読み応えのある南部アフリカ旅行記を楽しく読ませていただきました。私も10年ほど前に南アに出張したので、身近に感じています。
アフリカは所得水準が非常に低いにもかかわらず、幸せで自殺者がほとんどいないことに興味があります。
今年の8月にマスターズの世界大会でフィンランドに遠征し、高負担高福祉の国で自殺が多いのは何故だろうか?と現地で聞きました。ヘルシンキの大学院に留学している日本人の若い男性のガイドは、「学費は日本人でも無料であるが、卒業後が就職難であることから、自殺者は若者に多くいて、雇用が悪いことによるのではないか』と言っていました。
リトアニアのタリンに行ったときのヘルシンキの女性のガイドにも聞きましたら、同じ答えが返ってきました。
これは統計上のデーターではなく一面から見た主観的な答ですが、一方、若者も元気な高齢者も家に閉じこもるのではなく、屋外で夏の日光を浴びてスポーツを楽しんでいます。マスターズの選手もアフリカからの参加者はほとんど見かけなく、高齢者の先進国にとって、北欧は幸せだと感じました。
日本の高齢者も石松さんのように、ゴルフやテニスや海外へと外に出て、体を動かすことが大切だと感じました。
@ トヨタOB・マスターズ陸上等の多種目で多くの優勝や世界記録を持つ世界的な高齢者現役スポーツマン。一度お会いしただけなのに何故か記憶に残った方
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「南アフリカ11ヵ国」を拝読。読後感です。
1.国旗の由来;
南アフリカ各国の国旗の由来を勉強出来ました。国民学校一年生の時、「日本の国旗は朝日が昇るように、日出る国を表している」、併せて敵対国の国旗を貶(おと)す説明を聞いた覚えがあります。
正しい由来を後日聞かせてください。⇒インターネットからコピーしました。
- 【 国旗の意味や由来など 】
- 日本では聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を"日出ずる国"とする考え方があり、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴する。また紅白は日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。
2.献金;
「同行者の言動から、だれが献金するかの事前推定をし、結果と照合することにより我が人物査定能力を検証。結果はほとんど我が推定通りだった」・・・
今年、我が家が町内の組長をさせられています。神社への寄付を集めるのも役目です。我が家は奥さんに任せてあるが、近くの神社には¥500、遠方の神社には¥300、 ほぼ平均額です。最も金持ちで社会的地位も高かったと思われる人は出したり出さなかったり、出しても最低額。ところが、一人暮らしで近所との付き合いも無いよぼよぼの爺さんが毎回¥1,000。人生観の違いでしょうか?ともあれ人は見かけによらないものですね。
3.ナイロビ国際空港での女性観察;
「薄化粧とジーパン中心の質素な衣服を着用しているが、胸を張って歩く姿勢は人種を問わず大変美しい。日本人とは大差・・・」
石川遼が2〜3か月前、ゴルフの世界大会でタイガーウッズと初めて一緒にラウンドした。その感想:「タイガーウッズの歩く姿は実にすばらしい!」スイングかコース攻略のテクニックかと思いきや歩く姿を見ていたとは!さすが遼君!
囲碁のタイトル戦をテレビで観た。解説者曰く「優勢な方が姿勢が良くなる!」脚の長さは変えられないが、姿勢は良くしたいですね。
4.「私も疲れた!」を撤回;
長文の旅行記「南アフリカ11カ国」を読んで疲れた。最近はテレビを見ることに慣れ、文字を読まなくなったので続けて64ページも読むことはめったにありません。「おわりに」で執筆者のご苦労を知りました。「疲れた」を撤回します。有難うございました。
A トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間・囲碁の実力抜群
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その1。
今回の読後感には本当に困った。あまり読む気の起こらない文章に対して読後感を何度も催促されても当惑する。読む気が起きないから、「読後」になかなか到達しない。したがって「感」も出て来ないことになる。
本当の読後感は既に速報で送った。不惑どこらか、古希を過ぎたのだから海外「トラベル」で「トラブル」メーカーになるのはやめた方がいいと。世の中、「どちらが正しいか」で争うのは青二才または老醜。他人に好かれる人間になる必要がある。すなわち美しく老いるべき。わが職業の援助調査団の人選の最大要件は「海外でトラブルを起こさない人物」。能力の有無は二の次、マイナス団員を排除することが人選の基本。たかが数十万円の旅費を払ったからといって傲慢になってはいけない。お客にも添乗員には協力義務がある。これが本当の読後感であるが、即座にはねつけられた。
墓地も決まったそうだが、墓地の中も秩序があるだろう。墓地に安住できるためにはやはり努力が必要だ。あまり天衣無縫だと、洞泉寺から断られてたどり着いた豊田市営墓地からも入居後追放されかねない。数年後に墓参したら、「私はここにはいません。千の風になって」ではご遺族も困るだろう。
長さでは源氏物語をはるかにしのぐという超力作の旅行記集だが、投入努力=「読者にとっての価値」ではない。調理に数十時間掛けた「口に合わない料理」と同じだ。他人には供給者論理は通用しない。まして今や製造業者には厳しい民主党政権の時代だ。私にとってはアフリカは所詮、お金のために仕方なく働きに行くところだ。何カ国回っても大同小異の国々だ。だからツアーの参加者が少なく催行が難しい。行ったこともない、行く気もない国の記事には本当に食欲が出ない。
しかし石松旅行記で私が毎回興味を持っているのは参加者の紹介記事だ。要するに当たり前の海外観光地は行き尽した「勝ち組」の実態だ。
以上が総論だが、各論に入ると文化遺産と称して古い家屋を保存するのには私も反対だ。中国の貴州省の山奥の少数民族の集落でも住民はいわゆる文化住宅に住みたがっていた。世界銀行は補助金で外壁だけ昔の状態を残す(室内は文化住宅)ことにしていたが無意味だと思う。
(5ページ)。JR商法はいやらしい。老人を「のぞみ」に乗せない。のぞみグリーン車も割り引かない。ジパング割引が最初の3枚だけ20%引き。「夫が30%引き、妻が20%引きで、並んで座る」という条件を付けるとみどりの窓口は大混乱。ガラガラで走っている寝台車も割り引かない。繁忙期といっても反対方向はガラガラ。東京ではグリーン車の車内発売は250円割り増し。ホームのグリーン券売機は操作ステップが多く、中年おばさんの後ろに並んだら終わり。
高速道路が値下げになればJR利用者は減るはずだ。それでなくでも地方交通線は民営化時点よりも旅客は更に半減あるいはそれ以下になっているはずだ。
物理学は私は特別苦手だったが、「地球温暖化=炭酸ガス」の議論は単純すぎると思う。
共産圏の出入国の能率の悪さについては同感。人類の敵は共産主義。しかし今の日本人が求めているのは社会主義、「こども手当」の次は「大人手当」になりかねない。これでは終わりだ。コマツの海外売り上げは81%。「コンクリートから人へ」では、コマツも海外へ出て行かざるを得ない。
疲れたので今日はここまで(10ページ)。
B トヨタ同期・一年で退職・工&経・私大教授・結婚三回目の奥様は北京美人・私にそそのかされて挑戦した財テクで大火傷・スラム同然の超ミニ住居暮らしでも満足しているらしい・人生いろいろ・・・
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石松良彦さんのホームページを読みました(あまり厖大な量なので拾い読みですが)。
闘病記ですが、よく、あれだけ詳細に書けたものですね。毎日、記録されたのでしょうか。手術日はペンも持てないから記憶力が良いのか。がんのことも良く勉強されていますね。唯一のがん対策は「早期発見、早期治療」といっておられますが、これには私は賛成できません。早期治療でも治らない膵臓がん、それに胃がんでも治らないのがあるそうです。
まず「予防」です。石松さんの場合、遺伝もあるでしょうが原因は明らかに「酒量過多」です。痛風にも罹っているのでも明らかです。酒好きやタバコ好きの人で、「これを止めるくらいなら死んだほうがいい」とゆう人もいます。人はそれぞれ価値観が違いますから、その様な人も居ていいと思います。
この人は、また世界中を旅行されていますね。私は行ったことのあるニューヨーク、グランドキャニオン、サンフランシスコ、ドイツのライン河のところだけ読みました。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジのことを構造力学上から評価されています。私は「私の生まれた頃によくこんな物を作ったなあ」と思っただけですが。
仏教批判は私も同感です。私は宗教を全く信じられません。信じることが出来る人は幸せです。死んでも苦しい現世から極楽浄土へ行けるのですから。私は死に直面したら、恐怖で狂うかも。
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ゴールデンゲートブリッジに関する我が印象を旅行記『米国』からコピーした。
1937年に竣工したこの橋は、1931年に落成したエンパイア・ステート・ビルディングと共に、アメリカの国力が名実共に世界一に到達した象徴でもある。航空工学を専攻し、材料力学・弾性力学・構造力学・航空機構造力学などに代表される応用力学の一端をかじった私に取って、この橋を見上げた時の感動は今なお鮮やかに蘇る。
戦艦『大和』の設計建造よりも本質的には難しかったと思う。当時の我が国の製鉄技術ではこれ程までに品質の揃った『ピアノ線』を量産する事は難しかった。設計技術以前の問題だ。
今でこそどんなに巨大な構造物であっても、有限要素法(Finite Element Method)とスーパーコンピュータを使えば、構造解析は比較的簡単だ。困難さは計算技術よりも現場工事の方にある。人海戦術に頼る部分が未だ残っているからだ。 当時の知識では巨大連立方程式の近似解法としては『差分法』や『逐次近似法』による手計算が主流だったので、厳密解には到底辿り着けず、気休めの計算をしている程度に過ぎなかった。結局は設計者の『勇気ある山勘』に頼らざるを得なかった。そのため当時の巨大構造物の設計では安全係数を大きく取る傾向があった。当然の結果として必要以上に大きな部材を使うようになり、観光資源としての立場からは予期せぬ迫力となって、私の感動も結局一層深まることにはなった。
今や厳密な構造解析の計算技術が開発された結果、安全係数は小さく設定され、それに連れて構造部材は節約されて来た。しかしそこに見えざる『神の落とし穴』がぽっかり開いていたとは何と言う歴史の皮肉か!
このアメリカ西海岸北部のシアトル郊外で、長大橋『タコマ・ブリッジ』が強風を受け、共振現象を起こして墜落したのは記憶に新しい。部材を節約した結果剛性が低下し、共振周波数が予期せぬ所に隠れていたのを見落としていたのであった。この事故解析は後日の膨大な風洞実験に待たねばならなかった。
そんな事が走馬灯のように脳裏をよぎる時間もないほどの短時間に、超豪華車『キャデラック』は音もなく一気に橋を渡ってしまった。見晴らしの良い超高級レストランでは草鞋のように大きくて、しかも分厚い『アワビのテキ』をご馳走になった。アメリカでは『ビフテキ』位では高級料理の仲間には入れてくれないらしい。
C トヨタ先輩(工・ゴルフ&テニス仲間)のご学友
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南部アフリカ11カ国の旅行記を拝見しました。
先ず、古稀を過ぎたと言うのに、小さくなった胃袋と折り合いをつけながら20日間のアフリカ旅行を敢行した気力と体力に脱帽です。今回も、ビデオ鑑賞では決して得られないアフリカ大陸の砂漠や草原の空気と匂いを鼻や肌で感じ取り、先住民や旧宗主国からの観光客とも心置きなく交歓されてきたようで何よりです。
例によって、同行者の皆さんは石松さんの鋭い観察眼に晒され続けたようですが、集合写真(旅行社から集合写真の掲載を拒否されました)でも有ればその中にF嬢やG夫妻を中(あ)てる(マイクロソフトのワードでは中てるを常用外では推奨しているが、当てるの方が私には妥当に思える・・・)楽しみがありましたよ。それにしても、少なくとも経済的には“勝ち組”の皆さんが、虐殺記念館での献金額に差がついた原因は何でしょう。貴兄は、50$出す人と全く出さない人の人生で、どこに違いがあったと推測されましたか?
野生動物並みの自給自足に近い暮らし振りのアフリカの人々には自殺者がいず、子供達の瞳は輝いていて笑顔が耐えないとは!!。種族間の対立や貧困の悲惨が報じられますが、子供達が笑顔で暮らせるのは親ならば誰でもが子供に願う有るべき社会のはずですね。現地の民家が弥生時代のそれに似ているとは偶然かもしれませんが、我が弥生人の子供達にも屈託のない笑顔がはじけていたのかもしれません。
先日逝った賢人は、「世界は人間なしに始まり、人間なしに終わるだろう」との言葉を残したそうですが、この世界に初めて出てきた人間はアフリカの大地においてでしたし、この世界の終わり近くまで残る人間がいるとしたら、それは矢張り東・南部アフリカの人々なのでしょう。
今にして叫ばれるエコ生活は、確かに「足るを知る」ことに始まるに違いありません。誇らしげに黄金の茶室を建てた秀吉は、「家は雨を防ぐに足り、食は飢えをしのぐに足りれば良し」と説く利休を切腹させました。天智大王以来の海外派兵で明まで攻め込もうとした豊臣家は絶え、千家は今に伝わります。
アフリカ先住民の暮らしぶりには学ぶべき点が多そうです。
D トヨタ先輩・工・若くして退職され郷里で大成功された偉人・特許と発明考案は200件以上!!
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お久しぶりです。
まず、あまりのお元気さに正直、驚嘆! 貴殿にはすべてを受け入れ、糧にする前向きさがあることが、ガンを退治した根源なのですね。
順不同で。
(1)前日にHPにアップするのは、すばらしい習慣ですね。私も見習わなければと思いました。思っただけです…(笑)。
(2)アフリカについて。
シロウトの超偏見ですが、貧しければ生きることに精一杯で、悩んでいるヒマが無いのかも。それとあの暑さでは、まともに物を考えるのがそもそも難しいのでは。繰り返しますが、超偏見です。
NHKのダウイーンが来た、知られざる野生が好きでよく見ます。そもそも、生き物には種の保存のためのSEXという与えられた使命があり、それ以外は余生かも?
天敵や自然の過酷さも、あるがままに受け入れるしかない。そう考えれば、その日その日を満足して生きることこそが、大事なのでしょうね。人間は本来、淘汰されてもおかしくない数以上に繁殖したが故に、数々の悩みを抱えていると考えるのがいいのかもしれません。
話は逸れますが、長寿ゆえの介護問題。自然に逆らい寿命を延ばした人間への、神の与えた試練でしょうか。
(3)同行者への観察がいつも面白いです。
(4)読後記もユニークで、楽しい。
(5)余談ですが、民主党政権に期待し過ぎた私は、9月に株式投資を再開したものの含み損かかえつつ、来年こそは上がるはずとじっと我慢しております…(苦笑)
貴殿の益々のご健勝を祈念しております。では!
E 株式投資の超ベテラン・未だお会いした事もない所謂富裕層
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旅行記 何時ものことながら良く調査観察されて感心しております。
自分が特に興味あるのはいつも同行者。今回も個性溢れる方々と石松流対応で興味深く拝読したのと、やりとりの光景が目に浮かびました。「おわりに」で述べられた「足るを知れ」はアフリカ旅行ならではの悟りでしょうか。
また戒名も自分で決められた由、何処までもわが道を行くですね。羨ましく思えど真似出来ず残念ですが。
世界制覇される日を待っています。
F トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間
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石松さま ご無沙汰しております。相変わらず精力的に、ご活躍うれしく思います。今日(11/9)は20年前に世界中が注目したベルリンの壁が壊された日ですね。私は平成15年9月に訪問しました。
私が所属している、豊田商工会議所青年部OB会では、今年のテーマは「知足」です。
インターネットから書をコピーしました。アフリカに行かずとも「知足」を豊田商工会議所青年部OB会の今年のテーマに選ばれていたとは、ビックリ仰天!!
宗教には色々有りますね、お客様から年数回「聖教新聞」の購読依頼が有ります。仕方がなく年二ヶ月分新聞代を払いますが、読んだ事はありません。
私が訪問した外国では町の中心に教会、寺院が有りますね。日本には宗教の自由があり無宗教でも問題ありません。私の葬式は家族葬の計画を準備しております。
15日と16日には10年振りにゴルフをします。はたして前に飛ぶか明日にも練習に行ってきます。30歳から60歳過ぎまでプレーをしていましたから、格好が付くでしょうか。
勝手な事を書きました、お許し下さい。
G 古希を超えても尚現役でご活躍されている方。
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大作「南部アフリカ11ヶ国」拝読いたしました。貴兄の紀行文にかける凄まじい気力、体力そして執念にただただ驚嘆するばかりです。
しかし折角の労作も私ごとき凡夫にはその長文に圧倒され尻込みしてしまいそうです。風刺の効いた寸評を別途つけていただき、お急ぎの方用に便宜を計っていただければ、読者はさらに増えるのではと愚考するしだいです。
同行者の観察記録は毎回興味津々です。
C紳士:如何に高価な和服でも他人にはほとんど価値はなく、文字通り猫に小判。絵画、茶道具など手放すときには二束三文は世の常。
こうして考えるとまもなく古希を迎えるわが身もうかうかしていられないことに気がつきます。思い出の写真や貴重な書籍どんなに大切な品でも残された者たちにとっては単なる粗大ごみ。その処分には頭を悩ますに違いない。
小生も遅まきながら人生の棚卸を始めたところですが、ことは急がねばとの思いが日ごとに募ります。
E夫人:石松パンチを喰らいしょげている姿が目に浮かびます。主人と夫を使い分ける才女を自認している人が今話題の夫婦別姓を声高に叫んでいるのではないかと思っています。「人を褒める時の言葉」を催促するなど噴飯ものです。
数学は多量の問題を速く解くことも大切ですが、時間はかかっても己の方法で答えを出すことのできる子を育てる方が、もっと重要視されるべきではないかと常々考えています。その点からも今の大学共通一次試験は大きな問題を含んでいるように思いますし、さらにいえば幾何をもっと大切にすべきでは?
