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旅行記
           
南部アフリカ11ヶ国(平成21年10月31日脱稿)

   還暦時に我が元気な余生は僅か20年程度しかないと気付いた。その余生の折り返し点ともなる古稀すらも今や過ぎ去った。しかもその貴重な余生の前半10年の後半5年間は、多重がんとの闘いに明け暮れて無念にも雲散霧消した。

   死の直前まで人生を満喫したく、人類の原風景にヒントを求めて南部アフリカへと出かけた。日本人の平均所得の1%にも満たない最貧の国々なのに、自殺者が殆どいないと聞いて感嘆!

   我が視界に真っ先に飛び込んできたのは、野生動物と同じような自給自足生活に挑戦しつつも人生を謳歌している先住民達だった。彼らの生き様に直覚させられた台詞とは、『細々と生きている年金生活者』である私には最も相応しい『足るを知れ!』だった。
     
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はじめに

@ 世界遺産など海外取材番組の視聴


   定年退職後は自由時間が急増したのにテレビは天気予報とNHKニュースを食事しながら見る程度だった。放映内容に魅力を感じなかっただけの理由だ。数年前に知人に勧められてケーブルテレビを導入したが、視聴番組は変わらなかった。VHSビデオ装置は20年以上も前に購入してはいたが録画手続きが面倒で殆ど使わなかった。

   テレビの視聴習慣が一変したのは2年半前の2007年3月に50インチのフルハイビジョンプラズマテレビを買い、ケーブル会社から250ギガバイトの録画再生装置をレンタルで導入してからだ。使いやすい番組検索システムが用意されていた。毎日、翌日の番組を10〜20タイトル予約した。

   主なテーマは世界遺産を含む海外での取材番組とNHKスペシャルなどのドキュメンタリー番組だ。NHKも民放もこの種の番組は見切れないほど多く、しかも同じ内容を何回も再放送している。この種の記録映像は、見たい番組が飛び飛びの時間になる実放映時間だけではなく、深夜番組も多いためビデオで再生しながら連続して見る方が時間の使い方として遥かに効率的だ。

   期待はずれと分かった番組は即視聴中止、民放の宣伝は早送り、画像主体の番組の場合は、事前準備や推敲不足の出任せナレーションは聴く価値も感じないので5〜10倍速で十分。電子機器の性能が向上し、10倍速でも画像の解像度や鮮明さは然して落ちず、何の不満も感じない。

   取材班はベストシーズンを自由に選び、且つ長時間掛けて撮影しているから、単なる団体海外旅行よりも格段に内容が充実するのは理の当然だ。取材対象によっては四季の変化すらも撮影している。一回限りで終わる個人的な旅行では一瞬の断面に接するだけであり、放映内容ほどの密度を期待するのは元々不可能だ。それどころか、取材班は公的な立場をフルに活用して、非公開の貴重な物件まで撮影している場合も多い。

   色彩はあっても匂いも風も無いテレビの世界と、五感で現物に接する世界とは互いに長短相補う関係にあるとの認識は日ごとに強まった。我がゴルフ仲間の一人は『世界遺産には素晴らしいDVDが市販されている。それだけで十分だ。海外にまで出かける必要は無い』と言っている内に病に倒れた!

   いつの間にか午前3時に起床。入浴後1時間掛けて朝日と日経を斜め読みした後、4:30〜6:30はビデオを楽しむ生活が定着した。朝食はその後だ。継続は力なりと実感し始めたのは約2年経過後のことだ。今後出かけたい海外旅行先もだんだんと整理されてきた。

   体力がある間に出かけたい地域は北アフリカ(リビア・チュニジア・アルジェリア・モロッコ)東アフリカ(ケニア・エチオピア・タンザニア)中東(イラン・イスラエル・サウジアラビア・イエメン)アジア(スリランカ・ネパール・ラオス・カンボジア・ミャンマー・ブータン・モンゴル)その他(スペイン・メキシコ・パプアニューギニア)など高々20ヶ国程度になった。  

   今回出かけた南部アフリカ11ヶ国旅行の目的は、人類の原風景に接する序でに出会えるナミビアの沙漠・ビクトリアの滝・ボツワナのサファリ見物にあった。11年前に訪問したケープタウン等は単なる蛇足に過ぎなかった。   

A 世界遺産登録制度への疑問

   世界遺産の保護がユネスコにより提唱され始めたのは、ナイル川の中流にアスワンハイダムの建設計画が発表され、アブシンベル大神殿ほかの貴重なエジプトの古代遺跡が水没する危険が判明した時に遡る。このとき、世界各国が資金的にも技術的にもエジプトを支援しアブシンベル大神殿ほかの貴重な神殿が移築された。

   爾来、ユネスコの世界遺産登録制度が脚光を浴び、2009年9月現在では890件も登録されているそうだ。私はこれらの世界遺産を既に何百ヶ所も訪問した。しかし、当初の崇高な理念は掻き消され『世界遺産=観光資産』の風潮が蔓延し、早いもの勝ちの勢いで駆け込みやお手盛りで登録された物件が激増していることに気付いた。

   資金源も豊富な先進国の登録済み世界遺産は、ユネスコのお墨付きを貰って管理される必然性はない。欧州各国のキリスト教関連の宗教遺産(大聖堂や修道院など)はその信者には貴重であっても、他宗教の信者には必ずしも貴重ではない。宗教組織が維持管理すれば済むことだ。

   欧州で特に目立つ世界遺産に中世の町並みがある。いかにも美しげな外観に特徴があるが、これらは必要ならば今住んでいる住民が維持管理すれば済むことだ。それどころか、私にはこれらの住居群が今後も永久に住民が住み続けたいと思う住居なのか、疑問に感じ始めた。

   窓が小さくて天井も低く、しかも一戸当たりの面積も狭い(中世の生活水準では十分な面積だったのだろうが・・・)。最新の住宅設備や大型の家電製品の導入もし難く、駐車スペースにも事欠き、ますます住むに不便な住居群になるのではないか。全人類が協力して世界遺産として守る意義に大きな疑問を感じて来た。

   欧州各国の風習として町の広場や空き地にオープンカフェが大繁盛しているが、古い住宅環境での生活が息苦しく、外気に触れたくなった結果ではないかと推定している。今や香港の高層マンション街では早朝、然して広くもない公園では息抜きのための陣取り合戦が日常化している。(日本)庭園と一体となった日本家屋の内部には安らぎの空間があり、わざわざ庭に出てお茶を飲むほどの動機に乏しいのが何よりの証拠だ。

   私は現在の欧州の中世の町並みを核とした世界遺産は返上され、ハイテク時代に相応しい住宅街に何れ更新せざるを得なくなると確信するにつれ、二度と見物したいとは思わなくなった。世界遺産に登録される遺産とは文化遺産・自然遺産を問わず、千年の風雪に耐えて温存されながらも、維持管理の財源も不十分な発展途上国に限るだけで十分と思うようになった。

   世界遺産に特に登録してもらいたいものとしては、沙漠化や密林化で砂や木々に埋もれ、発掘整備するだけでも膨大な費用がかかる発展途上国の古代遺産だ。これらこそが人類が共有すべき宝として輝くべき世界遺産と確信するようになった。

   今後出かけたいところとは結局、日本では見られない壮大な自然遺産と発展途上国の文化遺産に絞られてしまった。
   
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アフリカ

   53ヶ国もあるアフリカは東・西・南・北と中部(色分けされた下記の地図を参照されたい)に分けられている。

   北アフリカはローマ帝国の遺産も温存されている地中海世界の一部でもある。その上に築かれたアラブ諸国には、黒人国のイメージが強いアフリカらしさは乏しい。

   一方西アフリカはサハラ沙漠の南、赤道の北に位置するブラックアフリカ。アフリカの面積の2/3は北半球にあるのを忘れている日本人が不思議なほど多い。フランスの旧植民地が多いが、隣接するアラブ各国の影響でイスラーム化されている国も多い。

   南部アフリカはマダガスカルなどの島国3ヶ国を含む15ヶ国からなる開発共同体を構成している。尚、旅行社は南部アフリカ11ヶ国の旅と称しているものの、ビクトリア湖に面した東アフリカのウガンダとルワンダの2ヶ国が含まれていた。

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事前準備

@ 旅行社

   数年前から南部アフリカへの団体旅行の情報を集め、2年前(2007年)の春に、同年秋の南部アフリカ8ヶ国(トラベル世界)を申し込んだ。でもその夏、兵庫県立粒子線医療センターで食道がんの陽子線照射治療(自己負担金300万円強)を2ヶ月(入院)に亘り受けることになり、退院直後の体力に不安を感じて無念にも解約した。

   今年4月、再度申し込もうとしたら『昨年、申し込み客が最低催行人数まで集まらなかったので、今年の計画は見送りました』との回答。急遽、インターネットで探したら『ユーラシア社』の類似の計画を発見して申し込んだ。最低催行人員10名は直前にやっと確保された。過去の体験から、僻地旅行の催行見送りは日常茶飯事とは知っていたが、今回もはらはらしながら待ち続けた。

A 事前勉強

   何時もの海外旅行の場合は事前に豊田市立中央図書館から関連図書を15冊(一人当たりの借用上限冊数)借りて斜め読みしていたが、昨年の西アフリカ8ヶ国の事前勉強の体験から、サハラ以南のブラックアフリカの関連図書には私が魅力を感じる書籍が少ないと分かっていたので、今回は全く借りなかった。その結果事前勉強も全くしなかった。

   その代わり、旅行記を書く時の参考資料としては、外務省などのインターネット情報を活用した。本文(おわりにを除く)の中で空色にしているところは全てインターネットからの引用。

   
添乗員や現地ガイドの説明よりは真(ま)ともと推定してはいるものの、その真偽のほどは不明だ。各国事情に関してはインターネットで参照できる『アフリカ大事典』から国旗とその由来、地図とその国の概況をコピーした。

B 旅費概算

   成田発着の相部屋・エコノミー条件での旅費998,000円から若干の増減があった。8/14日の深夜にレソトに到着したら、予約していたホテルは二重予約されていて既に先客あり。已む無く別のホテルに移動させられた。帰国後『旅行契約約款により旅費の2%(998,000*2%)の返金をします』との連絡が書面で届けられた。添乗員はその約款を知らなかったのか、現地では返金の説明はしなかった。

   8/20、成田空港駅で成田⇒名古屋間のJRの切符をジパング割引で購入しようとしたら『繁忙期のお盆は、8/20までは適用されません』との説明。年会費3,670円を払わせておきながら、帰省など使いたいときの繁忙期には販売を拒否するというJRの羊頭狗肉商法に憤慨。当日ののぞみ自由席はガラガラだったので、一層腹立たしく感じた。JRの代金は忘れたが、今回の総旅費は約101万円になると推定。

(ア) カタログ上の旅費・・・・・・・998,000円
(イ) 渡航手続き手数料・・・・・・・ 5,775円
(ウ) 顧客割引(リピータ)・・・・・−10,000円
(エ) 早期(2ヶ月以上前)予約割引 −20,000円
(オ) 査証代/実費・・・・・・・・  18,500円
(カ) 現地支払いビザ代・・・・・・・・8,000円(80$)
(キ) ホテル変更(2%の返金)・・ −19,960円
(ク) 豊田=名古屋(高速バス)往復 ・ 1,400円
(ケ) 名古屋=成田(新幹線等)往復 ・20,000円+α
(コ) 成田ビジネスホテル・・・・・・・6,000円

概算合計・・・・・・・・・・・・・1,007,715円+α⇒101万円
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トピックス

[1]人文地理
  

@気象変化

   学生時代、物理学がことのほか好きだった私は、ニュートンの古典力学の影響を受け過ぎていた。質量の大きな天体の運動は永久運動に近い。その一例としての地球の公転運動も安定しているから、地球の気象も数万年程度の時間では、然して変わるはずがないとの思い込みだった。

   海外旅行に縁のなかったころ、他国の有史以来の気象変化への関心はなかった。ところが、海外旅行に出かける前に対象国の勉強を始めるようになって、上記の思い込みの間違いに気付かされた。

   その一例がサハラ沙漠の歴史だ。世界最大のサハラ沙漠は、たったの一万年前には樹木に覆われていたのだ。その証拠は沙漠の各地に残された岩絵に記録されている。その原因は地軸の傾きの変化にあると言われ始めた。

   過去20年の間に地球の温暖化現象が過度に話題化され始めた。主因は炭酸ガスと現在決め付けられているようだが、果たしてそんなに単純な問題なのだろうか?その間に色んな反論も現われ始めた。過去10万年遡るだけでも何回かの氷河期が発生している。その原因を探求するにつれて、炭酸ガスの増減とは全く異なる要因もあることが分かってきた。

   地軸の傾きは周期的に変化している。太陽から地球表面に到着するエネルギーの総量は変化しなくとも、地球上の場所ごとの受け取りエネルギーは大変動しているとの説だ。

   地球の自転軸の公転面となす角の変動 現在地軸は23.5度傾いているが、この傾きは22度から24.5度の間で変化する。地軸の傾きの変動の卓越周期は約4万1000年である。地軸の傾きが増せば夏冬の差が大きくなる。

   北半球に住んでいたマンモスが滅亡したのは人類が食糧として食べ尽くした。旧人のネアンデルタール人が滅びたのは新人であるホモ・サピエンスとは異なり、彼らの声帯構造では言語が使えず、集団間の闘いでは団体戦が出来ずに新人から滅ぼされた、とかつては言われていたが、最近では夫々共に北半球が急速に寒冷化して食糧不足に遭遇したとの説が有力になってきた。

   アフリカの乾燥化の主因が、中東各地や中央アジアの沙漠化のように羊や山羊の過放牧とは異なり、地軸の変化にあればそれを阻止するのは、今日取り組まれている地球の温暖化対策よりも本質的に難しそうだ。

A 西アフリカとの比較

   昨春(2008年)訪問した西アフリカ8ヶ国と今回の南部アフリカ11ヶ国とには、類似点も異なる分野も多かった。日本の面積の80倍もあるアフリカの大きさをたっぷりと体感した。

   中東各地から西アフリカまではイスラームが破竹の進撃で進出したが、流石のイスラームも南部アフリカまでは何故か殆ど進出していなかった。南部では伝統的な宗教も今尚温存されていた。

   西アフリカも南部アフリカも共に雨量が少なく乾燥地帯が多い。広大なアフリカなので面積比では密林が少なくなったとは言え、未開発の大自然の中には未だ広大な熱帯雨林は残されている。欧州に近かったためか、西アフリカの大型野生動物は狩の対象とされて激減したものの、戦後になって徐々に自然保護活動が本格化した結果タッチの差で、南部アフリカでは今や全人類共通の宝である象・ライオン・キリン・河馬・駝鳥などの大型野生動物が群れを成して悠然と生き延びている。

   人類発生の地のアフリカなのに、今尚近代工業が未発達なため金銭的な生活水準は気の毒なほどに低い。でも自給自足生活に満足しているのか、表情は幸福感に溢れ、我が余生の過ごし方にも大いなる影響を与えた。

   帰国してからではあるが在宅日の過ごし方を、私は意を決して一変させた。『継続は力なり』を確信して長続きを第一目標に、焦らずに一日2時間を目標にしながら、家内外の整理整頓、家庭菜園や芝生・庭木の手入れへの奮戦を開始。徐々に生活空間が快適に変化するに連れて楽しくなってきた。

   来年からは月数回の日曜ゴルフ(クラブ競技)は全廃し、ゴルフとテニスは水・土だけに限定する決意もようやくにして出来た。11年前(1998年9/1)の定年引退後の水土日はスポーツに明け暮れていたのだ。11年間の習慣を変えるのは心理的な障壁が大きすぎたが、南部アフリカ旅行がその大きな障害を難なく吹き飛ばしてくれた。やっと古希超えの老人らしい生活に馴染み始めた。
   
B バオバブ

   アフリカはアマゾンと並ぶ動植物の種の宝庫。種類が多すぎる結果、どの木がアフリカ大陸の代表にされているのかとの関心を持ち続けていたが、どうやら『バオバブ』らしいと気付いた。

   バオバブはマダガスカルの象徴かと思っていたら、西アフリカでも南部アフリカでもあちこちで見かけた。樹形の珍しさ・他を圧する幹の大きさ・樹高の高さなど大草原の中のキリンのように直ぐに発見できる特徴には、何故か人を引き付ける魅力に溢れている。

   バオバブはその姿から受ける豪快さとは逆に大変弱弱しい木だ。内部に大量の水分を保有しているだけでなく、繊維が豊富な樹皮は剥ぎ取り易くロープなど生活資材にも重宝されている。一方、一見チークのような硬い木に見える老木を切り倒しても板にも柱にも出来ない。直ぐにばらばらの繊維になるからだ。

   象は牙で樹皮を剥(む)き内部の水分を飲むそうだ。あるところで地域一番のバオバブの巨木は象の攻撃を避けるため、柵で保護されているのを発見した。

   ケープタウンのカーステンボッシュ植物園の中核施設である、大きな温室の中心部にはバオバブが貴重品のように育てられていた。そこにアフリカ人のバオバブへの思い入れを感じた。
  
C 先住民の復権

   アフリカに住み着いている白人は南アなどほんの僅かの国になった。11年前に南アに出張した時に出会った大人の黒人は、白人だけではなく、高価な服(バブル時代の百貨店価格では30〜40万円)を着ていただけの私にも一歩下がった態度を取っているように感じた。かつてのアパルトヘイト時代の習慣は払拭されていなかった。

   20年前、延べ半年間も出張していたトルコで私は、東アジア系の外国人と誤認されたことは一度も無かった。彼らは着衣で判別していたと説明した。最近の海外旅行では中台韓人との認識の下に『ニーハオ!』『コーリアン?』などと、挨拶される回数が激増。ジーパン+激安店のスポーツシャツ+テニスシューズでは当たり前の誤認だ。

   今年はアパルトヘイト制度が完全に廃止されて18年。当時小学生だった子供達は今や30歳を越えた。20代の黒人労働者の表情からは自信に溢れた輝きが読み取れた。いわんや南ア以外の国々での主役は黒人。

   飛行機内の客室乗務員・ホテルの従業員・お土産屋の店員を初め至る所に黒人が進出し、てきぱきと働いているのを目撃すると我が心は癒され、ほっとした。先住民である黒人が主役に躍り出てきたのだ。私には分類基準が今ひとつはっきりしないが、殆どの国は今尚数十もの民族がいる多言語多民族社会だそうだ。


   
   彼らは生まれながらにして他民族との交流の中で揉まれながら成長している結果、他言語も解しながら旅行者とも自然体で応対している。日本人は単一民族との神話(私は日本だって僅か1万年前は多民族多言語社会だったと断定しているが・・・)にどっぷりと浸かり、外国人と対等に渡り合える人は甚だ少なく、彼らの視点に立てば付き合いにくい厄介な極東の未開人そのものだ。

   アフリカ通に我が印象を語ると、同意しながらも私が見落していた視点に触れた。若いころ辛酸を舐めさせられていた中高年の先住民は、今尚白人に対してはやや遠慮しているような微妙な対応を続けているそうだ。三つ子の魂に染み付いている呪縛は気の毒にも死ぬまで解けそうにないようだ。
   
[2]インフラ

@ 入出国


   陸路での入出国は一人ずつの処理が多く時間が掛かることが懸念され、旅程にも余裕時間が組み込まれていた。しかし、アフリカの貧困国にもコンピュータの端末が配置され、パスポートのICカードも自動読み取りされ、装備が充実している空港と然して変わらぬ速さで処理された。

   僅か数年前でも、中央アジアや南コーカサス諸国など旧ソ連圏から独立した国々が手書きシステムで処理していたのと比べれば格段の差だ。モスクワを初め旧ソ連圏の入出国手続きや空港設備の劣悪さは異常だ。

   しかし、超ミニ空港では機内預かりの荷物検査装置が未導入の場合があり、全数検査。薄汚れた下着類を洗濯袋に入れたまま、雑然と投げ込んでいるような鞄を衆目に曝(さら)されるのは些か恥ずかしかった。でも、搭乗人員が僅かなので時間遅れはなく、やきもきする場面はなかった。 

A 道路

   国力は道路の整備状況に端的に現われる。私が社会人になった昭和37年(47年前)の夏、同期入社の友人が中古車を購入して意気揚々と東京まで帰省したら、岡崎⇒東京間の国道1号線ですら未舗装区間があったと話題にしたのを思い出す。

   私が独身時代の昭和42年(42年前)に初代カローラを買った頃は、独身寮に整備されていた洗車場でフェンダーやクオーター周りの土落し作業は必須だった。現在使用中のプログレは過去10年間、車体の外板すら洗ったことは一度も無い。今や日本では未舗装道路は消滅したのも同然だ。ガソリン代は高かったが道路はガソリン税で格段に整備された。

   南部アフリカ各国では首都などほんの一部の都市内幹線こそ舗装されてはいるが、都市間の道路は未舗装が主。先進国に近い南ア連邦だけは観光都市間の幹線道路は舗装されていたが例外だ。

   今回の旅行では昼間の半分強はバスでの移動時間に食われた。ある同行者が『移動時間が長く、目的地での観光時間が短すぎる』と私に不満を語りかけた。『ものは考えようですよ。旅程に書かれている目的地での観光はむしろその一部分に過ぎない。車窓から目に入る情報の方が格段に多いし、その国の実体が一層わかりますよ。飛行機での移動は時間的には一見効率的に思えますが、離着陸時に上空から得られるだけに過ぎない情報はほんの僅かですよ。バスの中で居眠りするのは勿体無いと思いませんか』『納得・・・』
   
   今回は乾季の旅行だった。喜望峰で一瞬だったが豪雨に襲われただけだ。道路はデコボコだらけの上に完全に乾燥しており、路面に草一本すら生えていない場所も多かった。前方に車が走れば砂塵濛々。でも道路は大抵は閑散としており、時速80〜100Kmは出していた。入浴目的は体表面の砂落しが主になった。
  
B バス

   国力は自給自足とは無縁な工業製品の購買力にも極端に現われる。日本では車検が通らないような中古バスが主力。乗り心地とかエアコンの能力や騒音は我慢できるが、悪路にも拘らずドライバーは高速走行を平気で敢行するので、事故や故障が心配でならない。観光初日のナミビアで早速パンクに遭遇。写真に撮ろうとしたらドライバーが『ノー』と大声!!


   
   ここでも、ロシアや東南アジアなど世界各地で見かけるような珍現象に出会った。即ち、日本製の中古バスの車体に書かれた日本語が消されることもなく残されていた。日本製品への信頼の高さには誇らしく感じつつも、些か面映い気持ちも払拭できなかった。
   
   おんぼろ観光バスの欠陥は搭載されている音響システムにもあった。ガイドや添乗員がマイクを使うことは常時あるが、マイク⇒アンプ⇒スピーカの何処に欠陥があるのか、音声が小さ過ぎたり雑音が混入したりで聴き取れないこともしばしば。諦めるしかない。
   
[3]飲食

@ 下痢患者が激減

   かつての我が体験では、東南アジア(出張⇒タイ)南アジア(出張⇒パキスタン、旅行⇒インド)西アジア(出張⇒トルコ)北アフリカ(旅行⇒エジプト)では同行者の過半数が下痢に見舞われた。しかし、当時でも先進国(オーストラリア・ニュージーランド)や衛生状態が改善されてきたシンガポール・マレーシア・韓国・台湾などでは体調異常者は大変少なかった。
   
   でも、当時参考にしていた海外旅行者用の各種ガイドブックには生野菜は食べるな・カットされた果物も食べるな・ホテルの部屋のポットの水は飲むな、等の注意事項が覚えきれないほど書かれていた。

   しかし、中国や台湾以外の発展途上国であっても、中華料理だけはどんなメニューでも必ず加熱処理されているため、安全・安心料理だとは体験していた。とは言え、日本食ブームで賑わう海外各国でのお寿司や刺身のような生もの料理だけは、中華料理の本家の中国・香港・台湾でも今尚警戒している。

   今回の南部アフリカ各国の生活水準は、ゴルフ仲間と10年前に訪問したインドにも及ばない国が殆どだった。でも、同行者10名の中で体調を崩したのはたったの二人だけ。それも軽い腹痛が発生した程度だった。

   私の第一回目の海外出張は1973年の春。第二回目は海外生産部門に異動した1987年だった。その間の海外旅行は1977年、フィリピンに出かけた錫婚旅行だけだった。海外出張や海外旅行に度々出かけるようになったのは、僅か過去22年間に過ぎない。しかし、珍しい料理に出会うと我が人生では二度と出会えないチャンスとばかり、直ぐに飛付く好奇心が災いしタイ・トルコ・パキスタンで合計3回もの下痢を体験した。

   日本では体験したこともなかった強烈な下痢に懲り、それ以降は注意事項を厳密に守るだけではなく、水分の摂取はビールのみに限定した。工場生産されているビールの場合は開栓すれば炭酸ガスが抜け、水やジュースなどのように流通過程での詰め替えは不可能と判断したからだ。

   今回に限らず、今春(2009年)の中米7ヶ国でも昨春(2008年)の西アフリカ8ヶ国でも、同行者の下痢が一昔前と比べれば激減した。その最大の理由はペットボトル入りのミネラルウォータが、どんな僻地でも少し努力して店を探せば、入手できるようになったからだと断定するに至った。それどころか、殆どの団体旅行では毎朝、時には日中でも500ccのペットボトル1本が旅行社から支給される時代になった。

   結果論だがカット野菜や果物は安心して食べられたのだ。どんなに注意深く調理した料理でも空中の雑菌は必ず付着するが、雑菌の総数が胃酸などの殺菌力の範囲内ならば下痢は起き難いと、遅まきながらやっと気付いた。
   
   とは言え、泥水を啜(すす)っても何の支障も無く生きている野生動物の逞しさには畏敬の念を抱かずにはおれない。人間が野生動物に勝る分野は知能など極く限られた一部の能力に過ぎず、人類誕生以来進化した分野よりも退化した分野の方が多いのではないかとさえ思い始めた。

A 料理

   昨年(2008年)6月に累計5回目のがん治療で入院した。入院での体重減少は胃がんの切除手術では8Kgだったが、食道がん(放射線照射・内視鏡による切除・陽子線照射・内視鏡による切除の4回)ではその半分の4Kg前後で済んだ。とはいえ、体重の減少に伴う体力の喪失はゴルフやテニスで嫌というほど体験した。

   その苦い体験から次回のがん入院に備えて『痩せ代』分を事前に確保するべく、遅まきながら昨秋から実行した。半年かけて無理やり体重を4Kg増やした。胃が1/3になった私は爬虫類のような食い溜めが難しくなり、在宅時には毎日5食主義に徹した。南部アフリカ旅行で最も心配したのは、3食生活と食材面からの食欲不足の結果としての体重減だった。

   昼・夕食での食事のパターンは大変似ていた。前菜・スープ・メイン料理・デザート・飲み物(紅茶かコーヒーの選択)とパン類か米の料理。バイキングにもしばしば出合った。

   しかし、日本でも見かける野菜や果物も多かったが、味覚では我が舌に合うものは少なかった。肉は羊・鶏・牛・豚が主だが餌を含めて育て方に問題があるのか、何れも美味しくはなかった。日本では肉には序列があるがアフリカでは同列扱いだ。アフリカの肉類を日本の和牛・黒豚・地鳥と比較すべきではないとは承知しつつも、食欲が出ず心配。

   旅行地は内陸部が主なので、魚は淡水魚が中心にならざるを得ない。味付けに問題があるのか、こちらにも食欲は出なかった。体重減を怖れて必死になって頑張ったが、折角獲得していた貴重な『痩せ代』の半分に相当する2Kgを旅行中に失った。がっくり!
   
B ビール
   
   生ビールの有無はその国の流通機構、ひいては生活水準の高低を象徴している。ほんの20年前、トルコや東南アジア各国では生ビールは殆ど見かけず、瓶ビールが主力だった。生ビールがレストランで飲めるためには醸造工場が近くにあり、末端のレストランまでの配送ルートが確立されているのが必須の条件になる。
   
   今回、南アのケープタウンにある大型再開発地域(ウォーターフロント)を唯一の例外として、他国では生ビールは見かけなかった。全て瓶か缶ビールだった。輸入品は2倍近いプレミアム価格になってはいたが必ずしも美味しくはなかった。アフリカのどこかで国産化されたものと推定。国産品はスーパーで350cc缶が概ね1$前後の国際標準価格だったが、ビールとは名ばかり、何れも美味しくはなかった。しかし、無いよりはましと思って我慢しながら飲んだ。

[4]サービス業

@ ホテルの水準

   各国ともホテルの建物は程ほどに立派で、部屋の広さだけは国際標準。日本のビジネスホテルの約2倍、30〜40平米は優にあったが、水周りの整備は何故か手抜き同然だった。お湯が出ない、出た場合でも一人分のシャワーがやっと。浴槽に満水したころと思って、温度を確認すると冷めすぎていて入れない。部屋に入るや否や水周りの点検を何時もしていたが、点検時にお湯が出たからといって安心できないことにも気付かされた。最終的にお湯不足になることは事前には点検できないのだ。

   お湯が出ても泥水のように濁っていたりすることもあり、日頃使っているのか疑問に感じるだけではなく、浴槽の栓すら無いこともしばしば。結局、風呂に入れない日も何度かあった。我が入浴の目的は汗を流すことと髭剃りにあった。粗悪で且つ小さな石鹸をごわごわのタオルに擦り付けて体を洗う気は起きなかった。このような場合に備えて持参していた電気カミソリが役立った。同行の仲間に聞くと、同じホテルなのにお湯の出る部屋があったり、出ない部屋があったり。

   一番困ったのは水洗トイレなのに汚物を流す水が出ないときだ。整備員を呼んで修理させてもちょろちょろと水が出るだけで、一回分の水を溜めるのに1時間も掛かることすらあった。私は相部屋だったので大変困惑した。

   市場でビールを半ダース買い、部屋の冷蔵庫で冷やし、朝風呂の後に飲むのを無上の楽しみにしていたが、冷蔵庫があったのはたったの一回だけ。こんな時に備えて持参のウイスキーの水割りやワインを飲んだが、しばしば室温ビールを我慢して飲む羽目になった。

   エアコンは大抵装備されていた。しかし、温度調節が出来ずに冷えすぎた場合は暑がり屋の同室者への配慮からスイッチを切ることもできず、外出着のまま寝たこともしばしば。老朽化した室内機からは、マフラーが壊れた自動車のような大騒音が発生し、同室者と相談して遂に使用を諦めたことも何度かあった。

A お土産

   海外旅行も国内旅行並みに、今や誰でもが簡単に行けるようになった。その結果、一番気楽になったのは家族や友人・知人にプレゼントしていたお土産選びだった。今やお土産を買う必然性は国内旅行同様完全になくなり、自宅と子供家族分で十分な時代になった。

   空港の免税店には民芸品が溢れているが、買っても飾る場所が既に満杯なので見送り! アルコール類は重いだけではなく、日本の安売り店と然して変わらぬ価格なので、これも見送り! 結局買ったのは食料品とゴルフやテニスのときに使用する帽子だけになった。

   添乗員が薦めた、豆の葉から作った紅茶そっくりのお茶(ルイボス・ティー)をスーパーで購入。薬用酒に似た香りと味に特色があった。帰途、ヨハネスブルグの免税店で真空パックされた冷凍の駝鳥のヒレ肉を発見。珍しかったので購入。自宅までの移動時間には冷凍ヒレ肉も耐えられると判断し、子供3家族と自宅用にと各4包みを購入。

[5]その他

@ カメラ

   6年前、エジプト旅行の直前にニコンのディジタルカメラを初めて購入。単なるメモ代わりの用途なので最安値の100万画素で十分と判断。ディジタルカメラでは行動した順番が分かり、旅行記の執筆には便利だった。然して使ってもいないのに、いつの間にか液晶画面のコントラストが弱くなり明るい場所では見難くなった。その上バッテリを固定するプラスティック製の爪が折れてしまった。耐久性の悪さには憤慨。

   今回キャノン製のディジタルカメラを購入。たった6年間経過しただけなのに、この世界の改良スピードの速さには驚いた。最安値でも1,000万画素。バッテリ交換の度にニコンのカメラは日付や時刻が消えたが、キャノンには数年間交換不要なボタン電池が付いており使い勝手が向上。高々数百枚しか撮影しない旅では、取り出し可能な2GBのメモリーは100万画素に設定した撮影では無尽蔵に近い容量だ。液晶画面も大きくなり満足。

   でも、価格は何れも約1万円。私は性能を上げずに価格を下げる工夫を望みたいが、家電製品・パソコン・カメラ業界に共通した営業方針は、性能を向上させる代わりに価格だけは維持しているように感じられる。しかし、何れは墓穴を掘るのではないかと予想している。我がパソコンも3年前に20万円で更新したが、使っている機能は5万円分程度と推定している。次回は台湾製などの機能を絞った超廉価版を買いたいと思っている。
   
   我が古巣の自動車業界は中韓印台との闘いに備えて廉価版指向に舵を切り始めた。要素技術の開発が足踏み状態になると、最後の着地点はお決まりの価格競争。中韓印台との闘いに勝つのは徐々に難しくなりそうだ。プリウスの値下げ戦略の大成功にその嚆矢を感じてきた。
   
A 赤

   日本の観光関係者の色の表現には、奇妙な習慣が蔓延(はびこ)っている。今回のナミビアの赤い沙漠だけではない。エジプトの赤いピラミッド。その他の世界で言えば赤レンガ・赤土・・・。

   これらに使われている赤色には日章旗に使われているような赤は一つもない。全て酸化鉄の色だ。明るい茶色に過ぎない。何故これらを赤と表現するのか私には理解できない。前例主義に徹すれば無難と考えているのだろうか?

   真っ赤な太陽という表現にも異議を唱えたい。太陽が赤く感じられるのは日の出直後や日没直前のほんの一瞬の間に過ぎず、日中の太陽には色彩は感じられない。あえて言うならば白か無色だ。
                                                                                              上に戻る

同行者

   発展途上国への旅行者は先進国には行きつくしたと称する旅の達人が多い。また、今回のような20日間もの長期旅行に参加できる人には暇な高齢者が多い。日本では勤め人でも自営業でも現役は長期休暇が取り難いからだ。若いと思い込んでいた私もいつの間にか、なりたくもない長老になり始めた。今回は男子(4名)では最高齢者、全体(10名)でも2番目だった。

   相部屋でも概算100万円もする旅行への参加者には所謂富裕層が多く、3人はビジネスクラスだった。彼らは個室参加者だったので概算180万円もする。今回のような長期間・高額・僻地旅行参加者には、私よりもずっと若い後家・男寡・行かず(行けず?)後家がいても少しも珍しくはない。

   何時ものことだが団体旅行での人間の行動には、大分県の『高崎山の猿』など各地の類人猿社会の観察結果と類似な面が現われる。ボス猿になりたいらしい。自慢話を吹聴しボス猿に成れたと錯覚した参加者は、徐々に仲間内で横柄になり、あれこれと同行者に露骨な指図をするようになる。

   私には彼らの横暴さを放任するような許容度は全くないため、ボンクラボス猿を屁理屈で苛め、黙らせる役を勝手に始めるのだ。結局のところ、私もボス猿争いに参加していることになる。

   同行者の素描は旅の間に我が耳に飛び込んできた情報だが、真偽の程は分からない。人間の常として実力以上に吹聴する傾向があるが、言行の矛盾から自然に判明してくるので野暮な詮索はしなかった。

   高齢者が主となる団体旅行では何時ものことだが、バス内での私語による迷惑には辟易。残念なことには日本の高齢者にはまともな英語力のある人は殆どいない。現役の頃英語力が必要だった人は例外といえるほど僅かだ。現地人ガイドが英語での案内を開始すると、ヒアリング能力が無いために退屈するのか、突然スピーカに負けないような大声を張り上げて隣席の人との私語に走るのだ。

   私は添乗員の語学力は当てにせず、全神経を集中させて聞く努力は惜しまない。添乗員は現地人ガイドの隣にいるから直接聞き取れるが、順番で中後部席になった場合、それでなくとも騒音の大きなバス内では私には説明が殆ど聞き取れなくなる場合もある。密かなる楽しみは添乗員の翻訳ミスの発見だが、私語で妨害されるから不愉快千万。

   あるとき、我が背後の席で大声を張り上げて喋るG夫人(後述)に『ピーチク、パーチク喋るのは止めて欲しい。一生懸命説明しているガイドに対して失礼ではありませんか。ガイドの説明を聞いている人たちにも迷惑千万ですよ』と、我慢できなくなって遂に怒鳴りつけた。

@ 添乗員

   大手の旅行社の添乗員には派遣社員が多いが、今回の添乗員はユーラシア社の正従業員(?)だそうだ。毎日のように参加者に配る飴玉などのおやつ、醤油などの調味料、日本食が恋しくなる頃合に出すソウメンなどの携行荷物も多く、体力も無ければ勤まらない。今までの海外旅行で出会った女性添乗員は今回も含めて全て独身女性だった。家事育児負担だけではなく禁欲にも耐えてくれる配偶者を発見するのは難しい証拠か?

