花咲ける星

 耐熱グラスに、水と粉砂糖のように白くて細かい粉を入れ、ガラス棒でかき混ぜる。涼やかな音に合わせて、目の前にある鉢植えの葉が揺れた。四本の支柱に子供の人差し指ほどの太さがある蔓を巻きつけ、成人男性の腰ほどの高さまで育っている。肉厚で抹茶色の地に鮮やかな黄色のまだら模様を描いた葉を、多くの人が気味悪がった。育ての親である黒田には、生命力が溢れた美しい色にしか見えないというのに。
「これは、さくら貝もどきを粉にしたものだよ。君には歯があるんだから、カルシウムをしっかり摂らないとね」
 学生時代を地球で過ごした黒田だったが、6年ほど前から太陽系に浮かぶコロニー群の一つを拠点として生活している。地上では家と校舎の往復。外出先は図書館か植物園。たまに数少ない友人に引き摺られるようにしてショッピングモールへ行くだけの、閉じこもりがちな人生を送っていた。研究者の端くれとなった今も閉じこもりがちなところは変わりないが、他のコロニーや惑星に立ち寄る機会も得られ充実した日々を送っている。何より宇宙は、珍しい動植物の宝庫だった。『さくら貝もどき』というのも地上のさくら貝に似ているというだけで、毒が無いということしか分かっていない。
 グラスの端を棒で2回叩き、中身を土に注いでやる。背後には、情報番組のオープニング曲が流れている。ハープが主旋律を奏でる優しい調べは、黒田のお気に入りだった。気分良く鼻歌を歌いだしかけたところで、否定するようにブザーが鳴る。
「ああ、もう。うるさいね」
 無粋な音源は、外部通信が来たことを知らせるものだった。通信管理局の女性が取次ぎをして良いか尋ねてくるため、許可を出す。背後の画面が情報番組からテレビ電話へ切り替わったことは壁に映る光の色で分かったが、あえて振り向きはしなかった。許可はしたものの、あまり見たいと思う顔ではなかったからだ。
『また無理をしているだろう。体温から脈拍から、全て筒抜けなんだぞ。もともと身体が弱いんだから、少しは自重しろ。聞いてるのか?』
 予想通りの出だしで、思わず溜め息が出る。幼馴染の高辻は心配性で、黒田の行き過ぎた主治医だ。患者の許可もなしに部屋中にセンサーを取り付け、体温と心拍数を常に監視している。黒田は一人暮らしだから、風邪で倒れた時などは助かる。だが平常時には、ただうっとうしいだけだ。抵抗は何度でもした。センサーを設置する、外す、の攻防戦だけで8回はやった。口喧嘩は数えるのも嫌になるほどだ。結局は黒田が先に折れてしまい、実験動物のような生活に甘んじている。
「身体が弱いことは、嫌というほど自覚しているよ。学生時代は植物がお友達。流れで植物学者になったは良いけど、これがまるっきりの重労働。おまけに輸入禁止法だの何だのうるさくて、せっかく設備を整えても使う機会が一向に来ないのさ」
 お決まりとなってしまった文句を並べて、高辻を振り向きざま指差す。黒髪を後ろに撫でつけ、黒縁の眼鏡を掛けた生真面目そうな男が視界に入った。
「ああ、しまった。見てしまった」
 舌打ちをする黒田に、高辻の太い眉が片方だけ上がった。
 黒田が生活する部屋には、人に威圧感さえ与えるような大きな機械がいくつも置いてある。重力や質量を増加させる装置に、気体濃度を調整する機械。温度管理をするものから土を耕すものまである。どんな荒地でも草木を育てられる環境にできる術はあるのだが、育成や種子の運搬を認可されている植物は少ない。星特有の生態系を維持するための法律を破れば、時に命の保障が無いほどの厳しい罰則が待っている。医者を邪険に扱う黒田であっても命は捨てられず、機械は邪魔くさい置物と化していた。おまけに部屋の壁や床が鉄材だというのに、機械のどれもが金属特有の光沢を放っていて、見ているだけで寒々しい。
「動植物学者にとって、宇宙法は障害だよ。広い世界には、美しい花や興味深い樹木が溢れているというのに、地球の植物園に寄付することもできない。見たまえ、彼を」
 黒田は水をやったばかりの鉢植えを、画面の向こうからでもよく見えるように押し出す。植物の一番上についた葉が持ち上がり、左右に揺れた。幼い子供が無邪気に手を振っているかのようだ。育ての親にはかわいらしく見える動きが、高辻には気味悪く映ったらしい。下がった口元を引きつらせて、わずかに身を退いた。