戒名について一言。吉田茂のブレーンとして終戦処理に尽力したとして最近話題になっている白洲次郎の遺言は「葬式無用、戒名不用」のたった二言であったようですが、人生の達人ともなれば実にすがすがしい旅立ちができるのだと感じいっています。
足るを知る。心静かに日々を過ごせるすばらしい人生観です。今こそ日本人はこの言葉を噛み締めるときでしょう。“くれない”族が蔓延し、貰うことばかりを考え、それに阿(おもね)る衆愚政治は日本人を“SPOIL”してしまいます。
H 大学教養部級友・工
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ご無沙汰しています。
旅行記他貴信拝見しています。貴信は必要の都度必要な箇所を開いて熟読させていただく辞書、蔵書になっています。
何時でも読めるメリットがあり配信時にはタイトルしか読ませていただいていません。読後感等御礼お返しなく申し訳有りません。
昨夏以降中国リポートを中断しています。貴兄はじめ読んで下さる方々多数あるのですが、一旦中断すると面倒になるものですね。同時に日々の生活にアクセントが無くなる心配をしています。
貴信を拝見し元気の源として再考させていただこうと思っています。
その後壮健な毎日と推察します。有意義な毎日をお送りください。
I トヨタ先輩の学友・工・香港&中国での脱サラ事業で大成功・中国の奥地で奨学金提供など恩返し・著書多数・素晴らしい人生に拍手喝采!!
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前略、ごめんください。
最新旅行記、拝読しました。その前に、石松さんが訪問したことがある国を赤く塗った世界地図、凄いですね。なんか、ほとんど塗りつぶされてる感じじゃないですか。
私は暇と金があったらアメリカにすっ飛んで行ってしまう癖があるので、生涯かけても絶対に訪問国が30を越えることはないんじゃないかと思います。
ところで、アフリカで「足るを知れ!」を思ったのは大正解ではないですか。ホントに、人生って「足るを知れ!」です。そうすれば、人を羨むことも妬むことも一切なくなりますし。・・・でも、そういう境地にはなかなか達することができないのが人間の悲しい性というか、日本の現状というか。
J 医師・奥様は宇宙飛行士・いつも簡潔な読後感を拝受している方・著書多数⇒授賞歴あり
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ご無沙汰しています。南部アフリカ11ヶ国も無事終了ですね。しかも各位に約束した期限を守るため苦闘されただろうと思いました。少しゆっくりの日々を過ごされたらという言葉をかけようものなら、即「馬鹿もの」と先輩のどなり声が聞こえてきそうな空気を感じながら読ませていただきました。
いままでの旅行記はプリントアウトして小生なりに力をこめて取り組みましたが、本件の75Pにはちょっと参りました(あまりの大作とインク代??)。というわけで{はじめに}・{事前準備}・{トピックス(同行者)}のみプリントアウトしました。
小生は野生動物には大いに興味がありますが、各国の丁寧な紹介記事には頭が下がりますが興味わかずさらり(先輩には失礼ですがお許しのほど)と読みました。
添乗員の誤訳を捜す・禁酒について反論・過ちを鋭く指摘(ボスざる行動)・・・知力ある若さみなぎるエネルギーは誰にも止められない。小生が石松様の事前知識なければ、なんと青臭い度量の狭い人かと最初は感じると思いますが、最後は「なーるほど」と脱帽するでしょう。そうでない方も見えるでしょうが、そのことなんか全く関知しないのが石松流でそれは最後まで貫いてください。
但し最初に先輩にお願いしましたことですが(読者全員の同意が得られると思いますが)「・・・月数回の日曜ゴルフ全廃し、ゴルフ・テニスは、水・土だけに限定、その間海外旅行・・・」の先輩が[細々と生きている年金生活者]
は全く相応しない洒落にもなりません。がんの告知を受けますます強く生きたい日本人??是非これこそ公募して是非ご変更賜りたい。とお願いしても無理??
短い余生を『足るを知る』と自覚しながら生きている私には、[細々と生きている年金生活者] という言葉以上に心にぴったりと収まる台詞は思いつきません。
先日職場の大先輩から「ボケ防止の3ヶ条」を教えていただきました。
@頭を使うこと
A体を動かすこと(スポーツ・歩くなどなど)
B対話をすること
この上記3項目は石松様はどの項目も超満点だと思います。現在日経の履歴書で益川敏英氏が英語は全く駄目でというところに親近感をもちますが、先輩は理系専攻で高度語学力に文筆の高さを備え、凝縮された知識の豊富さに(弱点がなく)あらためて感服しています。
来週某社の役員に向井万起男様の今年の例の新刊書(『謎の1セント硬貨』・・・講談社・1300円・2009年2月20発行)をお渡しすることにしています。本書籍には「第25回講談社エッセイ賞受賞」が表示されており、そのおり「石松良彦様のH.P.」も必ず推奨したいと思っています。
なお、特段の用があるわけではありませんが、愛知県立がんセンターや名古屋にお越しの折でも時間がありましたら、お会いできたらと思っています。当初小生に貴殿のことを紹介いただいたNTT斎藤名古屋支店長が6月本社ご栄転時に企画しましたが、斎藤氏全く時間取れず断念しました。
すごい先輩を誇らしく紹介している後輩より・・・遅くなりました。
K 大学後輩・経・未だお会いした事もない方
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まず初めに膨大な文章、字数にいつも圧倒される。ご苦労様。本文に入る前の私感が面白い。世界遺産の件、気象変化、言われてみるとなるほど。
@西アフリカの代表の木、バオバブ。ところでアフリカから日本に輸入されている木を知っていますか。エチオピアのブビンガ、大変硬い木で高さ30メートルもある。私の家のテーブルカウンターに使っています。
A下痢患者激減の話、納得。インドネシアでは昔、空になったポットペトルに水道水を入れてしっかり栓をして売っているから、要注意。ホテルの冷蔵庫のものにも要注意。現在はそんな事も無いのでしょうが。
B同行者の観察。相変わらず人物像の記述は面白い。果たして石松さんを他の皆さんはどの様に見ているのでしょうね。学者、それとも大学の先生、研究者、それとも、少々我々とは頭の構造が異なる・・・。
D南アフリカは南アのみ仕事で何回も行きましたが、他は何処にも行っていないので、名前は知っていましたが・・・。いい勉強になりました。
ご苦労様、私にはついていけませんね。
L トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・海外駐在歴が長い方
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病気と戦いながら、各地への旅をされた印象記、楽しく読ませて頂きました。有難う御座いました。
私は1999年に膝を怪我して以来、右の股関節の骨頭壊死になりましたが手術を回避すべく、リハビリで水中ウオ-キンッグを日々の日課にして来ました。 お蔭様で痛みも癒えましたので家内と年に数回の国内旅行をしています。
テニスが出来なくなった折には、気が滅入っていましたが、貰ったハンデも受け入れて、これも貴重な経験だと思います。日常は杖を使って何処へでも出掛けていますので、それまで皆目意識していなかったハンデキャップのある方々に目がゆくようになりました。
昨年は実に久方振りにイギリス北部の、古代ロ-マが築いたハドリアヌスの長城や周辺の都市を訪ねる、全くの一人での旅をしてきました。実に印象深い愉快な旅となりました。人の親切・暖かさ・情の有り難さを痛感する旅でした。人は何所も同じだと言う事も!
石松様の行動力、バイタリテイ-に敬服しています。貴方のスピリッツを手本に何事もプラスに受け入れて、日々を納得の出来る過ごし方で大切にやっていきたい、と肝に命じているところです。
これからも宜しくご指導の程お願い致します。今年が素晴らしい年になりますことを念じています。
M テニスクラブで出遭った知人・人生の先輩
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南部アフリカ11ヶ国旅行記拝読しました。いつもながらの峻烈な語り口は、一向に衰える気配がありませんね。今回の“足を知る”は我が意を得たりでした。
人間の欲望は哀しいほど際限がなく、この足を知らぬための悲劇が今の日本を覆っているのではないかと思います。派遣村に代表されるその日の食にも事欠く青年や壮年の人たちを見ると、やはり根本的な問題がそこには潜んでいるように思われます。
経済の拡大とともに大都会への人の流れが拡大したが、減速経済に入った現在、多くの人が取り残されということでしょう。一方地方では県庁所在地でさえ人口の減少に晒され、大都市への流出に慄(おのの)いているのが現実です。
いまこそ足を知るを実践する絶好の機会ではないでしょうか。一次産業に回帰し、自給自足の原点に戻れば穏やかな日々を過ごすことができるはずです。もちろんGNPは減少するでしょうが国民総幸福度GNHは増大するはずです。
高校進学率が9割を超え、大学は5割で全入など諸外国と比べても異常と思います。好きでもない学校に通わされる子供たちにとり、この時期は人生の無駄使いのなにものでもないと思います。今こそ価値観を変え“足を知る”を実行すべき時ではないかと考えます。
幕末〜明治初期に多くの西欧人が日本を訪れ滞在記録を残しています。総じて彼らの感想は「日本人はそれほど豊かとは思えないのに、どうしてあれほど穏やかに暮らしているのだろうか」とその印象を語っています。
N 大学教養部級友・工・いつも的確な読後感を賜る方
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読みました。読みでがありました。メモを取りながら一気に読みました。3時間半も掛かりました。さてこれから読後感を書かねばと思うとこれまた大変ですが、アフリカ野郎をかつて自認していた小生としてはコメントのいくつかをしなければ格好がつかない。
今はマレーシアKLにいます。今日は何にも入れない日にして朝からホテルで過ごしています。こんな日でないと貴殿の長文(分厚い本を読むのと同じ)は読みきれません。今読み終わって35〜6年前(小生の南ア駐在は1972〜77年、アテネ事務所駐在の北、東、西アフリカのフィールド仕事は1983年1月ー84年5月)のことからいろいろ思い出されて懐かしく、大変興味もって読ませてもらいました。
それにしてもこの旅は古希を過ぎてからやるのは大変な旅で、よくやられたと感心してしまいます。気力、体力、お金がないと出来ませんね。小生などスケジュール見るだけで、たとえお金をくれても行きません。貴殿は最近はどうか知りませんがカウントリー・ハンター(世界何ヶ国に行ったか)の集まりでこのようなツアーが成立するというわけです。これも日本人だからこの種のツアーが出来るのでしょう。他の国では考えられないでしょう。丁度『にっぽん丸』が日本人ばかりで世界一周するのにどこか似ている感じがしました。
もうそろそろ貴殿もこの様な苛酷なツアー参加、止してマイツアーというかひとり旅をされることをお勧めします。この方が案外金銭的にも安いかもしれません。何よりも同行者が皆バカに見え、気まずいことを抱えながら旅しても面白くないと思いますが。もっとも添乗員やガイドの揚げ足を取ったり、時には気取っている同行者の化けの皮を剥がすのが、旅の面白さの一つなら結構でしょうが。
冒頭の世界地図も殆ど色が付いて白いところがわずかになってきましたね。大きな国ではスペインとメキシコ、地域では東と北のアフリカ・アラブ、それに案外残っているのは東南アジアですが、これは近いのでいつでも行けるというわけで残しているわけですか。もし東南アジアをやられる時はタイかマレーシアに拠点をもって、エアアジアの安い飛行機で現地雇いのガイドをつけて一人で回られるのを強くお勧めします。その方が『足るを知る』をもっと感じられるかとも思います。
地球温暖化の原因はすべて人類が出す炭酸ガスであると言うのが世界中の常識なっているようですが、小生はいささか眉に唾をつけて聞いております。国連のある機関が『ヒマラヤの氷河は2050年までに消える』と言って来たのは誤りでした、と公式見解を出しました。
貴殿言われるように人間辺りが少々物を沢山燃して炭酸ガスを出しても、もっと大きな要素で(地軸の変動、太陽の黒点の変化など)温暖化が支配されているように思えてなりません。この事は先の『世界一周の船旅』の講師で乗ってこられ、南極探検隊隊長もやられた筑波大の先生も言っておられました。
と言っても化石燃料をどんどん消費してよいということではありません。これは無尽蔵にあるわけではないので。どうも今の世の中、科学的根拠が曖昧のうちにムードだけが先走って、もの事がややこしくなっているように思います。
『星の王子さん』のバオバオの木、久しぶりに写真ではありますが、楽しく見ました。そういえば南アのJHB(ヨハネスブルク)やダーバンあたりでは見たことがありません。北部トランスバール州くらい行かないとないのかな。小生はアンゴラに行ったとき初めて見ました。丁度実をつけている徳利をたてた木でした。その実がまた信楽焼きの狸の金玉をでっかくしたようなものがぶら下がっていた姿は滑稽で今でも鮮明に思いだします。
南ア駐在から帰ったのが1977年、その後何かで出張したのが84年秋です。もちろんまだアパルトヘイト華やかなりし時でした。我々日本人は名誉白人という不名誉な立場で住んでいました。もう一度行ってみたい気もしますが、もう殆どの仲間も死んだり音信不通になってしまって、がっかりするなら夢だけでいいかと思うこの頃です。
何しろJHBまで遠い。今回の旅は香港から直でJHBですね。今もあるのですね。駐在の終わり頃この便が出来て、出張で日本に帰ったとき使った気がします。747の胴体を短くした飛行機だったように思います。当時は世界でももっとも長いロングレンジのフライトの一つでした。JHBに降りてからそのまま乗り継いでナミビアまで行かれたようでよく体力が持ちましたね。
ナミビアもボツワナも当時はまだ南アの属州(テリトリー)で国連から委託されたところでした。トヨタの販売店も南アトヨタの傘下でした。ナミビアではブンツックから大西洋に面したウルスベイまでランクルで砂漠を走ったように覚えています。
凄い霧の深い街で、湿気が多く潮風に吹かれるので車のボデイ腐食が激しいが、各社同じようなものであまり文句はありませんでした。トヨタがボデイ腐食を大きな問題に取り上げ,防錆鋼板を使うようになる大分前の話です。もしあの時この腐食を問題にしてテクレポを書いて報告しても、本社では何だこんな特殊の問題といって一笑に付されてしまったでしょう。
ナミビアからケープタウンに行き、JHBを経由してウガンダのエンテベですか。JHBとエンテベ間のフライトが今はあるのですね。黒人国との交流がそれだけ多くなったと言うことですね。当時は東はナイロビ、西はアビジャンしかフライトなかった。これも人道上というか、燃料補給のためストップするという理由だったと思います。
黒い国からすべて国交を閉ざされても平気でやってこられたのが当時の南アでした。ただ一つの国マラウイだけが抜けることができる黒い国でした。この国で周辺国のビザを取得してフィールドしたものです。
ウガンダ、ルアンダ、ブルンジ、懐かしい国々です。ルアンダのキガリからブルンジのブージュンブラまで、またその逆も5〜6人の小さなセスナで飛んだものです。着いても迎えに来てくれず、乗客みな帰ってしまい今日はフライトはこれでお終い、空港は閉めるからと言われて一人淋しく迎えを待っていたことを思い出した。
ルアンダは少数の長身族(ツチ)が政権をとって威張っていました。反対にブルンジでは短身族(フツ)が多数で政権をとっていて、二つの国は仲が悪かった。見るからに体つきの違う種族が二つの国にまたがって住んでいなくて、どちらかに移動して仲良くやれないものかと思ったものです。最後には悲劇が起こってしまった。
ルアンダは当時フランス人が代理店のマネジャーをしていて、その奥さんがローカルアートに関心ある人で、勧められてローケツ染めの夕日をバックにインパラ親子の染物をかってきました。それを表装して時々それをかけてアフリカを懐かしんでいます。
キガリからエンテベに戻り、ナイロビに。そこで乗り継いでルサカ経由マラウイのリロンゲに。この日程も大変な強行軍ですね。
リロンゲは思い出が多い。今は話してももう時効でしょうが、マラウイ陸軍にランクルを100台ほど売ったことがあります。その技術講習指導ということで、リロンゲの軍の施設のゲストハウスに一週間ばかり泊まったことがあります。丁度その頃フデリック・フォサイスの『戦争の犬ども』という小説が売れてた。
ナイジェリアのビアフラ戦争を下敷きにした欧州からの傭兵が活躍する話。現地人軍隊がいかに弱く、軍全体をのっとることは簡単でアフリカで一旗あげられる話です。ゲストハウスでこんな本を読んでいると、しがないトヨタのドサ回りなんかやめて本当のアフリカ野郎になって、一暴れ出来そうな気持ちになったものでした。何しろ隣のアンゴラもモザンビークもポルトガルからの独立戦争であちこちに小さな戦争が起きていた頃でしたので。
リロンゲは国のほぼ中央にあり、新しい首都としてできた街。昔からの英国の植民地時代は、北ローデシアの時はブランタイヤが中心でした。代理店もここが本社でした。アフリカ流れの変な社長がいたり、インド系のマネージャーがいたりで、マラウイ人がまだマネージャーまでなれる者はいなかった。
たいしたレストランもないので、それらマネージャーの家に呼ばれてよく食事したものです。その中の一人が今でも付き合っていて、万博の時には『ほっとんかん』(既に購入済みの介護つき老人ホーム)に泊めてやり、こちらが英国に行った時には泊めてもらったりしています。彼はポルトガルにも家をもっていて、そこにも行って泊まったことがあります。こんな貴重な生涯の友人を得たのもマラウイという小さな国でした。
ベイラに緊急着陸。びっくりされたことでしょう。こんな街があることさえ知らなかったのではないでしょうか。小生にとっては懐かしい街です。
モザンビークはまだポルトガルの海外県でした。代理店のオーナーはもちろんポルトガル人です。当時ポルトガル人には二つの道しかなかった。いよいよ黒人国に国が変わるまでに出来るだけのものをもって逃げ出すか、黒人と一緒にこの国建設のため一緒になって働くために残るかでした。