   一時は67Kgあった体重も60Kgを切ったと喜んでいた。『体重の増加で一度引き伸ばされた皮膚は、後日痩せても縮まないから皺が発生するのに、貴女の顔には干し柿のような深い皺がありませんね。若いと皮膚もゴムのように縮むのですか?』『目に見えないところに妊娠線のようなものが出来ました。太ももにも・・・』

   彼女が提案した会計システムは画期的だった。どの団体旅行でも昼食や夕食時に注文する飲み物(ビール・ワイン・ジュース・ペットボトル入り飲料水など)は有料。その都度食前に注文を取り、添乗員か食堂の係員が一人ひとりから食後に集金している。しかし、彼女は旅の初めにドルや現地通貨で希望者からお金を預かり、全員の分を纏めて食後に支払った。彼女が記録している参加者の擬似通帳からお金を降ろすシステムだった。旅の終わりに残金を清算するだけで済んだ。

   添乗員が参加者への集合時刻の指示とか業務上の連絡をするのは当然の職務だが、いつの間にか日頃の指図癖が嵩じて脱線する場合がある。あるとき移動中のバス内で、私が缶ビールを飲んでいたら『ビールは飲まないで下さい。バス内に臭いが充満します』と指図した。

   『同行者からの苦情があったのですか』『いいえ』『それでは、ユーラシア社固有の規則ですか。募集時には一切聞いていませんが』『そんな規則はありません』

   『貴女の個人的な主観に基づく指示に従う気もなければ義務もありません。公共の場での禁煙要請は今や世界的に認められています。しかし、観光バス内でドライバーや乗務員以外の客への禁酒要請は全くありません。
   
   それどころかこのオンボロバスとは異なり、機密性が格段に高い国際線の中では無料で各種の酒を無制限に飲ませてさえくれます。旅の醍醐味の一つとしての飲酒は広く認められています。こんな馬鹿げた指図に従う気もなければ、義務も全く感じません』『・・・』

   最近の旅行で流行っているサービスの一つに添乗員による旅日記の配布サービスがある。毎朝、前日の行程と見学内容をA4で一枚に纏めたものだ。ホテルにコピー機がない場合は後日纏めて配られる。

   その日記を読んで驚愕! 誤字・当て字・脱字・仮名遣いの誤りが満載されている。手書きなので仮名漢字変換ミスではない。一度は本人に証拠を指摘して注意を喚起したが、その後も直らないので余計なお節介は止めた。お里が知れた途端、日記に限らずあれこれ話しかけるのも一層馬鹿らしくなった。

蛇足

   今回の添乗員の行動癖を友人(トヨタ同期・航空原動機専攻・ゴルフ&テニス仲間)に話したら以下のような説を紹介してくれた。

   全国的に有名な高校野球の監督が安月給でも我慢強く働いているのは、監督という立場の魅力を捨てきれないかららしい。高校生は甲子園に出たいために無条件で監督の指示に従うそうだ。企業内では上司の指示に簡単に従う部下は少なく、中間管理職は大変苦労しているが、自分の意のままに動かせる高校生と仕事をする醍醐味・快感は病みつきになるらしい!

A 同室者A紳士 (相部屋参加者は私たち二人だけだった)
   
   今回の旅行で4ヶ国増えて累計127ヶ国にもなるという60歳代半ばの旅の達人。北海道在住。お墓は青森県にあるそうだ。耐寒体力があり過ぎ、寒がり屋の私とは対照的。寒い日には私は革ジャンパーを着た外出姿で寝ていたが、氏は薄いパジャマ姿だったのには驚いた。3人の子供達は結婚し、北海道・愛媛県・パリで夫々活躍中。幸せ一杯の人生のようだ。

   どの旅行社の場合でも通常、出発時刻の1時間半前にモーニングコールの電話が添乗員から掛かる。室内に電話が無ければドアがノックされる。氏は持参の目覚ましをモーニングコール時刻よりも10分だけ早く設定された。この10分間こそ洗面所が一ヶ所しかない相部屋旅行者には貴重な時間だ。これぞ正しく旅の達人のノウハウそのものだ。
   
   早寝早起きの私は更に50分遡って、抜き足差し足で洗面所に向かい朝風呂をゆっくりと浴び、髭をそり、用を足し、ベッドに戻りのんびりと朝酒を楽しんだ。氏にも酒を薦めたが、体質的に飲めないタイプだと分かって残念。

   氏の荷物は大変少なかったが、毎日のように洗濯をされた。最近のハイテク素材は30分で乾くそうだ。下着だけでなくスポーツシャツやズボンまでも洗濯。荷物が少ないはずだ。一方私は20日間、一度も洗濯はしなかった。下宿していた学生時代と同じように3日間同じ下着を着ていた。乾燥地帯なので汗をかくことは殆ど無く困ることも無かった。

   氏の持ち物で驚いたのは無数の薬だった。緑内障の進行を遅くする薬だけでも4種類。しかも同時には飲めないのだそうだ。私は痛風の薬を2種類、毎食後1錠ずつ服用と指示されている『ウリンメート』と、夕食後と指示されているユリノーム1錠とを旅先でも自宅でも起床直後に一緒に飲んでいる。帰国後の8/27に受けた豊田市老人保健健康診断での尿酸値(尿酸値検査はオプション。有料)は6.3mg/dl(適正範囲は3.6〜7.0)だった。飲み方の時間指示には過去20年間の実績からも価値は無いと判断している。

   一方氏は医師の指示を几帳面に守られていた。そのほか10種類以上もの薬を夫々透明な袋に入れ、幕の内弁当のように仕切られている薬箱に詰め込んで持参されていた。高齢者は薬を食料かと見間違うほど服用しているとの話はしばしば聞いていたが、目撃したのは初めて。
   
   あるとき、C紳士が私に内陸部の『**湖』と『**海』との違いを質問されたら、私が答える前にA紳士が珍説を披露された。
   
   沿岸国の大陸棚の資源は沿岸国に属すると海洋法で定められた。その結果資源確保を目的に、大きな湖を取り巻く沿岸国が話し合いをしてその湖を**海と呼ぶようになったと解説。
   
   我が**海に関する理解は全く異なる。海とはその水溜りから川を介して水が大洋に流失しない『尻無し湖』。カスピ海・アラル海・死海が有名だというものだ。この定義によれば周辺から流れ込んだ水は地中に浸み込むか蒸発する結果、徐々にミネラル成分が濃縮され、結局大洋同様に塩分が増加する。しかし、ミネラルの成分比率は大洋とは異なり、夫々の**海固有の比率になる。
   
   この特徴を強調して、死海に面したヨルダンでは死海の塩は海水から作られる塩とは異なり、健康や美容にも良いとの勝手な理由をつけて観光客に高値で売りつけている。
   
   帰国後2002年版の理科年表で世界の代表的な湖沼リスト58ヶ所をチェックした。**海は上記の3ヶ所だけだった。尚、**海の呼称は海洋法が出来る前から存在していた。これらの湖は大きいだけではなく塩分濃度が高いことから海に似ている、との意味を込めて昔から**海と呼ばれていた。
   
   いろいろ調査したら『**海』に関して私が理解していた定義は必ずしも正しくないことが判明した。オーストラリア最大の湖であるエーア湖はエーア海とは呼称されていないからだ。でも私は、固有名詞は関係者が勝手に名付けられるとは言え、オーストラリア側の検討不足と断定している。

   エーア湖(Lake Eyre)は、南オーストラリア州の北部に位置するオーストラリア最大の湖である。面積は約9,400平方Km、湖面は海面下約15mとされるが、その時期の降水量によって異なり、乾季にはほぼ完全に干上がることもある。

   エーア湖は、乾燥したエーア湖盆地(en:Lake Eyre Basin)の中心にあって流出河川がない塩水乾湖であり、低い部分はプラヤ(en:playa)と呼ばれる塩の原になっている。湖水の多くは、クイーンズランド州のアウトバック(未開拓奥地)である北西から流れて来るが、エーア湖盆地がほとんど平らであるため、水量は途中で減少する。数年毎に起こる洪水の時期には、短期間だが多彩な生命活動が営まれる。


B 最高齢者B夫人

   福島県在住の元社長夫人。今上天皇よりも学齢が1歳若い75歳。福岡県北九州市(旧門司市)の出身。私とは同じ福岡県の出身者と分かり親近感が湧いた。鎮西高校卒業後新宿の洋裁専門学校に進学。半世紀以上も前の同年輩の女性は花嫁修業として、洋裁・和裁・編み物・華道・茶道などが必須だったらしい。

   今や和服を着る機会は冠婚葬祭程度とか。かつて学んだ洋裁技術で高級和服をチョッキなどのカジュアルウエアに仕立て直し、旅行には何着も持参されていた。シルクは軽いし図柄も美しく、お気に入りのようだった。

   門司育ちの影響か河豚が大好物。でも宅配などには頼らず、食べたい時は福島県から遥遥下関の料亭まで出かけるそうだ。門司と下関とは所属県は異なるものの、関門海峡を挟んで隣接。詳しいはずだ。しかし、私には本場は全てに勝る、などの本場信仰は全く無い。

   蛇足。つらつら思い出すだけでも河豚刺し・松坂牛のヒレ肉・一匹1.9Kgの超大型活伊勢海老・一杯1.2Kgの超大型活毛蟹・一杯5.5Kgの超大型活本タラバガニ・一個600gの活岩牡蠣・活帆立・一個500gの大型冷凍黒アワビ・中国産冷凍マツタケ・辛子明太子・・・。
   
   生ハム・豚舌のスモーク・スモークサーモン・合鴨のスモーク・黒豚レバーのスモーク・馬刺しの霜降り・馬刺しのスモークなど何でも通販で満足。殆どはスライス済みだが、合鴨・黒豚・馬刺しのようなブロックタイプの食材でも半解凍状態でスライス(ドイツ製15,000円の包丁を買った!)すればそのまま食べられる。数Kg単位で購入し我が専用冷凍庫にて保存。少しずつ解凍しながら酒の摘みに。
   
   刺身が食べたくなったときは自宅から2Kmの松坂屋豊田店に直行。テナントの中島水産は午後6時から半額セール⇒細々と生きている年金生活者には大いなる味方。賞味期限や消費期限は無視し数日分(10個前後のパック)を購入して冷蔵庫で保管。冷凍せずとも何ら問題が無いことは体験済み。中島水産はJR名古屋高島屋など大手の百貨店で良く見かける一流の魚屋。スーパーでは見かけない高級魚もあり満足。半額になればスーパーよりも安くなる!
   
   B夫人は自営業の会社社長と結婚。ご主人は米国留学をしたご子息に経営を15年前に委ね、郷里の福島県に何と100坪の豪邸を建て、悠々自適。自宅には30畳ものリビングルームや個人の住宅には珍しい20畳もの和室もあるとか。

   ご主人の趣味は釣り。アラスカでキングサーモンを釣り、ガイドに燻製加工も委託。時には氷詰めにしてご自分で日本に持ち帰られることもあるとか。国内の渓流釣りでは釣った魚はリリース(元の川に放す)されるそうだ。

   ご主人には海外旅行の趣味はなく、B夫人はいつも一人で参加。1ドル360円時代に始めた海外旅行は既に160ヶ国を突破。残った国は小さな島国が殆どで関心がなく、そろそろ旅行も終わりにしたいらしい。金持ち喧嘩せずの典型例。いつも穏やかで無駄口も叩かれず、旅を満喫されていた。

C 男寡・C紳士

   181cmのスマートな体型を活かしてダンスに没頭している56歳の好漢。大学卒業後半年でサラリーマンには向かないと判断し脱サラ。事業に成功したが昨年後継者に代表権を譲って早めの引退。座右の銘は『腹八分目』。

   後継社長の心配を除去するため、会社の借金の保証人にはなっているが院政を避けるために、たとい名のみと言われても会長就任は断固として拒否する方針。数年前に奥様が他界された後は、子供もいない氏は一人暮らし。島倉千代子ならずとも、私は『人生いろいろ・・・』と考え込まざるを得なかった。
   
   『奥様の和服は、どのように処分されましたか?』『今時、新品でも家庭の和服はただ同然。たとい一着何百万円の大島や結城のつむぎであろうとも同じ扱い。例外は有名デザイナーの作品か、人気沸騰中の着物だけ。箪笥一棹に満杯の和服を箪笥ごと出入りの業者に売ろうとしたら、粗大ゴミだから引き取り料を払え!』と、言われたとか。大手の老舗百貨店(高島屋・三越・大丸・松坂屋等)のルーツの殆どは元呉服店。かつての花形商品も需要が激減し、百貨店業界が今や瀕死状態になっているのも不思議ではない。

   中高年の再婚には問題点が多いとポツリ。婚活で30歳前後を選べば性犯罪を問われかねない。40歳前後だと体が持たない。50歳前後がほどほど。現在は入籍しない条件での通い妻がいるのだそうだ。時々連絡を取り合って夕食を作ってもらったり、外食したりしている。通い妻をご本人は『お姉さん』と呼んでいるそうだ。

   海外旅行も趣味の一つ。3時間以上の搭乗時間を要する場合は原則としてビジネスクラス。今回も当然ながらビジネスクラス。今年はリオのカーニバルにも出かけた結果、旅費には400万円も使ったそうだ。

   氏も驚くほど多種類の薬を持参されていた。メタボとは縁遠い体型に心配性の私は、がんとか致命的な持病をお持ちなのではないかと疑わざるを得なかった。

   氏からはペットボトルに投げ込むだけで、飲みごろのお茶が出るティーバッグ入りの袋1セツトを頂いた。その半分を同室者に差し上げたら喜ばれた。私はお茶とは熱湯で入れる番茶と少し覚ましたお湯を使う玉露しか飲んだことはなかった。お茶の価値は香りにあると信じていたので、揮発成分は低温で滲出させると効率が低いはずと断定していたし、松坂屋豊田店の新茶売り場でティーバッグを見かけたこともなかったからだ。

   この分野でもいつの間にか技術は進歩していたのだ。小さなティーバッグ1袋で2リットルもの美味しいお茶が飲めたのだ。旅行中もペットボトルの水をそのまま飲むのは苦痛に感じウィスキーの水割りにして飲んだが、その後は緑茶も飲むようになった。新発見だ。

D D独身女性

   60歳代半ばらしいD女史は、超肥満タイプの体型からも瞬間的に女傑を感じさせる方だ。昼や夕食時のアルコールの注文は『三点セット』と称して、ビール・赤と白のワインを各1グラス注文。現役時代は飲み屋でウィスキーをボトル1本飲み干しても平気だったとか。

   ご両親と3人家族。家族には車の免許保有者は一人もいないという富裕層。今回もビジネスクラス。現役時代に約50回の海外出張、退職後の5年間は毎月のように出かけたので約50回の海外旅行をこなした。合計して約100ヶ国になるとか。今回の旅程では過去の旅行地とダブルことがあり、連泊の時はホテルで休養を選ぶこともあった。

   800〜1,000人程度(増減は常)の会社の人事担当役員をしていたらしく、人名を素早く覚える能力だけは今尚健在。暗記法を聞くと、今回の同行者の場合は出身地とか本人の趣味などと結び付ける、などの連想記憶術を活用していたのだそうだ。

   あるとき『石松さん、今の話題は食事中の話題としてはお止め下さい』と、私の話を遮った。『Dさん、単なる貴女の主観に反するからとの理由から、私に指図するとは失礼千万。あなたの部下でもないし指図される立場にはありませんね』と反論したら『私は指図しているのではなく、お願いしているのです』と弁解。『どっちでも、同じですよ』。現役の頃の習慣が尾を引いていたようだ。

   その後は、私には一目置くようになっただけではない。あるときペットボトルの蓋を開けるのに難渋していた私を発見。『石松さん、栓開けは得意なんですよ』と声を掛けてくれ、難なく開けた。腕力は見かけに違わず、がん患者の私よりも上だった。

E E夫人(40歳前後?)

   現役のOL。珍しく長期休暇が取れたらしい。数学が好きだったので数学科へ進学。定員50人の中で女性は7人だった。

   料理作りはご主人の仕事、洗濯物はご主人とは分け夫々が洗うそうだ。でもご主人のことは夫と称し、私には決して主人とは呼ばなかった。一家の中での主人との認識はないらしい。

   『Eさん、貴女にはフィギュアスケートの金メダリスト荒川静香さんに似た美しさを感じますね』と褒めたつもりだったら『人を褒める時は言葉にご注意。荒川静香さんよりも、美しい方ですねと言って欲しかった』と不満顔がありありなのには驚いた。『道端の石ころが、ダイアモンドよりも美しい』との評価を要求しているみたいで・・・。

   数学の能力が大変高いことを自慢したので『高校生の世界的な数学コンクールで日本人の成績が悪いのは何故だと思いますか?』『ユトリ教育の結果ですよ』と自信たっぷりに即答した。

   私は『日本の数学教育のカリキュラムの欠陥だと思いますがね。あの有名な公文には幾何学がありませんね。幾何学では補助線を思いつくか否かが、問題を解けるか否かの分かれ道です。しかし、幾何学では一旦答えを知れば類似の問題の存在意義はなくなるし、そうかといって加減乗除算や代数のように新しい問題を無限に作ることは出来ないから、公文には幾何学がないのですよ。

   日本の高校数学は初等代数学と統計学の初歩に偏りすぎ、真の数学的な能力を育てるカリキュラムになっていませんね。でも、国際コンクールの問題は数学的なセンスが問われる過去問のない文章題です。幾何学で補助線を思いつかせるような訓練抜きの教育では勝てませんね』。鼻息の荒かったE夫人は『・・・』。その後は私の前では静かに過ごすようになった。

F F独身女性(30歳前後?)

   OL時代に職場のお局女性達からの度々の虐めにあって、遂に退職。今では派遣社員をしているそうだ。F嬢の美貌に『行けず後家?』がやきもちを焼いたのではないかと邪推。F嬢のような控えめで我慢強い性格の持ち主は我が体験からは稀有だ。

   F嬢は目下恋愛中。ドクター論文に挑戦中の医師だそうだが、結婚よりも研究論文の完成に熱中しているのが不安らしい。『そんな優柔不断な男は捨てなさい。大学の研究室に残って研究に専念しているのに、30歳半ばになっても医学博士号ごときが取れないような男は一流ではない。あなたとなら結婚したがる男は限りなくいますよ』と、遂にお節介。

G G夫妻

   夫婦で参加した唯一の組。この二人の連係プレーには些か唖然。搭乗手続きや入出国などでの割り込み常習犯だ。一人が行列に参加。やがて遅れてきた伴侶が現われると先に並んでいる配偶者の前に、何食わぬ顔をして割り込む。私は行列での順番争いには辟易していたので、原則として我が仲間の最後尾に並んだ。何の不都合も無い。

   G夫人の食事作法には更に驚愕。長いテーブルを挟んで5人ずつ座る配列が一番多かった。両端のいずれかに添乗員。最初の頃G夫人は5人の中央に座った。両肘をテーブルに付け、背中を大きく丸めてむしゃむしゃと音を立てての犬食い。傍らの夫に向って大声でなにやら講釈。女帝気取りだ。私は声を聞くだけでも不愉快になり、食欲まで減退するのでG夫人の着席を見届けて最遠距離の椅子を選んだ。

   G夫人はパーマの髪を梳(くしけず)ることは殆どしなかった。頭はハタオリドリの巣(ザンビアで紹介)と変わらず、お化粧も殆どしない。歩行時は猫背でアヒルのようにひょこひょこ。60年間以上もどのように生きておれば、こんな行動の熟練者になるのか、想像を絶する!!

移動

@移動地図



A 旅程

 

訪問都市

日程内容

食事・宿泊地

1


成田国際空港
香港

成田空港に出発の2時間前に集合。
夕刻、空路、香港、ヨハネスブルグ乗り継ぎ、ナミビアの首都ウイントフークへ。

朝:
昼:
夕:機
機中泊

2

ヨハネスブルグ
ウィントフーク


着後、世界最古のナミブ沙漠が最も美しく広がるナミブナウクルフト国立公園の入り口、セスリウムへ向かいます。

朝:機
昼:機
夕:
セスリウム

3

セスリウム
(ナミブナウクルフト国立公園)

ウイントフーク

早朝、ナミブナウクルフト国立公園へ。世界最大級の砂丘が連なるナミブ沙漠の最深部、「ソッサスブレイ」へご案内します。赤い砂丘が果てしなく続く光景は圧巻です。また、「デューン45」へもご案内します。
観光後、ウイントフークへ。

朝:弁
昼:弁
夕:
ウィントフーク

4

ウィントフーク

ケープタウン

午前、空路、南アフリカ発祥の地ケープタウンへ。
着後、ケープタウン郊外の、テーブルマウンテンを望む「ブローバーグビーチ」にご案内します。その後、ケープタウン市内に戻り、「フォーターフロント」へ。

朝:
昼:機
夕:
ケープタウン

5

ケープタウン滞在
(喜望峰)

朝食後、喜望峰自然保護区へ。アフリカ大陸最西南端のインド洋と大西洋が合流し渦を巻く喜望峰(訪問記念証明書を発行)、ケープ半島最南端のケープポイントにご案内します。
途中、ボートにて、アザラシの聖域ドイカー島、ペンギンの集まるボルダーズビーチへもご案内します。
昼食はロブスター料理です。
午後、ケープ植物区の保護地域群内にある「カーステンボッシュ植物園」にご案内いたします。

朝:
昼:名
夕:
ケープタウン

6

ケープタウン
ヨハネスブルグ
エンテベ/カンパラ

午前、空路、ヨハネスブルグ乗り継ぎ、ウガンダのエンテベへ。

着後、ウガンダの首都カンパラへ向かいます。

朝:弁
昼:機
夕:
エンテベ/カンパラ

7

カンパラ滞在
(ジンジャ)

朝食後、カンパラ市内観光。「カスビのブガンダ王国歴代国王の墓」、『ウガンダ博物館』へご案内します。
その後、世界3位の湖ビクトリア湖北部のジンジャに向かいます。
着後、ジンジャの観光。ナイル川の上流に位置するブジャガリ滝、「スピーク記念碑公園」にご案内します。
また、ボートに乗って、ビクトリア湖と白ナイルの境とされるソース・オブ・ザ・ナイル(ナイルの源流)にもご案内します。
観光後、カンパラへ戻ります。
夕食はビクトリア湖でとれた魚を使った料理をご賞味下さい。

朝:
昼:
夕:名
エンテベ/カンパラ

8

カンパラ
ンガンバ島
エンテベ/カンパラ
キガリ

朝食後、エンテベより、ボートにて、ビクトリア湖に浮かぶ「ンガンバ島」へ向かい、チンパンジーの保護区へご案内します。
観光後、ボートでエンテベに戻り、?動かない巨大鳥?ハシビロコウなどが飼育されている「ウガンダ野生動物教育センター」にご案内します。
夜、空路、ルワンダの首都キガリへ。

朝:
昼:
夕:
キガリ

から9

キガリ

ナイロビ

朝食後、キガリ市内観光。ツチ族とフツ族の悲劇を後世に伝える『虐殺記念館』にご案内します。
昼、空路、ナイロビ乗り継ぎ、ルサカ経由、マラウィの首都リロングウェへ。

朝:
昼:弁
夕:×

10

リロングウェ
マンゴチ

着後、ホテルにてご休憩して頂き、出発まで、自由時間。
昼食後、マラウィ湖観光の拠点となるマンゴチへ向かいます。

朝:
昼:
夕:
マンゴチ(マラウィ湖畔)

11

マンゴチ
リシンガ

朝食後、数多くの固有種を含む500種類以上もの魚類が生息しているマラウィ湖にて、ボートクルーズをお楽しみ頂きます。
その後、国境を越え、モザンビークのリシンガへ。

朝:
昼:
夕:
リシンガ

12

リシンガ
ナンプラ

昼、空路、ナンプラへ。
着後、国名のルーツでもあるモザンビーク島へ向かいます。

朝:
昼:
夕:
モザンビーク島

13

モザンビーク島
ナンプラ
マプト

朝食後、かつてインド洋貿易の中継地として栄えたモザンビーク島の観光。「ノセ・セニョーラ・ド・バルアルテ教会」、「聖パウロ宮殿」、「聖アントニオ教会」へご案内します。
観光後、ナンプラへ戻り、夕刻、空路、モザンビークの首都マプトへ。

朝:
昼:
夕:
マプト

14

マプト
ロバンバ
ムババーネ

朝食後、マプト市内観光。「ノセ・セニョーラ要塞」、『自然歴史博物館』にご案内します。
観光後、国境を越え、スワジランドの首都ムババーネに向かいます。
途中、ロバンバに立ち寄り、ソブーサ二世の像をご覧頂きます。

朝:
昼:弁
夕:
ムババネ

15

ムババーネ
マセル

朝食後、国境を越え、レソトの首都マセルに向かいます。
途中、南アフリカ共和国を通過します。

朝:
昼:弁
夕:
マセル

16

マセル
(タバ・ボシウ)
ヨハネスブルグ

朝食後、マセル近郊の観光。バソト族発祥の地で要塞でもあった「タバ・ボシウ」を訪ねます。
観光後、国境を越え、南アフリカのヨハネスブルグへ。

朝:
昼:
夕:
ヨハネスブルグ

17

ヨハネスブルグ
リビングストン
(又はビクトリア・フォールズ)
(ビクトリアの滝)
ビクトリア・フォールズ

午前、空路、リビングストン(又はビクトリア・フォールズ)へ。
着後、世界三大瀑布の一つビクトリアの滝のザンビア側からの観光。ジンバブエとの国境にかかる滝は、最大幅1,701m、落差108mという大きさを誇り、壮大なる大自然を堪能して頂きます。
観光後、国境を越え、ビクトリア・フォールズへ。
夕刻、ザンベジ川のサンセットクルーズにご案内します。

朝:
昼:×
夕:
ビクトリアフォールズ

18

ビクトリア・フォールズ滞在
(チョベ国立公園)

朝食後、国境を越え、世界有数の象の生息地として有名なボツワナのチョベ国立公園へ向かい、着後、ドライブサファリをお楽しみ頂きます。
その後、チョベ川のリバークルーズサファリへもご案内します。
観光後、再び国境を越え、ビクトリア・フォールズに戻ります。

朝:
昼:
夕:
ビクトリアフォールズ

19

ビクトリアフォールズ
ヨハネスブルグ

朝、ビクトリアの滝のジンバブエ側からの観光にご案内します。
昼、ビクトリア・フォールズ(又はリビングストン)より、空路、ヨハネスブルグ、香港乗り継ぎ、帰国の途へ。

朝:
昼:×
夕:機
機中泊

20

香港
成田国際空港


夜、成田空港着。通関後、解散。

朝:機
昼:機
夕:

 


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ナミビア


@ 国旗の由来



   青は青空を、赤は独立のために流された血を、緑は豊かな森林を、太陽は独立の喜びと豊かな鉱物資源を表しています。


A 国の特徴



   現地に暮らす人々の言葉で「人のいない土地、何もない土地」という意味を持つ「ナミブ」。世界最古とも言われるナミブ沙漠を持つ国がナミビアです。

   このナミビア共和国は独立国としての歴史が浅く
(1990年3月21日に独立)、他のアフリカ諸国と同様 ヨーロッパ諸国の影響が色濃く残る国と言って良いでしょう。

[1]7月31日
 
@ 日本⇒南ア

   成田国際空港に16:20集合だった。中部国際空港発成田行きの国内線は7:50発だったので、新幹線⇒成田エクスプレスを使った。2回目の体験だ。国内線は便利なはずなのに成田行きの発着枠が少なく、今回は早起きさせられるだけではなく、空港内での買い物への関心が全く無くなった私には、成田空港で半日も時間を潰すのが何よりも苦痛になっていた。

   成田に2本目の4,000m級の本格的な滑走路と3本目となる横風用の2,500m級滑走路が完成する日まで、日本人は我慢せざるを得ないのだろうか? 究極のエゴイストの我儘をいつまでも解決できない千葉県に対し、民主党の前原国土交通大臣が羽田を国際空港にするとの爆弾発言。県知事他千葉県民は大騒ぎをしているが、政府の英断に拍手喝采!! 極東との名称に相応しい僻地の悲哀を返上したいところだ。

   国内のハブ空港に過ぎない羽田が国際ハブ空港に育てば乗客が激増し、羽田⇒ヨハネスブルグ間(15,000Km)の無着陸飛行も採算路線に変わる。既に当該距離の飛行が可能な旅客機はあるのに!!

ボーイング787

   航続距離は基本型の787-8での航続距離は8,500海里(15,700km)、ロサンゼルスからロンドン、あるいはニューヨークから東京路線をカバーするのに十分であり、東京から南アフリカへノンストップで飛ぶことも可能である(2010年就航予定の787-10はさらに性能が向上する)。


   空港内での飲食物価は市街地の5割増しと思い込んでいた私には、100円の回転寿司(第2ターミナル内)を発見して驚いた。最安値は何と89円。ゴールドカード会員用のラウンジで摘みにも手を出しビールも飲み、既に満腹状態だったが暇つぶしも兼ねて品質評価が急にしたくなり『僅か3皿の注文でも差し支えありませんか』『ご遠慮は要りません』とのことで試食。立派な寿司だった。今後も立ち寄りたくなった。

● 成田18:20⇒21:55香港JL735(飛行時間=4時間35分)
● 香港23:50⇒07:00ヨハネスブルグSA287(13時間10分)

   ヨハネスブルグ(南部アフリカ)はカイロ(北アフリカ)やナイロビ(東アフリカ)と並んでアフリカを代表するゲート・シティだ。今回の旅ではヨハネスブルグ国際空港に戻っては、何度も近隣諸国へ出かけた。

   最後の海外出張(1998年、11年前)で地球を一周した時、南アフリカへの最短コースはロンドン経由だった。今回の香港経由のコースはインド洋上を直線移動した結果、13時間余となり飛行時間は大幅に短縮されていた。昭和37年にトヨタ自動車に入社した頃、名古屋駅から福岡県小倉駅まで夜行列車(急行)で帰省した頃の乗車時間は15時間前後も掛かったことを思えば、今更ながら隔世の感がある。

[2]8月1日

@ 南ア入国

   ヨハネスブルグ空港内のお土産物屋の定番商品は欧州の酒類やブランド品、アフリカの民芸品と特産物だ。ダイアモンドは品質差も大きいが、売れ筋の1カラットだと概ね100万円前後だ。日本製品はビデオカメラなどの電気製品やカメラ類が主。女性用の衣類やバッグなどの手工業的なファッション製品の国際競争力は無いも同然。



   アフリカ人には8等身という概念はないようだ。空港内の民芸品の売店で発見した彫刻などの置物から分かるように、現物との相似則は全く無視されていると分かる。この写真は意図的に上下に引き伸ばしたものではない。

A ナミビア入国

● ヨハネスブルグ09:45⇒10:45ウィントフークSA074

B 国内移動

   ウィントフーク(ナミビアの首都)から目的地のナミブ沙漠の入口にあるホテルまでは何と370Kmもあり、バスで4時間もの距離。国土の70%は人口10%の白人が独占。放牧地として使われている土地の境界は金属製のネットで取り囲まれていたが、放牧されている動物は極端に少なかった。何処までも荒地が続いているだけの私有地にどれだけの価値があるのか疑問だ。鉱物資源の発見待ちか?

   ナミブナウクルフト国立公園に広がる 世界最古と称されているナミブ沙漠への観光客が増加するに連れ、牧場からホテル経営へと転向する人も増えたそうだ。ナミブデザートロッジに夕方到着。デザート(desert)とは英語で沙漠を意味する。

   ナミブ沙漠(Namib Desert)とはナミビアの大西洋側にある沙漠である。面積はおよそ50,000km2。約8,000万年前に生まれた世界で最も古い沙漠と考えられている。

   大西洋を北上する冷たいベンゲラ海流の影響で生じた典型的な西岸沙漠である。中央部にはクイセブ川が流れ、この川を境に北部に岩石沙漠、南部に砂沙漠が広がっている。年間降水量は25mmに満たないが2、3日に1度程度の割合で海上から海霧(移流霧)が流れ込む。

   特に朝方には風に乗って100km以上内陸部にまで霧が進入し、周辺植物や生物の貴重な水分供給源となっている。沿岸の海はかなりの暴風が吹き荒れており、海岸は沖合いで濃霧のため難破した船や鯨なども打ち上げられスケルトンコースト(骸骨海岸)と呼ばれている。


   
   沙漠なのに広大な敷地内には樹木が茂り、庭にはプール。外部から水道を引いている様子もないので水源は敷地内の井戸と推定。外観は立派だったがシャワーのみ。実用本位の質素なホテルだった。

   此処の砂は土の粉末である黄砂ほど小さくはなく、夜空を砂塵が遮る様子もない。日本では見かけないほどの数の星が煌く。南半球なので北斗七星は当然のことながら見られないが、南十字星がどの星なのかは不勉強で分からないままだった。

   ナミビアはトルコ(78.1万平方Km・7,206万人)やパキスタン(79.6万平方Km・16,090万人)以上の面積(82.4万平方Km)があるのに人口はたったの210万人。人口密度は極端に低く、都市部を除けばシベリア並みの過疎地。しかし地下資源に恵まれているためか国民所得は3,360ドルもあり、アフリカでは裕福な国だ。

[3]8月2日

@ ナミブ沙漠

   へとへとに疲れたままやっと観光開始。沙漠での日の出を拝むべく5:30に出発。国立公園は日の出から日没までが開門時間(変動時間制)。早朝なので朝食も昼食も弁当。海外旅行での弁当とは、どこの国であっても日本の駅弁やコンビニ弁当からは連想すら出来ない水準。サンドイッチ・りんごなどの果物一個・紙パックの飲み物1個程度の非常食だ。

   ゲート前の広場に到着したら何十台もの車が一列縦隊で並んでいた。ホテル客ではなく、旅費を節約すべく首都などから昨夜徹夜で運転してきた観光客だ。

   沙漠だけあって雲ひとつない夜間の放射冷却の結果、風が吹いてもいないのに体感温度は零度前後。豊田市の真冬並みの寒さ。同行者は震えていたが、私にはこの瞬間に備えていた革ジャンが役立った。沙漠とは言うものの平地には地上部が完全に枯れた草が生い茂っていた。沙漠らしき景観は砂丘が連続した山脈だけだ。あちこちに砂丘はあるが岩だけの丘もある。どのような場合に砂丘山脈が形成されたり、岩山山脈になったりするのか、幾ら眺めても私には成因が連想できなかった。


   
   砂丘といっても大抵は下部の斜面には草が点々と生えている。草なしの完全な砂丘は大変少ない。私は砂丘の内部は岩ではないかと予想しているが、現地ガイドに質問すると中も全て砂だと強弁する。しかし、どのようにして調べたのかその根拠の説明もなく『砂おには』頷けない。現地ガイドの説明とはどうせこんなものだと、聞き流した。

   ゲートから45Km地点の砂丘の名称はデューン45(距離に由来)。希望者はこの砂丘(デューン)に登るのだそうだ。我が目測による高さは150m。草は全く生えていない。靴を袋に入れて登り始めた。裸足の裏に心地よいが冷たい砂の感触を味わいながら一歩一歩登った。足が砂に深くめり込むので大変歩き難い。強風が吹くと砂が砂丘の表面を走り、たちまち足跡が消されていく。

   風のように表面を這った砂は反対側の斜面を滑り落ちていく。砂の密度は高いが粒は小さいから固体よりも気体に近く、巨視的に見れば粉雪の移動に似ている。このような砂嵐が続けば砂丘が風下に向って移動するはずだが、固定位置にあることから考えても砂丘の内部には岩があると結論付けざるを得ないのだが・・・。



   集合時刻までに与えられた時間は30分。大抵の観光客は砂丘を登らずに平地で待っていたり、写真を撮ったりして時間つぶしをしている。我がグループでは砂丘を登り始めても直ぐにUターンする人が続出。私よりも少し上まで登った人は、E夫人と安全のために付いて来た添乗員だけ。半分くらい登ったところで近くの人に写真を撮ってもらった後、降りた。富士山須走り下山道の砂走り(http://www.youtube.com/watch?v=omxx53sU7Ys・未体験・伝聞情報)とは異なり、足が砂に大きく食い込むために走ることは出来ず、一歩また一歩と抜き足差し足のようにして山を降りた。

   国立公園としての規制があるのか、サハラ沙漠と並んで世界的に有名な沙漠なのに、半日くらい楽しめるような施設が此処には全くないのが勿体無い。ペルーの砂丘では砂スキーが大繁盛していたし、飲食店・お土産屋も賑わっていたのを思い出す。簡単なオープンカフェさえあればビールを飲みつつ軽食も摂り、太陽が移動するにつれて色が刻々と変わっていく砂丘をゆっくりと楽しめるのに・・・。
   
   マイクロバスから四輪駆動車に乗り換え、ビッグダディと名付けられた沙漠の最深部にある高度293mの最も高い砂丘を見に出かけた。砂丘の高さが何故変化しないのか疑問だ。内部が岩であれば納得が得られるが・・・。
   
   ビッグダディから首都ウィントフークのホテルまで400Km強のバス移動(約7時間)は、肉体の耐久テストを受けているようなものだ。途中文字通りの荒野で時々写真を撮りながら移動したものの、時差ボケも手伝い大変疲れた。

