兄と踊るポーレチケ
最近、世の中はフィギュアスケートがブームになっています。それを、私はどうかと思います。
「ユメちゃーん」
下校中、他校の女の子に呼び止められました。ちゃん付けで呼んでくれたけど、私とは初対面のはずです。
「はい、これ。次の試合も頑張ってね」
女の子は小さな紙袋を私に押し付けて、走り去ってしまいました。実はこれ、初めてのことではありません。ちなみに、紙袋を受け取るのも、試合を頑張るのも、私ではありません。紙袋の中を覗くと、メッセージカードに『長尾望くんへ』と書いてあります。
長尾望というのは、私の兄です。兄は、フィギュアスケートの男子シングルの選手です。シニア2年目で、まだまだ未熟者といった感じですが、既にファンがいるようです。私からしてみると、なぜあえて兄を?と疑問に思います。だって、かっこ良くてうまい選手は他にもたくさんいますから。
兄へプレゼントを持って帰る時、私は憂鬱になります。兄は最近、有頂天になっているからです。いちいち自慢してくる兄が煩わしいのです。しまいには、おまえもスケートを続けてれば良かったのに、と言ってきます。私も小さい頃は、スケートを習っていました。兄とアイスダンスの練習をしたこともあります。でも兄は大人が見ていないところで、いたずらを仕掛けてくるのです。スピンの途中で手を放されたこともあります。出入り口に放り込まれたこともあります。すっかり怖くなってしまった私は、スケートを習うのを止めました。それなのに、あの兄の言動。腹が立つったら、ありません。私は溜め息を吐いて、帰路につきました。
私が帰宅すると、兄が出迎えてくれました。兄は目聡くプレゼントを見つけると、手を差し出してきました。どうせ兄の物です。出し渋る必要はありません。私は素直にプレゼントを手渡して、さっさと居間に入りました。兄は顔をにやけさせながら、私の後を付いてきます。私は知らぬ顔をしてテレビを付け、音量を上げました。もちろん、兄を無視するためです。口も利きたくない時は、近頃この手を使います。兄も分かっているのでしょう。黙ってソファに腰掛けました。不服そうに口を尖らせていますが、私の知ったことではありません。
これで、兄の自慢話に付き合う必要はなくなりました。安心した私は、チャンネルを変えました。あと5分くらいで、私の好きなコーナーが始まるのです。心が弾んでいる私の隣りで、兄が包装紙を破り始めました。小花柄のかわいらしい包装紙だったのに、なんてもったいないことをするのでしょう。私は兄の手首を叩いてやりました。けして、音が煩わしかったからではありません。今のは、包装紙の敵を取ったのです。
兄が何やら文句を言ってきました。私は兄の手首をもう一度叩くことで黙らせました。ここで兄の言うことを聞いていたら、私の好きなコーナーが終わってしまいます。私の好きなコーナーは短いのです。私の好きなコーナーというのは、マダム・センコの星占いです。マダム・センコは、とても有名な占い師です。星占いだけでなく手相やタロットなどもできて、予約は半年待ちという人気ぶりです。
テレビ画面に、マダム・センコの顔が映し出されました。顔といっても、表情は読み取れません。いつも紫色のヴェールを被っているからです。そこがまた神秘的で良いのですが、兄は胡散臭いと否定します。今も兄は興味が無さそうに、新聞の番組欄を眺めています。膝の上には、掌サイズの猿のぬいぐるみ。どうやらプレゼントの中身は、猿のぬいぐるみだったようです。そのうち、私の部屋に来ることになるでしょう。兄が貰ったぬいぐるみは、全て私の部屋に飾られていますから。
いよいよ占いの結果が発表されるみたいです。私は祈るように指を組みました。マダム・センコの低めの声が、おひつじ座から順に結果を読み上げていきます。ああ、もうすぐ私の射手座の番です。どうか良い結果が出ますように。私は指に力を込めました。
『次は、い』
『それでは、次の特集です』
一瞬の内に、マダム・センコの顔が男性のニュースキャスターに差し変わってしまいました。私は数秒の間、何が起こったのか理解できませんでした。別に、緊急ニュース速報が入ったわけではありません。私は勢いよく兄に振り向きました。兄は、リモコンを手にしていました。私の耳に、兄の名前が入ってきます。テレビを見てみると、スケートリンクの映像が流れていました。1週間後に迫った全日本選手権にちなんで、フィギュアスケートの特集が組まれていたようです。番組欄の中からそれを目聡く見つけた兄は、躊躇無くリモコンを操作したのでしょう。