トヨタ代理店は当時はローレンスマルケス(今のマプト)に本社、ベイラに支社があり、出張時には北の支社まで行ってました。この支社の支配人は後者の方に属し、俺は逃げ出さないと言ってましたのでエライ奴だと思って買ってました。本社のオーナーは逃げ出し組みで、我々が持っていくわずかな外貨でも交換してくれという有様でした。
それに出張時にはどうしても必要な修理部品を南アから持っていくので、もちろん代金は現地通貨でしかもらえません。宿代や少々の土産もの買っても使い切れません。
当時南アではアパルトヘイトはなやきし頃、具体的には白黒のセックスはご法度。名誉白人の日本人は白でも黒でも相手が肌の色が違えば、現場で両者即逮捕、刑務所行きです。こんな恐ろしい国では立つものも立たなくなってしまう。
しかし、ちょっと行ったLMやベイラには日本人に体形も似た可愛いポルト女が一杯。現地マネーはポケット一杯、自然にあまり技術トラブル無くても行きたくなるわけです。そんなある時、ベイラでいい子を見つけホテルに来ることを約束したのに一向に現れず、悶々と夜を明かして待ったことまで今思い出してしまった。どうも思い出というのは上手く行ったときより失敗したとか、トラブッタ時の方がよく残るものです。
マプトからスワジーとレソトにバスで行く。これは中々いいバス旅だったでしょう。おしゃられるように地面を走るのは飛行機とちがって見るものがあって楽しい。小生も好きです、助手席に座るのが最高だが今の観光バスでは乗せてくれない。最近タイで2階建てバスの上の席で、最前列に座る機会があり最高でした。
スワジーもレストもカントリーハンチング・ツアーの何ものでもないですね。しかし変わった帽子を見つけられたのは良かったです。小生も駐在員時代でも一度くらいしか行ってません。販売店も当時はなかったくらいです。寒いなか顔に真っ白な白粉を塗りたくった少女が踊っていたことを思い出します。
いよいよハイライトのビクトリアフォール。世界3大の滝を回った貴殿の感じはイグナスが一番ですか、小生はイグナスは行ってないので何とも言えません。ブラジルからチリー・サンチェゴに向かう飛行機の上から見たことはあります。人には世界三大の滝は見たといってますが・・・・・ナイヤガラはビクトリアの下ですな。滝は滝らしく野趣が無くてはいけない。ナイヤガラは観光化しぎて夜には水を止めると聞いてがっかりしました。
この滝には駐在時奥津さん一家と一緒に家族旅行していってきました。これまた懐かしく写真を見せていただきました。ザンベジ河の夕日のクルージングなど観光コースは同じようですが、当時はザンビア側には行けませんでした。最近年と共に高所恐怖症が強くなり、今ではあんな柵もろくにないようなところは歩けません。あの頃はまだちょろちょろする子供がいたのだから。
ボツワナ。ここは小生のいた頃は何にもないところでした。従って行った事もありませんでした。今は観光開発が凄いらしいですね。昔はクルーガーが動物を見に行くところで3回行ってますが、ボツワナの方が動物の密度が多そうですね。
今から6年前『アフリカンアート展』が豊田市美術館で開かれました。それをやったのはアフリカ女郎と称している名古屋の人で、寄付集めで応援したことがあります。彼女がボツワナに入って作品を集めてきて開いたものです。その折東京にあるボツワナ大使館から文化アッタシェも来て挨拶をしてましたが、ダイヤモンドをはじめいろいろ資源も発見され、観光も盛んで今やアフリカでも一番裕福な国なんて聞いて驚きました。アフリカでは何にもないところに突然国が出来、そこが結構栄えるところ。それがアフリカ、そこがアフリカの魅力かもしれません。
貴殿の旅行記を読んでいるうちに昔のことがどんどん思い出されてきて、貴殿の旅行記にコメントどころか自分のことを書いてしまいました。その意味でも貴殿の旅行記で昔に戻ってみることが出来楽しかった。この膨大な旅行記のお蔭です。お礼を申しあげます。
これもKLのホテルでノンビリと一杯やりながらやっているから、こんなことになったのでしょう。これで貴殿から再度にわたり催促されていたことを実行したことだけでホッとしてます。
日本はまだまだ寒そうです、御身大切に! Tシャツと半パンで快適なKLにて
O トヨタ先輩・工・訪問国数80ヶ国強、アフリカだけで40ヶ国を超えるアフリカ通・奥様が永眠されたあとは毎年海外に長期滞在しながら悠々自適・温泉と介護付きの1DK老人ホーム購入済み
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読後感が遅くなり申し訳ありませんが、リコール問題を受けての品質向上対応 や賃上げの労使交渉などここの所忙しく、会社のPCで石松さんの旅行記を読
んでいる私にはあまりにも大作で、読みきる時間が取れませんでした。それでどうしても途切れ途切れになってしまうのですが、これでは読後感がま とまりません。
あと2年もすれば、悠々自適になり豊田市へ戻りますので、その時はしっかりした読後感だけでなく、またテニスもゴルフもよろしくお願いします。
昨日時間を作り、また最初から読み直しました。内容は非常に面白く、しっかり読みましたので、読後感も考えながらですと結構時間がかかりました。
読後感
大作を興味深く読ませていただきました。事前準備(調査)と石松さんの知識があいまって、旅行記を論文の域まで高め ており、読み応えがありました。また単に国ごとの情報でなく、インフラ、料理など項目別にこの地域の特色を記述してありますので、理解しやすかったと思います。
これが前段に来ているので、あたかも自分が旅行へ行くための事前調査をしている感覚で読み進むことが出来、臨場感がありました。どのようなアフリカの旅行案内書より、石松旅行記の方がお勧めと思います。
本論に対する枝葉のところが結構多いのですが、これが読んでいて面白かったです。特に同行者の人物紹介は圧巻でした。
私は現職を退任したら、健康なうちは海外旅行に打ち込もうと考えています。対象国はやはり世界遺産の中から、自然遺産と遺跡を選定する積もりです。海外勤務から帰国して5年あまり過ぎましたが、その間海外には1回しか行っておりません。
現状まとまった時間が取れないのと、長期休暇中(春・夏・正月の連休の意)の旅行代金があまりにも高いためです。海外赴任中(トルコ?)にそこから海外旅行に行ったのがほとんどで、5泊6日のエジプトツアーでも4万円程度でした。
海外旅行に対する価値観が日本と外国では異なり、低い相場になっていると考えます。私もその相場観が身についてしまいました。
南アフリカに3年間駐在した経験から、読後感を書こうと思いましたが、30年以上前のことなので比較の対象には全くなりません。ただ思い出しながら気がついた事を記します。
成田発香港経由でヨハネスまでは当時とあまり変わらない時間がかかっており、航空機は大型にはなったが速度はあまり進歩していないと言うのが実感です。当時は羽田発16:00バイカウント10(3席+3席、全てエコノミー)で、香港、セイロン、セイシェルズの3トランジットでヨハネス着6:00だったと思います。狭い機内での21時間は大変でした。
アフリカの生活は厳しいが、自殺者は日本の3万人/年に比べ皆無と言う事はそのまま日本の大きな問題と思います。
南アフリカ駐在時黒人居住区のメイドの家へ行ったことがありますが、電気も来ていない家に大家族で住んでいて、和気藹々と結構楽しそうでした。奥さんを我が家へメイドに出し、その家はさらに安いメイドを使っていました。
水は女性と子供が毎日石松さんの写真のように水がめを頭の上に載せて1〜2km汲みに行くのですが、毎日達成感があるのでしょう。笑顔と笑い声が家にあふれていたように思います。
龍安寺の「吾唯足知」のつくばいは有名ですが、石松さんの言われるように何が幸せか分かりません。
肉の話ですが、仙台は牛タンで有名です。ほとんどがアメリカ産のタンを輸入していましたが、狂牛病で輸入禁止になり半数の牛タン屋が閉店しました。何とか営業を続けた店はオーストラリア産に切り替えました。しかしコーンを中心とした飼料を食べているアメリカ産に比べ牧草を食べているオーストラリア産は不評でした。アフリカでは全て牧草(雑草)だと思いますが、我々の舌が飼料育ちに慣れてしまったと言えると思います。
風呂の湯量の話が出てきましたが、個別に電気湯沸かし器を持っているホテルですと、その容量はバスタブ一杯無いくらいです。現地の人はシャワーを浴びるだけですので、これで十分で湯沸かし器のタンクを増設する必要もありません。
こう言う家に住む日本人は、我慢するか湯沸かし器を増設しています。私は長年の習慣でバスタブの時はシャワーだけで済ますようになりました。「シャワーだけだから白人は体臭が強くなる」と家内は言っていますが。
私は残念ながら南アフリカ駐在時はスワジランドしか行っておりません。ビクトリアフォールはテロで危険だとか、旅行も治安が問題と思っていましたので。家でも寝る時は、枕元に目潰し銃とゴルフのクラブを置いていました。
しかし今考えると、あの頃の方がずっと安全でした。ワールドカップまであと100日ですが、開催中の南ア訪問者に対する安全確保がうまく行くか心配です。
それでも、退任したらゆっくりアフリカを訪問したいと思います。貴重な情報ありがとうございました。
P トヨタ後輩・工・ゴルフ&テニス仲間・アフリカ通
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チュニジア(平成26年元旦脱稿)
今回の海外旅行は、私には特別な節目だった。私は過去11年間に胃がんと食道がんの入院治療を五回も繰り返してきた。爾来、自覚症状が現れる前にがんの再発・新発を発見すべく、愛知県立がんセンターで全身のがん検査(血液・CT・造影CT・内視鏡による目視・ルゴール染色・ナローバンドイメージング=NBI)を三ヶ月間隔で受けてきた。更に完璧を期して、全検査資料のコピーを使っての、名医によるセカンドオピニオン・サードオピニオンの診断も受け続けてきた。
我が寿命は幸運が重なっても日本人男子の平均寿命である傘寿(数えで80歳)と予想し、死ぬ準備にも着手。豊田市営墓地の抽選に幸いにも当たり、3*3平米・総重量15トンの墓も完成。墓誌には自作の戒名『世界百余国漫遊大居士』を思い切って彫り込んだ。百余国とは魏志倭人伝からのパクリだ。平成25年のお盆には自分の墓参りも済ませた。百余国の最小値は101ヶ国。今回の旅は待望久しいその101ヶ国目だった。遂に結願(けちがん)。
今や断捨離・野菜だけは自給自足の仙人生活。来宅する子・孫と会うのは正月だけ。日常生活は5km圏内。友人とのお付き合いは水・金の全ての日に出かけるゴルフかテニスと、500km圏内にある自噴掛け流し温泉に、仲間と二ヶ月間隔で出掛けるだけ。我が心境を表した『細々と生きている年金生活者』を人様に何と揶揄されようとも、ものは考えよう。極楽浄土で生きていると自己満足している余生だ。
我が母校(福岡県立中学第1号・東筑・大先輩の高倉健氏は俳優としては森繁久彌氏に次ぐ二人目の文化勲章受章者・女優は森光子さんと山田五十鈴さん)は当時100分授業だった。世界史の先生は博覧強記の見本のような超物知り。教科書はあったが無視され、戦争の講義に何時も没頭。古代史で超有名なポエニ戦役の説明には何と100分間。
ポエニ戦役(カルタゴ対ローマ)は紀元前の三大戦役の一つだ(残りはヒッタイト帝国対エジプト帝国⇒世界最初の和平条約を締結したカディシュの闘い。アケメネス朝ペルシア帝国対ギリシアの都市国家連合群=ペルシア戦役)。これらは地中海世界と西アジア世界とのいわば文明の衝突・覇権争いだった。私はハンニバルの奇想天外な戦術にも拘らず、ポエニ戦役の敗者となったカルタゴの遺跡を何としてでも見たかった。
はじめに
トピックス(順不同)
@ 客室乗務員
平成25年8月20日に後期高齢者になった私には、カルタゴは想像以上に遠かった。離着陸の僅かな時間とはいえ、上空から眼下の景色を眺めるのは、かつては旅の楽しみの一つだった。しかし、いつの間にかその意欲はすっかり消滅した。窓際の座席は今や極力避けるようになった。景色を堪能するよりもトイレに出かける利便の方を優先した。今回は幸いにも往復ともに通路側の席を確保できた。
長時間の夜間飛行中、友人に勧められた睡眠薬を飲む勇気はなく、眠るためにビールをガブ飲み。しかし、これには難点があった。世界に冠たるローマ皇帝と雖も排尿ばかりは他人には頼めない仕事だ。しかし、今回のカタール航空の客室乗務員は、私がトイレに近づくとドアをさっと開けてくれた。こんな気の利いたサービスに接したのは初体験。
彼女たちへのサービス教育は徹底していた。トイレ帰りに私はハイネケンの缶ビールを所望した。さっと開栓。でも、足元不如意の私は『ここから座席までビールを持ち運ぶのは危険。座席位置の書かれた半券を示し、ここまで持ってきてほしい』。『畏まりました』。簡単な摘みと一緒に運んでくれた。客が飲まずにカバンに入れて持ち帰るのを防止するためか、必ず開栓して手渡すようにとマニュアルに書かれていると推定した。
A 費用
基本旅費・・・・・ 139,000円
燃料サーチャージ・・・・・30,000
海外入出国税・・・・・・・1,000
日本国内空港使用料・・・・2,650
旅客保安サービス料・・・・300
合計・・・・・・・・・・・172,950
変更分・・空港諸税追徴・・540
国内移動交通費往復概算・・2万円弱(詳細は失念)
総費用概算・・・・・・・・190,000
B ホテル
チュニジアでは、どんなおんぼろホテルでも何故かシングルベッドが三台用意されていた。我が初体験だ。どうしてなのか質問するのも忘れていた。フランス人は長期休暇を満喫すべく、元植民地には妻・子と一緒に旅行に出かける人が多いためだろうか??
いわゆるミニバーはあったが、中はいずれも空っぽ。ビールを飲みたかったが・・・。時には電源も壊れていて冷蔵庫が使えないことすらあった。
C 食事
今回の旅で一番難渋したのは食事だった。私はいつの間にかチュニジア側から見れば、極端な偏食者だった。定食でも、バイキングでも食べたい料理が見つからないのだ。同行者の何人かは2Kgも体重が増えたと喜んでいた。食欲は見るからに旺盛だった。でも、私は遂に2Kgも体重が減少。時計の金属製バンドがユルユルになった。この失った体重を平成25年内に取り返せるのか自信がない。
日本では今、高齢者の栄養失調が度々マスコミで取り上げられている。特にタンパク質不足だ。多少は小太り者が長生きするそうだ。胃がんの手術で胃の2/3を切除している私は、三度の食事だけでは栄養不足になるのは必至。手術後には54kg⇒46kgまで痩せこけた。当時64歳だったのに浦島太郎のように一気に20歳も齢を取ったかのごとく、顔には縦皺が無数。ぞっとした。
失われた筋肉を何とかして奪還するための間食では、ビールの摘みのたんぱく質で積極的に補填して来た。炭水化物中心のお菓子やケーキ類は一切食べない。何とかして動物性たんぱく質を食べるべく、摘み専用の121リットルの小型冷凍庫と、食材の解凍及びビール冷却専用の75リットルの超小型冷蔵庫まで購入した。
何とか58kg(胃がん手術前の40年間は注意深く54kgに維持・管理していたが、小太りが長生きと知り必死になって4kg増量した)の体重を確保。関取ならずとも、体重こそは体力・免疫力の源泉だと盲信している。
今秋からは主食のコメも『金芽米(きんがまい)』に変更した。金芽米とは精米技術の名称。お米のブランド名ではない。玄米の栄養と白米の食感を確保した技術だ。金芽米の富山産コシヒカリなどと呼ぶことになる。松坂屋豊田店では売っていなかったが、近くのトヨタ生協朝日店で入手。
松坂屋豊田店の焼きたてパンは美味しいが私は食べない。炭水化物過多の偏食を恐れるのだ。一方チュニジアのパンは何故か全く美味しくない。1956年までフランスの植民地であった影響か、フランスパンの斜め切りの破片が山のように提供されていたが、パサパサで喉を通らない。一口食べるのがやっと。子供時代に食べたコッペパンにも劣る味覚だ。
果物は糖度が低く、これもまた喉を通らない。果物ジュースは還元物ばかり。生ジュースがなく、飲みたくなるソフトドリンクもない。結局、多くのイスラーム圏内同様、旅行者から搾取するような高価なビールで空腹を満たす結果となった。
? 相部屋仲間
今回のクラブツーリズムの団体旅行では相部屋希望者の受け入れもしてくれた。私は相部屋大歓迎。一人旅との差額(18,000円)は同室者との交際費・チップ・お土産代に何時も当てる習慣。今回の男性相部屋希望者は三人。意外に少ないのだ。5泊の内、どの日が一人部屋になるのかは籤引きだった。
半世紀前までは日本には生涯独身者は殆どいなかった。独身者は心・身のどこかに障害のある気の毒な方くらいだった。でも、あっという間に舞台は暗転し、別世界になった。相部屋希望者三人の中にも独身者が一人いた。今回の同行者の中には他にも類似の素晴らしい独身男性がいた。イケメン・長身、羨ましい程の立派な体型なのに独身だった。この方は一人部屋だった。
我が生家には二歳年上の実兄がいる。帰省の折に情報収集。同じ集落内に無数の独身者がいるそうだ。日本全体に独身者が溢れているのは紛れもない事実のようだ。私の兄弟姉妹七人の子供は合計18人。既婚者には全員子供がいる。偏差値はピンキリのようだが、心身ともに健康なのが救いだ。
18人中最後に残った独身男は30代半ば。元南極越冬隊員⇒弟宅訪問時に南極土産の氷でオンザロック。氷がキンとはじける珍しい音がした。彼は道草を食っていたが近々結婚するらしい。披露宴はもはや恥かしいのか中止し、交際相手が懐妊したら婚姻届を出すらしい。甥を批判する気は全く起きない。
叔父に当たる私だって、仏教界とは訣別。葬儀には僧侶は呼ばない。仏壇も位牌も不要と遺言済み。自作の戒名を墓誌に彫り込み、生きている今から自分の墓参りをしている。価値がないと判断した日本の伝統や習慣などは完全に無視し、誰からも拘束されない生き方を、逆に自慢すらしている。
E 国内電車
今回は珍しく関空発着。宅配便で空港まで別送するほどでもないと考えて、自力でカバンを引きずって運ぶと決意したものの、拙宅から関空まで辿り着くのは体力の衰えたがん患者には一仕事。でも成田発着よりもマシだ。かつて団体旅行で一緒になったお爺さんは『エコノミーのカバンの重量上限は通常20kg。20kgのカバンが運べなくなったら海外旅行は止める』と、言っていたのを思い出す。
成田の場合は中部=成田間の国内線の便数が極端に少なく、座席が確保できるか不安なだけではない。何故か夜間出発、早朝帰国便が多いのだ。団体旅行を当てにした格安便?
