V.薄茶色の便箋

 果たして国王というものは、簡単に出歩ける人物だったろうか。少なくとも先代が城下に出掛ける時は、とてもお忍びとは思えぬほどの護衛を侍らせていたものだ。先代も行き過ぎたところが多々ある人物であったが、ジャンルカの奔放ぶりには頭を抱えたくなる。
「なんだ、その顔は。せっかく自ら迎えに来てやったというのに」
 腕を組み、反り返って頬を膨らませる姿は、拗ねて開き直った幼い子供と変わらない。
「ありがた過ぎて、涙が出そうですよ。陛下」
「ありがたい顔というのは、そういう顔を言うのだな。よく分かった」
 ジャンルカは、馬車から軽やかに飛び降りた。多忙なうえに、無駄な殺生を良しとしない性格だからだろう。狩りには出向いたことがない国王だ。しかし、若葉色の狩り装束は不思議と似合っている。
「まあ、よい。今日のところは、無礼も許そう。私は、宰相ジェラルドの復帰を嬉しく思う」
「ありがたき、お言葉にございます」
 片膝を付き、頭を下げる。すぐに、ジャンルカの手が差し出された。
「早く馬車に乗るがいい。後は、城でゆっくりと話そう」
 手袋が外された手を、素直に取る。武器を取ることがあまり無い指は、長くて綺麗だ。
「本来なら、逆の立場ですね」
「臣下の手を引き、導いてやるというのも、たまには良いものだぞ」
 笑い合いながら馬車に乗り込むと、中ではチェーザレが待っていた。小憎らしい顔を見るのも、3日ぶりだ。
「やあ、チェーザレ。君はなぜ、ここに?」
 お止めする立場だろう、と睨んでやっても効果は無い。不幸にもジャンルカとチェーザレの考え方は似ているところがあり、2人で組んで悪巧みをしようものなら手に負えないのだ。被害の多くは頭の固い老人達に向かうが、たまに執務室にまで及ぶことがある。
「近衛の隊長が陛下のお忍びに付き従うのは、当然のことだろう」
 肩を竦める彼のことだ。今回も、ジャンルカと手を組んだのだろう。一応は王族専用の馬車を使用しているが、城では古株連中が王の不在で大騒ぎしているに違いない。窓を開け御者の顔をよく見てみれば、近衛隊所属のニーノだからだ。
「おまえも大変だな」
 思わず同情の声を掛けると、「宰相ほどでは、ないですよ」と返ってきた。城内での評価が分かる。苦労人、だろう。
「危ないですから、座っててください。出発しますよ」
 言葉に従ってチェーザレの横に座ると、馬車は静かに走り出した。意外とうまいものだと思った矢先に、椅子が跳ねる。顔をしかめると、国王が苦笑いをした。
「これでも随分と慣れたものだぞ。城を出た直後は、生きた心地がしなかったのだ。御者殿には悪いがな」
 御者など勤めたことがないニーノにしてみれば、最上の身分の人間を乗せているのだ。相当な緊張感を強いられたろう。「かわいそうに」と呟く。向かいのジャンルカには聞こえなかったようだが、隣りのチェーザレには届いたらしい。舌を出すが、かわいくない。
「さて、さっそくだが朝一番の仕事だぞ」
 稲穂頭の男は、袖口から中指の太さほどに巻かれた紙を取り出した。受け取って、1行目を黙読する。チェーザレによって書かれた、ジャンルカの1日の予定表だ。休暇を得る前は、寝起きの彼の目の前で読み上げるのが一つの日課だった。不在の間は、近衛の隊長が請け負っていたらしい。
「では、陛下。本日のご予定ですが」
 決まり文句が、少し懐かしく感じられる。
「まず、6時よりミサを行います。7時に朝食を取られた後、8時半より近衛隊隊長チェーザレとの剣の稽古となっておりますが」
「一応、やったぞ。馬車の中で」
「どうやったら、馬車の中で稽古ができますか」
「これだから、普段から剣を振るっていない者は困る」
 チェーザレが首を横に振った。事実ではあるが、彼から言われるのはおもしろくない。
「野外と室内では、振るい方が違うんだよ。室内で大きく振りかぶると、どうなるか分かるか」
 彼が示す朱塗りの天井を見る。なるほど、と思った。
「切っ先が引っ掛かるんだな」
「その通り。そこで、これだ」
 チェーザレの握り拳が、ジェラルドの脇腹の寸前で止まる。実際に襲われることはないと分かっていても、身が竦んだ。八重歯を覗かせて笑う幼馴染の手が開かれる。万年筆より少し細いくらいの鋼の針が現れた。
