第3話 引き金を引くもの
「実は『同調する』ということは、さほど難しくないのを君達は知っているかな?」
ブライアンは一度、教室中を見渡した。脱線することが多い彼の授業では、生徒が睡魔に襲われることの方が稀だ。今も、「また何か始まった」とでも言うように、多くの生徒が目を輝かせ、一部の男子生徒が口元をにやけさせながら、彼に注目している。
「もの……生き物だったり物質だったりするわけだが、それには波長ってものがある。それに、自分の波長を合わせることができれば、同調するのは可能ってわけだ」
教室内に、掌同士を勢いよく合わせた音が響く。一様に肩を竦ませる生徒達に、ブライアンはしてやったりとばかりに口角を上げた。
「例えば、空に浮かぶ雲にも……何て数字だったかは忘れたが、まあ、とにかく作る波長ってものがある。そこに自分の波長が合えば、雲を作ることだってできるんだよ」
言っていることは壮大のようだが、数字を忘れる辺りが彼らしい。女生徒が笑いながらも、「本当に?」と囁き合っている。
「じゃ、今までのことを踏まえたうえで、簡単な実験をしてみようか」
ブライアンが、右の人差し指を頭の上にかざした。
「俺が考えていることを、当ててごらん。ほら、この辺りにあるぞー」
言いながら、上げた指を左右に振る。実際に、そんなところに波長の塊があるかどうかなど、ブライアン自身でさえ分からないのだが。
「いいここち」
生徒の声は、見事に揃った。ブライアン行きつけの飲み屋の1軒で、生物学部棟からほど近い場所にある。
「当たりだ。おまえら、すっげーな」
「先生が単純すぎるんだろー」
ブライアンが目を丸くしていると、男子生徒の1人から声が掛かり、教室は爆笑の渦に飲み込まれたのだった。
◆◆◆
人の記憶とは、時に感心せずにはいられないものがある。それは、皮肉にさえ感じる。まあ、よくも思い出せるものだと青年は思った。
幾人もの研究者と出会い、その子供にも廊下ですれ違うことはざらにあった。紹介された人間の数も、片手ではとても足りない。相手すら、自分のことなど忘れているだろう。かつての自分達にとって、それは特別な出会いではなかった。
その子供は、自分といわゆる『研究仲間』であった夫婦の息子。彼等に紹介を受けた時も、今と同じように背を向けてしゃがみ込み、こちらには気付く気配さえ見せず、熱心に両手のものを比較し合っていた。もっとも、あの頃と今では、手にしているものが違ったが。
今は野菜。あの頃は、石ころだっただろうか。
「こんにちは。あなたがセウスさん、ですよね?」
名前を口にしても、金髪の青年は何の感慨も抱かなかった。当然のことだろう。数度しかすれ違わず、自ら声を掛けたのは2度ほど。その名を呼んだことさえ無いのだから。
ハングを振り仰いで見たセウスも、彼のことは知らないようだった。一瞬の間、見たことがあるかもしれないという様に目を丸くしただけで、あとは詮索をするような目を彼の顔に向けている。
「初めまして。僕は、最高等学部生のハングといいます」
『最高等学部生』という言い方は、学都の人間であることを表している。学都外の学校では、『最高等学部生』ではなく『大学生』を使うからだ。
学問の都から離れた村で暮らすセウスには、都市に縁など何も無かったのだろう。誰何する色が、澄んだ紫の瞳に強く浮かんでいた。ハングは、困ったような表情を浮かべてみせる。
「あの」
その顔を見て、何か思い当たることでもあったのか。セウスは口を開いた。
「あんたってさ、もしかして獣医学かなんか学んでたりする?」
それは不躾な質問で、とても初対面の人間と話をするような口調ではなかった。それに気分を害することよりも、戸惑いの方が大きかったハングは、おずおずといった感じで否定した。
「え?いいえ。僕は文学部ですよ」
それを聞いて、更に自分から遠のいたと思ったのか。それでも、どこかに共通点を見出そうとしているのか。セウスは、しばらくの間、じっとハングの顔を見ていたが。
「あんた、従兄弟いる?笑顔がよく似た、『獣医、目指してるんだ』っていう」
「ああ、それでさっき」
自分の顔をまじまじと見られ、眉をひそめてセウスの行動を窺っていたハングだったが、それを聞いて合点がいったかのように言う。
「ええ、そういった血縁の方はいらっしゃいますよ。今回、僕があなたに会いに来た理由にも、たぶん関係のあることでしょうね」