往復ともに成田での待ち合わせ時間が半日以上になる場合もざらだ。運が悪ければ成田泊だ。
拙宅⇒自家用車(運転は荊妻)⇒トヨタ自動車元町工場前⇒名鉄バスセンター(高速バス)⇒近鉄名古屋駅(近鉄特急)⇒近鉄難波駅⇒南海電車難波駅⇒関空(南海電車)。片道概算6時間。名古屋駅でも、難波駅でも歩行移動距離が長すぎる。大きな駅は大嫌いだ。
関西は関東と並ぶ私鉄王国。近鉄は新幹線と同じ標準軌。揺れも少なく乗り心地も抜群。南海は駅舎が素晴らしい。欧州のターミナル駅同様ホームが屋根で覆われ、吹き曝しがない。屋根は単なる雨除けではなく、屋根裏は各種配管・配線の取り付けにも活用されている。
一方、愛知県下の私鉄は実質的には名鉄の独占。車両が古くて貧弱なだけではない。新名古屋駅のような地下での発着駅を除けば全線、ホームにこそ屋根はあるが壁のない吹き曝し。競争がもたらす果実がない。
でも、南海電車から久しぶりに眺めた商店街の栄枯盛衰も激しかった。鉄道に直行する通りが次々に現れた。小さくてもいわゆる商店街だ。しかし、人通りは少なく、シャッターが下りたままの店舗が多すぎた。左側に見えた通天閣周辺だけが少し賑わっていた。
JR環状線のターミナル駅に隣接する北の阪急本店・阪神・大丸や南の高島屋・近鉄本店に、郊外の富裕層の客を取られるのか、かつての繁華街は寂れる一方。心斎橋の元そごう本店は改築したのに客足は戻らず、隣接する元大丸本店に売却されたものの、両店ともに集客力はイマイチ。シャッター通りは地方都市だけではないようだ。
私が電車に乗るのは久し振りだった。往きの南海電車急行内の雰囲気は一変していた。関西空港で降りた客は同じ車両内では私一人だった。通勤電車だったのだ。車内の雰囲気はかつてとは一変。何と2/3以上の若者が一斉に携帯端末を操作していた。私は既にシーラカンスのような石器時代人になっていることを悟らされた。
私は携帯端末を買ったことがなく、今後も買う気は全くない。日進月歩の電子機器は操作を覚えるだけでも老人には苦痛。字が小さすぎて眼鏡なしでは読めないし、キーも小さすぎて操作がしにくい。加齢による記憶力の衰えはないそうだが、思い出し力が激減するのだ。目の前にいる知人の名前が思い出せない現象がその典型例だ。若者が何に夢中になっているのか分からなかったが、お蔭で車内では会話も聞こえず静かだった。
驚いたのは殆どのサラリーマンはノーネクタイ、そのためでもあるのか襟垢に汚れたシャツを見かけない。クリーニング業界の寡占化に伴う合理化が進んだのか、豊田市内でも家族経営のクリーニング店の殆どは廃業し、大手と契約している小さな取次店が今や溢れている。シャツ一枚の洗濯料金は100円〜150円前後。みんな毎日取り換えているようだ。かつて大平首相がシャツは連続して二日間着る、と言っていたのが嘘のようだ。
F 脚力強化法
団体旅行では脚力不足で難渋する頻度が多くなった。整形外科医が各種のトレーニング法を提案しており、いろいろ試みたが長続きしなかった。一日の時間は一定なので何かをすれば何かを止めねばならない。背反事象だ。
ある時、脚力の簡単な評価法を知った。椅子に座った状態から、片足立ちが出来るか否かだ。私は試行して愕然とした。フラフラとして立ち上がれないのだ。でも、我が日常生活を反芻したら、朝晩二回の入浴時に各10分間、単に体を温めているだけの時間があった。この時間を活用することにした。
浴室の壁面にはデジタル時計付のボイラー制御用のリモコンが取り付けられていた。窮余の策とは浴槽内で片足を交互に持ち挙げ、膝の後ろに両手を回し、伸ばした足を極力腹部に近づけるストレッチだ。一ヶ月間続けたころから若干の効果が感じられてきた。最初は足の指先と手の指先とは20cmも離れていたが、今では両者を接触させられるほど柔軟性が増してきた。その上、水平歩行速度が回復してきたのだ。
今後も毎日焦らずに続けることにした。その途端に、今年の五月末から始めた毎週一回の散歩は中止してしまった。嫌いなことは長続きしない典型例だ。
ある時、熱ショックによるタンパク質の改質効果作用を知った。42℃の風呂に入りストレッチを繰り返せば筋力が増強されるのだそうだ。NHKの『ためしてガッテン』でも紹介されたそうだ。私はまさにその典型例を実施していたのだ。心なしか、太ももに力瘤のような筋肉が現れた。嬉しくなった。
NHKのためしてガッテンからの引用。イワシの頭も何とやら。害はなさそうだから続ける予定。
温めると細胞の中で「熱ショックたんぱく質」という物質が増えます。すると、さまざまな不思議な現象を起こします。トマトやレタスを温めると長もちするようになります。熱ショックたんぱく質は、細胞内のたんぱく質を修理することで“細胞を強化”してくれるんです。ただし、トマトは実験段階ですので、ご家庭での再現は難しいです。レタスは50℃のお湯に2分つけると赤茶に変色するのを抑制することができます。番組では差がわかりやすいように、温めた後、常温保存しましたが、ご家庭ではあら熱をとって冷蔵保存することをお勧めします。
人間の細胞にも熱ショックたんぱく質が存在。温度が上がると増え、免疫力とも深い関係があります。ただし、あくまでも実験段階の結果で人間の体の中で、どのくらい免疫力が上がるかはわかっていません。また、風呂で温めたレベルでは免疫力が大きくアップする事はありません。
熱ショックたんぱく質は体温が38℃くらいになると増えると言われています。熱ショックたんぱく質の“修理パワー”を治療に活用するべく臨床研究している大学病院で、体験すると専用の機器を使って遠赤外線で温めても、38℃に上がるまでに3〜40分かかります。入浴でも湯温によりますが、ある程度の長湯が必要です。よかれと思って長湯しすぎると、心臓などに負担がかかるほか、こんな危険性が考えられます。長湯しすぎには十分注意してください。のぼせてふらつく(特に高齢者の方は転倒事故につながる危険もございます)血栓ができやすくなる(42℃以上の高温で長湯をした場合)熱中症(特に高齢者や子どもは体温調節がうまくいかず、急上昇してしまうことも)
昨年から治療ガイドラインに掲載されるようになった「和温療法」。慢性心不全の方を対象とする治療法です。60℃と低めのサウナで15分間温めて、血管を柔らかく若返らせようとするのが狙い。血流がよくなると、血管内壁から一酸化窒素が出て、血管の筋肉をほぐして柔らかくしてくれます。すると、全身の血流がよくなるので慢性心不全による全身症状が改善。ただ、同じ血管若返り効果は運動でも得られます。健康な方でしたら、鼻歌が歌えるくらいのウォーキングを1日30分。週3日行うと、3週間で血管弾力が15%アップしました。
G 参加者
今回の参加者は38人。成田出発者が30人。関空が8人。女性が2/3位。両者はカタール空港で合流。女性添乗員は成田から。我が体験では30人を超えると何かと無駄になる時間が多すぎる。海外ではどこでもトイレの数が少なく、ガソリンスタンドなどでのトイレ休憩に時間が掛るだけではなく、バスの乗降にも時間が掛り、イライラするのだ。旅費が安いから我慢せよと言われているようなものだが・・・。
今や日本では全国に1,000ヶ所を超える道の駅、380ヶ所(うろ覚え。正確さには自信はない)もある高速道路のSAは、大好きなデパ地下とも共存共栄するほどの賑わいだ。屋台・レストラン・簡易食堂・産直市場・お土産店に加えて綺麗な多数のトイレ。場所によってはコンビニや温泉すら併設されている。
これほど充実した休憩できる道路サイドの拠点を海外では一度も体験したことがない。年間六回の温泉旅行仲間との移動中には、何時もトイレ休憩にこれらを活用。ここでお土産を買うのが習慣になった。幹事が毎回指示する20分の休憩時間が短すぎるくらいだ。
H 女性参加者
高齢になった女性が身だしなみへの気配りを失うと、私は自分の身だしなみや外観は棚に上げながら、見るに堪えない心境になる。
私は大人の女性を三分類している。産卵期の場合は新品と中古品の女性に分類。各種の調査報告によれば女子大生にも、昨今では新品は少ないそうだ。産卵期を過ぎれば老婆だ。自然界では産卵が終わった鮭に象徴されるように、存在意義がなくなると自然の摂理からかそのまま死んでしまうが、人間界ではその時点からの余生が長い。何と40年以上もあるらしい。
いつの間にか、理髪店にも低価格革命が浸透し、1,000-1,500円床屋が全国展開を始めた。その効果か、高齢者も床屋に出かける回数が増えたようだ。一方、美容院は女性の虚栄心を擽(くすぐ)るのか、低価格競争には未だ陥っていないようだ。結果的には高齢女性の美容院通いの回数が落ちているようだ。
野生動物のように髪の毛が伸び放題の老婆が増えた。伸びた髪の毛を麻縄(家庭菜園では必需品)で縛るなどの努力をしないためか見苦しくて堪らない。外観ではなく中身で勝負と言いたげな言動には一層呆れてくるから、私はからかいたくなるのだ。
人生50年時代でも、女性の平均余命が米寿になった今でも産卵期の終了年齢には変化がないそうだ。医療技術他の進歩により巷には老婆が溢れている。それでもパートなどで働いている女性は身だしなみには多少は心がけているが、小金を持っているらしい海外旅行組の老婆の半数は、日本人の恥さらしの典型例だ。
だぶだぶのズボン(昔はモンペと言った。今はパンツと言うらしいが・・・)は履き易いのか、ゴキブリやアヒルのお尻のように、ズボンの中で垂れ尻がフラフラと左右に揺れている。飛行機の搭乗員の女性のように長い髪を後頭部に集めて丸め、華やかで美しいリボンで飾る姿には凛とした輝きを感じるが、山姥(やまんば)のようにザンバラ髪を振りまく老婆には話しかける気も起きない。
I 持参している小物品
発展途上国に出かけるときには先進国とは異なる必需品がある。ガイドブックでは見落としがちであるが、痛い目にあって気づかされる物品が殆どだ。おまけに加齢と共にボケも進み、部屋に小物を置き忘れる場合もある。持参品は百均などで買える安物に限る。
時計・・・スーパーで980円の腕時計を二個購入。一つは電波時計、もう一つはクオーツ。共に中国製だ。一年使ったが何の支障もなく、時刻は正確に刻まれている。でも、電波時計は国内旅行専用にしている。海外旅行で必須となる時差合わせ操作が面倒。今回はクオーツを持参。どこかで忘れても惜しくはない。
浴槽の栓・・・外国人はシャワー慣れしているのか、栓がなくとも気にしないらしい。ホテルの半分くらいは、まともにお湯が貯められない。栓の種類は多種多様。一辺が10cm位の正方形のゴム製の厚くても柔らかい板には汎用性があり便利だ。
ビールの栓抜き・・・必需品だ。部屋に置かれていないこともしばしば。客の持ち逃げが多いためか、最初から準備していないようだ。
化繊の固いネットタオル・・・石鹸の品質が悪く、浴室に置かれているタオルでは泡が発生し難い。洗浄力はあっても気分が悪い。
安全カミソリ・・・通常、浴室の備品にはない。電気かみそりは充電が面倒。日本から持参した安全カミソリ一本で間に合う。最近のステンレス刃の安全カミソリは、一ヶ月間は十分に使える。
J 人種の坩堝
チュニジアは先住民であるベルベル人、カルタゴを建設したフェニキア人、カルタゴを滅ぼしたローマ人、ローマ帝国の衰退後に進出したゲルマン系遊牧民族であるバンダル人、バンダル王国を征服した東ローマ帝国人、東ローマ(ビザンティン)帝国を支配したアラブ人、ビザンティン帝国を滅亡させたオスマントルコ人、オスマン帝国の滅亡後に侵攻したフランス人など、私にはその歴史を追いきれないほどだ。
多種多様な人種間の交雑の前には、男女の部品の大小・整合性は障害にはならないらしい。驚くばかりの柔軟性があるらしい。何よりもその結果が証拠だ。チュニジアは、結果として多種多様な外観の人種の坩堝となった国家である。
日本人だって弥生時代以前に周辺各地から移住してきた難民の坩堝だったが、過去2,000年間に亘りそれぞれの場所に定住した結果、外観はかなり平準化された。それでも南北を比較すると、皮膚の色・毛深さの程度には大きな差が見られるが、チュニジア人の外観のばらつきとは比肩すべくもない。
JAの規格に統一された、デパ地下やスーパーの生鮮食料品市場の野菜や果物と異なり、一見しただけでは分類不可能な人々が街に溢れている。身長・体重・体型・皮膚の色も様々。国際線のエコノミー席に150kgはありそうな中年男子が乗り込んだ。
椅子の両端に挟まれた巨体は機械的に強く圧迫されると、腹部は前に伸びて前席に接近し、機内食を置くテーブルが使えない。人体も茹で卵のように、簡単に変形するのだ。たまたま空席だった隣席のテーブルを使い、本人には何時もの習慣だろうが、頭を90度器用に回転させて食事。
K お土産
海外旅行では適当なお土産はないものかと、キョロキョロしながら特産物探しをするのも楽しい。軽くて保存性もある珍品探しだ。中近東のバザール(屋根付きの商店街)には国産品以外にも、世界中から集めた安価な商品が山積みされているが、今回はどこでも売られていたサフランに注目。
バザールや観光地廻りが目玉となるパック旅行は、一筆書きでの移動の世界。お気に入りの商品を発見したら速戦即決。大きな失敗を避けるためには、少しずつ買うのが鉄則。どこで買うのが一番お買い得になるのかは最後まで分からない。現地のガイドの案内にも我田引水の眉唾物がある。サフランは遥か昔、パキスタンで買ったが大変高かった記憶がある。でも、チュニジアではあちこちで売られていた。結局、数箇所で分散購入。
最後に売上額では世界第二位(一位はウォルマート)のスーパー・カルフールでどっさり買った。バザールでの値引き交渉に努力した積もりだったが、カルフールが一番安かった。帰国後、インターネットで国内価格を検索したら、500-1,000円/gだった。
サフランは紅茶と同じように熱湯に入れて数分経過させたら、香りの高いサフランティーができる。尚、サフランと紅花とは同じものと勘違いしている人もいるが、全く別物だ。また、紅花の色は花びらから採るが、紅花油は花びらからではなく種を圧搾して作る。
サフランと聞くと多くの人は料理に使用されるイメージが強くありますね。このサフランは、薄紫の花びらの中に、黄色い雄しべと、雄しべより長い雌しべが三本入っている花です。
料理やお茶などよく使用されるのはサフランの赤い雌しべです。サフランが料理に使用されるのは香りと色です。サフランを栽培する方法には、露地栽培と室内栽培があり、最近は露地栽培ではなく室内でより多く栽培されています。
サフランは球根で増える植物なので室内栽培では、質の良いサフランが収穫できないのが問題点と言えるでしょう。サフランを料理やお茶に利用する場合に大切になってくるのは雌しべを乾燥させる過程です。
サフランの要素には、着色力を決めるクロシンと風味を決めるピクロクロシンに加えて香りを決めるサフラナルが要素としてあります。このサフランの品質はISO企画で定められています。
水溶性であるサフランは水には溶けます。しかし、油やアルコールには溶けません。料理に使用するときにはアーモンドやポテト、トマトやバジルなどが相性のいい食材とされています。サフランを使用した料理には、パエリアのように、ご飯にサフランを混ぜ合わせて作るものや、モロッコ風のブイヤベースに使用するもの、ギリシャ風のサフランブレッドなどがあります。
料理にサフランが使用される理由としては、美容と健康を維持する効果が高いからだと言われています。自分で料理をすることが苦手な人は簡単にサフランが摂取できるサフランティーが良いでしょう。
サフランは料理だけでなく染料としても使われおり、染料としてサフランを使用する際には、ミョウバンとともに使います。
紅花と呼ばれるサフラワーは、私たちの生活と密接しており、主に食用で色を付けるときに利用されているので誰でも一度は目にしたことがあると思います。
紅花の紅という呼び方から昔は、「紅をつける」と言う意味は口紅を付けることを表しました。この口紅は紅花を利用した色素で作られ、エチオピアを原産地としたものが多い菊科の植物であるサフラワーはエチオピア以外では西南アジアが原産地となっています。日本では山形県が主に栽培地として有名です。
サフラワーの花びらは、染料として使用されサフラワーの種子は、食用油の原料である紅花オイルも作られているので知っている人も多いでしょう。
6月頃になるとサフラワーの花の収穫時期を迎えます。太古の昔に日本ではサフラワーは人が亡くなった時に使用され、遺体を埋葬する際に棺の中にたくさんのサフラワー(紅花)を入れていました。
ピラミッドで有名なエジプトミイラにも、サフラワーがたくさん使用されていたようです。遺体に供える花としてサフラワーが利用されているのは、サフラワーの香りがとても良かったからだと言われています。
サフラワーから色素を抽出するには紅花を太陽の光に当て乾燥させます。乾燥させた紅花を一日中水に漬け、黄色い色素が水に染み出すのを待ちます。後はしばらく漬け灰汁につけると化粧品用の赤い色素を抽出するようになっています。
健康面ではサフラワーは「紅花茶」というお茶として飲まれています。紅花茶の効用は、血行を促進する働きがあり、鎮静作用があるといわれています。紅花の甘い香りと、真っ赤な紅花茶は、健康食品コーナーで販売されているので利用してみてください。
