第8話 フィーリング
セウスが学都を訪れて4日目の朝。既に日課となりつつあったフルールの簡単な診察の後、彼はようやく苦い薬から解放された。同時に外出も許可され、嬉しさで笑みも浮かぶ。さっそく外に出てみた。寒い時期が足元まで来ているとは思えないほどの気候に恵まれ、絶好の散歩日和だった。
「治って良かったね、セウス君」
「はい。おかげで助かりました。薬代まで払ってもらっちゃって」
手に持った細い棒を見る。露店で見つけた白い氷菓子の残骸だ。これもハイエロファントが買ってくれたものだった。
「いいんだよ。フルールとは昔からの知り合いで、安くしてくれたしね」
「そうそう。高給取りの気まぐれなんですから、気にしない方が得ですよ」
純粋なセウスには「気にするな」と言う方が無理だろう。今まで彼が飲んでいた薬は、実はハングが勧めたものらしい。だからと言って、会ったばかりの人間に金を払わせるなど、常識人には思いも寄らないことだ。しかも勧めた本人が払うならともかく、ハングの保護者というだけでフルールの治療に関わったわけでもないうえ、休む場所まで提供したハイエロファントに払わせろと言うのだ。
「それじゃ、ハングが気にしなさすぎ、だろ?」
「そういうこと言う口は、それですか?」
ハングは手に持っていた黄色い氷菓子を、セウスの口に突っ込んだ。ほのかな酸味が舌に広がる。
「『それじゃ』の前に心の中で言っていたことを、15字以内で答えてください」
さも依頼しているかのように言うが、セウスは口出しできる状態ではない。だいたい、病人に対する行為でもない。
「僕が払えばいいようなことを、仰っていたでしょう?」
セウスが氷菓子を引っこ抜いて文句を言う前に、図星を刺されてしまう。思わず肩を跳ね上げた彼に、ハイエロファントが苦笑して助け舟を出した。
「まあ、そんなに気になるなら、出世払いにしておこうか?」
「それまで生きていらっしゃれば、いいんですけどね。ファント教授はこれでいて、結構なお歳ですから」
また、そういう皮肉ったことを。そう思いながら、セウスは溜め息を吐いた。初日の不機嫌さが取れてきていたハングだったが、昨夜辺りから再びご機嫌斜めになっているのだ。
「死んだら死んだで、その時だよ。それより、セウス君。いじわるな子は放っておいて、事故現場に案内しようか?」
セウスは、もう一つ溜め息を吐いた。何気なく言ったのか故意なのかは分からないが、いくつもの地雷を踏んでいることは彼にでも悟れた。
「は、はい」
短い返事の中でも感じる、ハングの痛い視線。目を向けなくても、睨まれていることが分かる。それすらも綺麗に無視するハイエロファントは、さすがと言ったところだろうか。
「じゃあ、私達はもう行くから。ハングも講義に遅れないようにね。まあ忠告されなくたって、君が遅刻するような生徒じゃないことは知ってるけどね」
何も言えず小刻みに震えているハングに、ハイエロファントは笑顔を見せて軽く手を振ると、セウスの右手首を引っ張って歩き出してしまう。
「あの、いいんですか?」
一連の出来事に、おずおずと顔を見上げてしまう。「大丈夫、大丈夫」と文学部教授は言ったが、セウスは少し気になった。ハングの機嫌を損ねてしまった原因は、少なからず彼にあったからだ。
◆◆◆
それは、昨日の夕食でのことだった。
「明日もフルール女医が、いらっしゃるんですか?」
最初に口を開いたのは、ハングだった。
フルールは、ハイエロファントの屋敷に朝夕2回やって来る。診察の後、薬を飲ませてくれるのだ。その薬というのがセウスにはとても苦く感じ、眠くなってしまうこともあって少し憂鬱なのだが、頭痛はすっかり治まっていた。
「うん」
「もう大丈夫そうだし、外出許可も出るかもしれないね」
頷いたセウスに、ハイエロファントは笑顔で言った。その横で同意するハングの機嫌は、良かったはずなのだ。この時までは。
「もし明日の朝に許可が出たら、私が学都の中を案内しようか?ちょうど講義が無くてね。学都内にいれば、問題は無いから」
