第10話 とある学都生の不安
結局、ブライアンの思いつきに付き合わされたハング達は、夜も遅いということで屋敷がある街へは下りず、ハイエロファントの教授室に留まることに決めた。
泊まることになったらなったで、今度は一つしかない足を伸ばせる長椅子の取り合いで勝負を始めてしまうのだから、こいつらは手の負えない。
ブライアンとセウスとルージュの動向に呆れたハングは早々に辞退して、執務机と対の椅子を占拠した。いくら馴染みの場所であろうと、他人がいれば熟睡できないことは分かっている。
「やれやれ。彼等には、部屋の主に遠慮する気はないようだ。だいたい、ルージュ君は1人用の椅子でも充分に事が足りるだろうに」
ハイエロファントが苦笑しながら、傍らの壁にもたれ掛かる。
「ファント教授は、勝負に参加されないんですか?」
「老人には、これ以上やる気力はないよ」
肩を竦める彼の姿は老いを微塵も感じさせないが、中身を知っているがために納得してしまう。
「そうでしょうね。それでも本気を出せば、買ってしまうんでしょうけど」
「さあ、どうだろうね。あ、ブライアンの奴、反則に出たな。あれは、セウス君が怒って当然だな」
勝負を放棄したブライアンが、長椅子に寝転がっている。セウスとルージュが起こそうとしているが、高いびきを始めた彼は既に夢の中にいるようだ。いつの間に持ち込んだのか、酒の大瓶を1本空けているため寝つきが良い。こうなってしまうと、いくらセウスが頑張ったところで起きはしないだろう。
ハイエロファントは戸棚を開けると、毛布を4枚引っ張り出した。
「セウス君とルージュ君は、一緒の毛布でいいかな?枚数が足りないんだよ」
声を掛けられたことを機に、セウスとルージュは大男を起こすのを諦めたようだ。実に懸命なことだ。
「『僕は座布団でもあれば平気だから、気を遣わなくてもいーよ』だそうです」
ルージュがハイエロファントに訴えるのを、セウスが訳した。間違いないとばかりに、ルージュが小刻みに頷いている。こういう時は、セウスの能力も便利なものかもしれない。
「そう?でも、だったらルージュ君まで長椅子の取り合いに参加することないだろう?せっかく眠りかけていたのに、勝負で目が冴えちゃったんじゃないか?」
「『その場の雰囲気だって』だそうです」
「雰囲気、ねえ」
ハイエロファントが苦笑しながら、セウスに毛布を手渡す。彼は手にした物を、観察するように見下ろした。
「毛布まであるなんて、なんだか準備がいいですね。いつも、こうなんですか?」
「そうだね。たまにブライアンが生徒や先生方を連れてきてはこうなるから、簡単な物は一通り揃ってるかな」
「へー、大変ですね」
まったくだ、とハングは思った。彼の保護者は人が尋ねてくるのが嫌いではないようだから、特に口出しはしないが。最近、この部屋や最高等学部の空気が徐々にブライアンの色に染められつつあるように感じ、少し心配している。
ハイエロファントがブライアンに毛布を掛けた後、部屋の明かりを落とした。
「どうせ眠れはしないだろうけど、冷えるからね」
ハングにも毛布を手渡した彼は、隣りの床に落ち着いた。
「あんまり騒いだから、明日他の教授から苦情が来るかもしれない」だとか、「明日の朝はまた、起こすのに苦労しそうだ」という、他愛も無い会話をしている内に、隣りから返事が返ってこなくなった。覗き込むと、毛布にくるまって静かに寝息を立てている。軽く髪を引っ張ると、微かに眉を反応させたので放してやった。口元に、笑みが浮かぶのを自覚する。
「さっきまでの騒がしさが、嘘みたいですね」
それでも、月明かりで見える部屋が真実だと告げている。ゲームをやるために動かされた椅子。床には酒の瓶が転がり、長椅子の取り合いで使用された札がばら撒かれている。ブライアンの上着は脱ぎ捨てられたまま。その上着も長椅子も絨毯にも、ルージュの毛がたくさん付いていることだろう。
「片づけが大変でしょうね」
夜明け後のことを想像して、溜め息を吐く。その音が妙に大きく耳に届いて、ふと不安に駆られた。ハイエロファントに視線を戻して、穏やかに続く寝息を確認して、安心して窓の外に浮かぶ白い月を仰ぎ見た。
「大丈夫、大丈夫、大丈夫」
そっと目を閉じ、言い聞かせるように繰り返す。
ハングは、保護者の寝顔を見ることが嫌いだった。心音はいつ止まるとも知れなくて、開かない瞳が更に不安を掻き立てていたあの頃から、自分の全ての時は止まったままで。ハイエロファントと共に生きるようになっても、成長することを止めてしまった心や常に怯えている状態だった。
