第15話 見守る羽

 鉄柵の端に、ハイエロファントがゆっくりと近付いていく。二つの玻璃を同時に望める位置に、最後の鍵はあった。
 皆が見守る中、彼の右手が白い石に添えられる。太陽を象っているらしい鍵は赤く輝き、台座の中に埋め込まれる様子が、自分の位置からでもかろうじて確認できた。
「何も、起きない?」
 自分の腕に捕まったままのラバーズが、不安そうに周りを見回す。何か見えるでもなく、何が聞こえるわけでもない。
 彼女の言う通り、自分達には何も起こっていないように感じた。嵐の前の静けさのようで、不気味にさえ思える。
「いや、もう起こっているよ」
 ハイエロファントがこちらを振り向いた矢先に、それは起こった。
 デスが突然呻き声を上げて、床に転がり回っている。彼を心配してしゃがみ込んだエンペラーも、そのまま崩れるように両手を床に突いてしまった。
「実験に参加した研究員を、全員ここに連れてきてある。塔の内部が、こんな感じだ」
 塔の内部。その単語が引っ掛かり、顔を上げる。
「デビルはっ?」
 ラバーズの手を振りほどいて、階下に戻ろうと走りかける。しかし、強い揺れに襲われたおかげで、ままならなかった。
 高い踵の靴では、足を取られてしまう。壁に手をつき、なんとかやり過ごそうと試みるも、揺れは一向に収まらない。
「崩れるっ」
「まさか、こんな仕掛けまでしてあるとはっ」
 兄でさえも、知らされていなかったようだ。そんな彼の目の前で、ジャスティス側の玻璃に大きくひびが入った。途端に漏れ出す液体の圧力に耐えられなくなったそれは、音と共に割れた。中から飛び出してきた彼女を、エンペラーがかろうじて受け止める。
 彼等をあざ笑うかのように、床が割れた。咄嗟に避けたハイエロファントとエンペラー親子の間には深い溝ができ、完全に隔たれてしまっている。揺れのせいで、それは徐々に広がっていった。
「ファントッ、デスを頼む」
 エンペラーはジャスティスを傍に下ろし、代わりに身体を縮め苦しんでいるデスを抱え、ハイエロファントに向かって投げた。慌てて受け止める体制に入った彼もろとも、床に倒れ込む。
「エンペラーッ」
 向こう側の床は、エンペラーとジャスティスを乗せたまま、下へと崩れ落ちていく。泣き叫びたいほど心の痛みはあるが、今はそんな時ではない。
「立って、兄さん。ここも危ないわっ」
 ラバーズと協力して、兄を引き起こす。彼がデスを抱え上げたのを確認すると、いまだ眠り続けるジャッヂメントを一度見て、走り出した。もう、彼の映像は姿を消していた。
 真っ直ぐの階段を駆け下り、世界を踏んで通り抜ける。上の階にいた時よりは、若干だが揺れが弱まっていた。これなら、螺旋階段も行きやすい。
 更に階下へと走ってくると、ハングマンとデビルとフールの3人は、この揺れの中でも対峙し続けていた。1対2でも怯む様子がないハングマンには、ある意味で信念の強さを感じられる。
 一触即発の空気を壊したのは、意外にもハングマンその人だった。兄の姿を認めた彼は、厳しい眼をして一気に詰め寄る。
「これは、どういうことだ? ファントッ」
 怒りに震える彼に反し、ハイエロファントは静かに口を開いた。
「見たままだ……研究も終わりだ。本当は、分かっていただろう? ここは危ない。外に出よう」
 伸ばされた彼の右手を、ハングマンは振り払う。首を何度も横に振る姿は、駄々をこねる子供のように見えた。
「ああ、分かっていた。しかし、研究は終わらな」
 その時、また大きな揺れが襲った。降りてきた階段が壊れ、壁が崩れる。
「兄さんっ」