「暗器を扱うのは、アントーニだけかと思っていた」
「あいつは、もっと手の込んだ武器を仕込んでいるがな。おそらく、おまえに見せることは一生無いよ。俺も、これが最初で最後だと思う」
 針は、緋色の上着の裏側に隠された。知らないだけで、様々な武器が長い衣に仕込まれているのだろう。
「外交官や近衛隊、王族は皆、この手の武器を持っている。本当なら宰相のおまえだって、持つにこしたことはないだろうが。おまえは扱いが下手そうだな」
「悪かったな」
「馬鹿。褒めているんだ」
 中指で、額を弾かれる。爪があたって痛い。
「こんな時でないと、なかなかお教えできないからな。稽古内容を少し変更したわけだ」
 国王の命を守るための一環ならば仕方がない。頷いて、次を読む。
「9時半から休憩となっておりますね」
「それは、今の時間で無しとなるな」
 ジャンルカが、金色の懐中時計を確認する。先王の遺品の一つだ。
「10時からは政務ですが」
「午前中は、おまえと話すだけで終わりになりそうだが。しばらくは、昼までだったろう」
「はい。申し訳ございません」
「よい。むしろ長期療養中だった者に無理をさせれば、私の方が叱られる」
「そのようなことは」
「宰相殿は、ご自分の価値を分かっておられないらしい。特に、ご老人方の人気は高いんだぞ。知らなかったか」
「はあ、そうでしたか」
 今の地位に就いてからは特に接点が無かったが、先輩の評価は上々だったようだ。面と向かって言われると、少し面映い。
「それに、狭量よと言われるのも癪に障る。今まで待ってやったにも関わらず、だぞ」
「確かに、そうですね」
 「だろ」と笑った彼は、時計を胸元にしまった。「では、次へ」と促され、視線を下げる。
「12時に昼食。13時からは謁見……かなり大雑把だが、これは」
 書いた本人の目の前で、紙を振ってやる。片眉を上げた彼は、不敵とも取れる笑みを見せた。
「アントーニが苦戦したという崇高なるじじい共が、我が国王にぜひお目に掛かりたい、と仰ったらしくてな。どんな面か、見てやろうと思ったのさ」
「では、外交ですね」
 チェーザレの言論にはあえて触れず、ジャンルカを見る。生真面目な顔で、一つ頷いた。
「私は若く、即位してからの年月も深いとは言えぬ。本当は傍におまえが控えていてほしいところだが、甘えたことも言っておれぬ。まあ、代わりにチェーザレが隣りにいるのだがな。せいぜい嘗めた目で見られぬよう、努力する」
「ええ、ご尽力ください。陛下なら、大丈夫ですよ」
 少年は、もう一度深く頷いた。問題は、彼よりも稲穂頭の方だ。表情を見るだけで、完全におもしろがっていることが分かる。
「おまえも、失礼のないようにな」
「俺を誰だと思ってるんだ。卒なくこなすさ」
「おまえだから心配なんだよ」
 知らず、溜め息が出た。
「14時半からは休憩となております。話によっては、時間が前後するかもしれませんが」
「構わぬ。誰であろうと、大切な客人に変わりない」
「そうですね。15時から1時間は、お勉強です。私がいないからと言って、放り出すことがございませんよう」
「失礼な奴だな。おまえが休みの間も、しっかりこなしておったわ」
 腕を組み、鼻を鳴らす仕草がかわいい。謝りつつも笑みが零れた。
「16時からは会議となっております。本日の議題は」
「南の堤防の件だな。だいぶ老朽化が進んでいるらしい。本格的な雨季がやってくる前に、補強だけでもせねばならん」
 休養中に上がった報告だろう。他にも知らない案件があるに違いない。明日からは情報収集にも励まねば、と気に留めておく。
「18時に夕食。19時から1時間は、書類に目を通していただくことになりますが……この後は、なんだ。チェーザレ」
「なんだとは、なんだ」
「最後のところだ」
 紙を指で叩き、最後の予定に目を向けさせる。ジェラルドの家へ向かう。1日の締めくくりは、たった一言だけだった。
「書いてある通りだが」
「私の家に向かって、その後が無い」
「泊まるからだろ」
 飄々と言ってのける男の足を踏んでやった。力を込めて踏みつけたつもりだが、座っているため効果は期待できない。