昔は、眠り続ける彼の前で、信じてもいない神に祈りを口ずさむ日々もあったのだ。
もしも貴方が目覚めるのなら 静かに僕は待ちましょう
もしも貴方が目覚めぬのなら 神を僕は呪うでしょう
見守るだけの日々は辛くて 崖の淵にいるようで 居た堪れない気持ちになるのです
留守にする日はとても不安で 残してきたあなたのことで 涙を零しそうになるのです
楽になれたらいいのにとたまに思ってしまうけれど
僕にはそれができないのです
苦しくても辛くても 思い出が僕にはありますから
温かい貴方に触れると 望みがあるような気になりますから
日々の報告をすることが 日課になってきています
かけがえのない貴方よ 永遠に眠ってしまわないで
信じがたい人間の 手招きを受け入れる僕 くだらないとは思いませんか
だから早く目を覚まして 最高の笑顔を僕に見せてください
今の僕を止められるのは貴方だけなのですから
「ハング?」
部屋の中から突然呼ばれ、驚いて振り返る。セウスが上半身を起こして、こちらを見ていた。
「ああ、すみません。起こしてしまいましたか?」
それほど大きな声で歌っていたつもりではなかったのだが。
問うと、セウスは軽く首を横に振った。
「んー、声で起きたって言うよりは、なんだろ?」
眠そうに目を擦って首を傾げる様が、どこか幼く見えて笑いを誘う。きっと働かない頭で、言葉を探しているのだろう。
「あー、寂しさで起きた、のかな?切なさ?不安とか?」
似たような言葉を次々と並べていくセウスに、心の奥で感心していしていた。特殊な能力者ではあるが、どうしてここまでハングの気持ちに敏感に反応するのだろうか。これも同調の一種ということだろうか。
考えているうちに、セウスの舌が回らなくなってきていた。眠さの限界らしい。
「なんか、わけわかんなく……わるい……ねる」
声は次第に聞き取りにくくなっていき、「おやすみ」と言ったところで完全に眠りの世界へ入ったようだ。
ハングは溜め息を一つ吐くと、椅子から下りて床に座った。ハイエロファントを枕にすれば、まだ少しは寝ることができるかもしれない。起きたところで構うものか。かえって、そちらの方が都合が良い。朝まで暇をせずに済む。
しかし、もたれ掛かっても起きた様子がなかったため、「おやすみなさい」と誰に言うでもなく呟いて、目を閉じた。
まったくもって、優秀な学都生らしくない。もうずっと前から起きていた文学部教授に、気が付かなかったのだから。
◆◆◆
日が昇ってからの仕事は、まずブライアンを3人と1匹がかりで起こすことから始まった。酒が残っているのか表情が冴えないブライアンは、1限目から講義が入っているらしい。ハングとセウスで街に走って下りていき、店員を叩き起こして朝食を確保してきたにも関わらず、彼の反応は冷たいものだった。
「気分悪いから、食べる気しないんだわ」
ハングは、思わず『優秀な学都生』を脱ぎ捨てて殴り倒してやろうかとも考えた。ブライアンの上着を調えているハイエロファントに、視線だけで制されたが。
ブライアンを送り出した後、簡単に朝食を終えて部屋の片付けを開始する。1人掛けの椅子ならまだしも、3人掛けのものは重くて仕方がない。こういう時に限って、力仕事が得意な男がいない。なんという役立たずだろう。
床に散乱した小物の数々を拾っていると、セウスが何かを持って近付いてくる。昨日、ブライアンがゲーム機を入れていた大きな箱だ。
「どうしました?」
聞いてやると、彼は困惑した顔つきになる。なにか嫌な予感がする。
「あのさ、この中、なんかか入ってるみたいだから開けてみたんだけど。書類みたいなのが入ってて。勝手に出してみてもいいのかなって」
数日だが共に過ごしてみると、意外にもセウスは気を遣う人間だった。単純だとは思っていたが、根が真面目で素直なのだろう。常識も通じるし、ブライアンよりは使えるかもしれない。彼に無いのは、学問と知識と経験だ。
それから、疑うことも知らないらしい。よりにもよって、なぜハングに懐くのか。
彼としては、あれこれと尋ねてほしくないのだ。苦労が増えるから。
「こういうのは、いいんですよ。知らずに捨てて、後で恨まれるよりは、よっぽど」
セウスから箱を受け取って、中身を出してみる。左上で綴じられた、10枚ほどの紙の束だ。
「会議かなにかの資料ですかね?」
