであった!
祭日とは曜日に無関係な暦上の固定日と思い込んでいた私には、新鮮な驚きが感じられた。だがよくよく考えて見ると、日本にも『春分の日』や『秋分の日』のように、固定日ではない祭日がある事を迂闊にも忘れていたのだった。
この出張の真の目的は『この貴重な機会を活用して国際的な見聞を広めると共に、広く先進技術を現地で直接調査する事にある』と格調も高く提案した。出張先の選定は私の随意と言われたが、アメリカのどこに行って何をすれば目的を果たせるのか、自分で提案をして置きながら無責任にも、当初は雲を掴むような不安すら感じていた。
当時の私の担当業務は『CAD/CAM』の企画調査及びその開発にあった。ご他聞に漏れずこの技術分野でも、アメリカの大企業が世界の牽引車であったが、同国の業界トップ企業と雖も、経済界に於ける日本の台頭を強く意識し、日本人の技術調査には強力な紹介者を介さない限り、訪問許可すら与えない程の世知辛い時代に既に突入していたのであった。
日本アイ・ビー・エム、日本シー・ディー・シー、日本バローズ、日本ユニバックなど、アメリカの代表的なコンピュータ・メーカーの日本法人のトヨタ担当者を通じて、希望の会社の見学許可を取ろうと打診したが、いずれも確約には至らなかった。CAD/CAMで著名な大企業は全て超大型コンピュータのユーザーであり、上記の紹介ルートならば、どこかに必ず接点がある筈だと考えたけれども、現実はかくも厳しかったのである。
仕方がない!ダメ元と、独力で訪問許可を獲得する道を探すことにした。まず最初に訪問したい大会社を選び直した。技術的には有名でも中小企業には、一見の外国人の相手をするほどのゆとりはあるまいと考えて削除した。
次にアメリカの地図にその所在地をプロットし、出来るだけ特色のある大都市にある会社から優先的に選んだ。アメリカの各地を観光したいがための作戦である。次にその会社のエンジニアが発表した技術論文を集めた。
その後、各論文執筆者に『貴台の論文には強い興味を感じた。工場見学及び貴台との技術討論の機会を持てるようにご配慮願いたい』と論文を読む代わりに、お世辞を述べて、私の発表論文の要旨を添えた手紙を出した。照会には全てコンピュータ・メーカーを介した。『ギブ・アンド・テイク』の世界に時代は確実に入っていたと確信した結果だ。
作戦成功!打診した全ての会社から訪問許可が下りた。誇り高きアメリカ人と雖もどうやら、台頭しつつあった日本の技術に若干の興味をそそられたらしい。
[3]論文作成
英語の論文は、学生時代の恩師で私の仲人も煩わせ、平成7年秋には勲二等を授与された『岩崎松之助』先生が授業中に余談で紹介された方法を思い出しながら書いた。
前回までのNCSや米国の電算機学会の論文集も参考にして、論文の構造を決定し、まず最初に日本語で全文を書き下した。次に和文英訳に取り掛かった。英訳の工程を念頭に置きながら、論理的に書いた積もりの日本語だったが、いざ英訳工程に入ると適切な動詞の選択に大変苦心するハメにもなった。
私の日本語を客観的に分析すると、いかに曖昧で意味が特定出来ない部分が多いかに改めて驚いた。岩崎先生は使い慣れた日本語で論文を書き下だした後、英訳しやすい日本語に予め変換されるそうだ。身の程知らずの私がその工程は無駄だと判断したのが間違いだったのだ。
英文の推敲を効率的に実施するために、英文専用の簡単な『ワード・プロセッサー』も開発し、当時使っていた超大型電算機『UNIVAC1108』に組み込み、ラインプリンターをタイプライター代わりに活用した。スペル1文字の修正でも簡単に直せて重宝した。
例えば、出発直前になって『path』の複数は『pathes』ではなく『 paths』だったことを思い出した時などである。原稿のチェックを頼んだ関係者は、この間違いには何と全員が気付かなかった。末尾が『th』で終わる名詞の複数形には『es』が付くと受験勉強で覚えてはいても、そのルールの例外とセットにして暗記していない人々が、思わぬところで馬脚を現したのであった。
[4]出発前教育…その1・英会話
英会話の自習資料として、教育部から旺文社の『海外旅行英会話』が届けられた。カセット・テープ8巻と教科書4冊のセットになっていた。この教科書は単に英会話だけではなく、海外旅行に関する『ノウハウ』がふんだんに盛り込まれていた。勤務中で良いから教育部のLL教室で『聞きながら同時になるべく大声で発声しろ。しかも3回繰り返せ』とのご指示。