今度は、セウスが眉をひそめる番だった。まるで他人事のように話す目の前の学生が、気に食わなかったようだ。
しかし、それも長くは続かなかった。
「あなたのご両親を殺めた人物の情報を、手に入れました。それが今回、あなたに会いに来た理由です」
その言葉は、セウスの心を捕らえるには充分が過ぎるほどだった。
「本当かっ?」
「本当です。生物学者の人間からの情報です。あなたのご両親も、元々は生物学部のご出身でしたよね?この情報、信頼性は高いのではないか、と」
「あんた、どこまで知ってるんだ?ていうか、俺に話すだけが目的じゃないだろ?」
それまで笑顔でいたハングは後者の質問に対して、さも驚いたと言わんばかりに緑色の目を大きく開いた。
「思っていたよりも勘が良いですね、あなた」
彼の驚いた顔もまた、そう長くは続かなかったが。
「その通りです。交換条件がしたいんですよ。でも、ここでは何ですから、もう少し落ち着いた場所で話したいんですけど」
ここは、小規模とはいえ商店街。人の目にも付いた。ハングの言葉を受け、セウスは思い当たる場所を思案する。
「俺の部屋でもいいか?」
ハングは、人の悪い笑みを浮かべた。
「僕の話を聞いていただけるものと受け取ってもよろしいのであれば、構いませんよ」
「まずは話を聞くだけだぞ。信用するかどうかはその後だし、あんたの条件を受け入れるのもそれで決まるんだからな」
「ま、ある意味当然ですよね。良いでしょう。とりあえず、案内していただけます?」
セウスの牽制にも、ハングは意外なほどあっさりと承諾した。
先からセウスが感じているように、ハング本人が人をあまり信用しないらしい性格だからなのか。それとも、セウスに条件を受け入れさせる自身があるからだろうか。それは分からないが、余裕そうな様が嫌味に取れるとセウスは思ったのだった。
それらを振り切るように、セウスが自身の家に向かって1歩を踏み出そうとしたのだが。
「あ、セウスさん。ちょっと待ってください」
ハングが、慌てた声で呼び止める。何だろうかと問いたげなセウスの下方を、彼は指差した。
「どろぼう、する気ですか?」
彼が指差す方へセウスがゆっくりと視線を下げていくと、球体の野菜を手にしてそのままの右手があった。謎の学生との会話のおかげで強く握り締められたそれは、薄皮がひび割れ、もはや商品としての価値が無くなってしまっている。
「……あ」
「良いですよ。僕が、おごって差し上げます」
ハングは小さく笑い声を漏らすと、固まってしまっているセウスを置いて見せの中へ入っていき、店主であるふくよかな女性に金を払ってしまった。女性は大きな紙袋を取り出し、ハングが焦って断っているにも関わらず、台無しになってしまった野菜以外にも何やら次々と詰めていく。呆然としていたセウスが気付き、ハングが彼の元へ戻ってきた頃には、紙袋は大きく膨らみ中身が零れ落ちそうなほどになっていた。
「何だかよく分かりませんが、おまけして下さいましたよ?商売になるんですかね、これで。学都じゃ、こうはいきませんよ」
「しかし、おまけがこんなに嬉しいものだとは知りませんでした」と、たいていの者が呆れ返るほどのんびりと微笑んでいる彼に、セウスは考えた。中身はともかく、外面はこの辺りでは珍しいくらいに良いハングだ。学都から来たせいなのか、どこか常識の世界から外れた、言ってみれば世間知らずにすら見える。気の良い村の大人達ならば、保護欲を掻き立てられるのではないか。
己の能力上、村のほとんどの男性が携わっている食肉加工業に関われないセウスにとって、生活費を節約するのは大切なことだった。
「なあ、俺、手伝いの途中なんだけどさ」
「そうでしたか。僕がお邪魔してしまったんですから、お付き合いしますよ」
切り出すと、ハングは快く応対した。
「荷物持ちもしましょうか?」
「いや、付き合わせるんだから、いいよ」
黒い袖に包まれた学生の腕を見たセウスが、自分よりも明らかに細い腕だと判断したのが分かり、ハングは苦笑した。
「袖の中は、そりゃ細いですけど筋肉は付いてますよ。教授の命令で、分厚い冊子を運ぶことは、ざらですから。心配は、ご無用です」
「教授の命令でって、いじめられてんの?あんた」
顔をしかめたセウスに、ハングは肩を竦めてみせる。
「ええ、それはもう散々に。嫌ですよね、年寄りは」
言う割に、彼は嫌がっている様子を見せなかった。気を許しているのか、穏やかに微笑んでさえいる。