「ウツボカズラに似ているだろう。壷の中にある消化液の成分を調べているところなんだけど、蓋の部分に細かい歯が生えていてね。調べにくいったらないのさ」
 五つほど下がった青紫色の筒には、全てに蓋が付いている。蓋の内側には、縁を描くように小さな棘が並んでいた。一つを拝借して成分を調べてみると脊椎動物の象牙質に近い値が出たため、黒田は『歯』と言っている。成分が分かったものの用途が不明なため、いまだ学界には発表できずにいた。
 高辻にも歯が見えるように、蓋をこじ開けようと試みた。植物は頑なで、餌である虫を感知した時以外は硬く蓋を閉ざしている。指を掛けられるところもわずかしかないため、歯を拝借する時も苦労したのだ。ようやく開いたかと思えば人差し指を噛まれ、黒田は悲鳴を上げた。途端に、画面の向こうから溜め息を吐く音が聞こえる。
『いつも通り、研究熱心だということは分かった。これから診察の時間だから切るが、くれぐれも寝不足には注意してくれ』
 通信が途絶えると、高辻の顔から情報番組に映像が切り替わった。
「君の魅力を分からないとは、彼もまだまだだね」
 筒から引き抜いた人差し指は出血こそしていないが、かすかに痒みを伴う痛みがある。左手で噛まれた所を擦っていると、インターホンが鳴った。ボタンを押して画面を切り替え、訪問者を確認する。水色の帽子を被った細面の男が、バスケットボールほどの白い小包を持って立っていた。宅配業者だとすぐに分かり、報道番組に切り替えてから戸口へと向かう。
 黒田の部屋は、小型の宇宙船をコロニーに連結させただけのものだ。旅をする時も不自由しないように、台所やトイレ、食品倉庫も標準装備がされている。喩えるなら、広いキャンピングカーだ。移動手段としてだけの宇宙船でも高いのに、キャンピングカーともなれば更に値が張る。それでも何かと移動が多い人間は、必ず所有していた。引越しが容易な分、いったん戸を閉めてしまうと出入りが面倒だ。いちいち丸いハンドルを回して、分厚い扉を開けなければならない。定住する人間にとっては、時間が掛かって不便だろう。
 身を寄せている第1コロニーは定住する者が少なく、どこの部屋を訪ねても同じ仕様だ。宅配業者も慣れたもので、嫌な顔一つせずに待っていた。
「こんにちは。星間急便です。荷物のお届けにあがりました」
 男は帽子を取り、愛想よく笑う。黒田は宛名を確認し、指示されるがままにサインをした。手にした箱は、鶏の卵ほどの重さしかない。送り主は、地上にいる時に世話になった恩師だ。何が入っているのだろうと考えている間に、宅配業者は元気良く礼を告げて深く頭を下げる。帽子を被って踵を返したところで、足元に置いてあった鉢に足を取られて転んでしまった。手を付こうとした場所にも空の鉢があり、運悪く割れてしまう。黒田が後で片付けようと思い、うっかり忘れて放置していたものだった。
「すまない。大丈夫か?」
 手を覗き込むと、出血していた。この場で待つよう告げると、部屋に戻って荷物を机の上に置き、引き出しを漁る。植物相手は細かい傷が耐えないため、止血バンドは常備していた。なるべく綺麗な布と一緒に持ち出して、男の元へ戻る。黒田は膝を床について男の手を取ると、布で流れ出た血を拭って傷口を確認した。幸いにも出血量の割には深く切っておらず、関節からも外れている。安堵の息を吐いて応急処置をしてやると、宅配業者は何度も頭を下げて去っていった。黒田はもう一度大きく息を吐いて部屋に戻ると、血で染まった布は蓋付きのゴミ箱へ捨て、石鹸を使って手を念入りに洗う。
「こういう時は、しっかり手を洗わなければならないんだよ」
 タオルで手を拭き、宅配業者の指よりも弾力がある蔓の先端を撫でる。背後ではニュースキャスターとコメンテーターの間で、新種のウイルスが話題に上がっていた。脳に穴を開け、スポンジ状にしてしまうウイルスが発見されたらしい。昔に地球でも大騒ぎになったことがあるが、違うのは感染するのが牛ではなく人というところだ。空気感染は無いが、飛沫感染の心配はあるようだ。もし怪我をしている状態で感染者の体液に触れるようなことがあれば、確実に移ってしまう。
「ほらね。宇宙は魅力的だけど、危ない所でもあるんだよ。常に気を配らないお馬鹿さんは、知らない内に未知の生物に触れて、取り返しの付かない事態になってしまうのさ」