[6]8月3日

@ 移動

   ウィントフークは流石に首都の風格を感じさせる町だ。海抜1,600mの内陸部の盆地にあり、周囲は山に囲まれた風光明媚な場所。肌寒い朝だ。ナミブ沙漠とは全く異なり、市街地には東京沙漠とは異なり大きな樹木が鬱蒼(うっそう)と茂っている。山から流れ出す伏流水のお陰か? 高層ホテルから眺める市街地は建築ブーム。小さいながらも新築の建物が多い。

A ナミビア⇒南ア入国

● ウィントフーク9:35⇒12:45ケープタウンSA1752

   眼下に乾燥地特有の農場が広がる。


   
   丸い円盤の一つ一つが農場だ。円の中心部に井戸があり、ポンプで汲み上げられた水は、無数の車で支えられた直線状の配水管の下部の穴から散水される。配水管は時計の針のようにゆっくりとした速度での円運動が出来る。円の直径は大きいものでは500mもあるそうだ。中東など乾燥地帯の上空を移動するときにしばしば見かける散水方式だ。

   サウジアラビアではこの方法で小麦を栽培した結果、今では輸出するほどの収穫量に達している。沙漠地帯は水さえあれば太陽には恵まれているので合理的な農法だ。日本では短期間で収穫できる葉菜類の工場生産はかなり普及してきたが、長期間を要する穀物は残念ながらコスト高で無理なようだ。

                               上に戻る

南アフリカ




@国旗の由来

   赤は独立と解放運動のために流された血を表しています。緑は農業、黄色は鉱物資源、青は命の水、黒は黒人、白は白人を表しています




A 国の特徴

   日本の3倍半ほどある大地(122万平方Km)は多様な地形から成り立っています。インド洋沿岸には肥沃な平野が広がり、レソトとの国境付近には2,000〜3,000m級のドラケンスバーク山脈が連なっています。内陸部は高原地帯で、北西のナミビア、ボツワナ国境付近からはカラハリ沙漠が続きます。

   国内には国立公園や自然保護区も数多く、動物サファリやハイキング、フラワーウォッチ、ホェールウォッチ、ダイビングなど色々な楽しみ方があります。気候も全体的に温暖で過ごしやすい場所が多い。
   
   最近は日本にも多く輸入されるようになりましたが、温暖な気候にはぐくまれたワインは美味しいものが多く、ワインセラーを巡るワインランドツアーなども楽しいものです。海岸地方では美味しい魚介類が有名で、ワインと一緒に食べると格別です。大自然の美しさを残しつつ、南アフリカは経済的にもアフリカ大陸最大の国と言われます。

   しかしながら、南アフリカに住む人々皆が経済的に豊かというわけではなく、豊かな人と貧しい人の格差が厳然と存在します。
   
   アパルトヘイト諸法が廃止
(1991年)されて18年経った今でも、社会のゆがみが残っており、さらにアパルトヘイト時代とは質の異なる差別や問題が生まれ、社会のゆがみを大きくしていると言えるかもしれません。大自然を楽しむだけではなく、そのような中で懸命に明るく生きる人々に接することも、大きな思い出になるかもしれませんね。


B ケープタウン
   
   ケープタウンは350万人もの大都市。ナミビア一国(210万人)よりも遥かに多い。2010年のサッカーワールドカップ開催に備え、ケープタウンは空港を初め至る所で工事中。お決まりの渋滞に辟易。



   ケープタウンの象徴は高さ1,067mのテーブルマウンテン。日本刀で水平に切ったような形だ。山頂へ登る円筒状の回転式ケーブルカーは定期検査中だったので下から山を眺めただけで残念。11年前に来た時に登っていたので、私に実害はない。このスイス製の大型ケーブルカーはゆっくりと自転する結果、窓際の何処にいても360度の視界が楽しめる。このアイディアを世界各地のケーブルカーが何故採用しないのか不思議だ。
   
   夕方、近くのウォーター・フロントへ出かけた。港の倉庫などを改装した延べ床面積20万平米くらいの大型複合ショッピングセンターだ。ホテル・レストラン・銀行・映画館なども充実し、無機的な高層ビル街よりも格段に賑やか。ウォーター・フロントの典型例の一つだった名古屋港の『イタリア村』は、愛知県から建築違反を咎められあえなく倒産した。この種の施設で生き延びているところは、日本だけではなく世界的に見ても少ない。直ぐに飽きられるのだ。
   
   とはいえ、此処もお決まりの胸突き八丁を迎えているようだ。市内に大型のショッピングセンターが二ヶ所も出来、国内顧客の争奪戦が始まったとかで、11年前に比べ人出が減少していたのが実感された。
   
   南ア名物の『ルイボス(Rooibos)ティー』をお土産用に購入。ティーとは言うものの、マメ科の植物の葉から作られた醗酵茶。カフェインは含まないが、薬用酒のような香りがした。ティーバッグ入りの紅茶と同じような紙袋に分封されており使いやすい。

[5]8月4日

@ ホウトベイ(Hout Bay)の波止場


   観光船発着用の小さな波止場には長方形に仕切られた場所ごとに、持ち込んだ民芸品を商人が並べている真っ最中だった。毎日商品を持ち込み、売れ残りを持ち帰る作業だけでも大変だ。
   


A アザラシ見物

   小さな遊覧船に乗ってアザラシ見物に出掛けた。アザラシの保護が徹底しているのか超過密状態だ。7,000頭もいるらしい。でも、此処はインド洋と大西洋とから流れ込む海流の恩恵で漁業資源も豊富らしく、アザラシは丸々と太っていた。運がよければ鯨にも出会えるとか。



   遊覧船から降りると波止場の一角で演奏していた流しのミュージシャンが、我が一行が日本人と分かるや否や『上を向いて歩こう』を歌い始めた。僅かとは承知しながらも1ドルのチップを渡して短時間だけ聴いた。毎日歌っているからか、黒人はリズム感が素晴らしいのか、歌は上手だった。
   


B カーステンボッシュ植物園

   19世紀中ごろ英国人が整備し始めた植物園。狭いながらも14万平米の敷地一杯に、南アの固有種を中心に6,000種の植物がイングリッシュ・ガーデン風に育てられている。一部には鳥もいた。果物・花・葉が綺麗な小型の樹木なども鬱蒼と植え込まれ、品種改良も延々と続けられているとか。

   中央には大型の温室があった。その中央にバオバブの大木が宝物のように育てられていた。バオバブこそがアフリカの植物のシンボルだと主張しているかのように。


   
C ボルダーズ・ビーチのペンギン

   ボルダーズ・ビーチにはジャッカスペンギン(最大のペンギン種である南極の皇帝ペンギンよりは格段に小さい)の営巣地があり、11年前にはなかった高架式の木製歩行路が整備され、大変歩き易かった。海岸では波が荒く、海草も生えないような岩が露出。その結果、磯の香りもしないのが玉に瑕。



   昼食には150g程度の伊勢海老が4匹/人。でもその調理法にはがっかりした。半割にした後、干物に近くなるほど長時間掛けて油で揚げて出された。伊勢海老は刺身にするか茹でてプリプリ感を楽しみながら食べる習慣の私には、脱水され殻に張り付いたスルメのような身を、苦労しながら剥がして食べさせられたのには興ざめ。

D 喜望峰自然保護区

   11年前にはケープタウンから喜望峰へ通じる道路の沿線には大型のスラム街を何ヶ所も見かけた。当時のガイドが『国家予算で移転先に住居を造り、スラム街は取り払われます』と解説した通り、今回は全て撤去されていた。南アのあちこちでスラムに代わる住宅街を見かけたが、日本流に言えば2DKの仮設住宅レベル。一軒15坪程度。庭や車庫のスペースはない。




   スラムの跡地らしき処には柵付の広大な駝鳥用の放牧地が広がっていた。駝鳥は柵で仕切られた中で育てられていた。牧草を食べつくすと隣で養生中の放牧地へと移動させるそうだ。

   バスから降りたときが、今回の旅で唯一雨に祟(たた)られた悪夢のような時間だった。スコールのような豪雨と台風並みの強風に襲撃された。喜望峰の観光スポットは海岸ではなく、高さ100m以上もある丘の上のケープポイントだ。ケーブルカーに乗った。
   
   私がケーブルカーに乗ったときは既に満員だった。目の前に座っていたオランダ人の青年がすっと立ち上がり椅子に座れと挨拶。私は彼の好意に感動するよりも、よぼよぼの老人と査定されたことに驚愕した。短時間だからと言って鄭重に辞退したが・・・。
   
   2年前に相生駅(河本敏夫が生誕地に誘致した政治駅)前のバス停に到着し、兵庫県立粒子線医療センター行きのバスを待とうとした折に、長椅子に座っていた白髪のお婆さんから椅子を譲られかけた時に受けた衝撃以上だった。日本人には『旅の恥はかき捨て』の諺に悪乗りし、知らない人への冷淡さが目立つが、全く知らない外国人から受けた親切心には腰を抜かし兼ねないほどの驚きを感じ『旅は道連れ、世は情け』は外国の諺かと勘違いしたくなった程だ。
   
   ケーブルカーの終点から山頂の旧灯台まで更に100mくらいの坂道があるが、豪雨は続くし視界は100m程度なので登るのは中止して、駅の中の小さなお土産屋を一巡し、ケーブルカーで下った。
   
  

蛇足。
   
   1488年にバルトロメディアスがこの喜望峰に到着した時、此処がアフリカ最南端と判断した報告が長い間信じられていたが、その後最南端は此処の東に位置する『アグラス岬』と判明。でも観光地としての景観に乏しく、そこまで出かける人は殆どいない。写真の説明文にはアフリカ大陸の西南端と記されているが、間違いだ。
   
[6]8月5日

● ケープタウン9:55⇒11:30ヨハネスブルグSA322


  
   国際線搭乗の場合、余裕を持たせて出発の定刻2時間前に空港へ到着するのが原則。アフリカの代表的なハブ空港とは言えヨハネスブルグの出発便数は、世界各地の巨大空港に比べれば格段に少ない。搭乗手続きが短時間に終わった後は暇つぶしに困り、本屋に立ち寄った。英語版の海外ガイドブックを発見。中国・インド・タイの本は発見したが、残念なことに日本版はない。

   
外国人来日観光客を2010年には1,000万人にしたいとの目標の元に、観光庁(Japan Tourism  Agency)が、2008年10月1日に国土交通省の外局として設置された。しかし、アフリカの経済大国である南アの国際空港の本屋には、ガイドブックすらもなく今後の努力が待たれる。

@ 南ア⇒ウガンダ入国

● ヨハネスブルグ14:10⇒19:00エンテベSA160

   この日は移動だけで終わった。エンテベ空港はウガンダの首都カンパラの都心から40Kmの位置にある国際空港である。

蛇足。

   今回の旅行のタイトルは『南部アフリカ11ヶ国大旅行20日間』となっているが、ナイル川の源流であるビクトリア湖を望むウガンダとルワンダとは東アフリカに属している。

                               上に戻る
ウガンダ



@国旗の由来

   黒は国民、黄色は太陽、赤は同胞愛を表し、中央には国鳥のカンムリヅルが描かれている。



   東アフリカのケニア・タンザニアと接していながら意外と地味な印象のウガンダ。でもその自然の豊かさや文化の高さは全くひけをとりません。

   かつてイギリスの首相チャーチルに「アフリカの真珠」と呼ばれたウガンダの緑溢れる自然は今でも健在です。世界で2番目に大きい真水の湖
(面積ではスペリオル湖に次いで2番目だが、水量ではバイカル湖がその約8倍もある)でもあり、またナイル川の源流でもあるヴィクトリア湖を擁し、ナイル川の源流のひとつ‘白ナイル’もここから始まっています。源流を自分の目で見たい・・・という方は湖から川へ流れが変わる様子も見られます。

   観光の魅力としてはやはりその変化に富んだ自然。サバンナを車で走るサファリだけでなく、ボートサファリ、森でのウォーキングサファリが魅力です。何といってもウガンダには、いまや絶滅危惧種としても有名なマウンテン・ゴリラの半数以上が生息しているということ。しかも2ヶ所で別種のゴリラが見られるのです。さらにチンパンジーが観察出来る公園も数ヶ所あり、これだけ容易にマウンテン・ゴリラとチンパンジーが観察できる国は広いアフリカでもウガンダだけ。

   ただし、ベストシーズンにマウンテン・ゴリラを観るための‘許可証’を手に入れるのは至難の業。何しろ1日にゴリラを見ることが出来るのは20数人の限定ですから。

   ところで「人食いアミン」とも呼ばれて政敵を切り刻んで食べた(!)とも言われる、元大統領『アミン』の名前をご存知の方も多いはず。この印象でウガンダはちょっと怖い国なのでは?と言われることがあるようですが、その不安は首都カンパラを歩いていただけでもすぐ吹っ飛ぶはずです。

   ウガンダの人は親切で礼儀正しく、穏やかです。国全体に豊富な食べ物、水があることが理由のひとつではないでしょうか。

   最後にもう一つ。ウガンダのもうひとつの魅力は美味しい食べ物。東アフリカでは一般的なウガリ(ウガンダではポショと呼びます)やマトケ(食用バナナを蒸し焼きにしたもの)などはもちろんどこでも食べられますが、自慢はチキンとヤギの肉!チキンはまさに地鶏で味があり、道端で売りに来るヤギの串焼きは絶品です。果物と野菜はどれもおいしいですが、「ウガンダのパイナップルは世界一」という声多しです。


[7]8月6日

   ウガンダでの現地人ガイドは日本でも勉強したことがあるという中年男性。彼の日本語の発音とアクセントの素晴らしさはNHKのアナウンサー並みで驚嘆! 東北や関西地方の先住民たる現代の日本人よりも格段に上。

   彼が一目を置いている国は3ヶ国との見方が興味深かった。米国は軍事力と政治力で世界の秩序を維持し、イギリスは英語を世界的に広めた功績で、日本は信頼性が高く高性能な工業製品をリーズナブルな価格で輸出して貢献したと評価しているそうだ。『***』工業国の観光客の場合には、日本と『***』とを如才なく入れ替えているのだろうか?

@ ブガンダ王国歴代国王の墓

   かつてのブガンダ王国は現在のウガンダの前身。首都も現在のウガンダと同じカンパラにあった。チャーチルがかつてウガンダを『アフリカの真珠』と讃えたそうだが、中央アメリカのコスタリカの自然美を連想させた。現在のウガンダは24.1万平方Km。英国(24.5万平方Km)並みの小国だが、人口は3,100万人。緑豊かな大自然に恵まれているが、工業が未発達なため所得は僅か370ドル/人。




   質素な建物の中に歴代国王4人の写真や彼らが勇敢に闘ったときの武器が飾られていた。立ち入り出来ない写真の背後に遺体が埋葬されている。ウガンダでは国王の死には『いなくなった』と、間接的な表現を使うのだそうだ。日本にも天皇が崩御された場合『お隠れあそばされた』という表現が古文に残されているが、高貴な方を恐れ敬う根本精神には同じ発想があるように感じられる。

A ウガンダ博物館



   ウガンダには樹皮紙があった。大変珍しい紙だ。樹皮を広げて叩いて繊維をほぐし、繊維以外の物質は水で洗い流し、残った繊維を圧縮するとパピルスに似た紙が出来る。その用紙は絵のカンバスにもなるし、裁断すれば布としても使える。大変丈夫だが作るのは大変だ。
   
   世界にはパピルス、羊皮紙、牛皮紙、和紙だけではなく、東南アジアでは仏典を書き写したバナナの葉から作られた紙も大量に見つかっている。エジプトでは、バナナの葉で作った紙をパピルスと称して観光客に高値で売りつけている商人を、観光警察や現地ガイドは目の敵にしているが、実用上はバナナでも十分役に立っている。


   
   大きな広場を取り囲むようにして、52民族48言語もあるという各民族の現在も使われている、円筒形の壁に円錐状の屋根を葺いた住宅が復元展示されていた。直径約10m・平屋・1DKか2DK。一見すると良く似ているが、詳しく観察すると屋根の葺き方、内部の構造が民族毎に少しずつ異なっていた。
   


   大勢の子供達が遠足に来ていた。色彩豊かで清潔な制服、輝く目、はにかみながらも明るい笑顔に何故か心惹かれるものがある。がん患者であることを一瞬の間とは言え忘れさせられた私は、つい誘い込まれてにっこりしてしまった。



B ナイル川の源流

   ナイルの源流は探検家スピークが発表したビクトリア湖と思われているが、ビクトリア湖には流れ込む川が存在し、ナイル川の最上流はブルンジのルヴィロンザ川である。しかし、かつての誤解のまま、ビクトリア湖の流出口に源流記念碑が建っている。観光客相手ではこれで十分なのだろう。喜望峰がアフリカの最南端と誤解されているのと同じだ。

   ビクトリア湖からの流出口近くにナイル川最大のオーエンフォールズダムがある。総貯水量は2,700億立方メートル。アスワンハイダム(1,620億立方メートル)の5割増しだ。このダムによる発電でウガンダの全電力が賄われているそうだ。
   
   日本語の上手い現地人ガイドは物理学に弱いのか、単位に弱いのか、我が質問に発電能力は250Kwと回答した。しかし、近くで一瞥した変電所の規模から250万Kwの間違いではないかと即座に推定した。流水量が一定ならば年間発電量は250*24*365=219億KWHとなり、ウガンダの消費電力量としては妥当な数値になる。
   
   ビクトリア湖からの流水量は湖底からの湧水が毎分3,000リットル、ビクトリア湖へ流れ込む川からの流水が2,500リットルと解説したがこれも大きな桁違い。眼の前を大河のようになって流れ出る水を見ると、毎秒合計5,500立方メートルなのではないかと、即座に推定した。私の聞き違いではない。添乗員の旅日記にも同じ間違った数値が書かれていた。インターネットで調べると青ナイルの8月の平均流量は毎秒5,600立方メートルなので私の推定は妥当だ。
   
   水はオーエンフォールズダムから地中海までの6,400Kmを3ヶ月掛けて下るそうだが、アスワンハイダムで1.5〜2年間滞留する時間は除かれている。ナイル川の全長は6,650Kmなのでルヴィロンザ川の全長は250Kmか?
   
C 源流地点
 


   小さなボートに乗って源流地点まで出掛けた。石を積み上げた足場に鉄筋コンクリートで作られた角錐台状の記念碑があった。



   近くの丘の上にはスピーク記念碑公園があり、オベリスクもどきのタワーが建てられていた。

[8]8月7日

@ ンガンバ島

   ビクトリア湖に浮かぶ0.4平方Kmの小さなンガンバ島へ高速船で出かけた。湖岸から23Kmにある無人島だ。島は管理棟などが建っている地域とチンパンジーの野生放牧地域とは金網で二分されていた。此処は、ウガンダや周辺国で密猟されたものや、親が殺されて孤児となった野生のチンパンジーを保護し、何れ自然に還す目的で2000年に設立された施設だ。



   観光客からチンパンジーに新型インフルエンザが伝染しないようにと、手の消毒やマスクの着用を強制された。

   チンパンジーは夕方トンネル経由で管理棟内のねぐらへと自然に戻るが、昼間は密林で自由に遊ばせていた。バナナや人参などの餌は管理人が金網越しに投げ与えるが、量が十分にあるので喧嘩はしないそうだ。

   チンパンジーは現在44頭いるが、メスは全部不妊手術をしているそうだ。不妊手術をした野生動物を保護後に自然に還してどんな意味があるのか、疑問を感じた。管理事務所内のお土産屋は大繁盛。更に観光客にはソフトドリンクの無料サービスもしていた。隠された真の設立目的はチンパンジーを身近に観察できる施設として宣伝して観光客を集め、入場料を取る金儲けではないのかと邪推せざるを得なかった。

A ウガンダ野生動物教育センター

   密猟犯から押収した野生動物の保護施設だそうだが、単なるミニ動物園に思えた。入場口前の広場には実物大のキリンの模型が飾られていたが、目玉であるべき保護されたキリンはいなかった。

   ライオン・ハイエナ・サイ・シマウマ・ハシビロコウ・駝鳥などいろいろ。初めて見る動物も若干いたがライオンは一頭だけだったし、他の大型動物も個体数は少なく繁殖させている様子もなく、動物教育センターの名に値する教育活動は全く見られなかった。こんな羊頭狗肉を連想させるような保護施設には、遠い外国からわざわざ見に来る価値を感じなかった。



   こんな所で保護された動物は怠け者になると共に捕食能力は退化し、自然に戻すと餓死するとの説に賛成したくなる。

B ウガンダ⇒ルワンダ入国

● エンテベ21:30⇒21:30キガリWB106(発着は現地時間)

[9]8月8日

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ルワンダ



@ 国旗の由来

   緑は国内の資源、黄色は経済発展、青は幸福と平和、金色の太陽は統一と無知との闘いを象徴する。




A国の特徴

   国全体に山や丘や湖が多く坂や曲がりくねった道が続きます。国としての面積は小さく、雨量が適度にあるため、緑が多いので農作物は豊富です。

   首都キガリの近郊では段々畑ととんがり帽子のような形をした家々を見かけます。ヨーロッパでいえばスイスのイメージがあるかもしれません。

   基本的な物価は少々高めで人々はちょっとおとなしく、静か、上品な感じさえします。どちらかと言えばプライドの高い人々です。1962年にベルギーより独立したので英語よりもフランス語の方が通用します。

   1994年に農耕民族の多数のフツ人と遊牧民族の少数のツチ人との内戦により大虐殺がありました。800万人の人口のうち、1割の80万人が犠牲になったと言われています。その後は二度と悲劇を繰り返さないために部族という概念を捨て、平和を目指し現在に至ります。日本からのNGOも活躍しています。

   鉱物はほとんどなく、主な産業は農業です。内陸国のため、輸入するのにケニアのモンバサ港から鉄道やトラックでウガンダを経由しなければならないので不便さがあります。旅行は通常ケニアのナイロビからキガリにフライトして入国します。


   面積がたったの2.63万平方Kmなのに、人口は信じがたいほど多い973万人。統計データの精度がどの程度あるのか疑問に感じるほどだ。
  
B虐殺記念館

   午後の搭乗時刻から逆算して、虐殺記念館の開館時刻を早めて貰ったとかで、何と朝食前に見学。

   多数派で農耕民族のフツ族と少数派で牧畜民族のツチ族との内戦がエスカレートし、80万人も虐殺されたそうだが、信じがたい人数だ。とかくこの種の悲劇で発表される統計データには、南京での日本軍による30万人の虐殺報道に限らず、白髪三千丈式の水増しがあるのではないかと疑わずにはおれない。

   被虐殺者25万人分の納骨墓地の傍らには小さな虐殺記念館が建てられていた。記念館内には虐殺方法や関連写真などの展示物があり、これらの見学を通じて二度と内戦を起こさないようにとの誓いを見学者の心に刻み込ませるようにとの配慮がなされている。

   入り口のホール中央には小さな献金箱が置かれていた。先頭で入館した私はたった1$だったが即座に献金。何しろ、成田出発時にチップや献金用にと1$札を100枚も両替した結果、財布が膨れすぎて持ち運びに不便になっていた。

   でも、我がグループは見学前には私以外は一人も献金しなかった。見学を終えたら最高齢者のB夫人が何と50$、目下恋愛中のF嬢と添乗員が共に10$の献金をした。米ドル札は同じ大きさで且つ人物写真入りの似たようなデザインだが、色が異なるので額面が一瞬で分かるようになっている。

   その後、若干名が1$の献金。私は全員の行動を確認後、最後に退室した。私は同行者の言動から、誰が献金するかの事前推定をし、結果と照合することにより我が人物査定能力を検証する、という悪い癖が何時までも治らない。結果は殆ど我が推定通りだった。食事時の着席位置の選択時など折々に、献金もしない輩からは意図的に遠ざかった。『旅は道連れ』と幾ら叫んでも、お付き合いを続ける意欲が急減するのだ。
   
C車中からの市内観光
 
   ホテルでの朝食後、空港までの移動は意図的に最短移動コースから市内観光コースに変えられて、内戦後の首都キガリの再開発状況を車窓からではあったが見学できた。



   キガリは坂の多い街だ。あちこちの斜面に散在する破壊された家や掘っ立て小屋の撤去作業とか、新都市計画の下に建設中の質素ではあっても美しい民家を続々と発見して、虐殺記念館見学で悲しみに耐えかねていた我が心も少しずつ癒された。

Dルワンダ⇒マラウィ入国

● キガリ13:45⇒ナイロビ16:15KQ473

Eナイロビ国際空港

   ナイロビ空港の建物は、長さ600mはありそうな大きな円弧。中央の幅広通路の両側に店舗が並ぶ。店舗の切れ目ごとにトイレや搭乗口や待合用の椅子席が現われる。一本道なので判りやすい。食堂街だけは建物の端っこに纏められていたが、免税店・ブランド店・民芸品店は搭乗口毎に同じパターンで配置されており、ショッピングのために長い建物の端から端まで歩き回る必要はなかった。

   ナイロビでの待ち時間は5時間強。暇つぶしに待合椅子に座って通り過ぎていく乗降客を一時間以上も観察した。流石は国際空港の名に恥じないと判明した。アフリカ系黒人・欧州系白人・アラブ人・インド人・中国系黄色人が入り乱れているが、日本人は大変少ない。日本には国際空港と名乗る空港が成田・関西・中部と三つもあるが、どの空港でも日本人以外の外国人は東アジア人を少し見かけるだけで、人種の多様性とその分布の広がりはナイロビ空港の足元にも及ばない。

   女性にも注目した。パーマは大変少なく、ショートカットか長い髪の毛をリボンで結ぶ簡素な髪型が多い。薄化粧とジーパン中心の質素な衣服を着用しているが、胸を張って歩く姿勢は人種を問わず大変美しい。我が同行者や平均的な日本人とは大差があるが、何故か私にはその理由が未だに分からない。
  
   この日も強行軍だ。キガリからリロングウェへの直行便がないため、東アフリカのハブ空港ナイロビ経由になったのだ。マラウィの空港に着くのは深夜。
   
● ナイロビ21:35⇒01:20リロングウェKQ726
      
   リロングウェ空港では待てど暮らせど機内預かりの鞄がターンテーブルに現われない。調査の結果、ナイロビ発の飛行機の荷物室が満杯になり積み込めなかったため8/9の便で届けられると判明。我がグループの荷物は乗り継ぎ空港であるナイロビで下ろされたが、ナイロビ発の飛行機が未だ到着していなかったため、一時保管された結果、積み込み順が後回しにされたのではないかと推定はしたが、後の祭りとはこのこと。

[10]8月9日
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マラウィ



@ 国旗の由来

   アフリカの希望と自由の夜明けを表す日の出が描かれ、黒は国民を、赤は独立運動のために流した血を、緑は豊かな国土を表しています。




A 国の特徴

   チチェア語で「炎の土地」を意味するかつてのマラヴィ王国に因んでマラウィと名付けられた。英国の植民地時代は当時ニアサ(広い水)湖と呼ばれていたマラウィ湖に因んで二アサランドと呼ばれていた。

   マラウィ湖はアフリカ第3位の大きさと第2位の深度を持ち、国土の1/4を占める。
ちなみに湖の半分をマラウィと分け合っているモザンビークでは今でもニアサ湖と呼んでいる。
   
   国土はこのマラウィ湖と、それを囲む南部高原、北部平地からなっており、年間を通じて涼しい高原地帯とそれより多少高温多湿な地域に分けられるが、最高気温27度ほど(雨季)と年間を通じて過ごしやすい。季節は11月から4月までが雨季、5月から10月までが乾季。

   高原地帯とその斜面を利用した耕地は肥沃で、穀物や茶、タバコなどの農業は、マラウィ湖での漁業と並んで盛ん。
   
   南北に観光大国が控えているため、一見地味な印象を受けるが、その実マラウィ湖を代表として見所は多く、ダイビング、トレッキング、カヤッキング、動物サファリなど色々な楽しみ方がある。

   特に透明度の高いマラウィ湖でのダイビングは人気が高く、北部のンカタ・ベイ、ケープ・マクレア、モンキーベイなどは海のないこの国の観光の目玉で、椰子の木が茂る白砂のビーチ(?)は一大ビーチリゾートの観を呈し、湖とは思えないほど美しくインド洋岸の他国リゾートに劣らない。

   湖に生息する魚はシクリッド類の固有種が多い。また、野鳥の宝庫でもある。

   北部、南部にはニイカ台地、ムランジェ山塊と3,000m級の山もあり、トレッキングやハイキングも楽しめる。特にムランジェではムランジェ杉というレバノン杉や、屋久杉と並んで古代より生き続けてきた美しい古代杉の森がある。

   都市部以外は治安も良く、人々ものんびりしておりシャイだが気さくな人々が多い国でもある。一本に真っ直ぐ続く道、瓶や籠に入れた水や野菜を運ぶ女性達が沿道をのんびりと歩いている風景は、派手さはないがアフリカの日常を垣間見させてくれる風景でもある。
   
   レストランのメニューはケニア、タンザニアとあまり変わらないが、実は湖で取れる魚や豊かな穀倉地帯で取れた野菜、穀物など、マラウィの国民性と同様に地味だが素朴で味わいのある食べ物の宝庫のような国でもある。良い意味でアフリカの田舎。

   
B 長距離バス移動

   空港近くのホテルには丑三つ時(2:00〜2:30)に到着。仮眠程度の休息後、マラウィ湖までのバスによる333Kmもの長距離移動の途中、子供から大人に昇格される通過儀礼式(日本の成人式よりも若い男子)への参加者と出会った。
   


   一人ひとりが異なった恰好をしたお化けのような大人の一団とすれ違った。バスからの撮影に手間取り最後尾の一人しか撮影できなかったが、実際には10人くらいが集団になって会場へと歩いて移動中だった。通過儀礼式とは次世代の子供達の幸せを願う、世界中何処でも普遍的に行われている、地域の大人達主催の祝福行事だ。



   この国にもアフリカの象徴、バオバブの群生地があちこちにあった。大きさも枝ぶりも様々。時にはみすぼらしい民家の庭に、防御柵に囲まれた巨木も発見。

C マラウィ湖

   マラウィ湖はマラウィ・モザンビーク・タンザニアの国境にまたがる、ビクトリア湖・タンガニーカ湖に次ぐアフリカ第三位の巨大湖。マラウイという名は、マラウイの公用語・チェワ語で「光、炎」などを意味する言葉で、マラウイの独立後に国名としても採用された。モザンビークなどでは公式にはニアサ湖と呼ばれ、ニアサとはヤオ人の言葉で「広い水・湖」を意味する。

   マラウィ湖には呼称をめぐる論争があるとか。理科年表(2002年版)ではニアサ湖説を採用していた。大きさも諸説あり、ウィキペディアでは29,600平方Kmだが、理科年表では22,490平方Km。何故こんなに違うのか分からなかった。標高は共に500mだったので、雨季と乾季との差による湖水量の差が反映する面積の差とは考えられない。

   湖岸の観光拠点マンゴチから15:30にマラウィ湖の沖合いに位置するボワズル島へ観光船で向った。淡水であることを除けば、船上からの景色は海上と全く同じ。水平線が見えるだけで対岸は全く見えない。好い天気だったので湖水は真っ青に見え、無風に近かったが漣(さざなみ)が広がっていた。



   湖水を眺めていたら退屈したので船の『屋上』に昇り、長椅子に寝て疲れを癒した。拙宅の庭で真似ると直ぐに蚊の来襲があるが船上ではその心配もなく、室温ビールを我慢しながら飲んでそよ風を受けながら極楽浄土を満喫。

   ボワズル島での上陸予定はなく、船で島を一周した。マラウィ湖には500種を越える魚が確認され、その内の90%はこの湖の固有種だそうだ。でも島の周辺の浅瀬で10cmにも満たない小魚が散見されただけでがっかり。船上から船頭がパンくずを投げると魚が集まった。パブロフの犬と同じ反応だ。魚にだって哺乳類に近い知能はあるようだ。
   
   空中に魚を投げ上げると鳥が飛んできて水面に落ちる前にキャッチ。岩手県宮古市の浄土ヶ浜の遊覧船に乗ると、同じような餌やりに慣らされた鳥が、空中に投げ上げた餌を巧みにキャッチするのを観察できるが、全く同じ趣向だ。


   
   島の木には無数の鳥が営巣。かつて愛知県知多半島の森にウミネコの大集団が営巣し、凄まじい糞公害で周辺の木が枯れてしまったことがあった。ここでも同じ現象が起こりかねないほどだ。しかし、無人島だから単なる自然現象として見逃されている、というよりも逆に観光資源として活用されているようだ。

D マンゴチのホテル



   ホテルの敷地内はみすぼらしい周辺地域とは対照的な別世界。観光客の散歩で足跡だらけになった湖岸のプライベートビーチでは、早朝から大勢の従業員が労を惜しまず、砂掻きを引きずりながらゴルフ場のバンカーのように美しく均(なら)すだけではなく、落ち葉も掻き集めていた。

   砂浜に設置されている日除けの大きな傘の下では、椅子を持ち出した西欧人がそよ風を楽しみつつ、のんびりと読書に耽(ふけ)っていた。日本人団体観光客には、勿論、そんなゆとり時間は最初から計画されてもいない。



   此処のホテルの外観は超豪華な民家風。一部屋が一戸。アフリカらしさを演出。でも、室内は高層ホテルと同じ。

[11]8月10日

@ マラウィ⇒モザンビーク入国

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モザンビーク



@ 国旗の由来

   赤は反植民地闘争、緑は豊かな農産物、黒はアフリカ大陸、黄色は鉱物資源、白は自由を象徴。



A 国の特徴

   インド洋に面しており、美しい海岸線が魅力の国。南部アフリカでは珍しく、公用語はポルトガル語。モザンビークという国名は、ユネスコの世界遺産にも登録されている島の名前からきています。

   モザンビークは、ヴァスコ・ダ・ガマ時代のスルタン ‘ムーザ・アル・ビック’の名に由来していますが、ポルトガル人の来航以前からアラブ人との交易があり、島のたたずまいはアフリカ、ポルトガル、アラブの融合が感じられます。

   近隣諸国に比べ物価が安いためヨハネスブルクの人々が、長期休暇の際に訪れる。したがってインフラはある程度整っています。
   
   日本への高級エビの輸出で知られるように、シーフードが美味で(しかも安い!)日本人の口によくあいます。また‘カリル’と呼ばれるモザンビーク風カレーも日本人好みで、食事の面でも色々な国の影響が感じられます。


   ホテルから国境までの道中、道端では推定20Kgの木炭を袋に入れて売っていた。初めて見た光景だ。マラフィからモザンビークへの入国手続きは簡単に済んだ。

B 水運びの女性



   バスでの移動中に、水を入れたバケツを頭の上に載せて運んでいる女性群に出会った。止むを得ないとは言え大変な作業だ。結果としては背中を伸ばし、体を揺らすことなく颯爽と美しく歩く訓練にもなっている。

C 典型的な民家

   アフリカ各地の農村部では富山県砺波平野のように一戸一戸が分散している散村は見かけなかった。どこでも数十戸が固まって集落を形成していた。


   
   典型的な集落に遭遇。円筒状の壁面を日干し煉瓦で造り、木で組み立てた格子状の円錐籠をその上に乗せ、周辺に無尽蔵に生えている高さ3mくらいのイグサに似た草を使って屋根を葺くスタイルだ。弥生時代の復元住居に酷似している。

『火事はどのようにして消すの?』
『防火用水も消防車もないので、燃えるに任せるだけ』。平屋だし小さな家だから焼死者は絶無ではないかと推定。
『草葺屋根の寿命は?』
『1年程度。屋根は単なる雨避け。雨漏りが始まれば葺き替える』

D 焼畑農法



   広葉樹は地上1mくらいの位置で切り倒している。幹や枝は家庭での燃料に。小枝や下草は乾燥後に焼いて肥料となる。広葉樹には切り株からも再生する逞しさがある。畑のリサイクルを常に心がけている様子は、切断直後(写真)・農地化された畑・切断直前の再生林などが、移動中のバスの中からも推察された。

   和歌山県の特産物、備長炭(最高級品はウバメガシから作られるそうだ)の生産では、アフリカの焼畑農法と共通する智恵が隠されている。地上部で樫を切り倒すが、株は残している。再生した樫は備長炭の原料になる。既存の株は根張りが大きいので苗から育てるよりも早く育つし、資源はいつまでも枯渇しない。

[12]8月11日

@ リシンガ空港



   今日も一日移動日だった。リシンガの空港は大変小さく、高々1時間に1便が離陸。機内預かりの鞄を検査するX線装置もなかった。その代わり鞄は全数検査。係員が中身を全て目視検査した。設備投資しても経済性は全く無いし、目視検査に勝る検査法もない。
   
   ダンボール箱に入れられた荷物は目視検査後、手では切断できない専用幅広テープを使用し、機械で堅く梱包後、大型のホッチキスで封印。

● リシンガ12:10⇒13:05ナンプラTM191

A 橋



   ナンプラの空港からバスでマダガスカル島の真西にあるモザンビーク島まで移動。島には長さ3Kmもの車がすれ違えない幅の狭い橋を渡って辿り着く。この橋には車がすれ違うための退避場所が10ヶ所くらいもあった。夜間の衝突防止は前照灯の確認だけ。退避場所で気長に待つ忍耐力は不可欠。

[13]8月12日
   
@ モザンビーク島

   モザンビーク島はインド洋を往来する貿易拠点として繁栄したが、スエズ運河の開通(1869年)や奴隷貿易の廃止と共に衰退した。

   狭い島内には聖パウロ宮殿・ヴァスコダガマの彫刻像・聖アントニオ教会・緑とクリーム色の大モスク・造船所・奴隷収容所・昔の病院・バルアルテ教会などがひしめき合って建っていた。欧州の征服者の末裔には価値が感じられるのだろうが、私には欧州人の傲慢さが感じられるだけの単なる過去の遺物に過ぎず、共感も感動も覚えず写真に撮る気もしなかった。


   
   インド航路を発見したと言いたげな傲慢極まれる姿勢の彫刻を見ると、嘔吐したくなるほどの不愉快さを抑えることが出来なかった。インドや中東とアフリカ東海岸との交易は季節風を活かしながら大昔から続いていたのに!!   



