第6話
翌朝、目を覚ました時には、佐和は魔法を使えなくなっていた。どれだけ強く念じても、呻っても、ティッシュペーパーの1枚も宙に浮くことはなかった。
佐和が「あーあ」と声を漏らした時、部屋の窓ガラスに何かが当たる鈍い音がした。何事かと佐和が振り返ると、長老が前脚を窓ガラスに押し付けていた。毛むくじゃらの体が震えている。長老は笑っているのだ。彼は、窓越しに見ていたらしい。ティッシュペーパーに手をかざし、懸命に何かを言っている佐和の姿を。
佐和は顔を赤くしながら、窓ガラスを勢い良く開いた。長老が、部屋の中に転がり込む。
「朝から、何か御用ですか?」
佐和が睨みつけると、長老は「すまん、すまん」と軽く謝った。長老といい、土井といい、人に謝る態度がなっていない。佐和は、鼻を鳴らした。
「鞄の中身、山根の嬢ちゃんが持ってきおったぞ。下に行ってみるが良い」
佐和は目を丸くすると、長老を置いて部屋を飛び出した。廊下を駆け、エレベーターに乗り込む。
昨夜、土井に送ってもらった佐和は、カードキーさえ持っていないことに気付いた。その時は、土井の力で難なく部屋に入れてしまったのだ。疲れきっていた佐和は、ベッドに倒れ込むなり眠ってしまった。起きた時に自分のベッドの上にいたことで安心してしまい、カードキーの存在を今まで忘れていたのだった。
エレベーターを降りて、ロビーを抜け、オートロックを外す。すると長老の言う通り、アスファルトの上に山根が立っていた。何故か入り口からは遠く離れた所にいて、マンションの住民に会いに来た人というよりは、喫茶店の空席待ちをしている人といった感じだったが。
「山根さん、おはよう」
佐和が声を掛けると、山根が駆け寄ってきた。手には、佐和の黒い鞄を提げている。
「おはようございます。あの、すいません。私、近所の家以外で人の家に来るの、初めてで。緊張してしまって」
山根の声は小さかったが、おどおどしている感じではない。緊張と気恥ずかしさが、そうさせているのだ。山根の変化に佐和は笑うと、長老が上で待っているから、と山根を促した。
「鞄、ありがとう」
エレベーターに乗り込むと、山根が鞄を返してくれたので、佐和は素直に受け取った。
「昨日、土井先生と連絡を取ってから、家に帰って拾ったんです。朝も確認したので、全部揃っていると思います」
念のため中身を確認してください、と言うので、佐和は鞄の中を探りながら廊下を歩いた。カードキーも財布も学生証も、大切なものは全て揃っている。持ち主がすっかり忘れていた、どこかの店の期限切れクーポンまで入っている。佐和がもう一度礼を言うと、山根は微笑みを浮かべた。
カードキーで鍵を開け、佐和と山根は部屋の中に入った。リビングでは、長老がソファの上に寝転がり、我が家のようにくつろいでいる。佐和は溜め息を吐いて、自分と山根にはお茶を、長老には水を渡した。
「黒田さん、傷治って良かったね」
佐和の頬を見る山根に、佐和は頷いた。
「これも、山根さんのおかげだね。ありがとう」
「これ、娘。私にも礼を言わんか」
胸を張る長老に、佐和は適当に礼を述べた。
土井から聞いた話では、まず山根が病院の向かいの家、つまり佐和が声を掛けた中年の女性に真紀の実家の電話番号を聞きだした。真紀は自分も沈み込んでいるにも関わらず、切羽詰った山根の声を聞いて、土井に電話を取り次いでくれたらしい。山根から佐和の身に起こっていることを聞いた土井は、通夜が終わった後、100キロを越える距離をホウキ1本で飛んできてくれたのだ。
つまり、長老は山根に抱かれていただけで、特に何もしていないことになる。
「で、魔法の力は長老に返せば良いの?」
佐和は言いながら、まるで残念に思っていない自分に気付いていた。魔法は金曜日にしか使えないし、使えても様にならなかった。自分には、おまじない程度で充分かもしれない。
「そうじゃのう。あやつも旅に出てしまったことじゃし」
貢の話を聞くと、少しだけ佐和の胸が痛んだ。結局のところ、佐和は本当の名前さえ教えてもらっていない。
「魔法の力は、もうしばらく預けておこうかの。あやつの代わりに、私をしっかり守れよ、娘」
長老とは本当に、本っ当に反りが合わない。
佐和が頬を膨らませると、長老は頭を下げた。
「私はとうに、おまえさんを信頼しておる。この地域のためにも、頼んだよ。佐和さん」
長老は、ずるい。そう言われてしまうと、断れないではないか。
佐和は溜め息を吐いた。
「分かりました。金曜日だけ、魔法使いになりましょう」
始まったばかりの大学生活に、新しい刺激が加わった。それも悪くはないかもしれない。佐和は山根と顔を見合わせると、互いに笑い合った。