「どこか行きたい所はある?」と聞かれ、根野菜を口の中に入れながらも頭を働かせた。学都は学校が寄り集まった印象しかなかったが、実際は『都』と名が付くだけあって、様々な施設がある。博物館や美術館はもちろんのこと、劇場や音楽鑑賞館もあるし、乗馬場や賭博場まである。商店街は賑わっていて、一つの国が円状の壁の中に確立されていた。
どこに行こうか迷っている内に、ふとピエロの顔が浮かんだ。勧められた場所があった気がする。
「学都の事故現場」
2人が目を丸くして、セウスを見る。
「学都の事故現場?」
ハイエロファントは、ただ純粋に驚いている。そんな言葉が彼の口から出てくるとは、思ってもみなかったのだろう。
「ここに来る途中で会った人に聞いたんです。事故があってから、生命科学に制限が出たって」
「そんなの、大昔の話ですよ?今見に行ったって、瓦礫の山があるだけです。何も得られるものなんてありません」
「ハング?」
ハングは驚きから怒りに代わり、徐々に募っているようだった。怒りだけではない。自分を抱き締める仕草から見て取れるのは、不安といった類の感情だ。
「僕は、そんな所、行きたくありませんっ」
叫ぶようにして言ったハングの右肩を、保護者は宥めるように軽く2度3度叩いた。
「どっちにしたって明日、ハングは授業があるだろう?ルージュ君はフルールが興味本位で傍に置いているから、2人で行ってくるよ」
彼の言葉は、ハングの怒りを更に煽る結果となったのだった。
◆◆◆
着いた先は、やはり瓦礫の山だった。ハングが行った通りであるものの、怒る理由もセウスにはよく分からない。
「本当に、瓦礫の山だけなんですね」
「そうだね。だから『教訓』として残してある、とも言えるんだけどね」
「教訓?」
「あの校舎が見えるかな?」
ハイエロファントが指差したのは、学都内でも1、2を争う古い校舎だった。とは言え、新しい校舎と大きさは変わらない。
「ここにはね、あれと同じ校舎が建っていたんだ。それが一瞬にしてこうなったんだから、事故のすさまじさが分かるだろう?」
セウスは黙って頷いた。思わず、神妙な面持ちになる。
「当時、ここにはたくさんの研究生がいたんだが、みんな命を落としてしまったようだ。死体が転がっていて、とても見れたものではなかったんだそうだ」
それはそうだろう、とセウスにも納得がいった。見た限り、爆発事故だったはずだ。手足が無いものも、いくらだってあっただろう。
「元々、王都政府が生命科学に制限を入れてはいたんだが、緩かったみたいでね。問題に思った現自治領主様は大学を学都とし、強い規制を敷いたんだ。教訓となるよう、事故現場はそのままにしてね」
「学都って、昔からこんなんじゃなかったんですか?」
「そうだよ。昔は大学のみで、高等学校やなんかは別々の場所にあったんだ。それを現自治領主様が一つにまとめて、街まで作ってしまったんだ。それから、ここは学都と呼ばれるようになり、大学生は最高等学部生になったってわけ」
どこか懐かしむように話すハイエロファントが、セウスには不思議に思えた。
「でも、それって俺達が生まれる前の話なんですよね?」
「そうだね。もう、35年は前の話かな」
やはり、それほど昔のことなのだ。目の前の教授が歳を誤魔化しているとしても限界があるし、懐かしむように見えたのも気のせいに違いない。
「ファント教授って、すごいですね」
「何が?」
「昔のことを、よく知ってる」
「ああ、私は近代文学専門だからね。当然、周りの時代背景は知ってるよ……と、言いたいところなんだけど」
持っていた資料の中から取り出したものは、古い新聞の切り抜きだった。
「こういうものを、自治領主様に提供して頂いてるんだ。見てみるかい?」
受け取って、透明の幕越しに字を読んでみた。
「これって、学都事故のっ?」
真摯な緑色の瞳を見ると、彼は頷いた。
「一度、全文に目を通してごらん」
言われるがままに、字を追っていく。
大学の生命科学棟で起こった事故の日時。行われていた実験内容。その実験で爆発事故が起こる確率は極めて低く、原因は不明。徹底した調査の開始。