   仕立て屋は男の職業だった!



   ホテルの庭を散歩していたら、羨ましくなるほど素晴らしいスタイルの従業員に出会った。今や何処の国でもアフリカ系先住民の復権が進み、胸を張って仕事をてきぱきとこなしている。傍らには蟹股短足の東アジア系日本人の老人がいるが、彼の肉体の均整美にはどんなに贔屓目に見ても敵いそうにない。



   賑やかな産直市場を見学。完熟度も大きさもばらついている野菜や果物が重量単位で売られている。日本ではデパ地下を始め大型店では、工業製品のような規格化され世界一高い価格をつけられた農産物が売られているが、モザンビークのような売り方こそが、発展途上国だけではなく先進国を含めた世界標準である。

   サラリーマン化した日本の小売商人は長引く不況に足を引っ張られるだけではなく、無規格品を主力に台頭してきた産直市場(2005年でも既に13,000ヶ所、年商5,000億円)との競争でも苦戦し始めて、やっと目が覚め始めたようだ。

   生鮮食料品の集荷と卸しが主力の流通業務を侵食され(産地と大型店との直接取引が増加し、今や農協の取り扱いシェアは50%前後にまで下落)危機感を抱き始めて開始した農協(JA)の産直市場だけではなく、国土交通省が市町村を総動員して展開している『道の駅』や私企業が開設した産直市場も人気沸騰。
   
   生産者の顔が見える産直市場は今や押すな押すなの盛況。私も第一水曜日に出かける愛知県『健康の森』でのテニスのあと、立ち寄るのが楽しみになっている愛知県大府市にあるJAの『げんきの郷』は、遂に年商20億円に達したとか。
   


   『瓜食(は)めば子ども思ほゆ、栗食めばまして偲はゆ、いづくより来りしものぞ、眼交(まなかひ)にもとなかかりて、安寐(やすい)しなさぬ。銀(しろがね)も金(くがね)も玉も何せむにまされる宝、子にしかめやも』と、永遠に変わらぬ親心を歌った山上憶良ならずとも、どこの国でも子供は宝。日本ではこのような素晴らしい子供の笑顔に接することが少ないのが寂しくてならない。全ては愚かな大人の責任だ!



   波止場のない海岸には小さな数人乗りの船が待機していた。靴を脱いで船まで歩くのかと思っていたら、船頭におんぶされて渡った。江戸時代の大井川と同じだ。帆は畳まれていた。櫂(かい)でゆっくりと船を漕いで移動。船から島の岸壁に築かれた聖セルバスティアーノ要塞や古ぼけた教会を見学。カビが生えているような古い要塞は見飽きていたので、関心が湧かなかった。

   岩礁には海草が密生していた。疑問を感じて『現地の人は、海草は食べないの?』『食べます』

● ナンプラ19:00⇒21:05の予定が23:54マプトTM463

   ナンプラを離陸後暫くして機体に異常が発見されたとの理由で、離陸1時間後にモザンビーク国内のベイラ空港に緊急着陸させられた。乗客は手荷物だけを持って空港内の待合室に移動。超簡単な非常食が夕食として配られたが、精神的な疲労も重なり食欲も出ない。私は発展途上国では飛行機の信頼性だけではなく、現地の治安にも若干の不安を抱いていたので、出発前に妻子にはメールで簡単な『遺言』も送っていた。

   ストレスを発散すべく、待合室内の自販機でビールを買おうと価格や操作方法を確認していたら、同乗していた欧州系白人の現地人中年ガイドが見かねたのか『銘柄は何を希望?』『ハイネケン』。彼がさっと購入。お金を支払おうとしたら頑として受け取らなかった。たとい我が身が先住民に扱(こ)き使われる職業に落ちぶれていようとも、一寸の虫にも五分の魂のプライドか!

   異常なしと判明後、元の座席に戻った。約3時間の道草に心身ともに疲れがどっと出た。

[14]8月13日

@ 自然歴史博物館

   マプトの博物館の展示物は素晴らしかった。展示されている動物は全て剥製。大型動物同士の闘争状態の組み合わせが多く模造品は一つもない。そのリアリティさは迫力満点。



   昨年の西アフリカ8ヶ国の旅行以来、アフリカの野生動物の取材番組をテレビで積極的に見るようになった。大型動物をライオンが襲う場面もしばしば見た。その最たるものは、10頭ものライオンの集団が大人のアフリカ象を倒したシーンだ。此処の博物館では実物を介してその総復習が出来、予想以上に満足した。



   私が中学2年の暮れ(1952年12月20日)に、シーラカンスがコモロ諸島で発見されたとの報道を新聞で読んだ時、生きている化石といわれ世界中の話題を浚(さら)った事件を思い出す。その後、底引き網を使った漁法が普及するに連れて、あちこちの海で捕獲されるようになったが、今だに『生きている化石』という枕言葉が使われ続けている。
   


   象の妊娠期間は何と22ヶ月。徐々に大きくなっていく過程がフォルマリン漬けされている標本から具(つぶさ)に理解できる。この博物館の目玉展示物の一つだ。このために犠牲になった母親象に合掌!

   添乗員は『この展示物集めのために、何千頭もの母親象が殺された』と説明したが、怪しげな話だ。獣医なら体外から妊娠月数の推定は出来るし、貴重な象を無差別に殺すはずがない。データの根拠を明示せず、此処での説明だけではなくあちこちでも、主観的な放言解説をやたらとし続ける添乗員など、私には邪魔者に過ぎない。静かにしろと叫びたかった。

A マプト市内観光

   エッフェル塔の設計で有名になったエッフェルが設計した総督用の鉄の家があった。この家は暑くて住めなかったそうだ。エッフェルの得意技は大形鉄鋼構造物の設計。快適な住宅建設には別のセンスが必須。今なら断熱材やエアコンの活用で問題にもならないが・・・。

B ノセ・セニョーラ要塞



   世界各地に残っている陳腐な要塞の一つに過ぎなかった。この要塞が他の要塞に勝る特徴は何一つ発見できなかった。規模も小さく迫力もなし!

C モザンビーク⇒スワジランド入国
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スワジランド



@ 国旗の由来

   深紅色は過去の先頭を、青は平和、黄色は鉱物資源を表し、中央には槍・戦闘棒・盾が描かれている。




A 国の特徴

   南部アフリカの中でも、時が自然のままゆったりと流れる国です。訪れる観光客もまだ少なく、いわゆる“リゾート”に疲れた人々にとっては、南部アフリカの中のオアシス的な存在と言えるのではないでしょうか。

   国民の90%以上がスワジの人々で、アフリカ諸国中最も同種族の率が高く、世襲君主による伝統的政治が行なわれています。武力抗争もなく続いてきたので、最後の古王国とも言われています。

   人々は近代化、民主化を求めながらも伝統文化を尊重しています。アフリカらしい自然、文化、人々に触れたい方には、スワジランドはお勧めです。

B ロバンバ



   スワジランドを樹立したソブーサ二世の霊廟には本人の直立像が飾られていて、衛兵2名が向き合って直立していた。スワジランド王家は不戦主義を貫き500年間も続いたそうだが、詳細は未確認。

   衛兵にわざと聞こえるように『このロボットは人間にソックリ。素晴らしい出来栄え!』と話しかけたら、直立姿勢のまま目玉だけをぎょろりと動かした。

蛇足。

   真偽の程は不明だがスワジランドでは5,000年も昔に鉄鉱石を掘り出し、酸化鉄から赤色顔料を作り化粧品として使っていたそうだ。鉄鉱石といっても製鉄原料として使われていたわけではない。

   1964年に全長218Kmの日本向けの鉄鉱石運搬用の鉄道が開通。1971年には280万トンも輸出したが資源が枯渇し、1978年には閉山されたそうだ。

[15]8月14日

@ 国境を目指して

   本日はスワジランド⇒南ア⇒レソトまでの750Kmを陸路で大移動。レソトは南アの中にある陸の島国なので、スワジランドからレソトに行く間に南アでの入出国がやむを得ず課されることになる。8:30にスワジランドを出国すると同時に南アに入国。南アを縦断し18:10に南アを出国しレソトに入国する旅程が組まれていた。道路から南アの深遠部を図らずも眺められる機会となった。



   パイナップルのプランテーションでは収穫が始まっていた。日本にも輸出しているそうだ。日本では残念ながら、一枚でこんなに広い畑(100町歩?)は見たことがない。



   乾燥地帯なのに広大な植林に出くわした。欧州から松をオーストラリアからはユーカリを輸入。パルプ用のチップに加工。松の寿命は1回の伐採で終わりだが、広葉樹であるユーカリは3回伐採できるそうだ。乾燥地でも植林すれば木が育つことが分かったのなら、不毛の国土全部に木を何故植えないのか疑問に感じた。
   
A スワジランド⇒南ア入国

B 南ア縦断

   南アでも植林事業が始まっていたが、スワジランドとの隣接地帯だけだった。やがて草と潅木だけの広大な未開地が続く。



   ヨハネスブルグやケープタウンのような人口も多い国際的な観光都市では、幹線道路から見えるスラムは撤去され始めたものの、内陸部にはスラムが依然として残されていただけではない。幹線道路に面した側面は国家の恥部を隠す目的か、3mくらいの高さのコンクリート製板塀が延々と続き、写真も撮り難い状態だった。


   
   先住民の民家を超高級化したような屋根が葺かれたレストランで昼食。白川郷の合掌造りの茅葺屋根も美しさでは全く敵わない。合掌造りで使う茅は今や稀少品。茎だけではなく葉も一緒に使うため表面の滑らかさが足りない。こちらの茅に似た草は茎だけを揃えて使っている。厚さは数十センチ。

   曲面の滑らかな葺き方には、理髪店での仕上げ作業に似た職人技を感じさせる。茅の固定法は外部からは分からないが、内部から天井を見上げると、縄で固定していたと判明。外部にあるはずの固定用の資材は、その上から更に茅を被せているためか見えなかった。

   英国のストラットフォード・アポン・エイボンにシェイクスピア縁(ゆかり)の家と称する茅葺の家があったが、屋根の葺き方がソックリだった。



   南アの東部に、南西から北東に延びる1,000Kmのドラケンスバーグ大山脈がある。そこには入場料無料の国立公園があり、大型の動物が野生のまま保護されていた。公園の中を横切る道路の両側には切り立った崖が続いていた。ミニグランドキャニオンの風情だ。

C 南ア⇒レソト入国

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レソト



@国旗の由来

   上段の青は空と貴重な雨を意味し、中段の白は平和を、その上にあるのはバストゥハットで,バストゥ人のシンボルです。下段の緑は豊な国土と繁栄を表します。




A 国の特徴

   南アフリカから続くドラケンスバークの山々が領土のほとんどを占め、『天空の王国』と呼ばれる国です。それゆえ、近隣の国に比べてもワイルドでアドベンチャーな旅を楽しめます。

   豪華ホテルはありませんが、こじんまりとしたロッジに泊まり、ポニーや自転車に乗って、あるいは自分の足で歩いて、のんびりと村々を訪ねるのがレソトの旅の醍醐味です。山や谷に沿ってどこまでも続く細い一本道を、ゆっくりと、穏やかな村の静寂を乱すこともなく、車の排気ガスで空気を汚すこともない旅。

   ゆったりのんびり道を進めば、行く先々で子どもたちが笑顔で手を振ってくれることでしょう。


[16]8月15日

@ 移動

   レソトの面積はアフリカ大陸の僅か0.1%に相当する3万平方Km。でも、これはバイカル湖(31,500平方Km)に匹敵する大きさといえば、多少は大きく感じられるから不思議だ。国土全域が標高1,500mを超える天空の国。涼しいというよりも寒かった。



   建設中のリゾートホテルに遭遇。レソトの伝統住宅をモデルにした一戸1部屋のホテルだ。家の形こそ違うが阿蘇ファームランドと同じ趣向だ。ファームランドは半球型の家が数百戸も建てられ今や大人気。



   レソトの主要民族はバソト族。首都マセルの中心にバソト族の伝統家屋ソックリのインフォメーション・センター兼お土産物屋があった。お土産の中に民家の形をデザイン化した『バソト・ハット』を発見。

   私は海外旅行では行く先々で、その地の象徴的な帽子を買い、ゴルフやテニスの折々に愛用する習慣が過去20年間も続いている。南部アフリカを象徴するのはバソト・ハットだと独断していた私は早速購入した。この帽子はヨハネスブルグやナイロビの国際空港内の帽子屋でも売っていなかったので困っていたのだ。



   やっと手に入れたバソト・ハット。隙間が沢山あるので夏でも頭が蒸れない。形が崩れることを避けるため、飛行機⇒成田エクスプレス⇒新幹線⇒高速バスのなかでも着用したまま帰宅した。この帽子を被って松坂屋豊田店に出かけると、見知らぬ客からしばしば話しかけられた。



   バソト族の民家を真似て作られたお土産屋の屋根の内側。屋根材が木枠にちゃんと固定されている様子は一目瞭然。

A レソト⇒南ア入国

B 南ア



   
   国土の広い南アは農業国でもある。日本では見かけられない広大な農場が続く。幹線道路との間には驚くほど立派な境界の柵があるが、何故こんな豪華な柵が必要なのかは理解できなかった。日本の就農人口はピークだった1960年の約1,500万人から2008年には1/5の298万人に激減した。しかもその6割は65歳以上の高齢者。100万人を切るのは今や時間の問題。日本の農業の国際競争力の強化策は私には思いつかない。こんな巨大農場を目(ま)の当たりにすると、農家の次男に生まれた私は限りなく憂鬱になってしまう。
   
   この日はザンビアへの経由地ヨハネスブルグに宿泊しただけ。ホテルは空港の隣接地にあった。

[17]8月16日

@ 南ア⇒ザンビアへ入国
   
● ヨハネスブルグ10:40⇒12:30リビングストンSA048

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ザンビア



@国旗の由来

   緑は農業、羽を広げたわしは自由と困難に打ち勝つ能力を表し、赤の縦筋は独立闘争、黒はアフリカ人、オレンジは特産の銅を象徴。



A国の特徴

   アフリカ大陸南部に位置し、8つの国に囲まれた内陸国です。国の形は蝶に似た地形で面積は約750,000km2あり、日本の面積の約2倍あります。平均海抜は1,000mで高い山は無く、一番高いところでも2,300mの台地で、高原の国といえるでしょう。

   ザンビアという国名はザンベジ河に由来し、アンゴラ高原から発した河は2,750kmに亘り、モザンビークからインド洋に流れ込んでいます。その支流を含めた豊富な水はいくつもの湖や湿地帯を形成して人々の生活を支え、豊かな植生と野生動物を育んでいて、ところによっては日本からの援助により稲作の指導が行われているほどです。

   The Real Africa、本当のアフリカ、と呼ばれるザンビア。広大な平原、山脈のようにも見える台地はダイナミックな風景を作り、世界最大の人工湖カリバ湖
(5,580平方Km)、ヴィクトリアの滝を始め、17以上の国立公園は鳥類、レイヨウ類にとって天国とも言えるところになっています。

   日本の2倍の広さの国土に人口が約1,000万人のザンビア。ちょっとシャイ(恥ずかしがり)のせいか一見無愛想ですが、話してみると人懐こく接してくれる優しい人たちで、安心感を与えてくれます。

   リビングストンとは英国のアフリカ探検家リビングストンの名前に由来する、タンボ国際空港がある場所の地名。空港名ではない。ザンビアのビザはUS50$を入国審査時に現金で支払って取得した。実質的にはビクトリアの滝の見学料に感じたが、滝見物をしない外国人との区別をするためか、滝へのゲートでは入場料(旅費で一括支払い済みだが・・・)を別途支払わされた。



   空港前の広場にはリビングストンの彫刻像が建てられていた。



   空港から滝までの道中で鈴なり状態の『ハタオリドリ』の巣を発見。ハタオリドリには木の枝の分岐点等に枯れ草を集めて巣を作る習性がある。旅行前にテレビで見たハタオリドリの巣は100家族分が一つに纏まった超大型だったが、そんな巨大な巣は目撃できなかった。

   ハタオリドリが人間のように機(はた)を織るわけではないが、嘴で咥(くわ)えた草を一本ずつ巣に差し込みながら巣作りをする様子が名前の由来だと直感した。ハタオリドリは日本にも生息しているそうだ。
   
B ビクトリアの滝

   ビクトリア湖もビクトリアの滝の名称も英国女王の名前に由来するが、両者の存在場所は遠く離れており、ビクトリア湖から流れ出る水はナイル川へ、ビクトリアの滝の水はアフリカ4位(ナイル⇒コンゴ⇒ニジェール⇒ザンベジ2,735Km)のザンベジ川経由でインド洋へと流れ下る。でも、現地に出かけたことのない日本人の多くは、ビクトリア湖から流れ落ちる水がビクトリアの滝と誤解しているようだ。

   ビクトリアの滝は南米ラプラタ川の上流にある『イグアスの滝』、米加の国境にある『ナイアガラの滝』と並んで世界3大滝と日本では称されているが、世界的に通用している呼称か私には疑問だ。日本人には世界三大美人・三大急流・出羽三山・熊野三山・湖東三山・遠州三山・・・など三という数字が好きなように感じられるからだけではない。世界三大美人(小野小町・クレオパトラ・楊貴妃)という言葉は日本人以外には通用しない。

   三大滝とは言うが、幅ではイグアス・落差ではビクトリア。年間総水量の比較データは発見できなかったがイグアスではないかと推定している。いずれにしても三つの滝は同格ではないが、ナイアガラの三位は確定的だ。

   観光客数はナイアガラ⇒イグアス⇒ビクトリアだが、滝の規模順位とは無関係なのは周辺人口数と観光客の負担旅費に反比例するから当然のことだ。私はその壮大さから世界一の滝とはイグアスと断定しているが・・・。



   好天下でも常時水しぶきが霧雨のように降り注ぐため、同行者の多くは百均で買ったと称する簡易合羽を着用。古希以来、物は買わない主義に徹している私はゴルフ用の薄くて軽い雨具を着用した。ズボンの上から着用する雨具も持参していたが現地で不要と判断。観光客の安全対策は徐々に整備されているだけではない。毎朝、長い観光通路に落ちた木の葉は箒で丁寧に清掃。美観維持だけではなく、葉っぱによる転倒事故防止対策でもある。

   滝の見物時期はいつがベストか。雨季にはナイアガラのように滝の幅一杯に広がるそうだが、私は途中に岩が散見される乾季の滝の方が変化に富み、美しく且つ見応えがあると思った。太陽が射(さ)せば現れる虹も美しい。

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ジンバブエ



@ 国旗の由来

   緑は農業、黄色は鉱物資源、赤は解放闘争で流された血、白は平和と進歩、黒はジンバブエ国民をそれぞれ表現している。左の鳥は栄光のシンボル「ジンバブエの鳥」




A 国の特徴

   国名の“ジンバブエ”は“石の家”という意味で、グレート・ジンバブエ遺跡などに見られる巨大な石造建築がそのように呼ばれていました。また、グレート・ジンバブエ遺跡で発見された石像“ジンバブエ・バード”は、国旗やコインのデザインにもなり、国のシンボルとなっています。

   亜熱帯に属していますが、標高が高いため過ごし易い気候で、ザンベジ川沿いのヴィクトリアフォールズ・カリバ湖・マナプールなど美しい自然にも恵まれています。ヴィトリアの滝、グレート・ジンバブエ遺跡、広大な野生保護区など、アフリカ諸国の中でも観光資源が多く、かつてはツーリスト・パラダイスと言われていました。

   しかし現在、インフレ率がこの5年で600%、失業率80%と経済状態が悪くなっているため、ヴィクトリアの滝など一部を除いては旅行をしにくい状態になっています。


B ザンビア⇒ジンバブエ入国

   ザンビア側からの滝見物が終わった午後、隣国のジンバブエに入国。ジンバブエでも入国時に30$支払ってビザ取得。ジンバブエからの滝の方が壮大なのにビザ代が安いのは、ザンビア(所得=770$、面積=75.26万平方Km)の方がジンバブエ(340$、39万平方Km)よりも所得水準が高く、面積も大きい国だからか??

C ザンベジ川のサンセットクルーズ

   ホテルの部屋に荷物を置いた後、サンセットクルーズへ出かける前のひと時を活かして散歩。ザンベジ川の岸辺近くで5名が夜の出し物の練習をしていた。



   一人にカメラを渡して撮影を頼んだら、仲間の一人がさっと私と帽子を取り替え、鳥の羽で飾られた豪華な帽子を被らされた。私も間・髪(茶髪という髪はあっても、間髪という髪はない)を入れずに1$をチップとして渡した。



   ザンベジ川は流石に南部アフリカを代表する大河。我が郷里の愛しの大河『筑豊炭田の生みの親・遠賀(おんが)川63Km』の40倍以上もの長さがある。この辺りでは川幅2〜3Km、平均水深16mとか。観光船も200人は乗れそうな大きさ。ビールやワインなどアルコールは飲み放題。摘みも少々。対岸の陸地では象、川中島にはカバ、あちこちにクロコダイル・イグアナなど野生動物がいろいろ。

   退屈紛れに隣席のフランス人のグループに闖入。

『ご職業は?』『弁護士』
『ヴェルサイユ宮殿は立派だが、竣工当時トイレがなかったというのが日本では有 名だが、歴史的な事実か?』『知らない』
『ヴェルサイユ宮殿に住んでいた王妃アントワネットがお産をする時には、貴族な ど数十人が赤ちゃんの取り替えの発生防止を兼ねて監視したそうだが、歴史的な 事実か?』『知らない』

   同行の仲間が『石松さん、フランス人の仲間が貴方のインタビューを、ずっとビデオに撮っていたのですよ』。会話に夢中になっていた結果、全く気がつかなかった。

D ディナーショー

   夕食会場は屋外。広場では20人近くの先住民達の音楽入りダンスなどのショーが始まった。彼らの鍛え上げた肉体が目に眩しい。こんな時にはいつも飛び入り参加をして、旅のひと時を楽しむのが我が習慣だ。早速、誰かが大きな鳥の羽を我が愛用の帽子に取り付けてくれた。



   正式な踊り方など分かるはずもない私は太鼓の音に合わせて適当に手足を動かしただけだが、欧米人など他国の観光客はやんやの喝采! 僅か1$だったが、忘れずにチップ入れの籠に。その後は、欧米人の何人かが踊りに参加した。

   我が同行者はモクモクと夕食を食べるだけ。チップを出す人は予想に違わずゼロ!!
   
[18]8月17日

@ ジンバブエ⇒ボツワナ入国

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ボツワナ



A 国旗の由来

   水色は乾燥地帯にあるこの国にとって最も重要な水を、黒白の縞模様は人種を超えて平等な社会を築くという決意を表す。



B 国の特徴

   ボツワナでは国土の17%は国立公園や動物保護区に指定され、20%が野生動物の管理地域に指定されていて、自然と野生動物の国と言って良いでしょう。その自然も沙漠ありデルタあり塩湖あり、と変化に富んでいます。

   ボツワナには3つの‘世界一’があります。「世界で一番大きな内陸デルタ」があり「世界一大きな塩湖」があり「世界一短い国境」があるのです。

   またボツワナはダイアモンドをはじめとする鉱物資源が非常に豊かで、アフリカの中では有数の経済力を持つ国とも言われます。ボツワナは、旅行者が支払う費用(宿泊代・食費など)は他の国に比べると非常に高額で、それによって旅行者の数を制限してその自然を守っているとも言えるでしょう。

   観光客があまり多くないので、静かな旅をお楽しみいただけるでしょう。


   口蹄疫防止を目的に、ボツワナ入国直後に薬液を溶かし込んだ泥水のような水溜りの中をバスは移動し、乗客は消毒薬が浸み込ませてあると称している薄汚れたタオルの上で足踏みをして靴底を消毒。形式化した処置だ。荷物はホテルに置いて観光に出発。

C チョベ国立公園

   チョベ国立公園は10,566平方Kmもあるアフリカを代表する野生動物保護公園。1977年からはハンティングが禁止され、野生動物の保護が本格化。動物達も観光客にはすっかり慣れているようだ。警戒心を全く持っていない。

D ボートクルーズ

   ザンベジ川の支流であるチョベ川に沿って、小さな船なのにエンジン音を極限まで小さくし、ゆっくりと進む。動物群を発見するたびにエンジンを止めて、暫く観察。こんなに沢山の野生動物がいると餌不足になるのではないかと疑問に思うほど、大型から小さな動物までうようよ。

   ここに来る時は、望遠レンズは不可欠と気付いたが後の祭り。



   カバがのんびりと水に浸かっていた。カバは皮膚が乾くと困るらしい。



   岸辺をゆっくりと象が歩いている。チョベには5万頭もの象がいるそうだが、どのようにして生息数を数えたのか、私には見当も付かない。象の体重は人間の100倍。5万頭の象の食糧は何と500万人分!!

   私が子供の頃、水稲の収穫量の推定には『坪刈り』と称して、典型的な場所の小面積の全稲を刈り取って収穫量を計測し、そのデータを元にして面積比例で総収穫量を計算していた。この推計方法は小学生でも理解できる、統計学の初歩のその又初歩。


   
   パピルスの群生地を発見。パピルスはナイル川流域の植物かと思っていたら、アフリカの各地で発見。彼岸花のように茎が長く伸び、その先端には幅が狭くて長い無数の葉が彼岸花のように放射線状に広がっている。

   パピルス(和名:カミガヤツリ、カミイ、学名:Cyperus papyrus L.)は、カヤツリグサ科カヤツリグサ属の多年生の草本。アフリカ奥地の湖や河畔の浅い緩やかな流れの中に繁茂し、4〜5mほどの高さになる。茎の断面は三角形で、最大直径6cmほどの太さになる。通常、根茎(地下茎)によって増殖する。

   添乗員の旅日記によれば、このクルーズで出会った動物は、バッファロー・大トカゲ・クロコダイル・アフリカレンカク・トキイロコウ・インパラ・クドゥ・スネークバード・エジプトガン・アフリカハゲコウ・ヘラサギ・象・カバ等だそうだが、私は動物の名称は殆ど知らないので真偽は不詳。写真には沢山撮ったが掲載は省略。

E ドライブサファリ

   午後は砂塵濛々の陸路を、マスクを掛けさせられて車で移動しながらのサファリ。



   Uターン地点で車を降りて休憩。眼の前でオスのキリンがお互いに長い首を振り回して傍らのメスの争奪を目的に死闘中だった。首が衝突すると低いが大きな『どーん』という鈍い音が発生。本気で闘っていたのだ。



   あるとき、道路を悠然と横断するメスライオンに遭遇。ライオンは観光客の車など全く無視。振り向いてもくれない。



   象の団体が道路の左側で停まっていた。自動車が通り過ぎるのを待っていたようだ。でも、我が車がじっと停まっていたら、リーダーの大きな象が横断開始。その後に一群の象が続いた。

   添乗員の日記では、インパラ・イボイノシシ・シマウマ・ホロホロ鳥・クドゥ・ハゲワシ・アンテロープ・キリン・ヒヒ・象・メスライオン等に出会ったそうだが、私にはどれがどれだか勉強不足で分からない。我が動物の知識は小学生以下・・・。

   あるとき、象の糞をばらばらにして、その中の木の実を探しながら食べている動物(ヒヒ?)を発見。子供の頃、犬が人糞を食べているのをしばしば目撃したが、これは塩分の摂取が目的と理解していた。自給自足で生きている動物達の逞しさに拍手喝采!!

F ボツワナ⇒ジンバブエ入国

   再び、ビクトリアの滝を見るためにジンバブエに入国。夕食には添乗員が日本から持ち込んだおつゆ付きのソウメンが振舞われた。疲れ果てた胃には優しい食べ物だった。感謝!

[19]8月18日

   本日の午前で長かった旅行も完了。下痢にも遭遇せずやれやれ。

@ ビクトリアの滝



   樹齢1,500年と称するジンバブエでは最高樹齢のバオバブとか。象などからの被害防止を兼ねて金網で保護されていたが、象が本気になれば簡単に突破できるような防護柵だ。バオバブの品種はアフリカ大陸では1種、マダガスカルには8種あるそうだが真偽は不明。

   ウィキペディアでは、原生種がマダガスカルに6種、オーストラリアとアフリカに1種ずつ存在する、と紹介。

   ビクトリアの滝の観光コースは片道1.7Km。往復2時間弱。



   好天に恵まれたためか、何度も美しい虹を見かけた。二重になる虹もしばしば。平地とは異なり、足下にも虹が現れた。月光が明るい夜にも虹が現れるそうだ。



   滝の上端が水平になっている場所も多いが、谷の深さはいろいろ。従って落差もいろいろ。

   総括すれば、ジンバブエ側からの滝の眺望はザンビア側からよりも上と評価した。

A ジンバブエ⇒南ア入国

● ビクトリアフォールズ12:05⇒13:50ヨハネスブルグSA041

   ヨハネスブルグ空港で暇つぶしをしていたら、駝鳥のヒレ肉の冷凍を発見。お土産に最適と判断し購入。

● ヨハネスブルグ16:30(8/18)⇒12:15(8/19)香港SA286

[20]8月19日

   香港の新空港は広々とした埋立地に大型のターミナルビルが建てられ、快適な安全第一の国際空港(1998年供用開始)へと変身していた。

   中央にあった超大型のレストランは大賑わい。その一角では中国系の職人が中国の手延べうどん作りを実演。出来上がった製品は次々に調理場へ。全てはガラス窓越しに見学できた。テーブルの上には、寝かせられていた麺類の塊が置かれていた。

   その一つを取り上げ手のひらで転がしながら棒状に細長く延ばした後は半分に畳み、空中で延ばしては半分に畳む動作を続けると30秒も経たずして程よい太さの麺に仕上げる巧みさには感服。両端を包丁で切り取ると完成。機内食で満腹だった私は麺類を食べるのは諦めた。



   麺類の隣には握りずしのカウンターがあった。中国系の職人の指捌(さば)きは日本人と何ら変わらない。私は握りずしの品質評価が急にしたくなり、僅かだったが3貫の注文。シャリにもネタにも満足。日本と何ら変わらぬ品質だ。価格は1貫150円程度だったが空港価格としては良心的だ。

● 香港15:00⇒20:10成田JL732

   午後9時には税関手続きも完了。急げば23時東京駅発の深夜バスに間に合うことは分かっていたが、疲れていたので成田空港周辺のビジネスホテル(ガーデンホテル成田)に宿泊した。空港からは周辺ホテル群の共同運行無料送迎バスがあった。

   ビジネスホテルといっても30平米はあり都市ホテルと変わらなかった。アフリカの豪華なホテルと比べれば部屋は狭くても、流石は腐っても日本の鯛。清潔な水周りの設備・ふんだんに出るお湯と水・真っ白なタオル類・綺麗な洗面用具やコップ・石鹸類・清潔な浴衣・寝心地の良いベッド・画像が鮮明な液晶テレビ・冷蔵庫など室内の各種電気器具・・・。

   それなのにアフリカで慣らされたのか、生水を飲むのに一瞬怯(ひる)んだ心境に思わず苦笑。朝風呂の後ゆっくりとビールを堪能して休息。12:00にチェックアウトし、無料送迎バス⇒成田エクスプレス⇒新幹線⇒高速バス⇒荊妻出迎えの自家用車で夕方無事帰宅。やれやれ!!

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おわりに

@ 足るを知れ!

   昨年(2008年)6月18日に第5回目のがん治療(食道がんの内視鏡による切除手術)を愛知県がんセンターで受けたとき、我が命も尽き掛けたとの認識を心静かに受け止めた。更に8月20日に70歳(満での古希)を迎えたとき、短い余生を強く意識しながら生きる決意を新たにした。連続した時の流れの中で特定の日を境にして、肉体が不連続的に変化するはずも無いが、心構えが変わるトリガー(切っ掛け)には十分なり得た。

   今回の旅の主目的は不景気報道が乱舞し不満が渦巻いているような日本を脱出して、人類発生の地の原風景を訪ね、しぶとく生き延びて来た人達から、死の直前まで満足しながら生きるためのヒントを捜し求めることにあった。

   貨幣価値に換算すれば日本人の所得の1%にも満たない極貧国。生活の城である住まいは縄文時代と然して変わらないのに、自給自足生活に挑戦しながら親子ともども幸せそうに人生を満喫している人達に出会う度に、帰国後の生活を一変させたいとの衝動に駆られてしまった。余りにも不思議な印象を受けたので現地ガイドに『人生に絶望して自殺する人数はどのくらい?』と質問したら『自殺者は殆どいません』と即答!!

   日本では年間3万人以上もの自殺者。この格差に驚愕!! 野生動物と同じように自己責任で逞しく生きている人達と、自己努力は放棄し何でも政府に依存したがる乞食根性にどっぷりと浸かって怠惰な人生を送り続けている、100万人とも言われる自殺予備軍との格差に唖然!

   その瞬間、過去11年間も
『細々と生きてきた年金生活者』の我が心に閃いた台詞は『足るを知れ!』だった。帰国後の2ヶ月間、雨降り以外の朝夕の2回、芝生や鉢植え・家庭菜園に延べ40分も掛けて散水した。日々驚くほどの速さで成長する大根や白菜を初めとした野菜類の逞しさに触れると心は癒された。スプリンクラーや自動給水装置の導入は止めた。植物と日々対面してこそ得られる満足感だ。巡礼の道は汗を流しながら歩いて体感してこそ、その価値に気付かされるのと全く同じだ。

   人生をディジタル(数値)で評価する習慣は放棄した。資産や収入など上を見ればきりがない。アナログ(五感)での評価に変えた。松坂牛のヒレ肉が幾ら美味しいからといっても、一度に1Kgは食べられない。胃がん切除で胃が1/3になった私には300gが上限だった。野生動物と同じように、必要なだけ食べれば十分なのだ。五感で生きる世界には全てに上限がある。足るを知る生活に徹すれば徹するほどストレスは雲散霧消。心安らかな人生が送れると気付くのに遅すぎるということはなかった。

   昨年10/10に私がトヨタ入社後最初に配属された職場の懇親会が名鉄トヨタホテルで、46年振りに開かれた。出席者は当時の在籍者だったので我が同期生が一番若かった。今年も引き続いて去る10/7に第2回目が開かれた。私は心機一転、晴れやかな気持ちで下記のような死ぬ前の挨拶が出来た。

   蛇足。下記の挨拶文は昨年の挨拶に続きホームページにも転載した。随想⇒同窓会⇒第2回職場懇親会の順にクリックすれば本文が出てきます。

第2回開発課懇親会(平成21年10月7日)石松良彦

▼昨年の懇親会で余生は後僅かと報告しましたが、幸か不幸か予想が外れて1年間も惰性で生き続けました。でも、死ぬ準備だけは着々と進めています。がん検診・海外旅行・戒名・墓石についての中間報告を、今尚お元気な皆様に申し上げられるのが最大の喜びです。

▼昨年6月に愛知県がんセンターで食道がんの摘出手術を受けた後、過酷な5種類もの精密検査を3ヶ月間隔で5回も受け続けました。直近の検査は9/4でした。9/14に主治医からは『怪しげなところは無数にあるが、未だがんとは断定できない。もう少し成長するまで経過観察を続ける。次回のCTの予約は12/11と3/5にした』と告げられました。

▼検査の合間を縫うようにして、今年の寒い冬にはコスタリカなど暖かい中央アメリカ7ヶ国、暑い夏にはナミビアなど涼しい南部アフリカ11ヶ国の旅に出かけた結果、累積95ヶ国の訪問になり、今後出かけたい国は約20ヶ国にまで激減しました。

▼世界の仏教界で戒名があるのは日本だけ。戒名を授けられると極楽浄土に行けるそうですが、私は今生きているこの世こそが極楽浄土だと確信しており、戒名は不要と判断しました。中世のカトリック教会が発行した免罪符と並んでこの戒名付与ほど我が仏教界が敬虔な信者を愚弄し、詐欺犯も顔負けの守銭奴ぶりを発揮している蛮行は他にはありません。

私は何処かのお寺の檀家になる気持ちは今や完全に無くなり、4年前に準備した一畳ほどの仏壇置き場には、50インチのプラズマテレビ・250GBの録画再生装置・VHSとDVDの録画再生装置・カラオケマイク・35Kgの大型スピーカー2台とアンプが程よく納まりました。

▼いよいよ死が近づいたと判断した私は、毎年9月にある豊田市営古瀬間墓地の分譲に応募しました。市営墓地の申し込みには納骨があるのが条件です。私は化石のような古い人骨を、墓地の管理人である兄から借りる法的手続きを済ませました。私の死後遺族が遺骨を返却します。私が選んだ9平米の見晴らし抜群の場所の倍率は3倍になったので、10/14に籤引き
(当選した!永代使用料⇒9*5.1万円=459,000円)があります。墓は三代100年間の寿命があれば十分と判断。でもその間に東南海大地震などの発生があると予想し、籤に当たれば耐震構造の墓の設計に取り掛かります。

とは言いながらも、我が墓石がのっぺらぼうのままでは些か様にならないので馬子にも衣装をと、勝手に作った戒名
『世界百余国漫遊大居士』を彫り込むことにしました。わざわざお参りに来てくれた遺族には、我が生き甲斐の一つを感知させる効果もあります。

▼本日は高木様他幹事の方々に大変お世話になり、まことに有難うございました。

A 地名・国名・公用語の変更

   アフリカには欧州人が最初に発見したと称して、傲慢にも勝手に付けた固有名詞が罷り通っている。そこには先住民が呼称していた立派な意味が込められている固有名詞があるにも拘らず・・・。ビクトリア湖・ビクトリアの滝など数え切れない。それだけではない。都心や観光地などの一等地には欧州人の人物像が林立している。我が目の中にそれらが飛び込んでくる度に苦々しい感情を誘発させられた。

   今や世界的に固有名詞の改称が色んな理由から始まっている。代表的な例としてインドではカルカッタ⇒コルカタ、ボンベイ⇒ムンバイ。ロシアではスターリングラード⇒ボルゴグラード。レニングラード⇒サンクトペテルスブルグ。国名すらも変え始めた。南部アフリカでは南ローデシア⇒ジンバブエ、北ローデシア⇒ザンビア。アジアではセイロン⇒スリランカ、ビルマ⇒ミャンマー。

   ロシアではスターリン像の殆どが撤去された。アフリカでの先住民の復権が更に進み、やがて各地にそそり立つ欧州人の像が撤去され、地名も変更されていくのを望まずにはおれない。各言語には各民族の貴重な文化が内蔵されている。近未来には旧宗主国の言葉を公用語から抹消して欲しいと願わずにはおられない。世界中の言語が英語など数言語に集約されるのは人類最大の不幸だ!

