「働かないアリに意義がある」

「反応閾値」はエレガントなコンセプトだ


 今日もスーパーへ買い物に行って、孫がふかしいもが好きだというが面倒なので、干しいもを買おうと思ってみると、「茨城産389円」「中国産有機栽培189円」とある。今年の3月前なら文句なしに茨城産を手にしたのだが、今日は「放射能か、化学肥料か」と一瞬天秤に掛けて、「中国産有機栽培189円」を手にした。食品に含まれる放射性物質の現状での規制は??なのだ。

 多分こうしたのを”根拠のない風評被害”というのだろうが、まさにこれこそ次の本に出てくる「反応閾値」が国産と言うより原発放射能に随分と低くなり(敏感になる)、相対的に中国産が高く(鈍感に)なってしまった訳だ。これは論理ではなく感情の問題なのだから仕方ない。

  「7割は休んでいて、1割は一生働かない」等という「働かないアリに意義がある」(メディアファクトリー新書) [新書] 長谷川 英祐 (著) の宣伝文句を見ていると、自分の事かしら?と、前々から気になっていたがやっと読み終わった。

 進化生物学の先生が、アリの集団を通して観察した結果をまとめた本で、内容的にはもちろんおもしろいのだが、それよりも彼の科学者としての思考法が、著者曰く、「優れた検証法を用いた研究」を「エレガント」と言うのだそうだが、当にそれだ。ただそれは必ずしも画期的な思考法とか検証法等と言うわけではなく、私的にはすんなり納得できると言うことは、現実の”科学者ムラ”では「働かない働きアリである」著者の思考法、検証法そのものが実は意外と画期的なのかも知れない。と言うのはウイキを見ても検索してもそれらしいことは殆ど当たらないからだ。それともやはりこの分野を「担当する学問分野の遅れ」だけが余りに遅れているのであろうか。

 この本には、各章のまとめが「ポイント」として章末にあるのだが、「終章のポイント」は以下の4つである。

@どのような進化が起こるかの予測は、理想的な集団でしか成立しない。
A理論には必ず前提とする仮説があるので、仮説がなりたたない場合、その理論は役に立たない。
Bまず見つかっていないことを示すのが学者の社会貢献。
C説明できないものはどうしても説明できない。


エレガントさのポイント

 例によってこれを低周波音問題に当てはめてみると、

@の「進化」をひとまず、”次への一過程or変化or結果”等と読み替えてみると、"結果ありきの結論"を出すには、まずは予測の段階で「理想的な集団」を持ってくれば宜しいと言うことで、それは言い換えるまでもなく、結果データとして都合の良いサンプルを多めに集めた母集団を持ってくるとか御用学者で占められた委員会とか、審議会とかで結論を出せば良いと言うことであり、こうしたことはどの場合にも頻繁に行われていることであろう。

Aこそ当に低周波音問題に於ける参照値や聴覚閾値のことで、「聞こえない音は人間の健康に影響しない」と言う現実を無視した”仮説”を前提として成り立っているのであり、現実として、閾値以下、参照値以下で低周波音被害者が出ていると言うより、基本的には、被害者の殆どはそれらの数値以下で出現しているのであるから、それはそもそもが結果としての理論が前提としての仮説を成り立たせることが出来ないわけで、間違っているかどうかと言うようなレベルではなく、その理論そのものが役立たないことは明白である。

Bそして、これこそ「参照値」が果たすべき役目のはずなのだが、それにはAの様な仮説というか前提が先ず以て無理だった訳で、素直に「説明できない」と言ってしまえば良いのだが、それでは”使命”が果たせないことになる。

C環境省の肝いりで現在行われているはずである「大型風車による騒音・低周波音等と健康被害との因果関係」の解明と言うのは「伊豆半島の風力発電に関する有識者会議」の提言であるが、
「大型風車による可聴・不可聴を含めた騒音・低周波音等と健康被害との因果関係が科学的に明らかになったと国等が認めた場合には、速やかに対応するよう指導すること」と言うような事であれば、
「伊豆半島の風力発電に関する有識者会議」のH委員の「環境省としては、まだ人への影響を調べる方法論も確立していない問題であり、4年後ぐらいには何とかしたいと言っているわけですから、国の立場は、事故があっても免責されうる立場ともいえます。
国の方針としてそういう慎重な姿勢が示されているにもかかわらず、その先へジャンプして風力発電施設をつくり稼動し、そのあとで健康被害との因果関係が解明されてしまったら、それは全面的に当事者の責任になるでしょう。現状で先走るのは、とても危険だと思います。
かなり慎重に考えたほうがいい」という発言を見るまでもなく、
もし万が一にも「健康被害との因果関係が解明」されてしまった場合には、
「何故そんなモノをこれまで許可していたのか」とか「何故そんなモノをこれまで放置しておいたのだ」と言う様な事態になることは銘々白日であり、そんな自分にとってアホな話に国が持っていくはずは有り得ない。