 鉢植えは何を言っても反応を示さず、黒田は肩を竦めた。一人暮らしが長いと、独り言が増えていく。苦笑いを浮かべながらホウキを使って破片を片付け、鉢を部屋の中へ押し込んだ。とりあえず部屋の隅に、掃除道具と鉢を積み上げる。手を払い肩を回すと、届いた小包と向き合った。
「さてさて、何が届いたかな」
 また独り言だ。自覚すると、笑いが込み上げてくる。肩が揺れ、反動で震える手で包装紙を破いていく。飾り気のない紙の中から姿を現したのは、向日葵の種を半分の大きさに縮めたような粒だった。黒田は添付されていた手紙を読んで、口笛を吹く。無人の星で発見されて、まだ1年ほどしか経っていない花の種だ。
 学界では食用と見なされない植物は、研究が後回しにされる。目の前の花も研究が進んでおらず、正体が判明していない。詳細不明の植物は、実験を目的とする以外での栽培が禁止されている。たとえ実験を目的としていても、屋外での栽培は禁止されていた。恒星の光の下で育てなければ意味が無いと提唱する学者もいるが、政府に聞き入れられた試しはない。
「これは、素晴らしい贈り物だよ」
 遺伝子レベルでの調査がしたいと申し出て、半年が経つ。地球にいる恩師が何とか承認と取り付けて、送ってくれたものだった。黒田では学界のお偉い方や政府関係者に顔がきかず、申請も跳ね除けられていただろう。お礼の電話を入れようと地球の日本時間を確認したが、あいにく夜中だ。失礼が過ぎる。
 だが、心に湧き上がる興奮を、誰かに伝えずにはいられない。考えたのは一瞬のことで、通信管理局へ連絡を取った。画面は、灰色一色に染まる。個人情報の漏洩を心配しているのか、管理局とやり取りをしている間は画面に何も映らない。
「第1コロニー14番ゲートの黒田だけど。第4コロニー警察宿舎28番の桜井に回してくれるかな」
 連絡先の相手と取次ぎの可否の確認作業があるため、掛けた側は3分ほど灰色の画面を見ながら待たなければならない。即席めんが出来上がる時間をただ待つというのは、苦痛でつまらないものだと黒田は毎回のように思う。右のつま先を床に打ちつけること数回の後、画面が灰色一色から砂嵐に変わった。相手が取次ぎの許可を出した合図だ。
 数秒の砂嵐の後、桜井の顔が映し出される。義務教育時代の同級生で、選択科目が違うものになってからも、職業が掛け離れたものになってからも親交があった。
「やあ、久し振り。随分と疲れた顔をしているね」
 桜井は梳けば綺麗な黒髪を首の後ろで一つに束ね、化粧を施していない顔には隈ができている。つり目の美人が台無しだが、本人はさほど気にしていないようだ。宇宙に上がっている警察官は見回る範囲が広く、植物学者などよりよほど忙しい。今のように素直に取次ぎが行われるのも珍しいくらいだ。
『ここのところ寝不足で。うっかり包丁で、自分の指を切ってしまったところよ』
 桜井の左手が、黒田に見えるように上げられる。手入れされていない掌は、まめだらけだ。甲を向ければ、さか剥けも酷いのだろう。人差し指の先には、小さめの止血バンドが巻かれていた。
『そう言う黒田君こそ、寝不足なんじゃないの?』
 桜井に指摘されると、1時間ほど前にやり取りした幼馴染の顔が思い浮かんだ。
「さっき、高辻に注意されたところさ」
 黒田が苦笑いを浮かべると、桜井も「相変わらずね」とほほ笑んだ。桜井と高辻も、黒田を通じて義務教育時代からの付き合いだ。二人は第4コロニーで暮らしているが、互いに忙しい職業であることから常に擦れ違いなのだという。その割に、それぞれに黒田とは連絡を取っているが。今更ながら言外に「おまえは暇だ」と指摘された気がして、黒田は鼻を鳴らした。
「そ、れ、よ、り。今、良い物が届いたんだ。ほら」
 一言を殊更はっきりと口にすることで気を取り直し、届いたばかりの種を摘み上げる。桜井の目が瞬いた。画面の向こうでは見えづらいのかもしれない。黒田は種を掌の上に乗せ、差し出した。
「見ての通り、植物の種さ。向日葵みたいな種だろ。花も、小さい向日葵みたいなやつが咲くらしいよ。今はまだ研究が進んでいないから外での栽培はできないけど、僕が花の正体を解明してみせるよ。許可が降りるよう、願っていてくれ」
 どうして自分に言われているのか、桜井は理解していないようだ。眉を寄せて首を傾げる彼女に、黒田はほほ笑みかける。
「黄色い花で埋め尽くされた星が見たい、と言ってただろ」