B 今後の海外旅行計画



   我が未訪問国は世界地図に残された白地の国々だ。でも、これらの国で今後訪問したいのは、北アフリカ・東アフリカ・中東・インドシナ半島周辺・パプアニューギニア・スペイン・メキシコなど残すところ20ヶ国程度になった。私には全部の国(国の定義にも拠るが、概ね200ヶ国弱)に出かけることに拘るカントリーハンターのような趣味は全く無い。限られた余生の無駄遣いは避けたい。
   
   愛知県がんセンターで予約済み(12/11,3/5)のがん検査の結果、旅行に耐えられる体力があれば、その時その時の旅行案内の中から臨機応変に行き先を選びたいと思っている。しかし、徐々に低下していく海外旅行への意欲を阻止する方法は残念ながら見つからない。がんや老いに象徴される死神は、こんなどうでもよい世界にまで容赦なく執拗に追い駆けてくるようだ。

蛇足。

   ホームページに転載する前に全文を読み直したら、『疲れた』との表現が高頻度に現れて来ることに気付いた。旅行記の執筆は在宅日に限っていた。記憶の整理・写真の選択・インターネットによる情報の確認なども並行しながらの執筆なので、人差し指一本での執筆では一日5時間働いても高々4,000字だ。この旅行記は57,000字を超えたので正味14日を超えている。毎回、過去の執筆に囚われることなく気楽に書いていた。その結果、『疲れた』との多頻度表現に気付かなかったのだ。

   今回の旅行では航空機の発着時間の都合もあり、深夜の到着や早朝の出発などやむを得ない僻地事情も重なった。そのための疲労もあったとは言え、原因はそれだけではなさそうだ。悲しんでも始まらないが、真因は老いと共にじわじわと顕在化する体力の劣化だ!

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読後感

読み応えのある南部アフリカ旅行記を楽しく読ませていただきました。私も10年ほど前に南アに出張したので、身近に感じています。

アフリカは所得水準が非常に低いにもかかわらず、幸せで自殺者がほとんどいないことに興味があります。

今年の8月にマスターズの世界大会でフィンランドに遠征し、高負担高福祉の国で自殺が多いのは何故だろうか?と現地で聞きました。ヘルシンキの大学院に留学している日本人の若い男性のガイドは、「学費は日本人でも無料であるが、卒業後が就職難であることから、自殺者は若者に多くいて、雇用が悪いことによるのではないか』と言っていました。

リトアニアのタリンに行ったときのヘルシンキの女性のガイドにも聞きましたら、同じ答えが返ってきました。

これは統計上のデーターではなく一面から見た主観的な答ですが、一方、若者も元気な高齢者も家に閉じこもるのではなく、屋外で夏の日光を浴びてスポーツを楽しんでいます。マスターズの選手もアフリカからの参加者はほとんど見かけなく、高齢者の先進国にとって、北欧は幸せだと感じました。

日本の高齢者も石松さんのように、ゴルフやテニスや海外へと外に出て、体を動かすことが大切だと感じました。

@ トヨタOB・マスターズ陸上等の多種目で多くの優勝や世界記録を持つ世界的な高齢者現役スポーツマン。一度お会いしただけなのに何故か記憶に残った方 

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「南アフリカ11ヵ国」を拝読。読後感です。

1.国旗の由来;

南アフリカ各国の国旗の由来を勉強出来ました。国民学校一年生の時、「日本の国旗は朝日が昇るように、日出る国を表している」、併せて敵対国の国旗を貶(おと)す説明を聞いた覚えがあります。

正しい由来を後日聞かせてください。⇒インターネットからコピーしました。

【 国旗の意味や由来など 】
日本では聖徳太子が遣隋使に託した文書以来、自国を"日出ずる国"とする考え方があり、赤い日の丸は日の出の太陽を象徴する。また紅白は日本の伝統色で、めでたいものとされており、赤は博愛と活力、白は神聖と純潔を意味するとも言われている。
2.献金;

「同行者の言動から、だれが献金するかの事前推定をし、結果と照合することにより我が人物査定能力を検証。結果はほとんど我が推定通りだった」・・・

今年、我が家が町内の組長をさせられています。神社への寄付を集めるのも役目です。我が家は奥さんに任せてあるが、近くの神社には¥500、遠方の神社には¥300、 ほぼ平均額です。最も金持ちで社会的地位も高かったと思われる人は出したり出さなかったり、出しても最低額。ところが、一人暮らしで近所との付き合いも無いよぼよぼの爺さんが毎回¥1,000。人生観の違いでしょうか?ともあれ人は見かけによらないものですね。

3.ナイロビ国際空港での女性観察;

「薄化粧とジーパン中心の質素な衣服を着用しているが、胸を張って歩く姿勢は人種を問わず大変美しい。日本人とは大差・・・」

石川遼が2〜3か月前、ゴルフの世界大会でタイガーウッズと初めて一緒にラウンドした。その感想:「タイガーウッズの歩く姿は実にすばらしい!」スイングかコース攻略のテクニックかと思いきや歩く姿を見ていたとは!さすが遼君!

囲碁のタイトル戦をテレビで観た。解説者曰く「優勢な方が姿勢が良くなる!」脚の長さは変えられないが、姿勢は良くしたいですね。

4.「私も疲れた!」を撤回;

長文の旅行記「南アフリカ11カ国」を読んで疲れた。最近はテレビを見ることに慣れ、文字を読まなくなったので続けて64ページも読むことはめったにありません。「おわりに」で執筆者のご苦労を知りました。「疲れた」を撤回します。有難うございました。

A トヨタ先輩・工・ゴルフ&テニス仲間・囲碁の実力抜群

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その1。

今回の読後感には本当に困った。あまり読む気の起こらない文章に対して読後感を何度も催促されても当惑する。読む気が起きないから、「読後」になかなか到達しない。したがって「感」も出て来ないことになる。

本当の読後感は既に速報で送った。不惑どこらか、古希を過ぎたのだから海外「トラベル」で「トラブル」メーカーになるのはやめた方がいいと。世の中、「どちらが正しいか」で争うのは青二才または老醜。他人に好かれる人間になる必要がある。すなわち美しく老いるべき。わが職業の援助調査団の人選の最大要件は「海外でトラブルを起こさない人物」。能力の有無は二の次、マイナス団員を排除することが人選の基本。たかが数十万円の旅費を払ったからといって傲慢になってはいけない。お客にも添乗員には協力義務がある。これが本当の読後感であるが、即座にはねつけられた。

墓地も決まったそうだが、墓地の中も秩序があるだろう。墓地に安住できるためにはやはり努力が必要だ。あまり天衣無縫だと、洞泉寺から断られてたどり着いた豊田市営墓地からも入居後追放されかねない。数年後に墓参したら、「私はここにはいません。千の風になって」ではご遺族も困るだろう。

長さでは源氏物語をはるかにしのぐという超力作の旅行記集だが、投入努力=「読者にとっての価値」ではない。調理に数十時間掛けた「口に合わない料理」と同じだ。他人には供給者論理は通用しない。まして今や製造業者には厳しい民主党政権の時代だ。私にとってはアフリカは所詮、お金のために仕方なく働きに行くところだ。何カ国回っても大同小異の国々だ。だからツアーの参加者が少なく催行が難しい。行ったこともない、行く気もない国の記事には本当に食欲が出ない。

しかし石松旅行記で私が毎回興味を持っているのは参加者の紹介記事だ。要するに当たり前の海外観光地は行き尽した「勝ち組」の実態だ。

以上が総論だが、各論に入ると文化遺産と称して古い家屋を保存するのには私も反対だ。中国の貴州省の山奥の少数民族の集落でも住民はいわゆる文化住宅に住みたがっていた。世界銀行は補助金で外壁だけ昔の状態を残す(室内は文化住宅)ことにしていたが無意味だと思う。

(5ページ)。JR商法はいやらしい。老人を「のぞみ」に乗せない。のぞみグリーン車も割り引かない。ジパング割引が最初の3枚だけ20%引き。「夫が30%引き、妻が20%引きで、並んで座る」という条件を付けるとみどりの窓口は大混乱。ガラガラで走っている寝台車も割り引かない。繁忙期といっても反対方向はガラガラ。東京ではグリーン車の車内発売は250円割り増し。ホームのグリーン券売機は操作ステップが多く、中年おばさんの後ろに並んだら終わり。

高速道路が値下げになればJR利用者は減るはずだ。それでなくでも地方交通線は民営化時点よりも旅客は更に半減あるいはそれ以下になっているはずだ。

物理学は私は特別苦手だったが、「地球温暖化=炭酸ガス」の議論は単純すぎると思う。

共産圏の出入国の能率の悪さについては同感。人類の敵は共産主義。しかし今の日本人が求めているのは社会主義、「こども手当」の次は「大人手当」になりかねない。これでは終わりだ。コマツの海外売り上げは81%。「コンクリートから人へ」では、コマツも海外へ出て行かざるを得ない。

疲れたので今日はここまで(10ページ)。

B トヨタ同期・一年で退職・工&経・私大教授・結婚三回目の奥様は北京美人・私にそそのかされて挑戦した財テクで大火傷・スラム同然の超ミニ住居暮らしでも満足しているらしい・人生いろいろ・・・

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石松良彦さんのホームページを読みました(あまり厖大な量なので拾い読みですが)。

闘病記ですが、よく、あれだけ詳細に書けたものですね。毎日、記録されたのでしょうか。手術日はペンも持てないから記憶力が良いのか。がんのことも良く勉強されていますね。唯一のがん対策は「早期発見、早期治療」といっておられますが、これには私は賛成できません。早期治療でも治らない膵臓がん、それに胃がんでも治らないのがあるそうです。

まず「予防」です。石松さんの場合、遺伝もあるでしょうが原因は明らかに「酒量過多」です。痛風にも罹っているのでも明らかです。酒好きやタバコ好きの人で、「これを止めるくらいなら死んだほうがいい」とゆう人もいます。人はそれぞれ価値観が違いますから、その様な人も居ていいと思います。

この人は、また世界中を旅行されていますね。私は行ったことのあるニューヨーク、グランドキャニオン、サンフランシスコ、ドイツのライン河のところだけ読みました。サンフランシスコのゴールデンゲートブリッジのことを構造力学上から評価されています。私は「私の生まれた頃によくこんな物を作ったなあ」と思っただけですが。

仏教批判は私も同感です。私は宗教を全く信じられません。信じることが出来る人は幸せです。死んでも苦しい現世から極楽浄土へ行けるのですから。私は死に直面したら、恐怖で狂うかも。

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ゴールデンゲートブリッジに関する我が印象を旅行記『米国』からコピーした。

   1937年に竣工したこの橋は、1931年に落成したエンパイア・ステート・ビルディングと共に、アメリカの国力が名実共に世界一に到達した象徴でもある。航空工学を専攻し、材料力学・弾性力学・構造力学・航空機構造力学などに代表される応用力学の一端をかじった私に取って、この橋を見上げた時の感動は今なお鮮やかに蘇る。       

   戦艦『大和』の設計建造よりも本質的には難しかったと思う。当時の我が国の製鉄技術ではこれ程までに品質の揃った『ピアノ線』を量産する事は難しかった。設計技術以前の問題だ。

   今でこそどんなに巨大な構造物であっても、有限要素法(Finite Element Method)とスーパーコンピュータを使えば、構造解析は比較的簡単だ。困難さは計算技術よりも現場工事の方にある。人海戦術に頼る部分が未だ残っているからだ。
  
   当時の知識では巨大連立方程式の近似解法としては『差分法』や『逐次近似法』による手計算が主流だったので、厳密解には到底辿り着けず、気休めの計算をしている程度に過ぎなかった。結局は設計者の『勇気ある山勘』に頼らざるを得なかった。そのため当時の巨大構造物の設計では安全係数を大きく取る傾向があった。当然の結果として必要以上に大きな部材を使うようになり、観光資源としての立場からは予期せぬ迫力となって、私の感動も結局一層深まることにはなった。

   今や厳密な構造解析の計算技術が開発された結果、安全係数は小さく設定され、それに連れて構造部材は節約されて来た。しかしそこに見えざる『神の落とし穴』がぽっかり開いていたとは何と言う歴史の皮肉か!

   このアメリカ西海岸北部のシアトル郊外で、長大橋『タコマ・ブリッジ』が強風を受け、共振現象を起こして墜落したのは記憶に新しい。部材を節約した結果剛性が低下し、共振周波数が予期せぬ所に隠れていたのを見落としていたのであった。この事故解析は後日の膨大な風洞実験に待たねばならなかった。

   そんな事が走馬灯のように脳裏をよぎる時間もないほどの短時間に、超豪華車『キャデラック』は音もなく一気に橋を渡ってしまった。見晴らしの良い超高級レストランでは草鞋のように大きくて、しかも分厚い『アワビのテキ』をご馳走になった。アメリカでは『ビフテキ』位では高級料理の仲間には入れてくれないらしい。

C トヨタ先輩(工・ゴルフ&テニス仲間)のご学友

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南部アフリカ11カ国の旅行記を拝見しました。

先ず、古稀を過ぎたと言うのに、小さくなった胃袋と折り合いをつけながら20日間のアフリカ旅行を敢行した気力と体力に脱帽です。今回も、ビデオ鑑賞では決して得られないアフリカ大陸の砂漠や草原の空気と匂いを鼻や肌で感じ取り、先住民や旧宗主国からの観光客とも心置きなく交歓されてきたようで何よりです。

例によって、同行者の皆さんは石松さんの鋭い観察眼に晒され続けたようですが、集合写真
(旅行社から集合写真の掲載を拒否されました)でも有ればその中にF嬢やG夫妻を中(あ)てる(マイクロソフトのワードでは中てるを常用外では推奨しているが、当てるの方が私には妥当に思える・・・)楽しみがありましたよ。それにしても、少なくとも経済的には“勝ち組”の皆さんが、虐殺記念館での献金額に差がついた原因は何でしょう。貴兄は、50$出す人と全く出さない人の人生で、どこに違いがあったと推測されましたか?

野生動物並みの自給自足に近い暮らし振りのアフリカの人々には自殺者がいず、子供達の瞳は輝いていて笑顔が耐えないとは!!。種族間の対立や貧困の悲惨が報じられますが、子供達が笑顔で暮らせるのは親ならば誰でもが子供に願う有るべき社会のはずですね。現地の民家が弥生時代のそれに似ているとは偶然かもしれませんが、我が弥生人の子供達にも屈託のない笑顔がはじけていたのかもしれません。

先日逝った賢人は、「世界は人間なしに始まり、人間なしに終わるだろう」との言葉を残したそうですが、この世界に初めて出てきた人間はアフリカの大地においてでしたし、この世界の終わり近くまで残る人間がいるとしたら、それは矢張り東・南部アフリカの人々なのでしょう。

今にして叫ばれるエコ生活は、確かに「足るを知る」ことに始まるに違いありません。誇らしげに黄金の茶室を建てた秀吉は、「家は雨を防ぐに足り、食は飢えをしのぐに足りれば良し」と説く利休を切腹させました。天智大王以来の海外派兵で明まで攻め込もうとした豊臣家は絶え、千家は今に伝わります。

アフリカ先住民の暮らしぶりには学ぶべき点が多そうです。

D トヨタ先輩・工・若くして退職され郷里で大成功された偉人・特許と発明考案は200件以上!!

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お久しぶりです。

まず、あまりのお元気さに正直、驚嘆! 貴殿にはすべてを受け入れ、糧にする前向きさがあることが、ガンを退治した根源なのですね。

順不同で。

(1)前日にHPにアップするのは、すばらしい習慣ですね。私も見習わなければと思いました。思っただけです…(笑)。

(2)アフリカについて。

シロウトの超偏見ですが、貧しければ生きることに精一杯で、悩んでいるヒマが無いのかも。それとあの暑さでは、まともに物を考えるのがそもそも難しいのでは。繰り返しますが、超偏見です。

NHKのダウイーンが来た、知られざる野生が好きでよく見ます。そもそも、生き物には種の保存のためのSEXという与えられた使命があり、それ以外は余生かも? 天敵や自然の過酷さも、あるがままに受け入れるしかない。そう考えれば、その日その日を満足して生きることこそが、大事なのでしょうね。人間は本来、淘汰されてもおかしくない数以上に繁殖したが故に、数々の悩みを抱えていると考えるのがいいのかもしれません。

話は逸れますが、長寿ゆえの介護問題。自然に逆らい寿命を延ばした人間への、神の与えた試練でしょうか。

(3)同行者への観察がいつも面白いです。

(4)読後記もユニークで、楽しい。

(5)余談ですが、民主党政権に期待し過ぎた私は、9月に株式投資を再開したものの含み損かかえつつ、来年こそは上がるはずとじっと我慢しております…(苦笑)

貴殿の益々のご健勝を祈念しております。では!

E 株式投資の超ベテラン・未だお会いした事もない所謂富裕層

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旅行記 何時ものことながら良く調査観察されて感心しております。

自分が特に興味あるのはいつも同行者。今回も個性溢れる方々と石松流対応で興味深く拝読したのと、やりとりの光景が目に浮かびました。「おわりに」で述べられた「足るを知れ」はアフリカ旅行ならではの悟りでしょうか。

また戒名も自分で決められた由、何処までもわが道を行くですね。羨ましく思えど真似出来ず残念ですが。

世界制覇される日を待っています。

F トヨタ先輩・工・ゴルフ仲間

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石松さま ご無沙汰しております。相変わらず精力的に、ご活躍うれしく思います。今日(11/9)は20年前に世界中が注目したベルリンの壁が壊された日ですね。私は平成15年9月に訪問しました。

私が所属している、豊田商工会議所青年部OB会では、今年のテーマは
「知足」です。



インターネットから書をコピーしました。アフリカに行かずとも「知足」豊田商工会議所青年部OB会の今年のテーマに選ばれていたとは、ビックリ仰天!!

宗教には色々有りますね、お客様から年数回「聖教新聞」の購読依頼が有ります。仕方がなく年二ヶ月分新聞代を払いますが、読んだ事はありません。

私が訪問した外国では町の中心に教会、寺院が有りますね。日本には宗教の自由があり無宗教でも問題ありません。私の葬式は家族葬の計画を準備しております。

15日と16日には10年振りにゴルフをします。はたして前に飛ぶか明日にも練習に行ってきます。30歳から60歳過ぎまでプレーをしていましたから、格好が付くでしょうか。

勝手な事を書きました、お許し下さい。

G 古希を超えても尚現役でご活躍されている方。

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大作「南部アフリカ11ヶ国」拝読いたしました。貴兄の紀行文にかける凄まじい気力、体力そして執念にただただ驚嘆するばかりです。

しかし折角の労作も私ごとき凡夫にはその長文に圧倒され尻込みしてしまいそうです。風刺の効いた寸評を別途つけていただき、お急ぎの方用に便宜を計っていただければ、読者はさらに増えるのではと愚考するしだいです。
 
同行者の観察記録は毎回興味津々です。

C紳士:如何に高価な和服でも他人にはほとんど価値はなく、文字通り猫に小判。絵画、茶道具など手放すときには二束三文は世の常。

こうして考えるとまもなく古希を迎えるわが身もうかうかしていられないことに気がつきます。思い出の写真や貴重な書籍どんなに大切な品でも残された者たちにとっては単なる粗大ごみ。その処分には頭を悩ますに違いない。

小生も遅まきながら人生の棚卸を始めたところですが、ことは急がねばとの思いが日ごとに募ります。

E夫人:石松パンチを喰らいしょげている姿が目に浮かびます。主人と夫を使い分ける才女を自認している人が今話題の夫婦別姓を声高に叫んでいるのではないかと思っています。「人を褒める時の言葉」を催促するなど噴飯ものです。

数学は多量の問題を速く解くことも大切ですが、時間はかかっても己の方法で答えを出すことのできる子を育てる方が、もっと重要視されるべきではないかと常々考えています。その点からも今の大学共通一次試験は大きな問題を含んでいるように思いますし、さらにいえば幾何をもっと大切にすべきでは?

戒名について一言。吉田茂のブレーンとして終戦処理に尽力したとして最近話題になっている白洲次郎の遺言は「葬式無用、戒名不用」のたった二言であったようですが、人生の達人ともなれば実にすがすがしい旅立ちができるのだと感じいっています。

足るを知る。心静かに日々を過ごせるすばらしい人生観です。今こそ日本人はこの言葉を噛み締めるときでしょう。“くれない”族が蔓延し、貰うことばかりを考え、それに阿(おもね)る衆愚政治は日本人を“SPOIL”してしまいます。

H 大学教養部級友・工

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ご無沙汰しています。

旅行記他貴信拝見しています。貴信は必要の都度必要な箇所を開いて熟読させていただく辞書、蔵書になっています。

何時でも読めるメリットがあり配信時にはタイトルしか読ませていただいていません。読後感等御礼お返しなく申し訳有りません。

昨夏以降中国リポートを中断しています。貴兄はじめ読んで下さる方々多数あるのですが、一旦中断すると面倒になるものですね。同時に日々の生活にアクセントが無くなる心配をしています。

貴信を拝見し元気の源として再考させていただこうと思っています。

その後壮健な毎日と推察します。有意義な毎日をお送りください。

I トヨタ先輩の学友・工・香港&中国での脱サラ事業で大成功・中国の奥地で奨学金提供など恩返し・著書多数・素晴らしい人生に拍手喝采!!

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前略、ごめんください。

最新旅行記、拝読しました。その前に、石松さんが訪問したことがある国を赤く塗った世界地図、凄いですね。なんか、ほとんど塗りつぶされてる感じじゃないですか。

私は暇と金があったらアメリカにすっ飛んで行ってしまう癖があるので、生涯かけても絶対に訪問国が30を越えることはないんじゃないかと思います。

ところで、アフリカで「足るを知れ!」を思ったのは大正解ではないですか。ホントに、人生って「足るを知れ!」です。そうすれば、人を羨むことも妬むことも一切なくなりますし。・・・でも、そういう境地にはなかなか達することができないのが人間の悲しい性というか、日本の現状というか。

J 医師・奥様は宇宙飛行士・いつも簡潔な読後感を拝受している方・著書多数⇒授賞歴あり

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ご無沙汰しています。南部アフリカ11ヶ国も無事終了ですね。しかも各位に約束した期限を守るため苦闘されただろうと思いました。少しゆっくりの日々を過ごされたらという言葉をかけようものなら、即「馬鹿もの」と先輩のどなり声が聞こえてきそうな空気を感じながら読ませていただきました。

いままでの旅行記はプリントアウトして小生なりに力をこめて取り組みましたが、本件の75Pにはちょっと参りました(あまりの大作とインク代??)。というわけで{はじめに}・{事前準備}・{トピックス(同行者)}のみプリントアウトしました。

小生は野生動物には大いに興味がありますが、各国の丁寧な紹介記事には頭が下がりますが興味わかずさらり(先輩には失礼ですがお許しのほど)と読みました。

添乗員の誤訳を捜す・禁酒について反論・過ちを鋭く指摘(ボスざる行動)・・・知力ある若さみなぎるエネルギーは誰にも止められない。小生が石松様の事前知識なければ、なんと青臭い度量の狭い人かと最初は感じると思いますが、最後は「なーるほど」と脱帽するでしょう。そうでない方も見えるでしょうが、そのことなんか全く関知しないのが石松流でそれは最後まで貫いてください。

但し最初に先輩にお願いしましたことですが(読者全員の同意が得られると思いますが)「・・・月数回の日曜ゴルフ全廃し、ゴルフ・テニスは、水・土だけに限定、その間海外旅行・・・」の先輩が[細々と生きている年金生活者] は全く相応しない洒落にもなりません。がんの告知を受けますます強く生きたい日本人??是非これこそ公募して是非ご変更賜りたい。とお願いしても無理??

短い余生を『足るを知る』と自覚しながら生きている私には、[細々と生きている年金生活者] という言葉以上に心にぴったりと収まる台詞は思いつきません。

先日職場の大先輩から「ボケ防止の3ヶ条」を教えていただきました。

@頭を使うこと
A体を動かすこと(スポーツ・歩くなどなど)
B対話をすること

この上記3項目は石松様はどの項目も超満点だと思います。現在日経の履歴書で益川敏英氏が英語は全く駄目でというところに親近感をもちますが、先輩は理系専攻で高度語学力に文筆の高さを備え、凝縮された知識の豊富さに(弱点がなく)あらためて感服しています。

来週某社の役員に向井万起男様の今年の例の新刊書
(『謎の1セント硬貨』・・・講談社・1300円・2009年2月20発行)をお渡しすることにしています。本書籍には「第25回講談社エッセイ賞受賞」が表示されており、そのおり「石松良彦様のH.P.」も必ず推奨したいと思っています。

なお、特段の用があるわけではありませんが、愛知県立がんセンターや名古屋にお越しの折でも時間がありましたら、お会いできたらと思っています。当初小生に貴殿のことを紹介いただいたNTT斎藤名古屋支店長が6月本社ご栄転時に企画しましたが、斎藤氏全く時間取れず断念しました。

すごい先輩を誇らしく紹介している後輩より・・・遅くなりました。

K 大学後輩・経・未だお会いした事もない方

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まず初めに膨大な文章、字数にいつも圧倒される。ご苦労様。本文に入る前の私感が面白い。世界遺産の件、気象変化、言われてみるとなるほど。

@西アフリカの代表の木、バオバブ。ところでアフリカから日本に輸入されている木を知っていますか。エチオピアのブビンガ、大変硬い木で高さ30メートルもある。私の家のテーブルカウンターに使っています。

A下痢患者激減の話、納得。インドネシアでは昔、空になったポットペトルに水道水を入れてしっかり栓をして売っているから、要注意。ホテルの冷蔵庫のものにも要注意。現在はそんな事も無いのでしょうが。

B同行者の観察。相変わらず人物像の記述は面白い。果たして石松さんを他の皆さんはどの様に見ているのでしょうね。学者、それとも大学の先生、研究者、それとも、少々我々とは頭の構造が異なる・・・。

D南アフリカは南アのみ仕事で何回も行きましたが、他は何処にも行っていないので、名前は知っていましたが・・・。いい勉強になりました。


ご苦労様、私にはついていけませんね。 


L トヨタ後輩・工・ゴルフ仲間・海外駐在歴が長い方

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病気と戦いながら、各地への旅をされた印象記、楽しく読ませて頂きました。有難う御座いました。

私は1999年に膝を怪我して以来、右の股関節の骨頭壊死になりましたが手術を回避すべく、リハビリで水中ウオ-キンッグを日々の日課にして来ました。 お蔭様で痛みも癒えましたので家内と年に数回の国内旅行をしています。

テニスが出来なくなった折には、気が滅入っていましたが、貰ったハンデも受け入れて、これも貴重な経験だと思います。日常は杖を使って何処へでも出掛けていますので、それまで皆目意識していなかったハンデキャップのある方々に目がゆくようになりました。

昨年は実に久方振りにイギリス北部の、古代ロ-マが築いたハドリアヌスの長城や周辺の都市を訪ねる、全くの一人での旅をしてきました。実に印象深い愉快な旅となりました。人の親切・暖かさ・情の有り難さを痛感する旅でした。人は何所も同じだと言う事も!

石松様の行動力、バイタリテイ-に敬服しています。貴方のスピリッツを手本に何事もプラスに受け入れて、日々を納得の出来る過ごし方で大切にやっていきたい、と肝に命じているところです。

これからも宜しくご指導の程お願い致します。今年が素晴らしい年になりますことを念じています。

M テニスクラブで出遭った知人・人生の先輩

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南部アフリカ11ヶ国旅行記拝読しました。いつもながらの峻烈な語り口は、一向に衰える気配がありませんね。今回の“足を知る”は我が意を得たりでした。

人間の欲望は哀しいほど際限がなく、この足を知らぬための悲劇が今の日本を覆っているのではないかと思います。派遣村に代表されるその日の食にも事欠く青年や壮年の人たちを見ると、やはり根本的な問題がそこには潜んでいるように思われます。

経済の拡大とともに大都会への人の流れが拡大したが、減速経済に入った現在、多くの人が取り残されということでしょう。一方地方では県庁所在地でさえ人口の減少に晒され、大都市への流出に慄(おのの)いているのが現実です。

いまこそ足を知るを実践する絶好の機会ではないでしょうか。一次産業に回帰し、自給自足の原点に戻れば穏やかな日々を過ごすことができるはずです。もちろんGNPは減少するでしょうが国民総幸福度GNHは増大するはずです。

高校進学率が9割を超え、大学は5割で全入など諸外国と比べても異常と思います。好きでもない学校に通わされる子供たちにとり、この時期は人生の無駄使いのなにものでもないと思います。今こそ価値観を変え“足を知る”を実行すべき時ではないかと考えます。

幕末〜明治初期に多くの西欧人が日本を訪れ滞在記録を残しています。総じて彼らの感想は「日本人はそれほど豊かとは思えないのに、どうしてあれほど穏やかに暮らしているのだろうか」とその印象を語っています。

N 大学教養部級友・工・いつも的確な読後感を賜る方

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読みました。読みでがありました。メモを取りながら一気に読みました。3時間半も掛かりました。さてこれから読後感を書かねばと思うとこれまた大変ですが、アフリカ野郎をかつて自認していた小生としてはコメントのいくつかをしなければ格好がつかない。

今はマレーシアKLにいます。今日は何にも入れない日にして朝からホテルで過ごしています。こんな日でないと貴殿の長文(分厚い本を読むのと同じ)は読みきれません。今読み終わって35〜6年前(小生の南ア駐在は1972〜77年、アテネ事務所駐在の北、東、西アフリカのフィールド仕事は1983年1月ー84年5月)のことからいろいろ思い出されて懐かしく、大変興味もって読ませてもらいました。

それにしてもこの旅は古希を過ぎてからやるのは大変な旅で、よくやられたと感心してしまいます。気力、体力、お金がないと出来ませんね。小生などスケジュール見るだけで、たとえお金をくれても行きません。貴殿は最近はどうか知りませんがカウントリー・ハンター(世界何ヶ国に行ったか)の集まりでこのようなツアーが成立するというわけです。これも日本人だからこの種のツアーが出来るのでしょう。他の国では考えられないでしょう。丁度『にっぽん丸』が日本人ばかりで世界一周するのにどこか似ている感じがしました。

もうそろそろ貴殿もこの様な苛酷なツアー参加、止してマイツアーというかひとり旅をされることをお勧めします。この方が案外金銭的にも安いかもしれません。何よりも同行者が皆バカに見え、気まずいことを抱えながら旅しても面白くないと思いますが。もっとも添乗員やガイドの揚げ足を取ったり、時には気取っている同行者の化けの皮を剥がすのが、旅の面白さの一つなら結構でしょうが。

冒頭の世界地図も殆ど色が付いて白いところがわずかになってきましたね。大きな国ではスペインとメキシコ、地域では東と北のアフリカ・アラブ、それに案外残っているのは東南アジアですが、これは近いのでいつでも行けるというわけで残しているわけですか。もし東南アジアをやられる時はタイかマレーシアに拠点をもって、エアアジアの安い飛行機で現地雇いのガイドをつけて一人で回られるのを強くお勧めします。その方が『足るを知る』をもっと感じられるかとも思います。

地球温暖化の原因はすべて人類が出す炭酸ガスであると言うのが世界中の常識なっているようですが、小生はいささか眉に唾をつけて聞いております。国連のある機関が『ヒマラヤの氷河は2050年までに消える』と言って来たのは誤りでした、と公式見解を出しました。

貴殿言われるように人間辺りが少々物を沢山燃して炭酸ガスを出しても、もっと大きな要素で(地軸の変動、太陽の黒点の変化など)温暖化が支配されているように思えてなりません。この事は先の『世界一周の船旅』の講師で乗ってこられ、南極探検隊隊長もやられた筑波大の先生も言っておられました。

と言っても化石燃料をどんどん消費してよいということではありません。これは無尽蔵にあるわけではないので。どうも今の世の中、科学的根拠が曖昧のうちにムードだけが先走って、もの事がややこしくなっているように思います。

『星の王子さん』のバオバオの木、久しぶりに写真ではありますが、楽しく見ました。そういえば南アのJHB
(ヨハネスブルク)やダーバンあたりでは見たことがありません。北部トランスバール州くらい行かないとないのかな。小生はアンゴラに行ったとき初めて見ました。丁度実をつけている徳利をたてた木でした。その実がまた信楽焼きの狸の金玉をでっかくしたようなものがぶら下がっていた姿は滑稽で今でも鮮明に思いだします。

南ア駐在から帰ったのが1977年、その後何かで出張したのが84年秋です。もちろんまだアパルトヘイト華やかなりし時でした。我々日本人は名誉白人という不名誉な立場で住んでいました。もう一度行ってみたい気もしますが、もう殆どの仲間も死んだり音信不通になってしまって、がっかりするなら夢だけでいいかと思うこの頃です。

何しろJHBまで遠い。今回の旅は香港から直でJHBですね。今もあるのですね。駐在の終わり頃この便が出来て、出張で日本に帰ったとき使った気がします。747の胴体を短くした飛行機だったように思います。当時は世界でももっとも長いロングレンジのフライトの一つでした。JHBに降りてからそのまま乗り継いでナミビアまで行かれたようでよく体力が持ちましたね。

ナミビアもボツワナも当時はまだ南アの属州(テリトリー)で国連から委託されたところでした。トヨタの販売店も南アトヨタの傘下でした。ナミビアではブンツックから大西洋に面したウルスベイまでランクルで砂漠を走ったように覚えています。

凄い霧の深い街で、湿気が多く潮風に吹かれるので車のボデイ腐食が激しいが、各社同じようなものであまり文句はありませんでした。トヨタがボデイ腐食を大きな問題に取り上げ,防錆鋼板を使うようになる大分前の話です。もしあの時この腐食を問題にしてテクレポを書いて報告しても、本社では何だこんな特殊の問題といって一笑に付されてしまったでしょう。

ナミビアからケープタウンに行き、JHBを経由してウガンダのエンテベですか。JHBとエンテベ間のフライトが今はあるのですね。黒人国との交流がそれだけ多くなったと言うことですね。当時は東はナイロビ、西はアビジャンしかフライトなかった。これも人道上というか、燃料補給のためストップするという理由だったと思います。

黒い国からすべて国交を閉ざされても平気でやってこられたのが当時の南アでした。ただ一つの国マラウイだけが抜けることができる黒い国でした。この国で周辺国のビザを取得してフィールドしたものです。

ウガンダ、ルアンダ、ブルンジ、懐かしい国々です。ルアンダのキガリからブルンジのブージュンブラまで、またその逆も5〜6人の小さなセスナで飛んだものです。着いても迎えに来てくれず、乗客みな帰ってしまい今日はフライトはこれでお終い、空港は閉めるからと言われて一人淋しく迎えを待っていたことを思い出した。