 もちろん、国としては、「説明できないものはどうしても説明できない」等と言ってしまえば、楽なのだが、それはそれで常に「科学的に…」を言い張っている手前上そんな”非科学的”なことは口が裂けても言えないわけで、延々と「事故があっても免責されうる立場」、即ち、「健康被害との因果関係は未解明」で”鋭意調査・研究中”の状態を維持し続ける事であろう。

検証方法から見て国にはやる気はない


 私などが言うまでもないが、「国の責任」というのは、最近の「イレッサ訴訟」等を見るまでもなく、一端認めてしまうと「ゴメン」では済まない訳で、とにかく可能な限り延々と逃げまくるしかないわけで、こうしたことは公害の歴史や特に薬害の歴史に顕著である。

 国が本当に低周波音被害を解明しようとする気があるならば、少なくとも「原因から結果」を見ようとするようなこれまでの様な方式は取るべきでない。何故なら、もし容易に原因が解明でき、それを除去できるような方策があるならば、間違いなくこれまでに何らかの手が打たれていたはずなのである。それらが為し得ないばかりか「騒音の低減」と言うことで生み出された「静音化・低騒音化」と言う”新技術”は、多くの低騒音・静音化機器やエコキュートなどによる新たなる低周波音被害を生み出す事となった。これまでのそうした技術をご破算にしてでも、明らかに”採算が取れる”ような新たな革新的な低周波音を撲滅出来るような手法でも見出されない限り、技術的には当面不可能では無かろうか。

 であればこの問題の解明には、少なくともこれまでの見地とは正反対の「結果から原因へ」と言う「苦しむ被害者を救うと言う見地から対処すべきではないか。少なくとも、「数式で表されるものしか理解できない理論体系」を持つ理工学的発想にはない、”「予測不可能」「規則性がない」”と言う事実に耐えられる理論体系を持つ、生物学的、疫学的、医学的発想等が最低限必須であるはずである。

 しかるに、今回に関しても国は現地調査とか音の人間への影響というような疫学的と言えば言えるが、既にこれまでも行ってきているような調査で済ませようとしているわけで、もっと根本的な「低周波の脳に対する生理的な影響・障害の研究」のような、「伊豆半島の風力発電に関する有識者会議」のH委員に依っても指摘されているように、「周波数領域の聴覚を研究している研究者は、日本にはほとんどいない」分野の検討はされていない。

 これ即ち、環境省が検討をしつこく”一任”する分野の「担当する学問分野の遅れ」を一顧だにしないことこそが間違いなく低周波音問題の今日的状況を呈している訳だ。脳、感覚というような人間の最も人間的部分の問題は素人でも、「数式で表されるものしか理解できない理論体系」で思考し、何とか数式を造ることに汲々としている様な分野の人間に出来そうでは無いことくらい解ろうというモノだ、それを敢えてしないのは国には低周波音問題を解明しようとするような意図は明らかに”ない”と言うことである。

 詰まるところ、”一任”された”業界”は、4の考えを”科学者ムラ”で成立させていては彼らとしてはひとまず持ってしても3が全うできないわけで、2を踏みにじり、1的に成立させるわけである。こうした理工的な根本思考法が端無くもバレてしまったのが原発事故後、科学全般に向けられている問題であろう。ま、とは言え、バレなければ何をしても良いというのは其処だけでなく、オリンパスもそうだが、そこにはそれ”俺こそが”がりそれは巨人騒動にも繋がっていくのだが、それを解くのは私の任ではない。

「反応閾値」と言う概念(コンセプト)