「どこの世界に、臣下の家に寝泊りする国王がいるんだ」
「やめよ、ジェラルド。そうしたいと言ったのは、私だ」
 止めに入るジャンルカを見る。なぜ泊まりたいと言ったのか。全ては、尊い顔に書いてある気がする。
「幽霊ですか、陛下」
「その通りだ」
 正直なのは良いことだ。しかし、両肩が重く感じるのは、なぜだろう。
「おまえのところには、2度も出たというではないか。私も見たい」
「そうは仰いますが、陛下。そう都合よく現れるとは限りませんよ」
「いいえ、必ず現れますよ」
「なぜ、そう言い切れる。チェーザレ」
 彼を見れば、右の口角が上がっている。自信の表れだ。
「一つ、君がいるから。二つ、今宵も私がお供するから。三つ、陛下がおいでだから」
 上がる指を見て、ふと疑問が沸き起こる。
「もしかして、今回の幽霊騒ぎと私達には、なにか共通項があるということか」
「おそらく、な。だが、まだ確信が持てない。だから、陛下にもご助力いただきたい」
「家に幽霊が出ても、家主は見たことがないそうだな。左足に何かがあるということだが、チェーザレも詳しく教えてくれぬ。今宵は、それを私自ら確認せよ、ということらしい」
 ジャンルカは、どこか寂しそうに笑った。彼に確認させるということは、王族の誰かの霊ということだろうか。少女の靴やら服やらを持っていくのだから、ある程度の年齢と性別は窺い知ることができる。たしか、彼の姉が10歳前後で亡くなっていたと思うが。
「一晩、世話になるぞ」
「畏まりました。ですが、どうか危ない真似は、なさいませんよう」
「うむ、分かっておる。ああ、もう城に着くぞ」
 程なくして、馬車は正門をくぐった。手入れの行き届いた樹木や噴水の横を通り抜け、正面入り口に横付けされる。お忍びの割に、堂々としたものだ。悪巧みをしたのは、2人だけではなかたらしい。馬車を降りると、アントーニやベネデッド、それぞれの部下や先輩に至るまで、多くの見知った顔が出迎えるために待っていてくれた。
「復帰おめでとう。ジェラルド」
「ありがとう、アントーニ。しばらくの間、手伝いを頼む」
「ああ、任せとけ」
 右手を差し出すアントーニと、硬く握手を交わした。
「皆、大儀である。療養を終えたばかりで大声を出せないジェラルドに代わり、私が礼を言おう。ありがとう。この日のこと、けして忘れはすまい」
 ジャンルカの言葉の後に続いて、深く頭を下げる。久し振りに梳いた黒髪が、肩から流れ落ちた。四方から拍手が沸き起こる。頭を起こして見回すと、誰もが笑顔だった。自分が勤めていた城は、こんなに温かい場所だったのかと思い知らされる。
「宰相ジェラルド殿のご健康と、ジャンルカ陛下の長き御世を願い。敬礼っ」
 門の外まで届きそうなほど声を張り上げたベネデッドの号令で、集まった人々は左右に分かれ一斉に右手を心臓の位置に当てた。警備隊や近衛隊の兵士達は拳を作り、他の者達は手を開いたままという慣わし通りのものだ。
 背筋を伸ばした警備隊隊長は、先日の酔っ払いとはまるで違う。部下達におもしろいからと飲みに連れ回されるのも理解できる。
「では、陛下。参りましょう」
 チェーザレの言葉で、ジャンルカがゆっくりと歩き出す。彼の後を、近衛の隊長と横並びで従った。
「やはり、左に宰相殿がいると違うな。隣りに誰もいないと、なにやら肩透かしをくらったような妙な気分になる」
 人々の列を抜け、階段を上りきると、稲穂頭は小さく呟いた。
「そんなものか」
「ああ、そんなもんだ。おまえとは幼い頃からずっと一緒だったから、余計かもな」
 顔を見合わせて笑っていると、ジャンルカが振り向いた。彼の左側には、執務室の扉がある。
「両翼の内、一方でも失われれば鳥は飛べぬもの。2人共、これからも私を支えてくれ。落ちることのないようにな」
「はい、陛下」
「もちろんですよ」
 下でベネデッド達がやっていたように敬礼する。
「では、陛下。そろそろ政務のお時間ですよ。俺は一端、失礼させていただきます。たまには部下を揉んでやらないといけませんから」