ルアンダは少数の長身族(ツチ)が政権をとって威張っていました。反対にブルンジでは短身族(フツ)が多数で政権をとっていて、二つの国は仲が悪かった。見るからに体つきの違う種族が二つの国にまたがって住んでいなくて、どちらかに移動して仲良くやれないものかと思ったものです。最後には悲劇が起こってしまった。

ルアンダは当時フランス人が代理店のマネジャーをしていて、その奥さんがローカルアートに関心ある人で、勧められてローケツ染めの夕日をバックにインパラ親子の染物をかってきました。それを表装して時々それをかけてアフリカを懐かしんでいます。

キガリからエンテベに戻り、ナイロビに。そこで乗り継いでルサカ経由マラウイのリロンゲに。この日程も大変な強行軍ですね。

リロンゲは思い出が多い。今は話してももう時効でしょうが、マラウイ陸軍にランクルを100台ほど売ったことがあります。その技術講習指導ということで、リロンゲの軍の施設のゲストハウスに一週間ばかり泊まったことがあります。丁度その頃フデリック・フォサイスの『戦争の犬ども』という小説が売れてた。

ナイジェリアのビアフラ戦争を下敷きにした欧州からの傭兵が活躍する話。現地人軍隊がいかに弱く、軍全体をのっとることは簡単でアフリカで一旗あげられる話です。ゲストハウスでこんな本を読んでいると、しがないトヨタのドサ回りなんかやめて本当のアフリカ野郎になって、一暴れ出来そうな気持ちになったものでした。何しろ隣のアンゴラもモザンビークもポルトガルからの独立戦争であちこちに小さな戦争が起きていた頃でしたので。

リロンゲは国のほぼ中央にあり、新しい首都としてできた街。昔からの英国の植民地時代は、北ローデシアの時はブランタイヤが中心でした。代理店もここが本社でした。アフリカ流れの変な社長がいたり、インド系のマネージャーがいたりで、マラウイ人がまだマネージャーまでなれる者はいなかった。

たいしたレストランもないので、それらマネージャーの家に呼ばれてよく食事したものです。その中の一人が今でも付き合っていて、万博の時には『ほっとんかん』
(既に購入済みの介護つき老人ホーム)に泊めてやり、こちらが英国に行った時には泊めてもらったりしています。彼はポルトガルにも家をもっていて、そこにも行って泊まったことがあります。こんな貴重な生涯の友人を得たのもマラウイという小さな国でした。

ベイラに緊急着陸。びっくりされたことでしょう。こんな街があることさえ知らなかったのではないでしょうか。小生にとっては懐かしい街です。

モザンビークはまだポルトガルの海外県でした。代理店のオーナーはもちろんポルトガル人です。当時ポルトガル人には二つの道しかなかった。いよいよ黒人国に国が変わるまでに出来るだけのものをもって逃げ出すか、黒人と一緒にこの国建設のため一緒になって働くために残るかでした。

トヨタ代理店は当時はローレンスマルケス(今のマプト)に本社、ベイラに支社があり、出張時には北の支社まで行ってました。この支社の支配人は後者の方に属し、俺は逃げ出さないと言ってましたのでエライ奴だと思って買ってました。本社のオーナーは逃げ出し組みで、我々が持っていくわずかな外貨でも交換してくれという有様でした。

それに出張時にはどうしても必要な修理部品を南アから持っていくので、もちろん代金は現地通貨でしかもらえません。宿代や少々の土産もの買っても使い切れません。

当時南アではアパルトヘイトはなやきし頃、具体的には白黒のセックスはご法度。名誉白人の日本人は白でも黒でも相手が肌の色が違えば、現場で両者即逮捕、刑務所行きです。こんな恐ろしい国では立つものも立たなくなってしまう。

しかし、ちょっと行ったLMやベイラには日本人に体形も似た可愛いポルト女が一杯。現地マネーはポケット一杯、自然にあまり技術トラブル無くても行きたくなるわけです。そんなある時、ベイラでいい子を見つけホテルに来ることを約束したのに一向に現れず、悶々と夜を明かして待ったことまで今思い出してしまった。どうも思い出というのは上手く行ったときより失敗したとか、トラブッタ時の方がよく残るものです。

マプトからスワジーとレソトにバスで行く。これは中々いいバス旅だったでしょう。おしゃられるように地面を走るのは飛行機とちがって見るものがあって楽しい。小生も好きです、助手席に座るのが最高だが今の観光バスでは乗せてくれない。最近タイで2階建てバスの上の席で、最前列に座る機会があり最高でした。

スワジーもレストもカントリーハンチング・ツアーの何ものでもないですね。しかし変わった帽子を見つけられたのは良かったです。小生も駐在員時代でも一度くらいしか行ってません。販売店も当時はなかったくらいです。寒いなか顔に真っ白な白粉を塗りたくった少女が踊っていたことを思い出します。

いよいよハイライトのビクトリアフォール。世界3大の滝を回った貴殿の感じはイグナスが一番ですか、小生はイグナスは行ってないので何とも言えません。ブラジルからチリー・サンチェゴに向かう飛行機の上から見たことはあります。人には世界三大の滝は見たといってますが・・・・・ナイヤガラはビクトリアの下ですな。滝は滝らしく野趣が無くてはいけない。ナイヤガラは観光化しぎて夜には水を止めると聞いてがっかりしました。

この滝には駐在時奥津さん一家と一緒に家族旅行していってきました。これまた懐かしく写真を見せていただきました。ザンベジ河の夕日のクルージングなど観光コースは同じようですが、当時はザンビア側には行けませんでした。最近年と共に高所恐怖症が強くなり、今ではあんな柵もろくにないようなところは歩けません。あの頃はまだちょろちょろする子供がいたのだから。

ボツワナ。ここは小生のいた頃は何にもないところでした。従って行った事もありませんでした。今は観光開発が凄いらしいですね。昔はクルーガーが動物を見に行くところで3回行ってますが、ボツワナの方が動物の密度が多そうですね。

今から6年前『アフリカンアート展』が豊田市美術館で開かれました。それをやったのはアフリカ女郎と称している名古屋の人で、寄付集めで応援したことがあります。彼女がボツワナに入って作品を集めてきて開いたものです。その折東京にあるボツワナ大使館から文化アッタシェも来て挨拶をしてましたが、ダイヤモンドをはじめいろいろ資源も発見され、観光も盛んで今やアフリカでも一番裕福な国なんて聞いて驚きました。アフリカでは何にもないところに突然国が出来、そこが結構栄えるところ。それがアフリカ、そこがアフリカの魅力かもしれません。

貴殿の旅行記を読んでいるうちに昔のことがどんどん思い出されてきて、貴殿の旅行記にコメントどころか自分のことを書いてしまいました。その意味でも貴殿の旅行記で昔に戻ってみることが出来楽しかった。この膨大な旅行記のお蔭です。お礼を申しあげます。

これもKLのホテルでノンビリと一杯やりながらやっているから、こんなことになったのでしょう。これで貴殿から再度にわたり催促されていたことを実行したことだけでホッとしてます。

日本はまだまだ寒そうです、御身大切に! Tシャツと半パンで快適なKLにて

O トヨタ先輩・工・訪問国数80ヶ国強、アフリカだけで40ヶ国を超えるアフリカ通・奥様が永眠されたあとは毎年海外に長期滞在しながら悠々自適・温泉と介護付きの1DK老人ホーム購入済み

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読後感が遅くなり申し訳ありませんが、リコール問題を受けての品質向上対応 や賃上げの労使交渉などここの所忙しく、会社のPCで石松さんの旅行記を読 んでいる私にはあまりにも大作で、読みきる時間が取れませんでした。それでどうしても途切れ途切れになってしまうのですが、これでは読後感がま とまりません。

あと2年もすれば、悠々自適になり豊田市へ戻りますので、その時はしっかりした読後感だけでなく、またテニスもゴルフもよろしくお願いします。

昨日時間を作り、また最初から読み直しました。内容は非常に面白く、しっかり読みましたので、読後感も考えながらですと結構時間がかかりました。

読後感

大作を興味深く読ませていただきました。事前準備(調査)と石松さんの知識があいまって、旅行記を論文の域まで高め ており、読み応えがありました。また単に国ごとの情報でなく、インフラ、料理など項目別にこの地域の特色を記述してありますので、理解しやすかったと思います。

これが前段に来ているので、あたかも自分が旅行へ行くための事前調査をしている感覚で読み進むことが出来、臨場感がありました。どのようなアフリカの旅行案内書より、石松旅行記の方がお勧めと思います。

本論に対する枝葉のところが結構多いのですが、これが読んでいて面白かったです。特に同行者の人物紹介は圧巻でした。

私は現職を退任したら、健康なうちは海外旅行に打ち込もうと考えています。対象国はやはり世界遺産の中から、自然遺産と遺跡を選定する積もりです。海外勤務から帰国して5年あまり過ぎましたが、その間海外には1回しか行っておりません。

現状まとまった時間が取れないのと、長期休暇中
(春・夏・正月の連休の意)の旅行代金があまりにも高いためです。海外赴任中(トルコ?)にそこから海外旅行に行ったのがほとんどで、5泊6日のエジプトツアーでも4万円程度でした。

海外旅行に対する価値観が日本と外国では異なり、低い相場になっていると考えます。私もその相場観が身についてしまいました。

南アフリカに3年間駐在した経験から、読後感を書こうと思いましたが、30年以上前のことなので比較の対象には全くなりません。ただ思い出しながら気がついた事を記します。

成田発香港経由でヨハネスまでは当時とあまり変わらない時間がかかっており、航空機は大型にはなったが速度はあまり進歩していないと言うのが実感です。当時は羽田発16:00バイカウント10(3席+3席、全てエコノミー)で、香港、セイロン、セイシェルズの3トランジットでヨハネス着6:00だったと思います。狭い機内での21時間は大変でした。

アフリカの生活は厳しいが、自殺者は日本の3万人/年に比べ皆無と言う事はそのまま日本の大きな問題と思います。

南アフリカ駐在時黒人居住区のメイドの家へ行ったことがありますが、電気も来ていない家に大家族で住んでいて、和気藹々と結構楽しそうでした。奥さんを我が家へメイドに出し、その家はさらに安いメイドを使っていました。

水は女性と子供が毎日石松さんの写真のように水がめを頭の上に載せて1〜2km汲みに行くのですが、毎日達成感があるのでしょう。笑顔と笑い声が家にあふれていたように思います。

龍安寺の「吾唯足知」のつくばいは有名ですが、石松さんの言われるように何が幸せか分かりません。

肉の話ですが、仙台は牛タンで有名です。ほとんどがアメリカ産のタンを輸入していましたが、狂牛病で輸入禁止になり半数の牛タン屋が閉店しました。何とか営業を続けた店はオーストラリア産に切り替えました。しかしコーンを中心とした飼料を食べているアメリカ産に比べ牧草を食べているオーストラリア産は不評でした。アフリカでは全て牧草(雑草)だと思いますが、我々の舌が飼料育ちに慣れてしまったと言えると思います。

風呂の湯量の話が出てきましたが、個別に電気湯沸かし器を持っているホテルですと、その容量はバスタブ一杯無いくらいです。現地の人はシャワーを浴びるだけですので、これで十分で湯沸かし器のタンクを増設する必要もありません。

こう言う家に住む日本人は、我慢するか湯沸かし器を増設しています。私は長年の習慣でバスタブの時はシャワーだけで済ますようになりました。「シャワーだけだから白人は体臭が強くなる」と家内は言っていますが。

私は残念ながら南アフリカ駐在時はスワジランドしか行っておりません。ビクトリアフォールはテロで危険だとか、旅行も治安が問題と思っていましたので。家でも寝る時は、枕元に目潰し銃とゴルフのクラブを置いていました。

しかし今考えると、あの頃の方がずっと安全でした。ワールドカップまであと100日ですが、開催中の南ア訪問者に対する安全確保がうまく行くか心配です。

それでも、退任したらゆっくりアフリカを訪問したいと思います。貴重な情報ありがとうございました。

P トヨタ後輩・工・ゴルフ&テニス仲間・アフリカ通

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チュニジア(平成26年元旦脱稿)


今回の海外旅行は、私には特別な節目だった。私は過去11年間に胃がんと食道がんの入院治療を五回も繰り返してきた。爾来、自覚症状が現れる前にがんの再発・新発を発見すべく、愛知県立がんセンターで全身のがん検査(血液・CT・造影CT・内視鏡による目視・ルゴール染色・ナローバンドイメージング=NBI)を三ヶ月間隔で受けてきた。更に完璧を期して、全検査資料のコピーを使っての、名医によるセカンドオピニオン・サードオピニオンの診断も受け続けてきた。

 

   我が寿命は幸運が重なっても日本人男子の平均寿命である傘寿(数えで80)と予想し、死ぬ準備にも着手。豊田市営墓地の抽選に幸いにも当たり、3*3平米・総重量15トンの墓も完成。墓誌には自作の戒名『世界百余国漫遊大居士』を思い切って彫り込んだ。百余国とは魏志倭人伝からのパクリだ。平成25年のお盆には自分の墓参りも済ませた。百余国の最小値は101ヶ国。今回の旅は待望久しいその101ヶ国目だった。遂に結願(けちがん)

 

   今や断捨離・野菜だけは自給自足の仙人生活。来宅する子・孫と会うのは正月だけ。日常生活は5km圏内。友人とのお付き合いは水・金の全ての日に出かけるゴルフかテニスと、500km圏内にある自噴掛け流し温泉に、仲間と二ヶ月間隔で出掛けるだけ。我が心境を表した『細々と生きている年金生活者』を人様に何と揶揄されようとも、ものは考えよう。極楽浄土で生きていると自己満足している余生だ。

 

   我が母校(福岡県立中学第1号・東筑・大先輩の高倉健氏は俳優としては森繁久彌氏に次ぐ二人目の文化勲章受章者・女優は森光子さんと山田五十鈴さん)は当時100分授業だった。世界史の先生は博覧強記の見本のような超物知り。教科書はあったが無視され、戦争の講義に何時も没頭。古代史で超有名なポエニ戦役の説明には何と100分間。

 

ポエニ戦役(カルタゴ対ローマ)は紀元前の三大戦役の一つだ(残りはヒッタイト帝国対エジプト帝国⇒世界最初の和平条約を締結したカディシュの闘い。アケメネス朝ペルシア帝国対ギリシアの都市国家連合群=ペルシア戦役)。これらは地中海世界と西アジア世界とのいわば文明の衝突・覇権争いだった。私はハンニバルの奇想天外な戦術にも拘らず、ポエニ戦役の敗者となったカルタゴの遺跡を何としてでも見たかった。

 

はじめに

トピックス(順不同)

 

@ 客室乗務員

   平成25820日に後期高齢者になった私には、カルタゴは想像以上に遠かった。離着陸の僅かな時間とはいえ、上空から眼下の景色を眺めるのは、かつては旅の楽しみの一つだった。しかし、いつの間にかその意欲はすっかり消滅した。窓際の座席は今や極力避けるようになった。景色を堪能するよりもトイレに出かける利便の方を優先した。今回は幸いにも往復ともに通路側の席を確保できた。

 

   長時間の夜間飛行中、友人に勧められた睡眠薬を飲む勇気はなく、眠るためにビールをガブ飲み。しかし、これには難点があった。世界に冠たるローマ皇帝と雖も排尿ばかりは他人には頼めない仕事だ。しかし、今回のカタール航空の客室乗務員は、私がトイレに近づくとドアをさっと開けてくれた。こんな気の利いたサービスに接したのは初体験。

 

   彼女たちへのサービス教育は徹底していた。トイレ帰りに私はハイネケンの缶ビールを所望した。さっと開栓。でも、足元不如意の私は『ここから座席までビールを持ち運ぶのは危険。座席位置の書かれた半券を示し、ここまで持ってきてほしい』。『畏まりました』。簡単な摘みと一緒に運んでくれた。客が飲まずにカバンに入れて持ち帰るのを防止するためか、必ず開栓して手渡すようにとマニュアルに書かれていると推定した。

 

A 費用

 

基本旅費・・・・・    139,000

燃料サーチャージ・・・・・30,000

海外入出国税・・・・・・・1,000

日本国内空港使用料・・・・2,650

旅客保安サービス料・・・・300

 

合計・・・・・・・・・・・172,950

 

変更分・・空港諸税追徴・・540

国内移動交通費往復概算・・2万円弱(詳細は失念)

総費用概算・・・・・・・・190,000

 

B ホテル 

 

   チュニジアでは、どんなおんぼろホテルでも何故かシングルベッドが三台用意されていた。我が初体験だ。どうしてなのか質問するのも忘れていた。フランス人は長期休暇を満喫すべく、元植民地には妻・子と一緒に旅行に出かける人が多いためだろうか??

 

   いわゆるミニバーはあったが、中はいずれも空っぽ。ビールを飲みたかったが・・・。時には電源も壊れていて冷蔵庫が使えないことすらあった。

 

C 食事

 

   今回の旅で一番難渋したのは食事だった。私はいつの間にかチュニジア側から見れば、極端な偏食者だった。定食でも、バイキングでも食べたい料理が見つからないのだ。同行者の何人かは2Kgも体重が増えたと喜んでいた。食欲は見るからに旺盛だった。でも、私は遂に2Kgも体重が減少。時計の金属製バンドがユルユルになった。この失った体重を平成25年内に取り返せるのか自信がない。

 

   日本では今、高齢者の栄養失調が度々マスコミで取り上げられている。特にタンパク質不足だ。多少は小太り者が長生きするそうだ。胃がんの手術で胃の2/3を切除している私は、三度の食事だけでは栄養不足になるのは必至。手術後には54kg46kgまで痩せこけた。当時64歳だったのに浦島太郎のように一気に20歳も齢を取ったかのごとく、顔には縦皺が無数。ぞっとした。

 

失われた筋肉を何とかして奪還するための間食では、ビールの摘みのたんぱく質で積極的に補填して来た。炭水化物中心のお菓子やケーキ類は一切食べない。何とかして動物性たんぱく質を食べるべく、摘み専用の121リットルの小型冷凍庫と、食材の解凍及びビール冷却専用の75リットルの超小型冷蔵庫まで購入した。

 

何とか58kg(胃がん手術前の40年間は注意深く54kgに維持・管理していたが、小太りが長生きと知り必死になって4kg増量した)の体重を確保。関取ならずとも、体重こそは体力・免疫力の源泉だと盲信している。

 

今秋からは主食のコメも『金芽米(きんがまい)』に変更した。金芽米とは精米技術の名称。お米のブランド名ではない。玄米の栄養と白米の食感を確保した技術だ。金芽米の富山産コシヒカリなどと呼ぶことになる。松坂屋豊田店では売っていなかったが、近くのトヨタ生協朝日店で入手。

 

   松坂屋豊田店の焼きたてパンは美味しいが私は食べない。炭水化物過多の偏食を恐れるのだ。一方チュニジアのパンは何故か全く美味しくない。1956年までフランスの植民地であった影響か、フランスパンの斜め切りの破片が山のように提供されていたが、パサパサで喉を通らない。一口食べるのがやっと。子供時代に食べたコッペパンにも劣る味覚だ。

 

 果物は糖度が低く、これもまた喉を通らない。果物ジュースは還元物ばかり。生ジュースがなく、飲みたくなるソフトドリンクもない。結局、多くのイスラーム圏内同様、旅行者から搾取するような高価なビールで空腹を満たす結果となった。

 

? 相部屋仲間

 

   今回のクラブツーリズムの団体旅行では相部屋希望者の受け入れもしてくれた。私は相部屋大歓迎。一人旅との差額(18,000)は同室者との交際費・チップ・お土産代に何時も当てる習慣。今回の男性相部屋希望者は三人。意外に少ないのだ。5泊の内、どの日が一人部屋になるのかは籤引きだった。

 

   半世紀前までは日本には生涯独身者は殆どいなかった。独身者は心・身のどこかに障害のある気の毒な方くらいだった。でも、あっという間に舞台は暗転し、別世界になった。相部屋希望者三人の中にも独身者が一人いた。今回の同行者の中には他にも類似の素晴らしい独身男性がいた。イケメン・長身、羨ましい程の立派な体型なのに独身だった。この方は一人部屋だった。

 

   我が生家には二歳年上の実兄がいる。帰省の折に情報収集。同じ集落内に無数の独身者がいるそうだ。日本全体に独身者が溢れているのは紛れもない事実のようだ。私の兄弟姉妹七人の子供は合計18人。既婚者には全員子供がいる。偏差値はピンキリのようだが、心身ともに健康なのが救いだ。

 

18人中最後に残った独身男は30代半ば。元南極越冬隊員⇒弟宅訪問時に南極土産の氷でオンザロック。氷がキンとはじける珍しい音がした。彼は道草を食っていたが近々結婚するらしい。披露宴はもはや恥かしいのか中止し、交際相手が懐妊したら婚姻届を出すらしい。甥を批判する気は全く起きない。

 

叔父に当たる私だって、仏教界とは訣別。葬儀には僧侶は呼ばない。仏壇も位牌も不要と遺言済み。自作の戒名を墓誌に彫り込み、生きている今から自分の墓参りをしている。価値がないと判断した日本の伝統や習慣などは完全に無視し、誰からも拘束されない生き方を、逆に自慢すらしている。

 

E 国内電車

 

   今回は珍しく関空発着。宅配便で空港まで別送するほどでもないと考えて、自力でカバンを引きずって運ぶと決意したものの、拙宅から関空まで辿り着くのは体力の衰えたがん患者には一仕事。でも成田発着よりもマシだ。かつて団体旅行で一緒になったお爺さんは『エコノミーのカバンの重量上限は通常20kg20kgのカバンが運べなくなったら海外旅行は止める』と、言っていたのを思い出す。

 

成田の場合は中部=成田間の国内線の便数が極端に少なく、座席が確保できるか不安なだけではない。何故か夜間出発、早朝帰国便が多いのだ。団体旅行を当てにした格安便? 往復ともに成田での待ち合わせ時間が半日以上になる場合もざらだ。運が悪ければ成田泊だ。

 

   拙宅⇒自家用車(運転は荊妻)⇒トヨタ自動車元町工場前⇒名鉄バスセンター(高速バス)⇒近鉄名古屋駅(近鉄特急)⇒近鉄難波駅⇒南海電車難波駅⇒関空(南海電車)。片道概算6時間。名古屋駅でも、難波駅でも歩行移動距離が長すぎる。大きな駅は大嫌いだ。

 

   関西は関東と並ぶ私鉄王国。近鉄は新幹線と同じ標準軌。揺れも少なく乗り心地も抜群。南海は駅舎が素晴らしい。欧州のターミナル駅同様ホームが屋根で覆われ、吹き曝しがない。屋根は単なる雨除けではなく、屋根裏は各種配管・配線の取り付けにも活用されている。

 

   一方、愛知県下の私鉄は実質的には名鉄の独占。車両が古くて貧弱なだけではない。新名古屋駅のような地下での発着駅を除けば全線、ホームにこそ屋根はあるが壁のない吹き曝し。競争がもたらす果実がない。

 

でも、南海電車から久しぶりに眺めた商店街の栄枯盛衰も激しかった。鉄道に直行する通りが次々に現れた。小さくてもいわゆる商店街だ。しかし、人通りは少なく、シャッターが下りたままの店舗が多すぎた。左側に見えた通天閣周辺だけが少し賑わっていた。

 

JR環状線のターミナル駅に隣接する北の阪急本店・阪神・大丸や南の高島屋・近鉄本店に、郊外の富裕層の客を取られるのか、かつての繁華街は寂れる一方。心斎橋の元そごう本店は改築したのに客足は戻らず、隣接する元大丸本店に売却されたものの、両店ともに集客力はイマイチ。シャッター通りは地方都市だけではないようだ。

 

   私が電車に乗るのは久し振りだった。往きの南海電車急行内の雰囲気は一変していた。関西空港で降りた客は同じ車両内では私一人だった。通勤電車だったのだ。車内の雰囲気はかつてとは一変。何と2/3以上の若者が一斉に携帯端末を操作していた。私は既にシーラカンスのような石器時代人になっていることを悟らされた。

 

私は携帯端末を買ったことがなく、今後も買う気は全くない。日進月歩の電子機器は操作を覚えるだけでも老人には苦痛。字が小さすぎて眼鏡なしでは読めないし、キーも小さすぎて操作がしにくい。加齢による記憶力の衰えはないそうだが、思い出し力が激減するのだ。目の前にいる知人の名前が思い出せない現象がその典型例だ。若者が何に夢中になっているのか分からなかったが、お蔭で車内では会話も聞こえず静かだった。

 

   驚いたのは殆どのサラリーマンはノーネクタイ、そのためでもあるのか襟垢に汚れたシャツを見かけない。クリーニング業界の寡占化に伴う合理化が進んだのか、豊田市内でも家族経営のクリーニング店の殆どは廃業し、大手と契約している小さな取次店が今や溢れている。シャツ一枚の洗濯料金は100円〜150円前後。みんな毎日取り換えているようだ。かつて大平首相がシャツは連続して二日間着る、と言っていたのが嘘のようだ。

   

F 脚力強化法

 

   団体旅行では脚力不足で難渋する頻度が多くなった。整形外科医が各種のトレーニング法を提案しており、いろいろ試みたが長続きしなかった。一日の時間は一定なので何かをすれば何かを止めねばならない。背反事象だ。

 

   ある時、脚力の簡単な評価法を知った。椅子に座った状態から、片足立ちが出来るか否かだ。私は試行して愕然とした。フラフラとして立ち上がれないのだ。でも、我が日常生活を反芻したら、朝晩二回の入浴時に各10分間、単に体を温めているだけの時間があった。この時間を活用することにした。

 

浴室の壁面にはデジタル時計付のボイラー制御用のリモコンが取り付けられていた。窮余の策とは浴槽内で片足を交互に持ち挙げ、膝の後ろに両手を回し、伸ばした足を極力腹部に近づけるストレッチだ。一ヶ月間続けたころから若干の効果が感じられてきた。最初は足の指先と手の指先とは20cmも離れていたが、今では両者を接触させられるほど柔軟性が増してきた。その上、水平歩行速度が回復してきたのだ。

 

   今後も毎日焦らずに続けることにした。その途端に、今年の五月末から始めた毎週一回の散歩は中止してしまった。嫌いなことは長続きしない典型例だ。

 

ある時、熱ショックによるタンパク質の改質効果作用を知った。42℃の風呂に入りストレッチを繰り返せば筋力が増強されるのだそうだ。NHKの『ためしてガッテン』でも紹介されたそうだ。私はまさにその典型例を実施していたのだ。心なしか、太ももに力瘤のような筋肉が現れた。嬉しくなった。

 

NHKのためしてガッテンからの引用。イワシの頭も何とやら。害はなさそうだから続ける予定。

 

熱ショックたんぱく質とは!?

温めると細胞の中で「熱ショックたんぱく質」という物質が増えます。すると、さまざまな不思議な現象を起こします。トマトやレタスを温めると長もちするようになります。熱ショックたんぱく質は、細胞内のたんぱく質を修理することで“細胞を強化”してくれるんです。ただし、トマトは実験段階ですので、ご家庭での再現は難しいです。レタスは50℃のお湯に2分つけると赤茶に変色するのを抑制することができます。番組では差がわかりやすいように、温めた後、常温保存しましたが、ご家庭ではあら熱をとって冷蔵保存することをお勧めします。

人間の細胞にも熱ショックたんぱく質が存在。温度が上がると増え、免疫力とも深い関係があります。ただし、あくまでも実験段階の結果で人間の体の中で、どのくらい免疫力が上がるかはわかっていません。また、風呂で温めたレベルでは免疫力が大きくアップする事はありません。

長湯しすぎに要注意!

熱ショックたんぱく質は体温が38℃くらいになると増えると言われています。熱ショックたんぱく質の“修理パワー”を治療に活用するべく臨床研究している大学病院で、体験すると専用の機器を使って遠赤外線で温めても、38℃に上がるまでに3〜40分かかります。入浴でも湯温によりますが、ある程度の長湯が必要です。よかれと思って長湯しすぎると、心臓などに負担がかかるほか、こんな危険性が考えられます。長湯しすぎには十分注意してください。のぼせてふらつく(特に高齢者の方は転倒事故につながる危険もございます)血栓ができやすくなる(42℃以上の高温で長湯をした場合)熱中症(特に高齢者や子どもは体温調節がうまくいかず、急上昇してしまうことも)

温めて血管若返り!

昨年から治療ガイドラインに掲載されるようになった「和温療法」。慢性心不全の方を対象とする治療法です。60℃と低めのサウナで15分間温めて、血管を柔らかく若返らせようとするのが狙い。血流がよくなると、血管内壁から一酸化窒素が出て、血管の筋肉をほぐして柔らかくしてくれます。すると、全身の血流がよくなるので慢性心不全による全身症状が改善。ただ、同じ血管若返り効果は運動でも得られます。健康な方でしたら、鼻歌が歌えるくらいのウォーキングを1日30分。週3日行うと、3週間で血管弾力が15%アップしました。

 

G 参加者

 

   今回の参加者は38人。成田出発者が30人。関空が8人。女性が2/3位。両者はカタール空港で合流。女性添乗員は成田から。我が体験では30人を超えると何かと無駄になる時間が多すぎる。海外ではどこでもトイレの数が少なく、ガソリンスタンドなどでのトイレ休憩に時間が掛るだけではなく、バスの乗降にも時間が掛り、イライラするのだ。旅費が安いから我慢せよと言われているようなものだが・・・。

 

   今や日本では全国に1,000ヶ所を超える道の駅、380ヶ所(うろ覚え。正確さには自信はない)もある高速道路のSAは、大好きなデパ地下とも共存共栄するほどの賑わいだ。屋台・レストラン・簡易食堂・産直市場・お土産店に加えて綺麗な多数のトイレ。場所によってはコンビニや温泉すら併設されている。

 

これほど充実した休憩できる道路サイドの拠点を海外では一度も体験したことがない。年間六回の温泉旅行仲間との移動中には、何時もトイレ休憩にこれらを活用。ここでお土産を買うのが習慣になった。幹事が毎回指示する20分の休憩時間が短すぎるくらいだ。

 

H 女性参加者

 

   高齢になった女性が身だしなみへの気配りを失うと、私は自分の身だしなみや外観は棚に上げながら、見るに堪えない心境になる。

 

   私は大人の女性を三分類している。産卵期の場合は新品と中古品の女性に分類。各種の調査報告によれば女子大生にも、昨今では新品は少ないそうだ。産卵期を過ぎれば老婆だ。自然界では産卵が終わった鮭に象徴されるように、存在意義がなくなると自然の摂理からかそのまま死んでしまうが、人間界ではその時点からの余生が長い。何と40年以上もあるらしい。

 

   いつの間にか、理髪店にも低価格革命が浸透し、1,000-1,500円床屋が全国展開を始めた。その効果か、高齢者も床屋に出かける回数が増えたようだ。一方、美容院は女性の虚栄心を擽(くすぐ)るのか、低価格競争には未だ陥っていないようだ。結果的には高齢女性の美容院通いの回数が落ちているようだ。

 

   野生動物のように髪の毛が伸び放題の老婆が増えた。伸びた髪の毛を麻縄(家庭菜園では必需品)で縛るなどの努力をしないためか見苦しくて堪らない。外観ではなく中身で勝負と言いたげな言動には一層呆れてくるから、私はからかいたくなるのだ。

 

   人生50年時代でも、女性の平均余命が米寿になった今でも産卵期の終了年齢には変化がないそうだ。医療技術他の進歩により巷には老婆が溢れている。それでもパートなどで働いている女性は身だしなみには多少は心がけているが、小金を持っているらしい海外旅行組の老婆の半数は、日本人の恥さらしの典型例だ。

 

   だぶだぶのズボン(昔はモンペと言った。今はパンツと言うらしいが・・・)は履き易いのか、ゴキブリやアヒルのお尻のように、ズボンの中で垂れ尻がフラフラと左右に揺れている。飛行機の搭乗員の女性のように長い髪を後頭部に集めて丸め、華やかで美しいリボンで飾る姿には凛とした輝きを感じるが、山姥(やまんば)のようにザンバラ髪を振りまく老婆には話しかける気も起きない。

 

I 持参している小物品

 

   発展途上国に出かけるときには先進国とは異なる必需品がある。ガイドブックでは見落としがちであるが、痛い目にあって気づかされる物品が殆どだ。おまけに加齢と共にボケも進み、部屋に小物を置き忘れる場合もある。持参品は百均などで買える安物に限る。

 

   時計・・・スーパーで980円の腕時計を二個購入。一つは電波時計、もう一つはクオーツ。共に中国製だ。一年使ったが何の支障もなく、時刻は正確に刻まれている。でも、電波時計は国内旅行専用にしている。海外旅行で必須となる時差合わせ操作が面倒。今回はクオーツを持参。どこかで忘れても惜しくはない。

 

   浴槽の栓・・・外国人はシャワー慣れしているのか、栓がなくとも気にしないらしい。ホテルの半分くらいは、まともにお湯が貯められない。栓の種類は多種多様。一辺が10cm位の正方形のゴム製の厚くても柔らかい板には汎用性があり便利だ。

 

   ビールの栓抜き・・・必需品だ。部屋に置かれていないこともしばしば。客の持ち逃げが多いためか、最初から準備していないようだ。

 

   化繊の固いネットタオル・・・石鹸の品質が悪く、浴室に置かれているタオルでは泡が発生し難い。洗浄力はあっても気分が悪い。

 

   安全カミソリ・・・通常、浴室の備品にはない。電気かみそりは充電が面倒。日本から持参した安全カミソリ一本で間に合う。最近のステンレス刃の安全カミソリは、一ヶ月間は十分に使える。  

 

J 人種の坩堝

 

   チュニジアは先住民であるベルベル人、カルタゴを建設したフェニキア人、カルタゴを滅ぼしたローマ人、ローマ帝国の衰退後に進出したゲルマン系遊牧民族であるバンダル人、バンダル王国を征服した東ローマ帝国人、東ローマ(ビザンティン)帝国を支配したアラブ人、ビザンティン帝国を滅亡させたオスマントルコ人、オスマン帝国の滅亡後に侵攻したフランス人など、私にはその歴史を追いきれないほどだ。

 

   多種多様な人種間の交雑の前には、男女の部品の大小・整合性は障害にはならないらしい。驚くばかりの柔軟性があるらしい。何よりもその結果が証拠だ。チュニジアは、結果として多種多様な外観の人種の坩堝となった国家である。

 

日本人だって弥生時代以前に周辺各地から移住してきた難民の坩堝だったが、過去2,000年間に亘りそれぞれの場所に定住した結果、外観はかなり平準化された。それでも南北を比較すると、皮膚の色・毛深さの程度には大きな差が見られるが、チュニジア人の外観のばらつきとは比肩すべくもない。

 

   JAの規格に統一された、デパ地下やスーパーの生鮮食料品市場の野菜や果物と異なり、一見しただけでは分類不可能な人々が街に溢れている。身長・体重・体型・皮膚の色も様々。国際線のエコノミー席に150kgはありそうな中年男子が乗り込んだ。

 

椅子の両端に挟まれた巨体は機械的に強く圧迫されると、腹部は前に伸びて前席に接近し、機内食を置くテーブルが使えない。人体も茹で卵のように、簡単に変形するのだ。たまたま空席だった隣席のテーブルを使い、本人には何時もの習慣だろうが、頭を90度器用に回転させて食事。

 

K お土産

 

   海外旅行では適当なお土産はないものかと、キョロキョロしながら特産物探しをするのも楽しい。軽くて保存性もある珍品探しだ。中近東のバザール(屋根付きの商店街)には国産品以外にも、世界中から集めた安価な商品が山積みされているが、今回はどこでも売られていたサフランに注目。

 

   バザールや観光地廻りが目玉となるパック旅行は、一筆書きでの移動の世界。お気に入りの商品を発見したら速戦即決。大きな失敗を避けるためには、少しずつ買うのが鉄則。どこで買うのが一番お買い得になるのかは最後まで分からない。現地のガイドの案内にも我田引水の眉唾物がある。サフランは遥か昔、パキスタンで買ったが大変高かった記憶がある。でも、チュニジアではあちこちで売られていた。結局、数箇所で分散購入。

 

   最後に売上額では世界第二位(一位はウォルマート)のスーパー・カルフールでどっさり買った。バザールでの値引き交渉に努力した積もりだったが、カルフールが一番安かった。帰国後、インターネットで国内価格を検索したら、500-1,000/gだった。

 

サフランは紅茶と同じように熱湯に入れて数分経過させたら、香りの高いサフランティーができる。尚、サフランと紅花とは同じものと勘違いしている人もいるが、全く別物だ。また、紅花の色は花びらから採るが、紅花油は花びらからではなく種を圧搾して作る。

 

サフランと聞くと多くの人は料理に使用されるイメージが強くありますね。このサフランは、薄紫の花びらの中に、黄色い雄しべと、雄しべより長い雌しべが三本入っている花です。

料理やお茶などよく使用されるのはサフランの赤い雌しべです。サフランが料理に使用されるのは香りと色です。サフランを栽培する方法には、露地栽培と室内栽培があり、最近は露地栽培ではなく室内でより多く栽培されています。

サフランは球根で増える植物なので室内栽培では、質の良いサフランが収穫できないのが問題点と言えるでしょう。サフランを料理やお茶に利用する場合に大切になってくるのは雌しべを乾燥させる過程です。