 さて話は戻って、著作の中で大いに興味を持ったのは、「反応閾値」と言う概念(コンセプト)なのだが、この著作では、まずは「仕事に対する腰の軽さの個体差」とされ、更にそれは「刺激に対して行動を起こすのに必要な刺激量の限界値」であり、「わかりやすく人間に例えてみましょう。人間にはきれい好きな人とそうでもない人がいて、部屋がどのくらい散らかると掃除を始めるかが個人によって違います。きれい好きな人は「汚れ」に対する反応閾値が低く、散らかっていても平気な人は反応閾値が高いということができます。要するに「個性」と言い換えることもできるでしょう」(p.54)と言うことだ。

 これでハッタと解ったことが有った。写真は妻が新聞を見終わった後だが、私はこうした状態が我慢ならない。毎回「後から見る人のために揃えておけ」というと、一応、その場は揃えるのだが、何も最初のようにビシッと揃えろと言うわけでは無いのだが、それがまたまた適当でバラバラだ。もう何十年も言っているのだが全然治らない。挙げ句に資源ゴミに出す為に運んでいくときにバッグに入れるのだが、その入れ方が全くぐちゃぐちゃだ。タフロープでビシッと縛って有る家の新聞や雑誌を見る度にため息が出る。かといって、自分の資料などはそれなりにきちんと整理してあるのだから、この「反応閾値」と言う考えで行くと、我が家の妻は”新聞とチラシの散らばり”と言うことに関しての「反応閾値」が異常に高いのであろう。

 即ち、「反応閾値」というのは、「刺激」により一つの状況or状況の変化に対する”反応のしやすさ”と言うことで、”「反応閾値」が高い”等というと一聴、何か良いことの様に思いがちだが、はっきり言って”鈍い!鈍感!と言うことである。一方、良く言えば環境や状況の変化に強いとも言えるが、タダ単に感じないので”強い”ようにみえるだけで、変化に対応するわけではないと思うのだが…。

 例によって、これを低周波音被害者に当て嵌めてみると、低周波音被害者は”低周波音に対する反応閾値が極めて低い(敏感)”と言うことであろう。とても小さな”音”でも、それが低周波音であると”感じてしまう”と言うことである。断っておくが、これは聴覚閾値の元となる”聞こえる”ではなく、”感じる”のである。もちろん感じても、普通の音楽の低音のように音程が変化し、それが短時間の継続であれば、それは迫力を増し、気分が良くなると言うなら全然問題はないないのだが、”低周波音問題で問題になる低周波音”は様々な苦しみの状態だけをもたらすから問題なのである。
 さらに問題なのは”低周波音に対する「反応閾値」が異様に低くなる”ことだ。即ち、低周波音が実際にはしていなくてもしているように”感じてしまう”ことさえあるからだ。ここまで行けば明らかに病気のはずなのだが、現在の検査では何の異常も認められることはない。多分脳内を検査すれば解るはずだと思うのだが、”この分野を担当する学問”はそうしたコンセプトは無いのであろう。そこで、”気のせい”と言うことにしてしまうのであろう。そして、その治療法は”(音を)気にしないようにする”と言う何とも前近代的な話である。

 この低周波音被害者の特性を、”「反応閾値」の閾値レベルの低さ”とすれば、この「感じやすさ」はこれまで何度も述べているが、生来のモノ(=「個性」=「特性」)が何らか関係すると私は考える。もちろんこうした考えには親しくしている被害者しか同意はすることはなく、”科学者ムラ”の諸子が同意するような理論ではない。何故なら彼らは原因から結果を見るという思考法で、「予測不可能」「規則性がない」結果をもたらす結果としての”人間の個性”を考察しようというノウハウが有るように考えられないからである。

 こうした低周波音に対する「反応閾値」の低さと言う素養を生来的に持った者が、ある契機で、長期間、定期的に機械的低周波音に曝される状況に置かれ(外因)、”低周波音状況を学習”させられることにより、或る一定の時間経過後or期を殆ど待たずに、低周波音に対する”反応閾値が一段と低くなってしまう”と言うことであると言えよう。これが所謂、低周波音被害における「個人差の大きさ」と言うことになろう。


タバコも花粉症もみんな我が侭

 一部には”そんな我が侭な”、なんて思う人も居ようが、それは当に、多くの病気は個人の我が侭勝手という考えと全く同等の考えで有ることを忘れてはならない。例えば、タバコを吸ってもガンにもならず死なない人もいる訳だが、今やタバコを吸うような人は”人間失格”とでも言うような雰囲気で、「タバコ吸い」は隔離された。それはそれらしい統計(=科学的)に証明されたかららしい。