 軽く頭を下げたチェーザレは、踵を返し歩いていってしまう。一緒にいる時は、歩調を合わせてくれているのだろう。靴音を響かせて1人歩く時の彼は大股で、速い。背筋を伸ばし細身の剣を下げた後ろ姿は、武人そのものだった。
「黙っていれば様になるものを」
「そう言うな、ジェラルド。私の傍にいるのに、あの性格は適していると思う。ジェラルドのような者が、2人も並んでいてみよ。息が詰まるわ」
 ジャンルカの後ろに、今の自分と剣を下げた自分が立つ姿を想像してみる。悪くはないと思うが、華やかさには欠けるかもしれない。柔軟に対応する能力も無さそうだ。チェーザレには面倒を掛けられるのと同等に、助けられる面も多い。
「確かに。あいつがいないと、肩透かしを食らったような気分になるかもしれません」
「だからこその両翼であろうな」
 笑って扉を開いたジャンルカは、執務机の前に置かれたソファに座る。既に話し合うことは決まっているのか、低いテーブルの上には資料と思われる紙が数枚乗っていた。
「ま、座れ。まずは、その優秀な頭脳に、現状を叩き込んでもらわねばならん」
「はい。失礼します」
 向かい側に座ると、さっそく1枚の紙を示された。
「これは、来る時に話していた南の堤防の件だ。今日の夕方に決議されるはずだから、直接おまえが関わることはないと思うが。一応は、目を通しておくといい。特に機密事項が書いてあるわけではないから、持ち帰って家で読んでくれて構わんぞ」
「ありがとうございます」
 折り畳むと、腰の位置にあるポケットにしまった。
「次に、隣国の花祭りの件」
「ああ、もう、そのような時期ですか」
「うむ。1年が経つのも、あっと言う間だな」
 ジャンルカが次に示したものは、花祭りの招待状だった。上質な紙は、薄い桃色をしている。隣国の王は趣向に拘る人物で、毎年素晴らしい大祭が催されるのだ。今年は招待状の色から、赤系の花が主役だと察せられる。彼は本番前から、客を楽しませようと画策しているらしい。味方であれば親しみやすいのだが、敵に回すと恐ろしい策略家に変貌するかもしれない。
「1ヶ月後ですね。陛下のご予定に加えておきましょう」
「共は、どうするのだ。今年も、おまえは来ないのか」
 子供のように頬を膨らませる。あからさまに不満を態度に示す彼に、笑みが零れる。先代が崩御する前は、まだ太子だったジャンルカと共に花祭りを楽しんだものだった。
「ええ。留守をお預かりするという大事な役目がありますからね。今年はチェーザレだけでなく、ロレンツォもご一緒させていただこうかと考えておりました」
「ロレンツォ……ああ、ブロッジーニ家の次男のことだな」
「はい。彼は若いですが、とても優秀ですよ。将来、私の後継となるかもしれません。今の内から経験を積ませておきたいのです」
「おまえが買うほどの人材だ。祭りを楽しみにしておこう。しかしロレンツォといえば、性質としてはチェーザレに似ていると思うがな」
 ロレンツォの顔を思い浮かべる。栗色より少し暗めの髪をした色男で、機転が利く。彼を副官としておくことで迷惑だと思ったことはないが。
「そうでしょうか」
「ああ。逆にチェーザレの腹心であるルッジェーロは、おまえに似たところがあると思う。おもしろいものだな」
 ちっとも、おもしろくない。どこか気恥ずかしい部分を突かれたようで、複雑な気分だ。
「しかし、そうなると逆でなくて良かった」
「何が、でしょうか」
「さっきも言ったであろう。ジェラルドのような者が2人揃えば、息が詰まる。ジェラルドとルッジェーロと3人で花祭りなど、考えただけで」
 己を抱き、震える真似をする。少し前のかわいらしい態度は、どこへ行ってしまったのだろう。憮然としていた矢先、話題の2人がノックと共に現れた。
「失礼します。お久し振りです、ジェラルド様」
 ジャンルカの言葉の魔術なのか、約1ヶ月振りに見る副官の笑顔がチェーザレと同じものに見えた。知らず、眉間に皺が寄ったらしい。
「あれ、どうしました。部下の顔、忘れちゃいましたか。怖い顔になってますけど」
 近付いてきたロレンツォは、あろうことか上司の顔を鷲掴みにすると、親指で眉間を左右に引っ張り始める。以前から、このような男だったろうか。チェーザレに似ているどころか、上回る何かを持っているに違いない。悪い意味で、だ。