 花の存在を知り、申請を出して取り寄せた理由を言葉にする。目を丸くした桜井は、声を上げて笑った。
『それ、いつの話?』
 絵筆を手にした幼い桜井の顔が、黒田の脳裏に蘇る。美術の時間に得意気に見せてきた画用紙は、黄色で埋め尽くされていた。絵が得意ではなかった彼女は《将来やりたいこと》という課題を与えられ、迷わず塗りたくってみせたのだった。「黄色い花で埋め尽くされた星が見たい」と胸を張って言う彼女に、先生は頭を抱えた。黒田には、太陽のように眩しく温かく見えたのだった。
『いいわ。成功するのを願ってる。だから、約束して。いつか必ず、黄色い花の星を私に見せて』
 成長した桜井は、子供の時より明るく魅力的な笑顔を浮かべる。彼女の表情や言葉は、いつも黒田の背中を押してくれた。手を添えられているような温かさを背に感じながら、黒田は通信を切った。空いた鉢植えの一つに土を入れ、元気に育つよう祈りながら一粒だけ花の種を植える。水をやり、陽光に似せた電灯の光がよく当たる場所に移動させる。花の世話を一通り終えた後も、研究記録を兼ねた日誌を書き終えた後も、穏やかな心持ちは消えなかった。普段は寝つきが悪く、眠りも浅い黒田だが、この日は珍しく夜中があっと言う間だったと思えるほどに熟睡することができた。

 ◆◆◆

 黄色い花の発育は順調で、1週間後には黄緑色の小さな芽が頭を出した。よく見ると、白くて短い産毛が隙間なく生えている。黒田が指で触れてみると意外と硬く、微かな痛みを感じた。電灯の下でも健やかに育つ植物に、水をやりながらも顔がほころんでしまう。人工物がない星で発見された植物の多くは、作られた光の下で育てることが難しい。彼等は、自然物かそうでないかを見抜く力を持っているようだ。ウツボカズラもどきも例外ではなく、黒田は一度枯らしかけたことがある。
「君は育てやすい花だね。これなら他の種も発芽させて、観察と研究を一緒にやっても良いかもしれない」
 向日葵もどきは、一度に多くの種が取れるらしい。箱いっぱいに種が入れられていたから、惜しむ必要もない。
 黒田はじょうろを置き、自身の朝食を準備し始める。一人暮らしで食にこだわりもないため、朝食はいつもコーヒー1杯にトースト1枚という簡単なものだ。気が乗らなければ食べないことも多いため、胃に何か入れるだけましかもしれない。パンを焼いている間に、コーヒーを入れる。トースターには慣れたはずが油断したのか、パンがしっかりと焦げてしまった。苦味を伴う臭いを手を振ることで拡散させながら、画面の電源を入れる。特に何も塗らないままパンを一口かじり、想像通りの味に口を歪めた。舌の付け根の左右が引きつる。
 味にこだわらない黒田も、さすがにコーヒーカップを手に取った。口の中の物を流し込みながら、情報番組の字幕を読む。力が抜けた左手から、カップが落ちて割れた。くたびれた室内作業用のズボンの裾に、コーヒーが掛かる。それでも黒田は下に目を落とすことをせず、画面を注視した。
 角ばった顔のニュースキャスターが伝えるのは、昨日知ったばかりのウイルスの最新情報だ。第4コロニーで感染者が続々と出始め、隔離病棟ができたと低い声で話している。すぐに桜井の笑顔が、次いで高辻の真顔が、黒田の脳裏に思い浮かぶ。手が震え、今度はパンが床に落ちた。
「あそこは駄目だ。桜井がいる。高辻だっているじゃないか。悪い冗談だろ」
 当然のことながら、キャスターは一方的に原稿を読むだけだ。視聴者の質問になど、答えてくれるはずがない。呆然としている間に、画像が見慣れない動物へと切り替わった。ウイルスの深刻さなど忘れたかのように、キャスターは穏やかな顔で新種の動物について話し始めてしまう。
 黒田は奥歯を噛み締め、掌で画面を叩いた。タイミングよくブザーが低く鳴り、冷や水を浴びせられたように頭が一気に冷える。故障したのかと辺りを見回したが、女性の声が流れ出し外部通信が入っただけだと分かった。相手は高辻だった。取次ぎの許可を出すと、砂嵐から高辻の顔に切り替わる瞬間に大きく息を吸い込んだ。
「隔離病棟ができたなんて、嘘だろっ」
 黒田は短気ではあるが、怒鳴ることはあまり無い。常に無い声量を発し、肩で息をした。第4コロニーに医者として勤務している高辻なら、ウイルスの感染状況も把握しているはずだ。
『意外と元気そうだな』