今回の全日本選手権は、とても注目されています。オリンピックへの切符となるからです。現在、オリンピック選手の候補者が何人かいて、この大会の成績が重要視されています。兄は、今大会の注目選手の1人です。
更にもう一つ、全日本選手権を盛り上げている要素があります。兄と、兄の同期である武田翔太君のライバル対決です。翔太君は兄以上に人気があります。私も何度か話したことがありますが、かっこ良いうえに兄より優しいのです。2人のライバル対決は、長尾と武田の苗字にあやかって『竜虎対決』とも言われています。兄が謙信公だなんて、おこがましいにも程がありますけど。
スケート特集は、選手のホームリンクや経歴などの紹介。それから、各選手が得意としている技の映像で構成されていました。翔太君はスピンがとても綺麗な選手です。対して兄は『ジャンプの申し子』と呼ばれています。特にルッツジャンプは世界一と言われていて、今も悔しいけど見惚れてしまいました。もしも私が妹ではなく遠くから見ているだけの存在だったら、兄に憧れていたかもしれません。けれど、私は兄の性格を嫌というほど知っています。
「怪しげな占い師なんかより、麗しい兄の姿を拝んだ方が幸せになれるだろ」
私は立ち上がると、兄の頭を叩きました。加減なんて、できませんでした。おかげで私の右手も痺れています。スリッパで叩いてやれば良かったです。
「バカッ。お兄ちゃんなんて、試合で失敗しちゃえばっ」
私はリビングを出て、階段を駆け上がりました。部屋に入るなり、ベッドにダイブして枕を抱えました。悔しくて悔しくて、涙が止まりません。マダム・センコを楽しみにしてたのに。兄だって、それを知っているのに。兄はいつだって、何より自分が大事なのです。私は本気で、全日本選手権での兄の失敗を祈りました。応援なんて、絶対に行ってやりません。
◆◆◆
今日は冬休みの初日です。そして、全日本選手権男子ショートプログラムの開催日でもあります。兄の応援に行かないと決めていた私は、部屋で寝ていました。昨夜は遅くまで起きていたので、昼まで寝てやるつもりでした。ところが世の中、うまくはいかないようです。家の外が朝から大騒ぎになっていて、とても寝ていられる状態ではありませんでした。きっと兄のファンか、マスコミの仕業でしょう。ヘリコプターまで旋回しているようです。まったく迷惑な話です。
私が目を擦りながらリビングに入ると、既に誰もいませんでした。閑散とした中で、テレビだけが付けっ放しになっていました。電気代がもったいない。私はコントローラーに手を伸ばしましたが、画面に映っている見慣れた景色に手を止めました。映像は、うちの町内を上空から撮影したものでした。リポーターが、新手の通り魔が、としきりに口にしています。大騒ぎは、兄のせいではないようです。
私は部屋に戻って着替えを済ませ、髪を梳いてから外に出ました。近所の人達が、あちらこちらで立ち話をしています。みんな眉を寄せて、どこか不安そうです。
「あら、ユメちゃん。危ないから、出てきちゃ駄目よ」
隣りのおばさんに声を掛けられました。これだけ人がいれば大丈夫そうですが、私はとりあえず頷いて、うちの車庫に歩いていきました。そこには両親と兄がいました。出掛けたわけではなかったようです。3人は一様に、車の傍でしゃがみ込んでいました。
「何してるの、お母さん」
「あら、ユメ。起きてきたの」
母は立ち上がると、伸びをしました。3人は、長い時間しゃがみっ放しだったのかもしれません。
「タイヤが4本ともパンクしちゃったのよ。それも、どうもうちだけじゃないみたい。お向かいのおじさんが、警察に電話してくれたんだけどね」
私はタイヤの横にしゃがみ込んで、よく観察してみました。刃物で切られた跡があります。誰かが故意にやったものに違いありません。
「これから、お兄ちゃんを送らなきゃいけないのに。困ったわね」
今回の全日本選手権は、家から比較的近い場所での開催となりました。最寄り駅から会場前まで急行を5駅と、普通電車を1駅。乗り継ぎがうまくいけば、1時間も掛かりません。兄は当日、両親の車で会場まで送られる予定でした。
「ユメ、お兄ちゃんと一緒に会場に行きなさい」
「えー、やだー」
私は頬を膨らませましたが、母に効果はありませんでした。
「しょうがないでしょ。お父さんもお母さんも行けないんだから」
兄は方向音痴です。1人で行かせると、会場に辿り着けないかもしれません。母は兄のことを普段以上に心配しているようです。私だって重要な大会だと、頭では分かっています。それでも、兄の応援だけはやりたくありません。