「やめんか、ロレンツォ。お仕事中、申し訳ありません」
 遅れて入ってきたルッジェーロが、ロレンツォの両腕を引っ張ることで行為を止めさせる。目の前にいた副官が退いたことで、ようやく幼馴染の腹心の顔が見えた。上司と同じ稲穂色の頭をした、長身の男だ。
「執務室に忍び込む、と言うのを、どうにか止めさせたのですが」
 彼としては、部屋に入ること自体を止めたかったらしい。説得しても聞かなかったため、譲歩して正攻法を取ったのだろう。
「だって、ジェラルド様に早くお会いしたかったんだ」
 拗ねる様は、チェーザレというよりはジャンルカに近いものがある。率直に言われると嬉しいと思うのも事実で、怒るに怒れない。
「これから幾度も顔を合わせるというのに。光栄ではあるが、陛下の御前だぞ」
 苦笑いを浮かべながら、そう言うのが精一杯だった。それでも副官には、ジャンルカの名前だけで絶大な効果があるのだろう。慌てて膝を付くと、「申し訳ありません」と頭を下げた。先から2人をおもしろそうに見比べている国王が、許さぬはずがない。
「まあ、よい。ちょうど、おまえ達の話をしていたところだ」
「俺達の、ですか」
 海老茶色の瞳を瞬かせるロレンツォに、ジェラルドは頷く。
「隣国の花祭りの件でな。おまえをお供に召していただこうと考えている」
「え、俺が陛下のお共ですか」
「嫌なのか」
 睨むジャンルカに、ロレンツォは慌てて首を横に振った。少年の眼光は、たまに信じられないほど鋭くなる。
「私に代わり、陛下を支えて差し上げてくれ」
「はい、畏まりました」
 声が上擦っている。何事も経験ではあるが、舞い上がってなにか失態をしでかさないか心配だ。まだ早かったかと考えていると、向かいでジャンルカが噴き出した。驚いて前を見ると、彼は肩を震わせて笑い転げている。
「ジェ、ジェラルドとルッジェーロ。おまえ達、同じ顔をしてるぞ」
 名前を出され、互いに顔を見合わせる。暗い髪をした宰相と明るい髪の近衛隊隊長の腹心は、見れば見るほど似つかないが。
「あの、どこがでございましょう」
 ルッジェーロが、困惑したようにジャンルカに尋ねる。自分も普段このように尋ねているのだろう、とジェラルドは漠然と思った。応用が利かねば軍に属している身としては苦労するかもしれない、とも。
「実はな、ロレンツォはチェーザレと、ルッジェーロはジェラルドと似ているな、と言っていたのだよ」
 即座に「それは失礼ですっ」と双方から声が上がった。敬愛している上司だ。友とも好敵手とも呼べる相手と似ていると言われても腑に落ちない、ということだろう。もしも自分達が若い彼等と同じ立場だったら、と考えると愉快な気分になった。
「失礼でも、なんでもないぞ。私も、そう思えてきた」
「そんな。俺は、ルッジェーロの下で働くなんて嫌です」
「チェーザレだって、同じことを言うよ」
 笑いながら立ち上がると、自分の部下の頭を撫でた。髪質は、自分に似ている。次いで、後ろに控えていたルッジェーロに手を差し出した。
「花祭りの期間は、チェーザレの代わりに私を支えてほしい。よろしく頼む」
「いえ、こちらこそ。短い間とはいえ、ジェラルド様と肩を並べられること、光栄に思います」
 硬く握手を交わした。上司とは違い、大剣を握る手だ。甲が厚く、節が太い。
「ああ、そういえば。今、入り口で拾ったのですが」
 反対側の手から、封書が差し出される。筆跡をごまかすためだろう。わざと角ばって書かれた文字で、『親愛なるジェラルド=アルトゥージ様』と宛名されている。
「どうやら扉に挟まっていたようです。ロレンツォが入室した際、中に入ったのでしょう」
 示された箇所には、折り目と擦れた後がある。封を開けると、微かに柑橘系の香りがした。中には、薄茶色の便箋が1枚のみ。四つ折りにされた紙を広げ内容を目にした途端、取り落としそうになった。
「どうした、ジェラルド」
「いえ、なんでもありません」
 立ち上がろうとするジャンルカを制すると、手早く紙を折って胸ポケットにしまった。何事も無かったかのように、ソファに腰を下ろす。動悸や冷や汗、焦燥感からは目を逸らした。
