第2話

 すぐ近くで、誰かの寝息が聞こえる。それは、とても小さな音で、少しでも身じろぎすれば聞こえないほどだった。佐和が目を開くと、見慣れたような見慣れないような景色があった。佐和は起き上がろうとしたが、すぐにうずくまってしまう。背中やら腰やら関節やら、とにかく全身が痛むような軋むような感じになっていたのだ。佐和は溜め息を吐くと、両手で体を支えた。なんとか起き上がって部屋の中を見回すと、そこはリビングだった。佐和の隣りでは、白猫が寝息を立てている。
 佐和は頭を掻いた。状況から、猫の寝顔を見ていて、そのまま眠ってしまったことは間違いない。だから寝起きでも体がだるく感じ、節々が痛いのだ。今テレビの電源がついているということは、消さずに寝てしまったのだろう。洗濯用洗剤のコマーシャルを見て、佐和は頭を抱えた。ようやく、洗濯の途中だったことを思い出したのだ。今頃、洗い物は洗濯機の中で皺だらけになっているに違いない。
「洗い直さなきゃダメかな」
 アイロンを掛ければ良い話かもしれないが、あいにく佐和の家にアイロンというものが無い。
「アイロンって、いくらなんだろ?」
 首を傾げていた佐和は、テレビ画面がコマーシャルから情報番組に切り替わった途端に、勢いよく立ち上がった。画面の左上に、白い文字で現在の時刻が表示されている。佐和は、急に頭から足へ血液が下がっていくのを感じた。
「やばい、遅刻っ」
 佐和は歯を磨き、顔を洗い、ローチェストから適当に服を取り出して着替えた。ローチェストの引き出しは出っ放し、脱ぎ捨てたルームウェアも床に放ったままだ。胸まである黒髪に、乱雑にブラシを通す。梳かすだけで、寝癖で盛大に跳ねた部分は無視した。ハンカチと携帯電話を鞄の中に押し込み、鞄の取っ手を引っ掴むようにして持ち上げる。鞄を肩に掛け、冷蔵庫を開けると栄養ドリンクを取り出した。それを一気飲みする。流し台に置いたつもりが、指が引っ掛かって落ちて割れてしまった。
「あああ、もういいっ」
 鞄のポケットを指で探り、カードキーが入っていることを確認する。パンプスに踵を押し込んで、外へ飛び出した。実家にいる時はジョギングを日課としていた佐和は、長距離にそれなりの自信がある。エレベーターを降りると、全速力で大学を目指した。春風が佐和の背中を押すので、走る速度は増しに増した。風に煽られ苦労している自転車の脇をすり抜け、混雑している車の列を追い抜いていく。今朝の歩行者信号は不思議なほど青続きで、佐和のために道を空けているかのようだった。おかげで、佐和は講義に遅れないで済んだ。むしろ、購買に行けるくらいの余裕があるほどだった。
 胸を撫で下ろした佐和は、購買でカレーパンと野菜ジュースを買った後、中庭に寄った。校舎に囲まれた中庭には掲示板があって、休講やサークルメンバーの募集など様々な連絡事項が貼られている。朝一番に掲示板を確認する癖をつけなさい、と入学時のオリエンテーションで教えられたのだ。
 掲示板に近付いた佐和は、先客の横顔に目を丸くした。昨日、迷惑を掛けてしまった相手が立っていた。
「山根さん」
 くせ毛を揺らして振り向いた山根は、小さな声で挨拶をした。すぐに俯いてしまった山根だが、特に驚いている風ではなかった。なんだか肩透かしをくらった気になった佐和だったが、山根の視線に気が付いて、提げていたビニール袋を顔の横に持ち上げる。すると山根の視線も上がるので、自然と目が合うような形になった。山根は袋だけを見て佐和の目は見ようとしないので、あくまで『ような』だが。
「遅刻しそうだったから、食べてきてないの。今、購買で買ったとこ」
 山根は自分の腕時計に視線を落とすと、首を傾げた。
「でも、余裕、あります、よね」
「そうなの。運良く、信号が全部青だったから」
 佐和は視線をさまよわせ、食堂の前に植わっている大木の下に目をつけた。ちょうどベンチが一つ空いている。食堂の前だから、飲み食いしていても生徒の目は気にならないだろう。
「ねえ、山根さん。今、余裕ある? 良かったら、少し付き合ってくれないかな」
 普段の佐和は、自分から人を誘うようなことはしない。緊急事態だった昨日が例外なのだ。しかし、猫のおかげで1人の食事が味気ないと気付かされたためか、昨日からの延長線上で山根に甘えているのか。自然と、山根を誘う言葉が出てきた。これには佐和自身も驚いたが、不快とも感じなかった。