「ちょうど良いから、仲直りしちゃいなさい」
「そうだぞ、ユメ。俺は優しいから、今なら許してやる」
仁王立ちをして笑う兄に、私は膝を抱え込みました。私が許してもらうことなんて、一切ありません。何も分かっていない兄に、私は意固地になりかけました。ところが、鋭い声で兄を叱咤した母が、私の肩を軽く押しました。母はそれこそ仁王像のように、目を見開いていました。怒ってはいないものの、否定することも許さないといった目つきでした。私はしぶしぶ立ち上がると、仕度のために家へ戻りました。焼くこともせず、バターもジャムも塗らずにかじった食パンは、とてもまずかったです。カレンダーが目に入り、思わず溜め息を吐きました。12月に入った頃は、今日という日を心待ちにしていたのに。今の私は、ものすごく可哀相です。
私は身支度を整えて、再び家の外に出ました。兄は、うちの表札の前で待っていました。足元には、ユニフォームやスケート靴などが入った鞄が置いてあります。私が兄の横に並ぶと、兄は自ら鞄を抱えあげました。どうやら私は、荷物持ちだけはさせられずに済んだようです。
2軒先の家の前に、パトカーが停まっていました。警察官の前には、近所の人が集まっています。その中に、父と母の姿もありました。
「いってらっしゃい。気をつけてね」
母が私達に気付いて声を掛けると、他の人も一斉にこちらを振り返りました。頑張ってね、という声が近所の人から口々に掛けられました。警察官も、手を振ってくれました。大会に出掛けるのに、これだけ多くの人から見送られるのは初めてです。私は少しだけ嬉しくなりました。
もう一つ、嬉しいことがありました。住宅地から少し離れた静かな場所に、マダム・センコがいたのです。紫のヴェールを被った格好は、テレビで見たままの姿です。腰掛ける彼女の前には、黒い布が被さった机が置かれていました。こんな所にマダム・センコがいるだなんて、テレビ番組の企画に違いありません。放送機材もスタッフも見当たりませんが、一般市民に分からないよう隠されているのでしょうか。スタッフの意図はよく分かりませんが、私は迷うことなく彼女に近付きました。
「おい、ユメ。早く行くぞ」
兄の言うことなんて、聞き入れるわけがありません。普通なら、マダム・センコの前には行列ができて当たり前なのです。今日は通り魔騒動で皆が住宅地の真ん中に集まってしまっているせいで、彼女の前には1人もいません。占ってもらう絶好のチャンスです。
「おはようございます、マダム・センコ。占ってもらっても良いですか?」
私は机に両手をついて、マダム・センコに尋ねました。彼女は快く頷いてくれました。近くで見るマダム・センコは、テレビで見た時より大柄に見えました。彼女が車椅子に乗っていることも、この時初めて知りました。
「今日、お兄ちゃんが試合なんですけど。勝てると思いますか?」
別に、本気で聞きたいことではありません。ただ、兄へのちょっとした意地悪のつもりでした。マダム・センコは首を横に振りました。私は、思わずガッツポーズをしました。私だって、占いが100パーセント当たるとは思っていません。これで兄も会場に着くまでの間くらいは、俺様な発言を控えるかもしれない。私はそれくらい気楽な感じで捉えただけでしたが、兄は怒ってしまったようです。
「行くぞ、ユメッ」
兄は、私の腕を引っ張りました。ところが私は、動くことができませんでした。私の手首をマダム・センコが掴んで放さなかったからです。
「てめ、放せよっ」
兄は、マダム・センコの腕を払いました。机が動いて、マダム・センコの車椅子に当たりました。彼女が身を退いた反動で、ヴェールがめくれ上がりました。そこにあったのは、くたびれた中年男性の顔でした。更にマダム・センコの足元に、硬い何かが落ちました。刃が厚めの、小型のナイフです。
「通り魔だっ、通り魔がいたぞっ」
固まってしまった私の横で、兄が叫びました。マダム・センコが慌てた様子でナイフを拾い上げている隙に、兄は私の手首を掴んで走り出しました。でも、私と兄とでは歩幅が違います。付いていくのがやっとです。すぐに息が上がって、横腹も痛くなってきました。
「もう少し頑張れ。人がいれば、あいつを撒ける」
兄に励まされて、なんとか大通りまで走り続けることができました。私達は人混みに紛れながら、足早に駅を目指します。大通りから駅へは、歩道橋を一つ越えないといけません。私は震える足をなんとか動かして、階段を上りきりました。吹き上げてくる冷たい風のおかげで、ようやく私は冷静になることができました。