「つまらない、いたずらでした。それより、次の案件をお窺いしましょう。2人も、後に用事が無いのなら聞いていきなさい。勉強になる」
 ジャンルカとルッジェーロは、まだ何か言いたそうだった。しかし、ロレンツォがジェラルドの右側に座り、「本当ですか、宰相。嬉しいな」と甘えだしたことで、どうにか水に流れたようだ。こういう時には聡い部下の存在が、ありがたかった。

 ◆◆◆

「それでは、また夜にお会いしましょう」
 ジャンルカと別れると、足早に階段を降りた。胸ポケットの中が気になる。馬車の中でも家に着いてからでもいいから、もう一度読んで吟味したかった。たとえ、既に頭の中に記憶しきれてしまっているほど短い文章であっても。
「おい、ジェラルド」
 降りきるまであと数段といったところで、アントーニに呼び止められた。階段の下で、待ち構えていたらしい。
「今日は終いか」
「ああ」
「どうした。うかない顔だな」
 さすがに、敏腕の外交官には見逃してもらえない。太い腕を肩に回され、完全に掴まった形だ。同じ文官ではあるのだが、体格においても鍛え方においても大きな差がある。抜け出すのは難しい。観念するしかなかった。
「さっき、執務室の戸に封書が挟まれていたんだ」
「封書だと」
「そうだ。アントーニだったら、見せてもいいかもしれない。守秘義務は絶対、だろ」
「もちろんだ」
 腕を外してもらうと、胸ポケットから薄茶色の便箋を取り出した。広げてから、大男に手渡す。濃藍色の垂れ目は、すぐに丸くなった。
『友人達には気をつけろ。裏切り者が1人いるぞ』
 書かれていたのは、これだけだったのだ。当然のことだが、差出人の名も無い。
「俺に、見せても良かったのか」
「アントーニなら、と思った」
「それは光栄だ」
 紙を折り畳んだ彼は、胸に押し付けるようにして返してきた。受け取ると、手早く胸ポットにしまう。
「この内容を知っているのは」
「私と君。あとは、書いた本人だけだと思う」
「そうか。これは、陛下にも部下にも誰にも見せるな。ベネデッドにも、チェーザレにもだ。いつ、何が牙を向くか分からん。傍にいる時は守ってやれるが、限界もある。俺は武官ではないからな。近衛や警備隊には太刀打ちできん」
 不意に、アントーニは視線を2階にやった。同じように目を向ける。心臓が跳ねた。
「特に、あいつは強い。本気を出せば、おそらく誰も敵うまい」
 黄昏色の瞳が、冷たくこちらを見下ろしていた。
「ベネデッドでも、か」
「ああ。おまえの幼馴染は、そういう男だよ」
 アントーニが、1歩前に出る。袖の中に、飛び道具でも隠されているのだろう。チェーザレからは死角となるよう引かれた右手が、袖の中に入った。2階に佇む男でさえも警戒対象に入るのだ。察すると、胃に穴が空く思いがした。
「どうした、ジェラルド。調子が悪いのか」
 いつもと変わらぬ調子の声が降ってくる。黄昏に、温かみが戻っていた。泣きたくなったところを、アントーニに抱え込まれる。
「どうやら貧血みたいでな。少し休めば、回復するだろう」
 額が、広い肩に押し付けられた。2人がどのような表情をしているのか、まったく見えない。ただ、怖いと思った。
「ろくな栄養を摂っていないからだ。夜は、久々に手料理を振舞ってやる」
「夜だと?」
「詳しいことは大声で言えないが、ジェラルドと陛下とお約束がある」
「だったら、責任持って作れよ。陛下にまで妙なものを食べさせたら、承知せんぞ」
「ああ、了解している」
 チェーザレの笑い声が、大広間に響いた。城の入り口は1階から天井まで吹き抜けになっていて、小さな物音でも広がるよう工夫されている。謀反などを起こされないための先人の知恵の一つだ。
「ではな、アントーニ。ジェラルドも、夜までには治せよ」
 規則正しい靴音が、徐々に遠ざかっていく。実際に貧血になっているわけではないのに、目の前が暗くなっていくようだった。
「今夜は、必ず陛下のお傍にいることだ。裏切り者が誰であれ、陛下の御前で事を起こすことはなかろう」
 耳元で囁かれる。誰にも聞かれないようにするには、それしかない。大柄な友人の言うことに、力無く頷いた。手紙の内容が、間違いであってほしかった。