この教科書に出てくる題材は海外旅行の事例から採られていた。出入国や税関手続きなどで使う特殊な単語もついでに覚えられた。ホテルのチェックイン、買い物での会話など実用本位だった。チップを渡す時の言葉は『This is for you.』と言うんだそうだが、何となく相手を馬鹿にしているように感じたので現地では1度も使わなかった。勿論、チップをケチった訳ではなく、明るく『サンキュー』と言ってパッとコインを手渡した。
勉強をサボって困るのは自分自身であるから、この機会に頑張ることにした。3回も同じテープを聴くと、ヒアリング能力が多少向上したような気になるから不思議だ。また英語の勉強で肉声を発したのは、学生時代に教室で教師に当てられた時にほんの僅かな時間、教科書を読んだ時くらいだったので、24時間も集中的に発声したのは初めての体験だった。我が発音が外国人に通用するのか否かの本格的なチェックの機会は持たずの儘だった。
出張直前に、大学時代に語学としての英語を学んだと言う、若いアメリカ人の女性から個人指導を受ける事になった。たった1回では何かを質問して急に英会話に上達するはずもないから、論文発表の時にスライドの説明用として読み上げる予定のもとに書いていた原稿を、音読して聞いてもらうことにした。
『英語の発音に問題はない。技術論文としての内容は全く理解出来ないが、英語の使い方としての間違いはないし、文法ミスが無い事も分かる。技術面は専門家が聞けば分かるのではないかと思う』との評価を得た。
『私の英語が日本人には聞き取れる』ことはこの時以前にも既に体験はしていた(大学時代に日本語は一切使わない主義の先生から、英語の授業を受けた事があった)が、『日本人特有の発音だから、日本人には分かりやすいのかも知れない』との疑念が取れていた訳では無かった。
母国語を英語として育った本物の外国人に、自分の英語を20分も連続して聞いてもらったのは文字通り初めての体験だった。しかも『1語1語正確に聞き取れる。私には貴方に教えるものが何にもない』と褒められた時、急に英語への視界が開けた嬉しさが込み上げてきた。発音に関しての自信を与えてくれたこの女性にちょっぴり感謝した。
出発直前に、打ち合わせのために東京へ出張した。新幹線の中で外国人のグループ3人と隣り合わせになった。これは天の機会だ!英語力を試してみようと決心。アラブからの留学生だった。スライドの原稿を読み上げて聞いてもらった。今度は英語を外国語として学んだ人達だ。『発音に問題はない。誰にでも判るよ。心配無用』と全員が断言。やっと不安が消え始めた。
[5]出発前教育…その2・マナー教育
当時、会社(元トヨタ自動車工業)全体の海外出張者数は年間僅かに 200人強であった。また当然の事ながら殆どの人に取って海外は初体験でもあった。教育部はこの分野でも教育ママ振りを発揮していた。ホテルの部屋の使い方と食事のマナーの勉強のために毎月1回、向こう1ヶ月分の出張予定者がマイクロバスに乗せられて『名古屋キャッスル』まで出掛けると言う、あり難いシステムが運営されていた。
ホテルではお風呂の使い方を中心にして細々としたコメントを受けた。シャワーを使う時のカーテンの使い方の説明に熱心だった。日本人はまだ洋式のお風呂の使い方に慣れていない人が多いそうだ。新婚旅行を除けば私も都市ホテルの宿泊体験は、人生の折り返し点すら近付いて来た35歳になっても尚、たったの2泊(そのうちの1泊は結婚直前、東京への出張の機会を生かして、勉強のためプリンス系の『高輪ホテル』に大金をはたいて泊まった分)に過ぎなかった。
しかし、私がこの種の問題で一番驚いたのはホテル内の体験では無かった。昭和30年秋、高校2年の修学旅行(福岡県の代表的な進学校である東筑高校は、修学旅行を1年間繰上げて実施していた。3年生になると受験勉強に専念させるためだった。尚、プロ野球の仰木監督や映画俳優の高倉健は先輩に当たる)で泊った旅館での水洗便所の初体験である。山勘でトイレの紐を引っ張ったら轟音と共に水が溢れ出て…きた。その時に受けた驚愕は今なお忘れられない。しかしその瞬間、『一体どの様にして水を止めるのだ!?』紐を再度引いたが効き目がない。この時の不安心理はまさにパニック寸前だった。
正式の『フランス料理の食べ方』も実習した。こんな実習ならば何回でも大歓迎だ。とはいえマナーの大先生が説明するような格式ある食べ方は、いくら伝統ある美しい作法といわれても、箸2本で全てを処置してきた私には大変煩わしかった。