「練習時間に、ちょっと遅れちゃうかも。電話するね」
私が提案すると、兄は手首を放してくれました。携帯電話を操作する私に合わせて、歩く速度も抑えてくれました。いつもこうなら、私も意固地にならなくて良いのに。江坂コーチが出るのを待ちながら、私は溜め息を吐きました。
「あれ?出ない」
呼び出し音を10回待っても、江坂コーチは応答してくれませんでした。江坂コーチは兄以外にも生徒を抱えているので、忙しくしているのかもしれません。電話帳から、他に会場にいそうな人を探しました。幸い兄のおかげで、何人かのフィギュアスケート選手の連絡先を知っています。ただ、私は英語に自信がありません。メールならともかく、電話だと少し心配です。結局、翔太君に電話をしてみることにしました。
「急げ、ユメ。来たぞ」
携帯を耳に当てながら、兄の指差す方を見ました。大通りの人混みの中に、1人浮いた存在が見えます。マダム・センコです。私は、早く早くと念じました。翔太君も試合前で余裕がないはずです。それでも、5コール目で出てくれました。
『もしもし、ユメちゃん。どうしたの?』
電話の向こうから、翔太君の落ち着いた優しい声が聞こえました。私は、とても安心しました。
「翔太く……いたっ」
突然耳元で大きな虫の羽音みたいな音がしたかと思うと、手首に鋭い痛みが走りました。反動で手から離れた携帯が、片側3車線の道路へ落ちていきます。
「私の携帯っ」
私は歩道橋から身を乗り出しましたが、携帯を見つけることはできませんでした。道には、車が渋滞にならない程度の間隔で走っています。大事にはなっていないようですから、ボンネットやガラスには当たっていないはずです。でも携帯は、踏まれて無事ではないでしょう。
「危ないっ」
兄は私を歩道橋から引き剥がすと、しゃがみました。私も兄に頭を押さえられたため、しゃがむしかありませんでした。頭上を小さな飛行機が通過していきました。私の手首に当たったのは、ラジコンの飛行機の羽だったかもしれません。私の手首は、既に赤く腫れだしていました。
「会場に着いたら、診てもらえよ」
兄は鞄からスプレー式の湿布を取り出すと、手首に吹きかけてくれました。冬の気温では、痛いほど冷たく感じます。それでも私の頭の中は、携帯のことで一杯でした。
「私の携帯が」
「アホか。先に自分の心配しろよ」
兄は呆れたように言いますが、私は本当に悲しかったのです。多少の怪我なら元に戻りますが、メモリは元には戻りません。携帯の中には電話帳の他にも、辞書を片手に懸命にやり取りしたメールや大切な写真が入っていました。中でも翔太君の連絡先は、ついこの間知ったばかりです。翔太君のお姉さんが間に入ってくれなかったら、今も知らないままだったに違いありません。
「だって、翔太君の」
翔太君の名前を出すと、兄は少し怒った顔になりました。
「あいつのアドレスなら、すぐ聞けるだろ。ユメだったら、断らねーよ」
確かに翔太君は優しいので、断られることはないでしょう。私は頷くと、兄と一緒に走り始めました。飛行機は驚く人々の頭を器用に避けて、縫うように私達を追ってきます。毎日欠かさずトレーニングを続けている兄とは違い、私の持久力なんてたかが知れています。懸命に走っても、兄との距離は徐々にですが開いていきます。7メートルくらい先を行く兄の姿が、駅の柱に隠れました。私は、そこに行き着く前に飛行機に追いつかれてしまわないか不安になりました。でも、振り返る余裕も勇気もありません。
私がようやく駅に辿り着くと、すぐに兄に腕を引っ張られました。柱の影に入ったことと兄の姿を見て安心した私は、その場に崩れ落ちました。息が上がりすぎて、喉や肺に痛みまで感じます。兄は鞄からスポーツ飲料を出し、手渡してくれました。
「もう大丈夫みたいだぞ」
私がスポーツ飲料を飲んでいる間に、兄は柱の影から外を窺い見ていました。兄の言葉に、私は心の底からほっとしました。私は息が落ち着いてから、切符を買いに行きました。いつも両親やコーチと一緒にいる兄は、自分で切符を買ったことが数えるほどしかありません。構内の歩き方や乗換えは、私の方がずっと詳しいのです。それも母が、私を兄と一緒に行かせた理由の一つでした。
兄の元へ帰ろうとした私は、途中で足を止めてしまいました。兄が身を潜める柱の向こうに、マダム・センコがいたのです。膝には、ラジコンの飛行機が乗っていました。
「お兄ちゃんっ」