そういったことが、硬い文章で書き綴られている。
そして、文も終わりに近付いた時、信じられない名前が目に飛び込んできた。
――ワンド生物学教授の孫であるグドアール君は、奇跡的に生存
「グド、アール?」
「そう。彼の名は、ここで初めて人の世に広まる」
セウスはここにきて、ようやく合点がいった気がした。ハングは、セウスの事情を全て保護者に話したのだろう。だからハイエロファントも、この記事を見せてくれたに違いない。少しでも、敵に近づけるように。
「ファント教授は、グドアールについて何かご存知ですか?」
「ハングもそう思って、私に君のことを話したんだと思う。でも私も、些細なことしか教えてあげられないよ?」
「それでも、いいかな?」と苦笑する彼に、素直に頷く。わずかなことでも情報が欲しいところだ。
「この時、グドアールはまだ4、5歳。この事故が43年前の出来事だから、今の彼の年齢は47、8歳ってことになるね」
「え?そんな、おっさんなんですか?」
「『え?』って、君は何も知らないのに、彼を追ってるのか?」
セウスはグドアールの年齢に驚き、ハイエロファントは彼の言葉に驚いた。セウスはグドアールのことを、せいぜい40歳前後だと勝手に決め付けていたし、ハイエロファントが驚くのは当然のことだ。
「いいかい?グドアールという人物は当時、生物学界で有名だったワンド教授のお孫さんだ。素質はもちろん充分にあったが、祖父であるワンド教授の期待以上の頭脳の持ち主だったんだ。彼が10歳そこそこで2、3個の博士号を取得したのは、一部の科学者の間では伝説にさえなっているんだよ」
「博士号を2、3個」
遠い異国の話をされている気がして、セウスには付いていけない。博士号の凄さはいまいち掴むことはできないが、10歳の子供が彼より遥かに優秀な頭脳の持ち主だったということは分かる。目が回るような感覚に襲われた。
「科学者の部類に入るグドアールが、1番恨んでいるのは……」
「え?」
ハイエロファントに聞き返した直後、遠くからハングが呼ぶ声がした。離れていても肩が上下しているのが分かる。
「ハング、どうしてここに?この場所には、来たくないんだろう?」
「授業が早く終わったので、まだここにいるだろうと思い、走ってきたんですよ。本当は、来たくはないんですけど」
息を整えるために大きく息を吸いながら近寄ってくるハングの様子から、ここに来る前のハイエロファントの言葉の中で何が一番強力な地雷だったのかが悟れた。『いじわるな子』にも、『事故現場』に来ることにも、頭にはきていたのだろうが。保護者の『死』に、一番敏感に反応したのではないだろうか。事故現場がそれを強烈なまでに連想させるから、昨夜も不安と恐怖に思わず叫んでしまったのではないだろうか。
『本当は、来たくないんですけど。来なければ、あなたを失いそうでもっと怖かったから』
セウスには、そう伝わった。傍らに立つ彼にも、同じように伝わっただろうか。
「そうだね。あまり来るものじゃないね、こういう所は」
昨夜と同じように、宥めるためにハングの肩を軽く叩いた。しばらく俯いていたハングは、不意に顔を上げるとセウスを見る。
「セウスさん、もう帰りましょう。どうしたんですか?呆けちゃって」
呆けてという言葉に、引っ掛かりを覚える。自分だって、今の今までそうだったくせに。喉の奥まで出掛かった言葉を、なんとか押し留める。ようやく晴れやかな顔になったハングの機嫌を、また損ねることはしたくない。
黙ったままのセウスに代わって、ハイエロファントがさっきまでの会話をハングに説明しながら歩き出す。
「それで、能力の差に自失していたわけですか」
「ま、まあ。当らずとも遠からず、だよ」
頬が熱くなっているのを、嫌でも自覚する。歩きにくい足場を抜け、ハイエロファントの屋敷に帰る途中にある石橋の上まで来ると、川から吹き上がる風で随分と冷やされたが。
「で?グドアール探しは、諦めてしまわれたんですか?」