「あ、そうだ。これを機会に、セウスさんも学都へいらしたら、どうですか?文学部へ是非」
丸い空気に和みそうになったセウスだったが、人を犠牲にするかのような聞き捨てならない提案には、勢いよく首を横に振って拒否する。その様子を見て、学生はおかしそうに笑った。
「冗談ですよ。それじゃ僕の条件、飲んでもらうのが難しくなってしまいます。監視されている身ですからね」
最後の一言に、セウスは目を見開いた。とても穏やかな言葉とは思えない。
「さ、話はこれくらいにして、買い物を済ませてしまいましょう。お次は、どこですか?」
向けられた笑顔に、拒絶の壁が窺える。もう何を聞いても無駄なのだと、セウスは悟った。
「肉屋」
「お肉屋さんですか。了解です」
ハングは先を歩きながら、あちらこちらを見回して、肉屋を探し始める。セウスは黙って、その背を追うのだった。
◆◆◆
「あら、セウスが人を連れてくるなんて珍しい」
ハングを連れて帰宅した養子を見て、開口一番に女性は言った。
「こういうお友達なら、大歓迎よ」
かわいらしさと優しさを兼ね備えた印象を受ける彼女は、嬉しさから頬を染めている。
ハングの過ぎるほど整った容姿のおかげで、大量の食料が手に入った。1日の食費で、1週間分は浮いてしまうほどだった。もっとも青年とはいえ成長期を終えて食べる量が落ち着き始めたセウスを含めても、3人暮らしで質素な生活をしているこの家の食費など些細なものだ。それでも大喜びするのは、無理もない話だろう。
「これからも、うちのセウスをよろしく」
彼女が上機嫌な理由は、もちろん食費だけではない。この村にセウスと同世代の青年はいなかったし、動物を連れてくることはあっても人を連れてくるなど無いに等しかったからだ。故あって、まるで何かから隠れるように村から少し離れた森の中に家を構えてはいるが、それでも人と接点があることに安心したのだろう。
接触嫌悪症気味であることを知らないセウスの養母に握手をされ、ハングは固まった。家族のような存在であれば平気なそれも、初対面でいきなりされれば手を振り払いたくなるところだ。
それでも許してしまったのは、不意を突かれたからなのか。過去に共にいた、セウスの実母に似た人だったからなのか。もしかしたら、ただ単に『母親』の空気をまとっている彼女を、無碍に困らせたくなかっただけかもしれない。現に、嫌悪感と共に、照れにも似た感情をハングは持っていた。遠い昔に、置いてきてしまったものだから。
能力のせいなのか、人の心を敏感に察知するセウスは、照れの方の理由は分からないにしろ、刺々しさの方はよく理解できた。出会って数十分も経たないうちに、ハングの警戒心の強さを感じ取ったからだ。陰の部分はまだ絡め取れないが、繊細でもあるらしいとまで。
それが爆発してしまわないうちに、彼を自分の部屋へと連れていく。
部屋に案内すると、ハングは出入り口の前を陣取った。逃げ道の確保のつもりだろうか。そこへセウスの養母が飲み物を持ってきたのだが、開いた戸がちょうどハングの頭にぶつかってしまう。女性は見た目通りのおっとりとした口調で、何度も謝りながら部屋を出ていった。その後、すぐさま戸が内側に開く分だけ中に入って落ち着いたハングを見て、セウスはもっと早くそうしろよ、と思った。
「じゃ、じゃあ、話を聞かせてくれないか?」
考えていたことが分かったらしいハングに睨まれ、セウスはどもりながら話を始めることにした。
「話を長々としても仕方がないので、率直に言います」
話を切り出され、笑顔に戻ったハングではあったが、言葉ぶりからまだ怒っていることが分かる。
しかし、「あなたのご両親を殺めたのは、グドアールです」という言葉に、セウスは目の前の人物のご機嫌伺いをしている場合ではなくなった。
「グド、アール?」
「顔色が変わりましたね」
「うるさいっ。そいつが、どうして俺の両親を殺したんだっ」
肩を竦めるハングに、セウスはつい大声を上げてしまった。学生の方は、それを気にした様子がない。
「あなたのご両親は、あなたとあなたの妹さんを連れて、研究所を抜けられました」
「ああ。半ば、逃げるようにしてな」
「その時、同時に何かを持ち出したようです。それをグドアールが取り戻しに来た時、ご両親を」
「何かって、何だ?」
「そこまでは知りませんよ。だいたい、あなたの方がお詳しいのでは?」
言われて、セウスは黙り込んだ。
「覚えておられないのですね」