 山根が頷くのを見て、佐和はベンチへと移動した。設置してまだ日が浅いのか、木目がしっかり入った綺麗な木のベンチだ。佐和が右隅に寄って座ると、山根は左隅に腰を掛けた。体半分ほど空いた隙間が、山根の中でも距離感を表している。2人の間に、垣根のように鞄を置かれなかっただけマシというものだ。
 佐和は気にすることなく、鞄を足元に置いた。ビニール袋を膝の上に乗せて、カレーパンと野菜ジュースを取り出す。野菜ジュースにストローを刺すと、ゴミはビニール袋の中に入れた。一口飲んだ後、山根に顔を向ける。山根は、佐和の行動を見守っていたらしい。佐和と山根の目があった。やはり一瞬の間だけで、すぐに山根は俯いてしまったが。
「山根さん。さっき私の顔見ても、驚かなかったじゃない。なんで?」
 率直に問いながら、佐和はカレーパンの包装を破いた。大口で噛り付いたが、カレーには到達しなかった。
「オリエンテーションの時、見てた、から」
 「見てた?」と、佐和はオウム返しに聞いたが、口いっぱいにパンが入っていたため言葉にならなかった。仕方なく噛んでいる間に、山根は耳まで真っ赤に染まっていった。
「真っ直ぐな黒髪が、綺麗だなって。うらやましい、と。思って」
 彼女の言葉が本当だとすると、佐和が猫を抱えて声を掛けた時から、山根は同じ学年の人間だと知っていたことになる。
 佐和が目を丸くしていると、山根は恥じ入るように身を縮めた。今も佐和の顔を見ることができないほど、人見知りが激しい彼女のことだ。知らない人物に見とれたり憧れを抱くなど、今まで無かったのだろう。正直な告白が恥ずかしいのと、怒られたり嫌がられたりしていたらどうしよう、という思いが心の中で渦巻いているに違いない。
 対して佐和は、そうだったのか、くらいにしか受け止めていなかった。佐和の容姿は、「美人か?」と問えば、たいていの人が「美人だ」と答える。佐和は昔から、容姿に関して褒められることに慣れていた。日本人形のような黒髪も同様で、褒められもすれば、いらぬ嫉妬を買うこともある。正直なところ、面倒だな、と思うことさえあった。
 しかし山根の様子から、嫉妬という醜い感情はうかがえない。佐和は、野菜ジュースでパンを流し込んだ。
「ありがとう。でも私は、くせ毛がうらやましいって思った時期があったけど」
 山根は顔を上げて、佐和の方を見た。最初は眉を寄せていたが、数秒で解かれた。どうやら盛大に跳ねている黒髪を見て、佐和が髪に無頓着だということに気付いたらしい。山根は膝の上に乗せたピンク色の鞄から白いシュシュを取り出すと、佐和に差し出した。
「みつ編みなら、分かりにくくなる……と思います」
 山根の提案に、佐和は目を泳がせる。
「私、みつ編み、できないんだけど」
 短く驚きの声を上げた山根を、佐和は恨みがましく見返した。途端に、山根は小さく謝りながら下を向いてしまう。佐和はカレーパンに噛り付いた。今度は辿り着いたカレーの味を楽しみながら、妙案を思いつく。
「山根さん、みつ編みできるんでしょ。私、今両手が塞がってるから。山根さんがやってよ」
 山根がまた顔を上げた。その顔には困惑の色が浮かんでいたが、彼女は頷いた。立ち上がると佐和の後ろに回って、手ぐしで黒髪をいじり始める。佐和はもう一口、カレーの味を楽しんだ。
「そう言えば、山根さんって学部どこ?」
 頭を動かせない佐和が目だけで上を向いても、山根の姿は見えなかった。優しく細やかな指使いが、頭皮を通じて感じ取れる程度だ。そこへ、呟きにも似た声が降ってくる。
「獣医学部、です」
「獣医学っ!? 山根さん、頭良いんだねっ」
 驚いた佐和は、後ろを振り向こうとした。しかし、山根が髪を持っているために髪を引っ張られ、痛い思いをするだけに留まった。
 獣医学部を持つ大学は、全国的に見ても非常に少ない。ペットブームで獣医の関心が高まっている中でも、募集人数は一向に増えない。したがって、とても狭き門となっている。
「私、勉強くらいしか、やることがなくて。黒田さんは、どこですか?」
「私は医学部。実家が病院だから。病院は兄が継ぐことになってるけど、おまえも手伝えって。なので、臨床検査技師になる予定なのです」