サフランの要素には、着色力を決めるクロシンと風味を決めるピクロクロシンに加えて香りを決めるサフラナルが要素としてあります。このサフランの品質はISO企画で定められています。

水溶性であるサフランは水には溶けます。しかし、油やアルコールには溶けません。料理に使用するときにはアーモンドやポテト、トマトやバジルなどが相性のいい食材とされています。サフランを使用した料理には、パエリアのように、ご飯にサフランを混ぜ合わせて作るものや、モロッコ風のブイヤベースに使用するもの、ギリシャ風のサフランブレッドなどがあります。

料理にサフランが使用される理由としては、美容と健康を維持する効果が高いからだと言われています。自分で料理をすることが苦手な人は簡単にサフランが摂取できるサフランティーが良いでしょう。

サフランは料理だけでなく染料としても使われおり、染料としてサフランを使用する際には、ミョウバンとともに使います。

紅花と呼ばれるサフラワーは、私たちの生活と密接しており、主に食用で色を付けるときに利用されているので誰でも一度は目にしたことがあると思います。

紅花の紅という呼び方から昔は、「紅をつける」と言う意味は口紅を付けることを表しました。この口紅は紅花を利用した色素で作られ、エチオピアを原産地としたものが多い菊科の植物であるサフラワーはエチオピア以外では西南アジアが原産地となっています。日本では山形県が主に栽培地として有名です。

サフラワーの花びらは、染料として使用されサフラワーの種子は、食用油の原料である紅花オイルも作られているので知っている人も多いでしょう。

6月頃になるとサフラワーの花の収穫時期を迎えます。太古の昔に日本ではサフラワーは人が亡くなった時に使用され、遺体を埋葬する際に棺の中にたくさんのサフラワー(紅花)を入れていました。

ピラミッドで有名なエジプトミイラにも、サフラワーがたくさん使用されていたようです。遺体に供える花としてサフラワーが利用されているのは、サフラワーの香りがとても良かったからだと言われています。

サフラワーから色素を抽出するには紅花を太陽の光に当て乾燥させます。乾燥させた紅花を一日中水に漬け、黄色い色素が水に染み出すのを待ちます。後はしばらく漬け灰汁につけると化粧品用の赤い色素を抽出するようになっています。

健康面ではサフラワーは「紅花茶」というお茶として飲まれています。紅花茶の効用は、血行を促進する働きがあり、鎮静作用があるといわれています。紅花の甘い香りと、真っ赤な紅花茶は、健康食品コーナーで販売されているので利用してみてください。

紅花は英語でsafflowerサフラワーと言います。キク科の植物で花は黄色→赤となりますが、サフランはアヤメ科の植物で花は紫色。赤いめしべだけを着色料として使います。

 

   専業主婦の荊妻にはサフランは不評だった。『香辛料を使いこなしてカレーなどを作るのは面倒。日本では中間製品となるルーなど主婦の手抜き用の食材が溢れている』そうだ。結局、小瓶に詰め替えて、我が夫婦夫々の友人たちに配ることにした。

 

常々、荊妻には『主婦業としての家事は最低限で十分。残りの時間は、国内・外旅行やグルメ食べ歩きなど、好きなように過ごして構わない』と言い続けている。

 

   我が何人かの知人・友人は惚けた奥様や要介護の奥様の支援で掛かり切りの人も増えた。ペースメーカーを埋め込み身障者1級に転落した荊妻が、何時倒れるか不安だ。健康で私よりも長生きさえしてくれれば十分だ。

 

   私が生きている間に荊妻が要介護老婆になったときは、躊躇せず姥捨て山(特別養護老人ホーム等)に送り込む予定。がんで体力の落ちた私には老老介護は無理だ。一人暮らしになった時に備えて、宅配夕食の手続きを完了し、先週試行した。

 

   一番気に入った業者は今年から参入したセブンイレブンだった。一食単位で宅配してくれる。日替わりメニューの写真やその他の食品の写真付き雑誌が毎月送られてくる。ご飯付き(ご飯と5/)やご飯無し(6/)が有るが、共に500/食。

 

前日に申し込めば昼食も夕食も夫々に指定された時間帯での手渡し。代金は手数料なしでの銀行口座からの自動引き落とし。何と便利になったものか。指定された最寄りのセブンイレブンから配達された。でも、配達者は店員ではなくてヤマト運輸だった。

 

   料理内容は宅配夕食(8品・670/)では先行しているワタミに軍配。でも、ワタミは最低5日単位の申し込みなので不便。ヤマト運輸の宅配者によれば、利用客が徐々に増えてきたそうだ。

 

L 酒を振舞われた。

 

   その1。 どこの海岸だったか忘れたが、テント張りの朝市のようなお土産店街でビールを探した。ソフトドリンク売りの若い店員に『ビールを買ってきて欲しい。地元のことには詳しいから知っている筈だ。チップとして2ディナール(130)出す』と言って探させた。が、結局見つけられずに戻ってきた。その時、私ががっかりしていたのに気づいた二人連れのイタリア人男性がいた。海難事故の救済を目的にボランティアとして短期間だが車で来たのだそうだ。

 

   二人共2m近い大男だった。『背が高いね! 部品も大きいのではないか! 羨ましい』と言ったところ『一寸こちらへ』と言って、自分たちの車まで案内し『これは、イタリアでは有名なブランデーだ』と言いながら紙コップに100ccくらい注いでプレゼントしてくれた。

   

   その2。 11/3午後、チュニスからの帰国便の搭乗手続きも完了。一服しようと立ち飲みスタンドにて生ビールを注文。『20ドル札で支払うが良いか?』『規則に成約され、お釣りはドルでは渡せない。ディナールになる』と回答。今更ディナールを受け取っても使い道がなく、がっかりした。

 

   そのやり取りを聞いていた隣席のチュニジア人が『がっかりするな、俺が支払うから』と言って、さっさと支払ってしまった。『なんとも申し訳ない。実は1ドル札なら三枚持っている』。財布の中を見せながら無理やり受け取らせた。ビール代は6ドル相当だった。

 

   成田出発便の場合は1ドル札をチップ用に旅行日程数に合わせて50100枚入手していたが、今回は出国時の関空着が遅くなり1ドル札に両替できなかったのが失敗の元。豊田市内の三井住友銀行では1ドル札が少ない100ドルパックのみの両替。私は後で使い難いパックによる両替をしていなかった。 

 

   その3 ケルンにて(平成1310)

 

ケルン中央駅の1階は切符売り場と駅中(えきなか)商店街だった。ホームは2階にある。ドイツでは入場券はなく、ホームまでの出入りは自由。列車の中での抜き打ち乗車券所持検査で捕まると罰金を請求される。

 

   長女一家が駐在していたケルンに、荊妻と共に様子見に出かけた。私はケルン中心街を一人で散歩したくて中央駅に出かけた。生ビールの立ち飲みスタンドに腰掛け、ケルンの地ビールを飲みながら、隣席の若い男に話しかけた。

 

『あなたは朝早くから、週日なのにこんなところでビールを飲むなんて貴族ですか?』

『ハンブルクでペンキ塗り会社を経営している。たまたま仕事でこちらに来ているだけだ。こんなまずいビールを飲むなんて』と言うや否や、我がビールを目の前の溝に捨て去り、これを飲め』と言って、彼のお気に入りのビールを私のために注文した。その一言がキッカケとなり暫くミニ国際親善。

 

   海外旅行中、私はこの種の体験をあちこちでした。欧米人の私への気配り(我がホームページの賢人読者各位も体験済みと思うが・・・)に何度も出会い、驚いた。

 

   一方、日本人のケチな行動に接するたびに失望の連続。日本人は仲間同士の場合はそれなりの付き合いをするが、団体海外旅行で知り合った程度の仲間の場合は、何かの序に奢ると言う人は大変少なく、失望するだけ。一寸奢るだけで人生が楽しくなるのに、何と狭量な人たちかと驚く。

 

M 訪問国数 

 

   私のホームページの自己紹介欄には、がん寛解祝いとして2003年に出かけたエジプト以降の各年の訪問国名を書き込んだ。これを見たある人から『あなたの訪問国数には水増しがある、と疑問を持つ人がいるのでは? 赤い地図から大体のことは推定できるが、国名を全部書いては如何』との提案をされた。

 

   この人は国とは何かの認識が不足しているようだ。国の数は今でもはっきりとはしていない。およそ200弱だ。アラブ諸国はパレスティナを国として承認しているがイスラエルは承認していない。旧ソ連が崩壊したあとロシアを含む15ヶ国が独立した。私はロシアのモスクワ・サンクトペテルブルクや新独立国のうち12ヶ国を旅したが、ソ連時代だったら1ヶ国になる。

 

   私の訪問国数は訪問時点で国として国際的に広く承認されている数を足したものだ。昔に遡って現在の国名を数えると数が減ることになる。20世紀にはオスマントルコやソ連の崩壊だけではなく、アフリカやその他の地域では植民地が独立し、国の数が激増した。今後も国の数は増加すると予想している。

 

   シンガポールのような都市国家やロシアのような巨大な国も一つの国と数えるのには疑問が残る。本当は訪問した市町村の数を数える方に意味があると思っているが、市町村名も忘れたところが多いだけではなく、簡単に表示できるソフトも無い。国の数を数えるのは単なる遊びに過ぎない。

 

尚、訪問国を赤く塗っているのは『world66-visitded countries』の最新版による。


   出国窓口は沢山あったのに出国者は私一人。『こんなに客が少ないの?』。『この時間帯だと少ないのですが・・・』。

観光報告

 

10/28

 

   関空の指定場所への集合時刻は20:40。定刻に到着。関空出発組8人の中の一番乗りだった。カバンの重さは11kg。旅に慣れてくると衣類は減少。チュニジアと豊田市の気温が殆ど同じなのも幸い。カバンの半分は空っぽ。着替えの大部分は靴下や猿股・股引などの下着。多少汗臭くなっても乾燥地帯だ

し、我慢出来ると判断。パジャマなどの寝間着は持参せず。

 

   JCBゴールドのラウンジに21:01に到着。何と21:00に閉店だそうだ。どこの空港のラウンジでもビール1缶は無料。ビールを所望したら500円という。ラウンジは空港ごとの独立採算制なのか? 中部国際だけはセルフサービスとは言うものの、生ビールが飲み放題なのに何としたこと。関空は客が少ないためか?

 



10/29

超巨大なカタール空港(到着時の建物⇒出発時の建物間の移動にバスで10分以上)で乗り継いで、チュニジアの首都チュニスに到着。人口ではチュニジア第三の都市。旧市街(メディナ)(世界遺産・その@)だそうだ。チュニジアは16万平方km。人口は約1,000万人。一人当たりの年間所得は8,000ドル。日本の二割。私が就職した1962年、日本の所得はアメリカの二割。其の時、アメリカの豊かさは別世界と感じていた。

 

小さな国なのに世界遺産は8ヶ所。今回はその中の7ヶ所を巡るべく、バスで東奔西走。簡易舗装に近いが、現地では高速道路と称している・・・。都市間の交通量が日本に比べれば極端に少なく、移動時間はほぼ計画通り。昼間の2/3はバスの中。

 

   チュニジアはローマ帝国屈指の穀倉地帯。360度、地平線まで全く山を見かけない場所も多かった。中央アジアの大草原でも大抵はどこかに山が見えたが、珍しい体験だ。

 

   チュニジアは、アフリカの北西部に位置するリビア・モロッコ・アルジェリアなどと一緒に、日没との意味のマグレブと呼ばれる国の一つ。メッカの西側に位置するため、モスレムは東に向かってお祈りをしている。

 

   地球上どんな場所でも、日が沈むだけではなく日出る地なのに、自国を中心に考えて隣国を日没する国とか、格下に見做したがるようだ。隋書』東夷伝に、倭王から皇帝に出した国書には「日出ずる処の天子(聖徳太子)・・・」と自称したとあり・・・。

 

   最近では韓国がその呼称が世界的に定着している日本海を、韓国の東にあるとの理由で東海と命名し、日本にも同意を求めて来た。日本海に面した海岸線の長さは日本列島の数分の一に過ぎないのに・・・。この種の幼児性に満ちた最近の韓国の政治家の言動にはいちいち付き合ってはいられない・・・。韓国は二度と出掛けたくない国の一つになった。

 

   丸いドームを見ると、イスラーム圏内に来たとの実感が湧いてくる。乾燥地帯の利点か雑草が少ない。今や世界中どこでも男の大部分はジーパン愛用者。丈夫で長持ちするだけではない。皺も撚り難くアイロンがけも不要だ。伝統的な民族衣装は今や冠婚葬祭やお祭り専用の絶滅危惧種のようだ。

 

 

 

欧州・中東・アジア各国には無数の巨大な城壁都市が今でも残っている。城壁には必ず出入り口があり、大抵管理人がいる。お疲れさまと声を掛けたくなる。

 

日本には住宅地を取り囲むこの種の城壁都市はなく、頑丈な門の建設事例もない。神社の鳥居や仏閣の門は単なる出入口の象徴に過ぎない。出入りを遮断する物理的な障害物にはなっていない。

 


展望台から市域を眺めると、古い石造りの家並の中に鉄とガラスの近代的な建物も建ち始めた。衛星放送受信用のパラボラアンテナが溢れている。

 


観光はチュニジアでは大産業。観光客の安全を確保するために、武装した屈強の若者がいた。

 

ある同行者が『革ジャンは暑くありませんか?』。未体験者の大いなる誤解だ。皮は

断熱材だ。夏は涼しく、冬は温かい。一年中愛用できる優れた素材だ。寒風は遮断するのに通気性は確保される結果、蒸れない。その上、軽いのも魅力。

 

私は冬季のゴルフでは、ズボンは韓国で購入した柔らかい羊の革製品を愛用している。今回の外出着は牛皮製のハーフコート。東レやクラレが人工皮革を開発したが、天然皮革に匹敵する品質には未だに到達していない。生きている親羊一頭の国際的な価格は1万円前後。安いものだ。

 

国内旅行でも海外旅行でも、私は何時も皮ジャンを愛用している。国際線は空気抵抗を極力減らすために飛行高度は13,000m前後。一方機内は乗客の健康に影響しない範囲での最高高度3,000m前後の大気圧(0.7気圧前後)に通常管理されている。離着陸に伴う機体の疲労破壊を避けるために、機体内外の圧力差を乗客の許容範囲で極力小さくしているのだ。機内の空気温度は快適値でも、気圧が低いため体感温度は低くなる(熱力学的な説明は面倒くさいから割愛)。私はその対策にも有効な皮ジャンを愛用している。

 

首からぶら下げているのはイヤホーンガイド。加齢と共に聴覚が衰えて来た私には必需品。でも、欠点がある。ガイドは自分の位置を原点にして前後左右の景観の説明をするが、聴く側にはガイドの居る位置が分からない時もある。その場合は説明が直感的には理解できなくなる。

 

 

水は乾燥地帯では貴重品。水を確保するためには、歴代の権力者は住民と共に想像を絶する努力をしてきた。噴水は飲めるのではないかと思えるほどに透明だ。

 

一方、日本各地に残存しているお城のお濠の水の汚さには、来日外国人は口にこそ出さずとも驚いているに違いない。せめて皇居のお濠の水くらいは綺麗にできないものか。下水処理場の膨大な水のほんの一部を導水するだけで簡単に解決するのに!!

 

男性用の赤くて丸い帽子に宗教色を感じたが、被っている男(右端)は少ない。私は海外旅行の記念にあちこちの国で民族帽を買っていたが、今回は見送った。いわゆるキャップでも庇があるのに、この丸い帽子には庇も鍔もない。デザインが単純すぎて魅力を欠き買うのは見送った。

 

今回の旅行でも愛用している帽子は、ペルー(インカ帝国)のナスカの地上絵が鍔に刻印されている分厚い牛皮製だ。

 

 

   チュニジアと日本の時差は8時間。真夜中に目が覚めた。ルームサービスでビールを取り寄せるべく、フロントへ電話したが応答がない。やむなく、下着のままフロントへ出掛けた。受付には制服姿の男が二人いた。『ビールを二本買いたい』。『ビールはありません』と出まかせ。『そんな筈はない。夕食時にレストランで飲んだ。どこかにあるはずだ』。一人が何処かへ出かけた。ハイネケンの瓶ビール(小瓶)を二本持ってきた。『栓抜きがない。ここで開けてくれ』。

 

   室内から静かに出入りしていた積りだったが相棒が起きていた。遠慮する相棒に『ビールを一人で飲んでも面白くない。どうぞご遠慮なく』と強要。氏は元銀行マン。アメリカ駐在歴があるそうだが、アメリカ人の子供の英語は聞き取り難いと言う。耳から学ぶヒアリング能力は幼少時に体験しないと絶対音感同様、身に付けるのは難しいらしい。

 

我が孫の中で最年長の女児は慶応中学三年生。この秋に英検2級に合格。ドイツのケルンに一歳の時から5年間住んでいた効果だろうか? 外国語を学ぶ際の拒否反応が小さいらしい。

10/30

   いつの間にか日本人の旅のスタイルが変わっていた。小学生のようにリュックを背負っているのだ。両手がフリーになって便利なようだ。

 

   でも、私は30年くらい前に購入したアタッシュケースを使い続けている。書類を曲げずに収納できるし、飲物の保管にも安全だ。待ち合わせなどの場合は椅子代わりにも使えるし鍵も掛けられる。しかし、最近はアタッシュケースを全く見かけなくなった。10年ひと昔というが、一世代経つと別世界だ。

 

   クオーツ時計が普及したためか、集合時刻に遅れる人は殆どいなくなった。ホテルの外観やロビーはリフォームしたのか一見立派だが、室内の調度品や設備は中古のママ。テレビは見ないから古くても何の支障もないが、ブラウン管では何ともみすぼらしい。

 

   革ジャンの下に着ているセーターはペルー製品。アルパカの毛を使った手編み。カシミヤに似て軽くて温かい。我がお気に入りの愛用の品。

 

635

 

   中東やアフリカでの我が関心事は遺跡巡りとバザールだ。日本各地のアーケード街にはシャッターが下りた店が多くなったが、海外では滅多に見かけない。失業者が多いためか空き店舗も直ぐに埋まるようだ。バザール内を歩くとその国の庶民の生活が分かる気がしてくるから不思議だ。

 

   欧州各国の大抵の都市では、中心部にある広場に日本の朝市のような仮設商店が並んでいるが、単なる産直市場に感じて関心が薄れてきた。みすぼらしいのだ。

 

   スースは沿岸都市。鮮魚も豊富。この国の商人は、商品の見栄えなど気にせずに展示しているようだ。

 



638

生まれて初めて牛の生首を見た。売り物なのか、飾りなのか不明だが首の断面が大きいことに驚く。

 

   日本でも厖大な数の牛が食用に供されているのに、牛の頭はどう活用しているのか一度肉屋に聴いてみたい。マグロの巨大な頭は兜焼きで売られているし、香港の市場では豚の頭がゴロゴロ。イスラーム圏では羊の脳味噌は最高の御馳走だ。でも、牛の頭は見たことがなかった。牛タン以外にも食べられる部位はあると思えるのに。後で聴いたら、販売用の牛の頭だった。

 

   豚骨や鶏ガラなど、肉屋の廃棄物はラーメンのスープに活用されているのに、牛骨ラーメンというメニューには出会ったことがない。インターネットで検索したら、ほんの僅かではあったが売られてはいた。

 

   廃棄物でも美味しいのなら、松阪牛のサーロインステーキで出汁を取れば極上のラーメンができるのではないかとの疑問が生まれる。ラーメンとは高くても1,000円前後との前提が強すぎて、ラーメン屋は誰も挑戦しないのだろうか? 美味しければ2,000円でも私は食べたいのに。

 

   私が大学3(1960)の時、池田内閣が所得倍増計画を発表した。池田首相は『経済のことは私にお任せください』と言いつつ、カレーライスを食べながら庶民派を演出していた。でも、カレーライスが50円時代に、250円のカレーライスを高級ホテルで食べている、とマスコミにからかわれていたのを思い出す。

 

所得倍増計画(しょとくばいぞうけいかく)とは1960池田内閣の下で策定された長期経済計画である。閣議決定された際の名称は国民所得倍増計画(こくみんしょとくばいぞうけいかく)という。この計画では翌1961からの10年間に名目国民所得国民総生産)を26兆円に倍増させることを目標に掲げたが、その後日本経済は計画以上の成長に至った。立案は経済学者の下村治

 

 

640

   チュニジア人の女性通訳は女傑だ。モスレムかと質問したら、無宗教だと即答。彼女の衣装にモスレムの風習は見かけなかった。

 

   徐々に才女などから宗教離れが始まっていくのだろうか?

 

643

何処でもモスクは庶民の家とは格段の差を感じさせる豪華な建物だ。個人の資金力では建てられない。かつての宗教団体や権力者の力の強さを感じる。

 

今や大抵の国では所得の平準化が進み、個人には巨大な宗教建築を寄進する余裕がなくなった。世界的な巨大企業も非生産分野に投資しなくなった。昔と異なり国家もこの種の建築を残す余力がなくなってきた。豪華な建物はいずれも昔の遺産が中心だ。

644

   高速道路を疾走するバスから、我が安物のデジタルカメラでオリーブ畑を撮影したが、焦点が呆けてしまった。チュニジアのオリーブの生産量は世界で56位らしい。2011年の収穫量はスペインがダントツ。実の重量なのか、油を搾るための種の重量なのか不明だが、皮つきの実も食べるから実の重量と推定した。地中海の周辺各国が主産地だ。

 

Spain6,940,230トン

Italy3,182,200

Greece2,000,000

Turkey1,750,000

 

   高速道路沿いに広がるオリーブ畑は壮観だ。一枚の果樹園が優に1平方kmはある。日本では一枚の田畑でこんなに広い農場を見たことがない。周辺では人家が見つからなかった。

 

『どのようにして収穫するの? アメリカのサクランボのように振動を幹に与える機械で揺すり落とすの?』

 

『オリーブの実はコーヒーと同じように順々に熟すから、人手で収穫する。晩秋から三ヶ月かける。周辺各地から働きに来る人がいるから心配無用』だそうだ。野宿用のテント持参なのだろうか?

 

   ゲーテは明日死ぬと言われても『私は子供たちのためにリンゴの木を、孫たちのためにオリーブの木を植える』と言ったそうだが、オリーブの木は寿命が長いらしい。ここの木の幹はごつごつとして、屋久杉のように星霜を感じさせるほどに大変太かった。

 

オリーブの木の寿命は長く、エルサレムには推定樹齢1000年を超えるといわれる大樹があります。一般に樹

4年〜5年で実をつけ始め、花期は5月〜6月、収穫は10月末〜12月初めです。

 

 

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マトマタに到着。

 

   鷹をぼんやりと珍しそうに見ていたら、持ち主が手の上に突然乗せ、さっとカメラを取り上げて撮影。何という早業か! 更に帽子の上に移動。我が意思を無視して勝手に乗せたのだから、チップを渡さないなどとの野暮な発想は成り立たない。

 

   観光地でチップを集める必殺技とは、先手必勝。鷹の外観は若いブロイラーの大きさに見えたが、意外に軽かった。飛べる鳥と飛べない鳥との違いだ。

 

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北アフリカの先住民『ベルベル人』の竪穴と横穴を併用した地下住居を見学。山岳地帯では斜面に横穴を掘って住む人がいる観光名所も多いが、ここでは大きな縦穴を掘り、そこから横穴を掘って住居としていた。中庭には井戸も掘りナツメヤシも育てていたが、ベルベル人の努力に拍手喝采したい!! 非力な私には真似ができない。

 

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マトマタからドゥーズに移動。

 

二日目も真夜中に覚醒。眠り薬の代用品としてビールを飲むべく受付に電話したが、今回も知らぬが仏なのか応答なし。已むなく下着のまま消灯されていた暗い廊下伝いに受付を目指した。途中レストラン内でコックが二人、朝食の準備をしていた。

 

『ビールが飲みたい』『受付で相談してくれ』『廊下が真っ暗で道が分からない。途中まで案内してくれ』。やっと受付に辿り着いた。

 

『ビールが飲みたい。2本だ』『受付にはない』『待っているから探して来い』と命令した。一人が無数の鍵を手にして何処かへ出かけた。待つこと数分。お金を支払うのもひと仕事。レジの鍵を開け、お釣りを探して一件落着。チップを2ディナール渡してやっとビールを受け取った。チップ込みでも夕食時のビールよりも安かった。彼らは定価を誤魔化すようなことはしなかった。

 

   今度の同室者も起きていた。遠慮していたが、無理やり一緒に飲むことができた。昼間の疲れも手伝い直ぐにまた眠れた。

 

10/31

 

沙漠から登る朝日を鑑賞するためにホテル近くの駱駝ステーションに出かけた。沙漠は放射冷却で寒いとの宣伝に乗せられたからではない。それでも、民族衣装と頭を保護する布を借りた。私は防寒対策完備だったが、現地に来たからにはチップを落とすのは、旅行者の義務と常々考えていた。喜捨の習慣のあるイスラーム世界では、尚更のことだ。

 

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   駱駝に乗るのはパキスタン・エジプト・モロッコに次いで今回で四回目。当地の駱駝使いにとって、商売になるのは早朝の日の出鑑賞の機会のみ。チップ稼ぎに必死だ。あらゆる機会を捉えては写真を撮ってくれる。

 

   駱駝は大変大人しい動物だ。でも、座った状態で客を乗せると、荒々しく一気に立ち上がる。客は振り落とされないように鞍に取り付けられている、目の前の半円形の輪を両手で必死に握って耐える。駱駝は乗ってみると意外に思えるほど身長が高い。

 

   駱駝使いは一人で数頭ずつの駱駝を紐で繋いで歩いた。当地にはモロッコのような高い砂丘はなく、平坦地に近かった。どこまで移動しても周囲の状況は変わらない。しかし、ある程度の距離を移動しないと、ほどほどの駱駝賃が取りにくいのか片道20分くらいは乗った。

 

 

 

 

駱駝から降りて全員一休みしつつ、日の出を待った。駱駝は人を降ろした後はその場所に微動だにせず座り込んで休憩している。

 

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   待ちに待った待望の日の出だ。太陽の直径分の自転時間は丁度二分間。ショーの時間はアッという間だった。

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蛇足。

 

12/14の世界ふしぎ発見で、全ての駱駝は沙漠での休憩時に何故太陽の方角を向いて座り込むのか、とのクイズが出された。日陰もない場所での体力消耗を防ぐには太陽光線を受ける面積が最小になるような姿勢を取るのだそうだ。

 

でも、私はこの説明には疑問を感じた。駱駝は乾燥に対して最強の動物だ。太陽光線に胴体を直交させ、横腹に熱線を浴びても然したる影響があるとは思えないからだ。

 

今回は日の出前だったが、駱駝は勝手な方角を向いて休んでいた。

 

 

   ナツメヤシの実を保護するためか、日本の巨峰の栽培と同じように、簡単な袋で覆われていた。もっと平均気温の高い西アフリカの国での栽培の場合は、袋は見かけなかった。樹勢が最盛期になると一本から250kg/年もの収穫があり、人間一人を養えるそうだ。どこのバザールでも各種の実が売られているが、甘くて大変美味しい。

 

 

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ドゥーズからエル・ジェムに移動。

 

途中のトイレ休憩時に珍しい自噴の温泉に出会った。双六の様な四角の渦巻きに沿って流れて行き、最後に排水されていた。同行者が足湯の体験をしていた。丁度手頃な温度だった。私は靴下を脱いだり履いたりするのが面倒に感じ、足湯はしなかった。

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   エルジェムに到着。35,000人収容の円形闘技場(世界遺産・そのA)だ。ローマ・ヴェローナに次ぐ大きさだそうだ。長さ149m、幅124m、高さ36m、アリーナの直径65m。保存状態も良く、3階からの眺めには一目置かざるを得ない。

 

   闘技場と劇場とは似て非なるものだ。ギリシアやその植民地の遺跡にも劇場はあるが、闘技場としては使われていない。人間と猛獣との格闘技などをするためには、猛獣の檻や猛獣を舞台に連れ出す人力エレベータなどそれなりの装置は必須だ。

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エル・ジェムからケロアンへ移動。

 

ケロアンがイスラーム世界では、メッカ・メディナ・エルサレムに次ぐ4番目の聖地とは知らなかった。ケロアン旧市街(世界遺産・そのBとそのC)を観光。ケロアンにある預言者ムハンマドの友人が眠るシディ・サバブ廟も別格の扱い。

 

 

 

 

 

 

 

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この日は一人部屋の宿泊。今回の旅では最高のデラックスホテルとは名ばかり。浴槽の栓が閉まらずお湯が貯められない。保守員を呼びつけて一段落。

 

 

 

11/1

 

 

   高さ8m、厚さ2mの頑丈な城壁に守られた大きな門をくぐり抜けると、ケロアンの市街が広がる。

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   グランド・モスクは見るからに壮大だ。信者の汗の結晶だ。

 

 

 

 

   今回の相部屋参加者三人。いずれも定年退職者。旅慣れた人たちだった。楽しく過ごせたことに感謝。長身のイケメンは独身。

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ケロアンからナブールへ移動

 

   ナブールの特産物は陶器。その色鮮やかな陶器製品を眺めていたら、高知の皿鉢(さはち)料理を突然思い出した

 

皿鉢(サハチ)の由来[編集]

皿鉢は「さわち」以外にも、サハチサアチサラチサーチとも言われている。現代の皿鉢の源流である器は室町時代から作られていた。当時の器は比較的深みのある高坏で、浅鉢・深鉢・大皿・大鉢など器に合った名称で呼ばれていた。それらの器が皿鉢と総称され始めたのは江戸時代だと考えられている。土佐藩(現在の高知県)の禁令などに「砂鉢」「皿鉢」と記されており、その他「佐波知」「沙鉢」と当て字された記録もある。

器の種類[編集]

形状は円形ばかりでなく、小判型や矩形など様々で料理に合わせて使用されている。9寸(約27センチ)程度の小ぶりな器もあるが、今日では活け作り以外の皿鉢では一尺三寸(39センチ)がほぼ標準となっている。あまり小さな器は皿鉢と言わなくなっているものの、明確な区分は設けられていない。

 

   私は不定期だが松坂屋豊田店に出かけ、連日18:00から始まる刺身の半額セールの争奪戦に挑戦し一度に1015パック購入している。半額後の平均単価は500/パック。酒の摘みだ。大抵は小皿に移し替えることもなくパックのままお盆に乗せ、炬燵のテーブルに置いてテレビを見ながら、のんびりとビールを飲みつつ食べている。後片付けを簡略化するためだ。でも、何となく侘しい。

 

   お土産屋に並ぶ素晴らしい文様の大皿を発見したとき、衝動買いをした。この大皿に刺身を盛り付け直して、皿鉢料理の雰囲気に変えたくなった。店員が緩衝材として古新聞を使って梱包してくれたが、日本まで持ち帰る途中での破損を恐れた。

 

過去何回か破損の体験がある。仕方がない。悪いとは多少だが思いつつも、最後のホテルで緩衝材としてバスタオルを無断で借り、何重にも包み洗濯袋に無理やり入れた。割れることなく無事帰宅。

 

    あまりの美しさに喜んだ荊妻は飾り皿として、床の間に陳列。飽きが来るのを待つ始末。

 

   小さな一人用の浴槽があった。水風呂なのか、お湯が引かれているのか不明だが、推定している当時の生活水準では極端な贅沢だ。同行の人々は海に強く関心があったのか、こちらのお風呂を見に来る様子がない。海は遺跡ではない。どこでも同じ風景が見られるのに。人それぞれとは言うものの、ここまで彼らは何しに来たのだろうか??

 

 

 

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   この美しい紺碧の海は流石に地中海やエーゲ海の眺め。愛知県の太平洋沿岸の汚さとは対照的。40年以上もの昔、子供を連れて蒲郡にある保険組合直営の保養所に泊まり、歩いて行ける海水浴場に出かけたとき『海はバッチイ』と1歳の長女。こんな印象を残されては海水浴も台無し。

 

その後は少し遠くなったが民宿に泊まり、北陸の水晶浜で海水浴を楽しんだ。しかし、ここほどの美しさと広さには、我がお気に入りだった流石の水晶浜も格落ち。

 

敦賀半島の西側中央に位置し、砂浜からは常神半島が一望できる。砂は粒子が粗く丸い石で敷き詰められており、細かい水晶の上を歩いているような錯覚に陥る。海は遠浅で透明度が高く、北陸地方でも有数の渚として知られている。以上のような理由から日本の砂浜八十八選にも選出されている。

 

敦賀半島に数ある海水浴場の中でももっとも海水浴客の集まる砂浜のひとつである。また、半島西側にあるため「サンセットビーチ」としても人気が高く、夏に限らず夕暮れ時はカップルが集まるデートスポットとしても知名度が高い。

 

ケロアン⇒ケルクアン

 

   ケルクアンもフェニキア人の遺跡(世界遺産・その?)だそうだが、ローマ人の破壊は免れた。フェニキア人の植民地は北アフリカ各地にあったが、ローマ人に破壊されたのはカルタゴだけのようだ。

 

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   料理の美味しさは景色でも変わる気がした。規模こそ異なるものの、晴れた日に我が家の露天風呂が快適に感じるのも同じ理由だ。

 

 

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11/2

ガマルタ⇒ドゥッガ

 

   簡易舗装であっても平坦な土地に建設された高速道路は、日本のように両側の山の斜面の崩落や路肩が崩れるような心配はない。トンネルも不要。建設工事も簡単。

 

   ドゥッガの遺跡はヌミディア・ローマ・ビザンティン複合遺跡(世界遺産・そのE)として、チュニジア国内では最も保存状態が良いそうだ。

 

 

 

 

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   誇らしげに表示さている世界遺産登録の記念碑。

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   アフリカを感じさせない規模だ。どこでも記念写真を撮りたくなる。これほどの数の列柱を見ると、当時の設計者や石工の努力は産業革命後の世界とは別次元と思わざるを得ない。

 

 

 

 

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   水洗化された公衆トイレ。下半身丸出しで男女の区別もなく、仲好く使っていたのだろうか? 人間の羞恥心とは環境や習慣で変化するのではないか?