「そんなことするかっ」
「それなら、いいんですけどね」
夕日を背にしたハングの表情はセウスの立ち位置からではよく見えなかったが、口調から柔らかく笑っているのが感じられた。
「追いつけるように、頑張ってくださいね」
「死なない程度に、か?」
「そうですね。『死』なんて、軽々しく口にしていい言葉ではないですけど」
ここに来る前は、己の保護者に対して軽々しく口にしていたのは、どこの誰だったろう。思わずハイエロファントがいる斜め後方を振り向くと、彼は小声で教えてくれた。
「彼は授業中に、たっぷりと反省していたみたいだよ。私が立ち去り際に言った言葉でね」
そのようなことを、ハイエロファントは口にしていただろうか。
『まあ忠告を入れなくたって、君が遅刻するような生徒じゃないことは知ってるけどね』
思い返してみても、よく分からない。暖色に染まった空に、視線を遊ばせるだけで終わった。
「分からないかな?ハングは、すぐに分かったみたいだけど」
文学部教授が、苦笑している。とりあえず、そのままの意味ではないようだ。ハイエロファントに突っかかっていたハングに対し、投げかけられた言葉なのだから。
「あー、そうかっ」
突然、大声を上げた青年に、ハングは何事かと目を見開く。それすらも、今のセウスには構わなかった。
『まあ忠告を入れなくたって、君がそんなこと言う生徒じゃないことは知ってるけどね』
裏の意味が分かったのも嬉しかったが、それを瞬時に理解し、授業中ずっと反省していただろうハングを思うと、どこかおかしかった。
「な、何なんですっ?人の顔見て笑うなんて、失礼な人ですねっ」
文句を言われても、腹の底から込み上げてくる笑いは止められなかった。
「ハングって、なんかすっごい」
ハングの視線から逃れるように欄干に袋を乗せて、それに顔を埋めて笑い続ける。後ろでハングが何かを言っているが、耳に入らない。だから、ハイエロファントが注意してくれたことさえも、聞こえなかったのだ。
体重を袋に全て預けていた彼は、もろとも川に転落しそうになった。セウスはハイエロファントに腕を掴まれることで免れたが、袋は憎らしい程ゆっくりと落ちていく。入っていた札が、夕焼け色に輝く川に流されていくのが見えた。
「あーっ、せっかく貰ったのにーっ」
「うわっ、最悪ですね」
助けてもらった礼も忘れて叫ぶセウスに、後ろからハングが批難の声を浴びせる。それさえ気にならないほどの焦りと悲しみと行き場の無い怒りを覚えた青年は、数秒後には魂が抜けたかのように呆然とするのだった。
◆◆◆
あの時の、ハイエロファントの言葉が引っ掛かる。グドアールにも感情はあるのだろうか。
ハイエロファントのように、とても優しく微笑んでみたり。自分のように、どじを踏んで嘆いてみたり。ハングのように、親しい人の死に怯えてみたり。
笑って、怒って、泣いたりするのだろうか。人間のように。
喜んだり、悲しんだりするのだろうか。人間だから。
◆◆◆
ぼやけていたセウスの意識が、徐々に回復してくる。1度目の自失よりは、復活するのが速い。1度目の時は、グドアールの凄さに、ただ圧倒されただけだったのだが。
「ああ、服の中にも入れてあるなら、一文無しではないんだね。不幸中の幸いかな」
慰めてくれるハイエロファントのような人間だったなら。
「それにしたって、間が抜けているとは思いませんか?あの形なら背中に背負えばいいものを、わざわざ大事そうに抱え込むから、こうなるんですよ」
少し棘のある言葉を吐くハングのような人間だったなら。
近づけるかもしれない、とセウスは思った。
グドアールは人でないように思い込んでいたから、ハイエロファントの言葉に違和感があったのだ。しかし今は、そのようなこともない。
「大金をばら撒いて、なに笑ってるんですか?気でも振れました?」
怪訝そうな顔をしているハングの頭を軽く小突いて、袋のことも、グドアールのことも、今は水に流すことにした。
◆◆◆
――グドアールが1番恨んでいるのは、事故を起こした科学者達だそうだよ。