ろくに目も通さず、文学部教授に渡して確認を取る。さすがに生徒の身では、教授や最前線の学界の会議のことまで分からないのだ。単に、面倒くさいということもあるが。
ハイエロファントは1、2行ほど目を通しただけで、顔色を変えた。
「これは……みんな、ひとまず休憩にしよう。私は、生物学部棟に用事ができたから」
早口に言うと、大きな音を立てて部屋を飛び出していった。やはり、厄介事だったらしい。
「どうしたんだ?ファント教授」
「おおかた今日の講義の資料だったんでしょう。それよりセウスさん、お茶でもお飲みになられますか?ハミット島産なんですが、甘くておいしいと評判なんですよ」
「う、うん、もらう」
セウスの顔がなぜか青褪めているようだが、体調が悪いわけではないようなので気にしないでおく。
しかし、ブライアンの奴。あんな男は、馬鹿教授で充分だ。
馬鹿教授、と心の中で罵りながら淹れたお茶は、奇妙と言えるほど苦かった。
◆◆◆
ハイエロファントが疲れきった顔で帰ってきた時には、部屋の片付けとセウスの旅支度が完了していた。
「早く二つ目の研究所を確認したいんです」
真剣な眼差しで彼は言ったが、朝の件がこたえて逃げ出したい気持ちも少しはあると見た。
午前中はハングもハイエロファントも授業が無かったため、北西門まで見送りに行くことにした。門のすぐ近くに来ると、都へ入ってくる女の顔が見えて物陰に隠れる。見知った人物に、思わず舌打ちしてしまう。
女が去った後、セウスが不満を露にした子供のように口を尖らせた。
「急に何すんだよ、ハング」
訳も分からず押し込まれたのだから、文句が出ても仕方がない。触れたくないために、ハイエロファントを盾代わりにしたことも悪かったと思う。
「すみません。こちらにとっては敵である人物が入ってきましたから。とりあえず、やり過ごせたみたいですが」
素直に、助かったと思った。常に連れている鳥と狼がいなかったため、見付からずに済んだのだ。もっとも、鳥はどこかから監視しているかもしれないが。
「敵って、監視してる奴?」
「いえ。監視役の監視、でしょうかね」
セウスは、ブライアンのことに気付かなかったらしい。今朝までの行動では、見抜けなくて当然のような気もするが。あの女は王都側の人間であるにも関わらず、彼の妹として入都可能だから厄介だ。
「そんな奴までいるのか?大変だな」
「ええ、そうですね。セウスさんも気をつけてください」
「分かってる」
セウスは深く頷き、「じゃ、行ってくるから」と門の外へ向かう。掃き掃除をしていた生真面目な門衛に「頭痛は、もう大丈夫ですか?」と話しかけられ、簡単に言葉を交わしてから出ていった。
「ああ、カエサル君も気にしてたんだ。根は、優しい子だしね」
様子を見守っていたハイエロファントが、柔らかい笑みを浮かべる。
「じゃあ、私達も帰ろうか。お昼までには時間があるし、街にでも寄って」
「そうですね。お年寄りはお疲れでしょうから、屋敷でゆっくり休みたいでしょうし」
「嫌味かな、それは?」
保護者は怒るでもなく、ただ苦笑した。
「ま、確かに眠れなかったから、少し横になりたいかな」
明け方まで、ずっと寄り掛かっていたのだ。寝返りも打てなかっただろう。
「枕にして、すみませんでした。でも重かったのなら、退かせばよろしかったのに」
「うーん、それもあるけどね」
目の前の人は迷ったように視線を廻らせ、頭を掻いた。
「久し振りに聴いたから。もう、聴くことはないと思ってたんだけど」
はっとして顔を見ると、少し寂しそうに笑っていた。
「すまなかった」
「別に。あなたが謝ることはないですよ」
こうして目を覚まして、自分に協力してくれているのだから。
「やっぱり、教授室に戻りませんか?あのゲームを『改造』します。少なくとも、あの女よりは先手を打たねばなりませんから」
ハイエロファントは息子の顔を覗きこんで、緑色の目を細めた。
「そうだね。この顔に免じて、私も手伝おう」
その笑顔は、ハングに成功を約束してくれる。けれど、影も大きくなる気がする。
先に歩く父の背を、知らず呼び止めた。
「塞き止めているものを壊すと、止まった時はまた流れ出すだけ、なんですよね?」
そう問えば、振り返った彼はこう答えるのだ。
「ああ、そうだよ」
もう、この問答をするのは何度目になるだろう。どれだけ確認しても、一向に不安が消え失せないのは何故だろう。期限がちらつく気がして、あのまま目覚めなかった方がよく思えてしまうのは何故だろう。
あの歌を口ずさまなくなる日は、果たして来るのだろうか。