 ハイエロファントの頭上にある壁の一部に亀裂が走ったのが見えたが、自分も転んでしまい、悲鳴を上げる以外に何もできない。兄が降ってくる鉄の塊を確認するよりも早く、ハングマンが彼の肩を強く押して逃がした。
「ハング……」
 自ら壁の下敷きとなってまで助けてくれたハングマンの名を、ハイエロファントは座り込んだまま呆然と呟いた。血が徐々に、彼の足元まで広がっていく。
「行こう。君まで犠牲にしたら、ハングに合わせる顔がない」
 フールが腕を引っ張ることで、幼馴染を立ち上がらせた。2人とも辛そうな顔をしていたが、見ぬ振りをして先を急ぐ。
 途中で、デスと同じように苦しんでいるはずのデビルの顔を、横目で見上げた。
「大丈夫だよ」
 笑うデビルは一見しただけでは、本当に言葉の通りに見える。それでも額の玉のように浮かぶ汗を、見逃しはしなかった。
 通常なら、様々な傷を負った彼等を休ませたいところだが、今は足を止めるわけにはいかない。地上まで、あと半分の距離が、とてももどかしいものに思えた。
 星の間や1階の隠れ部屋には、既に誰の姿もなかった。比較的、地上に近いところにいた彼等は、上階の音と突如現れた苦しみに耐えられず、逃げ出したのだろう。
 入り口から外へ飛び出すと、ホイールとマジシャンがそれぞれ青褪めながらも、ホバーカーを浮かせて待っていた。
「急いで乗って。離れないと危ないわ」
 塔の周りには自分達の姿しかなく、フールのプロペラ機や研究員達が乗ってきていたはずの小型飛行機も見当たらない。未来視を持っていたホイールと、占い師のマジシャンのことだ。1階にいた彼等は、隠れ部屋で研究員をやり過ごした後、こうなることを見越して動いていたのかもしれない。
 二手に別れて乗り込んだホバーカーは、それぞれ落ちてくる瓦礫の合い間を縫うようにして走る。大きな塵の滝を抜け、視界が極めて悪い砂の霧を突き破った。珍しく唸りを上げる2台の機械は、離れたところで待っていたエンプレスとワンドの近くに止められる。
 少し高いところに位置する場所は、塔が崩れていく様がよく見えた。永遠の命の呪縛から解かれた者はホバーカーの上、影響が無い自分達は砂漠の上から、その光景をずっと眺めていた。
 時折、塔の方から風に乗った砂埃がやって来る。それと共に、白い綿毛が届いた。
「羽?」
 飛んできた1枚を、拾い上げてみる。塔に、こんな材料が使われていたのだろうか。
 首を傾げていると、ワンドの優しい声がした。
「ジャッヂメントは、こんなことも仕掛けておいたのですね。白い鳥はね、エステス。世界平和の象徴、だそうですよ」
「白い鳥……ペンタクル・エースも、白い鳥でしたね」
 恩師は、一つ頷く。
「始まりは、たった1人の人に生きていて欲しかった。ただ、それだけなんですよ」
「僕は、なんとなく分かるよ」
 振り返れば、デビルがこちらを向いて微笑んでいた。
「僕だけじゃなくて、フールもランスもデスも……そこの教授も、分かるよ。その人が笑っていれば自分も幸福だし、泣いていれば悲しいんだ。いつかエステスにも、分かる日が来るよ」
 「その相手が、僕だと良いんだけど」と小声で言った彼は、また笑った。これまで見たことがないような、少し切ないような笑顔だった。
「誰しも持っている気持ちが、少し行き過ぎてしまっただけなんですよ。ハミット卿も……ハングもね」
「ワンド先生」
 か細く、教授を呼ぶ声がする。自分の手で全てを終わらせ、多くのものを失ったハイエロファントは、迷子のような頼りない顔をしていた。
「本来なら、ジャッヂメントの役目ですが……お帰りなさい、ファント」
 どこまでも温かいワンドの声音に、兄はとうとう涙を流した。誰よりも気丈に振舞っていたのは、実は彼だったのかもしれない。
「ワンド先生。私は、守れなかった……友も、何も」