私の慌てた様子に、兄も何かを察知したようです。呼ぶとすぐに反応して、走り寄ってきました。
「行くぞ、ユメ。ホームまでは追ってこないだろ」
私は兄と一緒に改札を抜けて、足早に乗り場を目指しました。階段を降りた後、一つ目の階段を上る必要があります。
「お兄ちゃん、こっち」
奥へ行こうとする兄を呼び止め、階段を上り始めます。光の量が多くなるにつれて、賑やかになっていきます。中には、スケート選手について話している声もありました。もしかしたら、これから会場へ向かう人達なのかもしれません。
私達が階段を上りきると、女の人から悲鳴が上がりました。口々に兄の名前を叫んでいます。私の名前を呼んでくれる人もいました。マダム・センコのことを思うと、あまり目立ちたくはありません。でも、人混みの中を車椅子で追いつくのは難しいはずです。私は笑顔で対応しましたが、兄は挨拶の一つも口にしません。不審に思って兄の顔を見ると、兄は空を眺めていました。私も兄に倣って空を見上げ、驚きました。
「マダム・センコッ」
車椅子に乗ったマダム・センコが、上空から降りてきたのです。車椅子にエンジンでも取り付けられているのでしょうか。空気を噴き出す音と一緒に、赤い炎が車椅子の底から見え隠れしています。車椅子が空を飛ぶなんて、非常識にも程があります。居合わせた人の中には、人気占い師の登場に喜ぶ人もいました。でも、少なくとも私は展開に付いていけず、呆然とマダム・センコが地に降り立つのを見届けました。
私を正気にさせたのは、ホームに入ってきた電車の風圧でした。車内には、既に人がたくさん乗っていました。ホームにも、人が集まっています。とても全員が入りきれるようには見えません。私は、目の前の電車に乗れるか不安になりました。
「ごめんね。この電車逃すと、試合に遅れてしまいそうなんだ。先に乗せてもらって、良いかな?」
普段の俺様を引っ込めて愛想よく笑う兄を、私は詐欺だと思いました。言っていること自体は間違っていません。でも先を譲ってくれた人達に対して、申し訳なく思いました。私達の他に数人を乗せただけで、電車の扉は閉まってしまいました。女の人が笑顔で手を振ってくれたので、周りの迷惑にならないよう小さく振り替えしました。彼女の後ろには、マダム・センコの姿もありました。軽い衝撃の後に電車が走り出すと、すぐに紫のヴェールが見えなくなりました。
「さすがに、もう追ってこないよな」
兄は大きく息を吐くと、携帯電話を取り出しました。でもすぐに、顔をしかめてしまいました。
「やべ。電池がねえ」
兄と出掛けると、いつもこうです。迷子になると、見つけるのに苦労します。これで、江坂コーチに怒られる未来が決定しました。もしかしたら兄は、まともに滑ることもできないかもしれません。スケートは見た目以上に運動量があり、持久力も要求される競技です。試合前に身体を動かしすぎると、悪い結果に繋がる恐れがあります。
「望君、こっち座って」
端に座っていた女の子が、席を譲ってくれました。椅子に兄を座らせ、私は兄の前に立ちました。乗客はみんな会場に行くものと思っていましたが、見回してみると半分もいないことが分かります。兄の隣りには、新聞を広げたサラリーマンが座っています。冬休みとはいえ、今日は平日です。私達は休みですが、働いている人もいるのです。
「おい、ユメ。見ろよ」
兄が、サラリーマンの新聞と私の顔を交互に見ています。私は身を屈めて、新聞を盗み見しました。最初は、兄がどの記事を見ているのか分かりませんでした。でも分かった瞬間に、出掛かった声を手で押さえ込みました。それは、小さな記事でした。『意外な親戚関係』という見出しの隣りに、人気占い師のマダム・センコと話題のスケーター武田翔太が実は親戚だった、と書いてあります。
「え、だって、全然似てなかったよね」
私達は偶然にも、マダム・センコの顔を見ています。整った顔の翔太君とは似ても似つかない顔でした。それどころか、マダムですらありませんでした。私は純粋に驚いただけでしたが、兄は違ったようです。
「翔太の差し金だったのか」
兄の眉が吊り上がり、肩が小刻みに震えています。どうやら兄は、翔太君がライバルである兄を蹴落とすためにマダム・センコを差し向けた、と思ってしまったようです。
「違うよ。翔太君が、そんなことするわけない」
否定する私を、兄は鋭い目つきで見上げました。
「ユメは、あいつの肩持つのか」