 一方、花粉症などは飛び散る花粉によりなることは科学的に証明されているのだから、必ずしもそうでないようでもあるが、ならば、花粉を放つモノを全て排除すればいいのだが、残念ながらそれは余りに多すぎるため排除できない。で、多くの人が苦しむわけだが、死にはしない。もし、花粉症で毎年多くの人が死ぬのであれば、今回の被爆地域の外出禁止ようにその時期は人によっては”無花粉室”にでも閉じこもらざるを得ず、世の中は随分変わるであろう。因みに、隣のエコキュートの低周波音でもそれを遮る様な家や部屋を造る事が出来ないわけでもなかろうが、少なくともエコキュート設置より金がかかる事は確かだ。

 人工的な低周波音が存在しなかった大昔に於いては低周波音は自然災害と言うより「自然の大規模な変化」の印であり、低周波音に対する反応閾値の低さと言う能力は、普通の人より多少早く低周波音の微妙な変化を関知することにより、例えば”自然災害”を予知する結果となり”重宝”な存在だってのではなかろうか。だが、しかし、もちろん今日のように人工的低周波音が身近に蔓延する状況では、そうした能力が有効的に活用されることはなく、ただただ低周波音を感じ取る苦しみに苛まれそれを除去(=「掃除」)したくなるだけである。



音に関し最近気になった記事

朝日 天声人語 2011年11月5日(土)

 野球評論家の野村克也さんは現役捕手の頃、ささやき戦術で打者を泣かせた。「もうカーブは投げられん」などの独り言から夜遊びの話題まで、ボソボソと気を散らす。ついには耳栓をして打席に入る選手が出たというから、効いたのだろう▼どのスポーツでも、ここぞという時の「雑音」は集中を乱す。ゴルフでは、せき払いやシャッター音も御法度だ。悩ましいのは対戦種目の場合で、己を奮い立たせる声が相手の迷惑にもなる▼女子テニス界で、サーブやラリーでの絶叫が論議を呼んでいるそうだ。有名どころではシャラポワ(ロシア、世界ランク4位)の「悲鳴」と、アザレンカ(ベラルーシ、同3位)の「遠吠(とおぼ)え」だという▼「意図的だ」と文句をつけたウォズニアッキ(デンマーク、同1位)によると、打球音が消されて球速が読みにくい。トップ選手の異議だけに、女子テニス協会も黙殺できまい。声の大きさは「列車通過時のガード下」に相当する100デシベル前後あり、観衆やテレビ視聴者からも苦情が来るらしい▼シャラポワ対アザレンカの動画を見た。モデル顔負けの両者が「ギャー」「ウー」「ギャー」「ウー」とものすごい。好きずきだが、これはこれで見応えがある▼そのアザレンカは中国での大会で、「ゲーム中は携帯電話を切って」と観戦マナーに苦言を呈していた。音源がコートの内か外かを峻別(しゅんべつ)するようだ。「泣き相撲」のように声の大きい方が勝つわけではなし、雄たけびもプロの個性と楽しみたい。

 野村捕手はウザイ。テニスプレーヤーは我が侭


あのキーキー音、ゾクッとする理由は…

 【ワシントン=山田哲朗】黒板を爪でひっかいたり、発泡スチロールをこすりあわせる音でゾクッとするのは、これらの音の周波数が、人間の耳の敏感な帯域を直撃しているためとする研究結果を、オーストリア・ウィーン大学などの研究者がまとめた。

 米カリフォルニア州サンディエゴで開かれていた音響学会で発表した。

 研究チームは、黒板を爪やチョークでひっかく音を録音。録音から特定の帯域を取り除くなどして被験者に繰り返し聞かせ、不快さの程度を判定してもらった。

 その結果、最も強い不快感を呼びおこすのは、2000〜4000ヘルツの周波数帯であることが分かった。人間の声や音楽にも含まれるが、黒板を爪でひっかく音などが集中する帯域だ。人間の耳の穴はこの帯域を増幅する構造になっているため、特に耳障りに感じるらしい。

 また、不快な音では音の高低の変化も、不快さの原因になった。音源を知らせず、「現代音楽の一部です」と、うその紹介をされた被験者では不快さが減ったことから心理的な影響もあるという。

(2011年11月5日19時56分 読売新聞)


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最後まで読んでくれて有難う


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