 佐和は残りのカレーパンを一気に食べ終えると、ハンカチで手と口を拭いた。包装の残り部分を持っていたはずだが、指の先は油で光っている。後でトイレに寄って、手を洗ってきた方が良いかもしれない。野菜ジュースも飲みきると、パンの包装と一緒にビニール袋へ突っ込んだ。
 ちょうど佐和の髪も編み終わったらしい。山根が手を離したので、佐和は自分の頭に手を当てた。上の方まで編み込まれている。合わせ鏡でないと確認できないのが残念なほどだ。
「ありがとう。山根さん、器用だね」
 佐和がようやく後ろを振り返ると、山根の頬が赤く染まっていた。今は佐和の顔の方が山根のものより下にあるため、山根が俯いても目が合ってしまう。目のやり場に困ったように左右を見ていた山根は、自分の腕時計に目を落とした。
「そろそろ、行かないと」
 佐和は立ち上がって、携帯で時刻を確認した。たしかに、そろそろ行かないと講義に遅刻してしまう。
「本当だ。今日も付き合ってくれて、ありがとう。お互い、授業がんばろうね」
 山根が頷くのを確認して、佐和は教室へと移動を始めた。起きた時に比べると、体が随分と軽くなっている。これなら気分良く講義を受けられそうだ。
 佐和がそう思った通り、午前も午後も前向きな気持ちで講義に臨むことができた。おかげでマンションの前に来るまで、部屋の中の惨状を忘れていられたのだ。
 指紋認証でオートロックを外した瞬間に朝の出来事を思い出した佐和は、項垂れながらエレベーターに乗った。溜め息が出るが、自分がやったことなので仕方がない。諦めがついたところで6階に到着した。佐和は帰ってやらなければいけない事を考えながら、廊下を歩いた。割れた栄養ドリンクの瓶を片付けなければならないし、皺になった洗濯物も洗い直さなければならない。
「アイロン、見てくれば良かった」
 また1階まで戻るのも面倒に思えた佐和は、カードキーでドアの鍵を解除した。リビングに入って猫の様子を見ると、透明度が高いアクアマリンの瞳が見えた。
「起きてたんだ。意識戻って良かったね」
 佐和の言葉に、猫はかわいらしい鳴き声で応えた。傍に佐和が鞄を置いても反応を示さないところを見ると、まだ身動きができないらしい。佐和は白猫の首元を撫でると、立ち上がって台所に向かった。
「あれ?」
 佐和は、自分の目を疑った。床に散ったはずの瓶の破片が無い。代わりに、流し台にコップが一つ置かれている。慌てていたから記憶違いでもしたのだろうか、と佐和は首を捻った。
 次に、佐和は洗濯機へ向かった。ドラム式の洗濯機の蓋を開けて、佐和は固まった。洗濯層の中は、空っぽだったのだ。記憶が無いだけで、きちんと取り出してから寝てしまったのだろうか。ベランダにも室内にも、洗濯物を干している様子は無かったと思うが。しばらくの間、佐和はしゃがんだまま呻った
 そのままでいても仕方がないので、佐和は寝室へと向かった。床には、ルームウェアが脱ぎ捨てられているはずだ。そう思ったのは間違いだった。部屋の戸を開けた佐和は、ベッドの上にあるものを見て目を見張った。ルームウェアはおろか、洗濯層の中に放置していたはずの洗濯物まで畳んで積まれている。
 佐和は仁王立ちをして、畳まれた洗濯物を見下ろした。ここまで来ると、記憶違いとも思えない。訳の分からない現象に、佐和は瞬きも忘れてタオルを見ていた。一番上にあるのは、淡い黄色のバスタオルだ。そこで、魔法のような出来事を昨日も目の当たりにしたことを思い出す。
「土井先生だっ」
 鍵も防犯カメラも意味を成さない彼には、部屋に佐和がいようがいなかろうが関係なく室内に入ることができる。泥棒はしない、と土井は宣言していた。念のために、佐和は預金通帳や印鑑を確認したが、決めた置場から動いていない。佐和は息を吐いた。土井が佐和の部屋で気にすることといえば、傷を負った白猫くらいのものだろう。きっと猫の様子を見にやって来た土井が、室内の惨状を見かねて片付けてくれたに違いない。ローチェストの引き出しはしまっているのに、畳んだ洗濯物はベッドの上に積まれている。ということは、さすがに引き出しの中を確認するのは躊躇した、ということだろう。
「しばらく顔合わせたくないな」
 白いレースのパンツを広げて、佐和は深い溜め息を吐いた。胸の内には、片付けてもらってありがたい気持ちと、放っておいてほしかったという思いが、複雑に渦巻いていた。