いつもの喧嘩とは、兄の雰囲気がどこか違います。私はすぐに否定をしたかったのですが、できませんでした。朝のように意固地になっていたわけではありません。注目の的になってしまっていたからです。私もファンの気持ちは分かります。兄に悪いイメージがつくまねは、できるだけ控えたかったのです。
私達は険悪な雰囲気のまま、乗り換えの駅に到着しました。そこでは、不気味なほどスムーズに乗り換えることができました。マダム・センコが現れなかったからです。もしかしたら、会場に先回りしているのかもしれません。今度は何を仕掛けてくるのでしょう。心配になった私は、目的地に到着するまで口を開くことはありませんでした。
会場前の駅に着くと、私達は人混みから離れました。会場には、関係者専用の出入り口が設けられているからです。そして案の定、マダム・センコが待っていました。長い棒を持って、通せんぼをしています。よく見ると、高枝切り鋏でした。関係者専用の出入り口に続く道は幅が3メートルくらいしかないので、通り抜けの邪魔をするには充分な長さです。
「地味に邪魔だな」
兄は舌打ちしました。私は泣きそうでした。まさかマダム・センコが、試合を妨害するような人だったなんて。彼女を怪しんでいた兄が正しかっただなんて。私は目を強く擦りました。とりあえず兄だけでも、会場へ入れなければなりません。私はマダム・センコを睨みつけました。でも、すぐに目を丸くしました。会場から、こちらに向かって走ってくる人がいます。翔太君です。
マダム・センコは振り向きざま、高枝切り鋏を翔太君に突きつけました。親戚だろうと容赦がありません。翔太君とマダム・センコは、手を組んでいたわけではないようです。マダム・センコが薙ぎ払うのを、翔太君は軽やかに後ろに飛んで避けました。鋏の先端が、垣根の奥に突き刺さりました。マダム・センコは更に攻撃を仕掛けようと、鋏の持ち方を変えました。ところが、どんなに引っ張っても垣根から鋏が抜けません。どうやら幹に引っ掛かってしまったようです。
「望、ユメちゃん。今のうちに」
私達は必死になって鋏を引っ張っているマダム・センコの後ろを通って、翔太君の傍へ駆け寄りました。
「ユメちゃんの電話が急に切れちゃったし、望に掛けても繋がらないから、待ってたんだよ」
本来なら、身体を動かしている時間です。それなのに翔太君は、私達のために寒い中で待っていてくれたのです。こんなに優しい人が、ライバルを蹴落とそうだなんて考えたりするはずがありません。私は素直に謝りました。兄はぶっきらぼうに「悪かったな」とだけ口にしました。兄の耳が赤いのは、寒さのせいかもしれません。でも私には、仕草一つで照れているのだと分かりました。
会場まであと20メートルとなった時、嫌な音が背後からしました。歩道橋で聞いた音と同じものです。兄と翔太君は振り返りましたが、私は姿を見たくもありません。兄に肩を押されたため、一足早く走り出しました。
「え、飛行機?」
後ろから、翔太君の驚く声が聞こえてきます。無理もありません。普通は、ラジコンの飛行機に襲われるだなんて考えることもないのです。
「さっき追い回されてたんだよ。走れ、翔太。怪我するぞ」
私達は脇に避けたり屈んだりしながら、会場へ向かいました。あと10メートルの距離が、とても長く感じます。会場の入り口では、江坂コーチと翔太君のお姉さんが扉を開けて待っていました。兄はおもむろに鞄を開け、中を漁りだしました。
「お兄ちゃん。何やってるの?」
「いいからユメは、走ることだけに集中してろ」
兄は足を止めると、後ろを振り向きました。手には、猿のぬいぐるみを持っています。1週間前、喧嘩した時に兄の膝の上にあったぬいぐるみです。
「くらえ。サルサルボンバーッ」
兄はかっこ悪い技の名前を叫びながら、飛行機に向かって猿のぬいぐるみを投げつけました。飛行機に命中したぬいぐるみは、垣根に頭から刺さりました。飛行機は頭が上に向いたかと思うと、左右に蛇行しました。飛ぶ勢いが失われた飛行機は、すぐに地面に落ちてしまいました。飛行機の右側の羽は、落ちた時の衝撃で先端が折れていました。これでは、上手に飛ばすことができないでしょう。
私達が会場の中へ駆け込むと、江坂コーチと翔太君のお姉さんが扉を閉めてくれました。これで一安心です。兄と翔太君は、江坂コーチと一緒にロッカーへ。私は翔太君のお姉さんに連れられて、医務室へ行きました。腫れは酷いものの骨などには異常が無いと言われて、ほっとしました。
私は翔太君のお姉さんと一緒に、観戦席へ向かいました。冬休みということもあって、会場内は満席に近い状態です。リンクを見ると、6人の選手が思い思いに練習していました。試合前に与えられた6分間練習です。6人の選手の中には、兄と翔太君の姿もありました。兄は、本当に遅刻寸前だったのです。