 長い息が、高辻の横に広い口から吐き出される。元気そうだと言う割には眉間に皺を寄せ、不摂生だと黒田を注意した時よりも渋い顔をしていた。
『隔離病棟ができたという話は本当だ。研究は忙しいだろうが、すぐにこちらに来てほしい』
 高辻の目が伏せられる。癌の告知をされているようで、黒田の背に悪寒が走った。浅くなりそうな息を、意識的に細く長く吸い込むことで何とか防ぐ。
『桜井が待っている』
 黒田は、一方的に通信を切った。出入管理センターに問い合わせ、出航手続きを済ませる。ついでに第4コロニーの連結部の予約もした。ウツボカズラもどきと黄色い花の鉢植えを粘着テープとロープを使って固定し、出入り口から空気が漏れないようバルブが閉まっているか確認する。到着先を第4コロニーに設定し、自動操縦を開始させた。映像を宇宙船の外の景色に切り替えると、ちょうどコロニーと船体との接続部分が切り離される様子が見えた。ここから航行するのに安全な距離を確保できる間は、激しい横揺れが続く。黒田は大きな置物と化している機械の一つにしがみ付き、歯を食いしばって耐えた。乗り物に弱い人間は、離着陸時を嫌がる。黒田も慣れたとはいえ、好きにはなれない。
 横揺れが収まると、黒田は桜井に通信を試みた。だが、不在のため捕まらない。時計を確認すると、高辻も診察の時間だ。黒田の知り合いで、桜井の行方を知っていそうな人物を必至で考える。
「桜井の居場所を知らないかな」
 考えた末に連絡を取った相手は、桜井の同僚で伊集院という男だった。年下で人懐こく、黒田にも会えば笑顔で話しかけてくる。喩えるなら、秋田犬の子どもだ。情にもろく素直で、嘘をつけない性格だ。黒田としては高辻より信頼できる人物なだけに、言葉の威力は大きかった。
『桜井さんなら、隔離病棟へ向かわれましたよ』
 通信が切れたと同時に頭を抱えた。目頭が熱くなる。桜井の人差し指に巻かれた止血パッドを思い出す。彼女は、新種のウイルスに感染したのだ。黒田は、常に気を配らない人間を馬鹿にしたことを後悔した。疲れていたり心が不安定である時の人間は、不注意もする。黒田も自身のうっかりで、宅配業者にいらない怪我をさせた。桜井は寝不足だった。元から何事も頓着しない性格だと知っているのに、黒田は気をつけろと声を掛けなかった。
 新しいウイルスに対し、効果的な治療薬を開発するのには時間が掛かる。まずは正体を知るところから始めなければならない。黒田は同じ研究者として、嫌と言うほど理解している。現時点での隔離病棟とは、感染者の増加を食い止めるだけに存在し、適切な治療が受けられるわけではないのだ。
 後から後から涙が出てくる。受け止める両手は、しっかり濡れていた。桜井の時間は、どれくらい残されているのだろう。治療薬の完成を待つ間にも、脳はゆっくりとだが着実に穴を開けられていく。記憶を失い、言語を失い、視力や聴力など、あらゆるものが奪われていく。太陽のような笑顔が、指の間をすり抜ける砂のように、あっけなく失われていくのだ。
「桜井ーっ」
 黒田は絶叫し、拳を握る。喉が痛み、息が上がる。ウイルスが憎くて仕方がない。この場にはいない、いたとしても肉眼で見るのは不可能なものの代わりに、外を移す画面を睨みつける。濡れた頬はそのままに、ただ暗いだけではない空間を見続ける。瞬きをする度に、目に溜まった涙が零れた。太陽からは火星と同じほど離れた距離にいるため、小惑星や塵が通れば見ることができる。何度目かの瞬きの後、画面の中央に移ったものに焦点を合わせた。
 小惑星の一つだが、形が珍しい。平たく角ばった石の塊の中で、それだけが球体に近かった。黒田は黄色い画用紙を思い出し、画面に手を伸ばした。
「花咲ける、星」
 その瞬間、灰色の大地に1本の黄色い花が咲き、波紋のように広がっていく幻を見た。
 黒田は頭を振り、顔を乱暴に拭った。機械を順に見ながら、思考を廻らせていく。どんな植物でも、育つための最低条件は決まっていた。光合成ができる環境。温度と水。部屋の中にあるもので、全てを作ることができる。成功の可能性が見えた時、黒田の頭から法を犯すことへの迷いは消えていた。
 自動操縦設定を切り、第4コロニーへの軌道も解除する。着陸地点を見定めるため、小惑星を凝視した。黒田の部屋と同じ大きさの宇宙船なら、5台は楽に降りることができそうだ。着陸場所を指定して自動操縦に再び切り替えると、あとは宇宙船に頼りきりとなる。黒田は衝撃に備えて、床に張り付いた。