ハングは呆れた、と言わんばかりに大きく溜め息を吐く。それが、セウスの気に障ったようだ。
「悪かったな。だったら、おまえはしっかり覚えてるのか?幼い頃のことっ」
「触るなっ」
激情に任せるままに学生の左腕を掴んだセウスの右手は、ハングによって乱暴に払われた。行為に反し、払った本人は己の体を守るように強く抱え込みながらも、落ち着いた様子だった。
「すいません。驚いてしまって、つい」
「あ、ああ。こっちも悪かった」
セウスの方が、よほど動揺していた。ハングが払う瞬間に、彼の心がセウスの中に流れ込んできたのだ。動物と会話をする能力のあるセウスだが、人を相手に成り立ったのは、これが初めてだった。何故そのようなことができたのか、自分にさえ分からない。
「セウスさん?」
黙ってしまったセウスにハングが怪訝そうに声を掛けた。
「あ、悪い。えーと、続きは?あと、ハングの条件も」
そう言われ、学生はきょとんとして向かいにある紫色の瞳を見る。
「おや?僕の条件を、聞く気になられたんですか?」
「うん、まあ。ハングの気持ちも分かるかなーって」
「僕の、気持ち?」
「守りたい人がいる」
まずい、とセウスが思った時には既に遅く、ハングの顔は見る間に怒りを孕んでいく。
「そう、でしたね。情報では、あなたは動物と会話できるという特殊な能力をお持ちでした。まさか、人の心も読めるとは。あなたのことを少々侮っていたようです」
「いや、人相手はこれが初めてで。一瞬だったし、たいしたことは」
「そんなことは、この際どうでもよろしい。僕の心、どこまでお読みになったのですか?」
「ファントを守りたい」
『ファント』という人物の名前を出した途端に、ハングの怒りが和らいだ。
「それだけ、ですか?」
「それだけだよ」
「本当に?」
「本当に。俺にも養父さんとか養母さんとか、生き別れた妹とか守ってやりたいって思うから。一緒だなって」
それを聞いて、ハングの力がふっと抜けた。
「同調、というやつですね。そういうことは普通の人同士でも、たまにあることです。あなたの場合、一般の人より力が強いために『ファント』の名前が読めたのでしょう」
「そう、なんだ」
「まあ、あくまで推察ですけどね。ところで、僕の条件は聞いていただけるでしょうか?」
「ああ、もう何でも掛かって来いって感じだ」
今のことで疲れてしまったらしいセウスは、大きく息を吐いた。その様子に、ハングが苦笑する。
「大丈夫ですよ。たいしたことではありません。セウスさんは、ご両親の敵を討ちたいと思われますか?」
「居所が分かればな」
「結構です」
ハングは笑うと、上着から紙切れを取り出した。
「グドアールに関する研究所は、いくつか存在します。これは、その中の一つだそうです。何も情報が無く、ただ手をこまねいているよりは良いでしょう?」
「そうだな。けど、ハングの条件は?それ、ただで貰えるわけじゃないんだろ?」
「ご名答です。グドアールの研究所から、あなたの幼馴染を救出していただきたい」
「あいつ、今そんな所にいるのか」
既に学習したのか、思わず身を乗り出したセウスを避けるようにハングは後退する。
「ええ。本当なら僕が行きたいところですが、さっきも言ったでしょう?」
「監視、か」
「そうです。今は協力者のおかげで、こうしてあなたと接触することができましたが、明日には学都に戻らないと」
顔を曇らせるハングを見て、セウスは先ほど名前を読み取った人物に思い当たる。
「分かった。条件飲むから、その紙くれよ。それとさ」
「何ですか?」
「今日、夕飯食ってけよ。俺がいなくなると、あの大量の食料減らすの大変だぞ?夫婦2人しか、いなくなるからさ。腐らせるよりは、今減らしておいた方が有効だろ?」
「はあ、そんなものですか?」
「そんなものなの。俺、下行って、手伝ってくるからさ」
「あ、僕も」
立ち上がったハングに、セウスはおとなしく椅子に座っているよう指で示した。
「賓客は、俺の料理ができるまで待ってなさい」
「まともな物、食べさせていただけるんでしょうね?」
セウスと位置を入れ替え、椅子に座ったハングが疑わしそうに部屋の主を見上げる。
「任せろ。これでも玄人並みだぞ」
「それが、玄人が賓客に取る態度ですか?」
「では、しばしお待ちを」
セウスはわざとらしいほど恭しく頭を下げると、自分の部屋から廊下に出る。戸を閉めたところで、己の顔に両手で触れた。変な顔をしていなかったか、と確かめるように。