紅花は英語でsafflowerサフラワーと言います。キク科の植物で花は黄色→赤となりますが、サフランはアヤメ科の植物で花は紫色。赤いめしべだけを着色料として使います。
専業主婦の荊妻にはサフランは不評だった。『香辛料を使いこなしてカレーなどを作るのは面倒。日本では中間製品となるルーなど主婦の手抜き用の食材が溢れている』そうだ。結局、小瓶に詰め替えて、我が夫婦夫々の友人たちに配ることにした。
常々、荊妻には『主婦業としての家事は最低限で十分。残りの時間は、国内・外旅行やグルメ食べ歩きなど、好きなように過ごして構わない』と言い続けている。
我が何人かの知人・友人は惚けた奥様や要介護の奥様の支援で掛かり切りの人も増えた。ペースメーカーを埋め込み身障者1級に転落した荊妻が、何時倒れるか不安だ。健康で私よりも長生きさえしてくれれば十分だ。
私が生きている間に荊妻が要介護老婆になったときは、躊躇せず姥捨て山(特別養護老人ホーム等)に送り込む予定。がんで体力の落ちた私には老老介護は無理だ。一人暮らしになった時に備えて、宅配夕食の手続きを完了し、先週試行した。
一番気に入った業者は今年から参入したセブンイレブンだった。一食単位で宅配してくれる。日替わりメニューの写真やその他の食品の写真付き雑誌が毎月送られてくる。ご飯付き(ご飯と5品/食)やご飯無し(6品/食)が有るが、共に500円/食。
前日に申し込めば昼食も夕食も夫々に指定された時間帯での手渡し。代金は手数料なしでの銀行口座からの自動引き落とし。何と便利になったものか。指定された最寄りのセブンイレブンから配達された。でも、配達者は店員ではなくてヤマト運輸だった。
料理内容は宅配夕食(8品・670円/食)では先行しているワタミに軍配。でも、ワタミは最低5日単位の申し込みなので不便。ヤマト運輸の宅配者によれば、利用客が徐々に増えてきたそうだ。
L 酒を振舞われた。
その1。 どこの海岸だったか忘れたが、テント張りの朝市のようなお土産店街でビールを探した。ソフトドリンク売りの若い店員に『ビールを買ってきて欲しい。地元のことには詳しいから知っている筈だ。チップとして2ディナール(130円)出す』と言って探させた。が、結局見つけられずに戻ってきた。その時、私ががっかりしていたのに気づいた二人連れのイタリア人男性がいた。海難事故の救済を目的にボランティアとして短期間だが車で来たのだそうだ。
二人共2m近い大男だった。『背が高いね! 部品も大きいのではないか! 羨ましい』と言ったところ『一寸こちらへ』と言って、自分たちの車まで案内し『これは、イタリアでは有名なブランデーだ』と言いながら紙コップに100ccくらい注いでプレゼントしてくれた。
その2。 11/3午後、チュニスからの帰国便の搭乗手続きも完了。一服しようと立ち飲みスタンドにて生ビールを注文。『20ドル札で支払うが良いか?』『規則に成約され、お釣りはドルでは渡せない。ディナールになる』と回答。今更ディナールを受け取っても使い道がなく、がっかりした。
そのやり取りを聞いていた隣席のチュニジア人が『がっかりするな、俺が支払うから』と言って、さっさと支払ってしまった。『なんとも申し訳ない。実は1ドル札なら三枚持っている』。財布の中を見せながら無理やり受け取らせた。ビール代は6ドル相当だった。
成田出発便の場合は1ドル札をチップ用に旅行日程数に合わせて50〜100枚入手していたが、今回は出国時の関空着が遅くなり1ドル札に両替できなかったのが失敗の元。豊田市内の三井住友銀行では1ドル札が少ない100ドルパックのみの両替。私は後で使い難いパックによる両替をしていなかった。
その3 ケルンにて(平成13年10月)
ケルン中央駅の1階は切符売り場と駅中(えきなか)商店街だった。ホームは2階にある。ドイツでは入場券はなく、ホームまでの出入りは自由。列車の中での抜き打ち乗車券所持検査で捕まると罰金を請求される。
長女一家が駐在していたケルンに、荊妻と共に様子見に出かけた。私はケルン中心街を一人で散歩したくて中央駅に出かけた。生ビールの立ち飲みスタンドに腰掛け、ケルンの地ビールを飲みながら、隣席の若い男に話しかけた。
『あなたは朝早くから、週日なのにこんなところでビールを飲むなんて貴族ですか?』
『ハンブルクでペンキ塗り会社を経営している。たまたま仕事でこちらに来ているだけだ。こんなまずいビールを飲むなんて』と言うや否や、我がビールを目の前の溝に捨て去り、これを飲め』と言って、彼のお気に入りのビールを私のために注文した。その一言がキッカケとなり暫くミニ国際親善。
海外旅行中、私はこの種の体験をあちこちでした。欧米人の私への気配り(我がホームページの賢人読者各位も体験済みと思うが・・・)に何度も出会い、驚いた。
一方、日本人のケチな行動に接するたびに失望の連続。日本人は仲間同士の場合はそれなりの付き合いをするが、団体海外旅行で知り合った程度の仲間の場合は、何かの序に奢ると言う人は大変少なく、失望するだけ。一寸奢るだけで人生が楽しくなるのに、何と狭量な人たちかと驚く。
M 訪問国数
私のホームページの自己紹介欄には、がん寛解祝いとして2003年に出かけたエジプト以降の各年の訪問国名を書き込んだ。これを見たある人から『あなたの訪問国数には水増しがある、と疑問を持つ人がいるのでは?
赤い地図から大体のことは推定できるが、国名を全部書いては如何』との提案をされた。
この人は国とは何かの認識が不足しているようだ。国の数は今でもはっきりとはしていない。およそ200弱だ。アラブ諸国はパレスティナを国として承認しているがイスラエルは承認していない。旧ソ連が崩壊したあとロシアを含む15ヶ国が独立した。私はロシアのモスクワ・サンクトペテルブルクや新独立国のうち12ヶ国を旅したが、ソ連時代だったら1ヶ国になる。
私の訪問国数は訪問時点で国として国際的に広く承認されている数を足したものだ。昔に遡って現在の国名を数えると数が減ることになる。20世紀にはオスマントルコやソ連の崩壊だけではなく、アフリカやその他の地域では植民地が独立し、国の数が激増した。今後も国の数は増加すると予想している。
シンガポールのような都市国家やロシアのような巨大な国も一つの国と数えるのには疑問が残る。本当は訪問した市町村の数を数える方に意味があると思っているが、市町村名も忘れたところが多いだけではなく、簡単に表示できるソフトも無い。国の数を数えるのは単なる遊びに過ぎない。
尚、訪問国を赤く塗っているのは『world66-visitded countries』の最新版による。
出国窓口は沢山あったのに出国者は私一人。『こんなに客が少ないの?』。『この時間帯だと少ないのですが・・・』。
観光報告
10/28
関空の指定場所への集合時刻は20:40。定刻に到着。関空出発組8人の中の一番乗りだった。カバンの重さは11kg。旅に慣れてくると衣類は減少。チュニジアと豊田市の気温が殆ど同じなのも幸い。カバンの半分は空っぽ。着替えの大部分は靴下や猿股・股引などの下着。多少汗臭くなっても乾燥地帯だ
し、我慢出来ると判断。パジャマなどの寝間着は持参せず。
JCBゴールドのラウンジに21:01に到着。何と21:00に閉店だそうだ。どこの空港のラウンジでもビール1缶は無料。ビールを所望したら500円という。ラウンジは空港ごとの独立採算制なのか?
中部国際だけはセルフサービスとは言うものの、生ビールが飲み放題なのに何としたこと。関空は客が少ないためか?
10/29
超巨大なカタール空港(到着時の建物⇒出発時の建物間の移動にバスで10分以上)で乗り継いで、チュニジアの首都チュニスに到着。人口ではチュニジア第三の都市。旧市街(メディナ)は(世界遺産・その@)だそうだ。チュニジアは16万平方km。人口は約1,000万人。一人当たりの年間所得は8,000ドル。日本の二割。私が就職した1962年、日本の所得はアメリカの二割。其の時、アメリカの豊かさは別世界と感じていた。
小さな国なのに世界遺産は8ヶ所。今回はその中の7ヶ所を巡るべく、バスで東奔西走。簡易舗装に近いが、現地では高速道路と称している・・・。都市間の交通量が日本に比べれば極端に少なく、移動時間はほぼ計画通り。昼間の2/3はバスの中。
チュニジアはローマ帝国屈指の穀倉地帯。360度、地平線まで全く山を見かけない場所も多かった。中央アジアの大草原でも大抵はどこかに山が見えたが、珍しい体験だ。
チュニジアは、アフリカの北西部に位置するリビア・モロッコ・アルジェリアなどと一緒に、日没との意味のマグレブと呼ばれる国の一つ。メッカの西側に位置するため、モスレムは東に向かってお祈りをしている。
地球上どんな場所でも、日が沈むだけではなく日出る地なのに、自国を中心に考えて隣国を日没する国とか、格下に見做したがるようだ。『隋書』東夷伝に、倭王から隋皇帝に出した国書には「日出ずる処の天子(聖徳太子)・・・」と自称したとあり・・・。
最近では韓国がその呼称が世界的に定着している日本海を、韓国の東にあるとの理由で東海と命名し、日本にも同意を求めて来た。日本海に面した海岸線の長さは日本列島の数分の一に過ぎないのに・・・。この種の幼児性に満ちた最近の韓国の政治家の言動にはいちいち付き合ってはいられない・・・。韓国は二度と出掛けたくない国の一つになった。
丸いドームを見ると、イスラーム圏内に来たとの実感が湧いてくる。乾燥地帯の利点か雑草が少ない。今や世界中どこでも男の大部分はジーパン愛用者。丈夫で長持ちするだけではない。皺も撚り難くアイロンがけも不要だ。伝統的な民族衣装は今や冠婚葬祭やお祭り専用の絶滅危惧種のようだ。
欧州・中東・アジア各国には無数の巨大な城壁都市が今でも残っている。城壁には必ず出入り口があり、大抵管理人がいる。お疲れさまと声を掛けたくなる。
日本には住宅地を取り囲むこの種の城壁都市はなく、頑丈な門の建設事例もない。神社の鳥居や仏閣の門は単なる出入口の象徴に過ぎない。出入りを遮断する物理的な障害物にはなっていない。
展望台から市域を眺めると、古い石造りの家並の中に鉄とガラスの近代的な建物も建ち始めた。衛星放送受信用のパラボラアンテナが溢れている。
観光はチュニジアでは大産業。観光客の安全を確保するために、武装した屈強の若者がいた。
ある同行者が『革ジャンは暑くありませんか?』。未体験者の大いなる誤解だ。皮は
断熱材だ。夏は涼しく、冬は温かい。一年中愛用できる優れた素材だ。寒風は遮断するのに通気性は確保される結果、蒸れない。その上、軽いのも魅力。
私は冬季のゴルフでは、ズボンは韓国で購入した柔らかい羊の革製品を愛用している。今回の外出着は牛皮製のハーフコート。東レやクラレが人工皮革を開発したが、天然皮革に匹敵する品質には未だに到達していない。生きている親羊一頭の国際的な価格は1万円前後。安いものだ。
国内旅行でも海外旅行でも、私は何時も皮ジャンを愛用している。国際線は空気抵抗を極力減らすために飛行高度は13,000m前後。一方機内は乗客の健康に影響しない範囲での最高高度3,000m前後の大気圧(0.7気圧前後)に通常管理されている。離着陸に伴う機体の疲労破壊を避けるために、機体内外の圧力差を乗客の許容範囲で極力小さくしているのだ。機内の空気温度は快適値でも、気圧が低いため体感温度は低くなる(熱力学的な説明は面倒くさいから割愛)。私はその対策にも有効な皮ジャンを愛用している。
首からぶら下げているのはイヤホーンガイド。加齢と共に聴覚が衰えて来た私には必需品。でも、欠点がある。ガイドは自分の位置を原点にして前後左右の景観の説明をするが、聴く側にはガイドの居る位置が分からない時もある。その場合は説明が直感的には理解できなくなる。
水は乾燥地帯では貴重品。水を確保するためには、歴代の権力者は住民と共に想像を絶する努力をしてきた。噴水は飲めるのではないかと思えるほどに透明だ。
一方、日本各地に残存しているお城のお濠の水の汚さには、来日外国人は口にこそ出さずとも驚いているに違いない。せめて皇居のお濠の水くらいは綺麗にできないものか。下水処理場の膨大な水のほんの一部を導水するだけで簡単に解決するのに!!
男性用の赤くて丸い帽子に宗教色を感じたが、被っている男(右端)は少ない。私は海外旅行の記念にあちこちの国で民族帽を買っていたが、今回は見送った。いわゆるキャップでも庇があるのに、この丸い帽子には庇も鍔もない。デザインが単純すぎて魅力を欠き買うのは見送った。
今回の旅行でも愛用している帽子は、ペルー(インカ帝国)のナスカの地上絵が鍔に刻印されている分厚い牛皮製だ。
チュニジアと日本の時差は8時間。真夜中に目が覚めた。ルームサービスでビールを取り寄せるべく、フロントへ電話したが応答がない。やむなく、下着のままフロントへ出掛けた。受付には制服姿の男が二人いた。『ビールを二本買いたい』。『ビールはありません』と出まかせ。『そんな筈はない。夕食時にレストランで飲んだ。どこかにあるはずだ』。一人が何処かへ出かけた。ハイネケンの瓶ビール(小瓶)を二本持ってきた。『栓抜きがない。ここで開けてくれ』。
室内から静かに出入りしていた積りだったが相棒が起きていた。遠慮する相棒に『ビールを一人で飲んでも面白くない。どうぞご遠慮なく』と強要。氏は元銀行マン。アメリカ駐在歴があるそうだが、アメリカ人の子供の英語は聞き取り難いと言う。耳から学ぶヒアリング能力は幼少時に体験しないと絶対音感同様、身に付けるのは難しいらしい。
我が孫の中で最年長の女児は慶応中学三年生。この秋に英検2級に合格。ドイツのケルンに一歳の時から5年間住んでいた効果だろうか? 外国語を学ぶ際の拒否反応が小さいらしい。
10/30
いつの間にか日本人の旅のスタイルが変わっていた。小学生のようにリュックを背負っているのだ。両手がフリーになって便利なようだ。
でも、私は30年くらい前に購入したアタッシュケースを使い続けている。書類を曲げずに収納できるし、飲物の保管にも安全だ。待ち合わせなどの場合は椅子代わりにも使えるし鍵も掛けられる。しかし、最近はアタッシュケースを全く見かけなくなった。10年ひと昔というが、一世代経つと別世界だ。
クオーツ時計が普及したためか、集合時刻に遅れる人は殆どいなくなった。ホテルの外観やロビーはリフォームしたのか一見立派だが、室内の調度品や設備は中古のママ。テレビは見ないから古くても何の支障もないが、ブラウン管では何ともみすぼらしい。
革ジャンの下に着ているセーターはペルー製品。アルパカの毛を使った手編み。カシミヤに似て軽くて温かい。我がお気に入りの愛用の品。
635
中東やアフリカでの我が関心事は遺跡巡りとバザールだ。日本各地のアーケード街にはシャッターが下りた店が多くなったが、海外では滅多に見かけない。失業者が多いためか空き店舗も直ぐに埋まるようだ。バザール内を歩くとその国の庶民の生活が分かる気がしてくるから不思議だ。
欧州各国の大抵の都市では、中心部にある広場に日本の朝市のような仮設商店が並んでいるが、単なる産直市場に感じて関心が薄れてきた。みすぼらしいのだ。
スースは沿岸都市。鮮魚も豊富。この国の商人は、商品の見栄えなど気にせずに展示しているようだ。
638
生まれて初めて牛の生首を見た。売り物なのか、飾りなのか不明だが首の断面が大きいことに驚く。
日本でも厖大な数の牛が食用に供されているのに、牛の頭はどう活用しているのか一度肉屋に聴いてみたい。マグロの巨大な頭は兜焼きで売られているし、香港の市場では豚の頭がゴロゴロ。イスラーム圏では羊の脳味噌は最高の御馳走だ。でも、牛の頭は見たことがなかった。牛タン以外にも食べられる部位はあると思えるのに。後で聴いたら、販売用の牛の頭だった。
豚骨や鶏ガラなど、肉屋の廃棄物はラーメンのスープに活用されているのに、牛骨ラーメンというメニューには出会ったことがない。インターネットで検索したら、ほんの僅かではあったが売られてはいた。
廃棄物でも美味しいのなら、松阪牛のサーロインステーキで出汁を取れば極上のラーメンができるのではないかとの疑問が生まれる。ラーメンとは高くても1,000円前後との前提が強すぎて、ラーメン屋は誰も挑戦しないのだろうか? 美味しければ2,000円でも私は食べたいのに。
私が大学3年(1960年)の時、池田内閣が所得倍増計画を発表した。池田首相は『経済のことは私にお任せください』と言いつつ、カレーライスを食べながら庶民派を演出していた。でも、カレーライスが50円時代に、250円のカレーライスを高級ホテルで食べている、とマスコミにからかわれていたのを思い出す。
所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)とは1960年、池田内閣の下で策定された長期経済計画である。閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では翌1961年からの10年間に名目国民所得(国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の下村治。
640
チュニジア人の女性通訳は女傑だ。モスレムかと質問したら、無宗教だと即答。彼女の衣装にモスレムの風習は見かけなかった。
徐々に才女などから宗教離れが始まっていくのだろうか?