中でも、バナナにすら正式な食べ方があると聞いた時には、些か驚きを禁じ得なかった。バナナを左手に持ち、右手のナイフで軸方向に片側だけスリットを入れる。スリットを入れていない側をいわば蝶番い(ちょうつがい)と考えて2枚貝のように皮を開く。お皿の上にそのまま載せる。皮をまな板のように使って、ナイフとフォークで1口ずつに切って食べる。食べ終わったら、あたかもまだ中身が入っているかのように、開いていた皮を美しく閉じる。
この『立派な教育』を受けた16年後にもなって、トルコで『正しいバナナの食べ方』に習熟していた紳士にやっと出会った。この方のマナーの素晴らしさはバナナの食べ方だけではなかったことに一層驚いた。バナナの食べ方がこの方のマナーの全てを象徴していたのであった。
リンゴにすらも『正しい食べ方』があった。デザートとしてのリンゴは洗ったまま、皮付きで出されるそうだ。まず最初は縦に真っ2つに切る。片面を縦に更に2つに切る。次にV字形にナイフを入れて芯を切り取る。最後に皮を縦方向に剥く。後はナイフとフォークで3分割して食べるのだそうだ。
日本人が柿の皮を包丁で剥くように、円周に沿ってナイフを動かすのは間違いだとの説明だ。真面目な生徒らしく先生の言う通りに頑張っていたら、皮を剥く時に手が滑って、とうとうリンゴを床に落としてしまった。今度は『落ちた物を拾っては駄目だ』という。ナイフの切れ味の悪さこそが問題に思えた。皮ごと丸かじりするのも正しい食べ方の1つに入れて欲しかった。
アメリカでの初日、夕食を食べたレストランで、さっそく待望のリンゴに出会った。レストランの出入り口の大きな籠にリンゴが山と盛られていた。何と小さなリンゴであることか!サービス品である。好きなだけ持ち出せる。皆んな丸かじりをしていた。どうやらアメリカには堅苦しい『食事の作法』は無さそうだと気付く。
[6]行動計画の確定
関係者と相談して訪問会社を確定した。当時のCAD/CAM技術を先導していた航空機工業からは、旅客機が主体のボーイング(シアトル)ロッキード・ジョージア(アトランタ)ロッキード・カリフォルニア(ロス・アンジェルス)、戦闘機が主体で米国最大の軍需会社であるゼネラル・ダイナミックス(サン・ディエゴ)世界の3大ジェット・エンジンメーカの一角を占めるゼネラル・エレクトリック(シンシナチ)を選んだ。
勿論、ゼネラル・モータース、フォード・モーター、クライスラーの自動車3社(いずれもデトロイト)やCAD/CAMと密接な関係にある世界最大(当時)の工作機械会社であるシンシナチ・ミラクロン(シンシナチ)も選んだ。
アメリカでは社名に『ゼネラル』を冠する会社は超一流会社に多い事にも気が付いた。今回だけでも3社もある。日本人が英語の勉強で最初に学ぶ『 General』の意味は『一般的』であるが、社名に使う時には『将軍』の積もりではないかと思った。日本にも私企業なのに『帝国ホテル』とか『帝国ピストンリング』など『帝国』を冠した大袈裟な会社名も多いが、命名者の気持ちは同じようなものだろうか?
各社への照会に尽力してくれた電算機会社であるアイ・ビー・エム(サン・フランシスコ)ユニバック(ニューヨーク)コントロール・データ(サン・フランシスコ)もお義理で選んだ。電算機の価値は電子回路の設計とソフトウェアから生まれ、当時の工場内には学ぶべき生産技術が無い事を既に知っていたからである。
訪問は1日に付き1社にした。訪問時間は9:00〜15:00である。早朝と夕方には各市内を駆け巡った。半分は観光をしたようなものだ。過去10年、海外生産部門での業務で技術調査に行く場合は、1日に3〜5社も駆け巡ったのに比べれば、初めての出張とは言え、たっぷりとした余裕があった。
日本の電算機各社は『日本人駐在員とアメリカ人の営業マンが現地の道案内をするために、ホテルまで送迎に行く』と言う。そんなサービスを受けて良いのかしらと気になりながらも、反面あり難いなと思った。ところが出発直前になって、日本アイ・ビー・エムは『御社担当の者を同行させる』とまで言う。私の本心は少しは1人で異国を体験したかったのに!
行動計画が纏まると、私は訪問先の各社にそれを郵送した。これは大変役に立った。例えばゼネラル・モータースに行くと『昨日尋ねたクライスラーにはどんな印象を持ったか?』などとしきりに聞くだけではない。人心の機微に触れていたのだ!彼等の行動は私に他社と比較される事を前提にしているから、公私ともに大変親切であった。言わば『大名旅行』が向こうから転がり込んで来たようなものだ。
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