「絶対に見せてやる」
 画像から確認できる限りでは、水気は無さそうだ。空気の層を持てるほどの重力も無いだろう。ずっと置物と化していた機械達が日の目を見る時が、ようやく訪れようとしている。黒田は横揺れに対して歯を食いしばりながらも、みなぎるやる気を抑えられずに手を握り締めた。
「まずは重力か」
 船が着陸したと同時に、黒田は立ち上がった。耐熱機能を持つ作業服に着替え、酸素ボンベを背負う。戸を開け放し、業務用の冷蔵庫ほどもある四角い機械を、なんとか宇宙船の外まで押し進めた。機械に付けられた四つのロープをそれぞれ杭で地面に固定し、内蔵されているドリルで穴を開けていく。星の大きさによって表面近くしか掘れないこともあれば、貫通してしまうこともあるかもしれない。黒田が立つ星の半径を機械に計算させると、中心に僅かに届かない程度の深さまでいけることが分かった。中心に近ければ近いほど都合が良い。黒田は黒い粉と乳白色の液体を準備し、掘り終えた穴へ流し込んだ。穴の中で化学反応を起こし、質量を人工的に増す仕組みになっているらしい。化学は専門外の黒田には、詳しい仕組みが分からない。薬品の名前も、肥料にも使えるものであれば覚えているが、流し込んだものに関してはさっぱりだった。
「次は空気だ」
 黒田は額に浮かぶ汗を手の甲で拭うと、部屋に戻る。家庭用電子レンジと同じくらいの大きさの箱を持ち出して、船の横に設置した。更に部屋の隅から6本のボンベ缶を運び出す。黒田の肩の高さまであるから、1本ずつ引き摺る様にしなければ動かすことができない。全てを外に出すと、息を切らしながらバルブを解放した。タイヤがパンクして空気が抜ける時と同じ音がする。黒田は機械から伸びたホースの先端を、酸素、窒素と名前を確認しながらボンベに繋げていく。機械に取り付けられたタッチパネルで濃度を指定すると、あとは自動的に調節しながら気体を放出してくれるのだ。
 黒田が重労働をしている間に、自転が始まったのだろうか。気付けば、宇宙船の影が少しではあるが傾いていた。もう少し速く回転するようになれば、光と影が続く時間のバランスが均一に保たれるようになる。黒田は溜め息を吐いた。
「桜井は、どれくらいもつんだよ」
 医者の高辻でもウイルスの正確な侵攻具合は分からないだろうから、知識のない黒田では想像もつかない。無事であってほしいと祈りながら作業することしかできず、それが余計に焦りを生んだ。光の調整、水の確保、土壌の整備。時間は無いというのに、やる事だけが山のようにある。
「可能な限り、同時進行するしかない」
 黒田はピッケルで岩を削って砂状にし、温度計の先を埋めてみた。地下で起こっている化学反応のおかげで、地熱が上がっているらしい。赤い線が上へと伸びた。太陽が見える距離だから、空気の層が厚くなれば適度な光と気温も確保することができるはずだ。
 問題は水だった。水源が無いから、循環ができるようになるまでは分子レベルから作ってやらなければならない。だが大量に水素を扱うのは危険だ。黒田は、少しずつ作っては土に吸わせる、という作業を両手ではとても足りない回数を繰り返した。見上げると見え隠れする、地球の海面の色が恨めしくなるほどだ。
 ようやく少しだけ湿り気を帯びた土を耕し、ウツボカズラもどきの土の一部から微生物を採取して混ぜ込んでいく。
「気温良し。それぞれの気体濃度、良好。土壌、問題なし」
 黒田は計器で数値を確認していき、種を撒いた。幸いにも、必要以上の種が手元にある。万が一のことを考え、半分を船の中に残しておいた。撒いた後も、一定時間ごとの数値測定は欠かさない。睡眠時間は減り、食事も栄養剤のみだ。好んで見ていた情報番組を付けることさえ無くなった。おまけにボンベを背負う必要が無くなったとはいえ、酸素の濃度は地球よりも薄い。それでも黄色い花畑を思い描けば、苦にならなかった。どうせ1週間も経てば芽が出るのだと、黒田は安易に考えていたのだ。
 ところが、地球時間で2週間が経過しても芽は出なかった。発芽に成功した鉢植えと何が違うというのか。黒田は部屋に戻り、成長記録を確認しようと日誌を開く。そう言えばウイルスはどうなったのかと画面を立ち上げたところで、ブザーが鳴った。高辻からだった。センサーで監視しているだけあってタイミングが良い。桜井のことで何かあるのかと不安も過ぎったが、取次ぎの許可を出した。
