堀の水の汚さに同感。城の堀は大きく深いので、まだあまり気にはなりませんが、旅先の水が汚いのは気になります。
日本の観光資源である日本庭園は、枯山水を含め、水が不可欠ですが、特にがっかりしたのが桂離宮。ブルーノ・タウトが絶賛し、日本庭園の最高傑作と言われる池の水には興ざめでした。
観光立国を目指すなら、国土交通省・自治体・宮内庁は、その点も考えてほしいですね。
ご参考
ブルーノ・タウト(Bruno Julius Florian Taut、1880年5月4日-1938年12月24日)は、ドイツの東プロイセン・ケーニヒスベルク生まれの建築家、都市計画家。鉄のモニュメント(1910年)、ガラスの家(1914年)が評価され、表現主義の建築家として知られる。ジャポニスム、アール・ヌーヴォーを通して日本に関心をもち、晩年来日し長期滞在した。
革命への憧れをもっていたタウトは、1932年から1933年までソ連で活動するが、建築界の硬直性に直面し、結局ドイツに帰国する。ところが、その直前にドイツではナチスが政権を掌握。
親ソ連派の「文化ボルシェヴィキ主義者」という烙印を押されたタウトは職と地位を奪われ、ドイツに戻ってわずか二週間後にスイスに移動、フランス、ギリシャ経由し、イスタンブールを通過し、黒海を渡ってソヴィエトに入り、シベリア鉄道でウラジオストックに到達し、海路で敦賀に上陸した。祖国ドイツに家族を残したまま、日本インターナショナル建築会からの招待を機に1933年5月、日本を訪れ、そのまま亡命した。
来日の翌日、桂離宮へ案内された。桂離宮を世界に広めた最初の建築家であった。当初は京都大丸当主の下村正太郎邸に滞在し、まもなく仙台の商工省工芸指導所(現在の産業技術総合研究所の前身の1つ)に着任。その後は井上房一郎の招きにより、高崎に移り、約2年間を高崎で過ごした。群馬県工業試験場高崎分場に着任し、家具、竹、和紙、漆器など日本の素材を生かし、モダンな作品を発表。
1935年に東京・銀座に開店した「ミラテス」で販売を始めた。また東京・日本橋の丸善本店および大阪の大丸にて「ブルーノ・タウト氏指導小工芸品展覧会」を開催した。日本では建築方面の仕事に、余り恵まれなかったことを少なからず不満に思っていたが、その一方で建築理論の構築に勤しみ、桂離宮を評価した著書を著したり、熱海の日向利兵衛別邸でインテリアデザインを行った。
④ 大学後輩・医・勤務医・未だお会いしたこともない方
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前略 年を重ねればあちこち何処か悪いところが次々と出てくるようです。わたしも昨年央、前立腺がんが見つかり20回の放射線治療(約1ヶ月)を受ける羽目になりました。幸いにもひとまず寛解し、経過観察中です。
安静にしていましたら,左足の関節が痛むようになりました。整形外科医の診断では半月板が無いのでセラミックスの半月板を植え込む、とのご託宣。これを断り,スポーツクラブでトレーニングを受けているうちに快癒。心もちも快癒。
おかげさまで畑仕事などで機嫌よくすごしております。