643
何処でもモスクは庶民の家とは格段の差を感じさせる豪華な建物だ。個人の資金力では建てられない。かつての宗教団体や権力者の力の強さを感じる。
今や大抵の国では所得の平準化が進み、個人には巨大な宗教建築を寄進する余裕がなくなった。世界的な巨大企業も非生産分野に投資しなくなった。昔と異なり国家もこの種の建築を残す余力がなくなってきた。豪華な建物はいずれも昔の遺産が中心だ。
644
高速道路を疾走するバスから、我が安物のデジタルカメラでオリーブ畑を撮影したが、焦点が呆けてしまった。チュニジアのオリーブの生産量は世界で5〜6位らしい。2011年の収穫量はスペインがダントツ。実の重量なのか、油を搾るための種の重量なのか不明だが、皮つきの実も食べるから実の重量と推定した。地中海の周辺各国が主産地だ。
Spain6,940,230トン
Italy3,182,200
Greece2,000,000
Turkey1,750,000
高速道路沿いに広がるオリーブ畑は壮観だ。一枚の果樹園が優に1平方kmはある。日本では一枚の田畑でこんなに広い農場を見たことがない。周辺では人家が見つからなかった。
『どのようにして収穫するの? アメリカのサクランボのように振動を幹に与える機械で揺すり落とすの?』
『オリーブの実はコーヒーと同じように順々に熟すから、人手で収穫する。晩秋から三ヶ月かける。周辺各地から働きに来る人がいるから心配無用』だそうだ。野宿用のテント持参なのだろうか?
ゲーテは明日死ぬと言われても『私は子供たちのためにリンゴの木を、孫たちのためにオリーブの木を植える』と言ったそうだが、オリーブの木は寿命が長いらしい。ここの木の幹はごつごつとして、屋久杉のように星霜を感じさせるほどに大変太かった。
オリーブの木の寿命は長く、エルサレムには推定樹齢1000年を超えるといわれる大樹があります。一般に樹
齢4年〜5年で実をつけ始め、花期は5月〜6月、収穫は10月末〜12月初めです。
644
マトマタに到着。
鷹をぼんやりと珍しそうに見ていたら、持ち主が手の上に突然乗せ、さっとカメラを取り上げて撮影。何という早業か!
更に帽子の上に移動。我が意思を無視して勝手に乗せたのだから、チップを渡さないなどとの野暮な発想は成り立たない。
観光地でチップを集める必殺技とは、先手必勝。鷹の外観は若いブロイラーの大きさに見えたが、意外に軽かった。飛べる鳥と飛べない鳥との違いだ。
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北アフリカの先住民『ベルベル人』の竪穴と横穴を併用した地下住居を見学。山岳地帯では斜面に横穴を掘って住む人がいる観光名所も多いが、ここでは大きな縦穴を掘り、そこから横穴を掘って住居としていた。中庭には井戸も掘りナツメヤシも育てていたが、ベルベル人の努力に拍手喝采したい!! 非力な私には真似ができない。
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マトマタからドゥーズに移動。
二日目も真夜中に覚醒。眠り薬の代用品としてビールを飲むべく受付に電話したが、今回も知らぬが仏なのか応答なし。已むなく下着のまま消灯されていた暗い廊下伝いに受付を目指した。途中レストラン内でコックが二人、朝食の準備をしていた。
『ビールが飲みたい』『受付で相談してくれ』『廊下が真っ暗で道が分からない。途中まで案内してくれ』。やっと受付に辿り着いた。
『ビールが飲みたい。2本だ』『受付にはない』『待っているから探して来い』と命令した。一人が無数の鍵を手にして何処かへ出かけた。待つこと数分。お金を支払うのもひと仕事。レジの鍵を開け、お釣りを探して一件落着。チップを2ディナール渡してやっとビールを受け取った。チップ込みでも夕食時のビールよりも安かった。彼らは定価を誤魔化すようなことはしなかった。
今度の同室者も起きていた。遠慮していたが、無理やり一緒に飲むことができた。昼間の疲れも手伝い直ぐにまた眠れた。
10/31
沙漠から登る朝日を鑑賞するためにホテル近くの駱駝ステーションに出かけた。沙漠は放射冷却で寒いとの宣伝に乗せられたからではない。それでも、民族衣装と頭を保護する布を借りた。私は防寒対策完備だったが、現地に来たからにはチップを落とすのは、旅行者の義務と常々考えていた。喜捨の習慣のあるイスラーム世界では、尚更のことだ。
660
駱駝に乗るのはパキスタン・エジプト・モロッコに次いで今回で四回目。当地の駱駝使いにとって、商売になるのは早朝の日の出鑑賞の機会のみ。チップ稼ぎに必死だ。あらゆる機会を捉えては写真を撮ってくれる。
駱駝は大変大人しい動物だ。でも、座った状態で客を乗せると、荒々しく一気に立ち上がる。客は振り落とされないように鞍に取り付けられている、目の前の半円形の輪を両手で必死に握って耐える。駱駝は乗ってみると意外に思えるほど身長が高い。
駱駝使いは一人で数頭ずつの駱駝を紐で繋いで歩いた。当地にはモロッコのような高い砂丘はなく、平坦地に近かった。どこまで移動しても周囲の状況は変わらない。しかし、ある程度の距離を移動しないと、ほどほどの駱駝賃が取りにくいのか片道20分くらいは乗った。
駱駝から降りて全員一休みしつつ、日の出を待った。駱駝は人を降ろした後はその場所に微動だにせず座り込んで休憩している。
664
待ちに待った待望の日の出だ。太陽の直径分の自転時間は丁度二分間。ショーの時間はアッという間だった。
666
蛇足。
12/14の世界ふしぎ発見で、全ての駱駝は沙漠での休憩時に何故太陽の方角を向いて座り込むのか、とのクイズが出された。日陰もない場所での体力消耗を防ぐには太陽光線を受ける面積が最小になるような姿勢を取るのだそうだ。
でも、私はこの説明には疑問を感じた。駱駝は乾燥に対して最強の動物だ。太陽光線に胴体を直交させ、横腹に熱線を浴びても然したる影響があるとは思えないからだ。
今回は日の出前だったが、駱駝は勝手な方角を向いて休んでいた。
ナツメヤシの実を保護するためか、日本の巨峰の栽培と同じように、簡単な袋で覆われていた。もっと平均気温の高い西アフリカの国での栽培の場合は、袋は見かけなかった。樹勢が最盛期になると一本から250kg/年もの収穫があり、人間一人を養えるそうだ。どこのバザールでも各種の実が売られているが、甘くて大変美味しい。
669
ドゥーズからエル・ジェムに移動。
途中のトイレ休憩時に珍しい自噴の温泉に出会った。双六の様な四角の渦巻きに沿って流れて行き、最後に排水されていた。同行者が足湯の体験をしていた。丁度手頃な温度だった。私は靴下を脱いだり履いたりするのが面倒に感じ、足湯はしなかった。
670
エルジェムに到着。35,000人収容の円形闘技場(世界遺産・そのA)だ。ローマ・ヴェローナに次ぐ大きさだそうだ。長さ149m、幅124m、高さ36m、アリーナの直径65m。保存状態も良く、3階からの眺めには一目置かざるを得ない。
闘技場と劇場とは似て非なるものだ。ギリシアやその植民地の遺跡にも劇場はあるが、闘技場としては使われていない。人間と猛獣との格闘技などをするためには、猛獣の檻や猛獣を舞台に連れ出す人力エレベータなどそれなりの装置は必須だ。
673
エル・ジェムからケロアンへ移動。
ケロアンがイスラーム世界では、メッカ・メディナ・エルサレムに次ぐ4番目の聖地とは知らなかった。ケロアン旧市街(世界遺産・そのBとそのC)を観光。ケロアンにある預言者ムハンマドの友人が眠るシディ・サバブ廟も別格の扱い。
680
この日は一人部屋の宿泊。今回の旅では最高のデラックスホテルとは名ばかり。浴槽の栓が閉まらずお湯が貯められない。保守員を呼びつけて一段落。
11/1
高さ8m、厚さ2mの頑丈な城壁に守られた大きな門をくぐり抜けると、ケロアンの市街が広がる。
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グランド・モスクは見るからに壮大だ。信者の汗の結晶だ。
今回の相部屋参加者三人。いずれも定年退職者。旅慣れた人たちだった。楽しく過ごせたことに感謝。長身のイケメンは独身。
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ケロアンからナブールへ移動
ナブールの特産物は陶器。その色鮮やかな陶器製品を眺めていたら、高知の皿鉢(さはち)料理を突然思い出した。
皿鉢は「さわち」以外にも、サハチ、サアチ、サラチ、サーチとも言われている。現代の皿鉢の源流である器は室町時代から作られていた。当時の器は比較的深みのある高坏で、浅鉢・深鉢・大皿・大鉢など器に合った名称で呼ばれていた。それらの器が皿鉢と総称され始めたのは江戸時代だと考えられている。土佐藩(現在の高知県)の禁令などに「砂鉢」や「皿鉢」と記されており、その他「佐波知」や「沙鉢」と当て字された記録もある。
器の種類[編集]
形状は円形ばかりでなく、小判型や矩形など様々で料理に合わせて使用されている。9寸(約27センチ)程度の小ぶりな器もあるが、今日では活け作り以外の皿鉢では一尺三寸(39センチ)がほぼ標準となっている。あまり小さな器は皿鉢と言わなくなっているものの、明確な区分は設けられていない。
私は不定期だが松坂屋豊田店に出かけ、連日18:00から始まる刺身の半額セールの争奪戦に挑戦し一度に10〜15パック購入している。半額後の平均単価は500円/パック。酒の摘みだ。大抵は小皿に移し替えることもなくパックのままお盆に乗せ、炬燵のテーブルに置いてテレビを見ながら、のんびりとビールを飲みつつ食べている。後片付けを簡略化するためだ。でも、何となく侘しい。
お土産屋に並ぶ素晴らしい文様の大皿を発見したとき、衝動買いをした。この大皿に刺身を盛り付け直して、皿鉢料理の雰囲気に変えたくなった。店員が緩衝材として古新聞を使って梱包してくれたが、日本まで持ち帰る途中での破損を恐れた。
過去何回か破損の体験がある。仕方がない。悪いとは多少だが思いつつも、最後のホテルで緩衝材としてバスタオルを無断で借り、何重にも包み洗濯袋に無理やり入れた。割れることなく無事帰宅。
あまりの美しさに喜んだ荊妻は飾り皿として、床の間に陳列。飽きが来るのを待つ始末。
小さな一人用の浴槽があった。水風呂なのか、お湯が引かれているのか不明だが、推定している当時の生活水準では極端な贅沢だ。同行の人々は海に強く関心があったのか、こちらのお風呂を見に来る様子がない。海は遺跡ではない。どこでも同じ風景が見られるのに。人それぞれとは言うものの、ここまで彼らは何しに来たのだろうか??
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この美しい紺碧の海は流石に地中海やエーゲ海の眺め。愛知県の太平洋沿岸の汚さとは対照的。40年以上もの昔、子供を連れて蒲郡にある保険組合直営の保養所に泊まり、歩いて行ける海水浴場に出かけたとき『海はバッチイ』と1歳の長女。こんな印象を残されては海水浴も台無し。
その後は少し遠くなったが民宿に泊まり、北陸の水晶浜で海水浴を楽しんだ。しかし、ここほどの美しさと広さには、我がお気に入りだった流石の水晶浜も格落ち。
敦賀半島の西側中央に位置し、砂浜からは常神半島が一望できる。砂は粒子が粗く丸い石で敷き詰められており、細かい水晶の上を歩いているような錯覚に陥る。海は遠浅で透明度が高く、北陸地方でも有数の渚として知られている。以上のような理由から日本の砂浜八十八選にも選出されている。
敦賀半島に数ある海水浴場の中でももっとも海水浴客の集まる砂浜のひとつである。また、半島西側にあるため「サンセットビーチ」としても人気が高く、夏に限らず夕暮れ時はカップルが集まるデートスポットとしても知名度が高い。
ケロアン⇒ケルクアン
ケルクアンもフェニキア人の遺跡(世界遺産・その?)だそうだが、ローマ人の破壊は免れた。フェニキア人の植民地は北アフリカ各地にあったが、ローマ人に破壊されたのはカルタゴだけのようだ。
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料理の美味しさは景色でも変わる気がした。規模こそ異なるものの、晴れた日に我が家の露天風呂が快適に感じるのも同じ理由だ。
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ガマルタ⇒ドゥッガ
簡易舗装であっても平坦な土地に建設された高速道路は、日本のように両側の山の斜面の崩落や路肩が崩れるような心配はない。トンネルも不要。建設工事も簡単。
ドゥッガの遺跡はヌミディア・ローマ・ビザンティン複合遺跡(世界遺産・そのE)として、チュニジア国内では最も保存状態が良いそうだ。
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誇らしげに表示さている世界遺産登録の記念碑。
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アフリカを感じさせない規模だ。どこでも記念写真を撮りたくなる。これほどの数の列柱を見ると、当時の設計者や石工の努力は産業革命後の世界とは別次元と思わざるを得ない。
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水洗化された公衆トイレ。下半身丸出しで男女の区別もなく、仲好く使っていたのだろうか?
人間の羞恥心とは環境や習慣で変化するのではないか?