『何やってるんだ。なぜ……に来ない』
 黒田は久しく画面を立ち上げていなかったため、小惑星の上では電波の状況が悪いことに初めて気が付いた。音声も映像も、たまに消えかかる。
『ここのところ……にして、だろ。たま……数も体温も、ていしてな、ぞ。寝不足だ、お、え』
 部屋を留守にしがちだったにも関わらず高辻に図星を突かれ、黒田は「忙しいから」の一言だけを残して通信を遮断した。医者とはいえ高辻と話をしても、平行線を辿るだけだ。彼は生きる黒田を優先したいのだろうが、黒田としては今くらいは死にゆく桜井を優先してほしいのだ。
 黒田は椅子に座ると、改めて成長記録と向き合った。だが、要因が分からない。もしかしたら黒田以外にも黄色い花の研究している学者がいるかもしれない。淡い期待を込めて、学界のホームページから検索を掛けてみたが、見つけることはできなかった。
 黒田は食事の回数も睡眠時間も今まで以上に削り、花の世話に勤しんだ。必要と思われる物を取りに行く時だけ部屋に入り、それ以外はずっと外に居続けた。温度の調整に空気濃度の調節。肥料の合成具合を変えたりもした。日に一度は襲われるめまいを、頭を振ることで無視する。時計を確認する間さえ惜しく、地球時間で何日経過したのかさえ把握できなくなっていた。ただ、発芽に成功した1本の黄色い花も、大事にしていたウツボカズラもどきも、気付いた時には枯れていたから、随分と放っておいたことは黒田にも分かる。それでも泣いていられないほど、余裕は無かった。
 しかし、何を犠牲にしても芽が顔を覗かせることは無かった。
「いったい、いつになったら芽が出るんだっ」
 黒田は、拳を机に叩きつける。天板には、土と肥料の山ができていた。一部がなだれを起こしたが、拾い上げる気にもなれない。拳をもう一度机に叩きつける黒田の背後で、ブザーが低く鳴った。外部通信だ。思えば、検索に失敗した後に画面を切った覚えがない。映像と音声が垂れ流しになっていることに、部屋の主は気付いていなかった。くもの巣でも貼ってしまったのではないかと思えるほど働かない頭で、取次ぎの許可を出す。相手が高辻だということさえ、理解するのに5秒は要した。
『だ、丈夫か、黒田っ』
 驚いた高辻は、身を乗り出したのだろう。見飽きた顔が、更に大きくなる。まどろみの中を彷徨っているのかと思えるほど思考がはっきりしない黒田でも、徹夜続きで栄養も足りていないということは分かっている。鏡こそ見ていないが、それは酷い顔をしているだろう。頬に触れれば弾力が無く、髭も指の関節1個分くらいは伸びてしまっている。
「僕のことは、いいよ。何かあった?」
 とりあえず、黒田は椅子に腰を掛けた。震える足を、狼狽する高辻には見せたくなかった。
『そ、だった』
 高辻の頭から用事が抜けるところを見るのは、かなり珍しい。長く息を吐いて、右手で顔を覆う。しかし、その行動は羞恥を隠すため、というものではなかった。
『まずいこ、にな……く研究を止め、コロ……来い。さく、が』
 電波の調子は、相変わらず悪い。高辻が肝心なことを告げる前に、通信が切れてしまった。「まずいことになった」と言っている時点で、黒田にも悪い知らせだと悟ることはできたが。高辻の話を聞いて良かったのかもしれない、と黒田は思った。時間制限が、はっきりと見えたからだ。
 嘆いてばかりもいられない。黒田は外に戻るため立ち上がろうとしたが、腰に力が入らなかった。今度は、やはり聞かなければ良かったと考える。完全に、気力が失われていた。椅子に座ったまま、開け放たれた外の世界を力なく眺める。灰色の大地しかない。桜井の夢を叶えてやることができない。黒田の頬に、涙が伝った。
「僕は、本当に無力だ」
「それは違う。黒田君は、すごい」
 応じるはずのない声が聞こえ、黒田は辺りを見回す。鉄の壁に囲まれた場所からでは、声の主が見えない。再び立ち上がろうとしたが膝が震え、倒れる椅子と一緒になって床に崩れ落ちた。
「本当に、花畑を作ったんだね」
 まるで、魔法の言葉だ。呪いが解けたかのように、灰色の世界に1本の黄色い花が咲き、波紋のように広がっていった。小惑星を見つけた時に黒田が目にした幻を再現したかのようだ。