私達には家族席が与えられていましたが、観客の邪魔をするのも気が引けます。試合だけでなく、練習を楽しみにしているスケートファンも少なくないのです。私達は、隅で立ち見をすることにしました。すると私の隣りに、マダム・センコがやって来ました。彼女は私には目もくれず、リンクだけを眺めているようでした。兄がジャンプを決めると、彼女は途端に通路の手すりや車椅子の肘掛を叩き始めました。私は驚きましたが、すぐに悟りました。マダム・センコは、兄が試合に間に合ったことを悔しがっているのです。
「どうして、お兄ちゃんの邪魔をするの?」
私は、マダム・センコに対して腹が立ちました。一介の占い師が、夢に向かって努力する選手を妨害して良いはずがありません。たとえ、試合の結果が見えていたとしてもです。
「お兄ちゃんは、あんたなんかに負けない。見てなさい。世界で1番綺麗なルッツジャンプを飛ぶんだから」
「声がでかいぞ、ユメ」
私が我に返って周りを見ると、翔太君のお姉さんはおろか観客までもが振り返って微笑んでいました。苦情を投げかけてきた兄は、なぜか嬉しそうに笑っていました。
6分間練習が終わると、一度選手がリンクの外に出ます。それから1人1人、演技を披露していきます。第2滑走の翔太君は、溜め息が漏れるほど優雅な仕上がりとなっていました。動きが滑らかで、とても身体を充分に温めていない状態とは思えません。
「さすが、翔太君……いたっ」
リンクの中央で礼をしている翔太君に拍手を送っていると、マダム・センコに背中を叩かれました。ライバルの家族には身内を応援されたくない、ということでしょうか。私は、車椅子を蹴倒してやろうか、と思いました。次が兄の番でなかったら、実行していたかもしれません。
兄は、とても集中していました。ジャンプは高く、飛距離もあります。ステップもエッジが深く入り、上半身も大きく使えています。苦手とするスピンも、今日は軸が安定しています。会場入りする前に走りすぎて持久力がもつか心配でしたが、最後まで滑る速度が落ちることはありませんでした。リンクの中央に戻った兄の滑りを、観客は立ち上がって讃えました。
会場の全員が、兄の点数が出るのを待ちわびました。点数が表示された瞬間には、会場が大きな歓声に包まれました。翔太君を抜いて、兄が1位に立ったのです。
「ユメッ」
椅子から立ち上がった兄は、私に向かってVサインを見せました。私は笑いました。控え室へ向かう兄に、ファンが口々に「おめでとう」と声を掛けます。誰もが兄を祝福し、明日のフリープログラムの成功も確信していました。
「ほら、負けなかったでしょ」
私は得意気になって、マダム・センコを見下ろしました。その時、控え室とリンクを繋ぐ出入り口付近から悲鳴が上がりました。私はマダム・センコに腕を掴まれてしまい、覗き込むことができませんでした。掴む力が強くて、私では振りほどくことができません。隣にいる翔太君のお姉さんに助けを求めようと見上げると、綺麗な顔が蒼白になっていました。
「ユメちゃんは見ない方が良いと思う」
翔太君のお姉さんに告げられて、私の足は震えだしました。かすかに救急車の音がします。翔太君が呼びに来てくれるまで、私達は無言でいました。
◆◆◆
全日本選手権は延期されました。兄は2日ほど生死の境をさまよいました。目覚めた兄が話せるまで回復した頃、大会の仕切り直しが行われました。残念ながら翔太君は、オリンピック代表選手の選考から漏れてしまいました。兄は、結果はおろか仕切り直しがあったことさえ知りません。病室では、スケートの話題は避けられていました。
兄を襲った犯人は、江坂コーチの元教え子でした。良い成績が出せず、苦悩した末にスケートを諦めた人だそうです。その人はスケートの最前線に立っている江坂コーチを逆恨みし、襲い掛かったのです。兄は江坂コーチを庇いました。江坂コーチや元教え子を取り押さえた人達は、軽症ですみました。しかし兄は太股をめった刺しにされ、現場は血溜まりができていたそうです。命が助かっただけでも奇跡的だったようです。なぜか先に呼ばれていた救急車のおかげ、とのことでした。
今日は翔太君とお姉さんが、兄の見舞いに来てくれました。兄は2人を快く招き入れると、全日本選手権がどうなったか尋ねました。家族の前では態度に表していませんでしたが、内心ではスケートのことを聞きたくて仕方なかったようです。翔太君は兄の枕元にあった丸椅子に腰掛けて、結果を報告しました。兄は、翔太君の肩を叩きました。
