透明の風船

「何をしてるんですか?」
 そう尋ねたのは、彼を見付けて4日目のことだった。

 ◆◆◆

 場所は、団地内にあるこじんまりとした公園。狭い道でも車通りが多いための飛び出し防止策なのか、周囲は小学校低学年の平均身長より10センチは高いフェンスで囲まれている。景観のためか端のあちらこちらに低木が植わっており、遊具は滑り台にブランコと誰もが名前と形状を知っている定番のものが設置されている。幼児の声に、見守りながらも世間話に花を咲かせる母親。たまに犬の散歩を楽しむ人や、猫が通り掛ったりもする。
 どこまでも『普通』の光景だった。彼を除いては。
 見掛けた時から、彼は隅にある木陰のベンチに座っていた。最初は、ズボンのポケットから何かを取り出し、口元に持っていくように見えたので、煙草かガムか飴玉だろうと思ったのだ。それが、一向に頭の中に描いたどの動作にも結び付くようなことをしない。右手は口元にあてたまま肩を上下させ、頬を膨らまし、懸命に息を吹き出している。比喩するまでもなく風船を膨らませる所作と見受けられるものの、どこにも風船が見当たらない。
 正直に、変な人だと思った。眉をひそめて家に帰り、母親に怪しい男の行動を話した。彼のことをまくし立てることですっきりしてしまい、最も肝心なことは言えず終いでその日は終わった。
 次に通り掛った時、彼は同じ場所に座り、同じことをしていた。しばらく膨らませる仕草をしていたかと思うと、空気が抜けないよう右手の親指と人差し指を力強く合わせて口元から離す。左手で風船の吹き込み口を伸ばし、回転させて縛る。しっかりと結び目を確認して、足元に転がす。何が嬉しいのか、転がった風船を見、遊ぶ子供達を見て、笑顔を浮かべる。安らかと言うべきか、柔らかと言うべきか、楽しげと言うべきか、何も考えていなさそうだと言うべきか。少なくとも、今の自分にはできない表情だろう。
 無性に、気味が悪いと思った。明らかに様子がおかいし彼にも、存在そのものに気が付いていないかのように振舞う母親達にも。つい窺い見てしまう自分自身にも。表情を強張らせ、家路を急いだ。
 3日目になっても、相変わらず彼はそこにいた。やけに重く感じる鞄を手に提げたまま、つい立ち止まって見入っていると、その容姿が羨ましいほどに整っていることが分かった。柔らかい金糸に、澄んだ青い瞳。高い鼻に、白い肌。ファッション雑誌からそのまま飛び出てきたかのような容姿は、自分から遥か遠い存在にさえ見せた。真っ白いシャツに身を包み、高潔な雰囲気を漂わせている。
 いつの間にか、気になる存在になっていた。不意に顔を上げた彼と目が合い、逃げるように足早にその場を後にした。

 ◆◆◆

 そして、その日の夕方。とうとう我慢できずに、彼の前に立った。日に日に重くなった鞄を持って。
「何をしてるんですか?」
 そう問うと、彼はズボンから見えない何かを取り出して、それに息を吹き込む動作を3回繰り返して、こちらを見上げた。
「……風船?」
 呟くように尋ねると、彼は微笑んだ。その表情は、夕焼け色よりも温かみがある。それを観ると背後に陰を感じて、やけに泣きたくなった。
「見えないじゃ……ないですか」
 搾り出すように言葉にするのが、なんだか惨めだった。目の下の筋肉が、小刻みに震える。不可視の風船は、まるで自分には準備されていない物のようだ。それは黒い部分を支配している鞄の、否、1枚の紙切れと同じものと思える。
 すると、男は小さく首を横に振った。
「違う……?」
 言うと、今度は首を縦に振る。ここにきて初めて、目の前の人は口がきけないのではないかと悟ることができた。自然と、彼の指先一つの動きまでも注意深く観察し、意図を読み取ろうという姿勢になる。
 男が自分を指差す。
「僕?」
 頷いて、次はこちらを指差す。
「私」
 自身の目に人差し指を近付け、そのまま目線を辿るように顔から遠ざける。
「見る?」
 顔の高さで、指を1本立てる。
「いち……1人」
 首を振って否定の仕草をされたので、言い直す。彼は笑顔で頷いた。次いで、離れた場所を指差す。目で追うと、砂場で遊ぶ親子が見えた。手を引かれ、視線を彼の方に戻す。すると、また『見る』の仕草、続けて否定するように手を振った。
「……あの人達には、見えない?あなたを?」
 しばらく考えて出した答えに、相手は満足そうに肯定した。
「どうして?どうして、あの人達には見えないの?」
 半ば興奮気味に尋ねると、彼が指差した箇所に息を呑まねばならなかった。指が示すのは、あの鞄。おそらく彼が本当に示したいのは、外ではなく中身の紙切れのことだろう。それは今、最も後ろめたい気持ちにさせる物だった。
 こちらが何かを言う前に、男は注目しろとでも言うように口元を指先で叩く。言われたままにすると、いつものように風船を取り出して、膨らませ始めた。遠くから眺めていた時と同じように、不可視の風船。それが不思議なことに、膨らんでいく様が手に取るように分かるのだ。
 中の体積が、徐々に増していく。形は丸みを帯び、楕円になる。爆ぜるものかと伸びたゴムの表面が、薄く広がる。そっと持たなければ、という意識が生まれる。
 透明の風船と反比例するかのように、そっと萎んでいくものがあった。最初は彼の手の中のものに意識を集中していたため気が付かなかったが、ある程度時間が経った時に不意に軽くなっていることが分かったのだ。ここ数日の間、心に住み着いていた暗く重い影が霧散していく。
 やがて膨らみきった風船は彼の手を離れ、地を転がった。悩みという玉の行く先を、目で追う。目ではないところで見える黒く丸いものは、数度回転したところで爆ぜ、雨水のように土に染み込んで姿を消してしまった。
 振り返ると、男もまた姿を消していた。日の傾きによって、これまで木陰だったところに光が当たっている。灰色に見えていたベンチも、今では少し赤くは染まっているものの白色になっている。いつの間にかそれだけの時間が経っていた、ということでもあるだろう。気分の違い、ということもあるかもしれない。
「心が軽くなったから、私にも見えなくなったの?」
 今は誰もいないベンチに向かって尋ねる。否、見えないだけで確かにそこにはまだ彼がいる。けして希望でも気のせいでもない。先日、親子に向けていた微笑みを、今はこちらに向けているのだ。
「ありがとう。もう一度、前を向けそう」
 悩みが無になることは、この先も無いだろう。困難にぶつかり、挫けもするだろう。それでも差し伸べる光がある限り、両足で立つことはできるのだと今回の出会いで知った。だから、自分の元にはもう現れないでほしいと思った。多くの人に、透明の風船を膨らませ続けてほしいと願うからだ。
「さよなら。あなたも頑張ってね」
 そう言って、男に背を向ける。とりあえず、帰ったら両親と話をしよう。今日あった出来事と、紙切れのことを。今の自分なら、きっと目を逸らすことなく形にすることができるだろう。