1989年12月に中国の工場を訪ねたとき、ドアのないトイレに男性作業員がずらりと並んでおしゃべりをしながら排便中だった。真正面から眺めると、仮性包茎が多かったのを思い出す。大きなビデオカメラを担いでいたためか、恥ずかしそうな表情に変わったから撮影せずに大急ぎで退散した。
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ドゥッガ⇒チュニス
北アフリカ随一のモザイク収蔵数を誇り、アフリカのルーブル美術館と称されるバルドー博物館を見学。
フェニキア・ローマ時代の保存状態の良い数え切れない程のモザイク画が展示されていた。モザイクを最初に考えたのは誰だかわからないが、天然の岩石を小さく砕き、それを貼り付けて絵にする根気にも驚く。
モザイクという手法は室内装飾のために古代の世界各地で使用されていた。シュメールで都市文明が開花したウルク期には、コーン・モザイクと呼ばれる、円錐形の釘状の彩色土器や石(釘の頭の部分を彩色している)を使って神殿などの建築物が装飾されていた。ウルから出土した紀元前2600年から紀元前2400年頃に遡るとされる「ウルのスタンダード」は、持ち運びできるサイズの箱状の木材の各面に、貝殻や赤い石灰岩、青いラピスラズリを埋め込んだモザイクで、軍隊の行進や饗宴の場面が描かれている。マケドニア王国の宮殿のあったギリシアのアイギナ島では紀元前4世紀のモザイク画が発見されており、ヘレニズム様式のヴィラ(別荘)の床を飾っていたものと思われる。
モザイクで飾られた床は古代ローマの時代のものが有名で、グレート・ブリテン島からシリア地方のドゥラ・エウロポス、北アフリカ一帯に至るまで広い範囲で発掘されており、豪華なモザイク床は贅沢なローマ時代のヴィラを特徴付けている。ローマ市では、皇帝ネロが建築家たちに命じ、モザイクを使って黄金宮ドムス・アウレア(西暦64年着工)の壁や床を覆わせた。
4世紀末にキリスト教徒が建築したバシリカ(教会堂)では、床や壁のモザイク装飾はそのままキリスト教の目的のために流用された。キリスト教のモザイク装飾の最も偉大なものは東ローマ帝国の時代に花開き、首都コンスタンティノポリスをはじめ、イタリア支配の拠点ラヴェンナやシチリア島の領土でもモザイクが大聖堂を飾った(ビザンティン美術を参照)。特にラヴェンナは「モザイクの首都」とも呼ばれるほど多くの遺産が残り、モザイクの研究や教育もさかんである。サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂、サン・ヴィターレ聖堂、ガッラ・プラキディア廟堂など世界遺産にも登録された建築群が公開され観光名所になっている。シチリアのヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレでも多数のモザイク画が発掘されており、世界遺産となっている。
モザイクは正教会の伝統を受け継ぐ国、例えばロシアなどでも教会や宮殿を飾るのに用いられた。東ローマ帝国のライバル、ヴェネツィアでも、サン・マルコ大聖堂の内外装をモザイクが覆っている。西ヨーロッパでは、労力のかかるフレスコ画の技術が、労働集約的なモザイク技術にかわり建物の壁面装飾の分野で主流になった。
イスラム建築では、モザイク技法は複雑な幾何学模様、アラベスクを作るために使われる。中国から伝わった、釉薬で彩ったタイルを用いた手法はモロッコなど北アフリカではゼッリージュ(zillij)、イランなど中東ではカーシャーニ(qashani)またはカーシーと呼ばれる。その最良の例の一つがイスラム教の支配下にあったイベリア半島にあり、アルハンブラ宮殿などに見ることができる。
近代においても多くの建築物がモザイクで飾られているが、異色のものはアントニ・ガウディとその弟子ホセ・マリア・ジュジョールが手がけたバルセロナのグエル公園であり、動物のオブジェや波打つベンチが色鮮やかなタイルによるモザイクで覆われている。
バチカンのサン・ピエトロ大聖堂内の絵画は、遠くから見た時には油絵かと思っていた。接近して見たらモザイク画と気づき驚いた。日本人には何でも真似し改善する国民性があるのに、モザイク画を真似なかったのは何故か、気が短いからなのだろうか、私にはその理由が分からない。
大聖堂の壁面を飾るモザイクの装飾・絵画
驚くなかれ、大聖堂では、ドーム、天井から内陣、後陣に至るまで、聖堂を飾る装飾・絵画は、1点の例外を除き、全てモザイクだ!!繰り返す、遠目にはどう見ても油彩画やフレスコ画にしか見えない作品が、ほぼ全てモザイクなのだ。たとえば、ラファエロの「キリストの変容」、大聖堂のものはモザイク製のコピーで、本物はバチカン博物館内の絵画館にある。
油彩絵画と見分けがつかないのは、中世のモザイクと比べ、17世紀以降大聖堂で採用されたモザイクは技法が進化を遂げ、超微小(ミクロ)なタイル片を開発・使用し、継なぎ目が見えなくなったためだ。加えて、大聖堂のモザイクが「多彩」な点も中世と異なる。
大聖堂建設・完工に伴い、16世紀末に設けられた大聖堂建物管理局は、早い段階で、壁面は原則としてモザイクで飾るという方針を打ち立てた。そのような思い切った決断をしたのは、フレスコや油彩画が湿気に弱いのに対し、モザイクにはその心配がないからで、新方針のもと、既にフレスコ、油彩画で飾られた壁面も徐々にモザイクで置き換えられた。この結果、大聖堂は、やがて1万平米を優に超える壁面がモザイクで飾られるようになった。
いつの世の男も女に囲まれると嬉しいらしい。ご満悦だ。
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11/3
ガマルタ⇒カルタゴ
いよいよ今回の旅のハイライト、カルタゴ(世界遺産・そのF)に到着。でも、旅の疲れがすっかり蓄積しぐったり。旅の旅程の最初に入れて欲しかった。
第一次ポエニ戦役(前264年〜前241年)
第二次ポエニ戦役(前218年〜前201年)
第三次ポエニ戦役(前149年〜前146年)
ポエニ戦役の経過期間は百年を超え、優に四世代にも亘る息の長い戦争だ。日米間の太平洋戦争が4年弱で決着したのとは桁違いだ。この両者の戦争を続ける根気には驚愕するばかり。人類の戦争は大局的に見れば、兵器の進歩の影響もあり、決着までの時間は短縮されるばかりだ。
ふと、脳裏をよぎったのは『奥の細道の一節だ』。
三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。
夏草や兵どもが夢の跡
卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良
兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。
五月雨の降のこしてや光堂
ローマは恨み骨髄に達したのか、カルタゴに塩を蒔いて不毛の地にしたとの言い伝え(私には作り話に思えるが・・・)がある。でも、カルタゴの地はローマ帝国によって100年後に復興され、ローマ帝国ではローマ・アレクサンドリアに次ぐ大都市となったそうだ。
美しく塗装された町並み。清掃も行き届いている。さすがは観光都市。
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我が右目は『眼瞼下垂』なのかもしれない。視界に異常は感じられなかったが、写真を見て疑問になった。日頃は毎朝の髭剃りで顔を覗くだけ。今まで気がつかなかった。
今日の巨大なコンテナ港とは異なるが、丘の上からの市街や港の眺望も観光資源の一つのようだ。
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遺跡の無数の破片が集められていた。
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アントニヌスの共同浴場。更衣室・温浴風呂・水風呂・サウナ・プール・噴水・談話室・トイレなど100を超える部屋があったとか。今日各地に乱立しているスーパー銭湯よりも遥かに立派だ。その耐久性に至っては月と鼈(すっぽん)。これらの設備の維持・管理は奴隷の仕事だったのだろうか??
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カタール空港で合流した今回の添乗員。結婚もせずに頑張っているのは、海外旅行がよほど好きなのだろうか?
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同行者の中のピカイチ美人。
『目の周りに毛虫のような部品をつけて飾るなんて、クレオパトラのような美人ですね』と言ったら
『眉毛には付け毛は貼り付けずに、ペンキを塗るだけですよ』と教えてくれた。荊妻は顔面装飾にはさして関心がないらしく、我が勉強不足だった。
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奇妙な木を発見。葉はそら豆のように全て上に向かっていた。老人の持ち物は重力に抵抗する力もなく、素直に垂れ下がっているのとは対照的だ。強い生命力を感じた。
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観光地でしばしば見かける写真撮影用の頭部のない置物だ。大昔の彫刻が活用されていた。
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カルタゴの中心部の神殿などが復元・展示されていた。当時の繁栄が忍ばれる。
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相部屋で同室になった仲間。彼は女性を楽しませる特異な才能の持ち主。私にはとても真似ができない技だ。氏のおかげで何人かの老婆とも話が弾んだ。感謝。
写真を眺めると彼の生き生きとした若さとは対照的に、すっかり旅で草臥れ果てた我が表情が情けない。
チュニス発 15:00 QR1400 ⇒ 22:10 ドーハ着(所要時間 5時間10分)
昼食は離陸2時間後、遅めの機内食。でも、疲れてくると食欲も湧かない。ほんの少しだけ摘み食い。
11/4
ドーハ発 01:45
QR802⇒ 17:00 関空着(所要時間 9時間15分)
この日は移動だけだが、国際線の到着予定時刻は変更になることもあり、南海電車や近鉄特急の予約は取らず成り行き任せだった。
定刻に関空に到着。荊妻はこの日は旅行中。難波駅構内で夕食用の握り寿司弁当を調達。近鉄名古屋駅からは地下鉄⇒名鉄豊田新線と乗り継いで名鉄豊田市駅に23:45頃到着。タクシーで帰宅したが我が家の玄関は2階。ドライバーにお願いしてカバンを2階まで持ち上げていただいた。感謝。
やっと我がお気に入りの、鋳物ホーロー製風呂にて旅の疲れを流し、大好きなサントリーのプレミアム・モルツを2缶ガブ飲みしたら、たちまち酔いが回り爆睡。
おわりに
@ 今後の計画
101ヶ国の目標に到達したら、友人や知人から『今後の海外旅行計画は?』と矢継ぎ早の質問を受けた。我がゴルフ仲間には150ヶ国を目標にしている者もいるが、がんで闘病中の私には時間とお金が無限にあっても、そのような発想は生まれない。関心のない国に出かけるよりも、埴生の宿でビールを飲みながら、世界の珍味を少しだけ食べて昼寝をするほうがリラックスもできて楽しいからだ。
とは言え、行きたい国が若干だがまだ残っている。体が動ける余生は後五年。春秋の2回に旅行すると最大でも10ヶ国だが、除夜の鐘とか加齢とともに消滅した煩悩に合わせて108ヶ国を目標にしたい。最初に行きたいのはアケメネス朝ペルシアの遺跡、ペルセポリスだ。
2001年9月11日に発生した New York のテロ直前には、イランのビザも取得し旅行の準備も完了していたのに、旅行社は安全のために急遽催行を取りやめた。振り込んだ旅費は返還されたが、僅かな金額とは言えビザ代とその取得手数料は丸損だった。
イラン周辺では当分政治情勢は不安定のままだが、がんと闘いつつ生き延びている私には待ちきれない。旅行催行各社から毎月のように送られてくる旅行企画案内を検討中だ。
ペルシア旅行のもう一つの楽しみは現地でのペルシア絨毯の購入。今までにも天津(中国)・ベトナムやエジプトの分厚い絨毯・パキスタンの絹と純毛の糸を使い分けた絨毯(薄くて1畳大⇒冬期の玄関マットに)・中央アジアの手織りの薄い絨毯(客間のカリン材製座卓のテーブルクロスに)・ペルーのアルパカの毛皮をパッチワークのように縫い合わせ、雄大な姿で飛翔しているコンドルを描いた2畳大の絨毯・ニュージーランドの羊8頭分の純白の毛皮を縫い合わせたムートンの絨毯・ヘレケ(トルコ)の絹の手織りの絨毯などを買い求めたものの、残念ながらペルシア絨毯を買う機会は未だ無く・・・。
もちろん、デパートでいつでもペルシア絨毯を買うことはできるが、私は旅の記念としてその国のバザールで値引きの駆け引きも楽しみながら買いたいのだ。中でもペルシア絨毯はヘレケのトルコ絨毯と世界一を競い合う品質を誇っているから尚更買いたいのだ。両者の高級品は共に絨毯とは言うものの、床に敷くもの(足の裏が腫れるぞと脅された)ではなく、タペストリーとして壁に飾るものである。予算は僅か20万円程度だが・・・。
欧州の先進各国への関心は数年前にすっかり失った。世界遺産のかなりの部分は単なる古さを自慢しているだけの修道院や名前だけが大げさな大聖堂。キリスト教国関係者の我田引水じみたお手盛り登録が多く、見れば見るほど宗教界に搾取された庶民の苦しみが連想されて、不愉快になるだけだ。
かつては我が憧れの国々だったが、一見豊かそうに感じられる生活水準も外面(そとづら)だけ。衣食住を多面的に知るに連れて、その実質的な貧困さに気づいたからでもある。歴史的には国民の僅か2%しかいない貴族と富裕層に富と所得は集中。大勢の国民はその日暮らしのまま。
今や中東各国のイスラーム文化圏の遺跡にも関心がなくなりかけた。遺跡が余りにも似通って、期待外れでがっかりするのも一因だ。飲食の習慣(禁酒・豚肉禁止)は異教徒には強制こそされないが青春時代の禁欲に似て、短期間とはいえ我慢させられるのも辛い。
残っているのはパプアニューギニアなど、最後の秘境社会(観光客用に祭りの踊りなどが再現されているだけ、とは承知しているが・・・)と、体力が衰えた時に出かける予定で後回しにしていた時差の小さい近隣諸国、例えばインドシナ半島周辺の仏教やヒンドゥー教の遺跡巡りだ。カンボジア・ラオス・ミャンマー・インドネシア(ボロブドールやバリ島)。
その他、宗教の支配力が未だに強いブータンやネパールなど、物質的には明らかに貧困なのに、敬虔な人々が幸せそうに生きている実情を目の当たりにしたいとの願いも大きい。
A 仙人生活に突進
長年に亘る海外旅行の目標も達成し、ほっと一息付いた今、余生の過ごし方や楽しみ方を大きく変え始めた。断捨離の強化(本質的には死ぬ準備と同じ)と快適な仙人生活での創意工夫だ。
@ 江戸時代の生活
鉄道やバスなどの交通機関のなかった江戸時代の庶民の生活圏は5km以内と推定。我が幼児期や小学生時代と同じだ。外泊は母に連れられて徒歩で出かけた親戚巡り(国民学校に入学したら、出かけられないからねと言われて。当時我が懐かしの郷里福岡県遠賀郡遠賀村に幼稚園はなかった)。
福岡県外に出かけたのは小学校4年が終わった春休み(昭和24年3月)に、父に連れられての日帰り秋芳洞(山口県)と修学旅行に出かけた別府温泉(大分県)の一泊旅行だけだ。外の世界は知らぬが仏、それでも私はブータンの人と同じように幸せだった。
今や、我が生活圏は江戸時代並の狭さに舞い戻ったが、日々の仙人生活には超満足している。過去半世紀の間に、森進一の襟裳岬の歌詞のように何にもなかった我が生活圏豊田市も、トヨタ自動車の成長とともに快適な環境に進化発展し、ひとり暮らしでも何一つ不自由しなくなった。松尾芭蕉の『秋深き、隣は何をする人ぞ』そのものだ。近所付き合いは絶無。
元禄7年9月28日作、51歳。この夜は芭蕉最後の俳席が畦止(けいし)亭で開かれた。翌29日も、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていた。しかし芭蕉は体調悪く、参加できないと考えてこの句を芝柏亭に書き送った。芭蕉が起きて創作した最後の作品であり、29日から死の10月12日までついに芭蕉は起きなかった。芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。
A 楽しきかな、自給自足
狭隘な敷地でも工夫をすればミニ楽園に変えられる。敷地の一角の僅か20坪は豊田市固定資産課に申請して宅地内農地として分筆登記。固定資産税が1%下がった⇒ビール大瓶1本分だが、気持ちの上では100本分・・・。完熟牛糞堆肥・苦土石灰・培養土を毎年大量に投入したら立派な黒土の畑に変わった。年間50種を超える春・夏野菜や秋・冬野菜の種蒔きや移植。老人と老婆の二人暮らしでは食べきれない。
中でもお気に入りは自然薯の『むかご』だ。地下の根を掘るために大きくて重たい専用の道具(耳垢取りを巨大化したような鉄製の棒を2本組み合わせた最新型)を購入し、当初は二時間も掛けながらたった一本の自然薯を折らずに掘り出していたが、体力の衰退とともに諦めた。
山で手掘りした本物の1m大の自然薯が一本5,000円もする理由も理解できた。さりとてパイプ栽培(見せかけの姿は似ていても、構成成分は違っている筈と独断)の安物自然薯(2,000円)は食べたくもない。今では方針を変更し、むかご採りに専念。一本の自然薯の蔓から何回でも収穫すると優に5Kg(累積重量は根よりも重くなる)に達する⇒冷凍保管。中でもむかご飯は大好物だ。
芝生を植えた庭の周辺には目隠し用の貝塚伊吹以外に、ブルーベリー・甘夏・柚・カボス・桑(マルベリー)・アケビ・ムベ・キュウイフルーツ・グミ・温州みかん・金柑・イチジク・木苺・ユスラウメ⇒ピンクのユスラウメ酒・柿・蕗・ツワブキ⇒キャラ蕗・タラの芽(天麩羅にはせずサラダで喫食)・山ウド・・・。
山菜の女王と言われて久しい『コシアブラ』の苗を通販で購入し、3回も移植に挑戦したが全て失敗。残念無念。しかし、タラの芽は竹と同じように根が横に一直線に伸び、次々と筍のように新しい木が育ってくるので超満足し、コシアブラの失敗を補ってくれた。
実は小さくてもブルーベリーだって、たったの一本から累積10kgも収穫できるから冷凍保存。ムベも200個以上も収穫できる。ムベを知らない人もいたからびっくり。珍しいからお土産には最適だ。
しかし、木々の剪定作業は大変。梯子からの転落事故を恐れて、シルバーセンターのお爺さんたちに毎年一月に依頼。時給僅か1,155円(加算された5%=55円は事務経費)で働いてくれるから、細々と生きている年金生活者には天祐神助(てんゆうしんじょ)だ。剪定後には400kgのゴミが発生するが、シルバーのお爺さん達は軽四輪トラックを持っており、豊田市指定の焼却場まで運んでくれるのも助かる。