 黒田は外を見据えたまま、這って出口へ移動する。歩けばたった8歩の距離が、妙にもどかしい。ようやく部屋を出ると、掌より小さい向日葵のような花が揺れていた。小型船にもたれ掛かるようにして座った黒田は、改めて周りを見回した。
「咲いてる。なぜ」
 画用紙と同じように、世界が黄色で満たされている。異質なものは、黒田と小型の宇宙船。砲撃台が取り付けられた機動隊用の小さな船。一昔前の白い宇宙服のようなものを身に纏った人間が2人。感染を防ぐものだと理解した黒田は、喉が引きつるのを自覚した。一人は、誓いを立てた人物だった。
「桜井。なぜ、ここに」
 黒田の声が擦れた。言葉が通じたか確認しようと見上げ、息を呑む。ゆっくりと持ち上げられた桜井の右手には、小銃が握られていた。
「動植物星間保護法違反、及び感染症拡散防止条例違反により、あなたを逮捕します」
 目を見張る黒田に、罪状が言い渡される。桜井は、いつになく早口だった。
 動植物星間保護法違反、というのは黒田にも理解できる。可憐に咲く黄色い花々が、動かぬ証拠だ。無人の小惑星とはいえ一面を未知の植物の花畑に変えたのだから、厳罰は免れない。始めから覚悟していたことだから、銃を向けられ恐怖心を抱いても、後悔することも懺悔する気も黒田には無かった。
「感染症拡散防止条例違反、とは?」
「種が届いたって言ってたでしょ。黒田君の所に来た宅配業者は、新ウイルスの感染者だったの」
 黒田は、小刻みに震える右手を見下ろした。日々めまいに襲われたことも、今まともに歩くことができないのも、不摂生が原因ではなかったのだ。黒田が希望しているとまでは知らなかったろうが、高辻は死にゆく患者を優先していた。何度もコロニーに来るよう要請したのは、純粋に感染者だからだ。見舞いに来いと言っていたわけではなかった。電波の状況が悪く言葉が切れた部分を、黒田が繋いで勝手に想像していたに過ぎなかった。
 今の黒田は、軽い障害で済んでいる。だが、そのうち徘徊したり凶暴化するかもしれない。大きな障害が出始めれば完全に手足を動かすことができなくなり、やがて死に至る。
 そこまで考えて、黒田は首を傾げた。黒田に声を掛ける前から、桜井には黄色い花が見えていたことに、ようやく気付いたのだ。
「障害……そうか。始めから、花は咲いていたのか」
 黒田だけが見えていなかった。腹の底から笑いが込み上げてくる。黒田はひとしきり笑うと、桜井を見上げた。次いで、機動隊用の船を指差す。
「事情は分かったよ。早く船に乗り込むと良い。君達は、犯人の黒田を見つけることができなかったんだよ。だから砲撃に巻き込んでも、罪悪感を持たなくて良い」
「そんな。一緒に行きましょうよ、黒田さん。いつか薬も開発されるはずですっ」
 桜井の斜め後ろに控えていた人物が、首を横に振る。黒田は声を聞いて、やっと正体が分かった。桜井とは同僚だし、黒田とも面識がある。いても、おかしくはない。
「伊集院君も分かっているだろう。たとえ僕が完治したとしても、極刑は免れないんだ。それに、動植物星間保護法に違反した動植物は、完全に廃棄されなければならない。それとも僕には、あの砲撃台の意味を悟れないとでも」
 黒田は花畑を作っただけでなく、小惑星の内部さえ手を加えてしまった。警察の上層部は、星自体を消し去ることを選んだのだ。黒田の口から、また笑い声が漏れ出す。
 桜井は踵を返すと、伊集院の右腕を掴んだ。彼女はこちらを一切振り返ることなく、同僚を引き摺っていく。何度も黒田を呼ぶ伊集院に対し、黒田は手を振って頷いてやった。呼び声が止み、燃料に火がつく音がする。船内では、伊集院が桜井を攻めているのだろう。エンジンの回転音と振動とが、同時に黒田の体を襲った。背に宇宙船が無ければ、地面に転がっているところだ。
「辛い役回りをさせて、すまなかった」
 桜井と伊集院を乗せた船が、徐々に星から離れていく。上から強く吹きつける風に煽られ、黄色い花が激しく揺れた。たまに花同士がぶつかり合い、小さく音を立てる。黒田の腕にも何度も花がぶつかったが、痛みは感じなかった。
「それでも、後悔はしていない」
 肉眼では、完全に船を見ることができなくなった。それでも空を仰いでいると、小さな青白い光が3回点滅するのが見えた。黒田はほほ笑むと、静かに目を閉じる。目蓋の裏が、白に染まった。