 

   198912月に中国の工場を訪ねたとき、ドアのないトイレに男性作業員がずらりと並んでおしゃべりをしながら排便中だった。真正面から眺めると、仮性包茎が多かったのを思い出す。大きなビデオカメラを担いでいたためか、恥ずかしそうな表情に変わったから撮影せずに大急ぎで退散した。

 

 

 

 

 

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ドゥッガ⇒チュニス

 

   北アフリカ随一のモザイク収蔵数を誇り、アフリカのルーブル美術館と称されるバルドー博物館を見学。

 

   フェニキア・ローマ時代の保存状態の良い数え切れない程のモザイク画が展示されていた。モザイクを最初に考えたのは誰だかわからないが、天然の岩石を小さく砕き、それを貼り付けて絵にする根気にも驚く。

 

  モザイクという手法は室内装飾のために古代の世界各地で使用されていた。シュメールで都市文明が開花したウルク期には、コーン・モザイクと呼ばれる、円錐形の釘状の彩色土器や石(釘の頭の部分を彩色している)を使って神殿などの建築物が装飾されていた。ウルから出土した紀元前2600年から紀元前2400年頃に遡るとされる「ウルのスタンダード」は、持ち運びできるサイズの箱状の木材の各面に、貝殻や赤い石灰岩、青いラピスラズリを埋め込んだモザイクで、軍隊の行進や饗宴の場面が描かれている。マケドニア王国の宮殿のあったギリシアのアイギナ島では紀元前4世紀のモザイク画が発見されており、ヘレニズム様式のヴィラ(別荘)の床を飾っていたものと思われる。

 

モザイクで飾られた床は古代ローマの時代のものが有名で、グレート・ブリテン島からシリア地方ドゥラ・エウロポス北アフリカ一帯に至るまで広い範囲で発掘されており、豪華なモザイク床は贅沢なローマ時代のィラを特徴付けている。ローマ市では、皇帝ネロが建築家たちに命じ、モザイクを使って黄金宮ドムス・アウレア(西暦64着工)の壁や床を覆わせた。

 

4世紀末にキリスト教徒が建築したバシリカ(教会堂)では、床や壁のモザイク装飾はそのままキリスト教の目的のために流用された。キリスト教のモザイク装飾の最も偉大なものは東ローマ帝国の時代に花開き、首都コンスタンティノポリスをはじめ、イタリア支配の拠点ラヴェンナシチリア島の領土でもモザイクが大聖堂を飾った(ビザンティン美術を参照)。特にラヴェンナは「モザイクの首都」とも呼ばれるほど多くの遺産が残り、モザイクの研究や教育もさかんである。サンタポリナーレ・ヌオヴォ聖堂サン・ヴィターレ聖堂ガッラ・プラキディア廟堂など世界遺産にも登録された建築群が公開され観光名所になっている。シチリアのヴィッラ・ロマーナ・デル・カサーレでも多数のモザイク画が発掘されており、世界遺産となっている。

 

モザイクは正教会の伝統を受け継ぐ国、例えばロシアなどでも教会や宮殿を飾るのに用いられた。東ローマ帝国のライバル、ヴェネツィアでも、サン・マルコ大聖堂の内外装をモザイクが覆っている。西ヨーロッパでは、労力のかかるフレスコ画の技術が、労働集約的なモザイク技術にかわり建物の壁面装飾の分野で主流になった。

 

イスラム建築では、モザイク技法は複雑な幾何学模様、アラベスクを作るために使われる。中国から伝わった、釉薬で彩ったタイルを用いた手法はモロッコなど北アフリカではゼッリージュ(zillij)、イランなど中東ではカーシャーニ(qashani)またはカーシーと呼ばれる。その最良の例の一つがイスラム教の支配下にあったイベリア半島にあり、アルハンブラ宮殿などに見ることができる。

 

近代においても多くの建築物がモザイクで飾られているが、異色のものはアントニ・ガウディとその弟子ホセ・マリア・ジュジョールが手がけたバルセロナグエル公園であり、動物のオブジェや波打つベンチが色鮮やかなタイルによるモザイクで覆われている。

 

バチカンのサン・ピエトロ大聖堂内の絵画は、遠くから見た時には油絵かと思っていた。接近して見たらモザイク画と気づき驚いた。日本人には何でも真似し改善する国民性があるのに、モザイク画を真似なかったのは何故か、気が短いからなのだろうか、私にはその理由が分からない。

 

大聖堂の壁面を飾るモザイクの装飾・絵画

驚くなかれ、大聖堂では、ドーム、天井から内陣、後陣に至るまで、聖堂を飾る装飾・絵画は、1点の例外を除き、全てモザイクだ!!繰り返す、遠目にはどう見ても油彩画やフレスコ画にしか見えない作品が、ほぼ全てモザイクなのだ。たとえば、ラファエロの「キリストの変容」、大聖堂のものはモザイク製のコピーで、本物はバチカン博物館内の絵画館にある。 

油彩絵画と見分けがつかないのは、中世のモザイクと比べ、17世紀以降大聖堂で採用されたモザイクは技法が進化を遂げ、超微小(ミクロ)なタイル片を開発・使用し、継なぎ目が見えなくなったためだ。加えて、大聖堂のモザイクが「多彩」な点も中世と異なる。 

大聖堂建設・完工に伴い、16世紀末に設けられた大聖堂建物管理局は、早い段階で、壁面は原則としてモザイクで飾るという方針を打ち立てた。そのような思い切った決断をしたのは、フレスコや油彩画が湿気に弱いのに対し、モザイクにはその心配がないからで、新方針のもと、既にフレスコ、油彩画で飾られた壁面も徐々にモザイクで置き換えられた。この結果、大聖堂は、やがて1万平米を優に超える壁面がモザイクで飾られるようになった。 

 

 いつの世男も女に囲まれると嬉しいらしい。ご満悦だ。

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11/3

 

ガマルタ⇒カルタゴ

 

   いよいよ今回の旅のハイライト、カルタゴ(世界遺産・そのF)に到着。でも、旅の疲れがすっかり蓄積しぐったり。旅の旅程の最初に入れて欲しかった。

 

第一次ポエニ戦役(264年〜前241)

第二次ポエニ戦役(218年〜前201)

第三次ポエニ戦役(149年〜前146)

 

ポエニ戦役の経過期間は百年を超え、優に四世代にも亘る息の長い戦争だ。日米間の太平洋戦争が4年弱で決着したのとは桁違いだ。この両者の戦争を続ける根気には驚愕するばかり。人類の戦争は大局的に見れば、兵器の進歩の影響もあり、決着までの時間は短縮されるばかりだ。

 

ふと、脳裏をよぎったのは『奥の細道の一節だ』。

 

   三代の栄耀一睡の中にして、大門の跡は一里こなたに有。秀衡が跡は田野に成て、金鶏山のみ形を残す。先、高館にのぼれば、北上川南部より流るゝ大河也。衣川は、和泉が城をめぐりて、高館の下にて大河に落入。泰衡等が旧跡は、衣が関を隔て、南部口をさし堅め、夷をふせぐとみえたり。偖も義臣すぐつて此城にこもり、功名一時の叢となる。国破れて山河あり、城春にして草青みたりと、笠打敷て、時のうつるまで泪を落し侍りぬ。


 夏草や兵どもが夢の跡


 卯の花に兼房みゆる白毛かな 曽良

   兼て耳驚したる二堂開帳す。経堂は三将の像をのこし、光堂は三代の棺を納め、三尊の仏を安置す。七宝散うせて、珠の扉風にやぶれ、金の柱霜雪に朽て、既頽廃空虚の叢と成べきを、四面新に囲て、甍を覆て雨風を凌。暫時千歳の記念とはなれり。

 五月雨の降のこしてや光堂

 

   ローマは恨み骨髄に達したのか、カルタゴに塩を蒔いて不毛の地にしたとの言い伝え(私には作り話に思えるが・・・)がある。でも、カルタゴの地はローマ帝国によって100年後に復興され、ローマ帝国ではローマ・アレクサンドリアに次ぐ大都市となったそうだ。

   

   美しく塗装された町並み。清掃も行き届いている。さすがは観光都市。

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我が右目は『眼瞼下垂』なのかもしれない。視界に異常は感じられなかったが、写真を見て疑問になった。日頃は毎朝の髭剃りで顔を覗くだけ。今まで気がつかなかった。

 

今日の巨大なコンテナ港とは異なるが、丘の上からの市街や港の眺望も観光資源の一つのようだ。

 

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   遺跡の無数の破片が集められていた。

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   アントニヌスの共同浴場。更衣室・温浴風呂・水風呂・サウナ・プール・噴水・談話室・トイレなど100を超える部屋があったとか。今日各地に乱立しているスーパー銭湯よりも遥かに立派だ。その耐久性に至っては月と鼈(すっぽん)。これらの設備の維持・管理は奴隷の仕事だったのだろうか??

 

 

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   カタール空港で合流した今回の添乗員。結婚もせずに頑張っているのは、海外旅行がよほど好きなのだろうか?

 

 

 

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   同行者の中のピカイチ美人。

 

『目の周りに毛虫のような部品をつけて飾るなんて、クレオパトラのような美人ですね』と言ったら

『眉毛には付け毛は貼り付けずに、ペンキを塗るだけですよ』と教えてくれた。荊妻は顔面装飾にはさして関心がないらしく、我が勉強不足だった。

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   奇妙な木を発見。葉はそら豆のように全て上に向かっていた。老人の持ち物は重力に抵抗する力もなく、素直に垂れ下がっているのとは対照的だ。強い生命力を感じた。

 

 

 

 

 

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   観光地でしばしば見かける写真撮影用の頭部のない置物だ。大昔の彫刻が活用されていた。

 

 

 

 

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   カルタゴの中心部の神殿などが復元・展示されていた。当時の繁栄が忍ばれる。

 

 

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  相部屋で同室になった仲間。彼は女性を楽しませる特異な才能の持ち主。私にはとても真似ができない技だ。氏のおかげで何人かの老婆とも話が弾んだ。感謝。

 

   写真を眺めると彼の生き生きとした若さとは対照的に、すっかり旅で草臥れ果てた我が表情が情けない。

 

 

 

チュニス発 15:00 QR1400 ⇒ 22:10 ドーハ着(所要時間 5時間10)

 

昼食は離陸2時間後、遅めの機内食。でも、疲れてくると食欲も湧かない。ほんの少しだけ摘み食い。

 

 

 

11/4

   ドーハ発 01:45 QR802⇒ 17:00 関空着(所要時間 9時間15)

 

   この日は移動だけだが、国際線の到着予定時刻は変更になることもあり、南海電車や近鉄特急の予約は取らず成り行き任せだった。

 

   定刻に関空に到着。荊妻はこの日は旅行中。難波駅構内で夕食用の握り寿司弁当を調達。近鉄名古屋駅からは地下鉄⇒名鉄豊田新線と乗り継いで名鉄豊田市駅に23:45頃到着。タクシーで帰宅したが我が家の玄関は2階。ドライバーにお願いしてカバンを2階まで持ち上げていただいた。感謝。

 

   やっと我がお気に入りの、鋳物ホーロー製風呂にて旅の疲れを流し、大好きなサントリーのプレミアム・モルツを2缶ガブ飲みしたら、たちまち酔いが回り爆睡。

 

おわりに

 

@ 今後の計画

 

   101ヶ国の目標に到達したら、友人や知人から『今後の海外旅行計画は?』と矢継ぎ早の質問を受けた。我がゴルフ仲間には150ヶ国を目標にしている者もいるが、がんで闘病中の私には時間とお金が無限にあっても、そのような発想は生まれない。関心のない国に出かけるよりも、埴生の宿でビールを飲みながら、世界の珍味を少しだけ食べて昼寝をするほうがリラックスもできて楽しいからだ。

 

   とは言え、行きたい国が若干だがまだ残っている。体が動ける余生は後五年。春秋の2回に旅行すると最大でも10ヶ国だが、除夜の鐘とか加齢とともに消滅した煩悩に合わせて108ヶ国を目標にしたい。最初に行きたいのはアケメネス朝ペルシアの遺跡、ペルセポリスだ。

 

   2001911日に発生した New York のテロ直前には、イランのビザも取得し旅行の準備も完了していたのに、旅行社は安全のために急遽催行を取りやめた。振り込んだ旅費は返還されたが、僅かな金額とは言えビザ代とその取得手数料は丸損だった。

 

   イラン周辺では当分政治情勢は不安定のままだが、がんと闘いつつ生き延びている私には待ちきれない。旅行催行各社から毎月のように送られてくる旅行企画案内を検討中だ。

 

   ペルシア旅行のもう一つの楽しみは現地でのペルシア絨毯の購入。今までにも天津(中国)・ベトナムやエジプトの分厚い絨毯・パキスタンの絹と純毛の糸を使い分けた絨毯(薄くて1畳大⇒冬期の玄関マットに)・中央アジアの手織りの薄い絨毯(客間のカリン材製座卓のテーブルクロスに)・ペルーのアルパカの毛皮をパッチワークのように縫い合わせ、雄大な姿で飛翔しているコンドルを描いた2畳大の絨毯・ニュージーランドの羊8頭分の純白の毛皮を縫い合わせたムートンの絨毯・ヘレケ(トルコ)の絹の手織りの絨毯などを買い求めたものの、残念ながらペルシア絨毯を買う機会は未だ無く・・・。

 

   もちろん、デパートでいつでもペルシア絨毯を買うことはできるが、私は旅の記念としてその国のバザールで値引きの駆け引きも楽しみながら買いたいのだ。中でもペルシア絨毯はヘレケのトルコ絨毯と世界一を競い合う品質を誇っているから尚更買いたいのだ。両者の高級品は共に絨毯とは言うものの、床に敷くもの(足の裏が腫れるぞと脅された)ではなく、タペストリーとして壁に飾るものである。予算は僅か20万円程度だが・・・。

 

   欧州の先進各国への関心は数年前にすっかり失った。世界遺産のかなりの部分は単なる古さを自慢しているだけの修道院や名前だけが大げさな大聖堂。キリスト教国関係者の我田引水じみたお手盛り登録が多く、見れば見るほど宗教界に搾取された庶民の苦しみが連想されて、不愉快になるだけだ。

 

かつては我が憧れの国々だったが、一見豊かそうに感じられる生活水準も外面(そとづら)だけ。衣食住を多面的に知るに連れて、その実質的な貧困さに気づいたからでもある。歴史的には国民の僅か2%しかいない貴族と富裕層に富と所得は集中。大勢の国民はその日暮らしのまま。

 

今や中東各国のイスラーム文化圏の遺跡にも関心がなくなりかけた。遺跡が余りにも似通って、期待外れでがっかりするのも一因だ。飲食の習慣(禁酒・豚肉禁止)は異教徒には強制こそされないが青春時代の禁欲に似て、短期間とはいえ我慢させられるのも辛い。

 

残っているのはパプアニューギニアなど、最後の秘境社会(観光客用に祭りの踊りなどが再現されているだけ、とは承知しているが・・・)と、体力が衰えた時に出かける予定で後回しにしていた時差の小さい近隣諸国、例えばインドシナ半島周辺の仏教やヒンドゥー教の遺跡巡りだ。カンボジア・ラオス・ミャンマー・インドネシア(ボロブドールやバリ島)

 

その他、宗教の支配力が未だに強いブータンやネパールなど、物質的には明らかに貧困なのに、敬虔な人々が幸せそうに生きている実情を目の当たりにしたいとの願いも大きい。

 

A 仙人生活に突進

 

   長年に亘る海外旅行の目標も達成し、ほっと一息付いた今、余生の過ごし方や楽しみ方を大きく変え始めた。断捨離の強化(本質的には死ぬ準備と同じ)と快適な仙人生活での創意工夫だ。

 

@ 江戸時代の生活

 

  鉄道やバスなどの交通機関のなかった江戸時代の庶民の生活圏は5km以内と推定。我が幼児期や小学生時代と同じだ。外泊は母に連れられて徒歩で出かけた親戚巡り(国民学校に入学したら、出かけられないからねと言われて。当時我が懐かしの郷里福岡県遠賀郡遠賀村に幼稚園はなかった)

 

福岡県外に出かけたのは小学校4年が終わった春休み(昭和243)に、父に連れられての日帰り秋芳洞(山口県)と修学旅行に出かけた別府温泉(大分県)の一泊旅行だけだ。外の世界は知らぬが仏、それでも私はブータンの人と同じように幸せだった。

 

   今や、我が生活圏は江戸時代並の狭さに舞い戻ったが、日々の仙人生活には超満足している。過去半世紀の間に、森進一の襟裳岬の歌詞のように何にもなかった我が生活圏豊田市も、トヨタ自動車の成長とともに快適な環境に進化発展し、ひとり暮らしでも何一つ不自由しなくなった。松尾芭蕉の『秋深き、隣は何をする人ぞ』そのものだ。近所付き合いは絶無。

 

 元禄7928日作、51歳。この夜は芭蕉最後の俳席が畦止(けいし)亭で開かれた。翌29日も、芝柏亭に場所を移して同様の俳筵が巻かれることになっていた。しかし芭蕉は体調悪く、参加できないと考えてこの句を芝柏亭に書き送った。芭蕉が起きて創作した最後の作品であり、29日から死の1012日までついに芭蕉は起きなかった。芭蕉絶唱の最高の秀句の一つである。

 

A 楽しきかな、自給自足

 

   狭隘な敷地でも工夫をすればミニ楽園に変えられる。敷地の一角の僅か20坪は豊田市固定資産課に申請して宅地内農地として分筆登記。固定資産税が1%下がった⇒ビール大瓶1本分だが、気持ちの上では100本分・・・。完熟牛糞堆肥・苦土石灰・培養土を毎年大量に投入したら立派な黒土の畑に変わった。年間50種を超える春・夏野菜や秋・冬野菜の種蒔きや移植。老人と老婆の二人暮らしでは食べきれない。

 

   中でもお気に入りは自然薯の『むかご』だ。地下の根を掘るために大きくて重たい専用の道具(耳垢取りを巨大化したような鉄製の棒を2本組み合わせた最新型)を購入し、当初は二時間も掛けながらたった一本の自然薯を折らずに掘り出していたが、体力の衰退とともに諦めた。

 

山で手掘りした本物の1m大の自然薯が一本5,000円もする理由も理解できた。さりとてパイプ栽培(見せかけの姿は似ていても、構成成分は違っている筈と独断)の安物自然薯(2,000)は食べたくもない。今では方針を変更し、むかご採りに専念。一本の自然薯の蔓から何回でも収穫すると優に5Kg(累積重量は根よりも重くなる)に達する⇒冷凍保管。中でもむかご飯は大好物だ。

 

芝生を植えた庭の周辺には目隠し用の貝塚伊吹以外に、ブルーベリー・甘夏・柚・カボス・桑(マルベリー)・アケビ・ムベ・キュウイフルーツ・グミ・温州みかん・金柑・イチジク・木苺・ユスラウメ⇒ピンクのユスラウメ酒・柿・蕗・ツワブキ⇒キャラ蕗・タラの芽(天麩羅にはせずサラダで喫食)・山ウド・・・。

 

山菜の女王と言われて久しい『コシアブラ』の苗を通販で購入し、3回も移植に挑戦したが全て失敗。残念無念。しかし、タラの芽は竹と同じように根が横に一直線に伸び、次々と筍のように新しい木が育ってくるので超満足し、コシアブラの失敗を補ってくれた。

 

実は小さくてもブルーベリーだって、たったの一本から累積10kgも収穫できるから冷凍保存。ムベも200個以上も収穫できる。ムベを知らない人もいたからびっくり。珍しいからお土産には最適だ。

 

しかし、木々の剪定作業は大変。梯子からの転落事故を恐れて、シルバーセンターのお爺さんたちに毎年一月に依頼。時給僅か1,155(加算された5%55円は事務経費)で働いてくれるから、細々と生きている年金生活者には天祐神助(てんゆうしんじょ)だ。剪定後には400kgのゴミが発生するが、シルバーのお爺さん達は軽四輪トラックを持っており、豊田市指定の焼却場まで運んでくれるのも助かる。

 

   農作業などの肉体労働を癒すのはテラスに作った露天風呂。冬場の快晴の日は最高。少し熱めの43(一時間後は41℃まで自然に下がる)にし、一時間のんびり過ごすと体中から老廃物が汗とともに吐き出される。微風が体に当たる時の爽やかさは言語では表せない快適さだ。

 

風呂上がりには庭の椅子にフルチン(全裸の意)で座り、火照った裸体を冷やしながら、花壇の花や鬱蒼と茂る野菜を眺めつつビールを賞味すると、これぞ正しく極楽浄土か天国かと思えるのだ。快適な余生を満喫するのにお金は不要だ。

 

   温泉は世界中にあるが、男女ともに全裸で入れるのは日本だけ(最近は韓・台などにも普及し始めたが少数派)。海外では水着の着用を義務付けられる(混浴とは言え私は、太った中古品の熟女や皺だらけの老婆の裸体などは見たくもない)。でも、動物界は全てフルチンの世界。もっともリラックスできるのは母胎の中での胎児と同じフルチンと断定。

 

日本の温泉旅館の大浴場や露天風呂にフルチン禁止令(徳川将軍ならばいさ知らず、現代の総理大臣の権限程度では不可能と断定しているが・・・)が発布されると一気に客が減り、観光ホテルの倒産は確実と私は予想している。

 

B 古希を超えてからの余生

 

   あちこちの家庭で発生している老人・老婆の二人暮らしに波風が立つ理由に気づいた。専業主婦は子育てが終わると、昼間の八時間が完全なる自由時間になる。自宅で同居しているだけの居候の様な老人に、まともな昼食を用意するのが面倒になるらしい。

 

   トヨタ同期の知人は奥様に在宅率を管理され始めた。昼間は外出してボランティア活動をするようになったそうだ。大学後輩の一人は、奥様との約束で昼食は全部外食にした。予算は1,000円。豊田市内の100もの飲食店を廻り、お気に入りの店をいくつも見つけたそうだ。ところが奥様が最近、私も外食がしたいと言ってくっついて来るようになり、昼食費が二倍になったとぼやく・・・。

 

   私は荊妻不在の日は外食にすべく、回転寿司のスシロー・丸亀製麺の釜揚げ讃岐うどん・リンガーハットの長崎チャンポン・セブンイレブンのおでんがお気入りになった。食が細い私は1食500円程度だ。しかし、お気に入りのラーメンが見つからない。豚骨とか鶏ガラスープのラーメンは肉屋の廃棄物処理品だ。気分が悪くなる。それに麺と言いながら、うどん(稲庭うどんや讃岐うどん)や蕎麦(香りが命・朝挽き⇒十割蕎麦)のような美味しい麺の技術開発もロクスッポしていない。

 

   雨降りには外出が億劫だ。しかし、宅配食が豊田市でも今や普及開始。少食の私には品数の少なさと一食単位の注文でも受け付けて、手渡ししてくれるセブンイレブンを選択。人気抜群のワタミは日配とは言え最低五日分からの一括注文だから敬遠。必要なものを必要な時に必要なだけ配達してくれる『トヨタ生産方式』そのもののセブンイレブンは、正しく我がお気に入りだ。

C 飲食管理

 

   高齢化社会の影響か、マスコミには健康食品と称する各種のサプリメントの広告が溢れているが、私は一度も口にしたことがない。全ての食材は体内で消化され、消化器官から吸収され人体に必須な物質へと再合成される。猿の網膜を食べても、黒内障が治るわけがない。サプリメントに価値があるならば、その原料を直接食べれば加工費分だけは安上がりだ。

 

酒は百薬の長。がんにかかる前は毎日ビールの大瓶を3本飲んでいた(帰宅するや否やお茶代わりに一本、入浴後に一本、寝る前に一本。でも、遺伝子検査(31,500)をしたら酒には弱いが飲んでいる内に少し強くなるMNタイプと判明⇒このタイプが食道がんに最も罹り易いと知ったが後の祭り)。主治医からは禁酒を勧められたが、貴重なアドバイスとは理解しつつも拒否。自己判断の適量(大瓶は中止⇒上限は朝昼夕の缶ビール各1)を飲み続けている。

 

   胃がんの手術で胃の2/3を切除した私は三度の食事だけでは栄養不足。毎日1,2度はタンパク質中心の間食を心がけて来た。その結果だろうか、コレステロールが増加した。がんのサードオピニオンの医師と相談⇒医師は院内の内科医と相談。薬(リバロ)を飲んだらコレステロールは正常化。間食を止めるか、止めずに薬を飲むかの選択を迫られたが、私はどうせ限られた命、薬を死ぬまで飲み続けることにした。

 

D がんとの闘い

 

   平成141219日に胃がんの手術をして以来、丁度11年経過。その間に5回入院治療したが、最後の手術(平成20618日、食道がんの摘出)から5年半経過。あと4年半は今までと同様3ヵ月間隔で愛知県がんセンターにて各種検査を続行予定。同じ資料でセカンドオピニオン⇒サードオピニオンの名医にも診断を仰いでいる。

 

   今春は兵庫県立粒子線医療センター長のセカンドオピニオンの医師(元主治医・愛知県がんセンター副院長)から拙宅まで電話による指示。『毎年一回PETを受けるように』とのアドバイス。PETは過去10回も受けたが一度も私のがんの発見はできなかった。しかし、ダメ元で受けた。鳴り物入りで喧伝されたPETにも弱点があると判明。従来法と参考までに併用するだけだ。

 

更に今春には『脳腫瘍・脳梗塞・動脈瘤・脳萎縮の疑いがある。がんの疑いが濃厚』と言い張って、主治医を通じて15年振りに脳ドックを受けた(主治医からの依頼ならば、自己負担は三割に軽減される)が、読影医師に『棚落ちもしていない高級スイカ並み。何の異常もない』と自信たっぷりに言われて気合抜け。

 

E 埴生の宿も我が宿

 

   我が家は昭和49127日に新築入居以来39年経過。100年の耐久性を目標にし、装重量450トンの現場打ち鉄筋コンクリート三階建・全館冷暖房を自慢していたが、徐々に綻びが目立ち始めた。

 

11年前に思い切ってリフォーム。水回りの機器(風呂・キッチンセット・洗面台・トイレ)は更新、内装も更新、薄汚れてきた外壁は防水塗装。エアコンの性能も向上したので、セントラル冷房用のクーリングタワー・チラー(冷水製造機)・冷却水循環ポンプは撤去。都市ガスは契約解除。給湯(小型ボイラー)とセントラル暖房(大型ボイラー)以外は安全を期してすべて電化し、80Aの契約に変更。

 

   10年一昔とはよく言ったものだ。今夏から少しずつミニ・リフォームを開始。

 

網戸・・・戸車が摩耗して開閉がぎこちなくなった。アルミの枠も一緒に更新したら動きもスムーズになった。

 

ガラス窓・・・障子を撤去し、真空ペアガラスを嵌め込んだ樹脂被覆製サッシに変更。防音・断熱性能が格段に良くなった。超寒がり屋の私には30℃の温室生活には超満足。

 

壁の亀裂・・・外壁の数ヶ所にひび割れを発見。放置すれば雨水が浸透し鉄筋が錆びると予想し、防水工事を実施。職人は周辺の壁との色合わせ(カラーマッチング)が難しいとブツブツ。

 

鉄製手すりの塗装・・・10年置きに再塗装してきた。塗膜が部分的に剥がれ始めた。全長61.5mを再塗装。7社から相見積もりを取ったら、税込で何と89,000653,835円までバラついた。工事内容も大同小異、耐久性は何れも10年程度なのに。

 

墓や花壇造成など色んなミニ工事を計画した時の見積もりのバラツキは23倍程度だったが、今回の結果には驚いた。納得性のある見積に出会うまでは見積依頼先を追加するのが我が常套手段。一見の客・素人の客から暴利を貪りたがる輩が多すぎる。これが日本の悲しい現実だ。

 

玄関のドア・・・周辺の新築住宅のドアと比べると見劣りすると荊妻がブツブツ。最新型に取り替えた。LIXIL(旧社名はトステム)のカタログから選んだドアを指定し、6社から相見積もりを取り寄せたら、税込で300,000514,584円までバラついた。

 

   露天風呂から眺めた晩秋からの芝生は枯れ果てて美観がない。半信半疑で洋芝の種を二年前に1kg蒔いたが発芽率が低くて失敗。再度1kg蒔いたら、今年は雨が多かったためか青々と茂ってきた。しかし、一部不満なところもあり再々挑戦の予定。今後は一年中、毎週一回(冬季の回数は半減)の芝刈りが必須のようだ。でも、イタリア製二馬力の電気芝刈り機は快調(後片付けを入れても30分で完了)なので苦にはならない。

 

   ベランダに農機具が散乱して見苦しい。我がテニス友達は大工に頼んで100万円の農機具小屋を作ったそうだが、私は建物の壁面に農機具を吊るせるアルミ製の簡単な枠を取り付けることにした。鍬・スコップ・備中・杭打ち用の掛矢・レーキ・金属製箒・・・。設計は面倒なので職人に一任。

 

   築39年経過し古くなったと言って改築する必要性は全く感じない。どんなに立派な家を建てても普段の手入れを怠れば住みにくくなるものだ。在宅時間が長くなった今、私は家内外の粗(あら)探しを楽しみながらミニ・リフォームを続ける予定だ。そうすればするほど、家にも愛着が湧いてくる。子育てと同じだ。


F さらば、晴耕雨読

 

   『晴耕雨読』が引退後の人生の最高の生き方のように、大昔から喧伝されているが、私にはその真似をする気は全く起きない。わが余生には新聞・雑誌・書籍を読むニーズがない。無理に読んでも共感することが少なく、人生の浪費に感じるだけだ。新聞は付録のチラシ欲しさから朝日の朝刊だけ。土・日のみ日経の朝刊を購読。投資信託や株式などの統計データを見るためだ。

 

   新聞記事は各新聞社のホームページに出ているタイトルを読むだけで中身は連想できるし、週刊誌は新聞下欄の広告に記載されている目次のタイトルを見るだけだ。記事を読むのは時間の無駄と判断している(マスコミ関係者の知識レベルの低さと洞察力の無さに辟易しているのも一因)。こんな生活でも何一つ困ることはない。

 

   雨読の代わりはテレビの録画再生視聴だ。平均すれば毎日20タイトル録画し、二時間で視聴完了。映像番組中心なので5〜10倍速・無声で視聴。ドラマや音楽番組は実時間(11.3倍速)での視聴を迫られるので拒否。中身に関心があるときのみ、世界ふしぎ発見・笑点・NHKや日経スベシヤルなどを見る程度に留めている。夫婦間のチャンネル争いは無駄。荊妻は別室で自分のテレビを見ている。

 

G 断捨離の徹底⇒そのゴールは死ぬ準備

 

   今年私は数えの77歳。でも古稀から日も浅く喜寿のお祝いをする気持ちは起きない。がんの再発・新発もなく3年後の傘寿まで幸運にも生きていたら、子・孫も豪華ホテル(第一候補は和倉温泉の加賀屋)に呼んで、古希のお祝いと同額の100万円の予算で我が人生を祝福したい。使い残した予算は古希の時と同じように荊妻・子・孫のお小遣いにばら撒く予定。

 

   そのためにも断捨離は何としてでも後三年間で完了予定だ。

 

断捨離(だんしゃり)とは、不要なモノなどの数を減らし、生活や人生に調和をもたらそうとする生活術や処世術のこと。

概要[編集]

基本的にはヨガの行法、「断行(だんぎょう)」、「捨行(しゃぎょう)」、「離行(りぎょう)」という考え方を応用して、人生日常生活に不要なモノを断つ、また捨てることで、モノへの執着から解放され、身軽で快適な人生を手に入れようという考え方、生き方、処世術である。単なる「片づけ」や「整理整頓」とは一線を引くという。

断=入ってくる要らない物を断つ

捨=家にずっとある要らない物を捨てる

離=物への執着から離れる

やましたひでこの著書が発表されて話題になり、この考え方が人々に広く知られるようになった。

やましたひでこの著書群の説明によると、おおむね次のようなものである。日本では伝統的に「もったいない」という観念・考え方があるが、(これはこれでひとつの考え方・価値観ではあるが)この考え方が行きすぎると、物を捨てることができなくなり、やがて、すでに使わなくなったモノ、将来も使うはずがないモノなどが、家・部屋の中に次第に増えてゆき、やがては自分が快適に居るための空間までが圧迫され、狭くなり、また人は膨大なモノを扱うのに日々 膨大な時間や気力を奪われるようになってしまい、知らず知らずのうちに大きな重荷となっていて、心身の健康を害するほどになってしまう。断捨離は、こうした「もったいない」の観念(固定観念思い込み)にとりつかれて凝り固まってしまった心を、ヨガの行法を応用して解きほぐし、知らずに自分自身で作り出してしまっている重荷からの開放を図り、快適な生活・人生をとりもどすための方法である。

やましたひでこの著書の後、様々な著者によって、断捨離の考え方を扱った本が出版されるようになった。さらに自分と物との関係だけでなく、仕事のすすめかた[1]、人との関係(人間関係)にも断捨離を実践することをすすめる書物[2][3]なども出版されるようになった。この流れを受けて、著者のやましたは、「断捨離」という言葉を商標登録している。

「断・捨・離」は2010年の流行語にも選ばれた。近年では断捨離を実践する人を「断捨離アン[4]」「ダンシャリアン」などと呼ぶことがある。 [ 1]

 

   断捨離は2010年には流行語にもなった簡潔な言葉だが、昔から多くの人が実践していた人生の指針の一つだ。

 

書籍の処分・・・15年前の定年退職時(1998)に厚さ50m分の本を破棄した。爾来なんの支障も感じなかった。印刷技術の発達により必要になればいつでも本は安く買える時代だ。残りの本も全部処分する予定だ。

 

名刺の処分・・・業務上出会った方々の名刺も不要と判断し、厚さ1mにも達していた名刺を全部処分した。もちろん何の支障も発生しなかった。

 

夜具の処分・・・1998年秋に次女が結婚。老人と老婆の二人暮らしに戻った。押し入れの大部分は来客用の夜具が占めていたが、子・孫の来宅宿泊用にと一家族分の夜具を残して残りは破棄した。

 

電化製品の破棄・・・いつの間にか使わなくなった電化製品が蓄積された。大きな倉庫(棚面積延べ24)を作ったのが失敗の元。2013年夏、外国人業者から電化製品は無料で引き取るとのチラシを貰った。綺麗さっぱり一掃できた。彼らは輸出するらしい。

 

衣類の破棄・・・ネクタイを締めて正装する機会は年に数回以下になった。背広(夏・合・冬)・ジャケット(春・夏・秋、冬用は革ジャン)・礼服(夏・冬)・コート()とモーニングを残して、残りは処分。タンスやクローゼットが大変使い易くなった。がん寛解後に体重を4kg増量したが衣類は伸縮性に富んでいるのか、何の支障もなかった。

 

今後、新調する予定は全くない。唯一の不満は、松坂屋でオーダーした3万円/着のシャツのボタンが嵌めにくくなったことだ。首周りが1cmも大きくなるとは予想外だった。私は皿尻が少しは膨らむ筈と期待していたのに!

 

災害対策・・・行政はマスコミを介して災害時の非常食の準備を勧めているが、私は全く準備する気がない。関西淡路や東日本大地震の死者は圧死・焼死・溺死であり、餓死者はいない。唯一の心配は断水だが、私はビールで十分。海外旅行中、生水が危険な国ではビールを飲んだ。ビールは加熱処理されており最も安全な飲料だ。

 

交友関係の縮小・・・小・中・高・大学・トヨタ同期・社内の各種グループ合計15の懇親会や忘年会などは全て、数年前から欠席している。残しているのはテニス・ゴルフ(ロイヤルと加茂の二つ)・温泉旅行仲間。合計四つ。今年の年賀状は15(人生でお世話になった、パソコンも使わない超高齢者)

 

   私はトヨタ自動車に入社して定年退職するまで、無数の上司(係長〜副社長まで)から君付けで名前を呼ばれた記憶がない。業務の上で名前を呼ぶニーズも不思議に感じるほどないのだ。でも、馬鹿丸出しを自認している私よりも、下には下がいるものだ。私に向かって君付けで話しかけたり、メールで『・・・よろしく』と書く輩だ。目線を高くしたがる馬鹿な輩とは一切付き合わない。交友関係は相互に尊敬し会える仲間に限っている。

 

   それにしても日本人の敬語の使い方能力の低さには驚愕(英語にだって敬語による品位ある表現の習慣があるのに、使えない馬鹿はうようよ)。社員が社長に報告書で『・・・よろしく』と書くはずがないし、総理が天皇陛下に『・・・よろしく』と言うはずがない。この場合にはどんな馬鹿でも無礼と気づくのに、私へのメールには『・・・よろしく』と平気で書くのは究極の馬鹿の典型例だ。

 

食材の選択・・・缶詰・熱処理をしているインスタント加工食品は一切食べない。これらに共通する欠点は高温加熱時に発生する異臭だ。食べ物の美味しさには味覚センサーで測定できる食味の他に香りがあるが、熱処理加工食品には異臭はあっても香りがない。ワイン・ウイスキー・ブランデー・純米大吟醸酒も香りが命だ。

 

世界的に普及しているインスタント・ラーメンは最も嫌いな食べ物だ。宮内庁大膳課の専任コックが天皇陛下に提供している筈がない。

 

   私は素材に何が含まれているか分からないハンバーグ・ギョーザ・魚肉ソーセージは一切食べない。我が酒の摘みの主力食品は単品素材だ。

 

刺身・牛のヒレ肉(メキシコ産の安価な1kgのブロック⇒5cm厚に切ってステーキに)・生ハム(スペインやイタリア産)・チーズ(欧州産)・馬刺し(カナダ産)・紅鮭(ロシア産。1月に専用装置を使い、自分で1年分を1週間かけてスモーク)・果物や家庭菜園の野菜だ。複合素材で唯一食べるのは欧州産のサラミソーセージだけだ。それだけに松坂屋豊田店での18:00に開始される刺身の半額セールの争奪戦に挑戦するのは生き甲斐の一つだ。

 

   賢人各位の余生の生き方と対比しながらの、辛辣な批判をも含む読後感を拝受するのが旅行記を書いた後の何よりの楽しみだ。

 

読後感

1週間ほどの旅行に80数ページの旅行記を執筆されるとは!記憶力と博識に敬意を表します。

1.サフランをお土産に頂戴し、感激しました。小さな雌しべを指先で摘み、乾燥して作るのですから人手のほどは想像を絶します。日本では高価に違いありません。

サフランティーにして飲みました。味覚嗅覚が衰えている私にはコーヒーや紅茶ほどのパンチはありませんでしたが、とにかくきれい!桜茶と比べ物になりません。
家内は混ぜご飯に入れるとどうかなと云っていました。

2.[日本人は仲間同志にはそれなりの付き合いをするが、団体旅行で知り合った程度の仲間や増して外国人には何かのついでに奢る人は少ない」とのご指摘に、全く同感。私もその通りです。日本は外国からの観光客を増やしたいとしているが、少なからぬハンディーになりますね。

3.「日本人の旅のスタイルが変わった。小学生のようにリュックを背負っている」とのお話に、私も当初 違和感を覚えました。

昔は、余所行きスタイルで浮き浮きした雰囲気があったが、最近はリュックに脚絆こそ巻いていないが、山菜取りにでも行く感じ。

しかし、我ながら慣れてしまえば他からなんと思われようとこのほうが楽だ。社会のためには余所眼も必要と思うが。

4.石松さんの旅行記は世界地図を片手にして読みます。今回は私所有の地図に載っていない都市名が多かった。

「ケロアン」もその一つ。ところが「カイルワン」の横にkairouanの添え字・・・これだ!かたかなの表示が無いほうが見つけやすかったのに!

5.石松さんの娘さんが「海はバッチイ」と。

私の生れは富山県で、岐阜県寄りの山の麓の町です。小学校低学年の時(第2次世界大戦開戦直後)初めて海水浴に連れて行ってもらいました。

城端線から高岡で氷見線に乗り換え伏木を過ぎ雨晴らしに近づいた頃、満員列車の窓から海が見えた。ワーと歓声が上がった。
「海は広いな大きいな、月が昇るし日が沈む」から想像していた海は、ほんとに大きいしこんなにきれいとは!絶句。