 崩れ落ちるハイエロファントに、ワンドはただ優しく声を掛ける。
「いいえ、貴方は大切なものを守ったのです。ジャッヂメントとジャスティス兄妹の意思と、貴方自身の命。特に後者は、ジャッヂメントもハングも、一番に望んでいたことなのですよ」
 代弁者の言葉に、目尻を拭った。その眼の先で、塔が砂の中へと沈んでいく。それぞれの大切な人を飲み込みながら。
「そろそろ帰りましょう、兄さん。体調不良者、続出なのよ? 手伝わない、とは言わせないわ」
 殊更、明るいものに聞こえるよう意識的に高い声を出して、右手を差し出す。
 実際に、なんの障害もなく砂の上に立っている人間の方が少なかった。ホイールに、マジシャン。ストレングス。先から平気そうに振舞っているデビルですら、呪縛からの解放に苦しんでいる。デスに至っては、気を失ってしまった。彼に膝枕をしているエンプレスも、この暑さには正直参っているだろう。ワンドだって、本来なら病室の中の住人のはずなのだ。
 ハイエロファントは見回して現状を確認すると、しっかりと自分の手を取って頷いた。
「そうだね。まだ、これからやる事の方が多そうだ」
 彼の笑顔は、とても柔らかいものだった。

   ◆◆◆

「ワンド教授、もうお身体は大丈夫なんですか?」
 まだ残暑が厳しい廊下で、背後から声を掛けられる。家族のような間柄だが、この顔を見るのは久し振りだ。
 砂漠での無理が祟ったのか。あの後、即、緊急入院となってしまった。しばらくは病院関係者が入れ替わり立ち代わりで、周りを随分と心配させたらしい。
 自分は、夢の中を彷徨っていただけなので、何も知らないが。
「はい。足は後遺症が残りそうですが、他は見ての通りですよ」
 怒ったソードに鏡を突きつけられた時は、自分でも驚くほど酷い顔色をしていた。今は、だいぶ血色が良くなってきている。足に関しては、砂漠に行く行かないに関わらず決まっていたことだから、さして気にもならない。難を言えば、車椅子が少し窮屈に感じるくらいだろうか。
 ハイプリースティスが、安堵したように笑った。少しだけ伸びた髪が、肩に触れる。
「そちらの方は、いかがですか?」
「デスは、まだ起き上がることができません。成長痛もあるみたいで……エンプレスが、診てくれています。ファント兄さんは、語学の勉強をしていますよ。と言うのも、デビルが……あ、もしかして母さんのことが知りたかったですか?」
「は?」
 確かに昔からの知人として気になりはするが、この話の振り方はどうしたことだろう。
「聞きましたよ、ワンド教授。実は若い頃、母さんに気があったらしいですね」
 人の悪い笑みを浮かべて見下ろしてくるハイプリースティスに、目を丸くする。いったい、いつそんなことを聞いたのだ。
「エステスは、ジャッヂメント似ですね」
「あら。父さんは、母さん似だって言ってましたよ」
 緑玉の瞳を輝かせ破顔した彼女は、今までに見たこともないような明るい表情をしている。今回の件を引き摺るでもなく、否定するでもなく、きちんと受け止めて彼女なりに消化した証だった。
 その彼女を、遠くから呼ぶ声がする。ハイプリースティスは一度廊下の向こうを振り返って確認すると、こちらに向き直り一礼した。
「それじゃ、もう行きますね。後期の授業も、楽しみにしてます」
 今度はこちらを見ることなく、廊下の先で待つ少年の元へ駆けていく。
 全てに面白がって、貪欲に知識を吸収しようとする少年と。彼を支えようと言うように、寄り添う少女と。
 そのどちらもが、とても眩しく見えた。
「あの頃に戻ったみたいですよ、ジャッヂメント」
 窓の外に、目を向ける。輝かしい世界の中で、白い鳥が羽ばたいていった。