先ほど払われた時、流れ込んできたのは『ファントの名前ばかりではなかった。幼い頃に家族と離別したハングの辛い感情も、一緒に感じ取っていた。境遇が似ている彼に、彼が守りたがっているものに、セウスは協力したいと強く思ったのだった。しかし、それをハングが悟れば、押し付けがましいと怒るのだろう。
一つ息を吐くと、台所に向かうべく階段を下りていった。
その遠ざかる足音を確認し、部屋の中に残されたハングは上着から小さな機械を取り出す。数字を押して、耳に当てる。数秒して、機械の向こうから応答する声が聞こえた。
「ええ、こちらはうまく事を運べそうですよ。そちらは、どうですか?」
話しながら見たのは、北の窓。その遥か向こうに、思いを馳せる都がある。返答を聞き、ハングはいつも人と接する際に浮かべる類とは違う和やかな笑みを、ようやく浮かべた。
◆◆◆
「これじゃ、まるで夜逃げじゃないですか」
不満を露にしたハングの声がしたのは、夜明け前の時刻だった。ベランダの手すりに布を結んでいたセウスが振り向けば、下に隈ができた目で睨んでいる。片手は後頭部を押さえているが、それは自業自得だろうとセウスは思った。
彼が起こそうと声を掛けた時、浅い眠りから勢いよくハングが跳ね起きた。不意打ちがあまり得意ではないらしい彼は、慌てて後ずさろうとして後頭部を思い切り壁にぶつけてしまったのだった。
鈍い音が部屋に響いたのは数分前のことだったが、今回ばかりは自分に非は無いだろうとセウスは思うのだ。火に油を注ぐ結果になるだけだと分かっているので、口には出さないが。
セウスは布の結び目がほどけないことを確かめ、貰った紙切れと財布を黒いコートに突っ込む。
「そう、夜逃げ。朝、養父さん達の顔見たら、決心が鈍りそうだからさ。ハングと2人の時にと思って」
そう言うなり、綱代わりの布を伝って下りていく。彼の家にハングを泊まらせた一番の理由は、実はこれに違いなかった。セウス1人では、迷いそうだったのだ。
「何で僕が」
文句を言いながらも危なげなく下りるハングの様子は、よく頭をぶつけている割には運動神経が良いように見受けられる。地面に下り立った彼は、数歩歩いてから2階建ての木造の家を振り仰いだ。
「まったく、まさかこんな事をさせられるとは、思いもしませんでしたよ」
「付き合わせて悪かったよ。でも、その、ありがとな」
溜め息を吐くハングにセウスが照れながら礼を述べると、彼は目を細めた。
「良いですよ。それより、あなたの養父母は、できた方々のようですね」
「は?」
訳も分からず眉をひそめるセウスに、ハングは肩を竦めた。
「お分かりになりませんか?まあ、良いでしょう。それでは、もう行きましょうか」
家に向かって一礼し、青年を置いて歩き出してしまった。
「え?って、おい、ちょっと待てって……あ」
今、セウスも気が付いた。2階の窓から覗く、養父母の顔。笑顔で見送る彼等に青年も同じように返して、慌てて学生の背を追っていった。
◆◆◆
夕食の準備をし始める時間帯に訪れた時とはまったく雰囲気が異なる商店街に、2人は向かい合わせで立っている。静まり返った辺り一面に、冷気が漂っていた。身震いするほどだ。季節としては寒いと感じて当然なのだが、比較的温暖な南方地域にしては、この朝は特に冷え込んでいる。
「では、僕も学都に戻ります」
吐き出す息は白い靄となり、数秒で溶けて消えていく。
「ああ。気をつけてな」
「それは、こちらの台詞ですよ。あなたは今から、敵陣の中へ1人で赴くんですから」
「ああ、そうだったな」
まるで他人事のような言いように、ハングは呆れた顔をして溜め息を吐いた。
「しっかりしてくださいよ。それと、研究所から戻ってきてからでよろしいのですが、一度学都へいらしてください。他の研究所の情報も、差し上げることができるかもしれません」
「そうだな。ハングに命令できる教授様にも、お会いできるかもしれないし」
セウスが意地悪そうに笑ってやると、これ以上ないくらいにハングは柔らかく微笑んだ。
「ええ、そうですね。お待ちしていますよ」
呆けてしまったセウスは、やがて笑いながら頭を掻いた。
「守りたいものが増えたな」
「え?」
小声で言われた言葉は、学生の耳には届かなかったらしい。
「何でもないよ。じゃ、行ってくる」
セウスは答えることなく、片手を上げてその場を後にした。
◆◆◆
こうして、セウスの心の引き金は引かれたのだった。