「今度は一緒にオリンピックに行こう」
4年後が楽しみだ、と2人は笑いました。その時、主治医が両親と江坂コーチを引きつれて、病室に入ってきました。両親は悲しそうな表情を浮かべています。江坂コーチは無表情です。私達は顔を見合わせました。すぐに主治医に家族以外は席を外すように言われ、翔太君とお姉さんは病室を出ていきました。
「望君。とても残念なことですが、その足ではスケートを続けることはできません」
主治医が告げた言葉は、私の胸に刺さりました。兄は、それ以上に衝撃を受けているでしょう。兄は選手生命を絶たれたどころか、私生活で歩くことさえ困難だということでした。主治医と両親と江坂コーチが退室してからも、兄はシーツを固く握り締めていました。翔太君とお姉さんが病室に戻ってからも、兄は俯いたままでした。
「だから邪魔してやったのに」
重い沈黙を破ったのは、マダム・センコでした。病室に入ってきた彼女は、紫色のヴェールを取り去っていました。無精ひげを生やした中年男性は、顔を赤く染めていました。
「俺は、未来から来たおまえだ」
マダム・センコは、兄を指差しました。言われて初めて、ほくろの位置が同じだということに気付きました。
「お兄ちゃん、ミスターレディになっちゃったの?」
「アホか。顔を隠すのに、ちょうど良かっただけだ。この格好なら、ユメが飛びつくしな」
未来の兄に睨まれて、私は飛び上がりました。怒り方は、今も未来も大差が無いようです。私が翔太君のお姉さんの後ろに隠れると、未来の兄は鼻を鳴らして兄と向き合いました。
「俺は、おまえに怪我をさせたくなかったんだ。だから、妨害した」
「だったら回りくどいことしなくても、話せば良かったじゃないか」
兄は目を丸くして、未来の兄を見ました。未来の兄は、首を横に振りました。
「過去の人間と会話をすると、強制的に未来へ連れ戻されてしまう。それに試合前のおまえは、俺の言うことなんて信じなかっただろう」
確かに試合前の兄は、周りに騒がれていたおかげで天狗になっていました。車椅子の疲れ果てた中年男性が「未来のおまえだ」と近寄ってきても、信じることはなかったでしょう。私だって、おかしな人だと思ったはずです。
「選手生命を絶たれた俺は、何もやる気が起きなかった。江坂コーチとは連絡が取れず、父さんや母さんは俺の目を見なくなった。閉じこもりがちだった俺を、ユメだけが傍で支えてくれたのに」
未来の兄は、翔太君を睨みつけました。
「おまえが、ユメを外国に連れ去った。俺の周りには、誰もいなくなった。稼ぎも無い。江坂コーチもおまえも輝かしい世界にいる中、俺だけみじめなままだ。それもこれも、過去の俺が怪我したからだっ」
未来の兄が、車椅子の肘掛を叩きつけました。金属の音が、悲しく部屋に響きました。
「過去の俺があの場にいなかったら、怪我をしたのは江坂コーチだった。庇うことさえしなかったら、俺は今も輝かしい世界にいられたのに」
未来の兄は、大粒の涙を零していました。私は、未来の兄の言うことは間違っていると思いました。
「そんなの駄目だよ。それじゃ、お兄ちゃんを刺した人と一緒だよ」
「黙れ、裏切り者っ」
私を睨み上げた未来の兄の顔に、飛んできた枕が命中しました。驚いて兄を見ると、兄は枕を投げた格好のまま肩で息をしていました。
「おまえが黙れよ。自分で落ちぶれたんだろ。俺は、おまえのようにはならねーよ。俺は俺の方法で、絶対に復活してやるっ」
未来の兄を怒鳴りつけた兄は、今まで見たどの兄よりも凛々しく見えました。すると突然、目映い光が出入り口から広がりました。光の向こう側に人が立っているようですが、眩しくて影しか分かりません。
「お迎えが来たようだ。その前に」
未来の兄は、翔太君のお姉さんに向かって深く頭を下げました。
「マダム・センコ。救急車を呼んでくれたこと、感謝する。おかげで俺は死なずに済んだ」
本物のマダム・センコが、こんなに近くにいただなんて。驚いて翔太君のお姉さんの顔を見た私の腕に、柔らかい何かが押し付けられました。見ると、未来の兄が猿のぬいぐるみを手にしていました。ぬいぐるみの顔には、細かい枝や葉っぱが付いています。私がぬいぐるみを受け取ると、未来の兄はほほ笑みを浮かべました。
「とりあえず、過去の俺の言葉を信じよう。俺は俺で、できることを探してみるよ」
未来の兄はそう言い残すと、目映い光の中に消えていきました。光が薄れていく間、私は二人の兄の成功を心から祈りました。