農作業などの肉体労働を癒すのはテラスに作った露天風呂。冬場の快晴の日は最高。少し熱めの43℃(一時間後は41℃まで自然に下がる)にし、一時間のんびり過ごすと体中から老廃物が汗とともに吐き出される。微風が体に当たる時の爽やかさは言語では表せない快適さだ。
風呂上がりには庭の椅子にフルチン(全裸の意)で座り、火照った裸体を冷やしながら、花壇の花や鬱蒼と茂る野菜を眺めつつビールを賞味すると、これぞ正しく極楽浄土か天国かと思えるのだ。快適な余生を満喫するのにお金は不要だ。
温泉は世界中にあるが、男女ともに全裸で入れるのは日本だけ(最近は韓・台などにも普及し始めたが少数派)。海外では水着の着用を義務付けられる(混浴とは言え私は、太った中古品の熟女や皺だらけの老婆の裸体などは見たくもない)。でも、動物界は全てフルチンの世界。もっともリラックスできるのは母胎の中での胎児と同じフルチンと断定。
日本の温泉旅館の大浴場や露天風呂にフルチン禁止令(徳川将軍ならばいさ知らず、現代の総理大臣の権限程度では不可能と断定しているが・・・)が発布されると一気に客が減り、観光ホテルの倒産は確実と私は予想している。
B 古希を超えてからの余生
あちこちの家庭で発生している老人・老婆の二人暮らしに波風が立つ理由に気づいた。専業主婦は子育てが終わると、昼間の八時間が完全なる自由時間になる。自宅で同居しているだけの居候の様な老人に、まともな昼食を用意するのが面倒になるらしい。
トヨタ同期の知人は奥様に在宅率を管理され始めた。昼間は外出してボランティア活動をするようになったそうだ。大学後輩の一人は、奥様との約束で昼食は全部外食にした。予算は1,000円。豊田市内の100もの飲食店を廻り、お気に入りの店をいくつも見つけたそうだ。ところが奥様が最近、私も外食がしたいと言ってくっついて来るようになり、昼食費が二倍になったとぼやく・・・。
私は荊妻不在の日は外食にすべく、回転寿司のスシロー・丸亀製麺の釜揚げ讃岐うどん・リンガーハットの長崎チャンポン・セブンイレブンのおでんがお気入りになった。食が細い私は1食500円程度だ。しかし、お気に入りのラーメンが見つからない。豚骨とか鶏ガラスープのラーメンは肉屋の廃棄物処理品だ。気分が悪くなる。それに麺と言いながら、うどん(稲庭うどんや讃岐うどん)や蕎麦(香りが命・朝挽き⇒十割蕎麦)のような美味しい麺の技術開発もロクスッポしていない。
雨降りには外出が億劫だ。しかし、宅配食が豊田市でも今や普及開始。少食の私には品数の少なさと一食単位の注文でも受け付けて、手渡ししてくれるセブンイレブンを選択。人気抜群のワタミは日配とは言え最低五日分からの一括注文だから敬遠。必要なものを必要な時に必要なだけ配達してくれる『トヨタ生産方式』そのもののセブンイレブンは、正しく我がお気に入りだ。
C 飲食管理
高齢化社会の影響か、マスコミには健康食品と称する各種のサプリメントの広告が溢れているが、私は一度も口にしたことがない。全ての食材は体内で消化され、消化器官から吸収され人体に必須な物質へと再合成される。猿の網膜を食べても、黒内障が治るわけがない。サプリメントに価値があるならば、その原料を直接食べれば加工費分だけは安上がりだ。
酒は百薬の長。がんにかかる前は毎日ビールの大瓶を3本飲んでいた(帰宅するや否やお茶代わりに一本、入浴後に一本、寝る前に一本。でも、遺伝子検査(31,500円)をしたら酒には弱いが飲んでいる内に少し強くなるMNタイプと判明⇒このタイプが食道がんに最も罹り易いと知ったが後の祭り)。主治医からは禁酒を勧められたが、貴重なアドバイスとは理解しつつも拒否。自己判断の適量(大瓶は中止⇒上限は朝昼夕の缶ビール各1個)を飲み続けている。
胃がんの手術で胃の2/3を切除した私は三度の食事だけでは栄養不足。毎日1,2度はタンパク質中心の間食を心がけて来た。その結果だろうか、コレステロールが増加した。がんのサードオピニオンの医師と相談⇒医師は院内の内科医と相談。薬(リバロ)を飲んだらコレステロールは正常化。間食を止めるか、止めずに薬を飲むかの選択を迫られたが、私はどうせ限られた命、薬を死ぬまで飲み続けることにした。
D がんとの闘い
平成14年12月19日に胃がんの手術をして以来、丁度11年経過。その間に5回入院治療したが、最後の手術(平成20年6月18日、食道がんの摘出)から5年半経過。あと4年半は今までと同様3ヵ月間隔で愛知県がんセンターにて各種検査を続行予定。同じ資料でセカンドオピニオン⇒サードオピニオンの名医にも診断を仰いでいる。
今春は兵庫県立粒子線医療センター長のセカンドオピニオンの医師(元主治医・愛知県がんセンター副院長)から拙宅まで電話による指示。『毎年一回PETを受けるように』とのアドバイス。PETは過去10回も受けたが一度も私のがんの発見はできなかった。しかし、ダメ元で受けた。鳴り物入りで喧伝されたPETにも弱点があると判明。従来法と参考までに併用するだけだ。
更に今春には『脳腫瘍・脳梗塞・動脈瘤・脳萎縮の疑いがある。がんの疑いが濃厚』と言い張って、主治医を通じて15年振りに脳ドックを受けた(主治医からの依頼ならば、自己負担は三割に軽減される)が、読影医師に『棚落ちもしていない高級スイカ並み。何の異常もない』と自信たっぷりに言われて気合抜け。
E 埴生の宿も我が宿
我が家は昭和49年12月7日に新築入居以来39年経過。100年の耐久性を目標にし、装重量450トンの現場打ち鉄筋コンクリート三階建・全館冷暖房を自慢していたが、徐々に綻びが目立ち始めた。
11年前に思い切ってリフォーム。水回りの機器(風呂・キッチンセット・洗面台・トイレ)は更新、内装も更新、薄汚れてきた外壁は防水塗装。エアコンの性能も向上したので、セントラル冷房用のクーリングタワー・チラー(冷水製造機)・冷却水循環ポンプは撤去。都市ガスは契約解除。給湯(小型ボイラー)とセントラル暖房(大型ボイラー)以外は安全を期してすべて電化し、80Aの契約に変更。
10年一昔とはよく言ったものだ。今夏から少しずつミニ・リフォームを開始。
網戸・・・戸車が摩耗して開閉がぎこちなくなった。アルミの枠も一緒に更新したら動きもスムーズになった。
ガラス窓・・・障子を撤去し、真空ペアガラスを嵌め込んだ樹脂被覆製サッシに変更。防音・断熱性能が格段に良くなった。超寒がり屋の私には30℃の温室生活には超満足。
壁の亀裂・・・外壁の数ヶ所にひび割れを発見。放置すれば雨水が浸透し鉄筋が錆びると予想し、防水工事を実施。職人は周辺の壁との色合わせ(カラーマッチング)が難しいとブツブツ。
鉄製手すりの塗装・・・10年置きに再塗装してきた。塗膜が部分的に剥がれ始めた。全長61.5mを再塗装。7社から相見積もりを取ったら、税込で何と89,000〜653,835円までバラついた。工事内容も大同小異、耐久性は何れも10年程度なのに。
墓や花壇造成など色んなミニ工事を計画した時の見積もりのバラツキは2〜3倍程度だったが、今回の結果には驚いた。納得性のある見積に出会うまでは見積依頼先を追加するのが我が常套手段。一見の客・素人の客から暴利を貪りたがる輩が多すぎる。これが日本の悲しい現実だ。
玄関のドア・・・周辺の新築住宅のドアと比べると見劣りすると荊妻がブツブツ。最新型に取り替えた。LIXIL(旧社名はトステム)のカタログから選んだドアを指定し、6社から相見積もりを取り寄せたら、税込で300,000〜514,584円までバラついた。
露天風呂から眺めた晩秋からの芝生は枯れ果てて美観がない。半信半疑で洋芝の種を二年前に1kg蒔いたが発芽率が低くて失敗。再度1kg蒔いたら、今年は雨が多かったためか青々と茂ってきた。しかし、一部不満なところもあり再々挑戦の予定。今後は一年中、毎週一回(冬季の回数は半減)の芝刈りが必須のようだ。でも、イタリア製二馬力の電気芝刈り機は快調(後片付けを入れても30分で完了)なので苦にはならない。
ベランダに農機具が散乱して見苦しい。我がテニス友達は大工に頼んで100万円の農機具小屋を作ったそうだが、私は建物の壁面に農機具を吊るせるアルミ製の簡単な枠を取り付けることにした。鍬・スコップ・備中・杭打ち用の掛矢・レーキ・金属製箒・・・。設計は面倒なので職人に一任。
築39年経過し古くなったと言って改築する必要性は全く感じない。どんなに立派な家を建てても普段の手入れを怠れば住みにくくなるものだ。在宅時間が長くなった今、私は家内外の粗(あら)探しを楽しみながらミニ・リフォームを続ける予定だ。そうすればするほど、家にも愛着が湧いてくる。子育てと同じだ。
F さらば、晴耕雨読
『晴耕雨読』が引退後の人生の最高の生き方のように、大昔から喧伝されているが、私にはその真似をする気は全く起きない。わが余生には新聞・雑誌・書籍を読むニーズがない。無理に読んでも共感することが少なく、人生の浪費に感じるだけだ。新聞は付録のチラシ欲しさから朝日の朝刊だけ。土・日のみ日経の朝刊を購読。投資信託や株式などの統計データを見るためだ。
新聞記事は各新聞社のホームページに出ているタイトルを読むだけで中身は連想できるし、週刊誌は新聞下欄の広告に記載されている目次のタイトルを見るだけだ。記事を読むのは時間の無駄と判断している(マスコミ関係者の知識レベルの低さと洞察力の無さに辟易しているのも一因)。こんな生活でも何一つ困ることはない。
雨読の代わりはテレビの録画再生視聴だ。平均すれば毎日20タイトル録画し、二時間で視聴完了。映像番組中心なので5〜10倍速・無声で視聴。ドラマや音楽番組は実時間(1と1.3倍速)での視聴を迫られるので拒否。中身に関心があるときのみ、世界ふしぎ発見・笑点・NHKや日経スベシヤルなどを見る程度に留めている。夫婦間のチャンネル争いは無駄。荊妻は別室で自分のテレビを見ている。
G 断捨離の徹底⇒そのゴールは死ぬ準備
今年私は数えの77歳。でも古稀から日も浅く喜寿のお祝いをする気持ちは起きない。がんの再発・新発もなく3年後の傘寿まで幸運にも生きていたら、子・孫も豪華ホテル(第一候補は和倉温泉の加賀屋)に呼んで、古希のお祝いと同額の100万円の予算で我が人生を祝福したい。使い残した予算は古希の時と同じように荊妻・子・孫のお小遣いにばら撒く予定。
そのためにも断捨離は何としてでも後三年間で完了予定だ。
断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。
基本的にはヨガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生や日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くという。
断=入ってくる要らない物を断つ
捨=家にずっとある要らない物を捨てる
離=物への執着から離れる
やましたひでこの著書が発表されて話題になり、この考え方が人々に広く知られるようになった。
やましたひでこの著書群の説明によると、おおむね次のようなものである。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが、(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなり、やがて、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまう。断捨離は、こうした「もったいない」の観念(固定観念、思い込み)にとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法である。
やましたひでこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになった。さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかた[1]、人との関係(人間関係)にも断捨離を実践することをすすめる書物[2][3]なども出版されるようになった。この流れを受けて、著者のやましたは、「断捨離」という言葉を商標登録している。
「断・捨・離」は2010年の流行語にも選ばれた。近年では断捨離を実践する人を「断捨離アン[4]」「ダンシャリアン」などと呼ぶことがある。 [注 1]
断捨離は2010年には流行語にもなった簡潔な言葉だが、昔から多くの人が実践していた人生の指針の一つだ。
書籍の処分・・・15年前の定年退職時(1998年)に厚さ50m分の本を破棄した。爾来なんの支障も感じなかった。印刷技術の発達により必要になればいつでも本は安く買える時代だ。残りの本も全部処分する予定だ。
名刺の処分・・・業務上出会った方々の名刺も不要と判断し、厚さ1mにも達していた名刺を全部処分した。もちろん何の支障も発生しなかった。
夜具の処分・・・1998年秋に次女が結婚。老人と老婆の二人暮らしに戻った。押し入れの大部分は来客用の夜具が占めていたが、子・孫の来宅宿泊用にと一家族分の夜具を残して残りは破棄した。
電化製品の破棄・・・いつの間にか使わなくなった電化製品が蓄積された。大きな倉庫(棚面積延べ24畳)を作ったのが失敗の元。2013年夏、外国人業者から電化製品は無料で引き取るとのチラシを貰った。綺麗さっぱり一掃できた。彼らは輸出するらしい。
衣類の破棄・・・ネクタイを締めて正装する機会は年に数回以下になった。背広(夏・合・冬)・ジャケット(春・夏・秋、冬用は革ジャン)・礼服(夏・冬)・コート(冬)とモーニングを残して、残りは処分。タンスやクローゼットが大変使い易くなった。がん寛解後に体重を4kg増量したが衣類は伸縮性に富んでいるのか、何の支障もなかった。
今後、新調する予定は全くない。唯一の不満は、松坂屋でオーダーした3万円/着のシャツのボタンが嵌めにくくなったことだ。首周りが1cmも大きくなるとは予想外だった。私は皿尻が少しは膨らむ筈と期待していたのに!
災害対策・・・行政はマスコミを介して災害時の非常食の準備を勧めているが、私は全く準備する気がない。関西淡路や東日本大地震の死者は圧死・焼死・溺死であり、餓死者はいない。唯一の心配は断水だが、私はビールで十分。海外旅行中、生水が危険な国ではビールを飲んだ。ビールは加熱処理されており最も安全な飲料だ。
交友関係の縮小・・・小・中・高・大学・トヨタ同期・社内の各種グループ合計15の懇親会や忘年会などは全て、数年前から欠席している。残しているのはテニス・ゴルフ(ロイヤルと加茂の二つ)・温泉旅行仲間。合計四つ。今年の年賀状は15通(人生でお世話になった、パソコンも使わない超高齢者)。
私はトヨタ自動車に入社して定年退職するまで、無数の上司(係長〜副社長まで)から君付けで名前を呼ばれた記憶がない。業務の上で名前を呼ぶニーズも不思議に感じるほどないのだ。でも、馬鹿丸出しを自認している私よりも、下には下がいるものだ。私に向かって君付けで話しかけたり、メールで『・・・よろしく』と書く輩だ。目線を高くしたがる馬鹿な輩とは一切付き合わない。交友関係は相互に尊敬し会える仲間に限っている。
それにしても日本人の敬語の使い方能力の低さには驚愕(英語にだって敬語による品位ある表現の習慣があるのに、使えない馬鹿はうようよ)。社員が社長に報告書で『・・・よろしく』と書くはずがないし、総理が天皇陛下に『・・・よろしく』と言うはずがない。この場合にはどんな馬鹿でも無礼と気づくのに、私へのメールには『・・・よろしく』と平気で書くのは究極の馬鹿の典型例だ。
食材の選択・・・缶詰・熱処理をしているインスタント加工食品は一切食べない。これらに共通する欠点は高温加熱時に発生する異臭だ。食べ物の美味しさには味覚センサーで測定できる食味の他に香りがあるが、熱処理加工食品には異臭はあっても香りがない。ワイン・ウイスキー・ブランデー・純米大吟醸酒も香りが命だ。
世界的に普及しているインスタント・ラーメンは最も嫌いな食べ物だ。宮内庁大膳課の専任コックが天皇陛下に提供している筈がない。
私は素材に何が含まれているか分からないハンバーグ・ギョーザ・魚肉ソーセージは一切食べない。我が酒の摘みの主力食品は単品素材だ。
刺身・牛のヒレ肉(メキシコ産の安価な1kgのブロック⇒5cm厚に切ってステーキに)・生ハム(スペインやイタリア産)・チーズ(欧州産)・馬刺し(カナダ産)・紅鮭(ロシア産。1月に専用装置を使い、自分で1年分を1週間かけてスモーク)・果物や家庭菜園の野菜だ。複合素材で唯一食べるのは欧州産のサラミソーセージだけだ。それだけに松坂屋豊田店での18:00に開始される刺身の半額セールの争奪戦に挑戦するのは生き甲斐の一つだ。
賢人各位の余生の生き方と対比しながらの、辛辣な批判をも含む読後感を拝受するのが旅行記を書いた後の何よりの楽しみだ。
読後感
1週間ほどの旅行に80数ページの旅行記を執筆されるとは!記憶力と博識に敬意を表します。
1.サフランをお土産に頂戴し、感激しました。小さな雌しべを指先で摘み、乾燥して作るのですから人手のほどは想像を絶します。日本では高価に違いありません。
サフランティーにして飲みました。味覚嗅覚が衰えている私にはコーヒーや紅茶ほどのパンチはありませんでしたが、とにかくきれい!桜茶と比べ物になりません。
家内は混ぜご飯に入れるとどうかなと云っていました。
2.[日本人は仲間同志にはそれなりの付き合いをするが、団体旅行で知り合った程度の仲間や増して外国人には何かのついでに奢る人は少ない」とのご指摘に、全く同感。私もその通りです。日本は外国からの観光客を増やしたいとしているが、少なからぬハンディーになりますね。
3.「日本人の旅のスタイルが変わった。小学生のようにリュックを背負っている」とのお話に、私も当初 違和感を覚えました。
昔は、余所行きスタイルで浮き浮きした雰囲気があったが、最近はリュックに脚絆こそ巻いていないが、山菜取りにでも行く感じ。
しかし、我ながら慣れてしまえば他からなんと思われようとこのほうが楽だ。社会のためには余所眼も必要と思うが。
4.石松さんの旅行記は世界地図を片手にして読みます。今回は私所有の地図に載っていない都市名が多かった。
「ケロアン」もその一つ。ところが「カイルワン」の横にkairouanの添え字・・・これだ!かたかなの表示が無いほうが見つけやすかったのに!
5.石松さんの娘さんが「海はバッチイ」と。
私の生れは富山県で、岐阜県寄りの山の麓の町です。小学校低学年の時(第2次世界大戦開戦直後)初めて海水浴に連れて行ってもらいました。
城端線から高岡で氷見線に乗り換え伏木を過ぎ雨晴らしに近づいた頃、満員列車の窓から海が見えた。ワーと歓声が上がった。
「海は広いな大きいな、月が昇るし日が沈む」から想像していた海は、ほんとに大きいしこんなにきれいとは!絶句。
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